遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『龍華記』  澤田瞳子  KADOKAWA

2019-03-31 18:53:52 | レビュー
 この小説のメイン・テーマは、釈尊が弟子に語った訓話集『発句経』の「怨みごころは怨みを捨てることによってのみ消ゆる」という一節だと思う。興福寺の悪僧(僧兵)に身を落とした範長(はんちょう)が、様々な戦いと行動・葛藤を経てこの釈尊のメッセージを体得するに至るプロセスを描くことにあると受け止めた。

 そして、サブ・テーマは、兵火で焼亡し、興福寺が再興されるまでのプロセスを描くことにある。治承4年(1181)12月28日に大将軍平重衡が率いる平家軍が南都焼討を行うという事件が発生する。これにより東大寺・興福寺をはじめ南都諸寺が灰燼に帰した。
 この年の末に興福寺の別当職を継いだ信円が筆頭に立ち、焼亡した興福寺の復興に邁進するプロセスを描く。このプロセスは、3つの観点で描かれて行く。1つは別当として復興の先頭に立つ信円の思考と心の動きを描くこと。2つめは、興福寺という藤原氏の氏寺の伽藍再建計画の進捗の紆余曲折を描くこと。3つめは消滅した仏像の造立と救い出した仏像の修復など、興福寺を寺たらしめる仏像造立の側面を描くことにある。そこに仏師康慶・運慶父子が登場する。特に運慶の視点から興福寺復興に関わる仏像造立が描かれて行く。

 このストーリーの構成でまず興味深いのはやはり人間関係という観点である。
 関白摂政を歴任した祖父藤原忠実に伴われて、範長は9歳で興福寺一乗院に学侶となるべく入室した。範長の父は宇治左大臣藤原頼長。世が世なら、範長は将来一乗院の院主となる期待を担っていた。しかし、わずか3年後、保元の乱により父と祖父が失脚し、範長の境遇が激変する。範長は当時の一乗院院主の言で、約10年間、南都の外・山辺郡の内山永久寺に派遣される。体良く追い出されたのだ。
 その間に、保元の乱の勝者である関白・藤原忠通の四男が入室し、一乗院・大乗院を兼任する院主となる。それが信円である。10年後に興福寺に戻された範長は、衆徒に哀れみの目で迎えられる。範長にとり信円は従弟になる。信円は一乗院内に範長の居室を準備していた。だが、範長は自ら悪僧に身を落とす形で興福寺に棲む立場を取る。
 範長と信円の人間関係には、両者の意識のギャップが付きまとっていく。信円は興福寺内において、藤原氏の血脈に繋がる従兄という目で己の立場を常に支えてくれると思っている。信円は保元の乱における範長の父・祖父の立場と対立した側に立つ者の子である。ある意味で範長に期待されていた座にとって代わった信円に対して範長は常に距離を置く。その確執は消えがたい。だが、範長は信円から常に頼りにされる立場になる。境遇並びに寄って立つ考え方・意識のギャップがある故に、範長は怨みごころに繋がる心の動きを消すことができない。冷めた目で信円を眺め続ける。

 興福寺という寺の中での学侶と悪僧の人間関係、寺僧と仏師の人間関係、仏師の間における人間関係なども描かれて行く。南都諸寺の悪僧の間の人間関係も大きくこの時代に関わりを持っていく。更には、信円を介して藤原氏の氏寺と京の都の政治の場に居る藤原氏一族との人間関係も興福寺復興に関連していく。さらには、南都の寺々と南都の一般住民との関係も描き込まれていく。平安時代末期の興福寺を中心した人々の関係がリアル感を持ち描き込まれていく。

 国司を大和国には置かないという古来の慣例を破り、平家は大和国検非違所を再興した。そして、大和国検非違使別当として妹尾兼康(せのおかねやす)を京より奈良に遣わすという挙に出る。検非違使別当が大勢の従者を引きつれ、般若坂越えで奈良に入ろうとする。それを南都諸寺の悪僧たちが阻止しようとする。新薬師寺の悪僧・永覚から報せを受けた範長は、永覚とともに般若坂に赴く。検非違使別当一行を追い返すだけのつもりが乱闘となり、結果的に範長は妹尾兼康の首を討ち取るという仕儀になる。これが因となり、平家軍による南都焼討に進展して行く。
 ストーリーの最初の山場は平家軍が南都に侵攻するプロセスが描き出されるところだろう。南都諸寺の悪僧たちは、般若坂と奈良坂に防御線を敷き、見張りを置くことから始める。平家軍5万が奈良に攻め込むという。平家軍の先陣・阿波成良勢が川岸に陣を布いた南都勢に対することなく、12月27日の宵に泉川最大の湊である泉木津を襲うという挙に出た。まず南都の経済を支える泉木津の木屋所を破壊したのだ。般若坂も抜かれ、南都が焼討ちされる情景がダイナミックに描きだされていく。その渦中での範長、永覚などの行動とともに、都の同族から先に報せを受けた信円が取った行動も対比的に描き込まれていく。併せて、この焼討ちで興福寺の伽藍が炎上する最中に運慶たちが取った仏像を救い出す行動が併せて、鮮やかに描かれる。

 南都焼討の関連で、先回りして一つ加えておく。文治元年(1185)、段ノ浦戦で平氏は滅亡する。しかし、平重衡は戦いの中で捕縛されて、鎌倉送りとなる。その重衡は南都側の要求を受けて、南都まで連れ戻されることになる。奈良に入る手前、泉木津で斬首される。この小説では、信円が興福寺復興を促進することと絡める形で、その斬首の役目を範長に担わせる画策をするという風に進展する。範長がどのような行動をとるか。それがまた、一つの山場として、読ませどころになっている。
 余談だが、『平家物語』では、「重衡の斬られの事」という条に以下のような記述がある。一部抽出してみる。”南都の太衆、三位の中将請け取り奉って、「いかにすべき」と詮議す。・・・・・・「木津の辺にて斬らすべし」とて、つひに武士の手へ返されけり。武士、これを請け取って、木津河の側にて、既に斬り奉らんとしけるに、数千人の大衆、守護の武士。見る人幾千萬といふ数を知らず。・・・・・・中将、・・・・仏に向かひ奉って申されけるは、「・・・・・一念弥陀仏、即滅無量罪、願はくは、逆縁を以て順縁とし、ただ今の最後の念仏によって、九品蓮台に生を遂ぐべし」とて、首を延べてぞ討たせらる。・・・・・首をば、般若寺の門の前に、釘付けにこそしたりけれ。・・・・”と。
このストーリーでは、この箇所がどのようにフィクションとして描き込まれているかもお読みいただくとよい。勿論『平家物語』自体が史実を踏まえた語り物として脚色されているだろうから、比較するのもおもしろいかもしれない。

