遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『蒼色の大地』  薬丸 岳   中央公論新社

2020-06-28 11:57:14 | レビュー
 『小説BOC』の創刊にあたり、「螺旋プロジェクト」が始まったという。8組の作家が古代から未来までの歴史の時間軸の中で、日本を舞台に、ある時代を担当し「海族」と「山族」が対立する歴史を描きだすという競作企画という。先般、読み継いでいる作家の一人、澤田瞳子著『月人壮士』を読んだ時、このプロジェクトのことを知った。時間軸通りの順番ではないが、2冊目として本書を読んだ。『月人壮士』が古代という時期を扱ったのに対し、この『蒼色の大地』は明治という時代を扱っている。
 本書は、『小説BOC』創刊号~10号(2016年4月号~2018年7月号)に連載されたものに加筆・修正して単行本化されている。

 神奈川の山間の村で生まれ育った新太郎・鈴という兄妹とその村に捨て子となり爺ちゃんに育てられた灯(ともし)が中心となる物語である。新太郎が12歳のとき、鈴が黒く濁った海老沼に落ちた。沼に入ったことのない新太郎は飛び込むことができなかったが、灯が飛び込んで鈴を助けた。50人ほどのこの村で、灯は目が蒼いことから爺と呼ばれた年頭とともに、村人から差別されていた。新太郎が父に鈴が灯に助けられたことを話しても、爺と灯には近づくなと父は言った。「青鬼と関われば不幸になる」と。
 1年ほど後、灯が13歳のときに爺が亡くなると、灯は村を去った。新太郎は灯の存在を感じると心がざわつき不快な思いに囚われる体験をしてきていた。灯に鈴を助けられたことで借りを作ったと感じている。また、鈴は灯に感謝する機会を持ちたいと願っていた。やがて、新太郎の父が亡くなると、新太郎たち2人も村を出る。
 3人の間にはそんな原体験があった。

 時は流れる。灯はどの地でも差別され居場所がない。絶望していたときに蒼い目の老人から聞き、流れ着いたのが鬼仙島だった。鬼仙島に渡る船は罪人船と呼ばれていた。この島で灯は差別されることはなかった。逆に、本土では忌み嫌われた蒼い目は、ここでは何か特別な存在と思われていると感じるほどだった。
 この島に住み始め、ある時点で灯は海賊の一員に加えられる羽目になる。蒼い目の蒼狼と呼ばれる男をリーダーに、弁才船を襲う一員となった。蒼狼は、鬼仙島の人間が彼らのことを「鯨」と呼び、この周辺の島を守る存在と考えているという。仲間は100人ほどいるという。この海賊行為は絶対に他言してはならないと灯に厳命した。

 蒼狼たちは蟻巣島を根拠地にしていて、そこは南城という隊長が統括していた。
 灯は、蒼狼に連れられて、別の島にある本殿に住む海龍様と呼ばれる首領に引き合わされることになる。海賊行為に加わった初日に、海龍様に引き合わされたことには大きな理由があったのだ。灯はその後、その意味を徐々に知り始める。

 一方、新太郎は横浜の町で出逢った軍服姿の山神竜彦に見込まれ、築地にある海軍兵学校に入ることになる。山神は兄妹の学費や生活費の援助をすると言う。調べてみると、この築地の時点では、海軍兵学寮と称されていたようだ。また、鈴は女学校に通うことになる。
 2年後、広島の江田島に移転し、海軍兵学校が開設される。新太郎は江田島に移る。
 仲間とともに新太郎らは英国から購入された防護巡洋艦「白山」で瀬戸内海を航行しながら航海訓練を受ける。近々同型の巡洋艦が英国から運ばれてくる予定になっていた。その巡洋艦は「聖」と称されることになる。

 ストーリーは、ここから大きく展開し始める。
 鈴、灯、新太郎のそれぞれに関わサブストーリーが進行する。それらが織り交ぜられながら、一つの収斂点に向かってストーリーが進展し、哀しみを内包した終焉となる。
 サブストーリー1は、鈴の視点で描かれる。鈴は鬼仙島の噂を知り、沼に落ちて助けられたことに感謝したい深い思いから灯さがしの旅に出る。鬼仙島への船中と島内において危険な目に会いながら、一途に灯を探す。鈴は少しずつ鬼仙島の実状を理解し始める。鬼仙島では居酒屋を営むお鶴が鈴を庇護しサポートしてくれる。
 どういう経緯で鈴が灯に巡り逢え、それからどうなるか。鈴の取る行動が読ませどころになる。

 サブストーリー2は、灯の視点に立つ。海賊の中に身を置き、海賊行為に反対の思いを抱きつつ渦中に巻き込まれていく姿と行動が描かれる。蒼狼をリーダーに海賊行為を行う一群の人々は、呉鎮守府の存在が障害になる。そこで、近々配備予定の軍艦「聖」を奪取する計画を立て、その実行に及んでいく。軍艦とともに「聖」を運んできた英国軍人たちを拿捕した。この人質を材料に呉鎮守府への交渉と対立が始まる。
 海賊たちの中で、灯がどのような行動を選択していくか。一方で、灯が蒼い目である事実、己の生い立ちを知ることになる。その上での灯の行動が読者を引きつけることだろう。

 サブストーリー3は、新太郎の視点から描かれる。「聖」を奪取されたことに対して、呉鎮守府の山神司令長官は交渉に応じる振りをして海賊の殲滅を計画する。海軍兵学校の幹部候補生5人を選び、無謀な決死作戦を命じる。だが山神は新太郎をそのメンバーには加えなかった。
 決死隊のリーダー・服部からに新太郎はこの作戦内容を知る。山神司令官の作戦が海軍の立場を考慮していない無謀さに危機感を抱く。自分が服部の代わりにメンバーに加わるという選択とともに、服部には決め手となる重要な別行動をとってもらう。山神司令官の作戦を阻止し、捕虜となっている英国人たちの救出を優先する行動に出る。山神の無謀な命令は、日本を英国との戦争に導く危険姓があるからだった。
 新太郎の行動が、勿論読ませどころとなる。そして、新太郎は灯と戦いの渦中で巡り会うことになる。

 山神は「山族」であり、海龍様を首領・蒼狼をリーダーとする蒼い目の人々は「海族」という図式になる。山神の海賊殲滅作戦の意図は思わぬところにあった。海龍が胸中に抱く意図にも二面性が秘められていた。自己中心性が暴き出される。
 山神は、新太郎の容姿をみたときに新太郎を「山族」の一員と識別した。蒼い目の灯は「海族」だった。山神と海龍様の対立の真因が明らかになる。

 かつて、瀬戸内海には村上水軍と称される海賊衆が活動していたという。だが村上水軍は江戸時代に既に消滅してしまったようだ。明治時代前半にも瀬戸内海に未だ海賊行為があったのだろうか・・・・・。
 そんなことを頭の隅で思いながらも、フィクションとしてこの小説のおもしろい状況設定と構想の展開、荒唐無稽さを楽しめた。事実を明らかにしていくプロセスが興味深い。

 ご一読ありがとうございます。

本書から関心が広がり、気になった事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
海軍兵学校  :ウィキペディア
呉鎮守府   :ウィキペディア
海上自衛隊呉地方総監部庁舎 旧呉鎮守府(ちんじゅふ)庁舎  :「呉市」
広島県の文化財 - 旧呉鎮守府司令長官官舎(呉市入船山記念館):「ホットライン教育ひろしま」
村上海賊って?  :「ひろしま観光ナビ」
村上水軍  :ウィキペディア
巡洋艦   :ウィキペディア
大日本帝国海軍艦艇一覧  :ウィキペディア

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「螺旋」プロジェクトに関連する次の小説の読後印象をまとめています。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『月人壮士 つきひとおとこ』  澤田瞳子  中央公論新社

『源平の怨霊 小余綾俊輔の最終講義』  高田崇史   講談社

2020-06-26 21:46:29 | レビュー
 「プロローグ」は平治の乱で源義朝を破り勝利した平清盛が亡き父・忠盛の継室で、義母にあたる池禅尼(藤原宗子)に、捕縛している源義朝の三男・頼朝の助命嘆願を迫られる。将来への禍根を残さぬ為、一族を根絶やしにするのが当然と考える清盛は悩む。嫡男・重盛の意見を採り、頼朝の斬罪は取りやめて遠流にすると決める。その旨、病気の見舞いがてらに池善尼に伝えに行く、という場面が描かれる。
 「エピローグ」は、池禅尼がより具体的に頼朝の助命を嘆願する状況を重ねるように描く。その上で、遠流先は伊豆国の小島辺りがよいのではと池禅尼が思いつきを語った。だが、それは重盛が清盛に言った地域と一致した。この時の恩赦で牛若丸も生き延び、鞍馬山に送られることになる。池禅尼は頼朝の助命嘆願をした4年後に享年60でこの世を去ったという記述で終わる。

 清盛が池禅尼の嘆願を受け入れた結果、25年後に平氏一門が滅亡する結果となる。
 この歴史的事実の経緯に潜む様々な謎について、この小説の主人公たちがその謎解きに取り組んで行く歴史ミステリーである。
 副題は、「小余綾俊輔の最終講義」。これが、この小説の構想としておもしろいところである。
 小余綾(こゆるぎ)俊輔(以下、俊輔と記す)は、東京・麹町にある日枝山王大学の民俗学研究室の助教授である。俊輔は3月半ば、残された日数で残務を整理し晴れて退職を迎えようとしている。その時日本史関係の専門誌では「源平合戦」を特集していた。この源平合戦に関しては、俊輔の民俗学的立場から見ても、大きな疑問点を抱いている。俊輔は大学との縁が切れれば、悠々自適で気ままな生活をし、己の疑問を解くために時間を使うつもりでいた。
 俊輔が煩雑な事務手続きなど最後の雑務に追われる中で、ひょんなことから、二人の聴講生に対して私的な最終講義を行うことになる。この最終講義においては、二人の聴講生がそれぞれの課題でフィールドワークをする。聴講生二人のフィールドワークを踏まえ、諸資史料を縦横に使いながら、俊輔は持論並びに論理的推論を展開し、現地のフィールドワークの結果で裏付けを行っていく。最終的には3人がそろってフィールドワークに出かけ、最後の講義が無事締めくくられるという展開になる。

 俊輔はいくつかの原則的な考え方を己の研究のスタンスとしている。
1.民俗学という専門分野の枠組みを飛び越えて他分野にも手を広げて研究する。
 所謂、学際的視点の立場に立った研究である。専門分野は便宜的な区分けにすぎない。全部繋がっていると考えている。民俗学・文学・日本史(古代史、戦国史、・・・・)・伝統芸能・化学・数学・物理学・・・・全部繋がっている。すべてが等しく必要なのだと。
2.時代の一部分だけを切り取って考えていては真実が見えない。常にその萌芽は前の時代にある。
3.考えが自由でないとだめだ。知識を学んだ上に、得た知識をもとに自分の頭で考えることが重要で、それがすべてと言っても良い。

 聴講生の一人は、堀越誠也(以下、誠也と記す)で日枝山王大学歴史学研究室の助教。謹厳実直な教授の熊谷源二郎に気に入られ、そう遠くない時期に助教授になることが確実視されている。熊谷教授は小余綾助教授を研究者として快くは思っていない。それで、堀越が俊輔に近づくことには嫌悪心を露わにする。誠也は「源平合戦」を研究テーマとしていて、祖父母に幼い頃から源氏の家系であると教えられ、また、源義経が好きでたまらないという研究者である。
 もう一人は、加藤橙子(以下、橙子と記す)で日枝山王大学の卒業生。フリーの編集者として大手出版社で働きながら、日本伝統芸能、特に歌舞伎や文楽の評論家を目指している。

 ストーリーは日付という章立てのもとに、フィールドワークと俊輔の最終講義が織り交ぜられながら進展していく。ストーリーの大きな流れをご紹介しておこう。
《3月13日(土)赤口・神吉》
 俊輔の疑問点の提示から始まる。
    「源義経は何故、怨霊になっていないのか?」
    「池禅尼はなぜ清盛に頼朝の助命嘆願をしたのか?」
 誠也のフィールドワークの進展:「義経の坂落としは行われたのか?」
  神戸市兵庫区・鵯越、一の谷の古戦場。戦の濱。敦盛塚。須磨寺。
 その結果、四谷にある日本蕎麦屋で俊輔と誠也が対話する。誠也がフィールドワーク結果を報告し、疑問点について論議が進む。

《3月14日(日)先勝・黒日》
 橙子は実家に帰省し彼岸前の墓参りを済ませると、続きにもう一つの目的にしていた探訪に回る。その探訪で橙子は義経嫌いの再確認をする形になる。
 山口県下関市・赤間神宮、七盛塚、芳一堂と探訪地を巡り、橙子は疑問を抱く。
   「七盛塚」なのに、なぜ名前に「盛」がつく人間は6人なのか?
   江戸時代に「判官贔屓」と言われたように義経人気の理由の定説は本当か?
   何か他に理由がないのか。
 俊輔に疑問を投げかけようと携帯電話でコンタクトをとる。東京に戻った後、四ツ谷駅近くの居酒屋「なかむら」に居る俊輔・誠也に合流する。3人の会話は誠也が図書館で源平関係の資料調べをした結果の話から始まって行く。そして、橙子の提起した疑問と義経嫌いの表明が続いて提起される。
 そこに、俊輔の疑問が加わることになる。退職の残務整理で動けない俊輔の代わりに二人がフィールドワークをすることを引き受けることになり、俊輔が私的な最終講義を行うという話に発展する。

《3月15日(月)友引・十死》
 誠也がフィールドワークに出かける。京都への出張予定の橙子が途中まで同行する。新幹線の道中では、「保元の乱」について誠也が橙子に講義をする。
 誠也のフィールドワーク先は、知多半島にある野間大坊。義朝たちの墓がある所である。
 橙子は、歴史作家美郷美波との打ち合わせの前に、白峰神宮を訪ね、仕事を済ませた後、宇治平等院に行く。源頼政最後の地である。
 夜、3人は四谷の台湾家庭料理店に集合し、それぞれが報告する一方、俊輔が講義をする。
 
《3月16日(火)先負・月德》
 退職のための書類仕事に嫌気がさした俊輔は、昨日の思いつきから池禅尼の謎の追跡を資料や年表をもとにし始める。そこに誠也が、熊谷教授に注意され俊輔の講義を聴けない旨伝えに来る。熊谷教授の耳に入った原因は橙子にあったことがわかる。俊輔にわびに来た橙子は、逆に昼食をしながら俊輔の話を聴くことになる。歌舞伎になった話材を主に使いながら、義経談義が始まる。そして、俊輔から歴史的な背景を聴くと、橙子の義経嫌いが揺らぎ始める。義経を知る上で、興味深い話が語られて行き、おもしろい。
 
