遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『泣くな道真 -太宰府の詩-』  澤田瞳子  集英社文庫

2018-01-25 10:47:22 | レビュー
 先般『腐れ梅』を読み、その奥書からこの小説が出版されていることを知った。菅原道真絡みの関心から早速読んでみた。末尾にこの作品が書き下ろしであると付記してあるので、当初から文庫本として出版されたようである。2014年6月に出版されている。

 手許の日本史の年表を見ると、延喜元年(901)の項に「1右大臣菅原道真を太宰権師(だざいごんのそち)に左遷(903没)」と一行記載されている。宇多天皇に重用された菅原道真が、左大臣藤原時平ら藤原氏の画策で、太宰府に左遷されて2年後に太宰府で没した。その怨霊が後に藤原一族の枢要な人々の死や天皇の病没の原因になったと人々は連想した。その怨霊を鎮めるために、北野天満宮が創建される形になり、怨霊鎮撫が後に、天神信仰、学問の神様へと進展していく。学生時代に日本史を学んでも、それくらいの範囲で理解している位にとどまる。そこから一歩入り込んだ情報や知識を史跡探訪・本などさまざまな経路から断片的に得てきているが、菅原道真を深く知っている訳ではない。

 この小説を読んだ印象は、太宰府に菅原道真が左遷されたことから広がった波紋の有り様が興味深いというところだ。当時の太宰府という行政機構のもとで生じた人間関係と行動を、道真の心境と関連づけながら、すこしユーモラスなタッチで顛末記として描いた時代小説と言える。ストーリーのユーモラスな進展の中に、当時の太宰府の状況、京の都と太宰府の関係及びそのギャップ、高級貴族を含む支配者側と一般民衆の側の認識の格差などが、ある意味辛辣な目線も併せて書き込まれている。このあたりが、個人的には興味が持てた。

 道真が太宰府で没するまでの2年間の生活の史実知識を私は持たないので、歴史小説としてよりも、道真とその時代をモチーフに著者が創造した時代小説、フィクションとして受け止めた。道真が、こんなことを太宰府でしていたとしたら、おもしろいな・・・・・と思う。左遷された道真の怨み骨髄の心理と行動を描きながら、己の才能を別のところで密かに発揮して、活躍するところに、一条の活路を切り開く。彼の行動の結果が、彼を左遷した朝廷の人々への一種の意趣返しにも連なっていくという行動に出る。そんなアプローチがおもしろい。裏技的おもしろさがある。

 この小説、視点をずらして読むと、幾人もの主人公がいるように読めるという興味深い局面もある。道真だけがこのストーリーの主人公とは思えない。主な登場人物のそれぞれが、異なる次元から道真にかかわりつつ、あるフェーズでは主人公的役割を果たしていく。
 主な登場人物をご紹介し、少しストーリーでの役割などを要約する。

菅原道真 安行という家司一人と二人の子(紅姫7歳、隅麿5歳)を伴っただけという。
     南館に居を構えると、当面は恨み辛みの心理でどん底を徘徊する。
     小野恬子の介在を契機に、鑑定の見識・才能の利用に気の発散活路を得る。
     太宰府でも更に不幸が立ち現れる。泣くな道真。己の道を行け!というところ。

龍野穂積 代々太宰府の官人を務める龍野家に婿入りした。太宰少典(太宰府の第四等官)
     先はもう出世が見込めないと40歳間近で怠け者に。あだ名が「うたたね殿」
     長官の小野葛絃から直に特命として道真の世話役、監視役を命じられる。
     道真に間近で接触することで道真と己の対比も含め、行動が変容していく。
     優秀な息子・三緒が居る。ストーリーの後半、不正問題で三緒も絡んでくる。
     このストーリーでは、黒子的な役割、道真の心理分析担当的な役割を担う。

小野恬子 内裏で女房仕えをしていた美貌の歌人。25歳。宮廷に嫌気を抱き去る。
     葛絃と葛根を追って太宰府にやってきて、廚の出費引き締めに辣腕を振るう。
     菅原道真に関わりを持ち、道真の太宰府での有り様を変える仕掛人となる。
     京での道真、太宰府での道真を対比的客観的に眺める視点を持つ。
     太宰府では美貌故に、官人と色恋絡みの騒動を起こしている。

小野葛根 恬子の兄、28歳。少弐。小野葛絃の片腕。葛絃に心酔し尊敬する。
     庁内各部署を取りまとめる政所の長官。徴税での横領を発見と処理に着手。
     三緒の上司であり、横領問題が葛絃の失態に成らぬよう対策に苦慮する。

豊原清友 京より派遣され、管内の租庸調の計納を担当する大帳司の算師。
     太宰府の経理を担当。少しずつ長年にわたり徴税記録を改竄し横領を働く。

小野葛絃 京から着任し46歳で大弐。太宰府庁官。太宰府を愛する外見温厚な人物。
     ストーリーでは表に出て来ないが、重要な位置づけになっている。

 この小説は5章構成であり、ストーリーは起承転結風に展開していく。
 第1章 菅公流謫
菅原道真の太宰府左遷、龍野穂積が世話役の特命拝受、その他主要登場人物とその背景が描かれて行く。道真と関わる群像の形があらわれてくる。道真は南館に落ち着く。
 第2章 倦み渡る世
小野恬子は己の中に絶えずひそむ孤独が道真の憂慮と同質ではないかと思い、道真に会いに行こうとする。その途次、博多津の唐物商・橘花斎のやり手の隠居、幡多児に出会い、小袋を押し付けられる。また、偶然にも迷子になり泣きわめく隅麿に出会う。それが南館を訪れる具体的契機となる。小袋に入っていたのが青墨だった。それが道真の関心を惹きつける。そして、恬子が道真を博多津に連れて行くきっかけになる。忿怒・憂愁に沈潜していた道真が唐物鑑定に動き出す契機となる。この変転のさまが面白く描かれて行く。博多津の唐物商の実態が垣間見えるのも興味深い。