 平家軍が引き上げた後、南都は諸寺が灰燼に帰す。東大寺、興福寺を始め、諸寺がその復興のためにどのような状況が起こっていくかが描き出されていく。東大寺は官寺の再建だが、興福寺は氏寺・私寺の再建である。大きく立場が異なる。
 別当職を継いだ信円は、都の藤原氏同族を頼りつつ、興福寺復興の陣頭指揮を執る。それは、焼け野原の興福寺に居る信円と都の藤原氏一族との意識のギャップが大きく障害となるところから始まる。
 興福寺の伽藍再建のプロセスで、どういう状況が生まれていたかを知れるのは興味深いところだ。特に建屋を築く良材の確保が如何に問題となったかを、リアルにイメージできる。
 仏像造立に関わる仏師間の駆け引きなども描き込まれていておもしろい。

 範長は一介の悪僧の立場で、興福寺の建物再建の一端に関わって行く。その過程で運慶とは対立を含みつつ交わりが進展していく。この両者の関わり合い方の描写が興味深い。そこには仏像をどのようにみるか、どのように扱うかが関わっている。

 この興福寺再建の過程で、信円付きの稚児・なよ竹の行動の不審を探らざるを得ない立場に範長は置かれる。だが、それが契機となり範長は般若坂に近い荒ら家で養われる4人の孤児たちに関わって行くことになる。その一人は、焼討ちのあった折りに、範長が偶然にも助けた女の子であった。小萱と呼ばれていた。この孤児たちの面倒をみているのは身分のありそうな女性で公子と名乗る。範長はなよ竹と公子との関係を知らされ、公子がこの孤児たちの面倒をみている背景の思いを知るとともに、範長は己は今何をなすべきか、を問われ続けることになっていく。公子が何者か? なぜ孤児たちの面倒をみるのか? などは、本書を読む楽しみとして記さずにおこう。範長の生き様のターニング・ポイントになっていく女性である。
 範長はこれら孤児たちを日常で支える立場になることを決断する。範長の意識の変化プロセスが、冒頭に記したメインテーマとむすびついていく。範長の意識変容と行動変容が、日々の興福寺再建行動と絡めながら描き込まれる。
 だが、この関わりが発端で、範長の努力の甲斐無く悲劇が生まれることにもなっていく。範長の思い・行動とそこから引き起こされた悲劇的な結果。そして範長は興福寺を去るという最後の行動に突き進む。
 何と言っても、範長の生き様が読ませどころとなる。

 信円はある目論見を持ち、一行を引きつれて城下(しきのしも)郡にある山田寺に出向く。そこで偶然、信円は範長と再会することになる。このストーリーの最後の場面は山場であり、読ませどころとなる。
 この時の信円の心中が次のように記されている。「寺に戻る気はありませぬか、と尋ねそうになって、慌てて口を閉ざす。問うまでもない。そう訊くこと自体が、もはや血縁を恃みにした愚かな妄執だ」と。
 藤原氏という血縁にありながら、悪僧の立場であった範長と氏寺興福寺の院主・別当となった信円の二人の考え方、意識のギャップは最後まで埋まることがない。そのこと自体の描写が、ある意味でメイン・テーマを際立たせることにもなっている。
 当時の時代を背景にして、日本の寺と寺僧とは何かを考える材料にも富む小説である。
 最後に、タイトルの「龍華記」はどこから名づけられたのだろう。南都焼討の在り様を描写するところに、次の箇所がある。
 「・・・・目の前の暗がりが突如、輝くばかりの朱色に輝き始めた。その中心から立ち上がった巨大な緋色の龍が、四囲に金砂を撒き散らし、轟音を上げて天に駈け昇ってゆく。およそこの世のものとは思えぬその光景に、範長は茫然と頭上を仰いだ。
  違う。あれは龍などではない。猿沢池に臨み、朝な夕な優美な影を水面におとしていた五重塔。それが劫火に包まれ、各層から噴き出た焔を龍の鱗の如く輝かせているのだ。
  逆巻く風に、風鐸が悲鳴のような音を立てる。各層の裳階から噴き出た火炎が風に躍り、灼熱の焔に焙られて溶けた露盤が、九輪が、水煙が、ぼたぼたと玉虫色に輝きながら地に滴り、そのたび、下草に眩くも恐ろしい紅の花が咲く。」(p86)
 五重塔が燃えさかる壮絶な、かつ美しい描写から名づけられたのだろうと、私は思う。
 ご一読ありがとうございます。


本書に関連して、ネット検索した結果を一覧にしておきたい。
興福寺 ホームページ 
  興福寺の歴史
興福寺  :ウィキペディア
一乗院  :「コトバンク」
一乗院  :「奈良歴史見聞録」
  興福寺一乗院跡 (現奈良地方裁判所) 
名勝 旧大乗院庭園とは  :「奈良ホテル」
大乗院  :「コトバンク」
和州奈良之図  :「古地図コレクション」(古地図資料閲覧サービス)
新薬師寺 公式ホームページ
般若寺 ~コスモス寺~ 公式ホームページ 
般若坂  :「坂のプロフィール」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店

『跳ぶ男』  青山文平  文藝春秋

2019-03-27 23:57:03 | レビュー
 能を鑑賞する機会を時折得て、能楽堂に足を運ぶことがある。だが、謡曲や能を習うことなく、能鑑賞には関心があるという門外漢にとって、この小説は江戸時代に幕府の式楽となった時点での「能」がどのようなものであり、大名たちの間で能がどのような機能・役割を担っていたかを知る機会にもなった。このストーリーはフィクションであるが、当時式楽となった能の有り様と、能の演目並びに能が演じられる際の決まり事などは、史実を踏まえているのだろうと思う。そう受け止めると、知識として学ぶことも多かった。
 著者が能・謡曲について長年嗜んできた経験を基盤にしているのか、この小説のテーマと構成を設定して能の世界を知的に探求した結果を踏まえているのか、その点はどうなのかは知らない。能や謡曲の世界を経験されている方には、門外漢の私とは違う視点で、能そのものに対する著者の解釈や記述等を自己の知識・体験と対比し分析的に読みみ込める興味深い小説になると思う。

 この小説のテーマは、身代わりという仮面を付けさせられた男が、己の能を演じきることで、身代わりの目的をやり遂げる生き様を描くことである。
 能にしか己が生き延びる道がないと思い定めた屋島剛(やしまたける)がある日突然藩主の身代わりにされる。剛は己の能を手段にして、憧れですらあった能舞台に立ち、己の能を演じきる。その能のスゴさが口コミで大名間に伝わり、有力大名から次々に招請があり、次々に能を演じて行き、能を介して目的とする関係性に達する。剛は奇策を発想し、己の自裁と引き替えに、身代わりの目的である藩主継承への道作りを終える。能一筋の屋島剛の生き様がここに創造されていく。

 さて、本書の面白さ、興味深さには上記と重なるが2つの柱がある。
1.江戸時代の大名の間で式楽として広まった能の有り様と能を演じる折りの決めごとがかなり詳細に描き込まれていく。
  この知識内容や能の世界に関心のない人には、取りつきにくく、おもしろくない小説と途中から感じ投げ出すかもしれない。
2.屋島剛は石舞台を能舞台として、一人で能の跳ぶ技を修練し続け、藩主の身代わりを演じ、能を演じて、16歳で奇策を案出し己の自裁により与えられた目的を達成する。屋島剛という男の生き様ストーリーを描く。
  こちらに目を向けると、波乱万丈・紆余曲折の短い人生だが濃密な人生ストーリーとなる。おもしろい。

