遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『サッド・フィシュ 行動心理捜査官・楯岡絵麻』 佐藤青南  宝島社

2016-09-29 11:00:11 | レビュー
 エンマ様(楯岡絵麻)シリーズ文庫本としては4冊目の作品集である。今回も4つの短編が収録されている。
 「第一話 目の上のあいつ」「第二話 ご近所さんにご用心」「第三話 敵の敵は敵」「第四話 私の愛したサイコパス」の4つである。
 ただし、第二話、第三話において楯岡絵麻のとる行動の一局面が伏線となり、それが累積されて第四話への導入になっていく。一方で、この4つの話は全く独立した事件を扱っているという次第。
 最初の3つの事件は主に、エンマ様が行動心理学を駆使して、聞き取り捜査あるいは取調室で被疑者を取り調べて、犯人を解明するに至るというものだが、第4話は取調室を離れ、敵方のアジトに潜入するという展開になる。
 この小説の醍醐味は、やはり行動心理学の理論やテクニックが散りばめられ、活用されていくプロセスの描写と補足説明、絵解きにある。

< 第一話 目の上のあいつ >

 現場を見ればほぼまちがいなく一目瞭然で、十中八九、覚せい剤の濫用による事故死と思える事件が発生した。レコーディングスタジオで、ミュージシャンのキョージこと吉田恭司が遺体で発見された。彼には薬物関連の前科があった。活動自粛期間を経て、音楽活動を宣言し、復帰作の新曲レコーディングを行っている過程での死だった。
 現場に先着していた筒井刑事は、現場を見分して事件性はないと判断する。エンマ様は誰がスタジオの鍵を持っていたかが未確認だと聞き、翌日聞き込み捜査をキョージのマネジャーから開始する。二人目はキョージの妻・吉田和美。和美からは「キョージに曲を盗まれた」と言うキョージの元バンドメンバーである松崎真也に聞き込み捜査をする。
 事件性なしか・・・と思いかけたエンマ様は、現場百編の筒井刑事が入手したブツと情報から、一挙に犯人の特定に急展開していく。聞き込み捜査の過程に、うまく伏線が張られ、急転換していくところがおもしろい。
 この第一話に、本書のタイトルとなった「サッド・フィッシュ」の由来が語られる。
サッド・フィッシュとは、SADFISHで、人間が生まれながらにして持つ基本的な7つの感情を意味するとか。これらの7つの感情は、よほど訓練を積んだ人間でない限り、封じ込めるのは不可能だという。Sadness, Anger, Disgust, Fear, Interest, Surprise,Happiness という基本的感情である。聞き込み捜査でエンマ様は相手の感情の動きを見極める。
 この短編では、ウィリアム・シェルドンの体格類型論(内胚葉型・外胚葉型)、すでにおなじみの、なだめ行動、マスキング、動物の行動の三段階(Freeze,Flight, Fight)などが散りばめられる。そしてキーワードは、境界性人格障害である。これらがどのように織り込まれていくかが興味深いところである。

< 第二話 ご近所さんにご用心 >
 この短編、冒頭が第四話への伏線になっている。映画館で楯岡絵麻が公安部に所属する男と会話している。その男はどうも過去に絵麻との男女関係があった人物のようである。通称28歳のエンマ様の過去の一端がこの第4作で垣間見えるのが、まずどうなるのか・・・と関心をよぶ。
 さてこの話は、台東区東上野の住宅街にある一戸建てで、一人暮らしの72歳、稲村喜代美が遺体で発見されたという事件。第一発見者は、被害者の利用する食材の宅配業者である。
 地取りの捜査員が聞き込みをしていたおり、聞き込み相手が犯行を告白したことで、被疑者となる。野良猫の餌付けに対する注意が口論、揉み合い、転倒に発展し、被害者死亡に至ったという。
 エンマ様が西野と被疑者を取調室で調べることになる。勿論、絵麻は西野とともに、現場を見分している。被疑者成田孝行は、稲村宅の裏隣りとなる住人であり、亡くなった妻の連れ子であった睦美の面倒をみて生活している。ご近所では評判のいい男だった。陸美は12歳、生まれつき重度の脳性麻痺で、知的障害があり、身体不自由児として車椅子生活を送る少女だったのだ。その面倒をよくみていると評判がよかったのである。
 成田の供述を鵜呑みにすれば事故ともみえる状況のものだった。本当に殺意がなかったのか。殺人罪を適用する余地はないか・・・・その可能性を探る取調べが絵麻の任務となる。絵麻は持ち前の行動心理学の理論・スキルを駆使して、成田の供述を再確認しつつ、そこに欺瞞が潜んでいないか取調べを進めて行く。
 ここでは、上記シェルドンの類型論における中胚葉型が登場する。そして、サンプリング、パーソナルスペース侵入、マスキング、なだめ行動、ミラーリングなど、おなじみのプロセスが深まっていく。、
 亡くなった妻に触れられると素っ気なく語ろうとしなくなるが、睦美のことにはすごく饒舌になる成田の行動に、エンマ様は疑念を感じ始める。被害者の日頃の行動情報が集まってくるとともに、成田及び野良猫との関係が思わぬ様相を見せ始める。
 筒井刑事の心情と行動が書き込まれていくところがおもしろい。
 そしてプロローグは、再び第四話への絵麻の伏線的な行動で締めくくられる。勿論、第四話に確実に結びついているのは、読了したからこそ書けることである。ただ、この小説の後話で著者が落とし所を押さえていて、ここに伏線を張っていることまでは間違いなく読み取れる。

< 第三話 敵の敵も敵 >

 この短編もまた、取調室でのストーリー展開である。取調べにあたるのは勿論、楯岡絵麻、エンマ様である。
 被疑者は高橋明日菜。被害者は野々村莉子で、同じ中学校に通っていた幼馴染み。板橋区髙島平にある公園の一角で、早朝に犬の散歩をしていた近所の老人が遺体を発見した。遺体には酷い暴行の痕跡があり、全身痣だらけで、直接の死因は頭部を鈍器のようなもので殴られたことによる脳挫傷らしいという。捜査本部が設置され、被疑者として任意同行のための証拠固めを始めた矢先に、本人が出頭してきた。
 暴行に加わっていた仲間がほかに3人いる。三木龍也、吉村大輔、相原文乃である。明日菜の出頭と供述から、この3人の身柄確保が行われ、それぞれの取調べも進む。その中で、事実関係の微妙な食いちがいが発見されていく。仲間うちでの「裏切り者」が誰か、が一つのキーワードになっていく。捜査過程で、事件の周辺の関係者も明らかになっていく。最近はLINEでも悪口の書き込みから物議を醸した事件がいくつも報じられている。LINEでの悪口書き込みという話材、フレミーという造語がこの短編にうまく取り入れられている。時代性の取り入れが巧みである。
 供述の齟齬から意外な方向へとエンマ様の推測が働いていく。
 この短編では、髪形や服装への心理投影が具体的に分析されていておもしろい。この本の第一話、第二話に登場しない心理学用語としては、ミルグラム実験と心理実験で実証された「埋め込み法」がある。簡潔にわかりやすい説明が加えられているので、すんなりと読み進められ、一方、それがストーリーの強化に役立っている。
 犯人の解明ができると、絵麻は取調べの詰めを西野に任せて、大事な用事があるといって出かけて行く。
 エピローグは、再び絵麻の次なる行動、つまり第四話への伏線となる。この第三話の締め括りで、公安部所属の男の名前が明かされる。お楽しみに!

