遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『希望の峰 マカルー西壁』  笹本稜平  祥伝社

2021-03-27 09:37:30 | レビュー
 著者の小説はいくつかの分野に広がっている。冒険小説、山岳小説、警察小説などである。さらに山岳小説と警察小説が融合したものもある。
 本書はそのタイトルからもわかるように、山岳小説である。さらに「ソロ」シリーズの完結編に位置づけられているようだ。私は本書を読んでから、これが「ソロ」シリーズの一環だったことを遅ればせながら知った。『ソロ ローツェ南壁』『K2 復活のソロ』との三部作になるそうだ。いずれこれらの前作に溯って読んでみたい。

 この小説は、ローツェ南壁とK2のソロ登攀に成功した奈良原和志がマカルー西壁に挑むというストーリーである。
 マカルーを西陵から目指すイタリア隊、北西稜から目指すスペイン・アルゼンチン隊の登攀中に、和志がマカルー西壁の下見で現地にいる場面から始まる。ビッグウォールを見上げて、率直に広川友梨に対し「恐いんだよ」と和志が語る。

 著者はヒマラヤ山脈とその登攀に関する事実をストーリーの文脈に沿って要所要所に巧みに織り込んで行く。読者にヒマラヤ山脈8000m峰登攀の超人的な困難さ、その障壁要因を例示しながら、その中でのマカルー西壁の位置づけをまず明確にしていく。
 
 前2作を読まずにこの完結編を最初に読んでしまった。前2作の登攀事実に触れられているが、この小説だけを独立して読む事に全く支障はない。逆に本書で先の2回のソロ登攀の成功とそこでの障壁が詳述されているプロセスについて作品自体に溯って読みたいと動機づけられている。この小説の中だけでも関連するヒマラヤ山脈の山々とクライマーの登攀記録の事実についてかなり知ることができた。
 ヒマラヤ山脈8000m峰が14座あり、その内エベレストを含めて9座がネパールと中国との国境に存在するということを初めて知った。ネパール国内では北端にダウラギリ(8167m)があり、南東方向に8000m峰が連なって南端のカンチェンジュンガ(8586m)に至る。エベレスト(8848m)の南にローツェ(8516m)があり、ローツェ・シャール(8383m)が東に連なる。ローツェから南東方向にかなり離れてマカルー(8463m)が屹立している。
「エベレストの南東19キロに位置するマカルーは標高8463メートル。ヒマラヤのビッグ5の一角を占める世界第5位の高峰だ。西壁は標高差2700メートルに達し、7800メートルの高所から8400メートルまで続く壮絶なヘッドウォール(頂上直下の岩壁)は、垂直というより、その一部が巨人の額のように空中にせり出している。」(p10)とまず描写する。
読者はそんな西壁をソロでどのようなタクティクスのもとに登攀していくのかと惹きつけられていくことになる。

 シリーズとして連続していると思うのだがこのストーリーの基本構図は明確である。
 奈良原和志はソロのクライマーとしてマカルー西壁の登攀に挑む。
 和志はノースリッジという登山用具の開発から販売までを手がける新進気鋭の日本の会社からスポンサーシップの支援を受ける。ノースリッジはドロミテでの転落事故が原因で企業家に転身した山際が艱難辛苦の上に築き上げ、山際の登山に対する情熱が息づく会社である。友梨はノースリッジのマーケティング室長。和志の遠征には常に同行し、サポート役並びに公報の窓口としてその役割を担う。
 和志には磯村がいる。登山技術を学んだ師であり、かつ一緒に登攀を目指すチームメンバーでもある。その磯村の体は癌に冒されていて、彼は癌との闘いと登山との折り合いをつけつつ和志にハッパをかけ、和志の山への挑戦を方向づけ、支援する。
 和志のマカルー西壁ソロ登攀の遂行と成功は、余命の長くない磯村には己が果たし得ない夢であり、和志に託す希望でもある。
 著者は「人は一人では生きられない。ソロは一つの戦術に過ぎない。ローツェ南壁もK2のマジックラインも、あくまで磯村や友梨、山際とのパートナーシップで為し遂げられたものなのだ。」(p245)と和志の思いを記している。

 対立する人物-マルク・ブラン-が和志につきまとう。彼は父親が有名なクライマーであり、その七光りによりグループ・ド・オート・モンターニュの会員となった。父親のラルフが会員だったことから、その資格を継承できたのだ。マルクは資産を引き継いでいた。マルクはソロ登攀で実績を積み上げていく和志を意図的に妨害する立場を繰り返し取ってきていた。
 一方、ネパール政府はヒマラヤでの単独登山を禁止し、併せて身体障害者の登山も禁止する。加えてパーティーにシェルパの同行を義務づけるという方針を打ち出そうとしていた。ヨーロッパのクライマーたちは、それらの方針はアルピニズムに対する冒涜であると憤る。単独登山禁止の方針を出そうとする背景には、政府高官との交流をもつマルクの裏面工作が噂に上っていた。

 この背景の下で、和志のマカルー西壁へのチャレンジは果たしてできるのか。登攀は成功するのか。この基本的な構図となる背景が読者の関心を惹きつける。

 西壁の下見で現地にいる和志は、西陵登攀の成功を目前にしたイタリア隊の隊員たちが予期せぬ大規模な岩雪崩に遭遇してしまった状況を目撃する。それが西壁へのチャレンジのしかたに影響を及ぼす始まりともなっていく。ストーリーのあらすじは以下の展開となる。
1. 救出行
 和志は救援に名乗り出る。友梨はノースリッジを介してSNSで世界のクライマーに救援を呼びかける。アルピニズム精神と商業登山の現状が描き出されて行く。フランス隊のアラン・デュカス、ジャン・サバティエという新進気鋭の2名のクライマーが救援に参加する。和志、アラン、ジャンが救出に向かう。コンタクトが取れた生存者はミゲロ一人である。救出プロセスが克明に描出されていく。

2. ドロミテでのトレーニング
 帰国した和志の西壁登攀への思いは複雑だ。そこに、入院療養中のミゲロから連絡が入る。西壁登攀の準備としてドロミテがトレーニングの格好のゲレンデになると。イタリア隊の隊長だったカルロが和志に協力する形となっていく。和志、磯村、友梨にノースリッジの社員・栗原が加わる。ミゲロとカルロの協力を得たドロミテでのトレーニング状況が描かれる。
 読者にとっては、ドロミテと登山技術の知識が副産物となる。知らなかった地名・山名や登山用語が次々と出てくる。たとえば登山用語では、クリーン・クライミング、ミックス・クライミング、ドライツーリング、ヴィア・フェラータなど。

3. 冬季マカルー西陵国際隊の結成、和志の国内でのトレーニング、ライバルの出現
 カルロを隊長として、ミゲロ、アラン、ジャンが冬季にマカルー西陵を登攀する計画が浮上する。ネパール政府の方針の裏をかく方策を磯村を初め皆で考える形になる。国際隊に和志もメンバーとして加わり、現地に入山後、西壁ソロ登攀という別行動を取るというアイデアだ。山際はノースリッジがこの国際隊のスポンサーシップをとると決断する。
 和志は日本国内でできるトレーニングを重ねていく。
 一方で、マカルが今冬、大型遠征隊を率いてマカルー西壁を狙うプランをフランスの著名な山岳雑誌に発表する。和志の西壁登攀計画が未公表であるにもかかわらず、マカルがそれをターゲットに阻止するねらいの手を打ち始める。マカルは和志のソロ登攀に対し、極地法のタクティクスを取るという。
 疑心暗鬼の中で情報収集活動が一種脅威感を抱かせつつ始まっていく。読者にとっては今後の展開がおもしろくなる。

4. 南半球のアルゼンチン フィッツ・ロイ登攀という西陵・西壁想定のトレーニング
 冬季マカルー西陵国際隊のメンバーは、西陵・西壁を登攀するための想定訓練地として、フィッツ・ロイに集合する。
 フィッツ・ロイの登攀は訓練というよりもそれ自体が貴重な登攀経験になる。気象に異変が発生する中で、ミゲロ、アラン、ジャンの登攀と和志のソロ登攀の状況が克明に描き込まれていく。これ自身が一つの登攀ストーリーになっていく。

5. 磯村が症状急変により入院。和志は帰国後に再会。西壁登攀に磯村がどのように関わるか。
 磯村が突然に倒れた。癌の症状が悪化していたのだ。妻・咲子の機転で最悪の状況には至らなかった。和志は頼りにしている磯村にどう対応していけばよいのか。
 磯村への和志の関わり方、磯村自身の心境と決断などがに焦点が当てられる。山際は磯村に対するサポートを惜しまない。

6. ネパールへ ベースキャンプ入り
 アランが総隊長となった大型遠征隊が既に標高5200mのベースキャンプ地を占拠していた。冬至の日の12月22日にベースキャンプ入りした和志たちの国際隊は、さらに50mほど上のモレーンにキャンプ地を設置する羽目になる。
 だが、結果的にこれが幸いした。巨大雪崩が発生したのだ。和志たちはキャンプ入り後、ライバル隊のベースキャンプの被災に対し、救援行動をとる事態から始まって行く。
 このプロセスはマルクの本質を曝すことになり、ライバル隊の隊員たちから浮き上がった存在になっていく。そして、隊長を引き受けていたアリエフが実質的にこの隊を掌握し、極地法による西壁登攀の実行に着手していくことになる。アリエフはフェアに和志との西壁登攀を競うというスタンスを示す。
 
7. マカルー西壁登攀
 第10章の最後の数ページから「第11章 心のパートナー」「第12章 約束」にかけて和志の西壁登攀行程の描写となる。
 日本に居る山岳気象の予報士である柿沼から登攀のゴーサイン連絡が1月14日午後2時すぎに入る。同日午後9時に和志は西壁登攀をスタートする。落石や雪崩のリスクの少ない夜間の時間帯に西壁を登攀するという昼夜逆転の登攀行動が始まっていく。「とことん自分の登攀をする」(p283)それが和志の決意である。
 和志の行動を中心に、西陵を登攀するミゲロ、アラン、ジャンの状況が点描される。一方、和志のライバルとなるアリエフらの極地法による西壁登攀状況が要所要所で織り込まれていく。
 この西壁登攀の描写と和志の思いの描写が、当然ながら読ませどころとなっていく。
 それは想像を絶する登攀のプロセスである。

 和志自身の体力と登攀技術がベースにあるものの、登山用の服装と登山用具の強度・軽量化など総合的な技術の進歩が大きく貢献していることを実感させる。フィクションとして描かれているが、技術的な側面は現代の登山技術の実情を反映させていることだろう。
 本書から印象深い章句をいくつか引用し、ご紹介しよう。
*登れるかどうかはそのときの判断だ。風を受けての登攀には、技術や体力では乗り越えられない壁がある。  p249
*アルピニストにとって、死はいつも傍らにいる伴走者だ。 p271
*しかし死を覚悟して山に登るわけではない。だから登攀中、絶えず死の危険にさらされてはいても、自らが迎えるべき運命としての死をことさら意識することはない。 p271
*落ちたら死ぬという恐怖も、自分の技量への疑念も消え去る。自信満々でもなく戦々恐々でもない。「いま」と「ここ」という時空の交点で、不思議な充足を感じる自分がいる。 p275
*こと細かに指示を受けるわけではない。アドバイスに逆らうこともしばしばだ。しかしパートナーとはそういうものだ。ただそこにいてくれることが、お互いにとって支えになる。そのとき言葉さえ交わす必要がない。 p285
*ヒマラヤは人間に対して親和的な場所では決してない。・・・・・そのヒマラヤを愛するのは、アルピニストと呼ばれる人々の永遠の片思いにすぎない。山そのものは善でも悪でもない。人間を愛しも憎しみもしない。そんな冷厳な事実を認めることこそが、ヒマラヤを登るクライマーにとって、アルファにしてオメガというべきルールなのだ。 p318