 そこで、このストーリーに少し触れておこう。
 ストーリーの舞台は、前段は藤戸藩二万二千石の領内。藤戸藩は高い段丘の上の台地にあり、領内に大きな川や豊かな水田がない貧しい藩で、藩の表高と裏高は同じで、含み資産がない。段丘の崖下を大きな川が流れるが、その河原は野宮と称され、死者の遺体は浅く埋めて、川の増水で海へ流し出す。つまり小さな仮墓は別地にあるが、死者を葬った本当の墓がない藩である。その野宮の近くに、死者を野宮に運び葬送をする人々からは隠れていて、誰も知らない能舞台ほどの平坦な大岩がある。それを岩船保が石舞台と名づけた。
 屋島剛は、道具役、屋島五郎の長男として生まれるが、6歳で生母を亡くし、乳母の乳でしばらく育つ。その乳母が父の後妻となることで苛めを受け始め、その後妻が妊り男児が誕生すると、長男の立場を追われる境遇になる。道具役は藩で能を担当する役割でもある。剛は屋島家で居る場所がなくなり、6歳以降、石舞台で能を練習するのが己の生きる唯一の道に繋がると思い定める。石舞台を己の居場所とする。
 岩船保はもう一人の道具役岩船光昭の長子である。剛より年長。彼は能・謡曲を良くするとともに、英才の誉れが高く、俊傑への路を歩む。剛は石船保を能における己の師と位置づける。岩船家の家の庭から能を拝見する機会以外は、石舞台で保の導きを受け、あとは一人で修練を積む。岩船保は藩校に進み、文武を磨いていく。だが、17歳の時にある事件が起こり、藩門閥の子弟である半藤拾史郎に刃を向ける結果となり、岩船保は切腹する。その事件を取り調べたのが目付の鵜飼又四郎だった。保は理由の一端として「能は侮られてよいものではない」と述べたという。
 江戸屋敷で16歳の藩主が風病で死亡した。そのことが剛の人生に関わって行く。
 公儀の法で藩主が死亡したとき「急養子」の制度が設けられていたが、それが適用されるのは、死亡した藩主が17歳以上の場合である。つまり、藤戸藩は廃藩という存亡の危機に立つ。岩船保が実は適材だったのだが、思わぬ事件で切腹して果てた。その岩船保が屋島剛の事を又四郎に語っていたのだった。
 保は、剛のことを「素晴らしい役者」「想いも寄らぬことをやる」「うらやましい」と評していたのだ。
 又四郎は、屋島剛を死んだ藩主の身代わりに立てる画策をする。江戸屋敷に剛を同道し、密かに藩主の身代わりを務めさせるのだ。剛はこの時15歳であるが、1歳くらいのさばを読む事くらいは出来る。
 石舞台で剛は能の修練を行う。保の導き以外は自問自答で修練する日々を送る。そして「跳ぶ」という所作に撃ち込む。「トビ安座」「トビ返リ」をひたすら繰り返し研ぎ上げる。そして「仏ダオレ」の修練をやってみるが、しくじった。
 その時、剛を助け介抱するのが鵜飼又四郎である。

 中段は、藤戸藩領での又四郎の語りから始まり、藤戸藩江戸屋敷への道中のプロセスが描かれるあたりと言えるだろう。
 又四郎が剛を藤戸藩十六代御藩主、武井甲斐守景道の身代わりにするのである。そのために、必要な様々な情報を又四郎は剛に伝えていく。要らない話、要る話を両面織り交ぜながら、様々な側面に話が及ぶ。岩船保を身代わりに立てるつもりが思わぬ事態となり、その身代わりのお鉢が剛となったのである。
 剛には、保が言った「この国をちゃんとした墓参りができる国にする」という言葉が頭に焼き付いている。剛は保の身代わりという立場なのだという理解を介して、死んだ藩主の身代わりになることを我が身に引き寄せていく。
 江戸在府の藩主に課せられた年中行事における江戸城内の様子から始まり、末端大名にとって要る話が全て又四郎から剛に伝授されていく。大名にとって、式楽となった能の持つ意味とその役割、大名にとっての関わりが語られる。
 さらには、藤戸藩と能との関わりが明らかにされていく。要る話として、先々代の文林院様が能において大名の間で一目置かれていた事実と外向き・内向きでの功罪も語られて行く。文林院様のもとで小姓の又四郎が能の子方として鍛えられたことにも触れる。又四郎は、目付として剣の腕も立つが、能の世界について博識となっていた。その知識をも、道中で、また江戸屋敷で、藩主身代わりとなっる剛に伝授していく。
 この又四郎による能に関連した剛への語りが、読者にとっては能の世界の知識学習につながっていく。勿論、著者の解釈を通しての知識情報と言えるが。
 道中で跳び、逃げ出す機会もあるが、剛は自らその機会を封じてしまう。
 藩主の身代わりとなり、大名の間での能の上演という魅力が剛の中に沸き起こっていく。剛には石舞台の上での能修練の経験しかなかったのだから。

 後段は、藤戸藩江戸屋敷で、剛は藩主の身代わりを演じる。外面は藩主そのものとして行動する。江戸屋敷内で藩主の顔を直接見せる場を極力なくすために、又四郎が取り次ぎの役割を果たす立場になっていく。大名の間では藤戸藩当代藩主の顔を知る者はいない。
江戸留守居役の井波八右衛門がもう一人の情報源として剛の前に登場する。彼は、当然ながら大名事情や江戸城内の事情に詳しく、その一方で和歌のことにも堪能な家臣だった。又四郎と八右衛門が剛を支えていく。一方、剛は藩主としての振る舞いが板についてくる。まずは「素晴らしい役者」ぶりから始まって行く。
 ありていに言えば、死んだ藩主を生きていると偽る。身代わりの剛は、末端大名の一つである藤戸藩が有力大名との結びつきの縁を培い、将軍筋へのコミュニケーションを円滑にできるルートづくりを目指す役割を担う。つまり一種のコネづくりである。
 その手段が、いずれの有力な大名も力を入れている式楽の能の場における交流ということになる。
 つまり、藩主が17歳を迎え、藤戸藩が「急養子」の制度を上手に利用して、藩存続を図るために、剛が身代わりになり、藩主自身として有力大名との縁を培っていく立場になる。それは、観点を変えると、保が評した「素晴らしい役者」「想いも寄らぬことをやる」「うらやましい」という言葉が何を意味しているのかを自己確認していくプロセスでもある。それに与えられた期間は7月である。

 前段と中段がこのストーリー展開の下準備とすれば、後段は、剛の江戸城登城の場面が積み重ねられ、一方、能舞台で武井甲斐守景道(剛)が難しい能の演目を次々と演じるプロセスに展開していく。江戸城に登城した剛は、末端大名としての居場所からはるかかなたの上段で御簾の背後に座す上様の存在と脈動を感じ取ることにもなる。それが、遂に剛が奇策を案出するということにも繋がって行く。
 この後段が読ませどころとなっていくのは当然の成り行きと言える。
 
