遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『完全なる首長竜の日』 乾 緑郎  宝島社

2011-12-31 22:33:32 | レビュー
 実に奇妙なミステリーだ。リアルな行動とドリームな行動、現実と夢の境が不分明な文章の流れで話が次々に展開していく。現実の行動と思いながら読み進めていると、あれっと思う。そこにははや夢の話が展開しているのだ。全編が実に巧妙に仕組まれている。

 『胡蝶の夢』という言葉が本書に幾度か繰り返し出てくる。これがこのストーリーの根底にある一つのしかけのような気がした。

 『荘子』内編の斉物論篇に、こんな文が載っている。(『荘子 内篇』森三樹三郎訳注・中公文庫)
 昔昔、荘周は夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。自ら愉しみて志に適する与。周たるを知らざるなり。俄然として覚むれば、則ちきょきょ然として周なり。知らず、周の夢に胡蝶為るか、胡蝶の夢に周為るか。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此を之物化と謂う。
 森氏はこう訳されている。
 いつか荘周は、夢のなかで胡蝶になっていた。そのとき私は喜々として胡蝶そのものであった。ただ楽しいばかりで、心ゆくままに飛びまわっていた。そして自分が荘周であることに気づかなかった。ところが、突然目がさめてみると、まぎれもなく荘周そのものであった。いったい荘周が胡蝶の夢をみていたのか、それとも胡蝶が荘周の夢を見ていたのか、私にはわからない。けれども荘周と胡蝶とでは、確かに区別があるはずである。それにもかかわらず、その区別がつかないのは、なぜだろうか。ほかでもない、これが物の変化というものだからである。

 このストーリーは『胡蝶の夢』のように、楽しい話ではない。40歳代の漫画家である姉、淳美と自殺を試み、遷延性意識障害となった昏睡患者の弟、浩市とにまつわる話である。姉は、『西湘コーマワークセンター』に入院し昏睡状態のままでいる弟との間で、SCインターフェースによる機械的コーマワークという手段を使い、意思の疎通(センシング)を繰り返している。このセンシングの最中に、浩市との間でさも現実のような夢の中に入る。浩市との意思疎通がうまく行く時もあれば、そうでない時もある。この医療技術を取り扱うのは<神経工学技師>榎戸である。センシングにはこの榎戸が付き添う。榎戸を指示するのは精神科専門医の相原英理子だ。相原は意識障害に至るまでの原因の究明を試みる。

 このストーリーの基礎には、コーマ(昏睡)ワークというプロセス指向心理学の実践的かつ臨床的な心理療法がある。アーノルド・ミンデルという心理学者が提唱したものだという。昏睡状態の患者とのコミュニケーション技術の領域として臨床体験世界が描きだされている。ただし、それがどこまでこの小説の世界と整合しているのか、私には判断出来ない。
 ここに米国エール大学教授ホセ・デルガードが開発したスティモシーバーという脳埋め込みチップの開発から発展したSCインターフェースという工学的技術がセンシングを介在するものとして登場している。これは著者がSFとして作りだしたツールなのか、現実に開発応用されている技術なのか、ネット検索では捕まえどころがなかった。この部分かられは多分著者のしかけとしてのSFなのだろうと思う。(勿論、その技術自体は本筋ではないのでどちらでもよいことかもしれない。)

 センシングの中で、淳美にはくり返し子供の頃のある島での体験が夢世界に出てくる。遠浅の磯浜で、伯父さんが魚毒(何倍にも薄めた青酸カリ)を流して準備してくれた潮だまりで、弟の浩市と魚毒で弱って出てきた魚を網で捕ったり銛で突いたりして遊んだ情景である。魚毒を流した場所には、赤い布を括り付けた竹竿を立てる決まりなっている。この場所が微量だが猛毒を使った危険な場所だということを示すためだ。満ち潮になり竹竿が自然に沖に流される。浩市はその竹竿が欲しくて手を伸ばし、深みにはまる。弟を助けようとしてその手を握りしめ、助けを呼ぶ。父が助けようとして海に飛び込む。淳美はその弟の手の感触を鮮明に覚えているという。それが島での記憶の一部なのだ。東京に戻った後、両親は離婚する。
 もう一つ、センシングの中で、浩市との会話は、幾度も浩市が自殺の形をとることで終わってしまう。なぜかサリンジャーの小説に出てくるオルトギース自動拳銃をこめかみにあてて自殺するのだ。それでセンシングは中断される。
 センシングのプロセスで、その浩市が夢世界の中で自分以外の他者が、フィロソフィカル・ゾンビ(=現象学的意識やクオリアを持たない存在)ではないか。淳美自身がそうではないか、と語りかける。クオリアとは、「例えば、赤色を赤色と感じる心、心地好い音楽を心地好いと感じる心、怒り、笑い、その他の現象学的意識のこと」だと浩市は姉に説明する。フィロソフィカル・ゾンビというのも多分著者の作りだし概念なのだろう。
 
 淳美の現実世界は、『ルクソール』という漫画を杉山という編集者と二人三脚のような形で十五年越しで大きく育て、連載してきたが、連載が打ち切られる状況に立ち至っている。漫画を書くこと一筋に生き、独身で40歳代になった淳美がそこにいる。優秀なアシスタント、真希の最近描いた作品が好評で受け入れられ始めているという。淳美は真希を応援しながらも、反面、落ち目になってきた自分に寂しさを感じ始めている。一途に走ってきた生き方に疲れがでてきているのか。現実世界と夢世界が不分明に展開し始めるのだ。
 淳美が好きな絵だとして、ルネ・マグリッドの『光の帝国』が出てくる。「マグリッドの絵は、・・・・一つ一つは写実的だが、全体を見渡した時に、初めてその異様さに気が付くというものが多い。」と語らせている。まさに、このストーリーの展開そのものである。

 この姉弟に仲野泰子という淳美と同年配の女性が関わって来る。息子の由多加が同じセンターに入院していたという。泰子が由多加とセンシングしていた最中に、何度か浩市に会っているのだという。それで、泰子が浩市と直接センシングしてみたいという。
 そこから、淳美の現実世界の話と関わりあいながら夢世界での話が急速に展開していく。 

 最初に述べたように、リアルとドリームの錯綜したかなり奇妙な感覚を味わいながら、意外な展開を経るという構成に、最後は脱帽である。この最後の終わり方、これは本当に現実と夢の世界の交錯なのか。すべて夢世界の中での現実と夢なのか・・・・
 実に奇妙で、なぜこんな繰り返しの多い記述があるのかと戸惑いながらも、いつしか、乾ワールドに引き込まれていく。

 プロセス指向心理学という臨床心理学分野を踏まえて、ミステリーを絡めたSF世界に発展させた、実に奇妙で興味深いストーリーだ。
 本書を読み終えた時、私はゲシュタルト心理学でよく例に出される「ルビンの杯(/ルービンの盃)」という絵を思い浮かべた。図(前景)と地(背景)が見方によってくるくると入れ替わっていくあの有名な絵。最後まで、そういう関係性の切り込みどころを気づけなかったのが残念だ。
 後にして思う。各所に著者がしかけをそっと組み入れていたことを。


付記
 ちょっと惜しいと思ったことがある。
 それは言葉の定義をしている会話のところで、誤植と判断するところがあったことだ(p121とp122)。この両ページで、「プロセス思考心理学」となっている。
 p123は「プロセス指向心理学」である。
 ネット検索をしてみると、「プロセス指向心理学」が専門家の使う訳語のようだ。英語では Process oriented psychology と称するようである。
 「この物語はフィクションです。もし同一の名称があった場合も、実在する人物、団体等は一切関係がありません。」という本書末尾のことわり書きは当然のこととして、それとは別の次元で、注意を払ってほしいと感じた次第だ。
 事実情報自体の要のところでの誤植はやはり気になる。
 (2011年1月22日第1刷発行を読んでのことです。正誤表が入っていたかどうかは不詳。)


ご一読、ありがとうございます。
年央から始めたこの「遊心逍遙記」を2012年も続けていきたいと思っています。


本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
プレシオサウルス  :ウィキペディア

コーマワークとは  :

プロセス指向心理学 :「風使いの小屋」
プロセス指向心理学 :ウィキペディア
アーノルド・ミンデル :ウィキペディア
Arnold Mindell ← Process oriented psychology :From Wikipedia

コーマワーク :株本のぶこ氏
昏睡状態の人と対話する☆  
究極のあるがまま

遷延性意識障害 :ウィキペディア

スティモシーバー :ウィキペディア
ホセ・デルガード :ウィキペディア

ニック・ボストロム :ウィキペディア


ガジュマル :ウィキペディア

ルネ・マグリッド 「光の帝国」 :ブログ「青空の世界」

ネーム :ウィキペディア
ネームの画像検索結果
コピック

キジムナー :ウィキペディア
キジムナーの画像検索結果

マブイ :沖縄辞典

ルビンの杯:「Follow My Heart」

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『美しい科学1 コズミック・イメージ』 ジョン・D・バロウ  青土社

2011-12-28 00:23:03 | レビュー
 本書は4部構成で、その内の前半2つが1冊にまとめられており、2巻本である。その1をまず読んだ。『美しい科学2 サイエンス・イメージ』はまた後日に。

 著者は、「はじめに」でこの本の意図を述べている。「本書は絵を並べただけの本ではまったくない。絵の一つ一つに物語がある。意義深い物語、不思議な物語、語られることのなかった物語。それらがみな合わさると、歴史的な時間と地理的な空間のなかで、科学がどのように進歩してきたかを見わたせる大きな一枚の絵ができあがる」。著者の思いは、「科学を取り巻く状況と技術に革新が起こった」ことに起因するという。科学には視覚化の文化があり、今、科学史におこった革命に我々は立ち会っており、技術が洗練され、今後は人工の画像とシミュレーションがますます不可欠になると著者は考えている。
 だからこそ、この時点で、過去の科学史において絵と図が、「人間の想像力を助け、自然界と自然の法則について科学と数学によって理解を深めるための案内役を務めた」ことに思いを馳せてみようというのだ。

 『美しい科学1』は、第1部「瞳のなかの星」、第2部「宇宙についての先入観」という二部構成である。『美しい科学2』で、第3部「数で描かれた絵」、第4部「知は物質を超える」が扱われる。

 「瞳のなかの星」は、アンドレアス・セラリウスが1660年出版の『大宇宙の調和』に描いた「北半球とその空」の絵及びナポリ国立考古学博物館が所蔵するファルネーゼ・アトラス像-肩に白い大理石の天球儀を載せた紀元2世紀のローマ帝国時代の石像-から星座、宇宙について話を始め、現代最先端の「インフレーション宇宙論」「ブラックホール」まで、宇宙に関する話題、理論の変遷を23章の中で語っている。
 それぞれの話のキーになる図、グラフ、絵などが数点ずつ載せられ、星座や星雲、銀河、宇宙を眺め、積み重ねられてきた研究の歴史、宇宙論が展開される。簡潔な理論の要旨説明があるが、私にはこの分野の基礎知識がないため、読んでいても字面を追うだけで理解するには至らない箇所が多々あったのが残念だ。だが宇宙論がどのように発展してきたか、宇宙科学史の香を味わうことはできた。また、理論ばかりで無く、さまざまなエピソードも記されているので、この部分は結構おもしろかった。引用された図や絵には惹かれるものがいくつもある。