< 第四話 私の愛したサイコパス >

 「私の」というのは勿論、楯岡絵麻のこと。愛した相手は伏線に出て来た公安部所属の男である。絵麻の分析では、その男はサイコパスだという。
 この短編は、昔愛した公安の男に頼まれて、彼の取り組んでいる事案に絵麻が関わって行くという話である。男は、ある組織に樋渡初美を公安のエスとして送り込んだ。だが、その樋渡初美との連絡が途絶えたという。そこで男は、心理分析のプロである絵麻に協力を依頼するのだ。絵麻はかつての恋人がサイコパスであると知りつつ、協力することになる。男の狙いは、勿論その組織を潰すこと。行動心理分析に自信のある絵麻は、エスとして潜入した樋渡初美の安否確認を第一において、潜入捜査に協力する。
 この組織は何か? その設定それ自体が、現在の世界の状況を取り込んでいて、リアル感を抱かせるものである。設定された組織には触れずにおく。本書を開くのを楽しみしていただきたい。
 絵麻は行動心理分析に優れている故に、逆にそれが災いしないように、精神安定剤を服用し、大脳辺縁系の反応を鈍らせて、己に生ずるなだめ行動を抑制するという形で、組織の窓口となっている女性に接触していく。
 この話、直近のエンマ様の不可解な行動に対してあらぬ推測と疑惑を抱いた筒井・綿貫両刑事が密かに尾行することから、彼らが巻き込まれていく。そして、公安の男の描いたシナリオが崩される羽目に・・・。
 絵麻の行動がそれによりどうなるか。おもしろい展開が組み込まれている。
 洗脳という側面で、最新の大脳医学もストーリーに組み込まれていて興味深い。この辺りがどこまで事実であり、現実的な効果、結果をもたらすのかについては情報を持たないのでわからない。そうなのか・・・にとどまる。しかしそれが事実なら恐ろしいことである。
 ネタばれは回避しておこう。筒井刑事、絵麻より大先輩だが、脇役としておもしろい。

 このシリーズ第4作もまた、行動心理学の知識を学びながら、面白く読むことができた。行動心理学に関心を抱く人には、オススメである。フィクションではあるが、心理学理論、用語のケーススタディ的なシーンを織り込んで仕立てたストーリーなのだから。
 一方、心理学なんて・・・と思う人には、逆に心理学に興味をもつトリガーになるかもしれない。このストーリーで描かれる行動の断片シーンは、日常の我々の行動自体に応用できるものなのだから。
 
 ご一読ありがとうございます。


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この作品に出てくる事項で関心を引いたものをネット検索してみた。一覧にしておきたい。

【パーソナルスペースとは?】恋愛や人間関係にも影響する距離って?!男女や性格による違いや特徴を知って上手に活用しよう!   :「WELQ」
パーソナルスペース  :ウィキペディア
ウィリアム・シェルドン  :「コトバンク」
体型で性格が分かる―3つの特徴  :「W.マイナビ ウーマン」
スタンレー・ミルグラムの服従実験  :「Es Discovery Logs」
スキーマ  :「心理学用語集 Psychological Term」
サブリミナル効果  :ウィキペディア
精神病質  :ウィキペディア
サイコバスとは何か? 
サイコパスには犯罪者だけでなく成功者もいる:「Newsweek ニュースウィーク日本版」


  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『インサイド・フェイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』  宝島社
『ブラック・コール 行動心理捜査官・楯岡絵麻』  宝島社
『サイレント・ヴォイス 行動心理捜査官・楯岡絵麻』 宝島社

『井沢元彦の教科書では教えてくれない日本史』 監修井沢元彦  宝島社

2016-09-27 09:36:55 | レビュー
 2016年6月に別冊宝島2334号としてA4サイズで発行された127ページの本である。
 監修井沢元彦となっているので、本書の執筆自体は多分複数のライターが分担執筆しているのだろう。井沢元彦氏(以下、敬称を略す)は小説家である一方で、『逆説の日本史』を初めとした独自の歴史解釈・歴史推理で井沢史観を形成し、ノンフィクション分野まで手掛けている。

 本書は、井沢元彦による日本史解釈、歴史観を踏まえて、古代から現代に至る長い歴史の中で、義務教育の教科書では教えない歴史の「謎」のキーポイントをよみやすく、わかりやすく説明している。日本の歴史の中で、時代のターニング・ポイントとなった出来事、あるいは教科書がふれない事柄、既成事実の如くに説明していることへの批判など、33のテーマを取り上げて、「教科書では教えてくれない」歴史分析・歴史解釈を展開してる。つまり、「古代から現代までを井沢史観で読み解く」という試みである。

 井沢元彦の『逆説の日本史』シリーズに興味を抱かせる導入本という位置づけにもなるかと思う。アマゾンで検索してみると、2016年9月時点で、文庫本では19巻(幕末年代史編2/井伊直弼と尊王攘夷の謎 )まで、単行本では22巻(明治維新編: 西南戦争と大久保暗殺の謎:2016年7月刊)までが出版されている。手許にはいまのところ、文庫本で15巻まである。残念ながら未だ部分読みにとどまるが・・・・。
 この対比で行くと、本書の「第一章 古代・中世編」(10テーマ)、「第二章 近世遍」(10テーマ)、「第三章 近代編」(10テーマ)までは、『逆説の日本史』での詳細な論及に繋がるのだろう。つまり、第1のテーマ「神話に描かれた『国譲り』」から、第30のテーマ「明治憲法にも生かされた『和』の精神」までが、この既刊シリーズ本でカバーされる。 井沢元彦は多数の著作を出版している作家なので、「第4章 現代遍」で取り上げられた3つのテーマも、私には不詳だがどこかで既に関連著作として論じているのかもしれない。参考に現代編のテーマをここに列挙しておく。「TOPIC 31 近代国家の戦争論」、「TOPIC 32 朝鮮戦争と南京大虐殺の知られざる真実」、「TOPIC 33 大東亜戦争における不可思議な解釈」である。

 本文は4章構成だが、内容としては、冒頭に「教科書ではわからない日本の歴史」と題する井沢元彦へのインタビューの談話記事(4ページ)が載っている。このインタビュー記事で、井沢は日本の歴史の研究方法の問題点を論じている。そのポイントは次の諸点と理解した。
*日本人の文化遺産である神話を「歴史」研究から外し、教えない点。神話も一つの「歴史」として研究し、教える機会があることが正当な研究態度ではないか。
*教科書に贖罪意識を持ち込み古代史解釈をする奇妙さ。例:渡来人と帰化人の両用語。*歴史の持つ宗教的側面、日本史を貫く行動原理などへの探求が為されていない。
*全体像をみた歴史の論及に欠けるため、歴史の流れが見えてこない。
これらは、33のテーマの扱いにも関わって行くことであり、井沢史観の根底にある見方だろう。詳しくは本書をお読み願いたい。示唆に富む批判点である。

 2つめに、日本あるいは世界のマップに重要武将などをイラスト入りで描き、日本通史におけるターニング・ポイントを抽出し、ごく簡略な付記をつけて、ある時代区分の全体像の一面を示している。このページ、義務教育でどこまで学んだか。あるいは、現時点で何をどこまでの事実あるいは知識・情報を理解しているかを見直すのにも使えると思う。 ここでは、井沢の監修した時代区分とターニング・ポイントとして抽出されている事象名称だけ、メモしておこう。
 
 古代の日本:  邪馬台国の成立、大和朝廷の成立、聖徳太子の十七条憲法
         大仏開眼供養、平将門の乱
 中世の日本:  守護・地頭の設置、源頼朝 征夷大将軍に、承久の乱、元寇
         南北朝時代、応仁の乱、織田信長 関所を撤廃
 近世の日本(1): 本能寺の変、豊臣秀吉の刀狩令、朝鮮出兵、関ヶ原の戦い
         キリシタン国外追放、大坂夏の陣
 近世の日本(2): 江戸幕府、黒船来航、薩英戦争、馬関戦争、大政奉還、戊辰戦争
 近・現代の日本:明治維新、日清戦争、日露戦争、第一次世界戦争、日中戦争
         太平洋戦争

 本書のタイトルにある「教科書では教えてくれない」視点での解釈が、33のテーマの中に数多く語られていることは、このタイトルを裏切ってはいない。
 井沢へのインタビューで教科書と今までの日本史の研究方法で欠けていた点と批判的に述べられていることに関連し、印象深い井沢史観としての見解をいくつかご紹介してみよう。私の理解のしかたというフィルターが加わっているので、本書を読み、再チェックしていただきたい。

1.日本史を貫く行動原理を井沢は「和」の精神と説く。それは神話に描かれた「国譲り」ということから始まり、聖徳太子の十七条憲法の第一条に「和を以て貴しと為し」を掲げたことに表象されているという。それが、明治維新の「五箇条の御誓文」の第一文にある「広ク会議を興シ万機公論に決スベシ」に継承されているとする。それが、日本の企業経営における稟議書のシステムにも連なって行くという。

