遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『光圀伝』 冲方 丁  角川書店

2013-06-23 11:34:00 | レビュー
 書名が示す通り、水戸徳川家、頼房の三男として生まれ世継ぎとなった光圀の伝記小説である。世に水戸黄門として知られる人物だが、映画やテレビでシリーズものになった黄門様は実像とはほど遠い創作のようである。小説仕立てとは言いながら、私は本書で水戸徳川光圀がどういう人物だったのか、やっと知った次第である。史実に基づきながら、作者の想像力が奔放に羽ばたいた作品ではないかとは思う。751ページという長編だが、一気に最後まで飽きさせずに読ませてしまう。読み応えがある。

 まず本書の構成が面白い。2つの軸が並行して進みながら絡み合っていく。一つの軸は「明窓浄机」という見出しで、水戸の西山に隠居した光圀が己の思念を独白していく形式で語り継がれていく。もう一つの軸は、「天の章」「地の章」「人の章」という見出しの連なりでストーリーが展開する。7歳になった光圀(字は子龍)が父の指示で、父・頼房が手討ちにした能役者・永野九十郎(脱藩した元家臣)の首を、馬場から引きずりながら父の許へ持ち帰るというシーンから「天の章」が始まる。そして、地、人の章に引き継がれて、光圀が西山へ隠居するに至るまでを人生の時間軸で描き出して行く。この2軸は、本文では違うフォントで書き綴られていく。光圀の生き様の変転、行動の展開が、己の為したことを回想し再検証するという時間軸を逆行する語りと絡まりあっていくのである。

 さらにこの2軸は、起点として観点の違うテーマを基盤に話が進行する。それらが必然的に接点を見出し、結合していくのだ。
 「明窓浄机」の最初に、光圀がその生涯で隠居するまでに48人の命を殺めたとある。そして西山に隠居して後、さらに1人、49人目の男を光圀の信義により、自ら粛粛と殺めざるを得なかったという。「書は”如在”である。・・・・もういない者たち、存在しないものごとを、あたかもそこにあるかのごとく扱い、綴ることをいう」と作者は光圀に語らせる。「大義なり。紋太夫」と優しく囁きかけて、膝下に捕らえた家老たる男を特異なやり方で刺殺するのだ。このとき光圀67歳だった。なぜ、この49人目の男を殺めたのか。そのなぜを自ら再確認、検証していくという展開になる。なぜ、自らがその将来を嘱望し、家老にまで取り立てた男を殺めたのかの謎解きである。そこに、読者を引きこむ大きな動因がある。そして、この特異な刺殺法を光國は、若い頃、宮本武蔵から膝下に押さえつけられて、体験しているのだ。この体験に至る経緯は、「天の章」で語られる。光國と武蔵が交差した機会があったとは・・・初めて知った。
 一方、「天の章」は、「なぜ、己が世子なのか」という疑問・自問に対して、その答えを見出したいという思いがベースにあって、光圀の生き様が展開する。幼少で疱瘡を患い病弱であったというものの、光國には母を同じくする実の兄が健在でいるのだ。その兄を差し置いて、第三子の光國が世子にされた。そこから光國の懊悩が始まるのである。9歳のとき、子龍は江戸城中において元服し、三代将軍家光の「光」の一字をいただき、「光國」という諱を得る。その「光國」が「光圀」と改名するに至る転機にも大きな意味があることを本書で知った。
 この2つのなぜ? というテーマがこの伝記小説に一種、推理小説風の趣きを持たせる。それを読者に意識させながら、ストーリーが展開し、両者が結合していくところに、本書を読む面白さがある。

 光國の生き様について、時間軸でのエピソードあるいは光國を特徴づけている行動事象を抽出してみよう。その具体的な描写と展開の面白さ、興味深さは、本書で楽しんでいただくとよい。それらが統合され、渾然一体となり、光圀となるのだ。