 たとえば、コペルニクス後に6つの宇宙像があった(p43)。ゴッホの絵『星月夜』の背景がゴッホの誕生星座であるおひつじ座の配置かどうかの議論をしている天文学者がいる(p50)。ハッブルの発見した膨張宇宙をアメリカの一般市民に初めて説明しようとした一人がドナルド・メンゼルで『ポピュラーサイエンス・マンスリー』誌1932年12月号だった(p122)・・・とか。また、M51銀河、わし星雲M16、かに星雲、M31アンドロメダ銀河、「スーパーダスト銀河M82、ハッブル・ディープフィールドなど、すばらしい写真が載っている。こういう写真を眺めていると、小さなことに捕らわれている日々の自分の心の窓が開く。宇宙の中では地球ですらちっぽけなもの、なのに・・・・
 ネット検索をすると、宇宙の歴史を表す図(p179)として引用されているものが、ウィキペディアの「宇宙のインフレーション」にも載っていた。宇宙というのは宇宙開闢点から、インフレーション期、プラズマ期、ダークマター期と続いていくそうな。「今日の私たちが生きている最も最近の時代は約45億年前に始まった」とか。なんと悠久な時の流れか。

 こんな一文がある。私はまだ理解できたとはいえない。
*今日、私たちは夜空が暗い理由を知っている。宇宙が膨張していることがわかったからである。 (p145)
*死に向かっている恒星が超新星爆発を起こし、生命の卵となる残骸を宇宙空間にまき散らす。残骸はその場所で宇宙塵になり、惑星になり、最終的に人間になるのだ。あなたの体の炭素原子の核はすべて星からやってきた。あなたは星屑でできている。 (p145)
*宇宙が137億年前に膨張を始めてから、光が時間的に私たちのもとに届くという意味で私たちに見ることができる部分的な宇宙には、およそ1000億個の銀河があり、そのそれぞれに同じくらいの数の星がある。 (p160)
 私はまだこれらの文を十分に理解できたとはいえない。だけど、惹かれる記述だ。そこには桁はずれの時間軸が横たわっている。

 第1部に比べると、「宇宙についての先入観」の20章は読みやすくて比較的わかりやすい。それは宇宙とも絡むが、様々な切り口の科学の出発点を解説してくれているからである。月から見た地球、オゾンホール、皆既日食、火星、宇宙へのメッセージ、雪の結晶、植生と地層、恐竜、などなど。
 読んでいて印象深く、興味深い事柄を幾つか、感想を交え列挙してみる。

*アポロ8号の宇宙士W.A.アンダーズが撮影した「地球の出」のすばらしい写真(p205)が、環境保護問題への関心を頂点に至らしめたのだとか。美しい地球を見たら、誰しもそう思うだろう。だのに、なぜ、人間はエネルギー浪費、原発で地球を住みにくくするのだろう。
*南極上空のオゾンホールの大きな写真(p215)を見せつけられると、やはり愕然とする。
*1503年、コロンブスは船が座礁し、食物に窮した際、ジャマイカで現地島民の助けを得るのに月食の知識を活用し、間近に迫っていた月食を利用して、ピンチを切り抜けたとか。(p221)まさに、知は力なりだ。また、最初の日食の銀板写真がp220に載っている。
*NASA惑星探査機に載せられたもの、パイオニア号の銘板とボイジャー号のレコード盤。載せられたという報道は知っていた。しかし、その図が何を意図し、どのような考え方を使ってどのように描かれたか、何を伝えようとしたか。具体的には知らなかった。本書で初めて詳細に内容を知ることができた。さらに、驚きは、19世紀に地球外生命体に送るメッセージを最初に記号化しチャレンジした人物がフィンランドに居たということだ。(第6章、p237-253)
*「空飛ぶ円盤が誕生したのは、1947年6月24日午後3時のことだった。」これは第7章の途中の一文。何気ないひと言が、人の心に焼きつくコトバになったのだ。(p254-258)
*他分野において先駆的な研究を行ったアレクサンダー・フォン・フンボルトは、11歳のときから世界を転転とし、1ヵ所に半年以上住んだことがないとか。1805~1834年はほとんど30巻あまりの大著執筆に専念。そして膨大な情報がひと目でわかる重要な図版を多く作成したという。それが情報を比較するという新しい発想と方法の先駆になったようだ。他分野にわたる関心、必然的な比較研究の成果だと著者はいう。赤道地域の植物の分布図が載っている(p269)。緻密で発想力豊かな人だったのだろう。
*イングランドとウェールズで、等高線を描いた最初の地形図は、研究者や学者じゃなく、運河の様々な掘削技術に従事し、ほとんど教育を受けたことのない人物、ウィリアム・スミスの20年以上に及ぶたゆまぬ努力の賜物だったという事実。興味・関心を抱いたことを一意専心するすばらしさ!(第10章、p272-275)
*天気図はイギリスで1875年4月1日に初めて『タイムズ』紙に掲載された。作成したのはフランシス・ゴールトンだとか。統計学的研究で「相関」という言葉を最初に使った人であり、指紋で個人を特定できることを初めて発見した人物でもあるとか。「ゴールトンのマーク」はこの人の名前から来ているという。(p278)
*火山灰の中に、360万年前の人類の足跡が残っていた! タンザニアのラエトリ遺跡で発見されたそうだ。まさに人類の足跡。p288、290に写真が載っている。すごいな~!
*ノミの観察を緻密に行い絵を描いて出版したのは誰か? 1665年『ミクログラフィア』イギリスの王立協会出版。描いたのは発明家ロバート・フック。開発した顕微鏡を使ってスケッチしたという(p308)。 p307に巨大サイズのノミのスケッチが載っている。
*大陸と大洋の年代的推移の図(p315) 大陸は動いている!今も! 

第1部は少しずつ読んだが、第2部は一気に読んだ。知的好奇心をかき立てる本である。
著者の該博な知識と情報収集力、プレゼンテーション力に驚嘆する。

ご一読、ありがとうございます。

本書の関連で検索しだしたらきりがない。宇宙関係の知識が乏しいのでその分野の語句を一部検索してみた。後はまた、ゆっくり楽しみながらサーチしてみよう。

ファルネーゼ・アトラス ← ファルネーゼ・コレクション:mamimamabhさんの投稿

銀河   :ウィキペディア
ブラックホール :ウィキペディア

ハッブル宇宙望遠鏡 :ウィキペディア
ハッブル宇宙望遠鏡 :ナショナルグラフィック公式サイト
大規模観測計画   :ウィキペディア
Great Observatories program  :From Wikipedia, the free encyclopedia
ハッブル宇宙望遠鏡 の画像検索結果
ハッブル宇宙望遠鏡 の動画検索結果
銀河衝突:ハッブル宇宙望遠鏡が59枚の写真を公開

宇宙のインフレーション :ウィキペディア
STEREO SCIENCE CENTER :NASA

宇宙・地球・人類 :「山賀進のWeb site」
他項目検索中に偶然出会ったサイト

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『オランダ宿の娘』 葉室 麟  早川書房

2011-12-26 12:12:27 | レビュー
 オランダ宿というのは、日本の各地に置かれていたという。徳川鎖国の時代に長崎出島のオランダ商館長、オランダ通詞他一行が江戸に参府する際、オランダ使節が定宿とするところがオランダ宿と呼ばれた。江戸において、寛永年間からオランダ宿を務めるようになった長崎屋が本書の舞台となる。その長崎屋の二人の姉妹を軸にしながらストーリーが展開する。
 長崎屋は江戸の度重なる大火で幾度も焼失し、その記録文書は乏しいようだ。それは逆に、史実を基礎に、著者が想像力を豊かにして史実を織りなしていく世界には幸いしているのかもしれない。何人かの脇役や二人の美しい姉妹を登場させ得た-多分そうだろう-という意味でも。
 文化3年(1806)3月4日の<丙寅の大火>と呼ばれた時には、オランダ使節の長崎オランダ商館長、ヘンドリック・ドゥーフが滞在していたという。この時、長崎屋は焼け落ちた。
 物語のテーマはいくつかあると私は思う。
 一つは、るんと美鶴の姉妹がオランダ宿の娘として、異人であるオランダ人と普通に接触する機会がある環境で日常生活を送る。そして、オランダ使節の一行に加わって来た人物に恋心を抱いていく恋物語の顛末がこの姉妹の視点でのテーマになっている。
 姉るんは次第にオランダ通詞、沢駒次に思いを寄せていく。その駒次は語る。「この国とオランダのひとの心をつなぐ通詞になりたい」と。
 文政元年にオランダ商館長、ヤン・コック・ブロムホフが参府し、長崎屋に泊まった時に、姉妹に贈った指輪に対し、姉妹は商館長に長崎へ礼状を認めて送る。この文がきっかけで、5年後、文政5年3月、オランダ使節に道富丈吉が同行してきた。予知能力を持つ妹の美鶴は、道富丈吉に心惹かれていく。彼はドゥーフと長崎の遊女、瓜生野との間にできた子供だった。丈吉は美鶴にこんな言葉を教える。「オランダ冬至にはこんなお祝いの言葉を言います。プレティゲ、ケルストダーゲン」
 美鶴は、家族や長崎屋に関わって来る暗雲を漠然と予知しはじめる。
 そこに、京都のオランダ宿の三男坊で、長崎屋に見習いのため預けられている沢之助が関わってくる。

 二つ目は、シーボルト事件という名称で歴史に記録されている史実である。歴史小説としては、この事件が本書の中心テーマだと思う。シーボルトが日本に来た目的は何だったのか。彼は日本で何を行い、何を残し、世界に何を伝えたのか。なぜ事件に発展していったのか。その経緯は・・・。科学的探究と政治的利害、そして経済的利害及び尽きせぬ欲望。様々な思惑が絡み合っていく。

 三つ目は、オランダ使節の参府とはどういうものだったか、その目的や機能および江戸の人々の関心事、オランダ使節に接しようとした人々の関心事、江戸幕府そのものの動きなど、オランダ使節が生み出す状況がある。そして、出島に置かれたオランダ商館の活動は、他の西欧諸国の日本への接近、唐人貿易や密貿易など、対日貿易での確執の渦中にある。そういう時代背景の描出も本書に欠かせぬテーマになっていると思う。
 
 これら三つのテーマが絡み合いながら、ストーリーが展開していく構想が読者を引き込む魅力になっていると私は思う。
 二人の姉妹の恋心がどのように展開するのかに興味を惹きつけられながら、日本史の教科書で学んだ一項目としての人物達が、本書の中で、相互に関わり合いながら躍動しだすおもしろさを楽しめる。

 本書は三部構成になっている。
 第一部は、明暦3年(1657)年正月18日の通称、振袖火事から物語られていく。江戸の大火が本書の底流を形づくる。文政5年のオランダ使節の江戸参府の時、るんと美鶴の姉妹は長崎屋が懇意にしている<蘭癖-洋名まで付けてもらうほど->の鷹見十郎左衛門の妻、富貴の病気見舞いに行く。そこで、何でも効く南蛮渡来の薬、テリアカを求めたいという希望が出る。この話に道富丈吉が関わり、江戸にそれを買い求めた廻船問屋がいるはずだと言う。るん・美鶴姉妹と丈吉、沢之助がその店を訪れることから、事が展開していく。

