遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『水鏡推理』  松岡圭祐  講談社

2016-08-31 09:32:12 | レビュー
 このシリーズを私はたまたま新しい方から遡って読み進めることになった。つまり、『パレイドリア・フェイス 水鏡推理』から、『水鏡推理Ⅱ インパクトファクター』を読み、今このシリーズの第1作を読み終えた。

 このシリーズの設定になっている「研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォース」は文部科学省に実際に設置され実在しているタスクフォースである。実際に文部科学省のホームページで、同タスクフォースが「中間とりまとめ」(平成25年9月26日)を公開していることを確かめた。実在のタスクフォース名称をそのまま使い、研究における不正行為・研究費の不正使用についての推理フィクションを同時代的作品として発表している著者の姿勢、大胆さが面白いし、興味深い。

 このシリーズ第1作は、推理小説の新たなヒロインを登場させ、そのイメージを確立する作品となっている。
 この第1作で、ヒロインとなる水鏡瑞希(みかがみみずき)のバックグラウンドが大凡明らかとなり、彼女のイメージが形成されていく。この第1作に描かれた水鏡瑞希のプロフィールを、まず概括しご紹介する。

 水鏡瑞希。国家公務員一般職試験に合格し、文部科学省の一般職事務官として務めている。合格して3年目で、25歳。一般職試験を受ける前に、豊洲に所在する株式会社鴨井探偵事務所でアルバイトをした経験がある。国家公務員試験には判断推理と数的推理の分野の問題が出題されるが、学校で習わない分野であり、推理なら探偵という短絡的発想から探偵事務所でのアルバイトを大学2年の時から始めた経歴を持つ。結果的に、この事務所に勤める女性社員が公務員試験に挑戦経験があったことから、判断推理と数的推理の手ほどきをこの女性社員から受ける。試験では、判断推理と数的推理は満点だったという。
 瑞希は神戸市出身である。阪神淡路大震災で被災し、小学校に入る前から仮説住宅暮らしを経験している。1歳年下の弟・睦紀と父方の祖母が行方不明となり、失踪宣告を受け、法律上は死亡が確定済みである。瑞希の母はあきらめきれずに、探すのをやめずにいる。瑞希はそれを見ている。その後、両親とともに東京に引っ越してきた。都電荒川線の梶原駅近く、明治通りに面した築45年の木造家屋二階建て店舗付きの借家に住む。両親はその1階で、定食屋兼居酒屋・道草食堂を営んでいる。瑞希は震災体験により、子供の頃から地震関連の本を数多く広くかつ専門的なレベルまで独自に読み進め、その分野の知識が豊富である。
 見た目もよく、爽やかな印象を人に与え、裏表のない性格。嘘を嫌い、常に正直であろうとする。
 こんなヒロインがこのシリーズで誕生した。どんな活躍をするのか? 
 最新作の方から、私は遡ってきたのだが、それ故に、なるほどそういうことだったのかという思いを抱く箇所もあった。シリーズを逆読みするのも、それなりのおもしろさがある。

 さて、この第1作の構成がまたちょっと面白い。それは、文部科学省の一般職事務官がどういう経緯で、「研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォース」の一員になったかということからストーリーが始まる。そして、この第1作では、水鏡瑞希が関わった事件という点を時間軸でみると、複数の短編小説と中編小説が集成された形として進行する。それは、瑞希が様々な異なる研究分野に首を突っ込んでいくということから、読者にも知的好奇心をそそらせる形になる。本書は全体が数字の番号でセクション表記されているので、その番号を利用して、少し内容と感想に触れて行こう。見方を変えると、読者へのサービス精神旺盛であり、次々とスピーディに推理解明プロセスを楽しませてくれる作品と言える。

1: 
 水鏡瑞希の同僚となる一般職事務官、澤田翔馬の登場と失敗談で始まる。

2~5: 
 東北地域の大震災によりできた仮設村でサポート役の長期滞在要員として水鏡瑞希は派遣されている。この仮設村での瑞希の活躍がエピソード風に書き込まれる。しかし、瑞希が派遣要員となったのは、入省後の研修で、事務官として節度をわきまえない行動が省内勤務に向かないと判断されたことによるというから、おもしろい。その瑞希が澤田が失敗した事案の助っ人として関わらせられる顛末となる。それは、仮設住宅からの立ち退きを一人拒否し続ける伊佐治という人物に対し文科省として謝罪をし受け入れてもらうという案件。しかし、瑞希はその案件自体の問題を暴き出して解決するという勇み足の結果となる。冒頭から、瑞希の観察力が発揮され、問題の本質を見ぬいてしまうという面白さ。だが、それは官僚の行動発想とはすれ違う。

6~8:
 果たすべき役割は伊佐治さんへの謝罪だったが、先方の面目をつぶし、マスコミの餌食にした点が省内で咎められる羽目に。ここから、瑞希の背景調査が行われることに。
 この辺り、官僚機構内の思考の歪みが皮肉られているように思う。読者にとっては、瑞希のプロフィールを知る興味で読み進められるところ。

9:
 瑞希と澤田が共に「研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォース」に異動となる。ここでのスタートは、現実に起こったSTAP細胞問題を下敷きにしたと思われる「STEP細胞問題」の最終確認という話から始まる。研究費の扱い方の問題が話題となる。タスクフォースの立ち位置を理解する導入部と言えようか。キャリアの南條朔也が瑞希に「立場わきまえて発言を慎めよ」と言う。これが官僚機構のキーフレーズとして書き込まれる。著者の官僚機構に対するアイロニーが込められているように感じる。

10~17:
 冒頭で、ある検証映像に秘められたいかさまを瑞希が見ぬいて指摘するというショートエピソードを入れて、「総合的震源パラメーター変動要因解析システム(CSVS)」という初期費用94億円という研究がタスクフォースの検討対象となってくる。これはキャリアの南條が事務官の水鏡瑞希の能力に気づき、瑞希をサポートする側に転換し始めるエピソードでもある。研究資金を得るための官僚向けプレゼンテーションとしての実験に仕組まれたいかさまを瑞希が暴くという痛快さが楽しめる。

18~24:
 瑞希の行動が周りの人々を変えて行く。南條は瑞希の能力を認め始める。一般職事務官の同僚・澤田は、所詮事務官なんて・・・というスタンスから、瑞希の行動力と問題解決力を目の辺りにして、仕事を楽しく感じ始める。そんな所から、次のテーマが始まる。それは文科省の副大臣が座長を務めていて、頭を抱えているという「宇宙エレベーター」の研究に絡んだことなのだ。この研究テーマは現在のホットな話題でもあるから興味深い。
 まずは、この研究に関連した分厚いファイルを総合職の牧瀬蒼唯が瑞希のところに持ってきたことが発端となる。蒼唯の瑞希に対する指示は、誤字脱字についてのみの校正作業である。内容については横槍を入れるなという条件までつける。だが、しかし・・・、なのだ。瑞希は、指示を拡大解釈して、行動を始める。澤田もそれを手伝うことになる。
 瑞希の行動は、デスクワークに止まらず、そのファイルに出てくる宇宙エレベーターの研究開発に取り組んできたイトウラ工業株式会社に出かけて行く。
 この会社でも、やはり研究資金確保の為の実験に巧妙ないかさまが加えられていた。研究資金の承認を取り付けたい側と資金提供の認可をする官僚側の駆け引きとして、理屈づけ・言い訳などが、コミカルなタッチで描き込まれているのもおもしろい。
 高邁な研究目的に対して、プレゼンテーションとして行われた実験のトリッキーさが読ませどころといえる。意外性があってこれもまた面白い。
 同じ会社の中で、一方では真面目な研究を地道にやっている。その成果が上がりにくい事例も併せて描いているところが、興味深い。それは研究をどう評価するのかにもかかわっていくことだから。
 この宇宙エレベーターの件について、校正作業の枠組みからはみ出した結果、瑞希は自宅謹慎という処分を受けることになる。その理由は、タスクフォースの実務内容、一般職のあり方、事務官の仕事についての自覚に対する勘違いにあると言う。この辺り、官僚の発想と行動の実態に対する著者のアイロニーが組み込まれていると感じる。総合職の官僚はどこを向いて、何のために「仕事」をしているのか? 

25~29:
 牧瀬蒼唯が担当するテーマに遂に瑞希が関わりをもつことになる話が続く。それは逸滋重工が手掛けている「運転事故自動回避支援システム」についてなのだ。蒼唯は何度か実験に立ち合い、それが成功しているにも拘わらず、なぜかそれを信用して、案件を承認するのを躊躇しているのだ。
 ここに一つの大きな仮設がストーリーとして置かれている。「タスクフォースって有名無実な部署だったのに」ということである。蒼唯は「わたしたちがきちんと仕事をすること」を考えることが、「あまりいい傾向じゃないかも」と思案しているという皮肉さが書き込まれている。蒼唯の思いに対し、南條がこう答える。「たしかに省内のお偉いさんが、なにか触れられたくない秘密を持っているのはあきらかだ。檜木さんが上に従って真剣に働くのを放棄して、俺たちも感化されてきた。でも、どうも瑞希が現れてから調子が狂ってきたような」と。
 この案件に、謹慎中の瑞希が結果的に関与することになる。関与の仕方が興味深いことと、いかさまの手口が意外と単純なのだが、気づきにくい盲点であることがおもしろい。

30:
 「人間の目がとらえた視覚情報を読み取る装置」の実験についてのショートストーリーである。1回完結編。ちょっと息抜きのオマケのような感じでのお話。種を明かされれば単純な心理の盲点を突いたものなのだが・・・・。意外と気づきにくい。
 
31~40:
 各所にいくつかの伏線が敷かれながら、このストーリー展開での最後の研究案件が登場する。平成28年度以降、年間1200億円の研究開発費を税金でまかなうことが予定されえいるテーマである。それは「バイオメトリクス沿革監視捜索システム」である。日本じゅうの防犯カメラや監視カメラをネットワークで結んで、顔認証で特定の人をただちに見つけだせるシステムだという。それに加えて、この研究には文科省の杉辻副大臣が深くかかわっている研究でもあるという。文科省主宰の研究なのだ。副大臣は瑞希が所属しているタスクフォースの座長でもある。
 文科省主宰の研究であるということに躊躇せず、瑞希が関わって行く姿が頼もしい。
 このシステムには、民間開発支援団体ができていて、実験の被験者として参加している。支援団体は、この研究の成功を願う人々の集まりで、システムの信奉者でもあった。
 さて実験は正当なものなのか、何らかのいかさまが含まれているのか?
 これまでに張られていた伏線は何のためだったのかが、明らかになっていく。おもしろい展開となる。

 瑞希、澤田、南條、牧瀬の4人は、タスクフォースの職務を継続することになる。ひとまずは、ハピーエンドな終わり方である。だからこそ、引きつづき、2冊のシリーズ作品が既に出版されている訳だが。

 この小説、研究として取り上げられているテーマが興味深い。時代にマッチしたものであり、今まさに進行形でありそうなものばかりという感じであるところが実によい。
 そして、各所に現在の官僚組織体制、官僚の処世術に対するアイロニカルな指摘が書き込まれている。納得できるところが多い。批判的指摘である。

 最後に、瑞希が謹慎処分を受けた時、父親が発言したことが印象的である。ご紹介しておこう。

*いまの世のなか、偉いやつほど腹黒だしな。  p186
*水鏡(すいきょう)とも読めるだろ。もうひとつ意味があるんだ。水がありのままに物の姿を映すように、対象をよく観察してその真情を見抜き、人の模範となること。
 水鏡ってのは真実を映すと同時に、人から手本とされる存在でなきゃならん。 p187

 ご一読ありがとうございます。
 

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補遺
本書を読み、関心を抱いた関連事項を検索してみた。一覧にしておきたい。

「研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォース」中間取りまとめについて  :「文部科学省」

STAP細胞論文に関する調査結果について  :「理化学研究所」
STAP細胞が証明された !ドイツ研究チームがSTAP再現に成功! :「Share News Japan」
STAP現象の確認に成功、独有力大学が…責任逃れした理研と早稲田大学の責任、問われる  :「Business Journal」
地震科学探査機構 ホームページ
GPS地殻変動観測と地震予測   ホームページ
宇宙エレベータ建設構想  :「大林組」
宇宙エレベーター協会 ホームページ
バイオメトリクス認証(生体認証)の”今”を探る  :「SAFETY JAPAN」
これからの本命?バイオメトリクス認証 10 種類を紹介 :「KASPERSKY DAILY」
生体認証導入・運用のためのガイドライン  情報処理推進機構