《3月17日(水)仏滅・大明》
 橙子のフィールドワーク。鎌倉には観光的には有名な寺社が沢山ある。ところが、ここでは鎌倉にあるがあまり知られていない場所で俊輔の最終講義に関連する史跡を橙子が探訪する。いわば、マニアックな鎌倉裏史跡巡りである。
 由比若宮(元八幡)、勝長寿院跡、白旗神社、鶴岡八幡宮、段葛、御霊神社、滝口明神社、龍護山満福寺、伝義経首洗井戸、藤沢の白旗神社。
 このあたり、鎌倉から藤沢にかけてのちょっとしたマニアックな裏観光ガイドにもなっている。数時間で行ける距離なら、この本を片手に巡ってみるのもおもしろいのではないかという気がする。関西からでは手軽には行けなくて残念至極・・・・。
 橙子に俊輔から連絡が入る。夜の講義は取りやめだと。謎が解けたという。その確認を兼ね、翌朝、大学に出勤したら、そのあと修善寺に出かけるという。
 
《3月18日(木)大安・神吉》
 俊輔は大学に出勤後、橙子と待ち合わせの四ッ谷駅に向かう。誠也が俊輔を追ってくる。その結果、3人そろって、修善寺にフィールドワークで出かけることになる。
 余談だが、このストーリーの構成としてのページ量配分をここで掲げておこう。
   3/13(45p)、3/14(69p)、3/15(71p)、3/16(57p)、3/17(64p)
   3/18(127p)
 つまり、俊輔の大学勤務最終日当日のフィールドワークと最後の講義の締め括りの比重が最も高くなっている。俊輔の講義の結論が導き出される極みへと盛り上がって行く。
 修善寺に向かう途中で、昨日の橙子のフィールドワークに絡んだ話から始まって行く。ここで頼朝が怨霊として扱われているという俊輔の解説から入って行くところが興味深い。
 修善寺に着けば、勿論修禅寺に。日枝神社、庚申塔、修禅寺本堂、宝物殿、指月殿・頼家墓、十三士墓、範頼の墓、横瀬八幡神社、比賣神社を巡る。さらに帰路、3人は蛭ヶ小島を立ち寄る。
 そして、帰路の新幹線車中から俊輔の最後の講義が始まっていく。
 俊輔の視点に立った平安・鎌倉を通しての約280年にもわたった合戦の真実がこの最後の講義で結論づけられる。
 この結論に到る論証プロセスが、このストーリーである。フィールドワークを軸に進展して行く俊輔の講義というスタイルになっている。この論証プロセスが実に刺激的である。
 また、上記しているが、このフィールドワークの個所は、一種の観光ガイド資料としても役立つ。著者の他のシリーズに通じる特徴がこの小説にも手法的に取り入れられている。

 このストーリーの各所に、俊輔がこのことは今のストーリーと離れるからまたの機会にという口調で言及を保留する事項が含まれている。
 例えば、俊輔は講義の途中で、平将門と菅原道真に触れ、この二人は怨霊ではなかったという立場を誠也と橙子に語った。彼らをどうしても「怨霊にしておきたかった」人々がいた、ということにとどめておこうと言って、この事項を打ち切っている。
 これを伏線と考えると、この小余綾俊輔のシリーズ化が今後期待されるのではないか。大学を離れ、悠々自適の学際人小余綾俊輔の自由自在な探究の旅が始まるのかもしれない。それを期待したい!

 本書は2019年6月に出版された。
 ご一読ありがとうございます。

本書に出てくる史跡事項で、関心の波紋を広げてネット検索してみた。一覧にしておきたい。
須磨浦公園  :「神戸の公園ナビ」
義経の鵯越の逆落し(須磨浦公園) :「平家物語・義経伝説の史跡を巡る」
大本山 須磨寺 ホームページ
比叡山延暦寺 ホームページ
義仲寺~木曽義仲の墓所~  :「中世歴史めぐり」
赤間神宮 ホームページ
白峰神社 ホームページ
世界遺産 平等院 ホームページ
大御堂寺野間大坊 ホームページ
鶴岡八幡宮 ホームページ
白旗神社~鶴岡八幡宮~  :「鎌倉手帳(寺社散策)」
勝長寿院跡  :「鎌倉タイム」
極楽寺の御霊神社  :「鎌倉タイム」
満福寺  :「鎌倉タイム」
相州藤沢 白旗神社 ホームページ
曹洞宗福智山修禅寺 ホームページ
天守君山 願成就院 ホームページ

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徒然に読んできた作品のうち、このブログを書き始めた以降に印象記をまとめたものです。
こちらもお読みいただけるとうれしいかぎりです。(シリーズ作品の特定の巻だけの印象記も含みます。)
『QED ~ortus~ 白山の頻闇』  講談社NOVELS
『QED ~flumen~ 月夜見』  講談社NOVELS
『QED ~flumen~ ホームズの真実』  講談社NOVELS
『古事記異聞 オロチの郷、奥出雲』  講談社NOVELS
『古事記異聞 鬼棲む国、出雲』  講談社NOVELS
『卑弥呼の葬祭 天照暗殺』 新潮社
『神の時空 京の天命』  講談社NOVELS
『鬼門の将軍』   新潮社
『軍神の血脈 楠木正成秘伝』  講談社
『神の時空-かみのとき- 五色不動の猛火』  講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 伏見稻荷の轟雷』  講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 嚴島の烈風』 講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 三輪の山祇』 講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 貴船の沢鬼』 講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 倭の水霊』  講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 鎌倉の地龍』 講談社NOVELS
『七夕の雨闇 -毒草師-』  新潮社
『毒草師 パンドラの鳥籠』 朝日新聞出版
『鬼神伝 [龍の巻] 』 講談社NOVELS
『鬼神伝』 講談社NOVELS
『鬼神伝 鬼の巻』 講談社
『カンナ 出雲の顕在』 講談社NOVELS
『QED 伊勢の曙光』 講談社NOVELS

『駆け入りの寺』  澤田瞳子  文藝春秋

2020-06-23 11:43:26 | レビュー
 「オール讀物」の2016年1月号~2019年12月号の期間中に年2作の掲載という形で発表された短編をまとめて2020年4月に単行本として出版されたものである。合計7作の短編は連作として、いわばオムニバス形式と言えるものになっている。

 京都・洛北にある修学院離宮に隣接した林丘寺がこの短編連作集の舞台になる。修学院離宮の存在は知っていたが、その傍にこの林丘寺が実在するということを、この小説を読み始めてから地図で確認して知った。現在は非公開寺であるが、ホームページが開設されていて、そこにはいずれ公開を予定している旨が記されている。

 「洛中から北東に一里。比叡の山裾に建つ林丘寺」(p7)である。本書のタイトルにもなっている最初の短編「駆け入りの寺」の記述その他を参照し、まずこの寺について要約してみよう。
 後水尾上皇の第八皇女・緋宮光子(あけのみやてるこ)内親王は上皇が没すると、出家し元瑤と号し、上皇が営んだ修学院山荘の一部を寺に改めたという。調べてみると、1680年(延宝8)の開山である。林丘寺の上ノ御客殿は元瑤の義母・東福門院和子の御化粧殿を移築した殿舎。修学院山荘の御茶屋・楽只軒や大書院が林丘寺の堂宇に転用された。楽只軒や御客殿より一段高い山際に本堂である御仏堂が建てられ、本堂近くに常は堅く閉ざされた南御門があり、もう一つ唐門の総門がある。
 室町時代に開かれた洛中にある大聖寺や宝鏡寺と同様に、比丘尼御所の一つで、門跡尼寺である。宝鏡寺は公開されていて人形の寺として有名なのはご存知かと思う。
 尚、林丘寺では「明治十七年(1884)には寺地の約半分を皇室に返還し、楽只軒と宮殿は修学院離宮の一部となった。」(ホームページより)と言う。

 この小説は、創建後36年が経った時点の林丘寺を舞台にしている。開基の元瑤尼は、9年前に姪に当たる元秀に住持職を譲り、普明院と号して気ままな隠棲暮らしをしている。元秀は当今・中御門天皇の叔母であるとともに、霊元上皇の第十皇女である。
 実在した尼僧をモデルにしている。門跡尼寺の日々の生活の中で発生する様々な事象から人々が心の奥に秘める苦悩を短編の連作で描き出す歴史時代小説である。

 この短編集には独立した個々の短編に一貫したテーマが設定されている。各短編の登場人物は林丘寺にて生活を共にする人々あるいは寺に関わりを持った者であり、その主人公は内心に苦悩の因を秘めている。そして、その苦しみから逃れようとする。そしてその先で、どのような選択をしていくか。そのプロセスを描き出す。林丘寺に仕える青侍の梶江静馬が各短編において、一種の黒子的役割を果たす。静馬の目を通した形で描き出されていく。

 この小説で興味深い点がいくつかある。
1. 比丘尼御所つまり門跡尼寺がどのような組織構成で運営されていたかがわかる。
 仏寺としての「奥」と運営を司る「表」で構成される。朝廷から御内(家来)が「表」に派遣されていた。「表」は御家司(総取締役)、御近習(寺内事務担当)、青侍(雑用担当)、侍法師で構成される。「奥」と「表」は原則切り離されていて、寺の奥に踏み入れるのは御家司一人のみ。ただ、この林丘寺では元瑤尼の性格故か、比較的緩やかで和やかな日常運用の姿が描かれる。

2. 比丘尼御所というように、御所での生活スタイルが尼寺に持ち込まれている。
  御所で行われている四季折々の行事がそのまま門跡尼寺でも実行されている。この描写も興味深い。

3. 御所ことばがそのまま尼寺で日常語として使われていたそうだ。独特の用語法だったことが、短編の中の会話からわかる。勿論括弧書きの翻訳付きであり、おもしろい。
  思わず、傾城町吉原で郭言葉が使われていたというのを連想してしまった。
  本書に登場する御所ことばの例をいくつかご紹介しよう。
  夕もじ(夕べ)、おおどろきさん(驚き)、お床について(寝ついて)、お側さん(側仕え)、おじょう払いをし(床を払い)、すべ(下が)らっしゃれ、およしよしに(円満に)、・・・・。

 それでは、各短編の内容を少し、ご紹介しておこう。
<駆け入りの寺>
 梶江静馬がなぜ林丘寺の青侍として仕えているか、彼の生い立ちを底流に描きながら、表層では、元秀が異母妹・八十宮吉子の件で元瑤に怒りを露わにした件や、修学院村の百姓の娘・里が助けを求めて駆け入ってきた件に対する元瑤の対応が描かれる。里の話を聴いた元瑤は里の本心をつかみとる。
 この短編の末尾近くで、静馬の思いが語られる。それがこの連作に通底するテーマにもなる。
「生きて行く限り、人は様々の苦しみに遭う。何かを捨てて、新たな人生を行き直したいと思う折もあるだろう。だが目の前にある現実を捨てたところで、過去は必ずやその身に付きまとってくる。ならば今いる場所から逃げるのではなく、それに正面から向き合ってこそ、人は初めて違う生き方を?み取れるのだ」(p45)と。
 そう認識しつつ静馬は己の現状を分析する。「自分は逃げ込む場所があったがゆえにここに駆け込み、そして未だ消えぬ過去に囚われ続けている」(p45)と。静馬の過去は重い。
 一方で、後の短編にこのテーマについての見方として元瑤の別の思いも綴られていく。

<不釣狐 つられずのきつね>
 次の春には70歳になる中通の嶺雲という老尼についての物語。中通とは比丘尼御所以外の寺で得度し、寺の経理や雑務を預かる尼であり、寺務にも仏事にも精通したやり手である。嶺雲はかれこれ30年近く林丘寺に勤め、皆から一目置かれる老尼である。今は腰を痛めて臥せっている。そんな最中、お栄と称する老婆が、嶺雲が大津の宿屋の女主であった頃の知人だと名乗り、訪ねてきた。林丘寺の者は皆人違いではないかと訝しんだ。
 押し問答をするお栄と表の侍との間に静馬が入り、お栄との応対を引き継ぐ。そして、元瑤がお栄の話を聴く形に展開する。そこから嶺雲の過去が明らかになっていく。
 嶺雲もまた、己の過去から逃げてきていた人だった。
 
<春告げの筆>
 3月3日は上巳の節句、俗称で雛の節句である。その2日前の準備の場面から始まる。この準備を手伝っていた見習い尼の円照は午後から宿下がりの予定だった。それは亡き母の命日で法要に参列するためだと言う。そんな最中に、御世話卿の櫛笥隆賀が狩野安信を伴い元瑤を訪ねてきていた。円照が安信の顔を見るなり「伯父上」と微かなうめきを上げたことに静馬が気づく。そこから、円照の生い立ち話が始まって行く。それは兄の縫殿助のことに関係する。縫殿助が林丘寺門前に円照を迎えにきた。静馬が縫殿助に応対し、元瑤に引き合わせる。元瑤は縫殿助に絵を描かせ、即興の方便を語り、縫殿助の絵師としての生き方に梃子入れする場面へと展開する。
「一人の絵師の筆が拙くはあれ、春を告げる時節に立ち合ったのだ」(p135)という思いを静馬は感じる。
 

<朔日氷>
 水無月の朔日、慣例として御所より林丘寺にも氷室に貯蔵されていた氷が下賜される。監物は洛南にある領・小野村で起こっている藪医者呼ばわり騒動の解決に追われている。そのため、下される氷を静馬に譲り、砧屋の若主の作る砂糖羊羹と一緒に食うことを勧める。砧屋の若主・平治郎の所業を原因とする砧屋の跡継ぎ問題が、後にわかるのだが小野村の騒動の原因に結びついていた。また、砂糖羊羹の注文の折、静馬の誘いに対し、与五郎が平治郎を避けるようにしていた原因も明らかになる。
 結果的に砧屋の跡継ぎ問題の解決策として碇監物が出したアイデアがおもしろい。

<ひとつ足>
 林丘寺の御前(住持)・元秀が、七月七日の七夕、乞巧奠の行事の折、ついでに七遊を催そうと発案した。それが楽しみといえど大事になる。元瑤が御近習の須賀沼重藏の所有する刀の拵えが後藤光重の手になる七夕尽くしの名品であることを思い出し、今宵の祭壇に飾りたいという。重藏は研師に預けたままのその刀を引き取りに、静馬は三条堀川の松尾屋に行く必要ができ、二人が一緒に洛中に行く羽目になる。掘川端で重藏は離縁されたと告げていた芳沢家の義妹・以勢に遭遇してしまう。それが契機となり、重藏の過去が明らかになっていく。重藏もまた事実を隠して逃げていた一人だった。
 堀川に架かる橋の上で、母親が5,6歳の男児に語る一本足の鬼についての京の伝承を二人は通りすがりに耳にしていた。静馬はその話を思い出し、重藏の過去の思いと重ねていく。
 二人の跡を追い林丘寺を訪ねて来た以勢に元瑤は語る。「ただ人の世というものは、辛く苦しいものであらしゃる。そんな中で一所ぐらい、誰もが逃げ込める場所があってもよろしいんやなかろうか」(p218)と。静馬は己の切ない思いに回帰していく。

