遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『剣樹抄』   冲方 丁   文藝春秋

2020-08-31 10:50:50 | レビュー
 剣樹って何? タイトルに惹かれて読んで見た。
 地獄絵図の一部としてその類いの絵を見たことがあった。だが、それが「四門地獄」の一つであるということまでは知らなかった。「刃の葉を持つ樹に貫かれる鋒刃増」(p232)という地獄だという。この「刃を持つ樹」を剣葉林、あるいは剣樹というそうである。再認識することになった。本書のタイトルはここに由来する。
 本書は6編の短編連作集である。それぞれが読み切り完結しながら、全体を通じてひとつのストーリーになっている。タイトルにある通り、殺人剣がふるわれる現世の地獄絵が短編形式で様々に繰り返されるストーリーの連なり故に「剣樹」+「抄」ということか・・・・と理解した。
 「オール讀物」の2017年12月号から2019年3・4月合併号の期間に3ヵ月間隔で発表された短編をまとめて、2019年7月に単行本が刊行された。

 本書全体を貫くストーリーは、江戸において放火・強盗・殺人を繰り広げる犯人集団の解明と捕縛を描く。その捜査が紆余曲折を経ながら進展するプロセスにおいて、個々の局面がそれぞれ独立した読み切り短編に仕上げられ、全体として連鎖していく形式になっている。第6編で一応一つの区切りがついている。だが、完全に完結したとも言いがたい面があり、本書のパート2がいずれ出るのでは・・・・と期待したくなる。

 読み切り完結でそれが連鎖していくストーリーであるので、登場する人物は一貫している。一番中心となるのが、表紙絵に描かれた六維了助(むいりょうすけ)である。無宿者の少年で、己がサバイバルする過程で独自の棒振り技を編み出した。野犬と対峙し生き残るために工夫した技術なのだ。表紙の少年が棒ではなく木剣を持っているのは理由がある。それも短編で語られる。了助はあることが契機となり、「拾人衆」に引き入れられていく。
 了助が「拾人衆」に加わることから関係していくのが水戸光圀、水戸藩の世子である。彼は父・頼房の命により、父の務めの代理として、「拾人衆」の目付け役を命じられる。この全体のストーリーの中で、了助の背後に光圀ありという感じで登場する。だが、光圀は了助とは己の過去の行状の結果深い因縁で結ばれていたことを知り愕然とする。その因縁をどのように転換していくかが光圀の内心の課題になっていく。
 具体的に幕府として犯人集団の捜査を最前線のリーダーとして実行するのは中山勘解由。将軍の護衛や江戸城内外の警護にあたる先手組の組頭である。彼は光圀と連携し、そのの指示を受けつつ捜査に邁進する。
 「拾人衆」とはそれぞれの特技を活かして密偵の機能を果たす少年少女たちである。彼らは品川・東海寺を拠点にしている。というのは、東海寺の僧・罔両子が拾人衆の養育を引き受けているからである。「拾人衆」という密偵機能を作りあげた背景に老中の一人、阿部豊後守忠秋がいる。彼は江戸で発生した孤児の保護に熱心な老中として知られている。拾人衆は捨て子で幕府に拾われた者の中で特段の技能者たちをさす。阿部豊後守忠秋は江戸幕府幕閣の一人として、江戸市中で発生した一連の放火・殺人・強盗の犯人捜査側の頂点に立っている。
 六維了助、水戸光圀を中軸にしつつ、中山勘解由と阿部豊後守が主な登場人物となり、そこに罔両子と拾人衆が加わる。拾人衆という集合体はかなりの人数が居るようだが、このストーリーで主に登場するのは次の3人の少年少女たちである。みざるの巳助、いわざるの鳩、きかざるの亀一。13,4歳の巳助は一瞬でとらえたものを何でもすばやい筆さばきで描き出す。14,5歳と見える少女の鳩はひとたび聞いた声を即座に真似ることができる。盲目の亀一は聴力がするどく、聞き逃さない。
 これで江戸の治安を乱す犯人群を捜査する側の主な登場人物がそろった。

 それぞれの短編を順番にご紹介していこう。

 <深川の鬼河童>
 浅草寺のお堂の縁の下で眠る4歳のりょうすけは、生まれた日に母が死に無宿人の父に育てられる。だがこの夜、旗本奴に縁の下から引きずりだされ、彼らに斬殺された。りょうすけは父から同じ無宿人の三吉に託される。三吉が育ての親となる。だが歳月を経てある年の江戸の大火に巻き込まれ三吉が亡くなる。その後のりょうすけは芥運びなどをしながら暮らしを立て、独自の棒振り技を身につける。
 一方、光圀は父の命により明暦3年正月に拾人衆の目付役になるという経緯が語られる。
 父頼房から客人中山勘解由に引き合わされ、二人が品川の東海寺に赴くところから始まっていく。それが最初の事件につながる。湯島近辺で私塾を開く僧形の軍学者・壮玄烽士が火遁の術を得意とする秋山に正雪絵図を渡したという。その絵図は江戸の火付けと関係しているようなのだ。中山と光圀が秋山を追尾する途中で、13,4歳くらいの毬栗頭の少年が秋山の面前で言う。「お前は火つけの人殺しだ」と。刀を抜いた秋山に少年は棒振りの技で応じ、秋山をやっつけてしまう。これが、六維了助と光圀の出会いとなる。了助がなぜ「深川の鬼河童」と称されるかもその理由が語られる。表紙に描かれた黒い羽織を着ていることも・・・・。
 秋山を倒したことが切っ掛けで、了助は品川の東海寺に連れていかれることになる。この全体のストーリーの出だしとしては、おもしろい。主な登場人物がこの短編に出揃う。

 <らかんさん>
 拾人衆の一人である亥太郎がむごたらし他殺死体で発見される。亥太郎は舌を噛みきっていたという。増上寺付近の呉服屋「芝田屋」を襲い、亭主と店の者二人を殺し強盗をしたあげくに逃走の折に放火をした盗賊集団の頭を亥太郎は追跡していた。その頭は「錦氷ノ介(にしきひのすけ)」という。総髪の美男で隻腕、女ものの着物を羽織る傾奇者である。
 芝田屋が襲われた時、客となっていた仏師が奮戦したお陰で妻や他の者たちの命が助かった。仏師は吽慶と称するが、元は丹波福知山藩の剣術指南役だったという。
 このストーリーは、吽慶と錦氷ノ介との間に秘められた因縁を明らかにしていく。吽慶は強盗一味が逃げる折、錦氷ノ介に向かい「九郎」と呼んだと生き残った女中は証言した。
 吽慶は東海寺に逗留し、羅漢像を彫る。そのらかんさんの顔を見て了助は父の顔に似ていると思う。己の怨みしか考えられなくなった吽慶はその羅漢像を焼こうとする。それを思いとどまらせることになる。
 東海寺に6人の賊が侵入してくる。その中に錦氷ノ介がいた。その結果、吽慶と錦氷ノ介の対決へと事態が進展していく。
 ここでは丹波福知山藩の愚かな藩主の歪みが生み出した悲劇の顛末が描き出されていく。
 本書の表紙に描かれた木剣は、了助が吽慶から引き継いだものである。了助は自作のでかい棒からこの木剣での自己鍛錬に切り替えていくことになる。
 
 <丹前風呂>
 江戸時代、遊郭としては吉原が存在したが、江戸市中には湯女を置く風呂屋が数多くあった。中山勘解由は、小普請の渡辺忠四郎の所在を掴むため、紀伊国屋風呂の湯女で大変な売れっ子の勝山を見張っていた。吉祥寺の火事の折、その最中に渡辺忠四郎が小十人の本間佐兵衛と斬り合いて、本間に傷を負わせ蓄電していることによる。渡辺にはお城の宝物を盗んだ疑いが掛けられていたという。また、風呂屋に諜者として配されていたきかずの亀一は、勝山と旗本奴の三浦との会話で三浦が、渡辺が正雪絵図を持っていたと話しているのを聞き取っていたのだった。そこからストーリーが展開していく。

 この短編、いくつかの話が組み合わされおもしろい展開となっている。
*丹前風呂という言葉の由来。
*江戸で人気の出た湯女勝山が登場する。勝山は勝山髷や丹前と呼ばれるスタイルを流行させ、後に吉原の花魁となる人。著者は光圀に「並の男より、任侠の風格がある。まさに女伊達だ」(p140)と称賛させている。
*勝山をめぐる旗本奴と町奴の対立。その関連で、幡随院長兵衛異聞が絡められる。
 幡随院長兵衛は旗本奴の水野成之に殺されたのではなかったという展開である。
*旗本奴の三浦と町奴の頭領・垣根の対立。この垣根には別の顔があった。
 
 このストーリーに了助はどう関係するのか。ストーリーの冒頭では、光圀の中屋敷で剣術指南の永山周三郎に引き合わされ、永山から摺り足を覚えよと助言される。それが棒振り技を磨くことに相乗効果を生み始める。光圀は了助の技にくじり剣法と名をつけた。
 丹前風呂に潜り込んでの諜者の一人として了助も働くが、思わぬ失敗をしでかす。だがその結果、あることに気づくという展開になる。
 
 <勧進相撲>
 東海寺の池のほとりで、了助が宇都宮藩士の明石志賀之助に声をかけられたところから始まる。彼は相撲の師・須磨浦林右衛門の供として来ていた。
 林右衛門は今は伊兵衛と名乗る幡随院長兵衛と二人で光圀と中山の前に相談に来たのだ。浅草で先日6,7人で土蔵破りをし付け火をした集団の中に、剛力自慢の鎌田又八が加わっていたという話を長兵衛の元子分が聞き付けたという。林右衛門は桑嶋富五郎を頭とする浪人相撲の連中が又八と話をさせてくれないという。
 寺社の勧進が、江戸相撲を甦らせる好機となるのに、相撲取りが火付けに加わっていたとなれば、大変なことになると心配しているのだ。中山はこの件を預かることに。
 近々、渋谷村で勧進相撲があり、桑島と鎌田の二人が寄方に名を連ねているという。
 勧進相撲の前に、光圀は了助を連れ、林右衛門の道場で相撲を習うと意欲を見せる。
 一方、亀一は溜まり場だという店に按摩として潜り込み、また巳助は出入りする者の人相書づくりを中山から指示される。亀一は、桑島と又八の会話から、リョウカボウという名を聞き出した。罔両子は「両火房」のエピソードを光圀に語る。
 渋谷村の金王八幡宮での勧進相撲当日に、次々と行う又八の異様な相撲ぶりが描かれて行く。最後は明石が勝利する。この相撲ぶりの描写が興味深い。当時の相撲は今の相撲とは大きく異なっていたようである。
 相撲が終わった後に、又八が意外な行動を取り始める。そして、又八が土蔵破りの一味に加わった真意を告白していく。この場面転換が読ませどころとなっている。
 又八が己の始末は己でやりますという言に対して、了助が己の体験と思いを語る。それを見ていた光圀は慚愧の念に堪えられなくなる。