 第3章 寒早十首
 状況が一転する事態が違う次元で発生する。一つは、小野葛根と龍野三緒が関わる太宰府の行政機構の次元での不祥事。豊原清友による長年の横領という不正を発見し、その巨額な額が一大事となる。さて、葛根はどうするか。
 もう一つは、唐物の真贋鑑定という才能を生かすことで、己の憂さを紛らす機会を見つけた道真が、出くわす体験である。南梁の画人が描いた阿弥陀如来画像に関わることがきっかけとなる。橘花斎で小汚い坊主が是非にとねだって買っていた画像を道真が買い取りたいと言う。そのために穂積に銭十貫の調達を頼む。穂積が工面した銭を携えて二人は南瓊寺を訪ねていく。その坊主から、かつて道真が詠んだ寒早十首を、面前で罵倒される羽目になる。それらの詩が現実を知らぬ雲上人の観念世界の陶酔に過ぎないと。それは道真の意識をガツンと転換させる機となる。一方、道真に追い打ちをかけるように、隅麿の転落事故による死が起こる。
 
 第4章 花の色は
 起承転結の結にあたる。その一つ。豊原清友が横領した千貫の補填問題。疔官小野葛絃に失態の責任が及ばない形でこの問題を解決したい小野葛根に、道真が千貫の補填に協力すると言い出す。そして、道真は秘策を提示していく。これがなんともおもしろい。道真の秘策は、小野葛根を助けることになるとともに、道真を太宰府に追いやった朝廷の輩たちに道真が意趣返しする手段にもなるものという落とし所となっている。これは著者が編み出したフィクションだろうが、道真の能力の一端を逆用するという手段であり、実際にあってもおもしろい展開である。そして、恬子は道真の秘策の先読みをもするところが二重におもしろい。

 終章 西府鳴笛
 第4章に続き「起承転結」のもう一つの「結」となっている。道真の秘策が一応完了するというエンディングであるとともに、小野恬子の生き様の「結」を語る章にもなっている。
 更に、ここでおもしろいエピソードを著者は加える。宇佐奉幣使という名目で、都からやってきた五位蔵人藤原清貫が、その帰路道真の様子を見に立ち寄るというのである。この時の道真の応対が最後のオチとして楽しいエピソード話となっている。
 微かな雷鳴が、はるか遠くから響き、夕立が近づいて来る中で、清貫に帳を挟んで、道真が敢えて陰々滅々たる響きを帯びた声で言う。「-清貫、遠路ご苦労であった。主上と左大臣どのには、ここで見たままを詳細に伝えるのじゃぞ」「わしはもう決して、長くはあるまい。されど骨はこのまま西国に埋められようとも、魂魄はいずれ宙を翔け、京に立ち戻ろう。ほれ、あの雷のように-」と。雷鳴し雨がどっと降る。清貫は仰天して飛び出していく。その姿を眺め、道真は清貫に同行してきた小野葛絃と談笑する。
 
 アウトラインはこんなストーリー展開である。要所要所の描写が読ませどころとなる。穂積の視点と恬子の視点の違いが、道真を分析的に描き出す上でうまく相乗効果を出していく。
 このストーリー、道真だけでなく、穂積、恬子、葛根、葛絃のそれぞれの生き様も描いていておもしろい読み物になっている。
 泣くな道真、己の枠に捕らわれず、太宰府の地という視座から改めて世の中を、都を見つめて見よというところか。

 この小説で本筋の背景となる部分で興味深いところがいくつかある。
1) 当時の太宰府がどのようなところかが描き込まれている点。都市の構造、行政機構、徴税の仕組み、都と太宰府(西海道総督府)との関係、太宰府の殷賑状況など。
2) 都から派遣される高級官僚と太宰府の地方官僚との関係、意識の格差と有り様。
3) 左遷された道真の位置づけについて。著者が史実を踏まえて書き込んでいると理解する箇所である。
 *道真の左遷について、詔は罪状を明記しないものだった。
 *年二千石(約2億円)という禄が太宰府左遷で停止された。
 *資財没官(没収)にはならなかったので、領地からの収入が太宰府での生活費に。
  京の留守宅からの月に一度の音信と銭の送金が頼りとなったという。
4) 大唐や新羅からの商船が入港すると、京からの使者による官品購入が優先される。
 それが終わってから、民間の交易が許される仕組みとなっていたという。
5) 太宰府の外港としての博多津の風景が点描されている。
 鴻臚館、唐坊・新羅坊といった街区の設定、飯屋・遊里・訳語屋の存在など。
6) 太宰府で記録されていた「正税帳」という官稲管理帳簿のしくみの一端がわかる。
7) 博多津・太宰府「現地」と京の都「遠方の顧客」の唐物に対する扱いと認識のズ。
 道真の青墨に対する思い入れが一例として点描されていておもしろい。

 このフィクションを通じて、あらためて、菅原道真の実像は? に関心をかきたてられることとなった。太宰府での2年間、道真は何をしていたのか?

 ご一読ありがとうございます。

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菅原道真に関して、ネット検索でどのような情報、知識が得られるかトライしてみた。一覧にしておきたい。
菅原道真公年表  :「手取天満宮」
菅原道真公年表  :「湯島天神」
菅原道真の年表  :「七天神の由来」
菅原道真年表   :「e-KYOTO」
菅原道真  :ウィキペディア
菅原道真  :「コトバンク」
道真公のご生涯  :「太宰府天満宮」
菅原道真と天神信仰  :「能楽勉強会」
天神信仰について  pdfファイル
菅原道真は人間か?天神か?天満宮の起源と道真 :「和じかん.com」
菅原道真の漢詩② 寒早十首 の全文と口語訳  :「ゆきのたより/snowmail」
日本古代史研究と菅原道真「寒早十首」 宮瀧交二氏  史苑(第67巻1号)pdfファイル
藤原時平  :ウィキペディア
藤原時平 菅原道真を讒言で大宰府へ左遷、失脚させた切れ者・左大臣 :「歴史くらぶ」
怨霊信仰  :「コトバンク」
御霊信仰の成立と展開: 平安京都市神への視角  井上滿郎氏論文  「CiNii」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店