「ソロ」シリーズの完結編となる本書の最後の部分をご紹介して終わりたい。
「友梨の弾んだ声が耳に飛び込んだ。心のなかにこれまで感じたことのない新鮮な感情が湧き起こった。それは和志にとっていま始まろうとしている新しい旅への予感なのかもしれなかった。」
「いま始まろうとしている新しい旅」というフレーズはダブルミーニングであると感じた。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書から関心事項の幾つかをネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ローツェ :ウィキペディア
厳冬期ローツェ南壁初登攀 田辺治写真展 :「つれづれなるままにFocus」
K2 :ウィキペディア
ドロミーティ :「イタリア政府観光局」
イタリアの自然遺産、ドロミテ街道で幻想的な絶景を巡る旅 :「We ? Expedia」
ドロミテ(イタリア)ハイキング   YouTube
-4K-パタゴニアの名峰フィッツロイ/チャルテン-Symbolic Peak of Patagonia, Fitz Roy/Chalten(Argentina/Chile)  YouTube
ロス・トレス氷河湖より望むフィッツ・ロイ山系 :「パタアゴニア地方の写真集と旅行記」
セロ・トーレ:理性からの逸脱 ケリー・コーデス :「patagonia the Creanest Line」
リスクの計算 マイキー・シェイファー : 「patagonia the Creanest Line」
パタゴニア旅行ガイド | エクスペディア  YouTube
ヴィア・フェラータ基礎知識  :「RedBull」
アルパイン・クライミング :ウィキペディア
[解説] 最もハードな登山スタイル?アルパインクライミングとは :「YAMA HACK」
現在のミックスクライミング最前線の動画 :「雪山大好き娘。+」
ベルグラのミックスクライミング|Climbing Image Movie 霧積ダム周辺の沢 YouTube
ラサウの牙 アルパインクライミング ミックス クライミング 登山 【北海道雪山登山ガイド】 YouTube
ドライツーリング(drytooling)とは?  :「drytooling.net」
断崖絶壁で一泊!―重さわずか1.5キロのポータレッジ「G7 POD」:「えん乗り」
クリフキャンピングが教えてくれる5つの発見  :「RedBull」
ダーフィット・ラマ  :ウィキペディア
一枚の写真から 山野井泰史  :「MAGIC MOUNTAIN」
<日本一のアルパインクライマーが語る(3)> 山野井泰史 「経験したことと、記録されたもの」 :「NumberWeb」
難攻不落の山ベスト9  :「RedBull」
登山家一覧  :ウィキペディア

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この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『駐在刑事 尾根を渡る風』   談社文庫
『駐在刑事』  講談社文庫
『漏洩 素行調査官』  光文社文庫
『山岳捜査』  小学館
『公安狼』   徳間書店
『ビッグブラザーを撃て!』  光文社文庫
『時の渚』  文春文庫
『白日夢 素行調査官』  光文社文庫
『素行調査官』  光文社文庫
『越境捜査』 上・下  双葉文庫
『サンズイ』  光文社
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館

『とんちき 耕書堂青春譜』  矢野 隆  新潮社

2021-03-26 11:01:49 | レビュー
 表紙の大首絵を見るなり、この作品の役者名を知らなくても、写楽の絵を連想する。
 「とんちき」というタイトルがおもしろい。私にはその感じがわかるだけで、関西で育った日常生活ではなじみのうすい言葉のように思う。そこに「耕書堂」と「青春譜」という言葉の組み合わせ。「耕書堂」は版元蔦屋重三郎の経営する店の号。「青春譜」という言葉は誰かの青春時代の行動譚をイメージさせる。これらの絵と言葉の連なりだけで既に私にはちょっとアトラアクティブだった。

 写楽とは東洲斎写楽のこと。本書の奥書から、表紙のこの大首絵が「谷村虎蔵の鷲塚八平次」とわかる。読後に調べてみると、東京国立博物館の所蔵にあり重要文化財に指定されている。だが一点違いがある。表紙絵は谷村虎蔵の頭頂部、さかやきが青色に摺られている。「e國寶」で公開されている作品に青色はない。版摺り時期での変化だろうか。
 それはさておき、これは「江戸三座役者似顔絵」のうちの一つだという。そして、「江戸三座役者似顔絵」と称する大判錦絵の方に「東洲斎写楽は、寛政6年(1794)5月から翌年1月までのわずか10ヶ月の間(途中閏月がある)に140点を超える版画作品を残して忽然と姿を消した。すべての作品が版元蔦屋重三郎から出版されているが、師弟関係などが無く、謎の絵師とされている。」と簡潔な説明が記されている。このことは、この小説の時期設定に関係していく。

 「とんちき」という言葉を『新明解国語辞典』(三省堂)で引くと載っている。
”[「とん」は、とんまの意。「ちき」は、「いんちき」「らんちき」と同義の接辞]「気のきかないまぬけ」の口頭語的表現。「この--め」”と説明されている。
 「耕書堂」をネット検索して、東京都中央区日本橋大伝馬町13に、「蔦屋重三郎耕書堂跡」の案内板が中央区教育委員会により設置されているという記事を見つけた。写真とグーグルの地図も載っているので、ああこのあたりに登場人物たちが屯していた耕書堂があったのか・・・・・・と具体的に重ねることができて興味が増す。本書では「通油町(とおりあぶらちょう)にある耕書堂」として登場する。

 この小説に出てくる主な登場人物を列挙してみよう。
 蔦屋重三郎 地本問屋・耕書堂の主。喜多川歌麿を浮世絵師として売り出した。
       出版についての名プロデューサーである。幕府の倹約政策に批判的。       
       このストーリーでは、歌麿との確執が底流の話となっていく。
 喜多川歌麿 要所要所で登場。蔦屋と縁を切ろうという方向を選択する。
       江戸で絵師として絶頂期にあり別の版元の費用持ちで吉原に居続ける。
       耕書堂から大首絵が売り出された時の歌麿の思いと行動が興味深い。
 山東京伝  既に江戸で名の知られた一流の戯作者(33際)として登場する。
       蔦屋とは良好な人間関係を維持する。青春譜の該当者たちと交流する。
 幾五郎   ストーリーの冒頭に出てくるのがこの男。青春譜が描かれる内の一人。
       駿河生まれで江戸で奉公した武士。侍を辞め、上方で義太夫の師につく。       
浄瑠璃が性に合わず、滑稽本に出会い、戯作者を志して江戸に戻る。
       耕書堂を頼ればなんとかなるという思いを起点に戯作者をめざす男。
       世の中をおもしろおかしく生きたいという好奇心旺盛の男。
 鉄蔵    耕書堂に出入りを認められている絵師(34歳)。未だ売れない絵師。
       勝川春章の弟子だったが師匠の死で流派を離れ、耕書堂に出入りする。
       重三郎は鉄蔵の絵師として将来性を見抜いて面倒をみている。
       絵師として名が売れる前の時期が描かれていく。青春譜が描写される一人。
       下戸で甘い物好き。他人の懐に土足で入り込む。あの男は馬鹿と評される。
 斎藤十郎兵衛 江戸詰めで、阿波蜂須賀家お抱えの能役者。
       絵が好きで小銭稼ぎをねらう。だが顔しか描かないという変わった男。
       似顔絵を描かれた本人が必ず怒ると鉄蔵は幾五郎に言う。
       普段は無口で陰気。影が薄い存在に徹しているきらいがある。
       ストーリーでは重三郎が十郎兵衛の絵に魅了されそこに賭ける行動に出る。
       写楽誕生のサブストーリーが青春譜の一つとして描き込まれていく。
 瑣吉    江戸深川生まれ。滝沢家の次男。武士を捨て、戯作者となると決意する。
       京伝の家に住みつく。曲亭馬琴という筆名で黄表紙を書いている。
       京伝の意を受けた重三郎を介し下駄屋の入り婿となるが鬱屈が深まる。
       世間の嗜好と瑣吉が描きたいものとの間のギャップに懊悩する青春譜。
       瑣吉が目指すのは、英雄豪傑の活躍する物語の世界である。

 このストーリー、そのメインは幾五郎、鉄蔵という耕書堂に出入りする食客的存在の二人と瑣吉と称される駆け出しの戯作者の3人が耕書堂との関わりの中で織りなす一時期の行動の顛末を描き挙げて行く。瑣吉はペンネームを既に持ち本も書いている。だが戯作者として己の描きたいものが未だ描けない段階で下駄屋の入り婿となり、鬱屈が高まっている。その三人が行動する背後に影のように十郎兵衛も加わり行動に連なる姿が描かれる。
 十郎兵衛の場合は、蔦屋重三郎と歌麿との間での確執が背景として大きく作用する。十郎兵衛の得意な大首絵にあるとき蔦重が目を付ける。東洲斎写楽という筆名で役者絵を描かせる賭けに出て、写楽を一時期世に出していく。この小説ではサブストーリーの展開という位置づけだと私は思っている。だが、このストーリーの中では独立峰的に話が纏まってもいて、ある意味で完結している。著者は一つの写楽仮説を描いているとも言える。
 つまり、このサブストーリーでは役者絵の領域で、蔦重、歌麿、十郎兵衛という三人の関係の顛末譚にその比重が移る。蔦重と歌麿の確執がなければ東洲斎写楽が世に出なかったかもしれないと思わせるところがおもしろい。また、なぜ写楽が忽然と消えたのかも一つの仮説として描き込まれていく。そこに、歌麿の視点からの描き込みがあって興味深い。

 そこで、メインストーリーに関してなのだが、一つの事件の謎解きが彼等の青春譜を描き込むネタになっている。鬱屈した瑣吉が失踪する。蔦重は耕書堂に転がり込んできた幾五郎を鉄蔵に付けて、瑣吉探しを命じる。瑣吉は一時放浪の末、鉄蔵の住む長屋を訪れるが間違って隣家の部屋に入り込む。そこで首吊り死体を発見して大仰天してしまう。長屋に戻って来た鉄蔵と幾五郎は、隣家の部屋に居る茫然自失の瑣吉に気づく。さらにその部屋の主である長唄の師匠の首吊りを知る。この事件がストーリー展開の発端となる。
 京伝に引きつれられて吉原の座敷で一行が遊んだとき、芸者の一人が、あの長唄の師匠は自分で死ぬような人じゃないと京伝につぶやいた。それを幾五郎が聞きかじった。それが契機となって鉄蔵が中心になり謎解きが始まって行く。
 鉄蔵、幾五郎、瑣吉にとって、この長唄の師匠の死に対する謎解きを試みる紆余曲折の行動は、彼等が絵師あるいは戯作者として世に名が知られていく前の青春の譜となる。この顛末譚が彼等3人のその後を方向づけていく。
 瑣吉、鉄蔵、幾五郎は三者三様の道を歩むことになるが、このストーリーは彼等が共に行動した時代を切り取って、その関わりの有り様を描き出す。
 ストーリーのプロセスで、戯作者・瑣吉のことは大凡誰であるか、徐々に推測が固まっていく。そのヒントが各所に出てくる。ところが、鉄蔵と幾五郎については、推測できるほどのヒントは無いように感じた。二人については最後まで後の世に知られる名前は伏せられたままでストーリーが進行する。誰だろう・・・という楽しみが最後まで継続した。勿論、先に知ってから、その名の人物の無名時代の話として楽しむこともできる。が、ここではやはり伏せたままにしておこう。
 最後のページで、著者は瑣吉、鉄蔵、幾五郎が誰であるかその戯作者あるいは絵師として後の世に知られた名前を明らかにする。

 このストーリーは「しかし今はまだ、彼等の行く末を誰も知らない」という一行で終わる。つまり、ここでは耕書堂に屯した3人の「とんちき」な青春譜がメインストーリーとして描き出されている。

 おもしろい切り口のストーリーとなっている。興味深い構想が展開され、フィクションのウエイトがかなり大きい小説という印象を受けた。楽しめる小説である。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して関心事項をネット検索した結果を一覧にしておきたい。
江戸出版界の名プロデューサー、蔦重こと蔦屋 重三郎 :「岩下書店」
東洲斎写楽  :ウィキペディア
谷村虎蔵の鷲津八平次 :「e國寶」
江戸三座役者似顔絵  :「e國寶」
蔦屋重三郎耕書堂跡  :「4travel.jp」
蔦屋重三郎  :ウィキペディア
蔦屋重三郎  :「江戸ガイド」
  本書表紙の「耕書堂青春譜」の文字下の図柄のソースが掲載されている。
  版元として出版物に口上を述べる姿絵として登場!
黄表紙   :「コトバンク」
洒落本   :「コトバンク」
山東京伝   :ウィキペディア
山東京伝  :「ジャパンナレッジ」
山東京伝の見世  :「文化遺産オンライン」
曲亭馬琴  :ウィキペディア
滝沢馬琴  :「コトバンク」
日本が世界に誇る天才たちの、青き時代は面白い! とんちき 耕書堂青春譜 :「新潮社」

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『無頼無頼ッ! ぶらぶらッ!』   集英社
『蛇衆』 集英社


