遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『サンズイ』  笹本稜平  光文社

2020-01-30 13:10:56 | レビュー
 本書のタイトルは警察内部の隠語である。警察小説愛読者には常識用語になっているだろう。贈収賄や官製談合といった汚職がらみの政治案件を守備範囲として担当する部署を指す。「汚職」の「汚」の字の部首「サンズイ」に由来する。警視庁捜査二課第四知能犯~第六知能犯の三つのグループが担当する。この小説の主人公は第四知能犯第三係に所属する園崎省吾。園崎が、与党の桑原勇参議院議員のあっせん収賄罪もしくはあっせん利得罪の容疑で、公設第一秘書の大久保俊治に任意の事情聴取をしている場面からストーリーが始まる。
 大物政治家が絡んだサンズイ事案はほとんどが地検特捜の扱いとなり、警察が着手するのはせいぜい官僚が絡む贈収賄までという慣例になっている。だが、この捜査は園崎の所属する第四知能犯第三係が市役所職員から内部告発の手紙を受けたことが契機となった。都下の東秋生(ひがしあきお)市が、桑原事務所の口利きで破格の安値で市有地を地元の有力土建会社・三共興発に売却したという内部告発だった。その口利きの首謀者が大久保だと言う。桑原議員は東大卒のエリート官僚として総務省に入省し、事務次官を経て政界に転身し参議院議員になっている。三共興発の創業者で会長の藤井は桑原議員の中学以来の幼馴染で、桑原の有力な後援者である。桑原議員は古巣の総務省に絶大な影響力をもつと言われているという。総務省は地方交付税を所管するので、全国の自治体にとってはお上という存在なのだ。口利きに対し、そこに関係者の忖度が働き、一方で金が動いるのではないかという筋読みとなる。
 大久保は以前に政治資金規正法違反の疑いで地検の取り調べを受けたが嫌疑不十分で不起訴となり、議員は無傷で済んだという前歴があった。

 園崎には秘する思いがある。園崎の父はある代議士の秘書だった。その父が私文書変造容疑で逮捕され、代議士への忠誠心と事務所の弁護士の口止めもあり、罪を一身で背負う供述をしたのだ。懲役2年執行猶予3年の判決を受けた。代議士事務所は父を解雇、中小企業への転職を斡旋した。しかし、父はそれを断り、失意の果てに翌年自殺した。園崎は大学を中退し警視庁の採用試験を受けて警察官になった。そして捜査二課を希望した。そこには、父親を罪に陥れた政治の世界に報復したいという強い思いがあった。国会議員による「サンズイ」案件捜査に従事し、不正を暴き権力の座から引きずりおろしたいという思いだ。
 園崎は水沼とタッグを組み捜査に当たる。本間係長は園崎の思いを知っているがそのことをこの事案発生までは、園崎に語ることもなかった。

 園崎は警察官になって3年後に組織犯罪対策部の第四課に配属され、暴力を背景とした一種知能犯的な犯罪類型の捜査に従事した。そして、5年前に念願が叶い捜査二課に配属されたのだった。今では千葉県市川市行徳に一戸建ての家を買い、警察官を父にもつ紗子(さえこ)と結婚し、4歳の息子・雅人とともに暮らす。新米刑事の頃に、千葉県警との合同チームの事案でコンビを組んだ山下警部補とは10年来の付き合いで、家族ぐるみで付き合う間柄になっていた。山下は、千葉県警生活安全部に所属する。

 桑原議員の選挙地盤は千葉県である。大久保は普段は都内に住んでいるが、千葉県内に豪勢な住居を持っている。そこから千葉県警の山下が園崎を積極的に支援する役割を担っていく。

 このストーリーの展開で興味深いところがいくつかある。
1.ある時点から大きく見ると2つの捜査状況がパラレルに進展していき、それが結びついていくプロセスと構成になっている。どこでどのように関係が明瞭になっていくかというプロセスが興味深い。
 一つは勿論、大久保が直接関わり桑原議員に及ぶサンズイ事案の解明である。その証拠を固めていく捜査プロセスの展開がメインストリームとなる。この捜査は園崎が主体になりながら、水沼とタッグを組み実行する。この捜査プロセスは別項で補足する。
 もう一つは園崎の妻と子の雅人が意図的な轢き逃げに遭遇する事件に端を発する。その事件捜査のプロセスが加わる。市川市内で発生した事件なので千葉県警の所管。なぜか唐突にも千葉県警捜査一課の中林昭雄が園崎を被疑者と見なし、任意同行をかけてくるという奇妙な捜査が始まる。その捜査活動がさらにエスカレートしていく。妻子を轢き逃げされた園崎を被疑者に想定する論理がどこから出てくるのか。園崎が手がける大久保に対する捜査活動への意図的な妨害と思われる。読者にとってはそんな捜査にゴーサインを出した上層部がどこに繋がるのかが気になる次第。
 一方で、千葉県警生活安全部の山下が園崎の苦境を支援するために、独自にこの轢き逃げ事件の犯人究明に関わって行く。そこに生活安全部子ども女性安全対策課の北沢美保巡査部長も積極的に協力していくことになる。千葉県警内での2つの相反する動きが、それぞれサブストーリーとして進展していくからおもしろい。