『色仏(いろぼとけ)』   花房観音   文藝春秋

2018-01-18 13:04:30 | レビュー
 著者の本は、以前に2冊読んでいる。著者は官能小説というジャンルで創作を手掛けている。本書もそのタイトルと表紙の絵に、まさに艶書ムードを漂わせている。
 官能小説ジャンルの本としては、各章が読み切り短編の体裁をもち、それぞれにエロティックな描写を抑制され気味ながら連ねらていて、その描写が主人公の思考にリンクしている。単にエロい読み物ではない。そして六編が一つのストーリーとして大きく場面を変えながら、底流でつながっていく。私は小説の構想が二重構造になっていると感じた。最初からそういう長編小説としての連載設定なのか、同一主人公の短編作品が構想が発展していき連接し、長編小説になっていったのか、どちらだろうかとも思う。読者が個別の章だけでも、十分楽しめる様にして、人間の持つ色欲という業に焦点をあてている。そこに捕らわれる人間模様を巧みにえぐり出しているなという印象を持った。奥書を見ると、2014年~2016年に「オール讀物」に掲載されたものを集成して2017年5月に単行本として出版された小説である。

 主な登場人物は、本書に収録の各編で一貫している。目次が章立てになっているので、長編小説とみるべきなのかもしれない。まず主な登場人物に触れる。
 烏  北近江の月無寺の門前への捨て子で、住職に育てられた男。生業は木彫師。
    いずれ月無寺を継ぐ前提で、京の大業寺に入り俊覚の許で修行する。
    俊覚の死後、寺を出て、仏師となることを望む。烏が彫りたいのは観音像である。
    月無寺の十一面観音像に憧れて、このような観音像を彫ることを願望する。
    仏師にはなれず、現実は女の裸体像の人形を求めに応じて制作する生業である。
 真砂 京で茶屋を営む傍ら、長屋の大家である。烏を長屋の住人に強引にしてしまう。    真砂は烏の彫刻の腕に惚れ込んでいて食事の世話もする。勿論家賃は徴収する。
    真砂の背中に沙那丸という刺青師が十一面観音像を彫っている。烏はそれを見る。
    俊覚と交接する場で、その背中を見つめる羽目になる。それは月無寺の観音像。
    真砂は見られながらの色事好き、根っからの好き者。

 猿吉 烏の人形彫刻の腕に目を付け、エロティックな姿態の裸体人形の斡旋人となる。
    世には公開できない人形需要を引き出してきて、烏に彫らせるという立場。
    この小説では、烏に客を呼び込んでくる黒子的存在。勿論猿吉がもうかる仕組み。

 この小説は、この3人を中軸にしながら、様々な客が読み切り「章」の主人公として登場するという設定になっている。
 烏は、猿吉が連れてくる客(女)については、何も聞かされていない。女の背後には立場は分からないが誰か男がおおむね居るのだろう。その要望に応じた艶な人形、淫らな女体人形を木像として生み出すのが烏の仕事。そのために、制作依頼を受けた当の女の裸体をまさに隅々まで観察し絵として紙に姿態を写しとる作業から始める。艶な人形づくりのために、女の股座の襞までも克明に写しとるということになる。出来上がった人形は実にできが良いと評判が密かな口コミで広がっているという次第。
 烏は、生活していく為に世間の表には出せない人形彫刻作品を作っている。しかし、常に子供の頃から接し、磨いてきた十一面観音像のような観音像を彫り上げたいと願い、試みている男である。その観音像を彫りたいだけで、それ以外の仏像のジャンルには一切関心がない。だから仏師の許での修行はできなかった。己の観音像を制作するために、仕事として女の裸体を見、その陰部までも克明に観察する仕事をしているのに、女を知らないという設定になっている。烏は実際の生身の女を知れば、観音像を彫ることが出来なくなるのではという恐怖感すら持っている。その禁欲さと行動を真砂は見つめている。一方で、真砂はしきりに烏をいびることも躊躇なくする女である。この辺りがこのストーリーのおもしろいところである。
 交接する男女の隠微さや艶、官能美とは別の次元でのストーリー展開になっている。そういう意味で、女体観察の比重が高まり、客観視の視点になるためか全体的に描写に抑制感があると感じるのかもしれない。

 本書には6編が収められている。第一章から第六章まで、そのタイトルを並べると、「姫仏」「母仏」「恋仏」「鬼仏」「女仏」「生仏」である。
 すべてのタイトルに、「仏」が付いている。つまり、烏が艶な人形像を制作するのは、観音像を彫り上げるための習作作業、修行過程にあるという意味合いだろうか。あるいは「色」の世界に耽溺する現世の柵と業を突き抜けた先に見えるものとして、観音像を具現化したいがための道程であり、「仏」に繋がる一階梯ということであろうが。観音は現背利益と衆生の苦悩に応じて33の姿に身を変えるといわれる。変化観音である故に、人形制作のために烏の前に現れた女体もまた、悉皆仏性に繋がり、観音の変身という意味合いを背景にしているのであろうか。タイトルの上の一文字が「業」の局面とリンクしていく。
 本文の冒頭に次の夢告が載せてある。
 「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」
そう。親鸞聖人が救世観音から告げられたという「女犯の夢告」である。

 単なる艶書ではなく、一種人間の性と業の本質を見極めていこうとする著者の習作書なのかもしれない。
 私は読み始めたとき、章立てではあるが短編作品感じたので、章毎に要約短文を綴り、この小説への誘いにしたい。

姫仏  徳川の次の将軍へ輿入れの噂のある姫が対象者。烏は誰か知らずに制作する。
    その人形が三条大橋に曝されるという椿事が起こる。そこには裏があった。

母仏  烏が子供の頃、かばってくれた茜。嫁ぐまで「あんたのお母ちゃんになったる」  
    そう言った茜が烏の前に、裸体を曝す対象者として現れる。茜自身が発注者だった。
    茜が人形制作を依頼した心理が微妙。女の心理、業の一局面を描く。

恋仏  真砂に内緒で、猿吉が女を連れてくる。名を梨久という。真砂の恋仇である。
    梨久からその肌に彫られた桜を見せつけられる。それが真砂の観音像の刺青師。
    刺青師の力量に烏は圧倒される。肌の桜の色が変化する。

鬼仏  烏は、月無寺の住職の死を知る。弔うために北近江の月無寺を尋ねる。
    篠吉が住職になっていた。篠吉の過去が語られ、その業の深さが描かれる。
    真砂がその帰郷旅に同行する。そして篠吉の本性を見抜いてしまう。

