遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ボーダーライト』  今野 敏   小学館

2022-04-30 12:25:55 | レビュー
 『わが名はオズヌ』という小説が2000年10月に小学館から刊行された。これを2015年に読んだ。当時は2014年12月に徳間文庫として出版されていた。調べてみると 2021年9月に小学館文庫として新たに発行されている。
 本書『ボーダーライト』は、この『わが名はオズヌ』に連なる作品となる。奥書を見ると、月刊小説誌『STORY BOX』(2020年6月号~2021年5月号)に連載された後、加筆・修正されて、2021年10月に単行本として刊行された。
 いわば20年ぶりにかつての登場人物が復活してきた! そんな思いで読んだ。伝奇的警察小説という異色作を久しぶりに楽しめた。

 主な登場人物は誰か。
 警察小説という点では、神奈川県警生活安全部少年一課第三係の高尾勇巡査部長と丸木正太巡査がペアとして事件に関わっていく。高尾は岩城課長に呼ばれ、組対本部長が会いたいと言うことなので、行ってこいと指示される。それが契機となる。みなとみらい署のマル暴が赤岩猛雄の身柄を取ったという。赤岩が高尾の名前を出したで、組対本部長から高尾は呼び出され、みなとみらい署に出向くよう指示を受けた。
 みなとみらい署の暴力犯対策係の諸橋係長と城島係長補佐が登場する。「ハマの用心棒」が冒頭から絡んでくることに。それはなぜか? 暴力団が関与した薬物の取引現場に居たことから赤岩が検挙されたのだ。赤岩は取り引きを止めさせたかったために現場に居たと主張していると城島が高尾にいう。城島は赤岩が南浜高校の生徒と知っていた。さらに赤岩には逮捕状を執行していず任意で身柄を取っている状態だと。この事件は、薬物事犯としていずれ県警本部の薬物銃器対策課の扱いになると言う。そうなる前に赤岩が何を知っているのかを明らかにする必要があるということなのだ。
 高尾・丸木のペアにとって「ハマの用心棒」で知られる諸橋・城島と連帯する状況が生まれる。この事案を担当する県警本部薬物銃器対策課の課長以下の刑事たちとは全く異なる立場で事件の究明に関わって行く。いわば、同じ警察組織内にあって薬物銃器対策課の鼻を明かす結果になることへの興味とおもしろさがここにある。

 高尾は赤岩の行動を解明していく立場に投げ込まれる。そこに伝奇的アクションの側面が関わってくる。高尾の携帯電話に南浜高校の水越陽子先生から会いたいと連絡が入ったのだ。そこには賀茂晶が関わっていた。賀茂には役小角が憑依する。「わが名はオズヌ」だと・・・・・。オズヌが降りた賀茂晃は、水越先生を前鬼、赤岩を後鬼として扱う。

 そこに、横須賀のローカルバンド、スカイラインGTが絡んでくる。丸木はこのローカルバンド、スカGのファンだった。ローカルアイドルかもしれない。ボーカルのミサキは今やカリスマ的人気があると丸木は高尾に説明した。神奈川県下の若者たちの間で、ミサキのカリスマ性によりスカGへの人気が高まっているのは事実だった。

 高尾は堀内係長から最近神奈川県で少年の街頭犯罪が増えていることが気になるので、情報を集めるように指示されていた。その矢先に赤岩の問題が出て来た。赤岩は元暴走族ルィードの二代目総長だった。元メンバーがドラッグを仕入れる現場に乗り込みそれを阻止しようと赤岩が話していたと賀茂は言う。高尾は陽子(水野先生)の協力を得て、この元メンバーを調べることから始めようとする。その時、オズヌが憑依している賀茂は「悪しきことを成さんと企てる者がおる」と高尾に言った。

 高尾は賀茂という少年に役小角が憑依する話と賀茂が言った一言について城島に話す。城島はこのことに興味を示す。諸橋係長は、憑依の話を信じないし考えたくないと言うが、赤岩を取り調べ中に、赤岩は学校が変だ、何が起きているのか、俺にもわからないと言っていたと高尾に話す。高尾はこの点を調べてみると諸橋に告げた。これが始まりとなる。

 このオズヌが賀茂に憑依し、要所要所で重要な暗示的発言をする。それを高尾は真摯に受けとめて、捜査活動に生かしていこうとする。伝奇的要素の促す方向性と事実究明の捜査との融合がこのストーリーのおもしろさの推進力になる。みなとみらい署の城島と諸橋係長が高尾の捜査を支援する形で関わる関係になる。みなとみらい署シリーズの愛読者には、そこに一味加わるおもしろみを楽しめるという次第。
 
 このストーリーには、いくつかの山場が作られていく。それが読ませどころあるいはストーリーのエンターテインメント性につながっていく。
 ひとつは、本部の薬物銃器課の刑事が、みなとみらい署に赤岩に対して逮捕状を執行にやってくるという場面。この場面がどのように進展するか。これがストーリーを方向付け、かつタイムリミットとを意識させる。
 高尾は任意連行の扱いだった赤岩を密かに隠す策に出る。陽子が元ルイード時代にアジトにしていた場所を選んだ。そこはライブハウスになっていた。タイミングよくスカGがライブをしている時だった。ライブを見た賀茂、つまりオズヌはボーカルのミサキが恐ろしい、大きな力を持っていると評する。だがその背後に他の者がいるとも・・・・・。これがどう繋がっていくことになるのか。
 さらに、特殊詐欺犯罪に関わった少年の逮捕や女子高生による組織だった売春事件が発生してくる。それらの事件当事者に高尾は聞き取り捜査をする。そこから1つの共通項が見えて来る。それがスカGにつながっていく。

 バラバラに発生しているような事案に1つの繋がりが見え始める。少年犯罪の背景が浮かび上がっていく。その状況にスカGがどう関わっているというのか。オズヌの予言がどのように現実化するのか。
 最終ステージでは、オズヌが憑依した賀茂が活躍することになるのだから、これもまたおもしろい。

 このストーリーの最後は、ライブハウスの楽屋でのミサキと賀茂の会話場面で終わる。
   そのとき、ミサキの声がした。
   「ちょっと、なんでオズヌじゃないの?」
   賀茂の声がこたえる。
   「そんなこと言われても、知りませんよ」
   もうじき、ステージのボーダーライトが灯る。

 なぜ、このエンディングになるのか? それは本書を読んでお楽しみいただきたい。
 本書のタイトルは、この最後の短文に由来する。

 伝奇的要素が加わることで気楽に楽しんで読める一風変わった警察小説である。
 お読みいただきありがとうございます。

このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『大義 横浜みなとみらい署暴対係』   徳間書店
『帝都争乱 サーベル警視庁2』  角川春樹事務所
『清明 隠蔽捜査8』  新潮社
『オフマイク』  集英社
『黙示 Apocalypse』 双葉社
『焦眉 警視庁強行犯係・樋口顕』  幻冬舎
『スクエア 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店
『機捜235』  光文社
『エムエス 継続捜査ゼミ2』  講談社
『プロフェッション』  講談社
『道標 東京湾臨海署安積班』  角川春樹事務所
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新6版 (83冊) 2019.10.18

『類』  朝井まかて  集英社

2022-04-27 10:49:53 | レビュー
 類は名前である。姓は森。森類は森鷗外の二男で末子である。(漢字「鷗」は環境依存文字なので、以降は「鴎」で代用する。ご容赦いただきたい。)
 この小説は、森鴎外の末子・類の人生に焦点をあてながら森鴎外ファミリーを描いた小説。巻末に「なお、本作品はフィクションであり・・・・」と注記があるので、史実を踏まえた上で、著者の想像が史実の空隙を羽ばたき、森類並びに森類に関わりを持った人々を描き出しているのだろう。とはいえ、森類の視点を通じて、森鴎外ならびにファミリーを理解し、思いを馳せるのに役立つ小説だと思う。2020年8月に刊行された。

 森林太郎は島根県に生まれ、東大を卒業後、ドイツに留学した。陸軍軍医総監、陸軍省医務局長という地位に就き、陸軍省を退いた後に宮内省の帝室博物館総長に就任している。その一方で、明治期を代表する文豪の一人、森鴎外として煌めいていた。
 「明治44年2月11日、森林太郎と志げ夫妻の間に類は生まれた。日本人らしからぬ響きを持つ名だ。もっとも、上の子供たちも同様である。」(p12)
 本書のカバーには、タイトルの「類」の下に、「Louis」と記されている。
 本書で初めて知ったのだが、鴎外の長男は類より21歳も年齢が離れていて、名は於菟である。鴎外と先妻との間に生まれた子。この小説では要所要所に登場するだけである。読んでいて、類にとっては敬愛しながらも遠くで眺める存在だったように感じた。類の母、志げは後妻ということになる。類には二人の姉がいた。長女が茉莉、次女が杏奴である。
 本書には記されていないが、類=Louis から想像すると、於菟=Otto、茉莉=Mrie/Maria、杏奴=Anna が鴎外の念頭にあったのかなと思いたくなる。その名付けは鴎外にとってドイツでの青春時代の思いが反映しているのかもしれない。
 
 類はボンチコと鴎外から呼ばれ、子供たちは鴎外をパッパと呼んだという。鴎外が子供たちを慈しんだ情景が彷彿としてくる。鴎外は大正11年、数え61歳で亡くなった。だが、大正期から昭和の敗戦(太平洋戦争/第二次世界戦争)までは、鴎外の遺産、文豪鴎外の印税により、母志げの裁量下で類は自由な生活を送る。
 鴎外死後の場面で、鴎外の遺言内容を記述したあとに、著者は賀古のおじさんの発言として類に語らせている。「食うためにあくせく働かずとも、君は暮らしていける」「暮らしのために働かずともよいと言っているのだ。君は己の使命を果たすためだけに、生きることができる」(p67)と。その続きに「僕たち、働かなくていいんだね」類は己の発見に昂奮したと描く。類は、國士館中学の2年を修了して中退する。

 この小説は、類が己の使命を果たすという意味をどのように受けとめたのか。どのように生きようとしたのか、生きたのかということをテーマにしているように思った。
 類が結婚して己の家庭を持つまでの青春時代の姿と生き方を読み、連想したのは「高等遊民」という言葉だった。高等遊民の語意とされている意味とはズレるのだけれど、類の青春時代の生き様を読んでいてこの言葉がふと浮かんできた。
 千駄木の家にアトリエを建ててもらい、画家になろうとする。姉の杏奴が画家を目指していたことに影響されたように思う。だが、類にはプロの画家になれる程の画才がなかったのか、あるいは、プロの画家になるというハングリーさに欠ける側面があったのかもしれない。最終的に画家志望は頓挫する。
 母志げは、画家をめざす杏奴に西洋に行っておいでと告げる。そして、一人で洋行させるのは心配だからと、類を同行させたと著者は記す。「類、お前は鞄持ちだ」(p157)と。母志げはこの時点で早くも類の画家としての能力には見切りをつけていたのだろうか。興味深いところである。
 一方、類はパリで姉と共に絵を学び、絵を描く機会を得て、青春を謳歌したようだ。一般庶民の目線でみれば、まさにうらやましい限りと言える。

 帰国後、姉の杏奴は、画家の小堀四郎と結婚し、己の理想の家庭を築いていこうとする。画家となることは断念し、家庭の主婦である一方で、文筆家の道を歩みだす。
 一方、もう一人の類の姉・茉莉は、二度目の結婚も破鏡し、千駄木に戻って来る。杏奴と入れ替わる形で、茉莉と類の姉弟関係が密になっていく。茉莉と類のそれぞれの人生が主体に描かれる形にストーリーが切り替わって行く。
 この小説、森鴎外という文豪、偉人を父とするファミリーの子にとっての「プライバシー」とは何か、親の「七光り」とは何か、一人格としての能力の発揮とは何か、という側面に光りがあてられている。父が非凡であったが故にその子が感じる心理と暗黙のプレッシャーという側面も感じさせる。