2. 園崎は大久保に対し任意の事情聴取を行うことから始めた。大久保がその後園崎に取引を持ちかけてくる。そのために園崎一人と会いたいという。だが、その約束の場には姿を見せない。園崎は隠密行動として大久保に会おうとしたことから、己のアリバイを立証できない状況に陥る羽目になる。大久保と会う予定の時間帯に、妻と子が轢き逃げ事故に遭遇する事態が発生していたのだ。園崎は己の捜査活動が妻と雅人を巻き込んだという責任を感じる。轢き逃げの実行者は大久保だと園崎は確信するが、それをどう証拠立てることができるかが問題となる。千葉県内の事件なので、園崎には捜査管轄外なのだ。
 つまり、山下の協力が必然化していく。

3. 捜査二課第四知能犯第三係により大久保に対するサンズイ事案の捜査が始まると、検察から横槍が入る。当初は送検されても訴追する気はないということを匂わせる忠告だったが、どこから圧力がかかったのか、トップダウンで捜査の中止命令という事態になっていく。それに対し本間係長は表向きは従う体裁をとる。そして、園崎と水沼の二人には潜行し独自捜査を継続するように指示する。いちいち報告しなくてもよいと言う。
 園崎と水沼だけで、大久保の身辺をどう捜査するか。一方、園崎はこの潜行捜査で水沼に後日被害が及ばないようにするにはどうするかとを考え始める。
 二人の潜行捜査に山下と北沢が協力・支援する役割を担っていく。
 サンズイ事案としては、園崎・水沼の捜査プロセスがメインであり、山下と北沢がサポートする。ここが読ませどころとなる。
 少しずつ大久保という人物の実態が明らかになっていく。大久保にはストーカーの性癖があり、起訴には到らず公式の記録はないが、過去にいくつか事件を起こしていた。さらに、偶然にも園崎の妻紗子も大久保にストーカーまがいの行動をとられていた事実が明らかになる。桑原議員を引き出す作戦を山下と北沢が思いつく。
 一方で、園崎は大久保が公設第一秘書という立場で行っている問題事象を明らかにしていく。また、大久保が桑原議員との関係で大きな野望を持っていることも分かってくる。

4. 園崎が轢き逃げ事件の被疑者扱いを受け、それがニュースになると、当然ながら、園崎に対する監査が表に出てくる。徳永という監査職員が園崎に本庁への同行を求めてくる。園崎が監査にどう対応するかという要素が加わってくる。捜査への抑制力となるこの展開も見逃せない。

5. 千葉県警捜査一課の中林は、唐突な捜査をなぜか捜査本部開設までに持ち込み、轢き逃げした車の発見を引き出してくる。だがそこに証拠の捏造が加えられていた。園崎には証拠の捏造と確信できる背景を掴んでいる。だが、それを開示できない状況でもあった。中林は園崎の逮捕状請求まで持ち込むに到る。園崎は己の行動の自由を確保するために逮捕が及ぶまえに逃走する決断をする。
 警察組織の軛を離れることで、園崎は警察官の埒内ではできない反撃行動に出る。己の身の潔白証明と、大久保を窓口としたサンズイ事案の決着をつけるための決定的な証拠の発見に邁進する。勿論、本間・水沼・山下・北沢との連携を図りつつ・・・・。この最終ステージは一気に読ませる展開となっていく。

 ストーリーの全体構成が徐々に複雑になっていく。そこが逆に読ませどころになる。
 警察組織に内在する隠微な体質、組織間の軋轢、政治家に弱い官僚組織の実態などが描き込まれていく。刑事訴訟法の改正により司法取引が可能となったという。そのアプローチをストーリーの冒頭で組み込んでいるのも、時代の推移を取り入れた試みと言える。
 このストーリーには、警察組織に対する著者の批判的視点が各所に盛り込まれているように思う。
 
 奥書を見ると、本書は「小説宝石」に2018年6月号~2019年6月号の期間連載発表された作品の単行本化である。、

 ご一読ありがとうございます。

この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館

『信長、天が誅する』  天野純希  幻冬舎 

2020-01-28 16:09:13 | レビュー
 『信長、天を堕とす』(木下昌輝著)の読後印象記で述べたが、『信長、天が誅する』は「小説幻冬」の2016年12月号~2019年1月号の期間内に連載されて、2019年11月に単行本として同時出版された。『信長、天を堕とす』は信長自身の視点から描かれ、短編連作により信長の生涯を描くというアプローチだった。それに対し、『信長、天が誅する』は信長と対峙対立した人物の立場・視点から信長を見つめるという真逆のアプローチである。信長と対峙対立する人々の立場と目線には信長がどのように映じ、認識されていたのか。対立する側の視点から多面的に信長像を浮彫りにしていく手法が試みられている。
 天下布武の旗印を掲げた信長にとって勢力拡大の転換点となる重要な戦がある。その戦で信長と対立した人々が短編小説の主人公となる。その目と思いを介して信長が見えて来る。つまり、こちらも短編・連作により、間接的に信長像に迫るというアプローチである。『信長、天を堕とす』と呼応する点は、桶狭間の戦いから本能寺の変に到るまでの時間軸でエポック・メーキングとなる戦と信長に対立した人々が順次取り上げられていく。

 単行本としては、本書も5章構成となっている。各章毎に、読後印象をご紹介しよう。章のタイトルを表記した後に、戦の名称と誰の立場から信長を見つめているかをまず併記した。