女仏  黒船来航を背景とした情勢の中での発注があった。烏に観音様を彫れという。
    そこに一つの条件を付ける。烏が美しいと思う女の裸で作ることという。

生仏  「俺が観音様を作りたいと願うのは、女という生き物を形にしたいからだ」
    烏が沙那丸にこう語る。烏は沙那丸と真砂の般若と十一面観音を見ることに。

 冒頭の夢告について、好き者の真砂の現世的解釈も会話の中に組み込まれている。
 この小説のモチーフは、烏を介して性を見つめた本質にある女の業、男の業なのかもしれない。
 人間、己の業をどのような形でアウフヘーベン(止揚)できるのかということなのだろう。冒頭の「女犯の夢告」はその象徴なのかとも受け取れる。

 ご一読ありがとうございます。

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この作品を読んで、関心の波紋を広げてネット検索したいくつかを一覧にしておきたい。
(この作品との関係は少ないが・・・・・ 言葉の連想、連鎖として・・・・)

親鸞聖人の三度の夢告   :「聞思莫遅慮」
「女犯(にょぼん)の夢告(むこく)」 :「親鸞」
観音菩薩 :ウィキペディア
びわ湖・長浜 観音の里  ホームページ
奧びわ湖 観音巡り  :「己高庵」


nude(ヌード)とnaked(ネイキッド)の違い :「ネイティヴと英語について話したこと」
ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより :「横浜美術館」
「ヌード NUDE」展で“最もエロティック”な大理石像「接吻」日本初公開!「接吻」をテーマにしたオリジナル漫画も公開予定  :「ダ・ヴィンチニュース」
Tropical Tuesday! Alessandra Ambrosio shows off her stunning beach body in nude suit on last day of vacation with friends in Brazil   :「MailOnline」
Nude(art) From Wikipedia, the free encyclopedia
Vagina and vulva in art   From Wikipedia, the free encyclopedia
L'Origine du monde  From Wikipedia, the free encyclopedia
Nude photography    From Wikipedia, the free encyclopedia
Nude photography(art)  From Wikipedia, the free encyclopedia


花房観音 著者のホームページ
こんな特設サイトも。
花房観音『女の庭』特設サイト|Webマガジン幻冬舎


著者の作品についての印象記、こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『花祀り』 無双舎
『おんなの日本史修学旅行』 KKベストセラーズ

『腐れ梅』 澤田瞳子  集英社

2018-01-13 11:06:40 | レビュー
 「ほとがかゆい」という独り言で始まり、「ほとがかゆい」という独り言でストーリーが締めくくられる。一瞬、ええっ!と艶っぽさを感じさせる冒頭である。そして、巻末も同じ独り言で終わる。しかし、この同じ語句が全く異なる状況での独り言であり、一人の女の生き様を翻弄した象徴にもなっている。更に「腐れ梅」というタイトルがその女の絶頂から奈落へと人生を転換させるキーワードにもなり、また物語を深読みすれば別の解釈も物語の背景に感じさせる局面を内包する。これは一人の巫女がかつぎだされて、様々な人々と関わりを持ち、己が巫女として頂点に立ち神社を創建しようとした顛末物語である。新しい神社の草創期と確立期の断絶の経緯及び神社の生成・発展・存続の過程に発生する合理化・後づけが描き込まれていて、興味深い。このフィクションの生み出すリアリティが宗教というものを改めて考える材料にもなると言える。神とは何か?

 京都の北野には全国の天満宮の総本社として北野天満宮があり、祭神・菅原道真を祀っている。怨霊信仰という社会的、文化的文脈の中でその一柱として始まり、今は学問の神様として広く崇敬されている。この境内地の北側に文子天満宮の小社が併せて祀られている。一方、下京区天神町に文子天満宮が所在する。
 北野天満宮のホームページで、ご由緒のページを見ると、次のように記されている。
「北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。その後、藤原氏により大規模な社殿の造営があり、永延元年(987)に一條天皇の勅使が派遣され、国家の平安が祈念されました。この時から「北野天満天神」の神号が認められ、寛弘元年(1004)の一條天皇の行幸をはじめ、代々皇室のご崇敬をうけ、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められてきました。」

 この時代小説は、北野天満宮の創建期について断片的に史実として記録されている事実を踏まえて、「北野社」草創期を著者がフィクションとして描き挙げた北野社創建顛末記といえる。中心となる人物は、右京七条二坊十三町に住み巫女を生業とする綾児(あやこ)28歳である。そこは西市に近く市人、結桶師や籠師といった細工師、巫覡(ふげき)、医師や呪禁師(じゅごんし)など種々雑多な人々が住む地域にある。
 巫女といっても、祈祷をするだけではない。禁厭札(まじないふだ)も売れば憑坐(よりまし)もする。祈祷にかこつけてやってきた人に頼まれれば色も売る、つまり身を売ることをおこなうのが生業である。つまり、似非巫女だ。綾児は美貌で結構客足がある。しかし、その美貌も年を取れば衰えていく。綾児は周囲に居る老婆や醜女の巫女を見ていても、まだまだ自分は別だと高をくくっているところがある。自分の美貌と魅力が客を引き寄せると。
 そんな綾児のところに、近くに住む同業の巫女で綾児より一つ年上の阿鳥が話を持ちかけてくる。色を売る女はおおむね情人を作る。綾児も例外でなく、客の一人である秋永という男と半年ほど夫婦同然に住んでいて、男に出て行かれた後だった。一方の阿鳥は醜女の巫女の癖に、稼ぎが多く情人のような男の影がない。そんな阿鳥が綾児に持ちかけたのがいい儲け話があるというふれこみでの相談事。それは社を二人で作ろうというもの。
 阿鳥は30年前に死んだ右大臣の死霊を神様として祀りあげて、その社を建てて神社運営をしようという。12年前の6月末に愛宕山から黒雲が降りてきて豪雨が降り、御所に雷が落ちたことがあり、死傷者が出て、帝が病み臥して亡くなるという結果になった。阿鳥は、右大臣の怨霊がその原因だと噂されたという事実を引き合いに出し、綾児に説明する。未だ右大臣の霊を祀る神社は京にはないので、右大臣の死霊を神に祭り上げて、人々を神社に引きつければ本来の巫女となり、生活も安定するはずだと綾児にいう。公卿たちが右大臣の霊に怯えているからこそ、神社を作るチャンスがそこにあるのだともちかける。綾児の美貌にまだ人々が引き寄せられる今だからこそ、綾児に右大臣の霊が憑依し、社を創って祀れという託宣を告げたと言いふらすと、人々の意識を引きつけ、社の造営まで持っていけると目算を立てていた。
 似非巫女で身を売る生活は先が見える。年を取れば人が離れていく。今、社を作り信仰という形で人を集客すれば、将来の己の生活は安定する。社づくりは、儲け、金欲の手段という発想である。最初は阿鳥の話を人ごとに聞いていた綾児の考えが替わり、阿鳥の話に乗るという選択をする。このストーリーは、前段を踏まえて、この瞬間から動きだす。

