遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

「だれも知らなかった<百人一首>」 吉海直人  春秋社

2012-01-30 10:43:47 | レビュー
 大型書店に行くと、百人一首の本がいろいろ沢山並んでいる。ここでもほんの一部だが、ご紹介したように文庫版だけでも結構ある。この本(2008年1月刊)も現在は同じタイトルでちくま文庫(2011年10月刊)の一冊になっている。本書は百人一首の和歌解釈本ではなく、百人一首の成立そのもの、百人一首の理解のしかたなど、百人一首文化に焦点をあてて論じている。そういう意味で、一般読者向けとしては百人一首本の中では毛色の変わった本である。著者はいう。研究者の書いた本があるが専門的な色合いが強いと一般読者は理解が難しくて敬遠する。その結果、通常は和歌解釈として、「中味は縮小再生産が繰り返されている」と。
 冷泉家の秘蔵書物が公開されたり、「異本百人一首」の存在が発見されたりする中で、百人一首の研究は進展しているそうだ。本書は、2008年1月出版されたものだが、「はじめに」のところで、著者は「これが現在の百人一首研究の最先端です」と堂々と記している。2012年時点で手に取ってみて、最先端かどうかは素人には評価できないが、百人一首に関わる様々な視点から、一般読者向きに噛みくだいて解りやすく論じてくれているのはありがたい。百人一首研究という視点からの最新の状況を知り、百人一首の背景をより深く理解することで、和歌の解釈と鑑賞に広がりを加えることができて有益な本だ。

 本書は三部構成になっている。視点がいろいろあっておもしろい提示になっている。
 第一部 「小倉百人一首」とはなにか
 第二部 百人一首のひろがり
 第三部 今も昔も百首に始まる

 第一部から興味深く関心を抱いた点を要約して印象も付記してみよう。
*百人一首の誕生日は1235年5月27日に決定。定家の『明月記』にその記載があるようで、それを引用して、安藤為章が百人一首が宇都宮蓮生撰・定家染筆説を論じた(1702年)とか。だが非定家の証拠として引用された『明月記』が、今では定家撰の一等資料として活用されているというのだから、おもしろい。様々な写本その他の発見・累積があり、その成果が実っているのだろう。本書で経緯が理解できる。

*『百人秀歌』は宮内庁書陵部蔵の写本を有吉保氏が発見・報告された。しかし、定家自筆の『明月記』には、『百人秀歌』に関連する肝心の部分が欠落しているとか。自筆証拠がなければ、冷泉家が従来の二条流のいう百人一首起源説に反論できにくかったのでは、と著者はいう。
 『百人秀歌』の発見で、『百人一首』の成立問題がかえってややこしくなったというのが、おもしろい。興味をそそられる。『百人秀歌』には101首掲載されていて、『百人一首』とは97首が一致する。不一致の部分が重要な論点になっている。著者は「百人一首は秘される歌集だったのです」(p13)と記す。なるほどな・・・・とその推測が理解できる。
 定家没後、分派した冷泉家と二条家との絡みで、『百人秀歌』が重要な位置づけになりそうだ。

*「百人一首は単なる秀歌撰ではなく、和歌で綴った平安朝の歴史ということ」(p50)の認識が必要だと著者はいう。

*本書で、「異本百人一首」の存在とその意義について、後記する同著者の本よりも具体的にその内容を知ることができた。なんと平成2年にその存在が明らかになったそうだ。そして、今では50本以上の伝存が確認されているとか。著者は、本阿弥光悦の古活字本百人一首(元和頃刊)が「異本百人一首」であり、それがきちんと『百人秀歌』の配列を踏襲しているという自説を本書に記す。『百人秀歌』の伝存はわずか3本でそれも秘蔵されていて、一方その配列は、「異本百人一首」でオープンになっていたというのは、楽しいところだ。通行の百人一首と配列の違いを当時は誰も気にしなかったのだろうか。
 著者は「異本百人一首」の存在について、「今後間違いなく重要性を増してくる資料だと思っています」と予測している。

*定家は勅撰八代集から秀歌撰『八代抄』を編んでいる。百人一首はこの『八代抄』と92首が一致するので、間接的にここから抽出したと研究者は考えているようだ。

*百人一首は「編」であって「作」ではない。単純なアンソロジーではなく、また歌語の用法も含めて、必ずしも伝統を重んじた歌集ではなかったという。著者は、百人一首としては「撰者定家の解釈こそが求められるべきなのです。それでこそ百人一首という作品の研究になるのではないでしょうか」(p64)という立場に立つ。
  → 著者は『百人一首の新考察 定家の撰者意識を探る』(世界思想社)を出版
    更に『百人一首の新研究-定家の再解釈論-』(和泉書院)の改訂相補版に

*和歌の言葉の類似について、織田、林両氏の謎解き本には無理がある述べ、一方著者は本歌と本歌取り歌の両方が百人一首に存在するとして、「百人一首内本歌取り」と定義し、説明を加えている。撰者定家が本歌取りと再解釈により取り入れた可能性も考えられている。ここは興味の深まるところだ。(p66~76)

 第二部は、冒頭に連歌師・宗祇の存在感について考察されている。宗祇は二条家が途絶え、二条流正当の血脈とみなされていた東常縁より古今伝授を受け、文明3年(1471)に百人一首の伝授を受けた人物である。文明10年(1478)に弟子の宗長に百人一首の講釈聞書を伝授しており、この記録が百人一首の伝授記録の初出だとか。この伝授と小倉色紙が権威付けに使われたようだ。著者は「宗祇に関しては、百人一首を八代集のエッセンスとして、二条流歌道のバイブルとした功績を認めないわけにはいきません」といいながら、胡散臭さがつきまとう事実を指摘している。このあたり、いつの世も権威付けに何かを利用するという手法を繰り返しているようで、おもしろい。宗祇という人物、なかなかのしたたかさを持ち合わせていたのだと思う。
 そして、歌仙絵、歌かるたに言及されていく。興味深い点をいくつか抽出要約してみる。
*百人一首の場合、障子に貼るための色紙と歌仙絵は二枚一組でセットなのに、小倉色紙は何枚か伝存しているが、歌仙絵が一枚も残っていないという奇妙さがあるとのこと。また、百人一首には鎌倉時代に遡る遺品が伝わっていないとのこと。

*歌仙絵の代表は、角倉素庵(了以の長男)筆により、元和頃(1625~1623)に刊行された百人一首絵入版本が元となり、そこから類型化が始まったとそうだ。意外と新しいということが驚き。素庵本の絵は、当時の官職、身分と歌仙の衣装や描かれているものに整合性がない部分もあるとか。著者は具体的に事例で説明している。このあたり、現代の時代劇に時代考証があやしげなものがあるのに通じるような気がする。江戸時代から見ればやはり平安時代は古き昔でもあり、まして身分制の時代、公家と町人は別世界でもあったのだろう。そんな気がしてくる。

*近世初期成立とされる「伝道勝法親王筆百人一首歌かるた」(長方形)が現存最古の歌かるただという。西洋のカルタは賭博用(禁制)であったことから、上流階級の間では「かるた」という言葉を口にすることすら忌避したそうだ。上句札、下句札のセットについて、「当初はゲーム用ではなく、和歌の暗記カードまたは単なる鑑賞用だったのかもしれません」(p97)と著者は推測している。

*現存する最も豪華なかるたは尾形光琳作の「光琳かるた」(宝永頃成立)だとか。どこかで、実物を見てみたいものだ。

*上句に下句を加えて一首そのままの読札が登場したのは、何と幕末頃の改良考案だったというのを本書で初めて知った次第。こんなことをご存じだっただろうか。

*俊成が「源氏見ざる歌読みは遺恨のことなり」と述べたことを、「定家はさらに発展させて『源氏物語』を歌人必須の書にまで高め、『源氏物語』を本説とする歌をたくさん詠じています。」(p126)と著者は記す。そして上坂信男氏が百人一首の中に『源氏物語』の世界が投影されていると力説される点を著者は本書で祖述し、その展開を図っている。
 19章を読み、『源氏物語』を読むことが、定家の撰歌意識を解釈する上で重要なのだと認識することになった。積ん読本になっているのを繙かねば・・・・・
20章では、百人一首が浮世絵の中に如何に取り込まれたかが詳述されている。浮世絵展を過去いくつか見ているが、百人一首に関連したものを見た記憶が無い。豊国、二世豊国、北斎、国芳、広重など様々な絵師がてがけていたようだ。実物を一度見て見たい。浮世絵からこんなことも見えてくるようだ。
 
*「歌を完全に暗記していない庶民の間では、上句札では下句まで読み上げられないので、添本と称される小形の絵入版本を用いて、下句まで読み上げていたことが絵によってわかります。つまり上句札はほとんど使用されていなかったらしいのです。」(p144)

 この第二部の後半にある以下の章は、著者の蘊蓄と考証が展開されていてそれぞれ独立章として、かなりおもしろい話の満載になっている。読んで楽しんでいただくのが一番と思う。章題だけ列挙しておこう。
 15 持統天皇は<看板娘>、 16 <穴無し小町>の伝説、 17 崇徳院の畳の謎
 18 式子内親王への愛執  21 川柳・狂歌を豊かにした百人一首

 第三部は「今も昔も百首に始まる」という標題である。ここが一番読みやすくて、肩の凝らない読み物と言えそうだ。話材がバラエティに富んでいて、百人一首雑学豆知識とも言えそうな切り口となっている。ちょっと軽めの蘊蓄話として役立ちそうなおもしろさがある。中味は読んで楽しむのが一番というところ。章タイトルの紹介で、どんな話材か類推できるだろう。その考証は幅広く詳細に行われていると感じている。
 22 競技かるた百周年、 23 異種百人一首について、 24 翻訳された百人一首
 25 近代文学と百人一首 26 宝塚少女歌劇団の「百人一首名」
 27 百人一首はおいしい 28 猫の戻るまじない歌  29 「小倉山莊」と「時雨亭」 
 30 百人一首の歌碑建立

 この第三部、著者の言うとおり、どの章から読み始めても問題なし。まさにお好み次第、百人百色の選び順ができる。まあ、私は素直に章の順番通りに読んだのだが・・・

 この第三部で特に印象に残るのは、次の文章などである。
 「百人一首の視点は、原作者の立場とは異なり、京都からは見えない天の香具山や富士山を幻視しているのです。これこそまさに、編者定家による百人一首の再解釈(平安朝文学化)でした。」(p209)
 そして、第18章の脚注の一つ。それは、式子内親王の生年について、上横手雅敬氏がある断簡の裏書を発見され、そこから久安5年生まれであることが確定したということ。こういう発見があると、様々に関連事項の解釈に波及していくことになるのだろうという点だ。百人一首での解説のしかたにも波及することだろう。

 一つ補足しておきたい。著者は1998年12月つまり本書の9年前に、『百人一首への招待』(ちくま新書)を上梓している。こちらの本は、
  序章 百人一首の基礎知識     第1章 百人一首成立の謎 
  第2章 百人一首成立以降      第3章 百人一首の副産物
  第4章 百人一首の撰歌意識を探る  第5章 百人一首の味わいかた
という構成になっている。こちらをかなり前に一読していたのだが、本書を新鮮な気持ちで一読した。今対比的に見て見ると、本書の方が読みやすくなっていると思う。
 ねらいとしているところは同じ方向だが、『招待』と本書では、成立の謎、成立以降に関してのアプローチの仕方が少し違っている。また9年の研究成果が累積されての本書発行という点が考証対象の資料の広がりなどからもうかがえる。本書には、一首毎の和歌の味わいかたには触れていない。『招待』の章で代替できるということであろう。一方、『招待』にはない「勅撰集別百首配列」が本書の巻末に掲載されている。こういう点からも両書は、研究の進展経緯を含めて相互補完の書となっているようだ。

ご一読、ありがとうございます。


 [付記」ちょっと関心があって、単行本と文庫本を対比してみた。

 いくつかの異動があるので、ついでに紹介しておこう。
1)冒頭のカラー写真が全面的に差し替えられた。
 ”「小倉百人一首」の百人と百首”から、様々なものに(貝覆・歌貝、肉筆かるた、一枚刷り、双六、小倉色紙、歌仙絵など)
2)章の題名が多少変更された
3)”「かるた」としての百人一首の誕生”(第14章)が、「歌かるたの誕生」(第14章)と「百人一首かるたの一人勝ち」(第15章)と分化した。単行本の章の末尾の5段落分がよりわかりやすく書き加えられて一章が追加された。
 (単行本本文からの削除箇所があるかどうかは未確認である。第1章を対比したかぎりではそのままだった。)
4)本文中の写真は、かなりの差し替えがなされている。同じ事項での絵柄の差し替えが主である。一部加除もあった。詳細は煩雑になるので触れない。
5)単行本の巻末に、「勅撰集別百首配列」と「小倉百人一首一覧(通常配列)」が掲載されていた。文庫本の巻末は、「百人一首一覧-現代語訳付」に変更されている。
 (この現代語訳が定家の撰歌意識の立場での訳出なのかどうかは確認していない。)

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本書を読んで、関連項目をネット検索してみた。

藤原定家   :ウィキペディア

百人一首   :ウィキペディア
小倉百人一首 :「やまとうた」水垣久氏のウェブサイト
百人一首 第123回 常設展示(平成14年12月2日(月)~平成15年1月31日(金))
 :国立国会図書館の説明資料
百人秀歌   :ウィキペディア
百人秀歌   :水垣久氏のサイト ← 全首掲載
小倉色紙 藤原定家筆  :五島美術館
小倉色紙 「たかさこの」:香雪美術館

明月記    :ウィキペディア
明月記. 建仁元-嘉禎元年 / [藤原定家] [撰] ::早稲田大学図書館 公開
明月記. 正治元-寛喜二年 / [藤原定家] [撰]  :早稲田大学図書館 公開

御子左家(みこひだりけ):ウィキペディア
冷泉家(れいぜいけ) :ウィキペディア
冷泉家時雨亭文庫   :ウィキペディア
二条派  :ウィキペディア
京極派  :ウィキペディア

東 常縁(とう つねより):ウィキペディア
宗祇   :ウィキペディア


「女早学問」上巻   :Googleブックス
画像19~20ページに「百人一首」の記述あり ←第一部冒頭で引用の版本

光琳かるた 復刻版の一部が見られます。

模写光琳かるた :小林鳥園氏


豊国国芳東錦絵「百人一首絵抄シリーズ」  :「錦絵館」サイトから
百人一首うばが絵解            :「錦絵館」サイトから
小倉擬百人一首シリーズ :「錦絵館」サイトから