『瓦に生きる 鬼瓦師・小林平一の世界』 小林平一 駒澤琛道[聞き手] 春秋社

2021-03-19 13:54:07 | レビュー
 寺社探訪を継続してきて、その一環で鬼瓦の写真を撮るようになった。探訪記録写真レベルにすぎないが、このコロナ禍でのステイ・ホームで過去に訪れた寺社探訪の記録写真から鬼瓦の写真を抽出してみようという気になった。
 やり始めて、ふと「瓦」についてほとんど考えたことがなかったことに気がついた。そこで調べてみると、少なくとも数冊は瓦についての書籍が出版されている。
 

 最初に読んだのが森郁夫著『東大寺の瓦工』(臨川書店)である。

 東大寺で使われてきた瓦に的を絞って、歴史的に瓦自体の変遷を詳述するとともに、東大寺に関わった瓦工、造瓦所とその組織などについて論述している。考古学を専攻された研究者の立場からまとめられた本である。瓦の形状と種類、瓦の歴史の基礎、東大寺における瓦についての知識を学ぶのに役だった。

 一方、本書はインタビューによる対話をまとめたものである。その点でも読みやすい。副題に「鬼瓦師」とあるように伝統を継承する瓦製造の世界で活躍してきた小林平一氏に写真家・エッセイストであり臨済宗建長寺派建長寺徒弟として僧籍をもつ駒澤琛道氏がインタビューした対話記録である。
 小林氏は姫路市にあって、文化財修理用瓦製造・葺き上げの瓦職人として生きた人。瓦職人であった父の仕事を継承し小林伝統製瓦という会社の経営者でもあった。
 大阪にある四天王寺の修復に父親と共に従事し、飛鳥様式に復原するという古建築分野でのトップの博士3人の要求に対応しながら瓦を造り葺いたという。松山城・姫路城・二条城・熊本城の修復用瓦の製造、また兵庫県にある円教寺・鶴林寺・太山寺・光善寺や京都の東福寺・清涼院・妙心寺、岡山県の本蓮寺・眞光寺など、数々の寺院の瓦修復を手がけてきた人物だ。
 
 本書は二部構成になっている。第一章は小林氏の「半生」について駒澤氏が聞き出した様々な話がまとめられている。第二章は小林氏が文化財に指定されている城や寺社の瓦の復原を試みて製瓦を葺き上げてきたことにまつわるエピソードを交えた瓦そのものについての話である。

 第一章は人生譚であり実に興味深い。文化財修復用の伝統的瓦の職人一筋に生きてきた人かと思いきや、実にいくつかの顔を持つ多才な人物だった。
 第一は父の技を継承して更に独自に技術を発展させた瓦職人の顔である。
 第二は「トリバアネアゲハ」という蝶を専門とするコレクターであり研究者の顔である。いくつもの新種を発見し、学会で発表されているという。その分野では知る人ぞ知るという人。世界最大のアレキサンドラアゲハの標本を収蔵されている。
 本書を読むと蝶のコレクション自体について、将来のことを検討されている側面に触れられた箇所が出てくる。読後に調べてみると、小林氏は2002年に鬼籍に入られた。そしてその蝶のコレクションは、「小林平一コレクション」として姫路科学館に収蔵されている。ここでそのコレクションの蝶の同定と整理が継続されているという。
 第三は、鳥の研究でみせる顔。昭和15,6年ごろからコウノトリを調べ続けてきたという。聞き手の駒澤氏曰く、世界の学会でも有名人だそうである。
 第一章には蝶と鳥にまつわるおもしろいエピソードがいくつも語られている。
 小林氏は昭和19年11月に招集令状を受けて戦地・満州に送り込まれシベリア虜囚となった。この時の過酷な体験が語られている。その話は昭和史の一面として貴重な記録になっている。また、メタセコイアの木について語る話はおもしいろい。

 第二章は小林氏の本職、瓦の話である。瓦職人という視点から瓦の歴史と瓦の種類をまず語る。読者にとっては瓦に関する基礎知識を学ぶ機会となる。ここから始まるので、私にとっては、まず知りたいことが満たされた。上記の『東大寺の瓦工』と併せて、まず基本知識の幅を広げることができた。
 その先に、学者先生との共同作業としての文化財修復に絡んだ裏話、苦労話がエピソードとして語られている。この部分は興味深いし実におもしろい。瓦職人ここにありという感を抱かせる。次の一節はその一例の結論部分である。「屋根には結露という大きな問題がありますし、重い瓦は地震のときに木部の力を分散することも忘れてはいけません。机上の理論だけでは絶対うまくいかんのです。木も生きている、土瓦も生きている、共に生かすも殺すも用法次第。それを知っているのが匠であり、それが一千四百年の伝統技能でしょう。」(p122-123)
 鬼瓦の歴史について小林氏は語るとともに、代表的な瓦の事例が本書に収録されている。この点、歴史を知るうえでもいい勉強になる。要点を簡略に一部ご紹介してみよう。
 *最初の鬼瓦は単弁蓮華紋。蓮華紋は飛鳥時代~平安時代。単弁から八重の複弁へ変化。
   最も古いとされる単弁蓮華紋(四天王寺)
 *獣面の鬼瓦は奈良時代~鎌倉時代後期。平安時代は意外と少ない。
   白鳳期の鬼(兵庫・来栖廃寺)、わが国最初の一角獣面鬼(四天王寺、鎌倉初期)
 *二本の角を持つ鬼瓦は室町期~現在。鬼瓦は室町時代が全盛期で最高のものが多い。
   兵庫・弥勒寺本堂:額に月/日を頂く鬼瓦(室町後期)、鬼門の鬼瓦(明応7年)
   岡山・弥勒本蓮寺:舌をのぞかせた鬼・鬼門(明応7年)、十字三鈷杵を頂いた鬼(室町後期)
   兵庫・鶴林寺:三面の鬼(室町) など。
 
 鴟尾についても興味深いことが語られている。4尺(1.2m)を超える大きな鴟尾を作るという経験話が興味深い。「最も重要なのは粘土の上手な錬り法と接着法なのです」(p132)と語る。
 勿論、その続きに鯱についても語られて行く。姫路城大天守閣大棟鯱の原寸復原を小林氏が手がけている。「やはり姫路城の初代の鯱が、上に上げたときいちばん立派ですね。下に下ろすと不細工だけれど、高いところに置いてつくづく見ると、勇壮で心打たれます」(p158)と語る。姫路城大天守の鯱は初代から六代まできちんとわかったと言う。
 復原について、小林氏は持論を語っている。「単に写真や図面からアウトラインを再現するのは真の復原ではありません。発掘品や在来の現品を横において、正確に時代様式をならうのです。ですから、私たちの保存している各個体は、十年、三十年、五十年にわたり、時によると親の代が当時復原した品もあり、近年できたいわゆる『コレクション』ではないのです。」(p138-139)と。

 第二章の最後に、小林氏が手がけたロンドン平和仏舎利大塔の屋根工事の話と、モンゴル・アマルバヤス寺院の修復工事を指導したときの経験が語られている。この経験談もおもしろい。

 伝統的な瓦について知るには、読みやすさの点を含めて、一読の価値がある。
 本書は1999年2月に出版された。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
小林平一氏死去/鬼瓦師 2002/09/20 :「SHIKOKU NEWS 四国新聞社」 
小林伝統製瓦
鯱瓦~棟込瓦の端部に取り付ける守り神~ Photo Gallery :「鹿島」
町のしごと 小林伝統製瓦  :「三川屋」
姫路城の鯱瓦  :「姫路城が見える風景写真」
London's peace pagoda LONDON :「BBC」
THE PEACE PAGOTA: AN INSIDE LOOK INTO THE BATTERSEA LANDMARK
小林平一コレクションについて :「姫路科学館」
トリバネチョウ  :ウィキペディア
アレクサンドラトリバネアゲハ :ウィキペディア
ゴライアストリバネアゲハ :ウィキペディア
コウノトリ  :ウィキペディア
兵庫県コウノトリの郷公園  ホームページ

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『デトロイト美術館の奇跡 DIA: A Portrait of Life』   原田マハ  新潮社

2021-03-11 13:53:07 | レビュー
 アメリカの自動車産業が隆盛を極めた時代の中心地、その象徴としてデトロイト市があった。デトロイト市はアメリカの自動車産業の凋落の中で、債務超過となり財政破綻に陥いる。2013年7月に連邦破産法9条の適用を申請した。負債総額は180億ドルを超えた。その時、財政再建のためにデトロイト美術館のコレクションを売却する案が俎上に上った。読後にネット検索して調べてみて当時の報道記事も入手できた。この事実を当時はそれほど意識していなかったことを再認識した。
 100ページ弱のこの中編小説はその時の状況、事実を背景にして紡ぎ出されたフィクションである。コレクションの売却という案は撤回され、デロイト美術館が独立行政法人として存続できるようになる緯を点描風に描き出す。ここでは4人の主な登場人物の視点でその経緯を点描として織り込みながら、DIAと主な登場人物の関わりが生まれ、描かれていく。その関わり方を通してデトロイト美術館の存在価値が浮彫にされていく。
 この小説ではポール・セザンヌの描いた≪マダム・セザンヌ≫という絵がデトロイト美術館を象徴的する作品として登場する。本書の末尾には、カバーの挿画の題としてなぜか≪画家夫人≫と訳されている。デトロイト美術館の公式サイトで所蔵品を調べてみると本文での表記と同じ≪マダム・セザンヌ≫である。デトロイト美術館関連の紹介記事をいくつかみると、特にこの作品が際だって面にでてくることはなかった。小説を書くにあたり、著者が意識的にこの絵を一つの象徴としてクローズアップしたのだろう。ゼザンヌの絵は、日本の読者にはゴッホの絵と同様に親しまれているということが考慮されたのかもしれないし、著者の好みの反映かもしれない。この作品は、ここに登場する人々をリンキングしやすい結接点としてうまく機能している気がする。

 さて、この小説は4章から構成されている。フレッド・ウィル、ロバート・タナヒル、ジェフリー・マクノード、が順次各章の主要人物として登場し、最後にダニエル・クーパーが登場する。そして、人々の繋がりができていく。
 この小説には本文に出てくる次のフレーズが創作のモチーフにある気がした。最初に引用しておきたい。
「DIAのコレクションになっているアートを『友だち』と呼び、美術館は『友だち』の家」(p84) ⇒DIAはデトロイト美術館(DETROIT INSTITUTE OF ARTS)の略称。
「ほんとうに困っているときには手を差し伸べる。理由なんかいらない。躊躇する必要もない。だって、友だちなんだから--。」(p85)
「文化財たるアートは、デトロイト市民の、もっといえばアメリカ国民のものである。これを散逸させ、国外に流出させてしまっては、国益も損ないかねない」(p89)
 このストーリー、登場人物のアートへの情熱が涙を誘う。美術愛好家には一読の書といえるのではないか。その展開プロセスは興味深く読める構想になっている。
 
 章毎に簡単な読後印象をご紹介しておこう。
第1章 フレッド・ウィル ≪妻の思い出≫ 2013年
 まず美術愛好者の登場。フレッド・ウィルは自動車産業の業績悪化で13年前に40年も溶接工として勤めた自動車会社を解雇された年金生活者。レイオフされた後、妻のジェシカに「あなたがリタイアして、時間にも心にも余裕ができたら・・・・あたし、一緒に行きたいと思ってたの。デトロイト美術館へ」と語りかけられる。そして、ジェシカと美術館通いを始めたフレッドは美術愛好者となる。フレッドはDIAでセザンヌの描いた≪マダム・セザンヌ≫と出会う。
 フレッドが亡くなった妻のこと、DIAに通うようになった経緯とDIAのことを語る。そして、≪マダム・セザンヌ≫を友だちと感じ、またこの≪マダム・セザンヌ≫にジェシカの面影を重ねている己の思いを語る。
 美術愛好者が美術館に寄せる思い、美術館を媒介にして思い出を語る口調が心をなごませてくれる。
 第1章末尾の一文は、新聞報道の見出しである。「デトロイト市財政破綻 DIAのコレクション 売却へ」
 
