遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『変幻』 今野 敏  講談社

2017-11-30 10:21:59 | レビュー
 警視庁捜査一課殺人犯捜査第5係に所属する宇田川亮太巡査部長と宇田川がいつも組んで捜査をする20歳近く年上の植松義彦警部補がこのストーリーの中心となる。そこに宇田川が初任科で同期だった大石陽子が事件に絡んでくる。さらにもう一人、同期の蘇我が絡んでくることになる。この二人は、宇田川からみると特殊な立場にいる。宇田川が警察官としての力量においていささか劣等感を感じる存在でもある。
 大石陽子は、刑事部捜査一課特殊捜査係に異動した。SITとして知られるようになった部署である。植松は大石が特殊班の訓練で注目されているらしいという情報をつかんでいた。一方の蘇我は公安に所属していたのだが懲戒免職となった。だが、それは形式上の擬装であり、公安の特命を受けて戦友捜査に関わる事案を手掛けているのだろうと、宇田川は理解している。宇田川にすれば、有能な同期が特殊な領域で活躍していることに忸怩たる思いすら抱きつつ、一方同期の絆で結ばれている。
 ストーリーは、その大石から宇田川にしばらく会えないから飲みに行こうという連絡が入るという所から始まって行く。二人でのデートかと宇田川が想像したのだが、金曜日の夜、赤坂のスペイン料理レストランの席には土岐達朗も来ていて、植松も呼ばれていたのだ。そのレストランは蘇我がひいきにしている店でもあった。大石は出向することになったと彼らに告げる。特殊任務につくことを暗に示した。土岐はお嬢に何かあれば、宇田川が助けに行くのだ、そして土岐と植田も助けに行くと語る。激励の言葉に留まらないで、それに近い状況が発生していくことになる。
 
 翌週、月曜日の夕刻、遺体発見の無線が流れる。殺しの現場は港区港南5丁目。刃物で刺されてまだ息があるうちに運河に投げ込まれたと検視官は言う。第一発見者は艀の作業員だった。5丁目だけは臨海署の管轄であり、臨海署に捜査本部が置かれる。著者の作品群では、臨海署シリーズがある。そこに出てくる強行犯第二係の相楽が、所轄署の刑事として今回この殺人事件の捜査を担当する形で関わってくるから、ある意味で楽しい展開を最初から期待する側面もある。あの相楽の事件解決に向けた競争心の強さと捜査方法がどうストーリー展開に影響を与えて行くか、という楽しみである。
 捜査本部は田端課長が実質的に仕切り、30人態勢でスタートしていく。

 現場近くの食品加工工場の警備員が午前5時頃に大きな水音を聞いたこととその直後に警備員の目の前を通り過ぎた車を目撃したという情報が入手される。Nシステムのチェックと聞き込み捜査から、犯行に関わったと思われる車が特定されていく。
 車の所有者名と住所が判明する。所有者は堂島満。堂島は『麻布台商事』という会社の役員で、ここは薬品を主に扱う中小の専門商社であり、倒産の危機があったが海外資本の注入で何とか生き延びた会社だと分かる。宇田川が組んだ臨海署の荒川刑事の意見で麻布署に行き、尋ねたところ、この麻布台商事が伊知原組のフロント企業だということがわかる。一方、堂島の部屋をガサ入れした結果は、犯行につながる物証は何も出てこなかった。
 捜査の進展とともに、被害者の身元が判明する。堂島は伊知原組の兵藤孝に車を貸したという事実を認める。そして、車を取りに来たのが女性だったと言う。
 Nシステムの分析と様々な情報の組み合わせから、遺体発見現場の近くの倉庫が刺された現場の可能性として浮上してくる。その倉庫の外の近くに港南町会が設置した防犯カメラがあった。そこには、上書きされる形でハードディスクに一定時間蓄積される映像があるという。入手されたその映像を見た宇田川は驚く。そこには宇田川だからこそ一瞬で気づいた大石と思われる女の姿が写っていたのだ。
 そんな矢先に蘇我が宇田川に赤坂の例のスペインレストランで会いたいと連絡してくる。蘇我は宇田川に「大石の救済措置が機能しないらしい」と告げるのだった。

 この小説のタイトル「変幻」というフレーズはストーリーのなかでは言葉としては出て来なかったと思う。手許の辞書を引くと「現れたり消えたり、変化の速いこと」とある。「変幻自在」という言葉の使い方もある。このストーリーの展開で状況がまさに変幻していくというところからネーミングされたのだろうと思う。いくつか変幻の状態を挙げておこう。

1. 殺人事件は目撃証言からスムーズに自動車の割り出しやフロント企業、暴力団絡みということが分かるが、犯人像が現れたり消えたりする展開となる。早くも別の関連殺人事件が発生していた。捜査の筋読みが外れ、混迷する。

2. 殺人事件の捜査が始まったことから、麻布台商事にはそれ以前から別の事案の対象となり、潜入捜査にまで進展している状況があったことが明るみに出る。別の部署が深く先行捜査をしていたのだ。捜査活動における力関係の局面が発生する。殺人事件の捜査を推進すると、先行していた別事案が頓挫しかねない可能性がでてくる。さてどうするか。

3. 大石が潜入捜査として麻布台商事に関与していたことが防犯カメラの映像と蘇我の言葉から明らかになった。SITという特殊班の大石がなぜ、外見上は懲戒免職となった蘇我と絡んでいるのか。変幻自在に現れる蘇我は別事案に対してどういう役回りを果たしているのか。

4. 殺人に使われたと思われる車の発見から判明した倉庫、そして入手できた防犯カメラの映像には、大石が記録されていた。大石は潜入捜査の中で、殺人事件に結果的に巻き込まれ関与していたのか? 大石は殺人犯を目撃し、知っているのか?

5. 宇田川が殺人犯の筋読みについて発想の転換を行う。それが現れたり消えたりした犯人を特定できることに繋がって行く。さらに、同期の絆が大石の思考や行動の仕方の筋読みを的確にできることになる。宇田川の本領が発揮されていく。
  金曜日の夜に宇田川たちの前に現れた大石が、殺人事件捜査の進展過程では一切表にでてこない。その足跡がぷっつりと消える。それが心配の種にも成る。だが、宇田川は大石の能力を信頼してもいる。宇田川の読み筋と呼応する形で、最後の最後に大石が犯人と共に登場するという展開が面白い。

6. このストーリーでは、殺人事件の遺体発見場所の関係で、臨海署の所轄となり、相楽班が捜査に加わる。相楽刑事自体は要所要所に現れるだけで、相楽班に属する荒川刑事が宇田川とペアになり捜査行動を共にする。相楽班所属の日野が植松と組む形になり、日野がいわば相楽流の捜査観を持つ刑事として前面に出る。一方の荒川は相楽とは一線を画した捜査観も兼ね備えたベテランである。このストーリーで、相楽流の捜査の影が現れたり消えたりしてくる絡ませ方もまた面白い。
 