 第二部は、二年後の文政7年(1824)2月、長崎の出島での変事から始まる。道富丈吉が三番蔵の中で死体で見つかったのだ。遺骸は商館医のシーボルトが検屍し、「心臓の発作のようだ」と言うのだが・・・・・駒次はその死因に疑念を抱く。本書にまずミステリーの要素を加えている側面である。
 そして文政9年(1826)3月、オランダ使節が江戸に参府する。この時シーベルトが商館長スチュレルに同行する。この参府はシーベルトにとって来日目的を果たすための旅になる。ひさしぶりに江戸に戻る駒次。長崎屋の姉妹がシーベルトに関わっていく。
 この旅で、シーベルトは蝦夷地の探検家として名を馳せた最上徳内、幕府天文方の高橋作左衛門景保、御殿医土生玄碩、さらに間宮林蔵など様々な人々に会い、情報交換をする。
 間宮林蔵が幕府の隠密でもあったということを本書で知った。ネット検索してみると同趣旨の記述を見つけた。こんなことは歴史の教科書には出てこない。
 その間宮林蔵が、シーボルトとの関わりに一線を画しながらも、『東韃地方紀行』という幕府に提出した書物の筆写を駒次に許し、シーボルトに取り次ぐことを託す。著者は林蔵に語らせている。
 「わしにも、自分がしたことをひとに知ってもらいたいという欲はある。だが、そのことによって迷惑は被りたくない。お上に知られるようなことがあれば、わしは知らぬ存ぜぬで通すから、そのつもりでおることだ」
 シーボルトが知りたかった重要な情報の一つが、この間宮林蔵の持つ探検探査情報だったようだ。それは、世界地図の不明な地域を補う情報だったという。この書物がシーボルトの手に渡ったからこそ、間宮海峡という名が世界に知らされたのだ。
 科学者としてのシーボルトの活動は、政治的観点からは、スパイ活動に相当するものと見なされる次元がつきまとう。シーボルト自身の認識・思いはどうだったのか・・・・

 第三部は、シーボルトが入手した情報を軸としてストーリーが展開する。それが後にシーボルト事件と言われるものになっていく。そこには、シーボルトとそれに関わる人々の行動を、自分たちの思惑・利害で糾弾すべきものに貶めていこうとする力が働いて行くのだ。
 そして、シーボルトに関わる様々な人々が捕縛されていく。
 もう一つのミステリーは、シーボルトを貶めることを誰がなぜ行おうとしていたのか、ということである。シーボルトの本心はどこにあったのだろうか。
 本書は、シーボルト事件について、著者の一つの仮説の提示になっている。
 テリアカという南蛮渡来の薬が一役買っているという興味深さがそのミステリーに奥行きを与えている。
 うまく組み立てられたストーリーになっていて、最後まで一気に読んでしまった。

 さらに、もう一つのミステリーは、本書の底流にある江戸の大火がなぜ起こったのかだろう。
 本書では長崎屋源左衛門の妻、おかつの幼なじみとして、占いを行う妙心尼という尼僧を登場させている。この妙心尼が本書を通じて一種の黒子役になっていておもしろい。

 また、遠山の金さんとその父、遠山景普の二人が登場してくる。前半では父の景普が一つの要となり、第三部では金さんが最後の要となる。この落としどころが楽しめる部分でもある。このあたりは、史実資料があるのか、著者のフィクションなのか・・・・

 出島貿易、オランダ使節の実態、シーボルト事件に興味・関心を喚起させられた小説だった。

 印象深い文をいくつか列挙しておく。
*るん「火事はすべてを奪ってしまう」
 美鶴「そう。何もかもなくなってしまう。だけど、もし、大事なものを無くしてしまったとしたら、大火事が起きても同じことだと思ってしまうかもしれない」 (p84
*幼い時からカピタンが訪れることに親しんできた。髪の色が違っても肌の色がちがっても、わだかまりなく話してきた。それが、オランダ宿の娘だ。  (p160-161)
*雪の結晶は見た目と違った形をしている。ひとの心も同じかもしれない。外から見ただけでは真の心を読み取ることはできない。 (p283)
*シーボルトは、日本で自分を拘束することになった事件の密告者の名を記すのにためらわなかった。(彼の功績を伝えなければならない)
 シーボルトは、事件を経てなお探検家としての男への敬意を失わなかった。ペンを持ち、慎重に記していった。
 --Str. Mamiya(seto) 1808


ご一読、ありがとうございます。

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本書を読みながら、史実を知りたくて併行して、ネット検索してみた。

江戸の阿蘭陀宿・長崎屋 :青山学院大学名誉教授 片桐一男氏

江戸の火事 :ウィキペディア
江戸の三大火 :「お江戸の科学」科学創造研究所
天和の大火 八百屋お七(やおやおしち)の話 :「歴史の散歩道」

波留麻和解 一名江戸ハルマ  :早稲田大学図書館
長崎ハルマ :早稲田大学
雪華図説 / 源利位 [撰]  :早稲田大学図書館
 本文
北斎による長崎屋の情景「画本東都遊」:「江戸時代の日蘭交流」
画本東都遊 上、中、下 :早稲田大学図書館

唐人屋敷 :長崎市まちづくり推進室
唐人船 ← 長崎くんち 大黒町・唐人船@八坂神社 :YouTube

カルロス銀貨 ← 文政五年のカルロス銀貨 :「コインの散歩道」

出島  :ウィキペディア
出島 :公式HP
出島 目次 :「街の出島好き(DECIMANIA)のためのホームページ」

長崎の坂道9-皓台寺(こうたいじ):ブログ「忘れ得ぬ景観」
裏山の案内 :海雲山皓臺寺HP
 「道富丈吉(輸入物鑑定) 唐物目付」の墓所位置が載っています。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト :ウィキペディア
シーボルト  :「ぶらり重兵衛の歴史探訪」サイトから
シーボルトの恋文 :「Katsuya no Salon」サイトから

最上徳内 :ウィキペディア
間宮林蔵 :ウィキペディア
高橋景保 :ウィキペディア
鄭 成功  :ウィキペディア
松平康任 :ウィキペディア
会津屋八右衛門 :ウィキペディア
遠山景晋 :ウィキペディア
遠山金四郎 ← 遠山景元  :ウィキペディア

クルーゼンシュテルン世界周航図 :九州大学総合研究博物館のサイトから
  同館ホームページ 
『日本辺界略図』 高橋景保作 :江戸時代の日蘭交流

シーボルト事件  ::ウィキペディア
シーボルト事件と流出地図 :「ようこそ大船庵へ」
シーボルト記念館 
竹島事件 :ウィキペディア
高野長英 :ウィキペディア
高野長英記念館
阿蘭陀通詞 :「長崎遊楽」サイトから

アジサイ :ウィキペディア
「シーボルトとあじさいと牧野富太郎」という小見出しがあります。
あじさい :語源由来辞典


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『橘花抄』 葉室 麟  新潮社

2011-12-24 19:51:37 | レビュー
 父・黒田光之と長男・綱之の対立、綱之の廃嫡及び三男長寛(黒田綱政)の立嫡という福岡藩における藩政権の変転が本書の背景である。藩主黒田家の親子・兄弟間で繰り広げられた藩政権力奪取の確執のおぞましさ。その渦中で福岡藩黒田家にとってのあるべき姿は何か、臣下としての道を貫いた立花重根とその弟峯均、そして、その二人に関わりを深めていく卯乃という女性が主人公である。
 一連の事件は黒田忠之時代の黒田騒動になぞらえて、第二黒田騒動と呼ばれることもあるようだ。福岡藩黒田家の存続継承において、どのような政治的確執が続き、藩主・家臣がどのように動いたか、それはなぜ?武士道とは?という、藩政治に絡む人々の思惑と行動が一つのテーマになっている。

 一方、この騒動の中で、様々な「愛」の形が織り込まれている。そしてそれらが絡み合いながら、ストーリーが進展する。秘められた愛が本書のもう一つのテーマである。
 そして、さらに本書の底流で「香」が常に漂っていく。「香を聞く」という行為が様々な局面で人の心の奥底を省みるという位置づけで使われている。この香道の世界がサブ・テーマになっているように思った。そして「香」に照応して和歌が引用されているというのも興味深い。
 本書を通じて、香道というものがどのようなもかを知ることができた。かつて何度か香道具を博物館の展示でみたことがある。どのように使うのかそれほど深くは考えなかった。本書でそのイメージが膨らんだ。そこでこの機会に、ネット検索もしてみた。また、今年の正倉院展で再び見た、蘭奢待の香木を思い浮かべた。

 藩政治というテーマ
 立花五郎左衛門重根の父は三代藩主光之に重用され、新参から家老にまで昇りつめ藩政を支えた人物だった。それ故多くの敵もできた。重根は、光之が嫡男綱之を廃嫡し藩主の座を三男綱政に譲った後、彼の許で隠居付頭取を務めている。綱之は僧形となり黒田泰雲と名乗るが、藩主に返り咲く望みを抱き画策を続け、父を恨み、実弟の藩政治に不満を漏らす。綱政に藩主を譲っても、光之は実権をなかなか譲ろうとはしない。光之は綱政の政治力量が泰雲より劣ると判断している。綱政は父のやり方に不満を抱きながら、一方で実兄泰雲の力量にコンプレックスを抱いている。家老隅田清左衛門は財政を取り仕切る人物だが、藩主綱政を第一に考え、泰雲と立花重根潰しの策謀を様々に実行する。

 重根は光之が泰雲を許し、良い父子の関係に復するために働き続ける。しかし、その行動は隅田清左衛門には、綱政廃嫡への動きであり、重根が政治の実権を握りたいためだと見える。藩主父子間の確執、家臣間の確執。その中で、隅田清左衛門の動きを推察しながら、その誤解をものともせず、黒田家存続におけるあるべき道のために何をなすべきかを信念として重根の行動が続く。その結果は厳しい結末に至るのだが・・・
 重根の生き様は爽やかである。本書に描かれたような生き様を実際どれだけの武士が行っていたことだろうか。これを現代の企業に重ね合わせたら・・・・果たして??