 <天姿婉順>
 了助は真面目に寺での務めをこなしつつ、武芸や学問にも興味を持ち始め、漢字を覚える行動を始める。坊主になる気がない了助は、できれば寺から抜け出たい気がある。罔両子から廻国巡礼の手形があれば、無宿人とみられずどこへでも行けると告げられる。欲しければ罔両子の出す禅問答風の課題に答えを見つけよと言われる。イントロがおもしろい。本書タイトルの由来は、この短編中に出てくる。
 さてこのストーリーは、前短編で捕縛された両火房の取り調べについてである。中山による過酷な拷問にも両火房は屈することない。そこで、光圀のもとで直接取り調べるという方向に動き出す。だが、この時それに横槍を入れるかのごとく問題が発生してくる。つまり主に2つのテーマが描かれて行く。
 一つは、上野から千住界隈にかけて3件の辻斬り事件が起こる。斬られた者の骸の傍に残された物の中に鞘があり、三つの品の拵えから、下手人は水戸家の剣術指南・永山の刀とわかり、永山に下手人の疑いが掛かった。だが、その刀は先の大火において、光圀の命、できるだけ荷や家財を捨てて避難せよとの言に従い、父親の形見である刀を敢えて棄てたという。なぜか、その刀が使われたのだ。
 永山が下手人ではないことをどのようにして証明ができるのか。これを解明する男が現れる。会津公、保科肥後守正之のもとに寄寓する龍造寺家の血筋の伯庵だった。下手人の特徴も伯庵は明瞭に指摘した。この解明の方法は当時としては斬新奇抜だっただろう。
 一つ目の難題が解決したことにより、光圀は両火房を水戸家中屋敷の座敷牢に移す。
 両火房の取り調べをどのように行うか。読者にとっては興味津々となる。何と、光圀の妻である泰姫が光圀に言った。「両火房という方に、会わせてください。」「お話を聞きたいのです」と。この後、ストーリーがどのように展開するかが読ませどころになる。
 このストーリーでは、伯庵が「天姿婉順」という言葉をぽつりと呟いたという描写になっている。調べて見ると、泰姫は通称であり、関白左大臣・近衛信尋の娘で、諱を「尋子(ちかこ)と命名されたという。儒学者の辻了的がその容姿について「天姿婉順」と評したという。(ウィキペディアより)
 この二つのテーマの間に中屋敷に居る了助を水戸家の人々との関わりの中での出来事を描いて行く。

 <骨喰藤四郎>
 江戸で滅多斬りが次々に同一犯人により行われていた。中山が水戸家中屋敷の光圀に報告に行った時点で11人目の届け出があった。下手人は錦氷ノ介のようである。その現場に伯庵が出向いているという。光圀は現場に出向く。その際了助を連れていく。
 目黒村の現場では陣幕を張り、南町奉行の神尾元勝がいて、伯庵が検視していた。僧が斬殺され、バラバラに断片化した肉体がなんとなく元の位置に適当に並べられている状態だった。その口には何かが詰め込まれていた。光圀はその口を脇差しにてこじ開けると、丸められた二重の大きな紙が出て来た。それは正雪絵図だった。その絵図の裏には歌が一首記され、「極楽組の記」と記されていた。伯庵はその歌の絵解きをした。その絵解きをヒントにして情報を収集した後、光圀は神田紺屋町の下坂市之丞こと”三代康嗣”の屋敷を訪れる。そこで得た情報をもとに、光圀は極楽組を捕らえるために両火房を解き放ち協力させる手段を取る。極楽組の根城を突き止めて捕縛する作戦が開始される。その戦いは凄惨なものになっていく。
 了助は名刀骨喰藤四郎を手にした錦氷ノ介と対峙し言葉を交わし木剣を振るって行く。
 極楽組は崩壊したものの、光圀に取っては不本意な結果に終わった。どういう結果に終わったかは、本書をお読みいただきたい。

 ご一読いただきありがとうございます。
 
本書に出て来た事項のいくつかをネット検索してみた。このフィクションの着想に使われた史実レベルの側の情報検索の一部である。一覧にしておきたい。
東海寺  :「しながわ観光協会」
江戸の名所東海寺-東海寺と沢庵  :「EDO→TOKYO」
天恩山 五百羅漢寺  ホームページ
もぐりの私娼から江戸吉原のトップ「太夫」にまで上り詰めた伝説の遊女「勝山」
              :「Japaan」
勝山(遊女)  :ウィキペディア
明石志賀之助  :ウィキペディア
明石志賀之助  :「宇都宮の歴史と文化財」
初代横綱・明石志賀之助は実在したの??? 
     :「うきよのおはなし~江戸文学が崩し字と共に楽しく読めるブログ~」
王舍城事・第二章 両火房について述べる  :「日蓮大聖人と私」
近衛尋子 :ウィキペディア
「 葵と菊  越前の名刀工・康継と国清 」 :「福井市立郷土歴史博物館」
骨喰藤四郎  :ウィキペディア

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
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この読後印象記を書き始めた以降に著者の作品を読み、書き込んだのは次の作品です。
こちらもお読みいただけるとうれしいかぎりです。
『破蕾』  講談社
『光圀伝』 角川書店
『はなとゆめ』  冲方丁  角川書店
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社


『江戸の夢びらき』  松井今朝子  文藝春秋

2020-08-27 12:38:06 | レビュー
 初代市川團十郎の歌舞伎役者人生を描くとともに、二代目團十郎が己の芸風を確立するまでを点描風に描き加えるた時代小説である。「オール讀物」の2019年2月号から2020年3・4月合併号に連載され、2020年4月に単行本として刊行された。
 この小説の最後の章名が「江戸の夢びらき」。その冒頭は正徳4年(1714)11月の堺町中村座・顔見世狂言で二代目市川團十郎が『万民大福帳』の舞台を演ずる場面を描く。その場面の末尾に次の一文が記されている。「文字通り日の出の勢いを得た役者は冬至間近の長くて暗い芝居の夜を終わらせて、醒めない魘夢をみごとに開いてみせたのであった。」と。「醒めない魘夢をみごとに開いてみせた」というフレーズに「夢びらき」が由来する。二代目團十郎にとっての「魘夢」は、父・初代團十郎(以下、團十郎とのみ表記)の雛形とだけみられることからの脱却であり、己独自の芸風確立の自負を持ちまさに歩み出したというところまでを描く。

 歌舞伎界において後に「荒事」と呼ばれる歌舞伎演目のジャンルを團十郎は独自に創造して行った。そのプロセスを描く一代記である。巻末に「この小説は史実に基づくフィクションです」と明記してある。初代團十郎がどのような経緯を経て江戸歌舞伎界でトップスターの座を確立したのか。史実を踏まえて著者の想像力が縦横に織り込まれ読み応えのあるストーリーとしてここに紡ぎ出されている。
 江戸幕府4代将軍家綱から綱吉を経て6代将軍家宣の時代に至る当時の江戸の社会と芝居町の状況ならびにその雰囲気、またその変遷を十分に堪能させてくれる。團十郎という歌舞伎役者のおもしろさと、次はどうするのか、どうなるのか・・・・の興味から一気に読み進んでしまった。

 この小説は、團十郎の妻となり、二代目團十郎の母となる惠以の視点から描かれていく。冒頭の章「風縁の輩」は、目黒の高台で直指院、場誉上人の弟子・如西が「この先われら鍾馗大臣となりて衆生の疫病を払わん」と大胆な宣言をし、掘られた四角い穴に飛び込み、生きたままたで上から土を被せられ、即身成仏の土中入定を果たすという場面描写から始まる。群集の傍で、父間宮十兵衛とともに惠以はこの土中入定を目撃する。この時、惠以は鼻筋が通って大人びた顔立ちの少年と目が合い、互いに凝視するという出会いとなる。この少年が後の團十郎である。数奇な運命と言うべきか、周りから薹がたつと言われる年齢になったころ惠以は團十郎の妻となることに・・・・・・。

 土中入定の場面は、この少年・少女にとり、その後の人生においていわばトラウマとして、脳裡深くに残り影響を及ぼしていく。二人の人生の原点がここに始まると著者は描いている。
 この時、少年と一緒に居たのが唐犬十右衛門で、間宮十兵衛が北条出羽守家臣の頃、関宿で雇っていた中間だった。十右衛門が十兵衛に気づき、声を掛けたのが切っ掛けで、間宮十兵衛と惠以は、堺葺屋の二丁町に転居することになる。間宮十兵衛は寺子屋を開きつつ、芝居町の衛士的役割を担っていくことになる。髭の十こと深見十右衛門という厄介な侍が引き起こす問題に対処したことが契機で、十兵衛は界隈での有名住人となり、遅蒔きの十兵衛と称されるようになる。そのこともあり、少女時代の惠以はこの芝居町での観劇環境を十分に堪能していくことになる。つまり、この時代の雰囲気が惠以の視点から描かれていく。読者は当時の芝居町の状況や雰囲気を知り、当時の役者の盛衰の様子を知ることになる。それはまた、團十郎誕生の時代背景を知る伏線でもある。

 その少年は海老蔵といい、唐犬十右衛門が兄貴と呼ぶ幡谷重藏という和泉町の地子総代人の息子である。この名づけの由来に十右衛門が一役買っていた。惠以の父が開く寺子屋で学んでいた海老蔵が、長じたら父の後を継ぐのだろうと思っていた惠以の予想とは違い、12歳を過ぎたあたりで役者の修業に入ったという。
 そして、延宝元年(1673)に中村座で市川段十郎と称し初舞台を踏む。『四天王稚立(おさなだち)』に怪童丸(のちの坂田金時)の役で出演した。弓矢を持った数人の狩人が怪童丸とからむ荒場の舞台になる予定が、何と独りで見物人相手に想定外の荒れる舞台にしてしまったのだ。だが、逆にその即興での所作が舞台に取り込まれ、それが見物人に受け、評判が広がるという思わぬ展開になる。團十郎の荒事の芽はその初舞台から始まっていたようだ。それまでのかぶき芝居になかった物珍しさで子方・市川段十郎の名が世間の知るところとなる。