 このストーリー展開で、蘇我の飄々たる行動描写が楽しめる。そして、宇田川、やるねえ!という展開が興味深いところである。私は荒川刑事の有り様を楽しみながら読み進めた。独自の捜査観と捜査能力や人脈を持ちつつ、脇役刑事に徹する形で力量をさり気なく発揮していく姿に好感を抱く。著者はこういう刑事の登場のさせ方がうまいと思う。

 ご一読ありがとうございます。

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このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『アンカー』  集英社
『継続捜査ゼミ』  講談社
『サーベル警視庁』  角川春樹事務所
『去就 隠蔽捜査6』  新潮社
『マル暴総監』 実業之日本社
『臥龍 横浜みなとみらい署暴対係』 徳間書店
『真贋』 双葉社
『防諜捜査』  文藝春秋
『海に消えた神々』  双葉文庫
『潮流 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『鬼龍』  中公文庫

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新5版 (2015年末現在 62冊)


『仏像鑑賞入門』 島田裕巳  新潮新書

2017-11-27 15:23:15 | レビュー
 一神教の世界では偶像崇拝は原則禁止されている。その典型はイスラム教だろう。ユダヤ教もまた、モーゼの十戒の中で偶像崇拝が禁止されている。キリスト教ではキリストの磔刑の姿の彫刻や聖母マリアの像などがあり、宗教画としての絵画が存在する。著者は「イスラム教に比較した場合、キリスト教では偶像崇拝の禁止はかなり緩い」(p4)と位置づけている。キリスト教美術の世界を鑑賞するのも好きなのでその点納得できる。
 一方、我国の仏教の世界はどうか。仏教の伝来時点から経典とともに仏像が渡来しているので、日本の仏教史は仏像とともに始まっている。むしろ、百済の聖明王から金銅製の仏像を贈られた天皇は、その仏像を見て感激した所から日本の仏教が出発しているという。もともと偶像崇拝禁止という発想は日本にはないのだろう。そして明治までは、神仏習合と仏像の存在が当たり前の状態だった。仏像は所与のものとして受け入れられた。一神教の世界とは感覚が違うということを著者は最初に明確にしている。

 その上で、著者は次の点を明らかにしている。
1) 仏像は仏教信仰の中心となり、本尊として崇める対象にもなっている。仏像を造ることはむしろ信仰の証としてとらえられるようになる。造仏活動が盛んに行われて来た。
2) 優れた仏像を偶像とは考えないし、考えられないと言った方がよいかもしれない。
  仏像を崇め信仰の対象として位置づけているが、仏像を通して、直接仏を崇めているわけではない。著者は仏像と仏の間に一線があることを一方で明確にしている。
3) 仏像は信仰の対象である一方、美術品としての鑑賞の対象にもなっている。ただし、仏像を鑑賞の対象とすることができるようになったのは、日本での仏教の歴史からみれば最近のことであるとする。和辻哲郎の『古寺巡礼』が著された頃あたりから「鑑賞」という次元での仏像へのアプローチが多くの人々にも可能となってきたと位置づけている。
 そして、著者は仏像を「鑑賞する」という立場に軸足を置きつつ、信仰との関わりを考え、仏像とは何かを明らかにしようと試みている。

 本書は8つの章で構成されている。そして仏像自体については畠山モグ氏により適宜イラスト図が挿入されているだけである。仏像の写真は利用されていない。数多く出版されている仏像ガイド本にあるような仏像の各パーツの名称説明や地域分布図、所在地図などの類いは一切無い。そういう意味では入門書ではあるが、仏像の世界の奥深さにふれるための読み物になっている。仏教史の中での仏像の位置づけを考えることを通して、仏像鑑賞への道づくりを狙っていると言える。
 それは、章のタイトルの付け方からもおわかりになるだろう。各章のタイトルを紹介し、著者の論点の一部を要約的にメモしてみる。その要点の具体的説明と論旨の展開が本書で行われている。

1.そもそも仏像とは何なのか その歴史と本質についての若干の孝察
 「仮に、仏教に仏像というものがなかったとしたら、日本人は仏教をこれほど深く愛してきただろうか」(p19)という反語的問いかけから著者は始めて行く。著者の発言から、考える材料になる箇所をいくつかご紹介する。この章は「鑑賞」のベースとして有益である。
*仏像自体は、歴史を経ても何ら変わることがない。しかし、その仏像と相対する人々のとらえ方は、近代以前と以降では大きく変わったのだ。 p21
  ⇒著者は、近代になって歴史上のブツダが研究され始めたこととの関係性を踏まえているようである。
*ブツダは必ずしも一つの統合された人格としては理解されていなかった可能性がある。 p23
*仏教という宗教は仏像の制作について当初はあまり積極的ではなかったのである。p25
*仏像という存在が生まれることで、仏教の世界は一挙に広がりを見せることになった。p26
*日本の仏教の受容が、とりあえず最初は仏像を通してなされたということはできる。p36
 古代の日本人にとって、仏像こそが仏教だったのかもしれない。 p37
*私たちは、仏教の教えに引かれて、その世界に近づいていくのではなく、優れた仏像を拝むことで、仏の教えに尊さを感じ、そこから仏教の世界へと導かれていく。 p38

2.奈良で浴びるように仏像を見る まさに至福の時
 百聞は一見に如かず--著者の実体験をまとめた章でもある。奈良の有名所の諸仏を読み物としてわかりやすくまとめてある。しかし、この通りの順番で巡るとしたら、鑑賞時間を考えると本当に回れるだろうか、という疑問も浮かぶ。それは交通手段の選択との関係があるので、微妙なところなのだが・・・・。3日目、4日目の説明の寺々は立地から言えばちょっと厳しい距離の隔たりにある気がする。ちょっと欲張りか・・・・という感じ。
 一方で、押さえるべき所はちゃんと押さえていると納得する次第。
 最初に京都の諸寺に軽く触れている。そして奈良で体験をベースとして諸寺を取り上げている。奈良について、寺名を抽出し、列挙しておこう。
 興福寺、東大寺、法隆寺、中宮寺、薬師寺、唐招提寺、西大寺、浄瑠璃寺(ここは京都府木津川市)、新薬師寺、聖林寺、飛鳥寺、室生寺。これらは、和辻哲郎が『古寺巡礼』で取り上げた諸寺でもある。和辻本が元になっているようだ。
 奈良市写真美術館の入江泰吉の写真を見るのが予習になると助言していることにも触れておこう。

3.大仏はどうやって造られたのか 案外知らない仏像の造られ方
 まず飛鳥時代、奈良時代の金銅仏が「蝋型鋳造」法によることを説明する。そして、仏像の造り方の変遷をわかりやすく説明していく。この辺りは、図を使っての説明があると仏像鑑賞初心者には一層イメージしやすくなるところだと思う。
 磨崖仏、塑像、木心塑像、漆箔の技法、脱活乾漆造、木心乾漆造、一木造を順に仏像の具体的作例と併せて説明しているので、基礎知識が身につく。