 峯均は綱政の小姓組に出仕していたが、小笠原家の使者津田天馬との立ち合いで敗れ、藩主の不興を買う。花房家の婿養子に入っていたが離縁され、娘奈津とともに立花家に戻る。そして、剣術修業に励み、宮本武蔵の始めた二天流を相伝されるまでになる。この峯均が兄重根を助けて行く。そこでも津田天馬との対決が最後までつきまとう。


 秘められた愛というテーマ
 泰雲の家臣だった村上庄兵衛は娘卯之を残し自害する。そこには泰雲の復権への動き・風聞が背景にあった。14歳の春、卯乃は立花重根に引き取られる。18歳になった8月、卯乃は重根の後添えにと望まれる。しかしその直後に父の友人と称する武士から亡父と重根に関わる讒言を聞く。心乱れる卯乃は翌年正月失明する。
 そして重根の継母りくが峯均と住む伊崎の屋敷に移り住むことになる。
 重根の卯乃に対する愛、強引に離縁させられた峯均の元の妻さえの峯均に対する愛、峯均の秘めた愛、卯乃の秘めた愛、りくの卯乃にかける愛、同じ屋敷に住むようになって奈津と卯乃の間に育まれていく愛、様々な愛が相互に関わり絡み合う・・・・


 香の世界というテーマ
 りくが卯乃に「香を聞く」とはどういうことかを伝授していくプロセスが描かれている。香が様々に人の心理状態を投影するものとして、底流に漂っていく。特に卯乃の自己省察、内面描写に重要な役割を果たし続ける。
 本書の中で、香道の世界の一端が見えてくるように感じた。著者の見識が反映しているのであろうか。


 主人公立花重根は、茶の道では実山と号し、千利休のわび茶の精神を伝える茶道秘伝書『南方録』を世に出したことで江戸にまで名を知られた人物でもある。かれの生き様にその精神は反映していく。
 一方、峯均は、二天流の相伝を受けた二天流五世である。流罪を許された後、峯均は『南方録』を書写するとともに、武蔵の事績を『丹治峯均筆記』として書き残したという。
 本書が、巌流島の決闘について、通説とは違う異伝をこの書から引用して締め括っているのがおもしろい。

 本書から印象深い文をいくつか抜き書きする。

「泣くでない。泣かなければ明日は良い日が来るのだ」「ようこらえたな。やがて嬉しい涙を流す日も来よう」  (p6)
・黙られい。家臣の努めは、主君に唯々諾々と従うことばかりではござるまい。主君に誤りがあれば、諫言いたすのが家臣の道でござる。なぜ、大殿を諫めようとはされなんだ。(p136)
・ひとは会うべきひとには、会えるものだと思っております。たとえ、ともに歩むことができずとも、巡り合えただけで仕合せなのではないでしょうか。 (p165)
・何かを守ろうとする者は、そのために捨てねばならぬものも多いのです。 (p292)
・わしはわしのままでいようと思う。 (p316)
・ひとは誰しも思い通りに生きることはできない。何のためにこの世に生を享けたのか。思い惑うことばかりだった。だが、生きなければならない。念ずれば必ず通ず。(p317)
・負けぬというのは、おのれを見失わぬことだ。勝ってもおのれを見失えば、それはおのれの心に負けたことになる。勝負を争う剣は空虚だ。 (p341)

 本書の題「橘花抄」は、重根が配流先で亡くなった後、治療を受け光を取り戻した卯乃が、同様に小呂島に配流の身となっている峯均に送った短冊の和歌「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」から来ているようだ。
 しかし、この題には、「立花」という家名も秘められていると受けとめた。



ご一読、ありがとうございます。

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本書の背景を広げるためのネット検索として:

立花重根 ← 立花実山 :ウィキペディア
『~実山、終焉の地~』 :鯰田・立花実山・浄善寺
立花峯均 :ウィキペディア

南方録  :ウィキペディア
南坊宗啓『南方録』:松岡正剛の千夜千冊 第939話
南方録 実山書写校合 奥書 :福岡市教育委員会
南方録 宝永二年乙酉臘月実山校 合奥書(寧拙書写本):福岡市教育委員会


福岡藩  :ウィキペディア
福岡藩  :江戸三百藩HTML便覧
黒田綱政 :ウィキペディア
奉雲 ← 黒田綱之 :ウィキペディア

香道   :ウィキペディア
香道入門講座 :「御家流香道 桂雪会」のサイトから 
香道への招待 :「有職装束研究 綺陽会」のサイトから

香道の画像検索結果
香道 長濱閑雪 :YouTube
源氏物語 和歌集 演奏:東儀秀樹 源氏香と聞香炉 :YouTube
Japanese Incense Ceremony (Kodo) pt1 :YouTube


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『恋しぐれ』 葉室 麟   文藝春秋

2011-12-22 22:55:00 | レビュー
 著者は以下の句と蕪村の手紙他から、晩年の蕪村とその周辺の人々が抱いた恋と思いを7編の短編作品として紡ぎ出している。左側は蕪村の句、右側は門人他の句である。

1.「夜半亭有情」
筆濯ぐ応挙が鉢に氷哉          いろいろの人見る花の山路かな    
花散りて身の下闇や檜の木笠     糸によるものならにくし凧(いかのぼり)
鬼老いて河原の院の月に泣く
身にしむや亡き妻の櫛を閨に踏む 

2.「春しぐれ」
春雨やものがたりゆく蓑と傘  
むくつけき僕倶したる梅見かな
さみだれや大河を前に家二軒

3.「隠れ鬼」
泣に来て花に隠るる思ひかな     やはらかに人わけゆくや勝角力    
                       我にあまる罪や妻子を蚊の喰ふ
                       船毎に蕎麦呼ぶ月の出汐哉
4.「月渓の恋」
藪入りの寝るや一人の親の側  
月天心貧しき町を通りけり
花守は野守に劣るけふの月
枕する春の流れやみだれ髪

5.「雛灯り」
莟(つぼみ)より知る人はなし帰り花 
箱を出る顔わすれめや雛二対

6.「牡丹散る」
御手討ちの夫婦なりしを更衣  
ちりて後おもかげにたつぼたん哉
牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片

7.「梅の影」
白梅にあくる夜ばかりとなりにけり(←臨終三句の三)  
花を踏みし草履も見えて朝寝哉   花に来る人とはみへしはつ桜
老いそめて恋も切なれ秋の暮    糸によるものならにくし凧
妹が垣根三味線草の花咲きぬ    切てやる心となれや凧
逃尻の光り気疎き螢かな       見ぐるしき畳の焦げや梅の影
                      明六ツと吼えて氷るや鐘の声
                      八重葎君が木履にかたつむり
 
 蕪村とその友人だった応挙を軸に、晩年の蕪村の生きた世界を様々な切り口から立体的に描き上げている。ネット検索結果のリストにある人物を含む様々な人々が、関わり合う人間模様、人生模様が語られてゆく。
 多分それらの恋や思いの一端は様々な史料に散見されるのだろう。ネット検索情報にもその一端がうかがえる。著者はそういうヒントを踏まえていることだろう。『恋しぐれ』というタイトルが暗示するように、これらの恋や思いは、しぐれ模様のわびしさ、哀しさに染まる物語である。著者は秘められた恋や思いに想像の翼を拡げ、7編の短編を織りなしている。一篇一篇、なかなか情のこもった作品だ。

 これらの句がそれぞれの短編の中でどのように織り込まれているかを楽しめる作品集だと思う。各短編の主人公及びごく簡単な内容紹介にとどめたい。上記の句から想像を拡げてみてほしい。

1.「夜半亭有情」
 蕪村は祇園の妓女・小糸と馴染みになり老いらくの恋の虜になる。それが門人たちに波紋をひろげていく。そのころ、蕪村の家の様子をうかがう男がいた。蕪村が声をかけると、薺の花を「きれいな花だ」とつぶやいて去って行った。この男を円山応挙も見かけたという。上田秋成は蕪村に恨みを抱く者かもと言う。
 この作品「身にしむや亡き妻の櫛を閨に踏む」で終わる。

2.「春しぐれ」
 蕪村の娘くのは仕出し料理屋柿屋の長男佐太郎の許に嫁ぐ。しかし離縁になって蕪村の家に戻っている。くのは父、弟子の月渓とともに地蔵院の夜半亭宗阿の墓参りをし、その帰り道で、蕪村から佐太郎が二年前に後妻をもらい去年男の子ができたと聞かされる。
 柿屋でのくのの思い出は辛いものだった。そして、くのの柿屋での経緯が回想風に語られる。
 この作品「さみだれや大河を前に家二軒」で終わる。

3.「隠れ鬼」
 阿波藩士今田文左衛門は大阪の蔵奉行を命じられ妻子を阿波に残して大阪の蔵屋敷に住む。勤めに慣れたころ、出入りの商人平野屋忠兵衛に誘われ、新町の遊郭で遊ぶ。そして一夜を共にした小萩への思いが深まっていく。
 藩追放の身となった文左衛門は、妻子を伴い兵庫の北風家に一旦身を寄せ、俳諧師の道へ。俳諧師大魯の生き様が語られる。遊郭への誘いには裏があった・・・・。
 この作品「泣に来て花に隠るる思ひかな」で終わる。

4.「月渓の恋」
 蕪村の使いで宝鏡寺(人形寺)を訪れた月渓は庭掃除をしていた娘に気づく。尼僧に訊くと京で宮大工をする父親を訪ねて出てきたが居場所がわからず困窮して行き倒れ、この寺に居るという。この娘(おはる)の父親探しに月渓が関わっていく。おはるは応挙の弟子になりたいと望むが、その矢先に人生模様が変わってしまう。二年が過ぎて、おはるに巡り遭った月渓は、晴れておはると夫婦になるのだが・・・・おはるに数奇な運命が。そして月渓が呉春と名を変えた由来がここに。
 この作品「枕する春の流れやみだれ髪」の句で終わる。

5.「雛灯り」
 蕪村の家に新しくおもとという名の女中が来た。おもとにまつわる哀しい物語。この女中に、季節に遅れてふと咲いた花、帰り花を蕪村は思い浮かべる。
 蕪村の家に建部綾足という『西山物語』で評判をとった人物が訪ねて来るようになる。綾足を見たおもとの様子がおかしい。雛祭りの日、『西山物語』が意外な話に繋がっていく。
 この作品「箱を出る顔わすれめや雛二対」で終わる。

6.「牡丹散る」
 応挙の許に、高弟長沢廬雪の仲立ちで、牢人浦部新五郎が弟子入りする。新五郎は妻七重とともに応挙の屋敷に通うようになる。この二人、不義で追放の身になったという。七重は亡くなった応挙の妻・雪に似ている人だった。応挙が抱く恋ごころ。
 ある日、新五郎の叔父が七重と別れて藩に帰参するように説得に京まで出向いてくる。 この作品「牡丹散て打ちかさなりぬ二三片」で終わる。

7.「梅の影」
 お梅は大阪、北新地の芸妓だが、蕪村の高弟大魯の手ほどきをうけた蕪村門下の一人でもある。蕪村の訃報を聞きお梅はうろたえる。お梅は弔問するが、門人の応対はひややか。月渓だけがお梅を助けてくれる。
 そして蕪村に心引かれるお梅、小糸に老いらくの恋を抱く蕪村、小糸に悋気して作った句の経緯などが回想されていく。
 三年後、さらに二年後、お梅は知らされていなかった事実を知る。
 この作品だけ、末尾は次の一行で終わる。
 「月渓が<白梅図屏風>を仕上げた時、蕪村が没してから十年の歳月が流れていた」。

 各作品には意外な展開という局面が盛り込まれていてそれぞれおもしろい。読ませ所がある。当然のことながら、各句がストーリーの流れに自然に織り込まれていて、そういう解釈が・・・・という楽しみもある。
 また、蕪村の句、応挙の絵、呉春の絵を身近に感じられるようになる作品でもある。
 