 市川段十郎が市川團十郎に名を改め、かぶき役者、江戸随市川として名声を確立していくプロセスが描き込まれていく。それは、かぶき芝居にいわゆる「荒事」というジャンルが創造されて行くプロセスでもある。読者はそのジャンルの形成・確立プロセスをつぶさに読むことで、團十郎の生き様と共に歩みつつ、團十郎を見つめる惠以の視点を介して併走者の立場になっていく・・・・・。 
 かぶき役者團十郎が次々に新たな発想を舞台に現実化していく。各時代において世間で評判となった演目・評判の場面を、著者は読者がビジュアルにイメージできるように描き出していく。その繋がりが江戸随市川と称される位置へと團十郎を高め、「荒事」のジャンルがかぶき芝居に確立していくことになる。その工夫がどこからどのように生み出されてきたのか、その舞台裏も書き込まれていておもしろい。

 この小説を読み、遅蒔きながら私が初めて知ったことは、段十郎がかぶき芝居の作者でもあったことである。一つの芝居があたると各座から新作の注文を受けたという。
 後で調べてみると、延宝8年(1680)頃から三升屋兵庫と称して戯曲を創作し始めたという。
 天和4年(1684)正月、堺町の中村座での狂言名題は『門松四天王』。鳴神上人が登場する芝居である。「夫はこの役をどうしても演りたくて自ら台本まで書いたのだった」(p94)と著者は惠以に語らせている。段十郎は自作自演の方向に突き進んで行く。

 この小説の興味深い点を列挙してみる。
*江戸時代当時の芝居の世界の仕組み等がイメージしやすくなる。例えば、太夫元(座元)と役者の契約関係、芝居小屋(中村座・市村座・森田座・山村座)と芝居茶屋の関係、子供屋の存在、「顔見世」興行、堺町・葺町という二丁町の風景、芝居小屋に出された禁令など。
*市川團十郎の生涯を語るプロセスの副産物として、当時の様々な役者の生き様も描き出されていくことになる。例えば、初代・二代目中村勘三郎、市村竹之丞、中村七三郎、生島新五郎、山中平九郎などである。
*天和元年(1681)秋の市川段十郎(海老蔵)と惠以の縁組みを「仕組まれた縁」として描いていること。
*市川段十郎と成田不動尊の関わりについてのエピソード。
*市川段十郎を市川團十郎に改称した理由。
*團十郎が京に上り、元禄7年(1694)正月、四条河原の村山座で興行し、江戸の風を京に持ち込んだ顛末と、團十郎が坂田藤十郎を訪ねた時のエピソード。
*團十郎の長男九藏が初舞台を踏むプロセス及び、後に次男千弥も初舞台を踏むが、兄九藏の役の真似事をしていて死ぬことになった経緯。
*元禄16年(1703)11月下旬に起きた大地震後に團十郎がとった行動とその影響の経緯
*元禄17年(1704)春、市村座の落成で、團十郎が『移徒十二段』の舞台に立つ。
 この興行中、僧正坊の衣裳を脱ぎ、化粧を落として楽屋でくつろいでいる時に、團十郎は生島半六の凶刃により殺される。この殺人の背景、真因をめぐる謎。惠以の思いとして様々な推測が語られる。その経緯は実に興味深い。真因は単純なようで、実は闇が深いのか・・・・興味深い点である。
 惠以の推測とそれを己の心奥に押さえこむ姿が私には一つのよみどころとなった。
*山村座に絡む「生島事件」の経緯

 初代團十郎の生涯は團十郎が殺害される事で終わる。このストーリーは、九藏が二代團十郎としてその名を継承し、父・團十郎の雛形とみられる避けられない枷から己を解き放ち、新たな團十郎の芸風の確立に向かうプロセスが、エピソード風に点描されることが加えられている。それは初代團十郎の「荒事」のジャンルが一代で立ち消えにならず、如何に後世に引き継がれるかの起点になるからであろう。つまり、初代團十郎の「荒事」が、「荒事」という舞台として新たに息吹を吹き込まれて、「荒事」が再生されることにより、真似事ではない存在価値を継承していくことになるからであろう。
 それが、二代目以降が担う宿命なのだろう。九藏が二代目團十郎として、己を打ち出す工夫を加え、新たに歩み出すまでがストーリーにとっての必然と言えるのかもしれない。初代團十郎の芸による「荒事」を、二代目團十郎の芸として見物人が受け入れ、評判を立ててこそ、まさに「江戸」のかぶき芝居の「夢びらき」として、着実な一歩の前進となる。荒事での隈取りという化粧法は、二代目團十郎があらたに取り入れた工夫として著者は描いている。

 惠以の視点から語られ出したこのストーリーは、最後に享保15年(1730)4月の惠以の姿を描き加えることで、惠以自身の視点を語ることで終わる。
 
 歌舞伎好きの人は、私のような一般読者以上に、演目とその描写などを通して一層おもしろみを見出す個所が満載されているかもしれない。一般読者にとっては本書が江戸の歌舞伎を楽しみつつ知るガイドブック的機能も併せ持っていると思う。

 ご一読ありがとうございます。
 
本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
成田屋  公式Webサイト
  市川團十郎家系図
市川団十郎  :「ArtWiki」
市川團十郎  :ウィキペディア
【死因】舞台で刺殺や謎の自殺など市川團十郎にまつわる呪いと悲劇!
             :「市川海老蔵ファンブログ」
市川團十郎の墓地  :「浄土宗 常照院」
市川団十郎 先祖居住の碑  :「まるごとeちば」(千葉県公式観光物産サイト」
波乱万丈、江戸の歌舞伎と芝居小屋   :「nippon.com」
vol.4 歌舞伎って持久戦?  幕間すずめ 辻和子 :「歌舞伎美人」
東都繁栄の図(市村座)  :「錦絵でたのしむ江戸の名所」
東都繁栄の図(中村座)  :「錦絵でたのしむ江戸の名所」
芝居町繁昌之図    :「錦絵でたのしむ江戸の名所」
名所江戸百景 猿わか町よるの景  :「錦絵でたのしむ江戸の名所」
大本山 成田山新勝寺  ホームページ
  市川團十郎と成田山のお不動さま

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『芙蓉の干城 (ふようのたて)』  集英社
『奴の小万と呼ばれた女』   講談社
『家、家にあらず』   集英社
『そろそろ旅に』   講談社



『スノーデン 独白 消せない記録』 エドワード・スノーデン  河出書房新社

2020-08-23 11:06:07 | レビュー
 エドワード・スノーデンが遂に原題『PERMANENT RECORD』という回想録を出版した。直訳すれば永久の記録、つまり『消せない記録』である。2019年11月刊行。
 スノーデンは2013年にアメリカ国家安全保障局(NSA)が「大量監視システム」を開発配備し情報収集しているという事実について、コンタクトを取ったジャーナリストによる報道を経由して暴露した。その大量監視の中には、アメリカ憲法が保障する一般市民のプライバシーを侵害しないという権利をNSAが公然と侵害し、一般市民の電話やネット上などでの活動を情報収集し保存記録するという行為をもその対象に含んでいるという告発である。
 本書はスノーデンがアメリカ諜報業界(IC)で業務に従事し、結果的に上記の告発に到るまでの己の半生を回想し「独白」したものである。

 スノーデンのこれまでの半生を手軽に知るには、ウィキペディアの「エドワード・ジョセフ・スノーデン」を読むとよい。本書はその概略の元となる背景について、彼の半生を彼自身が具体的に語ってくれたということになる。
 その半生についてスノーデン流の要約が「第25章少年」の冒頭に次のように記されている。
「今になって振り返ると、自分がどれほどの高みにまで到達したかが痛感される。教室で口をきかない生徒だったのが、新時代の言語の教師となった。慎ましい中産階級のベルトウェイ在住の両親から生まれた子供が、島で暮らして、稼ぎすぎてお金が無意味になった生活をしている。キャリアについてわずか7年間でローカルのサーバ管理から、世界的に配備されるシステムの考案実装にまで上った-墓場シフトの警備員から、パズルの王宮における鍵マスターに駆け上がったのだ」(p308)と。
 本書は三部構成の形で、スノーデンがこの半生の要約をかなり詳細に語り、結果として告発に行き着いた経緯をここに「独白」しているのだ。

 第Ⅰ部は、スノーデンは奇しくも一般向けインターネットがスタートした1983年に生まれたと言う。ここでは彼がCIAとNSAの職員になるために求められるTS/SCIの資格を取得するとともに、セキュリティクリアランスに合格した22歳までを語る。
 彼の家族関係と生育歴、どういう風にコンピュータとの関わりを深めたかが明らかになる。コンピュータを中心に少年時代の生活が回っていた状況が語られていておもしろい。アメリカンオンラインがスノーデンにとってコンピュータの知識・技術を培う場になったという。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件が、スノーデンにとって人生の転機となる。彼は陸軍に志願した。入隊後の3週目か4週目の完全装備による地形踏破訓練中、方向チェックの為に上った木から飛び降りた際に怪我をする。左右脛骨骨折だった。これが原因で「事務的離脱」を選択し、除隊。再び得意とするコンピュータの世界に踏み入ることになる。オンラインを介して、22歳のときに、19歳のリンジーというガールフレンドとの出会いがあったと語る。その恋人との付き合いはオンラインからオフラインに発展する。

 第Ⅱ部は、セキュリティクリアランスに合格し、スノーデンがコンピュータシステムの技術者として、アメリカ諜報業界(IC)でキャリアを重ねて行く経緯を語る。
 スノーデンは22歳時点での政治信条から語り始める。「まったく何の信条もなかったのだ。むしろ、ほとんどの若者と同じく、確固たる思いこみはあったけれど、それは実は本当は自分自身のものではなく。他人から受けついだ原理の矛盾する塊でしかなかった。ただ自分でそれを認めるのを拒否していただけだ」(p119)と。
 スノーデンは、メリーランド州の職員として、メリーランド大学のCASL(先端言語学習センター)で働くことから始めたという。その後、コムソ社からの派遣要員という形で、CIAで働くことになる。CIAでの最初のインドクトリネーション(教化)のセッション受講とヴァージニア州のウォーレントン研修センターでの研修中に起こった事件を語っている。これがまず興味深く、おもしろい。
 彼の回想からは、大半の期間は民間会社からの契約要員派遣という形で、CIAとNSAを職場として渡り歩いていたことがわかる。
 研修終了後、スノーデンの最初の勤務地はジュネーブだと言う。そして東京(2009年~)に駐在し、古巣のCIA(2011~)に。CIAに戻ってから、スノーデンはてんかん症を発症した経緯を語っている。彼の母もてんかん症が持病だったそうだ。
 第Ⅱ部では各地でのICの実情と、彼自身の体験としてのおもしろいエピソードを語っている。