4.秘仏って何だ いつどうやって秘仏に出会えばよいのか
 著者は秘仏を拝見に行った体験事例を語りながら、秘仏とは何か、どうして出会うかを語っていく。著者の面白い発言を取り上げてみる。その具体的説明は、本書を開いていただければ、興味深い説明、読み物になっている。
 *江戸時代に行われた「開帳」や「出開帳」は、お寺の巧みな「営業戦略」である。
 「秘仏という仕掛けは、その仏像の『付加価値』を増すことに貢献するのだ。」p102
 *秘仏という存在は、密教のなかから生み出されてきた。p110
仏教にはもともとはなかった考え方である。  p117
 *1年に1度開扉される秘仏には、全体に優れたものが多い。  p112
*開扉の間隔が長いものになるほど、質的には劣る。⇒この発言、判断をしかねる。

5.鎌倉時代の仏像ルネッサンス 運慶や快慶やらの時代
 慶派の仏像がどういう形で造られたのか、またその特徴は何か、どこにどのような仏像が安置されているかなどを語っていく。武士の活躍する荒々しい時代が慶派の作風と照応していたという時代の変化を論じている。この時代に仏師の名前が前面に出てきたという。仏師の個性が重視され、リアルさが表出した仏像への変革期が到来したと説く。
 慶派の中でも、運慶と快慶の間にある作風の差や、慶派の人間相関と作品群の基礎知識を説明している。
 「斬新で、力強いもの・・・・・そこにこそ第一の魅力があった。運慶と快慶、そして慶派一門の仏師たちを生み出したのは、そうした時代の空気だったのである。」(p146)と論じている。

6.仏像は円空、木喰に極まるのか もう昔の仏像は造れない
 *「時代の進歩とは別に、時代が新しくなるにつれ、凡庸な仏像しか造られなくなっていった。」 p148
 *仏教信仰は時代を追うにつれ庶民層まで広がって行くが、その内容が変化した。それは、鎌倉時代までの造仏の高まりという関心の向け方とは異なるものに変化した。
  その現れが五百羅漢像を造る人々の存在や、「人々の求めに応じ、その信仰に形を与えること」(p166)「造立を依頼した庶民の信仰をそのまま形にしてあらわした」(p169)という円空仏・木喰仏の出現とその展開の必然性を論じている。それは求めるものの変質といえるのだろう。

7.仏像は博物館で見るものなのか 近代の仏像の運命
 明治に入る時点での「廃仏毀釈」は仏像にとって悲劇的な出来事だが、それを契機にして仏像が博物館入りし、美術的鑑賞の機会が生まれた経緯を論じている。博物館や美術館での企画展で仏像の鑑賞ができるようになった背景に、移送技術が発達した点を著者は指摘する。また、博物館・美術館での仏像の展示について、鑑賞者にとってのメリット・デメリットを論じている。そして、仏像についての知識を増すことの必要性を強調する。
 「仏像を鑑賞するという行為は、自己を見つめることにもつながる」(p193)と主張する。著者の結論の一つはこの一行にあると言える。

8.これだけは見ておきたい究極の仏像たち
  著者は強い印象を与える仏像として10点を挙げ、それぞれに取り上げた理由を説明している。その所蔵寺名と仏像名、所在府県名だけリスト風にご紹介する。
 ① 中宮寺/菩薩半跏思惟像  奈良県
 ② 観心寺/如意輪観音像   大阪府
 ③ 向源寺/十一面観音像   滋賀県
 ④ 蟹満寺/釈迦如来像    京都府
 ⑤ 唐招提寺/如来形立像   奈良県
 ⑥ 立石寺/慈覚大師頭部像  山形県
 ⑦ 国東半島/熊野磨崖仏   大分県
 ⑧ 円成寺/大日如来像    奈良県
 ⑨ 真野寺/千手観音像    千葉県
 ⑩ 六波羅密寺/空也上人像  京都府

 この入門書、よくある観光的仏像ガイド本を一冊くらい読んでから、手に取って読むとイメージし、理解しやすくなるかもしれない。仏教史の大凡を考えながら、仏像とは何かを学ぶ「鑑賞」入門である。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に関連し、その導入になり得る情報源をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
東大寺 ホームページ
東大寺ミュージアム  :「東大寺総合文化センター」
法相宗大本山 興福寺 ホームページ
薬師寺 公式サイト
法隆寺 ホームページ
中宮寺 公式ホームページ
唐招提寺 ホームページ
真言律宗総本山 西大寺 ホームページ
新薬師寺 公式ホームページ
聖林寺 公式ホームページ
飛鳥寺  :「飛鳥の扉」
女人高野 室生寺  ホームページ
圓成寺  ホームページ
浄瑠璃寺  :「京都やましろ観光」(京都府)
蟹満寺   :「京都やましろ観光」(京都府)
六波羅蜜寺  ホームページ
観心寺 ホームページ
渡岸寺観音堂(向源寺) :「滋賀・びわ湖 観光情報」
宝珠山立石寺  ホームページ
高倉山 真野寺 ホームページ
国東半島 熊野磨崖仏  :「胎蔵寺」(公式サイト)
入江泰吉記念 奈良写真美術館  ホームページ
阿修羅象のつくり方 脱活乾漆技法  展示リーフレット 奈良大学博物館
塑像と押出仏  展示リーフレット3 奈良大学博物館
仏像彫刻の技法   :「平安佛所」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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『孤狼の血』  柚月裕子  角川書店

2017-11-14 23:39:55 | レビュー
 広島県呉原市にある呉原東署捜査二課暴力団係の刑事たちが、呉原市で勢力争いをする暴力団に立ち向かう捜査行動を、警察組織と暴力団組織の相互関係として描いて行く。併せて、その裏側に警察組織の暗部を潜ませている。そのプロセスで暴力団係班長の大上章吾刑事の生き様が少しずつ明らかにされていくというストーリー展開ともなっていく

 プロローグとエピローグは、現在時点を描く。呉原東署に呉原市暴力団抗争事件対策本部が置かれた状況の一場面である。70名近い捜査員と幹部が部屋に集まり、暴力団関連事務所の一斉捜査の計画に対する最終打ち合わせをしている場面。朝の6時50分。7時にガサ入れに出発する直前の緊迫した状況である。だが、そこに部屋の後方で、椅子の背にもたれ、ジッポーのライターを手で転がしながら、ただひとり身じろぎもしない男を登場させる。このプロローグとエピローグには、この悠長に構えている班長と駈けよって行った若い刑事の会話を描き込んでいる。
 エピローグの末尾の文に、「狼の絵柄が入ったジッポー」というフレーズが書き込まれている。タイトル「孤狼の血」はこの絵柄の「狼」と「一匹狼(孤狼)」が重ねられている。「血」は「つながり・継承・踏襲」をシンボライズしている。なぜ、孤狼の血を引き継ぐことになったのか? そこに刑事の生き様の選択を描くというテーマがある。