一人静 ホームページから
小倉擬百人一首「権中納言定家」広重と豊国、国芳の浮世絵
小倉擬百人一首「順徳院」広重と豊国、国芳の浮世絵
小倉擬百人一首「後鳥羽院」広重と豊国、国芳の浮世絵
小倉擬百人一首「正三位家隆」広重と豊国、国芳の浮世絵
小倉擬百人一首「入道前太政大臣」広重と豊国、国芳の浮世絵
小倉擬百人一首「前大僧正慈円」広重と豊国、国芳の浮世絵

小倉色紙風 双六

上方絵「濃紅葉小倉色紙」 :甲南女子学園「ギャラリー」サイトから
  春好とあし国の合作 役者絵;大阪中の芝居上演


時雨殿 ホームページ → 2012.3.17(土)リユーアル・オープン だとか。

競技かるた     :ウィキペディア
全日本かるた協会  :ウィキペディア
全日本かるた協会 ホームページ
TOSS五色百人一首協会 ホームページ

[番外]
現代の歌仙絵師と自称される 千絵崇石氏のホームページ
百人一首説明解釈  百人一首と歌仙絵が閲覧できます。


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『風渡る』 葉室 麟  講談社

2012-01-27 00:39:06 | レビュー
 この小説にはテーマが二つある。私はそう受け止めた。一つは、黒田官兵衛の前半生での生き様であり、他の一つは当時のキリシタンという存在がどういうものだったかである。後者はキリシタン信者の日本人夫妻に育てられた日本人修道士、混血児のジョアン・デ・トルレスを通して、キリシタンの布教活動の実態、教会の組織、武士をはじめ商人、一般庶民のキリシタンへの関わりなどが描かれていく。サブテーマには、ジョアンの内奥に秘めた父親探しが含まれている。
 本書のタイトル「風渡る」は、南蛮船が風に乗りキリシタンの伴天連を日本にもたらし、キリシタンの教えという風が日本の国土を様々に吹き渡っていったということを象徴しているようだ。
 本書は、先に読後印象を載せた『風の王国 官兵衛異聞』と連関していく。2冊を併せて読むと、両書が連接かつ照応し、この二つのテーマに一層深みと膨らみを与えて行くように感じる。

 本書は天正14年(1586)、豊臣秀吉による九州攻めの折り、その陣中で官兵衛とジョアンが向かい合い、共に語りたいこと、聞いてもらいたいことがあるという場面から始まる。そして、それまでの経緯が語られていく。

 官兵衛に視点をあてると、京の街角でのロレンソの伝道説教に付き添い、説教の合間にヴィオラを弾くジョアンに19歳の官兵衛が声をかけた時点から、関白秀吉の聚楽第に後陽成天皇が行幸した天正16年頃までの半生の生き様が描かれているといえる。
 14歳で母を亡くした官兵衛は和歌好きで、主君の「貞永式目の抄本を求めてこい」という名目でのはからいにより京に上る。ジョアンと初めて会ったころは、播州、御着城主、小寺政職の小姓だった。永禄10年(1567)10月、22歳で小寺政職の姪、幸を正室に迎える。婚礼の夜、その幸に側室は置かぬと宣言する。15,6歳のころ僧侶になりたいと思ったが、乱世で家が滅びぬためには力を尽くす必要があるので、僧侶になるのは断念したといい、「近頃、別なものになろうか、と思っている」と応える。それは、ロレンソから教えられた「あもーる」であり「ひとをたいせつにするということだ。だから、わしはそなたを大切にする」と。
 永禄12年(1569)には、中播磨の小寺氏の家老になっているが、いち早く織田と結んだ東播磨の別所氏との戦が始まる。官兵衛の軍略が始まるが、この播磨の戦が官兵衛に鉄砲の威力に気づかせ、織田信長の戦略思考に思いを及ぼすきっかけになる。堺で鉄砲の知識を深め、鉄砲を調達した官兵衛は堺に居たジョアンに会いに行く。そして商人小西佐に紹介されて、佐から南蛮への目を開かせられる。官兵衛の心に残ったことばは「でまるかしおん」だった。小西佐の商船に便乗し、播磨に戻ろうとする。このとき村上水軍に対する証の「船印」をつけたこの船が、塩飽の海賊に襲われる。官兵衛の策略で、商船は強奪の危機を免れ、官兵衛は塩飽の九郎右衛門を自らの水軍にしようと働きかける。
 小寺氏を織田方に付かせることにし、官兵衛は秀吉に「申次」を求めた後、天正3年(1575)7月、信長に拝謁する。この時が秀吉との初めての出会いだ。天正5年(1577)10月、織田勢の播州入りにおいては、官兵衛自らの居城・姫路城を秀吉に提供するという奇策をとる。そして、官兵衛の策謀は別所氏の分裂、織田方からの離反に追い込んでいく。それを怜悧に見つめているのは秀吉の軍師、竹中半兵衛だった。
 荒木村重が織田に反旗を翻して有岡城に籠もったとき、官兵衛は説得に行く。説得しきれると自信のあった官兵衛は逆に囚われの身となる。牢に幽閉されて1年、有岡城の落城の折に救出されるが、牢屋暮らしの影響で足が不自由になってしまう。この虜囚生活が官兵衛の生き方をさらに変える転機になったとみるのは難くない。信長は官兵衛が裏切ったと思い、人質となっていた官兵衛の子、松寿丸を殺すように命じていたのだから。だが、松寿丸の命を守ったのが半兵衛だった。信長は官兵衛を信じなかった。官兵衛のこの思いが信長を討つという策謀になっていく。
 一方、半兵衛は己の命の尽きることを見越していたのか、官兵衛が村重の説得の使者として発つ前に、松寿丸の命を守ることと併せて、半兵衛が成し得ないことを官兵衛に成さしめる秘策を託すのだった。
 秀吉の許に戻った官兵衛は、秀吉の軍師としての働きを始める。四国攻め、毛利譜代の清水宗治の籠もる高松城の水攻め、山崎の戦いと続いて行く。
 回想から現在に戻る、天正14年10月の九州征伐の場、豊前、小倉城の一室での語り合いに・・・・官兵衛が京で洗礼を受けたのは天正12年、洗礼名はシメオン。ジョアンとの出会いから20年が経っていた。官兵衛は如水(Josui)と号するようになる。
 語尾が一字違うポルトガル後でJosueは、ジョスエ、すなわちヨシュアのことである。預言者モーゼの没後の指導者がヨシュアだ。

 ジョアンの視点に立ってみる。ポルトガル語の堪能な日本人修道士として、ジョアンは伴天連と日本人の大名やさまざまな人々との間の通訳、仲介者の立場で働き、キリシタンの伝道、布教に努めようとする。
 当時はイエズス会が日本で布教活動を続けていた。日本に在住し布教活動をする神父にもいろいろな考え方があったようだ。日本人を優秀な人々だとみて日本に適応する形で布教伝道して行こうとした神父。一方で、日本人を劣等な人々、邪教を信ずる民だとみてキリストの教えで教化していこうと考えた神父など。そんな様々な神父に仕えながら、布教の一端をジョアンは担うことになる。
 本書には様々な神父が登場してくる。ザビエルの後の布教活動を継承したコスメ・ド・トルレス、日本人の優秀さを認めながら布教する方針をとったオルガンティーノ、日本人を劣等視しながら権力的に布教を進める方針をとるカブラル。カブラルがオルガンティーノと交替し、日本布教長になる。『日本史』を残したルイス・フロイス、元商人のアルメイダ、そして巡察使ヴァリニャーノ。ヴァリニャーノの命令により、カブラルの代わりに日本準管区長の地位に就くガスパル・コエリョ。コエリョは、秀吉と会ったとき、「渡海のためにポルトガルの大型船二隻を世話しよう」と持ちかけ、秀吉に明への進出を勧めた噂のある人物として描かれている。
 ジョアンは官兵衛をキリシタンである堺の商人に紹介するとか、武将が伴天連である神父に会う際の通訳、仲介やキリシタンへの洗礼に関わる役回りとなる。信長は勿論のことキリシタン大名になった多くの武将が、キリシタンの神父を仲介として、西欧の文物・情報の入手、海外貿易に主として関心を抱いていたという実利的側面が具体的に活写されている。カブラル神父の通訳としてのジョアンの立場は、日本におけるイエズス会の布教活動には、宗教を軸に政治、貿易などの諸側面が絡み合いながら進行していたという実態を眺めさせることになる。ジョアン自身は、常に信仰中心に考えているのだが・・・・
 信長の上洛、安土城全盛の時期、本能寺の変、山崎の戦い、秀吉の四国攻め、九州攻めという時代の変遷の中での布教活動の実態が本書でよく感じ取れる。
 最後に、ジョアンの内奥に秘められた父探しという思いが徐々に実現していく点に心惹かれていくところがある。

 官兵衛とジョアンが、この戦国の世で深く関わり合っていく接点を描き出したといえる。官兵衛はジョアンに会い、その後、戦の修羅場を小藩の家老、軍師として歩みながら、様々なキリシタン大名の状況も眺めている。幾度もジョアンとの接触機会がありながら、官兵衛が洗礼を受けるのはその出会いから20年後だった。そこに官兵衛の生き様の変転の一つの証があるように感じた。

 本書の末尾には、官兵衛がガラシャと出会う場面がある。その中で、ガラシャの小侍従いとに著者は囁かせる。「シメオン様、そのお知恵をキリシタンのためにお役立てくださいませ」
 『風の王国 官兵衛異聞』と連接していく囁きである。

 本書で著者は幾つかの仮説を設定していると思った。ここに著者の想像力の飛翔と構想の源があるのではないか。官兵衛の策謀内容への仮説は当然として、以下も仮説も組み込まれた仮説ではないだろうか。
*秀吉が軍師として、半兵衛を三顧の礼で迎えたかの如く伝えられたが、事実は半兵衛の方から近づいたのである。 p173
*ヴァリニャーノが海外へ進出を図るに違いない信長に対抗するために考え抜いた秘策が、少年使節の派遣だった。 p205
*光秀がキリシタンに心を寄せていたとは、思いも寄らなかった。 p269
*「官兵衛とはどのような男だ」「さて、古沼のように知恵深くもあり、雲のようにふわふわと浮かんでおるだけのようでもある男ですな」 p215

 最後に、印象深い文を記録しておきたい。
*わしが、わしであることは変えられぬ  p169
*生あるものは皆、生きなければならないのだ p169
*何かを信じるということは、何かを裏切らねばならない、ということなのだろうか。 p256


ご一読、ありがとうございます。

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本書を読んで関心を持った語句を併行してネット検索してみた。

キリシタン大名 :ウィキペディア
キリシタン大名・山右近研究室
荒木村重  :ウィキペディア
大友宗麟  :インターネット戦国歴史事典
内藤如安  :ウィキペディア
小西 行長 :ウィキペディア

村上水軍  :ウィキペディア
村上水軍博物館
九鬼嘉隆  ← 鳥羽水軍 九鬼嘉隆と九鬼守隆 :「日本歴史 武将・人物伝」

鉄甲船   :ウィキペディア
安宅船   :ウィキペディア
安宅船 の画像検索結果


ガスパール・コエリョ  :ウィキペディア

天正遣欧少年使節  :ウィキペディア

聚楽第    :ウィキペディア

マカオ    :ウィキペディア

関連語句としては、昨年12月に、『風の王国 官兵衛異聞』の印象記に付した
ネット検索項目も併せてご参照ください。

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『福沢諭吉伝説』 佐高 信  角川学芸出版

2012-01-21 01:13:22 | レビュー
 「福沢諭吉」+「伝説」というタイトルに興味を抱き読み始めた。「伝説」って何だろう、おもしろい話でもあるのか・・・・
 読み進めて行き思った。福沢諭吉に関わった人々が自らの目や心に映じた福沢諭吉を「伝え」ている。その局面・内容を著者は「説きあかす」形で間接的に福沢諭吉を浮彫にしようとしている。一方で、福沢人脈に連なる人々そのものの列伝を書き留めているのだと。
 本書末尾の「おわりに」を最後に読んだとき、「私は最初から、福沢の思想の解釈をするつもりはなかった。福沢の思想は現実的にどう働きかけ、どう生かされたか。そこに焦点を絞って、『紀行』を続けようと思った」と書いている文が目に入った。当初抱いた印象は的を外れていなかったなと思った次第である。「どう働きかけ、どう生かされたか」ということは、生かした人を語ることになり、そのことは思想の発信者を間接的に描くことにもなる。(「紀行」という言葉が出ているのは、当初『夕刊フジ』に「福沢諭吉紀行」というタイトルで連載されていたことによるようだ。)

 本書では、福沢人脈の様々な人名が出ているが、列伝という意味では、増田宋太郎、中江兆民、馬場辰猪、北里柴三郎、松永安左衛門、池田成彬、早川種三、犬養毅、尾崎行雄、金玉均といったところが中心人物になっている。本書を読むまで、私は増田宋太郎、馬場辰猪、金玉均の3人を全く知識がなかった。また適塾の雰囲気が描かれていて興味深かった。

 列伝という意味合いではこんな印象を抱いた。
<増田宋太郎>
 著者はこの人物の評伝、松下竜一著『疾風の人-ある草莽伝』を読んだことが福沢諭吉についての連載を始めるトリガーになったと記している。福沢諭吉のまたいとこにあたる人物だが、尊皇攘夷思想を奉じ、西洋文明導入の先鋒を切っていた福沢諭吉を仇とし、暗殺しようとすら考えた人物だったようだ。思想的には福沢の対極に居た。自由民権運動に近づき、西南戦争に参加して西郷隆盛に殉じて死ぬという形で、疾風の如くに人生を駆け抜けたようだ。著者は最初の三章を費やして、増田宋太郎と福沢諭吉の思想的なシーソーゲームの側面(世間のもてはやし方の変転)を描いている。その増田が福沢から送られてきた『文明論之概略』全6巻を真剣に読書し、自らの考えを変え、慶応に入塾し聴講生になったという。著者は、増田を福沢の反面鏡として捕らえている。そしてこのように書く。
 「またいとこの増田が、なぜ、福沢をねらったかに私がこだわるのは、それが、福沢が何と闘ったか、あるいは何とたたかわなければならなかったかを、くっきりと浮かび上がらせるからである。思想的なものだけではなく、日常の生活まで、福沢の『革新』は及んだ。それだけに、反発も激しく、そして強かった。」(p35)
 