 昭和16年3月、類は木下杢太郎夫妻の媒酌により、帝国ホテルで安宅美穗との結婚式を挙げる。美穗の父・安宅安五郎は画壇の重鎮だった。
 時代のうねりの中で、類と美穗の築く家庭もまた時代に翻弄されていく。類のそれまでの高等遊民的な生き方が不可能になっていく。敗戦は類の生活環境を一変させる。鴎外の遺産だけでは生活できない状況に立ち至る。
 書店経営を生業としながら、文筆の世界で己の道を歩み始める類の姿、家族を支えるために悪戦苦闘する美穗の姿、子供たちの様子などがストーリーの後半で描き込まれていく。
 だが、そこにはやはり、森鴎外ファミリーの外縁部分、森鴎外その人との関わりで形成されていた人間関係が大きく関わっている事実が見えて来る。類を支えてくれた人々は、父・鴎外との人間関係の延長線上で類を位置づける関わりだった。
 森類の視点を介して、森鴎外という偉人、森鴎外のファミリーの姿が彷彿としてくる。森類の生き様、類を支えた美穗の生き様が見えて来る。

 「16 春の海」(最終章)は、「元号が平成になった年に類は日在の家を建て替え、荻窪の家を引き払って移り住んだ」という一文から始まる。ここに、類の生き方、思いが凝縮されているように思う。文筆家として生きることを選択した類が父の作品を熟読するように変化していく。そして、『妄想』中の一文を媒介にして、類が父を回想している場面が描かれる。
「鴎外の末子だと、類は思った。胸を張り裂けんばかりにして、懸命に父の姿を追っている。」(p490)
「僕はこの日在の家で、暮らしているよ。
 何も望まず、何も達しようとせず、質素に、ひっそりと暮らしている。
 ペンは手放していない。・・・・   」(p491)
 そして、次の一文がある。
「茉莉の没後に『新潮』に書いた『硝子の水槽の中の茉莉』という随筆が、89年版『ベスト・エッセイ集』に選ばれた。」(p493)と。

 森類は、森鴎外とそのファミリーを題材として書き綴る文筆家として作品を残したのだ。末尾の主要参考文献リストからもそのことがうかがえる。

 文豪森鴎外とそのファミリーを、家族という内側から眺めるというプロセスを介して、森鴎外を見つめるのに役立つ小説である。さらに、鴎外の末子として生きた森類という人の存在、彼の母と姉たちに一歩近づいて行く機会にもなる。

 お読みいただきありがとうございます。

本書を読み、関心の波紋の広がりからネット検索して得た情報を一覧にしておきたい。
観潮楼跡   :「文京区」
文京区立 森鷗外記念館 :「文京区観光協会」
団子坂         :「文京区観光協会」
鴎外の末子 森類の生涯 ぶんきょう浪漫紀行  文京公式チャンネル YouTube
鴎外の末子 森類の生涯 YouTube
知りたい!森鴎外 第2回(5月2日放送) 文京公式チャンネル YouTube
知りたい!森鴎外 第3回(6月6日放送) 文京公式チャンネル YouTube
森志げ :ウィキペディア
森類  :ウィキペディア
森茉莉 :ウィキペディア
小堀杏奴 :ウィキペディア
森於菟 :ウィキペディア
『半日』 森鴎外  :「青空文庫」
ドーム兄弟   :ウィキペディア
イサーク・レヴィタン :ウィキペディア
霊泉山禅林寺 ホームページ
森鴎外(森林太郎)の墓  :「miru-navi 全国観るなび」
森鴎外のお墓がなぜ三鷹に??  :「4travel.jp」
庭園や総茅葺きの本堂!森鴎外の墓もある島根・津和野「永明寺」 :「トラベル.jp」
森鴎外の墓所  :「写真紀行・旅おりおり」
高等遊民  :「コトバンク」
高等遊民  :ウィキペディア
「高等遊民」 日本語、どうでしょう? :「JapanKnowledge」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『グッドバイ』   朝日新聞出版
『落花狼藉』  双葉社
『悪玉伝』  角川書店
『阿蘭陀西鶴』  講談社文庫
『恋歌 れんか』  講談社
『眩 くらら』  新潮社


『ある閉ざされた雪の山荘で』  東野圭吾  講談社文庫

2022-04-19 16:43:28 | レビュー
 手許の文庫本は2002年11月の第22刷。第1刷発行は1996年1月。奥書の記載がないので調べてみると、最初は1992年に講談社ノベルスとして刊行されている。30年前の作品ということになる。

 だが、このミステリーの構想は色褪せていない。
 乗鞍高原にあるペンション『四季』に7人の男女が指示を受けて集合する。7人は劇団『水滸』の演出家東郷陳平の次回作品出演者オーディションに合格したメンバーである。ペンションのオーナー小田伸一は、東郷の仲介人を介して、このペンションを4日間、食事や雑用はすべて自分たちでやる条件で借りきりたいという要望を受けた。小田はそれに応じた。東郷自身がこのペンションには来ないということを小田は知らされていた。
 集合した7人はそれぞれ東郷の手紙を受け取り、早春の4月にこのペンションに集合するよう指示された。なぜこの小説のタイトルが「雪の山荘」なのか? それは集合した7人に与えられた状況の設定に由来する。

 集まったのは女性が3人。笠原温子、元村由梨江、中西貴子。男性が4人。雨宮京介、本田雄一、田所義雄、久我和幸。久我を除き、他の男女6人は劇団『水滸』の団員でオーディションに合格した若者たち。久我は以前に劇団『堕天塾』に属していた。東郷の次回作のオーディションに応募して、ただ一人外部から合格した。
 7人がペンションに集合した時刻を見計らったかのように東郷先生からの速達が届く。
 その手紙を笠原温子が読み上げた。「今回の作品の台本はまだ完成していない。決まっているのは推理劇であるということ、舞台設定と登場人物、それからおおまかなストーリーだけだ。細部はこれから、君たち自身の手で作り上げてもらう。君たち一人一人が脚本家になり、演出家になり、そして無論役者になるのだ。それがどういうことかは、徐々にわかっていくことと思う」(p18-19)
 ここに設定された状況は、1)人里から遠く離れた山荘である。2)その山荘にやって来た7人の客である。3)記録的な大雪となり、外部との通信も交通も一切遮断された孤立状態に陥る。救助は来ない。4)町に買物に出かけたオーナーは帰って来れない。7人の客だけで食事等すべてを行い山荘で過ごす。つまり「ある閉ざされた雪の山荘」という状況が設定されていた。
 「その条件の下、今後起きる出来事に対処していってほしいのだ。そしてその時の自分の心の動きや、各人の対応などを、可能な限り克明に心に焼きつけてほしい。それがすべて、作品の一部になり、脚本や演出に反映されることになるからだ。」(p19)

 このストーリーがおもしろいのは、ペンション『四季』が全体としてひとつの密室空間になることである。内表紙の裏面に、2階建ての『四季』平面図が掲載されている。
 状況設定だけがまずある。登場人物はオーディションに合格して、ここに集合した彼ら自身ということになる。つまり、彼ら自身のプロフィール、日頃の考え方と行動、人間関係等が深く関わってくる。この山荘で物事を判断し、分析し、推論するための情報のソースは彼ら自身にあるということに・・・・。

 部屋割り、食事の準備担当割りから始まっていく。夕食後、最初の夜、遊戯室に備えられた電子ピアノを弾いている笠原温子がヘッドホンのコードで背後から首を絞められる事件が発生する。殺された? 第2日目の朝、笠原と相部屋になることを選択した元村由梨江が温子の姿を見ていないと仲間たちに告げる。彼らはペンション内と周辺を探したが、見つけられない。笠原温子は消えてしまった。事態が展開し始める。
 一方、外部への電話、外部の人間との接触をした者はその時点でオーディション合格を取り消されるという条件が付けられていた。彼らの行動の制約条件になる。
 第2日目の夜には、さらに元村由梨江が消える(/殺される)という事態が発生する。

 互いに日頃から知り合っている劇団『水滸』の団員6人と部外者久我という組み合わせ。久我は、オーディションのプロセスで見聞した6人の事以外、それぞれの人物については知らないことばかりである。
 このストーリーは、第1日目から第4日目という4章構成になっている。ストーリーの途中に、[久我の独白]という別枠が挿入されていく。久我が他の6人との関わりを深めるプロセス、久我の目から見た6人の人物評、人が消える(/殺される)という事態に対する独自の分析と推理などが、ストーリーの進展とパラレルに進んで行く。
 一方、久我は元村由梨江に関心を寄せ、この機会に攻勢をかけて友人関係を築こうと思っていた。
 また、オーディションのプロセスで、久我は劇団『水滸』の団員で演技力が優秀な麻倉雅美に着目していた。だがその麻倉がオーディションに合格していなかった事実に疑問を抱くことになる。その疑問を6人にぶつけていく。そこから思わぬ事実や背景が見えてくる。

 ストーリーの進展につれて、7人のそれぞれの個性が見え始める。それぞれの人間関係と関わり合いの深浅などがわかり出す。一方で劇団『水滸』の運営や裏話の情報が現状認識を深めて行く。このペンション『四季』という密室空間は本当に芝居のための場なのか、東郷先生にはどんな意図があるのか・・・・・、混迷が深まる。
 団員ではない久我が、結果的にこの推理劇の探偵役になっていく・・・・。

 最初に提示されている『四季』の平面図を見ながら、かつストーリーの途中に繰り返された伏線を読みながら、久我による最終ステージでの謎解きまで私には気づけなかった盲点があった。

 この奇妙なストーリーの進展に読者が引きこまれていくことは間違いない。
 
 ご一読ありがとうございます。

ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『鳥人計画』  角川文庫
『マスカレード・ナイト』  集英社文庫
『仮面山荘殺人事件』  講談社文庫
『白馬山荘殺人事件』  光文社文庫
『放課後』   講談社文庫
『分身』   集英社文庫
『天空の蜂』   講談社文庫

東野圭吾 作品 読後印象記一覧 1版  2021.7.16 時点  26作品


『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』  堀川惠子 講談社

2022-04-17 17:05:36 | レビュー
 人が人を裁くということはどういうことか。
 1966(昭和41)年5月21日、東京都国分寺市内で強盗殺人事件が発生した。事件から4日後に容疑者が緊急逮捕された。5月25日は被害者の告別式が開かれた日でもあった。容疑者は「自分がやりました」と、最初からすべて認めた。それ以前に強盗や窃盗事件を3件犯していたことも進んで自白したという。犯人は当時22歳の長谷川武である。
 本書は、「裁く者と裁かれる者」という観点に特化し、人が人を裁くことをテーマとしたノンフィクションである。第10回新潮ドキュメント賞を受賞した。

 本書末尾の「そして、私たち」に、著者がディレクターを務めたNHKのETV特集で、2010年5月30日に、長谷川武の死刑をめぐる元検事の苦悩に焦点をあてる形で本書の一部が放送されたと記す。ネット検索で確認してみると、”「死刑裁判」の現場 ~ある検事と死刑囚の44年~”というタイトルだった。その後も著者は取材等を継続し、2011年4月に本書が刊行された。2015年12月に文庫化されている。