 1章から13章で構成されるストーリーは、昭和63年6月13日に、日岡秀一の呉原東署捜査二課配属日に遡る。つまり、過去のストーリーが展開して行く。だが、そのストーリーは、昭和63年7月27日までである。
 日岡は広島市に生まれ、広島大学を卒業して警察官になった。交番勤務、機動隊勤務を経て、捜査二課暴力団係に配属された。彼の直属上司が大上章吾巡査部長となる。呉原東署管内では暴力団の抗争事件が頻発している。寄りによって、日岡はそこに新米刑事として配属される。本部の幹部は「遣り甲斐はある。手柄を立てれば、出世の道も開けるぞ」と日岡に言い、日岡の肩を叩いて送り出したのだ。常識的な激励と読み過ごしたが、この激励が伏線となっている。それは最終ステージまで根底に潜む意味が読めないメッセージでもある。
 この小説の章立ては、それぞれの冒頭に、「日誌」の一部が記される。日岡が記録した日誌である。いつ、どこで、何をしたかは記されているが、どのように、なぜそれをしたかの箇所は○行削除として、墨み消しされた形で表記されている。この記述は、読み進めると、その章のストーリーのうち「いつ、どこで、何を」についての要約に思え、その章で日岡の目と日岡の考え方・思いを通してストーリーが描き出されているというように見える。章の導入的役割を果たしているのは事実であるが、この「日誌」の冒頭記載が、別の意味を明らかにしていくという結果になるところが、意外性への伏線として読者にインパクトをもたらすことになる。著者の目論見をなるほど・・・・と思うことに。

 さて、おもしろいのは日岡が配属日に呉原東署で着任の手続きを済ませるが、直属上司になる大上巡査部長には署内で対面できない。四角いマークの横にコスモスとだけ書いたメモ地図を頼りに待ち合わせの場所まで出かける羽目になる。喫茶店に居る大上に会うために出向くという始まりである。大上は、県警内部では百回にも及ぶトップの受賞歴と、訓戒処分の現役ワーストの噂を持つ、凄腕のマル暴刑事として有名な人物なのだ。
 大上は任官後、大半を二課の暴力団係として過ごしてきた。広島北署捜査二課配属の10年後に、県警警備部の機動隊に平隊員として左遷される。それは13年前のことで、第三次広島抗争事件のあった頃である。大上に暴力団との癒着疑惑が降りかかったことに対する警察組織の先手だった。3年後に広島北署に戻るが、それから4年後に、大上は県庁所在地からこの呉原東署の二課に異動させられた。地方の所轄への異動は事実上の左遷とも言える。この呉原東署では、課長や係長からは扱いにくとみられながら、事件解決での実績を上げる刑事として頼られてもいる。
 大上の悪い噂も耳にしている日岡が、そんなキャラクターの大上の下に配属されたのだ。そこから日岡の新米刑事としての悪戦苦闘が始まる。配属日早々に、「パチンコ 日の丸」に大上が立ち寄ると言い、そこでパチンコをしている一見で堅気ではないと思える赤シャツの男に「あいつ因縁をつけい」というとんでもない指示を受けて、試される羽目になる。大上は日岡が秀一という名前であり、赤シャツと五分に渡り合えたことなどから日岡を気に入っていく。赤シャツは苗代と言い、加古村組の組員だった。
 
 だが、その大上が死に葬儀が7月27日に行われるという結果になる。それまでの1ヵ月余の期間に、日岡は大上の相棒として付き従って事件捜査に取り組んでいく。大上の捜査方法に身近に接し、大上の事件捜査法と暴力団との関わり方を濃密に体験しつつ、そのやり方を客観視する。法とは何か。捜査の合法性は何か。法の規定の限界は何か。捜査のあり方は? 等々、戸惑い、思い悩みながらも、大上の手足となって事件捜査に関与していく。さらに、このわずかの凝縮された期間に、大上の過去と生き様を知る結果となる。一緒に行動することで、日岡は多くの他の警察官には言えない体験をも重ね、一方で警察組織というもの、暴力団組織というものを同時に学ぶことになる。その結果、日岡自身がその後の警察官としての生き様の選択に迫られるというストーリーに発展していく。

 大上と日岡が扱う事件とは、加古村組が経営に関与しているフロント企業・呉原金融の経理担当である上早稲(うえさわ)二郎が3ヵ月ほど前から行方不明となっている事件なのだ。上早稲の妹が東署に捜索願を出したところから、事件捜査が始まる。

 呉原東署管内には、組員50名の尾谷組、組員40人の加古村組という暴力団が存在する。加古村組は8年前に立ち上がった新興組織であり、組員100名以上の五十子組の傘下に入っている。五十子組、加古村組は仁正会という上部組織、600人以上を要する連合組織の一部でもある。その仁正会は神風会を上部組織とする。一方、小谷組は明石組を上部組織としている。神風会と明石組が対立関係にある。
 尾谷組の組長はこの時点ではある事件により鳥取にある刑務所に服役中であり、後少しの刑期を残す状態に居る。彼は博打打ちの中でも度量がずば抜けていて、その名前は全国の組織に轟いている。県警捜査四課の古参刑事は、日岡に尾谷は古武士という印象だと告げる。尾谷が服役のため尾谷組は若頭一之瀬守孝が取り仕切っている。

 大上は日岡の配属日に、尾谷組の事務所に日岡を連れて行く。それは日岡の存在を知らしめると同時に、聞き込み捜査の一環でもあった。上早稲の居所を加古村組の者が必死になって捜していたということと加古村組が上早稲の失踪に間違いなく噛んでいるという情報を大上・日岡は若頭一之瀬から聞き込む。尾谷組の若い者がその情報を掴んできたという。
 一方、加古村組は尾谷組の縄張りを浸食し、そこを乗っ取ろうとする動きを見せ始める気配が出て来ていた。尾谷組長が出所する前に、加古村組は尾谷組を潰そうと狙っている雲行きなのだ。呉原市内で暴力団抗争の兆しが現れてくる。
 一之瀬を交えて、大上は日岡の歓迎会を「小料理や 志乃」で行う。日岡にすれば、とんでもない初日になる。

 失踪事件の捜査活動の積み上げから筋が見えて来る。そして事件を解決することと、暴力団抗争の兆しを抑えるための手段とを連結させていくことが可能なことを大上は考える。大上は尾谷組の若頭一之瀬の側に立つというスタンスを明確にする。日岡は勿論当初は戸惑う立場である。大上の狙いがうまくいくか、破綻するか。大上の生き様と絡んだそのプロセスが読みどころとなる。だがそのプロセスで大上は死ぬ羽目になる。日岡は大上の死に直面し、その前に大上が日岡に言った一言に己の生き様の選択を迫られる。そして、「小料理や 志乃」の女将・昌子が語る内容が決断のトリガーとなっていく。
 