 このストーリー、現代社会において新興宗教が雨後の筍の如くに生まれ出てくる事実を背景に重ねていき、読み進めるとおもしろい。まさに新興宗教創立プロジェクトの展開プロセスという視点で眺めることができる。神とは何か? なぜ人々は神に祈願するのか? 人々が求めているものは何か? 託宣とは何か? 人々は巫女のお告げをどう解釈するのか・・・・・などの局面がストーリーのプロセスから浮き出てくる。この点が興味深く、このフィクションの事例を介して考える材料にもなる。

 当初は阿鳥が陰の操り師で、綾児が操り人形の役割分担。右大臣菅原道真の神霊からお告げを受けたと言いふらす実演を西市で試みる。だが綾児を見知った男の登場であっけなく失敗する。この場面描写の展開、リアリティを感じさせる失敗譚である。失敗は成功の母というように、そんなところから神社草創のストーリーが展開していく。
 
 単なるアイデアだけで話がうまく転がり出す筈がない。当時において怨霊として恐れられていても、神社として祀るというのは、やはり一大事業だろう。似非巫女の企みから発生した社作りが、北野社として立ち上がるには様々な思惑が絡み合い、関係する人々の思い、思惑、欲望が織りなされていく。このプロセスが巧みに描き込まれていく。
 まず最初の託宣劇に失敗した阿鳥と綾児は、綾児の七条の家に簡易な祭壇を設けて、祭祀場所を設け、既成事実を作り噂をばらまくことから地道に始める。道真の霊が祀られているという噂を聞いた菅原文時が確かめに来る。そして、地位名声欲を持つ文時は、祖父・道真を祀ることを己の出世欲に結び付けようとする。祖父を神として祀る社を然るべき場所に建てる必要を感じる。いわば出資者、スポンサーになる。
 神霊というアイデアを具現化するには、それなりの仕掛けが必要となる。どこにそのような形式で祀り、その由来や霊験を如何に知らしめるか。つまり、知恵者・プランナーが必要となる。文時は大学寮に文章得業生として選ばれていた秀才の学友を引き込む。ある事故が原因で、官途を抛ち出家し、比叡山に登った後、今は朝日寺に寄寓している最鎮である。この最鎮が北野に社を構えることを提案する。そして、道真の霊の託宣の信憑性を高める工夫を講じる。そのために近江の神社にも託宣があったという話を考案し実行に移す。神社の儀式などの経験者として、近江国比良の禰宜である神良種を巻き込んで行く。 文時・最鎮の思惑は、阿鳥と綾児という巫女の考えを取り入れて、社を帝から公認される格のある神社にしていくという方針である。そのため、文時が公卿への働きかけを行う。そうすれば、おのれの思惑を含み賛意を示し指示する者もいれば、勿論批判側に立つ者も出てくる。そんな紆余曲折がリアルに描き込まれていく。興味深く読み進められる。そのプロセスを通じて、当時の朝廷における官職や公卿の人間関係相関図の一端がわかるのもこの小説の副産物といえる。

 阿鳥、その後は神良種の操り人形として、神霊菅原道真の託宣を語り、神社に詣でる人々の願いにお告げをする役回りの綾児自身が、その行為を通して、人々の反応や行動を眺める中で、己独自の思考を始めて行く。巫女綾児の存在価値への覚醒である。草創期として出来上がった北野社での活動を介して、己の存在の意義を自己評価し、北野社は自分自身であるという方向性を見つけていく。さらに、北野社を支持し寄進により盛り立てて行くのは、地位なき地方の刀禰や富豪、名もなき民衆こそが基盤となるという考えを抱き始める。その頂点に立つのが綾児だと。それは、綾児が己の似非巫女という生業を通じて、律令国家体制が崩れ、新たな時代が来ることを体感的に感じることからの志向でもあった。己の力で生き抜こうとする人々への神を確立するという志向である。著者は「やがて来る大いなる変革の先触れ」(p350)と表現をする。

 どんな事業プロジェクトでも、その展開プロセスで賛成・反対が生まれ、方針・方向性の調整や変更も生まれていく。内部分裂もあるし、経緯としてのトップの交替もあり得る。この北野社草創プロセス物語は、このプロジェクトのプロセスにおける紆余曲折を巧みに描き込んで行く。北野社草創期の経緯を踏まえながらも、最鎮が『北野天神縁起』を創作していくところが興味深い。神の設定に対する権威や存在意義のいわば箔づけである。記されたものが残り、世に伝えられ親炙していけば、時の経過の中でそれが事実もしくはあり得たこととして受け入れられていく。これもまた世の常の一端といえようか。
 このストーリーでは、北野社の草創期を縁起に書き記すにあたり、菅原在躬に縁起の書き直しのアイデアを最鎮に語る言葉を会話として書き込んでいる。
 「では、こうしよう。おぬし、北野天神縁起をもう一度、書き直せ。そこに北野社を創建するに際し、綾児-いや、文(ふみ)の子と書いて文子(あやこ)という巫女がお祖父さまの託宣を受けたと記すのじゃ」
 「文子でございますか」
 「そうじゃ。純真無垢な少女である文子が、道真さまの託宣を得て、北野社の巫女となったと記せ。何もかも綾児とは異なる清浄なる巫女がおったと縁起に書いておけば、仮に今後、綾児が再びわしらの前に現れても、別人じゃと言い立てることが出来よう。-ふむ、なんなら阿鳥の名を変えさせて、今後、文子と名乗らせてもよいな」 (p349)