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これまでに読み継いできた作品のリストです。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『水鏡推理Ⅱ インパクトファクター』  講談社
『パレイドリア・フェイス 水鏡推理』  講談社

松岡圭祐 読後印象記掲載リスト ver.1       2016.7.22時点

『神剣 人斬り彦斎』  葉室 麟  角川春樹事務所

2016-08-28 10:07:50 | レビュー
この小説は、安政7年(1860)3月3日、桜田門外で時の大老井伊直弼を暗殺した水戸浪士が、細川越中守の屋敷に自訴する。玄関での最初の応接を茶坊主の男が行う場面から始まる。この茶坊主が後に尊攘派の志士として、人斬り彦斎(げんさい)として激烈な活動をし、京洛に勇名を轟かせる。この小説は人斬り彦斎と呼ばれ、恐れられた河上彦斎の人生を嘉永3年(1850)12月、17歳の時を起点に、明治4年(1871)12月斬罪の判決により刑死、享年38歳まで描いている。
 だが、読後印象としては、人斬り彦斎(げんさい)の尊攘派志士としての思想・信条および激烈な行動を描きながら、彦斎の目を通して眺めた幕末動乱期から明治新政府樹立の時代における尊皇攘夷思想の鵺の如き変転の実態を描くということにこそ、著者のテーマがあったような印象を抱く。人斬り彦斎の観点に立てば、薩摩・長州の目的は、尊皇攘夷という建前を掲げることで、江戸幕府政権を打倒し、王政復古の下で政権を行使する力を奪取することにこそあったということになる。実質的な政権担当者、支配者側になるということである。勿論、そこには清国の二の舞には陥らず、世界の列強に対抗していくという前提があってのことなのだが。
 京都に住み、三条小橋の傍に立つ佐久間象山遭難碑を数え切れない位、目にしながら通り過ぎてきたが、誰に暗殺されたのかを固有名詞として考えたことはなかった。この小説を読み、私は初めて河上彦斎が象山を暗殺した人物ということを知った。これは私にとって、知識の副産物でもある。

 さて、河上彦斎は、九州、肥後・熊本藩54万石の御花畑表御掃除坊主として16歳のときに召し抱えられ仕えていた。「五尺に足りない小柄な背丈で女人のようにほっそりした体つきだ。色白でととのった顔立ちの美男だが、清雅な趣がある」(p8)と描写されている。茶坊主という役目柄、頭を剃っていたために、同年配の武士からは馬鹿にされる立場であった。しかし、本人は役目として意に介さず仕えていた。そんな男が人斬り彦斎という生き様を選択したのである。なぜ、そうなったか? それがこのストーリーである。

 この小説から河上彦斎に直接の影響を与えた人物が3人居ると理解した。17歳の頃から彦斎が師事した宮部鼎蔵(みやべていぞう)。熊本藩の兵学師範である。宮部鼎蔵は肥後における尊攘派のリーダーとなっていく。彦斎はまず宮部の思想を学ぶ。この宮部鼎蔵は、後に京都の池田屋事件の折りに新選組により殺される。
 17歳の時、宮部鼎蔵を介し、九州遊学途中の吉田寅次郎(松蔭)を知り、吉田寅次郎の話から世界の情勢、特にアヘン戦争の清国の実情を知る。この時期、吉田寅次郎は、長州藩の藩校・明倫館で山鹿流軍学師範をしていたそうだ。吉田の謦咳に接し感銘を受けた彦斎は、その後の吉田の実践的行動力を具に知り、己の尊攘の信条を強める上で影響を受け続ける。尊攘派の一人として、吉田寅次郎の生き様から強烈なインパクトを受けるのである。著者は、彦斎が吉田松陰の「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起(そうもうくっき)の人を望むほか頼みなし」に影響を受け、それを美しいことと受け止めたと描く。吉田松蔭の影響が大きいようである。
 もう一人が林桜園である。国学だけでなく儒学、仏教、天文、地理、歴史に精通していた学者である。桜園は『宇気比考』を著しているという。「皇御国(すめらみくに)はそもそも言霊の佐(たす)け幸(さきわ)う国であり、言挙げすれば、天神地祇(ちぎ)の助けを蒙ることができるとする。宇気比は神事の根本義である」と桜園は唱える。この宇気比の思想を彦斎は受け止め、己の行動の基本にしていく。
 
 驚いたのは、人斬り彦斎という勇名を轟かせ、剣の腕を振るった彦斎が剣技はほぼ独学で修得したらしいということだ。熊本藩で盛んだった伯耆流居合いの見取り稽古をして学んだ抜刀術を日夜自邸で錬磨することで、剣技の腕を磨いたとされている。一人稽古という自得の道を歩んだのだ。つまり、彦斎の基本は抜き打ちである。刀は「肥後拵(ひごこしらえ)」と呼ばれる刀身2尺1寸(約63cm)を常用したようである。

 嘉永4年3月、彦斎は藩主の参勤交代の供をして江戸に赴く。嘉永7年にはアメリカのペリー提督率いる艦隊が来航し、吉田寅次郎はアメリカに行くためにペリー艦隊に近づくという行動をとるも、失敗し国許に送還され獄に投じられるという事件が起こっている。安政3年(1856)熊本に帰国。2年後、安政5年3月には、再び藩主に随従して出府。この年6月には、井伊直弼による<安政の大獄>が起こる。吉田松蔭はこの安政の大獄で刑死する。万延元年(1860)10月、彦斎は藩主慶順に従い帰国。文久2年7月、左大臣一条忠香より、熊本藩主細川慶順に国事周旋の内勅が下され、やむなく藩主の連枝である長岡左京亮が11月に上洛することになる。このとき宮部鼎蔵をはじめとする名だたる尊攘派が随従し、彦斎も供に加わる。このとき彦斎は髪を伸ばすことを許されたという。この頃、京都市中では尊攘派の志士による天誅が荒れ狂っていたのである。この11月には、井伊直弼の寵愛を受けたことがあり、長野主膳の奸計を助けたとして、村山たかが尊攘派志士によって、三条大橋傍で生き晒しにされる事件が起こっている。
 このストーリーでは、これが彦斎にとって「天誅」とは何かを示す契機となる。「女人まで狙う天誅はわたしの好むものではありません」と言わしめる。つまり、「天とは清淨にして公明正大なものです。強き悪に罰は下りましょうが、弱き者を誅して快哉を上げるのは天の名を騙る所業です」という考えである。そして、「まことの天誅がいかなるものか見せねばなりますまい」と。結果的に、この瞬間から人斬り彦斎と呼ばれる生き様が始まって行く。
 薩摩尊攘派に眼を掛けられ藩士とはいいがたい身分だったが、仲間に入れてもらえたことから率先して天誅をおこなった<人斬り新兵衛>、そして同様の身分だが、土佐勤王党の武市半平太弟子となり勤王党に加わり天誅を行うことで己の居場所を築いた<人斬り以蔵>。なんと、この二人の所業を天の名を騙るものとして、彼らの「誇りを斬る」と立ち向かうのだから、痛快である。
 
 そして、彦斎の行動の結果が波紋を広げ、各藩の尊攘派の人々との様々な関係が広がり、その関係が生まれる政治的背景、時代背景が織り交ぜられて語られている形になる。だが、この背景描写を通して、当時の政治的空気の昂揚、攪乱と乱流、結束と統合のダイナミズムが書き込まれていく。それは彦斎の立ち位置から眺めたものでもある。時代をどうのようにとらえるかは、どの観点から、立ち位置から眺めるかで変化する。

 このストーリーで異彩を放つのは由依という女性の存在である。国学者林桜園が、遠縁の娘で早くに父母を亡くし孤児となった由依を、本当の娘同様に育てたのである。由依は嘉永4年に、彦斎より2ヵ月遅れて江戸に着き、江戸藩邸の奥女中として努めた後、京都にて公家の三条実美邸の奧仕えの女中を務めるようになっていく。肥後の尊攘派と三条実美との繋ぎの役割を密かに果たす立場にもなっていく。そこには養父桜園の思想の一端を受け継ぐ思いとともに、密かに彦斎への思いに通じるものがあるという形で描かれて行く。 このストーリーのプロセスで、彦斎と由依は「尊攘」という立場を介して、互いの思いが織り上げられていくことになる。この二人の思いのあり方を描くのがサブ・テーマでもあるように思う。一種の忍ぶ恋である。

 彦斎の信条は明瞭である。天誅とは神の下したもう罰であり、天誅をなすは神の意に従う者のみである。神の意を如何にして知りうるか。彦斎は天誅をなすべき対象であるかどうかは、懐紙を引き裂き、その一紙片に名を書き記し、それら紙片を杯洗に浮かべて、名を記した紙片が沈まずに浮いているかどうかで、神意を見極めるという方法をとる。神意を受け止め、天誅を加える者としての人斬りを己の務めとして推敲するのである。
 本書のタイトルにある「神剣」は、彦斎の天誅の信条から由来するのだろう。

 文久3年(1863)1月27日、京都東山の翠紅館(すいこうかん)で、水戸、長州、土佐、対馬、津和野、熊本各藩の尊攘派有志二十余人の会合に、彦斎も末席に加わる。その席で名の出た似非尊攘浪人を彦斎は斬る。真に人斬り彦斎と呼ばれる始まりだと描かれる。
 この後、人斬り彦斎がどういう行動をとるのか、幕末動乱の動きはどうなのか、本書を読み進めていただくと良い。

 人斬り新兵衛が公家姉小路公知暗殺事件との関わりを疑われ自決。その間接的原因が彦斎にあること。
 薩摩の人斬り半次郎と彦斎が白刃を交えることになること。
 彦斎は七卿落ちという事態に立ち至った時、三条実美の護衛役として随行すること。
 池田屋事件後、彦斎が勝海舟に面会を求め、勝海舟という人物を見極めること。
 勝海舟に佐久間象山を斬ると彦斎が宣言し、象山を斬るに至ること。
 三条実美に随行していた彦斎が奇兵隊を創設した高杉晋作との関係ができること。
 岩国城下を訪れた近藤勇の宿舎に彦斎は行き宮部鼎蔵の仇討ちと称し対決すること。
 京の薩摩藩家老屋敷まで尊攘派の桂たちを護衛し送りとどけること。
 新選組に入隊した象山の息子・恪二郎が沖田に惨殺されそうになるのを救うこと。
 長州藩と幕府海軍との四境戦争で、彦斎は高杉晋作に協力して戦いに加わること。
 長州藩と戦火を交えた熊本藩を救うために、肥後に戻る行動をとること。
 故郷の者に向ける刃は持たぬとして、悠然と捕縛され、獄舎に繋がれること。
 出獄後上京し、木戸孝允(桂)、三条実美などと面談し、情勢を知ること。
 明治2年(1869)、九州・鶴崎で有終館を開設し、運営すること。
 攘夷派弾圧が始まる中で、彦斎は再び明治4年、獄中の人となること。

 このような彦斎の行動の軌跡が描かれて行く。
 彦斎は熊本で獄中に居たにもかかわえらず、1月9日に東京で、長州出身の参議、広沢真臣が麹町の私邸で殺されるという事件が起こる。その犯人の嫌疑が彦斎にかかったという。この広沢参議殺しには様々な説・憶測があるようだ。いずれにしろ、当時高田源兵衛と改名していた彦斎は、東京に移送され、斬首されることになる。
 このストーリーでは、判事と彦斎が交わした会話として以下の描写をする。
 「あなたの志はわかるが、すでに世の中は変わろうとしている。考えをあらためて政府に協力していただけないか。さように言っていただけば必ず一命はお助けいたしますぞ」
 「お言葉はありがたいが、私は志とはさように変えることのできないものだと思っている。いま、政府はかつての尊攘の志を捨てて得体の知れぬ化け物になろうとしている。さような化け物の仲間に入りたいとは夢思わぬ」
 ここに、彦斎の思いが凝縮していると感じる。
 幕末動乱期から明治維新にかけての「尊攘の志」は万華鏡の如きものだったのだ。人斬り彦斎の生き様が、結果的にそのことを読者に語っているように思う。

 262ページで、著者は「河上彦斎言行録」に言及している。ネット検索で調べてみると、河上彦斎建碑事務所編『河上彦齋』が1926年9月に出版されれている。「河上彦斎言行録」、「高田玄明遺詠鈔 」などが含まれているそうである。

 最後に、本書の各所に引用されている彦斎が詠んだ歌を抽出引用しておきたい。ここに人斬り彦斎の信条・心情が詠み込まれていると感じる。どのような文脈で著者がこれらの歌を織り込んでいるかを、本書を読み進めて、味読していただくとよい。