第1章 野望の狭間    桶狭間の戦い:井伊直盛
 藤原氏の出で、五百年以上にわたり遠州井伊谷に根を張ってきた井伊家は、南北朝時代の後遠江守護斯波家の傘下に入り、応仁の乱期に今川家に服属する立場になる。井伊直盛は今川義元の尾張攻めにあたり、先鋒の軍に組み込まれる。その直盛に信長の家臣、簗田政綱が今川からの離反を説きにくる。戦が始まれば、今川の本陣の場所を織田に報せるだけでよいと言う。今川と織田の戦力、力量をどう捉えるか。井伊一族の命運を担う直盛が己の野心と戦の趨勢の読みの狭間で苦悩する姿を描く。信長の力量をどう評価するかが岐路となる。
 井伊直盛の娘・お寅が戦に出たいと言い出す。結果的に直盛は、男として次郎法師と名乗らせ、己の傍につき従う形として許す。桶狭間での今川軍の敗戦は、直盛の命運を左右し、井伊家の命運が次郎法師に託される。

第2章 鬼の血統     姉川の合戦と小谷城の戦い:淺井長政と市
 兄信長の行動に痛快さを感じ、兄が京に織田の旗を立てることに役立ちたいと市は日頃考えていた。淺井長政に嫁ぐようにと告げられると市は応諾した。長政との仲が深まると共に、市は信長とは全く異なる長政の生き様に共感していく。浅倉と織田のどちらに与するかについて家中の意見が二分する。評定の場に市も参画し、市は織田からの離反を説く。長政は浅倉家への信義を守るという決断を下す。市には信長と長政の考えが読みきれていたのだろう。その上で長政に共感していたのだと思う。長政の戦が始まる。
 長政が自刃し小谷城が落城する。その後、市が幼い茶々と初に語りかける言葉がすさまじい。それがこの章のタイトルにリンクしていく。

第3章 弥陀と魔王    伊勢長島の戦い:下間頼旦
 大坂本願寺は織田の軍勢と戦う。石山合戦と称された10年に及ぶ戦いである。門徒衆は「厭離穢土 欣求浄土」「進者往生極楽 退者無間地獄」という文言を大書した旗印の下に戦いに臨んで行った。大坂本願寺の物見櫓から門徒勢の戦ぶりを眺め、それを奇跡と感ずる下間頼旦は、門主顕如から伊勢長島に向かい、仏敵信長を討つために門徒を指揮せよと指示される。伊勢長島願証寺における下間頼旦の視点、つまり伊勢長島の内側から眺めた信長軍との戦い、伊勢長島が殲滅されていくプロセスが描かれる。大坂本願寺からの支援が途絶え、籠城が1月を過ぎると和睦を求める声が生まれてくる。仏敵信長を討つという指示に従い、戦に投げ込まれた結果の苦境が、生業に励み信仰心を持っていた日常生活への回帰の願いへと急転換していく姿が描き込まれる。
 信仰の次元と俗世の政・権勢の次元とを結合させた過ちがどういう結果を生み出すかの問題提起に繋がっている。洋の東西を問わず、信仰絡みで一般信者を煽動するのは常にその宗教・宗派の上層部に属する人間であるように思う。
 捕らわれて信長の前に引き出された頼旦と信長の交わす会話に、信長像が鮮やかに切り取っている。

第4章 天の道、人の道  設楽原の戦い:武田勝頼
 落成を見ることなく心血を注いだ新府城と町に自ら火を放ち、落ちのびようとする武田勝頼が、「本当の強さとは、何なのか」を自問する場面から始まる。そしてその解を求めるために信長との数々の戦いの回想に入って行く。回想は三方ヶ原、東美濃、高天神城、そして設楽原での決戦へと展開する。設楽原の戦いに敗れ、退却した勝頼が新たな国造りに着手する。だが、時代情勢は勝頼にとり形勢不利な方向に加速していく。
 父信玄をして天道さえ味方に付けた信長と言わしめた。勝頼は信長が目指しているのは天の下を統べることではなく、天そのものになることとだと見極める。それに対して、己は人としての己の道を歩み、己が生をまっとうせんと。本書を通し、武田勝頼という武将に初めて興味を覚えた。
 信長と勝頼は一度も会することがなかったようだ。

第5章 天道の旗     設楽原の戦い・天王寺砦の戦い・本能寺の変:明智光秀
 弘治2年9月、美濃明智城は斎藤義龍軍の総攻めにより陥落する。明智光秀は名目上の城主だったが、実質上は叔父の光安が差配していた。光秀は総攻めの前に城から逃亡する。この場面を皮切りに、己の生きる場を求めて流浪する。光秀は足利義昭の家臣となったが、それは己を活かす場所を見出すための足がかりに過ぎなかった。そして、信長に己の力量を活かす場を見出していく。光秀が信長の随一の重臣になるに到るまでが描き出される。例えば、比叡山延暦寺を攻める進言をしたのは光秀だったという。
 二人の間に齟齬が生じ始めるのがどこに起因するのか。その一因に触れていく。
 武田征伐に及ぶ段階で、光秀は勝頼の奮戦を期待した。「恐れの感情を知ることではじめて、信長は真の天下人になれるのだ」と光秀は信長を見極めていた。だが、勝頼の首級を検分した際に、信長が「そなたこそは、日ノ本に隠れなき、まことの弓取りだ」と発したことに接し、信長がすでにどこかで恐怖を知っていたと光秀は悟る。そして信長はさらに強い敵を求めていると。その後、光秀はさらに信長から己の目指すものが何かを知らされる。
 本能寺の変を起こすに到る光秀の内心に光を当てていて興味深い。

 「信長にとっての恐怖」という観点が、天野純希と木下昌輝の両者には共有され、信長の生涯と行動の軌跡を、間接的あるいは直接的に描き出し、違った立場から作品化するという発想の根底に据えられていると言える。おもしろい競作となっている。