第2章 ロバート・タナヒル ≪マダム・セザンヌ≫ 1969年
 デトロイトの資産家で、社交界で美術品のコレクターとして認識されていたロバート・ハドソン・タナヒル自身の回想である。ロバートは亡くなるまで、≪マダム・セザンヌ≫を自宅リビングの一等地に飾り、この絵を愛した。ロバートは、≪マダム・セザンヌ≫を初めて目にし、セザンヌの作品を介して、18,19世紀のヨーロッパ美術のコレクタ-からモダン・アートのコレクターに転換していく経緯を回想する。ロバートはDIAに己の収集品を寄贈する有力なサポーターだった。
 コレクターであるロバート・タナヒルの≪マダム・セザンヌ≫への思いが語られていく。ロバートの死後、その遺志により≪マダム・セザンヌ≫がDIAの一室の壁に掛けられることになる。
 DIAが秀でたコレクションを所蔵することになる一側面を描き出している。コレクターの存在と寄贈という側面が美術館にとって一つの重要な要素であることをこの章は物語っているといえる。
 DIAの公式サイトを見ると、この≪マダム・セザンヌ≫には、「Credit Line」の項に「Bequest of Robert H. Tannahill」と表記されている。「bequest」 は「遺贈」を意味する。 つまり、実在した人物が伝記風にフィクションとして描き込まれているのだろう。

第3章 ジェフリー・マクノイド ≪予期せぬ訪問者≫ 2013年
 DIAのコレクションを売却するというニュースを新聞報道で知ったDIAのキュレーター、ジェフリー・マクノイドの驚天動地と苦悩の心境を描き出して行く。彼は≪マダム・セザンヌ≫に思い入れがあった。ジェフリーはパリ大学でフランス近代美術史を学び、セザンヌの作品を研究対象にしていた。サンフランシスコ近代美術館のアシスタント・キュレーターに就職した後、DIAにキュレータとして転職してきた人物。
 ジェフリーの目を通して、デトロイト市が財政危機に陥った状況や美術品売却が俎上に登っている事実とその背景、市の退職公務員の年金支給問題などが描き込まれていく。そして、その渦中でのキュレーターの悩みを描く。予期せぬ訪問者とはフレッド・ウィルのことである。
 フレッドの行動、その行為と彼の語る言葉が読ませどころとなる。ジェフリーはたぶんモデルになるキュレーターがいるだろうが、ここではフィクションとして創造された人物と私は思う。

第4章 デトロイト美術館 ≪奇跡≫
 デトロイトのダウンタウンにあるセオドア・レヴィン連邦裁判所での美術品売却問題に関する重要な会議を焦点としながら、その前後の経緯を含めて描かれて行く。裁判官ダニエル・クーパーが、4人目の主な人物としてここに登場する。彼はデトロイト市と債権者たちの間に立つ主席調停人としてこの会議の進行役を担う。ジェフリーはダニエルに頼まれて、彼のすぐ後の席でこの会議を傍聴する立場になる。
 デトロイト市の財政破綻の状況が明らかにされ、ダニエルがある提案をしていく経緯が描き込まれていく。そして、会議の結論をジェフリーが真っ先に知らせたい人物はフレッドだった。二人のメール交信が続く。
 これも事実を踏まえながら、登場人物はフィクションを交えて描かれているようだ。
 この章に出てくる「グランド・バーゲン」という解決プランは、後掲のリストの一記事に記されていて実際の話なのだ。そのアイデアは「破産宣告を出した連邦政府の下級裁判所判事、ジェラルド・ローゼン氏」だそうである。
 事実とフィクションを巧みに織り交ぜて、美術愛好者たちの交流の深まりが描き出されている。アートへの様々な人々の愛が、デトロイト美術館の美術品売却を阻止し、美術館の存続という奇跡を生み出したのだ。
 これはデトロイト美術館の誕生から苦境を乗り越えて現在に至る美術館歴史物語である。物言わぬ美術館の代わりに、それぞれに立場が違うがアートが大好きという人々がそれぞれの視点から行動し、DIAを浮彫にする物語である。
 デトロイト美術館、できればいつか行ってみたい美術館がまた一つ増えた。

 本書は「芸術新潮」(2016年5月~8月号)に連載され、2016年9月に単行本として出版された。

 ご一読、ありがとうございます。

本書に関連する事項で関心を持ちネット検索した事項で主なものを一覧にしておきたい。
デトロイト  :ウィキペディア
破産を乗り越えて「再生」へ向かう都市、デトロイトの現在──新たな文化の誕生と、立ちはだかる課題  :「WIRED」
民間投資か゛牽引する「破綻都市・テ゛トロイト」の再生 2017.6.21 :「SB」
DIA DETROIT INSTITUTE OF ARTS  公式ウエブサイト
   ポール・セザンヌ マダム・セザンヌ 1886-1887 油彩画
デトロイト美術館  :ウィキペディア
Detroit Institute of Arts  From Wikipedia, the free encyclopedia
米デトロイト美術館、市の財政破綻で存続の危機 2013年10月28日:「AFP BB News」
デトロイト美術館展に見るアメリカの底力 青野尚子 :「pen」
デトロイト美術館:65,000点以上の美術品を収蔵!アメリカ屈指の規模を誇る美術館
:「Travel Book」
デロイト美術館展(2016年) 大阪市立美術館 :「閑人の美術館目次」
ポール・セザンヌ  :ウィキペディア
ポール・セザンヌの作品一覧  :ウィキペディア

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『風神雷神 Jupiter, Aeolus』上・下  PHP
『たゆたえども沈まず』  幻冬舎
『アノニム』  角川書店
『モダン The Modern』   文藝春秋
『翼をください Freedom in the Sky』  毎日新聞社


『ブラタモリ 15 名古屋 岐阜 彦根』  角川書店

2021-03-07 22:08:59 | レビュー
 本シリーズの第15弾。NHK「ブラタモリ」制作班の監修による出版(2018.12)である。長くなるので標題では略し、ここに表記しておきたい。
 本書には「名古屋」(2017年6月10・17日放送と同年11月18日放送)、「岐阜」(2017年12月2日放送)、「彦根」(2017年12月9日放送)が収録されている。これらの番組は当日の放送を視聴していた。しかし、本書を読み始めてその時のことを思い出すとともに、かなり記憶が曖昧になっているなということを痛感した次第。写真やイラスト図を参照しながら本文を読み進め、再認識する個所も多く、知識として捉え直すためのいい復習になった。活字は即座に要所要所で読み直す、チェックすることができてやはり便利だ。現地に関する基本知識を学び直し整理するのに役立った。

 本書の基本構成コンセプトについて繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
  *ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
  *番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
  *番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
  *同行アナウンサーの番組裏話 本書は近江友里恵さんのトーク
である。

 本書から私が学んだ要点を私なりに整理し覚書としてまとめてみたい。それが本書を開いてみようという誘いになれば幸いである。
 このシリーズの面白味はこれらの要点がどのようなアプローチで解き明かされていくかにある。番組の語り口調を思い出させ、読みやすい本文の流れと説明により写真やイラスト図のビジュアルなサポートにつながり放送番組の雰囲気を思い出させてくれた。
 基本知識の大凡の要点だけであるが、ご紹介しよう。

<名古屋>
テーマ1「尾張名古屋は家康でもつ?」
*室町時代以降、尾張の中心地は清洲(名古屋の北西約6km)だった。家康が名古屋を築く。
*名古屋城は「象の鼻」形の舌状台地の北端部に築城された。南の再突端部に熱田神宮が存在
 交通の重要拠点である熱田(港町)と連関する構想で家康は名古屋城と城下町を築造した。
*名古屋城の延べ床面積は日本一。高さは江戸城、大坂城に次いで全国3位。
 現在の天守は昭和34年(1959)の再建。焼失前の天守の姿を忠実に再現している。
 天下普請による築造。石垣を担当した大名により使われた石の種類が違う。
 城は北と西に低湿地が広がる。南と東に水堀と搦手馬出の空堀で防御。守り強く攻めにも強い。
*名古屋は平和の時代を見越した町づくりとなっている。町人地が現名古屋の中心地に。
 名古屋城の南に町人地、その南が武家地。町人地は1辺およそ100mの碁盤割の城下町
 町家の出入口は東西南北のすべての通りに面する形の町割に。中央に空き地ができる形
 江戸時代、真ん中のスペースに寺や神社が立地、または空き地(町家の共有地:会所→閑所)
  ⇒清洲から数万人の町人を共同体のままで移住させた。清洲の地名が名古屋の地名に。
*熱田と名古屋城を結ぶ「堀川」(運河)を台地の西側「ヘリ」に沿って南北に開削
  ⇒幅20mほどの堀川は高潮の影響を受けない台地斜面の少し高いところに造られた。   
名古屋と熱田の南北の距離は約7km。物資運搬の重要交通水路が確保される。
   堀川沿いは木材の巨大な集散地となる。名古屋の発展にも寄与した。
   また、熱田は明治40年(1907)に名古屋市に編入されるまでは独自の地位を維持
*江戸時代の東海道は、熱田の「七里の渡」と桑名間は海路を交通路とした。
  ⇒濃尾平野は西の養老断層へ沈む形で傾き、西側は木曽三川の集る交通障壁地域
   木曽三川(揖斐川・長良川・木曽川)の集結で氾濫や流路変化の発生する地域

テーマ2「名古屋が生んだ”ものづくり日本”とは」
*「都道府県別製造品出荷額等」は平成26年(2014)に43.8兆円。38年間連続日本一
  ⇒自動車、鉄道車両、航空機、人工衛星、陶磁器等
*堀川の河口近くに白鳥貯木場ができ、木材産業発祥の地に。木材加工製造業が発展。
 伝統的な木材加工技術のひとつ「からくり人形」の技術が機械製造技術に応用される。
  ⇒事例:からくり人形の「カムの原理」の応用として豊田佐吉の発明による自動織機   
佐吉の自動織機・紡績機の成功が、息子・喜一郎の自動車製造創業の土台になる。
*名古屋城の外堀に敷設された瀬戸電気鉄道(瀬戸電)が瀬戸の陶磁器を輸出品に。
  ⇒瀬戸で白無地の陶磁器を焼き、名古屋北西部で絵付け。瀬戸電・堀川経由で出荷
   昭和40年代まで、陶磁器は名古屋港の輸出品のトップだったという。
*産業振興のために昭和5年(1930)、堀川の西に閘門式の中川運河がつくられた。
  ⇒上流は笈瀬川、下流は中川と呼ばれていた自然河川を人工の運河に変換
   最大川幅91m、狭いところで60m以上。昭和39年(1964)が利用のピーク(年間75,000隻)
*名古屋市東部の丘陵部には450年代後半の焼物出土。それ以降焼物づくりがつづく。
 ものづくりのルーツに。東山動植物園の植物園内で鎌倉時代初期の登り窯址が発見された。

<岐阜> テーマ「岐阜は信長が夢見た”平和の都”!?」
*岐阜城のある金華山の地質はチャート。強固な地盤が城を支え「魅せる城」だった。
 2つの頂の間に二段の石垣を築き、巨大要塞に見せた。無用な戦いを回避するため。
*信長は長良川での鵜飼の席を「接待」に利用し、敵対する相手との友好関係形成を図る。
*信長は山の麓に壮麗な館と庭園を造った(「織田信長公居館跡」)。
 巨大な岩盤はチャートの褶曲を見せるために人工的に削られ庭園の景色に組み込む。
 2本の人工の滝、4階建ての豪壮な建物が建てられていたと推定できるとか。
*信長は特産品の美濃和紙を書状に用い、平和外交・コミュニケーションの道具に使う。
*川原町には長良川の水運を利用した川港があった。美濃和紙を利用した工芸品、岐阜うちわ
*現在の岐阜元町付近が楽市楽座の発祥の地。信長の平和政策の象徴である。
*信長は稲葉山城を得て、町の名前「井ノ口」を「岐阜」に改称。城名を「岐阜城」に。 
岐阜のいわれは中国の岐山と曲阜という地名にあるという。「岐」+「阜」
  ⇒岐山:中国に太平をもたらした周の文王を生んだ地。曲阜:学問の祖・孔子を生んだ地
   尾張の政秀寺の禅僧、沢彦宗恩の進言「岐山・岐陽・岐阜」から信長が選んだという説も。