 能を己が生き残る唯一の道と思い定めた少年が、藩主の身代わりを演じるという立場になり、本物の能舞台で能を演じる事になる。江戸城登城の積み重ねから藩存続の奇策を発想するというストーリー。楽しみながら、能の世界に親しめるというところがおもしろい。

 ご一読ありがとうございます。
 


『平成22年度 代表作時代小説 凜とした生きざま、惚れ惚れと』 日本文藝家協会編  光文社

2019-03-19 14:54:37 | レビュー
 単行本や文庫本以外で、葉室麟の作品を掲載しているものがあるのかどうか検索していて、この代表作時代小説のシリーズに取り入れられた作品があることを知った。そこで手始めに手にしたのがこれである。「まえがき」の冒頭に、このシリーズは「半世紀に余る歴史の重みを持つ」そうである。一人の作家の作品追跡から初めて知った。
 安西篤子・磯貝勝太郎・伊藤桂一・縄田一男の四人が編集委員となり、平成22年度として選ばれた16作品が収録されている。「凜とした生きざま、惚れ惚れと」というのがこの作品集のテーマなのだろう。「凜と」という副詞は「引きしまって威厳の有ることを表す」(『新明解国語辞典』三省堂)という意義である。この意味からすれば、全ての作品がそうとばかりは言えないようだ。人間の生き様の頂点側を捉えたいわばキャッチ・フレーズと言えそうである。要は様々な生き様の人間模様をキラリと光らせた短編がここに編集されているといえる。目次の順で、各短編のテーマと印象をまとめてみたい。

「びんしけん」 宇佐美真里
 下谷車坂町・等覚寺の裏手にある市右衛門店という裏店には店子の一人で42歳、独り者の吉村小左衛門が住んでいる。彼は旗本の子だったが妾腹の子。父の死後、屋敷を母とともに追い出された。そして、手跡指南の師匠として生計を立てている。行儀にうるさい小左衛門が手習いに来る子供らに付けられた渾名が「びんしけん」である。同年で幼なじみの森野倉之丞が訪ねて来る。彼は南町奉行所の吟味方の同心。盗賊の娘を一人預かって欲しいと言う。名はお蝶。この娘が来ることで生じたエピソードである。
 小左衛門の戸惑いと心の揺れ動きが描かれていておもしろい。末尾の文が、「・・・・・『残念、閔子騫』と昔ながらの口癖を呟くのだった」である。
 文中に「びんしけん」の由来も述べられている。なるほど!である。呪文ではない。

「喧嘩飛脚」  泡坂妻夫
 江戸城中奥に建つ雲見櫓の警護役で番頭の亞智一郎が主人公。時は蛤御門の暴動後、将軍家茂が征討軍を派遣し、長州征伐に踏み切った時期を背景とする。智一郎は将軍側衆の鈴木阿波守正團から品川の薩摩屋敷下見の指示を受ける。品川宿で薩摩侍が喧嘩沙汰を起こしていて、飛脚の鈴の音に気づかずに飛脚とぶつかる。飛脚が落とした書状を智一郎が結果的に手にし、その文面を読むことになる。その書状の謎解き話となる。
 当時の世情と商人が早飛脚を使った理由がわかって興味深い。幕府も公用の継飛脚を使っていた。もう一つ、雲見櫓で勤務中の智一郎の駄洒落で始まり、雲見櫓での駄洒落で締めくくるところもおもしろい。
 
「不義密通一件」 岩井三四二
 おきせの夫・長蔵は古手(古着)問屋を営んでいた。取引先に滝田屋の半右衛門がいた。この滝田屋に古手を卸し、三十七両三分の売掛金があった。長蔵は半右衛門の女房おすみと不義密通に及んだとして半右衛門に殺された。おきせは不義密通という大罪を犯して殺された夫の女房という汚名を着せられ、商売もうまく行かなくなる。友だちに教えられた天竺屋時次郎という出入師の助力を得て、売掛金回収という訴訟を名目に夫の無実を晴らそうとする。
 当時の訴訟の手続きやしくみがわかるとともに、事実を解明するために時次郎がおきせに秘策を授ける。死んだ夫にあやまらねばならぬ嘘をお白洲でおきせが述べる事で事件が再審され夫の無実が判明するというもの。この秘策がおもしろい。おきせの生き様は凜としている。

「舞燈籠」  蜂谷 涼
 上七軒の売れっ子である梅嘉姐さんと一緒に梅乃姐さん、舞妓の小梅は壬生狼(新選組)の座敷に初めて出る。小梅は座敷に出る前から怖い思いを抱いている。見張り役をする新選組副長助勤、尾形俊太郎に挨拶をするが、尾形に少し脅かされる。再び新選組のお座敷がかかることで、小梅は尾形と話し合う機会を得たことから、尾形への思いを深めて行く。大政奉還から鳥羽伏見の戦いへと時代が急転回していく中で、尾形の後を追うという思いを無理矢理にでも押しとどめようとする小梅を描き出していく。小梅の心が切ない。

「ヴァリニャーノの思惑」 山本兼一
 東インド巡察師ヴァリニャーノは、来日し安土で織田信長に対面している。そのヴァリニャーノがなぜ聖職者・巡察師となり来日することになったのか、その背景を描く。その上で、日本での布教活動の成果に加えて、何を持ち帰れば喜ばれ、己の出世にプラスとなるかと考え、日本の見目麗しい貴公子を使節として帰国に随伴させることを考え準備する。日本人使節は別の神父がヨーロッパに連れていくが、ヴァリリャーノはゴアに留まるように総長からの指示を受けてしまうという顛末を描く。断片的史実をおもしろい想像でまとめあげていて、興味が深い。

「辻斬り 無用庵隠居修行」 海老沢泰久
 立て続けに3人が辻斬りに斬られるという事件が起こっている最中に、日向半兵衛を訪ねてきた奈津に誘われ、二人は上野の山に葉桜見物に行く。黒門前の蕎麦屋に入ったところで、幼な馴染みの安田善四郎にばったり出会う。彼は歳の離れた後妻の里と一緒に先妻千代の墓参りの帰りだった。善四郎が数日後半兵衛を訪ねてくる。辻斬りは倅の正太郎かもしれないと言う。半兵衛は正太郎の行動を見張ってみることを引き受ける。そして半兵衛は事実を告げ、善四郎に自分で始末をつけるように仕向けた。そこから思わぬ展開になって行く。多感な少年期に抱いた正太郎の心情と善四郎・里の思いがテーマとなっている。

「うどんげの花」 鳴海 風
 幹之介と江戸へ駆け落ちした幸は、幹之介に裏切られ藤之家の女となり、おこうと称し身をひさぐ境遇になる。手あぶりが必要となる季節に一人の男が客として現れる。そして、幾年月が経過した頃、その男が再びおこうの前に客として現れる。そして、過去を語り、おこうにとって大きな幸せの話を残す。「思い出すだけではない思い出」がおこうに小さな幸せを与える話である。その男にも生きる目的ができたのだ。