 ご一読ありがとうございます。

本書に登場する人物について、一般的な説明をネットで検索してみた。一覧にしておきたい。
井伊直盛  :ウィキペディア
井伊直盛(直虎の父)は井伊家きっての無骨武人~そして桶狭間に散った:「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)」
淺井長政  :ウィキペディア
お市の方  :ウィキペディア
お市の方  :「歴史人」
下間頼旦  :ウィキペディア
武田勝頼  :ウィキペディア
武田勝頼  :「コトバンク」
武田勝頼~偉大な父と比べられて~ :「戦国武将列伝Ω 1100記事」
明智光秀  :ウィキペディア
明智光秀公 :「ぶらり亀岡(亀岡市観光協会)」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『信長、天を堕とす』  木下昌輝  幻冬舎

『信長、天を堕とす』  木下昌輝  幻冬舎

2020-01-26 13:18:05 | レビュー
 この小説を新聞広告で知った。天野純希作『信長、天が誅する』とセットにした併載広告が目に止まった。二冊を手にして、これら表紙のイラスト画の感覚が似ているなという印象をまず受けた。それもそのはず、装画・永井秀樹、想定・片岡忠彦と共通していた。だが、これらの小説における信長へのアプローチは全く異なる。勿論、信長を扱うに当たって共有されている認識があるが、それを表現するスタンスが違う点がおもしろい。
 これら2作品の奥書を見ると、共に「小説幻冬」に連載された後に、同時に単行本化されている。『信長、天が誅する』は2016年12月号~2019年1月号、『信長、天を堕とす』は2017年3月号~2019年3月号に連載された。それらは交互に連載されていくという試みだったことがわかる。両作品のアプローチの違いは、この発表プロセスともうまく照応しているようだ。新聞広告の関心の引き寄せ方もうまいが、やはりこの二冊は併読するのをお薦めする。

 まずは、たまたま先に読んだこちらの小説について、読後印象のご紹介から始めたい。
 
 単行本は「第1章 下天の野望」から「第5章 滅びの旗」という5章立てになっている。時系列的にみると、桶狭間の戦いで信長が勝利に到るプロセスから始まり、本能寺の変での「信長の旅の終わり」までが描かれている。
 本書の見出しは章立てになっている。そこには桶狭間から本能寺までのプロセスにおける信長の思いと生き様がテーマに設定されていると受け止めた。著者の生涯からハイライトになるイベントを抽出し、信長自身の視点から描き、テーマを浮かび上がらせていくやり方を試みているように思う。5章立ての長編小説ではなくて、短編小説の連作という構想で信長が描き出されたという印象である。
 そこで、章毎に読後印象をご紹介していきたい。

第1章 下天の野望
 馬廻衆(親衛隊)80人を引き連れて上洛し、堺・奈良・京を見物して回った信長が、一転して強行軍で尾張まで駆け抜けて帰還するという場面から始まる。そして、今川義元を討つと宣言するのだ。桶狭間での戦いで勝利を収めるまでが描かれている。
 そのプロセスで一際着目されているのは馬廻衆中の最精鋭のひとり、岩室長門守である。出陣を告げ、熱田神宮まで駆けた信長の前に即座につどっていたのは赤黒の母衣を背負った鎧武者がたった5人とその従者たちあわせて200人に足らないという状況だったと著者は描く。それが信長の思考と思いの原点のひとつとなったと。
 桶狭間での勝利が信長に京を目指す決断をさせた。「本当の強さの正体が、あの京や堺につどう人々のなかにあることを」と。

第2章 血と呪い
 尾張国北端にある丹羽郡の小口城攻めから描き出す。美濃斎藤家に与する織田信清との戦いであり、その戦は尾張国を掌握し上洛するための布石である。岩室長門守は、小牧山に城を築き拠点を移すよう信長に献策し、「人とは理(ことわり)ではなく、情で動きます」とも強い口調で語る。更に信長に対し「恐怖を受けとめて、乗り切る。それなくして、本当の強さは得られませぬ」と、信長に恐怖の心がないことが問題だと指摘させる。その岩室は小口城攻撃において討ち死にする。
 信長が恐怖を感じたことがないというこの指摘に信長がどう立ち向かうかが、この連作での命題になっていく。この視点の設定が興味深い。
 妹の市を淺井長政に娶らせ、淺井と同盟し、さらにその淺井の小谷城を落城させるまでを描く。長政が信長の許に送り返させた市とその娘たちを仏門に入れるという当初の考えを信長は取りやめる。その発想と理屈づけがおもしろい。信長の母(土田御前)、妹・市、市の娘という三代にわたる呪いを信長自身に向けさせようとするのだから。

第3章 神と人
 大坂本願寺の一向衆との戦いおよび比叡山延暦寺との戦いの経緯が描かれて行く。
 これらの戦いのプロセスで、信長の思考に影響を与える挿話がここでの押さえ所になる。戦死した森可成の妻で一向宗に帰依している妙向尼との対話、および阿含経の事を知りたいと告げ、信長の養育役だった沢彦和尚との間で行う対話である。ここには、日本における仏教の変容という視点並びに一向宗と仏道としての浄土真宗を峻別するという視点が持ち込まれていて興味深い。
 そして、ハイライトは信長と森乱との会話。(信長)「己が恐怖を覚えるには、どうすればよいのだ」(森乱)「上様。神におなりあそばせ」である。恐怖心を得んがために「己は神になる」と信長に決断させるという展開がおもしろい。