 一つの事象は、見方を変えるといろいろな読み取り方があり、そこに様々な思いが重なっているということも、著者が描きたかったことではないだろうか。


ご一読、ありがとうございます。

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この作品に関連する語句をネット検索してみた。

与謝蕪村 :ウィキペディア

円山応挙 :ウィキペディア

上田秋成 :ウィキペディア

松村月渓 ← 呉春 :ウィキペディア

樋口道立 :コトバンク 「朝日日本歴史人物事典」

高井几董 :ウィキペディア

吉分大魯 :兵庫の楽学歴史大学

長沢芦雪 :ウィキペディア

三井高利 :ウィキペディア

北風家  :ウィキペディア

夜半亭宗阿 「夜半亭宗阿の生涯と俳諧

炭太祇 :コトバンク 「朝日日本歴史人物事典」

建部綾足 :ウィキペディア

蕪村の絵画作品一覧

円山応挙 幽霊画 :「折紙をつづりつづりて てふてふと」(野辺てふ氏)

円山応挙と眼鏡絵 :国学院大学法学部横山実ゼミ

呉春筆「白梅図屏風」-円山四条派の絵画-:「いつでもLOUPE」(楢 水明子氏記)

茨城での3俳聖 :「遠富士の詩人俳人」(遠藤富士雄氏)


北野天満宮 :公式サイト

地蔵院(通称:椿寺)  :「わたしの青秀庵」(ヒデさんのHP)

金福寺  :ウィキペディア

金福寺  :「ブラブラ歩く感覚の京都観光案内サイト京都Love」

茶懐石料理作法 :「作法心得」(林實氏)


ナズナ :岡山理科大学 植物生態研究室(波田研)HP

ナズナ :画像検索

五色八重散椿 ←京都のツバキ:「ぼちぼちいこか」(小宮山繁氏)

ある「から檜葉」伝 :「蕪村の時代」



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『息子はなぜ白血病で死んだのか』 嶋橋美智子著  技術と人間

2011-12-20 21:08:55 | レビュー
10年余前の出版だが、3.11以降の今、改めて読み直して見る必要があると感じる。
 原発及び原発労働者の基本構造とその活動実態は依然として同じではないだろうか。問題提起の書として、この本が訴えているところは重大だと思う。

 中部電力浜岡原子力発電所で被曝労働に従事し、慢性骨髄性白血病に罹り、1991年10月20日に死亡した嶋橋伸之さん(当時29歳、長男)のお母さんが著者である。
 横須賀に住んでいた家族。長男伸之さんが高校を卒業して、協立プラントコントラクトに入社し、浜岡原子力発電所で中性子計測装置の定期検査作業に従事されていたという。父親が定年退職されるのを機会に、長男の勤務する浜岡に土地を求め、家を建て、移り住んでしばらくした時点で、息子が白血病に罹っているという診断結果が出たのだ。

 本書は、「生い立ち」「巣立ち」「闘病」「悲嘆」「挑戦」「原発のない世の中をめざして」という6章で構成されている。
 原発のこと、息子が原発でどんな作業をどんなところでやっているのか具体的に知らない状態で、将来結婚する長男・その家族と一緒に生活することを楽しみにしていた著者が、突然に、息子が白血病であるという事実に直面する。著者は息子の闘病生活に対応していく過程と事実を淡々と語っている。
 そして、伸之さんが亡くなった後、様々な人の協力支援を得て、「第二、第三の息子のような犠牲を出さないために」という気持ちから労災申請という行動を選択された。「悲嘆」を突き抜けた先の行動である。「労災申請」という挑戦プロセスが第5章に記されている。
 1993年5月6日、労災申請。1994年7月27日 労災認定。← 被曝量:50.93ミリシーベルト

 「第四章 悲嘆」には、弔慰金という形で労災認定に持ち込ませないための働きかけ、そして原発労働の重層的な親・子・孫という雇用関係の実態が葬儀に対する企業の関わり方にも出てきている点の記述が含まれている。この隠れた実態も知る必要がある。

 長男伸之さんの白血病発症と死を契機に、著者は原発と診断内容について、支援を得ながら学習を始める。息子がなぜ白血病で死んだのかを知る為に・・・。
 母・美智子さんの思い・訴えの一部などを本書から抜き書きする。

・被曝労働なしには原発は動かないのです。人が命を削らなければ動かないような原発はいりません。(p42)
・第二、第三の伸之が出ない事を願ってはいるものの、原発がある限り、必ず次々と後に続く者が出る事は火を見るより明らかです。 (p182)
・この平和な世の中、暑い日中クーラーを使い、快適な生活を送るために毎日原発で被曝を受けながら命を縮めて働いている下請け労働者が何万人もいるという現実を皆様に忘れないでいてほしいと思います。(p183)

・1978年・・・の放射線管理手帳には34ヵ所もの訂正印が押してありそのうちの28ヵ所については備考欄に訂正の内容が記入されています。
 1989年・・・の放射線管理手帳の備考欄には訂正の内容が注1から注7まで記入されていました。その7ヵ所の訂正は本人が死亡した翌日付けになっているのには驚きました。死後に訂正されたという事に不審を覚えると共に、
 「放射線管理手帳を早く返して欲しい」と催促していたにもかかわらず、
 「中部プラントが持っている」
 「中部電力が返してくれない」
 「現在訂正中である」
 などと半年もあれこれ理由をつけて待たせた会社の不誠実さで、腹わたの煮えくり返る思いで受け取りました。 (p123-124)
・入院中に安全教育を受けたことになっていたり、死亡翌日の日付で訂正がなされていたりしていることに腹が立ちました。 (p124)
・さっそく平井さんに見せましたが、   [注記:平井憲夫氏のこと]
 「数字の訂正は誤記、計算ミスなど。訂正前の数字であっても放射線はたいして浴びていないですね」
 と言われて、その言葉に気がぬけてしまいました。 (p124)
・手帳の健康診断の欄もそうです。昭和63年(1988)年6月6日の検査では白血球数が通常の倍ほどありました。それでも「異常なし」と記載されています。何のための検査でしょう。「異常あり」と通知していれば助かったはずです。 (p150)

・浜松医大へも資料を請求しました。息子が1年間も通院し、1年間も入院した病院です。しかし、労災申請の際に添付する検査表は1枚もくれませんでした。郵送でお願いし、期間を置いて取りに行っても、
 「どんな資料ですか。どんな方式の検査表が欲しいのですか」
 とインターンの先生を通して断ってばかりでした。白血病でお世話になった大学病院での資料はといえば、たった1枚の死亡診断書だけでした。 (p135)

・本当の安全教育とは恣意的でない、正しい情報をすべて明らかにして知らせることです。放射線は危険だと知らせることです。それをせずに「放射線は安全だ」と洗脳しておいて「リスクは覚悟の上であった」などとは言わせません。少なくとも私が今ほどの知識があれば息子をそんな所に就職などさせませんでした。  (p47)

・ところが、当日浜岡原子力発電所を訪ね、伸之さんの労災死に対して使用者として当然の謝罪を求めた私たちに対して、中部電力は「今回の認定が浜岡原発にける被曝と白血病死に直接的な因果関係があったことを意味するものではない。」などとして、謝罪を拒否しました。このような、非常識な対応はご両親の心痛を逆なでするものであり、到底許されません。中部電力のように許容被曝限度内の被曝に留めれば安全対策として十分であるというような見解のもとでは、これ以上の犠牲が生ずることを防ぐことができないと考えます。(← 嶋橋原発労災弁護団の掲載文書から) (p187)

・埼玉大学の市川定夫先生がムラサキツユクサの雄蕊毛を使って放射性核種の生体内濃縮を確認したのは有名な話です。
 浜岡原発1号機運転前の1974から32地点で何百万本という雄蕊毛を観察し続け、運転後の突然変異率の上昇を確かめました。ムラサキツユクサの雄蕊毛の異常はガンマ線以外の放射性核種の生体濃縮による体内被曝によるものだったのです。
 現存する生物は進化の過程で自然放射性核種を体外に排出する適応性を獲得しましたが、人工放射性核種には遭遇していなかったためそのような適応性がありません。取り込んでしまったまま排出できずに蓄積してしまうのです。  (p35-36)

・原発反対は言葉だけの戦いではダメだと思います。 (p179)


 著者は、36ページに「原発は多くの問題を抱えながら運転されています。事故がないから安全だというのは誤りです」と記した。
 3.11、地球全体に影響を及ぼす原発事故が現実に発生してしまった。「原発安全神話」は完全に崩壊した。原発が存在すれば、人工的な放射性核種からの被曝はなくならない。 3.11の原発事故が生み出し、全地球に放出してしまった放射性核種による被曝は永続的に続く。我々は被曝問題に真正面から向き合っていかなければならない。
 福島原発事故の責任問題が風化しないようにしなければならない。



ご一読、ありがとうございます。

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本書を読み、被曝に関連してネット検索してみた。情報を重ねて読み込むために。

中國新聞 被曝と人間 第3部 ある原発作業員の死 
[1]白血病 闘病2年 力尽きる   2000.3.22
[2]原子炉の下で  身かがめ点検 調整  2000.3.23
[3]手帳は語る 線量 定検時に上昇  2000.3.24
[4]2つの基準  法定線量以下で労災  2000.3.25 
[5]高いハードル がん、救済基準なし  2000.3.26

中國新聞 「被曝と人間」
特集記事のトップページ 上記6編もこのトップページに含まれています。


2011.7.27   :「ASAI Kenji MDS」から
白血病原発労災死・嶋橋伸之さん 

2011.4.8 被曝線量と健康  :「ミニコミ図書館の日記」

原発従業者の労災認定基準&認定実績(厚生労働省管轄) :「mororeの日記」

原発・核燃料施設労働者の労災申請・認定状況 2011.5.3掲載 :SECURITY.JP


原発がどんなものか知ってほしい(全) 平井憲夫氏


原発と放射線 第3版 中山幹夫著 pdfファイル


放射線影響協会 
放射線従事者中央登録センター
 原子力発電所等で放射線業務に従事するには

被ばく線量登録管理制度


アルファ放射能の検出限界値をわざと引き上げ、放出を隠した東電


レイバーネットTV 第24号
12/15(木)特集「被ばく労働で死にたくない!」 ゲスト=元原発下請け労組委員長・斉藤征二さん。
22分あたりから始まります。


「磯野鱧男Blog」 から
岩波ブックレットNO.390 知られざる原発被曝労働-ある青年の死を追って-
 藤田祐幸・著/岩波書店1996年


「低線量被曝のリスクを見直す」:「どよう便り85号(2005年3月)


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『風の王国 官兵衛異聞』 葉室 麟  講談社

2011-12-15 20:54:23 | レビュー
 黒田官兵衛という人物には、戦国武将の一人として関心を抱いている。
本書のタイトル「風の王国」という言葉と「異聞」にまず興味を抱いた。「異聞」という言葉を見ると、何かおもしろいことが書かれているのだろうとワクワクする。