<中江兆民>
 兆民は福沢を尊敬していたが、親愛感は抱かなかったようだ。福沢がベンサム流の功利主義、現実主義に立ったのに対し、ルソーの民約論の立場を以て批判したという。道理(理想)を論じたようだ。著者は、医学に関心を寄せ続けた「英学」の諭吉と、哲学に重きを置いた「仏学」の兆民を対比している。兆民はルソーの『学問芸術論』を明治16年に『非開化論』という書名で翻訳発刊して、明治新政府の主導した「文明開化」に批判的な態度をとったという。
 兆民が近代化の可能性を仏学に見出そうとしたころ、フランス語の辞書がなかったという。「兆民は、和蘭、和英、英仏対訳などを突き合わせて解読に努めていた」というから驚きである。兆民が福沢を「明治の俊傑」と讃えたようだが、その兆民もまた「俊傑」の一人だったと思う。

<馬場辰猪>
 土佐出身で慶応義塾に17歳で入学。師・諭吉は馬場を最も愛したという。明治6年(1873)に「英語採用論」を展開した森有礼に対し、馬場は『日本語文典』を著し、直ちに反駁したらしい。また、『日本における英国人』『日英条約論』という2つのパンフレットを書き、「日本が国際社会において平等な取扱いを受ける権利があることを主張し、当時の大国、イギリスを告発したという。不覇独立の精神を説き、官途につくことはなかった。「福沢伝来の自由主義とナショナリズムの内面的結合」を馬場は主張し、自由民権の理論家としてラディカルな方向に突き進んでいった人物のようだ。『三酔人経綸問答』を書いた中江兆民はこの本で馬場辰猪をモデルとした洋学紳士を登場させているという。兆民は辰猪を友としていた。
 「圧制主義」を取る幕藩政府に対し、「論理の直線」に循がう馬場は、大衆から孤立し、師・福沢とは異なり過激になっていく。そして明治21年晩秋、フィラデルフィアで客死する。

<北里柴三郎>
 コッホの下で研究した細菌学者・北里を文部省や東京帝大医学部は受け入れなかった。伝染病の研究所を日本につくりたいという考えは受け入れられない。それを福沢が助け、芝御成門近くの借地を北里に提供し、在野の伝染病研究所の開設を支援する。東大一派の北里イジメはかなりひどかったようだ。学問の発展とそれに必要な自由を求めた北里。その情熱が福沢を動かしたようだ。この間の経緯が具体的に描出されている。紆余曲折を経て、大正7年に「社団法人北里研究所」が発足する。
 福沢の死後、十数年後に慶応義塾の大学部に医学科が設置されると、北里は初代医学部長と病院長を務め、福沢の恩に報いたという。
 北里の業績は親炙されている。北里は常々「医者は医学的に患者を引きずる者・・・全面的に患者と取り組んで万事を患者のためにやるべきもの・・・はたから雑音が入ってそれに引きずられる幇間医者になるような、そんな卒業者をつくっちゃならん」と言っていたという。人柄があらわれているように感じる。
 第6章「北里柴三郎を助ける」の末尾に記されている「不潔なミルクビン事件」は福沢が北里を詰問したエピソードだが、福沢の精神を表出しているように思う。

<松永安左衛門>
 著者は福沢精神を体現した門人の筆頭として松永を取りあげている。戦争中は電力の国家統制に反対し、「電力の鬼」といわれた人物として有名だ。 
 慶応に入学した松永が校庭で出会った教師に丁寧なおじぎをする松永を見た福沢が、教師に途中で逢ったぐらいでいちいちおじぎをするな、また福沢に対してすら自然な会釈だけでいいという。このエピソードは時代背景を考えるとなかなかおもしろい。
 松永の波瀾万丈の生涯の一端と、福沢との濃密な師弟関係、松永から見た福沢評が具体的で面白い。松永が近衛文麿を嫌ったエピソードも秀逸である。
 松永の反骨精神は本人の個性であるが、その背景には福沢の思想がやはり色濃く心底に存在すると感じる。

<池田成彬>
 福沢の門下生で、三井銀行に入りその中核として活躍し、後には三井財閥の総帥になった人物だが、彼が福沢を嫌っていたというのを本書で初めて知り意外だった。「君たちは巧言令色をしなければならん」と福沢に言われ、その表層にとらわれて当初反発した。その真意は後年になってわかたという。慶応からハーバードへの留学、卒業し帰国後、「時事新報論説委員」になったとき、三井銀行入行のとき、三井のリーダーに推されるとき、などのエピソードで著者は池田の人物像を描いている。これが結構おもしろく、池田成彬を彷彿とさせるものになっている。池田の合理主義精神の影に、やはり福沢の影響をみる。

<早川種三>
 早川は「企業再建の神様」として名を残す。著者は短い文章の中で、早川の親和力と巨きさを端的に記し、再建過程で「思想というものは放っておくべきだ」という早川の考えを表す逸話を抽出している。そして、「思想を絶対視せず、それを極めてプラグマティックに捉える」早川の思考に、福沢精神を重ねている。

<犬養毅>と<尾崎行雄>
 二人は「憲政の神様」と呼ばれる。慶応の塾生当時、尾崎行雄が「協議社」、犬養毅が「猶興社」を組織したという。それを福沢が「民権村の若い衆」とみていたというのがまず面白い。あるときは福沢に怒鳴られ、また諭され、影で支援されていたというエピソードが、それぞれが「福沢を語る」として引用されていて、福沢像に彩りを添えている。
 塾生時代、犬養・尾崎の二人の仲が悪かったというエピソードが結構おもしろい。
 この第10章では、「明治14年の政変」や、当初仲の悪かった犬養、尾崎その他が改進党を結成したこと、そして、この二人が大正に入って憲政護憲運動の先頭に立っていくことが描かれている。本書で、尾崎行雄が「廃国置州」というユニークな考えで世界の変革を説いていたというこを知った。世界連邦という発想を持っていた人が居たのだ。
 
<金玉均>
 著者は『福沢全集』に収録された明治18年(1885)年3月16日発表の「脱亜論」について、平山洋の分析を踏まえてその経緯を論評している。福沢の思考・意図でない論調の混入を説く。福沢の行動の証として、福沢が金玉均を支援していたことを述べている。金玉均は朝鮮の独立運動について福沢の指導助力を乞い、福沢は独立助成の目的を達するための助力をしていたのだという。金は「独立党」の主役として改革の道を模索したが、清の袁世凱が朝鮮軍の兵士を買収したために、「金玉均の乱」は不成功に終わったとのこと。日本に逃れてきた金に対する支援は福沢門下の犬養や尾崎も含めて続くが、紆余曲折の後、洪鐘宇の言葉巧みさに金は上海に連れ出され銃殺されたそうである。
 著者は最後に書く。
 「最後に金の話をもってきたのは、金を支持し、助けたという事実をもって福沢の『脱亞論』への悪評を葬りたいと考えたからだった」と。


 本書で様々な人々が点描的に伝えた福沢諭吉の人物像を抽出・要約すると、ほぼこんなところか。
*在野に徹したと言っても、無政府主義に共感を寄せてはいなかった。あくまでもイギリス流の「コモン・センス」の思想家である。フランスが嫌いだった。 p58-59
*西洋啓蒙思想を信奉しながらも、日本在留の白人の行動には批判的になり問題視している。「我日本を抑圧せんとせり」を怒っている。「白人」批判の手紙も残す。途中からナショナリスティックにすらなる。「独立」の意識の高さ。 p62-65、p115
*酒こそ飲むが、遊里の巷に足をふみいれたことのない人物  p69
*福沢には西郷への親近感があった。西郷の「抵抗の精神」を礼讃した。  p70-71
*常識の通じない世において、諭吉は偉大な常識家だった。 p86
*西洋文明を取り入れるために合理主義に徹した。国民の意識革命を率先してやった。卑近な文明の輸入という任務を天職としていた。 p115、p121
*福沢の執筆態度は、論語に謂う『辞達而已矣』であった。平坦素朴な文字の間に飄逸な雅致が感じられる文を書く。  p120-121
*福沢の著訳が平易を以て終始する姿勢は適塾の師・緒方洪庵に負う。 p170
*福沢の自由平等思想は適塾において、師緒方洪庵によって育まれた。 p172
*福沢は自由にこだわった。 p192
*つまらないことには盲従しない。人がやらないから、やれないからこそ、敢えて自分でやって見せる。「我天下に一人在り」の気概を感じさせた。 p187
*衣服の流行には無頓着で、夫人の着せるものを着ていた。間に合えばいいという考えかた。 p192
*のびのびと丸腰で生きられる世の中に、一日も早くすることをめざす。 p192
*福沢は「大意地の人」(松永安左衛門の見方)  p195
*「年若くしては、つとめて老人と交われ。年老いては、つとめて若い仲間と語り合え」と教えた人  p207
*人間をひとつの団子にまるめ、欠点も美点も一丸とすると、まるめて一番おおきいのが福沢諭吉。 p209-210
*終始一介の在野人に徹した。 p210
*一度目をかけた人は、終わりまでどんなことがあっても決して見捨てなかった。p210
*自分の子供に対しては甘く、普通以上の子煩悩。子供を呼び捨てにしないことを原則とした。p212-213
*「岩崎弥太郎は船士をつくり、福沢諭吉は学士をつくる、その内に軽重あるべからず」(福沢諭吉の言) p224
*逆説的なものの言い方をする傾向がある。 p227
*経済経済と福沢は唱えたが、自身は割合に不経済な人だった。金銭蔑視という武士の風潮を排し、殖産の途を講じ国利民福を計る必要性を主唱した。 p277
*慶応義塾では教育勅語を読まなかった。 p278
*福沢の本当の精神は、古い形式の破壊だった。 p292
*清から朝鮮の独立をめざす金玉均を支持し助けた。←アジア蔑視主義者ではない。p295-305

 本書からは、福沢諭吉を多角的多面的に眺めることができて興味が深まる。

 著者は、「諭吉は”平熱の思想家”だと思う。時代がどんなに異常で高熱、もしくは狂熱になっても、諭吉は平熱を保ちつづけようとした。それは決して容易なことではない。絶えず、暗殺の恐怖がつきまとったことだけでも、その困難さはわかるだろう。」と評している。
 本書を通読するとこの見方に共感する。
 ちょっとおもしろい福沢諭吉へのアプローチを楽しめた。

ご一読、ありがとうございます。

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福澤諭吉  :ウィキペディア
Fikuzawa Yukichi :From Wikipedia, the free encyclopedia
Fukuzawa Yukichi
:UNESCO Prospects: the quarterly review of comparative education

増田宋太郎 :ウィキペディア
増田宋太郎 ( ますだそうたろう) :大分歴史事典
中江兆民  :ウィキペディア
Nakae Chomin :From Wikipedia, the free encyclopedia
馬場辰猪  :ウィキペディア
北里柴三郎 :ウィキペデイア
Kitasato Shibasaburo :From Wikipedia, the free encyclopedia
北里柴三郎記念室 :北里研究所・北里大学
北里柴三郎博士の秘話 :微生物管理機構
松永安左エ門 :ウィキペデイア
電力に生涯を捧げた男松永安左エ門 :藤村哲夫氏
松永安左衛門記念館 紹介ブログより
  記念館の雰囲気がよくわかる。遺言状の文が掲載されていて興味深い。
池田成彬 :ウィキペデイア
財閥転向に努めた「清貧の人」池田成彬 :「三井史を彩る人々」サイト
縣人文庫 池田成彬文献目録 :山形県立図書館
早川種三 :ウィキペデイア
早川種三 :経済界 本誌秘蔵フィルムで綴る20世紀の偉人列伝
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犬養毅 演説「新内閣の責務」 1932総選挙 :YouTube
尾崎行雄 :ウィキペデイア
尾崎行雄について :尾崎行雄記念財団ホームページ
金玉均  :ウィキペデイア
朝鮮の維新志士 Kim Ok-gyun :YouTube

交詢社  :ウィキペディア
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FUKUZAWA COLLECTION デジタルで読む福澤諭吉 :慶応大学図書館
 西洋事情 
 学問のすすめ 初編
 文明論之概略
 西洋旅案内
 福翁自伝
 福翁百話
 福翁百余話
 この他にも様々な書を閲覧できます。いいですねえ・・・・


[番外] こんな事実を知らなかった!
福沢諭吉の遺体

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Part 2 『美しい科学2 サイエンス・イメージ』 ジョン・D・バロウ 青土社 

2012-01-19 22:00:29 | レビュー
第3部の印象と内容の紹介が長くなったので、前回それだけに絞ってしまった。
 そこで、第4部についても、読後記録を兼ね、補足しておきたい。

 第4部の概観は著者自身がその冒頭で簡潔に導入部を書いている(p218~221)。本を手にとって、この部分を通読されれば、著者の意図が大凡理解出来ると思う。
 著者は「物理学と化学が人間のためにつくった図」をここでとりあげることをねらいとしている。私の印象に残っているのは、第2章のニュートンのプリズム、第6章の元素周期表誕生の歴史、第7章のベンゼン鎖の図が生まれた背景、第19章の電子写真(ゼログラフィー)いわゆるコピーの誕生裏話、第21章の砂山実験による「自己組織化臨界現象」だった。
 第12章「空中に描く-泡箱の軌跡」は、本文5ページ、図2ページの本章でその考え方が何となくわかったが、ネット検索で動画等を補足的にみることで具体的に実感できたといえる。第10章(結合エネルギー曲線)、第13章(ファイマン・ダイアグラム)、第14章(重なる三つの点)、第15章(万物の総カタログ)のあたりは、物理学の知識が乏しいため、正直なところ、書かれてある内容が私にはわかりづらい。このあたりは物理学知識の素養次第でそのおもしろさが違うだろう。私には、こんな分野があるのかという認識に役立ったといえる。
 第16章の「シュレジンガーの猫」は物理の世界における哲学という感じで、興味深かった。第17章の「量子囲い」は、理論的なことはわからない(そこには立ち入っていないので助かったが・・・)が、ナノテクノロジーがどんなレベルにあるのかを絵で感じとることができておもしろかった。