第4章 天の理、人の理
 信長は神になると宣言し、己の分身として”盆山”と名づけた石を安土城内の摠見寺に安置させた。その”盆山”と信長が対峙する場面から始まる。それは武田攻めの10日ほど前のシーンである。信長は「高みに昇るものは、かならずや天から鉄槌をうける」と内省し、戦への出立前に手綱を引き締めよと言う。ストーリーは、天が信長に味方した天正3年(1575)5月の設楽原の戦闘の回想に転じ、そして現在(9年後)の武田攻めに戻って行く。設楽原の戦いのエッセンスの描写が読ませどころであるが、さらに、信長の息子の一人、織田信房のことや信長のうたた寝での夢想が織り交ぜられていく。
 ここでのストーリー展開は、現時点と過去時点の回想を織り交ぜ、その構成を少し複雑にしてあるところがある意味でおもしろい。読者を一瞬戸惑わせる構成である。信長の心の襞を描こうとしているのだろうか。ストーリーの構成を読み解いていただきたい。
 信長には武田勝頼が信玄以上に強かったと評価させ、一方、天の理・人の理に見放されたことで敗北した武将と著者は言外に語っていると受けとめた。

第5章 滅びの旗
 熱田神宮境内で信長の前に馬廻衆がたった5人しかいない状況を信長が再度夢に見るという場面から始まる。そして、信長が明智光秀に謁見する場面へと展開する。
 興味深いのは、謁見の前に、信長が明智光秀との軍略についての対話や光秀の行動、己と光秀の武将としての力量について回想する場面が連ねられて行くところにある。その上で、「この国内で、誰も信長を恐怖させてくれなかった」という己の思いに帰着していく。さらに、信長が市の娘茶々を安土城に呼び出し、誰を婿にしたいかと、織田の諸将の一覧を前にして尋ねる場面を描いていくのがおもしろい。
 光秀との謁見は、信長が海外制覇の意図を光秀に話し、光秀を信忠の補佐として日本に残すと告げる場面となっていく。そして信長が光秀を扇で打擲する結果となる。
 信長が父のことを回想する場面が織り交ぜられた上に、本能寺の変の最後の場面が描かれてエンディングとなる。あたかも信長が海外遠征の意図を光秀に語ったことで、光秀が決起するトリガーになった印象を受けるようなつながりになっている。
 この章のタイトル「滅びの旗」はダブル・ミーニングなのだろう。まずは織田の旗が光秀による変で滅び去り、光秀の桔梗紋の旗もまた、滅びの旗となったのだから。ここでは、信長の旅の終わりまでしか描いてはいないが。
 ここのタイトルは「強さとは何か」という問いに戻って行く。

 この小説で、著者は信長が「はたして、強さとは何なのか」を追い求め、「余は、強さの正体を見極められなんだ」とつぶやかせるに到る。最後に、「しかと心せよ。強さと弱さは、表裏一体だ。それを忘れるな」と叫ばせている。
 信長自身の内面の葛藤をテーマに据えた時系列の連作で、信長像を描き出そうとした小説という印象を持った。

 お読みいただきありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『信長、天が誅する』  天野純希  幻冬舎 


『失踪都市 所轄魂』  笹本稜平   徳間文庫

2020-01-13 00:02:56 | レビュー
 『所轄魂』の第2作である。2014年7月に単行本として出版され、2017年5月に文庫本となった。
 中心となる人物は、城東署刑事・組織犯罪対策課強行犯捜査係の係長、葛木邦彦である。ノンキャリアの警察官で、警視庁捜査一課殺人捜査係に所属していたが、それを擲ち希望して所轄署に転出した。葛木が早朝にジョギングをしていて自宅に向かう途中で携帯が鳴り出すという場面からストーリーが始まる。亀戸5丁目の民家で完全に白骨化した遺体が二体発見されたと宿直当番だった若宮から告げられる。機捜が間もなく現場付近での初動捜査に入ると言う。第一機捜の上尾小隊長らが現場を担当していた。上尾は葛木のかつての同僚である。無線のやり取りを聞き、葛木は上尾の声の調子から、事件性はなさそうな感触を受けた。事件性のない孤独死だったのか。
 隣人は昨年引っ越ししてきた人で、隣家が空き家と聞いていたという。早朝に、その隣家に明かりが見えたので不安を抱き110番通報。近くの交番の警官が駆けつけて遺体の第一発見者となったという。事件性は状況から判断するしかないと葛木は思う。そこに、検視官が臨場してきた。室井警視である。現場を臨検した室井は他殺だと断定する。白骨化した遺体を鑑定した室井は舌骨に骨折の形跡が見られ、扼殺だと言う。
 初動捜査で、遺体は矢上幹男と妻の文代と推定された。3年前に矢上幹男が町内会長に引っ越しを理由に町内会退会を申し出ていて、その数日後の夜中に車が来て1時間ほどで走り去ったという。隣人は息子夫婦が二人を引き取っていったと判断したらしい。それ以来空き家と思われていたのだ。