2.古代の日本において、歴史上「帰化人」という言葉が使用されていたのに、現代の教科書が「渡来人」という言葉に置き換え、「帰化人」の語を抹消した点を指摘する。「歴史上の問題としては、まず事実としてそれを記載するのが正しい姿勢ではないでしょうか」と論じる。古代史の事実認識に対し、現在のイデオロギーでの解釈・変容を問題視している。

3.元寇において、神風が日本を勝利に導いたのは一つの原因だが、元軍の強さの秘密はその「騎兵」力であるにもかかわらず、船による日本への渡海が元軍の強味を発揮できなくさせた事にあるという捉え方は、実におもしろい。ナルホド!である。

4.いずれの宗教も、開祖を一番に崇敬しているが、その宗教を「大衆化」する工夫と手腕を持った人物が、世に普及させた結果、その宗教が隆盛して生き残っている事実を重視する。つまり、教団の組織化と信仰心を集める工夫がなければ、その宗教は消滅している。
5.中世から近世にかけて、寺社は中国留学僧が持ち帰った先端技術の集積場であった。それと共に、朝廷の庇護もあり、様々な経済的利益を集積した勢力を形成していた。その勢力を守るために、寺社を城塞化したり、僧兵集団を抱えていた。純粋な「宗教」以外の俗世的側面が強い。織田信長が破壊しようとしたのは、寺社の及ぼす俗世的勢力の側面である。その典型が当時の延暦寺であり、比叡山の焼討ちに繋がる。一方、その対策が、「関所の撤廃」「楽市・楽座」である。

6.信長には天下統一をなしえる先駆者としての条件、資質があった。勿論、信長自身がそれを形成、強化した訳だが。伝統にとらわれない発想と刷新を徹底する実行力。兵の傭兵化により年中戦える武闘集団を従えた。鉄砲を戦場の武器として大量投入した。実力・能力主義の徹底。流通経済の自由化。世界を視野にいれた先進情報の収集。こういう要因があげられる。秀吉、家康はある意味で信長の模倣者といえる。

7.近世における「油」の普及が消費社会のスタイルを変え、消費経済社会を活性化した。また、「生類憐みの令」は、戦国時代の価値観から平和な時代へのパラダイムシフトをさせる意味があった。こんな捉え方をしたことがなかったので、おもしろい。

8.家康が幕府安定のために導入した朱子学が、倒幕の中心思想にもなって行った。
 また、家康は徳川御三家の分立という布石において、時代がどう変わろうと徳川家生き残りの仕組みを織り込んでいた。この見方も興味深い。

 他にも、興味深い論及が33のテーマの中に為されているが、それは本書を開いていただければよくわかるだろう。特に幕末動乱期のテーマ設定のところは、学ぶところがあり、おもしろい。中学・高校時代の日本史の授業は幕末動乱期までの深い説明に行くまでに1年間が終わっていたのではなかっただろうか・・・・。
 もう一つ。第31のテーマ「近代国家の戦争論」においては、歴史的事実としての近代の戦争について、戦争の背景に潜む事実をきっちりと認識して戦争論を捕らえ直すことに言及している。それは教科書では語られないことだという。歴史を学ぶ上での戦争の認識論は多くの示唆を含んでいる。原因があり、戦争が起こるなら、再び戦争を繰り返さないためには、その原因の発生が起こらない方策がなければならない。

 本書の構成としては、末尾に「まとめ 日本は歴史から何をまなぶか」がしめくくりとして記されている。そして「逆引き日本史辞典」が備えられている。キーワードの簡略な説明と本文のどのページに関連するかが示されている。

 最後に、まとめに記載の文章をご紹介しておく。
 井沢は日本史を貫く行動原理は「和の精神」と説く。それが日本国家、日本人の強味であると考える。その一方で、重要な指摘を記している。
 「日本人のメンタリティからいえば、日本人にとって『和』の世界が一番落ち着くというのは事実です。『和』としてのメンタリティを持っていると、おうしても協調性を保とうとする方向に心が働きます。その結果、相手の言うことを少し取り入れて、自分の原理と調和させようとします。しかし、それをやればやるほど、一方的に物事を言ってくる民族には負けてしまうのです」と。(p123)
 勿論、本書では、その事実指摘にとどまる。どう打破できるか、その具体的方策は語ってはいない。歴史の真実の姿を見極める重要性、必要性を強調することで終えている。

 裏表紙には、「歴史をつなげて見れば、真の史実と日本人が見えてくる」と記されている。この本は歴史のつなげ方を、井沢史観で読み解いたのである。おもしろい。

 ご一読ありがとうございます。

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『荒仏師 運慶』 梓澤 要  新潮社

2016-09-23 09:49:25 | レビュー
 運慶についての伝記小説である。今までに運慶作と称される仏像の実物や写真及びその解説書は見ているものの運慶その人について記された本を読んだことがない。そのため、どこまで史実資料が現存するのか知らない。著者は史実を踏まえ、学説などで意見の分かれる部分は独自の解釈をし、資料のない空隙に想像力を羽ばたかせて、運慶像をここに描ききったのだと思う。
 小説というフィクションを前提にしてだが、運慶という人物に肉迫する上で学術書的なものより読みやすく、運慶に一歩近づける好著である。この小説をトリガーにして、学術的見解と対比をしてみるのもおもしろいと感じている。

 読後印象として、いくつかのテーマを巧みに絡み合わせながらストーリーが織りあげられていると思った。
 1) 木を刻み造仏すること、仏像の美の創出を、運慶個人としてどのように考え、問い続けたのか? 造仏への懊悩と信仰心に関わる美の探求。
 2) 後に慶派と称される仏師集団を父康慶から継承した運慶が、奈良仏師の棟梁として、仏師集団をどのように率いて行ったのか? 凌駕!京仏師と慶派の確立・興隆。
 3) 父の弟子・快慶は兄弟子にあたる。生涯のライバルとなった快慶は、運慶にとってどういう存在だったのか? 仏師としての運慶と快慶の確執。

 このテーマを語っていく上で、運慶の生い立ち、運慶の私生活の側面が重要な背景となっていく。それが運慶の生き様に直結していく。また、運慶の造仏は彼が生きた時代の推移と密接に関わる。有力な造仏の発願主が居なければ、運慶がいくら優れた技量を持っていても、仏像を具現化し、世に示すことができない。発願主は当然ながら、当時の権力者である。つまり、その時代における権力者の有り様と確執、政争の実態などを含めて、時代そのものを描き切らねば、運慶を描けないことになる。
 つまり、運慶の私生活と時代を如何に描いていくかということが、上記テーマをリアルに描く前提としてのサブ・テーマだと思う。

 私が特に興味を抱いたのは、上記3つメインテーマの内の1と3である。

 プロローグは、「わたしは美しいものが好きだ」という一行から始まる。著者は、運慶が「猿みたいに醜い顔」と母から毛嫌いされた醜男として生まれた。5歳かそこらから鑿を操り、仏の手・足や台座の飾り彫りなどを器用に作り出す天賦の才を備えていたと記す。そこに運慶の元がある。「目に見える美の他に、目に見えぬ美がある。真に大事なもの、真に気高いものは目に見えぬ。仏もそうだ。」(p7)とし、「わたしは美に恵まれなかったが、誰も気づかない美を見つけることができる。この手で美をつくり出すことができる。」と運慶は自負する。その運慶が、「姿かたちなき仏たちと、それに懸命に祈りすがりつくしか、それしか救われようのない人間たちをつなぐ、それが仏師だ」(p7)と悟るまでの栄光と挫折がここに描かれて行く。
 運慶が生涯において手掛けた仏像の制作プロセスを主軸にしてストーリーが展開していく。造仏行為、そこに運慶の生き様がある。
 