  我こころ人はかくとも知ら雲の思はぬ方に立ちへだつ哉
  うき名とや我が身をしらで立ちしより恋といふ路をふみにぞ初めにき
  うき名とや我が身をしらで立ちしより恋しく人を思ひ初めけり
  黒髪は生ひて昔にかへれどもなでにし人のいまさぬぞうし
  君が代は富の小川の水すみて千年をふとも絶えじとぞ思ふ
  帰らじとおもふにそひて古鄕の今宵はいとど恋しかりけり
  仇波と人はいふとも国のため身を不知火の海や渡らん
  濡衣に涙包みて思ひきや身を不知火の別れせんとや

そして、処刑に際し、彦斎は次の和歌を遺したという。
  君がため死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん
  
  このストーリーは、西南戦争の勃発を記して、締めくくられている。

 ご一読ありがとうございます。

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 本書に出てくる事項で関心を惹かれたものについて検索してみた。一覧にしておきたい。
河上彦斎-人物伝  :「www.神風連.com」
河上彦斎  :ウィキペディア
京都の街を震え上がらせたテロリスト「幕末四大人斬り」  :「NAVERまとめ」
河上彦齋 / [河上彦齋建碑事務所編]  :「九州大学附属図書館」
河上彦斎1 :「万遊歩撮」
河上彦斎  国士列伝  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
吉田松陰の盟友「宮部鼎蔵」とはどんな人?  :「NAVERまとめ」
No.073「宮部鼎蔵(みやべていぞう)」  :「ふるさと寺子屋」(熊本県観光サイト)
林桜園  :「コトバンク」
林桜園  :「熊本歴史・人物散歩道」(熊本国府高等学校PC同好会)
佐久間象山  :ウィキペディア
佐久間象山  :「コトバンク」
佐久間象山の暗殺(上) 白昼メッタ刺し、斬首…攘夷派の「憎悪」誘発した“開国攘夷派・象山”の「とんでもない計画」  2014.3.23  :「産経WEST」
有終館  :「鶴崎歴史散歩」
 このページでは高田源兵衛への改名について本書とは異なる解釈があり、興味深い。
維新資料画像データベース   :「京都大学附属図書館 

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『辛夷の花』   徳間書店
『風かおる』  幻冬舎
『はだれ雪』  角川書店
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』  新潮社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新4版(37+1冊)2016.1.27

『メディチ家の暗号』 マイケル・ホワイト  ハヤカワ文庫

2016-08-24 12:20:28 | レビュー
 イタリア、ルネサンス期のフィレンツェのメディチ家は東方貿易と銀行業で財をなし、フィレンツェの市政を掌握した名家である。メディチ家礼拝堂は現在ではフィレンツェ観光の名所の一つでもある。
 この小説は、1966年11月4日に起こったフィレンツェの大洪水の場面から始まる。メディチ家礼拝堂の管理人マーリオ・スポラーニが礼拝堂地下の墓室への浸水被害を心配して見回りに出かける。地下室に浸水し、スポラーニ自身が危険な目に遭う。その時、偶然長さ30cmくらいの円筒を水の中で見つけたのである。これが、後の伏線となる。
 そして時代は現在に。研究者たちがメディチ家礼拝堂で科学的な調査を行う現場に場面が転換する。墓室の遺体から化学分析のためにサンプルを採取するという作業をしている。古病理学者のカーリン・マッケンジー教授が、コジモ・デ・メディチの遺体の中に、薄くて真っ黒な長方形の物体、謎の人工物を発見したのである。墓室に残り、その人工物を分析していて、不思議なことに気づく。発見したことを伝えるために、ある所に電話を掛ける。留守番電話に繋がったために、彼はためらうことなく人工物の石板の表面に起こったことを吹き込んだ。その直後に、彼は侵入者に殺害されその小さな石板は盗まれてしまう。この事件からストーリーが始まって行く。その石板はメディチ家の秘密に関わる物体だった。
 翻訳本は『メディチ家の暗号』というタイトルだが、原題は『THE MEDICI SECRET (メディチ家の秘密)』である。2009年7月に翻訳出版されている。

この小説の特徴は、史実の語らない空隙にフィクションを織り交ぜるという形で、今までの史実理解に新たな光を与えるように構想されたストーリーではなく、明らかに歴史上実在した人物や事象についての多くの史実の上にフィクションを加えた形であり、その上で虚実を織り交ぜてストーリーを展開するという渾然一体化にある。この人物ってそんな行動をとっていたかな・・・と思わせる描写がまずおもしろい。
 興味深いのは、作品の最後に、「小説の骨格をなす真実」と題して、小説に登場する重要事項について、史実と作家として加えたフィクションの部分を截然と識別できる説明を添付している。こういう構成には初めて接した。著者が説明している項目名称を列挙してみる。イ・セグイカンメ(信奉者)、ヴィヴァルディ、ヴェネツィアと疫病、ヴェネツィアの建築物、コジモとメディチ家、古代の手稿、古病理学、ゴレム・コラブ、ジョルダーノ・ブルーノ、人文主義、生化学兵器、ダ・ポンテ、ニッコロ・ニッコリ、フィレンツェの洪水、マウロのマッパムンディ。そして、その中に参考文献やソースの説明もある。

 もう一つが、作品構成のおもしろさにある。基本は2つの時空間が併行して同時進行していく。勿論、一つは「現在」である。スポラーニが偶然発見した円筒と、マッケンジー教授が遺体から見つけ、取り出して分析していた人工物の石板と留守電に教授が残したメッセージがもたらした謎の解明というストーリーである。フィレンツェのメディチ家礼拝堂地下の墓室から始まり、主な舞台はヴェネチアに移っていく。
 他方は、フィレンツェの1410年5月4日から始まるストーリーである。この時、コジモ・デ・メディチは22歳。父親のジョヴァンニ・ディ・ビッチが、コジモにイタリア国内にある銀行の支店をまわる旅に出るように手配していることを告げるところからスタートする。ところが、同日夜遅くコジモが元傭兵隊長ニッコロ・ニッコリの家を訪れ、友人達とともに、4日前にフィレンツェについたというフランチェスコ・ヴァリアニが持ち帰ってきたある未完成の複写の地図に関わる話を聞いたことがきっかけで、父親の指示を無視し、冒険譚となる旅に出立する。その旅にはニッコロ・ニッコリが一緒に出かけることになる。重要性から意図的に未完成の地図に作られた複写の地図について、ヴァリアニの説明でその謎解きのためにまずヴェネチアに行くことから、こちらの時空間が進展していく。このコジモの旅の結果がメディチ家の秘密に関係していく。そして、「現在」の時空間で始まった謎解きの進展がストーリーのクライマックスで合流していくのである。

 「現在」の時空間に焦点をあててみると、円筒を発見したスポラーニは円筒そのものを手放さなければならない立場になるが、その円筒が秘めていた謎を独自に研究するという行動は続けていた。そのスポラーニがフィレンツェから出向いて、今はヴェネチアに住むジェフ・マーティンを訪ねるのである。ジェフは中世初期の歴史研究では世界的な権威とみなされる学者だった。訪れたのは、メディチ家の墓所の発掘計画が発表された直後、それは1年前なのだが、「友人を止めろ。メディチ家の墓に触れるな。息子は死んだが、まだ妻はいきているだろ」という短いメッセージを受け取っていたことに関係する。
 スポラーニはマッケンンジー教授に会おうとしたが会えなかったという。それは、ジェフがイーディー・グレインジャーの友人だと知ったからだという。イーディーは化学と病理学を学び、古病理学の博士課程を修了した後、叔父のマッケンジー教授の発掘計画に参画していたのである。
 マッケンンジー教授が殺害されたことをニュースで知ったジェフは、フィレンツェにイーディーを訪ねる。ジェフは、イーディーの携帯電話に残さされていたマッケンジー教授の石板に関わるメッセージを、イーディーから聞かされることになる。イーディーとジェフの乗る車が追跡され、更にはイーディーの住むアパートメントの部屋も荒らされていた。その石板には詩のような暗号が記されていたことが携帯電話のメッセージには記録されていた。そして、その暗号の謎解きはヴェネチアに導いていくことになる。
 そこから、メッセージの謎解きが始まる。ジェフは、ヴェネチアの友人である音楽学者のロベルト・アルマトヴァニの協力を得る。彼はヴェネチアの名家の子孫であり、この地の名士でもあった。ロベルトが暗号の謎解きの強力な協力者となっていく。
 つまり、ジェフ、ロベルトとイーディーが、マッケンジー教授の残したメッセージを起点にし、その秘められた暗号の謎解きをするという知的サスペンスである。

 「現在」にはもう一つのサイド・ストーリーが併行する。それは、マッケンジー教授を殺害して石板を奪い、イーディーの周辺を付け狙い、ジェフやロベルトにも害意を向ける人間を操っている黒幕の意図と行動に関わるストーリーの進展となる。このサスペンスはジェフ達の敵にあたる人物が途中から明らかにされているのである。その人物とは、リュック・フルニエ。暗闇の世界、死の商人の領域で暗躍し、その利益で贅沢な生活をする。彼の趣味は、ルネサンス初期の工芸品のコレクションだった。そして、それがコジモ・ディ・メディチの旅行記を手に入れるということから、メディチ家の秘密に踏み込んで行く。そして、クライマックスでは敵のフルニエも表に現れてくる。
 
 つまり、この小説は殺人事件や傷害事件、盗難事件の発生などの犯人捜しでなく、メディチ家の秘密の謎解きが本命なのだ。様々な事件は謎解明の途中に起こる波乱万丈のプロセス、悲しい局面にすぎない。

 この小説、メッセージに秘められた詩の様なメッセージに秘められた暗号の解読、未完成の複写地図に組み込まれた謎の解明がパラレルに進行する。そこに、ジェフ達の敵であるフルニエが研究してきた局面での謎の解明が加わっていく。それら別々のストーリーが合流していき、ジグソウパズルの部分集合がやがて結びつき全体絵図が完成するようにクライマックスを迎えるという構成になる。この推理の進展プロセスが面白い作品である。 勿論、コジモ・デ・メディチの青春時代の話としてここに描かれた冒険譚自体は、作者のフィクションなのだが、もしコジモがこんな冒険をしていたら・・・・と思わせるロマンがあって、この点も面白い。
 フィレンツェやヴェネチアの町について、各所に描写が出てくる。建物など町全体の描写は事実に基づくものだという。特にヴェネチアの詳細な描写はヴェネチアを観光旅行した人には、興味深いと思う。私も短時日ながら観光した一人として興味深く読んだ。

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この小説に出てくる事項で、特に関心を持ったものをいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。

メディチ家礼拝堂  :ウィキペディア
マッパ・ムンディ  :ウィキペディア
初期の世界地図  :「Wikiwand」
サン・ミケーレ島  :「イタリアの誘惑」
リアルト橋  :「Expedia.co.jp」

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『神の時空 -かみのとき- 伏見稻荷の轟雷』  高田崇史  講談社NOVELS

2016-08-20 09:25:24 | レビュー
 神の時空(とき)シリーズ第6作である。
 舞台は京都の伏見稲荷大社に移る。奈良、大神(おおみわ)神社の鎮女(しずめ)池に落ちてしまった磯笛は「道反玉(ちがえしのたま)」を持っていたために、鎮女の問いに答えて、ダキニに誓えば池から出られ命が助かると言われる。そこでダキニに誓い、命拾いをするが、左眼はダキニの物となってしまう。その磯笛が伏見稻荷大社の神を解き放つように高村皇からの命令を受けて暗躍を始める。
 7月後半、日が昇ったばかりの神聖で凄烈な空気の中を、大社社務員の宮野辺良夫は勤務先である稲荷大社命婦谷奥社奉拝所-奧の院に行くために稲荷山を登っていく。千本鳥居の道は途中で左右に分かれるが、彼は「奧の院へ一丁」と書かれた石標を眺めながら右の石畳の道を歩む。そして、出口近くの千本鳥居の貫に首を吊った2人の遺体がゆらゆらと風に揺れているのを発見する。二列に並んだ「千本鳥居」の道の出口近くの鳥居にそれぞれ2体ずつ首吊り状態でぶら下げられていたのだ。宮野辺には神聖な神域が汚されて驚天動地に陥る。急いで、引き返し宮司と警察に連絡を、と焦るのだった。
 これが事件の幕開けとなる。伏見稲荷大社からの通報を受けて、京都府警捜査一課警部補・瀬口義孝と部下の加藤裕香巡査が現場に急行する。貴船神社の時に事件を担当したコンビがここでも登場する。

