遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『播磨灘物語』 司馬遼太郎  講談社文庫

2014-02-07 10:04:52 | レビュー
 冒頭に手許の本の表紙写真を並べてみた。今4冊の文庫本として出版されている。4冊目の末尾に著者の「あとがき」が付されている。この「あとがき」の文章は、『歴史の世界から』(司馬遼太郎著・中公文庫)に、「時代の点景としての黒田官兵衛」という表題でも収載されている。
 著者は黒田官兵衛の生家である黒田家のルーツを冒頭「流離」の章として随想風に書くというところから始め、
 「三月二十日の辰ノ刻に死ぬだろう、といった。・・・・事実、その日時に、溶けるように死んだ。
 いまよりはなるにまかせて行末の春をかぞへよ人の心に
 如水の辞世ではない。如水が晩年親しんだ連歌師の昌琢が、以後、永劫に春を数えられる人になられた、として通夜の席で詠んだものである。」
 という文で締めくくる。

 黒田官兵衛の生涯を語った伝記風小説であるが、作品のタイトルが示すように、官兵衛が軍師として表舞台に立ち、正に東奔西走し活躍した時代に焦点をあてて描かれた作品だ。その舞台が播磨灘という地域だったことになる。

 黒田家は近江伊香郡黒田村をルーツとし、子孫は諸国を転々としたそうだ。官兵衛の祖父と父、つまり重隆と兵庫助(のちの職隆)が備前福岡をたちのき、広峰において目薬屋として財をなす。兵庫助が御着城主小寺藤兵衛に拝謁してから1年後に小寺氏の一番家老になり、それまで空城同然にすてられていた姫路城に入ることになる。小寺勢力圏の西方の鎮めになるという経緯を辿る。「流離」から始まる最初の4章は、いわば官兵衛が姫路村で生まれた背景を明らかにするためだろう。

 官兵衛は小寺氏の一番家老で、姫路一円の抑えの家となっていた黒田家に生まれたことになる。天文15年11月29日生まれ。幼名は萬吉。和歌を好んだ母親から古歌を聞き、その歌枕や歌の名所を母から説明されて、萬吉は諸国の地理や、地理的関係位置をおぼえるようになったという。10歳で母と死別。萬吉はそれまでの弓馬の稽古をやめて歌の書を読みふけるようになる。この時期に父・兵庫助は小寺藤兵衛から小寺の姓を名乗るようにいわれる。萬吉は14歳で元服し、官兵衛孝高と名乗る。16歳で小寺藤兵衛の近習となり、御着城に起居するようになる。そこで、官兵衛は壮齢に達するまでは小寺官兵衛孝高と名乗ることになる。この「播磨灘」の時期は小寺官兵衛孝高ということだ。 というのは、「播磨灘物語」がクローズアップする時期は、官兵衛が近習になった年の小さな合戦-これが官兵衛の初陣となる-からである。信長方に加担することをいくら官兵衛が説いても、秀吉の中国攻めにおいて、結果的に小寺藤兵衛が毛利方に味方し、小寺氏が亡びる去るまでの官兵衛の働き、備中高松城の水攻め、秀吉の中国大返しの時期がこの物語の主題になっているからだ。勿論秀吉の大返しの結末として光秀との戦い、光秀の死の確認による合戦の終了がこの「播磨灘物語」の主要舞台となる。この時期までは官兵衛が軍師として表舞台で活躍した時代ともいえそうだ。
 1冊目の第5章にあたる「姫路村」からはじめ、第4冊目の最後の章「如水」を残して、「遠い煙」までを、著者は元服から壮齢までの官兵衛の活躍を描くことに費やしている。