 庶務担当管理官はこの春に着任した倉田であるという。倉田は5年前の足立区での女子大生殺害事件の時にこの事件を担当し、室井との間に凶器の見立てで意見が対立した。捜査本部の現場の混乱で、事件が迷宮入りするという因縁があった。つまり倉田には室井に遺恨があるようなのだ。捜査本部の設置判断は倉田の所管である。
 東京都監察医務院での検案の結果、担当監察医の結論は二体とも自然死だという。それに対し、室井は大学の法医学教室に再鑑定を依頼したいと主張し、なぜか、葛木の息子である葛木俊史管理官を巻き込んでいた。葛木俊史管理官は特命捜査対策室の事案として担当することを考えているという。
 そんな矢先、大原課長が遺体の引き取り手を探すために区役所と連絡を取ったことから、住んでいた二人は3年前の5月に豊橋市に転出していて戸籍上は存命として残っているという。二つの遺体は矢上夫妻ではない可能性が出て来た。池田と若宮が豊橋に出かけて矢上夫妻が存命かどうかを調べることになる。そこから事件は厄介な方向に動き出す。
 矢上夫妻の戸籍簿と住民票から様々な確認すべき事象が生まれてくる。矢上夫妻の息子昭正は四年前に勤務先の工場での事故で死亡。昭正の妻は除籍して旧姓で新戸籍を作り、一人息子はそこに転籍し、その息子はアメリカに居住していた。
 さらに矢上夫妻の住民票の住所地を現地で確認したことから意外な事実が明らかになってくる。加えて、豊橋に調査に行った池田は、予想外の話をもたらした。今は存在しないアパートの所番地に、実態のない住民登録がなされていた結果、沼沢隆夫という高齢者夫妻が去年に職権消除されている事例である。その人物の前の住所が、戸籍所在地と同一で、江東区住吉一丁目だという。さらに、居住実態のない住民票の問題が江東区大島町五丁目にもあった。高齢者の相場夫妻であり、戸籍上は生きている形になっている。そこに共通するのは、江東区と豊橋、そしてどのケースも高齢者の男女二人世帯という点だった。
 大原課長は事件にならず終わればと願っていたが、思わぬ事態が出て来たことから、本気で取り組もうと微妙に積極的になってきた。葛木がトップで、池田・若宮・山井の4人でこの事件の専従チームを組めと決断する。

 白骨の女性死体から砒素が検出されたことから、殺人事件として立件された。とりあえず特命捜査対策室扱いの事案として具体的な捜査活動が始まる。葛木俊史管理官のもとに特命捜査対策室第三係の5名と城東署の葛木以下の専従チームが捜査に取り組むことになる。それでも事件に対し捜査一課の司令センターの担当係と倉田庶務担当管理官は静観する立場をとる。俄然、大原課長以下捜査員の所轄魂に火がつくことに・・・・。
 捜査活動で事実と証拠が累積され明らかになってくると、思いも寄らなかった側面が浮上してくる。あるカルト教団が背景に絡んでいるということが浮かび上がってくる。また、警察組織内部にも問題が繋がっていた。そして衝撃的なクライマックスへ展開していく。二体の白骨化した遺体の発見が、捜査プロセスを通じ最終段階でスケールの大きな事件に拡大して行くところが読ませどころと言える。

 捜査活動は砒素の検出事実から本格的に始まることになる。このストーリーの興味深いところ、おもしろみはいくつかある。列挙してみよう。
1. 殺人事件として立件する判断が微妙なであるケースが存在しうるという一例が、フィクションという形ではあるが提示されていること。事件としての立件つまり、入口を通り抜ける前段に、ある意味で重要な判断のステージがあること。そこが描かれていて興味深い。
2. 3年という時間が経過し、現場が風化している状況の中から、捜査活動の糸口をどこに見出していくかという点での取り組み方と視点が描き込まれている。殺人事件発生直後からの捜査でないというところに、捜査プロセスの違う進展というおもしろみが加わっていく。
3. 捜査活動は事件に関する事実と証拠の究明、事件解決に向けての論理的な推論プロセスの描写という側面が重要である。一方で、捜査に取り組むメンバー間の人間関係の有り様が、捜査の進展でのアクセルにもブレーキにもなるという側面がつきまとう。このシリーズでは、所轄魂というキーワードが使われる位に、人間関係での情動や情熱の側面が捜査員の人物評価も含めて具体的に描き込まれていく。このところが興味深い。それぞれの捜査員をどう活かすかという局面も大いに関係していく。特に城東署の捜査員若宮がこの事件の捜査プロセスで自ら意識変革していく局面も描き込まれていて、一つの読ませどころとなっている。葛木が息子を思う気持ちがところどころに織り込まれていくところも、このシリーズの特徴と言える。
4.戸籍と住民票との関係並びにその行政上の手続きがこのストーリーの一つの要になっている。行政上「職権消除」という制度があるという。この小説でそんな制度があることを初めて知った。この職権消除という制度を悪用した殺人事件というモチーフがここで取り上げられている。職権消除されると、その住民票に記載された人物は住所不定となる。職権消除は戸籍上は生きているが、所在は不明という事態に措置する手続きだそうだ。「失踪都市」というタイトルは、まさにここから来ている。
 こんな一文が記述されている。「悪用する手段は簡単だ。日本全国どこでもいいから、適当な住所に架空の住民登録をするだけでいい。あとは一定の期間が過ぎれば、自治体が居住の事実なしと判断し、頼まなくても消除してくれる。」(p150)恐ろしい一文と言える。
5.捜査プロセスの途中から、この合同捜査チームに倉田管理官が強行犯捜査一係の橋川をお目付役として、送り込んでくるという要素が加わる。橋川は前の部署は警務部で、監察だったという。そして、自分は連絡役として来たが、何のために来たのか良く分からないと言う。「現場のことで見聞きしたことを報告するようにという話なんです。つまりスパイをやれということでしょうかね」とあっけらかんと言う。葛木たちがこの橋川をどう扱うか。また橋川が己の立場としてどういう行動を取っていくか、この点が読ませどころのひとつにもなっていくおもしろさが加わる。
6.今回もノンキャリアの所轄署係長・葛木と息子でキャリアの俊史管理官との間で交わされる会話がこの小説の底流にある。警察組織内の問題事象について、要所要所で批判的視点での会話が交わされ織り込まれていく。勿論それは警察組織に限らず、巨大組織に内包される問題事象にも通じることなのだが、建設的批判という立場での親子の会話が描写されていく。著者の批判的精神が問題提起として提示されていると受け止めた。読者にとっては、警察組織とその機構を考える材料になる。