「蓬ヶ原」 東郷 隆
 芝新網町・願人坊主溜りの宗哲・源哲が繰り広げる奇想な話。楊弓師の次郎八は日置流の俊才でもある。次郎八は芝神明の土弓場『須磨屋』に弓矢道具の修理に行く。『須磨屋』には美形の矢場女・お喜多がいる。お喜多と次郎八が通し矢の勝負をすることになり、わずか一筋違いでお喜多の勝ち。負けた思いが屈して、次郎八は「惚れて」しまった。再度勝負をするための金を次郎八が貯めた頃には、お喜多は妾に引かれていた。宗哲・源哲が居所を見つけた時には、お喜多は首を吊り死んでいた。その死人・お喜多を蓬ヶ原で次郎八に抱かせて思いを遂げよとけしかける。屍姦をテーマにしているところが興味深い。その顛末が意外な展開をしていくことになる。どんでん返しのおもしろさがある。

「逍遙の季節」 乙川優三郎
 前年に江東の中村楼の座敷飾りを手伝ったことから、その主人に気に入られた紗代乃は、藤間流の春の大ざらいの会場の座敷飾りをすべて任されることになる。活花で食べているとはいえ紗代乃は未だ無名の華道家である。藤間流門下の娘は数百人。それらの踊り手が親族や知人を大勢招くので観衆がどこまで広がるかわからない。活ける時間は公演前日の夜から半日と限られている。紗代乃が座敷飾りに新工夫を加えるまでが描かれる。
 この大ざらいで重要な役割を担う踊りの師匠藤枝は紗代乃にとり幼い頃からの友人である。違う道を歩みながら相互に助け合う一方で、それぞれの道で競っている面もある。紗代乃と藤枝のそれぞれの生き方の背景が織り交ぜられ、藤間流家元の二世勘十郎を支える高弟の勘弥がそこに関わってくる。三者の感情の機微がもう一つの読ませどころである。

「犀の子守歌」 西條奈加
 錠前職人の加助が若い男を背負い通称「善人長屋」に戻って来る。その男を、長屋の文吉が、芝神明町の陰間茶屋の色子だった頃に助けられた同朋の犀香と気づく。本名は三浦斎之介とわかる。斎之介は井筒藩刈田家の上屋敷の門前で殿にあわせて欲しいと言い、揉めていたのだと加助はいう。家督を継ぐ前の現藩主は小姓だった斎之介と衆道の関係にあった。その藩主が重い病気で倒れられたという。善人長屋は実は小悪党ばかりの住むところである。斎之介の話を契機に、刈田家の跡目争いが絡んでいることが分かってくる。先代藩主の末弟、つまり叔父が跡目を狙っていて、幕府への裏工作の大金を持ち込んでいるという。小悪党たちが、斎之介を助けて一石二鳥の働きをする顛末がおもしろい。

 「二つの鉢花」 北 重人
 江戸広小路には小間物問屋が多く、小間物を扱う床店が軒を並べる。その中の一軒「櫛九」の話である。主は櫛屋九藏。店は九藏の娘で、三十近くて出戻りのおすくが切り盛りしている。九藏は得意先に櫛を売り歩く。九藏は出入りしていた問屋が潰れそうだと聞き、その前にいい櫛をたくさん仕入れようと借金をした。借金はなんとかできたのだが、そこには仕組まれた裏があった。その借金返済のために、店を手放さなければならなくなる。さてどうなるか・・・・というストーリー。すったもんだの借金話に化粧道具を扱う紅屋吉五郎が関わわっていく。まわりは吉五郎とおすくはお似合いとみている。しかし、あることを契機に、吉五郎を買っていた九藏は毛嫌いするように・・・・。だが、最後は「うまくいくときは、すっとみな一つところに納まる」ということに。ストーリーの展開がおもしろい。タイトルはハッピーエンドの象徴である。

 「捨足軽」 北原亞以子
 著者は、捨足軽についてたった三行だけ書いた資料あると言う。その三行から生み出された短編である。
 文化5年(1808)8月、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ人二人を人質にして、薪や水を要求する事件が起こった。長崎警護の役目を命じられている佐賀藩は、捨足軽を組織した。異国船が長崎港に侵入し、無法な振る舞いに及んだ場合、火薬を入れた筒を軀に巻きつけて船に乗り込み自爆する男たちをそう呼ぶ。
 佐賀城下に近い正里村の源太がその捨足軽として長崎出兵に加わる命令を受ける。捨足軽80人の一人となる。一緒になった浅吉とは長崎に行く道中如何に生き延びるかの話となる。長崎で、事故が起こる。その事故の処理の仕方のメンタリティは現代も連綿として続いているのではないか。特攻隊編成的発想が江戸末期に既にあったという事実を、この短編小説を通じて知った。

 「闇中斎剣法書」 好村兼一 
 青山泰之進は家禄500石の御書院番士で、一刀流の目録取りである。密かに他流の剣術書や伝書の類いを探し求めて研究している。彼は同僚・村石秀三郎が柳生鍔の一品を手に入れたという自慢に辟易とするが、己も柳生鍔を欲しくなり刀屋や道具屋を物色を続ける。遂にある道具屋で柳生鍔を見つけた。代金を支払おうとしたとき、開いたままの引き出しに付票に「剣法書」の文字だけ残る古びた錦の巻物に目が止まった。道具屋の主がその巻物を開いて見せてくれた。九字印から始まり、血の跡らしき染みもある。巻末には『闇中斎』と署名されている。泰之進はその剣法書に関心を抱き、買うという。主は讓るのは良いが、少し不可解なことがあることも正直に告げた。泰之進は気にせずにそれを買う。そして、その内容の研究に勤しむが、数日後鳴海甚右衛門と名乗る武士が訪れてくる。それから不可思議な体験をする羽目になる。少しオカルト的でおもしろい設定と展開になっている。

 「銀子三枚」 山本一刀
 嶋?介は、土佐藩の重役五藤安左衛門に『差し出し』(身上調書)の提出を命じられた。元日の夜に、それを書き終えようとするが、なかなかはかどらない。書き方次第で、嶋家の命運を左右しかねないからである。亡父のことを差し出しとしてまとめることに苦慮している。過去を回想しながら如何に書くかを考える。父五郎左衛門の過去について回想が始まって行く。そこには長宗我部家との極秘の関わりがあった。最後に銀子三枚の意味が明らかになる。血統を絶やさないという命題がテーマになっている。  ヨ 王+與

 「朝鮮通信使いよいよ畢わる」 荒山 徹
 徳川幕府が崩壊し天皇を戴く明治政府が誕生した時、日本は朝鮮に従来通りの交流を継続したい旨の国書を朝鮮に提出した。朝鮮はそれを峻拒した。対馬藩に代わり外務省の使者が釜山入りして交渉を試みた。交渉に応じない朝鮮に対し、日本は軍艦を派遣し黒田清隆を全権大使にした武力外交に転じる。そして、通信使ではなく、修信使一行が朝鮮から日本に来日する。その一行に金福奎が訳官として加わる。その時、日本は一行にすべてをオープンに視察させようとした状況を金福奎の観点から描いて行く。
 その時点の日本と朝鮮の国家存立に対するスタンスと認識の違いが鮮やかに切り取られている。伊藤博文と金福奎が語り合う場面を最後に置いているところが興味深い。