<三栗>
 三条東洞院の比丘尼御所・曇華院の住持・聖祝が、豪華に咲いた菊の鉢を手土産に林丘寺を訪れていた。聖祝は先帝・東山天皇の第四皇女で、元秀の姪にあたるが、5年前にわずか4歳で入寺して若き住持となった。未だ幼女である。余談だが、宝鏡寺を一般公開の折に訪れて、同種の事例を知った記憶がある。
 そんな日に、総門の外に赤子が寝かされていることを見つけたことから、大騒動となる。静馬は赤子を確認し、総門前で赤子を暫時当寺で預かると二度大声で告げる。
 聖祝の乳母・松於はこれを聞くと、最近曇華院でもあった捨て子の事実と、比丘尼御所門前を順に巡り捨て子をし、数日後弥兵衛と名乗る老爺が引き取りにくるという話を告げる。金品をだまし取っているという。
 だが、一刻ほど後に、お津奈と名乗る老婆が現れる。そして、静馬がその赤子の父親なのだろうと詰問し始める。勿論、静馬にとってはあらぬ濡れ衣・・・・。だが、そこから捨て子行為の真相が明らかになっていく。
 最後に、この事態に対する元瑤ならではの解決策が提示されることになる。
 また、元瑤は静馬に『万葉集』の一首を穏やかに詠唱した。
   三栗の 那賀に向へる 曝井の 絶えず通はむ そこに妻もが
 
<五葉の開く>
 年に一度の達磨忌は林丘寺にとっては特に重要な仏事である。その準備の時に、本尊として奉る掛幅が虫食いにあっていたことが判明する。大上﨟の慈薫は目を吊り上げて怒った。お次の珍雲は達磨忌の延引を提案するが、そういう訳には行かない。静馬は近江国日野村の正明寺に林丘寺ゆかりの道秀筆達磨図が納められたことを思い出す。その達磨図を借り受けてはどうかとの次善の策を提案し、それが実行に移される。
 林丘寺に寂応という小坊主が同行して届けられた達磨図を飾り付けてみて、達磨忌を支障なく執り行えると確認され、皆は安堵した。ところが翌朝改めると達磨図が消えていて大騒動となる。
 一方、その道秀筆の達磨絵は、元瑤の若かりし頃の苦い記憶を呼び起こす契機になる。
 境内全域を探している最中に、五条家の使いとして多田式部という家司が翌日の法会のための供物を持参する。珍雲は慈薫に言われて多田式部に応対するが、その場に立ち会うことになった静馬は珍雲の挙動からふと感じることがあった。静馬なりの行動を取る。
 その結果、元瑤は珍雲に己の若かりし頃の苦い記憶を語る機会をもつことに。それは元瑤の来し方の哀れさの吐露でもあった。珍雲自身に逃げるということと対峙し、心に五弁の花を開かせる契機となる。
 
 外観からは窺い知ることのできない人の心と思い。誰しもそれぞれに何かの事象から逃げるという局面を持ち合わせている。林丘寺という小さな門跡尼寺を舞台に、逃げるという人の心の有り様を様々に見つめた短編集である。

 ご一読ありがとうございます。

本書から関心を抱いた事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
林丘寺 ホームページ
修学院離宮  :「宮内庁」
旧百々御所 宝鏡寺 ホームページ
大聖寺(京都) :ウィキペディア
大聖寺(御寺御所)(京都市上京区) :「京都風光」
曇華院(京都市中京区) :「京都風光」
曇華院  :「コトバンク」
霊鑑寺(京都市左京区) :「京都風光」
霊鑑寺庭園  :「おにわさん」
三時知恩寺(京都市上京区) :「京都風光」
光照院門跡  :「京都観光Navi」
光照院・持明院跡(京都市上京区) :「京都風光」
尼門跡寺院とは :「臨済宗泰元山 三光院」
狩野安信 :ウィキペディア
狩野永敬 :「コトバンク」
狩野永伯 :「コトバンク」
京狩野  :ウィキペディア
蘆葉達磨図(掛軸) 高泉和尚賛・卓峰道秀画  :「入間市博物館」

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『日輪の賦』  幻冬舎
『月人壮士 つきひとおとこ』  中央公論新社
『秋萩の散る』  徳間書店
『関越えの夜 東海道浮世がたり』  徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『夢も定かに』  中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店


『日輪の賦』  澤田瞳子  幻冬舎

2020-06-21 17:53:28 | レビュー
 2013年3月に書き下ろしの単行本として出版された。著者は前年(2012)に『満つる月の如し』で第2回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞している。実は著者の作品で一番最初に読んだのが、仏師・定朝を主人公にしたこの小説だった。その後、奥書に記された本のタイトルあるいは新聞広告で目にとまった本のタイトルからランダムに読み継いできた。最近この『日輪の賦』の出版を遅ればせながら知り読んでみた次第。

 仏師・定朝が平安時代中期を扱っているのに対し、本書は奈良時代、藤原京遷都(694年)後の持統天皇の治世を扱っている。そのテーマは天武天皇が目指した律令国家体制を律令の発布により真に確立しようと目指す持統天皇及びその時代の政治状況を描くことにあると受けとめた。その成果が、文武天皇の治世の初期において世に出た「大宝律令」である。
 この歴史時代小説は、大宝律令が発布施行されるまでの朝廷内の政争と確執及び持統天皇並びに天皇を支えて新律令の発布施行に活動した人々の姿を描く。

 ここで、現在の歴史年表での記述法をベースに説明したが、その時代に即して言えば間違った言い方になるだろう。なぜなら、「天皇」という用語はこの「大宝律令」の制定で初めて規定された言葉だそうであるから。また、『日本書紀』が舎人親王により撰上されたとされるのは更に後、720年である。古代史のこの正史に初めて、天智天皇・天武天皇・持統天皇という名称が記述されることになる。

 この小説の読後に、手許の『続日本紀(上) 全現代語訳』(宇治谷孟訳・講談社学術文庫)を読むと、文武天皇の大宝元年(701)3月21日条に「対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した」。同年8月3日の条に「三品の刑部親王・正三位の藤原朝臣不比等・従四位下の下毛野朝臣古麻呂・従五位下の伊吉連派博徳・伊余部連馬養らに命じて、大宝律令を選定させていたが、ここに初めて完成した。大略は飛鳥浄御原の朝廷の制度を基本とした。この仕事に携わった官人に、身分に応じて禄を賜った」。そして、翌年2月1日の条に「初めて新律(大宝律)を天下に領布した」、7月10日の条に「詔して、内外の文官・武官に新令(大宝令)を読み習わせた」、7月30日の条に「初めて大宝律を講義した」、10月14日の条に「大宝律令をすべての国に領布した」と記されている。

 この小説は、大海人大王(天武天皇)の意志を受け継ぎ、律令の制定と国への周知、つまり律令国家確立を執念でやり遂げようとする讚良大王(持統天皇)とその命を受けて律令編纂に携わる人々の活動プロセスを描く。それは讚良大王たちと、朝廷の閣僚の一員であるが、律令を基盤にした大王による中央集権国家体制に反対の意思を抱く旧来の大豪族たちとの政争対立のプロセスでもある。

 正史『続日本紀』は大宝律令に関連した事実結果だけが簡潔に記述されている。それがどのような思いと対立確執の中から生み出されてきたものなのか。史実記録の空隙に著者の想像力が羽ばたき、フィクション化され、描き出されていく。
 讚良大王は中央集権の律令国家体制確立という明確なビジョンを引き継ぎ、その具現化をめざすいわばリリーフとしてのトップであり英邁かつ女傑である。一方で大海人大王からの王位を、己の期待に反して早世した息子・草壁王子の子であり孫にあたる珂瑠王子に継承させる意志と執念を抱き、その体制作りを推し進める。讚良大王の意を受けて様々な人々が活動していくストーリー。

 主な登場人物をストーリーの展開と絡めて少しご紹介してみよう。
まず、阿古志連廣手が、紀伊国牟婁評(むろのこおり)から新益京(藤原京)に大舎人として出仕する行程場面からストーリーが始まる。京に出仕し髙市王家の大舎人だったが2年前に事故死したと伝えられた兄・八束に続き、廣手もまた京に出仕する道を選ぶ。竹内峠への近道をしようとその途中で強盗に襲われる。
 これをたまたま救うのが、男装した女官の忍裳である。忍裳は令外の官であり、特異な装束を身に纏う。讚良大王の腹心である。このとき忍穂に従っていたのが柿本人麻呂という設定になっている。
 年老いた人麻呂が廣手に対して陰で情報提供者の役割を担い、廣手をサポートするところがおもしろい。
 廣手は葛野王家の大舎人となる。葛野王は壬申の乱で敗れた葛城大王(天智天皇)の子・大友王子の長子である。無官の王族としてひっそりと京に隠棲している。讚良大王は葛野王を信頼している。高市王の突然の死をきっかけにして、讚良大王の重要な側近として政治の舞台に現れていくことになる。これは史実なのかフィクションの要素が大きいのか・・・・。興味深いところ。
 葛野王家の大舎人として王家内で仕えていた廣手は、葛野王の了解のもとに、飛鳥浄御原令編纂所の流れを汲む法令殿での手伝いという名目で出仕することになる。法令殿は新たな律令を研究する学問所という名目で、律令の編纂作業に取り組んでいる。だが、そこには律令制定を阻止しようとする右大臣丹比嶋の介入があった。廣手は忍穂を介して、法令殿内部に潜む讚良大王への叛意の疑いを密かに調べるように指示される。そこから、律令編纂というプロセスの周辺要員として間接的に関わりを深めて行く。つまり、律令編纂と政治が絡むドロドロとした側面に巻き込まれていく。だがそれは廣手にとって律令制とは何かを知る契機となる。廣手はこのストーリーの語り部的役割を担っていく。
 その過程で、兄・八束の死の原因がどこにあったかという真相にも触れていくことになる。
 もう一人、廣手の前に現れるのが田辺史首名である。首名は藤原朝臣不比等の従僕。廣手が泊瀬の葬送地にある八束の墓参りに出かけた日、海石榴市である事件に出会い、官吏から刑を受け痛めつけられた五瀬と名乗る男を助ける。彼は雑戸で、鍛冶司の管理下にある忍海の鍛戸である。五瀬に助けをさしのべた廣手に御礼を述べるために首名が廣手を訪ねた。首名は不比等を崇敬していて、今は低い官位だがいずれ高位に立ち、政治の中枢で活躍する人と信じている。その不比等は首名を介して五瀬に刀剣の鞘飾りについての重要な仕事を頼んでいたのである。この首名が廣手に京の政治の実状や律令制の意義などを教える先達になる。結果的に、二人は讚良大王の先兵としてこのストーリーで活動していく事になる。
 讚良大王は、唐に長年留学していた学者である白猪史宝然を中心に法令殿で律令の研究・分析をさせつつ律令編纂の作業をさせる。だが、一方で密かに辣腕の外交官であり唐の事情や制度に造詣の深い伊吉達博徳に密命を与え、密かに我国にマッチした律令の編纂を行っていた。この博徳がいずれ撰令所を主宰していくことになる。讚良大王にとっては、法令殿は一種の反対派の動きをつかみかつ牽制する位置づけでもあった。
 藤原不比等は、あるタイミングをとらえて、讚良大王の懐に飛び込んでいく。そこに五瀬の技能者としての技が関係していた。正史の記述からみると、藤原不比等が大宝律令制定・施行という表舞台にその名を連ねていく。このストーリーにおいて、葛野王の変身と関わりがクローズアップされるが、正史には一切表に出て来ない。上記引用の通り、刑部親王の名が正史に残る。この辺りが、虚実皮膜で闇の側面なのかもしれない。歴史時代小説のおもしろみと言えようか。
 また、五瀬は大宝律令の発布の一端にも関係していくことになる。このあたりの設定がおもしろい。『続日本紀』には、大宝元年8月7日の条に「これより先に、大倭国忍海郡の人である三田首五瀬を、対馬嶋に遣わして黄金を精錬させていた」という記述がある。この五瀬がこの小説に登場する五瀬と同一人物の想定なのか・・・・その点も興味深い。
 『続日本紀』の文武天皇3年の7月21日には「浄広弐(従四位下相当)の弓削皇子が薨じた」という一文が記録されている。没した事実だけの記述である。このストーリーに弓削王子は重要な位置づけとして登場している。著者の独自の視点なのか、裏付け史料があるのかどうかは不詳である。正史に記されない背景の解釈の展開、そこに歴史時代小説の醍醐味の一端があるのかもしれない。
 
 いずれにしても、このストーリーは、讚良大王が己の過去と現在の朝廷内の実状、政争状況などを客観視して語る側面と、阿古志連廣手が己の思いと体験を語る側面を織り交ぜながら、上記テーマに収斂させていく。
 歴史年表に記述された史実(事項)の背景に広がっていた状況を、歴史時代小説と言う形で楽しむことから、改めて歴史に向き合うという面白さに触れることができる一書だと言える。

 ご一読ありがとうございます。

 本書からの関心の波紋で幾つか検索した事項を一覧にしておきたい。
持統天皇 奈良偉人伝 :「いかすなら 奈良県歴史文化資産データベース」
持統天皇 :ウィキペディア
藤原宮跡 :「いかすなら 奈良県歴史文化資産データベース」
飛鳥浄御原令  :ウィキペディア
大宝律令 :ウィキペディア
大宝律令 :「ジャパンナレッジ」
10.律令体制のしくみ  :「日本史のとびら」
葛野王  :ウィキペディア
葛野王  :「コトバンク」
高市皇子 :ウィキペディア
刑部親王 :「コトバンク」
忍壁皇子 :ウィキペディア
弓削皇子 :ウィキペディア
白猪骨  :ウィキペディア
伊吉博徳 :ウィキペディア

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『月人壮士 つきひとおとこ』  中央公論新社
『秋萩の散る』  徳間書店
『関越えの夜 東海道浮世がたり』  徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『夢も定かに』  中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店

『落花狼藉』  朝井まかて  双葉社

2020-06-18 11:55:27 | レビュー
 奥書を読むと、「小説推理」2018年2月号から2019年4月号の偶数月号に連載された同名作品に加筆修正を加えて2019年8月に単行本化されている。
 この小説は、次の文で締めくくられる。本書のタイトルはここに由来するようだ。
「いつか、この傾城町に桜を。
 媚びず屈せず、咲かせておくれ。落花狼藉の極みと謗られようと、吉原の嘘と真を見せるんだ。
 爛漫と咲いて、散れ。」