 この小説のストーリー描写にはいくつかの思考材料が含まれている。
1. 大上の捜査方法を描き出す。それは非合法なやり方を含むものでもある。
 だが、それは一般的合法的捜査では、事件解決に必須な情報だが容易に引き出せない類いの情報を短時間に入手する方法でもある。それを見聞する日岡の視点とのギャップが描かれる。そこから、日岡が何を学び、何を体得するか。法とは何か。法の限界は何か。日岡は考えざるを得なくなる。それは、読者一人ひとりに対する捜査とは何かの問題提起でもある。

2. 警察組織対暴力団組織の関係。この両者における「癒着」とはどのレベル、あるいはどのような関わりを言うのか。多くの警察小説作家は、暴力団係の刑事を一見ヤクザと同じような風貌で描くケースが多い。
 また、このストーリーでも、他の作家が描くのと同様に、大上が暴力団事務所に情報収集を兼ねた立ち寄りをする。暴力団組織の中に、人脈を作っていく。また、エスを飼うという行為も行われる。
 大上が日岡に言う言葉として、次のセリフがある。
 「ええか、二課のけじめはヤクザと同じよ。平たく言やあ、体育会の上下関係と一緒じゃ。・・・・ヤクザちゅうもんはよ、日頃から理不尽な世界で生きとる。上がシロじゃ言やあ、クロい烏もシロよ。そいつら相手に戦うんじゃ。わしらも理不尽な世界に身を置かにゃあ・・・・のう、極道の考えもわからんじゃろが」(p18)
 また、刑事のこんなセリフも。「こっちだって、少ない小遣いから捜査費を捻出しとるんじゃ。」(p68)情報提供者への飲食費や謝礼を刑事個人が身銭を切るという局面だ。
 「『まァ、どっかに犬がおる、いうことよ』 犬-捜査情報を(付記:加古村組に)流す内通者が土井班にいるということか。日岡は複雑な思いで唇を噛んだ。」(p154)
 大上と日岡との会話で次のことも書き込んでいる。(p198)
 「日岡。お前、二課の刑事の役目はなんじゃと思う」
 「暴力団を壊滅させることです。」
 「お前、自分の飯の種を自分で根こそぎ摘むんか。暴力団がのうなってしもうたら、わしらおまんまの食い上げじゃろうが」

3. 法律の規定が犯罪をすべて完全に裁ききれるのか。作者は法律の規定の限界、狭間で起こりうる事象・想定事例に着目している。現行法で裁けないが犯罪実行者が明白な場合、それを知る警察官はどう対処するのか。対処できるのか。その対処には、己の生き様が関わってくる。

4. 犯罪を取り締まる警察組織において、犯罪とも呼べる行為が行われているという実態の存在。組織悪とも呼べるものをどう考えるか。警察組織のトップ層に潜む暗部の存在にも着目してストーリーに絡めていく。勿論これは警察に限らず、民間企業や団体の組織体でも形を変えて存在する暗部を考えさせることにもなる。

5. 人を評価する基準、ものさしは何か。大上巡査部長とわずか1ヵ月余という短期間の濃密な時間を共有した日岡は、大上の行動・人間関係の観察を介して、己の評価基準の見直しを迫られていく。このプロセスが読ませどころにもなっていく。

 主な登場人物の一人、大上章吾は死んだ。日岡秀一を中心にした続編が構想されているのだろうか。続編が書かれることを期待したいのだが・・・・・。

 ご一読ありがとうございます。

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この作品を読んでの波紋から、現実社会について、関心を抱いた事項をいくつかネット検索してみた。一覧にしておきたい。

暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律  :「e-Gov」
暴力団 情勢と対策 2017  pdfファイル :「全国暴力追放運動推進センター」
指定暴力団の状況 pdfファイル  :「全国暴力追放運動推進センター」
組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律 :「e-Gov」
組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律  :ウィキペディア
抗争事件  :ウィキペディア
広島抗争  :ウィキペディア
日本社会を恐怖に陥れた史上最悪の暴力団抗争「山一抗争」の全貌 :「NAVERまとめ」
「1人でも多く殺す」山口組トップ狙撃事件の首謀者が真相激白 修羅の道を抜け牧師になった理由とは  :「産経WEST」
元刑事が「警察とヤクザの癒着」を告白するとき  :「日刊SPA!」
警察と暴力団の癒着  :「南京だより」


インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『あしたの君へ』 文藝春秋
『パレートの誤算』 祥伝社
『慈雨』 集英社
『ウツボカズラの甘い息』 幻冬舎
『検事の死命』 宝島社
『検事の本懐』 宝島社

『歴史の読み解き方』 磯田道史  朝日新書

2017-11-09 10:37:41 | レビュー
 『武士の家計簿』がベストセラーになった時に著者の名前を初めて知った。本書の裏表紙を読むと、それが2003年で、新潮ドキュメント賞を受賞したという。このベストセラーを私は未読である。最近、歴史物がらみのテレビ番組で著者の解説を見聞する機会が増えてきた。新書の背表紙を眺めていて、本書のタイトルに引かれて手始めに読んで見る気になった。本書のタイトルとともに、表紙に副題的に「江戸期日本の危機管理に学ぶ」という添え書きがある点も、手に取るきっかけになった。

 「副題的に」と意識的に書いたのは、「江戸期日本の危機管理に学ぶ」という視点で本書全体が構成されている訳ではないからである。「江戸期日本の危機管理に学ぶ」という視点でまとめられたものが含まれていると言うほうが適切と思うからだ。また、目次は「章」という形式をとっていない。いわば、個別のテーマを設定し、江戸時代の歴史を読み解いた著者の考え方が、新書一冊のボリューム分としてまとめられたものと言える。2013年11月に出版されているので、ベストセラー本が出てからはや10年経った時点での出版である。
 奥書を読むと、収録されたうちの5編が2006~2011年の「小説トリッパー」、1編が「遼」、残り1編が「1冊の本」の連載物としてそれぞれ発表されたのが初出という。

 まず全体の読後印象は比較的語り口調の文章で読みやすいこと。あるテーマで講演した内容を文章に起こした記録を土台にしてリファインし雑誌媒体に発表されたのかなという印象を持った。一般読者向けに専門用語をあまり使わずに平易に記されたわかりやすい読み物になっている。
 歴史の教科書は歴史事象を記述することが主体になっているから、歴史の読み解きを直接教えてはくれない。しかし、本書に取り上げられた歴史を読み解くための視点のように、実はこういう考えが広まっていて、こういう実態が背景になっているということを史料ベースで例証し、わかりやすく説明されると、当時の社会構造がわかりおもしろい。「歴史」の授業プロセスに、本書で語られたような内容が付録的にでも加えられると、歴史に興味を覚え、親しめる契機となるのではないか。そう感じた次第である。