 「そして、私たち」の中で、著者は次の点にふれている。
「裁判は法廷の中だけで判断を迫られますが、・・・・法廷に現れる資料は万全ではありません。限られた材料で判断を下さなくてはならないという裁判の大前提、そして人が人を裁くことの不完全さを、裁く側は頭に入れておかなくてはならないと思います。そのことは、迅速性が優先されがちな裁判員裁判ではなおのことです。・・・・・裁きの場で相手に科したその重みは自らが抱える重みとして跳ね返ってきます。これらのことを何も知らないまま、ある日突然、クジで選ばれて人を裁く場に駆り出され、短期間に人の命を左右する判断を強いられることはあってはならないと思います。」(p344)
 裁判員裁判は既に司法制度の中に組み込まれている。一般市民が裁判員として加わり、人を裁くという立場に突然に投げ込まれ、直面する可能性が現実になっている。
 「人が人を裁くということはどういうことか。」を考えてみる上で、必読書の一つと言ってよいのではないか。読了してこの箇所を読み感じたことの一つである。

 長谷川武は第1審ではさしたる弁明もせず、死刑判決を受けた。この事件の捜査検事は東京地方検察局八王子支部に配属されていた土本武司。任官して丸6年たったころだったという。現場検証にも自ら立ち合っている。土本は捜査検事として死刑を求刑した。土本にとっては、検事人生でこれが唯一の死刑求刑となった。第1審裁判は公判検事に引き継がれ、土本検事は裁判の法廷には立っていない。
 長谷川の事件は東京高等裁判所に控訴された。第2審の国選弁護人を引き受けたのが小林建治。小林は戦前から定年で退官するまで裁判官として勤め、10件もの死刑判決を書くという経験者でもあった。その小林が第2審で長谷川の弁護士となり、「控訴趣意書」を書く。だが、第2審でも死刑判決は変わらない。最高裁への上告を小林は長谷川に勧め、自ら私選弁護人を引き受ける。このとき、長谷川自身が「上告趣意書」を書いている。最高裁は「本件上告を棄却する」と結論付けた。これにより長谷川の死刑が確定した。
 28歳の秋、1971(昭和46)年11月9日午前9時32分、長谷川武は処刑された。

 土本武司は検事一筋30年、最高検察庁検事の任期半ばの53歳で退職し、大学教授に転身した。捜査検事として長谷川に向き合った土本に対し、長谷川は封書や葉書を送っていた。第1通は1967年の年賀状、全部で9通。9通目は1971年11月8日付で便箋1枚の封書。
 一方、長谷川は2審・3審で弁護を引き受けた小林建治宛にも手紙を送っていた。封書や葉書が全部で47通。小林弁護士が亡くなり、娘の節子がそれらの手紙を保管していて、1ヵ月後に行う父の23回忌を最後に法事も終わりとし、長谷川からの手紙も処分しようと考えていたという。

 本書は、長谷川が土本、小林両氏宛に出した手紙を中心に据えながら、長谷川武が引き起こした事件の経緯とその長谷川に関わる背景が克明に探求されていく。裁く者と裁かれる者という観点に特化した形での事件の事実と思考・思いの掘り起こしである。
 裁く者はどういう事実をどのように判断して死刑判決に至ったのか。土本武司はその中の一人だった。その背後には、検察組織がある。その前段に長谷川の犯罪を事件として捜査する警察組織がある。さらに、事件を精査し判決を宣告する地方・高等・最高という裁判所組織が関わっていく。
 土本は長谷川から届いた一通の手紙に心を揺すぶられ恩赦の適用を願うという行動に動こうとすらしたという。

 裁かれる者である長谷川武が犯罪を犯すに至った原因は何だったのか。なぜ当初さしたる弁明もせずに第1審に至ったのか。本人が名付けたかどうかは不詳だが、なぜ「犯罪日記」と通称される記録を書いていたのか。
 著者は取材の過程で、長谷川と関わってきた同級生を含む周囲の人々が抱く長谷川像と事件を起こし人を殺めた長谷川の行動との間に大きなギャップを感じるところから、探求が始まって行く。さらに、長谷川が土本・小林に送った手紙の内容、そこに現れる長谷川の考え、思いに対する背景情報の収集や分析が推し進められる。長谷川武と母親の関係、武と家族の関係、長谷川家の沿革などが背景情報として明らかにされていく。より深く長谷川武を知るために・・・・である。

 人が人を裁くとはどういうことか。人が人を裁くための根拠とする事実をどこまで、どのようにとらえるとよいのか。とらえることができるのか。時間的制約の中で、様々な障壁や障害となる要因もまた明らかになる。
 さらに、本書ではなぜ「死刑」があるのかという点について見解が並存する実状も明らかにしている。

 最後に、印象深い一節をいくつか引用してご紹介したい。読者として考える材料にもなる箇所だと思う。
*死刑とは、その時代その時代における正義感の表れであると表現されることがある。時代の正義感とは、言い換えれば市民がそれを正しいと支持する道理である。市民の正義感が、社会が定めたルールに違反したものに対して科せられる制裁の基礎となる。
 死刑判決はその正義にのっとって、さらには法の下の平等の原則に基づいて、裁判という公正で公平な審理を通して下されるものである。
 しかし、かつては死刑とされたものが、今では到底、死刑にならないとするならば、絶対的な真理であるはずの法の下の平等ですら時代によって変わるということか。
「正義」とは本来、うつろうものなのだろうか。
 いずれにしても、どんな時代にあっても、どんな事件を裁くにあたっても、死刑判決を下す側に負わされる重荷は変わることはない。 p87-88

*「死刑」は受刑者である死刑囚に立ち直ることなど求めてはいない。死刑とは、自ら奪った命に対し自分の死をもって償わせることであり、いわば犯した罪への罰である。反省していようがいまいが、立ち直ろうが開き直ろうが、その先にあるのは等しく「死」のみである。償いが「死」そのものである以上、その前に別の償いを求める必要はない。だからこそ、死刑囚への処遇には労働もなければ厳しい日課も課されていない。 p230-231

*・・・土本には、ぶつけようのない苛立ちが感じられた。彼はこの感情を、”あの時”から抱き続けているに違いなかった。それは、自ら死刑を求刑した死刑囚から手紙が届き始めたときである。
 かつて、その実現を胸に抱き、そして検事になって捨て去った刑罰の理想--。
 青年は、処刑されるその日までに人間として立ち直りたいと書いていた。その彼を処刑し、この世から抹殺する死刑とは一体なんなのか--。
 そんな土本の当惑をよそに、長谷川から届く手紙は日に日に澄んでいくように思えた。
                           p237
*死刑判決が確定しながら法的な特段の事情もないのに執行をやめるというのは、法治国家としては自らを破壊することになる。執行しない死刑制度というものを残しておくのは矛盾です。執行しないなら、もともと死刑制度そのものを廃止しなきゃいけないだろうと思うんです。・・・・現在の法律の下では裁判官は死刑に相当する事件であれば死刑判決を言い渡さなきゃならないし、それが確定した以上は執行されなければならないということだと思うんです。 p246

*人が人を裁き、そして命を奪う判断を下すことの重み。彼らは法律家としての理性で死刑判決を導く。だがひとりの人間に立ちかえったとき、消し去ることの出来ないその重みを生涯、背負い続けていくのだろう。
 そして今まさに、その重みを市民が背負う時代がやってきている。  p249

*長谷川の本当の犯行の動機を調べるのであれば、強盗殺人事件の九ヵ月前にさかのぼり、定職に就いていて金には不自由のない生活をしていた時期に、強盗や窃盗に手を染め始めた初期の犯行も含めて捜査や審理を行うべきではなかったか。その時すでに長谷川は自殺する覚悟でいるのである。若年者が大事件を起こす前には、必ずと言っていいほどシグナルが発せられる。長谷川はなぜ、最初の犯行に及んだのか、判決は一行もふれてはいない。 p258-259

*もし母親との関係が事件の動機にあったとすれば、それは裁判の審理で取り上げられるべき事実であった。・・・・・もし彼自身が愛されていることさえ確かめることが出来ていたならば、ほんの一度でもその胸に飛び込むことが出来ていたならば、この事件はおこらなかったかもしれない。しかし、地裁から最高裁まで三度にわたる判決の中で、長谷川を包んだであろう様々な思いには一度もふれられることはなかった。事件の動機はただ「金欲しさの犯行」という短い言葉で切り捨てられた。 p292

 一読をお勧めしたい。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にして起きたい。
刑法(明治四十年法律第四十五号) ;「e-gov 法令検索」
  第26章 殺人の罪 第199条(殺人)
日本における死刑制度 | 執行手続や適用犯罪、廃止論などについて :「刑事弁護」
死刑制度の問題(死刑廃止及び関連する刑罰制度改革実現本部):「日本弁護士連合会」
死刑執行当日の流れとは?意外と知らない死刑執行手順を解説!:「刑事事件弁護士ナビ」
裁判員制度 ウェブサイト
裁判員制度ってどんな制度? :「日本弁護士連合会」
裁判員制度について  :「さいたま地方検察庁」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』  堀川惠子  文藝春秋 

『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』  堀川惠子  文藝春秋 

2022-04-15 18:21:11 | レビュー
 若い頃に広島を訪れ、かつての平和記念資料館を一度見学したことがある。原爆ドーム、平和記念公園、原爆死没者慰霊碑は知っている。しかし、70年以上の時を経た今になって、初めて「原爆供養塔」の存在を知った。恥ずかしながら、この名称とそれが平和記念公園の北の一隅にあることを知らなかった。
 最近上梓された著者の本の広告を新聞で見て、著者がフリーのジャーナリストで、ノンフィクション作家であること。そして、その著作の一冊にこの「原爆供養塔」という名称を冠した書を出版されていることを知った。「供養塔」という語句と、「忘れられた遺骨の70年」という副題。今、初めて知ってまず愕然とした。
 原爆ドーム、平和公園と原爆死没者慰霊碑は毎年の式典とともに報道の対象になる、だが、式典に関連して原爆供養塔が報道の一環として映し出されていたという記憶が私にはない。
 「原爆供養塔」の存在自体をどれだけの人が知っているのだろうか。

 本書はノンフィクション作品である。2015年5月に文藝春秋より単行本が出版された。改めて検索してみると、2018年7月に文庫化されている。文庫化も知らなかった。

 <終章>に著者が記している一節をまず引用しよう。
「世界の国々は今、1万発を超える核兵器を保有している。今後、その1発も使われない保証など、どこにもない。2015年3月には、ロシアのプーチン大統領がウクライナ危機に際して核兵器を準備したことを明らかにした。日本だけが世界の紛争と無縁でいられる時代では、もはやない。戦争はいつも些細な出来事から始まり、”正義”の衣をまとって拡大していく。そんな世界へと向かって歩を進めることは、先の戦争で命を奪われた幾百万もの死者たちへの裏切りにほかならないだろう。」(p352)
 今、正にプーチン大統領の命令で再びウクライナが侵攻されている。さらに化学兵器さらには核兵器の使用が取り沙汰される段階に立ち至っている。「死者たちへの裏切り」が起こらないことを祈念する。

 現在の広島の地図を見ると、太田川が元安川と本川の二本の支流に別れてできた中州の北端に相生橋が架かっている。その少し下流に東には元安橋が、西には本川橋がそれぞれ中州に架かっている。ここが原爆の爆心地と呼ばれることになる中州である。かつては三角に尖った中州の北端のエリアに「浄土宗・慈仙寺」があり、このエリアは「慈仙寺鼻」と呼ばれていたという。
 この慈仙寺鼻に原爆被災者の遺骨が集められ、「戦災死没者供養会」が立ち上げられて、供養塔の建立という動きがまず生まれた。昭和21年(1946)5月26日、慈仙寺鼻に「供養塔」が完成する。
 相生橋のある北端から、南の中州に架かる平和大橋、平和大通り辺りまでの中州が現在「平和記念公園」として整備されている。地図を確認すると、原爆供養塔の名称は載っている。