*12歳の時、死病である疱瘡に罹る。実兄も幼少時に疱瘡を患っている。兄との関わりがそのことで一層深まる。
*疱瘡から快癒してしばらくしたころ、”寛永の大飢饉”前夜という時期である。父に従い浅草川(隅田川)の”内三ツまた”と呼ばれる岸辺に行く。餓死者・病死者の死体が絶え間なく流れる川を「我が子ならば泳げる」と父の断言で泳ぐ。父・頼房も泳ぐ。
*17歳の時から自由な外出を許される。血気の日々の中に突っ込んで行く。”奇の字の付く暴れ馬”、傾奇者(かぶきもの)の行動に走る。「江戸という都市が、光國を沸騰させた」(p79)のだ。谷”助左衛門”左馬之助と称して遊蕩の世界にも入り込む。
*悪仲間にはめられて、無宿人を試し斬りする羽目になる。だが、それが晩年の宮本武蔵との偶然の出会いにもなる。それが沢庵宗彭と面識を持ち、殺めた町人の供養という名のもとに、光國が鍛えられるきっかけになっていく。また、それは山鹿素行との交わりができる契機でもある。浪人山鹿素行は光國の生涯の知友の一人になっていく。
*徳川幕府も三代、泰平の世に入っている。もはや戦場で天下を取る時代ではない。内心の気概がそこにあっても、現実の世は異なる。光國は<詩で天下を取る>ということを内心の目標にし始める。試し斬りの場から逃げたとき、紛失した習作の手帖に、武蔵から朱筆で添削されたというから、面白い。
*日本が泰平の世を迎えた頃、中国大陸の明国は勃興してきた清に脅かされ危機に瀕する。明が日本に義援を求めてきたという。光國の血が騒ぐ。叔父・尾張徳川義直との繋がりが父の命を介してできはじめる。本心は義援し戦をしたいと思う義直なのだが、「戦など起こりはせん」と言下に断言する。義直は自ら史書編纂事業を起こしていた。光國にこの事業に加われと薦める。光國はこれを固辞する。しかし、光國が後年史書編纂事業に自ら乗り出した淵源がここにあったのだ。光國に参画を呼びかけた義直は事業を成就できずに没してしまう。このころ、武蔵が光國にネズミを飼ってみろと助言する。実際に試す場を設けてやるのは、試し斬りの一件を打ち明けられた実兄である。このネズミの飼育観察がこの兄弟に大きなインパクトを与える。この頃、実兄は水戸徳川家を出て、松平”讃岐守”頼重と名乗り、讃岐高松12万石の藩主になっている。
*あるとき、光國は居酒屋で頭巾坊主を論破する。これがきっかけで幾人もの坊主がこの居酒屋で光國に論争を挑む。9人目の時に、坊主頭の先客が光國に挑むはずの坊主を既に論破していた。そこでこの僧服を着た隻眼の優男と光國が論争することになる。この優男、実は儒者だった。後ほど、徳川義直を介して、光國は林羅山の講義聴講に同席することになる。そして、この優男が林家の四男、林守勝、号は読耕斎だと知る。この読耕斎との関係が、生涯深まっていくことになる。
 光國が隠居した西山は、読耕斎が薦めた名称である。西山とは伯叔が隠れたという首陽山の異名なのだ。光國と読耕斎は「義」について伯仲の論議をする間柄となっていく。
*林羅山の講義聴講がきっかけで、光國の詩が羅山の添削を受けることになる。また、読耕斎との会話から光國は己の詩を藤原惺窩の子息、細野為景に贈ることになる。そこから光國の名が京の高貴に伝わっていく。細野為景は、いったん血が絶えた下冷泉家を再興する人である。為景との親交が深まっていく。それは詩で天下を取る夢を抱いた光國の足がかりになるのだが、逆にそこから詩の道の遙けさを実感していくことにもなる。
 「詩が全てだった」(p268)と光國が感じ、為景に詩を送り返歌を得たのは、19歳のときである。20歳になる節目から、光國は毎年元旦詩を書く習慣になったのだとか。
 光國25歳のとき、朝廷使節団の一員として江戸に下向した冷泉為景と生涯に一度となる対面をしたそうだ。そこで、為景から後水尾院が詩作したという文字鎖、”蜘蛛手の歌”を伝えられる。光國はその詩作力に驚嘆し、畏敬の念を覚える。そこに詩のきわみを見るのだ。「亡き徳川家康が、時代の激変において政治的な神になろうとしているこのとき、後水尾上皇は、文化文芸の神として生き、朝廷の精神的支柱になろうとしていたのである」(p288)と作者は記す。