 東京では横田空軍基地内にあるNSAの太平洋技術センター(PTC)にて、形はベロー・システムズ社の従業員として勤務。公式の肩書きはシステムアナリスト。彼はPTCの役割と彼の役割を語る。東京で、PTCが中国に関する会議を開催した。この時、技術説明者が土壇場で出席できなくなり、スノーデンが代理の発表者となったそうだ。そこで急遽、中国諜報機関がICをどのように標的にしているか。オンラインで何をしているかの極秘報告などを調べる羽目になったという。スノーデンにとってはこの時の経験により、彼が後に発想を逆転しアメリカ自身の諜報行動について考えていく契機になったそうだ。
 この第Ⅱ部でおもしろいと思ったのは、「アメリカの諜報活動は、公僕と同じくらい、民間の従業員がやっているのだ」(p137)という点であり、現在は「ホモ・コントラクタス」の思考が支配しているという点である。

 第Ⅲ部は、スノーデンがリンジーとともにハワイに移り住み、彼が「ザ・トンネル」と称されるNSA施設に勤務するところから、ロシアに一時亡命することになった現状までの経緯を語る。2013年の告発に関連していえば、この第Ⅲ部はその背景全体をスノーデンが回想するセクションである。読み応えがある回想録にまとまっている。
 冒頭近くの引用文で、「島で暮らして」と簡略に記すのは、てんかん症を発症したスノーデンが、いわば転地療法を兼ねてハワイに移り住み、生活を「やり直すためにきたのだ」という意識がもともとだったそうだ。つまり、告発行為というのはその時点で念頭にはなかったのだ。
 なのになぜ告発という行為への意志を固め、入念にそのための準備を進め、病気だと偽って届け出を出し、リンジーにも何も語らずアメリカを出国して香港に行き、そこで告発するという行動に出たのか。その読ませどころがこの第Ⅲ部である。この先は本書をお読み戴きたい。

 スノーデンの考え方を表明している個所をいくつか抽出し引用してみよう。
*アメリカのICは、この企業(付記:三頭帝国企業、つまりグーグル社、フェイスブック社、アマゾン社)のネットワークへのアクセスを手に入れることで、この事実を活用しようとしていた。  p226
*アメリカの基盤となる各種の法律は、法執行の仕事を簡単にするためでなく、むずかしくするために存在する。これはバグではない。民主主義の鍵となる特徴なのだ。アメリカのシステムでは法執行(警察)は市民をお互いから守るものとされている。そして法廷は、その権力が濫用されるのを抑制し、・・・・・・こうした抑制の最も重要なものは、法執行が一般市民に対し、その所有地内で令状なく監視盗聴を行ってはいけないという禁止だ。令状なく個人の記録を押収してはいけないのだ。でもアメリカの公共財産、つまりはアメリカの街路や歩道の大半を含む場所での監視を抑制する法律はほとんどない。 p226-227
*AIを備えた監視カメラは、ただの記録装置にとどまらない。自動化された警官に近いものとなる。・・・・2011年ですら、これが技術の向かう先なのだというのは明らかに思えた。そしてそれをめぐる本質的な公開議論はまったくない。 p227
*アメリカ国土での最大のテロ攻撃は、デジタル技術の発達と並行して生じたし、そのデジタル技術は、地球の大半をアメリカの国土にしてしまうものだった-望もうと望むまいと。 p235
*恐怖こそが真のテロリズムで、それが武力の使用を正当化するものであれば、ほぼどんな口実だろうと利用したがる政治システムに利用されたのだった。 p235
*専制主義国家では、権利は国家から生じて人々に許されるものだ。自由国家では、権利は人々から生じ、国家に与えられるものだ。 p238
*ぼくはいまでも、民主主義こそが、背景のちがう人々が共存し、法の前の平等となるのを最も十分に可能とするような唯一の統治形態だと思っている。
 この平等性は、権利だけではなく自由も含む。実際、民主国の市民が最もありがたがる権利の多くは、法に明記されているわけではなく、暗黙のうちに決まっているだけだ。それは、政府権力の制限を生じた、オープンエンドの虚空に存在するだけだ。たとえばアメリカ人が言論の自由の「権利」を持つのは、政府がそうした自由を制約する法律を一切作ってはならないとされているからだ。 p239
*現代生活には、こうした政府の入り込めない負の空間、あるいは可能性の空間すべてを包含する単一の概念がある。その概念が「プライバシー」だ。 p239
*自分のプライバシーを主張しないということは、それを譲り渡すということだ-憲法的な制約を侵犯している国家に対してか、あるいは「民間」企業に対して。 p239
*僕の定義だと「内部告発者/ホイッスルブロワー」は、つらい体験を通じてある組織内部での暮らしがその外側にある社会全体の発達させた-そして自分が忠誠を誓った-原理とは相容れなくなったと結論した人物のことだ。その組織は、社会に説明責任を負っている。この人物は、自分がその組織の内側にはいられないことを知っており、組織が解体することも、されることもないと知っている。だが組織改革は可能かもしれないので、彼らは霧笛を鳴らし、情報を開示して世間の圧力がかかるようにする。  p270-271

 第Ⅲ部の最後の段階で、スノーデンは現在の亡命先のロシアに居住し、今何をしているかについて語っている。そして、リンジーのことにも触れている。
 このあたりの情報は現時点でチェックすると、まだウィキペディアには要約収録されていない。最新のスノーデンの活動状況について本書から知ることができる。本書を開いてご確認いただくとよい。

 ご一読ありがとうございます。
 

著者に関連して、ネット情報を検索してみた。一覧にしておきたい。
エドワード・ジョセフ・スノーデン  :ウィキペディア
Edward Snowden  From Wikipedia, the free encyclopedia
デジタル監視と人権?エドワード・スノーデン氏インタビュー  :YouTube
監視技術、米が日本に供与 スノーデン元職員が単独会見   :YouTube
エドワード・スノーデン インターネットを取り戻すために :YouTube
スノーデンが暴露した「大量監視システム」の罠  :「東洋経済ONLINE」
PRISM (監視プログラム)  :ウィキペディア
PRISM (surveillance program) From Wikipedia, the free encyclopedia
スノーデン氏が「報道の自由財団」理事に 2014.1.15 :「LINE NEWS」
FREEDOM OF THE PRESS FOUNDATION ホームページ
   Freedom of the Press ツィート
米NPO「報道の自由財団」が仮想通貨による寄付受け付け開始 ビットコインやイーサリアムなど5種類  2018.6.20    :「COINTELEGRAPH コインテレグラフジャパン」

スノーデンの警告「僕は日本のみなさんを本気で心配しています」 小笠原みどり
                         :「現代ビジネス 講談社」
日本に情報監視システムを提供したというスノーデン発言に関する質問主意書
                      質問本文情報  :「衆議院」
アメリカ国家安全保障局は情報監視システムを利用して大統領の意思決定まで左右する!? AI兵器にも転用される監視システムの脅威!身近にあった監視網、羽田空港に導入された顔認証システム 2019.8.20  :「IWJ」

    インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

『明智光秀・秀満』  小和田哲男  ミネルヴァ書房

2020-08-17 22:25:02 | レビュー
 本書の新聞広告記事が目に止まり、読んでみた。2019年6月に、「ミネルヴァ日本評伝選」シリーズの一冊として出版されている。明智光秀とその女婿となった秀満、この二人の戦国武将としての行動と人となりを諸史料及び現在までの諸研究の成果を引用し、その解説を踏まえて著者の見解を展開する。人物評伝である。

 冒頭の表紙に、「ときハ今あめが下しる五月哉」という発句が記され、明智光秀像が載っている。明智光秀像は大阪府岸和田市の本德寺藏の掛幅だそうである。
 この発句は世に親炙しているし、この発句が光秀の人生を象徴するものとなる。この評伝も、この発句に至るまでの彼の人生を史実から明らかにし、この発句をどう解釈し、本能寺の変をどうみるかへと展開していく。
 
 光秀は信長から安土城での徳川家康接待役を命じられた。この接待準備の途中で、光秀の用意した魚が腐り、失態を演じたことで、接待役を降ろされたという『川角太閤記』の記述が残され、世に流布している。著者はこれはなかったと断じている。
 著者は当時の戦の情勢変化から信長が判断して光秀を接待役からはずし、秀吉の中国攻めの強化のために光秀に出陣を命じたのだとする。それで5月17日、光秀は安土から坂本城にもどり、さらに出陣の準備のために26日、丹波亀山城に戻ったのだとみる。
 信長は光秀の出陣にあたり、「出雲・石見の二か国を与える。その代わり、丹波と近江の志賀郡を召し上げる」と使いの青山与三に伝えさせた。『明智軍記』にこのことが記されている点について、それは信長への怨恨説の理由にはあたらないが、光秀にとっては政権中枢で近畿管領的な役割を担うことから遠ざけられるという左遷意識を強めることになったと解している。それより、著者は中国攻め強化のために光秀が出陣するのは、秀吉の指揮下に入ることを意味し、プライドを傷付けられる形になったことに光秀が我慢できなかったのではないかと考察し、著者はこの点を重視している。興味深い視点だ。
 信長から出陣命令を受けた後、光秀は愛宕山に登り、愛宕大権現に戦勝祈願をするとともに、連歌の会を催した。その発句が「ときハ今あめが下しる五月哉」である。なぜ出陣の前に連歌会をするのか、今まで疑問を抱いていた。著者は当時の戦国武将の風習として、戦勝祈願の一環として連歌会を行うのは普通のことだったと説明している。
 この戦勝祈願と連歌会が、中国攻めへの出陣ではなく、信長打倒のための戦勝祈願だったことになる。これは第六章で詳しく語られて行く。

 さて、この評伝の構成と興味深い点をご紹介して行こう。
 第一章 明智光秀とはそもそも何者か
 著者は諸研究の成果と現存する明智氏系図などを材料に紹介・引用しつつ、光秀の前半生は謎だらけであり、確実な説がない実状だという。ここでは諸説が提示されている。文献の信憑性をどうとらえるのかに関心が湧く。
 その結果、光秀の人生の期間を「1528?~1582」と表記することにもなっている。
 光秀が土岐氏の庶流である明智氏の中のさらに支流に位置することだけはまず事実といえそうだ。
 