 本書には、この「供養塔」に関わる建立並びにその後の経緯と事実が克明に記録されている。なぜ、「忘れられた遺骨」という副題がつかねばならないのかが読者に明らかになっていく。
 本書は涙なしには読み終えることができない書である。原爆供養塔の位置づけの変遷、残された遺骨に関わる事実の掘り起こしと、断片的記録のある遺骨に関わる身元探し(本人探し)、それらのプロセスが生み出す意味、意義が問いかけられ、そのプロセスが記述されていく。それが生み出す迫真力に私は引きこまれていった。

 本書はいくつかの観点が柱となり構成されている。列挙してみる。
1.「原爆供養塔に行けば、佐伯敏子さんに会える」とまで口伝が広がったという。その佐伯敏子さんの人生及び後半生は自ら原爆供養塔の墓守となり、また遺骨の身元探求(本人探し)を自主的行動として行われたという経緯に焦点があてられて行く。
 <序章>は、2013年春、その佐伯敏子さんとの15年ぶりの再会から始まっていく。<第二章 佐伯敏子の足跡> <第三章 運命の日> <第四章 原爆供養塔とともに>は、佐伯敏子さんの人生ならびに原爆供養塔との関わりの深まりを描き出していく。79歳を目前にした1998年師走の頃まで、半世紀近く原爆供養塔のそばに立ち続ける敏子さんの姿が見られたという。
 「原爆供養塔の墓守としての敏子の存在が広く知られるようになってから、そのあまりの献身ぶりには多くの人がいろんなことを言った。・・・・・しかし、人生の楽しみや生き甲斐という言葉は、他人の物差しではなく、本人の主観でこそ語られるべきものだろう。」(p166)と著者は記す。

2. 原爆供養塔が建立されるまでの経緯とその後の変遷、70年を経た現状までのプロセスが客観的に記述、記録されている。そこに、「忘れられた遺骨」という語句に込められた意味の一端がにじみ出ていく。
 この観点に関連する本書の記述のいくつかを引用する。他にもいろいろあるが・・・・。
「直径16メートル、高さ3.5メートルの小山のような塚は、表面を芝生に覆われていて、まるで緑のお碗を地面に伏せたような恰好をしている。古くから塚のことを知る人は、ここを『土饅頭』と呼ぶ。」(p11)
「供養会の目的は、被災後に遺体が特に多く集められた・・・・現場で、仮に埋葬されたり放置されたままになっている遺骨を、慈仙寺鼻に一堂に収容することだった。そして、野ざらしの無縁仏をきちんと供養するために、遺骨を安置する供養塔(納骨堂)を建てることを目指した。」(p27-28)
 平和祈念公園建築の計画が生まれたとき、供養塔と遺骨は迷惑施設視されたという。霞が関の官僚は、都市公園法には公園の敷地内に「墓」は含まれていないという論法だったそうだ。
 「佐々木局長は、供養塔を『墓』ではなく『遺跡の既得権』として公園内に再建した正統性を、建設省に事後承認させたのである。」(p39)そこには、「寺院、名所、遺跡の既得権」に関する先例が関東大震災後の復興において存在した背景があることによる。 「7万人もの遺骨が納められた原爆供養塔は、いわば広島の墓標だ。1986年以降、原爆供養塔の地下室に続く扉は固く閉じられている。」(p15)この続きに、現状が記述されていく。引用すれば長くなる。本文をお読みいただきたい。そこに著者の鮮明な問題意識がある。

3.3つめの柱は、著者自身による遺骨の身元探求(本人探し)の事例を具体的に取り上げ記録していく。佐伯敏子さんが自主的行動として、広島近辺の地域から始めた遺骨の本人探しのプロセスを、著者が実体験したプロセスである。そこから何が見えて来たかが克明に記述されていく。
 なぜ、あの日広島で被災しなければならない事態が生じたのか。当時の戦時下の社会体制や社会情勢が色濃く関係していた事実が見えて来る。

 <第五章 残された遺骨>
 2004年初夏、広島のテレビ局報道部デスクの仕事、最後の現場として、似島での遺骨発掘作業現場の見聞を語る。
 「似島だけじゃない、まだまだ遺骨は広島の町のあちこちに埋まっとるんよ。供養塔だって外からみたら何もわからんじゃろう、あれと同じよ。」(p175)
 そして、「原爆供養塔納骨名簿」に載る816人の名前から、著者による本人探しの旅が始まって行く。「私は、佐伯さんの足が届かなかった遠いエリアから重点的に捜すことにした。」(p179)
 この章では、納骨名簿に記されている松田昭文、風呂谷松平、川島義春、馬場辯護士夫妻、宮本建治という人々のその住所地を探求したプロセスが語られる。
 「納骨名簿に掲載された名前や住所は、本当に正しいのか」(p213)この疑問が章末の一行となる。

 <第六章 納骨名簿の謎>
 著者は、2013年7月に老人保健施設で過ごす佐伯敏子さんに疑問をぶつけることから記述する。そして、誰が名簿に載る情報を入手し記録したのか。記録者探求に踏み込んで行く。そこから、当時の広島・江田島における軍部の体制構造の一部が垣間見えてくる。
 「和田さんには、自分たちが広島の大惨事に命がけで立ち向かい、死者を弔い、軍人として任務を全うしたという自負がある。しかし、捨て駒のように命尽き、人知れず全国の村々で亡くなっていった仲間の戦後を思う時、やりきれない思いがどこかに残る。貧しく、弱い立場のものから矢面に立たされ殺されていく、そしてエリートは生き残る、これが戦争の現実なんですよと、和田さんは口元を固く結んだ」(p237)
 この章では、無縁仏7万柱の根拠にも考察が広げられている。ここには重要な論点、指摘が含まれている。ぜひ、本文を読んでいただきたいと思う。

 <第七章 二つの名前>
 納骨名簿にある男性の名前と住所の探求から、著者は二つの名前の可能性に導かれて行く。その事例を語る。生来の朝鮮名と「創始改名」により日本名(通名)を使うことを義務づけられた人々の存在である。
 「広島における朝鮮半島出身者の犠牲者を推定するうえで、参考になる数字はわずかながらだが存在する」(p267)と探求結果を記述している。「間違いなく言えることはひとつ、朝鮮半島から渡ってきた『万』という単位の人たちの身の上に、とてつもなく大きな犠牲があったということだ」(p267-268)勿論、原爆投下により行方の分からなくなった外国人には他国の留学生たちもいた。

 <第八章 生きていた”死者”>
 納骨名簿に記載されている名前であるが、その本人は生きていたという事実が存在するという事例にも触れている。戦時中の慌ただしさの中で奇しくも発生した出来事が人の運命を左右したという事例を取り上げていく。事実は小説より奇なりというが、そんな側面を含む事実の一端である。
 被災者、死者は誰なのか? 

 <第九章 魂は故郷に>
 軍人として沖縄より広島に来ていて、納骨名簿に名前が掲載されている事例がある。軍人という点などでいくつかのハードルがあったが、著者が本人探しを実行した。ここでは諸般の事情から仮名での記述となっている。
 この章末の少し前で、再び佐伯敏子さんの発言、思いを著者は引用する。その続きに、著者は次のように記す。「人は、忘れることで救われる。失ってしまった大切な人の哀しみの記憶が、遺族の中で薄れていくのは自然なことだ。しかし私たちが、あの戦争の犠牲となって殺されていった人たちの存在を忘れてはならない、と佐伯さんはいう。今を生きる人たちに『死者をわすれないで』と語り続けた人生は、救うことのできなかった家族、そして見殺しにした大勢の死者たちへの懺悔でもあったのだろう。」(p345)と。

4.<終章>はわずか7ページであり、2015年1月6日、早朝の原爆供養塔の場面描写から始まる。この章で印象深い箇所をご紹介しておきたい。その記述自体が一つの柱になる重みをもっていると感じる。
*「原爆のことももう、歴史の一ページになろうとしているんでしょうね」(p348)
*インドに伝わる話でお釈迦様の発言。その背景は、夏の日照り続きで、水不足。農作物を育てる為に隣り合う村が水の争奪戦で戦争に入ろうとしていた。お釈迦様が二人の村長に問いかけたという。「村人を生かすために、お前たちは殺し合いをするのか」(p349)
*「歴史は生き残った者たちの言葉で語られる。しかし戦争の最大の犠牲者は、言葉を持たぬ死者たちだ。あらゆる戦場において、家族への最後の言葉も、一言の文句も哀しみも、何も言い残すことすら許されず殺されていった人たちの存在こそ、今、私たちが立ち戻るべき原点である。」(p350)
*「私たちは遺骨となった人々に、胸をはれる戦後を歩んできただろうか。少なくとも、この70年の間、戦争という同じ過ちだけは繰り返さなかった。これからも、平和と呼ばれる時間を歩いていくことができるだろうか。」(p351)

 今、私たちは、危うい時代のただなかに投げ込まれているのかもしれない。
 70年余の歳月が、忘れてはならないことを風化させようとしていないか。
 「温故知新」という言葉の意味を改めて考えてみるのに最適な一冊になることと思う。

 ご一読ありがとうございます。
 
本書からの波紋で、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
原爆供養塔  グーグル・マップ
原爆供養塔  :「広島平和記念資料館」
原爆供養塔納骨名簿の公開 :「広島市」
広島平和祈念資料館  ホームページ
原爆ドーム  :「Dive! Hiroshima」
平和記念公園について   :「広島市」
原爆関係の慰霊碑等の概要 :「広島市」
原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑) :「広島平和記念資料館」
広島平和記念碑(原爆ドーム) - 日本の世界遺産 :「平和がいちばん」
76回目「原爆の日」広島平和記念式典(2021年8月6日)  YouTube
きょう 広島「原爆の日」 大勢の人が祈りささげ    YouTube
被爆76年で平和記念式典、広島「原爆の日」首相の“ミス”で波紋 YouTube

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


『洛中洛外をゆく』  葉室 麟   角川文庫

2022-04-12 14:25:23 | レビュー
 2017年12月に葉室麟が急逝、享年66歳。これから先の活躍をさらに期待していた読者の一人としては痛恨の思いだった。翌年(2018)6月にKKベストセラーズから葉室麟&洛中洛外編集部として、『洛中洛外をゆく。』が発刊された。
 今年(2022)2月に、角川文庫から掲題の書が刊行された。タイトルは基本的には同じ。タイトルの最後に句点を付けているかないかの差異だけである。
 カバーも撮影場所は同じである。KKベストセラーズの方は、著者が縁で正坐して建仁寺の庭に対している。この文庫のカバーは同じ庭に面して縁にて、片膝を立てて樹木と空を見上げている少しくつろいだ場面の方が使われている。

 前著を意識せずにまず文庫本を読んだ。その後で奥書を読み、本書が文庫オリジナルとして編集されていることを知った。
 ならばKKベストセラーズ発刊の前著とこの文庫本との違いは何か。
 本書の第1章・第2章・第3章は前著の内容が継承されたようである。つまり、この部分は既に読後印象としてご紹介しているので、重複を避けるために前著『洛中洛外をゆく。』をお読みいただきたい。
 前著にはコラムが3本載せてあった。本書ではコラムが2本となっている。

 本書はその後に第4章「現代のことば」へと移っていく。葉室麟が「京都新聞」夕刊に連載したエッセイが収録されている。そのタイトルと日付をまずご紹介しよう。
 <心に訊く 2015.7.1> <国家暴力と呼ぼう 2015.10.5> <竜一忌・番外編 2015.12.3> <モラルの喪失 2016.2.16> <活字モンスター 2016.4.14> <熊本地震 2016.6.16> <沖縄の痛み 2016.8.12> <女城主 2016.10.5> <譲位を考える 2016.12.2> <ジャパニーズデモクラシー 2017.2.2> <詩に学ぶ 2017.3.27> <女性宮家 2017.6.2> <わたしには敵はいない 2017.8.7> <明治革命 2017.10.5> である。合計13のエッセイ集となっている。
 