 「播磨灘物語」メインのストーリーを芝居の場面風に切り出すと、概略としては次のような展開である。箇条書きにする。
*生誕から元服、結婚、一番家老の継承までの経緯  →「姫路村」
*20歳前後、官兵衛の上京。世の動きを肌で知る。キリシタンとの出会い。
  →「彩雲」「若き日日」
*一番家老としての日常。世の動きそして小寺氏の行く末の展望。
  →「青い小袖」「潮の流れ」
*播州勢を信長方に加担させるための周旋活動。信長との出会い
  →「白南風」「信長」「英賀の浦」「野装束」
*秀吉の播州入り。姫路城を秀吉に譲るという官兵衛の行動。秀吉の軍師に。
  →「播州騒然」「半兵衛」「加古川評定」
*三木城攻略、上月城攻略と官兵衛の働き。 →「三木城」「風の行方」「秋浅く」
*荒木摂津守村重の謀反、官兵衛虜囚の身に。世間及び戦の動向。
  →「村重」「御着城」「摂津伊丹」「藤の花房」「夏から秋へ」「村重の落去」
*三木城の籠城戦への官兵衛の帰陣。官兵衛の働き。三木城落城。四国での軍略。
  →「別所衆」「野火」
*備中高松城の攻略。水攻めと官兵衛の謀。官兵衛の外交。高松城落城。
  →「山陽道」「備中の山」「備中高松城」「安国寺殿」
*本能寺の変・中国大返し。光秀との一戦。官兵衛の働き。
  →「変報」「東へ」「尼崎」「遠い煙」
*秀吉による中央政権確立後の官兵衛の立場と動き(天正12年以降の官兵衛の半生)。
  →「如水」

 秀吉が中央政権を確立して以降、官兵衛は軍師として表舞台から下りる。秀吉の統治は官僚体制化していくことになる。官兵衛は隠居を望むが秀吉は許さない。できるだけ傍に居させることで、官兵衛の能力を利用しかつ縛っておき、ある意味で監視しつづけたのだろう。秀吉は官兵衛の力量を恐れていたのだ。著者は官兵衛の後半生を簡略に記すにとどめてこの物語を終えている。

 青年期から壮年期にかけての官兵衛の生き様がダイナミックに描かれていておもしろい。戦国の世にあって、天下に覇をなす力量を持ちながら、下克上の手段を取るということをしなかった官兵衛、己の思考の実現に邁進したというその行動と生き様は、実に興味深く、魅力的である。

 「あとがき」に著者は書く。「官兵衛という人柄は、そこから人間の何かをえぐり出せるようなたちのものではなく、自制心のある一個の平凡な紳士というにすぎない。ただかれは、平凡なだけに、戦国末期の時代の気分を、そのまま思想として身につけているようなところがある。」(四、p279)この作品を読み、なぜ著者が「平凡な」と言うのか今ひとつ理解しかねている。「信長」「秀吉」という人間と対比的に捕らえたとき、官兵衛は「平凡な」姿勢に自らをとどめたという視点で切り取った評価だろうか。凡人から見れば決して「平凡な」人物とは思えないのだが。