 第二章 織田信長に仕えるまでの光秀
 まず、斎藤道三二代がかりの国盗り説を紹介するとともに、光秀の叔母小見の方が道三の後妻になったとすれば、光秀が道三の近習に仕えていた可能性があることを論じている。道三と義龍との間での長良川の戦いには、理由は不明だが光秀が中立の立場を取ったという。そして、義龍が明智城を攻めた折に、この戦いで討ち死にした明智光安(宗宿)の勧めにより、光秀が一族とともに城から脱出し家名再興を期すという経緯を考察していく。またこの明智城がどこかについては、長山城と瀬戸城の二説があるという。
 ここで、秀満の出自を考察しているが、史料に諸説あり現状では秀満もまたその確定ができないようだ。それを踏まえて著者としての可能性を考察している。秀満の人生の期間は「?~1582」と期されることに。
 いずれにしても、光秀が浅倉義景に仕えるまでの期間の彼の遍歴は不詳のままなのだ。 著者は寛永7年(1630)に筆写された時宗の同念上人の記録にある文を引用する。「惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしが、越前浅倉義景を頼み申され、長崎称念寺門前に十ヶ年居住」という一文である。著者はこれを確かな情報と判断し、考察を展開している。
 結果的に、足利義昭の越前入国、細川藤孝との出会いと関係の深まりが、光秀にとり戦国の世に頭角を現す機会を得る契機となる。つまり、光秀が義昭入京に関して、義昭・藤孝主従と信長との橋渡し役を担当することになる

 第三章 織田信長に仕える光秀
 光秀が義昭と信長の双方に仕えるという両属の立場にあった状況を考察していく。
 義昭入京後、京都堀川の本圀寺を仮御所としていた時、三好三人衆の反撃で京都本圀寺の戦いが起こった。この時の光秀の働き。さらに、二条城築城の折の光秀の立場。京都奉行の一人としての光秀の立場。著者はこれらを考察している。
 信長の越前攻めが淺井長政の謀反により頓挫し、信長が危地を脱出する。この際、「金ヶ崎退き口」で秀吉が殿をつとめたことは小説などでもよく描かれる。この殿の戦いの中に光秀が加わっていたということがわかる史料(文書)が残されているという。このことを本書で初めて知った。一方、著者は姉川の戦いに光秀が加わっていたかどうかはわからないという。
 著者は光秀の両属の立場について、「義昭が将軍として信長に推戴されている間は光秀も義昭を見限ることができなかったのかもしれない」と、見限る時点の判断には慎重な見解表明にとどめている。
 
第四章 信長家臣として頭角を現す光秀
 信長家臣として光秀が頭角を現していくプロセスで重要なポイントになる局面の考察を展開していく。興味深い記述を要約してみよう。詳細は本書をお読みいただきたい。
*志賀の陣で、光秀は宇佐山城将に抜擢された。これは城をまかされたにすぎない。
*比叡山焼討ちにおいて、光秀は信長の命令を忠実に実行して行った。
*比叡山焼討ち後に、光秀は志賀郡を知行地として信長から受け、坂本城築城を始める。 これは城付知行であり、著者は光秀を「一国一城の主」第一号と述べる。
*信長は義昭を追放した後、村井貞勝を京都所司代に、光秀を補佐役に任じている。
*義昭が立て籠もった宇治・槇島城の戦いで、光秀は信長軍として加わっていた。
*光秀の軍事力構成は、直臣、一族衆、与力(土豪を配下に組み込む)、旧幕府衆。
 つまり与力・旧幕府衆との主従の絆はそんなに強いものではない。光秀は熟知のはず。
 第五章 光秀の丹波経略と丹波の領国経営
 丹波経略をまかされた光秀がかなり苦労した経緯が史料ベースで考察される。
 一方、光秀の領国経営は善政を布いたものだった事実が具体的な事例をあげて解説されている。どちらかといえば、地元の人以外はあまり知らない事実であり、光秀のイメージを変えるものとも言えよう。

 第六章 本能寺の変の謎を解く
 この章が読者にとっては一番関心のあるところだと思う。私自身やはり一番興味を覚えた。というのは、今までに小説や風説でイメージを抱いていた「本能寺の変」とはかなり異なる軌道修正と見方の広がりを得ることができた。現在時点での史料の新発見や研究成果が幅広く取り込まれていて、分かりやすく解説されている。

*信長の京都馬揃えの実施を著者は正親町天皇への圧力と考えている。信長・朝廷対立説である。一方、最近は、信長と朝廷は協調していたとする論調がふえているという。この解説がまず興味深い。
*信長の計画した正親町天皇の安土行幸問題と、朝廷の宣明暦と信長が支持した三島暦の並存をやめ、信長が三島暦に統一しようとした暦問題が具体的に考察されている。
*冒頭で述べた連歌会後の光秀軍の動きが本能寺襲撃に至るまでの経緯が詳細に説明される。
*天正10年3月の武田攻めに従軍した光秀の目に映じた信長の行為に対すし、信長の暴走と写った問題意識が抽出されている。著者の考える本能寺の変の謎にも関わる個所である。
*光秀の愛宕参篭で行われた連歌会の百韻の内容について、それをどのように読み解けるかに触れている。津田勇氏の「愛宕百韻に隠された光秀の暗号」の引用とその解説は興味深い。日本の古典を背景に援用していることと源氏と平氏の抗争にまで言及できうるという解釈がまた一つ、広がりを加えている。
*光秀謀反をめぐる諸説の解説がとりわけおもしろい。
 後藤敦著「本能寺の変学説&推理提唱検索」という諸説整理論文を紹介している。大きくは3分類し、さらに諸説を細分化して50の説に整理されているという。これが「本能寺の変の真相をめぐる諸説」としてその名称が一覧表としてp198に掲載されている。
 これほどに、様々な真相解読説があるとは知らなかった。著者は主な説について、その是非の考察を展開している。諸説の全体像とその問題点を概略理解するのに便利であり、参考になる。
*著者自身は、本能寺の変は、光秀の個人レベルの問題が原因ではなく、光秀のクーデター、政変だと捉え、その原因として「信長非道阻止説」を唱えていると説明する。

 第七章 本能寺の変後の光秀と山崎の戦い
 本能寺の変後、光秀の脳裡に想定していた状況と行動、その影響に齟齬が次々に発生し、光秀のめざす政権への道が破綻をきたして行く経緯がわかりやすく説明されている。
 瀬田城城主山岡景隆が瀬田橋を落としていたことが大きな意味をもっていたことがわかる。細川藤孝・忠興父子に背かれたことと秀吉の中国大返しが光秀にとり想定外の誤算だったことが良く分かる。山崎の戦で陣取りに遅れをとったことも敗因の一つと言えよう。 秀満が坂本城で最後に取った行動を知らなかった。秀満の人となりが窺えるエピソードである。私は秀満という人物に興味を持ち始めた。

 第八章 光秀の人となり
 どうも光秀は、天下をとった秀吉の情報操作により謀叛者・主殺しの悪人イメージを浸透されてしまっているようである。「歴史は勝者が書く勝者の歴史である」ということに連なる一側面なのだろう。光秀の人となりのプラス面がいくつか実例で紹介されている。本書を読み、明智光秀を神として祀る「明智神社」があることを初めて知った。「御霊神社」という名称で、明智光秀を神として祀る神社があるというのもおもしろい。御霊信仰とのつながりを連想させる。

 第八章の後に「参考文献」の一覧が付されいる。巻末には「明智光秀・秀満年譜」も掲載されている。

 改めて、明智光秀の功罪を捉え直してみる上で、参考になる評伝である。
 まず、現存する史料の信憑性ならびに史料に記されている情報をどのように読み込むか。客観的な事実、真相を知るためには、いくつものハードルがあることがよくわかる。

 「おわりに」の中で、著者が記す一節を最後にご紹介しておこう。
「私自身は朝廷黒幕説には批判的で、光秀単独説を唱えてきたが、信長と朝廷が融和的だったとなると私の『信長非道阻止説』も成り立たなくなる。この点は本文の中でふれたように、光秀と親しい公家たちが信長の言動に危機感を抱いていたのに加え、光秀自身も、天正10年3月の武田攻めの後、いくつかの点で信長が異常な行動に及んだことを目のあたりにしており、『非道阻止』の考えはあったとみている」(p298)と。
学者らしい一節だと思った。

 ご一読ありがとうございます。

『もののふの国』  天野純希  中央公論新社

2020-08-11 22:10:52 | レビュー
 2019年「螺旋プロジェクト」の一環となる作品である。日本において「もののふ」(武士)が政権を争った時代における「海族」と「山族」との対立を描いて行く。平将門の乱発生の時点から西南戦争の終結までという長い時間軸において、エポック・メーキングな局面を綴るというおもしろい構想で武士の間における政権交代の変遷をとらえていく。
 つまり、このロングランな時間軸が4つのフェーズに区分され、それぞれの時代で海族と山族のダイナミックな対立が繰り返されながら時代が画されて行ったとする。それは「源平の巻」「南北朝の巻」「戦国の巻」「幕末維新の巻」という区分で捉えられている。 その区分の中でその時代を画する代表的な局面と事象が抽出され、そこに海族と山族の対立が現出し壮大な時代のうねりとなっていく。それぞれの局面が一つの独立した短編小説として完結しながら連鎖して大きな時代のうねりを形成していく。玉に紐が通り玉が連ねられて数珠となるごとく、短編がリンクし累積することでもののふたちが相争った時代が展開し、新たな時代に転換して行く。
 歴史・時代小説好きの読者なら、個々の代表的な戦の局面についてはなにがしかの知識があり、その概要を個別にご存知だろうと思う。それらが長い時間軸の中で重要な局面、事象としてハイライトを浴びる一コマとして扱われながら、連綿と続く対立・抗争並びに政権の交代として描かれて行くところに、この小説の特徴がある。

 そこで個々の代表的な戦の局面の具体的な内容には踏み込まないで、この小説のストーリーの骨格をご紹介して行こう。
 海族は蒼い目を持つ人々であり、山族は黒い目と大きな耳を持つ人々という特徴を持つ。さらにそのマージナルな境界には、片方の耳が大きくそして片目が蒼くもう一つの目が黒いという特徴を持つ人が存在する。その人は両族の存在を知りつつ、いずれにも属さずその境界で独自の役割を果たしていく。以降この境界人をXと略記する。この三様の類型がこの小説にも引き継がれていく。