*光國は、叔父徳川義直から己の出生の秘密を明かされる。それは、父・頼房の生き様を表すものでもあった。この語りの箇所が興味深い。これが作者の想像力のはばたきなのか。確実な史実であるのか。おもしろいところである。[地の章(一)]
 義直は光國に「わしが知るのは、これだけだ」と語り、ふた月後に世を去る。
 そして、義直の死が光國を史書編纂の意義に導いていく。
*光國は、玉井助之進という下級武士の娘・弥智との間に初めての子を成す。だが、その子を水にせよと傅役の伊藤玄蕃に命ずる。そう命じる光國には、内奥に秘めた義への謀があったのだ。しかし、玄蕃の裁量で、弥智とその身籠もった子の問題は、実兄・松平頼重に託すことになる。これが将来、思わぬ形に展開していく。この辺りは光國の「義」への懊悩と絡み合いながら、読者を引きこみ、読み応えのあるところとなっていく。
*光國は、近衛家から江戸に下向してきた17歳の泰姫と、承応3年(1654)4月14日に婚儀をとり行い、妻に迎え入れることになる。この年、光國27歳である。光國は最初に己の不義について泰姫に語るのだ。おもしろい展開である。泰姫という人の不思議さが鮮やかに描かれている。光國は、泰姫から「私はただ、正直でありたいだけなのです」(p394)という信念の有り様を学んでいく。泰姫が病を得て亡くなるのが万治元年(1658)12月、21歳だった。泰姫との間に子は成さなかった。
 この泰姫の付き人として水戸家に入ってきた左近という女性。光國の生涯において、己の本心を語れる身近な唯一の存在となっていく。光國にとっては、光國の思い、懊悩の吐露に対して、精神的な受け皿になった女性として描かれている。ここは作者の創作なのだろうか。それとも・・・・興味深いところである。
*光國が史書編纂事業に乗り出すのは、江戸の大火の後、火から逃れて移り住んだ駒込の水戸藩邸に書楼「火事小屋御殿」を完成させてからのようだ。明暦3年(1657)8月である。読耕斎が光國に”史局”と喩えた事業の始まりが、やがて拡大されていく。史書編纂活動の梃子入れのために、朱舜水が長崎から招請されてくる。この朱舜水は史書編纂に留まらず、領国経営において、光國に様々な助言を与える恩師という存在になっていく。史書編纂の組織が脱皮し成長していく基となる。だが、この事業、あくまで光國が創始し、史書編纂の一段階としての成果をまとめる。光圀の感慨は深い。そしてその後営々と歴代藩主に引き継がれていく事業となったのだ。それが水戸学の核となっていくのだろう。結果的に、光國の播いた種が、尊皇攘夷の一原動力になり、天皇親政をもたらすことに繋がって行ったのだ。光國が生きていたとすると、この事実をどう評価したことだろう。本書読後にはそんな事に思いが馳せる。
*光國が頼房の遺領水戸藩28万石を継ぐ旨の将軍台命を拝受するのが寛文元年(1661)8月19日である。水戸藩二代目となる。最初にしたことが、弟たちに一部領地を割って分与し、御三家として面目を保てるぎりぎりの石高、25万石を下回る程度にしたことだったようだ。
*36歳の夏、光國は、念願の水戸入りを果たす。しかし、それは己の意図や予想と現実のギャップを体験する場でもあった。ここから光國が己の信条、思念に合う領国経営を実質的に始める契機となる。だが、それはある意味で苦難を伴う長い道のりとなる。水戸藩の特産品として、西ノ内紙などと呼ばれ、全国に売られる製品に結実するのは、二十年余を経た元禄元年(1688)として描かれていく。
*第5代将軍綱吉は、世に有名な生類憐憫令を発する。これに対して、光國の取った行動がエピソードとして描かれている。実に面白い。
*水戸藩を第3代藩主として綱條に引継ぎ、既に光圀と改名していた時点で水戸の封地に戻る。それは、隠逸の志と大義成就の祝意を心に抱いての帰還だった。しかし、光圀は単に隠居した訳ではないようだ。西山に隠居してから、水戸に彰考館を造っている。
*だが、最後に光圀が己の義からなし遂げねばならぬと決断したのが、自ら家老に引き立て、第三代藩主綱條の強力な補佐役になることを願っていた藤井紋太夫徳昭を殺めることだった。徳川幕府も第5代将軍の下で、その官僚が主体に経世を行う泰平の世である。その認識を前提とした、義の信念との相克だった。