 本書は黒田官兵衛という秀吉の軍師にもなり、戦国の世を行き抜いたキリシタン大名が抱き続けた謀をテーマに、様々な角度からその一つの謀を実行展開していく過程に迫った短編集だった。その謀を「異聞」と称するのだろう。
 本書は「太閤謀殺」「秘謀」「謀攻関ヶ原」「背教者」「伽羅奢-いと女覚え書-」という五編で構成されている。
 秀吉が伴天連追放令を出した時の有力なキリシタン大名は、高山右近、蒲生氏、小西行長、黒田如水の四人。官兵衛の如水という号はポルトガル語のジョスエを表すという。「ジョスエとはエジプトの奴隷となっていたユダヤ民族を脱出させ、約束の地カナンに向かった預言者モーゼの後継者ヨシュアのことだ。」という。
 著者は「如水=ヨシュア」というところから、点の史実を縦横に絡ませ、膨らませて、線とし面として行ったのだろう。伴天連追放令の出た後のこの日本に、キリシタンの王国を造るという一つの強烈な謀を胸中に秘めて、如水が様々に行動していく。新たな官兵衛像が築かれている。

 もう一つ、私がびっくりし一層興味を覚えたのは、著者がこの小説に不干斎ハビアンを登場させていることだ。この小説で、こんなに早く再びハビアンという人物に、たとえフィクションの世界とはいえ、出会うとは思ってもいなかったから・・・・(『不干斎ハビアン 神も仏も棄てた宗教者』釈撤宗著・新潮選書について10月31日に載せています)
 ハビアンとガラシャ夫人は、官兵衛の背景に置かれた著者のサブテーマでもあるように感じた。この二人についても私は「異聞」の類だと思う。

 さて、どんな視点から各短編が紡ぎ出されているかに触れてみる。

「太閤謀殺」
 天正15年(1587)、秀吉が九州を平定し、伴天連追放令を出したことから、秀吉の軍師としてまさに水魚の交わりというくらいの関係であった官兵衛の心は秀吉から離れて行く。文禄4年(1595)関白豊臣秀次とその眷属は、秀吉に謀反の疑いをかけられ、切腹或いは極刑にされる。文禄元年に秀吉は朝鮮に侵攻する(文禄の役)。この時、小西行長がなぜ大いに戦働きをしたのかという背景を語りながら、著者は官兵衛の謀の始まりを重ねていく。そして1597年の慶長の役。太閤を渡海させるように仕向け、「戦は戦で終わらせる」、秀吉を戦で倒すという如水の謀が続くのだが・・・。
 時を同じくして、ゴアのヴァリニャーノ巡察使から、パードレのペドロ・ゴメスに、日本人修道士ジョアン宛の手紙とある物が送られてくる。ある物とは、「ボルジア家の毒薬」カンタレラを仕込んだ指輪だという。だがそれは持ち出されてしまう。何と持ち出した修道士がハビアンなのだ。
 そのハビアンはガラシャ夫人を介して、官兵衛に会う。そして指輪は如水の手に渡る。 秀吉の死にカンタレラが絡んでいくという発想がおもしろい。

「秘謀」
 官兵衛の死。2年後、慶長11年(1606)夏、筑前黒田藩から後藤又兵衛は出奔する。又兵衛は豊前細川藩の藩主細川忠興にある密謀の経緯を語る。関ヶ原の戦の頃、九州に居た官兵衛は、「石垣原の合戦」で豊前・豊後の二国を手に入れる。九州で兵をあげたのは、キリシタンの王国を造らんがためだったと・・・・。
 如水の遺言により、福岡の教会で葬儀が行われ、ハビアンがその追悼式で話をする。黒田家にとって、如水の謀は隠し通さねばならない秘謀となっている。だがそのハビアンが林羅山との教義問答の際、如水のことを迂闊にももらしたという。ハビアンは黒田家にとって斬らねばならぬ人物になった。又兵衛がハビアンを斬るという。
 そして、又兵衛が出奔したのは、黒田如水の最後の謀だったのだと。
 又兵衛を介して如水、ハビアン像が語られる点が、興味深い。ハビアンの著した教義書『妙貞問答』にガラシア夫人が関わっていたとか、ハビアンの棄教に又兵衛がなにがしか関わったという想定に、歴史小説の面白さを感じる。まさに異聞か。

 「謀攻関ヶ原」
 秀吉の伴天連追放令によりイエズス会が逼塞している中、スペイン系のフランシスコ会が京で公然とした布教をして秀吉の怒りを買う。そして、慶長元年(1596)、長崎の西坂でフランシスコ会のパードレら26人が殉教するという事態が起こる。その26人の中に、イエズス会の信徒も巻き込まれていた。フランシスコ会は徳川家康に接近していく。
 信長の嫡男信忠の嫡子、その幼児名は三法師。秀吉は秀信(三法師)に天下を引き渡すのではなく、美濃の大名、岐阜城の城主とした。その秀信は文禄3年(1594)にキリシタンとなる。
 秀吉亡き後、イエズス会のヴァリニャーノは、織田秀信をテンカ様にしたいと望む。如水は謀る。「まずは、家康を助け、天下を争う戦を引き起こさねばなりませんな」と。その戦の地は関ヶ原と如水は予測する。「関ヶ原で勝つのは、徳川でもなく豊臣でもなく、織田でござる」
 関ヶ原の合戦の裏には、キリシタン王国を造るという企てが進行していた。そこに光秀の娘、ガラシャ夫人と信長の孫・秀信がキリシタンとして奇縁で繋がっていく。さらにその背景にはイエズス会とフランシスコ会の確執があった。又兵衛は如水の黒子として立ち働いていく。
 だが、大阪方の人質になることを拒絶したガラシャ夫人の死。ガラシャ夫人が亡くなったのは細川忠興が殺させたのだと、石田三成の謀臣島左近が秀信に使者として伝えていた。如水の謀は崩れていく。
 関ヶ原の合戦には、キリシタン王国を造るという策謀が一枚絡んでいたという。この発想の広がりがおもしろい。

 「背教者」
 元和7年(1621)3月、長崎西坂に近い丘の藁ぶき家に、旅姿の武家の娘らしきみなりの者が訪れる。清原いとの娘と名乗る。この家に昨年から住み着いていた男の名は不干斎。 細川ガラシャとその小侍従清原いとの協力で、不干斎ハビアンが『妙貞問答』を書いたことが語られる。そして、娘が不干斎に尋ねたのは、「なぜ不干斎様が変わられたのか」ということ。母いとが尋ねたいと望んだことなのだと。
 不干斎は、原田喜右衛門に会ったことが、棄教の道へと歩ませたのだと物語っていく。 宗教と貿易、二十六聖人の殉教、慶長元年(1596)のスペイン船サン=フェリペ号の土佐沖漂着など、キリシタンの事象すべてが絡み合って関わっていく。そして、ボルジア家の指輪とそれに仕込まれたカンタレラを日本にもたらされたこと。ハビアンがカンタレラにかかわって行った経緯。ハビアンに又兵衛が白刃を突きつけたときに言い捨てた又兵衛の言葉。
 「もはや、心の中にデウスはおるまい」
 なぜ、ハビアンが棄教したのか。その謎、経緯をこの短編で著者は紡いでいく。真実味を帯びた虚構性をひととき味わえる短編に仕上がっている。

 「伽羅奢-いと女覚え書-」
 ガラシャ夫人の小侍従として仕えた清原いとの回想という形で、ガラシャ夫人の思いの真実を語るという一編。「ガラシャ様のようにデウスを信じられるのか、ひとを愛することができるのか。それにしても、ガラシャ様はどなたを愛おしく思われたのか」
 16歳で光秀の莫逆の友、細川幽斎の嫡男忠興に嫁いだ玉(ガラシャ)と忠興の二人の関係・有り様。ガラシャと秀信の奇縁。幽斎とガラシャの会話で、幽斎は光秀が山崎の戦いで敗れた後落ちのびて、キリシタンになったという噂、そしてその人物は昔のことを覚えていないのだということをガラシャに伝えたこと。幽斎が抱く「謀反の疑いをかけられては家を保てぬ」という疑念。日本人修道士ジョアンが、ガラシャ夫人の同席で、秀信に「キリシタンの天下人になっていただきたい」とヴァリニュアーノの意図を伝えた話。これらが一連のこととして語られていく。そして、忠興が上杉討伐の戦に加わることになるにあたって、ガラシャに言い置いた言葉が加わる。
 ガラシャ夫人が人質となることを拒否し、亡くなった後、関ヶ原の戦のさなかに、いとはガラシャ夫人の思いを伝えるために織田秀信の陣に赴く。如水の密使としてひそかに秀信と会おうとしていた又兵衛と出会い、ともに秀信の陣に行く。しかし、事態は既に動いていた。ガラシャと秀信の思いが重ならない結末。
 ガラシャ夫人が果たした役割。著者は史実の読み取りの中にロマンを織り込んでいく。


「謀攻関ヶ原」に、ジョアンと如水の対話-「かなわぬ夢」-が記されている。
如水はジョアンに言う。
「キリシタンにとって、キリシタンの天下人が現れることが、もっともよいことです。しかし、それは、キリシタンではないひとびとにとっては望ましいことではございますまい。かなわぬ夢というより、かなえてはならぬ夢だと思ったのでござる」
「キリシタンの天下人を望みはしませんでしたが、キリシタンが禁じられずに生きることができる国を造りたかったのです」
「キリシタンは異国からこの国に吹いた風でござった。われらは風となって生きましたが、風はいつかは吹き去る日が来るのです」
『風の王国』というタイトルに、この如水の思いが込められているようだ。

キリシタンが禁じられずに生きられる国を造ろうとする如水の謀の展開という筋を、さまざまな視点からの短編という形でコラージュしていった作品だと私は思った。


ネットを検索していて、黒田官兵衛の辞世の句というのに出会った。

 おもひおく言の葉なくてつひに行く道は迷はじなるにまかせて

ご一読、ありがとうございます。


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本書を読み、ネット検索して背景を知るとともにイメージを拡げてみた。
検索語句のリストをまとめる。

黒田官兵衛  :ウィキペディア
黒田氏    :「SENGOKU」サイトから
黒田官兵衛  :YouTube

細川ガラシャ :ウィキペディア

織田秀信   :ウィキペディア

グネッキ・ソルディ・オルガンティノ  :ウィキペディア

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ  :ウィキペディア

日本二十六聖人 :ウィキペディア
日本二十六聖人記念館HP

キリシタン大名一覧表  :結城了悟氏

ボルジア家  :「グレゴリオス講座」サイトから

チェザーレ・ボルジア :「チェザーレ・ボルジアとその周辺」サイトから

イエズス会   :ウィキペディア

フランシスコ会 :ウィキペディア


「黒田官兵衛を歩く」(神戸新聞連載) :「播磨の黒田武士顕彰会」サイトから


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『龍安寺石庭を推理する』 宮元健次  集英社新書

2011-12-10 00:50:03 | レビュー
 11月14日に著者の『京都名庭を歩く』について書いた。この中に本書のエッセンスが記されている。要約としては一歩進展した記述だったかもしれない。
 この本を読んで興味を深め、2001年8月に出版されていた本書を読んでみる気になった。『名庭』に要約されていた見解が、本書ではどのように論述されているのか。