 「女人入眼」 葉室 麟
 慈円の『愚管抄』に「女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリ・・・・」と記されているという。「入眼(じゅげん)」は叙位や除目の際に官位だけを記入した文書に氏名を書き入れて、総仕上げをすることだ。つまり、北条政子と女官藤原兼子が東西の二大権力者だったことを意味する。その北条政子が親王の一人を宮将軍として鎌倉に迎える決断をし、兼子と交渉をした。その政子が父時政に宣言し、治承元年(1177)に頼朝のもとへ走った時からの政子の政治的な側面での生き様が活写される。武家政権でありながら、京から親王を将軍に迎える独特の政治形態を確立させた政子の才腕と凄味が印象的である。

 この短編集の一つの利点は、いままで読む事が無かった作家たちの作品にも触れることができるということにある。きっかけがなかった作家に出会う楽しさ、おもしろさを味わえる。これもまた読書の波紋を広げる一つの契機となる。

 ご一読ありがとうございます。

『京都狛犬巡り』 小寺慶昭  ナカニシヤ出版

2019-03-16 10:39:39 | レビュー
 寺社探訪が趣味の一つである。京都市を中心に、周辺の京都府内、周辺他府県の神社を訪れるうちに、様々な狛犬像を目にするようになった。寺社の建物を主とし、狛犬像は通りすがりに楽しむだけだった。しかし、神社の本殿の回縁に木像の狛犬が置かれていたり、京都御所の清涼殿で、御帳台の傍に狛犬が置かれていることと、参道の狛犬の姿に様々なものが見られることから、狛犬自体にも興味が湧いてきた。
 そこで出会ったのが本書である。そのタイトルにまず関心を抱いた。京都市とその周辺を主体にしているので、丁度ピッタリのタイトルだからということも一因している。

 まずは著者の狛犬巡りのスタンスから触れよう。「はじめに」に明確に述べられている。著者は長年の中学校教諭、副校長等を経て、結果的に龍谷大学の教授になられたようである。しかし、本書は「研究」というより、むしろ「遊び」の世界・「好奇心」の世界の産物だという。「狛犬と神社を楽しむためのガイドブック」を目指したという。
 といいながら、純粋なお堅い研究書ではないが、けっこう調査研究的アプローチがなされているというのが、読後印象の一端にある。。
 狛犬探し、狛犬巡りを楽しむ上での著者流のやり方がシステマチックなのだ。多分狛犬巡りを続ける中から生み出されたものを、整理して説明できるようにする中から生み出されたのではないかと推測する。狛犬巡りという遊び、好奇心の追究が一歩深められたせいだろう。
 著者は参道に置かれた狛犬に限定して巡っている。少なくとも本書の内容はそうである。「参道狛犬」というカテゴリーを自分で特定し、限定的なアプローチをする。狛犬を眺めて単純に楽しむという私のような一般人と違い、狛犬のサイズの測定方法や神社に置かれた狛犬の特定方法及び本殿に対する狛犬の向きの種類分けなど、データ収集と記録のためのフレームワークを独自に設定されていることである。
 狛犬像は新規奉納や老朽化等による取り替えなども発生し常に変化する側面がある。そこで、昭和時代までに限定してデータ採集するという期間限定のアプローチであると共に、その定義のもとに全数調査が行われるという徹底ぶりである。

 著者は「1 まずは清水寺の狛犬から」始めていく。清水寺が有名だからか? 
 まあ、それもあるだろうけれど、著者の疑問の一つを投げかけるのに便利だからだろう。①なぜお寺に狛犬がいるのか。狛犬は神社の前だけじゃないのか? 清水寺が例外なだけか? 他の寺院の参道にも狛犬がいるのか? このような疑問をまず抱くことが、狛犬マニアなのだろう。著者はほぼ4ページにわたって①として要点書きした疑問を含め、「まずは疑問点を10点ほど挙げていくことにしよう」とそれらを列挙する。言われてみればそうだな・・・・と思う疑問ばかりである。
 
 本書を読み、清水寺の狛犬は、奈良・東大寺南大門の正面から門を入った内側、つまり超有名な運慶・快慶作の金剛力士像が置かれている背後になり、そこに置かれている狛犬がモデルだということを初めて知った。序でに、この南大門の狛犬が、東大寺復興時に、宋の工人が中国から買い求めた石材で彫刻した石像獅子だということも。

 少し微に入り細に入りという側面もあるが、事例に挙げられる狛犬の形姿の説明が具体的に描写されおもしろい、

 基本的に江戸時代までの日本の文化は京都を中心に発信され、同心円状に全国に伝搬していくという傾向が見られる。だが、参道狛犬は違うと著者は言う。江戸狛犬が発信源であり、それが伝搬していったのだそうである。そして、単に江戸狛犬の模倣ではなく、各地で工夫され、多様化し、咀嚼されて言ったという。著者はその大きな原因は狛犬のモデルについて共通の理解がなかったことだと分析する。
 江戸狛犬が大坂に伝わると、浪花風に造り替えられて、浪花狛犬が瀬戸内海沿岸を中心にしながら、西日本のかなりの範囲に広がって行った様子を事例により説明する。その浪花狛犬が京都に伝わるとともに、京都に店を構えて進出してきた様子も事例で解説する。浪花狛犬の京への流入から、逆に影響を受けた白川の石工たちが、石灯籠などで培った伝統と技術を活かし、洗練された白川狛犬が創出されたという。
 著者は京都出見られる様々な狛犬を巡りながら、各地との関連性を調べて行き、また各地の狛犬巡りを重ねてそのデータ対比や類型分布を考察することで、浪花狛犬・白山狛犬・丹後狛犬・出雲狛犬・舞鶴狛犬などの類型化と特徴の抽出、京の狛犬への影響、それぞれの文化圏の広がりを明らかにしていく。さらに、「9 現代画一的狛犬事情」と題して、状況証拠から、岡崎狛犬の特徴とその影響を論じている。現代の狛犬制作の状況がわかっておもしろい。
 
 本書は著者が独自のデータベースを作り、京都市を含む京都府全体のデータから言えることとして、京都府の狛犬全体から一般読者の興味を引きそうなトップテンの一覧づくりと説明を展開している。これは悉皆調査の成果発揮と言えるだろう。
  4 京都市で一番古い狛犬は? 
  6 京都府で一番古い狛犬は?
  7 京都府で一番多い狛犬は?
 11 京都府で一番大きい狛犬は?
 12 狛犬がたくさんいる神社は?
 一般読者には興味を引きそうな投げかけである。ちょっと覗いてみたくなるのでは?
 冒頭の数字はセクションの番号を示す。

 上記で飛ばしたセクションの見出しをご紹介しておこう。
「2 平安神宮の狛犬は?」「3 逆立ちした陶器の狛犬」「5 砲丸投げのポーズの狛犬」 「13 狛犬の名工たち」「14 狛犬のいろいろ」である。
 最後のセクション「狛犬のいろいろ」では、変わり種を紹介していて興味深い。