 この小説は、簡潔に言えば、江戸時代に売色御免の公許を得た傾城町吉原の確立変遷をテーマにした歴史時代小説である。
 西田屋の女将となる花仍(かよ)の目を通してみた吉原が描き出される。花仍は孤児の身を西田屋の主に拾われ、育てられ、長じて結果的に彼の女房となり、西田屋を経営した。
 江戸時代の傾城町吉原がどのような経緯で形成されたのか。日本橋のはずれに築造された傾城町・吉原はその当時は江戸の埒外だった。だが、豊臣家の大坂城が滅び、家康が没しても、江戸は泰然としていて揺るぎなくより一層繁栄していく。だが江戸が繁栄するにつれて、その城下は広がりを見せる。その結果、政策的に吉原は日本橋のはずれから、さらに辺鄙な地への移転を命じられる。その結果が浅草の浅草寺からはずれた葭の繁る俗に「浅草田圃」と呼ばれる地域に新吉原町が造成される。以前の地は、元吉原と称されることになる。この傾城町吉原の確立変遷のプロセスと吉原がどのような仕組みで成り立っていたかが、吉原を運営する側の視点から描かれて行く。

 江戸時代の初期、武士政権の首都・江戸は、真の天下統一を経て絶対的な幕府体制が築かれる過程で日々整備・拡大し続ける時期にある。諸藩が江戸に屋敷を構える。さらには1634年(寛永11)8月には譜代大名の妻子を江戸へ置かし、1635年には、参勤交代制が始まって行く。その中で火事も頻発する。首都域拡大の普請と焼亡後の再建普請が常態となる。江戸は男女比率が大きく崩れ、男の比率が高い社会状況が続く。いわば、性のはけ口として、売色(売春)は必要悪として存在していた。一方で、売色は密かな生業、生活手段として広がっていた。江戸を取り締まる側からすれば、二律背反の問題である。野放図に売色を放置しておけば、江戸という首都の治安維持に大きな影響を及ぼす。そこで生み出されたのが、売色御免つまり、傾城町吉原という売春システムの公認である。

 この小説は、花仍の生い立ちと西田屋・花仍の女将としての願望と失敗談を織り交ぜながら、吉原という傾城町の運営と確立、新吉原への移転と不夜城吉原の確立までの変遷プロセスそのものがストーリーとして描き出されていく。吉原確立期までの状況とそのシステムを、運営側の視点に立ち、その苦労話を交えて描き出す。京・大坂とは違った、江戸の水に馴染んだ傾城町の確立プロセスが描き出されていく。ある意味で江戸時代の吉原を客観的に理解し知るためのガイド本とも言える。
 少し見方を変えると、江戸時代を背景とし、吉原をポジティブ・サイドから描き出したストーリーと言える。
 
 ストーリーの冒頭は、西田屋女将の花仍が、瀬川という名の格子女郎を含め4人の遊女を連れ出し、駕籠に乗り吉原の大門口を出て寺社の参詣と花見をする。その帰路の場面から始まる。帰路の途中で、先頭の駕籠が女歌舞伎の連中に絡まれる。最後尾の花仍は駕籠を降り、先頭に行き絡まれている状況を知ってその連中に対峙する。売られた喧嘩と、陸尺の棒を片手に立ち合いを始める。だが、その場に亭主の甚右衛門が現れ肘をつかまれて終わりとなる。
 この冒頭のエピソードだけでも、吉原のイメージが変化するではないか。遊女が傾城町吉原の大門口を出て、昼間に参詣に行くことができたという。私は、何となく吉原に売られて行った遊女は、年季があけるまで、あるいは身請けされるまで、通常では大門口から出ることは認められてないというイメージを持っていた。なので、冒頭からちょっとおもしろそう・・・という気になった。

 このストーリーは、花仍が西田屋の主、甚右衛門の女房になり、1年たち、23歳の女将として活動し始めた時点から、大祖母様と呼ばれる立場で息を引き取る瞬間までの人生を描く。花仍の人生が傾城町吉原の変遷と一体となって描かれて行く。
 女将として半人前を自覚する花仍が、吉原町の惣名主の女房かつ西田屋の立派な女将に成長していくストーリーである。その間に花仍の幼少期の回顧譚が織り交ぜられる。
 花仍は女将として、若葉という格子女郎を太夫にしたいという願望を抱く。それを実現させるが、そこから生み出されていく禍福の経緯が花仍の人生に大きく関わって行く。

 次の事項が花仍の人生を形成する要因としてストーリーに織り込まれて行く。
1.西田屋の主、甚右衛門が幕府に願い出て、苦労の末に傾城町形成の「売色御免」の許可を獲得した経緯とその際の付帯条件(元和の五箇条)について。
  公許を得るのに12年越しの願い出だったという。願い出にあたり甚右衛門が挙げた3つの悪行が防げるという理由も語られる。
2. 吉原町の町割りと吉原町普請のプロセス及びその苦心譚。
  日本橋の北東に位置した吉原と、浅草寺の背後に移転させられた新吉原が描かれる。
3.甚右衛門の経歴と御公儀評定所から傾城町の惣名主に任ぜられた後の甚右衛門の行動とその存在について。
 己の見世は二の次で、町政に心血を注いだ甚右衛門は69歳で没した。
  三浦屋四郎左衛門が甚右衛門の補佐となる。
4. 吉原の秩序とそのシステムについて。
  吉原の町割り。見世と揚屋の関係。遊女の格。昼見世と夜見世。西田屋・三浦屋という大見世の運営システム。吉原の規模。遊女の供給経路など。
5.公認となった吉原町と江戸市中に残る非合法行為の売色の確執。非合法売色の実態。
   ⇒市中に存在する風呂屋の湯女。女歌舞伎役者の売色。後の料理茶屋。
 甚右衛門は数年がかりで奉行所と交渉し「湯女制限令」発布(寛永14年)を得た。
6.日本橋はずれの吉原町が、移転を命ぜられた折の経緯と二代目甚右衛門の活躍。

 日本橋の北東に形成された吉原町は、正保2年、富沢町から出た火が因となり全焼した。そして再建される。だが、公儀から吉原町の移転を命じられる。吉原町が選択したのが、俗に「浅草田圃」と称された沼沢地。日本堤の辺りである。二代目甚右衛門が移転条件を交渉する。再び土地の干拓造成から始まる。一方、明暦3年正月18日、本郷丸山近辺の出火が因で、大火となり吉原町は再度全焼してしまう。そして、今戸・新鳥越・山谷あたりでの仮営業を経て、新普請が成った新吉原町がスタートした。この時、長年禁止されてきた夜見世が移転条件の一つとして許可されて、新吉原の不夜城が現出したという。

 吉原を知ることは、当時の江戸さらには日本という経済社会並びに江戸幕府体制を知ることに繋がる。吉原から眺めた浮世ばなしとして歴史の一端を学びつつ楽しめる作品である。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
錦絵で楽しむ江戸の名所 新吉原(しんよしわら) :「国立国会図書館」  
江戸時代の吉原遊廓の妓楼の中はどうなってたの?浮世絵や絵草紙で詳しく紹介!
    :「exciteニュース」
浮世絵の民俗学 ⑤ 吉原遊郭 三浦屋 花魁 :「五井野正 博士ファン倶楽部」
“文化のゆりかご”だった江戸吉原:浮世絵や歌舞伎、狂歌を育んだ幕府公認遊郭
:「nippon.com」
吉原遊郭  :ウィキペディア
庄司甚右衛門 :ウィキペディア
庄司甚右衛門  :「コトバンク」
庄司甚右衛門  :「江戸ガイド」
五ヶ条の御法式 :「吉原遊郭データベース」
三ヶ条の書付  :「吉原遊郭データベース」
吉原遊郭跡   :YouTube
「2階で小便」は吉原遊びの意味? 理由は妓楼の構造にあった! :「BEST T!ES」
最高級遊女花魁と楽しむ方法……実は、お金がなくてもイイんです!驚きの吉原遊びのルール  :「BEST T!ES」
吉原  遊里と郭  :「歌舞伎用語案内」

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『悪玉伝』  角川書店
『阿蘭陀西鶴』  講談社文庫
『恋歌 れんか』  講談社
『眩 くらら』  新潮社


『公安狼』 笹本稜平  徳間書店

2020-06-16 17:11:34 | レビュー
 奥書を読むと、「読楽」2018年9月号~2019年9月号に掲載され、加筆修正して2020年3月に単行本化されている。
 著者による警察小説の作品シリーズを読み始めているが、公安捜査ものを読むのはこれが初めてだと思う。
 
 この小説はストーリーの構成がまず面白い。長編ストーリーが2つの短編A,Bと中編Cで構成され、それが単なる連作ではなく、情報が相互にリンキングしながら、最終的な事件解明への重要な要素として織り込まれて行くという形になる。
 この小説の主人公は唐沢龍二で、警視庁公安部公安第一課第四公安捜査第七係の主任である。彼と彼の率いるチーム、上司の高坂が主な登場人物。唐沢の階級は警部補。唐沢たちの捜査対象はいわゆる極左暴力集団である。

 ストーリーAは、「剣」という異名をもつ左翼過激派セクトの末裔小グループのアジトの張り込み捜査から始まる。捜索差押許可状をとった上で、アジトであるマンションにグループのリーダー、安村が戻ってくるのを待っているという場面。名目は家宅捜索であるが、マンションの室内に、硝安爆弾、もしくはその半製品が存在する可能性が高く、現行犯逮捕を狙っている。
 この張り込み捜査には、メンバーに井川巡査部長というベテランが居る。井川の公安経歴は長く、事ごとに唐沢に反目し自説を主張する。公安の中では素行に問題があると疑惑を持たれ、しょっちゅう周囲の者に嫌がらせをしている捜査員である。唐沢は頭目の安村の身柄を押さえることがこの事案を安全・確実に処理する唯一の道と考えている。だが、井川はもう少し張り込みをつづけて待てば、剣のグループが参集し一網打尽にできると主張する。地元警察署の公安捜査員の協力を得れば可能だと言い張り、独断専行する。だがその結果、地元の公安捜査員の張り込み方のまずさがあり、安村に気づかれてしまう。
 張り込み捜査は、一転して爆発物所持者の立て籠もり事件に転換する。

 ストーリーAに挿入される形で、ストーリーBが唐沢により回想されていく。
 ストーリーBは、1998年7月18日の正午近く、西神田二丁目にある東和興発ビルでの爆破事件に関連する。重軽傷者は数十名に上った。死亡したのは爆発物の入ったスーツケースをビル内に運び込んだ吉村久美子、22歳だった。爆発物には時限爆発装置が仕掛けてあったことが後で判明する。その吉村久美子は同じ大学に通っていて、一時期唐沢の恋人だったのだ。唐沢は久美子に誘われ、映画論を戦わす「グループ・アノニマス」という会に幾度か参加する。参加者は全員、ニックネームで呼び合う。会のリーダーはハンクス、唐沢はレオナルドと呼ばれた。その会に幾度か参加したところで直観的に危惧を感じた唐沢は会から離脱する。久美子との連絡が途絶える。
 久美子から唐沢の電話にメセージが入っていたのが最後になる。それは爆発のあったビルのエントランスの前で待っているということと「お願い。助けて」というすがるような調子の言葉だった。唐沢は急いでビル前に行く。着いて間なしにビル内での爆発に巻き込まれる。新聞は「自爆テロ」と報道。唐沢はハンクスに久美子が殺されたと確信する。
 この事件の折、唐沢は任意同行による取り調べを高坂から受けた。その高坂に誘われて己の進路を変更し警察官となり公安捜査員になった。唐沢の目的は、ハンクスを逮捕することにある。
 爆破事件への憎しみとそういう事態の事前阻止に対する唐沢の執念が読者の心に染み通る事と思う。

 ストーリーAは、井川の横槍から、マンションの住人である田口夫妻とその娘を人質にした立て籠もり事件に急転換していく。唐沢は井川の言動から、安村を逮捕させたくないという思惑や雰囲気を感じ取る。井川を問い詰めた結果、唐沢は肥田知也の名前で登録されている番号を入手する。唐沢は肥田こと安村に対し人質解放と投降の交渉をする役目を担う。
 警備一課のSATの出動が要請され、配備につくという風に事態が緊迫化していく。
 事態はさらに思わぬ展開となっていく。安村の意外な行動。そこが読ませどころとなっていく。

 安村との携帯電話での交渉の中で、唐沢は安村がハンクスと接触した時期があったことを知る。ハンクスが名乗っていた氏名は溝口俊樹だったと安村から伝えられる。唐沢が公安捜査員になって、20年。やっとハンクスに迫る手がかりを得られたのだ。
 一方で、唐沢が公安部に異動して以来、井川は事ある毎に、唐沢が極左系と繋がりがあるのではないかと揶揄してきていた。エスの一人として接していた安村の事件の背後には、更に井川が関与している大きな闇があるのではないかと唐沢は疑惑を深める。そんな矢先、井川が「あんたの尻尾はすでに握っている。それをどう使うかはおれの胸三寸だ」などと、挑発的な恫喝を唐沢に向けてくる。

 唐沢は早速、相棒の木村とともに、安村が唐沢に教えた氏名を手がかりに、ハンクスの追跡捜査を始める。事前に速達で送付した身上調査照会書の手続きによる電話問い合わせである。地道な捜査が始まる。

 そんな最中に、新たな事件が発生する。ストーリーCの始まりだ。
 佐伯の指示で、第7係全員が第四公安捜査の会議室に集合する。佐伯が全員に告げたのは爆破予告が各所に送付されてきたという事実である。東京都内の企業や政府系団体十数ヵ所に。セムテックスというプラスチック爆弾約1グラムを入れ、同封の文は送付先が関係するアジア、アフリカでの開発事業を、3ヵ月以内に中止し世界に公表せよという。その要求に応じなければ国内外の関連施設を爆破するというのだ。「汎アジア・アフリカ武装解放戦線」と犯行グループは自称する。自爆テロと報道された西神田の事件の際の犯行声明文の二番煎じともいえる文面だった。
 捜査一課特殊犯捜査係が、剣の事件を解決した実績を見込んで、公安第一課第四公安捜査に名指しで共同捜査の申し入れをしてきたという。
 その結果、捜査一課と公安という組織体質が水と油の関係のような2つの組織が共同で特捜本部を設置することになる。

 ストーリーCの展開にはおもしろい要素が幾つか内在している。
1. ハンクスの絡んだ西神田の事件と類似の犯行声明文は、この爆破予告にハンクスが絡んでいることを意味するのか?
2. 安村から得たハンクスへの手がかりとなる氏名・溝口俊樹。
  その氏名を戸籍から追跡するという手段がどう進展するのか?
  それがこの爆破予告事件と関係するのか?
3. 水と油の関係のような組織体質の捜査1課と公安の共同がうまく行くか?
  共同とは言いながら、その特捜本部運営は具体的にどのようになるのか?
4. 井川もまた、公安の一員としてこの特捜本部に参加する。それが捜査の足を引っ張ることになるのか? 或いは、井川に対する疑惑が逆に事件解明への材料に繋がるのか?
5. セムテックスという日本国内では入手できないプラスチック爆弾が同封されていた事実は、海外のテロ集団がこの事件に絡んでいることを意味するのか?
  海外からのセムテックスの持ち込みを考えると、資金面でも海外組織が絡むのか?
6. 3ヵ月以内というタイムリミットが何を意味するのか?