 本書では江戸時代を中心にその歴史の読み解きを通じて、現在の日本の有り様との連環を明示している。江戸時代の社会を読み解く事で、現代日本人のメンタリティや文化の根底に継承されているものを鮮やかに剔出しているといえる、
 本書に収録されたテーマの読後印象を構成順にまとめて、ご紹介してみたい。

<江戸の武士生活から考える>
 「江戸時代は日本人の行動パターンの原型をつくった時代です」という一文が冒頭に出てくる。これが、現代日本人の行動パターンの根っ子を知るためには、江戸時代を読み解けば大凡わかるという主張になっている。つまり、江戸時代にはぐくまれた組織文化が容易になくならないで、現在に継承されている、それが歴史の鉄則だと説く。幼少時に家庭ですりこまれる文化が連綿と後々まで影響する連鎖プロセスとなるのが人間行動の原則だからという。この論点はなるほどと思う。いわゆるDNAである。
 著者は、江戸時代の集権的な武士団の構造パターンが、それまでの中世の武士団のありかたとは違うことを読み解く。濃尾平野で織田信長~豊臣秀吉~徳川家康と継承された「殿様と家来の主従関係」が江戸時代の「藩」という発明品を作り上げた。この社会構造の有り様が、そのまま現代の社会に影響している局面を、実にわかりやすく解説している。 一方で、火縄銃段階での戦闘から生き残った徳川の諸藩の武士団が、幕末にあって、長州藩の奇兵隊の「散兵」戦術になぜ敗れたかを解き明かしてくれている。ここには、時代の変化を取り入れられる組織文化かどうかという視点で、歴史を読み解いていく。江戸幕藩体制が崩落する理由が読み解かれている。
 笠谷和比古氏の見解を踏まえて、稟議制という意思決定方法が江戸時代の藩組織文化の産物であるという説明はなるほどと思う。また、江戸時代に培われた君主への批判は不忠という儒教倫理の影響が、現在の組織文化でもメンタリティとして根底にあるのではないか。この説明から、組織ぐるみの不正の根っ子にこのメンタリティが影響しているように思えてくる。

<甲賀忍者の真実>
 江戸時代の幕藩社会が確立し、戦争のない天下泰平時代になった中での忍者の実態を史料にもとづき例証している。甲賀忍者を初め、忍者がどのくらいの人数規模で実在したのか。彼らが担っていた実際の任務・役割が何だったか。どれほどの給与を得ていたのか、などを具体的に語っていく。松平定信時代の国学者塙保己一(はなわほきいち)による忍者の定義が紹介されていて、おもしろい。甲賀はリテラシー(識字率)が高い土地柄故に、地侍のなかから知性派の情報将校タイプの武将がたくさん排出したのだと説明する。江戸時代の甲賀者と伊賀者の待遇の違いの発生原因とその実情を説明していておもしろい。
 甲賀忍術書は人間を知るための極意して「四知の伝」を記す。「望・聞・問・切」の4つだそうである。この意味についての説明を読むと今も変わらず役立つ叡智だと思う。

<江戸の治安文化>
 何となく抱いていたイメージとは違う意外な事実に満ちている。認識を変える契機となる。次の論点がわかりやすく説明されていて、興味深い。
*豊臣秀吉の「刀狩り」は全国民の武装解除には成功しなかった。
*現在の日本で民間での保有許可を得た銃保有率より、江戸時代にははるかに銃が保有され、刀の保有もあった。
*日本の家庭から銃や刀が消えたのは、アメリカ軍の占領軍が行った成果が大きい。
*日本人が人命にやさしくなった、犯罪発生率の低下は将軍綱吉の時代に始まる。
*代官所や町奉行の人数は、人口3万人の一郡あたり10~15人規模。年貢徴収と代用監獄ほどの役割を担うだけ。
*犯罪対策を含め行政サービス機能は、庄屋と村の仕事になっていた。
*領主裁判になれば刑が厳しく、多くは死刑。「お上」の領主裁判を回避する文化が形成されていた。村掟と庄屋レベルでの「内済」で済ませる訴訟文化が発達した。
 江戸時代を扱った小説を読む背景として本書の解説を知っておくと、同じ小説の読み方も変わるかもしれない。

<長州という熱源>
 長州藩で行われていた「倒幕の儀式」(幕府追討はいかがでございますか/まだはやかろう)の虚実を取り上げている。司馬遼太郎が小説を介してその話を世に広めた部分が、歴史的にとこまで事実かを論じていておもしろい。
 「防長風土注進案」という文書として、江戸時代に長州藩だけにGDPを推計できるデータが集積されていたという。長州藩の財政把握能力と、独特の御前会議方式が、幕末に倒幕へと転換する基盤になった。倒幕への体制変換をやりやすい風土があったことを論じていて興味深い。長州藩の弱み、強みが具体的にわかっておもしろい、国を想うゆえの危うさが幕末の長州藩にあったと著者は言う。その例示として、来島又兵衛の詠んだ和歌を挙げている。「議論より 実をおこなへ なまけ武士 国の大事を余所に見るばか」

<幕末薩摩の「郷中教育」に学ぶ>
 江戸時代には、藩によって教育が違い、中には個性のある教育をしていた藩がいくつもあると述べた後、対極的にある藩教育として、著者は会津藩と薩摩藩を取り上げる。
 会津藩は日新館という非常に優秀な藩校を持ち、藩祖・保科正之が編んだ「二程治教録」をバイブルとして教育をしたという。そして、「碁盤に目を引く」という表現がキーワードとなり、行動規範重視の教育が行われたという。優秀な能吏育成に有益だったが、規範をはずれることができない人材の育成となり、その弊害を明らかにする。
 その対極が薩摩藩であり、郷中教育がどういう仕組みで、どういう人材育成を行う形になったかを論じている。薩摩藩には兵農分離がなく、外城制という社会構造だったことと関連づけて説明されていてわかりやすい。会津藩の様な藩校ではなく、各郷において、友達の家に集まり、二才話(にせはなし)をするのが一つの教育法であり、また本に依らず、西郷隆盛が言ったという言葉「お互いの肚を出せ。そうせんと本当の学問ではない」という考え方の教育が為されていたという。学問を実地に試す薩摩の郷中教育が、「詮議」を生み出したと著者は説明する。まさに対極的な教育方式が同時存在していたようである。併せて、薩摩藩では「俸禄知行」の売買が認められていたというのを初めて知った。薩摩の風土の違いを示す。
 この対極的な二藩の教育を論じた上で、決まったモデルや絶対価値が見あたらないこれからの世界における教育への問題提起を著者は行っている。「『もし、こうなら』と想定して考えさせる判断力錬磨の教育が、現代においてはもっとも重要です」(p170)と結論づけている。これは現在の大半の教育実態に対する警鐘と受け止めるべきなのだろう。