 運慶が10歳のとき、父康慶に連れられて、奈良の竜王山にある長岳寺に行く。阿弥陀三尊像の前に座し玉眼の光る眼を運慶が眺めたシーン、それを仏師運慶の原点として著者は描く。もう一つは、平重衡が大将となり奈良に攻め寄せ、興福寺・東大寺を焼討ちした折りに、類焼、焼尽を防ぐために運慶は他の仏師たちと必死に諸仏像を搬出・救出する。その時の阿修羅像への仏師としての思いが描かれていく。また、延寿という女性が運慶の美意識に大きな影響を与えたとする。京一の評判の傀儡女が春日神社若宮の前の広場で興行するのを運慶が見る。運慶の私生活において、延寿との出会い、関係、唐突な別れがもう一つの原点になる。運慶と延寿との間に生まれたのが熊王丸。運慶の長男で、後に仏師湛慶と名乗る。
 
 造仏という点では、柳生の里の円成寺に納められた大日如来像の制作経緯から書き出されている。康慶が運慶に独力で制作せよと指示したという。著者は運慶が「絵木法然(えもくほうねん)」というキーワードを念じながら造ったと描く。このキーワードが巻末に再び出てくる。「絵に描かれたものであれ、木石や銅で造られたものであれ、仏の姿は仏そのもの。真実の仏である」(p26)ことを意味する言葉である。
 煎じ詰めれば、運慶の人生は「絵木法然」が造仏行為において自然体となるに至るまでの葛藤だった。著者はその葛藤を描きたかったのだろう。そこに快慶がライバルとして登場してくる。最後の最後に、著者は快慶にこう語らせる。「いまなら、棟梁のお指図に忠実に従えるでしょう。もっとも、それでは面白くないと言われるのでしたら、話は別ですが」と。

 慶派集団の棟梁となる運慶の立場では、父・康慶の力量と影響が大きかったようだ。康慶は奈良仏師の棟梁・康朝の弟子だった。康朝の実子に成朝が居るのだが、仏師としての技量・力量では康慶の評判が上回り、実質的棟梁になっていく。その康慶が運慶を跡継ぎにして慶派の仏師集団を形成するという明確な父子継承のシナリオを描く。勿論、そこには運慶の類い希な仏師としての才が前提となっている。亡くなった康朝の正統な奈良仏師後継者であると思っている成朝とは一線を画していくことになる。
 慶派の棟梁となる運慶は、康慶の思いを引き継ぎ、ハングリー精神をトリガーとしていく。それは都が奈良から京都に移り、南都が衰微していく時代の変化に起因する。京の都では、仏師・定朝から始まった本様を継承する院派・円派がいわば造仏を独占していて、奈良仏師が入り込む余地がない事による。奈良での造仏にも発願主との関係をもとに京仏師が進出してくる。奈良仏師にとって、力を発揮できる場がないのである。
 平家の滅亡、源頼朝の台頭により時代が動き始める。興福寺の復興が緒につくことと重源上人による東大寺再建の大勧進による造仏活動が大きな契機になっていく。京仏師に互して、奈良仏師の技量を示すまたとないチャンスになっていく。
 そして、鎌倉に進出し造仏の請け負いに乗りだした成朝の後を受けて、運慶が鎌倉に滞在して造仏を始める。それが運慶の存在を知らしめる契機となったようである。奈良において、運慶が北条時政から伊豆韮山の願成就院に安置する諸仏の制作を依頼されたことに端を発する。後に運慶が康慶から仏師集団を継承したおり、慶派集団を拡大できる基盤は、鎌倉幕府の中枢関係者からの発願依頼という支援があった。
 特にこのストーリーでは、運慶と北条政子との仏像を縁とする関係が一つの軸として描き込まれていく。著者の目を通して、北条政子という存在を知る機会になる。やはり、興味深い女性である。
 京仏師を超える仏像を造り世間の名声を得ること、奈良仏師の生きる場を確立し、隆盛を図る、つまり院派・円派を凌ぐという悲願を運慶は康慶から引き継ぐ。そのハングリー精神をバネにした苦闘と実績の蓄積が描き込まれていく。父の悲願だった京進出を運慶は果たすことになる。八条高倉に運慶が仏所を設けて活動を開始する。
 慶派を率いる運慶の描写は、ビジネス・マネジメント及びプロジェクト・マネジメントの視点、プロデューサー的視点として読んでもおもしろいと思う。

 運慶が棟梁となると同時に、快慶は運慶門下の仏師となる。運慶は、快慶が独自の工房を奈良に設けることを認め、重源上人の仕事を中心にさせる。また、弟の定覚に奈良の仏所の運営を委ねる。快慶の心中はいかばかりか。この小説に快慶が直接快慶が登場するのは重要な場面だけであるが、運慶の心中における葛藤描写として快慶が登場してくる。読ませどころの一つである。

 この小説の中で太い軸として、運慶に影響を与え支援者ともなっていく人物が数人登場する。上記の北条時政とその娘・北条政子、重源上人は勿論である。そこに運慶が京に仏所を開設した以降に、文覚上人・八条女院が登場する。造仏の発願主側として登場するこれらの人々との関わりが、この小説での読ませどころとなっていく。
 文覚上人との関わりでまず明恵が登場する。しかし、快慶作仏像との関わりで運慶と明恵の関係が深まるところが興味深い。

 運慶の私生活が描き込まれていく。延寿を最初にして、父・康慶の政略的配慮から運慶の正妻となった狭霧、運慶の鎌倉滞留の5年の間に関係ができた漁師の娘・由良、京に仏所を開いた以降のあるときから、東山の路地裏のしもた屋に囲ったあやめ、が登場する。四者四様の有り様がこれまた興味深い。4人の存在は史実なのか、著者の創作・フィクションが交じるのか・・・・・。
 延寿の生んだ子 薬王丸(長男) 後の仏師・湛慶
 狭霧の生んだ子 三男 後の仏師・康運(二男)、康弁(三男)、康勝(四男)
         一女 如意(一時期、冷泉局の養女となる)
 由良の生んだ子 2人 後の仏師・運賀(五男)、運助(六男)
これら、運慶の息子たちが、慶派集団の一員として、運慶の許で活躍の機会を与えられていく様を記していく。

 この小説での著者の感性と想像を加えた描写の二例を抽出しておく。これがいわゆる史実に基づく「伝記」ではなく、伝記小説である由縁になると思う箇所である。

 一つは東大寺南大門二王像について。通常、この二王像は運慶・快慶の合作と言われる。では、阿形・吽形のどちらを誰が造ったのか? 普段ならそこまで考えず、運慶・快慶作で思考停止してわかったつもりでおしまい。なのだが・・・・。

 手許の『日本仏像史講義』(山本勉著・別冊太陽)を読むと、学術的視点からこう説明されている。墨書他の記録から、「素朴に考えれば阿形は運慶・快慶が、吽形は湛慶・定覚が担当したことになる」とまず記し、両像を見た印象について説明したうえで、「前者(注記:阿形)には快慶の作風を、後者(吽形)には運慶の作風をみるのが自然である」と言う。そして「この東大寺南大門の場合は惣大仏師運慶、阿形運慶・快慶、吽形湛慶・定覚という分担で、運慶はこのとき阿形の制作を経験ゆたかな快慶になかばまかせ、湛慶・定覚の担当した吽形の制作を指導することがむしろ多かったのであろうか」「そこに様式上の和漢の対照が意図されているようにもみえる」(p210)と説明されている。
 同様に、奈良国立博物館で開催された『御遠忌800年記念特別展 大勧進 重源』の図録には、「過去の学説では主として作風の検討から、阿形の担当者を快慶、吽形は運慶とみることもあったが、吽形像納入の経典奥書に大仏師として定覚・湛慶が、阿形像持物の墨書銘に大仏師として運慶・アン(梵字)阿弥陀仏の名が見いだされたことにより、これを素直に受けとって、阿形像が運慶と快慶、吽形像が定覚と湛慶の合作と考えるのが穏当だろう。ただし全体の統轄は運慶がとったはずである」(p16)と記している。

 この小説で、著者はこういうストーリーで描いて行く。運慶が考え抜いた役割分担として、阿形は定覚とともに快慶が制作にあたり、吽形は運慶と湛慶がやるという。そして運慶がすべてを統轄する。「ただし、寺に出す指図書では、吽形像より格上の阿形像をわたしと快慶、吽形像を定覚と湛慶が受け持つと申請してある」(p256)そこに著者の感性と想像力が羽ばたいていく。その展開は本書で味わっていただきたい。