 <心に訊く>では、冒頭に著者の好きな言葉が『言志四録』から1つ引用され、そこから、フランス人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリスが綴ったテロリストへの言葉「君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる」に言及していく。そして「いまのわたしの心は正しいだろうか」と投げかける。
 <国家暴力と呼ぼう>は、「近頃、『戦争』と呼ばずに『国家暴力』と読んだほうがわかりやすいのではないかと思っている」という一文から始まる。これは正に現在進行形のロシアの行為に当てはまるのではないかと感じる。
 <竜一忌>の竜一とは大分県中津市で豆腐屋を営み、歌人であり市民運動家だった松下竜一さん。松下さんを簡潔に紹介しつつ、「世の中が少しも変わっていないという意味で悲しいことなのかもしれない」と著者は問題提起している。
 <女城主>は来年の大河ドラマに引っかけて井伊直虎を取り上げ、戸次(立花)道雪の娘、誾千代と対比する。そして「少なくともふたりが、女城主としての気概と誇りを胸に生きたことは確かだ」と述べ、「現代の女性たちにも通じるものがあるのではないか」という。著者の女性への眼差しがうかがえる。
 <ジャパニーズデモクラシー>では、吉田松陰の「言路洞開」という言葉の紹介から始め、戦後の民主国家について独自所見の一端を述べている。急逝することがなければ、この辺りの見方に関連した小説も執筆されていたのではないかという思いがした。
 <詩に学ぶ>では、茨木のり子さんの詩をとりあげている。私はこの詩人をこのエッセイで初めて知った。
 <譲位を考える> <女性宮家>では、天皇家・天皇制について著者は一石を投じている。
 
 葉室麟自身がたぶん想定外だったろう早い晩年において、どういう事象に関心を抱いていたのか、その一端をここから想像することができる。
 
 第5章は「葉室麟との対話」と題して、以下の対談4つが収録されている。括弧内は葉室麟と対談した人の名を示す。その後に対談日を記した。
 <歴史の中心から描く   (澤田瞳子)>  2015.4.16
 <歴史小説の可能性を探る (諸田玲子)>  2016.9.21
 <歴史は、草莽に宿る   (東山彰良)>  2017.10.4
 <小説と茶の湯はそれぞれ、人の心に何を見せてくれるのか。(小堀宗美)> 2016.4.20 この章もまた、著者の考えや晩年の状況、当時の抱負を知るのに役立つ。

 末尾に澤田瞳子さんによる「解説」がある。これは、KKベストセラーズの前著において、「巻末特別エッセイ」として寄稿されていたものだ。この文庫には「解説」の位置づけで収録されている。

 第5章の対話の中には、葉室麟が執筆に当たってどんな思いを抱いていたかを語っている箇所がある。最後に、作品と著者の思いを抽出しご紹介しよう。葉室作品を味わう上で役立つことだろう。要点を簡略にまとめる。
『秋月記』 小藩にも政治がある。政治の中で個人が翻弄される。
      その中で自分の生き方を貫いた人はいるはずだし、いてほしいという思い。
『蒼天見ゆ』 大きな流れの中で、いかに自分を見失わないで生き抜くか。
『孤蓬の人』 なぜ茶人は非業の死を遂げるのかを考えた上での反問。
       普通の人が共感できる等身大の美。それは本当は恰好いいことで大切。
       普通の人たちが社会を作っている。自分を活かしながら生き延びる道。
       お茶が好きで大事にしてきたというなかに日本人の心があるのでは・・・。
『橘花抄』  黒田騒動はどう書いても面白くならない。第二黒田騒動を題材にした。
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』 事件の裏に隠謀があることにして、黒田騒動を描いた。
『緋の天空』 古代には何人も女性天皇が誕生。きちんと歴史に向かえば姿が見える。
『影踏み鬼』 内部粛清があった新選組で篠原は生き延びた。それが最大の執筆理由。
葉室作品を再読する機会には、改めて著者の視点を押さえながら読んでみたいと思う。

 お読みいただきありがとうございます。

徒然に読んできた作品の印象記をリストにまとめています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『約束』  文春文庫
葉室麟作品 読後印象記リスト(著作の出版年次順)   2020.3.1 現在 68冊 + 5

『親鸞 全挿画集』  山口晃  青幻舍

2022-04-11 18:13:15 | レビュー
 五木寛之著の小説『親鸞』三部作についての読後印象を各部について先日ご紹介した。
単行本を購入したままで、長い間書架に眠っていた。さあ読もうとエンジンがかかる前に、私にとってのきっかけができていた。
 『日本建築集中講義』という共著で、山口晃という画家を知り、この本から『ヘンな日本美術史』を知った。こちらを読んでいる時、著者についてネット検索していて『親鸞 全挿画集』というタイトルに出会った。五木寛之の『親鸞』はまず新聞連載小説として発表された。この時毎回挿画が併載される。その挿画を担当したのが山口晃であり、その全挿画を一冊にまとめたのが本書だという。新聞連載小説が後日に単行本となり、文庫化されるのは通例だが、挿画が利用されるということはあまりないように思う。挿画が利用されてもほんの一部に限定されるだろう。
 新聞連載小説の挿画がすべて集約されて一冊の本として独立して出版されているというのも目にしたことがなかった。俄然、そこで興味を抱いて購入したという次第。本書は2019年2月に出版されている。
 長らく休眠していた小説『親鸞』三部作を読み始める補助的なトリガーになった。

 直接の動機づけは、最近やっと『[現代語訳] 法然上人行状絵図』(浄土宗総合研究所[編]・浄土宗)と文庫本で法然『選択本願念仏集』の現代語解説部分を通読していたことにある。法然の専修念仏の先の1つとして、親鸞に関連するものを読み進めてみたくなったことにある。『歎異抄』はかなり以前から読んではいたが、ほぼそこにとどまっていた。

 五木寛之著の小説『親鸞』三部作を読み進めながら、この『親鸞 全挿画集』を併行して読み、眺めて行くことにした。連載を読むのに近い楽しみを加えることができた。おもしろい体験ができたと思う。

 著者は最終的に三部作の全体にわたって、挿画を描きつづけたことになる。それぞれの部は1年くらいの連載で、通算1052回の連載になったと「はじめに」に記されている。
 p14からp689まで、連載中の挿画で埋め尽くされている。各挿画には本にまとめることになったためだろうが、挿画に簡単な解説が付記されている。挿画を眺めつつ、この付記を読んでいくだけでもストーリーの大きな流れはつかめる形に仕上げてある。

 新聞連載中に、連載文を読みその都度挿画を見ているだけなら、多分意識せず、気づきもしない諸点について、この全挿画集から気づくことになると思う。

 まず、挿画自体に様々なスタイル、描法が試みられていて、1つの型にはまっていないことである。以下抽出してみる。括弧内は事例該当ページを示す。
 活劇漫画調(p19)、銅版画風(p34)、エングレービング風(p49)、回答用紙風(文字で構成)(p60)、結婚報告のハガキ形式(p163:親鸞が恵信を妻に)、挿画に符号を描き入れる(p239)、かすれたペンでの遠近描法(p269)、ネガ・ポジを反転させる描法(p317)、判じ物風の絵「愚に返れ」(p410:親鸞という時代小説に、サラリーマン風の男が暖簾をくぐり店内に入る絵)、マンガのコマ割り原理の応用(p429:十字名号をもじった文字列の描写に使う)、マンガチックな、あるいは絵本チックな描法(p439)、見たこともない場面を古写真風に(p455)、河鍋暁斎の絵日記風に(p518)、レンブラントの宗教画を踏まえて(p555:ローマ字表記も併用)といった具合である。この多様な描法は全体を通読していくことで楽しめる変化である。
 時には、著者のサインが書き込まれたり、落款が押されている挿画も見られる。その数は少ないけれど・・・・。

2. 時代小説への挿画であるのに、絵のなかに遊び心が描き込まれていたりする。これを見つけるのも楽しみになる。
 例えば、親鸞の少年時代として、「忠範」の姿が描かれ、名前の両側に「Free」「ride」の文字。「忠範」の下にはローマ字で「TADANORI」と。(p18)
 少年時代の親鸞が弟たちと過ごした小屋の挿画にさりげなく引き込み線を描写(p35)
 「問題は尻が落ちつかないことである」と評す一文から発想された絵(p243)
 上京している親鸞の末娘覚信が子供を自転車に乗せて移動する図(p511)
 こんな具体例が出てくる。他にも・・・・。

3. 著者が文章で使われている言葉からの連想で創作(想像、空想)した挿画が時折登場する。
 針木馬という拷問具(p43)、「ホンガンボコリ」という体長6cmの生物(p168)、架空の指を折る責具(p435)、「ためいきちゃん」という空想の生物(p475,p618)など。著者の発想がおもしろい。

 一方で、挿画を描くという仕事での裏話・エピソードにも触れられている。全挿画集という形で独立した一書になったことで読者が知ることができる側面といえる。こういうまとめ本がなければ見えない部分であり、興味深い。
まずは、著者自身が挿画を作成する過程での試行錯誤の一端をオープンに載せている。つまり、当初に描いた絵と描き直して挿画として公開されたものを両方載せている事例が所々で出てくる。

2.「情景がパッとわかって人物の顔が見えないこう云うタイプの絵が先生のお好みだと、後で編集の方から聞きました」(p15)とか、「後で先生はもっと凶暴な感じがよかったらしいと聞く。よくない流れ」(p21)。「描き直すように云われました」(p22)、「先生にコンテを頂いた」(p31)などという連載が始まった初期の裏話も記されている。

3. 「毎日のことですから時間切れで不本意な挿画を渡さざるをえない時もあるのですが、そう云う時はお酒が美味しくない訳です。」(p95)という本音も記されているからおもしろい。

4. 第1シリーズの終わりころ」にはこんな文章が出ている。
 「編集さんいわく、五木先生はいつも読者に添おうとなさる、大向こうをはる高尚な評論家ではなくて、人々の望むものを示そうとされる、そういう心の方であると。この挿画がおもしろいという読者の声があるならば、このラインで続けさせてみるか、という先生のご判断があったのでしょうか、段々挿画へハードルが下がってまいりまして、以前だったらダメかな、という絵でも、駄目出しをされなくなってきたのです。」(p162)

5. 主要な登場人物の顔を描かないという一種不文律ができていたようである。それが著者に挿画を描く際に、一工夫を加えざるを得ない障壁でもあり、チャレンジでもあったという。どんな工夫が凝らされたか・・・・、挿画をお楽しみいただきたい。何だコレ・・・という思いも含めて、実におもしろい作画になっている部分でもある。
  その一方、「脇役は描き放題です」(p492)という側面もあったという。 
 などと・・・・・。こちらの側面でも挿画をみながら、小説家と画家の二人三脚の有り様が楽しめる。

 作家五木寛之が日々オン・ゴーイングに紡ぎ出すストーリーの進展と連載の時間的制約の中で、画家山口晃がバラエティに富んだ描法と発想を駆使しながら、多分悪戦苦闘の局面にも遭遇し、創造していった挿画である。
 一読者として、おもしろくかつ楽しめる挿画集である。勿論、『親鸞』三部作とパラレルに本書を読み、かつ眺めることをお薦めする。