 光圀の不義、義が何であったか。光圀流に「義」を如何に貫いたのか。2つの軸が最後に結びつく。この「義」については、本書のストーリー展開を読みながら、楽しみかつ味わっていただきたい。

「明窓浄机」の章から、少し長くなるが、2ヵ所引用させていただこう。
 一つは、(九)からである。
 藩主としての宣言は、余にとって不自由さの受領であった。胸中にいかなる展望があろうとも、実現するのは藩主自身ではない。命を受け、事業を託された者たちなのである。藩主とは、託す者である。事業が成されたとき、褒め称えられるべきは託された側であって、余のような、託した者ではないのである。託した者は、託された者の働きを賞賛せねばならず、我が着想のありしを黙して、ただ事業の成就を喜びとすべきなのである。そうした託すことの重さこそ、宣言の重さであろう。・・・・史書は、宣言の軽薄を教えるのではない。宣言ののちに到来する、人の世の重みを、いかにして背負うかを教えるのである。
 もう一つは、巻末となる(終)の文だ。
 史書は人に何を与えてくれるか。
 その問いに対する答えは、いつの世も変わらず、同じである。
 突き詰めれば、史書が人に与えるものは、ただ一つしかない。それは、歴史の後にはいったい何が来るか、と問うてみれば、おのずとわかることだ。
 人の生である。
 連綿と続く、我々一人一人の、人生である。

 「なぜ、世子がおれなのだ」という問いを突き詰めていき、不義から義に至った光圀の生き様。傾奇者が傾奇者に沈没せず、庶民の人の世を学び、己の治世に活かし、一方、詩で天下を取ることを夢見て、研鑽・切瑳琢磨し、詩の道の遙けさを実感できる力量を持っていた光圀の生き様。実に読み応えがある。

ご一読ありがとうございます。

人気ブログランキングへ

本書に出てくる語句に関連してネット検索したものを一覧にしておきたい。

義公年譜(黄門様の一生がわかる):「常磐神社 水戸黄門ホームページ」
徳川光圀の治世 :「水戸市」
黄門さま :「常陸太田市」
大日本史の完成とその歴史的意義  但野正弘氏

瑞龍山 
水戸徳川家墓所とは :「徳川ミュージアム」
水戸徳川家墓所 :国指定文化財等データベース
朱舜水 :ウィキペディア
水戸黄門と朱舜水 :「歴史放談」
東アジアの視野から見た朱舜水研究 徐 興慶氏

後水尾上皇 → 後水尾天皇 :ウィキペディア
後水尾天皇が詠んだ[蜘蛛手]という和歌 :「レファレンス協同データベース」
蜘蛛手 :「twipic」はる★のん
冷泉家 :ウィキペディア
冷泉為景 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
林羅山 :ウィキペディア
山鹿素行 :ウィキペディア
沢庵宗彭 :ウィキペディア


   インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。


人気ブログランキングへ



(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)



『命もいらず名もいらず』(上/幕末篇、下/明治篇) 山本兼一  NHK出版

2013-06-06 11:00:55 | レビュー
 本書は、山岡鉄舟の伝記小説である。本書末尾に「本作品は、史実をもとにしたフィクションです」と明記されている。客観的な史実だけを記した本を読んだことがないので、どの辺りから著者の想像力が羽ばたき、読者の想念をかき立ててくれているのかは判然としない。しかし、山岡鉄太郎高歩(たかゆき)、号を鉄舟という人物の生き様を垣間見させてくれる書として得難い本の一つだと思う。

 幕末から明治初期を本気で駆け抜けた傑物だ。本気で行動した人、「生きるとは、ただひたすら、目の前のことを、全身全霊の力をふりしぼってなし遂げることだ。」(上・p307)を実行した人として描かれている。6尺2寸(約188cm)という巨漢だった人。20歳頃は、体重28貫(105kg)だったとか。

 江戸生まれだが、少年時代を郡代として赴任した父親の任地・飛騨高山の陣屋で過ごしたという。父・小野朝右衛門高福(たかよし)は徳川将軍家の旗本。家禄600石。飛騨国11万石を支配する重職だった。鉄太郎は高福の後添えの長男であり、父と先妻との間での次男である兄・鶴次がいる。
 11歳の時「いつも本気で、思いこんだらひたすらまっすぐ突き進む少年」のエピソードが冒頭に出てくる。習った字をすべて清書せよと父に言われて、たった一刻(約2時間)で63枚の美濃紙に千字文をすべて清書したとか。
 15歳で元服したのだが、その時に鉄太郎がおのれの身をどうやって修めればよいかを考え、修身二十則を書き並べたという。この話が第2章鬼鉄ででてくるが、15歳でこんなことを考えていたということに、恐れ入る。だが、この鉄則がその後の鉄太郎の生き方をやはり象徴しているようである。逆に言えば、元服の時に考えたことを、本気で実行して行った人である。