 「可塑性爆発物送付テロ予告事件」という看板の特別捜査本部が、警視庁本庁8階の大講堂に設置された。帳場の総勢は100名を超える規模になる。
 今後の捜査の方向についての全体会議がまず開かれる。普通郵便で送付された封書関連から手がかりは得られない。同封されていたセムテックスは古いタイプのもので、爆発物マーカーは添付されていないことが判明した。何らかの擬装をして少量の密輸なら容易という。高坂が今回の事件と20年前の西神田の事件のハンクスを結びつける考えを説明し、さらに唐沢に発言を求めた。唐沢は自らがハンクスと接触した経験を語ることから始めた。捜査一課の松原管理官が積極的な姿勢を見せると、井川が横槍をいれ、唐沢についての嫌味たっぷりな発言を行う。公安部の一員として叛旗を翻すような発言だった。冒頭から井川は特捜本部の中で奇妙なスタンスを示していく。
 高坂・唐沢にとっては、獅子身中の虫ともいえる井川の行動の背景を洗い出すことが一層重要となる。そこから意外な糸口がみつかるのかもしれないと。
 読者にとっては、早く先を読みたくなる進展となっていく。

 少し、ヒントを記しておこう。
 井川が独自に動き出した。井川が会っていた人物の写真を井川と組んだ所轄の刑事が何とか撮ってくれたのだ。木村が所轄の刑事をうまくそそのかし井川と組んでもらった成果が早速現れた。その写真を見て、唐沢が即座にアーノルドだと気づく。捜査で判明した実名は片山春樹だった。
 中央防波堤外側埋立地で大規模な爆発が発生した。現場に駆けつけた深川消防署から特捜本部に通報が入った。セムテックスが示すタイプの破壊性状との判断からという。唐沢らが現場に駆けつけた直後に、ハンクスから唐沢の携帯に電話が入る。ここでの爆破は挨拶代わりだ・・・・と。
 
 ハンクスの挑発を受け、特捜本部の捜査は俄然急展開し始める。第9章~第13章の160ページ余がこの捜査の進展を描いて行く。この事件についての意外な真相が明らかになる。
 なかなかおもしろい構想のストーリー展開となっている。戸籍というものが存在する日本ならではの追跡捜査プロセスが含まれていて、その手続きと捜査の進展が興味深い事象の一つになる。
 あとは本書をお楽しみあれ。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書からの関心で、いくつかの事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
三菱重工ビル 過激派が爆破  :「NHK放送史」
NHKBSで13日「連続企業爆破事件」 刑事・記者・被害者の物語 「アナザーストーリーズ 運命の分岐点」 2018.3.8  :「産経新聞 THE SANKEI NEWS」
東京都心の爆弾テロ、43年後の真実①  竹内明  :「note」
連続企業爆破事件  :ウィキペディア
連続企業爆破事件 北海道庁爆破事件  :「オワリナキアクム」
セムテックス :ウィキペディア
プラスティック爆弾  :ウィキペディア
プラスチック爆弾  :「レプマート」
可塑性爆薬の探知のための識別措置に関する条約  :ウィキペディア
爆発物マーカー :ウィキペディア

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この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『ビッグブラザーを撃て!』  光文社文庫
『時の渚』  文春文庫
『白日夢 素行調査官』  光文社文庫
『素行調査官』  光文社文庫
『越境捜査』 上・下  双葉文庫
『サンズイ』  光文社
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館

『茶聖』  伊東潤  幻冬舎

2020-06-15 23:43:44 | レビュー
 奥書によると、全国各地16の新聞に連載された小説に加筆・修正されて、2020年2月に単行本として出版された。
 カバーには、「Sen no Rikyu」と名前が付記されている。その名の通り、茶の湯を究め佗茶の境地を確立したとされる千利休の人生を織田信長並びに豊臣秀吉との関係を主軸にしながら描き出した歴史小説である。
 「茶聖」という言葉は、本書のp416に古田織部が利休に語る言葉として出てくる。
 「何を仰せか。この世に二人といない茶聖の名が廃れることなどありましょうか」と。本書のタイトルは、この個所に由来するのだろう。
 その織部の発言に対し、利休は心の内で語る。「茶の湯は『聖俗一如』なのだ」と。つまり、利休は己がどれだけ俗にまみれているかを明晰に自覚していたと著者は捕らえている。この続きに著者は記す。
 ”利休には「異常なまでの美意識」という聖の部分と、「世の静謐を実現するためには権力者の懐にも飛び込む」という俗の部分があった。この水と油のような二種類の茶が混淆され、利休という人間が形成されていた。” (p436)
 この一文がこの小説のテーマになっている。利休という人間を形成した聖と俗の二面を併せて、その姿を具体的に描き出す。特に、俗の部分に比重を置きながら、千利休の生き様を描き切っていると感じた。
 それは同時に、コインの反面として、織田信長が茶の湯を政治の道具として有用とみた視点・発想と行動、及びそれを継承しある時点までは茶の湯に深く傾倒して行った豊臣秀吉の視点・発想と行動をそれぞれ描き出していくことになる。ただし、比重は秀吉の方に傾く。信長を描くのは、秀吉が茶の湯と関わるための必然的な前提であり、秀吉の考えの背景を明確にするために欠かせない部分という印象を受けた。その比重の差は、宗易(利休)がそれぞれの茶頭となった時の序列の違いにも関係していると思う。

 プロローグは、天正19年(1591)2月28日、利休の聚楽屋敷にある不審庵での今生最後の手前から始まる。そして検使役蒔田淡路守に遺偈の書かれた折り紙を手渡し、利休が切腹する場面を簡潔に描く。「人世七十 力囲希咄(りきいきとつ) ・・・・・ 今此時ぞ天に抛(なげう)つ」という有名になった遺偈である。
 このプロローグで、著者は利休の内奥の言葉として「わしは茶の湯と共に永劫の命を得るのだ」という一文を記す。ここに、著者の千利休観の一端が出ていると思う。

 この小説はプロローグに続き5つの章で構成され、独立したエピローグはない。第5章の末尾がエピローグを兼ねている。2月28日当日の場面描写に回帰してこのストーリーが終わる。

 「第1章 覇者」は、天正10年6月10日、本能寺の変後、信長落命の事実が堺に届く場面から始まる。信長と茶の湯との関わり及び「御茶湯御政道」の視点が回想的に描かれるとともに、山崎での合戦を経て、秀吉が覇者の立場を確立するまでの要所が描き込まれていく。いわば、この小説構成の「序」である。
 「聖」の視点では、利休が長次郎に和物の今焼茶碗を作れという場面。それは村田珠光の考案した「冷凍寂枯」思想を踏襲した茶碗を作れという示唆である。山崎宝寺城の山麓に造られた妙喜庵を秀吉に見せる場面。「名物がなければ、名物を作るまで。・・・・・羽柴様が天下を取り、私の威権を高めていただければできます。」(p55)利休が俗にまみれる決意の始まりである。大坂城築城において、利休が山里曲輪という佗茶の異空間を創造する場面も織り込まれていく。
 最も、キーポイントになるのは、宗易が23歳で娶った妻・稲との間の子・紹安と宗易との会話場面である。父・宗易が秀吉に近づいていくことを、紹安は父・宗易が茶の湯に求めるものと矛盾すると批判する。それに対し、宗易は「この世に静謐をもたらし、人々が自由に行き来できる世を作るためだ」と言う。紹安はこの言すら、詭弁と断じる。だが、宗易は俗にまみれる己の行為はこの大義の実現のためとして突き進んで行く。これは宗易と紹安の関わり方の「序」となる。
 この大義が利休と秀吉との関わりの一つの柱になり、この小説の主題になっていく。

 「第2章 蜜月」は、山崎合戦後、秀吉が勢力範囲を拡大していく展開期である。天正12年の小牧・長久手の戦い、四国の長宗我部との戦いの広がり、天正13年(1585)3月の雑賀・根来一党の討伐が進展する。宗易は茶事を手段としつつ、秀吉の懐深くに入って行く。宗易は堺の商人としての情報、茶の湯の人間関係を介しての情報を武器に、秀吉の知恵袋、参謀的機能を担い始める。その一方で、禁中茶会を催す企画の根回しを宗易が進める。「蜜月」という見出しが二人の関係を暗示する。「承」の段階といえる。
 禁中茶会(正式には献茶式)の前、9月8日に宗易は朝廷から「利休」居士号を勅賜された。著者はこの号について、”「利を(追求することを)休む」、すなわち商人としての宗易と決別し、茶人としての道を歩んでいくという覚悟”を込めたものと言い、「この号は、宗易自身が考案し、朝廷が追認という形で下されたもの」(p146)という解釈をしている点は興味深い。
 10月7日の小御所菊見の間での献茶は利休がその趣向を考えた。だが、秀吉はその趣向に満足できなかった。茶の湯で帝を驚かせたかったのだ。そこで、利休は2回目の禁中茶会を提案し、秀吉自身がその趣向を考えるべきと言う。秀吉自身が己の侘をみつけるべき時だと。それが2回目の禁中茶会となる。このとき、秀吉は「黄金の座敷」を使う。これはたぶん通常「黄金の茶室」と称されるものをさすのだろう。これが秀吉の作意としての侘だという。著者は、利休が一切関知しないところでこの黄金の座敷が制作されたとして描き出していく。
 ここには重要な視点が含まれている。秀吉は利休の言を「胸中にわき立つ作意を現のものにすることこそ侘だ」と受けとめていた。
 「寂びた茶室で古びた茶道具を使って茶事を行うことだけが、侘ではない」(p163)ここに、既に形式化しつつある侘に対する侘の本質論がクローズアップされている。黄金の座敷に対する評価意識が転換する視点が描かれている。利休はこの秀吉の作意に「殿下は・・・己の侘を見つけられた」と答える。著者はここに利休と秀吉の関係性の転換点を見出していると言える。
 
 「第3章 相克」は、構成的にも「起」「承」を受けた「転」に入って行く。「第4章 聖俗」と合わせて、時間軸の長い「転」の部分が進展していくように思う。
 第3章は、堺の屋敷で、利休とりきが黄金の座敷他について語り合う場面から始まる。ここでも利休は「しょせん侘とは、見る者の心のあり方がすべてなのだ」(p171)と語る。さらに「孤高にいる者の侘」だと言う一方で、「現世の王に心の内まで支配されては、これほど息苦しいことはない」(p173)とりきに語る。
 利休を軸にしながら、様々な相克が並存する状況が進展する。まず、茶の湯における利休と秀吉の相克がある。キリスト教をめぐる高山右近と秀吉の相克、秀吉の勢力拡大に関しては、秀吉と徳川家康の相克、秀吉と島津義久の相克がある。「世の静謐を実現するためには権力者の懐にも飛び込む」という利休の大義が、俗の中での関わりを利休が広げて行く様を描いて織り込んで描いて行くことになる。

 「第4章 聖俗」は、美意識としての聖なる茶の湯を、俗の中に持ち込む。世の静謐のために茶事として利用するという局面が大きく動き出す様を描いて行く。北野の大茶湯の提案と実行。利休の大義に対し己への災厄回避のために利休から離れていく堺の商人たちの思惑。秀吉の小田原攻めとそれに対して民の苦しみをミニマムにしようと画策する利休の献策と行動。利休は茶事を手段にして小田原城に赴き開城交渉をする使者となる。また、山上宗二の処刑がリアルに描き込まれていく。伊達正宗と利休の関係の始まり、対話が加わる。
 小田原征伐の決着は秀吉を名実共に天下人にしたが、利休にとっては新たな戦いの始まりとなる。

 第4章には、興味深いことがいくつか書き込まれている。その要点は、
*山上宗二は「働きのある茶人」。利休の教えを修得し、忠実に再現した。だが、そこから逸脱できなかった。 p164
*利休は茶人を二種類に分ける。一つは利休の教えに忠実である茶人。
 もう一つは利休の教えを消化した上で独自の境地に達し、茶の湯の可能性を押し広げて行ける茶人である。 p164
*茶人が最後にたどり着くのは茶杓と花入。この二つは手ずから作れる。自らの考えを具現化することで侘は生まれる。 p382

 「第5章 静謐」は、構成として起・承・転の先、最後の「結」となる。
 天正18年9月23日に聚楽第で天下平定を祝す大寄せが行われた。四畳半茶室での茶事では、秀吉が作意により、利休に試しを仕掛ける。利休も又、黒を嫌う秀吉に無言で黒楽茶碗を使うという行動を取る。「天下人は・・・・苦きものも飲み下さねばなりません」と。さらに、茶葉には宗二が好んで使った「極無」を使って。それは、利休の終わりへの始まりとなる。 
 秀吉は朝鮮出兵、大明国討伐という夢に走り始める。勿論、利休の大義はそれをできるだけ穏便に阻止することにある。石田三成は利休を茶事に招き、利休を取り込もうと画策する挙に出る。天正19年正月22日、豊臣秀長が死ぬ。秀吉の行動を押さえることのできた秀長の死の影響は大きい。それは利休を屈伏させたい秀吉の思いを助長する。26日に利休の大坂屋敷を突然秀吉が訪れる。二畳茶室で、秀吉は「そなたの負けだ。もはや茶の湯に力はない」と言い切る。
 利休が切腹する直前の半年余の状況、利休の最後の心理戦が描かれて行く。
 ストーリーとしての第5章は、第19節、利休が堺に蟄居謹慎の沙汰を受け、罪人扱いの駕籠のまま舟に乗せられ淀川を下るところで終わる。第20節は、上記の通り、エピローグに相当する描写であり、このストーリーが完結する。
 
 第5章に、著者は利休が排除される一因を説明している。要点を記す。
*死を恐れぬ武辺者ほど権力に弱く従順である。茶の湯は武士の魂を鎮める薬になる。だが、茶室において皆同格という意味の「一視同仁」思想は、武士の序を突き崩す毒でもある。 p406
*秀吉と武将の間の関係は武家社会の制度的主従関係であり、御恩と奉公を基本とする。
 一方、利休と弟子である武将との間には人格的主従関係が築かれる。利休を中心に結束し、世の静謐を保つために利休を助けようとする。
 つまり、制度的主従関係にとっては、組織内組織として邪魔な存在に成長しすぎた。 p428
 また、歴史を眺めると、桃山時代には豪華絢爛たる文化が花開いた。様々な道楽の流行・浸透の中で、「政治と密着したことで、茶の湯が桃山文化を代表するものとなり、上は天皇から下は民衆まで、あらゆる人々が熱中するまでになった。」(p461)とも言える。
 新たな千利休像が歴史時代小説としてここに紡ぎだされた。
 千利休の語る言葉として「侘」の意味、本質論に言及されている。また茶人を二種類に分けている。この視点は、一面で現代社会の茶道に投げかけられた一石と読むこともできる。本書の言及を前提にした場合、現在の茶道はどういう位置づけになるのだろうか。
 そういう面から、過去のストーリーに留まらず、現存する茶道に対する考察課題を提起していているとも読め、興味深い。