 ストーリー展開は本書を読んで、一喜一憂し楽しんでいただければよい。

 この物語で著者が官兵衛について評している箇所をすべてではないが列挙してみよう。官兵衛のプロフィールである。著者がこのように評する「播州の一土豪」がこの作品で活躍するのだ。(最初の漢数字は分冊の順序数を意味する。)
*官兵衛の本質は軽はずみということであり、かれの生涯は軽はずみの生涯であったかもしれないのである。  (一、p101)
*官兵衛は物事の理解がすばやすぎるところがあり、それがかれに終生つきまとう欠点でもあったが、そのすばやさのために十代の終わりころにはすでに人の世のことがほぼわかりはじめていた。(一、p110)
*官兵衛は元来経理から物事を考えがちな質朴な男だったし、物を玩ぶ趣味にとぼしかった。 (一、p111)
*官兵衛は、自分自身に対してつめたい男だった。これが官兵衛の生涯にふしぎな魅力をもたせる色調になっているが、ときにはかれの欠点にもなった。かれほど自分自身が見えた男はなく、反面、見えるだけに自分の寸法を知ってしまうところがあった。(一、p182)
*主家に弓を引くなどということはおよそ出来ないたちで、あくまでも主家のために良かれという思案しかできない。官兵衛を拘束しているのは、倫理というものであったであろう。(一、p198)
*敵の中にみずから突入し、槍を入れて奮迅の働きをするという武将としてはもっとも本格的なものとされた行動はついにとらなかったのだが、しかし不得手だからといって平然とそれをやらなかったのは、官兵衛の人柄の基調になっている冷えた勇気のあらわれともいえる。 (一、p224)
*官兵衛はお悠への愛情を剽げることでしか示せないたちなのかもしれなかった。あるいは官兵衛が剽げているときが、この男が素肌を露わにしているときだともいえるかもしれない。 (一、p230)
*官兵衛はべつに神経はほそくはないが、うまれつき残虐なことがにが手で、生涯、自分の権力をつかって残虐なことをするという所業をしたことがない。(一、p248)
*かれはただ自分の中でうずいている才能をもてあましているだけであった。その才能をなんとかこの世で表現してみたいだけが欲望といえば欲望であり、そのいわば表現欲が、奇妙なことに自己の利を拡大してみようという我欲とは無縁のままで存在しているのである。そういう意味からいえば、かれは一種の奇人であった。 (一、p268)
*正直は官兵衛の身上のようなもので、かれがのちに稀代の謀略家として印象されることと、べつに矛盾はしていない。 (一、p279)
*官兵衛には、常人である面の方が多い。ひとの不幸をみればすぐ同情するし、かれの力で何か出来るものならお節介なほど世話を焼く。 (二、p119)
*戦争、政治という諸価値の入りまじったややこしい事象を、官兵衛は心理というものに帰納して考えようとする。・・・要するに官兵衛は、ひとの情の機微の中に生きている。ひとの情の機微の中に生きるためには自分を殺さねばならない。 (二、p260)
*官兵衛は、・・・物事に感動すると、ときどき目をうるませる。・・・・かれの旺盛な好奇心が満足させられるときに感動した。官兵衛の好奇心は、キリスト教の宇宙論に感動して洗礼をうけたり、またキリスト教の神父がもたらす世界像への好奇心に駈られて、堺や京の教会に出入りしたりした。 (四、p47-48)
*要するに中才でありましょうな、とひとごとのようにいった。このことは、如水の本音だったらしい。かれは年少のころから物事の姿や本質を認識することが好きであった。さらにはその物事の原因するところと、将来どうなるかを探求したり予想したりすることに無上のよろこびをもっていた。認識と探求と予想の敵は、我執である。如水はうまれつきそれに乏しかったことでかれは右の能力においてときに秀吉をあきれさせるほどの明敏さを発揮したが、同時に我執が乏しいために自分をせりあげることを怠った。中才である、と如水が、あたかも他人を観察するように言いつくしたのは、さまざまな意味をふくめていかにもこの男らしい。 (四、p263-264)
*かれほど欲を面に見せなかった男もめずらしいといってよかった。 (四、p251)

 作品の中の官兵衛への評をかなり列挙した。著者は「あとがき」で一つの言葉に集約している。それは「商人の思考法」であり「合理主義」の考え方を官兵衛は好んだということだ。関ケ原の戦いの前夜、二ヵ月における官兵衛の北九州席巻は、「先端的なゼニ経済の徒」の合理主義を証明していると著者は言う。「時代の本質のようなものを象徴しうる存在」として官兵衛を眺めている。

 「如水」という号についての著者の解説が興味深い。今まで読んだ本では、「如水」を官兵衛の洗礼名と関連づけて記していたように思う。ここでは著者がこんな説明をしている。以下、4冊目、p257の記述である。
 「身ハ褒貶毀誉ノ間ニ在リト雖モ心ハ水ノ如ク清シ」という古語からとったもであろう。あるいは、「水ハ方円ノ器ニ随フ」という言葉を典拠にしているのかもしれず、いずれにしてもいかにも官兵衛という男の号らしい。官兵衛は如水という名で同時代に知られ、さらに後世にもその名で知られている。よほどこの名が、かれにふさわしいということなのかもしれない。
 確かに現在も、京都市内には「如水町」という地名が残っている。
  
