この小説のメイン・テーマは、釈尊が弟子に語った訓話集『発句経』の「怨みごころは怨みを捨てることによってのみ消ゆる」という一節だと思う。興福寺の悪僧(僧兵)に身を落とした範長(はんちょう)が、様々な戦いと行動・葛藤を経てこの釈尊のメッセージを体得するに至るプロセスを描くことにあると受け止めた。
そして、サブ・テーマは、兵火で焼亡し、興福寺が再興されるまでのプロセスを描くことにある。治承4年(1181)12月28日に大将軍平重衡が率いる平家軍が南都焼討を行うという事件が発生する。これにより東大寺・興福寺をはじめ南都諸寺が灰燼に帰した。
この年の末に興福寺の別当職を継いだ信円が筆頭に立ち、焼亡した興福寺の復興に邁進するプロセスを描く。このプロセスは、3つの観点で描かれて行く。1つは別当として復興の先頭に立つ信円の思考と心の動きを描くこと。2つめは、興福寺という藤原氏の氏寺の伽藍再建計画の進捗の紆余曲折を描くこと。3つめは消滅した仏像の造立と救い出した仏像の修復など、興福寺を寺たらしめる仏像造立の側面を描くことにある。そこに仏師康慶・運慶父子が登場する。特に運慶の視点から興福寺復興に関わる仏像造立が描かれて行く。
このストーリーの構成でまず興味深いのはやはり人間関係という観点である。
関白摂政を歴任した祖父藤原忠実に伴われて、範長は9歳で興福寺一乗院に学侶となるべく入室した。範長の父は宇治左大臣藤原頼長。世が世なら、範長は将来一乗院の院主となる期待を担っていた。しかし、わずか3年後、保元の乱により父と祖父が失脚し、範長の境遇が激変する。範長は当時の一乗院院主の言で、約10年間、南都の外・山辺郡の内山永久寺に派遣される。体良く追い出されたのだ。
その間に、保元の乱の勝者である関白・藤原忠通の四男が入室し、一乗院・大乗院を兼任する院主となる。それが信円である。10年後に興福寺に戻された範長は、衆徒に哀れみの目で迎えられる。範長にとり信円は従弟になる。信円は一乗院内に範長の居室を準備していた。だが、範長は自ら悪僧に身を落とす形で興福寺に棲む立場を取る。
範長と信円の人間関係には、両者の意識のギャップが付きまとっていく。信円は興福寺内において、藤原氏の血脈に繋がる従兄という目で己の立場を常に支えてくれると思っている。信円は保元の乱における範長の父・祖父の立場と対立した側に立つ者の子である。ある意味で範長に期待されていた座にとって代わった信円に対して範長は常に距離を置く。その確執は消えがたい。だが、範長は信円から常に頼りにされる立場になる。境遇並びに寄って立つ考え方・意識のギャップがある故に、範長は怨みごころに繋がる心の動きを消すことができない。冷めた目で信円を眺め続ける。
興福寺という寺の中での学侶と悪僧の人間関係、寺僧と仏師の人間関係、仏師の間における人間関係なども描かれて行く。南都諸寺の悪僧の間の人間関係も大きくこの時代に関わりを持っていく。更には、信円を介して藤原氏の氏寺と京の都の政治の場に居る藤原氏一族との人間関係も興福寺復興に関連していく。さらには、南都の寺々と南都の一般住民との関係も描き込まれていく。平安時代末期の興福寺を中心した人々の関係がリアル感を持ち描き込まれていく。
国司を大和国には置かないという古来の慣例を破り、平家は大和国検非違所を再興した。そして、大和国検非違使別当として妹尾兼康(せのおかねやす)を京より奈良に遣わすという挙に出る。検非違使別当が大勢の従者を引きつれ、般若坂越えで奈良に入ろうとする。それを南都諸寺の悪僧たちが阻止しようとする。新薬師寺の悪僧・永覚から報せを受けた範長は、永覚とともに般若坂に赴く。検非違使別当一行を追い返すだけのつもりが乱闘となり、結果的に範長は妹尾兼康の首を討ち取るという仕儀になる。これが因となり、平家軍による南都焼討に進展して行く。