 付録として、「京都府狛犬年度別設置数一覧」がまとめてあり、主な設置狛犬等の例示が年度ごとに付されいる。西暦1718~1989の一覧表である。
 もう一つ、「京都狛犬巡りモデルコース」が3つ、紹介されている。「1 東山周辺コース」「2 御所周辺コース」「3 宮津・天橋立周辺コース」である。狛犬巡りを楽しむ手始めのガイドをちゃんと用意してくれているところが、親切なところだ。
 このモデルコースと各狛犬文化圏に類型化された狛犬の特徴をまとめたページが、まずは手引きとして、一歩踏み込んだ狛犬巡りを楽しむ準備資料として役立ちそうである。
 この部分をコピーして、さあまずは出かけよう! そんな気にさせる本である。

 ご一読ありがとうございます。

関心の波紋を広げてネット検索してみた。すると、狛犬を専門に扱うサイトもある。
狛犬 :「京都国立博物館」
狛犬 :「コトバンク」
狛犬 :ウィキペディア
狛犬とは何か? 100万人の狛犬講座 ホームページ  ← 注目サイト
こまけん 三遊亭円丈責任編集 ホームページ ← 注目サイト
狛犬の意味と由来・どうして神社に狛犬がいるの? :「開運日和」
狛犬 :「京都 神楽岡 宗忠神社」
神社の入口を守る「狛犬」のルーツと霊力 :「京都の摩訶不思議探訪」
京の七不思議 その6『清水寺の七不思議』 :「京都トリビア× Trivia in Kyoto」
東大寺南大門の狛犬 :「愛しきものたち」
安井金比羅 狛犬 :「京都観光Navi」
狛犬コレクション :「愛知県陶磁美術館」
狛犬の佐助 迷子の巻 作/伊藤游 絵/岡本順  ポプラ社
  狛犬でファンファジーの世界を描いた児童向け単行本もありますね。

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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『庶民に愛された地獄信仰の謎』 中野 純 講談社+α新書

2019-03-04 10:14:19 | レビュー
 表紙の裏側に記された著者の略歴には、「体験を作り、体験を書く、体験作家」と最初に紹介されている。自らの体験を主体にそれを語り記すという意味での体験作家と理解した。本書は著者が東京都並びに周辺の関東諸県を中心に、十王堂・閻魔堂を巡ってそこで体験したこと、妄想したことを紹介している。
 そこには閻魔(えんま)、十王、司命(しみょう)・司録、奪衣婆(だつえば)、縣衣翁(けんねおう)、倶生神(くしょうじん)、鬼卒などという地獄のキャラクターがひしめき合っていたりする。さらに、浄玻璃の鏡、業(ごう)の秤、人頭杖(にんとうじょう)、舌抜きなどの備品が置かれているところも多いという。お堂の外の石仏の中にも混じっていたりするという。
 著者はこれらの地獄のキャラクターに着目する。「恐いだけが地獄ではない。最近あまり流行(はや)らなくなった地獄を、このまま失っていくのはよくない気がする。そうだ、闇のワンダーランド、地獄へ行こう」というスタンスから、地獄のキャラクターを体験的に再発見しようと関東地区を中心に縦横に、十王堂・閻魔堂を巡って行く。

 ここでは、その地獄のキャラクターの中で「奪衣婆」をメインに「閻魔」も取り上げていく。勿論地獄のキャラクターを語るのに閻魔抜きでは語れない。
 各地にある十王堂・閻魔堂は我々にとっての身近な冥界であり、庶民の信仰対象となってきた状況を著者は様々に語る。そして、自分の体験と感想を連ねて行く。

 著者はその体験を軽いノリを交えながら語り継いでいく。地獄のキャラクターを見つめながら、そこで感じ妄想したことを文に紡いでいく。著者は学者・研究者ではないので、己の妄想として思ったこと・感じたことをはっきりと「妄想」と表現して書き込んで行く。この妄想部分の説明が結構おもしろいのだ。それ故、肩肘張らずに、奪衣婆や閻魔の世界に馴染んでいける。出会った閻魔や奪衣婆などを誰に似ているかなんて書き込んで行ったりもする。とは言いながら、日本における地獄観、基礎知識はちゃんと押さえて説明している。その上で、地獄信仰の謎部分に焦点をあてながら、感想・妄想・自説を述べている。

 西多摩郡日の出町に保泉院があり、そこにちょっと有名な閻魔大王像があるそうだ。著者はその像を拝んだ後、その脇にある玉眼が失われた小さな像の存在感に心を奪われたという。よく見るとそれが奪衣婆像だったとか。その時の感動から、それまでまったく興味のなかった奪衣婆に惹かれ、奪衣巡りが始まったそうだ。その集約がこの本。
「閻魔さまより奪衣婆!」が最初の小見出し。その末尾を紹介しょう。本書のノリが多少伝わるだろう。
”だがいまや、米米CLUBの名曲『君がいるだけで』が、「だつえば、君がいるだけで、心が~」と、奪衣婆への愛の歌に変わって頭の中でリフレインし続ける始末。ちょっと気を抜くと、日常会話の中で「たとえば」と言うべきところを「だつえば」と言ってしまうし。”(p15)

 人が死ぬと7日(/14日)目に三途(さんず)の川を渡って冥界に行くとされている。奪衣婆は、その川岸で待ち構えていて、亡者の着衣を剥ぎ取る鬼歯のこと。その剥ぎ取られた着衣を縣衣翁が受けとって、衣領樹(えりょうじゅ)という大木に懸けるそうである。着衣の懸けられた枝のしなり具合で、亡者の罪の軽重がまず最初に量られるという、
 この奪衣婆のことは、通称『地蔵十王経』に出てきて、日本独自の発想だという。というのは、このお経は平安時代末期に日本でつくられたとされる偽経と考えられている。「『地蔵十王経』は仏教に道教を激しく混入させたうえに、日本の古い信仰を練り込んである」(p18)という著者の表現で、ちゃんと基本的知識も解説している。
 また、奪衣婆が三途の川のどちら岸に居るのかという謎についても縷々解説する。
 
 閻魔大王像や他の地獄のキャラクターもそれぞれ個性的なものがあるが、奪衣婆像はダントツだという。「奪衣婆像は、一体一体、実に個性的で、同じようなものが一つとしてない!」「とても伸び伸びと自由に表現されている」(p15)と断言する。本書は、十王堂・閻魔堂を巡り、それを証明するために書かれたとも言えよう。軽いノリと奪衣婆を眺めての妄想の広がりも含めて軽やかに語っていく。
 本書冒頭には、口絵がずらりとまとめてある。そこに16葉、奪衣婆の画像が並ぶ。また、p17には12体の奪衣婆画像が例示されている。その表現方法はバラエティに富むこと。一目瞭然だ。そこに奪衣婆の魅力と面白さがあるのだろう。

 一方で、奪衣婆の表現にも基本要件があると著者は記す。要約する。
 a.トレードマークは垂れ乳を露わに見せ、はだけた胸に肋骨が浮き立っている。
 b.殆どがほぼ垂直の立て膝で坐っている。 
 c.膝下のナマ足がしっかり見えている 
 d.ヘアバンド(鉢巻き)をした長い髪を真ん中で分けている。
 e.顔は皺だらけ、眉は太く、目を見開き、口を広く開けている。
 f.白い衣を着て、右手で白い衣をつかみ、左手は左膝のあたりに。
 g.ゴツゴツした岩石っぽい台座に坐っている。
そして、奪衣婆は、三途の川・衣領樹とセットになっている。
 これらは、各地の奪衣婆巡りのなかで、分かりやすい事例とともに分散的に説明されていく。その説明が、ときには微に入り細に入り、妄想・連想を交えながら広がっていて気楽に読めるのがいい。まあ、p33にその集約的なまとめが、「これを押さえれば君も奪衣婆に!」という見出し文の中にあるけれど。