 鉄太郎という人間を形成して行く行動上の軸となる柱が3つある。
 第1は少年時代四書五経の素読と共に始めたという習字、書を書くという行為である。高山では入木道(じゅぼくどう)という弘法大師流の岩佐一亭という書の師匠につく。そして「熱心に書をならい、のこらず相伝をさずかって入木道52世を許されるまでに」なるのだ。飛騨高山時代においてである。

 第2は、9歳のとき本所大川端にあった真影流の稽古場への入門から始めた剣術である。そして16歳の頃から、父が江戸から招聘した北辰一刀流免許皆伝の井上清虎を師とするようになる。この井上清虎との出会いが剣の道で、鉄太郎のその後を方向づけたのだと思う。撃剣の道をまっしぐらに突き進むことになるのだ。井上清虎は鉄太郎にとって、人生の師の一人にもなる。著者は井上清虎にこう語らせている。
 「人は、器量に応じたしごとしか為せない。器量に応じた人生しか送ることができない。器量を広げたいと願うなら、目の前のことをとことん命がけでやることだ。人間の真摯さとはそういうことだ」(上・p46)
 「人のまわりには、そもそも垣根なぞあるものか。垣根をつくるのは自分。こわすのも自分だ。自分でがんじがらめにめぐらせた垣根は、自分でこわさねばならぬ」(上・p54)
 山岡靜山の刃心流槍術に入門し、槍の稽古も始める。講武所(後述)では、数稽古1日200面、7日間で1,400面達成という偉業の実施。
 井上清虎からもはや教えることはないと言われた鉄太郎は、師に教えられた一刀流浅利又七郎義明の門を叩く。試合の場に臨み、剣を使う人間の器の違いに気づかされ、入門する。浅利又七郎が鉄太郎にとって後半人生、剣の道での超克すべき対象、生涯の師となる。浅利又七郎は鉄太郎に語る。「死にたくない、打たれたくないなどという心は、捨て去るがよい。世の中、さように都合よくはいかぬ。われは死ぬ。しかし、ただ無駄に死にはせぬ。相手を殺してわれも死ぬ。その覚悟をそだてよ」(上・p356)と。
 そして、鉄太郎は、講武所でかまえを見ただけで敵の動きがわかる境地にどうすれば達せられるか尋ねられ、「朝から日暮れまで、倦むことなく道場で汗をながしなさい。二十年つづければ、おのれの力も、敵のちからも、すべて見抜けるだろう」(下・p10)と答えるようになる。
 鉄太郎が、鉄舟の号を使い始めるのは、浅利に入門して2年、浅利から借りた一刀流の兵法書を筆写し終えたときだという。鉄太郎31歳の冬である。

 第3は、参禅、坐禅である。
 撃剣にこだわり、強くなりたいと望む鉄太郎が、一方で、「放下せよ。執着するな」という禅家の王道の道を歩む。武州芝村長徳寺の願翁和尚、三島龍澤寺の星定和尚につき参禅する。日々の坐禅の日課に勤しみ、公案の梯子を登って行く。鉄太郎にとって、星定和尚との出会いは得難いものになる。まさに人生の師である。星定和尚から「よし」と言われ、允可を授かったも同じになるが、それでも尚、鉄舟は参禅する老師を求めたようだ。そして、滴水和尚に参禅する。大悟して滴水和尚から允可を受ける。鎌倉円覚寺住持の今北洪川にも参禅する。この洪川は鉄舟の出家希望に反対する。そこで鉄舟は最晩年に出家の代わりに禅寺を建立し、全生庵と名付ける。この全生庵についても、おもしろいエピソードが本書で語られている。そして、越中国泰寺の越叟禅師を住持に招く。
 この3つの柱が、鉄太郎の生涯を通して、日常生活の中に修養、日課として組み込まれていく。
 