ストーリーの最初の山場は平家軍が南都に侵攻するプロセスが描き出されるところだろう。南都諸寺の悪僧たちは、般若坂と奈良坂に防御線を敷き、見張りを置くことから始める。平家軍5万が奈良に攻め込むという。平家軍の先陣・阿波成良勢が川岸に陣を布いた南都勢に対することなく、12月27日の宵に泉川最大の湊である泉木津を襲うという挙に出た。まず南都の経済を支える泉木津の木屋所を破壊したのだ。般若坂も抜かれ、南都が焼討ちされる情景がダイナミックに描きだされていく。その渦中での範長、永覚などの行動とともに、都の同族から先に報せを受けた信円が取った行動も対比的に描き込まれていく。併せて、この焼討ちで興福寺の伽藍が炎上する最中に運慶たちが取った仏像を救い出す行動が併せて、鮮やかに描かれる。
南都焼討の関連で、先回りして一つ加えておく。文治元年(1185)、段ノ浦戦で平氏は滅亡する。しかし、平重衡は戦いの中で捕縛されて、鎌倉送りとなる。その重衡は南都側の要求を受けて、南都まで連れ戻されることになる。奈良に入る手前、泉木津で斬首される。この小説では、信円が興福寺復興を促進することと絡める形で、その斬首の役目を範長に担わせる画策をするという風に進展する。範長がどのような行動をとるか。それがまた、一つの山場として、読ませどころになっている。
余談だが、『平家物語』では、「重衡の斬られの事」という条に以下のような記述がある。一部抽出してみる。”南都の太衆、三位の中将請け取り奉って、「いかにすべき」と詮議す。・・・・・・「木津の辺にて斬らすべし」とて、つひに武士の手へ返されけり。武士、これを請け取って、木津河の側にて、既に斬り奉らんとしけるに、数千人の大衆、守護の武士。見る人幾千萬といふ数を知らず。・・・・・・中将、・・・・仏に向かひ奉って申されけるは、「・・・・・一念弥陀仏、即滅無量罪、願はくは、逆縁を以て順縁とし、ただ今の最後の念仏によって、九品蓮台に生を遂ぐべし」とて、首を延べてぞ討たせらる。・・・・・首をば、般若寺の門の前に、釘付けにこそしたりけれ。・・・・”と。
このストーリーでは、この箇所がどのようにフィクションとして描き込まれているかもお読みいただくとよい。勿論『平家物語』自体が史実を踏まえた語り物として脚色されているだろうから、比較するのもおもしろいかもしれない。
平家軍が引き上げた後、南都は諸寺が灰燼に帰す。東大寺、興福寺を始め、諸寺がその復興のためにどのような状況が起こっていくかが描き出されていく。東大寺は官寺の再建だが、興福寺は氏寺・私寺の再建である。大きく立場が異なる。
別当職を継いだ信円は、都の藤原氏同族を頼りつつ、興福寺復興の陣頭指揮を執る。それは、焼け野原の興福寺に居る信円と都の藤原氏一族との意識のギャップが大きく障害となるところから始まる。
興福寺の伽藍再建のプロセスで、どういう状況が生まれていたかを知れるのは興味深いところだ。特に建屋を築く良材の確保が如何に問題となったかを、リアルにイメージできる。
仏像造立に関わる仏師間の駆け引きなども描き込まれていておもしろい。
範長は一介の悪僧の立場で、興福寺の建物再建の一端に関わって行く。その過程で運慶とは対立を含みつつ交わりが進展していく。この両者の関わり合い方の描写が興味深い。そこには仏像をどのようにみるか、どのように扱うかが関わっている。