 上記『重源』は「この二躯の金剛力士像の特異性は、通常とは阿・吽行の配置が逆であること、持物・手勢も日本の伝統的な図像とは異なること、両者が門の内側に向き合うこと等である」と(p16)
 この二王の像は、重源が宋国から持ち帰った北宋の霊山変相図に描かれた二王像の形での造仏を運慶に要望するストーリーとなっている。(「宋画の霊山変相図」という点は事実として証明されている。『重源』参照)運慶は重源上人の要望に対し呻吟した上で、独自の創意を加え図像を描いて行く。この部分もおもしろいストーリー展開となっている。
 そして、二王が向き合う形である点について、ほぼ二王ができあがったころに、運慶が南大門の現場に行き、二王像が正面を向いている状況を想像する。そして、急遽二王像が向き合う形に、南大門の造作自体の変更を重源上人に提案して認めてもらうという経緯が書き込まれていく。それはなぜか? 著者はその理由をきちりと描き込んで行く。こんなところも、阿吽形の配置が逆のことと合わせて、再認識させされた。今までに、この南大門の二王像を見、通り抜けながら、また、もう一つのブログでの記事で南大門の写真を紹介したこともあるのに、深く考えることもしていなかった点である。頭にガツンという感じ・・・・。

 もう一例、興福寺南円堂に安置されている有名な僧体の「無著像・世親像」は、普通運慶作とされている。普段はそれ以上考えない。だが、これも、運慶が棟梁として率いる仏師集団、つまり運慶の工房が製作しその代表として運慶作と簡略に記されているだけなのだろう。それは宗達筆と記される絵でも同様の事情である。手許にある学習参考書では、無著像の写真を載せ、「運慶とその一門の仏師たちにより造られたものと推定される」と丁寧に説明している。(『新選 日本史図表』第一学習社p57)
 著者は、運慶が、20歳になるやならずの下の二人、運賀と運助に思いきってやらせるという形で描写していく。勿論運慶がつきっきりで指導してやらせるという前提なのだが。著者の想像力が羽ばたいていく。

 この小説、仏像制作の過程で運慶がその姿の図像化や表現に呻吟する場面描写が、運慶の仏の美の探求として数多く描かれて行く。これ自体、見方を変えると、楽しみながら読める仏像入門編にもなっている。そういう意味でも、おもしろい。

 病に倒れた運慶が、病床でいまのうちに言っておきたいことをぽつぽつと語ったという言葉が書き込まれている。これが記録に残る発言なのか、著者の感性を踏まえたフィクションなのかは知らない。しかし、印象深い言である。呻吟し、悪戦苦闘した運慶が到達した仏師としての真理なのだろう。ここに至るまでの運慶の生き様がこの小説の読ませどころである。学術的「伝記」では記せない側面だから。

*無の境地とか、空寂の心で彫れとか、それにこだわること自体が、自我意識から逃れらぬ証拠だ。こだわらず、願わず、厭わず、自分を忘れ、時を忘れ、人を忘れ、愛も憎も忘れよ。
*自分を否定し尽くせ。個性などというものを否定し尽くしたところに、真の自分を見出す機縁がある。
*もし迷いが出たら、木の中の仏に訊け。かならず応えてくださる。
*人間の内にひそむ未知の可能性は、自我を没し尽くしたところに働きをもちはじめて、思いがけない力を引き出す。
*わしを真似るな。運慶の名に頼らず、自分自身になれ。わしを捨てろ。

 「貞応2年(1223)12月11日 運慶没す」の一行がこの小説の末尾である。

 ご一読ありがとうございます。


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本書に関連した事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
忍辱山円成寺 ホームページ
【国宝】願成就院の運慶作諸仏  :「伊豆の国市」
願成就院  :「IZU NET」
東大寺 ホームページ
東寺  教王護国寺  ホームページ
  立体曼荼羅  
  天、菩薩、明王、如来 
高尾山神護寺 ホームページ
栂尾山高山寺 ホームページ
六波羅羅密寺 ホームページ

運慶について  運慶年表 :「仏像の修復」(仏像文化財修復工房)
鎌倉時代の仏像~運慶・快慶を中心に~  平田玲子氏 
運慶作品リスト
かろうじて海外流出を免れた運慶作の「大日如来座像」 :「Don Pancho」
重要文化財一覧 :「六波羅密寺」
  地蔵菩薩坐像、空也上人立像、運慶像、湛慶像 の写真が掲載されています。
運慶の墓 :「いかなる人も踏み迷う」
運慶の墓   :「世界のお墓」

夢十話 夏目漱石  :「青空文庫」
  「第六夜」が運慶についての夢の話

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このブログを書き始めた頃に、この著者の作品について読後印象を載せています。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。

『百枚の定家』 新人物往来社



『秋霜 しゅうそう』 葉室 麟   祥伝社

2016-09-19 18:23:34 | レビュー
 豊後の羽根藩に仕官した多聞隼人が、怨嗟の声を浴び鬼と呼ばれながらも改革を断行する。それは藩主の心を確かめたいという動機を抱きつつの孤高の歩みだった。そして壮絶な最期を遂げる。それが『春雷』という作品だった。そこに、「欅屋敷」という一つのキーワードがあった。
 この『秋霜』は羽根藩にある欅屋敷の存在に焦点を当て、『春雷』の続編に位置づけられる作品と言える。鬼隼人の死後3年が経過した時期に、このストーリーが始まる。
 だが、前作としての『春雷』を読んでいなくてもほぼ独立した作品としてこの小説を読むことはできる。ただ『春雷』を読了していると、今は隠居させられた前藩主三浦兼清の恨み心の深さが一層リアルにイメージできることになる。また、ストーリーの味わいに奥行きが広がるという違いはあると思う。

 「秋霜」は辞典を引くと、第一羲は「秋におくしも」であるが、「刑罰・権威・節操などの厳しいこと」(『日本語大辞典』講談社)、「[秋の霜が草木を枯らすことから]厳しい刑罰、寄りつきがたい威厳、強固な意志などにたとえていう」(『大辞林』三省堂)という意味がある。ここから「秋霜烈日」という熟語もある。
 この小説は、秋の霜に相当するのが前藩主三浦兼清の独りよがりな恨みから発せられる現藩主への指示である。いわば兼清が黒幕的存在。その指示とは、欅屋敷を殲滅せよというもの。欅屋敷の住人は、鬼隼人と呼ばれた多聞隼人の元妻、離縁していた「楓」という女主人を筆頭に、孤児の善太・勘太・助松・幸、隼人の屋敷に仕えていた23歳の「おりゅう」、および羽根藩きっての学者・千々岩臥雲である。いわばこれら力なき住人が枯らされる草木の立場と言えよう。欅屋敷と住人の殲滅がテーマとなる故に、その苛烈さが「秋霜」という言葉で表象されているのだろう。

 ここに登場するのが、主な登場人物の一人となる草薙小平太。年は32,3才。故あって大小の刀は差さず、赤樫の木刀を携えているだけの武士らしくない風采の武士。小平太は臥雲と並び秀才だった草薙伊兵衛の子として生まれる。伊兵衛は大坂蔵屋勤めだったのだが、小平太が13歳の頃、遊里通いに溺れて藩の公金を使い込み、召し放ちとなる。その翌年、母が貧窮の中で死亡。その後、父の死まで父子二人で暮らす。しかし、その経緯は小平太の出生にいわくがあったからと言う。そのいわくがこのストーリーに結びついていく。
 「どこまでも澄みきった秋空が広がっている」という一文から書き出され、小平太が豊後羽根の下ノ江の湊に着いたシーンから始まる。