 鉄太郎の人生ステージという観点で眺めると、飛騨郡代として最後に盛大な陣立てを催した父は、任地の飛騨高山で病没する。異母兄の鶴次が小野家の跡目相続を継ぐことになる。父が鉄太郎に言い残した言葉が、「おまえの信じる道を歩め。おまえは、人と違う・・・・。おまえ自身のためになることをしろ。それが、天下の役にたつ。おまえは、そういう男だ」(上・p30)そして、3,500両。だがこれは鉄太郎と5人の弟たちの今後の生活資金として。だが、そのうち500両を兄・鶴次に渡す羽目になる。
 父の没後小野一家は江戸に戻る。ここから鉄太郎の人生が変転していく。

 まず、江戸では兄の屋敷に部屋住みの居候として、一部屋に弟たちと一緒に生活する立場になる。兄からすれば、鉄太郎以下の弟は厄介ものにしかすぎない。鉄太郎の人生における忍従の修練のはじまりだ。そこで「自分のためになって、人のためになること」として、手習いの教授を始める。
 井上清虎が高山から江戸に帰ってきて以降に、千葉周作の道場玄武館に入門し、再び剣術を学び始める。ここでの鍛練での様々な修業エピソードが鉄太郎の人生折々の行動の軌跡として書き込まれていく。この箇所を読み継いでいくだけでも、鉄太郎という人物像の一局面が彷彿とする。おもしろいところだ。
 入門時点で、井上清虎の引き合わせで流祖・千葉周作に面談でき、その初対面の場で、どうすれば人の気を見抜けるか、質問してのける。入門そうそうで、清河八郎との練習試合、同年齢の先輩門弟20人ばかりから連続での「祝いの稽古」という試練を経験する。

 19歳のとき、異母兄の小日向の屋敷を出て、井上清虎の世話で小石川同心町の小さな屋敷で一家を立てる。弟たちを引き連れて、独立するのだ。飛騨高山時代からの下男・三郎兵衛が鉄太郎についていく。この転居が、鉄太郎の人生を変える。近くの屋敷で槍術鍛練に励む山岡紀一郎との出会いである。号は靜山。刃心流の槍術である。鉄太郎は早速、入門する。鉄太郎は剣術と槍術の稽古を並行して始めていくことになる。山岡家の隣が高橋兼三郎、号・泥舟宅だった。鉄太郎は泥舟とここで出会う。生涯の関わりが出来ていく。泥舟兼三郎は靜山の弟で、跡継ぎのいなかった母の実家の養子となっていたのだ。
 靜山の死後、鉄太郎は山岡家に英子(ふさこ)の婿として入り、小野鉄太郎から山岡鉄太郎となる。祝言の媒酌人は剣の師・井上清虎、鉄太郎20歳の冬。
 英子は婚礼の日、初めて花婿を見たらしい。「今日のお嬢さんが、こんな人をご覧なされましたならば、さだめて異様な感が湧き出でて、こころよく夫婦にはなりますまい」と明治になって、語ったという。

 嘉永6年(1853)6月に黒船4隻の来航。安政3年(1856)に筑地鉄砲洲に講武所が出来る。山岡鉄太郎は、井上清虎が剣術教授方に就任、その推挙により、21歳で剣術世話心得になる。ここで、様々な剣術流派との練習試合を経験し、一層腕を磨いていく。
 この頃は、講武所や玄武館の稽古を終えて帰宅すると、食事後、まず何百枚かの書を書き、その後で坐禅をかならず丑の刻(午前2時)まで組む。就寝後、朝は夜明けとともに起きる。そういう生活だったようだ。なんと凄まじいことか。
 さらに、剣術に夢中になると新婚の妻のことは念頭に無い。百俵五人扶持(年49石の蔵米支給)なのだが、鉄太郎は金や衣食にこだわらない。困っている者がいれば、家に少しでも銭があると惜しまず与える。つきあいが広がり、大勢の客が家に出入りするようになり、酒・晩飯のふるまい・・・・・。売れそうなものは全て売り、夏冬通して、夫婦ともに一枚の着物しかない状態。焚きつけにするものがなくなると、畳を燃やし、建物の板なども引き剥がしていく。母屋は居間にぼろ畳が三枚あるだけの状態までになったとか。この生活自体もなんと凄まじい。そういう生活に対応していった英子夫人も破格の人だったような気がする。とてつもない夫婦が存在したのだ。旗本でありならがの極度の貧乏生活。だが、そこで平然としている二人なのだ。
 