この興福寺再建の過程で、信円付きの稚児・なよ竹の行動の不審を探らざるを得ない立場に範長は置かれる。だが、それが契機となり範長は般若坂に近い荒ら家で養われる4人の孤児たちに関わって行くことになる。その一人は、焼討ちのあった折りに、範長が偶然にも助けた女の子であった。小萱と呼ばれていた。この孤児たちの面倒をみているのは身分のありそうな女性で公子と名乗る。範長はなよ竹と公子との関係を知らされ、公子がこの孤児たちの面倒をみている背景の思いを知るとともに、範長は己は今何をなすべきか、を問われ続けることになっていく。公子が何者か? なぜ孤児たちの面倒をみるのか? などは、本書を読む楽しみとして記さずにおこう。範長の生き様のターニング・ポイントになっていく女性である。
範長はこれら孤児たちを日常で支える立場になることを決断する。範長の意識の変化プロセスが、冒頭に記したメインテーマとむすびついていく。範長の意識変容と行動変容が、日々の興福寺再建行動と絡めながら描き込まれる。
だが、この関わりが発端で、範長の努力の甲斐無く悲劇が生まれることにもなっていく。範長の思い・行動とそこから引き起こされた悲劇的な結果。そして範長は興福寺を去るという最後の行動に突き進む。
何と言っても、範長の生き様が読ませどころとなる。
信円はある目論見を持ち、一行を引きつれて城下(しきのしも)郡にある山田寺に出向く。そこで偶然、信円は範長と再会することになる。このストーリーの最後の場面は山場であり、読ませどころとなる。
この時の信円の心中が次のように記されている。「寺に戻る気はありませぬか、と尋ねそうになって、慌てて口を閉ざす。問うまでもない。そう訊くこと自体が、もはや血縁を恃みにした愚かな妄執だ」と。
藤原氏という血縁にありながら、悪僧の立場であった範長と氏寺興福寺の院主・別当となった信円の二人の考え方、意識のギャップは最後まで埋まることがない。そのこと自体の描写が、ある意味でメイン・テーマを際立たせることにもなっている。
当時の時代を背景にして、日本の寺と寺僧とは何かを考える材料にも富む小説である。
最後に、タイトルの「龍華記」はどこから名づけられたのだろう。南都焼討の在り様を描写するところに、次の箇所がある。
「・・・・目の前の暗がりが突如、輝くばかりの朱色に輝き始めた。その中心から立ち上がった巨大な緋色の龍が、四囲に金砂を撒き散らし、轟音を上げて天に駈け昇ってゆく。およそこの世のものとは思えぬその光景に、範長は茫然と頭上を仰いだ。
違う。あれは龍などではない。猿沢池に臨み、朝な夕な優美な影を水面におとしていた五重塔。それが劫火に包まれ、各層から噴き出た焔を龍の鱗の如く輝かせているのだ。
逆巻く風に、風鐸が悲鳴のような音を立てる。各層の裳階から噴き出た火炎が風に躍り、灼熱の焔に焙られて溶けた露盤が、九輪が、水煙が、ぼたぼたと玉虫色に輝きながら地に滴り、そのたび、下草に眩くも恐ろしい紅の花が咲く。」(p86)
五重塔が燃えさかる壮絶な、かつ美しい描写から名づけられたのだろうと、私は思う。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット検索した結果を一覧にしておきたい。
興福寺 ホームページ
興福寺の歴史
興福寺 :ウィキペディア
一乗院 :「コトバンク」
一乗院 :「奈良歴史見聞録」
興福寺一乗院跡 (現奈良地方裁判所)
名勝 旧大乗院庭園とは :「奈良ホテル」
大乗院 :「コトバンク」
和州奈良之図 :「古地図コレクション」(古地図資料閲覧サービス)
新薬師寺 公式ホームページ
般若寺 ~コスモス寺~ 公式ホームページ
般若坂 :「坂のプロフィール」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『火定』 PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』 集英社文庫
『腐れ梅』 集英社