 奪衣婆について、著者が論じる要点がいくつかある。引用あるいは要約で記す。
*奪衣婆は民間信仰とつながって『しょうづかの婆さん』などと呼ばれ、庶民に親しまれてきた。とても身近な、怖いけどやさしいおばあさんだったのだ。 p16
*奪衣婆の起源は、子どもをたくさん産む山の神や山姥(やまうば)ともいわれ、その姿は、女性が禊をする姿からきたという説もある。 p21
*奪衣婆に白い真綿を納める。この奪衣婆と真綿の関係は、亡者が奪衣婆に白い死に装束を奪われることとイメージが重なる気がすると著者は言う。 p68

 第2章「地獄のちょい役列伝」では地獄のキャラクターのそれぞれについて説明を加えている。著者は「7日目ごとの十王の審判は、古代メソポタミアの女神、イシュタル(イナンナ)の冥界下りを連想せずにはいられない」と視野を広げている。また、倶正神を「チクリ神」と呼んでいるというのがおもしろい。

 第3章「街角の地獄、二丁目の秘密」では、新宿二丁目の太宗寺を紹介している。私は関西に住んでいるのでそう簡単にはちょっと覗いて観ようと出かけて行けないのが残念だ。ここは代表的なお薦めスポットのようだ。他の章でも、著者はこの寺について触れている。

 本書の副題は「小野小町は奪衣婆になったのか」である。奪衣婆の特徴やその彫像表現の多様性を第1章で述べた後、第4章で、鎌倉や京都・奈良などの地獄に話を進める。京都が出てくると、私には実際に見ているものもありイメージが湧きやすい。
 そして、ここで、小野小町伝説と奪衣婆との関係に触れられていく。湯沢の雄勝町にある十王堂の奪衣婆から始まって京都・洛北の補陀洛寺の小町老衰像につながり、各地の小町伝説・伝承や観阿弥作『卒塔婆小町』などが重ねられていく。小野小町と奪衣婆の結びつきについて、「結局、老小町は奪衣婆だと言い切るのは無理がありすぎる」と言いつつも、著者の妄想が展開されていくところがおもしろい。p93~104である。

 第5章「リアル三途の川をガチ渡り」は体験作家の本領発揮というところ。
 「三途の川」や「賽の河原」と実際に称されている場所が日本の各地にあるというのは以前に何かで読み、知ってはいた。それは場所の紹介レベルだった。だが、実際にその場所を訪れて歩き通し、体験記を書いたものを読むのは初めてである。
 本書では、奥多摩にある日原鍾乳洞、群馬県甘楽町の「三途川」での感想がまとめられている。著者は地獄の思想は世界各地に普及していると述べ、三途の川に相当するイメージで受け止められている川を紹介する。エジプトではナイル川、ギリシャではステュクス川、ゲルマンの神話ではギョル川、中国では奈河がそうらしい。おもしろい。
 「賽の河原も実は、経典に典拠がなく日本独自のものだ。そもそも三途の川のほとりには賽の河原などなかった」と著者は論じている。両者の関係を考えた事がなかったので、意外であり新鮮な思いがした。「とはいえ、賽の河原が三途の川のほとりであると見られることは多い」(p122)と続けている。このあたり、また調べてみたい気がする。

 第6章「独立地獄と閻魔の末裔」では、著者独自のネーミングでの紹介である。著者は「お寺とは関係なく、集落のみんなで守ってきた完全にインディペンデントな閻魔堂、十王堂」のことを「独立地獄」と呼ぶ。川崎市の初山十王堂と小金井市の貫井共同墓地閻魔堂を例に挙げて語る。
 また、下総の広済寺の地獄仮面劇「鬼来迎」を紹介している。かつては下総の浄福寺や迎接寺にも鬼来迎が行われていたという。

 第7章「すばらしき地獄の景観」は、東京から一番近い火山地獄である箱根の地獄紀行をメインに据える。そして、那須の地獄、雲仙温泉の地獄、別府地獄巡り、立山・芦峅寺の布橋大灌頂を紹介している。先日、ある講座で立山信仰と立山曼荼羅で布橋ということを聞いていたので、布橋大灌頂の行事内容の説明がここに記されていて、興味深く読めた。
 第8章「エンマの休日」では、1月16日と7月16日が地獄の釜の蓋が開き、閻魔さまたちが一息つく日だという。「それに合わせて、ふだん閉ざしている閻魔堂を開け放つ寺が多く、地獄絵も公開したりする」そうだ。著者はこれらの日を「エンマの休日」と称している。ここでは、この「エンマの休日」に合わせて巡った閻魔堂のことを書いている。
 著者は平安時代に源信が著した『往生要集』に登場する地獄の風景を紹介しつつ、「日本の地獄は、最終的には釜茹でに収斂されると思う」と述べ、「時代が下がるにしたがって、怖いことは怖いが、どこかのんきになっていく」と言う。結局、みんな極楽に行けるんだからと。「最後の審判などという恐ろしいものはない。それがのんきな地獄につながっているのだろう」(p179)と論じている。
 岡本太郎作「明日の神話」、『枕草子』の地獄絵話、長崎にド・ロ神父が残した地獄絵についての雑談話などを綴った後で、最後は奪衣婆に関わる妄想話で締めくくっていく。妄想話で終えるところがおもしろいと言える。
 
 いずれにしろ、著者のノリを楽しみつつ、十王堂・閻魔堂巡りを楽しめる本である。私には関東中心である点がちょっと残念というところ。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項で関心の波紋を広げてみた。検索結果を一覧にしておきたい。
十王経 :「コトバンク」
仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 :「国文学研究資料館」
仏説地蔵菩薩発心因縁十王経
十王  :「新纂 浄土宗大辞典」
十王経図巻  :「和泉市久保惣記念美術館 デジタルミュージアム」
十王経物語絵図(冥途旅行絵物語)
奪衣婆 :ウィキペディア
奪衣婆 画像  グーグル
閻魔と奪衣婆、そして十王(総集編)  :「のんびり生きよう」
新宿太宗寺の閻魔像と奪衣婆像  :YouTube
登別地獄まつり 閻魔大王降臨   :YouTube
写真: “恐山 三途の川にある奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんねおう)”
:「トリップアドバイザー」
地獄とは? :「仏教ウエブ入門講座」
三途の川とは?  :「仏教ウエブ入門講座」
三途川  :ウィキペディア
死後さばきにあう:仏教的地獄絵図  :「カラパイア 不思議と謎の大冒険」
極楽地獄図 :「長岳寺」
「源信」―『往生要集』で地獄と極楽を表わした僧 :「DANAnet」
往生要集  :「新纂 浄土宗大辞典」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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