 お読みいただきありがとうございます。

この小説のテーマに関連して、関心事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。統計で見る孤独死(2018):過去15年で2倍以上に増加 :「横浜ベスト遺品整理社」
孤独死の現状  :「株式会社デイライト」
身元不明死者情報ページのリンク集 :「警察庁」
全国包括 身元不明者およびご遺体の捜索サイト
職権による住民票の消除の取扱いに関する要綱 :「国分寺市」
住民票の職権消除に関する事務取扱規則
失踪者  :ウィキペディア
年間8万人も! 行方不明者どこに消えるのか  :「日刊ゲンダイ」
本当は怖い世の中 年間の行方不明者の数  :「NAVERまとめ」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館

『沈黙法廷』 佐々木譲 新潮社

2020-01-03 23:52:17 | レビュー
 2015年春から2016年にかけて、全国の新聞数紙に連載小説として発表されたものに加筆修正されて、2016年11月に単行本となった。上掲画像は単行本の表紙である。2019年11月に新潮文庫の一冊になっている。調べてみると、2017年にWOWOWの連続ドラマWとしてドラマ化されていた。
 
 プロローグ(-という明記はないが-)には、二つの場面が描かれる。
 一つは、久里浜の東京湾フェリー・ターミナルの二階から始まる。平成25年6月1日、東京湾の対岸、千葉県金谷までの乗車券を手に、高見沢弘志が中川綾子を待つというシーンである。中川綾子は遂に姿を見せなかった。高見沢はほぼ5カ月前に、横浜・桜木町のネットカフェで、お互い客同士として知り合った。二人とも職探しでネットカフェを宿代わりに利用していたのだ。高見沢は待ちぼうけをくらった後、綾子が勤めていると言っていた横須賀の食品加工会社に電話をする。だが、そんな従業員はいないと言われて通話が切れた。
 もう一つは、警視庁赤羽警察署である。午後10時に刑事課の捜査員、伊室真治が、部下の西村敏と一緒に聞き込みから戻ってきた時、東京湾第二弁護士会の矢田部完が国選弁護人として、留置されているホームレスの男の身柄を引き取りに来たところに出くわすというシーンである。そのために必要な手続きを1日で行い、午後10時に身柄の引き取りに来た場面である。西村が「何かの事案でああいう弁護士に当たると、やりにくいでしょうね。」と感想を語ると、「伊室は、同意する、とうなずいた」という文が末文となっている。そのやりぬくいでしょうねということが、この小説の中で始まって行く。

 赤羽署管内、北区岩淵にある元金物屋をしていたという民家で殺人事件が起こる。63才でひとりぐらし、一昨年には浄水器を、最近業務用の40万円もするマッサージ・チェアを買っているという馬場幸太郎に、島田と相棒の市原が訪ねて行く。彼らはいわば悪徳リフォームの営業部隊である。表の引き戸が軽く開いたことから屋内に入る。いつもの手順で点検と称しつつ部屋に上がり込み、マッサージ・チェアで死体を発見した。自分たちに嫌疑がかからないように警察に通報し、第一発見者となる。通報を受けて、現場に向かったのが刑事課の伊室と西村である。この事件は彼らの担当となる。
 聞き込み捜査から、馬場幸太郎の日常生活が大凡明らかになっていく。親の代では金物店が開かれていた。被害者は大学卒業後、就職で家を離れ、離婚暦があり、実家に戻ってからは一人暮らし。親の遺産を継ぎ、かなりの不動産を所有していて、今は勤めてはいなかった。ごく最近、所有土地をコンビニにするという計画事案により、不動産管理委託会社から、現金300万円を受領していたことが判明。その現金はなくなっていた。離婚した妻と暮らす息子・昌樹が近年、父・幸太郎の許に訪ねてくるようになっていた。その昌樹が起業して、メイド喫茶を経営したいという計画に、父幸太郎は出資する約束をしていたという。日常、時折家事代行業・ハウスキーパーの派遣を頼み、世話になっていた。池袋の家事代行業者とは、以前にトラブルを起こしていた。一方で、時折、赤羽駅南口に所在する赤羽ベルサイユに電話してデリヘル派遣を依頼していた。ここ2年位は、3ヵ月に1度くらいの常連だという。直近の2回は、トモミと称する落合千春が出向いていたという。被害者の自宅近くまでは、赤羽ベルサイユの事務所から車でトモミを送迎していた。トモミは被害者宅の通りからは奥にある勝手口から毎回出入りするよう指示されていて、勝手口に鍵はかかっていなかったとトモミは言った。
 