『若冲』 文藝春秋
『弧鷹の天』 徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』 徳間書店
そして、サブ・テーマは、兵火で焼亡し、興福寺が再興されるまでのプロセスを描くことにある。治承4年(1181)12月28日に大将軍平重衡が率いる平家軍が南都焼討を行うという事件が発生する。これにより東大寺・興福寺をはじめ南都諸寺が灰燼に帰した。
この年の末に興福寺の別当職を継いだ信円が筆頭に立ち、焼亡した興福寺の復興に邁進するプロセスを描く。このプロセスは、3つの観点で描かれて行く。1つは別当として復興の先頭に立つ信円の思考と心の動きを描くこと。2つめは、興福寺という藤原氏の氏寺の伽藍再建計画の進捗の紆余曲折を描くこと。3つめは消滅した仏像の造立と救い出した仏像の修復など、興福寺を寺たらしめる仏像造立の側面を描くことにある。そこに仏師康慶・運慶父子が登場する。特に運慶の視点から興福寺復興に関わる仏像造立が描かれて行く。
このストーリーの構成でまず興味深いのはやはり人間関係という観点である。
関白摂政を歴任した祖父藤原忠実に伴われて、範長は9歳で興福寺一乗院に学侶となるべく入室した。範長の父は宇治左大臣藤原頼長。世が世なら、範長は将来一乗院の院主となる期待を担っていた。しかし、わずか3年後、保元の乱により父と祖父が失脚し、範長の境遇が激変する。範長は当時の一乗院院主の言で、約10年間、南都の外・山辺郡の内山永久寺に派遣される。体良く追い出されたのだ。
その間に、保元の乱の勝者である関白・藤原忠通の四男が入室し、一乗院・大乗院を兼任する院主となる。それが信円である。10年後に興福寺に戻された範長は、衆徒に哀れみの目で迎えられる。範長にとり信円は従弟になる。信円は一乗院内に範長の居室を準備していた。だが、範長は自ら悪僧に身を落とす形で興福寺に棲む立場を取る。
範長と信円の人間関係には、両者の意識のギャップが付きまとっていく。信円は興福寺内において、藤原氏の血脈に繋がる従兄という目で己の立場を常に支えてくれると思っている。信円は保元の乱における範長の父・祖父の立場と対立した側に立つ者の子である。ある意味で範長に期待されていた座にとって代わった信円に対して範長は常に距離を置く。その確執は消えがたい。だが、範長は信円から常に頼りにされる立場になる。境遇並びに寄って立つ考え方・意識のギャップがある故に、範長は怨みごころに繋がる心の動きを消すことができない。冷めた目で信円を眺め続ける。
興福寺という寺の中での学侶と悪僧の人間関係、寺僧と仏師の人間関係、仏師の間における人間関係なども描かれて行く。南都諸寺の悪僧の間の人間関係も大きくこの時代に関わりを持っていく。更には、信円を介して藤原氏の氏寺と京の都の政治の場に居る藤原氏一族との人間関係も興福寺復興に関連していく。さらには、南都の寺々と南都の一般住民との関係も描き込まれていく。平安時代末期の興福寺を中心した人々の関係がリアル感を持ち描き込まれていく。
国司を大和国には置かないという古来の慣例を破り、平家は大和国検非違所を再興した。そして、大和国検非違使別当として妹尾兼康(せのおかねやす)を京より奈良に遣わすという挙に出る。検非違使別当が大勢の従者を引きつれ、般若坂越えで奈良に入ろうとする。それを南都諸寺の悪僧たちが阻止しようとする。新薬師寺の悪僧・永覚から報せを受けた範長は、永覚とともに般若坂に赴く。検非違使別当一行を追い返すだけのつもりが乱闘となり、結果的に範長は妹尾兼康の首を討ち取るという仕儀になる。これが因となり、平家軍による南都焼討に進展して行く。