<歴史に学ぶ地震と津波>
 「江戸期日本の危機管理に学ぶ」ということは、このテーマで論じられた内容にウエイトがあるように私は受け止めた。著者は歴史的に特大の地震や津波がいつ発生していたか。それがどのような被害状況で事態が発生・推移したのかについて、古文書に記録された内容を読み説き、考古学的調査結果と照応させて行くと、今後の地震・津波の発生を予測する貴重な情報源となるし、大いに活用すべきだと論じている。江戸時代には、地震がおこると、「天水桶」の揺れ具合で地震の大きさを記述してあるという。「天水桶」が地震計の役割を果たしていたという。興味深い。
 先人の残記録を発掘・発見し、読み説いて、現在から未来にたいする地震・津波対策への危機管理に役立てる必要性を論じている。「人命が失われるんだから、やれる対策はやろう」というスタンスを強調する。

<司馬文学を解剖する>
 現在は、歴史に題材をとる歴史小説や時代小説がたくさん出ている。一般的に、「歴史小説のほうが史実に近く、時代小説のほうが、書かれている内容が荒唐無稽で娯楽性が高くなります」と位置づけたうえで、今や絶滅寸前の「史伝文学」を作り、それを未来に残す必要性、使命を提唱している。著者は、森鴎外、徳富蘇峰が史伝文学と呼べる作品を残しているという。荒唐無稽な創作を拝し、古文書などの史料に基づき、史実に即し、実在の人物を登場させ、歴史小説よりも精密に実際の歴史場面を復元してみせるものを史伝文学とする。
 著者は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』などが、史伝文学に近いとされているとしたうえで、『関ヶ原』という司馬作品から一場面を取り上げて、史実と司馬遼太郎の小説における虚実を分析していく。著者は、家康が関ヶ原の合戦に赴く場面に着目して、その場面の司馬の種本を特定し、分析的論評を加えていく。家康の侍医であった板坂卜斎「慶長年中板坂卜斎覚書」という史料がそれに該当するという。この史料の記述と司馬の記述の比較分析、並びに司馬が史実を文学的香気のある立体的な表現に変換している巧みさや、追加したフィクション部分、史料の文言の解釈の違い・おかしな解釈などを具体的に対比分析していて、大変興味深い一編となっている。「司馬段階」を乗り越えた史伝文学の作家の到来を著者は提唱している。

 江戸時代という歴史の読み説き方を楽しみながら学べる書といえる。
 ご一読ありがとうございます。

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『完全黙秘 警視庁公安部・青山望』  濱 嘉之  文春文庫

2017-11-05 15:23:43 | レビュー
 1年前に、たまたまタイトルが面白そうだったので『機密漏洩』を読んだ。そしてこれが「警視庁公安部・青山望」シリーズの第4作だったと知り、それ以降にこの第1作から順を追って読み進めることにした。第8作『聖域侵犯』まで読み進めるのが優先して、読後印象をまとめずにきた。
 そこで、半ば読み返しを兼ねて、第1作から印象記を順次まとめてご紹介したい。

 シリーズを通読した上で感じるこの青山望シリーズの面白さは、各巻が事件の解決という区切りを持ちながら、その次に発生する事件は捜査次元がシフトして、事態がスケールアップの方向にスパイラルに進んでいくという面白さにある。マクロでとらえると、警察と全国規模の暴力組織である東山会との対決ストーリーということになる。
 それと、警視庁公安部の青山望を主人公とする公安警察限定ものではなく、青山望を中核としながらも、青山とは警察学校の同期・古川教場の仲間であり、警察組織の各領域に所属する他の3人が登場する。青山はこの3人と強い絆で結ばれ、横の連携と協力ができている。この4人が事件解決にむけてベクトルを合わせて行動するという捜査プロセスを描くという構想の面白さがある。警視庁内の凄腕チーム、カルテットとして活躍していく。いわば4人がそれぞれの分野でのプロであり、リーダー的存在なのだ。警視庁のキャリア、トップ層が瞠目し、信頼する連中ということになる。

 このシリーズの起点において、同期の4人の地位は警部であり、職位は各担当領域での係長である。まずはこのカルテットメンバーについて記しておく。彼らは大卒だがノンキャリアである。大学での所属クラブを並記する。
 青山 望 警視庁公安部総務課第七事件担当       剣道部
 大和田博 警視庁組織犯罪対策部組対四課事件指導第一  野球部部
 藤中克範 警視庁刑事部捜査一課事件指導第二      ラグビー部
 龍 一彦 警視庁刑事部捜査第二課           アメフト部

 事件は九州最大の都市・福岡市で起こる。福岡グランドホテルのバンケットのリニューアルが行われ、そのこけら落としのパーティ会場に来賓として、地元出身の梅沢財務大臣が出席する。食事が始まり、30分が過ぎた頃、梅沢大臣は会場内を握手しながら歩いていた。正面ステージでアナウンサーが、地元福岡出身の新進女優・川嶋千歳の紹介をし、ステージへの登壇をアナウンスした。登壇する川嶋に会場の皆が気を取られている間合いを狙ったかのように、ジャンパー姿の若い男が梅沢に握手を要望して近づく。と同時に、梅沢に身体をぶつけていき、刺したのだ。近くで誘導していたSPすら気づかない瞬時の動きだった。犯人は会場で私服警官により現行犯逮捕される。後に会場の映像検証が行われると、殺害の実行行為の瞬間、梅沢大臣の動向を注目していた警察官は一人としていなかったことが判明する。
 犯人の身柄は福岡県警博多東警察署に移され、取調べが開始される。だが犯人は完全黙秘の態度に出る。警視庁の担当も犯人の指紋を電子指紋認証で確認したのだが該当者がヒットしないという。
 事件発生1時間後に「財務大臣に対するテロ行為の発生について」の至急電報が全国警察に発せられ、直ちに特別捜査本部が設置される。被疑者は起訴され、選任された国選弁護人に対しても被疑者は黙秘を続けた。そこで「博多東署第三号」と仮名が付けられる。
 警察庁長官の一言で、警察庁は起訴時点で警視庁刑事部と公安部に対し、極秘捜査を指示した。警視庁が福岡県警の事件に介入して行くことになる。
 
 佐藤公総課長が第七事件担当の青山にこの梅沢大臣殺害事件の背景を探るように指示する。そこで青山が行動を開始する。このシリーズの始まりだ。
 この捜査は福岡県警刑事部捜査第一課が仕切っていて、県警警備部に情報が入っていないということを、青山は既に警察大学同期生から聞いていた。そして、福岡県警の捜査にどこか足りない部分があると考えていたのである。

 青山は、公安部の指導班に属し定年まであと3年という最古参であり過去の異動履歴の特殊な人物、須崎警部補を訪ね、相談を持ちかける。公安部の生き字引・須藤から、「蒲田1号」と呼ばれ完全黙秘を貫徹して起訴された事例があったことを教えられる。青山は、その捜査記録を閲覧することで、何か福岡での事件のヒントを得られないかということから行動を始める。捜査第一課の藤中のところに出向いていき、早速事件について語りあうのである。
 