 科学が直観や閃きから生まれたというエピソードがしばしば語られる。この第4部でもそれらが紹介されていて楽しい読み物になっている。
 第6章は元素周期表の誕生がテーマである。そこには、1789年にフランスの化学者ラヴォアジェが化学「元素」の概念を定義し、1805年にイギリスで、ジョン・ドールトンが20の元素とその重量を表にし、組成の規則を符合で表したことを紹介(p260-261)している。そして、メンデレーエフの卓越した直観力から周期律表が誕生したエピソードを語っている。新しい教科書を執筆しようとし、急増した化学元素とその性質をまとめるために元素をカード化し、規則性を探そうとしていて彼は閃いたのだという。著者は、「たんに便利な一覧表をつくろうとしたのではなく、元素があてはまる規則的な構造があると信じていたことが劇的な発見と予測を生んだ」(p266)という。楽しい豆知識を得た。メンデレーエフは既知の元素からまとめた周期律表に空欄ができ、そこには未知の元素が存在することを予測しその原子量と密度を割り出し、「エカボロン、エカアルミニウム、エカケイ素」と名づけることまでしていたそうだ。それらの存在が実際に次々に発見された。化学の授業で憶えた「スカンジウム、ガリウム、ゲルマニウム」である。発見年と発見地はそれぞれ、1879年(ウプサラ)、1875年(パリ)、1886年(フライベルグ)だ。この元素名、ラテン語ではそれぞれ「スカンジナビア、フランス、ドイツ」を意味するというのだから、名づけ方が楽しい。さらに、彼は1923年に発見された「ハフニウム」も予測していたとか。これもラテン語では「コペンハーゲン」だそうで、この元素の発見はコペンハーゲン大学だった。こんなことを化学の授業で聞いた記憶がない。闇雲にあの表を暗記することやその方法に目が向いていた・・・・皆さんはどうでしたか?
 第7章には「ベンゼン鎖」のエピソードが載っている。ベンゼン構造を解いたのはドイツの化学者フリードリッヒ・ケクレ。1857年に炭素の原子価が四価であることを提唱し、1865年にあの6角形の構造で表現しようと試み、1866年にもっと複雑な分子模型を発表した。ケクレは夢を見て、そこからひらめいたのがあの構造だという。そこから現代の構造有機化学が生まれた! p270に夢の回想が引用されており、また1979年には東ドイツで切手の図柄にもなっている(p271)。
 
 この第4部も読みながらネット検索で少し背景情報を集め、ざっと表面的にでもそれらを眺めながら、本書を読む参考にした。物理・化学分野に疎い文系人間には、第4部の面白さを受け止めるのに役立った次第である。

 第4部で印象に残った箇所をメモしておこう。

*進歩した文明は廃エネルギーと汚染物質を最小限に抑えながら、できるだけ少ない原料で、できるだけ小さいものをつくろうとするはずである。  p221

*自然のふるまいについて重要な発見をするのに、何億円もする装置はいらない。単純なものを正しく見て、よく考える。それが現実の新しい側面を見出すきかけになるのだ。1枚の絵こそすべてなのである。  p221

*太陽は「太陽風」と呼ばれる荷電粒子の「風」を絶え間なく吹き出している。・・・・吹きつける太陽風の粒子が地球大気中の粒子を励起し、それが光というかたちで余剰エネルギーを放出して、北極光あるいはオーロラと呼ばれる幻想的な光のショーが空に浮かび上がるのだ。太陽風のプラズマ粒子は大気上層で原子や分子と衝突し、それらを励起してさまざまなエネルギーをもつ光を放つ。ぶつかった原子の種類によって色が違い、酸素は緑と赤、窒素は薄紫、青、ピンクに発光する。    p244

*ファラデーのひと目で実体のつかめる単純な図は、物理学の発展における重要な分岐点だった。  → ファラデーの力場の図   p249

*電子が高いエネルギー準位から低いエネルギー準位へ移動するときに光を放射する p255

*ファイマン・ダイアグラムは、いつまでも古びることのない彼の遺産である。物理学者の新しい七つ道具なのだ。    p314

*自然界の4つの基本的な力が統合されて1つの普遍の法則にしたがう。物理学者はそんな唯一の理論をいつも追い求めてきた。  p315
 (付記 :4つの力→重力、電磁気力、放射線や核過程を支配する弱い力と強い力)

*原子を操作するという劇的な進歩が実現したのは、走査型トンネル顕微鏡(STM)が発明されたおかげだった。 p338

*アインシュタインは、広く支持されたボーアの見解に真っ向から異を唱えた。ボーアは、どんな事象も観測されるまでは「存在する」とは言えず、したがって物理学者は物理的実在があることを発見するのではなく、物理的実在について何が言えるかを発見するのみだとしていた。一方のアインシュタインは、観測されようとされまいと、事物の真の本質は何ものにもよらず存在すると考えていた。 p343

*ムーアの法則は進歩を促すという重要な役割を果たしたのである。     p358
 ムーアの予言した進歩は、・・・・使う基本技術は同じで、機械部品として品質と精度をより向上させ、より緻密なものをつくっていくという話である。いずれもっとずっと小さい領域に入っていくと、新しい物理法則が製造に影響しはじめる。新しい製造が適しているということになり、古い構造を小さくしたでけではもう追いつかないのだ。  p358
 はたして、「第二の」ムーアの法則はあるだろうか。 p359

*正しい質問をして、起こっていることをよく観察するなら、これからもまだ日常のありふれたものから重要な発見ができる。  p366

 この第4部は、物理・化学の世界を学生時代から比べて、より身近なものに感じる上で参考になった。内容を十分に理解できたという自信はまったくないが、雰囲気を味わうこととこの領域に対する好奇心を喚起されたのは間違いが無い。
 それにしても、オーロラの写真(p245)やネットで入手した画像、動画は神秘的だ。実見できる機会があれば・・・・・・

ご一読、ありがとうございます。

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 基礎知識不足を補うために、ネット検索し、部分的にではあるが参照したものをまとめておこう。あらためて少しずつ精読してみたい。


アーネスト・ラザフォード  :ウィキペディア
アルベルト・アインシュタイン  :ウィキペディア
アインシュタインの科学と生涯
アイザック・ニュートン  :ウィキペディア

ファインマン・ダイアグラム :ウィキペディア
シュレーディンガーの猫  :ウィキペディア

オーロラの画像検索結果
オーロラ :YouTube
Aurora Boreale track _ enya :YouTube
Northern light Aurora Borealis Nordlys Lofoten Islands Norway :YouTube
Polarlichter   :YouTube

マイケル・ファラデー :ウィキペディア
ファラデー  :電気史偉人典

摂動 :ウィキペディア

マックス・プランク  :ウィキペディア
ニールス・ボーア  :ウィキペディア

電子のエネルギー準位  :SDSS SkyServer 
元素周期表 → 周期表 :ウィキペディア
メンデレーエフ記念館を訪ねて :豊田ひろし氏

アウグスト・ケクレ  :ウィキペディア

DNA ← デオキシリボ核酸  :ウィキペディア
DNA指紋法 :Snow Leopard Trust

結合エネルギー :ウィキペディア
質量欠損    :ウィキペディア
キノコ雲 :ウィキペディア
霧箱  :ウィキペディア
ウィルソンの霧箱
霧箱 アルファ線の散乱(1) convection cloud chamber: Alpha particle scattering (1)   :YouTube
B10-7758ペルチェ霧箱 Mistline<放射線の飛跡の観察> :YouTube
霧箱でα線の観察  :YouTube
日本科学未来館 見えない放射線をとらえる霧箱 :YouTube
泡箱  :Fresh eye ペデイア

走査型トンネル顕微鏡 :Scanning Probe Microscopyのサイトから
「量子囲い」のイメージ  :IBM STM Image Gallery
量子蜃気楼を示す電子顕微鏡写真 :IBM Press Room

ささやきの回廊 :ウィキペディア

ERP思考実験 ← ERPパラドックス:「量子論と複雑系のパラダイム」

量子もつれ → 「量子もつれは時間も超越」 :Wired Archives

自己組織化臨界現象
 自己組織化臨界  :「にこぴーのホームページ」<複雑系とは何か?>から
 自己組織化臨界現象(SOC)のページ :岩瀬康行氏
 自己組織化臨界 :「パラダイムシフト」(小林浩氏)
 地震と自己組織化臨界現象 ::山崎淳子氏

<附録: ニュース報道>
AFPBBニュースから
天の川銀河に地球大の惑星が数十億個、国際研究チーム
2012年01月12日 15:45 発信地:パリ/フランス

CO2の排出量増、魚の中枢神経系を侵す恐れ オーストラリア研究
2012年01月17日 13:54 発信地:シドニー/オーストラリア

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『美しい科学2 サイエンス・イメージ』 ジョン・D・バロウ 青土社

2012-01-17 00:57:04 | レビュー
 本書は、第3部「数で描かれた絵」(25章)、第4部「知は物質を超える」(21章)で構成されている。前半(第1部・第2部)を扱った翻訳の1冊目に引き続き、知的好奇心を喚起するという意味で実に楽しい本である。

 第3部の冒頭の文章にこんなことが書かれている。
 「目は統計よりも感度の高い解析器なのである。・・・・数学に関しては、本当に理解するためには見なくてはならない。英語で『わかりました』と言いたいときに、よく「I see(見えます)」というのは、決して偶然ではない。」

 第3部は数学と絵・図との深い関係を様々な事例で解りやすく解説している。面白そうな話をいくつか紹介しよう。本書を手に取ってみようと思う気に多分なるだろう。

 我々は中学校でピュタゴラスの定理を習った。あの定理には「幾百通りもの証明があり、古代バビロニア人、中国人、インド人、エジプト人は、ピュタゴラスよりもはるか昔にこの定理を知っていたことがわかっている。」(p44)という。ご存じだっただろうか。私は知らなかった。「バビロニア人にいたっては、ピュタゴラスの関係式を満たすA,B,Cを選択して三角形を作図する手法を紀元前1600年より前に使っていた」(p44)そうな。
 一方で、こんな話がある。サイコロは古代から存在した。確率という数学の考え方を学んだときサイコロの目の出方を使ったことを思い出すだろう。算術、代数、幾何学の起源は大文明、文化の発祥の時代にさかのぼる。だが、この確率が数学の一分野として確立するのは1660年なのだという。なぜか?天文学において、天動説が信じられ地動説が排斥されたのと通じるところがあるように理解した。つまり、一つの理由が宗教にあるとか。「古代の世界には、誰にも予測できないという意味での偶然の出来事という概念がなかったようだ。・・・神々(もしくは唯一神)を信仰する文明では、期せずして起こることの多くは神が自分の意思を知らせるための手段だと考えられた」から。もう一つの理由は「結果の出る確率を均等にするという考え方」が欠けていたことによるのだとか。それは本当に均一な状態のサイコロを作れなかったことによるようだ。つまり、特定の目がどうしても出やすくなるサイコロしかつくれなかったことに原因があるという。
(p73-74)

 数学は芸術につながる。こんな話も載っている。「メビウスの輪」と呼ばれるもの。この発見が「位相幾何学」として発展していくようだが、1858年にアウグスト・フェルナンド・メビウスがこれを発見したのとは全く独立に、同じ年の7月にヨハン・リスティングもこれを発見していた。二人はドイツの数学者で、共にカール・フリードリヒ・ガウスの教え子だったとか。このメビウスの輪のモチーフは、エッシャーの「メビウスの輪」、スイスの彫刻家マックス・ビルの「無限のリボン」、アメリカの物理学者で彫刻家ロバート・ウィルソン「イモータリティ」の創作に刺激を与え、一方、アーサー・C・クラーク『暗黒の壁』、アーミン・ドイッチェ『メビウスという名の地下鉄』などが創作されることにつながるというから、おもしろい。数学は芸術、美を喚起するというところか。
 
 第3部の第14章、第15章はグラフの起源とその重要性を語っている。当たり前のことのように使っているグラフにも歴史がある。
 データがグラフで表示されたのは10世紀から11世紀のことで、現存する最古のグラフは太陽系惑星の軌道傾斜角を時間に沿って示したものだという。我々がx軸、y軸と呼び慣れた二本の軸が直交する座標というあの概念が確立されたのは1637年。「デカルト座標」として馴染み深い(と著者は記すが、私は知らなかった)。フランスの数学者で哲学者のルネ・デカルトが確立したという。「ベッドに横になっていたデカルトが、天井を蠅が歩いているのを見て思いついたと伝えられている」(p138)のだから、おもしろい。また、ジェイムズ・ワットの下で蒸気機関の製図を担当していた機械技師のウィリアム・プレイフェアが「円グラフ」を考案した。1801年にロンドンで『統計的解明』を出版し、その中で、ヨーロッパ主要国の人口と税収を比較するために円グラフで表示したのが初めのようである。その図が本書に掲載されている(p133)。機械技師が税収比較図に使ったというのだからこれも併せておもしろい。
 しかし、「グラフ」という言葉を考案したのはイギリスの数学者ジェイムス・ジョセフ・シルベスターで、1878年に分子の化学結合の図を指すのに使ったそうだ。
 著者はいう。「情報を収集するだけでは科学ではない。それはたんに科学に必要な準備段階にすぎない。データとデータのつながりを探し、データの羅列から意味ある規則性を見出すことで、初めて科学が始まるのである」そこでグラフが重要な役割を果たし、規則性、法則性を見出そうという気にさせるのだと。つまり、I see が意味を持つ。

 この第3部はいくつかの数学の分野が出てきて、時には数式も入っているが、数学知識に乏しくても楽しめるところがいい。数学と絵・図の関係がテーマであるからかもしれないが、数学の授業などでは教えられることのなかった周辺の話が次々に出てくる。ここで取りあげられているような話が数学の授業に入っていたら、もっと数学に興味が湧くのではないだろうか。そんな気がする。
 確率論で一番なじみになる「正規分布」。この名称は、19世紀に、チャールズ・ダーウィンの従弟にあたるフランシス・ゴールトンがこう表現したという。そして、その特徴的な形から1872年にエスプリ・ジュフレが「ベルカーブ(鐘形曲線)」と名づけたとのこと。こういう豆知識まで載っている。
 この本から、クイズを作ったら面白いのではないかとも思う。たとえば、
 Q. すべての面が同一の正多角形という条件を満たす凸形多面体はいくつあるか?
 Q. +と-の算術記号が同時に書物に現れ、現存する最古のものは何時頃のものか?
 Q. 数学に等号(=)を導入したのは誰か、また何時頃か?
 Q. 三角法で使うサイン、コサイン、タンジェントの名の由来はどこからか?
 Q. 無限大の記号(∞)の由来は? だれが数学の世界でこの記号を採用したのか?
など・・・・本書を読まずに回答せよと言われたら私は0点だった! 
(参照: p17、p55、p58、p95&p97、p109&p111 )