 今回新たに登場するのは、樒祈美子(しきみきみこ)である。樒家は、代々、京都・伏見稻荷の氏子で、稲荷山にはきちんと塚を奉納し、家の守り神として常に尊崇している。そしてこの樒家は狐憑きの家系でもあるという。「狐筋」だという。祈美子には相対している人の心が瞬時にして読めてしまい、相手が嘘を吐いているのかどうか分かるという能力が備わっているのだ。彼女は樒家の塚を奉納している稲荷山の神域を守ることを己の使命と感じている。そんな彼女が、辻曲家の人々に出会い協力していくというストーリーになる。
 そこに、澤村光昭が加わる。彼は祈美子の婚約者である。しかし、今回首吊り遺体という形で殺害された4人の被害者の一人・澤村太一の甥にあたるという。被害者の身元は既に判明していた。4人とも伏見稲荷の氏子ではなかった。

 伏見稲荷大社で事件が起こった日、広島の厳島神社に出かけ、東京に帰る予定だったのだが、三女の巳雨が京都までグリと共に来ると言う連絡があったので、夜遅く京都で合流することにした。そして、全員が八坂神社裏手、霊山観音の奧にある傀儡師、人形遣いの佐助の家に泊めてもらうことになったのだった。
 そんな折りに、千本鳥居のところで4人が殺害され、その後、千本鳥居が奥宮から本殿に向かって次々に倒れ始めたという。異常が事態が生じているのだった。さらに、佐助によれば、雷雲が京都に近づいてきているという。

 伏見稲荷大社の主祭神は、宇迦之御魂大神であり、倉稲魂とも記される。さらに、猿田彦命、天宇受売命、賀茂建角身命と四大神が祀られていて、この五柱の神々を総称して「稲荷大大神」とも称される。
 つまり、ここでも宇迦之御魂大神が関係してきているのだ。辻曲彩音は、翌朝伏見稲荷に行くことを決意する。彩音は佐助の家に向かう時から、物凄い「気」を感じ始める。

 今回もストーリーの図式はシンプルである。
 磯笛は高村皇の命を受けて、伏見稲荷の神の鎮めを解き放ち、大きな天変地異を引き起こそうとする。千本鳥居の山上側の鳥居の貫に吊された被害者たちが降ろされたことにより、結界が破られることとなった。そして、伏見稲荷の神を解き放つための前段として千本鳥居が次々に倒され始める。天空には雷雲が接近し始め、轟雷が迫っている。
 彩音は磯笛たちの行動を阻止し、伏見稲荷の神に鎮まっていただくための行動を取り始める。

 そのためには、伏見稲荷の神とは何か? 高村皇が伏見稲荷の神を怨霊神と捉えているのはなぜなのか? なぜ伏見稲荷と狐が結びつくのか? 稲荷山の神とは何か? 
 つまり、伏見稲荷の神の本質を見極めないと、彩音は神に鎮まっていただくように頼み込み、その成果を得られない。
 そこで、彩音は福来陽一の助けを借りて、先人の諸研究とそこに含まれる疑問を手がかりとしながら伏見稲荷の神の成り立ちの歴史に遡っていき、分析・解明を推し進めて行く。
 一方、霊的存在を信じ、この事件解決のためには稲荷に関して知ることも必要ではないかと学び始める。彩音の信念・思考に共鳴していく要素を持っている。彩音の協力者になっていく。

 先人の研究から稲荷の神の本質に迫るための情報が次々と提示されていく。そして、それらの説をどう読み解きさらに本質にせまるか、そのプロセスが実に興味深い。この辺りに関心と興味がなければ、読み進める気にならないかもしれない。
 こんな見解がまず提示されていく。
 1. 山上伊豆母が提示した「稲荷史六つの謎
  1)農耕龍雷神 2)穀霊白鳥 3)稲荷神と御霊会 4)稲と杉 5)男神か女神か
  6)キツネ神使
 2. 吉野裕子が提示した稲荷に関する5つの謎
  1)何故、穀物神と狐が結びつくのか。
  2)何故、2月初午に祀られるのか。
  3)何故、朱の鳥居なのか。 
  4)何故、油揚と小豆飯が供えられるのか。
  5)何故、穀物神が商売・鋳物金属神となるのか。
そして、これらの謎が様々に分析・検討され新たな見方を加えつつ、織り交ぜられていく。

 彩音は稲荷の神についての謎を解くために、福来陽一に東京に行き、火地晋の考えを聞き出して貰い、その協力を得て、神の謎解きを促進しようとする。火地晋が苦手の陽一だが、やはり頼りになるのは、この作家先生。東京・新宿の裏通りにある猫柳珈琲店が再び登場する。火地晋は例の如く、様々な文献、資史料を引用して、ばっさばっさと稲荷の神について、解き明かしていく。そして、思わぬ見解を披瀝していく。
 火地晋が福来陽一に展開する論が実におもしろく、楽しめる。なるほど、そんな見方や意味づけができるのか・・・・と。
 『類聚国史』、三井の越後屋と稲荷信仰、『今昔物語集』、『山城国風土記』逸文の『伊奈利の社』、『日本書紀』、『古今著聞集』、『本草和名』、『和名類聚抄』、『日本霊異記』、・・・・出てくる出てくる。興味津々! このあたり、けっこうマニアック! 好き嫌いが分かれるかもしれない。
 そして、火地は謡曲『小鍛治』を押さえなければ稲荷山の謎は解けないと論じていく。『稲荷大明神流記』に言及する。さらに謡曲『龍頭太夫』が出てくる。
 この福来陽一と火地晋はともに幽霊なのだから、この設定自体がおもしろいところ。福来陽一はヌリカベなのだ。

 福来陽一から火地の見解を待つ間にも、彩音は祈美子の協力を得て、稲荷山に登り、神を鎮めるための努力を始める。

 このストーリーは、稲荷の神の本質解明の論展開と、彩音が稲荷山に登り、磯笛と対峙する行動のプロセスがパラレルに進行していく構成になっている。この行動の中で、巳雨が危地に陥るが、最後の最後で巳雨の純真さが最大の戦力になるという次第。轟雷の中での彩音と巳雨の活躍をお楽しみに! 勿論、福来陽一の協力なしには、このストーリーが成り立たないのもおもしろいところである。伝奇的歴史ミステリーの楽しさが味わえる。
 少し見方を変えると、本書は伏見稲荷大社と稲荷山の案内記でもある。「稲荷山案内図」も53ページに掲載されている。これ1冊を持って、伏見稲荷大社と稲荷山を歴史探訪するのもおもしろいと思う。

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この作品を読み、関心を抱いた事項を少し検索してみた。一覧にしておきたい。
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徒然に読んできた作品のうち、このブログを書き始めた以降に印象記をまとめたものです。
こちらもお読みいただけるとうれしいかぎりです。(シリーズ作品の特定の巻だけの印象記も含みます。)

『神の時空 -かみのとき- 嚴島の烈風』 講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 三輪の山祇』 講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 貴船の沢鬼』 講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 倭の水霊』  講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 鎌倉の地龍』 講談社NOVELS
『七夕の雨闇 -毒草師-』  新潮社
『毒草師 パンドラの鳥籠』 朝日新聞出版
『鬼神伝 [龍の巻] 』 講談社NOVELS
『鬼神伝』 講談社NOVELS
『鬼神伝 鬼の巻』 講談社
『カンナ 出雲の顕在』 講談社NOVELS
『QED 伊勢の曙光』 講談社NOVELS

『神の時空 -かみのとき- 嚴島の烈風』 高田崇史  講談社NOVELS

2016-08-17 09:52:59 | レビュー
 神の時空シリーズの第5作である。舞台は奈良の三輪山・大神神社から瀬戸内海の神坐す島・宮島に移る。宮島の弥山山頂にある御山神社を始め嚴島神社を囲む諸神社の結界が破壊され続け、遂には嚴島神社が危機に遭遇するという事態に陥る。

 このシリーズは、鎌倉・鶴岡八幡宮で起こった怪事件に巻き込まれて、鎌倉・由比ケ浜女学院に通う辻曲摩季が命を落とした。この怪事件と摩季の死が発端である。辻曲家はもともと中伊豆の旧家で清和源氏の血を引いている。特に辻曲家の女性にはシャーマン的な能力をもつ者が多く、尼や巫女になる人が多かった。現在は家長の了を筆頭に、長女の彩音、三女の巳雨が家族として東京に住む。神道学科の大学院生である彩音と小学校5年生の巳雨はシャーマン的な素質を引いている。
 辻曲了たちは、辻曲家に伝わる秘術を執り行い、死んだ摩季の命をこの世に呼び戻そうと画策している。それは「高天原の秘儀」という術式であり、それを執行するには「十種(とくさ)の神宝(かんだから)」を必要とする。それは、天皇家の皇位継承に関係する「三種の神器」の元になっている神宝なのだ。辻曲家には、「生玉」「足玉」の2つの神宝がある。摩季を甦らせるには残りをできるだけ集めなければならない。それを集めるためのプロセスがこのシリーズとなっている。

 摩季が巻き込まれた怪事件とは、高村皇(すめらぎ)が鶴岡八幡宮の結界を破壊し、祀られている怨霊をこの世に解き放とうという隠謀を企てたものだった。彩音たちはこの高村皇の存在を知らぬまま、その部下たちの破壊行動に対決することが始まりだった。
 彩音は福来陽一(ヌリカベ)と巳雨とともに、怨霊を鎮めることに専念するというストーリーが展開していく。摩季を甦らせるために「十種の神宝」の残りを入手しようとする行動が、結果的に高村皇の隠謀を阻止する行動、対決となっていく。
 高村皇による怨霊を解き放つという隠謀は、鎌倉の鶴岡八幡宮を皮切りに、西へ移っていく。つまり、『鎌倉の地龍』(鎌倉・鶴岡八幡宮)→『倭の水霊』(名古屋・熱田神宮)→『貴船の沢鬼』(京都・貴船神社)→『三輪の山祇』(奈良・大神神社)というかたちに。そして、この『嚴島の烈風』に至る。
 今までは、彩音はヌリカベである福来陽一の協力を得て、巳雨の持つ能力の助けもあり、なんとか各地での怨霊の鎮めを果たしつつ、「十種の神宝」の収集を進めてきた。この嚴島の烈風では、彩音と陽一が広島に向かう。

 今回もこのストーリーの基本構図はほぼ同じである。異なるのは神々の坐す場所と登場人物である。
 ストーリーは広島市内にある安芸大学4年生の観音崎栞が、夏休みに宮島で観光旅館業を営む両親の実家に帰省する所から始まる。栞が帰省した頃から、宮島に異変が発生し始める。その異変を起こしていく原因が高村皇の隠謀である。
 つまり、高村皇は蝦蟇(ひきがえる)、蛟(みずち)と呼ばれる部下を使い、宮島の諸神社の結界を次々に破壊させ、嚴島神社の結界をも破壊して、宮島の怨霊を目覚めさせ解き放とうと画策する。今回は高村皇自身が宮島に行くという。これは新展開!
 亡くなった祖母が嚴島神社の巫女だったという観音崎栞は、祖母の影響もあり至って信仰心の深い女性である。宮島西高校3年生で幼なじみの河津創太と久しぶりに出会い、栞は帰省した手始めに嚴島神社を始め諸神社への参拝を一緒にすることにした。
 そんな矢先に、宮島には台風のような烈風が吹き荒れ、地震などの自然災害が起こり始める。神社参拝のつもりの栞が遭遇するのは、宮島内の神社が破壊された姿なのだ。そればかりでなく、殺人事件が発生する。最初の殺人事件は、神社の受付で働いていた柘植孝行59歳だった。被害者が発見されたのは清盛神社から続く西松原である。
 弥山上にある仁王門が壊され、御山神社の扉が破壊されている。清盛神社の屋根が強風で飛ばされ、大元神社、長濱神社も壊れる・・・と次々に破壊されていく。そして、そお破壊は大鳥居、灯籠、・・・・と急速に拡大進行していく。

 ストーリーの前半は、観音崎栞と河津創太を軸にして、神の坐す宮島の土地、神社の立地、宮島の人々と観光との関わりなどの実態が背景情報として書き込まれるのと併行し、高村皇の部下の引き起こす破壊が始まっていく。栞の信仰心や観光客に対する思い、栞と創太の関係、宮島で土産物店を経営し、観光案内所での精力的に働く金山武彦への思い、その関係などが書き込まれていく。
 福来陽一が辻曲家を訪れ、直前にテレビで嚴島神社に関するニュースが流れていたことを、了と彩音たちに知らせる。神の島宮島で死者が出て、また突然の烈風に襲われた嚴島神社の海上に浮かぶ大鳥居が大きく揺らぎ、社殿の屋根の一部が破壊されるなど、たいへんな様子を辻曲家の人々は知るのである。彩音は、凄いパワーと膨大なエネルギーが宮島を襲っている、その異常さを感知する。巳雨も「誰かが、物凄く起こっているみたいだよ」と感じとる。
 彩音と陽一は、急遽宮島へ直行することになる。そして、事態が展開し始める。