<彦根> テーマ「なぜ家康は”彦根がイイ”と思った?」
*江戸時代、徳川家康が井伊家に彦根城を築かせた。
 琵琶湖と鈴鹿山脈に挟まれた狭い場所に位置し、中山道や北国街道などの通る交通の要衝地。
*井伊直政は当初佐和山城に入った。井伊直政の死後、長男直継が継承。
 家康が後見し、家老の木俣氏が主導し彦根城築城が開始された。
 彦根城の築城にあたり、石垣の石をはじめ多くの部材が佐和山城から運び込まれた。
*彦根城は豊臣方の西国大名に対する鉄壁の防御かつ大坂を攻める拠点を意図した。
 城の北側には内湖、西側は琵琶湖。南側と東側を強固にするだけで鉄壁となる。
 「鐘の丸」は二段の石垣で防御。大手道は直線的で緩やかな長い坂道(じんわり疲労)。
 狭い袋小路状になった大堀切、天守閣の破風に普段は穴を塞ぎ白壁に隠した狭間など。
*大手道がまっすぐなのは、城下町の人々に見せつけ、その先にある立派な天守により権威を示すという意図もあったと思われるとか。
*城の北側の内湖は船着場としても利用され、物資を運ぶ良港として機能した。米の運搬。
*城の南側の芹川を人工的に付け替え、琵琶湖にまっすぐに流れ込む川にした。
 三重の堀と芹川で湿地帯の排水をし、人が住める広大な土地に転換。
*芹川の近くに、京の非常事態に備え京都守護の役割を担う足軽の足軽屋敷の地域をつくる。
*城下町の道は意図的にズレを作り、角に辻番所を設け、監視を足軽の仕事に。
 足軽はその他、石垣の修理、川の工事、城の警護など。一方で、弓や鉄砲の鍛錬も。
*彦根の伝統産業、仏壇製造は、江戸時代に武具や武器の製作職人が仏壇製造に転向したのが始まりといわれる。技術の共通性:漆、金具、金箔など。
 ⇒彦根の仏壇は工部七職が各工程を担当し、最後に組み立てて完成させる。
  木地師、宮殿師、彫刻師、漆塗師、金箔押師など7人の職人。熟練の技の結合と統合。

 私が理解したのはこんなところ。本書を開く誘いになれば幸いだ。テーマに対するアプローチの仕方と説明の語り口調や写真、イラスト図とのコラボレーションを楽しんでいただきたい。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連した事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
名古屋城 公式ウエブサイト
名古屋城  :ウィキペディア
熱田神宮 ホームページ
岐阜城 信長が天下統一を目指した町 みちしる :「NHK」
岐阜城  :「岐阜市」
岐阜城 :「岐阜市漫遊」
岐阜城  :ウィキペディア
信長の夢の跡  :「ぎふの旅ガイド」
国宝彦根城 公式ウエブサイト
彦根城  :ウィキペディア
足軽屋敷 :「彦根文化遺産」
伝統工芸 :「彦根文化遺産」

    インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ブラタモリ 3 函館 川越 奈良 仙台』 角川書店
『ブラタモリ 7 京都(嵐山・伏見)志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』 角川書店
『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』  角川書店
『ブラタモリ 13 京都(清水寺・祇園) 黒部ダム 立山』  角川書店
『ブラタモリ 16 富士山・三保松原 高野山 宝塚 有馬温泉』  角川書店

『翼をください Freedom in the Sky』  原田マハ  毎日新聞社

2021-03-06 16:45:00 | レビュー
 冒頭の本書カバーに使われている写真はこの小説を読んだ後、ネット検索で調べていて、実在した女性飛行士アメリア・イアハートの写真であることを知った。1931年オートジャイロでの最高到達高度記録を樹立、1932年大西洋単独横断飛行に成功、1937年5月赤道上世界一周飛行に挑戦し、7月2日アメリカ領ハウランド島を目指す飛行途中で消息を絶った、という。
 さらに、本書でもう一つの史実を知った。1939年(昭和14年)8月26日東京を起点に機長を含む7名の乗組員が純国産の双発プロペラ機「ニッポン」号で世界一周飛行に挑戦し、10月20日東京に帰還したという事実である。こちらは現在の毎日新聞社の前身である大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が企画し、社有機で為し遂げた世界一周記録だ。手許にある高校生向けの日本史年表や学習参考書にはこの事実は載っていない。序でに、載っていることを書き出すと「1939年 チェコスロバキア解体。独軍、ポーランド侵入、第二次世界大戦始まる」という世界の時代背景がある。

 この小説は、世界の飛行史に残るこの2つの史実をモデルにして、巧妙かつ意外な組み合わせの着想を加えて一つのフィクション、つまり世界一周飛行物語を描き出した。史実の大凡がストーリーの中に取り込まれ、それがフィクションとして潤色されている。ストーリーの構成における一捻りが読ませどころとなっていく。
 この小説には、実在した歴史上の人物が数名フィクションの中に織り込まれている。アメリカのフランクリン・D・ルーズベルト大統領、物理学者アインシュタイン、日本海軍次官山本五十六である。これらの人物がこのストーリーの中で果たす役割がこのフィクションにリアル感を加えているように思う。

 2007年、アメリカ中部、カンザスシティの空港をレンタカーで出た青山翔子がアチソンに住むことまでは確かめられた山田順平を探しに向かうシーンからストーリーが始まる。
 青山翔子は暁星新聞社の長野支局から東京本社社会部に異動したばかりの記者である。彼女は暁星新聞社創立135周年記念企画記事のテーマを考える会議に組み込まれる。そして、社会部デスクの森川から暁星新聞主筆の岡林泰三にインタビューし記事を書くことを指示される。インタビューを終えた時、青山は岡林から「君、記者やめなさい」と言われる。「自分の主張に相手を引っぱり込もうとする。それじゃ、僕のインタビューじゃない。君のインタビューだろ」と。その岡林が「わが社の黄金期を創った社員は何人かいます。戦前、航空部所属カメラマンだった山田順平などは、歴史に置き去りにされてしまった人物・・・・もっと評価されていもいいのではないでしょうか」と語ったのだ。青山の書いた原稿のこの個所に着目した森川は、青山に山田順平という人物を洗ってみろと指示する。
 森川の指示を受け青山は山田順平についてリサーチを始める。資料室司書の協力を得て「ニッポン 世界一周より帰還、羽田にて、昭和14年10月20日」というキャプションの記事に山田順平の名を発見する。それは国際親善飛行の世界一周だった。それは近づく戦争に向けて列強が軍備を増強していた時代の渦中で世界一周を試みるという挑戦だった。
 資料として残る山田順平の撮った写真の中から、翔子は風変わりな1枚の写真を見つける。ニッポン号から降りてきた乗組員が歓迎を受けている場面の写真。だがそこに奇妙な塗りつぶしがあることに気づいたのだ。この一枚の写真からすべてがスタートしていく。
 青山は同期の鮎川亮の協力で、画像処理により塗りつぶしの背後に黒髪の少年の首が写っていることを発見する。また、別の山田順平が写っている写真を部分拡大しもう一つの重要なヒントを見つけだす。それは翼の形をした小さなプレートに見えるAmy. E という文字である。そこからエイミー・イーグルウィングという女性パイロット名にたどり着く。
 その結果が青山をアチソンに向かわせることになる。アチソン到着の翌日偶然にも山田順平の居所を知ることができた。90歳近い年齢になっている山田順平を訪ね青山はインタビューする。山田順平は、1928年のカンザス州アチソンに溯った時点から話を始める。山田順平が語る回想は、大きくとらえると二部構成の形でその時代に進行する現在のストーリーとして描かれていく。
 前半はエイミー・イーグルウィングに関わるストーリーである。1928年、エイミーがカナダ東部のニューファンドランド、ハーバー・グレースから飛び立ち大西洋をノンストップで横断する飛行記録を樹立し、カンザス州アチソンの自宅に戻っている場面から始まる。エイミーは女性飛行士として脚光を浴びる。
 この記録の樹立は、副操縦士ビル・スタート、整備士兼副操縦士ボビー・マコーミック、地上通信士のトビアス・ブラウンとのチームの成果だった。そこには辣腕プロデューサーで、飛行資金のスポンサーを集めてくるジョナサン・マックウェルが背後に居た。彼は出版社を経営する一方、航空ショーをはじめ、様々な飛行記録への計画をエイミーに準備していく。だが、エイミーとジョナサンの間には何時しか齟齬が生まれていく。
 エイミーは、なぜ飛ぶのかというインタビュー質問に対し、「世界はひとつである、それを証明するためです。」「私たちは孤立してはいけない。ひとつの世界を生きる人類として、栄光と自由、そして平和を分かち合わなければならいのです。」と答える。「世界はひとつである」がエイミーの信念となっていく。
 前半のエイミーのストーリーでは、エイミーの大西洋単独横断飛行記録の達成、ルーズベルト大統領との面談、アインシュタインとの偶然の出会いと会話が続きに描かれる。アインシュタインはエイミーに言う。「世界はひとつじゃないんだ。だからこそ・・・大事なのは・・・・共存すること」と。ストーリーは、赤道上世界一周飛行計画の準備進展とその実行へと展開して行く。この世界一周計画を、アメリカ海軍が全面的にサポートし、さらにこの飛行計画に対し米国領のホーランド島にこの飛行のための専用の滑走路を造るという。エイミーとビル・スタートはこの世界一周飛行計画に疑問を抱き始める。疑問を抱きつつもエイミーは、ボビーをナビゲーターとして同乗させるというジョナサンの考えを受け入れ、世界一周飛行に飛び立って行く。その飛行途中で、疑問だった謎に気づくことになる。そして、ホーランド島への飛行の途次に失踪する。このエイミーが抱いた謎の解明プロセスがひとつの読ませどころである。

 後半のストーリーに山田順平が登場する。1937年朝丘新聞の専用機「神風」が訪欧飛行に成功した。暁星新聞社航空部部員で操縦士の八百川玄作と部員でカメラマンの山田順平は競争相手に先を越されたことを悔しがる。その時山田はその先の世界一周を話題にする。この発案が社長の英断で実現へと歩み出す。瓢箪から駒のような進展だが、山田順平が想定した世界一周へのアイデアが動き始めていく。暁星新聞社の奥村社長は日本海軍の山本五十六中将を訪問し、海軍の飛行機・九六式陸上攻撃機の貸与を交渉する。山本は奥村に一つの条件をつける。海軍機を世界一周用の民間機に転用すべく三菱重工に発注され、暁星新聞社の社有機が生まれていく。一方で世界一周飛行の乗組員の厳選が始まる。この初期段階が一つの読ませどころとなっている。
 1939年に世界親善飛行として、世界一周飛行がスタートする。中尾機長を筆頭に計7名の乗組員が決まる。その中に操縦士・機関士として八百川、カメラマンとして山田順平が選抜されていた。
 三菱重工名古屋工場の格納庫で、完成した世界一周機、後に公募で「ニッポン」号と名付けられる飛行機に中尾、山田らは試乗する。この時、山田は乗組員7人に対し、彼の座席の後ろにもう一つ空席があることに気づく。それに疑問を抱く・・・・・。
 この後半の世界一周飛行は、史実の「ニッポン世界一周飛行記録(1939.8.26~10.20)」に則りながら、暁星新聞社で選抜された乗組員による世界一周飛行の歓喜と辛酸、チームワークの発揮を描くフィクションとして進展していく。重要なファクターとして、山田順平が疑問に感じた第8番目の席の意味が明らかになっていく。
 この世界一周飛行には、微妙な世界情勢の変化が影を投げかけていく。読者はストーリーを通じてこの時代の状況の変化と雰囲気を感じとることになる。

 なぜ、前半で女性パイロットのエイミー・イーグルウィングの半生が詳細に描き出されていくのか。そのプロセスを楽しみながら読み進めつつも、疑問を抱いたまま、後半を読み継ぐことになる。場面がゴロリと転換する。全く別のストーリーが日本国内の状況として始まって行く。
 東京を出発した「ニッポン」号は当初日本の最終離陸地を根室として飛行したが当日の気象状態により、札幌飛行場に着陸する。つまり札幌が最終離陸地となる。この日深夜零時過ぎに中尾機長が緊急会議を招集する。中尾がこの会議で第8番目の席の意味を明らかにする。8人目の乗組員を「ボーイ」と称して、メンバーに引き合わせたのだ。
 ニッポン号は8人の乗組員で札幌を離陸していく。それが山田順平のその後の人生に大きく影響を及ぼしていく。

 このストーリー、2つの史実の断片的記録が残る事実の空隙に、重要な仮説を組み込んで、大きく想像力を羽ばたかせフィクション化している。空を飛ぶということの辛苦と歓喜を技術面・身体面・心理面から描き込む。飛行機の乗組員とそのサポート要員の姿と絆をチームとして描き込んでいく。チームワークという側面、飛行のプロセスで培われる絆という側面がこのストーリーの読ませどころの一つになっている。
 一方、ストーリーの中に幾人かの恋心の有り様を織り込んでいく。こちらの側面もまた読ませどころである。誰が誰に対してなのかは、本書を開いてお楽しみいただきたい。読み方によっては、こちらこそと言うべきかもしれない・・・・。
このストーリー、その流れに感情移入していくと、数カ所で泣かせる物語でもある。その点も味わっていただくことになるだろう。体験から言えること・・・・。