 安政5年(1858)、尊皇攘夷の熱が急激に高まって行く中で、徐々に鉄太郎の行動の人の本質が出てくる。著者はそのうねりを克明に描いていく。日々の生活は、剣術修練、坐禅を繰り返しながら、宇宙、国家、幕府と帝、己、などの様々な関係を観念し解明せんとする。
 23歳 己の考えを図にまとめ、井上清虎に見せる。
 清河八郎との関わりから、尊皇攘夷党づくりに関わって行く。談合の後の吉原へのくりだしが、鉄太郎に本気で色の道の修行にはげむ契機にもなったという。
 安政7年(1860)年3月、大老井伊直弼が暗殺される。尊皇攘夷発起という点で、清河八郎に同意できても、八郎の考えと合わない側面にも気づき出す。つまり、鉄太郎は、尊皇攘夷も徳川家を前提にして常にまず考えていく。攘夷については、独自の行動を取る立場になっていく。できること、できないこと、やってはならないことなど、己を基軸に峻別していく。このあたり、独自の価値観で行動を貫いて行った経緯がよくわかる。
 攘夷について、軽挙妄動はしない。尊皇ではあるが、徳川家には誠実に忠義を尽くすという立場である。その結果、様々な人びととの関わりが広がって行く。

 本書の第1章・第2章は鉄太郎の自己形成のための行動期を描くことに重点があるが、第3章あたりから、鉄太郎の行動が多彩になっていく。つまり、「己のためになることが、国のためになる」という行動、つまり国に関わる-具体的には尊皇攘夷及び徳川家-行動に関わって行く。それはある意味で、鉄太郎の本気の行動を第三者が眺めて、彼を巻き込んでいく過程でもある。ほとんど表に現れないが、それを支えているのが妻・英子でもあったと読み取ることもできる。鉄太郎の背後にはすごい女性がいたのだ。
 第3章あたりから、国のため、徳川家のため、天皇のため、一般庶民の苦難をできるかぎり防ぐために、本気で行動し、東奔西走する鉄太郎の姿が、ダイナミックに描き出されていく。本書の読みどころである。その中で、上記3つの行動の柱は常に坦々と基軸にあるのだ。

 トピック的に鉄太郎の行動の軌跡を列挙してみよう。その行動が具体的にどう展開されていくかは、本書で楽しみ、味わっていただくとよい。そこに本書を読む醍醐味がある。
 14代将軍家茂の京都への上洛前に、攘夷を志す浪士組(新徴組)を率いて京都へ先行。だが、20日ばかりの滞在で、残留を決めた浪士を除き残りの浪士と江戸に立ち戻る。
 慶長4年正月、京都での戦争の勃発。陸軍所に詰め、江戸城警備にあたる。将軍慶喜の恭順謹慎を軸に鉄舟の己の行動と判断基準が動き出す。慶喜の身辺警護を任される。
 箱根を超えて江戸に迫る東征軍(官軍)の動きの中で、勝海舟の意を受けて、駿府の大総督府に居る西郷隆盛に単独交渉に行く。江戸総攻撃中止と慶喜への処分回避である。この過程で、清水次長と西郷隆盛に関わりが生まれる。西郷から7ヶ条の交渉条件が出てくる。
 江戸城開城が進む中で、彰義隊による上野戦争。鉄舟は無駄な戦の回避に奔走する。 徳川宗家の駿府への移動という大総督府の命に対し、徳川家家臣その他の大移動の手配とその取り扱いの中心となって行動する。それは仮寓先の確保、仕事の開発に繋がっていく。己の家族は妻任せで、人びとの生活基盤確保・新天地開拓への本気の行動である。
 勝海舟に開拓費用捻出の交渉することがきっかけで、新政府の宮内省出仕を要請される。明治天皇の侍従になり、身辺警護と天皇の人間形成に関わりを持てという。それは西郷の意見でもあるという。一旦は固辞するが、出仕することになる。このことが、鉄舟の人生後半の生き様をさらに大きく変えて行く。鉄舟38歳。おもしろい展開である。
 新政府での鉄太郎の職務の変遷を抜き出せば、次のように順次管掌範囲が拡大し、昇進していくのだ。侍従となり身辺警護、侍従番長、宮内少丞、庶務課長、宮内大丞、行幸中の宮内卿代理、出納課長兼務、宮内大書記官、内庭課長兼務、靜寛院宮華頂宮家政取締、御巡行御用掛、宮内少輔などである。
 皇城炎上の際に鉄舟の取った行動もすさまじい。そして、征韓論を契機に帰郷した西郷と対面するために鹿児島に行くことにもなる。西郷とのやりとりはまさに阿吽といえよう。世俗の思惑を離れた境地である。
 銀座四丁目の木村屋が創意工夫したあんパンを鉄舟が明治天皇に食べさせたという行動も興味深い。鉄舟はそこに和魂洋才を見、感得してもらいたいと感じたのだろう。
 そして、明治15年(1882)5月、47歳のとき、当初の10年という約束だったと、辞表を書いたという。
 それに対する宮内省の対応が、勅命による勲三等の勲章授与らしい。だが、それを返上した上で、翌日参内し、賞罰が公平たるべきことを天皇に進言しているようだ。
 その五年後、鉄舟の死ぬ1年前、子爵に列せられることになる。
 その時の鉄舟は、こんな狂歌を詠むる
   食うて寝て働きもせぬご褒美に 蚊族となりてまたも血を吸う
 名もいらないという鉄舟の信条躍如である。鉄舟の辞表は受け入れられず、再出仕し、二等官に昇進、御用掛を命じられることになる。