 ストーリー展開の基本構図を改めて箇条書きにしていこう。
1. 安芸の宮島の地理的外観、歴史、神社等のロケーションなどの基本背景情報がストーリーの始まりと絡めて語られる。この部分は観光ガイド情報的な副産物になる。
2. 高村皇の宮島の怨霊を目覚めさせる隠謀の始まり。神社の結界の破壊工作活動
3. 宮島の異変を知った彩音・陽一が現地に直行する。その行程が、宮島と嚴島神社の歴史、詳細情報をインップットする局面となる。
  それは、宮島の怨霊とは何かにアプローチするプロセスである。そして、宮島が果たしてきた歴史的役割と背景を知る。私を含む読者にとっては、宮島及び嚴島神社等についての詳細情報を学ぶ機会である。神道と歴史に関心を寄せる人には有益!小説を楽しみながらの学習となる。
4. 現地についた彩音と陽一の活躍が始まる。彩音による分析と謎解きのスタート。
  それは、観音崎栞と彩音の協力関係を築く形にに進展していく。
5. 彩音と陽一による詳細情報の整理分析を通しても、怨霊に関して解けない謎が残る。  異常事態を完全に解決するには、その謎を解明しなければ先に進めない。
  苦しいときの神頼みならぬ、「火地晋」頼みとなる。彼は東京の猫柳珈琲店の片隅に常住する老歴史作家の幽霊。博覧強記の幽霊である。火地晋の絵解きが実におもしろい。  瀬戸内海にある宮島に居る彩音と陽一がどのように火地晋の知識を引き出そうとするのかも、一つの読ませどころである、今までなら、陽一が火地の許に飛んで帰るというストーリーだったが、今回はそんなゆとりすらない切迫した状況下なのだから。
6. 彩音が高村皇に遭遇し、言葉を交わすシーンが織り込まれる。このシリーズでは、第5作にして初めて、高村皇という存在が、彩音や陽一に認識されることとなる。対決の局面転換の一歩が始まる。読者として、これは予想外の展開である。
7. 破壊活動に対する結界の修復と怨霊の封じ込め、鎮めを願う最後の試みの開始。
  このプロセスがやはりストーリーの読ませどころとなる。結界の破壊がどのように次々になされるか。その破壊が怨霊を解き放つための全体構図の中でどのような関係になっていくのか。その破壊に対する封じ込めのための対応策は?
8. 事件の終焉と謎解き。あそこに伏線が敷かれていたのか・・・という次第。

 最後にこの小説を読んだ印象としていくつか触れておきたい。
 大昔、若き頃宮島に渡り、嚴島神社を拝見したことがある。だが、いかに表層的なことしか知らずに、観光客として見てきたかを、今頃になって本書を楽しみながら再認識した。宮島と嚴島神社の歴史の深さに改めて興味を覚えた。そこが大きな収穫でもある。本書は薄っぺらな観光ガイド本をはるかに超えた、懐の深い宮島・嚴島神社ガイドブックにもなっている。
 著者の視点を通して、嚴島神社の結界の有り様の解説を興味深く受け止めた。
 嚴島神社そのものに関わる怨霊問題も興味深い。歴史の闇に閉ざされていた部分を垣間見るところもあって、裏付け資史料を探ってみたい箇所も出て来た。著者のフィクション部分か、事実かを・・・・。普通の歴史本には記述されてない秘話が各所に織り込まれ語られている。そこに関心を引かれる。
 明治維新に、時の政府が仏教・神道という宗教分野にどこまで介入したのかということに、改めて愕然とした。古来からの所作かと思い当たり前の如くに受け止めていた「二礼二拍手一礼」という参拝方式が、明治8年(1875)に統一的に決められたことだったという。政府の押し付けだったのだ。
 他にもいろいろ印象深いことがあるが、省略する。

 最後にエピローグに触れておこう。東京へ戻る手段を考えている彩音に巳雨の声が聞こえる。テレパシーの類いの交信なのだろう。巳雨が京都に着いたと伝えてきた。なぜ?
 巳雨は京都の伏見稲荷で何か変な事件が起こっているのだという。
 これは第6作が伏見稲荷が舞台となり怨霊問題が起こるという予告なのだろう。
 第6作、現時点では既に出版されている。

 もう一つ触れておかねばならないこと。それはこの嚴島神社の怨霊鎮めの事件は、摩季が4日も前に死んだという時点でのこととして語られていることである。彩音の立場に限定して眺めると、この事件に関与して宮島に行くのは死後5日目のその日一日の出来事である。了は、摩季の魂をこちらの世界に引き戻すのは初七日あたりまでが術式を執り行う力量として限界と考えていることにある。このシリーズ、伏見稲荷の事件を含めて、どのようにクライマックスを迎えることが構想されているのだろうか。楽しみである。

 ご一読ありがとうございます。


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本書に関連する関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

嚴島神社  公式サイト
嚴島神社 :ウィキペディア
宮島の歴史年表   :「Miyajima」(宮島観光情報)
広島の文化財 平家納経 :「広島県」
平家納経:やまと絵   :「日本の美術」
国宝「平家納経」慶長7年(1602)補作の表紙絵・見返絵
  連続講座「宗達を検証する」第3回資料   林 進氏  
宮島・弥山の歴史探訪  :「宮島ロープウエー」
弥山、「軌跡の空間」と「消えない霊火」  :「Travel.jp」
嚴島の戦い  :ウィキペディア
嚴島     :ウィキペディア
嚴島神社 管弦祭  :「瀬戸内和船工房」
宮島 管絃祭、厳島神社にて Miyajima Festive occasions "KANGENSAI"  :YouTube
御島巡式(おしまめぐりしき)と御鳥喰式(おとぐいしき) 「みせん 第60号」
宮島自然植物実験所ニュースレター  第22号 2014年4月

【速報】宝物名品展にて、国宝「平家納経」を公開!:「Miyajima」(宮島観光情報)

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徒然に読んできた作品のうち、このブログを書き始めた以降に印象記をまとめたものです。
こちらもお読みいただけるとうれしいかぎりです。(シリーズ作品の特定の巻だけの印象記も含みます。)

『神の時空 -かみのとき- 三輪の山祇』 講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 貴船の沢鬼』 講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 倭の水霊』  講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 鎌倉の地龍』 講談社NOVELS
『七夕の雨闇 -毒草師-』  新潮社
『毒草師 パンドラの鳥籠』 朝日新聞出版
『鬼神伝 [龍の巻] 』 講談社NOVELS
『鬼神伝』 講談社NOVELS
『鬼神伝 鬼の巻』 講談社
『カンナ 出雲の顕在』 講談社NOVELS
『QED 伊勢の曙光』 講談社NOVELS


『三人孫市』 谷津矢車  中央公論新社

2016-08-14 17:59:25 | レビュー
 この小説は紀州の紀ノ川沿いにある雑賀庄がどういう地域であり、雑賀庄がなぜ滅びたかの物語である。それを鈴木家と土橋家を中心に描いていく。雑賀庄は小さな庄に小領主がひしめき合っているという地域であり、庄全体を束ねる領主のような存在はない。小領主たちの話し合いで物事が決まる地域である。
 鈴木家の当主・佐大夫はかつては雑賀一の武勇で知られ、雑賀庄の勇者に与えられる名『雑賀孫市』を名乗ることができた強力武者だった。雑賀の小領主は自ら馬を駆り、飛び出し、剛刀を振り払い敵将の首をもぎ取ることが求められる姿であった。佐大夫は雑賀孫市を名乗り、小領主たちからも一目置かれる存在だった。その佐大夫には3人の息子が居た。肺を患う病弱な長男・義方、頑健な肉体に恵まれた次男・重秀、そして何を考えているのか兄弟でもわからない存在の三男・重朝である。このストーリーは、鈴木家の3人の息子たちの生き様を中心にして、雑賀庄の姿を描いていく。
 土橋家は根来衆との間に親戚関係を持つ小領主であり、当主の平次には一人娘・さやが居る。雑賀庄には、鴉様ー八咫烏の信仰が根強く、神武天皇東征に際し道案内した3本足の鴉が雑賀の里の祖先と信じているのである。そして、さやは鴉様に仕える巫となっている。鴉様の巫は、領主の娘の一人が一生を費やす役目なのである。さやは巫に決まったあとは何があっても極力人との関わりを避け、一生を鴉様に捧げることを運命づけられた。そのさやは巫に決まる前から鈴木家の3人の息子達とは幼馴染みで親しい間柄であった。鈴木家の3人の息子は、さやに対して三者三様の想いを抱いていたのである。彼らの心情がストーリーの最後まで影を投げかけていく。

 雑賀の夏祭りの入りの見せ場である巫の神楽舞の行われている場に、右目に眼帯をした老境に差しか掛かる年齢の部外者の男が闖入してきて、倒れ込むようにして巫のさやに抱きついたのである。義方が立ち上がった時には、はや重秀が老人に突進してさやから引きはがし、重朝が老人に馬乗りになり腕をひねり上げていた。
 その老人の名は刀月斎である。祭りの後で処断される立場だったのだが、己を生かしてくれれば、雑賀に力を与えようという。彼は鉄砲鍛冶師だったのである。義方は刀月斎が製造した鉄砲の威力を知り、彼を生かす約束をする。それは鉄砲集団・雑賀衆の始まりだった。戦国の世に、戦を請け負う傭われ集団として雑賀衆鉄砲集団が誕生することになる。ここから、このストーリーが大きく展開していく。

鉄砲を得たことで、病弱な義方が鈴木家を佐大夫から継承し、雑賀孫市と認められる道が開ける。義方は先頭に立ち敵に向かっていく力は無い。しかし、刀月斎により鉄砲という武器を得たことで、この鉄砲の用法と改良、雑賀衆の訓練方法、雑賀鉄砲集団の用兵術などの考案により雑賀衆鉄砲集団を形成・確立する要となり、小領主達に一目置かれるようになる。
 傭兵集団としての雑賀衆の先頭を率いるのは頑健で勇猛な重秀である。鉄砲の射撃能力は重朝が抜群の能力を発揮する。彼は孤高の射撃手として兄・重秀にある段階まではつき従っていく。戦場での合戦においては、重秀が雑賀孫市を名乗り、その勇名を敵味方双方に浸透していくのである。

 鉄砲鍛冶師である刀月斎が雑賀庄に腰を据えることにより、雑賀の鴉様信仰の地に「南無阿弥陀仏」の信仰、一向宗が広まる契機にもなった。真言密教の根来寺を中心とした僧兵集団、根来衆が織田方に加勢していくのに対して、雑賀衆は石山本願寺に加わっていく。鈴木重秀の率いる集団だけは当初、傭兵として三好党に味方するが、ある時点で三好党を裏切り、石山本願寺に加わっていく。そして、石山合戦において雑賀孫市の名前を敵味方に高めていく。
 
 この小説では、石山本願寺対織田信長の戦いにおいて、雑賀孫市として活躍する重秀を描く側面と、雑賀庄に居て戦況を把握分析し、雑賀庄の生き残りを主眼に考える雑賀孫市としての義方を描く側面が呼応していく。
 重秀の側面は、石山合戦と合戦終了後、顕如に付き従った行動を取る経緯を描く。信長を狙い、失敗した重秀は信長軍に追われる立場になったとき、偶然淺井家家臣・藤堂与右衞門高虎に助けられる。彼は斥候として戦場に来ていたのである。藤堂高虎は浅井家滅亡後、秀吉の家臣となっていく。そのため、いずれ対決する立場にもなっていく。
 義方の側面は、信長の要求「本願寺との手切れ」にどう対応し、雑賀庄がどのように生き残るのが得策かを描く。そのために佐大夫と義方が選択した決断と行動が、新たな問題の原因になっていく。

 石山合戦が終結した後、重秀は本願寺顕如の傍に留まるという選択をする。一方、重朝は出奔する。雑賀庄、鈴木家と縁を切った行動を選択するのである。その根底には父佐大夫と兄義方が決断実行した行為が怨念となった。
 信長の死後、秀吉方として雑賀衆の鉄砲傭兵が従軍し、それを「雑賀孫市」が率いているという噂が流れる。