 著者は、序章でまず龍安寺の全体配置図を概観し、龍安寺庭園が脚光をあびるようになった時期が東京オリンピックから大阪万国博覧会にかけてのあたり(1964~1970)だと指摘している。1975年に英国のエリザベス女王が訪れ、この石庭を絶賛したことが石庭ブームへのトリガーになったとする。石庭を囲む築地塀の高さの不思議さに着目した後、「自然を模倣したわかりやすさは微塵もない」。白砂と石だけで「何かを表現しようとしている潔さがすべて」という。「その反面、漠然としてとらえどころのない、非常に飛躍した象徴的造形となっている」この庭園についてはいまだ定説が確立していないとし、独自の仮説を本書で提示するに至る。

 著者は「造営年代の解明」→「造形意図の解明」→「作者の解明」という組立で、先人の研究書を取りあげ、その成果を踏まえたうえで、そこに残された問題点を指摘する。「西欧手法」という独自視点から、問題点の総合的解決に挑戦している。
 本書で主に取りあげられた先人の研究は次のものである。
 大山平四郎著『龍安寺石庭-七つの謎』(講談社・1970年)(原本は竜安寺と表記)
 明石散人・佐々木幹雄著『宇宙の庭-龍安寺石庭の謎』(講談社・1992年)
 その他諸説にも言及していく。

 作庭説には様々あるようだ。1450年作庭説、文明年間(1469~87)作庭説、1499年作庭説など。著者は文献を引用しながら逐次問題点を指摘していく。そして、著者は豊臣秀吉一行が龍安寺を訪れ、和歌を詠んだときに庭の絲桜しか注目していないという事実と1619(元和5)年に金地院崇伝が、天下僧録司と呼ばれる禅宗寺院を統轄する最高職に就き、檀徒制度などの諸制度を改革した事実に着目している。この寺院制度改革の結果、方丈南庭で晋山式などの儀式を行う必要性がなくなり、それによってはじめて、鑑賞用庭園が造られるようになったと指摘する庭園史家・福田和彦氏の説を重視する。
 さらに、1791年に描かれた『龍安寺方丈平面図』他2件と1681年の黒川道祐著『東西歴覧記』との間で、方丈の間数の記録に差異がある点を詳細に考察する。1797年の龍安寺の火災による方丈焼失にも言及している。そこから、1681年から1797年の間に方丈が立て替えられたか、改築された可能性に論及している。
 そして、考察の結論として、筆者は江戸作庭説を主張する。
 先人の研究に依拠しながら、研究書に引用された文献などを利用して、様々な作庭説を論破していくプロセスがおもしろい。先人の研究成果が縦横に活用されている。

 造形意図の解明に著者の新規性が発揮される。それが「西欧手法」という視点の導入だ。
 石庭の配石について、いろいろな説があるという。虎の子渡しの配石説、「心」の配石説、七五三配石説、扇形配石説、そして、石庭に借景が必要だったのかどうか。各説を解説した後で、筆者は問題点や矛盾を指摘している。そこで自説展開の舞台が整う。
 著者は、キリシタン来日以来、日本の建築と庭園にキリシタン建築や庭園手法が導入されてきた事例を取りあげていき、西欧手法の可能性を浮かび上がらせている。このあたりの展開は巧みである。
 西欧の整形式庭園の手法、パースペクティヴ(遠近法)、黄金分割比の手法に着目する。石庭が江戸期作庭とすれば、ヨーロッパのルネサンス・バロック期に重なるという。
 そして実測図を使い、石庭に黄金分割比が当てはまり、配石もこの黄金比の手法で引かれた線上に置かれていることを解明していく。また、石庭の砂面に傾斜が付けられている点にパースペクティヴの効果を生む発想が取り入れられており、石の大きさにもパースペクティヴの手法が考慮されていると論じている。序章において、方丈からの鑑賞者にとって「築地塀の巨大さが、庭園空間をますます非凡なものにしている」と指摘しているが、借景技法についてこの章で著者自らの見解を直接的には論じられていない。
 「造形意図の解明」の後半は、なぜか二つの御所や桂離宮における西欧手法の導入にかなりページが費やされている。西欧手法を強調したいため?いや、実はこれが作庭者解明の伏線になっていくのだ。

 筆者は最後に作庭者の解明に挑む。作庭者については何と100種を超える意見があるとか。しかし、「造営年代の解明」で筆者が推定した造営年代、1619~1681年という約60年間に作庭可能な人物が絞り込めるとして、ばっさり大半の諸説を切り捨てる。残る「小太郎、清(彦)二郎」説と「金森宗和」説を批判的に検証する。両説の問題点を指摘した上で、論点整理として、筆者は作庭者の条件を5項目列記する。
 1.1619~1680年に作庭 2.西欧手法が用いられている 3.借景の手法 4.石庭、庭園のエキスパート 5.禅宗関係者による作庭、という5条件である。
 それに合致する人物として筆者は「小堀遠州作庭説」を展開する。この最終章における諸説の分析・批判、自説の確立のための枠組み設定とその論証過程は前章までの集大成でもあり、読み応えがある。
 「遠州は幕府の作事奉行のほか、伏見奉行あるいは河内奉行にあって外国使臣の接待を重要な任務としていたことはあまり知られていないが、そのような機会に西欧の情報を得たとしてもまったくおかしくないのである」と説く。遠州が西欧手法を伝えられた可能性が高い環境に居た人物として、様々な角度からの証拠を提示している。さらに第三章の末尾で、遠州の造営を手助けした職人たちを列挙している。
 同章末に、遠州作庭の可能性として上記5条件に遠州が合致する点を要約して本書をまとめている。

 龍安寺石庭は、江戸時代に小堀遠州により作庭され、そこには西欧の手法が応用された借景式庭園だという新しい仮説が如何に論証されていくか。そこを読み込んで行くのが本書のおもしろさだと思う。同じ文献と、さらに蓄積された先人の研究成果や発見情報を加えて、どんな切り口・視点から分析されていくのか、そのプロセスが興味深い。

 一点、心残りなのは第3の条件についてである。
 第二章「造形意図の解明」の「二 借景の庭」は、大山氏の指摘事項でまとめている。「借景を得てはじめて鑑賞しうる石庭が、外景との関係が樹木に遮られて孤立し、そのため、当時の代表的知識人の多くが解釈に苦しんだのではないか」という指摘だ。ここでいう「当時」とは、この指摘が『槐記』1729(享保)年の条に記された内容に対する推定なので、その頃をさす。この所で、著者はこの大山説に批判を加えていないので、間接的に同意するということだろうか。
 そして、この巻末要約のところで、借景の手法を「江戸時代になって再び流行させたのは遠州であった」と述べているだけである。再び流行させたという点を本書で詳述してはいない(私の読み方に見落としがあるのかもしれないが・・・)。
 遠州が石庭に借景技法を積極的に活用していたとしたら、黄金分割比の手法による石庭の配石、つまり西欧手法の導入と借景はどういう意匠・作庭概念として繋がるのだろうか。このあたりについて、筆者の見解を読んでみたかった。
 
 いずれにしても、石庭に臨んで自分で観察し、諸説を想念しながら、著者の仮説を当てはめて感じてみないとだめだろうなと思う。
 地元に住んでいても、なぜか未だこの庭を訪れたことがない(名所になりすぎ観光客が多いという先入観と、いつでも行けるという気持ちから行きそびれている)。
 次は現場でまず見て、思いをめぐらすことにしよう。

 付記
 大山氏の『竜安寺石庭 七つの謎を解く』(講談社・1970/11/16・第1刷)
 七つの謎と大山氏の見解
 1.独立庭園か借景かの謎 :借景式抽象庭園の地割り様式
 2.神秘的な布石の謎   :七五三型式で扇型形状配石、呂律の石組み
 3.石庭面積の謎     :方丈の変転の結果
 4.作庭意図の謎     :7個の中央の一番小さい石を中心点として回転する
              ”動的状態”の一齣を表現しているもの
 5.作庭時期の謎     :1537年ごろと推定
 6.作者の謎       :西芳寺(苔寺)住職 子健
 7.石庭の手本の謎    :常栄寺本堂北面の平庭 ”三山五岳”の配石 雪舟創庭

 書棚にひっそりと眠っていた本。いつか読もうと買ったままだった。何時買ったのやらも記憶にないはるか昔・・・。宮元氏の説を読んだ刺激でふと思い出し、急遽要点を拾い読みした。これを機会に精読してみよう。比較検討・重ね読みを始めたい。


ご一読、ありがとうございます。

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本書から脇道にも入って・・・、以下は、龍安寺関連情報を検索したまとめです。

龍安寺のHP
石庭その他、すばらしい写真がみられます。ちょっと、戸惑わせる工夫がありますね。
ここでは、石庭について「四つの謎」として説明しています。

龍安寺 :ウィキペディア


龍安寺の画像


知られざる物語 京都1200年の旅
2011年12月13日放送 「美しき名庭・龍安寺に隠された謎」 BS朝日


京都もうひとつの歴史 「京都・中国・アメリカ 龍安寺石庭の謎を追う!」

京都の謎 龍安寺石庭 奇跡の地球物語 2010.4.18 

龍安寺石庭  (偶然見つけました。大山平四郎氏の説が底本と推測します。)


京都シルヴプレ 龍安寺 吾唯足知 :Tolliano Rive Droite

京都龍安寺(吾唯足知) :YouTube 動画

吾れ唯だ足るを知る エッセイ 玄侑宗久 :中日新聞/文化面(12面)2009年3月22日

我唯足るを知る──禅の教えとあるアメリカ人 :「まりの想い」(勝井まり氏)

ファイル:Ryoanjitemple.JPG :ウィキペディア

今月の禅語 知足 <遺教経> :~朝日カルチャー「禅語教室」より~


京都デジタルミュージアム  :京都府
「京都文化交流コンベンションビューロー」→「京都迎賓館に生きる伝統的技能」をたどると、9項目に「作庭」についての動画があります。


石庭  :「京都一番乗り」サイトから

龍安寺 石庭と枝垂れ桜 :「京都を歩くアルバム」サイトから

京都龍安寺の紅葉  壁紙写真


「アイ・トラッカーを用いた竜安寺石庭における視線解析」王雲氏修士論文

「Visual Page Rankによる龍安寺石庭解析」 論文オープンアクセス先

「龍安寺石庭における視覚的不協和について」 芸術科学会論文誌から


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『いちばんおいしい日本茶のいれかた』 柳本あかね  朝日新聞出版

2011-12-08 16:10:25 | レビュー
 「あとがき」まで入れて78ページという薄い本。だのに中身は濃い。
 おいしいお茶を飲んだときの「ホッ」とする雰囲気を漂わせている本だ。

 急須にお茶っ葉を入れてお湯を注ぎ、飲むということが普段のやりかたの私には、まさに目から鱗という感じ。

 お茶の葉をはかって
 お湯を冷まして
 お茶の葉が開くのを待つ。
 
 あ、かんたん。
 おいしいお茶、はいりました。

「もくじ」の前に写真とともにこんな一文が記されている。
 なんだか、すごく簡単においしいお茶が入れられそう・・・・そんな気にさせる。

「お茶の入れ方」の手順が写真付きでまず載っている。茶道の世界の話ではない。日常生活の中でのおいしいお茶の入れ方の説明だ。お店でこんな風にお茶をいれているんですよ。そんなわかりやすい説明だ。
 