 「数で描かれた絵」という第3部に、なぜか「ドーナツ、レモン、みんな-楽譜」という第16章がある。中世の音階は6つの音しかなかったが、やがて1音つくられて7音になったということで数に関連するのか、最初4線譜だったのが5線譜になったという数の関連か・・・
 いずれにしても、あの馴染みの線譜の由来をここで学べたのは興味深かった。
 11世紀にベネディクト会の聖歌隊指揮者だったグイード・ダレッツオという人が譜表を考案し、記譜法の基礎を確立したようだ。そして、賛美歌『聖ヨハネ賛歌』の「各節の歌詞の最初の音節が譜表で表した音階のとおりに一音ずつ高くなっている」(p146)ことに気づき、上昇音階の覚え方を「Ut(ウト)、Re(レ)、Mi(ミ)、Fa(ファ)、Sol(ソル)、La(ラ)とした」という。そして、UtがDoに置き換えられ、同賛美歌の歌詞の最終行の頭の2字から「Si(シ)」が第7音としてつくられたとか。ドレミファはラテン語から来ているようだ。p141、p143に引用されている図も興味深い。

 第3部を読んで、印象に残る章句を抜き出してみる。

*ロンドンの地下鉄地図は20世紀のデザインを象徴するロンドンのシンボルだが、同時に位相幾何学で表した初めての地図でもある   p13

*星形多面体・・・・これらはルネサンス期に職人がプラトンの立体を装飾に利用しようとして手を加えるうちに個別に発見された。 p20

*素数が無限にあることを、エウクレイデスは2000年以上も前に見事に証明してみせた。・・・・1000万桁を超える素数の発見には、電子フロンティア財団より10万ドルもの賞金が掛けられている。  p33-34  (付記:エウクレイデス=ユークリッド)

*記号は論理を内包する言語なのだ。 p55

*西洋と東洋のサイコロは、鏡映しになっているのだ。  p72
  (付記:サイコロの1の目を上にすると、2と3の目が左右逆であるとは!)

*サインとコサインは、いまや応用数学に欠かせないグラフ関数である。 p99

*物理学の世界では1975年以降、現在知られているすべての自然法則を「万物理論」として統一して数学的に記述しようとする試みがなされている。  p119

*数学の特異な点は、直観に反するような性質をもつ構造のつくり方を示すところにある。 p154

*「純粋」と「応用」の二つに分けられていた数学の分野は、「実験数学」が加わって3つになった。  p164

*マンデルブロー集合とジュリア集合はアート作品として美術展の壁を飾り、フラクタルの自然美を称賛される。一方で、数学的な構造が「具現化された」証として扱われもする。だが、マンデルブロー集合が私たちに何よりも教えてくれるのは、簡単な命令が予測不可能な底知れない結果をもたらすことだ。  p169

*不可能な三角形の不思議なところは、なぜ目は物理的にありえないと認識した形を立体として捉えようとするのかということである。・・・・ありえないものであるにもかかわらず、目はなんとしても三角形を三次元の物体として解釈しようとするのだ。 p174

*数学者が求めているのは、証明した事柄を別のところに適用すると未知の事柄に敷衍できるような新しい問題、新しい証明方法、新しい手法である。  p195

*統計的な動向の研究は、多くの数学者と経済学者がデータに見られる不規則な変動や誤差の発生率を公式として導きだそうとした18世紀後半に始まった。 p206-207

*おもに賭博の勝率計算という動機から、ピエール・ド・フェルマー、ブレーズ・パスカル、ヤーコプ・ベルヌーイといった名だたる数学者によって確率の研究が進められるようになった。  p207

*各過程が独立していて加法的であるかぎり、結果は実際の過程の特性によって決定される平均値と分散をもった正規分布にかならずなるのである。 p211

*人間の特性は正規分布するという考え方は、平均を求め、人口を平均以上と平均以下に機械的に分ける手段として利用された。・・・・・近年「ベルカーブ」は、社会や人種によって知性や経済的な豊かさに優劣をつけることが問題視されて批判の的になっている。 p214

*「物事はできるだけ簡潔にしなくてはならないが、それ以上簡潔にしてはならないのである」 アインシュタイン

 第3部を楽しみ、読後印象を書き出すと思わず長くなったので、一旦ここでまとめとしたい。



ご一読、ありがとうございます。

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 第3部を読みながら、ネット検索で本書の楽しみ方を膨らませてみた。ご参考を兼ねて一覧にした。
 ウィキペディアをはじめ、アップロードされている皆様に感謝する次第です。

正多面体 :ウィキペディア
プラトン立体 :シムダンス「四次元能」
多面体  :ウィキペディア
プラトン立体とケプラー・ポアンソ立体 :小野満麿士氏のブログ
星形正多面体 :ウィキペディア
アルキメデスの立体 

Archimedean solid:From Wikipedia, the free encyclopedia
Archimedean Solid   :WolframMathWorld

フラーレン  :ウィキペディア
C60フラーレンを宇宙で発見  :National Geographicのニュースサイトから

エウクレイデス :ウィキペディア
パスカルの三角形 :ウィキペディア
パスカルの三角形に色をつけよう  :「結城浩-The Essence of Programming」
朱世傑  :ウィキペディア

メビウスの輪 ← メビウスの帯 :ウィキペディア
資料:ラカン「メビウスの輪」と「ボロメオの輪」:「Toward the Sea」ブログから
位相幾何学 :ウィキペディア
ケーニヒスベルクの橋 → 一筆書き :ウィキペディア
三葉結び目 :ウィキペディア

Trefoil knot の画像検索結果
エッシャーの「Knots」(結び目) ←

M.C.エッシャーの絵 公式サイトから

カテナリー曲線 :ウィキペディア

ウロボロス  :ウィキペディア
無限  :ウィキペディア

超ひも理論 ← 超弦理論  :ウィキペディア

コッホ雪片 ← コッホ曲線 :ウィキペディア
Koch曲線(コッホ曲線)→ クリックで図形を描けるサイトです。

シェルピンスキーのカーペット :ウィキペディア
シェルピンスキーのギャスケット →10パターンをクリックで試せるサイトです。

メンガーのスポンジ  :ウィキペディア

マンデルブロー集合 :ウィキペディア
壁紙ギャラリー →マンデルブロ集合の図の壁紙(持ち帰り自由なサイト)
マンデルブロー集合-2次関数の複素力学入門- :川平友規氏

Mandelbrot Set 00  :YouTube
Mandelbrot Set 100-th powers of 10 :YouTube

ジュリア集合 → 定数Aの入力ができ、描画結果を楽しめるサイト
ジュリア集合拡大  :YouTube

不可能図形  :ウィキペディア
ペンローズの三角形 :ウィキペディア
不可能図形

錯視  :ウィキペディア
北岡明佳  :「北岡明佳の錯視のページ」
 現時点のアクセス画面にある「蛇の回転」の同系画が本書に掲載(p177)

Robert Ammann :From Wikipedia, the free encyclopedia
ロジャー・ペンローズ ← Penrose Tiling :Alien Scientist.com
平面充填 :ウィキペディア
Aperiodic tiling :From Wikipedia, the free encyclopedia
Tessellation :From Wikipedia, the free encyclopedia
Non Periodic Tiling of the Plane  Written by Paul Bourke
Nonperiodic Tillingの画像検索結果
TheTiles of Infinity  by Sebastian R. Prange
The topkapi scroll: geometry and ornament in Islamic architecture.

ポートラックハウス :「mindscape」のtravelから
「スコットランド南部、ダンフリーズという街の郊外に、チャールズ・ジェンクスがデザインした、1年に一日だけ公開される、とても魅力的な庭園」

四色定理 :ウィキペディア 

ケプラー予想 → 球充填 :ウィキペディア
面心立方格子構造  :ウィキペディア
六方最密充填構造  :ウィキペディア

ロンドン地下鉄路線図 :ウィキペディア
Tube Map(標準ロンドン地下鉄路線図)

聖ヨハネ賛歌 :ウィキペディア


<番外:附録> おもしろいのに出会いました。ご紹介です。
四色問題で遊ぼう

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『FBI美術捜査官 奪われた名画を追え』 ロバート・K・ウィットマン、ジョン・シフマン  柏書房

2012-01-15 00:18:16 | レビュー
 本書の著者は、30歳代で念願のFBI捜査官になり、18年間-そのうち美術犯罪捜査官として現場で12年間-の捜査官として活躍した人物である。主に潜入捜査を実行し、FBIを定年退職した後に、この回想録を出版した。
 アメリカにおいて、美術品盗難捜査というものがどういう位置づけにあり、FBIがどんな方針で臨んできたか。著者がその分野を手がけるようになってから、どういう捜査をしてきたか。国際捜査の実態はどういうものか。それが実話として語られている。
 著者は朝鮮戦争で立川の空軍基地に配属されたアメリカ人の父-ボルティモアの孤児-と事務員として働いていた日本人の母を両親とした日系二世のアメリカ人だ。潜入捜査という性格上、貴重な盗難美術品の救出に成功しても、その記者会見の表に顔を見せること無く、写真に撮られない場所でひっそりとその場面に臨んできたという。
 
 本書は4部構成になっている。読み終えてから振り返ると、第1部は第4部の捜査の一環として行われたマイアミビーチ海上での偽装取引のシーンから始まっていた。「開幕」という章見出しの通り、まさに映画のワンシーンを彷彿とさせる書き出しである。だが、それはフィクションではなくて実際に実行された関連作戦だった・・・・。
 「パルメット・エクスプレスウェイに乗って東へ、マイアミビーチに向かって走るプラチナのロールスロイスは防弾ガラスを入れ、装甲を施したそのトランクには盗品の絵画6点を積んでいた。・・・・」こんな書き出しで、第1章「サウスビーチ」が始まっている。
 第2章で、著者は美術品盗難は「歴史に対する犯罪」だと位置づけている。美術犯罪は年間60億ドルのビジネスになっているそうだ。「闇市場において、盗難美術品は公にされている価格のおよそ10パーセントで出回ることになる」という。<アート・ロス・レジスター>がある会議で発表した統計では、美術館強盗は美術犯罪全体の10分の1、52%が個人宅ないし組織からの盗難、ギャラリーから10%、教会から8%、そして残る大半は遺跡の発掘現場からだとのこと。
 この後に、著者はフランス、イギリス、イタリアの美術犯罪チームの各国差に触れている。本書全体とも関わる記述である(p27)。p414と併読していただくと興味深い。
 著者は語る。「(美術品は)われわれの文化を体現したものである。・・・そうした偉大な作品はみんなのものであり、未来の世代のものなのだ。・・・美術品泥棒はその美しい物体だけではなく、その記憶とアイデンティティをも盗む。歴史を盗む。・・・・あらゆる芸術は感情を引き出す。気分というものを湧き起こす。だからこそ芸術作品が盗まれたり、古代都市から手芸品やその魂がはぎ取られたりしたとき、われわれは穢されたように感じるのだ。・・・・いかにしてアメリカ一の美術犯罪の探偵となり、この場(注記:美術および骨董品を対象とした組織犯罪に関する国際会議)にたどり着いたか」
 
 第2部は著者が、美術犯罪捜査官の道を歩み始めるまでの来歴を回想している。両親が1953年に結婚し、著者は東京で生まれ、その後アメリカに家族が戻ったという。隣人がFBIボルティモア支局の特別捜査官だったとか。著者の将来の希望はFBI捜査官だったようだが、すんなりその道に入れた訳ではない。その経緯をこの第2部で語る。
 フィラデルフィアにあるロダン美術館の所蔵品「鼻のつぶれた男のマスク」が1988年に盗まれた捜査に加わったことが美術犯罪捜査への契機だったという。だが、このマスクを救出した頃、「当時は美術館から貴重品が盗まれても、美術犯罪は優先事項ではないという議会の意見が反映して連邦犯罪にはならなかった」らしい。著者はこんな一文を記す。「1980年代も終わろうかというころ、美術品の盗難という奇異な出来事であっても、世間を騒がせるものではなかった」と。
 当時、FBIでは美術犯罪捜索は捜査官の「気になる副業、いわば趣味と見なされていた」というからビックリだ。この趣味を好む捜査官と見なされていたのがボブ・ベイジンだったという。彼の許で著者の捜査官人生が始まった。つまり、著者はこの捜査分野の草分け的な存在として歩み出したのだ。
 もう一点、著者の人生に大きな比重を占めることになった交通事故をここで回想している。

 第3部は10章にわたる。筆者が美術犯罪捜査分野の確立期において、自ら潜入捜査により、着実に盗難美術品救出を行ってきた事件を語っていく。黒子として一切マスコミに姿を見せないで、捜査に携わって行った記録が述べられている。
 一つ一つが実話である。そして、国内における美術犯罪捜査が連邦捜査官の仕事として認知され、さらに国際間で捜査官の協力する美術犯罪捜査が捜査分野として確立されていくプロセスを併せて語っている。著者はフィラデルフィアに居住しながら、FBIの美術犯罪捜査官として、世界各国に認知されていくことになる。
 こんな一節がある。「連邦議会は、主に1990年のボストンで起きたガードナー美術館の事件をうけて連邦美術犯罪法を制定し、それを1995年、ゴールドマンと私がウィリアム・ペン邸の窃盗事件で史上初めて適用した」とする。
 各章はそれぞれ個性を持った美術品盗難事件捜査の短編ドキュメンタリーを読むようなタッチであり、美術品に関心のある人にとっては、特に興味深くおもしろい読み物になっている。
 筆者が美術犯罪捜査官人生で救出してきた美術品を拾い出すと、こんな作品群となるようだ。勿論、これが全てではなく多分その一部なのだろう。

 黄金の防具・モチェ王の臀部を護る腰当て
 ペンシルヴェニア歴史協会(HSP)の所蔵品
 血染めの布 <アフリカ軍団第12歩兵連隊の連隊旗>
 ノーマン・ロックウェル <スピリット・オブ'76>、<ソー・マッチ・コンサーン>
  <ビフォー・ザ・デイト/カウガール>、<ビフォー・ザ・デイト/カウボーイ>、
  <シー・イズ・マイ・ベイビー>、<リッキン・グッド・バス>、
  <ヘイスティ・リトリート>
 ブリューゲル <聖アントニウスの誘惑>
 国宝・権利章典 写本 :ノースカロライナ州宛
 ルノワール <若いパリ市民>
 レンブラント <自画像> (10cmx20cm、1630年作)
 ジンバブエの美術館から盗まれた国宝・5点
 パール・バック 『大地』の手書きの校正原稿