<序>
 山中の洞窟内に胡座を掻き、詰め襟の軍服を着用する男の描写で始まる。その場面は”武士(もののふ)”と呼ばれる者たちの時代の終焉に連環している。

<源平の巻>
 「一 黎明の大地」
 平将門の乱の終焉場面が描写される。だがそれは「もののふの国」の始まり。将門は瞳が蒼い。桔梗という歩き巫女がXとして登場している。

 「二 担いし者」
 源頼朝の挙兵。頼朝は黒い目を持つ山族。それに対し平家は蒼い目をもつ海族という図式になる。両者の対立・抗争が展開される。頼朝は人の目を意識しすぎる傾向を持ち、生来の臆病者として描かれていく。その頼朝が義経を掌中の道具として使う。
 頼朝に挙兵を促すために僧侶文覚が現れる。文覚はXだった。山族の選ばれし者としての頼朝の背中を押し、平家打倒を煽るために立ち現れたのだ。

 「三 相克の水面」
 生き残り、平家の落ち武者集落を築いていた平教経が、讃岐国屋島での源義経との最後の海戦を回顧する。
 源平の巻は、海族が滅び、山族が政権を取る物語である。

<南北朝の巻>
 「四 中興の秋」
 後醍醐帝の”建武の中興”を確立させる背景の経緯が描かれる。楠木正成らによる千早城での戦い。新田義貞の鎌倉幕府倒幕の挙兵。足利高氏が挙兵し後醍醐帝側に付くことが決め手となる。高氏の前に世の情勢を語る者として佐々木導誉が現れる。高氏は源氏の流れを汲む足利家の当主。佐々木道誉はXとしての立場。鎌倉幕府は源氏三代で絶えた後に執権という形で北条氏が頂点に立ってきた。政権の交代が起こる。

 「五 擾乱に舞う」
 鎌倉を奪回した足利尊氏に向けられた朝廷の足利討伐軍を尊氏は破る。そして入京、だが九州への敗走を経て、再び入京という戦のプロセス展開となっていく。尊氏が「建武の式目」を制定するまでの経緯が描かれる。このプロセスで、再び佐々木導誉(X)が顔を出す。

 「六 浄土に咲く花」
 足利義満の治政と明徳の乱の時代を描く。義満が能に傾倒した様相がクローズアップされる。世阿弥がXだった。
 著者は義満の死が毒を盛られたことに起因するという風に描き出して行く。

<戦国の巻>
 「七 天の渦、地の光」
 明智光秀が本能寺の変に至る経緯を描く。信長の目はかすかに蒼みがかっているとする。つまり海族である。光秀は信長の蒼い瞳を目にすると、胸の奥底がざわつき苛立つ。光秀は山族なのだ。
 冒頭は、三十代の始め頃に光秀が山深い村で不可思議な老婆に出会うことから始まる。光秀は、貝殻ほどの大きさで渦巻きのような、あるいは蝸牛のような模様が彫り込まれ明智家に代々伝わる首飾りを首から下げていた。老婆はそれを肌身離さず身につけておけと光秀に言った。
 戦に敗れた後、首飾りの威力により光秀の魂が新たな肉体に宿り転生していく。それが南光坊天海だと著者は締めくくる。

 「八 最後の勝利者」
 天正14年10月27日、大坂城本丸謁見の間で、豊臣秀吉を新しい主君として一旦受け入れる形を取った家康の思いから始まる。関ヶ原合戦を経て、江戸に幕府を開き、家康が死ぬまでを描く。秀吉は信長と同じ、蒼みがかった双眸を持つ者として描かれる。
 家康は上杉討伐軍を率いて江戸から出陣する前に、目通りを求めてきた天海に会う。それがその後の家康と天海の密接な関わりの始まりとなる。家康は天海の左右の瞳の色が違うことに目を引かれる。天海はXだったと著者は描く。

<幕末維新の巻>
 「九 蒼き瞳の亡者」
 大塩平八郎の乱を描く。平八郎は蒼い瞳を持つ者として描かれる。山族の徳川家に対して平八郎は海族という関係になる。
 乱が潰えたとき、平八郎の潜伏生活を支援するのは染め物業を営む美吉屋五郎兵衛である。この五郎兵衛がXだった。

 「十 回天は遠く」
 病の床に伏す沖田総司が手すさびに蝸牛様の首飾りを彫る。見舞いにやってきた土方歳三にその首飾りを預ける。総司は土方に、この形の首飾りは持ち主を一度だけ死から守ってくれるそうですと、古くからの言い伝えを語る。
 元治元年7月の禁門の変から鳥羽伏見の戦いに至る期間の土方歳三の行動と、土方の視点から時代が回天する様相を描く。その間に土方は西郷吉之助(=隆盛)や坂本龍馬との面識を得る機会に導かれていく。つまり、西郷や龍馬の一面もまた併せて描き込まれ、時代の動きとしては大政奉還の経緯、龍馬の船中八策が登場することに。
 西郷は蒼い目を持つ者として描かれる。近江屋で龍馬は襲われる。その直後に土方は臨終間際の龍馬に立ち合う。著者は龍馬がXとして活躍したが、「坂本の体から、わずかに残された力が抜けていく。それに合わせるように、片方の目の色が蒼から黒へ、ゆっくり変わっていった」(p363)と土方が目撃した事象を描き込む。
 
 「十一 渦は途切れず」
 元号が明治と改められた後に続く2つの大きな戦いを描く。
 一つは蝦夷地の五稜郭での戦い。新天地に渡った土方の視点から政府軍との最後の戦いを描く。この戦いで戊辰戦争は幕を閉じる。
 もう一つは、政府での要職を辞して鹿児島に戻った西郷隆盛を描く。なぜ西郷が政府から離れたのかが語られる。鹿児島に戻った西郷は、私学校を開設した。政府の職を辞し薩摩に下野した者たちや鹿児島で職を失った士族たちを統制下におき、予期せぬ暴発を防ぐことを意図していたという。だが、西郷がよかれと考え実施したことが裏目に出る。それが、西郷を西南戦争に巻き込んでいくことに。
 私学校党が暴発した。急遽鹿児島に戻ろうとする西郷に、著者は未来に起こる悲惨な光景を幻視させている。それは何故なのか・・・・・。

 この国は海と山、二つの一族が代わる代わる覇権を握ってきたというモチーフが根底になったストーリーの展開である。中世から近代初期までの「もののふ」の時代がオカルト的要素を含むフィクションの形で活写されている。
 この小説もまた、「小説BOC」創刊号~10号(2016年4月~2018年7月)に連載されたものに加筆・修正され、2019年5月に単行本化されたものである。
 
 ご一読ありがとうございます。

「螺旋」プロジェクトに関連する次の小説の読後印象をまとめています。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ウナノハテノガタ』  大森兄弟  中央公論新社
『月人壮士 つきひとおとこ』  澤田瞳子  中央公論新社
『蒼色の大地』  薬丸 岳   中央公論新社
『コイコワレ』  乾ルカ    中央公論新社

『ウナノハテノガタ』  大森兄弟  中央公論新社

2020-08-10 23:54:09 | レビュー
 2019年の「螺旋プロジェクト」一環作品ということで読んでみた。その切っ掛けは、澤田瞳子著『月人壮士』を読んだことによる。この『月人壮士』の読後印象記は既にご紹介しているが、これが「螺旋プロジェクト」の一作品だったことから、この螺旋プロジェクトがどういう流れになっているかに興味を抱いたことによる。

 本作品はこの螺旋プロジェクトでの時代設定としては、その始まり「原始」の時代である。作品としては一種のファンタジー世界としての海族と山族の対立の創造といえる。
 長老に率いられるイソベリたちと長老に率いられるヤマノベたちという二族が居る。イソベリたちが「海族」、ヤナノベたちが「山族」という設定である。
 この小説のおもしろいのは、全体が9章で構成されるが、その章名がイソベリとヤマノベのいずれかに属する人名あるいは動物名で設定されていることである。ザイガイ、ハウテビラ、レフタイ、ウェレカセリ、ブチイヌ、ウナクジラ、テイボズ、ヤキマ・ジン・アマビエ、ヤキノという具合。この章名を見ただけでは、このストーリーがどのような展開になるのか、まったくわからない。なんじゃコレ!という感じ。

 読み進めて行くと、この原始の時代における二族の地理的関係となぜ二族が関わり合い、対立する結果になるかの契機がイメージできるようになる。
 イクサを逃れるために蒼い目をしたイソベリたちの先祖が孤立したある静かで穏やかな海岸の浜辺にたどり着き、そこで一族共同体の集落を築いて行く。イソベリたちには死という意識はない。シャコガイの面をかぶるハイタイステルベと称されるいわば呪術師がイソベリ浜からサヤ舟に乗せ、ウナ(=海)に漕ぎ出してある小島にいわば死期間近のイソベリ、死んだイソベリを残置に行く。残置された者はその小島でイソベリ魚になると信じられている。真実を知るのはハイタイステルベだけなのだ。普通のイソベリたちにとり、その小島はアンタッチャブルな禁忌の島である。
 イソベリ浜から内陸に入っていくと石の原が草の原、茂みとなりアマクモの森となる。アマクモの森の最奥はオオクチ壁という高い崖で行き止まる。
 このオオクチ壁の上の地域に、ヤマノベたちが住んでいる。このオオクチ壁が障壁となり、この二族は互いにその存在を知らずそれぞれが孤立してきた。ヤマノベたちは黒い目をしていた。
 アマクモの森の最奥、オオクチ壁の足元には開いた洞、岩屋がある。ここには、ウェレカセリが一人きりで暮らしている。ウェレカセリはふらりとイソベリの集落にやってくることがある。だが、ウェレカセリと口をきくことができるイソベリはハイタイステルベだけなのだ。ウェレカセリの目は、片目がウナの色、もう片方は影の色。つまり、蒼い目と黒い目を持つ。ヤマノベたちとイソベリたち二族の境界にいるマージナルな存在といえる。彼はなぜか両族の言語を理解する唯一の存在。そのため、両族の間での通訳的役割を担う立場になるとともに、かれはイソベリとヤマノベが接触することは危険と理解している。
 蒼い目の人々、黒い目の人々、片方が蒼くもう一方が黒い目を持つ人というこの類型化がこの螺旋プロジェクトの作品群で共通の基本構造になっている。この構造が様々な時代で、様々に形を変えながら続いていくことになる。