 エイミーとアインシュタインに語らせた「世界はひとつ」「大事なのは共存」という言葉がストーリーの基調となっていく。
 本書のタイトルは「翼をください」である。一方、そこに「Freedom in the Sky」というフレーズが付記されている。 このふたつの照応関係に大きな意味があるように思う。

 「あとがき」を読むと、この作品自体が筆者を支えるプロジェクト・チームとの絆があって生み出されたことがわかる。著者の独創力だけで生み出された小説ではなく、作品として結実する背景にもチームワークがあったのだ。

 本書は2009年9月に単行本が出版され、2015年1月に文庫本となっている。
 
 ご一読ありがとうございます。
 
本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。その一部を一覧にしておきたい。
新しい女性像のシンボル アメリア・イアハート :「THE RAKE」
女性飛行士アメリア・イアハート「遺体はカニに食べられた!?」―その可能性:「Eaquire」
アメリア・イアハート  :ウィキペディア
ギャラリー:消えた伝説の女性飛行士アメリア・イアハート、今も続く探索 写真9点
:「NATIONAL GEOGRAPHIC」
80年前に消えた伝説の女性飛行士、今も続く探索  :「NATIONAL GEOGRAPHIC」
伝説の女性飛行士遭難の謎、異説が浮上 :「NATIONAL GEOGRAPHIC」
ニッポン(航空機)  :ウィキペディア
ニッポン世界一周大飛行  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
   11~14コマ目に本書末尾に掲載の「ニッポン世界一周大飛行記録図」が載っている。
世界一周機ニッポンと乘員  :「ニュースパーク 日本新聞博物館」
東日・大毎機ニッポン 世界一周大飛行コース:「ニュースパーク 日本新聞博物館」

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『風神雷神 Jupiter, Aeolus』上・下  PHP
『たゆたえども沈まず』  幻冬舎
『アノニム』  角川書店
『モダン The Modern』   文藝春秋

『モダン The Modern』  原田マハ  文藝春秋

2021-03-04 13:33:38 | レビュー
 本書はニューヨーク近代美術館の所蔵品及びその組織とそこで勤務する人々を題材に取り込んだ美術関連小説の短編集である。この美術館はMoMAという略称で親しまれている。以下ではこの略称で記す。冒頭の本書カバー絵は、ピカソ作「鏡の前の少女」であり、MoMA所蔵である。本書には5つの短編が収録されている。本書の奥書を読むと、著者の経歴の一部に「森美術館設立準備室、ニューヨーク近代美術館に勤務後、2002年にフリーのキュレーターとして独立」と記されている。フィクションとしての短編創作に、このMoMAでの勤務経験と体験が確たる基礎となり、記述のリアル感を高める作用を果たしているように思う。序でに、キュレーターとは美術館・博物館などに勤務する「学芸員」のことである。
 ここに収録された短編を通じて、副産物としてMoMAのことを一歩踏み込んで知る機会ともなって楽しめた。できれば一度ニューヨークに行き、MoMAを訪れてみたいと思う。そんな気にさせる。美術好き、展覧会好きの人々は読んでほしい短編集である。そうでない人は、美術や展覧会に目を向ける気にさせる小説と言えるかもしれない。
 収録された短編のそれぞれについて、簡略な読後印象を記し、作品をご紹介したい。

<中断された展覧会の記憶 Christina's Will>
 「ふくしま近代美術館 開館十周年記念 アンドリュー・ワイエスの世界展」という展覧会がやむなく中断される結果となる経緯を展覧会企画担当者側の交流関係として描いた短編である。この展覧会に、MoMAからアンドリュー・ワイエス作の「クリスティーナの世界」が貸し出された。なぜ、展覧会が中断される羽目になったのか?
 この短編はニューヨーク時刻で「2011年3月11日金曜日、午前6時55分。」という一文から始まる。マンハッタンの190丁目にある自宅アパートで、夫のディル・ハワードから杏子が声をかけられる。「キョウコ、ちょっと来てくれ。すごいことになってるよ」と。
そう、東日本大震災が発生したという報道!!
 杏子はMoMAの「展覧会ディレクター」。ふくしま近代美術館での展覧会への作品の貸し出しに関わっていたのだ。先方は学芸員の長谷部伸子が企画を担当し、MoMAへの窓口だった。
 3月14日月曜日、杏子は館長から「クリスティーナの世界」を引き上げることが理事会により決定されたと伝えられる。その時点ではフクシマの原発が爆発したという事実が伝わっていた。杏子は館長からふくしま近代美術館に行って作品を引き上げてくるという業務を指示される。作品の引上げは本来なら学芸員が出向く業務なのだが・・・・。
 展覧会中断に至る状況とそのプロセス、杏子ハワードと長谷部伸子の交流が描かれて行く。そこに、「クリスティーナ」が大きな意味を持っている。
 作品の引き渡しにおける杏子・伸子の交流の中で杏子がささやくように言う。「クリスティーナは、きっと、自分で決めてここへ来たんですよ」と。涙を誘う短編である。
 また、展覧会企画の舞台裏で行われる作品借用交渉などの一端がイメージできる作品でもある。

<ロックフェラー・ギャラリーの幽霊 Ghost in the Blanchette Hooker Rockefeller gallery>
MoMAの展示室内で監視員として勤務するスコット・スミスが主人公である。美術館に来館する人々は美術館にとっては、お客様である。その一面で、作品を傷付けたり盗むという行為を行う対象者かもしれない。美術館における監視員の業務を描きつつ、スコットがスコットが閉館に近い時間帯で見かけるようになった風変わりな青年との出会いのストーリーが紡がれていく。
 スコットがある日、その青年にあと30分で閉館の時刻だとていねいに伝えたとき、彼は「僕は、アルフレッド・バー。アルフレッドと呼んでいただいて結構です、ミスター・スコット」と微笑んで名乗ったのだ。
 スコットが勤務後に立ち寄る酒場「ハリーの店」の常連客から一冊の図録を借りることになる。それがスコットにとって幾度か出会うことになった青年の謎が解明できる契機になる。MoMAと深く関わる人物の幽霊だった・・・・。
 この短編には、モネの「睡蓮」、ジャクソン・ポロックとフェリッス・ゴンザレス=トレスの作品、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」と「鏡の前の少女」が登場する。また、ピカソ作の「ゲルニカ」とMoMAとの関わりのエピソードにも触れられている。興味深い短編。

<私の好きなマシン My favorite machine art>
 この短編を読み、MoMAが設立3年後に建築・デザイン部門を発足させ、1934年春に「デザインを美術館で見せる」、つまり、機械の部品を芸術作品として展示室に並べるという試みを世界で初めて行ったことを知った。「マシン・アート」の展示である。
 シンドラー書店を営む両親に連れられて8歳のジュリアはMoMAに行き「マシン・アート」を見て夢中になってしまう。ジュリアはMoMAの初代館長から語りかけられる。「ここにあるものはね、ジュリア。僕たちが知らないところで、僕たちの生活の役に立っているものなんだ。それでいて、美しい。それって、すごいことだと思わないかい?」
 この言葉がジュリアの中に残る。それがジュリアの人生の方向を決める。ジュリアはインダストリアル・デザイナーを目指す。
 この短編はジュリアと彼女の友・パメラの生き方を語り、この二人を介してMoMA初代館長の人物像を浮き彫りにしている。最後にスティーブ・ジョッブズを登場させるところがおもしろい。
  
<新しい出口 Exit between Matisse and Picasso>
 後で調べると、2003年2月13日~5月19日の会期でMoMAは「マチス・ピカソ展」を開催している。この短編はこの「マチス・ピカソ展」を題材にしている。ストーリーは2001年9月11日から2003年2月13日の期間を扱う。主人公はMoMAの学芸員、ローラ・ハモンド。2001年9月11日、ローラの同僚でライバル、そして唯一無二の友だちセシル・アボットがこの日を境に、この世界から永遠に姿を消した。そう、あのツインタワーでの大参事である。ローラの代わりにセシルがある要件を引き受けてあのビルに行ってのだ。二人は「マチス・ピカソ展」の企画に参画していた。ローラはPTSDに苛まれる。展覧会の企画・会議とその準備作業に携わるローラの心理プロセスを描きつつ、展覧会準備の舞台裏を描く。そして、エンディングで展覧会初日のローラの姿を捕らえていく。
 ここでも、展覧会の鑑賞者には見えない舞台裏の有り様を垣間見せてくれる。展覧会開催までに、どんな周到な準備がなされているかを。そして学芸員の夢と希望と意志の存在を。
 この短編には、「アヴィニョンの娘たち」と「ゲエルニカ」が再登場し、さらに「血入りソーセージのある静物」と「影」に触れられる。一方、マチスの絵として「浴女と亀」「マグノリアのある静物」「窓辺のヴァイオリニスト」が対比的に登場する。
 
<あえてよかった Happy to see you>
 わずか15ページの短編。主人公は日本の私立美術館の学芸員森川麻美。麻美は1年間、研修でMoMAに派遣される。MoMAからみれば麻美は大事な「客」である。研修期間中に麻美の面倒をみてくれた部署のディレクターのアシスタント、パティとの交流を描く。パティは28歳のシングルマザーで、Ph.Dの取得を目指している。
 アメリカの美術界とキャリア形成の実情とを垣間見させながら、麻美のニューヨーク生活を描く。パティとの交流で彼女のサポートが麻美にとってピークとなる日本の箸についてのエピソードが読ませどころになっている。
 この極小短編には、著者のMoMAでの経験が色濃く投影されている気がした。
 麻美が美術館のオフィスを去る日、パティに対するメッセージ、”Happy to see you”をどのように示したかがおもしろい。
 読者の心を暖かくなごませる小品となっている。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。主なものを一覧にしておきたい。
ニューヨーク近代美術館 :ウィキペディア
MoMA 公式サイト(英語版)
MoMAの歴史  :「MoMA Design Store」
Machine Art :「MoMA」
Alfred H. Bar Jr. From Wikipedia, the free encyclopedia
マモ・グイーンズ マチス・ピカソ展 :「NY art」
福島県立美術館 ホームページ
学芸員  :「マナビジョン」(Benesse)
ゲルニカ(絵画)  :ウィキペディア
作品解説「アヴィニョンの娘たち」 :「西洋絵画美術館」
パブロ・ピカソ 影 :「ヤフオク!」
PICASSO 私について語ろう  :「西洋絵画美術館」
【2021年コロナ禍 最新版】完全解説 ピカソ美術館 =バルセロナで一番人気の美術館=  :「バルセロナ ウォーカー」
浴女と亀 アンリ・マティス  :「MUSEY」
マティス「マグノリアのある静物」 :「足立区綾瀬美術館 ANNEX」
7.戦争の暗い影(絵:窓辺のヴァイオリニスト):「絵のある子育て」
ジャクソン・ポロック 基本情報 作品一覧 :「MUSEY」
フェリックス・ゴンザレス=トレス  :「美術手帳」
フェリックス・ゴンザレス=トレスのミニマルアートは実体験だ :「note」
September 11 attacks  From Wikipedia, the free encyclopedia
アメリカ同時多発テロ事件  :ウィキペディア
Crisis Communication: Lessons from 9/11 by Paul A. Argenti
  :「Harvard Business Review」
ジョナサン・アイヴが答えた「アップルのデザイン」:そのルーツからApple Watchに至るまで #WXD  :「WIRED」

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『アノニム』  角川書店
『たゆたえども沈まず』  幻冬舎
『風神雷神 Jupiter, Aeolus』上・下  PHP

『決定版 日本の雛人形 江戸・明治の雛と道具60選』 是澤博昭  淡交社

2021-03-03 15:57:05 | レビュー
 京都国立博物館では2月から3月にかけて、恒例の「雛まつりと人形」という特集展示が企画される。2021年は2月9日~3月7日の期間での展示である。別の特集展示と併せて会期の初期に鑑賞してきた。その時ミュージアムショップで本書が目に止まった。決定版と60選という語句に惹かれたことによる。自宅で奥書を読み、この本は2013年2月に初版が出版されていることを知った。近年ほぼ毎年恒例にしてこの特集展示を鑑賞しているが、この本に気づかなかった。折角だから雛祭りまでには・・・と思い、2月末に読み終えたが、印象記をまとめるのが遅くなった。

