(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路
(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路
(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中
四、『吾妻鏡』の検討・中
『吾妻鏡』の示すとおりに、石橋山・椙山から敗走して土肥郷後背の箱根外輪山に潜伏した源頼朝と北条時政が再会したことは、箱根外輪山を東北に向かい越えて湯本に至った時政が再び箱根外輪山を越えて西南に向かったことになり、進路を反転したことを意味します。前回で述べたように、石橋山から土肥郷にかけての箱根外輪山には大庭軍の武士が溢れています。時政の経路は二つ考えられます。一つ目は外輪山の中腹を南下する経路です。二つ目は外輪山尾根伝いに南下する経路です。一つ目は頼朝を捜索する大庭軍の武士の中をもろに突っ切ることになりますから、彼らに発見される可能性が極めて高く、あまり現実的ではありません。しかも、その後箱根山の永実と遇いますが、これは幸運で極めて偶然性の高いものです。この意味ではこの実現性に疑いを持ちます。、二つ目は尾根伝いですから、大庭軍の武士と遭遇する可能性は低くなりますが、それでも大庭軍が頼朝軍を追走するにあたって、土肥郷へと外輪山中腹を南に兵を散開させると共に、尾根を押さえて、芦ノ湖への退路を断つことは十分に考えられることですので、やはり大庭軍との遭遇の危険性は残ります。ただ、これを逃れて、外輪山を越えてくる行実との出会いは尾根付近でなされ、その後山を下り頼朝の所に到ったとすればそう不自然ではないでしょう。とすると、時政は尾根伝いに南下したとするので自然ではないでしょうか。中腹南下ではいくつかある谷越えとなり、行路自体が困難であり、これと比較すれば尾根伝いは楽です。しかし、時政は「筋力漸し疲れ(中略)峯嶺を登るあたわず」として、頼朝に追従出来ずに、東北に湯本に到ったのです。そうならば、湯本到達の時点で余力を残していたでしょうか。当然ながら疲労困憊の状態であったはずです。とすれば、さらに外輪山を越えて南下することには無理があると考えるのが至当です。すなわち、時政の湯本からの引き返しが事実であることには強い無理があるのです。
ところで、箱根山別当行実の弟永実の頼朝との会合はどうでしょうか。先ずどのようにして永実は頼朝の潜伏場所を知ったのでしょうか。逃走中の頼朝から支援を求めたことは考えられ、この時の所在地は伝達できたでしょう。しかし、実際に永実がここに到達するには頼朝からの使者の到達時間、永実の準備時間、永実の到達時間と、相当の時間がかかります。『吾妻鏡』では永実が頼朝と会合したのは夜となっています。とすれば、頼朝使者出発からいろいろな事情で移動している可能性がありえるとする方が自然です。しかも、夜ともなれば移動の便や捜索を思うと、会合は極めて困難といわざるをえません。さらに、『吾妻鏡』では永実は頼朝一行を箱根神社の自己の家に匿いますが、親平家方が神社にもいるため危険として、翌日には離脱して山に隠れます。このように箱根神社自身が安全地帯でないことが分かっているのに、頼朝をここに案内するのは不自然です。以上から、『吾妻鏡』の永実に関する記述は虚構性があると考えます。もちろん行実・永実兄弟が頼朝に何らかの支援を行なったこと自体は否定しませんが。
次いで、『吾妻鏡』では頼朝に再会した後、頼朝の命で甲斐国に向かうことになりましたが、隠れた頼朝の無事を確認するため引き返したとありますが、合うことはなく、岡崎義実等と共に安房国に渡海します。ここで、頼朝と再会していないのに、その命に反して渡海をしている説明が何もないことは話の流れとして不自然です。しかも、『延慶本平家物語』では頼朝以下共に隠れた7人の中に土肥実平を筆頭として岡崎義実がいます。そして、『延慶本平家物語』第二末・十六兵衛佐安房国ヘ落給事に、「兵衛佐已下ノ人々七人ナカラ皆大童ニテ烏帽子キタル人モナカリケリ」とあり、続いて十八三浦ノ人々兵衛佐ニ尋合奉事に、安房国に渡った三浦一族が海上の船を発見してこれに近寄り確かめようとした時、「輪田小太郎申シケルハ、イカニ佐殿ハ渡ラセ給カ、岡崎申ケルハ(中略)兵衛佐ハ打板ノ下ニテ是ヲ聞給」とあります。すなわち、『延慶本平家物語』では岡崎義実は一貫して頼朝と共に行動して安房国に渡海したのです。岡崎義実の行動は『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』ではどちらに妥当性があるのでしょうか。「三浦系図」(『続群書類従』第六輯上系譜部)に義実子の義忠「母中村庄司宗平女」とあるように、義実の妻は中村宗平の娘、すなわち土肥実平の兄弟です(「千葉上総系図」『群書類従』第六輯上系譜部)。頼朝に付き従った6人は『延慶本平家物語』では義実を入れて土肥実平・同子息遠平・弟土屋宗遠・甥新開実重と郎党七郎丸です。皆実平の近親者と郎党です。ここに兄弟婿の義実がいることは自然です。すなわち、『延慶本平家物語』の語る義実の行動の方に妥当性があり、『吾妻鏡』の語る義実の行動は虚構といえます。とすれば、義実と共に時政が渡海したということは、少なくとも義実が同行した点は虚構となります。
この時政の渡海に関して、『吾妻鏡』では、27日に土肥郷岩浦から乗船します。そして、同日海上で三浦一族と会合します。三浦一族は26日に本拠の相模国衣笠城から「半更」、すなわち夜遅くに離脱します。おそらく、そのまま海岸(浦賀か)に走り、遅くとも翌27日に乗船したでしょう。それぞれが朝に乗船したとすると、双方の渡海距離の差から、三浦一族の方が早く安房国に到達し、その後かなり遅れて時政が到達するのが自然です。とすれば、両者の海上会合はあり得ない虚構ということになります。
(続く)
(2016.09.20)
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