 この小説、北野天満宮の草創期を想像して史実の断片を基にしてフィクション化された一種のパロディ風北野社草創記と言えるのかもしれない。たとえば、北野社の建物を右大臣・藤原師輔の寄進により取り替え、拡張していくに際し、北野社周囲の松の木が次々に切り倒されて境内地が整備される。最鎮は松の木を御神木と想定していたのだが、筆頭巫女の位置づけにいた綾児が、梅の木を御神木にしてしまうというエピソードにしている。 しかし、権勢欲、出世欲、金欲、色欲など人間の欲望をさらけ出した上での北野社草創プロジェクトのプロセスに、逆に人間社会のリアリティが実に巧みに描き込まれている。 「瓢箪から駒」ということわざがある。まさにこの小説はこのことわざをキーフレーズとするかのごときである。このフィクションが、実はそれに近い現実の草創期だったとしても、違和感を感じないのは私だけだろうか。
 興味深く、かつ楽しみながら読めた時代小説である。

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本書を読んだことから関連事項などをネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。
北野天満宮  ホームページ
北野天満宮 :ウィキペディア
北野天神縁起 :「コトバンク」
伝藤原信実《北野天神縁起絵巻(承久本)》(天拝山の段)謎を呼ぶ神気──「竹居明男」 影山幸一氏  :「artscape」
北野天満宮 北野天神縁起絵巻(承久本) :「京都観光Navi」
国宝の北野天神縁起、15年ぶりに公開 文化財特別公開 京都よむ・みる・あるく
  2017.11.1  :「朝日新聞DIGITAL」
北野天神絵巻 :「e國寶」
菅原道真  :ウィキペディア
菅原氏   :「公家類別譜」
菅原氏 姓氏類別大観  :「日本の苗字七千傑」

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店

『スノーデン・ショック』 デイヴィッド・ライアン 田島・大塚・新津共訳 岩波書店

2018-01-10 20:29:34 | レビュー
 副題は「民主主義にひそむ監視の脅威」となっている。原題は「SURVEILLANCE AFTER SNOWDEN」である。サーベイランスという単語は「監視、見張り、監督」とい意味を表す。2013年にエドワード・スノーデンがNSA(アメリカ国家安全保障局)のファイルを複写し、その後で彼が選んだジャーナリストたちを通してそれを公表した。「NSAが敵国政府の活動だけでなく、自国の市民や同盟国をもスパイしていると世界に暴露した」(ⅴ)のである。それは「多分に暴露的な秘密文書の公表」(ⅵ)だった。この事によって、段階を経ながらNSAの監視がどういうもので、どういう範囲に及んでいたかが明らかになってきた。序章の中に「スノーデン後の監視」という見出しがある。原題はそこからとられたのだろう。
 著者はこのスノーデンがなぜ暴露したのかを分析し、そこから学べる教訓は何かを本書で語る。

 著者は、スノーデンが暴露によって明らかにしたことは、従来の標的型監視という枠を越えて、技術の進歩が「ビッグデータ」からの情報創出の方法を可能にしたことであり、大量監視という方法が「監視」という問題の質と次元を大きく転換させてしまったことにあるという。それが「民主主義への脅威になる」ことをスノーデンが事実証拠をジャーナリストを介して公表することで可視化したことに、スノーデンの行為の意義を読み取っている。
 そして、主たる教訓は「我々の企業と政府の両方が一緒になって、我々に関する詳細な情報を創出している」(ⅶ)という事実を一人ひとりが明確に認識する必要性を説く。我々が知らない間に、「我々が携帯電話やインターネットを利用することを通して、我々もまた連座している」(ⅶ)という事実を突きつけたという。我々自身の意志的欲求的な情報利用が様々なデータを無意識に提供する形となり、そのデータが監視され、政府の独自分析操作で監視データが一人歩きしていくという実態を事例を提示し、分析的に論じていく。
 情報処理技術やその処理法に詳しくない一般読者の私にはその論述が難解に思われる箇所が散在している。しかし、著者が何を言おうとしているか。その論理の展開は大凡理解できる。まず我々は大量監視の事実と実態を知るところから始め、どこまでの大量監視は合法と言え、場合によっては必要悪であり、どこからがあっては成らない監視、本来の民主主義を脅かす脅威になりえるのかを論じている。「かつての監視は、特定の疑惑や標的に対するものだった。現在の大量監視の時代では、誰もが例外ではなく、誰も監視を回避することはできない。だからこそ、監視は今日の民主主義にとって重要な問題なのだ」(p138-139)と述べる。
 そして、その大量監視は「先制的予言」に焦点をあてるようにシフトしている危険姓を論じている。それは従来の「推定無罪」という慣行に対する危険へと転化する局面に警鐘を発している。本人自身とは切り離された次元で、「データ分析が『容疑者』を生み出せば、その人々が有罪として扱われる差別的傾向がある。未来は前もって管理される。暗い未来だ」という危険性に言及する。大量監視が存在する現代の世界において、改めてプライバシー概念の再確立とプライバシー保護を試みることが枢要だと述べている。
 プライバシーに関連し、第一章で著者はこんな問いを読者に投げかける。「新しい技術はしばしば新しい課題を作り出す。誰かが手当たり次第に載せたあなたの姿やあなたの車のナンバープレートを写したフェイスブックの写真は『個人データ』か。」(p24)、「一見するとありふれたあらゆるデータがある意味では『個人の』となり得るとき、情報と『個人』とは切り離されるように見える。そして多くの人々にとって、『プライバシー』は一義的に『個人』と関係するから、古い定義は徹底的に挑戦を受ける」(p25)と。