 著者は洗礼名との関連に言及していない。ダブルミーニングということはなかったのだろうか。著者は官兵衛がキリシタンの洗礼を受けたのは、官兵衛持ち前の好奇心と思考性、そして情報収集という観点でとらえている。信仰という観点は捨象している感じである。官兵衛にとってキリスト教は知的好奇心の局面でのつながりだったのか。
 
 最後に興味深い文をいくつか抽出しておきたい。
*官兵衛のような田舎の微少な勢力の中にいる者にとってキリシタンの組織ほどありがたいものはない。この南蛮寺にさえゆけば、日本中の情勢がわかるのである。少なくとも、京都情勢があきらかになるのである。(一、p139)
*道理の上では信長のやったことは理解できるのである。官兵衛は叡山の腐敗がどういうものであるかを熟知していた。かれらは魚肉を食い、平然と女色を近づけているという点で、信長がやる以前に仏天から大鉄槌を食うべき存在であった。その上、まるで大名気どりで地上の政治に関心をもち、一方を援助し、一方を不利にするという露骨な所業をやっている。  (一、p248)
*なぜかという最も重要な論理の核心をアイマイにすることが扇動というものであった。逆に、論理の核心がアイマイであればこそ、ひとびとの戦意は燃え立つ。そういう集団心理の機微を、本願寺は多年一向一揆を経験してきただけに、心得ているようであった。 (二、p251)
*黒田如水の生涯は、関ケ原の前夜、二ヵ月ほどのあいだに凝縮されるのではないか。 (四、p269)

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以下、少しネット検索して得た関連事項を一覧にしておきたい。
黒田孝高 :ウィキペディア
黒田家御廟所 :「長浜・米原・奥びわ湖」
湖北の地で黒田官兵衛を思う (その壱):「DADA Journal」
黒田氏発祥の地・木之本町黒田 :「DADA Journal」
妖艶な観音さま@黒田観音寺(滋賀県長浜市木之本) :「念彼観音力」

黒田神社 :「玄松子の記憶」
 配祀神が「黒田大連」だとか。(黒田官兵衛の一族との関係は記されていないが)
 
福岡千軒 → 福岡の市(ふくおかのいち):「岡山南部農業水利事業所」
長船町福岡 :ウィキペディア
広峯神社 :ウィキペディア
廣峯神社 兵庫の神社・仏閣 霊場紹介
黒田官兵衛ゆかりの地・広峰神社 御師のネットワークで目薬・情報を交易
 :「ロケTV」
広峰氏 :「神紋と社家の姓氏」
 
福岡藩主黒田家墓所 :「福岡市の文化財」
 
黒田如水(黒田官兵衛)の名言 格言 :「名言DB:リーダーたちの名言」
黒田孝高(如水)編 :「面白エピソード/名言集」
黒田如水の名言です 其の一 :「戦国武将の名言から学ぶビジネスマンの生き方」
 このページから他に4ページリンク参照できる。
 
大河ドラマ 軍師官兵衛 :「NHK」
 
黒田官兵衛博覧会 :「滋賀 びわ湖 長浜」
姫路生まれの「黒田官兵衛」を応援しよう! :「姫路市」
福岡藩の藩祖 黒田官兵衛 :「福岡県」
 

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黒田官兵衛関連では次の読後印象記を載せています。
こちらもご一読いただけるとうれしいです。

『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』 小和田哲男  平凡社新書
『風の王国 官兵衛異聞』 葉室 麟  講談社
『風渡る』 葉室 麟  講談社



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3 コメント

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いってみたいな (八雲軸受)
2021-02-12 02:04:21
出雲街道もあるので日本刀やたたら製鉄なんかの流れも歴史としてはあるのでしょうね。
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マルテンサイト千年 (グローバルサムライ)
2024-06-11 13:47:17
やはり世界を引っ張るハイブリッド日本車の技術力の前に、EVシフトは不調をきたしていますね。特にエンジンのトライボロジー技術はほかの力学系マシンへの応用展開が期待されるところですね。いくらデジタルテクノロジーを駆使しても、つばぜり合いは力学系マシン分野がCO2排出削減技術にかかってくるのだとおもわれます。
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神はサイコロ遊びをする (ああいえばこういう熱力学)
2024-06-12 16:50:13
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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