 このストーリーの展開のまずおもしろい所は青山の才能、キャラクターにある。青山は己の意見を、例え上司であろうときっちりと伝えて筋を通し、押さえるべきところは確実に押さえていく。また、うまく搦手を使うという手練手管にも長けている。情報の収集に必要な人脈やソースをうまく手繰り寄せていく才能を持ち、国政の状況を分析していて独自の所見と人脈も築いている。そして、カルテットとしての絆が強く、各々の分野でのプロとしての能力をうまく組み合わせるまとめ役の力量を持っていることにある。青山は「それぞれの特徴を生かせばいいのに」という考えを持論としている。公安部だ、刑事部だという組織の枠にこだわることを愚かしいとみているのだ。餅屋は餅屋でうまく分担協力して、目的達成を目指せばよいという主義である。 

 「蒲田一号」を調べていくことから、青山は梅沢殺害事件の被疑者の解明に繋がるヒントを引き出していく。そして、チヨダの理事官、通称「校長」に相談を持ちかける形で、上位者の協力を引き出す。チヨダが福岡県警に指示を出す。そこから「蒲田一号」と「福岡東三号」との接点が見つかってくる。
 青山は福岡の事件を本格的に扱う形になり、博多東署第三号は青山との面談に応じるという反応を示してくる。青山は拘置所での面談の席で、博多東署第三号には思いも寄らぬ切り口からの質問を投げかけていく。一方、警視庁は「福岡特捜」として、公安・刑事・組対各分野から要員を福岡に派遣することになる。青山は福特公安を現場で担当する実質的なリーダーとして行動する。
 事件の捜査過程で、その背景が意外な方向につながっていく。博多東署第三号の完全黙秘が、政治家、暴力団、芸能界を巻き込んだ広大な闇を背景にしているという事象が見え始める。

 この第1作の興味深いところはいくつか挙げられると思う。
1. 青山を介することにより、組織の持つマイナス面、悪弊が見えて来る。警察組織内の公安・刑事・組対など担当領域の違いからくる組織内に内在する問題点、キャリアとノンキャリアの関係、捜査本部における管理官などと現場捜査要員との関係、警察の所轄範囲がもたらす問題点などである。ストーリーに絡まりかなり詳細に描き込まれていく。ぼんくら管理職が弊害となる局面も描き込まれていておもしろい。この小説に、警察組織に対する一つの批判的視点が盛り込まれている。
 警察組織に悪弊が存在する中で、青山が人脈を巧みに使い、事件解決を主目的に行動する小気味よさが描き出される。その悪弊の中で青山ら同期カルテットが部門間連携行動を実行し、成果を生み出す面白さである。

2. 青山が一種、司令塔となって、カルテットの中での情報探索の分担と情報の共有化を行う姿が、事件を解決に導く要となる。それぞれがプロである。タコツボ型行動にならずに、プロが相乗効果を発揮できるように行動すれば、何ができるか? 組織の中間層の要員が連携することでトップ層を動かしていくという局面が描かれて行く。そのストーリー展開の面白さがある。これがこの小説の新基軸とも言える。

3. 青山の情報収集と分析プロセスが一つの読ませどころであろう。警察組織内に膨大に蓄積されたデータが分断的に蓄積されている問題点に熟知する青山が、それらのデータ群をどのように結び付け、効果的に有効利用していくか。そのプロセスが興味深い。警察組織内ばかりでなく、青山は政界、警察庁、暴力団組織などの領域においても、培った人脈を介して縦横に情報収集する。その局面での情報がデータと相乗効果を生み出していく。このプロセスが事実証拠の累積となりなっていく。インテリジェンスに携わる青山のプロ感覚とその行動が読ませどころである。
 たとえば、青山が本格的に福岡入りをして行くにあたり、次のような描写が出てくる。「福特公安は公安部が得意とする画像分析ソフトとこれを搭載したコンピュータ機器を公安機動捜査隊の大型ワゴン車に積み、福岡県警本部の正面駐車場内に駐車して、ここに捜査拠点を置いた。この大型ワゴン車内のコンピューター装備だけでも、福岡県警の情報管理システムの処理能力に匹敵していた。」(p94)
こういう描写は、フィクションであるといえども、多分警察組織の現状、実態を踏まえているのではないか。そういう視点で読むと、いろいろと興味深い事象が暗示されているようでおもしろい。このシリーズの興味深いところとなる。

4. 小説というフィクションに仮託して、現在の日本の政界や官僚組織、経済界と経済体制・経済状況、日本と世界との関わりなどの局面が暗示的に描き込まれていく。何がその仮託の根底にあり、また誰をモデルとしているかなどと、時折読み替えて考えてみるのもおもしろい。
 小説の中でのこれらの局面に対する青山の見方と発想が、小説を離れて現実を考えるときに役立つ視点ともなる。現実社会の実態と動向をどう読見とけるかという点でしばしば参考になり、興味深い。
 この小説は、梅沢大臣殺害事件が、背景において様々な事象とリンクしていく氷山の一角であったことを解き明かしていく。そのプロセスに、様々な上記局面が組み込まれている。それを逆読みし、現実の日本の政治経済を考える材料にできるおもしろさともいえる。

5. 公安・刑事・組対に跨がり、青山を介して政界・警察庁ともリンキングする突破口を組み込むという構想が、警察小説のストーリー展開を広げる枠組みとなっている。スケールの大きいストーリーにどこまで発展するのかと、楽しませてくれる次元を内包するおもしろさがある。カルテットメンバーのキャラクター設定もまたおもしろい。ここにも、構想を発展させるネタが仕込まれているように思う。

 この第1作のキーワードは「利権」である。博多東署第三号の完全黙秘から始まる事件の謎解きが、どんな利権に絡んでいくのか、楽しんでいただくとよいだろう。九州福岡で発生した事件が、東京にリンクし、また隣国にもリンクしていく。
 この第1作では、組対部の捜査員に矢澤巧二という異色警部補を組み込んで行く。矢澤刑事の行動が副次的な読ませどころにもなっている。

 この第1作の末尾に刑事部長と公安部長の二人のキャリアの会話が記されている。
 「しかし、今回の捜査は警部カルテットの絆の成果ということになるな」
 「ああ。警視庁ならではの人材が揃った結果だ」
 「絆か・・・・・我々の絆で敵の絆を打ち崩していかなければならないな。本当の絆の強さは正義の強さだからな。しかし、彼らがキャリアじゃなくてよかったよ」
 「なぜだ?」
 「考えてもみろ。全員がトップにはなれんだろう」
 「そういう考え方もあるな。彼らはみなその道のトップになることができる。・・・・・」

 カルテットの絆が発揮される構想が、この後シリーズとして続いていく。

 ご一読ありがとうございます。

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『警視庁公安部・青山望 機密漏洩』 文春文庫