 美術品が様々な領域に及んでいることがよくわかる。著者はその捜査のために必要な美術品鑑定のために、バーンズ財団美術館で受けたトレーニングにも言及している。そして、潜入捜査に関連するスキルは捜査官になる前の前職経験が如何に生きているかについても述べている。

 第4部「オペレーション・マスターピース」(名画作戦)は、FBIがウェブサイトに美術犯罪トップテンの一つに挙げている「ガードナー美術館盗難事件」において、著者が関わった期間での顛末譚である。盗まれた美術品の評価額はなんと5億ドルという。そして、ガードナー美術館盗難事件には、報奨金が最終的に500万ドルまで上積みされたとか。アメリカとフランスの合同作戦による盗難美術品の救出作戦実行のプロセスが克明に記されている。盗み出された作品には次のものが含まれるようだ。
 レンブラント <ガリラヤの海の嵐>、<黒衣の紳士淑女>、<自画像>(1629年作)
 フェルメール <合奏>
 マネ <トルトニ亭にて>
 だが、著者が関わっていた時に作戦が打ち切りになる。「ケーキの分け前」を欲しがる指揮者が多数関わると事態はうまく展開しない。「大西洋をはさんだ両岸で繰り広げられた官僚主義と縄張り争いが、ガードナー美術館から持ち去られた美術品を回収する十年に一度のチャンスを粉砕したのだ」(p413)
 現時点でこの盗難事件はどうなっているのだろうか・・・・・・
 
 著者は書いている。「後進を育てて仕事を引き継ぎたくても、FBIには人を教育する気がなさそうなのだ」と。この状態が続いているならば、FBIのウェブサイトの美術犯罪のサイトはお飾りに近いものなのだろうか・・・・
 著者は2008年に定年を迎えた。それから現在までの期間を考えると、やはりそれほどこの分野には重点が置かれていないのかもしれない。

 こんな会話も載っている。最後に少し脇道にそれるが・・・
 フランスのサルコジ大統領の話。内務省時代のことについて、「彼は法と秩序を最優先に考える男だった。国家警察にたいして、サルコジが興味を持っていたのは結果だけだった-逮捕、逮捕、逮捕だ。数字ばかりに固執した。犯罪者と戦っている自分をアピールしたかったんだな」「まるでFBIだ。うちも盗難品、つまり美術品の回収が任務の中心にあるわけじゃない。任務の中心は法廷で有罪判決の数を数えることだ。そしてその数で評価される。」(p345)
 また、FBIという組織についてこんなことも書いている。「FBIは巨大な官僚機構である-中間管理職の指揮官たちは3年から5年ごとに新しい職務へと異動になり、各地の支局とワシントン本部の間を行ったり来たりする。その力学があるため、本部の監督官たちは波風を立てたがらない。きょうやりあった指揮官が明日は上司にならないともかぎらないからである」(p346)官僚組織はいずこの国も同じようなものなのか・・・。
 トップの思惑および巨大組織の持つ官僚制体質は、やはり美術犯罪捜査分野にとっては、問題含みにつながるようだ。

 著者は捜査、美術犯罪の潜入捜査について、次のように記す。

*一般の捜査官が物事を白か黒かで見るところを、私は灰色の濃淡で見ることにした。人が判断を誤ったからといって、それで悪人とはかぎらないということを学んだ。また重要なのは有罪無罪の別なく、容疑者が何を心から恐れ、何を聞きたがっているかを知ったことだろう。両方の立場から物事を見る-被告人のように考え、感じる-という新たな能力はとても重要なものだった。p92

*防犯のプロたちがささやくラテン語:「クイス・クストディエト・イプソス・クストデス」-誰が見張りを見張るのか p140

*潜入捜査は多くの点で営業とよく似ている。要は人間の本質を理解することであり、相手の信頼を勝ち取ってそこにつけ込む。友となり、そして裏切るのだ。 p161

*潜入捜査は心理戦であり、恐怖や感情に流されてはやっていけない。 p225

*(捜査手法の通信傍受について、こんな記述がある。)
 捜査官はただ通話を記録し、それを一日の最後に回収すればすむというわけではない。市民的自由を守るために、すべてを生で聞いたうえで、事件に関係のある部分だけの記録が許されているからだ。p302

*潜入捜査、とりわけ美術犯罪の潜入捜査では、調べ尽くさなければ結論はでない。p352

*私は新人たちにいつも、手がかりはすべて追えと教えている。どの手がかりがいい結果につながるかわからないからだ。ときには大穴がくることもある。p416

 著者は、潜入捜査を煎じ詰めると、五つのステップに行き着くという。
 ①ターゲットの見きわめ、②自己紹介、③ターゲットとの関係の構築、④裏切り、⑤帰宅、である。
 そして後輩の捜査官たちにこう教えてきたと言う。「自分自身であれ。役者になるな。役者になれないし、誰にも演じることはできない。役者には台本があって何テイクもある。きみたちは1回きりだ。役者なら台詞をとちってもまたチャンスがある。きみたちはミスを犯せば死ぬ-場合によっては、他人も巻き添えになるのだ。」
 第一線の潜入捜査に12年間携わってきた著者の言。やはり、その重みを感じる。

 本書末尾に「著者註」があり、こんな一文が記されている。
「可能なかぎり真実に迫った回想録を書きあげることができた」と。だが、「同僚たちの身元を守るために、またFBIの捜査法を一部秘匿するために、事件の細かい部分には省略や多少の変更を加えることにした。それでも起こった出来事の本質はそのまま記した」p428。これは仕方のないことだろう。この本を出版できたということがある意味すごいことだと思う。守秘義務との接点について、かなりの模索があったのではないか。
 
 本書の締めくくりはちょっと切ない。
「・・・・こんなチャンスがつぎにめぐってくるのは、また何年も経ってからのことだろう。そのときはもう一度挑戦するんだろう?」
「いや、もういい」と私は言った。「3ヵ月で定年なんだ」
「君の後任は?」
 ・・・・・・・
私は言った。「さあな、ピエール。私にはわからない。なかなか鋭い質問だが」

 美術犯罪という分野での事件簿だが、犯罪捜査プロセスの実話というのはやはりエキサイティングでかつ面白い。また、美術好きにとっては見逃せない本、ちょっと毛色の変わった一冊だと思う。バーンズ財団美術館での「見る学習」(第6章)や各所に出てくる盗難美術品の鑑定に関わる箇所など、興味深い記述が盛り込まれている。
 著者はやはりその道のプロだ。奥書によると、現在、国際美術警備保障会社を経営しているそうだ。形を変えて、日々窃盗組織グループと対決、知恵比べをしているのだろう。

ご一読、ありがとうございます。

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関連事項をいくつかネット検索してみた。

Robert King Wittman :From Wikipedia, the free encyclopedia
英語版ウィキペディアには、著者の項目が載っています。

Art theft :From Wikipedia, the free encyclopedia

FBIの美術犯罪サイト →美術犯罪トップテンの説明があります。
National Stolen Art File (NSAF) ← FBI 美術盗品のデータベース検索先
美術犯罪チーム
 活動成果について、こんな一文が記されている。
 "Since its inception, the Art Crime Team has recovered more than 2,600 items valued at over $142 million. ”(2600点以上の救出品、1億4200万ドル以上の価値相当)

ガードナー美術館盗難事件 →第4部関連

バーンズ財団美術館 ウェブサイト  ← 第6章関連
当美術館 紹介ページ(日本語)
バーンズ・コレクション :JTBのサイトから

ペンシルヴェニア歴史協会(HSP)  ← 第9章関連
the Historical Society of Pennsylvania
The National Civil War Museum (南北戦争博物館)←第12章関連

ノーマン・ロックウェル :ウィキペディア  ←第13章関連
Norman Rockwell Museum

イサベラ・スチュアート・ガードナー美術館  ←第4部関連
 館内展示室と所蔵品の画像が即座に鑑賞できる便利な設定になっています。いいですねえ。

ケ・ブランリ美術館  :「フランス美術館・博物館情報」から  第4部関連
  文 小沢優子氏  → 本書で初めて目した名称なので調べて見た。
この美術館のウェブサイトはこちら。2006年6月23日開館とか。
本書の著者は「これほど興味深く、しかも戸惑いを覚える美術館はめったにない。-ジャングルをテーマに、屋内には暗い通路に展示物がぼんやりと浮かぶ設計になっているのだ。迷子になること請けあいである」と書いている。p364 パリに行く機会があれば・・・・

[番外・附録」
消えたフェルメールを探して」  
「合奏」盗難事件をめぐり、真犯人の行方と頻発する美術品盗難の驚くべき現実に迫るドキュメンタリー映画。← 本書に名前の出てきた「マイルス・コナー」(有名な美術品窃盗犯だとか)を検索していてヒット。
 → こんな映画感想記事あり

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『英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ』 マックミラン・ピーター 集英社新書

2012-01-09 13:02:14 | レビュー
 京都・八坂神社では1月3日に新春恒例の「かるた始め」が本殿前の能舞台で行われる。「かるた」とは百人一首のことだ。残念なことにまだその様子を実際に境内で見たことはない。
 また、滋賀県大津市の近江神宮では正月に名人位・クイーン位決定戦(全日本かるた協会主催)が毎年開かれている。

 学生時代に国語の教科書で習い、ある時はその歌を丸暗記し、歌かるたを購入し手にしたこともある。だが百人一首のかるた取りを家庭内で行う習慣などはなかった。久しく忘れていたその百人一首について、何時だったか忘れたが百人一首の謎解き本がきっかけで再び興味を抱き始めた。そして、手軽な文庫本や新書で解説本などを見つけては買っているうちに十冊以上になってしまった。

 本書は「英詩訳」というタイトルと手軽な新書版なので惹かれて読んでみた。百人一首がどんな風に英詩に訳されているのかという興味である。英詩訳そして原歌を読みながら、原歌を読むだけでは自分自身の解釈が心許ないので、所蔵の解説本で該当歌の箇所を繙きながら併せ読みする形をとった。
 初めて目にする単語は辞書で引きながら、まずは英詩を読むという作業。そして本書の各ページ左脇に掲載されている原歌及び解説本を読んで対比する。なぜこんな訳になるのか?それは原歌のどこから出てくるのか? 原歌からは何が省略されているのだろう?なるほど・・・・おや・・・・フ~ン・・・・。
 英訳された詩を読むことで、逆に原歌の意味と解釈に改めて思いを馳せる機会になった。和歌の意味を説明する英訳ではなく、英詩としての訳出である。解説翻訳することすら難しいと思うが、それを「詩」として伝えることなんて、やはり至難のわざだと思う。それが本書でなされているのだ!(十数種の英訳本が既に出版されているらしい。知らなかった。俳句が翻訳されているというのは知っていたが。)

 著者は「日本語版のための序論」でこんなことを書いている。「外国語で和歌を読むことで、自らの文化についての異文化体験ができるかもしれない。わたしたちはハイブリッドの時代に生きている。自国の言語の古典を異なる現代語で学び、異なる文化のプリズムを通して、新たな視点で自らの文化を見るというのは、実にすばらしいことである」と。
 確かに、本書を読み通して見て、随所で異文化体験に通じるところを発見した。

 著者は和歌に詠み込まれた意図や思いに焦点をあてて、英語のロジックと詩情に載せられることを中心に英訳されたように思う。当然そうなるだろう。日本を深くは知らない英語国民に百人一首を紹介しようと試みているのだから。
 和歌は5・7・5・7・7という形式だが、英詩にするにあたって、著者は語数などには捕らわれていない。原歌のエッセンスを如何に英詩の世界に翻案するかというところに重点が置かれている。英詩訳は長短さまざまだ。著者はいう。「わたしが目的とするのは、読みやすく、しかも詩的な翻訳である」

 和歌には主語があいまいなもの、あるいは除かれているものがある。それでも和歌の文脈からなんとなく主語を特定していくことができるし、さして我々は不思議に思わない。通常の叙述文でもしばしば主語付記に出くわす。主語を書くと煩わしい文と感じるときすらある。だが、著者は言う。「しかし、現代英詩、とくにロマン派以降のものでは、主語を示す言葉がないなどというのは思いもよらないといえる」。英詩を読み進めると、和歌との明らかな違いの一つとして主語が明瞭に特定されている。そこから逆に、和歌はもっと拡がったニュアンスがあるのではないか・・・・と気になる翻訳もあった。まあ、このあたりがわかりやすい彼我の文化の違いの一つだろう。
 主語を明確にすること、原歌の意図や思いの翻訳との絡みで、原歌の内容によっては、英詩としての長さがかなり違う。そこまで書かないとやはり英文にはならないのだなと感じるのもある。一方で、原歌のイメージを視覚化する試みもある。ある意味おもしろい工夫が試みられている。例えば、第3番・柿本人麻呂の歌である。
 足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む
この翻訳の表記のしかたが楽しい。本書P62をご覧いただくとよい。なるほどなあ・・・である。遊び心が出ている。
 和歌には枕詞や序詞、地名などが頻繁に使用されている。日本人には地名が特産物や風景と結びつき、そのイメージが浮かぶ場合がある。しかしそんな知識がない人々のために、詩情を伝える上で訳出する意味があるかどうかの判断がなされている。例えば、第54番・藤原実方の歌にある「伊吹のさしも草」の「伊吹」、第58番・大弐三位の歌にある「有馬山猪名のささ原」の「猪名」などは英詩では省略されている。筆者が英詩で和歌の詩情を伝えるために、どこをなぜ省略しているか。それこをどう英訳しているかということを考えるのもおもしろかった。
 また第27番・藤原兼輔の歌の「みかの原わきて流るる泉川~」について、「みかの原」は "the Moor of Jars"、「泉川」は "the Izumi river" と訳されている。『百人一首』(全訳注・有吉保・講談社学術文庫)の語釈によれば、「みかの原」は「京都府相楽郡にあり、『瓶原』または『甕原』と書く。奈良朝に離宮が営まれた地で、聖武天皇は一時ここに久邇京を営んだ」と記す。『百人一首を歩く』(嶋岡晨・光風社出版)によれば、「相楽郡木津町は、かつて泉里と呼ばれ、そのあたりでは木津川が、かつて山背川とも、泉川とも呼ばれた。木津町の東にある加茂町には、『瓶原地区』の呼称がのこっている。木津川をへだてて、北側の地区」と記す。地名の意味をとりMoorという語彙を使って意訳を取り入れている。Moorで風景のイメージが浮かびやすくなるということなのだろう。そういう例が他にもある。

 アイリーン加藤氏が「マクミラン訳が解き放したもの」という一文を本書に寄せている。その中で、訳すのがとりわけむずかしいのは、小野小町の歌(第9番)
 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
だとされる。彼女は「小町が三十二音で言い尽くしたことを、漏れなく英語に翻訳しようとするならば、十連は必要になると思われます」と述べている。英詩の一連は四行ということだそうだ。この和歌をどう訳出するか。
 著者はこの翻訳について「日本語版のための序論」で自分の考え方を9ページほど使って具体的に説明している。その箇所(p39~48)をお読みいただくと著者の思考プロセスも理解できる。
 本書での翻訳はこうなっている。
 A life in vain.
My looks, talents faded
like these cherry blossoms
paling in the endless rains
that I gaze out upon, alone.