 冒頭に引用した本書のジャケット写真(表)の雛人形の様式は「古式享保雛」で「江戸時代中期より酒造業を営んでいた柳澤家の雛」(p17)だとか。本書に収録された60選の写真は大屋孝雄氏の撮影による。ジャケット表紙にも記載されている。

 本書は副題の「江戸・明治の雛と道具60選」のそれぞれの写真を主体にして、まず4章構成で雛人形と雛道具の写真が掲載され、各章のテーマの概略説明とリンクし、それぞれの雛と雛道具に解説が付されている。この4章構成が計72ページでまとめられている。
 その後に「テキスト編」として「祈りと願いの系譜 雛遊びから雛祭りへ」という論考が続く。本文は47ページのボリュームであり、各所に図版が挿入されている。日本の雛人形に関する論文と言える。
 読み進め雛人形を歴史的視点で眺めると、奥が深いということが実感できて興味深い。

 本書にも関連するので、上記の京博・平成知新館の特集展示会場で入手した「京人形を楽しむための鑑賞ガイド」の表紙を引用しておこう。この表紙に掲載の写真には「御殿飾り雛 木村進一氏寄贈 京都国立博物館蔵」と付記されている。

 本書に戻る。最初の4章の構成は次のとおり。
   第一章 雛人形の様式 名品からの紹介 
   第二章 武家から公家へ 雛の品格
   第三章 ひろがる雛の世界 身分を超えた女の祭り
   第四章 雛の近代

 第一章では雛人形の様式を「立雛(たちびな)、寛永雛、享保雛、次郎左衛門雛、有職雛、古今雛」と分類している。そして、享保雛には新旧二様があり、古式享保雛と享保雛に区分される。本書の表紙は旧様式ということになる。上掲の鑑賞ガイドでは、「さまざまな雛人形」と題して1ページにイラスト図付き、同じ様式分類で簡略な紹介をしている。
 本書によれば、寛永・享保という時代呼称が付けられているが、「製作年代を意味するのではなく、一つのスタイルにつけられた名称にすぎない」(p27)という。「明治期から大正期にかけて好事家が命名したもの」(p27)がそのまま定着したそうである。上記鑑賞ガイドでは「古式享保雛(元禄雛)」と表記している。本書の著者は、「元禄雛」の呼称を意識的に本書では使わないとしてその理由も説明している。
 そこで、「御殿飾り雛」との関係である。京博の特集展示では2種の御殿飾り雛が展示されていて展示室でのインパクトは強かった。これ自体は雛の飾り方の名称であり、雛自身のスタイルとしての様式ではないということのようだ。鑑賞ガイドを読んでいたときは意識していなかったのだが、本書を読んでいてその区別に気づいた。よく読めばそういう名称付けになっている。本書では、「第4章 雛の近代」の中で、p75に「田中平八家・御殿と芥子雛」として写真が掲載され、右のページには江戸期の面影を見ることのできる極小の雛・雛道具として紹介されている。御殿は二次的に扱われている印象を持ったところから、気がついた次第。田中平八とは「幕末から明治にかけて横浜におもむき生糸取引を中心として活躍し」「天下の糸平」(p74)として名を馳せた人。この雛人形は平八の長男・二代目平八が長女のためにこしらえたものという。
 第4章には他に「明治天皇皇女の雛と雛道具」「商家の名門三井家の雛飾り」「尾張德川家三代の雛飾り」が載っていて、それぞれの雛の飾り方が異なっていておもしろい。
 
 次に、テキスト編の構成もまずご紹介しておこう。
  1.雛祭りの源流 雛遊びのころ
  2.雛遊びから雛祭りへ
  3.京都から江戸へ 京風次郎左衛門雛の流行
  4.江戸の雛、古今雛の誕生
  5.雛祭りの円熟期 芥子雛・雛道具と京風古今雛

 つまり、本書では主に第二章・第三章での概略説明が、テキスト編としてさらに具体的に論考されていることになる。

 本書から学んだ基本的な事項を私自身の覚書を兼ねて要約してみる。本書への誘いとなればと思う。本書では典拠を示しながら考察が進められている。読者にとっては雛人形に関係する史資料について幅広く知識を広げる機会にもなる。

*現在のような雛祭りが確立するのは江戸時代の半ばを過ぎた18世紀中頃である。
*雛祭りの源流は、平安時代の男女の「ひひな」に溯れるようだ。若い男女が「ひひな」に託して言葉を交わす遊びとして用いられた。それが子どもの遊びに転じていく。「ひひな遊び」は大人になる前の女児の人形遊びで、季節に関係がなかった。『源氏物語』には若紫が雛遊びに熱中する場面を「紅葉賀」に描くがこれは正月。他にも「ひひな遊び」が「末摘花」(正月)、「野分」(8月)、「夕霧」(8月末)に登場している。
*雛人形の最古の形式は「立雛」であるが、これはヒトガタの面影を残す。祓いに使う人形(ヒトガタ)は奈良時代の初めに起源があるという。祓いに使われる「カタシロ」は、人の身代わりであり「ヒトガタ」ともよばれた。ヒトガタの身を撫で、気息を吹きつけることで、除災招福を願った。
 『源氏物語』には、「須磨」の巻に、三月巳日源氏がヒトガタを舟に乗せて海に流す場面が描かれている。三月上巳の祓いという行事である。
*「雛遊び」においては、人間の姿を小さくかたどった人形を「ひひな」と呼んでいる。
*室町時代、16世紀の中頃から「ひな」が人形の意をあらわしはじめ、雛遊びが3月3日に固定されて定期的な遊びになり始める。著者は、3月3日になるのは天正期(1573~1592)以後と論じている。
*京都の公家社会では3月の節句は上巳の節句であり雛遊びは俗習として軽くみる傾向があったという。
 一方、江戸幕府は雛遊びを年中行事に取り入れる。武家社会が「年中行事雛祭り(遊び)」を節句行事として創り出した。3月3日の雛遊びが一般的になるのは延宝以降という。18世紀に入って出版物中に「雛祭」の表記が確認される。
*江戸の風物詩の一つ「雛市」は17世紀の終わり頃には町に現れた。
*民間の雛祭りが年々派手になると、今度は奢侈禁止令が度々出されることになる。
 最たるものが享保6年(1721)7月の町触れ。雛人形などの高さが8寸(約24cm)以上は禁止となる。これがその後の江戸時代を通じた基本になる。
*製作年代を遡れる雛人形の実物資料は、最古に近いもので18世紀中頃のもの。
*雛の形式は立雛と坐雛。坐雛は当時から内裏雛と呼称されていた。立雛と内裏雛が並んで飾られている絵が『日本歳時記』(1688年)にある。
*初期の内裏雛は「寛永雛」。女雛は袖を両側に開き、手先はつくられていない。男雛は頭と冠が一体の木彫造り。髪と冠は墨で塗られている。
*京の人形屋雛屋次郎左衛門に由来する「次郎左衛門雛」は武家・公家用の本流。特徴は頭が丸く、引き目・鉤鼻である。古いものは手足をつけていない。後のものは雛に手足が付けられる。
 雛屋は幕府の御用達で江戸に屋敷を賜っていたという。
*公家の衣裳を忠実に再現した「有職雛」は、公家に愛用された雛。有職雛は明治以降に付けられた呼び名。
*「享保雛」は町家にはやった。上記の通り古式享保雛と享保雛の二様がある。
 顔は面長。女雛は十二単風に袿を重ねた襲(かさね)装束で、袴に綿を入れて厚くふくらませている。男雛は束帯に似た装束で袖が横に張っている。金襴や錦などの上質の織物を装束に使っているものもある。享保雛には像高50cmを超えるものもある。
*「古今雛」は江戸で生まれた。安永期(1772~1781)の終わり頃から江戸の町に流行する。
 目にガラスをはめこんでいる(玉眼)。有職を無視した豪華な公家装束の町雛。
 江戸の名工、二代目・原舟月が大成したとされる。江戸の流行が上方に及び、京風をはじめ様々な形に発展する。京風古今雛は幕末まで描き目が多いという。
*古今雛が現在の雛人形の原形である。
*奢侈禁止令で8寸以上の派手な雛や雛道具が禁止され、「雛市改め」の取締りが厳しくなると、雛商たちはしたたかにそれに対応していく。その結果、雛商たちは8寸に満たない小さくて精巧な芥子雛や雛道具を生み出し、流行させる。地味で渋く。小さな雛の高級品もつくりだす。
 著者はテキスト編の「五 雛祭りの円熟期」でこの経緯を詳細に考察している。

 最後に、テキスト編の「おわりに」に著者が記す結論を引用しておこう。
「太平の世が続く江戸時代、人々の遊び心は、玩具(手遊)である人形に素朴な信仰心(病気や災いから守るヒトガタ)を融合させ、雛祭りを誕生させた。子どもの健やかな成長への『願いと祈り』を礎として、『遊び心』や『美意識』、時には『権力への反発心』などが複雑に絡まりあって、近世に形成されたものが日本の雛祭りであり、雛人形だ。」(p128)
「人形を観賞用のものにまで昇華させ、さらに芸術上の地位まで与えてしまう、世界でまれな人形文化を形成する日本人の心性が、雛人形には凝縮されている。」(p139)

 この本、雛と道具60選の写真を個々にあるいは対比しながら眺め鑑賞するだけでも楽しめ、おもしろい。

 ご一読ありがとうございます。

雛人形・雛祭りに関連して、少しネット検索してみた。検索結果から有益なものを一部にすぎないが一覧にしておきたい。
特別展示 雛まつりと人形  :「京都国立博物館」
雛人形 館蔵品データベース :「京都国立博物館」
雛飾り      :「文化遺産オンライン」
雛段飾り(鍋島栄子所用) :「文化遺産オンライン」
次郎左衛門雛   :「文化遺産オンライン」
有職雛(直衣姿) :「文化遺産オンライン」
御殿飾り雛人形(揃) :「文化遺産オンライン」
銀製雛道具    :「文化遺産オンライン」
春の特別展 「雛まつり~御殿飾りの世界~」  :「日本玩具博物館」
春の特別展 「雛まつり~雛と雛道具」  2017年:「日本玩具博物館」
御殿飾りの世界へ  :「日本玩具博物館」
【2021】時代を超えて受け継がれるひな人形〜京都のひなまつり5選〜 :「KYOTO SIDE」
「2021滋賀 びわ湖のひな人形めぐり」 :「東近江観光ナビ」
第23回飛騨高山雛まつり  :「ぎふの旅ガイド」
勝山のお雛まつり  :「岡山観光WEB」
雛祭り  :ウィキペディア

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『ブラタモリ 16 富士山・三保松原 高野山 宝塚 有馬温泉』  角川書店

2021-03-02 10:26:09 | レビュー
 本シリーズの第16弾。NHK「ブラタモリ」制作班の監修による出版(2018.12)である。長くなるので標題では略し、ここに表記しておきたい。
 「富士山・三保松原」(2018年1月20日放送)は「ブラタモリ×釣瓶の家族に乾杯」という「初夢スペシャル」のコラボ企画だった。この番組と「有馬温泉」(2018年1月13日放送)は視聴した。番組を見てから本書を読んだことになる。本書を読み結構聞き落としているというか、記憶に残っていない部分がある。また、有馬温泉は一泊旅行でも訪れたことがあり、その時気づかなかったこと、知らなかったことをも知ることができた。「高野山」(2017年9月9・16日放送)は番組を見落としていた。京都からの日帰りバスツアーに参加して高野山を訪れたことがあり、本書で復習する機会となった。「宝塚」(2018年1月13日放送)も視聴していないので、本書で初めて具体的な知識を得た。
 いずれにしても、本書は現地に関する基本知識を学び整理するのに役立つ。

 本書の基本構成コンセプトについて繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
  *ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
  *番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
  *番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
  *同行アナウンサーの番組裏話 本書は近江友里恵さんのトーク
である。

 本書から私が学んだ要点を覚書としてまとめてみたい。それが本書を開いてみようという誘いになれば幸いである。
 本書の面白味はこれらの内容がどのようなアプローチで解き明かされていくかにある。語り口調で読みやすい本文の流れと写真やイラスト図によるビジュアルなサポートで放送番組の姿をイメージさせてくれる。そして基本知識を学べる。そこが読ませどころとなっている。