 彼には父の故郷である羽根を見たい、知りたいことと己の出生の秘密を確かめたいという願望が根底にある。だが直接には欅屋敷を訪れるというのが目的だった。楓とおりゅうが、欅屋敷に男手がいなくなった不自由さを、おりゅうの夫で今は大坂に店を構える白金屋太吉に相談していたことと繋がっていく。太吉の添え状を持って、小平太は欅屋敷を訪れ、住み込むことになる。
 だが、彼の隠された目的は、欅屋敷の住人の抹殺にあった。それは、羽根藩の現在の家老・児島兵衛の意図によるものだった。それは三浦家の親戚の旗本から養子となって藩主の座に就いた25歳の兼光が、家老児島兵衛に兼清の指示を伝えたことに絡んでいる。兼光への指示は、突然隠居に追い込まれた兼清から発せられていたのである。
 草薙伊兵衛と小平太の過去を知る家老児島が、小平太を刺客にするシナリオを考える。それは藩に直接害の及ばぬ巧妙な仕掛けであり、速やかに闇に葬れる策謀になるはずだった。

 このストーリー展開のおもしろいのは、欅屋敷に住み込んだ小平太が欅屋敷の現状を深く知るほど、刺客を引きうけたという目的を投擲して、欅屋敷の守護に転換して行く顛末にある。小平太の意識の転換とその行動を描くことがこのストーリーでのコインの一面となる。
 これに対して、小平太を駒として使えないと知った児島兵衛がどういう画策をしていくか、家老児島兵衛の信念と生き様が描かれて行くところにコインのもう一面がある。児島兵衛の心中には幾層ものシナリオが存在したことを著者が描いて行く興味深さがある。児島兵衛が最後に死守したものは何か。ここにもまた、鬼隼人とは異なる武士の生き様があった。

 前藩主兼清は徹底的に愚弄な藩主として描かれている。まあこんな藩主が居れば、藩経営がうまくいくはずがない典型だろう。羽根藩の厄介者、癌的存在だといえる。
 前藩主兼清とその意を呈する児島兵衛に対して、欅屋敷の住人たちが小平太とともにどう闘うか、その攻防戦がこのストーリーの展開だと言える。テーマはやはり武士の生き様にある。そして楓の生き様がそこに加わる。

 『春雷』に登場した播磨屋弥右衛門が羽根藩に戻って来て、拠点を再構築するために前藩主兼清に取り入ろうとする。そして、食客の鶴見姜斎を欅屋敷に送り込む。その狙いは千々岩臥雲塾の講義の中で、異学の徒といえる証拠発言を押さえさせるためである。その言質が押さえられれば、欅屋敷取り潰しの大義名分となるからである。
 臥雲は百も承知であり、言質を取らせることをしない。姜斎は欅屋敷に居候をする間に、欅屋敷に馴染み、変節していく。つまり、欅屋敷の味方に転換していくことになる。
 臥雲が早朝から講義する『孟氏』の一節を姜斎が部屋の外で盗み聞く。
   人皆、人に忍びざるの心有り。
   先王人に忍びざるの心有り、
   斯(ここ)に人に忍びざるの政(まつりごと)有り。
   人に忍びざるの心を以て、
   人に忍びざるの政を行わば、
   天下を治むること、
   之を掌上に運らす可し。
 臥雲は「惻隠の心とは仁の端であり、羞恥の心とは義の端である。・・・・」と説いてゆく。この傍聴が、姜斎の意識の転換点となっていく。この姜斎の登場が、なかなかおもしろいエピソードとして組み込まれていく。

 欅屋敷を守る為に臥雲が命がけの対抗策の一計を立て、行動に移していく。これが一つの読ませどころである。この読ませどころは、臥雲の心中において『春雷』での事の経緯、鬼隼人と深く関わっているところにある。

 さらに、修験者の玄鬼坊が要所要所に登場する。彼の働きもこのストーリーでは脇役として重要である。彼は欅屋敷を見守り支援する一人である。最終ステージでは玄鬼坊が重要な役割を担っていく。玄鬼坊には壮絶な最期を遂げた鬼隼人への変わらぬ心服の思いが未だに息づいているのである。
 
 事態を大きく進展させるのは、江戸幕府の巡見使の一行が羽根に来るという事実である。巡見使は羽根藩を取りつぶせる事実を入手することを視野に入れて来訪しようとしている。それは欅屋敷に関わることであり、前藩主兼清の愚弄な行為、不祥事に直結している。つまり、欅屋敷の殲滅へのプレッシャーが強まるのだ。
 欅屋敷側は最後の策を取る。最終ステージが、やはりこのストーリーの読ませどころである。臥雲の生き様、児島兵衛の生き様、鶴見姜斎の生き様が明確になっていく。欅屋敷の守護者として、己の命を掛ける小平太の行動と生き様。そこには楓に対する思いが潜んでいた。児島兵衛の家士・墨谷佐十郎も主な登場人物の一人として挙げておきたい。このストーリーの展開では欠かせぬ脇役である。佐十郎にも一つの生き様がある。
 このあたりのストーリー展開を本書で味わっていただきたい。

 著者は巻末近くで楓にこう語らせる。
 「ともに生きて参りましょう。そうすれば、やがて心の内にも春がめぐって参りましょう。草薙様ならば、わたしのもとから去っていた春を呼び戻してくださると信じております。」
 末尾の一文は「山霞が、早春の風に吹き流されていく」である。
 秋空から始まり、早春でこのストーリーは完結する。
 
 最終ステージのクライマックスへのストーリー展開は、やはり涙を誘うものである。
 春雷、秋霜、そして早春の風のめぐり、この風は温かく柔らかい春の訪れ、心に春のめぐりきたるを暗示する。今は亡き多聞隼人が微笑みを浮かべていることだろう。

 ご一読ありがとうございます。


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『神剣 一斬り彦斎』  角川春樹事務所
『辛夷の花』   徳間書店
『風かおる』  幻冬舎
『はだれ雪』  角川書店
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』  新潮社

『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新4版(37+1冊)2016.1.27



『新版 京のお地蔵さん』 竹村俊則  京都新聞出版センター

2016-09-17 09:35:16 | レビュー
 知人のブログ記事でこの本のタイトルを知り、地蔵信仰への関心と京都のお地蔵さんに少し深入りしたくて、手に取ってみた。
 著者については、手許に『都名所図会』を校注された上下2巻の文庫本や、『昭和京都名所圖會』全6巻があり、日頃重宝している。そこで一層興味を抱いたこともある。元は1994年6月に『京のお地蔵さん』として京都新聞社より発行されていた。それが、物故された著者のご遺族の了解を得て、2005年8月に内容を一部補訂し、新版としてこの初版が出版された。10年余前にこの新版が出ていたのである。

 本書は京都に所在するお地蔵さんを地域分けして一章とし、冒頭にその地域図に地蔵尊の所在地を記した地図を掲げ、各地蔵尊について一部を除きほぼすべてのお地蔵さんの写真を掲載して、お地蔵さんの故事来歴やエピソード、特徴などが解説されていく。著者の見聞印象とともに、文献や古文書などに記録された話などが織り交ぜられて読みやすい説明になっている。地蔵尊専門のガイドブックとしては213ページの本なので、携帯するにも嵩張らず便利といえる。

 著者が本書で頻繁に参照される情報ソースをまずご紹介すると、『山州名跡志』『今昔物語』『都名所図会』『拾遺都名所図会』『花洛名勝図会』『源平盛衰記』『山城名勝志』がある。また、『日本書紀』『甫庵太閤記』『徒然草』『太平記』『平家物語』『帝王編年記』も参照されている。
 本書を読んで初めて文献名を知ったものには、『宝物集』(平康頼)、『元享釈書』巻九、『薩戒記』(中山定親の日記)、『太秦村行記』(黒川道祐)、『古事談』、『東北歴覧記』、『地蔵菩薩霊験記』(京都国立博物館蔵)、『看聞御記』、『資益王記』、各種縁起・絵巻がある。
 つまり、浩瀚な資史料料を渉猟し、地蔵尊について得られた知識が解説の中に程よく織り込まれているのである。、一般読者に読みやすいようにコンパクトなボリュームの本に凝縮され説明されていると言える。この本をインデックスにして、原典・ソースに遡ってみることもできる。

 本書を読んでおもしろいと思うのは、信仰する人々が各地のお地蔵さんについて行ったネーミングである。本書に取り上げられたお地蔵さんのニックネームを章立てとなっている地域毎に列挙しご紹介する。それがどこに所在するかは地図で、所在地のお寺などは各お地蔵さんの解説ページを開いていただきたい。この本は関心度の高いものをつまみぐい的に読むことができるメリットがある。一つ一つの紹介・解説が独立しているから。それ故、まず関心をそそられるニックネームのお地蔵さんから読み進めるのもよいだろう。いつしか全部読みたくなると思う。