 最後に、本書の前半部で、著者の所感と私が思った箇所をいくつか引用し、ご紹介しておきたい。勿論、他にもいろいろあるのだが・・・・。
*小説がどちらにゆくか先生しかわからない以上、文章のゆらぎから立ちあがった絵の、その成るようにさせてあげるのが絵描きの仕事であり、「文章でないもの」をしっかりと立ちあげる事が文章のためでもあるのです。その為の挿画です。(p32)
*(補記:親鸞の)伯父の顔をラフに下描きしたらよい感じになりましたので、挿画にしようとするとどうしても描けません。下描きをなぞろうとしてしまっているのです。本番を失敗するのは大体なぞろうとするからです。結局ラフをはりつけ拡大して載せてもらいました。(p57)
*東京新聞では、挿画が基本的に横長の小説欄の中央にレイアウトされましたので、原稿のどこを絵にしよう、と思った場合、一回の連載のまんなかあたりを描くことが多かったです。(p71)
*目をつむって描くのと開いて描くのでは明らかに線の質が違います。今さら絵に教わりました。(p155)
*顔自粛令のもと、人物は黒ぬりです。紙の粗さとペンの掠れ、黒の溜め方、白の抜き方、禁止された方が自由になることもあります。(p336)
*自分の淺い意識が決めた失敗など、失敗でないかもしれません。(p350)
*私が思う挿画と云うのはこんなペンのタッチを活かして写実的に描いたタイプのものです。(p404)

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『親鸞』上・下      五木寛之  講談社
『親鸞 激動篇』上・下  五木寛之  講談社
『親鸞 完結篇』上・下  五木寛之  講談社

『日本建築集中講義』  藤森照信・山口 晃  中公文庫
『ヘンな日本美術史』  山口 晃       祥伝社

『親鸞 完結篇』上・下  五木寛之  講談社

2022-04-10 16:46:45 | レビュー
 奥書を読むと、この『完結篇』は全国各地の新聞37紙に2013年7月1日から2014年10月6日まで連載され、それに加筆修正して2014年11月に単行本が出版された。2016年5月に文庫化されている。

 61歳で親鸞は激動の地・京都に戻る決意をした。この『完結篇』は、親鸞が西洞院の家に住まいする時点から始まる。親鸞は、長男善鸞、妻涼と子・如信(もとのぶ)の3人家族、親鸞の末娘・覚信、常陸から京にやってきて親鸞に師事する唯円たちと同居している。善鸞と涼が何かの諍いをした後、涼が親鸞に訴える会話が出てくる。夫の善鸞がなげいていうこととして「・・・・その70年の歩みとくらべると、自分はそもそも生きてきた道がちがう。それでも親鸞さまに認めていただきたいと、必死につとめればつとめるほど空回りしてしまう。・・・・・」(上、p66)と涼が語っている。つまり親鸞70歳の時点が『完結篇』の始点となる。
 この『完結篇』の末尾は90歳になった親鸞が11月28日に迎える最後の場面で終わる。「すこしずつ静かになり、やがて昼過ぎに口をかすかに開いたまま息絶えた。自然な死だった。そばにつきそっていたのは、覚信と蓮位、有房、顕智、専信、そして尋有の六人だけだった。覚信が期待したような奇瑞は、なにもおこらなかった。」(下、p344-345)
 つまり、70歳から90歳までの京における親鸞の晩年の人生と布教活動が描かれる。
 
 晩年の親鸞は京でどういう生き方をしていたのか。概略で言えば、関東で一応書き上げていた6部の書き物、『教行信証』(略称)に絶えず加筆、訂正を繰り返す作業を中心に据えていた。関東から親鸞を訪ねてくる人々に応対、関東で布教する高弟たちとの文のやりとり、文による教えの伝達、身辺で親鸞に師事する唯円との念仏についての対話。さらに依頼を受けて行う写経等、それは生計への一助にもなっている。
 親鸞をサポートしてきてくれた葛山犬麻呂は3年前に亡くなり、犬麻呂とそっくりな運命を背負ってきた申丸が後事を託され、商売を引き継ぐとともに、親鸞たちをサポートしている。西洞院の家も犬麻呂の持ち家ということになっている。

 この親鸞の状況を描くだけでは、新聞への連載として読者を惹きつけることはたぶん難しいだろう。この小説『親鸞』は親鸞の専修念仏に対する信念、思想、晩年の史実を踏まえながらもフィクションとして大きな構図を描いている。親鸞の宗教活動に対して、大きな渦を巻き起こそうとする画策を織り込んでいく。ストーリーのダイナミックな展開としておもしろく、惹きつけられることになる。
 外観的には「静」の親鸞に対して、周辺の一群の人々がそれぞれ異なる立場で「動」を画策して行動する。親鸞を渦中に引き出そうとするのだ。
 読ませどころとなる大きな動きをご紹介しておこう。

1. 比叡山を去り、船岡山あたりの覚蓮寺に住み、裏天下の口入人(くにゅうにん)と呼ばれる怪僧・覚蓮坊の企みが1つの大きな動きとなる。かつては良禅と称し、比叡山で親鸞とともに修行したこともある。だが、親鸞が比叡山を去った時から彼は一貫して親鸞の専修念仏を排斥しようと画策しつづけてきた。そこには天台宗を護持する慈円の志が背景にあった。覚蓮坊は、親鸞の著述した『教行信証』を一夜で読み、親鸞を排斥する証拠を見つけ出すという狙いを画策する。
 覚蓮坊の画策に、葛山申丸が商売柄、捲き込まれていく形になる。
 覚蓮坊の動きに対して、後半では花山倫堂という人物が関わりを持っていく。花山倫堂は、まもなく関白の位も手にすると噂されている摂政、鷹司兼平の陰の指南役である。
 さらには、あの黒面法師・伏見平四郎が再び登場してくることに。

2. 竜夫人が登場する。綾小路に店を構える女借上で実力者。金融力を武器にして、ある目的を達成するための計画を進めている。彼女は昔、人買いに売られて中国へ送られた。遊里で働くうちに竜大人に見出され、商売の道に入り、成功したのだ。
 日本に戻って来たのは、貿易という面で竜大人の夢を果たすという目的があった。だがもう一つ、私怨を晴らしたいという目的を持っていた。それは安楽坊遵西が極刑に処せられるに至った裏の首謀者を突き止め、怨みをはらすということだった。この私怨は覚蓮坊の動きに対立する関係としてリンクする。読者におもしろい展開を期待させることになる。竜夫人は誰か。読み継いできた読者にはすぐに推測がつくことだろう。
 私怨を晴らすための手段として、嵯峨野に竜大山遵念寺を建立するという動きをしていく。
 この竜夫人に、葛山犬麻呂に仕えていた常吉がぞっこん魅せられていて、手足となり、協力者として行動する。常吉は親鸞のもとにも出入りしている。
 その落慶法要に親鸞も参列することになるが、一波乱が巻き起こる。
 
3. 吉田山のふもとの白河には、印地御殿がある。そこは白河印地の党の拠点である。長老はあのツブテの弥七。竜夫人は弥七とのつながりがあった。最晩年の弥七が親鸞の危機状況に再び登場することとなる。

4. 布教という局面では、笠間の妙禅房に請われて善鸞が関東に赴くという形でストーリーが進展する。そこにはひとつの企みが隠されていた。関東の高弟たちの間で、善鸞は親鸞の長男という立場を主張するようになる。その背後には妻涼の行動も影響している形で描かれて行く。専修念仏の道をどう歩むか。親鸞の信念との齟齬が描き込まれていく。
 善鸞の布教活動がどこまで史実でどこにフィクションが織り込まれているのか、私には判断できない。この『完結篇』で著者は善鸞の行動を介して、親鸞を描いていると言える。専修念仏の道を歩む親鸞が、善鸞を義絶したというのは史実である。
 親鸞と善鸞の関係では、親鸞が唯円に語る次の会話文が印象的である。
「わたしが不安に思うのは、そこなのだよ。念仏は、わたしごころを捨てるところからはじまる。一心無私の道なのだ。それができぬ自分と知ったところに、他力の光がみえてくる。そのことがはたして、あの善鸞にはわかっているのだろうか」(下、p25)

 親鸞は、法然から引き継いだ専修念仏の道を、己の専修念仏としてさらに一歩踏み出す行動を採り続けた。その信念を不動のものにするために『顕浄土真実教行証文類』という文書を結実させた。己の専修念仏の道を布教はしたが、浄土真宗というひとつの宗教教団組織を築きはしなかった。あくまで親鸞は己の専修念仏の道を歩み続けることに専念された人だったのだろう。
 一点、新たな関心が生まれた。略称『教行信証』は何時の時点でその文書がオープンなものになったのだろうか。

 この小説『親鸞』は、ストーリーの展開を楽しみながら、かつ親鸞聖人の専修念仏の道をイメージするうえで役に立つ。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
【第22回】帰洛後は法悦の著述 :「真宗高田派本山 専修寺」
宗祖晩年の周辺と初期の教団(2007年4月) :「真宗大谷派 東本願寺」
親鸞聖人御入滅の地/香華堂報133号[2012,02/01発行]  :「香華堂」
教行信証  :「コトバンク」
『顯淨土眞實教行證文類』(續諸宗部 Vol.83):「大正新脩大藏經テキストデータベース」
唯円  :ウィキペディア
唯円  :「コトバンク」
河和田の唯円  「まいぷれ Mito」
善鸞  :「コトバンク」
如信  :ウィキペディア
如信  :「コトバンク」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

こちらも、お読みいただけるとうれしいです。
『親鸞』上・下  講談社
『親鸞 激動篇』上・下  講談社




『親鸞 激動篇』上・下  五木寛之  講談社

2022-04-06 11:08:51 | レビュー
 「承元の法難」と称される念仏禁制の弾圧で、師の法然は讃岐へ。親鸞は藤井善信の俗名を与えられ越後へ流刑となる。この時、自ら愚禿親鸞と名を変え、妻の恵信とともに北国に旅立つ。この「激動篇」は、親鸞が越後の国府の浜に着いた1年後の春から始まる。描き出されるのは、流刑者としての越後での生活、越後で8度目の春を迎えるまで期間の生き様、および常陸の国稲田に移り家族とともに暮らしつつ、専修念仏を布教する時代である。
 師法然から『選択本願念仏集』を授かり、法然の説いた専修念仏の先に独自の歩みを開くため、親鸞は試行錯誤と新たな苦悩の中に踏み出していく。そんな激動期がストーリー化されている。小説『親鸞』として織り込まれたフィクション部分が読者にとって読みやすさに結びついているように思う。

 奥書を読むと、この激動篇は、全国の新聞44紙に、2011年1月1日~同年12月11日の期間連載され、加筆修正して上・下2巻本で2012年1月に刊行された。2013年6月に文庫化されている。

 親鸞が越後に流罪となるのは、承元元年(1207)35歳の時。史実によれば、流罪の罪が解かれたのは、親鸞39歳の11月。このとき恵信は29歳で、信蓮と名付けた男の子を既に授かっていた。親鸞が常陸(茨木県)に移るのは健保2年(1214)である。(笠原一男著『親鸞』講談社学術文庫 p64参照)

 この小説『親鸞 激動篇』を概括して捉えると、上巻では親鸞が流人として越後に着き、2度目の春を迎えようとする時点から、2度目の冬に入って行こうとする時期が濃密に描き込まれる。下巻は越後での2度目の冬から始まる。8度目の春までの期間は親鸞の人生での節目を比較的簡略に描いている。親鸞が関東に移る決断をし、関東での生活と布教がどのように進展していくかに重点が移っていく。フィクションの形ではあるが、親鸞が関東で家族と共にどのような生活を送りつつ、布教活動をどのように広げて行ったのかをイメージしやすくなる。そして、61歳になった親鸞が、関東を離れ京の都に帰る決断をする時点で、この激動篇が終わる。