<富士山・三保松原> テーマ「一富士、二鷹、三茄子 ルーツは三保にあり」
*富士山と三保松原はセットで平成25年(2013)に世界遺産に登録された。
 三保と富士山がセットの感覚は平安時代の浄土信仰に始まる。
*「一富士、二鷹、三茄子」のルーツは徳川家康に関係する。
 家康は幼少期(今川家の人質)と晩年を中心に駿府(三保の周辺)で過ごした。
 「一富士」は富士の手前に三保と海があっての景観。三保松原の羽衣公園辺りからの景色
*「二鷹」の「鷹」は富士山の隣りの「足高山」をさし、江戸時代より「愛鷹山」と称す。
 江戸時代の『甲子夜話』に家康が語った言葉が記されている。家康の鷹好きにリンクする
*久能山東照宮のある久能山は有度山の一部。その南側は高さ200m超の断崖が5km続く地形
 有度山が削られてできた砂礫が海流で運ばれ三保半島の地形を生成。
 三保はかつて島だった(「瀬織戸の渡し跡」あり)。三保の黒い砂は泥岩で「三茄子」の因
 三保半島折戸地区は在来種「折戸ナス」の産地。他地域より1~2カ月早く収穫できる。
 「三茄子」は折戸で育つ伝統の茄子で縁起の良い初物として貴重で高価。家康も愛した茄子
*久能山東照宮は作事を務めた側近・中井正清を棟梁に、家康死後の翌月から1年7ヵ月で造営
 久能山の山頂には推古天皇期に補陀落山久能寺が開かれ、後に天台寺院の「久能寺」に。
 武田信玄が山城・久能城を造営。久能寺は北東に移動させられそれが現「鉄舟寺」に。
 この残存する久能城の縄張りを活かし短期間に東照宮が造営され、後のモデルとなる
*三保の地で家康が夢見た平和の楽土が久能山東照宮のコンセプトとして具現化されている。

<高野山> 
テーマ1「高野山は空海テーマパーク?」
*高野山は紀伊山地の標高800m以上の山上に広がる宗教都市。平安時代に空海が開いた聖地
*真言密教の修行の場であり、後継者たちがつくりあげた空海を身近に感じられる場所
*高野七口:町石道、京・大坂道、黒河道、大峰道、熊野道(小辺路)、相ノ浦道、龍神道
*町石道が正式な参詣道。船着き場が起点でかつてはここに「下乗石」があった。
 「下乗石」が俗世間と分離を体感させる最初の仕掛け。現在は断片碑が慈尊院門前に。
 慈尊院境内を通り丹生官省符神社への鳥居手前に「百八町」の古い石塔(=町石)あり。
 上部が五輪塔の形をした町石が大門、中門を経て根本大塔(⇒終点)までに180ある。
 一町ずつカウントダウンしていく。これが高野山に一歩ずつ近づくと体感できる仕掛け
 五輪塔の形をした町石自体が信仰の対象になっている。五輪塔は大日如来のシンボル
 町石建立事業は文永2年(1265)、高野山開創450年の節目に開始された。元寇の国難の頃
*大門から壇上伽藍が始まる。真言密教の世界への総門。テーマパークのメインエントランスに相当
 「高野山」とは山上に広がる町の名称。東西約4km、南北約3kmの盆地状の平坦地
 最盛期には約2000もの寺があり一般民家はない宗教都市。「高野山之図」(江戸時代)
 江戸時代女性は大門まで。大門の段上から先は立入禁止。高野山外周に「女人道」あり。
*大門、中門、壇上伽藍 [金堂、根本大塔、六角経蔵、御影堂]、高野山金剛峯寺
 壇上伽藍の境内地に三鈷の松(三葉の松の葉が含まれる)がある。
 慈尊院から壇上伽藍(根本大塔)までが「胎蔵界」に喩えられる。
*高野山2つめの聖地が「奥之院」。奥之院まで36の町石が続く。根本大塔からカウントアップ
 根本大塔から奥之院までが「金剛界」に喩えられる。
*一の橋から空海の御廟まで約1.5kmの空間に、大名墓をはじめ約30万の墓や供養塔が密集
 敵味方、宗派も関係なくみんなが奥之院に墓を建てた。様々な供養塔が建立されている。
 一般庶民の一石五輪塔も。手のひらサイズの石に4本の線刻だけの一石五輪塔まで。
*御供所から1日2回、御廟に届ける生身供。御供所の隣りに嘗試(あじみ)地蔵がある。
*一の橋、奥之院参道、水向地蔵、御廟橋、灯籠堂、弘法大師御廟

テーマ2「高野山はなぜ”山上の仏教都市”に?」
*高野山の現在人口は2300人。およそ3人に1人はお坊さん。
*金剛峯寺は高野山の総本山。もともと高野山全体の総称でもある。現在、山上の塔頭117
*高野山にはかつて御殿川(現在は暗渠に)が流れ、奇跡的に豊富な水に恵まれた土地
 多くの谷や沢が山の水を中央(内側)に集める谷地形。地質は泥岩。硬く水を遠しにくい。
 泥岩の上に、沢から運ばれてきたやわらかい土砂の層が水を蓄える働きをする。
*江戸時代、高野山は2万1300石の広大な領地(高野山領)を所有。年貢米が確保できた。
 高野山周辺の村々が当番制で山を登り高野山に野菜などの作物を寄進する風習があった。
  ⇒山上の僧侶の食生活を維持確保できる基盤が存在した。高野豆腐(保存食)の発明
*高野山のお寺(塔頭)は、それぞれ各地の大名と専属の宿坊契約を結ぶ。学生も派遣
  ⇒「宿坊証文」が結ばれた(例:連花院と徳川家、蓮華定院と真田家)。宗教学園都市
   宿坊は参拝者が宿泊できるお寺。現在の問い合わせ先は高野山宿坊協会
   お寺に「会下(えか)」と称する長屋建築がある。「寺生」たちの暮らす学生寮
*壇上伽藍は度重なる火災に遭遇:金堂は少なくとも6回、根本大塔も5回燃えている。
 現在は、「ドレンチャー」という画期的な防火システムが導入されている。
  ⇒建物をまるごと水で包む防火システム。高さ約5mの「水の壁」で火の手をブロック
*平成27年(2015)に中門が再建され、172年ぶりに壇上伽藍の諸堂がすべて揃ったという。
  ⇒中門再建にはすべて高野山系の用材(檜)、巨岩を使う。耐候性・耐用年数でベスト
   礎石と柱の接する下端には「光付け」が施された。自然の岩の凹凸に一致させる作業

<宝塚> テーマ「ナゼ宝塚は”娯楽の殿堂”になった?」
*阪急宝塚駅→花の道(全長430m、元は堤防)→宝塚大劇場。年間約119万人が訪れる。
*宝塚は神戸と大阪の両方からほぼ等距離の位置にあり、山際に立地する。
 宝塚は六甲山地と長尾山地の間を流れる武庫川が作った扇状地。武庫川はかつては暴れ川
 現在の宝塚の中心地に人が住み始めたのは今からわずか130年ほど前
*宝塚駅から2kmほど東の高台にある「小浜(こはま)」が江戸時代までの中心地
 有馬街道、京伏見街道、西宮街道が合流する場所で宿場町(小浜宿)。交通の要衝地
 小浜は幕領だった。江戸幕府直轄の領地。西日本の外様大名を牽制する意味合いも。
 それ以前は15世紀末に創建された浄土真宗の「毫摂寺(ごうしょうじ)」の寺内町
*小浜には芝居小屋があり、造り酒屋の名酒とで旅人の身と心を癒やす宿場町だった。
 現在、宝塚市立小浜宿資料館(小浜5-6-9)が開設されている。
*明治17年(1884)武庫川沿いに温泉が見つかり、右岸に「寶塚温泉」ができる。
 明治30年(1897)に阪鶴鉄道(現JR福知山線)、明治43年(1910)に箕面有馬電気軌道(現阪急宝塚線)が開通。宝塚は温泉街として発展(最盛期には70軒近くの旅館あり)。「大人の娯楽の町」に変貌。
最盛期には250人くらいの芸者が居たという。大阪の奥座敷
*武庫川左岸は低湿地帯だった。小林一三がここに目をつけ埋め立て、家族で楽しめる娯楽施設をつくる。明治44年5月1日に現在の宝塚大劇場の位置に宝塚新温泉を開業
*娯楽施設として日本初の室内プールを設けたが運営に失敗。しかしこのことが宝塚大劇場と宝塚歌劇団誕生へとつながる。プールを改修し、劇場に転用した。
*宝塚の「塚」は「盛り土をした墓」の意味で「古墳」。4~7世紀に多くの古墳ができた。
 宝塚には今も200以上の古墳がある。
*漫画家手塚治虫は昭和8年(1933)5歳のころから24歳まで約20年間宝塚の御殿山に居住
 宝塚市立手塚治虫記念館(武庫川町7-65)が開設されている。
 
<有馬温泉> テーマ「有馬温泉人気はなぜ冷めない?」
*歴史は1400年以上。日本三古湯のひとつ。他は草津温泉(群馬県)と道後温泉(愛媛県)
 『日本書紀』に「摂津國有間温泉湯」の文字を確認できる。舒明天皇の時代。初出史料
 神代に大己貴命と少彦名命が湯だまりで傷を癒やす烏を見て泉源を発見という伝説あり。
*行基などが再興。豊臣秀吉が愛した温泉。江戸時代には「有馬千軒」といわれにぎわう。
 極楽寺に隣接する「太閤の湯殿館」で秀吉の岩風呂遺構が見られる。湯船の深さ約65cm  ⇒秀吉は湯山御殿(第二次御殿)の完成を待たずに死去
   秀吉は一度もこの岩風呂に入ることが叶わなかった。
 江戸時代の有馬温泉は立ち湯、風呂に立って入るのが一般的だったという。
  ⇒絵図に描かれている。「合幕男女入込湯之図」(「滑稽有馬紀行」より)
*有馬温泉は自然の谷地形を使い生まれた温泉街。石畳の道の両側に連なる2階建て木造家屋は、1階を店舗、2階を宿にすることで多くの旅館が並んでいた。
*有馬温泉は噴出する泉源で98度もある。温泉の成分は鉄・塩・炭酸でそれらの濃度が高い。
 お湯が赤いのは鉄分が空気に触れ酸化した結果である。
 塩分は肌に保湿効果を高める。塩分は4.6%。海水は3%くらいなので1.5倍以上
 炭酸ガスは湯に溶け込むことで血管を広げ、血行をよくする。
*温泉成分の謎解きは温泉街から東に約3km離れた「白水峡」で熱源を探ることができる。
 そこは天然の渓谷(立入禁止)。白い岩肌の花崗岩が剥き出しで無数のひび割れがある。
 有馬-高槻断層帯。断層の分岐点にあたる場所。温泉の熱源は地球内部にあるマントル
 ⇒地下60kmで熱せられた海水が断層の割れ目を上昇する過程で炭酸ガスや鉄分を溶かし地上に噴出。それが有馬温泉にある7個所の泉源。「金の湯」の泉源は「天神泉源」
*温泉街の東側、六甲川に架かる杖捨橋がかつての表玄関で街道だった。石の道標が残る。
 現在は電車が通る温泉街の西側が表玄関になっている。

 大凡はこんなところか。他にも色々と詳述事項がある。それは本書を開いて読んでいただきたい。私的には、例えば、高野山の大名の墓所がp52-53に掲載されているがツアーで行った折りに見落としている墓所がある。一般庶民の一石五輪塔関連は気づかなかった。
 この本を読んでから行くと、現地の探訪の折に気づきが深まることだろう。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
三保松原 【富士山世界文化遺産構成資産登録】 :「駿府 静岡市」
久能山東照宮  ホームページ
高野山真言宗 総本山金剛峯寺 公式ウエブサイト
高野山のみどころ  :「和歌山県公式観光サイト」
高野山全体図  :「聖山 高野山」(一般社団法人高野山宿坊協会)
宝塚歌劇 公式ホームページ
宝塚大劇場  :ウィキペディア
小林一三について  :「阪急文化財団」
小林一三  :ウィキペディア
有馬温泉 有馬温泉観光協会公式サイト 
  有馬の歴史 
  神戸市立太閤の湯殿館 
太閤豊臣秀吉は如何に有馬温泉を愛したか :「有馬里」
有馬温泉むかしばなし~その浴槽は狭かった?~ :「有馬里」
  「合幕男女入込湯之図」が掲載されている。
銭湯の歴史  :「東京銭湯」

    インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ブラタモリ 3 函館 川越 奈良 仙台』 角川書店
『ブラタモリ 7 京都(嵐山・伏見)志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』 角川書店
『ブラタモリ 10 富士の樹海 富士山麓 大阪 大坂城 知床』  角川書店
『ブラタモリ 13  京都(清水寺・祇園) 黒部ダム 立山』  角川書店