 このストーリーは、ヤマノベたちの長老レフタイにより生贄に指名されたマダラコが手首と足首を打ち砕かれて火あぶりにされるというしきたりに抵抗して、地震が発生したのを契機に逃亡する場面から始まる。彼女は身籠もっていた。
 一方、この地震の際に、オオクチ壁の岩が落ちて来て、イソベリのザイガイが頭を直撃され、頭蓋が陥没する。ザイガイはオトガイ、通称オトの母である。オトの父はカリガイ。仮面を付けるとハイタイステルベになる。オトは父に同行を指示され、母ザイガイを小島に残置するために行き、小島の秘密を知る。ハイタイステルベとしての父からオトは小島のことはダンマリだ、口外すれば殺すと告げられる。この時点からオトは次代のハイタイステルベへの道を歩み出す。
 逃亡したマダラコはイソベリの地に入り込み、見つけられることになる。言葉が通じないことから、カリガリはウェレカセリに協力を頼む、イソベリの一人、ヤキマは好奇心が強く、マダラコとのコミュニケーションに努力する。そして、マダラコとヤキマは言葉を学び合い意思疎通ができるようになっていく。
 このストーリーでは、オト、マダラコ、ヤキマ、カリガイが主な登場人物となっていく。そこにウェレカセリの果たす役割が加わっていく。ウェレカセリは不思議な存在となっている。

 一方、ヤマノベの集落も地震により壊滅し、オオクチ壁の崩落が原因で一族は壁の下に転落する。それがイソベリとの接触の始まりとなる。被災し負傷したヤマノベたちを、最初はイソベリたちが助けることになる。だが、その先には徐々に対立の要因が積み重なっていく。一つは、イソベリたちの中に留まるマダラコのこと。二つ目は食糧源の問題である。三つ目はヤマノベの長老レフタイの死。ヤマノベたちはレフタイの遺体を火葬にする慣習だが、イソベリたちにはそんな慣習は理解できない。強引に火葬を中断させイソベリたちの流儀を貫く。さらに、頻発する地震の影響で発生した津波が、巨大なウナクジラを浜辺に打ち上げるという事象が発生する。ウナクジラに対する見方、取扱いがイソベリとヤマノベでは全く違う。つまり、両族の文化の違いが対立を深化させる方向へと進展していく。
 マダラコはイソベリたちに、ヤマノベたちとの戦いのための武器として弓矢と竹槍の作り方と使い方を教えるということに・・・・・。原点はマダラコが己の命を守るという決意にある。
 このストーリー、ある意味で異文化接触とその対立プロセスがテーマとなっている。さらに、ウェレカセリが突き動かされるようにして岩屋の壁面に刻み込んだ壁画が、イソベリたちの過去・現在と近未来を予言するような内容であることを、オトとマダラコが解読していくことになる。オトはイソベリたちの集落のある浜に、大きな津波が来襲する予言的場面が刻まれていることを発見する。それを発見したオトが行動に出る。
 このストーリーは最後に予想外の展開となり終わる。

 なかなかおもしろいファンタジー小説である。おとぎ話的でもある。一つの集団が自然風土の中で歳月を経て生み出す文化、そこに生まれる慣習、異文化が接触する時に発生する事象と行動プロセスの有り様などを海族と山族の接触、対立プロセスとしてバーチャルに描き出しているとも受け取れる。さらに、人間同士の対立が大自然の中で、人間対自然の対立として捉えた時の人間の限界にすら触れていると思う。
 読み進めると、このファンタジーのおもしろさがわかってくると言えよう。

 螺旋プロジェクトのことを知らずに、本書のタイトルを見ただけなら、たぶん手に取ることもなくそのままスルーしていたことだろうと思う。
 この小説もまた、「小説BOC」創刊号~10号(2016年4月~2018年7月)に連載されたものに加筆・修正して、2019年7月に単行本化されたものである。
 この小説の奥書で初めて知ったのだが、著者は兄と弟の兄弟ユニット作家として2009年に『犬はいつも足元にいて』で異色なデビューをし、文藝賞を受賞。同作で芥川賞候補にもなっていたという。

 ご一読ありがとうございます。

「螺旋」プロジェクトに関連する次の小説の読後印象をまとめています。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『月人壮士 つきひとおとこ』  澤田瞳子  中央公論新社
『蒼色の大地』  薬丸 岳   中央公論新社
『コイコワレ』  乾ルカ    中央公論新社

『桜狂の譜 江戸の桜画世界』  今橋理子  青幻舍

2020-08-03 21:06:24 | レビュー
 表紙の桜画に重ねて記された「桜狂の譜」というタイトルに惹かれて、パラパラと眺めると、様々な桜花の絵が載っている。一種図録風の趣きもあり、読んでみることにした。
 表紙の桜画は、読み初めてすぐ、図2に掲載されている三熊思考筆・紫野栗山賛の掛幅「桜花図」の右上部分をクローズアップしたものとわかった。

 「あとがき」の最後に著者は本書に関連することとして次の文を綴っている。
「本書の題名『桜狂の譜』は、かつてサントリー美術館で開催された『日本博物学事始-描かれた自然-』(1987年9月)で、三熊派の桜画が展示されていた、その小さなコーナーに冠されていたものである。すでに30年以上も前のことであるが、日本美術史および博物学史上における三熊派の意義を、最も端的に言い表した美しい言葉をとして、私は今でもそれを決して忘れ得ない。」と。
 一方、「はじめに」の末尾で、次のように記している。
「桜花を愛したがゆえに、図らずも桜花とともに生涯を全うした人たちが居た--その事実に、私たちは改めて感慨を深くし、そして敬愛を込めて彼らを『桜狂のひと』と呼びたいと思う。そうした人々の心を受け継ぐ意味で、本書は『花狂の譜』と名付けられたのである」と。
 
 三熊思考(1730~1794)は江戸時代半ばに京の都に住み「桜花だけを描く」という一風変わった信念の画家だったと言う。そして、桜画はこの三熊思考に始まり、彼の妹・三熊露香、思考の弟子・広瀬花隠、露香の弟子の女性画家・織田瑟々ら、わずか4人で60年間ほど描き継がれたという。著者は彼らとその桜画を取り上げ、25年ほど前に「三熊派」と名づけて研究を続けてきたとのこと。本書はその研究を踏まえて「江戸の桜画世界」を一般読者にわかりやすく論じている。三熊派の桜画が数多く掲載されていて、親しめる画集でもある。

 本書を読み三熊思考を再認識することになった。というのは、手許にある一冊の図録を確認してみたことによる。平成10年(1998)に京都文化博物館開館10周年記念特別展として、「京の絵師は百花繚乱」という展覧会が開催された。その副題は「『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇」。これを久しぶりに図録を開いてみると、三熊花顛の作品が2点載っていた。上記とは別の「桜花図」と「蘭亭曲水図」である。この特別展を鑑賞したときは、百花繚乱ゆえに三熊花顛の絵をそれほど意識していなかったのだと思う。
 図録巻末の画家解説には、「桜を好み、特に桜画の名手として名高い画家である」と記されている。図録には当時の流派系図が末尾にまとめられているが、そこには出て来ない。

 三熊花顛は三熊思考のこと。花顛は思考の画号。この画号について、第1章の冒頭で「画号の秘密」と題して著者は、「顛」の字義は何かの「頂(いただき)」や「極まった」状態をいい、あるいはそこから逆説的に「倒れる」という意味も持つとし、画号「花顛」はまざに「花狂い」のことであり、「狂ったほどに桜にのめり込んだ人」という意味を表すと説明する。一方、中国の古語で「花狂」は「蜜蜂」を喩えることばとも補足する。
 思考は両方の意味でこの画号を使ったとすると、楽しくなるではないか。

 本書は二部構成になっている。この内容を簡略にご紹介する。
 第Ⅰ部「花惜しむ人-三熊派の桜画」は4章構成である。
 第1章 桜に憑かれた画家 - 三熊思考
  「画号の秘密」を説明した後、著者は江戸時代の文学史上で重視される『近世畸人伝』は伴藁蹊が著者と見做されているが、三熊思考こそがその草案者だと考察している。この畸人伝中に三熊思考自身もその一人に取り上げられていることに触れ、その具体的内容を説明し、三熊思考の人となりを描写する。
 
 第2章 追憶の「三十六花撰」 - 三熊露香
  三熊思考と対比させながら、生没年すら不明の謎につつまれた女性画家、妹の露香(?~1801頃)について説明していく。二人の桜花に対する徹底した研究ぶり、その桜画には博物学的な要素を多分に含みながらも、限りなく科学とは乖離し、<文学>の方向性を持っていたと著者は分析する。それが「三十六花撰」という志向に辿りついたと言う。三熊思考の活躍した時代には桜の品種は既に250種余りが知られていたとか。和歌の三十六歌仙になぞらえて、桜花を厳選し「三十六花撰」と洒落たのだろう。
  三熊思考は桜花図譜を『桜花帖』としてまとめていて、「桜花三十六品」の画家として知られていたという。
  一方、三熊露香は、兄思考の桜画技法の最も忠実な継承者であるにとどまらず、墨桜作品に個性的な桜画を生み出していく。思考と露香の作品を対比的に眺めるとなるほどと感じる。
  露香は兄・思考の三回忌に因んで、独自に折本形式の『桜の譜』を制作した。その桜画がすべて紹介されていて、目を楽しませてくれる。

 第3章 幻の桜宮 - 広瀬花隠
  著者は思考の唯一の弟子・広瀬花隠(1772?~1849頃)という画家の背景を説明し、松浦静山著『甲子夜話』に書き残された広瀬花隠の記述を参照しつつ、花隠が三十六花撰の神殿として、京都に、天性桜花を愛し邸の内外にあまたの桜花を植えたという桜町正二位中納言兼民部卿藤原茂範卿を敬い、桜宮造立勧進を推進した画家としての活動を論じている。
  そして、広瀬花隠筆「六々桜品」を紹介している。

 第3章と第4章の間に、コラム「普賢象の夢」が6ページで記されている。京都千本閻魔堂(引接寺)の境内に「普賢象」という名桜が咲く。この普賢象桜について、広瀬花隠との関わりを語り、花隠と露香の桜画が紹介されている。