 本書では、煎茶、玉露、ほうじ茶、冷煎茶・氷出し、冷抹茶、煎茶ラテ・ほうじ茶ラテ、お茶のかき氷、と一通りのお茶の入れ方が解説されている。季節に応じて、お店のメニューになっているものなのだろう。

 説明のとおり実行したら、雑なお茶の入れ方しかしない私にでもすぐにおいしいお茶が入れられそう・・・・そんな感じを抱かせる。
 本書の説明を基本に、やはり試行錯誤してみることが実際には必要なのだろう。自分としてのおいしいお茶の感じをつかむために。

 お店は神楽坂の裏路地にあり、民家を改装した「日本茶 茜や」とか。
 まず、お手本として、おいしいお茶をお店で飲んでみるのが一番いいのだろうが、今の私には、東京はちょっと遠すぎる。

 本書の後半は、「お茶を入れる道具」「おいしいお茶のために」「お菓子のこと」「お茶の時間を楽しむために」という章立てになっている。それぞれの小項目に写真が載っていて、写真を見ているだけでも楽しい本だ。

 「お茶を入れる道具」では、著者の経験と道具を丁寧に扱うためのノウハウが書き込まれている。時間を計るのに砂時計を使っているというのは、実にいい雰囲気。さらさらと砂が落ちていくアナログな状況が目に浮かぶ。鉄瓶・茶筒・茶さじ・湯のみ・急須・湯ざまし・道具箱について、著者のこだわり具合を読むのもおもしろい。

 「おいしいお茶のために」では、水、茶の保存、茶がらの利用、茶葉の選びかたについて、こだわりとノウハウが述べられたあと、お茶の産地の違いについて、著者は「お茶はつくづく嗜好品だなと感じました」という。お店ではやはり、子供のころから親しんだ静岡茶で、「地元贔屓となってしまいますが、ご勘弁を」とのこと。新茶がお店に届くと、「手製の新茶の旗をお店のあちらこちらに置いて、うきうき」するそうな。

 お茶にお菓子はワンセット。「お菓子のこと」では、筆者好みの選りすぐりの小さいお菓子が紹介されている。京都のお菓子も入っているが、掲載のお菓子はまだ食べたことがない。京都・四条に出た時にでも、試しに買ってみよう。
 お店では手作りの生菓子を出すそうで、桜もち、水ようかん、いもようかん、おだんごのレシピと、市販品の「茜や」アレンジ話が載っている。
 美味しそうなお菓子を写真で楽しむしかないのがちょっと残念。

 最後の章は、「お茶の時間を楽しむために」。四季に合わせた「和」のものをお店に取り入れるという「こだわり」が語られている。
 著者は語る。和の道具、和の花、和服・・・
 ”「和」のものを生活に取り入れると、日々の変化がとても楽しく、そして愛おしく感じられるようになります。なんだか時間までゆっくり流れるようです。”
 豪華なものでも、高価なものでもなく、ちょっとした心配りでの楽しみ方というところだ。

 お店「茜や」の改装は「大工さんをいれずに全てひとりで施工しました」と言うから、おどろきだ。奥書には、著者が装丁家、建築家としての仕事もしている人のようで、なるほど!
 
 機会があれば、神楽坂の裏路地にあるというお店を訪れて、静岡茶を味わってみたいと思う。


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日本茶 茜や」のHP

本書の波紋としてネット検索してみたもの。

日本茶  :ウィキペデイア

お茶百科 HP  ←このHPは内容豊富な優れもの!
 お茶の種類 :お茶百科 
 おいしいお茶の入れ方 :お茶百科

日本茶インストラクター :日本茶インストラクター協会
日本茶アドバイザリー  :日本茶インストラクター協会
日本茶検定       :日本茶インストラクター協会

日本茶に関するショップのランキング  :Shop Bell


和菓子 :ウィキペディア

和菓子の分類  :お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村

和菓子の種類(あ~さ):お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村
和菓子の種類(さ~わ):お菓子@おやつ情報館!ICHIGO村

京都の和菓子 ドットコム
 京菓子と和菓子の基礎知識と用語集 :京都の和菓子

和菓子のお店ランキング  :食べログ

和菓子のカロリー  :ダイエットオンライン
お菓子のカロリー :グラムのわかる写真館


南部鉄瓶Q&A  :株式会社TLT 

特集 南部鉄器--鉄瓶の製造からお手入れ方法まで--南部盛栄堂

鉄瓶の制作 資料協力/南部鉄器協同組合


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『忍び外伝』 乾 緑郎  朝日新聞出版

2011-12-04 20:22:24 | レビュー
 奇想天外な幻術世界という意匠の中に、入れ子構造の形で史実に伝奇的要素を絡めて作り上げられた物語、そしてその物語には複数の伝奇的衣装をまとわせている。この新奇性と奇抜な着想が第二回朝日時代小説大賞受賞につながったのかもしれない。
 そんな馬鹿なという空想的側面が絡んでいながら、史実を繋ぎ紡いでいく本筋の展開はしっかりしていて、惹きつけるところがある。伊賀流忍の本拠地が殲滅されることに対する攻防という点が、忍びの活躍の場面として異色で面白いところだ。

 入れ子構造の中央に納まっているのは、天正伊賀の乱である。
 太田牛一著『信長公記』巻十二に、「北畠中将殿御折檻状の事」という条が記されている。天正七年九月十七日、「北畠中将信雄、伊賀国へ御人数差し越され、御成敗のところに、一戦に及び、柘植三郎左衛門討死候なり」とある。独断で伊賀を攻め、敗退する。信長は、信雄に折檻状を送り「言語道断、曲事の次第に候。実に其の覚悟においては、親子の旧離許容すべからず候」と怒っている。これが第一次の乱。
 そして、二年後、巻十四に、天正九年九月、「伊賀国、三介殿仰せつけらるる事」として、信長の命令により伊賀殲滅を実行する記載がある。九月三日に、「三介信雄伊賀国へ発向」そして、甲賀口、信楽口、加太口、大和口に配された部将名が記述されている。他本によると総勢3万4000人余が伊賀攻略に投入されたという。信長は十月九日、伊賀国に発向し、「十月十七日、長光寺山に御鷹つかはされ候。伊賀国中切り納め、諸卒悉く帰陣なり」と。これが第二次の乱だ。

 百地丹波の下人だった石川文吾衛門が、本能寺の変後で天正伊賀の乱からは二年後、奈良興福寺南円堂の前に煙る栴檀香や沈香の匂いの中に、樒の香りを嗅いだ気がして、ある女の死を思い起こすことから話が始まる。この女と樒の香りが本書の一つのキーワードになっている。
 南円堂にて、文吾は仲間のお鈴と黒子丸と待ち合わせていたのだ。三人はお鈴にせがまれ猿沢の池で行われている地獄の語りを見物する。猿沢の池の幻術使いは、弾正久秀に招かれて幻術を披露したことがあるという果心居士。文吾が「子供だましだ」と呟いたせいで、果心居士の幻術にはめられることになる。

 空は墨を流したかのように黒く、地面は光を帯びて金色に輝く砂。砂漠の丘陵が果てなく続く。荒涼とした風景の中を歩く文吾は金砂の上に置かれた木臼と人の丈ほどの大きさの白兎に出会う。白兎は果心居士。そして、白兎の呪文が耳に入り込んでくるや、文吾の心は、幼少の頃の伊賀に彷徨い始める・・・・・

 百地丹波の下人になる経緯。そして忍の術を丹波から鍛えられ、丹波の後妻・お式に引き合わされる。丹波の命令はその目の前でお式を「抱け」。文吾の目を通しながら、天正伊賀一次の乱、二次の乱の顛末が文吾の働きを含めて語られていく。
 その渦中で、文吾はお鈴という小娘をくノ一に育てるという課題を押し付けられ、一方百地丹波とお式の関係の中に一層深く関わりをもたされていく。
 一次の乱の後、百地丹波は、文吾にお式を斬れと命ずる。下人の文吾は命令に服するのみ。お式を斬りに行く文吾は、お式との争闘の中で、お式の正体の半ばを知ることになる。お式の口からいくつかの謎めいた言葉が語られる。「窺見」「服部観世丸」「煙之末」「ときじくのかぐのこのみ(非時香菓)」・・・・筆者の描く世界に絡め取られる呪文の言葉でもある。

 史実の隙間を埋め天正伊賀の乱の争闘過程を紡ぎ出す語りの中に、なぜ信雄・信長が伊賀を殲滅しようとしたのか、その理由について著者の奇想が加わる。第二次の乱の最後は、筒井順慶の陣所に、大倉五郎次と名乗る申楽大夫が姿を現す。順慶には実は果心居士だと明かす。そしてこの大倉五郎次が柏原城にいる百地丹波に会い、調停の労を取る。大倉五郎次と応対した後、丹波が言う。「山中より樒の実を摘み取り、それを手に小波多の本陣に降伏に赴くべし」と。
 乱の外延に、南北朝の対立という衣装がふわりとかかっていて、そこに果心居士とお式の対立関係という衣装が重ねられていく。さらには、信長が光秀に己を討てと命じ、本能寺の変に連なるという衣装が天正伊賀の乱の結果として重ねられる。
 まさに伝奇的展開がエスカレートしていく。実におもしろい構成展開だ。
 このあたりに、著者の真骨頂があるのかもしれない。

 時空を超えて存在する果心居士。その正体は「観阿弥清次」だという。果心居士は最後に自らのことを語り、さらに文吾の出生の秘密を解き明かす。衝撃的な内容だ。
 幻惑の術から醒めた後の文吾と果心居士の対決。最後まで十分に楽しめる。

 「忍の字は、まったく意味の異なる二つの字から出来ている。刃と心。この二つが合わさって忍という字を形作っている。刃は技と捉えることが出来る。では、忍びの心とは、いったい何であろうか。」
 伊賀の有り様を見ながら、文吾は自問しつづける。これも、この小説での一枚の衣である。

 この物語、入れ子構造で奇抜な視点を絡ませていて、実に奇妙かつ巧妙でおもしろかった。
 コンピュターグラフィクスを縦横に使うと、楽しめる映像作品になる予感がする。



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ちょっと、関連語句をネット検索してみた。

伊賀流  :ウィキペディア
天正伊賀の乱の大枠が理解できます。

伊賀惣国一揆 ← 「惣国一揆成立とその意義」 川端泰幸氏(紀州惣国研究会)
右記資料に、「伊賀惣国一揆」の性格にも触れてあります。

伊賀惣国一揆と天正伊賀の乱 :「戦国浪漫」サイトから

観阿弥   :ウィキペディア

服部半蔵  :webilo辞典 江戸人物辞典

百地丹波  :ウィキペディア

藤林長門守 :ウィキペディア

織田信雄  :ウィキペディア

花山院   :ウィキペディア


丸山城   :ウィキペディア

千賀地氏城 :ウィキペディア


窺見  :weblio辞典



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