 本書は次の構成になっている。
  序 章 CITIZENFOURの警告
  第一章 スノーデンの嵐
  第二章 世界中の監視
  第三章 脅威のメタデータ
  第四章 ぐらつくプライバシー
  第五章 将来の再構築
CITIZENFOURとは、エドワード・スノー^デンに対して使われた最初の暗号名である。著者は第二章で、スノーデンの暴露が何をもたらしたかを具体的に論述し、末尾に「大量監視は、いかに『オンライン』と『オフライン』の世界が深く結びついているかを示すのだから」と記す。インターネット社会の現代において、大量監視はグローバルな問題であることを記憶にとどめよというスノーデンの言葉に対し、著者が具体的にグロールな大量監視が世界中で行われている事実の実態を論じている。第五章で、こうも評価している。「スノーデンの暴露は、国家主義の監視がいかに拡大しているかを示すという正真正銘の偉業だった。彼の仕事は、今日の監視がどれほど他のものごとに依存しているかも示す。」」と。第三章では、大量監視がメタデータのレベルで行われていることの事実と伴に、それが持つ意味を分析していく。第四章では、「重大な問題は、情報プライバシーは概して、身体的るいは領域的なプライバシーよりも法律上軽視されていることである」と警鐘を発している。そして、第四章の冒頭で、スノーデンの暴露で明らかになった身近な事例として、イスラム教徒のファイサル・ジムの事例を挙げている。この事例が一般市民のプライバシーを考える有力な事例の一つになるからである。その上で、なぜプライバシーが重要なのかを論じている。

 著者は、スノーデンの暴露により可視化し引き起こされた嵐により、政府と企業が秘密裏の大量監視をする世界に我々が存在するという現実を厳しく見つめる。情報の取扱において、自分自身が無意識の内に情報を提供しているという実態を見つめ直す必要性を主張する。「我々がどういった世界に暮らしたいか、どのように扱われ、また他者を遇したいか」を思い起こし、それらは「デジタル化の進展と政治的生活の明らかに新しい現実の視点から再考されなければならない」と論じている。

 第五章の最後に、結論として「変化をもたらすのは実践である」と述べ、デジタル化時代において、個人データが今後様々な形で取り扱われることになるので、次の事柄が起きると予測している。著者の挙げた事柄を列挙しておく。詳細は本書を開いてみてほしい。 *変化の気運に取り組む ⇒より批判的に考え始めなければならない
 *新しい実践を共有する
 *最も重要なことに集中する
 *権力に対して真実をのべる
 *脆弱性への認識を高める
 *法律や政策に影響を与える
 *忍耐強い持続力を持って変化を要求する
 *なぜこれが重要かを思い出す

 著者の分析と論理の展開、主張が完全に理解できたとは言いがたいが、スノーデン・ショック以後の世界がどのような監視社会の様相を表しているのかの大凡は感じ取れた。民主主義とプライバシー概念を考えるために、必要に応じ立ち戻り再読するべき足がかりの一書を見つけた気がする。

 ご一読ありがとうございます。

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本書からの関心の波及でネット検索した項目を一覧にしておきたい。
映画「シチズンフォー スノーデンの暴露」公式サイト - GAGA
citizenfour  From Wikipedia, the free encyclopedia
Citizenfour  :YouTube
CITIZENFOUR - Official Trailer  :YouTube
Citizenfour Official Trailer 1 (2014) - Edward Snowden Documentary HD  :YouTube
スノーデン :「映画.com」
アメリカ国家安全保障局  :ウィキペディア
米国家安全保障局(NSA)に関するトピックス  :朝日新聞DIGITAL
NSA(とGCHQ)の暗号解読能力: 真実と嘘  :FORTINET
エドワード・スノーデン ある理想主義者の幻滅  :「WIRED」
スノーデンの警告「僕は日本のみなさんを本気で心配しています」 小笠原みどり
     :「現代ビジネス」
NSA監視プログラムを暴いたエドワード・スノーデン現在の姿と真相 :「infoMode」
米国に強制送還? スノーデン氏を待ち受ける運命とは? 2017.2.18 小山貢氏 :「文春オンライン」
Edward Snowden Full Interview on Trump, Petraeus, & Having 'No Regrets' :YouTube
Interview On NSA Whistleblowing (Full Transcript) Edward Snowden :GENIUS
EDWARD SNOWDEN INTERVIEW : NBCNEWS
Edward Snowden: ‘Governments can reduce our dignity to that of tagged animals’  2016.5.3時点   :「thegurdian」

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次の読後印象を先般載せています。こちらも併せてお読みいただけるとうれしいです。
『スノーデン 日本への警告』 エドワード・スノーデン 青木、井桁、金、ワイズナー、ヒロセ、宮下  集英社新書


『初めての源氏物語  宇治へようこそ』 家塚智子  宇治市文化財愛護協会

2018-01-07 14:36:17 | レビュー
 本書は「宇治市文化財愛護協会設立40周年記念」として出版された。表紙のタイトルの右に記されている。昨年12月にネット検索していて、たまたまあるブログ記事で本書を知った。現在宇治に在住しているが、この本が出版されていることを知らなかった。平成27年(2015)3月の出版である。
 宇治市には京阪電車「宇治」駅から徒歩10分程度のところに「宇治市源氏物語ミュージアム」がある。このミュージアムは宇治に絡む部分を主体にしながら『源氏物語』とその時代を展示品と映像でビジュアルに展示し、『源氏物語』の世界に誘うという趣向である。『源氏物語』の第三部にあたる通称宇治十帖が宇治との縁が深い。ここはいわば見聞・体験的な源氏物語入門館である。
 本書の著者はこの宇治市源氏物語ミュージアムの学芸員で、現時点でも『源氏物語』の「入門講座」講師を担当されている。「はじめに」を読むと、平成22年(2010)に当館の学芸員になり、「ここ数年、入門講座と連続講座を担当している」と記してあるので、現時点では5年余入門講座の講師を担当し、連続講座を企画されてきたのだろう。源氏物語入門講座聴講者の直の反応や対話を通じてえた受講者の「初めての」源氏物語コンタクト感触が本文に生かされているように思う。本文は100ページほどのボリュームでもあり、ちょっと源氏物語を覗いてみようという初めての方には読みやすい文であり、構成もおもしろい。

