歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

平林寺&法台寺―歴史雑感〔43〕―

2019年05月22日 15時33分26秒 | 日本史(近世・近代)

2019年5月18日〔土〕、武蔵野文化協会主催の「武蔵野の雑木林と時宗板碑を探る」に参加しました。平林寺(埼玉県新座市野火止3-1-1)と法台寺(埼玉県新座市道場1-10-13)を巡るものです。10時、平林寺前に集合して散策開始です。

最初の訪問地は臨済宗妙心寺派の別格本山の金鳳山平林禅寺です。本寺は南北朝期の永和元年(1375)に武蔵国騎西郡渋江郷金重村(埼玉県岩槻市)に岩槻領主の太田氏により建立されました。小田原攻めの際、火災で過半が焼失しましたが、徳川家康の関東入部で保護を受け再建されました。元和4年(1618)に大檀那大河内秀綱が本寺で葬送され、大河内氏の霊廟となりました。孫の信綱は川越藩主となり野火止の原野に移転を企てたが果たせず、この思いは子の輝綱により寛文3年(1663)に移転がなされて今日に至っています。約13万と墓の境内地を擁し、武蔵野原野の趣を残し、境内林は天然記念物に指定されています。

写真1は、総門を入ると控える山門です。茅葺重層入母屋造りで、岩槻平林寺のそれを解体して移築したものです。楼の扁額「凌霄閣」は江戸初期の石川丈山筆です。

写真2は、修復中の仏殿の奥にある本殿です。明治13年(1880)に再建されたものです。

写真3は、庭園内から本堂を見たものです。

 

本堂の左手から奥に進むと、写真4の、島原の乱戦没者慰霊碑にでます。乱の戦没者を敵味方なく慰霊したもので、このことは日本の伝統でした。碑面には「肥州島原對死亡靈等」と刻しています。この先には武田信玄娘の見性院の宝篋印塔や増田長盛墓もあります。

さらに奥に入ると松平(大河内)家墓所(約3千坪)があります。これだけ大名家一族の墓が集まっているところはありません。写真5は、元和4年(1618)没の大河内秀綱(信綱実祖父)の墓です。ご覧のように墓は五輪塔です。

写真6は、秀綱墓への参道です。両脇には坐禅灯籠が50基並立しています。

秀綱墓右横には写真7の、3・4代将軍に仕えた寛文2年(1662)没の老中松平信綱の墓があります。

写真8は、信綱墓前の右に据えられている坐禅灯籠です。寛文4年(1664)に寄進されたものです。「御庿(廟)前」と刻しています。

写真9は、信綱墓の右横の寛永13年(1636)の正室井上氏の墓です。

平林寺最後の写真10は、さらに奥の野火止塚の道の途上の林です。この辺りもみじ山といい、紅葉の名所です。平林寺林には数千本の紅葉があります。

昼食後は太平山法台寺です。本寺は時宗2世の他阿真教が開祖と伝える古刹で、中山開山の増上寺住持普光観智国師により浄土宗となり、現在に至っている。本寺内からは時宗系の板碑卒塔婆が発掘されています。

写真11は、山門です。奥に見えるのが本堂です。

写真12は、収蔵庫内の板碑塔婆群です。

写真13は、発掘最古の正和2年(1313)銘の南無阿弥陀仏板碑塔婆です。収蔵庫右側の奥から2番目です。

最後の写真14は、元亨2年(1322)銘の阿弥陀三尊種子板碑塔婆です。中央の南無阿弥陀仏板碑の右側にあります。

なお、フォト・アルバム「平林寺&法台寺」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng49Qm_wSrh81GDl7sgです。

(2019.05.22)

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