 貴方はこの英詩訳をどのように受け止められるのだろうか。

 本書の最後の章「原書版序論」の中で、学んだことがある。いままでこういう観点で、百人一首を読むことにはあまり関心を払わなかった。どちらかと言えば、個々の歌そのものの解釈中心、あるいは、百首全体に秘められた謎というおもしろさだった。

*『百人一首』は1237年ごろに完成したといわれているが、その後、定家一門によって改訂を重ねられた。(p162) →おやっ?と思う記述。調べて見る課題ができた。

*定家が”妖艶”という美学に執着していたのは、青年期から中年に至るまでだったという点は指摘されなければならないであろう。・・・・その後は、”妖艶”を棄てて、新しい理念である”有心”(うしん)、いってみれば”感情の確信”、つまり、間接的な美よりも直接性と強い感情を好む明確な作風に傾いたといわれている。(p170)

*定家の歌には白という色が頻繁に登場する。白が定家の好みの色なのは明らかである。・・・・白という色は”妖艶”の美の重要な要素にもなっていると、私は考えている。(p171) →著者があげる例:第6番、第29番、第37番、第76番、第96番

*歌を選ぶ過程で、人のつながり(血縁・歌の師弟関係など)がきわめて重要な役割を果たしているのは明らかである。一部に二流の歌人、とくに皇族が選ばれているわけも、人のつながりの重視ということで説明がつくのではないか。 (p173)

*『百人一首』には、八人の天皇の歌が含まれている。八という数字は、中国と日本の文化の中では吉兆を示す数字である。・・・中国や日本の伝統では、”八”の文字は末広がりという、子々孫々にわたっての家の繁栄をあらわしてもいる。おそらく、天皇の治世が長く続くことを願うという意味が込められているのであろう。(p173-174)
 →著者はここで、西洋の”8”が閉じる意味をあらわしていることにも付言している。
 定家と後鳥羽院の関係にも触れていておもしろい。
 こんな一節もある。「定家はおぞましいほど醜く、癇癪持ちであったと伝えられているが、偉大な歌人であり、歌の権威、目利きであると広く認められていた」と。この文の後半は歴史や国語の教科書で習っても、前半は出てこない。癇癪持ちだったというのはどこかで読んだ記憶があるけれど。

 第61番伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜けふここのへににほひぬるかな」について、英詩訳の中で”in the new palzce of Kyoto with its nine splendid gates!" と訳されている部分がある。有吉保氏は、「今日はこの九重の宮中で」と現代語訳をし、語釈では「『九重』は宮中の意で、『八重桜』の『八重』と照応させている」と記すだけである。なぜ、9つの門という訳出になるのか?ピンと来なかった。
 そこで手許の解説本を調べて見た。すると、こんなことがわかった。有吉保、安東次男、尾崎雅嘉(古川久校訂)、白州正子、鈴木日出男、高橋陸郎の各氏は「宮中」の意レベルで留めている。一方、久保田正文、島津忠夫、田辺聖子の各氏は補足説明を加えている。「九重、は漢語の王城の門を九重にめぐらしてあるところから出た九重を訓読してつくったことば。宮城の意」(久保田正文)「『九重』は皇居。王城の門は九重に造った(楚辞・九弁)」(島津忠夫)、「『九重』は皇居、宮中をさす。昔の中国で宮門を九重にめぐらせたことから、いった」(田辺聖子)これで納得できた。なぜ9つの門が出てくるのかを。(英詩訳に9箇所の門、九重の門の意味合いの違いが残るけれど・・・・)
 解説本には分量の制約があるだろう。何を省略するかの優先や選択が著者によって違うということなのだと思う。逆に言えば、原歌に迫ろうとすれば、解説本もいくつか重ね読みしていくと理解が深まる。このあたり、本書著者の造詣の深さの一端を示すものかもしれない。

 第87番寂連法師の「村雨の露もまだひぬ~」は "The drops from a light shower"
と訳されている。この「村雨」も実に興味深い。
 解説本の著者によって、その解釈がまちまちで、かなり幅があるのだ。説明を加えず使っている人もいる。紹介しよう。「一時的に強く降ってはやみ、やんでは降る雨。秋のにわか雨」(有吉)、「村雨は一しきりづつ、むらむらと降る雨をいふなり」(岡田)、「むらさめ、は村雨・叢雨・群雨の義、一群ずつ強く降り過ぎる雨、秋から冬にかけて多い雨」(久保田)、「断続して急にはげしく降る雨」(島津)、「あわただしく通り過ぎてゆく雨で、特に、秋から冬にかけて降るにわか雨をいう」(鈴木)、「むらさめはひとしきりさっと降っては、通りすぎて行く、むらのある雨。村雨は当て字だ」(高橋)、「村雨-というから、ぱらぱらッと降って過ぎてゆく雨であろう」(田辺)、安東・白州両氏は説明を加えていない。お読みいただいた方の手許の国語辞典はどう説明していますか? 著者の英詩訳と有吉本とをまず対比読みしていて、他本を調べてみた次第だ。おもしろい。手許の日本語大辞典(講談社)を引くと、「短時間に強く降る雨。強くなったり弱くなったりする。驟雨。にわか雨。通り雨」と記す。どのあたりをイメージするかで、 "a light shower" もあるのか・・・・と思った。英語には雨の表現はどれくらいバリエーションがあるのだろう。

 第72番祐子内親王家紀伊の「音に聞く高師の浜のあだ波は~」という歌の英詩訳が未だ私にはすっきりと納得できない。この英詩訳で原歌のウラの意味が感じとられるのだろうか・・・・と。”for I know I'd be sorry if my sleeves got wet." という後半の訳はネイティブの人にはウラの意味がピンとくる言い回しなのだろうか。
 田辺聖子氏の訳はこんな具合である。
 「噂に高い 高師の浜の/ 仇浪を/ かぶったりしますまい/ 袖がぬれてしまうんですもの/ -- あなたが浮気なおかただってこと/ 噂で聞いてますわよ/ あなたの仇なさけに/ うっかり心ひかれたりしたら/ 涙で袖を濡らすだけだわ」
 
 小野の小町の歌について、一言付け加えておこう。対比読みして再認識した点である。本書の著者は「花」を明確に桜と訳出している。解説本には、同様に桜の花と明示した解釈をしているのが多いが、単に「花」と留め解説している本(安東、岡田、白州、高橋)もある。手許の本では、この「花」について吉海直人氏が問題提起している点だ。
 古典語学習で花は桜の代名詞とされるのは間違いが無いが、『万葉集』では花は梅だった。『古今集』での歌の配列で撰者が桜と解釈している。だが小町がそう思ったかどうかと吉海氏は疑問を呈されているのだ。そして「移る」という語を問題とし、「色移る」の連想から「移ろう」との混同がないかと問題提起されている。「でも桜は、変色する前にサッと散ってしまうものではないでしょうか」と。
 こういう問題提起を読むと、和歌のことば一語への興味が一層深まっていく。

 最後に、一つ気になった点に触れておく。第97番は藤原定家の「来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに~」という歌だ。嶋岡氏は明確に「淡路町松帆崎の海岸をいう。明石海峡に面している」と記されている。英詩訳で、”the shore of Matsuo Bay" と記されているのは、単純な誤植なのだろうか。英語のbayというのはどのような範囲で使う言葉なのだろう・・・・。グーグルの地図で見ても、淡路島の松帆の浦の海岸は私には英和辞典で「bay」の説明にある「湾、入り江」というイメージが湧かない。

 英詩訳を読み、原歌の意味を考え直してみるというのは、新鮮な感覚だった。
 ドナルド・キーン氏が本書に「前書き」を寄稿されている。キーン氏は末尾にいう。
 「これは、今までのところ、『小倉百人一首』の、もっとも卓越した名訳である」。

 ご一読、ありがとうございます。


上記で著者名表記した本の一覧をまとめておきます。
『百人一首 全訳注』 有吉 保・講談社学術文庫
『百人一首』 安東次男・新潮文庫
『百人一首一夕話 上・下』 尾崎雅嘉、古川久校訂・岩波文庫
『百人一首の世界』 久保田正文・文春文庫
『百人一首』 島津忠夫・角川日本古典文庫
『私の百人一首』 白州正子・新潮文庫
『百人一首を歩く』 嶋岡 晨・光風社出版
『百人一首』 鈴木日出男・ちくま文庫
『百人一首』 高橋睦郎・中公新書
『歌がるた小倉百人一首』 田辺聖子・角川文庫
『カラー版田辺聖子の小倉百人一首 上・下』 田辺聖子・角川文庫
『百人一首への招待』 吉川直人・ちくま新書

本書と直接関係はないが、百人一首の謎解きから、再び百人一首に引き込まれた。
そのきっかけとしては・・・・
『絢爛たる暗号 百人一首の謎を解く』 織田正吉・集英社文庫
『百人一首の魔方陣 藤原定家が仕組んだ「古今伝授」の謎を解く』太田明・徳間書店
『QED 百人一首の呪』 高田崇史・講談社文庫
『百人一首の秘密 驚異の歌織物』 林 直道・青木書店


ネット検索してみた事項を一覧にしておきたい。
平安気分で「かるた始め」京都・八坂神社  :朝日新聞
   動画も載っています。
名人、逆転でV14 クイーンV8 百人一首かるた:朝日新聞

百人一首 / 全100首を一気に読める動画 :YouTube

平安装束でかるた始め 京都・八坂神社 :YouTube
百人一首/国民文化祭_30秒ビデオ
かるた日本一決定 名人は12連覇、クイーンも6連覇(10/01/09)


百人一首  :ウィキペディア
百人秀歌  :ウィキペディア
藤原定家  :ウィキペディア


<番外・附録>
社会人向けの百人一首を扱った短期講座を受講したとき、講師から教示を得たもの。
百人一首のパロディとして、蜀山先生が『狂歌百人一首』を作ったという。
ネット検索してみたら、紹介サイトがあった。うれしいかぎり!
蜀山先生 狂歌百人一首 (蛇足解説付)」という。
天保14年(1843)に出版されているのだ。こんなのは学校では教えてくれない。

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『警視庁FC Film Commission』 今野 敏  毎日新聞社

2012-01-07 12:06:33 | レビュー
 今野敏氏の警察物は面白くてここでの記録を始める前からかなり読み進めてきている。
 本書は、ちょっと毛色の変わった警察小説となっていた。警察官が警察官の行動や発言をちょっと第三者的な目で眺めながら、内心で批評論評している独り言の部分がおもしろい。それは、同じ警察官でありながら、組織的職務内容的に違う領域に所属することから、感覚的に別世界ということなのだろう。民間巨大企業ならご同様かもしれない。
 この小説では、交通部の警察官が刑事部の警察官を醒めた目で見つめながら、捜査に巻き込まれるというもの。事件に関わりたくはないのに、事件のプロセスを論理的に解釈したいという欲求を抑えられず、刑事に背中を押されながら関わりを深めていくという設定になっている。この種のものを著者の作品で読んだ記憶はない。そういう意味でちょっと新鮮だった。

 主人公楠木肇は警視庁の地域部地域総務課に所属している。できれば努力しないで一生を終えたいと考えている警察官。時間から時間まで勤務して帰るという平凡な勤務を希望し理想としている。「地域部にいれば、日勤、当番、明け番、公休というローテーションでそれほど苦労もなく暮らしていくことができる」と考えている人物。
 その楠木が四月の人事異動の際に、新設された「警視庁FC室」の兼務という「特命」を受ける。地域部に設置された組織である。通信指令本部から異動した長門室長以外は楠木を含めて4名が兼務者の辞令を受けている。他には交通部都市交通対策課所属の島原静香、交通部交通機動隊所属の服部靖彦、組織犯罪対策本部組織犯罪対策四課、いわゆるマル暴に所属する山岡諒一である。

 新設のFC室。FCとはFilm Commissionの略称なのだ。映画やテレビドラマの街中での撮影に対して様々な便宜を図り、協力するという方針の下に新設された。つまり、街中で撮影隊が使用しているスペースを確保するために、歩道、車道の一部規制を行い、通行人や通行車両と撮影隊との摩擦をできるだけ軽減する役割などを担う。

 早速の仕事は、高杉洋平という頭角を現してきた監督が、野口美咲を主演女優として制作に入った『乾いた罠』という映画の街頭撮影にFC室として関わるという仕事だった。野口美咲は二十年前にデビューした劇場公開映画専門の女優である。楠木の周りの警察官から、有名女優の側で仕事ができることをうらやましがられ、サインをもらってほしいとまで言われ困っている。楠木自身は映画に興味が無く、まして野口という女優や高杉監督にも関心すら持っていない。定時でキッチリ終わらない余分な仕事を押しつけられたと嫌悪しているのだ。
 その街頭ロケ中に、ロケバスの中で変死体が発見される。助監督の江本弘幸が絞殺されたのだ。「吉川線があった。他殺と見て間違いがないだろう」と判断される。
 事件は起こったが、ロケは予定どおり継続されることになる。楠木は変死体の発見されたロケバスには近寄りたくもないとすら思っている警察官だ。