ストーリーの最初の山場は平家軍が南都に侵攻するプロセスが描き出されるところだろう。南都諸寺の悪僧たちは、般若坂と奈良坂に防御線を敷き、見張りを置くことから始める。平家軍5万が奈良に攻め込むという。平家軍の先陣・阿波成良勢が川岸に陣を布いた南都勢に対することなく、12月27日の宵に泉川最大の湊である泉木津を襲うという挙に出た。まず南都の経済を支える泉木津の木屋所を破壊したのだ。般若坂も抜かれ、南都が焼討ちされる情景がダイナミックに描きだされていく。その渦中での範長、永覚などの行動とともに、都の同族から先に報せを受けた信円が取った行動も対比的に描き込まれていく。併せて、この焼討ちで興福寺の伽藍が炎上する最中に運慶たちが取った仏像を救い出す行動が併せて、鮮やかに描かれる。
南都焼討の関連で、先回りして一つ加えておく。文治元年(1185)、段ノ浦戦で平氏は滅亡する。しかし、平重衡は戦いの中で捕縛されて、鎌倉送りとなる。その重衡は南都側の要求を受けて、南都まで連れ戻されることになる。奈良に入る手前、泉木津で斬首される。この小説では、信円が興福寺復興を促進することと絡める形で、その斬首の役目を範長に担わせる画策をするという風に進展する。範長がどのような行動をとるか。それがまた、一つの山場として、読ませどころになっている。
余談だが、『平家物語』では、「重衡の斬られの事」という条に以下のような記述がある。一部抽出してみる。”南都の太衆、三位の中将請け取り奉って、「いかにすべき」と詮議す。・・・・・・「木津の辺にて斬らすべし」とて、つひに武士の手へ返されけり。武士、これを請け取って、木津河の側にて、既に斬り奉らんとしけるに、数千人の大衆、守護の武士。見る人幾千萬といふ数を知らず。・・・・・・中将、・・・・仏に向かひ奉って申されけるは、「・・・・・一念弥陀仏、即滅無量罪、願はくは、逆縁を以て順縁とし、ただ今の最後の念仏によって、九品蓮台に生を遂ぐべし」とて、首を延べてぞ討たせらる。・・・・・首をば、般若寺の門の前に、釘付けにこそしたりけれ。・・・・”と。
このストーリーでは、この箇所がどのようにフィクションとして描き込まれているかもお読みいただくとよい。勿論『平家物語』自体が史実を踏まえた語り物として脚色されているだろうから、比較するのもおもしろいかもしれない。
平家軍が引き上げた後、南都は諸寺が灰燼に帰す。東大寺、興福寺を始め、諸寺がその復興のためにどのような状況が起こっていくかが描き出されていく。東大寺は官寺の再建だが、興福寺は氏寺・私寺の再建である。大きく立場が異なる。
別当職を継いだ信円は、都の藤原氏同族を頼りつつ、興福寺復興の陣頭指揮を執る。それは、焼け野原の興福寺に居る信円と都の藤原氏一族との意識のギャップが大きく障害となるところから始まる。
興福寺の伽藍再建のプロセスで、どういう状況が生まれていたかを知れるのは興味深いところだ。特に建屋を築く良材の確保が如何に問題となったかを、リアルにイメージできる。
仏像造立に関わる仏師間の駆け引きなども描き込まれていておもしろい。
範長は一介の悪僧の立場で、興福寺の建物再建の一端に関わって行く。その過程で運慶とは対立を含みつつ交わりが進展していく。この両者の関わり合い方の描写が興味深い。そこには仏像をどのようにみるか、どのように扱うかが関わっている。
この興福寺再建の過程で、信円付きの稚児・なよ竹の行動の不審を探らざるを得ない立場に範長は置かれる。だが、それが契機となり範長は般若坂に近い荒ら家で養われる4人の孤児たちに関わって行くことになる。その一人は、焼討ちのあった折りに、範長が偶然にも助けた女の子であった。小萱と呼ばれていた。この孤児たちの面倒をみているのは身分のありそうな女性で公子と名乗る。範長はなよ竹と公子との関係を知らされ、公子がこの孤児たちの面倒をみている背景の思いを知るとともに、範長は己は今何をなすべきか、を問われ続けることになっていく。公子が何者か? なぜ孤児たちの面倒をみるのか? などは、本書を読む楽しみとして記さずにおこう。範長の生き様のターニング・ポイントになっていく女性である。