 ご一読ありがとうございます。
 
本書に関連してネット検索した事項を一覧にしておきたい。
千利休 :ウィキペディア
【 あの人の人生を知ろう ~ 千 利休 】 
千利休という戦国時代のカリスマの正体  こばみほ  :「note」
山上宗二  :ウィキペディア
山上宗二  :「コトバンク」
山上宗二を想う  :「武士道美術館」
千道安   :ウィキペディア
千紹安   :「コトバンク」
古田重然  :ウィキペディア
国宝茶室 待庵  :「豊興山 妙喜善庵」
黄金の茶室  :「MOA美術館」
黄金の茶室と北野の大茶会 :「インターネット公開文化講座」(愛知県共済生活協同組合)
武者小路千家 官休庵 公式ページ
茶の湯 こころと美  表千家ホームページ
裏千家今日庵 ホームページ
茶道 式正織部流(しきせいおりべりゅう) :「市川市」
茶道扶桑織部 扶桑庵  ホームページ
天下の茶人・古田織部が確立した茶の湯「織部流」 :「鳥影社」
遠州流茶道 綺麗さびの世界 遠州茶道宗家公式サイト
古田織部美術館 ホームページ
桃山時代の織部焼美術館 ホームページ
 
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『天下人の茶』  文藝春秋
『国を蹴った男』  講談社 

『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 関ヶ原』 作家7人の競作集  講談社
   伊東 潤 の短編作品「人を致して」が収録されています。

『月人壮士 つきひとおとこ』  澤田瞳子  中央公論新社

2020-06-08 21:06:01 | レビュー
 『小説BOC』創刊号から10号(2016年4月~2018年7月)に連載されたものに加筆修正を加え、2019年6月に単行本化された。著者の小説を読み継ぐ中で、その一冊として本書を手に取った。

 本書の末尾に、興味深い広告文が入っている。2019年に「螺旋プロジェクト」が企画されたという。「『海族』と『山族』の対立が、原始から未来への壮大な絵織物(タペストリー)になる」という意図のもとに、7人の作家が、原始から未来までの時間軸の区分に応じて物語を紡ぎだし、その物語がつながる瞬間があるという。どうつながるのかは知らない。なにせ、そんなプロジェクトとは無関係にこの小説を手にしたのだから。
 本書は、そのプロジェクトで言えば、「螺旋」年表において、「原始」に続く「古代」の時期を担当したことになる。螺旋プロジェクトは、この後「中世・近世」「明治」「昭和前期」「昭和後期」「平成」「近未来」「未来」と時間軸を区分し、物語が続くそうだ。こちらのプロジェクトにも興味が出て来た・・・・。
 本書の最初と最後に、最初は1ページ、最後は2ページ分の「海と山の伝承『螺旋』より」という別物語の一部が刷り込まれている。興味をそそられる部分でもある。

 さて、本書に戻ろう。読み切り短編連作という形式で書かれ、首(おびと)太上天皇(聖武天皇)の崩御に伴い、その遺詔を探して尋ね回るというプロセスから、聖武天皇を浮彫にしようとする小説というのが私の読後印象である。

 本書のタイトルは、最後の短編「藤原仲麻呂」において、仲麻呂が語る「首さまはかつての大王の如く、天日嗣に連なる非の打ちどころのなき統治者ではない。山の形を借りた海、日輪の真似をした哀れなる月人壮士じゃ」(p286)という一文に由来する。
 「月人壮士」という見慣れぬ言葉。調べてみると、「月人」とは、「月を擬人化していう称。月人男」(『大辞林』三省堂)だという。「月人男」は「月人」と同じ。
 この言葉、『万葉集』の歌・2010に詠み込まれている。
  夕星(ゆふづつ)も通ふ天道(あまぢ)をいつまでも仰ぎて待たむ月人壮士
 (宵の明星ももう往き来している天道、この天道を、いつまで振り仰いで彦星が川を
  渡るのを待っていればよいのか。月の舟の若者よ。)
     (『新版 万葉集 二 現代語訳付き』 伊藤博訳注 角川ソフィア文庫)
奈良時代にこの「月人壮士」という言葉は知られ使われていたということだろう。

 この作品は、「序」で始まり、10話の短編を連作として重ねて行き、「終」で完結する。いくつかの特徴がある。まずそれに触れておこう。
*「序」と「終」は、天平勝宝8歳(756年)5月2日、首太上天皇が崩御されたその日を照応する形で描写する。末尾に「それこそが朕の真実の詔だ」というフレーズが出てくる。
*「序」と「終」に挟まれた短編10話は、全て人物名がタイトルになっている。
*各短編は、タイトル名称の人物が独り語りをする独白文スタイルで一貫し綴られていく。その人物は遺詔について質問され、それに対して首さまに対する己の思いを語るという形。その語りを聞く側に読者が己を重ね合わせていくことになる。
*「螺旋」プロジェクトの中で「古代」という時空間を扱うという前提があるからと思うが、明確な象徴的対比構造が組み込まれている。天孫・瓊瓊杵尊の子孫にして、天照大神の末裔たる天皇の血統はこの国家そのものを体現する山の如き存在。一方、藤原氏はその山を囲む海、山をのみこもうとする海の如き存在として位置づけられる。
*首天皇が日嗣の天皇としての己の存在と、藤原宮子を母とし藤原氏の血を受け継ぐ存在であることとの間で、二律背反、相剋に懊悩する姿が明らかになる。

 それでは、簡略なストーリー展開のご紹介をしておこう。

 <序>
 天平勝宝8歳(756年)5月2日、首太上天皇崩御の状況を描く。春先の病臥から枕頭に詰めていたのは円方女王(まどかたのおおきみ)。彼女が崩御を通報する。中務卿仲麻呂が円方女王の傍に行き、末期に遺詔を残されたかと尋ねる。円方はご遺詔は5日前に賜ったではないかと反論する。仲麻呂が去ると、橘奈良麻呂が円方に近づく。首太上天皇の死が政争の始まりとなる。
 余談だが、手許の『続日本紀(中)全現代語訳』(宇治谷孟訳・講談社学術文庫)を読むと、巻第十八、孝謙天皇の天平勝宝8歳5月2日の条には、「この日、太上天皇が内裏の寝殿において崩御された。太上天皇は遺詔して、中務卿・従四位上の道祖王(ふなやどのおおきみ)を皇太子に任命した」と記録するのみである。
 この遺詔が5日前に出されたというのは、この作品のためのフィクションなのか・・・・。

 <その一 橘諸兄>
 橘諸兄は、中臣清麻呂の三男継麻呂と内道場で看病禅師を務める道鏡の二人を呼ぶ。諸兄は二人に聞かすように、己と首天皇との出会いから独り語りを始め、己の栄達の背景と当今の政治情勢にも触れる。そして、継麻呂と道鏡に、首さまの遺詔を探せと命じる。
 二人は然るべき人を訪ねて、遺詔の件を尋ね回らざるを得ぬ羽目になる。
 
 <その二 円方女王>
 継麻呂と道鏡はまず、首さま崩御の瞬間まで傍に仕えていた円方女王を訪ねる。円方は世に流布しているものとは別の遺詔なぞという事には答えられないと拒絶する。そして、宮仕えを始めた直後から首さまに仕えてきた過去を語り始め、首さまがどのような状況におられていたかを具体的に語る。叔母の氷高(元正天皇)より、首さまが古のどの大王にも劣らぬ全き天皇となれと常々言われてきたことに触れる。また、首さまの母・藤原宮子が出産後に精神に異常を来した真因にも触れる。そして、円方が思う首さまの人物像を語る。

 <その三 光明子>
 紫微中台の官人が光明子の命令を受け、円方女王の元に伺候した継麻呂と道鏡の二人を光明子の元に連れて行こうとする。だが継麻呂は官人を見るなり逃げてしまう。そのため道鏡一人が、光明子の面前に引き出される。道鏡から遺詔探しをしていることを聞き出すと、光明子は己が首さまの妃となり次の天皇を産むのだと教えられて育ったことや、後宮の状況と己の立場、藤原氏兄弟の思惑、首さまの行動などを話し始める。円方女王を嫌う理由も。そして、娘の阿倍を皇太子にし、さらに天皇にした背景も。
 光明子は道鏡に己の愚痴をぶちまけたことになる。聖武天皇の後宮の実態が描き出されて興味深い。

 <その四 栄訓>
 栄訓は、内道場禅師、元興寺の尾張和上・賢璟の従僧である。継麻呂が70を過ぎた老僧栄訓に話を聞く。従僧として賢璟の身近に仕え、首太上天皇の仏教に対する帰依の姿を眺めた己の感触を語る。東大寺・毘盧遮那仏の造立後、鑑真が戒師僧として来日した以降の首さまの帰依の状況、さらに亡き皇大夫人宮子に対する七七日の法会に至る経緯がつぶさに語られていく。そして、栄訓が受けとめた首さまの印象、本当の姿を独り言として付言する。
 聖武天皇の仏教帰依とは何か、その姿に一石が投じられていておもしろい。

 <その五 塩焼王>
 橘諸兄が首太上天皇崩御の後に続くが如く没した10日後、道鏡は光明子の紹介で塩焼王の元に伺候する。そして遺詔のことを尋ねる。塩焼王は大海人大王を祖父とし、妻が阿倍女帝の異母妹という立場の皇族である。塩焼王は光明子が亡き宮が何を考えていたかを知りたいのだろうと推測し、道鏡に独り語りをする。
 塩焼王は弟の道祖王との間での子供のころの思いでを語ることから始める。そして、馬酔木の茂みの奥で見つけたもの、素木で拵えられた巻き貝の彫り物について語る。さらに、成人後、首天皇の二度の行幸において道祖王の助けを得つつ担った大役の話とその裏話を語る。塩焼王は首さまの真意を知ったという。
 遺詔の話は直接には出てこないが、それに繋がる聖武天皇の一面がまた一つ見えて来る。

 <その六 中臣継麻呂>
 屋敷に押しかけ、奥まで上がり込んだ道鏡に対し、継麻呂は橘諸兄の没した現在、遺詔探しを金輪際する気はないと激高して語る。彼は、中臣家の存続という立場から、遺詔探し継続の危険性を感じ取る。継麻呂は中臣氏の立場と過去の政争を語る。その一環で少年の頃、母に連れられ長屋王の妻であり病床にある吉備内親王を見舞った時の鮮烈な記憶を語る。それは長屋王の乱につながる話でもあった。
 継麻呂は道鏡に藤原氏は恐ろしいと言う。己の記憶との関連でこう言う。「古くよりこの国をしろしめす皇統が山であれば、それをひたひたと侵す藤原氏は海。いわばあの噂を広めた者たちはみな、知らず知らずのうちにその海の手伝いをしていたわけだ」(p188)と。
 継麻呂は最後に言う。最近長屋王が亡くなった直前の気配を感じるのだと。
 
 <その七 道鏡>
 継麻呂の話を聴いた道鏡が、宮城で宿直をしていて気づいた、阿倍女帝と藤原中務卿との様子についての妙な気配のことを独り語りする。そして、天平17年5月の初めに内道場に出仕した頃のことから回想していく。良弁の勧めで玄昉の従僧として道鏡が内道場に出仕した。その当時、玄昉は首さまの母・宮子の寵愛を得て仕えていた。玄昉の指示で、経典を首天皇に届ける役目を道鏡が担った時、道鏡は首さまに語りかけられる機会を持つ。その時、道鏡は首さまの言葉から誰にも明かせぬ孤独を感じ取った。
 ここでもまた、聖武天皇の一面が描かれている。

 <その八 佐伯今毛人(さえきのいまえみし)>
 佐伯今毛人は造東大寺司長官である。衛門府の武官が東大寺に乗り込んでくる。首さまの遺詔が東大寺に安置されているという風聞が阿倍女帝の耳に入り、遺詔探しに遣わされたというのだ。今毛人は藤原中司卿が遺詔の有無を後宮じゅうで探す一方、橘諸兄の指示を受けた者たちも遺詔探しをしていることを風の噂で聞き知っていた。
 今毛人は遺詔の安置をキッパリと否定する。そして、衛門府の衛士を相手に、己が20歳そこそこの頃から東大寺の造営に携わり15年になることと、若い頃の回想を独り語りする。
 紫香楽の宮においても、東大寺においても、大仏造営の作事場で毎夜付け火や妨げの行為が働かれた背景を語る。今毛人が造寺司に赴任したばかりの頃不寝番を行い、不審者として猟師を捕まえた。その猟師は少女だった。その少女との話し合いから、今毛人は山の民のことを知る。先祖代々、ほうぼうの山を渡り狩を行う猟師にとり、この地に突然都が定められ、寺が造営されることは、不条理以外の何物でもない。猟師は野山で猟をすることにより、里の民、農業をする人々との共存関係にあるということ。猟をすることで、田畑が荒らされることを防ぐ役割にもなっていることを知る。今毛人は春日山での猟を暗黙に認め、金光明寺(=東大寺)の寺地での猟を禁ずると言い、少女を放つ。
 首天皇が橘諸兄を連れて、紫香楽宮への行幸の途次に、今光明寺の建築状況を見たさに思わぬ時刻に立ち寄られた時の顛末を語る。その時に一度だけ首天皇を垣間見た印象を付け加える。ここでもまた、聖武天皇の一面が語られる。

 <その九 再び、光明子>
 道鏡と継麻呂が光明子の元に伺候する。それは橘奈良麻呂の乱が制圧され、道祖王が東宮を追い出された翌日である。この政争の内情を光明子の視点から独り語りする。光明子は首さまが道祖王を皇太子に定めた真意を推測し、一方おのが娘の阿倍女帝が天皇には相応しくないと見切る考えを述べていく。さらに首さまのたった一人の息子である安積皇子が早逝した状況を回想する。そこには恭仁京から難波京への遷都という首天皇の行為が遠因となった事情があった。光明子はそこに、阿倍が帝位を憎む原因があると言う。そして、塩焼王の見つけた貝型の彫り物が登場してくる。
 歴史書が記録しない陰の部分が描き出されていく。歴史小説としてのおもしろさがここにある。