 雑賀庄は、最後に秀吉との合戦という選択肢を選ぶ。なぜ、そうなったのかもまた読ませどころとなる。雑賀庄の滅亡である。
 
 このストーリーの展開において、もう一つおもしろいことは、刀月斎の存在である。見方を変えると、刀月斎が雑賀庄に持ち込んだ鉄砲という「力」が、雑賀庄をどう変えたかということでもある。刀月斎の望んだことは何だったのか。
 さらに、三人孫市に対して、刀月斎がそれぞれの個性に合わせた特別な鉄砲を拵えて、与えるという行動が描かれる。その特別な鉄砲がおもしろいところでもある。
 刀月斎は、重秀に『愛山護法・陸』と銘を付けた鉄砲を拵える。重朝には『愛山護法・空』を拵える。刀月斎が「愛山護法」と銘をつけたこと自体に、本山を愛して仏法を守るという思い入れが込められている。そして、最後に義方には、『愛山護法・海』である。これらの特別に工夫された鉄砲という構想がおもしろい。どんな鉄砲かは、本書を開けて楽しんで欲しい。

 そして、ストーリーがエンディングに近づくところで、次の文が記されている。
 ”立ち上がった重朝は何度も首を振って、地面に置いていた鉄砲を拾い上げた。重秀が使っていた『愛山護法・陸』。義方が使っていた『愛山護法・海』。そして己の愛銃、『愛山護法・空』。その三つをまとめて左肩に背負う。重朝の細身にはいささか重そうだ。「--行こう、与右衞門。もうここには用はない」「あ、ああ、そうだな」”と。

 佐大夫を含めると、雑賀孫市を4人登場させるという構想が実におもしろくて、楽しめる。そして、三人孫市の対極には、鴉様の巫となることを運命づけられた「さや」が居る。この小説、さやの存在が重みを持つ。

 ご一読ありがとうございます。
 
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本書と関連する事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。
雑賀孫市  :「コトバンク」
鈴木孫一  :ウィキペディア
雑賀城  :「城 近畿・中国編」
雑賀一向宗列名史料について 武内善信氏 本願寺史料研究所報 25号 2000.7.10
雑賀踊の成立
孫市まつり 公式サイト
雑賀衆 :ウィキペディア
紀州雑賀 孫市城 ホームページ
雑賀衆と雑賀孫市  :「雑賀衆 武将名鑑」
雑賀孫一の墓がある寺 蓮乗寺 :「トリップアドヴァイザー」

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この作家の作品は、以前に次の小説を読み、その印象記を載せています。
こちらも併せてお読みいただけるとうれしいです。

『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』 Gakken  

『水鏡推理Ⅱ インパクトファクター』  松岡圭祐  講談社

2016-08-12 13:32:45 | レビュー
 水鏡瑞希シリーズの第2作。水鏡瑞希は文部科学省内に設置された「研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォース」に所属する一般職事務官である。一介の事務官が、研究分野における不正行為・研究費の不正使用の問題事象そのものに関心をいだき、その問題に関与し、持ち前の推理力を発揮していくというストーリーである。研究分野の特定テーマが絡んでくるため、専門的用語なども頻出する。しかし、一般読者としては研究分野の詳細はさておき、その文脈を追っていくことで、大凡の問題事象について理解はできる。扱われている研究分野そのものの新規性や知識の一端に触れること自体にある種の新鮮さがあり、また関心を高める萌芽ともなる。その点は推理小説の読者にとって知的副産物となる。
 第1作に対し問題事象となる研究分野がガラリと変わり、これまたおもしろい。
 また、本書は日本における科学研究分野の抱える問題点を指摘しているという局面があり、この点も興味深いところである。

 水鏡が所属するタスクフォースは総合職・キャリアのメンバーが頻繁に人事異動で入れ替わるという事情を反映し、この第2作では、水鏡瑞希の上司が替わっている。50歳前後で肥満体、官僚に共通の知性はあるが融通の利かなさが明確に感じ取れる宗田勝巳と30歳前後、育ちの良さそうだが規律に逆らう度胸など感じられない野村颯太である。この二人が、瑞希の行動力に振り回されながらも、瑞希の推理力に一目置き、結果的に瑞希の行動をサポートしていく展開となる。そこに滑稽さを含みつつおもしろい関係が描かれる。

 さて、タイトルにある「インパクトファクター」がこの小説のキーワードとなっている。かつそこに科学研究の分野における問題点が潜んでもいる。それを浮彫にすることがサブテーマとなっているのかもしれない。
 この小説の仲では、瑞希はインパクトファクターという用語を知らず、野村颯太が瑞希に説明する。「文献引用影響率ともいってね。ある科学誌に掲載された論文が、特定の年または期間内に、どれくらいの頻度で引用されたかをしめす平均値のことだよ」(p121)と。そして、このインパクトファクターの合計値が大学や研究機関の人事において目安として使われ、研究者の出世に影響するという。また、一方で、雑誌に論文が掲載されたとしても、論文の内容が正しいという証明ではないという。「投稿された論文は。レフェリーと呼ばれる査読者らにより審議されます。疑問点があれば、書き手にそれが伝えられ、論文も掲載不可となります。しかし、流行の生物科学分野での新発見であれば、雑誌の売上げのためにも査読者の意見を差し置き、編集者が掲載を決めることがあります。」(p122)「雑誌に論文が掲載されたのち、世界じゅうの研究者が追試し、成果を得られなければ糾弾が始まります」(p122)という。インパクトファクターが科学者にとっての通知表的役割を果たすのだそうだ。研究費を確保するのにこのインパクトファクターが利用されることにもなっているのが実情だという。

 このストーリーは、FOV人工血管に関する論文が『ナノテクノロジー』誌に掲載されることになったことを契機に、生命科学人工臓器研究所の関係者が記者会見を開いたことに端を発する。「今回のFOV人工血管には、合成高分子材料に培養人工血管と遺伝子導入した人工血管を混合した、まったく新しい素材が用いられたとのことです。これにより、たとえ人工血管が切断されても、傷口が自発的に隙間なく吻合され再生し、血流が復活する自然治癒能力を有します」(p12)と発表する。
 そして、この画期的な新技術の発案者が、研究班リーダーとなった弱冠25歳の大学院生如月智美だという。一方、その論文の発表者は研究所副所長の滝本隆治の名義となっていて、発案者の如月智美、この研究所からとある国立大学に転出した志賀雄介、インドのマハラディーン大学のリティク・アヴァリ教授が共同執筆者となっているのである。
 
 研究班リーダーが如月智美という報道を見て、水鏡瑞希は違和感・不審感を感じた。如月智美は瑞希の小学生時代の同級生だったのである。瑞希と智美の成績は同じ位で、二人は学級の成績では下位に甘んじていた状態だった。そして瑞希はあるとき、智美のある行為を目撃して以来、智美との友人関係を避けるようになり、疎遠になっていったという記憶があったのである。
 いまや最先端の科学研究を担う立場にある如月智美の姿に瑞希は一種の衝撃を受けるとともに、智美に直接会ってみて、不審感を払拭するためにも、その後の智美の事を知り、発表された研究内容を尋ねてみようと決意する。自宅にある小学校卒業アルバムに記載の連絡先から辿り、智美とのコンタクトが取れる。話し合った結果、瑞希の両親が営業している店、つまり瑞希の実家で久しぶりに話をすることになる。

 その後、智美の代官山のマンションまでタクシーで瑞希が送っていくことになる。部屋には研究データもあるので、もう少し話したいから立ち寄ってほしいと言う智美の言葉に瑞希は立ち寄ることにした。智美の部屋に着くと、ドアが開いていて、部屋中が荒らされ、あらゆる扉や引き出しの類いが開けっぱなしになっていたのだ。智美は研究ノート一式がなくなっていると瑞希に告げる。これが悪いサイクルが回り出す始まりとなる。

 研究における不正行為・研究費の不正使用に関するタスクフォースの人間が、記者会見の直後、研究班リーダーの如月智美に会っていたこと自体が問題視される。研究所からは文科省に抗議が来る。
 『ナノテクノロジー』誌に論文が掲載されると、世界の研究者から論文に含まれる問題点の指摘が始まる。掲載画像に使い回しがあること。論文に書かれた方法で追試を行ってみても再現性がないことなど・・・。
 論文は捏造されたものではないかという方向に事態が進展する。その捏造の発端が発案者の如月智美なのか? 如月智美は犠牲者なのか? 論文の信憑性は・・・・。

 瑞希が智美に会うために、昼食時間にあることをきっっかけに宗田と野村を煙に巻く行動をとるエピソード、不正疑惑をもとに、宗田・野村・水鏡が人工血管総合研究センター実験開発棟を訪れた折りの研究資金問題での論議場面、民間企業の研究棟への稼働実験視察のエピソードなど、興味深くておもしろい話題、ストーリーに絡む問題点指摘を織り込みながらストーリーが進展する。
 この小説、STAP細胞で話題になった事件を発想の芽の一つにしているようだ。
 論文発表の手続きやシステムの問題点などをうまく指摘し、利用しながら、ストーリーは全く異なった次元に展開していくという面白さがある。マジックのトリックもこんな風に組み合わせていけるのかという意外な展開が落としどころと言える。

 けっこう楽しみながら読め、かつ科学研究分野における研究資金の問題点指摘は考える材料を提供している。単なるエンターテインメントに終わらせない指摘が読ませどころにもなっている。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる用語からの関連事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。
人工血管  :「バスキュラーアクセスセンター」
人工血管置換術  :「Japan Lifeline」
動脈瘤の外科手術 :「東京医科大学 心臓・血管病低侵襲治療センター」
カプサイシン  :ウィキペディア
カプサイシンに関する詳細情報  :「農林水産省」


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これまでに読み継いできた作品のリストです。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『パレイドリア・フェイス 水鏡推理』  講談社
松岡圭祐 読後印象記掲載リスト ver.1       2016.7.22


『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社

2016-08-09 21:26:47 | レビュー
 武田信玄と上杉謙信の宿命の対決、川中島合戦は「塩崎の対陣(1564年8月)」を含めると合計5回である。しかし、信玄と謙信が雌雄を決するが如き決戦を行ったのは永禄4年9月10日(1561年10月18日)の第4次合戦。本書はこの永禄4年の決戦に焦点を当てて、諸作家が異なる視点から川中島の決戦のある局面をある立場で切り取り作品を描きあげている。諸作家の競作という興味深さとともに、川中島での決戦を様々な視点で眺められる楽しさがある。一つの合戦という事象が大きな膨らみと奥行きを見せる。虚実の狭間に様々な仮説が成り立つという面白さと興味深さも実感できる。
 現存史料は様々な立場から記録が残されている。そこに相互に矛盾する記述が厳然とあるというのも事実のようである。ある観点から記述された資料の内容が必ずしも100%の事実とは限らない。
 フィクションとして短編小説に描き出された「決戦! 川中島」の局面は、史料を踏まえて各作家が想像力を創造力に高め紡ぎ出した虚実の狭間である。
 諸作家がどういう視点を設定して、「決戦! 川中島」というテーマに切り込んだのか。読後印象を少しまとめてみたい。本書目次の順に、印象その他をご紹介する。

< 五宝の矛 > 冲方 丁

 越後の守護代、長尾為景の子として生まれた虎千代は兄・晴景と21の開きがある。”戦鬼”とまで称された父の話の矛盾点をずけずけと指摘することから、母の虎御前(青岩院)が為景と話をし、虎千代を仏門に入れる。この幼少期から川中島での四度の戦いをする上杉謙信の姿までを描く。父の跡を継いだ兄の命で還俗し、元服後虎千代から平三景虎と名乗る。虎千代が師事した林泉寺の天室和尚は彼を「生まれながら虎のごとき子です」と評した。
 怜悧さ・賢明さ・粘り強さを持つが病気がちの兄を、少年時代から、守るべき者と捉えてきた景虎は、兄晴景とは以心伝心・阿吽の呼吸で互いに為すべき事を理解し合える。そして越後をまず統一していく。仏門に居た時の虎千代の為した鍛錬のための行動、兄から預かった栃尾城で初陣となる合戦を勝利に導いた将としての働きから始め、景虎の天性の能力とその生き様が描き込まれていく。景虎が兄を助ける立場から、越後の統一者になっていくプロセスが第一段階である。
 景虎の信念は「強者になって弱者に施す」にあったと著者はみる。それが越後統一をなした景虎を、関東管領上杉憲政(憲当)の要請に応じた関東への侵出と合戦、足利将軍の求めに応じた上洛、信濃を侵略する武田を滅ぼすという行動へと導いていく。
 仏教では仏・法・僧を三宝という。「それらは一体かつ不可分である。一つの宝を三つの側面から見たとき違う形に見えるようなもので、どれが欠けても成り立たない」(p30)強き者の四宝は富、兵、大義名分、信仰だという。景虎にとって重要なのは、四つの宝を磨くことである。この小説のタイトルは、謙信にとり、第5の宝が矛であることを意味する。矛とはここでは謙信の持つ戦略眼と謙信が磨き上げた配下の武装戦闘力・戦闘方法を意味するようだ。 
 上杉謙信の人生、生き様の大凡を理解しやすい作品に仕上がっている。
 また、競作集故に、他作家の短編を読み進んだ後に気づいた点が2つある。一つは「やがて勝機が訪れた。敵味方の諜者から、信玄の策が報されたのである」(p51)とさらりと書いていること。もう一つは、政虎が「妻女山ならびに尾根続きの西条山へと布陣させた」として記していることである。