 第4章 花惜しむ人 - 織田瑟々
  三熊派4人の中で唯一、織田瑟々(1779~1832)の墓所が確認されているという。瑟々が生まれた近江国で、現在の東近江市にある西蓮寺境内である。瑟々は二人目の夫と死別したのち剃髪し尼僧となり、中央画壇とは無縁に一人静かに桜画を描き続けたという。それ故余計に名が知れ渡っていない画家である。だが、織田瑟々もまた著者が「瑟々様」と呼びたいというほど独自の様式を確立した。近年京都において「桜花二十品図巻」が現れたという。本書に掲載されている。著者は「本格的な博物画としての桜花図譜と評価できる」作品と言う。文政11年(1828)と制作年が明記されている。それ以前に「桜花五種図」「桜品十三種図」が描かれていて、これらも掲載されている。博物画家としての力量を伝えていると著者は評している。瑟々の作品もまた見応えがある。
  瑟々は作品への署名の下につねに白文方印「惜花人」を捺した。花惜しむ人をもう一つの雅号とした。そして、三熊派の桜画を描く最後の残照となる。
 
 第Ⅱ部は「花を訪う人-松平定信の花園」で3章構成になっている。
 「第5章 造園狂の春 -松平定信『浴恩園』」「第6章 定信の五つの庭園と『庭の思想』」「第7章 桜花図譜『花のかがみ』-桃源郷の博物学」である。
 松平定信(1758~1829)と言えば、田沼時代の後に老中に就任し、「寛政の改革」を断行し、厳しい倹約令による財政緊縮政策を推進した中心人物という側面を学校教育の日本史で習っただけである。その政治家としてのイメージしかなかった。だが、将軍補佐・老中職を依願により辞した後は、白河藩という一大名として、藩政の建て直しの一方で、文化的活動に力を注いだ文化人という側面を行動で示したということを本書で学んだ。
 第5章で著者は浴恩園を語る。現在の築地あたりに、白河藩下屋敷があったという。松平定信はそこに江戸随一の名園・浴恩園を造園した。星野文良筆「浴恩園真景図巻」が残され、桜が咲き誇る「葉山の関から花の下道への景」の図が紹介されている。「千秋館の景」図にも桜が咲き誇る景色が描き込まれている。
 第6章では、浴恩園を筆頭に定信は5つの庭園を次々に造園して行った経緯と、定信が庭に抱く理念と思想を語っている。
 第7章がその極みを示している。松平定信が基本種として選び抜いた125種類の桜を桜花図譜として制作している。星野文良筆「花のかがみ」(花鑑)である。花は星野文良が描き、花銘を定信自身が揮毫している。全ての花を一定の視点で捉えて描くというスタイルである。例えば、花の正面と裏側、蕾や花茎の様子など。つまり、博物学的桜画が克明に描かれている。著者は、「桜花を知るための基本的な種類をまとめた図鑑」と説明している。奥書は松平定信の自筆であり、この個所もまた掲載されている。
 定信もまた桜狂の系譜の一人だったようである。

本書は2019年3月に刊行された。
 本書にまとめられた桜画が一堂に集められた特別展が実現したらすばらしい桜花づくしになるのではないか。展覧会から図録という流れではなく、本から展覧会という逆パターンもありではないか。そんな思いが湧いてきた。

 ご一読ありがとうございます。

『哲学する仏教』 藤田一照・山下良道・ネルケ無方・永井均  サンガ

2020-08-01 14:45:25 | レビュー
 本書のタイトルに惹かれて読んでみた。副題は「内山興正老師の思索をめぐって」である。「哲学する」という語句が「仏教」の修飾句になっている。どういう意味だろうか、という興味・・・・・。「まえがき」を読むと、内山興正老師が坐禅の実践を通じ心身で考え抜いた思索が「ブツダや道元も含めて他の仏教者には見られない哲学的高みに達していると言われる」(p4)と記されている。
 本書は内山興正著『進みと安らい-自己の世界』という仏教書を題材にして、内山老師の弟子筋にあたる3人と哲学者永井均の4人により、2019年に朝日カルチャーセンター新宿教室でリレー講座が行われたという。その時の講座名称が本書のタイトルとなったようだ。その意図は上記に絡むのだろう。その連続講座の記録に加筆修正が加えられて2019年11月に本書の刊行となった。
 『進みと安らい』は1969年に刊行されたが、その後著者の判断で絶版となっていたという。それが2019年に50年ぶりで復刊された。私はこの本の最初の出版も、復刊されていたことも知らなかった。そのため、この連続講座の中に各著者が講義として引用し解説する個所を通じて間接的部分的に『進みと安らい』の内容に触れたにすぎない。

 この本の冒頭には、『進みと安らい』に掲載された6枚の「自己曼画」が5ページにわたってまず紹介されている。蔓は曼荼羅の蔓が使われているという。この蔓画と章句の引用とその解釈・解説に弟子筋の講師それぞれの考えが加えられ講義の中心に取り込まれている。この自己曼画が中核になっているので、そのイメージを持っていただくために、永井均により講義の中で1枚のシートに再配置して使用されたものを引用する。

このシートは、右上を第1図にして反時計まわりに第6図まで配置されている。
第1図に付された一文がおもしろい。「屁一発でも貸し借り、ヤリトリできぬ自己の生命」とある。右下の第5図は上の四角の部分がアタマの状態を示し、その下が坐禅を組む人の姿を漫画にしている。この図には、「アタマの展開する世界の基本には『わが生命』があった!」という一文が記されている。

 本書はある意味で、この蔓画の絵解きとなっている。内山興正の著書からの章句を引用し、4人の共著者が現代時点でのそれぞれの視点から持論を展開していくところが読ませどころになる。
 本書は4つのセクションで構成されている。
 1.坐禅・安らいつつ進む道  藤田一照
 2.マインドフルネスという黒船来航前の内山老師  山下良道
 3.内山老師のいきづまり  ネルケ無方
 4.内山哲学は仏教を超える  永井均

 本書はおもしろいリレー講義集で、それぞれは独立した講義録である。通読しただけで残念ながら十分に理解できたと言えない。内山興正師並びに『進みと安らい』に関心を抱く契機になった。おもしろいと感じた点をご紹介する。
1.弟子筋の藤田一照、山下良道、ネルケ無方の3人が『進みと安らい』から引用する個所は共通するところがいくつかあるが、その解釈や引用の趣旨、論旨の展開がそれぞれの視点でかなり異なる。また、それぞれの論点について、相互に疑義を呈したり反論点について率直に述べている点がおもしろい。そこに底本へのスタンスの違いが現れている。
 この解釈や主張の食い違いが、我々にとっては考えるための幅を広げてくれる材料になっている。
2.永井均は『進みと安らい』における内山の論点を、哲学者の視点から、私秘性と独在性という概念を提示し、6枚の図を捉え直して論じていく。完全平板化と完全突出化、「妄想-現実」解釈と「娑婆-涅槃」解釈、没入人から見物人へ、などの考え方を加えて図の絵解きをしながら、内山興正の思索における図に混同個所があると己の見解として指摘している。その上で内山興正のいきづまりは自己誤解であるとする。他の3講義とは思考の切り口が全く異なるところがおもしろい。
 永井の講義の全体を私は十分に理解できたとは思えない。一番難解な講義内容だった。
3.永井は「あとがき」で「私は仏教というものをいろいろに批判している」と記す。
 そして、「真理の探求は(その真理のもちうる)価値から独立になされなければならない。そうであることにどんな価値があるかはわからないが、とにかく事実としてそうである、そうなっている、ということの認識こそが出発点でなければならないのだ。ここは決して譲れない一点である」と立場を明確にしている。

 さて、弟子筋の3人の講義内容に多少ふれて、ご紹介しておきたい。

藤田一照の講義
 第1回目の講義として、内山老師の説く「自己」の概念の解説と自己蔓画の図の絵解きを順番に行い、読者の理解を促進させる。そして、「進み」と「安らい」とについて、普通の観念での批判およびその二語の関係性を読者に分かりやすく解説していく。

山下良道の講義
 著者は、曹洞宗僧侶となった後、ミャンマーで具足戒を受け比丘となり、「マインドフルネス」を修し、ワンダルマ仏教僧に転じた。仏教史を「仏教1.0」(=昭和/昭和以前の仏教)、「仏教2.0」(=平成の仏教)、「仏教3.0」(=令和の仏教)と大きく区分して説明する。仏教3.0として「マインドフルネス」の視点から、内山の自己蔓画を、特にアタマと生命というコトバを軸に読み解き直していく。そして、第5図に「もう一つの意識」という新たな発見を加えて行く。

ネルケ無方の講義
 なぜ禅僧になったかという背景と永井先生への3つの問いを冒頭で触れた後、内山老師のいきづまりについて論じ、さらには道元禅師のいきづまりにも触れていく。興味深い点は、内山の自己蔓画を踏まえた上で、独自にアレンジした図を幾つか使って持論を展開していくところにある。内山興正著『御いのち抄』に出てくる2つの図「あたまといのちの漫画図」「生のいのち漫画図」を紹介して論を進める。
 宗教A、B、Cという形で、キリスト教と仏教を図式化して対比的に説明しているところも興味深い。

 最後に、本書で使われる内山老師の思索から生み出されたコトバをいくつか列挙して終わりにしたい。
 「自分は、自分だけは知りえない」「自分が知りうるのは自分だけ」
 「感嘆詞的自己」と「規定詞的自己」
 「ナマの生命の世界」と「アタマの展開した世界」、「真実の生命への出なおし」
 「自己ぎりの自己の世界」「現在ぎりの現在の世界」
 「私が坐禅をする」のではなく、「坐禅で私をする」こと
かなりユニークなコトバの使い方である。これらのコトバに興味を持たれたら、本書を手に取ってみるか、復刊された『進みと安らい-自己の世界』を開いて、理解を深めていただくとよい。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連してネット検索した事項を一覧にしておきたい。
内山興正  :ウィキペディア
内山興正老師語録(著作の抜粋) :「Wonderful Words by Roshi」
MONKMAGAGINE.vol.02 UCHIYAMA KOSHO ROSHI
インデクスは英語表記ですが、各ページは日本語での引用です。
オンライン禅コミュニティ 大空山磨塼寺  藤田一照オフィシャルウエブサイト
山下良道 一法庵 公式サイト
安泰寺 ホームページ
  ネルケ無方
ネルケ無方「人生の意味とは?」  YouTube
ネルケ無方の処方箋  :「仏教伝道教会」
永井均  :ウィキペディア
永井均(@hitoshinagai1)・Twitter
なぜ子ども時代の問いを持ち続けられたのか  :「哲楽」

    インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)