 上巻は流人親鸞の2年目を描くのだが、ストーリーの山場の作り方が巧みである。
 ストーリーは「ゲドインさま」の行列の描写から始まる。親鸞は外道院金剛大権現と名乗る人物を中心とする勧進の行列に出会う。その行列に親鸞は独特の対応をするところがまずおもしろい。この時、親鸞は、早耳の長次と外道院金剛の参謀的役割を担う彦山房玄海と知り合う。親鸞の人生に、外道院金剛、彦山房玄海、早耳の長次らとの関係が新たに加わり深まっていく。もう一人、越後で親鸞に関わってくるのは、六角数馬である。六角数馬は流れ者であるが、算用の術と天与の能筆を武器として、越後の国の郡司、萩原年景の腹心の部下となっている。流人である親鸞は郡司萩原の管理下に置かれている。彼等がどのように親鸞と絡んでいくか。その経緯が読ませどころになる。

 一つの山場は、鎌倉から赴任してきた守護代戸倉兵衛が越後の郡司萩原の差配する河川の水利権に割り込もうと企てることから始まる騒動の展開。河川の利用には、旅をしてきた外道院金剛の一団も関わっている側面があり、この騒動が様々な人間を捲き込み、大きく変転していく。親鸞は必然的にその渦中に巻き込まれて行く。六角数馬と早耳の長次は親鸞への情報提供者的な役割を担っていく。この騒動は親鸞にとって、越後の実状と人々を熟知する機会となる。親鸞にとって地方の生活と民を知り、専修念仏の考えを深めて行く糧にもなっていく。外道院金剛は親鸞にとって、己を映す鏡のような存在ともなる。 親鸞の思いは、例えば次のように記されている。
「都では親鸞の言葉に真剣に耳をかたむけてくれる人々がいた。有名な法然上人の門弟というだけで、信用されていたのかもしれない。」(上、p164)
「一からはじめなけれならない、と親鸞は思う。この地では、法然上人が切りひらいてくださった広い未知を後からついて歩くことができない。そのためには、この越後の地に生きる人びとと、具体的につながって生きていくことが必要だ。外道院は、念仏者の自分より、はるかに深く人びととつながっている部分がある。」(上、p165)

 河川の水利権をめぐる策謀の途中で、もう一つの山場が織り込まれる。それは守護代が策謀絡みで発案した。紆余曲折を経て親鸞は求められた雨乞いの法会を実行することになる。越後で親鸞の弟子になった鉄杖が問いかけた言葉が、親鸞に決断させる契機となる。
 「民、百姓も、役人たちも、みな思いちがいをしているのです。それを根底からくつがえして、本当の念仏の意味を語られるには、まず、こわすことが先。こわして、焼野原になった跡に、小さな問いが生まれてくる。それでは一体、念仏とはなんだろう、という疑問です。それが第一歩ではありませんか。」(上、p226)
 親鸞の挑むこのチャレンジは実に興味深い。
 雨乞いの法会の終了は、外道院金剛との別れ、騒動の終焉にもなっていく。それは親鸞自身の転機にもなる。

 下巻は、親鸞が越後で過ごす2度目の冬から8度目の春を迎えるまでの期間をまず凝縮して描く。恵信の妹鹿野が生み残したもの言わぬ娘小野を恵信が引き取る。親鸞の生活に小野が加わってくる。相変わらず念仏に現世利益を求めて訪れてくる人々。なぜ念仏をするのかの問いかけ。施療を行うという行為を親鸞は決断する。そこにあの法螺坊弁才が来訪し施療所開設に拍車がかかる。親鸞の私生活では、三度目の秋に息子が生まれ、良信と名付ける。5年目の春にはふたたび男の子が生まれ、明信と名付ける。39歳となった親鸞に正式の赦免状がとどく。年が変わり2月には、早耳の長次が法然上人寂滅の知らせをもたらす。親鸞に仕えていた鉄杖が自死する。鎌倉での商いの縁で葛山犬麻呂が親鸞を訪れる。親鸞は犬麻呂の希望を受けとめて長男良信を託す決断をする。
 香原崎浄寬が親鸞に対し関東に来て本当の念仏を伝えてほしいと要望してくる。親鸞が忠範と名乗っていた幼少期に出会った河原坊浄寬、還俗して武士に戻ったその人からの誘いである。
 越後で迎える8度目の春、親鸞は関東に旅立つ決断をする。

 下巻は親鸞の関東時代を描き出していくところに主眼があるといえる。
 香原崎浄寬の配慮もあり、親鸞は善光寺にしばらく滞留する。寺の雑務をつとめつつ、善光寺への参詣者を観察し、人々の願いと思いをつかもうとする。性信房の出迎えと道案内により常陸の国の小島に至る。そこは浄寬が親鸞と家族のために用意した質素な草庵。そこが関東という未知の世界で親鸞が己の念仏の道、本格的な布教に歩み出す第一歩となる。
 親鸞は性信房を弟子とする。ひと月に2度ずつ香原崎浄寬の館にある道場を訪れ、そこに集う人々に念仏と布教を行うことから始めて行く。ここからは親鸞がどのように己の念仏の道を切り開きつつ、布教活動の試行錯誤を試みて行ったか。また、どのようにして己の念仏を深めるために思索と努力を重ねたかが描きだされていく。
 親鸞が道場に集ってきた人々にどのように布教をしていったのかの状況が具体的に描きこまれていく。史実とフィクションがどのように融合され織り込まれているのか私には判断できないが、親鸞の考えや思いを読み取り理解を深めて行くのには分かりやすくてよい。
 親鸞の関東での生活と布教を描く中で、ストーリーにはいくつかの山場が組み込まれていく。
 まず、浄寬は笠間の領主宇都宮頼綱の熱望を受けて親鸞を常陸の国に招いた。浄寬が宇都宮頼綱という人物と関東の情勢を親鸞に明らかにしていく。頼綱の動向が織り込まれて行く。親鸞が布教を広げる上で、国を支配する者にどのように対処していくかという問題に関連していく。親鸞がどう受けとめるか。
 2つめは、親鸞と家族は、小島から稲田の草庵に移る。稲田が親鸞の関東における活動拠点となる。ここで、在地の領主、稲田九郎と親鸞の親交関係が深まっていく。稲田の親鸞の道場での布教状況がわかりやすく具体的に描写されていく。一方で親鸞が己の念仏を極めるために、再び書物の世界に糧を求めていく。それが『顕浄土真実教行証文類』(略称『教行信証』)という親鸞畢生の書に結実していく歩み出しとなる。
 3つめは、やはり、関東から親鸞を排除しようとする動きが生じて来る。念仏ひとつで浄土へいけるという教えは、武士にとって国を害する、秩序を乱す危険な教えだという反撃である。起こるべくして起こる危惧感。塩谷朝業につかえる堀江義成、修験の行者弁円が登場する。
 一方で、親鸞の布教の障壁となる黒念仏の動きも現れる。そこにはあの黒面法師が再び登場して来ることに。親鸞危機という場面に、ツブテの弥七が再登場するのがおもしろい。
 4つ目は、親鸞の家族内での変化の到来。小野が京の都の犬麻呂の許に戻りたいと決意する。さらに時を経て、恵信が越後に戻る決意を親鸞に告げるに至る。さらに時を経て、親鸞は61歳で、京の都に戻る決断をする。この激動篇ではそれぞれの出発が断続的に生じていく。

 小説『親鸞 激動篇』を通して、親鸞が関東で直接に布教活動をしたプロセスをイメージすることができた。だが、史実レベルでの親鸞の布教活動はそのような状況だったのか。逆にそのこと自体への関心が生まれてきた。

 最後に、著者が親鸞に語らせている言葉で印象に残るものをいくつかご紹介しておきたい。
*鉄杖「すべての命あるものを殺すな、子を欲することも、道づれを求めることもやめよ、犀のごとく独り歩め、でございますね」
 親鸞「そうだ。だが、わたしには、それができない。命あるものを食べる。人とも争う。そして妻もめとった。友もいる。わが子もほしいと思う。わたしはそういう人間なのだ。どうしてあなたなどを恐れることがあるだあろう。あなた以上の悪人がここにいるのだから。それでもよければ、一緒に念仏の道をいこう。釈尊の言葉さえ守れぬ悪人同士として」 (上、p204)
*[親鸞を斬りに現れた山伏、弁円(べんねん)に対する親鸞の言葉]
 「われらがとなえている念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀さま、お救いください、と念仏するのではないのだ」
 「われらの念仏とは、自分がすでにしてすくわれた身だと気づいたとき、思わずしらず口からこぼれでる念仏なのだ。ああ、このようなわが身がたしかに光につつまれて浄土へ迎えられる。なんとうれしいことだ。疑いなくそう信じられたとき、人はああ、ありがたい、とつぶやく。そして人びとと共に浄土へいくことを口々によろこびあう。その声こそ、真の念仏なのだ、そなたも、わたしも、身分も、修行も、学問も、戒律も、すべて関係なく、人はみな浄土に迎えられるのだ。地獄へおちたりはしない。そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。ただ念仏せよ、とは、それをはっきりと感じとり、ああ、ありがたい、とよろこぶべし、ということなのだ」 (下、p213)
  ⇒ 山伏弁円は実在した人。明法房と改名し、念仏の道を親鸞とともに歩む。
*[真仏、頼重房が、親鸞の書き上げた秘密の文書を見せてほしいと訪ねて来た時]
「わたしが書き上げた文書は、・・・・・『無量寿経』をはじめ多くの浄土の教えの中から、わたしの信心を育ててくれた文章を選び出し抜き写して、それに自分自身の考えを付したものです。わたしはそれを、まず自分のために書いた。人に教えを説くためには、まず自分自身の考えをしっかりまとめ、おのれの信をゆるがぬものにしなければならない。しかし残念なことに、法然上人から手渡された念仏の信念が、これまで幾度となくわたしの中でゆらぐことがあった。・・・・・・易行念仏の教えはやさしいが、真実の信なくしては意味がない。阿弥陀仏を信じ、浄土を信じ、悪人である自分が必ずすくわれる、と固く信じることが大事なのです。・・・・信じたときにそれは真実となる。・・・・わたしはその見えない世界が、たしかにあるということを、自分ではっきりとたしかめるためにその文書を書いたのだ」(下、p301-302)

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
宗祖親鸞聖人 ご生涯 :「お西さん(西本願寺)」
親鸞聖人の生涯  :「東本願寺」
親鸞聖人を訪ねて :「真宗教団連合」
親鸞    :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
親鸞聖人を訪ねて 関東一円での布教  :「真宗教団連合」
親鸞の布教活動:「常総市/デジタルミュージアム」
ともに親鸞 関東の親鸞 ③稲田草庵  :「真宗高田派 専修寺 関東別院」
西念寺 (笠間市)  :ウィキペディア
第9話:親鸞と山伏弁円 :「常陸大宮市 観光ガイド」
第2世 真仏上人 :「真宗高田派本山 専修寺」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらも、お読みいただけるとうれしいです。
『親鸞』上・下  講談社


『親鸞』上・下  五木寛之  講談社

2022-04-01 11:36:49 | レビュー
 本書は、奥書を読むと、2008年9月1日から2009年8月31日まで新聞27紙に連載された後、加筆修正されて2010年1月に上・下巻の単行本として発刊された。2011年10月に「青春篇」の副題が付き文庫化されている。