 <その十 藤原仲麻呂>
 光明子の推挽という形で継麻呂と道鏡は、阿倍女帝への目通りを願い出る。だが、仲麻呂が応対する形になり、仲麻呂の独り語りとなる。仲麻呂は二人が橘諸兄の命で遺詔を探していたことを知っていたし、己の配下も遺詔を探していたと明言した上で、今では遺詔が最初からなかったと判断すると語る。さらにそう考える理由を語る。
 17歳の秋に5歳だった阿倍に仕える舎人として宮城に出仕した時のことから回想を始め、首さまが女王ばかりに執着する姿に気づいたという。そして、長屋王の変を語り、その時に池の端で目撃した首さまの姿について語る。その時の首さまの内奥を二人に語ったのである。娘の阿倍について首さまが語った呻吟も語る。最後に、仲麻呂は首さまについての己の見方を語る。

 <終>
 序に照応する形で、5月2日に戻る。そして、崩御間際の首太上天皇をクローズアップする。

 この小説、短編それぞれが独り語りとして独立し完結している。その一方で、リレー形式のように、独り語りが次の人物に引き継がれていく。実質9人の人物が、首さまと称された聖武天皇とはどのような人だったのかを様々な視点から見つめ語っていく。
 大いなる矛盾の極みとしてのその存在を描き上げていく。そこが読ませどころと言える。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書に登場する人物に関連してネット検索してみた。一覧にしておいたい。
橘諸兄  :ウィキペディア
橘諸兄とは?わかりやすく紹介!【玄昉・吉備真備の活躍と藤原仲麻呂との対立】
     :「まなれきドットコム」
大中臣継麻呂 :ウィキペディア
道鏡  :ウィキペディア
道鏡  :「コトバンク」
円方女王 :ウィキペディア
円方女王 :「千人万首」
光明皇后  :ウィキペディア
光明皇后  :「コトバンク」
二章 聖武天皇と光明皇后  :「明治維新等の記録」
孝謙天皇  :ウィキペディア
孝謙天皇  :「ジャパンナレッジ」
賢憬    :ウィキペディア
塩焼王   :ウィキペディア
塩焼王   :「コトバンク」
長屋王   :ウィキペディア
吉備内親王 :ウィキペディア
道祖王   :ウィキペディア
橘奈良麻呂の変  :「コトバンク」
藤原仲麻呂 :「コトバンク」
藤原仲麻呂 :ウィキペディア
聖武天皇 :ウィキペディア
聖武天皇 :「コトバンク」

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『秋萩の散る』  徳間書店
『関越えの夜 東海道浮世がたり』  徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『夢も定かに』  中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店

『秋萩の散る』  澤田瞳子  徳間書店

2020-06-06 11:30:47 | レビュー
 「問題小説」(2011年7月号)、「読楽}(2013年9月号、2016年5月号)、「小説新潮}(2014年7月号)に短編4作が発表され、これに本書の題名と同じタイトルの短編が書き下ろされて、計5作の短編集が2016年10月に単行本として出版された。2019年10月に文庫化されている。

 奈良時代の歴史事象から題材を得、史実の空隙を著者の創作で紡ぎだされた短編歴史小説と言える。
 「凱風の島」と「南海の桃李」は753年(天平勝宝5)の遣唐使の帰国の状況並びに南海の航路に関係した題材をテーマに取り上げる。「夏芒の庭」は大学寮の学生たちの視点から眺めた757年(天平宝宇元)の橘奈良麻呂の乱を中心に当時の宮廷政治の状況が語られる。「梅一枝」は惠美押勝(=藤原仲麻呂)の乱が制圧された2年後という時期に久世王と称し、亡き首帝(=聖武天皇)の子と自称する人物が現れたことに端を発した顛末記である。「秋萩の散る」は770年(宝亀元)8月、称徳天皇が没し、失脚した道鏡が下津国薬師寺別当という形で配流される。下野で暮らす道鏡が己の心境を語る。
 歴史年表に記された一行の文字列としての史実が、当時の政治状況、社会経済状況のもとで、どのような意味を持っていたのか。血の通ったビビッドでリアルな状況としてその一行の意味に一歩踏み込んでいくのに役立つ短編集である。奈良時代の歴史的事象を歴史年表知識として記憶する次元ではなく、奈良時代の時空に入り込み、その時代の目線で仮想現実感覚を味わえる。短編集である故に比較的気軽に各作品を楽しめる。読者は753年から770年頃という時代の一面を身近に感じることができるだろう。

 それでは各作品をもう少しご紹介してみよう。

 <凱風の島>
 手許の『続日本紀 全現代語訳(中)』(宇治谷孟訳、講談社学術文庫)巻第十八を調べてみた。孝謙天皇の天平勝宝3年11月7日条に、吉備朝臣真備を遣唐使の副使に任命と記録され、翌4年3月3日に遣唐使らが天皇に拝謁、閏3月9日には、遣唐使の副使以上が内裏に招集され、節刀を与えられた。大使の藤原朝臣清河、副使の大伴宿禰古麻呂はこの時昇進したことが記録されている。吉備真備も副使だから招集の対象だったであろうが、昇進しなかったので記載がないのだろう。一方、「留学生で無位の藤原朝臣刷雄(よしお)に従五位下を授けた」と記されている。そして、この年の夏に、遣唐使船4隻は難波津を発った。この出立の記録はない。
 この短編は天平勝宝5年(753)の遣唐使船の帰国状況を描き出す。11月末日に、一行は阿児奈波(沖縄)に到着。ここで藤原清河の大使としての懊悩が起きる。副使の大伴古麻呂は己の乗る第二船に密かに鑑真一行を乗せてきた。また、第二船には阿倍仲麻呂も乗船していた。清河は第一船であり、これに藤原刷雄が乗船していた。清河は大使として密出国の形になる鑑真を奈良に連れて行けないと言い出す。日本と中国の外交関係の視点からの立場だ。一方、戒律師・鑑真の招聘は首太上天皇(=聖武天皇)の宿願である。清河は二律背反の板挟みで懊悩する。古麻呂は太上天皇の意を重視し、己の責任で清河の反対を押し切って、鑑真一行を連れて帰国すると主張する。藤原刷雄は己の一存で仲麻呂を第一船に乗船させた。そして己は従者とともに古麻呂の第二船に移る。鑑真一行の僧にトラブルが発生し、清河の第一船の出港より、古麻呂の第二船の出港が遅れることになる。
 阿児奈波(沖縄)からの帰国のための出港前の状況がリアルに描き出されていく。清河の心境描写が読ませどころと言える。阿倍仲麻呂が垣間見えるのも興味深い。
 だが、それが帰国の明暗を分ける結果に。第一船は遭難。第二・三・四船は無事帰国した。
 遣唐使派遣がどれほどリスクが大きいものだったかが理解できる。
 「凱風」は「初夏に吹くおだやかな南風」(『新明解国語辞典』三省堂)を意味する。アイロニカルなタイトルになっている。

 <南海の桃李>
 753年に吉備真備は遣唐使の副使として帰路に阿児奈波の港に着いた。20年前に真備は遣唐使一行に留学生として随行し渡唐し、南海の航路で帰国した。その時の経験を踏まえて、吉備は南島(南西諸島)に嶋牌(しまふだ)を設置するという航海上の提言をしていた。径(たて)伍尺、緯(よこ)弐尺の石を用いた石牌を各島に設置し、それにその島の情報(名称、水場の位置、湊の場所、大隅・薩摩までの距離など)を刻んでおくという工夫である。土木技術系留学生の高橋連牛飼が真備の考えを実行に移す役割を引き受けた。
 だが、阿児奈波の港についた真備は、石牌を見つけることができなかった。さらに、真備の乗る第三船が阿児奈波の港を出て、次に渡った度感の小島にも嶋牌は存在しなかった。ところが牛飼は嵐に遭遇し死ぬ直前に400の建牌を終えた奉文を送っていた。その土地の者は、十数年前に一人の男が木の牌を建てて去ったこととそれが折れて波にさらわれたと言う。
 真備の乗る第三船は漂流の末、紀伊国牟婁崎に着く。藤原仲麻呂の居る都に留まれば命すら危ないと感じる真備は再度の建牌を理由に太宰府の実務長官たる大弐に任じられる。真備は牛飼が石牌を建てなかった理由の解明に立ち向かう。それは牛飼への信と疑の二律背反心理に苦しむプロセスだった。そして、遂に真因に気づく。
 建牌という対策案を雄大な構想の中で語り合う若き真備と牛飼のかつての場面、石牌が存在しない理由を考え苦しむ真備の姿と真因に気づくに至るプロセスという現在の場面が読ませどころである。
 真備による建牌の奏上は、真備の死没から約200年後に施行された法令集「延喜式」に条文が載せられているという。
 上掲の『続日本紀』を調べると、天平勝宝5年(754)の正月17日の条に、前年12月7日に真備の船が屋久島に来着し、その後漂流して紀伊国牟婁崎に着いた旨が太宰府からの上奏という形で記録されている。
 
 <夏芒の庭>
 話の舞台は当時の国立官吏養成校である大学寮。落ちこぼれで16歳の佐伯上信と日向国から入寮した秀才の桑原雄依が主人公。さらに吉田乙継(明経科在籍)と答本古志緒(典薬寮から出向中の医生)が加わる。乙継と古志緒は二人とも15歳。この二人は頻繁に喧嘩をしている。共に渡来民族の家系であり、医学を生業にしていて、微妙な緊張関係にあることが背景の因となっている。古志緒は3年後の遣唐使派遣に医学留学生として加わることが決定している。乙継は三人兄弟の末子なので医学を諦め大学寮に入った気弱な少年。二人の喧嘩を介して、藤原仲麻呂と光明子、阿倍帝(孝謙天皇)の周辺状況が語られる。乙継の叔父、兄人が仲麻呂一家へお追従の往診をするという。一方、古志緒の兄、答本忠節は先帝の没後侍医職を退き、一介の医師になったという。また、喧嘩を介して怪我をさせられた乙継と古志緒の仲は親密になる。上信と雄依もまた、乙継の世話をしつつ、都の政治や日向国の地方政治の状況を語り合う。
 そんな最中に、橘奈良麻呂の目論んだ政変が起こり、藤原仲麻呂に鎮圧されてしまう。そして、小野東人と答本忠節もまた謀反の咎で捕らえられたと伝わってくる。
 大学寮の学生の視点から橘奈良麻呂の乱の状況が描かれて行く。それは乙継と古志緒にも大きく影響していく。その結末が哀しい。
 藤原仲麻呂の存在が間接的描写により、逆にクローズアップされてくるところがおもしろい。

 『続日本紀』を読むと、天平宝宇元年(757)秋7月2日の条の末尾に、「小野東人・答本忠節らを追い求め、皆を逮捕させ、左衛士府に禁錮した」と記されている。

 <梅一枝>
 宮城で「文人之首(文人の筆頭)」の名をほしいままにしている石上朝臣宅嗣は、阿倍天皇(孝謙天皇)が造営途中の西大寺に明日3月3日に行幸され、そこで曲水の宴を催されることを前提に詩賦の準備を終えた。そんな矢先に門人の賀陽豊年が思わぬ事を告げに来る。宅嗣の従姉、石上朝臣志斐弖の息子が訪ねて来たというのである。
 宅嗣は久世王と名のる男と対面する。彼は実母と養母である海上女王からある高官の庶子だと聞かされて育ったという。ある高官とは亡き首帝という。ならば阿倍女帝の異母弟となる。そんな人物の存在が認められるはずがない。宅嗣は驚天動地の心境になる。石上氏一族の存続を脅かされかねない疫病神の如きものととらえてしまう。
 宅嗣と久世王が対面して話していた内容を、床下で盗み聞きしていた者が居た。宅嗣はガタッという物音を聞いたのだ。そこから状況が急転回していく。
 これは完全なフィクションなのか・・・・・。『続日本紀』を読むと、久勢王という人が記録されていて、久世王とも記されている。孝謙天皇(=阿倍女帝)の天平宝宇元年(757)5月20日の条には従五位下の久勢王に正五位下を授けられている。さらに、称徳天皇(=阿倍女帝)の天平神護元年(765)正月7日の条には、正五位下の久世王に正五位上を、同様に正五位上の石上朝臣宅嗣に従四位下が授けられたという記録がある。
 『続日本紀』に登場する久勢王=久世王はこの短編の久世王とは偶然の一致なのか・・・・・。そこが歴史小説という想像力を羽ばたかせる領域の面白さなのかもしれない。
 「梅一枝」というタイトルは、久世王が梅の枝を自分の屋敷に持ち帰るというエンディングからとられている。

 <秋萩の散る>
 年表を見ると、淳仁天皇(758-764)の時代、764年9月、惠美押勝(藤原仲麻呂)の乱が起こる。同月道鏡は大臣禅師となる。翌10月、淳仁は廃帝され淡路島に配流され、孝謙上皇(=阿倍女帝)が重祚する(称徳天皇)。しかし、称徳天皇は770年8月に没した。阿倍女帝が高野山に葬られた4日後、道鏡は突如下野国薬師寺別当に任ぜられる。道鏡は下野国に配流された。
 それとともに、道鏡は帝位を簒奪せんとした妖僧、破戒僧という噂が速やかに流布されていく。道鏡は覚悟をしてはいた。阿倍女帝のすべての罪咎を道鏡一人に負わせるための噂の礫を投げつけたのだと。それを女帝に対する最後の務めと受けとめようと。
 七十の坂を越えている道鏡は、馴れぬ下野国での生活と、覚悟していたとはいえ、世に流布された風評のおぞましさに苦しめられる。己の胸に巣食う憤懣、憎しみと対峙していく姿が道鏡の独白として綴られていく。
 呪詛をした故に京を追われ下野国薬師寺に配流となっている悪僧・行信との関わりが、道鏡にとって己の内奥の憎しみ、荒ぶる思いと真に対峙する契機となる。行信の企みに気づく事によって・・・・・。
 
 手許の『続日本紀』巻三十の称徳天皇、宝亀元年(770)8月21日条を読むと、皇太子が次の令旨を下したとして、以下の文が記録されている。全現代語訳の文を引用する。
 「聞くところによれば、道鏡法師は密かに皇位を窺う心を抱いて、久しく日を経ていたという。しかし、山稜の土がまだ乾かぬうちに、悪賢い隠謀は発覚した。これはひとえに天神地祇が守られ、土地と五穀の神がお助けくださったからである。しかし、いま先聖の厚い恩を顧みると、法によって刑罰を加えるのは忍びない。そこで、道鏡を造下野国薬師寺別当に任じ、派遣することにする。この事情を了解せよ」と。