 捜査が開始されても所轄警察もあり、捜査する刑事もいることだから、FC室兼務で地域部所属の自分には職務外で関係ないと楠木は思っていた。山岡刑事は大いに事件に関心を示している。静香は野口美咲と助監督が言い争っているところを目撃したと言う。それが長門室長に山岡から報告されたことから、長門室長がロケ中に起こったことだからと、事件に関わっていくことを宣言する。そして楠木は山岡刑事と組んで捜査に加わるよう指示されてしまう。
 今まで事件捜査に関心もなく、捜査手順すら考えたことも無かった楠木が、マルBとはいえ刑事の山岡とペアで、この事件に巻き込まれていくのだ。山岡刑事の行動、質問の仕方などを、あれこれと内心批判論評しながら、山岡刑事とは違った視点で経緯を論理的に考えていたり、違った目で周囲を観察していたりする。
 捜査分野と無関係な警察官が、刑事の捜査のやり方をあれこれ批判する目線が、一般人が見る目線と似ていて、結構おもしろく、コミカルでさえある。山岡刑事は、楠木の発言を聞き、楠木に捜査能力があるとほめあげる。楠木は少しもありがたいとは思っていない。捜査のために長時間引っ張り回されることに閉口しているのだ。
 しかし、捜査の進展とともに、楠木は事件を論理的に考え、矛盾点に気付いていく・・・。

 絞殺事件が起こった直後あたりからヤクザがロケ現場付近に貼り付いている。その不審なグループに楠木が最初に気付く。静香は野口と助監督の言い争いを目撃したという。服部は助監督が別の場所でロケ班といた、幽霊を見たと告げる。また、この映画ロケが始まる直前にプロデューサーが失踪していたという事実がその後から出てくる・・・・山岡刑事はまず現場に貼り付いているヤクザに職務質問し、その後、組事務所への聞き込み捜査に楠木を連れて行く。
 FC室長と捜査の管理官の二人が、なぜか街頭ロケ中ずっとロケバスに陣取ってしまう。それも絞殺死体が発見されたロケバスなのだ。

 山岡刑事は楠木に尋ねる。「おまえ、この映画の原作を読んだことがあるか?」
 楠木は映画に無関心だから読むはずはない。当然「いいえ」と言ったところ、山岡は言う。「『乾いた罠』という原作の小説はな、映画の撮影中に現場で殺人事件が起きるという内容だ」と。

 なかなかおもしろい設定と構成になっている。
 最初に記したが、ある意味、警察官が警察組織と警察官の行動を、あたかも第三者視点でみているというくらいの隔たり感の独白をふんだんに盛り込んでいる。この視点がまず興味深い点だ。そして、ロケ班の活動に対するFC室本来の業務の活動描写と併行して、事件の捜査行動が進んで行く筋立てのストーリー展開だった。その二つが絡み合っていく。
 FC室兼務となった服部が静香に一方的に惚れ込んでいて何かと静香の気を惹こうとするエピソードも盛り込まれ、読者を楽しませるご愛敬も描かれている。
 そして、ロケ中に起こる事件そのものに、なんとどんでん返しが仕組まれていた!
 これから先は、読んでのお楽しみ・・・・・。

 肩が凝らずに、気楽に楠木の言動をおもしろがりながら読める警察物小説というところだろう。気分転換にはもってこいかも・・・・

ご一読、ありがとうございます。


本書の本筋とはかなり外れるが、本書に出てくる語句から脇道に入っていろいろ検索してみた。
背景情報は多くても困りはしない。

日本の警察官 :ウィキペディア
警察組織・機構図 
警視庁組織図 :警視庁

交通部   :ウィキペディア
刑事部   :ウィキペディア
管理官   :ウィキペディア

警察の制服 :「警察官のお仕事とウラ話」
女性警察官 :ウィキペディア
警察の歴史-制服、パトカー、白バイ :警察庁

吉川線   :ウィキペディア
検視官   :ウィキペディア
検死官   :「職業情報一覧」サイトから
鑑識  :Yahoo!百科事典 → 日本大百科全書(小学館)

供述調書の信頼性:「司法精神鑑定」久郷敏明氏
供述調書の例 :「自動車保険を見直すページ」
供述録取書の功罪(検察修習を振り返る~その1~)
供述録取書の例 :「人権問題のページ」→「Lさんの人権を守る会」ページ

ヤクザ  :ウィキペディア
暴力団  :ウィキペディア
Category:東京都の暴力団 :ウィキペディア
Category:大阪府の暴力団 :ウィキペディア

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『銀漢の賦』 葉室 麟  文藝春秋

2012-01-05 21:38:42 | レビュー
本書のタイトルにある「銀漢」はこんなシーンに出てくる。
祇園神社と呼ばれる高原神社の夏祭りで、十三、四歳頃の源五、小弥太、十蔵の三人が満天の星空を見上げている。小弥太がなにげなく言う。「知っておるか、天の川のことを銀漢というのを」「ぎんかん?」と十蔵はつぶやき、「それはどういう意味だ」と源五は顔をしかめるという場面だ。
私はこの言葉を知らなかった!宋の詩人・蘇軾の「中秋月」に「銀漢声無く玉盤を転ず」という一節で使われているようだ。
 著者は、この言葉に物語の最後の段階で、源五の思い「銀漢とは天の川のことなのだろうが、頭に霜を置き、年齢を重ねた漢(おとこ)も銀漢かもしれんな」を重ねている。
 本書を読み終わってから、改めてタイトルに戻る。少年時代に身分差を超えて友となった三人の男達が成人後あることを契機に友であることを断絶して、それぞれの生き方をとる。幾星霜の果てにも心の友としての絆が絶えてはいなかった。この物語の底流を表象するのに、「銀漢」は相応しい言葉だった。言葉選びの巧みさを感じる。

 本書は北九州あたりに想定された月ヶ瀬藩六万五千石を舞台とし、江戸幕府松平定信の治世を背景にして著者が創作した小藩の政争騒動物語である。

 日下部源五は普請組五十石の家の子で、鉄砲衆を経て、新田開発指導の群方という役目の下級武士である。岡本小弥太も同様に、普請組七十石の家の子だった。父は江戸で側用人として百五十石の家だったが、ある事件で急死し、直後に岡本家は半知となり、母親とともに国に戻ってきていた。二人が知り合うのは貫心流の磯貝道場である。ここでの剣術修業が友としての絆を育む。その小弥太は松浦家の養子婿に入り、千二百石の家老職にまで上りつめていく。十蔵は笹原村の百姓の子。源五と小弥太が道場で知り合った日に、魚籠を担いでいてよろけた十蔵と源五がぶつかりそうになり、それがきっかけで、十蔵の捕まえてきたうなぎを源五が小弥太の母のために買うことになる。この十蔵も磯貝道場に来ていたことがわかり、三人の友としての関わりが深まっていく。だが、少年時代の絆は成人以降、ある時から絶縁する事態に至る。それはなぜか?

 家老松浦将監(小弥太)が郡方の源五の案内で、風越峠を訪れるところから話が始まる。かつて家老と鉄砲衆という立場の違いはあるが、灌漑用水を引き三十八町歩の新田を開発することに尽力した土地のあたりを見回った後、将監の希望で風越峠に登るのだ。その時、源五は将監の異常に気づく。この峠は若い頃、二人が遠駆けをしてきた場所でもあった。その場所で、将監がつぶやく。「源五よ、わしは間も無く名家老どころか、逆臣と呼ばれることになるぞ」と。源五は背筋に戦慄を感じ、またその声に若いころを思わせる真摯さを併せて受け止める。
 源五は、苦い感慨とともに、十二歳のころの出会いを回想していく。

 翌日夕刻、源五は郡方上役を赤提灯の小さな店に誘う。この上役は城中の派閥の動きに詳しい男なのだ。二十年前の鷹島騒動という政変の話を持ち出して、いま月ヶ瀬藩に何が起ころうとしているのか探りを入れる。聞き出したのは、儒学者で側用人の山崎多聞が提言した新たな藩校・興譲館開設の話。寛政二年(1790)に幕府が<寛政異学の禁>を発し、朱子学を官学にするとしたことに絡んでいる。将監はこの提言を潰しに掛かり、興譲館は取り止めとなる。藩主惟忠と家老将監の間に底の見えない暗渠ができていく。藩主には新たな藩校設置を踏み台に、幕閣の一員に入りたいという気持ちがあったのだ。従来この藩には長崎警備の役があり、老中職就任はご遠慮という慣例があった。それ故、この藩主の希望の裏には、幕閣への道につながる別の働きかけも行われてきていた。

 源五による若い頃の回想と現下の多聞一派の画策が交互に絡みながら状況が進展していく。源五の回想は、新田開発のこと、藩内での一揆騒動の高まり、一揆の首謀者を鉄砲で撃ちとるように命令を受けたことなどに及んでいく。その一揆は、源五が将監に絶縁状を送る契機になり、一方、一揆は二十年前の鷹島騒動とも関連していた。そしてその鷹島騒動の中心人物であり、前藩主の下で政権を牛耳っていた九鬼夕斎は、将監の父を急死させたことにも関係していたのだ。
 片や現実の世界では、源五の娘婿の伊織を通じて多聞から呼び出しを受け、将監殺害を命じられるという事態になる。源五はその命を引き受けるが、恩賞として鷹島屋敷の屋敷番を望む。鷹島屋敷とは、鷹島騒動の舞台となったところである。

 将監殺害を命じられた源五が将監の屋敷を訪ねるというところから、現実の世界が動き出す。そして、そこで源五は将監の考えていることを詳しく聞かされることになる。

 「おぬしとは、つくづく悪縁じゃのう」
 「そうか、力を貸してくれるか」
 「お主の命、使い切らせてやろう」
 源五は落ち着いて言った。最初からそのつもりだったのである。

 源五は若い頃に剣術家になることを夢想し、普請組から鉄砲衆に移り、新田開発の工事に加えられた。そこでは寝食を忘れるほどに工事に身を入れ、作業小屋に寝泊まりするほどで、その間に妻が病死する。新田開発が終わった後も、何の恩賞もないまま下級武士にとどまり、郡方を勤めている。
 将監は松浦家に養子に入った後、家老職に上り詰めるために精勤する。その裏には父の敵を討つという遠望を心の一隅に蔵していた。藩内で出世するだけでなく、その詩文や南画の才は江戸にまで知られ、三十を過ぎて月堂と号し、近隣の大名や幕閣にも月堂との交際を望む者がいるほどの人物になっていた。勘定方として大阪にいたころは、木村蒹葭堂と交際し、彼の描いた絵が禁裏にも知られるようになる。
 松平定信は、田安家に生まれ、白河松平の養子となった人物で、和歌に堪能で文人を好み、絵も描く。田安家には画人として名を上げた谷文晁がおり、定信の近侍として仕えていた。将監はこの谷文晁とも交流を深めており、文晁から月ヶ瀬藩に関わる幕閣の動きの一端を教えられていたのだ。
 
 文中のこんな下りを引用しておこう。
(しかし、それも愚痴だ。為政者は孤独なものだ。振り返るころなど許されぬ。)
 将監は自分に言い聞かせた。夕斎もまたそうではなかったか、と思うのだ。
(政事には悪人が必要だ)
 と近ごろの将監は考えている。権力を握った者はその現実から逃れることは許されない、と自分に言い聞かせるしかないのだ。


「お主は気づいていなかったかもしれんが、わしにはわかっておった。だから、お主が志乃様を妻として松浦家を継ぐのが一番よいのだと志乃様に言ったことがある。志乃様は嬉しそうにうなずいておられたが、その時には、もうお城に上がることが決まっておったのだ」     (注記:源五の言。志乃は前藩主惟常の側室となり世子を産む)
「しかし、志乃様はみつにお主のことを言ったのだぞ」  (注記:将監の言)
「志乃様は城に上がった後、お主がみつ殿を妻にすることになるだろう、と思っていたからではないか。その時に、みつ殿に余計な気遣いをさせまいと思って言われたのであろう」      (注記:源五の言)
 ・・・・・
考えてみれば、志乃の心がどうだったかなど、いまとなってはわかりようのないことである。すべては白い霧の彼方に消え去って、わかりようもないということが年を取るということなのかもしれない、と将監は思った。


 藩主と家老の関係、二つの政争に巻き込まれた人々の確執と両政争の対比、三人の男の友誼のあり方と顛末、小藩の新田開発の意味、松浦家の美人姉妹を巡る人間関係とそれぞれの思いの交錯など、様々な切り口が絡み合いながら物語が展開していく。巧妙にストーリーが構成されている。読後の後味のよい小説だった。

 最後に、源五に届けられた将監の遺品、一幅の掛け軸の画賛をとりあげておこう。

 玲瓏山に登る   蘇軾
 
 何年僵立す両蒼龍              僵立(きょうりつ)
 痩脊盤盤として尚空に倚る          倚る(よる)
 翠浪舞い翻る紅の罷亞            罷亞(ひあ)
 白雲穿ち破る碧き玲瓏            玲瓏(れいろう)
 三休亭上巧みに月を延き           延き(ひき)
 九折巌前巧みに風を貯う
 脚力尽きる時山更に好し
 有限を将て無窮を趁うこと莫れ        趁う(おう)

ご一読、ありがとうございます。


本書に関連する史実レベルの語句を検索してみた。
このフィクションの背景状況をリアルに膨らませるのに役立つと思う。
貫心流 ← 貫心流居合術
居合術 関口流抜刀術 :YouTube
荻野流砲術 ← 松山藩荻野流砲術
直心影流剣術  :ウィキペディア

柴野栗山 :ウィキペディア
朱子学  :ウィキペディア
寛政異学の禁 :ウィキペディア
陽明学  :ウィキペディア
伊藤仁斎 :ウィキペディア
荻生徂徠 :ウィキペディア
陳子昂  :ウィキペディア
蘇軾   :ウィキペディア
松平定信 :ウィキペディア
木村蒹葭堂 :ウィキペディア
谷文晁  :ウィキペディア

古河藩  :ウィキペディア

山中一揆 :「浄土宗摂取山念佛寺とフォルクローレ」のサイトから
千葉県茂原の車連判状  :「高崎五万石騒動」高崎五万石騒動研究会(代表:星野)


池坊 ← いけばなの歴史 :いけばな池坊
ツワブキ :「季節の花300」(山本純士さん)
白芙蓉  :「茶花大好き」(gionmamoriさん)
撫子   :ウィキペディア
櫨(はぜ):「植物園へようこそ! Botanical Garden」(Shigenobu AOKIさん)

谷文晁 公余探勝図 :文化遺産オンライン

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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