 副題が「宇治へようこそ」となっている。このミュージアムの所蔵品や展示などの情報も写真と本文に挿入されていて、まさに「ようこそ」の一端を担っている。当館所蔵の『源氏絵鑑帖』の絵並びに、当館玄関口・宇治橋と宇治川・宇治十帖古蹟などの写真が各所で紹介されている。
 光源氏の栄耀栄華の象徴として、六條院での場面描写が物語の各所に出てくる。ミュージアムの最初の展示ホールの一角には六條院の邸宅が縮尺模型として制作されている。この写真も20ページに載せてある。物語での六條院は一町ずつが春夏秋冬に分けられてそれぞれの邸が設計されている。私は六条院が四季に分けられているのは知っていたが、それが五行説と関係しているというのをこのページの説明で知った。「春-東、夏-南、秋-西、冬-北」と対応するそうだ。勿論、平安京の都は条坊制で区画が設定されていたから、四季と方角には45殿ずれが生ずる形で、六条院の4つのエリアが配置されている。南東側の春から時計回りに秋、冬、夏という形だ。

 本文は、第Ⅰ部で光源氏の人生のポイントを押さえてアウトラインを記す。誕生から晩年までのイメージが簡略に頭に入る。

 その後、第Ⅱ部、第Ⅲ部は、この六条院の春夏秋冬という邸構成と本文の記述をリンクさせている。物語の四季という視点から、源氏物語の各帖に分散されて記されている内容がわかりやすく集約されている。光源氏とそれぞれの邸に住んだ人々との関係がわかりやすい。本書は源氏物語への入門書であるが、初心者の疑問に答える豆知識もところどころに散りばめられていて、おもしろい。
 たとえば、『源氏物語』には「賀茂祭」が出てくる。『源氏物語必携事典』(角川書店)や『源氏物語図典』(小学館)で「賀茂祭」の項を引くと、源氏物語に登場する同時代の祭の内容が具体的に詳述されている。現在の京の三大祭として最初に「葵祭」がくる。今は「賀茂祭」という言葉をあまり聞くことはない。なぜ? 賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)の祭礼の一環である華麗な行列は、応仁・文明の乱により応仁2年(1468)以降は完全に途絶えたという。神事は復興されても行列は甦らなかった。「再び脚光を浴びるのは、江戸時代に入ってからである。元禄7年(1649)、葵を家紋とする徳川幕府の肝煎りで朝廷の祭りとして復興し、江戸時代を通じて途切れることなく行われた。『賀茂祭』が『葵祭』の名で定着するのも、このころからであある」(p20)ナルホド!だ。両神社はどう対処しているのか。ホームページを見ると、「賀茂祭(葵祭)」と記されている。
 『源氏物語』の巻毎にその梗概を「初めての」人向けに説明していくのでなく、四季の視点で切り取ってわかりやすい全体像として源氏物語へと導入していく切り口がおもしろいと思う。

 第Ⅳ部は「よむ、みる、あそぶ」と題している。『源氏物語』がどのように人々に受け入れられていったのかという観点での導入説明である。『源氏物語』がその後の人々の素養・教養の一環として根付いていった経緯のポイントが語られている。読むから詠むへ。読む助けとしての絵、挿絵から、絵巻、さらには源氏物語を踏まえた上での独立した絵画、屏風絵等への展開。また、「見立て」と「やつし」の世界という置換表現への展開が語られている。
 たとえば、『聖書』の内容を知らないと中世西洋絵画の表現内容が十全に理解鑑賞できないのと同様な位置づけに『源氏物語』があると理解した。『源氏物語』は後の様々な作品を「よむ、みる、あそぶ」上で、その背景に潜んでいくのである。『源氏物語』そのものと併せて、『源氏物語』が利用されてきた経緯の基本が説明されている。つまり、日本の中世以降の文化を知るためにも、『源氏物語』を知ることが必要なことへの誘いになっている。

 最後の第Ⅴ部は「宇治で学ぶ『源氏』」である。宇治市文化財愛護という協会視点ではこここそが眼目なのかもしれない。著者は、「宇治十帖」に焦点をあてながら、その枠内だけにとどまらず、その関連への広がりという視点を取り込んでいる。冒頭を『更級日記』から始め、藤原定家を引き出し、合戦地としての宇治橋を語り、能に登場する題材が、『源氏物語』と宇治にリンクしていく。宇治橋に関わる橋姫像のイメージの変化に触れ、『源氏物語』に関連する橋姫が「嫉妬深い女性」ではなく、元の「待つ女」のイメージであることに著者は言及する。「宇治市源氏物語ミュージアム」という視点では、当然のことだろうが、ここで「宇治十帖」が3ページに要約されている。

 最後にこの第Ⅴ部からいくつか引用しておこう。具体的説明は本書をご覧いただきたい。
*定家にとっての宇治は、何よりもそこは「宇治十帖」の宇治であった。  p81
*宇治川をはさむ右岸と左岸、此岸と彼岸、現世と来世はここで結ばれた。 p86
*宇治川の橋姫は、宇治十帖の隠されたテーマだったともいえよう。    p87
*人びとの暮らしに寄りそってきた「古蹟」に、先人たちの深い教養と鋭いセンスを読み取ってもよいと思う。  p100

 本書に掲載された写真、図がカラーであればなお一層インパクトを高め、初心者にとりよかったのに・・・・という思いが残る。制作費用の絡みがあるからだろうが、ちょっと残念。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に関連して、関心の波及から検索したものを一覧にしておきたい。
賀茂祭(葵祭)  :「上賀茂神社」
賀茂祭(葵祭)  :「下鴨神社」
葵祭  :「京都市観光協会」
葵祭 :「京都新聞」
宇治市源氏物語ミュージアム ホームページ
  宇治十帖関連スポット
風俗博物館 ~よみがえる源氏物語の世界~  ホームページ
源氏物語  :ウィキペディア
「源氏物語」って結局どんなお話なの? 人文学部教授・山本淳子先生に教えてもらった
   :「京都学園大学」
源氏物語の世界 ホームページ(sainet) 渋谷栄一氏
宇治十帖  :「コトバンク」
源氏物語宇治十帖01~03  :「oh-cam.com」
  この続きのページにリンクしていきます。
宇治十帖散策コース  :「京都府観光ガイド」
源氏ろまん2017-宇治十帖スタンプラリー  :「宇治市」
源氏物語の舞台・六条院を再現してみよう!  : 「3D京都」
源氏物語の住文化とその受容史に関する研究  森田・赤澤・伊永共著論文 pdfファイル
        住宅総合研究財団研究論文No.37 2010年版 
宸殿造から書院造へ  文化史  :「フィールド・ミュージアム京都」
3分間で読める源氏物語 

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