 一般に流布されている怪僧、悪僧という道鏡像とは全く異なる道鏡像がこの短編で描き出されている。改めて、道鏡とはどのような人物だったのか・・・・に関心を持つ契機になるだろう。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項を一部検索してみた。一覧にしておきたい。
孝謙天皇  :ウィキペディア
孝謙天皇  :「ジャパンナレッジ」
藤原仲麻呂 :「コトバンク」
吉備真備  :ウィキペディア
吉備真備ゆかりの地 :「倉敷観光WEB」
橘奈良麻呂の変  :「コトバンク」
橘宿禰奈良麻呂 :「波流能由伎 大伴家持の世界」
石川宅嗣  :ウィキペディア
久勢王   :ウィキペディア
海上女王  :ウィキペディア
道鏡  :ウィキペディア
道鏡  :「コトバンク」
影絵物語「称徳天皇と弓削道鏡物語」01 :YouTube  八尾市公式チャンネル
影絵物語「称徳天皇と弓削道鏡物語」02 :YouTube  八尾市公式チャンネル
影絵物語「称徳天皇と弓削道鏡物語」03 :YouTube  八尾市公式チャンネル
影絵物語「称徳天皇と弓削道鏡物語」04 :YouTube  八尾市公式チャンネル
淳仁天皇  :ウィキペディア
淳仁天皇  :「コトバンク」
藤原仲麻呂の乱  :ウィキペディア

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『関越えの夜 東海道浮世がたり』  徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『夢も定かに』  中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店


『関越えの夜 東海道浮世がたり』  澤田瞳子  徳間文庫

2020-06-04 10:59:18 | レビュー
 2014年2月に単行本が徳間書店から刊行され、2017年11月に文庫化されている。
 12話の短編連作集で、第4話のタイトルが本書の題名になっている。「東海道浮世がたり」という副題が付いている通り、東海道を行き交う人々の喜怒哀楽、さまざまな場面が鮮やかに切り取られていく。人々の抱く懊悩、愛憎、悲哀、義理人情・・・・。浮世の情念を炙り出す短編時代小説集である。
 この短編連作、第1話は呉服問屋の手代忠助が東海道藤沢の宿を出立する書き出しから川崎宿手前の茶店までが設定場面となっている。そこから順に西へと東海道を進んで行き、第12話は京都での物語となる。東海道の上りでこの短編集が終わる。興味深いのは、これら12話の連作の多くでは、短編の中になにがしか姿を見せている人物が、その次の短編では主な登場人物として別のストーリー展開になる。一種の人物リレー形式でストーリーが転換していく側面が取り入れられていておもしろい。5W1H的に簡単に各話をご紹介していこう。

 <第1話 忠助の銭>
 浅草猿若町の呉服問屋・糺屋の実直な手代忠助が、駿河・蒲原宿に花嫁衣裳等の代金40両を集金に行く。帰路の道中でその金を紛失! 箱根の関を越え、小田原宿に着いた時点で胴巻きの金が消えていることに気づいた。意気消沈の忠助が藤沢の宿を立つところから始まる。重い足取りで、どの面をさげて店に帰るか、懊悩しながら東に旅を続ける忠助の心理が描写されていく。疾駆してきた暴れ馬から思わず子供を助ける一方で、首を括って死のうかと考える。そんな忠助が川崎宿手前の茶店で、華やかな町着姿の娘と佐七と呼ばれた男の奇妙な二人連れを目にする。その娘から茶店に置いて行く巾着を受け取り生きよと告げられたと感じる。一方、忠助だけがその二人連れを死に場所を求めて立ち去る姿と直感したのだった。
 懊悩する忠助の心理の変転と、死を思う人同士の感応を鮮やかに描いている。

 <第2話 通夜の支度>
 益子屋の末娘・お駒と手代・佐七が神田佐久間町の店を出奔し、保土ヶ谷宿近くで心中した。番頭の喜兵衛とお駒付きの女中・お栄が二人の行方を追っていく。お栄はいずれ佐七と所帯を持つつもりだったのだが・・・・。お栄が、己と佐七の関係、佐七の心理、お駒の置かれていた状況と心理、さらにお駒と佐七の出奔の経緯を振り返っていく。
 当時の心中がどのように扱われていたか、また事を荒立てない処理の実態という側面を含めて描いていく。通夜を保土ヶ谷宿近くの寺でなんとか執り行える形で事が収まる。
 最後に、お駒の髪の毛の束を形見にともらうお栄の愛憎両面の心理が哀しい。

 <第3話 やらずの雪>
 近江生まれの旅人が、宿場外れの高栄寺を参拝し、雪が降り出したことで、寺に一泊していくことを勧められる。住持と相弟子の尊聖が小田原の本寺に出かけて居て、寺には慶尊と称する僧が一人居るだけ。慶尊が旅人に対して、年齢は上だが出家としては弟分になる尊聖について、及びつい先頃までこの寺にいた小坊主良尊について、旅人に対して一人語りしていくという話である。出家前は武士だった尊聖の家庭内事情-不義と刃傷沙汰、お家断絶ーが明らかになる。さらに、良尊がこの寺にて刃傷沙汰を起こす顛末を語る。
 人の思いのすれ違いと嫌がらせを行う輩が引き起こす事態---それらが常に浮世の問題を引き起こす。よくある話が女の恨み心を中核にして展開していく。

 <第4話 関越えの夜>
 畑宿の一膳飯屋を営むお千という叔母に引き取られ、10歳となるおさきが小田原藩家中、来島主税に話しかけられたことから始まる物語。第3話で尊聖の弟・友太夫が刃傷沙汰を引き起こし出奔していた。騒動の相手は来島孫兵衛の嫌がらせである。長男の来島主税は友太夫を探し仇討ちの旅に出ざるを得なくなる。西へ関所を越えることに逡巡しつつ人探しの形で小田原領内に留まっている。おさきは叔母にこきつかわれ、また急峻な坂を登る旅人の荷を運ばせてもらい日銭を稼いでいる。主税はそんなおさきに声をかけた。おさきが妹と重なって見えたのだ。おさきに案内を頼みつつ、あちらこちらで人探しの真似事をして日々を過ごす。その主税が関抜けをしそうな男女一組に気づく。主税はおさきに箱根の関所への通報を頼み、自分は二人連れを追跡する。だが、その働きが主税にとっては関所越の夜になる。おさきの思い、主税の思い、さらには関所番頭の余計な配慮が絡まり合いつつ描き出されていく。
 
 <第5話 死神の松>
 関役人に捕まったお紋を置き去りにし、自分だけが関抜けをやり遂げた与五郎。これから先の道中をどうすればよいのかと不安を覚える。その与五郎が、なぜこんな羽目になったのかと、来し方を回想しつつ、いつの間にか浅間神社を通りすぎて、千本松原に踏み込んでいく。千本松に首くくりがぶらさがっている幻影をみる。そして、遂に一線を越えてしまう。急激な状況・環境の変化がもたらす不安感が自己存在感に及ぼす様を描き出していく。悪で強がる男もまた弱い者・・・・というところか。

 <第6話 恵比寿のくれた嫁御寮>
 一本松にぶら下がっての首くくりが原因となり、上天気の日にも関わらず網元の茂八は出漁中止を言い渡す。沼津の山猫女郎に入れあげつづけていた一人息子の孝吉が、最近は心根を入れ替えた様に真面目に働いていた。孝吉は体良く女郎の手玉にとられていただけだった。茂八にとっては一安心だ。庭の隅に祀る恵比寿社に御神酒を上げ、明日からの猟の祈願を茂八はする。普段しないことを・・・・・・。
 人気のない浜辺を若い娘が一人小走りに走ってくるのを目にした茂八は、浜辺に降りて行きその娘に声をかける。娘は二人連れの男が後を付けてきたので逃げてきたという。それが切っ掛けで、孝吉に沼津までその娘を送らせることに。孝吉はなぜかひと目見てその娘に惹かれていく。身を固めさせたい茂八は、その娘が茂八の顔見知りが主である鳴子屋で働いていることを知る。お連というその娘の評判も良い。茂八は恵比寿さまのお導きと縁談話を進めて行く。
 嫁御寮を迎える当日、思わぬ陥穽があったことに愕然となる。
 最後の最後に、突然事実が見えるという落とし所がおもしろい。

 <第7話 「なるみ屋」の客>
 府中七間町の路地奥にある居酒屋「なるみ屋」が舞台。旅装束で上方訛りのある零落した浪人の中年夫婦が薄暗がりの一隅に、そして常連客の大工が飲んでいる。そこに、どこかで相当飲んできたきたみすぼらしい男が入って来る。しばらく後に、勝手口からお奈津坊と皆に呼ばれる10歳ばかりの女の子が父を迎えに来た。店の常連客は目を逸らす。みすぼらしい男はお奈津の父。二人が店を出て行くと、大工が語り始める。お奈津の父は酒屋の奈良屋という大店の主人だったこと。3年前に火事で焼けて潰れたこと。そして、火事で死んだ娘のおとせとお奈津の生い立ち・・・・。大工は己の抱く慚愧の念を語る。浪人は震えを帯びた声で尋ねる「あのお奈津は、いま、幸せなのだろうか」と。
 願い通りに事が進まぬ浮世の有為転変の側面を切り取ったストーリーとそこに存在する人間関係。幸せとは何か。その問いかけも含まれている。

 <第8話 池田村川留噺>
 街道諸国語りを生業とする男・仲蔵の辻語りという形の語りである。川の東・池田の宿で天竜川の川留めに遭遇した体験談が語られる。仲蔵は川留めとはどういう仕組みでどういう状況か。川留めに遭遇してしまった旅人たちの嘆き、焦り、心配、気晴らしなどその有り様をおもしろおかしく語る。宿泊客の大工・利七と鳥屋の娘・お熊とのラブ・ロマンスも織り込まれる。そして鳥屋という宿の泊まり客全員が、留太という護摩の灰の手口に引っかかりそうになった話を最後の大詰めの話、落とし所とする。
 川留の状況とそれに遭遇した旅人の苦労がイメージしやすくなる短編である。

 <第9話 痛むか。与茂吉>
 品川の海産物問屋・桝屋の嫁お浜35歳と主人嘉兵衛の仲は良くない。二人の間には子がない。お浜は浅草の同業・木津屋から嫁いできた。そのお浜がおたきをつれて大坂船場、回船問屋に嫁いだ実姉を訪ねる旅に出ている。その旅に桝屋の奉公人・与茂吉が嘉兵衛の指示で二人に随行している。お浜たちは天竜川の川留の時に鳥屋に泊まっていた。
 今は岡崎の城下を過ぎ、矢作川を渡り、宮宿に宿を取った。この日、与茂吉は持病の差し込みに悩まされていた。与茂吉は嘉兵衛から、道中でお浜に不義を働けと命じられていた。それが嘉兵衛に対する忠義になると。宮宿は混雑していて主従3人が同部屋となる。
 これまでの道中でその機会のなかった与茂吉は、恐る恐るだが決心してお浜に不義を働きかける。その顛末や如何?
 おもしろい設定である。奉公人が忠義を尽くすとはどういうことか、それがテーマになっている。江戸時代の家、大店の存続の意味を問う短編。

 <第10話 竹柱の先>
 近江国大津で寺子屋を開いていた北国浪人芦生泰蔵は眼を病んだため、江戸の蘭学医の治療を受けるべく、息子の彦四郎と江戸を目指す旅に出た。泰蔵にはもう一つ目的があった。それは妻の松乃が遠縁を頼り、奉公の20両の支度金を夫に渡し、江戸に奉公に出ていたのだ。妻の松乃からの便りが途絶えたために、江戸に出て松乃を探したいという。
 伊勢国・石薬師宿にほど近い、鈴鹿川沿いの脇街道で芦生父子は悲鳴を聞く。雲助二人が武家の娘と老爺に狼藉を働いていた。彦四郎が助けに入る。娘は江戸小石川の旗本の娘で蕗緒と名乗った。伊勢の宮宿で高熱を出し寝ついてしまったという。回復した後、御台所の代理として京に向かっている御中﨟一行に追いつこうとしていると打ち明ける。
 芦生父子は、後戻りになるが蕗緒と老爺を関宿まで送っていくことにする。その途次、蕗緒は芦生父子に打ち解けて、旦那さまと呼び尊敬する御中﨟のことを話し始める。その話から、芦生父子は思わぬ推測を心に抱き動揺する。
 関宿に着くと、竹柱の先に宿札が掲げてあった。蕗緒は旦那さま一行に追いつくことができたと大喜び。泰蔵は宿札の名を読めと彦四郎に言うが・・・・・。
 蕗緒が無邪気に尊敬する旦那さまの事を語る内容から、芦生父子が各々で同じ結論に至る推測をし、己の内心に葛藤を生み出していくというプロセスとその結果が読ませどころとなる。蕗緒の話から芦生父子の思いは全く別次元にシフトして行く。
 アンビバレンスな心理描写が読ませどころとなっている。

 <第11話 二寸の傷>
 草津宿から一里も離れた目川村の観音堂の庵主が、次の庵主に引き継ぎをする一環として、己の過去を一人語りする形である。語り手は観音堂を去り、還俗することになった。俗名妙に戻り、嫁ぐことになる。
 妙は16歳のとき、慶雲寺の和尚の導きで出家した。元は加納藩士の娘だった。
 3歳年上の姉田津が勘定吟味方、外村五郎兵衛の嫡男、右京に嫁いだ日の祝言の席に、道場で右京に無礼を受けた長尾頼母が抜き身を引っさげて闖入してきた。乱闘の中で刀が飛び、列席していた妙の顔に二寸の傷を付けたのだった。
 たった二寸・・・・その傷が妙の人生を変えた。妙は出家し、加納藩の地から17里も離れたこの地で庵主となった。それ以来、丸八年。観音堂に道中着に手甲脚絆姿の姉が不意に来訪し、京に向かわねばなりませぬと言う。田津は妙直々に外村家へ出向き、義弟の信次郎どのに書状を渡して欲しいと頼む。覚悟を決めた妙は書状を届けることを約束した。姉は京へ立って行った。
 書状を届けることが、再び妙の人生を変える契機になっていく。
 武家社会の中で育った二人の女の思いと覚悟、その人生の転変を鮮烈に描き出している。

<第12話 床の椿>
 お初の母は彼女を産み落とした直後、産後の肥立ちが悪く亡くなった。父・清兵衛は安芸屋の主で、洛中屈指の大店の炭屋だが、再婚せずにお初を育てた。お初が16歳を超えると清兵衛は婿取りの算段を始めたが、眼鏡にかなう相手がなかった。お初が19の春、父清兵衛がちょっとした風邪がもとであっけなく亡くなった。そのとき、お初は父に太吉という隠し子が居ることを知る。そのことを大番頭の市右衛でさえ知らなかった。お初はその事実を受け入れがたく、断固として己が店を継ぐ。賢明に店の切り盛りをし努力を重ね、2年が経った。
 店は繁盛している。ある日、ちょっとした事件が起こる。お初が情けをかけた。だがそれが徒となる結果に。
 一方その日、人足の忠助がお初に問う。「旦那さまはなにか、心にかかることでもおありでございますか」と。そして、忠助は己の体験から感得したことをお初に語る。
 お初は新たな決心をし、早速実行に移していく。この心境の変化プロセスの描写が読ませどころとなる。忠助の語った言葉が心に染み渡る。

 著者は二転三転する人の思いの描写が巧みである。それと、観点を変えると一転する物の見え方の描写になるほど・・・・・と引きこまれる。

 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『夢も定かに』  中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店