 この小説『親鸞』は親鸞の幼少の頃から30代にいたる放浪、勉学の時代を描き出す。
 著者は親鸞の生涯を大まかに三期にわけてとらえていて、本書は親鸞の人生の初期に焦点をしぼっている。当初からの構想だったのか、新聞連載が好評でその後も継続したのか、どちらなのかは知らないが、この後「激動篇」「完結篇」が引き続き、三部構成の作品になっている。
 「激動篇」は親鸞が流刑者として越後に配流となり、その後関東において家族とともに暮らした時代を扱う。「完結篇」では親鸞が京都に戻り、60代から享年90歳で没するまでを扱っている。

 著者は「完結篇」の「あとがき」に「この作品は、典型的な稗史(はいし)小説である。」と記す。「中国で民間に語りつがれる噂や風聞を、身分の低い役人が集めて献上したものを稗史といった。稗史小説という言葉は、ここからきているらしい」と述べ、この自作『親鸞』を「正確な伝記でもなく、格調高い文芸でもない。あくまで俗世間に流布する作り話のたぐいにすぎない」「事実をもとにして自由に創作されたフィクションである。」と明確に述べている。

 これは逆に、読者にとっては幼少期、忠範と称した親鸞がなぜ比叡山に登り、後に比叡山を飛び出して法然の門下に入ったのか。さらに、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた専修念仏の道を歩む一人として、越後に流罪の身となったのか。役人からは藤井善信(ふじいのよしざね)という俗名を与えられ、自らは越後に旅立つ時点で愚禿親鸞と名乗るのはなぜか。親鸞の人生初期における点的史実はきっちりと読者にわかりやすい形で織り込まれている。その空隙に著者の自由な創作が組み込まれ、読者を惹きつけていく。人生の初期段階で親鸞が選び取った行動とその思いを楽しみながら読み進めることができる。
 親鸞の思考プロセスと基本的エッセンスを教条的になることなく理解できると思う。

 本書ののおもしろさは、「親鸞という特異な宗教家」が主人公として中心にいて、中世に生きた様々な人々の姿、有り様が描き出され、それら一群の人々が親鸞の人生と要所要所で絡んでいくプロセスにある。そこにフィクションが加わっている。親鸞を支える人々。親鸞を破滅させようと企む人々。人々の関わり方の白黒がわかりやすく、おもしろさとなる。

 ストーリーは、忠範(=親鸞)8歳の時点から始まる。父日野有範は出家して家を出、母は死に、忠範は弟たちとともに伯父日野範綱の許に引き取られる。忠範にとって肩身の狭い幼少期が始まる。
 忠範は伯父の宗業の所に寄ると召し使いの犬丸に嘘をつき、黒頭巾と牛頭王丸という名物牛の対決する競べ牛を見物に行く。牛が暴れ、忠範は危地に陥るが、河原坊浄寬に助けられる。浄寬は鴨川の河原に住みつき、河原にすてられた屍の世話をする河原の聖である。忠範はこの浄寬との関わりを深めていく。それを契機に奇妙な男たちとのつながりが生まれる。白河の印地の頭だったというツブテの弥七、弥七に大ボラ吹きの乞食坊主と笑われる法螺坊弁才。そして伯父範綱の召し使いである犬丸。犬丸は一方で闇の顔を持ち、後白河法皇とも闇の世界の一端でつながりを持っている。
 河原坊浄寬、ツブテの弥七、法螺坊弁才、犬丸という人々が、忠範8歳の時点から親鸞の生涯に渡って、親鸞を支える陰の群像として折々に登場し続けるのだからおもしろい。つまり、親鸞にとって生涯のサポーターである。ここにフィクションのおもしろさがある。
 浄寬らとの交わりの中で、忠範は祖父日野経尹(つねまさ)以来の放埒人の血を自覚していく。

 一方、著者は、当時六波羅一帯に集い住み勢力を誇った平清盛が、探索方として京の町に放った六波羅童(ろっぱらわっぱ)の頭領・六波羅王子、伏見平四郎を登場させる。水もしたたるいい男なのだが、その相貌に反して拷問を好む強烈な嗜虐性を持つ男である。自ら十悪五逆の魂を持つと言い放つ。親鸞に挑みつづける悪役。著者はおもしろいキャラクターを配した。波乱含みの活劇仕立ての場面が織り込まれていくことになり、読者を飽きさせない。平四郎に対抗するのは、勿論、浄寬、弥七、法螺坊弁才、犬丸などである。結果的に、この平四郎が、生涯をかけ親鸞を葬りさろうと狙う群像の一人になる。

 8歳の忠範は浄寬らとの交わりを通して社会の底辺を実体験する。比叡山に上ることをめざし出家の道を歩み出すことが幼年期との別れになる。これからどう生きるのか、比叡山に行くかと忠範に問いかけたのは法羅坊だったという流れが興味深い。

 親鸞の初期の人生は様々なエピソードを交えながら次のような節目を経て行く。
 9歳の忠範は慈円と面談する。白河房に入室。範宴の名を与えられ出家の準備に入る。
 12歳で比叡山に入山。
 入山して間もなく、横川の音覚法印を師とし歌唱の指導を受ける。讚嘆を好む。
  ⇒著者は慈円に「天台の声明を学べば大成するかもしれぬ。またよき引声念仏の僧ともなれよう」と言わせている。
 19歳の範宴は、ここ数年間<自分には仏性がないのではないか>と疑問を抱いてきた。
 19歳の範宴は後白河法皇の催す暁闇法会後の深夜の歌競べで最後にうたうことに。
  ⇒この場面に著者は黒面法師を登場させる。この経緯がおもしろい。
   黒面法師とは何者か。本書で楽しんでほしい。三部作中で要所要所に登場する。
 法会後、慈円の指示で白河房に留まる。大和・磯長の聖徳太子廟への参籠に旅立つ。
  ⇒この旅で範宴は傀儡の女・玉虫に出会う。この出会いが後の重要な伏線になる。
   範宴は二上山から葛城、金剛の古道を経て法隆寺を訪れる。
 慈円からは吉水の法然房の様子を調べよと指示を受けていたという設定がある。
  ⇒山の念仏と法然の念仏。慈円の範宴に対する問い詰めはひとつの読ませどころ。
 範宴は横川で修行を再開。慈円からの受戒を拒否し、自誓自戒を表明したと描かれる。
  ⇒範宴の修行の有り様が克明に描かれて行く。範宴の修行の苛烈さが感じ取れる。
   このとき、範宴の世話をするのが若い良禅。彼は学生として入山していた。
   範宴が比叡山を去った後、良禅は親鸞打倒を画策する首謀者に転身していく。
 29歳の折り、範宴は六角堂での百日参籠を思い立つ。比叡山からの通いによる参籠!
  ⇒この参籠は、六角堂で施療所を開く法螺坊との再会にもなる。転機の契機に。
   紫野(しの)と名乗る女との出会い。運命的な人生の転機の始まりとなる。
   紫野が範宴に語った言葉が、範宴の心に大きく響き、頭に残る。
 法羅坊を介して、熱い欲望の目覚めを引き起こさせる傀儡女に会う機会が生まれる。
  ⇒そう玉虫。10年後の今は大和随一の今様の歌い手當麻御前。だが悲劇が起こる。
   
 上巻は結構波乱万丈のエピソードを含みながら、範宴が山に戻らない決心をするところで終わる。

 下巻は六角堂での百日参籠の最終ステージの描写から始まる。有名な夢告は現実感のある展開として描写されている。その場に紫野が居るのだ。紫野が言う。「吉水へ、おいでなさいませ」と。
 29歳の範宴は、100日間の吉水の草庵通いを決心をする。これが専修念仏の道への第一歩となる。
 下巻では法然の念仏に対する思い、選択という考え方が底流として語られていく。法然の考える念仏について、わかりやすく記述されていて、専修念仏の考えの基本がわかることにもなる。100日間の聞法の後、範宴は法然に会い、弟子として受け入れられ、綽空という名を授けられる。
 一方、他宗派の圧迫と動向が織り込まれていく。専修念仏に吹く嵐の兆しである。

 吉水に集まる念仏信者の増大が進む一方、法然の説く専修念仏についても弟子の間に、一念義、多念義など様々な解釈の幅が生まれていく。称名念仏の隆盛は、他宗派の反感・圧力につながり、法難へと進展する。法然は「七ヵ条の起請文」を延暦寺に送る。
 起請文が送られた後の時点で、綽空は法然から『選択本願念仏集』の書写を許される。法然は書とともに新しい名・善信を授ける。綽空が心の中で繰り返していた名をまさに法然から授けられたという。
 安楽房遵西と住蓮が東山で行った夜中の念仏法会に参加した二人の後鳥羽上皇の女官が出家する事件が起こる。それが上皇の逆鱗に触れ、1207年に専修念仏禁止の事態に。法然は土佐への配流。善信は越後への配流などという結果となる。
 下巻ではこのプロセスが進行していく。愚禿親鸞と名乗り、越後に出立するところで、この第一部が終わる。

 下巻にはストーリーとして、いくつかの山場がある。読者を飽きさせない仕掛けが織り込まれている。その点に触れておこう。
*紫野が越後に戻り、療養することになる。紫野は出家はしないが恵信と名乗る。
 代わりに、京には鹿野という妹が出てくる。この鹿野は綽空に惹かれていくが、綽空は距離を置く。そこから鹿野に関わる別方向へのエピソードが進展していく。そこに安楽房遵西が関わっていく。これは著者が創作したフィクションだろうが、読者には興味津々の顛末となる。
*日野範綱の召し使いだった犬丸は主家を離れ、独立して商売に成功する。葛山犬麻呂と改名し、綽空の前に登場する。妻サヨとともに、綽空をサポートする役割を担っていく。
*恵信(=紫野)が再び都に戻って来る。綽空は恵信を妻にする。
*法然が著した『選択本願念仏集』を盗みだすという企みが進行する。黒面法師が企てるのだが、安楽房遵西が盗みだしに加担するという。一方、黒面法師は白河にそびえる法勝寺の八角九重塔を焼くという。
*慈円の意を受ける形で、良禅が善信を打倒の対象として登場してくる。

 最後に、印象深い文章をいくつか引用しておこう。
*わたくしがごときに選択集をおあたえになったのも、その心は、これで選ばれた真の弟子にしたぞ、というのではなかろう。わが仏法の真実をそなたにわたしたぞ、それを抱いて自分の道を往け、とおっしゃっておられるのだ。恵信どの、もしも生涯の師弟というものがあるとすれば、師、高弟、弟子、門下、といったつながりではなく、易行念仏を説きつつ人びとの暮らしの底にそれぞれはいっていくところにあるのかもしれぬ。旅立つことが真の師との出会いなのだ。  下、p226
*わたしは浄土にはいったことがありません。ですから、師の言葉を信じるしかないでしょう。信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することではない。信じるのは物事ではなく、人です。その人を信じるがゆえに、その言葉を信じるのです。
 わたしのような者を、しっかりと信じてくださった。だからわたしも法然上人についていくのです。     下、p262-263
*聖とは、世を捨てた僧のことではない。世間の俗塵にまみれながら、俗に染まらぬ生き方をつらぬくことだ。 下、p278

  ご一読ありがとうございます。
 
本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
法然上人とお念仏  :「浄土宗総本山 知恩院」
法然        :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
宗祖親鸞聖人 ご生涯 :「お西さん(西本願寺)」
親鸞聖人の生涯  :「東本願寺」
親鸞聖人を訪ねて :「真宗教団連合」
親鸞    :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
専修念仏 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
選択本願念仏集    :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
七箇条制誡      :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
七箇條の起請文 (浄土宗全書) :「WIKISOURCE」
仏の道に殉じた青年僧たち”住蓮房・安楽房”の伝説  :「胡国浪漫風土記」
住蓮  :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
遵西  :「Web版 新纂浄土宗大辞典」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)