洛東(17)
 洗い地蔵、鬘掛地蔵、鎌倉地蔵、首振地蔵、子育地蔵、獅子地蔵、勝軍地蔵
 崇徳院地蔵、衣通姫(そとおりひめ)地蔵、空豆地蔵、玉章(たまずさ)地蔵、導引地蔵、
 明眼地蔵、目疾(めやみ)地蔵、夢見地蔵(3ヶ寺)、米(よね)地蔵、六道地蔵

洛北(7)
 池ノ地蔵、修学院地蔵、太閤地蔵、目無地蔵、矢負坂地蔵、山端地蔵、桶取地蔵

洛中(34)
 跡追地蔵、安産地蔵、生身地蔵、引導地蔵、引接(いんじょう)地蔵、玉城地祭地蔵
 お別れ地蔵、玉体(ぎょくたい)地蔵、釘抜地蔵、親恋地蔵、鞍馬口地蔵、鍬形(くわがた)地蔵
 鯉地蔵、駒止(こまどめ)地蔵、神明(しんめい)地蔵、染殿地蔵、槌留(つちとめ)地蔵
 壺井地蔵、妻取地蔵、爪彫地蔵、爪彫地蔵、泥足地蔵、縄目地蔵、常盤(ときわ)地蔵
 歯形地蔵、星見地蔵、身代り地蔵、木槿(もくげ)地蔵、矢取地蔵、屋根葺地蔵
 世継(よつぎ)地蔵、六臂(ろっぴ)地蔵、輪形地蔵、康頼(やすより)地蔵

洛西(15)
 油掛(あぶらかけ)地蔵、埋木(うもれぎ)地蔵、金目(かなめ)地蔵、桂地蔵
 子授(こさずけ)地蔵、勝軍地蔵、生六道(しょうろくどう)地蔵、長者地蔵
 老ノ坂峠子安地蔵、常盤地蔵、はしご地蔵、腹帯地蔵(染殿地蔵)、谷の地蔵
 火除(ひよけ)地蔵、道しるべ地蔵

洛南(11)
 油懸(あぶらあかけ)地蔵、石棺地蔵、鳥羽地蔵、南無地蔵、ぬりこべ地蔵、腹帯地蔵
 文張(ふみはり)地蔵(小町文張地蔵)、不焼(やけず)地蔵、山科地蔵(四ノ宮地蔵)
 六地蔵、橋寺地蔵

 地域名の後の括弧内の数字は、お地蔵さんのニックネームで書かれた記事数であり、記事によっては別地所在で見出しとして扱われていないお地蔵さんへの言及や、夢見地蔵のように、3ヶ所の夢見地蔵を1記事で言及しているものもある。

 そこで信仰する人々の願う御利益という点でお地蔵さんへの期待機能という観点からみると、そのニックネームと解説からこんな捉え方もできるだろう。特徴的なものだけ割り切って集約するにとどめるが・・・・。
 脱地獄救済機能: 六道地蔵、生身地蔵、槌留地蔵、桂地蔵、生六道地蔵
 浄土引率機能: 導引地蔵、引導地蔵、引接地蔵、お別れ地蔵、
 身代わり機能: 矢負坂地蔵、鍬形地蔵、鯉地蔵、駒止地蔵、泥足地蔵、縄目地蔵
         身代り地蔵、矢取地蔵、屋根葺地蔵、
 人生苦解消機能: 洗い地蔵、釘抜地蔵、親恋地蔵、油掛地蔵、長者地蔵、油懸地蔵
桶取地蔵
 子孫繁栄機能: 腹帯地蔵、子安地蔵、安産地蔵、子育地蔵、染殿地蔵、世継地蔵
        子授地蔵、老ノ坂峠子安地蔵、腹帯地蔵(染殿地蔵)、夢見地蔵
眼科的機能: 明眼地蔵、目疾地蔵
 歯科的機能: 空豆地蔵、歯形地蔵、石棺地蔵、ぬりこべ地蔵
 泌尿器科的機能: はしご地蔵
 社会福祉的機能: 米地蔵
 交通安全機能: 太閤地蔵、鞍馬口地蔵、山端地蔵、輪形地蔵、道しるべ地蔵、六地蔵
         橋寺地蔵
 火災予防機能: 火除地蔵、不焼地蔵

 このほか、章末にコラムが載せてある。「地蔵菩薩」「地蔵信仰の推移」「六地蔵めぐり」「地蔵盆」について基本知識が平易にまとめられている。また、「お地蔵さんのよだれ掛け」「お地蔵さんの座り方」「お地蔵さんのすがた」「お墓の六地蔵」という豆知識が適宜挿入されていて、お地蔵さん入門的な基礎知識が押さえられるようになっているので、コラムと豆知識だけ読んでも参考になる。

 最後に、この本から学んだ地蔵信仰についての要点をいくつか要約しておきたい。
*日本における地蔵信仰は天平時代(8世紀前半)に始まる。平安時代に盛んとなり、末世的信仰の性格を帯びる。10世紀には地蔵悔過の儀式がすでに行われている。11世紀には、悪疫流行に対応し、地蔵菩薩の造立供養、地蔵講が盛んとなっていく。それは地蔵遺品の飛躍的増大を意味する。鎌倉時代ころから、地蔵尊が庶民信仰の対象に拡大し、石仏の造立が増加する。南北朝から室町時代に、地蔵尊が新興武士階級の信奉対象になる。そして、地蔵院建立に反映していく。
*室町時代に地蔵信仰において民俗行事として地蔵巡礼が始まり、現在に至ること。
*地蔵信仰の高まりで、阿弥陀如来石仏などが地蔵尊として転用信仰されている事例があること。
*勝軍地蔵信仰は鎌倉時代後期から起こった日本独特の地蔵信仰だということ。
*怨霊鎮めが地蔵尊石仏の建立にも及んでいること。 崇徳院地蔵
*人物をテーマとする遺跡伝説としての地蔵尊が建立されていること。 
   衣通姫地蔵、玉章地蔵、夢見地蔵、
*「六地蔵めぐり」が一つの信仰のスタイルとして定着しているが、歴史的に眺めると、現在の形になるまでに、いくつかの考え方があるようである。その説明は本書を開いて確かめていただきたい。参考ページをメモしておきたい。 p92、p143-144、p188、p202

 地蔵信仰の入門書、京都での地蔵めぐり用携帯ガイドブックとして手頃な書と言える。

 ご一読ありがとうございます。

本書と関連する事項および関心事項をいくつかネット検索してみた。本書と併せて有益な情報をネットでも見いだせる。一覧にしておきたい。

地蔵信仰  :「コトバンク」
地蔵菩薩のお話 :「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」
お地蔵さま 寺社関連の豆知識 
六地蔵尊 :「真言宗 如意山寶朱院偏照寺」
京のお宝~地蔵盆~  橋本奈央・船越香織・安淑圭共著  フィールドワーク報告書
京の六地蔵巡り  :「京都観光チャンネル」
観光ルート:六地蔵めぐり  :「京都観光Navi」 
京の六地蔵巡り  :「ぼちぼちいこか」

江戸六地蔵  :ウィキペディア

日本古代貴族社会における地蔵信仰の展開  速水 侑氏 論文
地蔵信仰の展開 -十王信仰との関わりを中心として-  森 啓子氏 論文
日本に於ける地蔵信仰の展開 ー祖師から民衆までー 清水邦彦氏 論文
良遍の地蔵信仰  清水邦彦氏  印度学仏教学研究
沙石集の研究(五) -地蔵信仰について- 山下正治氏 論文
「佐渡の地蔵信仰」 -その過程と現状ー 佐藤隆行氏 卒論
地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市  西尾秀道氏  ストーリー

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『第二楽章 ヒロシマの風 長崎から』 編 吉永小百合 画 男鹿和雄 徳間書店