< 啄木鳥(きつつき)> 佐藤巖太郎

 三河の国生まれの山本勘助の立場から川中島の決戦を眺める作品である。山本勘助は武田晴信(信玄)に見込まれて、今で言う軍師として仕えた。勘助は戦のたびに調略と戦術の策を献じる。諏訪の地を武田の直轄地にしたいという晴信の意図に対して、策を献じたのも勘助である。その策の一環として晴信が諏訪頼重の娘を側室とする。つまり、この娘が諏訪の御寮人さまと呼ばれるようになり、四郎勝頼が誕生する。
 信玄は、四郎勝頼の初陣に対し、勘助をその守役とする。勘助は四郎勝頼と話す機会が増え、あるとき「勘助。啄木鳥は、なぜ木をつつくのか知っておるか」と質問される。勘助の返事に対して、四郎勝頼は炭焼きの古老から聞いた話として、その理由を語る。
 妻女山を奇襲しそこを本陣とした上杉正虎(謙信)との川中島での決戦に対し、勘助が信玄に合戦の策を献じる。その策を勘助は啄木鳥の戦法と称した。勘助は四郎勝頼から聞いた啄木鳥の習性をヒントに策を立てたのである。信玄は本隊を八幡原に布陣する。
 勘助の策は敗れる。勘助自身もこの決戦で前線に出て首に矢を受け死亡する。なぜ勘助が敗れたのか。それはある一文が中に記された書状が上杉正虎(謙信)に密かに届けられていたことに発するのだった。
 このストーリー構成はなかなか想像力に富み、「裏を書く」というおもしろみに溢れている。単なるフィクションだとしても興味深い視点である。


< 捨て身の思慕 > 吉川永青

 上杉政虎の軍師として仕えてきた宇佐美定満の立場から捉えた川中島の決戦を描く。
 宇佐美定満は守護・上杉定実に仕え、主君の下命に従い、政虎の父・長尾為景を攻めるが敗北する。為景に従うようになったときに、軍師の立場を与えられた。だが、軍師としての功は、政虎に叛旗を翻した長尾政景を下した時が唯一くらいのもの。なぜなら、政虎自身が軍略に長けているので、軍師を必要としないのだから。といって、政虎は軍師として仕える宇佐美定満を疎んじたり軽んじている訳ではない。
 海津城を攻めず、妻女山に陣を構える策を献じる。諸将が定満の策を愚策と論じるのに対し、政虎は定満の策をとる。
 このストーリーは、定満の政虎に対する敬慕の思いを語る。一方、定満の真意を政虎は理解していたという訳である。妻女山に本陣を置いたことが吉なのか凶なのか。定満の心の思いを描く。「霧が出れば」という一点に掛かった戦術の展開経緯を描いていく。謙信と信玄の有名な対決場面をクライマックスにするところがうまい。
 だがこの小説、定満の死を描く章末のエピソードに狙いがあったのではと思わせる。その点が興味深い。


< 凡夫の瞳 > 矢野 隆

 武田典厩信繁の立場から、川中島八幡原での決戦を描く。
 妻女山山頂の上杉謙信の本陣に仕向けた別働隊が、上杉軍を追い立てることで、混乱した上杉軍が山を下りてくるのを迎え撃つために、武田軍は横に大きく布陣していた。だが、上杉軍は追い立てられる以前に、下山を済ませ、霧が晴れた時には正に目前に迫っていたのである。勘助の策は大きく齟齬を来す。
 「武田家臣団の強固な絆は、兄を中心とした重臣たちの心のつながりである。日頃からたがいを強固に想いあっている仲であるからこそ、こういう決死の場で常道を超えることができるのだ。兄が本陣を退いた・・・。家臣たちはどう動けばよいのか」本陣の信玄の後退が何を意味するか、何を考え、どう動くか。その心を知って重臣は判断し、動く。
 信繁は、兄信玄の家臣であることに徹するということを信条とした。信玄と比して己の力量を凡夫と見切り、兄信玄を支える役割に徹する。信繁は己の家臣を信じ、己の意図を悟れぬ者はいないと自負している。
 このストーリーは、信玄を救うために、敵上杉軍を己に引きつけ、別働隊の到着までの時を稼ぐ役割で猛然と突き進む信繁とその家臣を描く。意義ある自己犠牲が描かれて行く。戦いの渦中、まさに内側の目線からその戦いの描写がなされていておもしろい。
 名だたる武将の臨機応変の自己犠牲により、軍全体の活路が生まれるというストーリーだ。
 


< 影武者対影武者 > 乾 緑郎

 この作品だけが、「妻女山」と書かずに「西条山(さいじょうざん)」に上杉方の本陣が布かれたとする。調べてみると、『甲陽軍艦』には西条山として記され、江戸期の地図は概ね「西條山」「西条山」と記されているそうである。江戸中期に松代藩(真田家)は「妻女山を西條山と書すは誤也。山も異也」と指摘しているという。実際に西条山(西條山)の名がつく山が南に10kmほど離れたところにあるという。そこには当時の海津城将が甲斐に狼煙で急報する烽火台を設置していたそうである。また、斎場山という山もあるようだ。(ウィキペディアの「妻女山」より)
 つまり、『甲陽軍艦』や江戸期の地図の記載を採ったのだろう。だが、この作品は真田喜兵衛(後の昌幸)を中心人物にして川中島の決戦を描いて行く。松代藩が西条山を誤りと指摘することと合わせるとおもしろい。この作品、永禄4年9月10日の八幡原の武田方の本陣での信玄と謙信の対決は、どちらも実は影武者と影武者が刃を交えたのだというストーリーを展開していくのだから、発想としては実に愉快である。
 この当時、三男坊の真田喜兵衛は、武田の外様として真田家から甲府に出され、信玄の近習衆として仕えていた。15歳の喜兵衛にとりこの川中島の合戦が初陣だったとする。
 山本勘助が提案した「啄木鳥戦法」を喜兵衛の父真田一徳斎は下策と断じる。その策の気に入らぬところを、一徳斎は喜兵衛に答えさせるところから、ストーリーが始まる。一徳斎の提案は、甲府が戦に晒される可能性を考慮して否定され、勘助の策が取られる。
 実は、啄木鳥戦法には二の構えの策があったとする。ここで、八幡原の本陣には、信玄より10歳以上も離れているが信玄と瓜二つの武田信廉が影武者として出向き、指揮をとるという筋書である。極秘作戦が始まる。喜兵衛は信玄自身の傍らに付くことを命じられる。
父一徳斎は別働隊の指揮を任されることとなる。一方、喜兵衛は信玄に付いて動く。そして、上杉軍に攻められている本陣に対し海津城からの出陣の伝令役を命じられることになる。喜兵衛の目を通した川中島合戦が描かれていく。
 この小説。荒唐無稽のフィクションを描いたのだろうか・・・・。小説の末尾に、著者はちゃんとこのストーリーの構想のネタ本に触れている。まさに虚々実々で傑作だ。


< 甘粕の退き口 >  木下昌輝
 
 この作品は、長尾景虎(上杉謙信)の重臣の一人、甘粕近江守景持の立場と行動から川中島の決戦を描いて行く。
 ストーリーは越後長尾家の強兵たちを調練場で訓練している最中に、老従僕が主君の景虎が出奔(高野山での蟄居)したことを伝えに来るシーンから始まる。私心なき清らかな君主であるが、景虎の戦略には一貫性がないことである。側近の目から見た主君の姿と行動にどのように対処していくか。それがストーリーのテーマとなる。
 妻女山に本陣を置いた川中島の合戦では、側近である甘粕の苦悩を描きつつ、一方で政虎(謙信)の持つカリスマ性が描き込まれていく。
 妻女山での政虎と側近達との戦術上の駆け引きが描かれて行く。そして、甘粕は殿の役目を選択することになる。側近達の一段上を行く政虎の行動及び甘粕が殿を担った以降の決戦の動きが描き込まれていく。「毘」の旗とともに、「龍」と墨書された旗、「懸かり乱れ龍」と呼ばれる旗が振られたのである。甘粕が殿の役割をどう果たすかが読ませどころである。
 政虎は甘粕に言う。「甘粕、いい面構えになったな」「やっと一人前の乱世の男となったな。なにものも恐れぬ、不敵な面構えだぞ」と。
 一方、甘粕は思う。「きっと、わが主は乱世の勝者にはなれない。だが、それでもいいのではないか」と。


< うつけの影 > 宮本昌孝

 長尾景虎を描く短編から始まったこの競作集は、景虎の対極に居る武田信玄自身の立場からみた川中島の合戦をテーマにすることで、収まりが付く。
 武田信玄が悪夢にうなされている場面からストーリーが始まる。信玄は富士山浅間神社の御師を間諜として用い、織田信長や松平次郎三郎元康(後の家康)の情報を集め、戦国の世を把握していた実態が描かれる。つまり、桶狭間の戦いの情報を信玄はつぶさに掌握していたのだ。勿論、同時並行して、長尾景虎の動きに対する情報収集も怠りなくやっている。
 間諜を使っての情報収集をベースに武田を取り巻く周囲の情勢を描きながら、それが川中島の合戦に臨む信玄にどのように影響を与えているかという視点から、信玄を描き上げていく。桶狭間の戦いにより敗れた今川の実態が、信玄の心に海を見るという欲望をかき立てる。織田信長の行動結果と信長の信玄評が信玄の心に影をさすことになる。
 これもまた、川中島の決戦の持つ意味の理解という点で興味深い視点である。
 もう一つ、些末な事かもしれないが、作家により人名における表記の違いが競作集故に併存することに気づいた。宮本氏はこの短編で山本勘介という表記を使っている。一方、佐藤・矢野・乾・木下各氏は山本勘助と表記している。当時は多分漢字へのこだわりが少ないから、史料には幾通りかの表記が出ているのだろう。どの表記をとるかは作家の好みあるいはこだわりなのだろうか。

 川中島の決戦をいろいろな角度、視点から眺め、想像力を広げられ、一方で新たな疑問や関心が生まれるという意味で、競作集という試みはおもしろい。

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本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

川中島の戦い 長野市「信州・風林火山」特設サイト
妻女山  :ウィキペディア
武田信玄 :「コトバンク」
上杉謙信-米沢藩の祖 戦国の名将- :「武士の時代」
山本勘助系図と長岡 :「船岡山慈眼寺」
宇佐美氏  :「戦国大名探究」
武田典厩信繁の墓  :「川中島の戦い」
甘粕景持 :ウィキペディア
甘粕景持 :「戦国武将の名言から学ぶビジネスマンの生き方」
真田昌幸 :ウィキペディア
信濃 松代城 :「お城の旅日記」

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このシリーズでは、次のものを既に読んでいます。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室  講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社

『新参者』 東野圭吾  講談社

2016-08-04 22:26:47 | レビュー
 『麒麟の翼』という作品を読了し、その読後印象をまとめて載せた。その後、この小説が先に出版されていたことを知った。この本を直ぐに読んでみたい思ったのは、『麒麟の翼』の中で具体的に触れられなかった加賀刑事と彼の父親の関係について、具体的にこちらの小説で触れられているのだろうか、という関心からだった。この点に関しては全く触れられていない結果となった。加賀刑事シリーズが続くなら、今後何らかの形ででてくるのかもしれない。