 鉄舟は、7月19日午前9時15分、絶命する。葬儀の22日は篠突く大雨だったという。鉄舟の生き様の一端を象徴するようだ。

 最後に、印象深い文をいくつか列挙しておきたい。

著者の記した鉄舟像の一端:
「いのちが、そこにあって息をしている。それを、大きな両の手のひらで、そっとやさしく包むのが、鉄太郎の生きる姿勢である。その命を助けることに、どういう理があるのかなどとは考えない。考えるよりも、先に体が動いている。」 p279

「鉄舟という人は、世間とのかかわりがどうあれ、ひたすらおのれを磨き高めることに熱心だった。そのことにおいてだけでも、特筆に値する人物であるだろう。」 下・p320
そして印象深い文:

*よいか。人というのは、骸骨にすぎぬ。まずは、そのことをわきまえよ。
 一休やら、白隠やら、むかしの偉い坊さんたちが言うておる。どんな美人も骸骨にすぎんとな。人はみな骸骨。敵がわれよりも強く見えるとすれば、それはおまえの心がそう見ているだけだ。ただ骸骨に皮をかぶせ、心をいれたものだと思え。その心を槍で突き通すつもりで戦うのだ。敵の動きにかまわず突進し、槍をしごいて敵の胸板を突き通すのだ。  上・p143 (山岡静山の言として)

*運命の扉は、その人間が求めたとおりに開く--。
 こころを研ぎ澄まし、強く求めていればこそ、またとない出会いにもめぐまれるのだ。
 なにも求めていない人間には、すばらしい出会いなど望むべくもない。  上・p126

*昔の人は、自分の芸を、始終自分の本心に問うて修業したものだ。しかし、いくら修業しても、落語家なら、その舌を無くせぬかぎり、本心は満足しない。俳優なら、その身を無くせぬかぎり、本心は満足できない。  下・p330 (三遊亭円朝との逸話)

*撃剣は、人格と人格のぶつかり合いだ。   下・p340

*いずれの道も、究めようと思ったら同じなんでございましょう。わたしは、大損をしてからというもの、まず、自分の気持ちがすっきりしているときに、しっかりと方針を思い定めておいて、あとは、そのときの小さな値の動きなんかに拘わらず、ずんずんと商売を進めました。そうするようになってから、わたしも一端の商人になれた気がします。  下・p343  (平沼専蔵氏の言として、会話文に)



ご一読ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

本書に関連する語句をいくつかネット検索してみた。一覧にしておきたい。

山岡鉄舟 :ウィキペディア
全生庵 山岡鉄舟ゆかりの寺 ホームページ
山岡鉄舟 年譜

『鉄舟言行録』 安部正人編 :「国立国会図書館デジタル化資料」

千葉周作 :ウィキペディア
千葉周作の墓 :「法華宗本妙寺」 
  山手線「巣鴨駅」下車 徒歩10分

山岡静山 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
高橋泥舟 :ウィキペディア
高橋泥舟墓 :「ぶらり重兵衛の歴史探訪2」

山岡鉄舟  「山岡鉄舟」についての研究会 ホームページ

  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。


 以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

『いっしん虎徹』 文藝春秋
『雷神の筒』  集英社
『おれは清麿』 祥伝社
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社
『まりしてん千代姫』 PHP
『信長死すべし』 角川書店
『銀の島』   朝日新聞出版
『役小角絵巻 神変』  中央公論社
『弾正の鷹』   祥伝社