 この事件は捜査本部設置が決まり、警視庁捜査一課の鳥飼達也が加わってくる。伊室は鳥飼と組み捜査に臨むことになる。西村はふたりのサポート役となり、本部詰めでデータベースやウェブサイトでの調べ物や電話連絡を担当する。
 事件の捜査が進む過程で、フリーで家事代行業を行う山本美紀という女性が事件発生の頃に、被害者宅に出入りしていた事実が浮かび上がってくる。
 西村が運転し、伊室と鳥飼が、山本美紀の自宅に赴き本人に任意同行を求めようとすると、埼玉県警大宮署の警察車両が先着していたという事態に遭遇する。大宮署刑事課の北島は伊室に警察手帳を示し、1年半ぐらい前に大宮で年寄りが殺された件で山本美紀に事情聴取するために来たのだと言う。事案が先に発生していると強調し、山本美紀を同行して行く。これで山本美紀による連続殺人の可能性という疑いが生まれてくる。そこから、鳥飼は数年前に世間を騒がせた首都圏連続不審死事件を連想し、状況証拠だけで警察が立件した事件を引き合いに出してきた。
 事件捜査の様相が一変していく。東京都と埼玉県との警察組織間において、事件解決への競合意識が生まれていく。互いの捜査に対するあらぬ推測が行き交う局面が現出する。つまり、捜査を歪めかねないノイズの要素が加わっていくことになる。鳥飼は事件の筋読みに己の強引な解釈を加えていくことになる。
 このあたりから、ストーリーの展開が読者にとっては興味深く、面白くなっていく。
その先は、あまり語らぬ方が良いだろう。状況証拠の積み上げで、結局捜査本部は山本美紀を被疑者として逮捕することに踏み切って行く。

 プロローグの冒頭で、高見沢が中川綾子に待ちぼうけを食わされたというシーンがあった。これがどういう関連をしていくのかといぶかりながら私は読み進めていた。山本美紀が被疑者として逮捕されたとのテレビ報道がなされたのを高見沢が見たことから、高見沢の回想が広がって行く。高見沢と中川綾子との一時期の関係の深まりが刻銘に思い出されていくのである。その回想がこのストーリーの底流となっていく。
 一方、逮捕された山本美紀には、矢田部完が国選弁護士を引き受けることになる。山本美紀は取り調べに対し、黙秘する行動を取る。さらにこの事件は裁判員裁判の対象となり、その裁判の場でも、検事によるある論及場面から被告が沈黙するという行動を取るに至る。「沈黙法廷」というタイトルは、山本美紀のこの行動が生み出した異常な雰囲気の発生から名付けられたと言える。

 この小説は単行本で555ページに及ぶ長編である。全体の章立ては、上記したプロローグに相当する場面描写、「第1章 捜査」、「第2章 逮捕」、「第3章 公判」となっていて、第3章の末尾に、エピローグに相当する部分が含まれている。
 しかし、内容的にはエピローグ、捜査から逮捕・取り調べまでの「前半」と弁護士による被疑者(依頼人)への接見・地裁での公判および判決とエピローグに相当する部分の「後半」という二部構成になっている。勿論、弁護士による接見の始まりは被疑者が逮捕された時点で弁護士依頼があった時点から始まり、警察による取り調べと並行過程がまずある。つまり明確には分けられない期間がある。そこは「第2章 逮捕」の最終ステージになっている。しかし、接見から裁判の準備が始まるのでここでは敢えて後半と捉えると、「前半」が272ページ、「後半」が283ページという配分で構成されている。
 弁護士の接見から始まり、公判・判決にいたる裁判闘争のプロセスに大きなウエイトが置かれた小説であることがこのページ数の配分からでもうかがえる。かなり克明に裁判プロセスを描写していくところが後半の読ませどころである。そして、公判中に被告が沈黙し黙秘するという行動に出るというハプニングまで起こる。強盗殺人で起訴されているので、無罪判決で無い限り、死刑か無期懲役の判決が出るという裁判においてである。被告のこの行動は裁判員や裁判官にネガティブな印象を与えかねない。
 
 この小説の視点はいくつかあると思う。
1.前半は馬場幸太郎が殺害され、300万円が消えた事件の捜査プロセスが具体的に描写されていく。そのプロセスで捜査一課の鳥飼による事件の筋読みとその問題事象が具体的になる。埼玉県警の事件が絡むことにより、警察組織内部に潜む問題事象も描き込まれる。捜査プロセスに潜む問題事象を抉り出す視点が一つの読みどころになる。その一方で、地道に事件に関わる事実情報、証拠がどのような捜査活動により集積されていくかのプロセスが具体的に描かれるので、大凡の捜査の実態が理解できるところが興味深い。
2. 国選弁護人がどういう手続きで選ばれ、接見という行為がどういう手続きで行われるかが理解できる。そして、接見という行為が裁判で被告となる被疑者にとり、如何に重要かということもイメージしやすい。
3. 裁判では、裁判長・検事・弁護士の間でまずどのような手続きを経て公判が始まるのかが具体的に描かれている。読者にとってはそのプロセスが理解しやすい。つまり、裁判報道で映像になるのは、公判プロセスで光が当たる氷山の一角に過ぎないことがよくわかる。
4.このストーリーを読み、冤罪がどのように起こるかというその一端を垣間見る思いがした点が印象深い。状況証拠の累積は、その解釈と判断のしかたによって過誤を生み出す恐ろしさを秘めている。この辺りが公判の読ませどころとなっていく。
5. プロローグに相当する箇所では、被害者馬場幸太郎の強盗殺人事件に対する赤羽署刑事課の伊室のスタンスと行動が少しだけ描かれる。それがこの事件の余韻となる。
 そして、中川綾子とは何者かについての一つの視点(解釈)も記されていて、事件に関するストーリー上の一応のエンディングがきまる。
 『沈黙法廷』のその後、つまり続編がいずれ生まれるかも知れないという期待を持たせる。そこがある意味でおもしろい終わり方である。

 ご一読ありがとうございます。