 それはさておき、この小説はかつて警視庁捜査一課に所属していた加賀恭一郎刑事が、日本橋署に異動となる。日本橋署の新参者として所管区域で発生した殺人事件の捜査に取り組むというものである。
 この小説は数章を読み始めてわかったのだが、興味深い二重構造の構成になっている。日本橋署の管轄内で発生したある殺人事件の聞き込み捜査を加賀刑事が手掛けていく。聞き込み捜査の常套手段として日本橋界隈の商店街の店々を訪れて丹念に聞き込んでいくことになる。各章はその聞き込み先となっている。
 加賀刑事は日本橋署の新参者であり、管内の土地鑑を身につけつつ、店々を聞き込みでまわる。どの家庭もそうだが、一歩中に入るとどの家庭にもなにがしか問題、トラブルを抱えているものである。それは刑事事件になる類いの問題ではなく、ささやかな問題だ。しかしある面ではその家庭に取って深刻な局面をもつという類いの問題・・・。ここでは、それが日本橋署管内の各商店が抱えるここの内輪の問題という訳である。事件の捜査として商店街のお店や事件に関連する対象に対する聞き込みに幾度も訪れる加賀刑事が、事件捜査の職務の傍らで、そのお店などの抱える問題解決の手助けを重ねていくという展開になる。各章は個別に独立した短編とみなすことができる。それら短編に横串をさすのが聞き込み捜査を続けている殺人事件という次第である。そして、個別のお店などでの聞き込み情報の断片がジグソーパズルのように組み合わさせられていき、本来加賀が担当する事件解決のための基礎情報となる。本書は興味深い構成になっている。

 それでは簡単にその構成と要点、感想をご紹介していこう。各章は小説の見出しではなく、加賀刑事が聞き込みをする先、主にお店の名称として記す。
 
第1章 煎餅屋『あまから』 所在地:都営浅草線の人形町駅近くの甘酒横丁
 加賀は新都生命の田倉慎一の足取り捜査で、聞き込みに行く。この章で事件発生の場所が小伝馬町で独り暮らしの女性だとわかる。田倉が被害者宅に立ち寄っている事実も。
 ここでのエピソードは、お店の主の母の病気診断書に関わり、病名を知らせないためのささやかな工作に絡むもの。その解明が、田倉のアリバイ証明にも連動する。日頃の信頼関係のほほえましさが描き込まれる。田倉に関わる空白の30分が解明される。

第2章 料亭『まつ矢』
 加賀は料亭の小僧・修平に聞き込みに行く。理由は修平が餡入り7個、餡なし3個の10個の人形焼を買ったこととにあった。修平は刑事には明かさなかったが、それは店の主人・泰治に頼まれた買い物だった。被害者の部屋には人形焼が残っていたという。
 亭主の浮気にお灸をすえようとちょっとした警告を込めた悪戯を女主人の頼子が行うというエピソード。泰治の事を白状しなかったことで、修平の株が上がることになる。人形焼の出所も判明する。
 現場の遺留品の一つ一つの存在理由を克明に洗い上げるという地道な捜査のエピソードとも言える小品である。

第3章 瀬戸物屋『柳沢商店』 
 柳沢商店は嫁と姑が戦争状態にある。原因は嫁の麻紀が大の『キティちゃん』ファンで関連グッズを集めている。キティちゃんタオルを姑が切って雑巾を縫ってしまったのだ。姑の鈴江に罪の意識は全くない。謝罪は一切しない。間に入った夫はお手上げ状態。
 加賀刑事が聞き込みに来る。ここで被害者がミツイミネコとわかる。被害者はこの店に、お目当ての箸の夫婦セットを買いに来たのだが、品切れだったという。
 刑事が帰った後、柳沢商店では、近くの江戸時代から続く刃物専門店『きさみや』で三井峯子がキッチンバサミを買っていたことが話題となる。鈴江がその店の主人から聞いた話だという。
 ハサミが引き起こすエピソードが嫁・姑の微妙な思いやりに絡んでくるという面白さ。 キッチンバサミという遺留品の意図が解明される。まさに消去法の地道な捜査を反面で描いている。

第4章 時計屋『寺田時計店』 所在地:小舟町
 加賀は時計屋の主人・寺田玄一に三井峯子と出会った時間、場所の聞き込みに来る。犬のドン吉の散歩時間で出かけた折りに挨拶程度の顔見知りになっていたようなのだ。加賀の質問した日時頃に、浜町公園で挨拶を交わしたと玄一は答える。
 加賀は3日連続で時計屋を訪ね、この日主人が留守のため、弟子の米岡がドン吉を散歩に連れて行くのに同行する。人形町通りを渡ったところドン吉が止まり、きょろきょろと迷う素振りをした。米岡は「あれ、どうしたのかな」とつぶやくが、いつものコースを散歩させる。
 三井峯子はパソコンに「いつもの広場で子犬の頭を撫でていたら、今日も小舟町の時計屋さんと会いました。」と書き込んでいたのだ。
 寺田時計店の内輪の問題を加賀は弟子から聞く。高校を卒業した娘が親の反対を押し切り、2歳年上の幼馴染みと恋愛結婚してしまったことにある。両国に住んでいることはわかっている。玄一は娘を勘当扱いにしているという。
 加賀は玄一のささやかな秘密に気づく。それをそっと玄一の妻に教えてやるが、その秘密をそのままにしておくことを助言する。それは娘に対する玄一の思いを端的に示すものだから。時計屋の親子問題もほほえましく互いの秘密の保持で収まることに。
 実はこのエピソードの裏に、事件解決に繋がる時間と場所と意図の一コマがぴたりと埋め込まれることになる。章を追う毎に消去法の成果と空白部分の穴埋め、理由の解明がさりげなく進展するというおもしろさがある。
 この章にちょっとしたオマケが付けてある。最初の方で各面に文字盤がある三角柱の時計のことが書き込まれている。3つの文字盤の針が一緒に動くという。止まるときも一緒。加賀は不思議に思う。その種明かしがこの章の末尾に記されているのである。

第5章 洋菓子屋『クアトロ』 所在地:大伝馬町の交差点の近く
 この章で殺人事件の被害者三井峯子の家族関係が点描される。峯子は熟年離婚。息子の弘樹は家を出て、音信不通の状態。劇団員となっている。青山亜美というデザイナー専門学校に通う女性の部屋に転がり込み同棲している。そこは浅草橋にある。亜美は掘留町にある喫茶店『黒茶屋』でアルバイトをしている。亜美は身籠もっていた。
 勿論、加賀は弘樹と亜美にも聞き込みに行く。『黒茶屋』に出向き、この店に三井峯子が来たことがあるかという質問もした。店のマスターも見覚えがないという。
 洋菓子屋『クワトロ』には、三井峯子は何度も訪れていたのだ。加賀は、小伝馬町に引っ越した三井峯子がこの店を訪れることで、黙って見守る歓びに浸っていたかもしれないと推測する。そして、弘樹にこの店に行けばわかると繰り返す。そこには三井峯子が錯覚したことから自らの心の中に育んだ至福の時間が刻まれた場所となったのだ。
 結果的に、峯子に優しくしてもらった『クアトロ』の店員は、それが何故だったかの疑問が解ける。弘樹に母親の思いが伝わることにもなる。

第6章 翻訳家の友
 この章は日本橋付近とは関係がない。三井峯子が熟年離婚をし、若いときに目指したかった翻訳家の世界に足を踏み入れるトリガーを与えてくれた峯子の友人・吉岡多美子の話である。多美子は翻訳家。峯子に翻訳の仕事の世話をする形でサポートする。峯子が殺されているのを発見したのは、峯子のマンションを訪れた多美子だったのだ。
 多美子は峯子に会う約束の時間を1時間後にずらせた。そのずらせた時間帯に、峯子が殺害されたのだ。また、峯子に対し翻訳家として独り立ちできるまで面倒を見ると約束していたのだが、映像クリエイターのコウジ・タチバナにプロポーズされ、ロンドンに一緒に行ってほしいと望まれていたのだ。
 多美子は、約束を破る形になること、また、待ち合わせの時間をずらせたことで、峯子が被害者となったことに、ショックを受ける。責任を感じ、心を病み始める。
 加賀は多美子とタチバナにも勿論聞き込み捜査をした。その加賀は、多美子を『柳沢商店』に連れて行く。それには理由があった。加賀は多美子の心のケアまで行う。
 こんなキャラクターの刑事がいるだろうか。実に楽しくなる。

第7章 清掃屋の社長
 三井峯子が熟年離婚した相手、清瀬直弘に焦点があたる章である。
 清瀬は清掃会社を30歳そこそこで起業し、70人規模の会社まで成長させてきた社長である。今、経営の採算性を考えると、50人規模にすることを迫られている状況である。起業時点から経理を見てきた税理士事務所の岸田要作がそう説明する。
 一方、清瀬は行きつけのクラブのホステスをしていた女性を最近雇い入れていて、彼女に手作りのの銀の指輪や小さなダイヤのついたネックレスを贈ったりしているという。
 そんな背景の中で、最近被害者の三井峯子は、自ら離婚を言い出していた立場だったが、改めて財産分与の額について、清瀬直弘と交渉をしたいと考えていたようなのだ。
 この章は、清瀬直弘と三井峯子の過去に目を向け家族関係を明らかにしていく。
 ここである種の誤解により、峯子が被害者となる伏線が生み出されることになる。

第8章 民芸品店『ほおづき屋』 所在地:人形町
 日本の伝統工芸品を扱い、オリジナル商品も作っている店である。加賀はこの店で独楽を買った客について聞き込みを行い、自分も独楽を一つ買って帰る。6月12日に1つ売れているが、その時は店主ではなくてバイトの女の子が店番をしていたという。翌日その子が来る予定だと聞き、加賀は翌日も『ほおづき屋』を訪れる。バイトの子に質問をした後、12日以降に加賀が購入した以外は売れていない聞き、店頭の独楽をすべて加賀が購入するという。店主の質問に加賀は答える。「いえ、こちらの独楽は関係ありません。関係ない、ということが重要なんです」と。加賀が独楽を買い占めたのには深い意味があった。 この章で、被害者は紐で絞殺されていたことが明らかになる。だがその紐は鑑定の結果、ほおづき屋の独楽に使われている組紐とは別の種類のものと判明していた。それも、加賀が独楽を買い占める以前に既に解っていたことだった。
 また、加賀は人形町通りに面した玩具屋にも、木製の独楽を売っているのを見つけていた。逆に『ほおづき屋』でも木製の独楽が売られていることを、この玩具屋の店主から聞いていたのである。
 『ほおづき屋』には、内輪の問題はなかった。玩具屋の方には、万引きに遭ったという問題は起こっていた。
 事件の関係者は全て聞き込み対象になる。清瀬直弘の会社を担当する税理士の岸田要作については、その息子克哉の家にも要作が訪ねていることから、加賀は聞き込みを行っていた。まさにしらみつぶしに聞き込みが行われるのである。

第9章 日本橋の刑事
 最終章「日本橋の刑事」はこの小説の見出しそのままである。
 加賀が日本橋署の管轄区域で聞き込み捜査を丹念に行って来たプロセスが、この章で殺人事件の視点から状況の整理がなされていく。そして三井峯子が殺害された理由と状況が明らかになる。勿論犯人が確定する。
 加賀は警視庁捜査一課の上杉刑事と組んでいた。そして、犯人の自供を引き出せるのは上杉しかいないと取調を讓るのだ。それはなぜか? この小説、最後の最後まで、加賀の正確な読みが貫き通される。最後の落とし所が後味の良い作品でもある。

 最後に、加賀刑事の信条を書き込んだ箇所を引用しておこう。
*捜査もしてますよ、もちろん。でも、刑事の仕事はそれだけじゃない。事件によって心が傷つけられた人がいるのなら、その人だって被害者だ。そいう被害者を救う手だてを探しだすのも、刑事の役目です。   p220
*俺はね、この仕事をしていて、いつも思うことがあるんです。人殺しなんていう残忍な事件が起きた以上は、犯人を捕まえるだけじゃなく、どうしてそんなことがおきたのかってことを徹底的に追及する必要があるってね。だってそれを突き止めておかなきゃ、またどこかで同じ過ちが繰り返される。その真相から学ぶべきことはたくさんあるはずです。 p339

 ご一読ありがとうございます。

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この小説の背景情報をネット検索してみた。一覧にしておきたい。フィクションの背景にあるリアルな情報事例である。
人形町界隈の地図(mapion)
人形町商店街お散歩マップ  :「人形町」
甘酒横丁の由来  :「NISSHINBO」
甘酒横丁     :「NISSHINBO」
甘酒横丁界隈を歩く  :「あの町この街歩こうよ」
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水天宮(東京都中央区)  :ウィキペディア
浜町公園  :「公園へ行こう」
浜町公園  :「人形町ぐるりお散歩ガイド」

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ふと手に取った作品から私の読書領域の対象に加わってきました。
次の本をまずは読み継いできました。お読みいただけるとうれしいです。

『麒麟の翼』  講談社
『プラチナデータ』  幻冬舎
『マスカレード・ホテル』 集英社