範長はこれら孤児たちを日常で支える立場になることを決断する。範長の意識の変化プロセスが、冒頭に記したメインテーマとむすびついていく。範長の意識変容と行動変容が、日々の興福寺再建行動と絡めながら描き込まれる。
だが、この関わりが発端で、範長の努力の甲斐無く悲劇が生まれることにもなっていく。範長の思い・行動とそこから引き起こされた悲劇的な結果。そして範長は興福寺を去るという最後の行動に突き進む。
何と言っても、範長の生き様が読ませどころとなる。
信円はある目論見を持ち、一行を引きつれて城下(しきのしも)郡にある山田寺に出向く。そこで偶然、信円は範長と再会することになる。このストーリーの最後の場面は山場であり、読ませどころとなる。
この時の信円の心中が次のように記されている。「寺に戻る気はありませぬか、と尋ねそうになって、慌てて口を閉ざす。問うまでもない。そう訊くこと自体が、もはや血縁を恃みにした愚かな妄執だ」と。
藤原氏という血縁にありながら、悪僧の立場であった範長と氏寺興福寺の院主・別当となった信円の二人の考え方、意識のギャップは最後まで埋まることがない。そのこと自体の描写が、ある意味でメイン・テーマを際立たせることにもなっている。
当時の時代を背景にして、日本の寺と寺僧とは何かを考える材料にも富む小説である。
最後に、タイトルの「龍華記」はどこから名づけられたのだろう。南都焼討の在り様を描写するところに、次の箇所がある。
「・・・・目の前の暗がりが突如、輝くばかりの朱色に輝き始めた。その中心から立ち上がった巨大な緋色の龍が、四囲に金砂を撒き散らし、轟音を上げて天に駈け昇ってゆく。およそこの世のものとは思えぬその光景に、範長は茫然と頭上を仰いだ。
違う。あれは龍などではない。猿沢池に臨み、朝な夕な優美な影を水面におとしていた五重塔。それが劫火に包まれ、各層から噴き出た焔を龍の鱗の如く輝かせているのだ。
逆巻く風に、風鐸が悲鳴のような音を立てる。各層の裳階から噴き出た火炎が風に躍り、灼熱の焔に焙られて溶けた露盤が、九輪が、水煙が、ぼたぼたと玉虫色に輝きながら地に滴り、そのたび、下草に眩くも恐ろしい紅の花が咲く。」(p86)
五重塔が燃えさかる壮絶な、かつ美しい描写から名づけられたのだろうと、私は思う。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、ネット検索した結果を一覧にしておきたい。
興福寺 ホームページ
興福寺の歴史
興福寺 :ウィキペディア
一乗院 :「コトバンク」
一乗院 :「奈良歴史見聞録」
興福寺一乗院跡 (現奈良地方裁判所)
名勝 旧大乗院庭園とは :「奈良ホテル」
大乗院 :「コトバンク」
和州奈良之図 :「古地図コレクション」(古地図資料閲覧サービス)
新薬師寺 公式ホームページ
般若寺 ~コスモス寺~ 公式ホームページ
般若坂 :「坂のプロフィール」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『火定』 PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』 集英社文庫
『腐れ梅』 集英社
『若冲』 文藝春秋
『弧鷹の天』 徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』 徳間書店