2016-09-12 11:12:49 | レビュー
 本書は、吉永小百合編である。冒頭に「平和な世界を子どもたちに」と題する一文が載っている。編者は「想像以上に苦しい現実を抱えてこられた人たちの思い」を書き記した詩や物語の朗読を始めたという。朗読会は、広島編、長崎編、沖縄編、そして福島編と続いてきて、CDの制作もしたと記されている。この本を読んで、ネット検索で少し調べてみて、何と30年程前に始められた活動だと知った。情報に接する機会がないということがどういうことか、の一例を体験したことになる。その意味を考える必要があるようだ。今回、本の形で刊行されたのが本書というこになる。
 タイトルの『第二楽章』は「恐ろしい出来事そのものが起きた瞬間からさらに時間が経って、次の世代へ移っていく時代になり、語り継ぐべきことをどう語っていけばいいだろうと考えて生まれた」結果のネーミングだという。「ヒロシマの風」「長崎から」は朗読会での広島編、長崎編を意味する。

 「ヒロシマの風」の章を開いた途端、学生時代に買い求め『原爆詩集』で初めて読んだ「ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ」で始まる峠三吉(以下、敬称を略す)の詩、その次が「水ヲ下サイ/アア 水ヲクダサイ/ノマシテ下サイ/死ンダハウガ マシデ/・・・・」という原民喜の詩が目に飛び込んできた。生々しい詩に触れ、かつて衝撃を受けた思いが一瞬のうちに甦る。戦後70年の今、語り継ぐことの重要性を改めて感じる中で、続くページの詩へと引きこまれて行った。

 「ヒロシマの風」には、峠三吉の「序」から始まり、栗原貞子の「折づる」まで20編の詩。「長崎から」には、福田須磨子他の詩が4編と、筒井茅乃の文章が4編載っている。つまり、原爆被災を現実に体験し、地獄の底、生死をみつめた思いが幅広い年齢層の詩文の中から選択され、編纂されている本である。そして、男鹿和雄が詩や文に照応して挿絵を描いている。その挿絵は、軟らかいタッチで、優しさに溢れ、繊細で穏やかさを感じさせる。一言でいうなら「平和」のまなざしで描かれた絵と私は感じた。表紙の絵を見ていただければ、一目瞭然かもしれない。

 詩が選択された原典を各詩の付記から転記・集約しておこう。
 『原爆詩集』1952、『原爆小景』1965、『詩集ヒロシマ』1965・1969、『ヒロシマというとき』1976、『原子雲の下より』1952、「風のように炎のように」1954、『ひろしまの河』8 1963、『原爆の日』1979、『ヒロシマの顔』1983、『反核詩画集 ヒロシマ』1985、『原爆詩集 長崎編』

 本書に編纂された詩は冒頭に記した2つの詩を除き、私には初めて読む詩である。様々な思いが湧出し、それらが混在しているのだが、各詩から私にとって印象深い一文あるいは一節を覚書代わりに書き出しててみた。私にとって、これは原詩への思いのインデックスである。
 これら一文、一節は詩全体の文脈を読んでこそ作詞者の真意に迫ることができるものだと思う。この覚書だけではミスリードする可能性があるかも知れないが、敢えて引用させていただく。これら一文、一節のいずれかが心にひっかかったなら、本書を開いて、その詩全部をお読みいただきたい。本書を手に取るトリガーになれば、どちらにしても意味があるだろう。この抜粋引用が、詩の文脈通りで読まれていたか、違うイメージを描いていたか、あなたにとり別の一文、一節がより一層の印象深さと共鳴を生み出すことにつながるのか・・・・・。

やっとたどりついたヒロシマは
死人を焼く匂いにみちていた
それはサンマを焼くにおい             「ヒロシマの空」 林幸子

ああ 
お母ちゃんの骨だ
ああ ぎゅっとにぎりしめると
白い粉が 風に舞う
お母ちゃんの骨は 口に入れると
さみしい味がする                 「ヒロシマの空」 林幸子


マッチ一本ないくらがりで
どしたらいいのだろう
人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
と、「私が産婆です、私が生ませましょう」
と言ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ。
かくてくらがりの地獄の底で
新しい生命は生まれた。
かくてあかつきを待たず産婆は
血まみれのまま死んだ。             「生ましめんかな」 栗原貞子


梅干しを口に入れて貰うたんは
三日めの朝でガンシタ                「うめぼし」  池田ソメ


原爆がきめた、残りわずかな時間だけ
燃え尽きる蝋の火のように生きたえて       「皮膚のない裸群」 山本康夫


生きのこったひとはかなしみをちぎってあるく
生きのこったひとは思い出を凍らせてあるく
生きのこったひとは固定した面(マスク)を抱いて歩く  「慟哭」 大平(山田)数子

 子どもたちよ
あなたは知っているでしょう
正義ということを
正義とは
”あい”だということを
正義とは 
母さんをかなしまさないことだということを     「慟哭」 大平(山田)数子


原爆はいやだ
それにもまして
父をころし
原爆をおとした戦争はいやだ。          「原爆」 中学2年 山代鈴子


今日の命のたたかいに
勝つて下さい                「お父さん」 小学3年 原田 治


あの時
僕は
水をくんでやればよかった。            「弟」 小学5年 栗栖秀雄


いもばっかしたべさせて
ころしちゃったねと
お母ちゃんは
ないた
わたしも
ないた
みんなも
ないた                     「無題」 小学5年 佐藤智子


一どでもいい、ゆめにでもあってみたいおとうちゃん
おとうちゃんとよんでみたい、さばってみたい 
   「おとうちゃん」小学3年 柿田佳子

あつかっただろうとおもいます。   「先生のやけど」 小学2年 かくたにのぶこ


ひるがよるになって
人はおばけになる           「げんしばくだん」 小学3年 坂本はつみ


そして一ぱい一ぱい
そのかわで
しんでしまったの
その人たちが きょうは
十万おくどからひろしまへ
あいにきたの
あかい火をとぼしながら
あおい火をとぼしながら                「燈籠ながし」 小園愛子


人間のかなしみの ささやき
人間のかなしみが
怒りと力になることの ささやき
 小さな骨よ                      「小さな骨」 深川宗俊


しかし街は炎の街となっていた          「一人になった少年」 吉岡満子


あなたの目で
確かに見つめなさい
  ・・・・
絶望に耐えている者の心で                「ヒロシマ」 森下 弘


ヒロシマのデルタに
青葉したたれ                    「永遠のみどり」 原 民喜


かの夏の日を追う折づるよ
はばたいて告げよ                     「折づる」 栗原貞子


だけど所詮むなしい願い
降る様に星はまたたいていても。          「母を恋うる歌」 福田須磨子


もうじきぼくは
    もうぼくでなくなるよ          「帰り来ぬ夏の思い」 下田秀枝


放射の光は 未だ消えず
身体の中をかけめぐる
そしてまだ私は生きている             「あの雲消して」 香月クニ子


人々よ つどい来たりて
花のたね いざ蒔かん。
 ・・・・・
いつの日か あゝいつの日か
失なわれし わが故郷を
かぐわしき 花園とせん。        「花こそはこころのいこい」 福田須磨子

 「長崎から」には、筒井茅乃の『娘よ、ここが長崎です』を原典として、4つの見出しでの文章が載っている。「椿の木のある家で」「その日、浦上は」「アンゼラスの鐘は残った」「娘よ、ここが長崎です」である。
 ここに載る文章を読んだあと、この原典をまず自分の娘に読んでもらいたいために原爆のあの日からのことを回想し綴った書だという印象を持った。娘が中学生になった時に、生まれ故郷の長崎に帰り、長崎国際文化会館の原爆資料展示室で展示品の前に娘と一緒に立ったと記す。「どうか戦争の恐ろしさを、よく見てほしい、知ってほしい、人々に伝えてほしい」というのが、心の中で娘に語りかけた思いだったと言う。その思いを伝えるために書かれたのがこの原典のようである。回想の文章として、平易にわかり易く書かれている。当時の子供の時に戻ってその当時の思いをまとめた文と感じる。
 著者・筒井茅乃は、長崎医科大学物理的療法科の医師だった永井隆の息女である。原爆が長崎に落とされる前から、兄とともに疎開していたという。母は原爆で死亡。著者の生まれた長崎市上野町は原爆により消滅していた。父は大学病院に居て、重傷を負うが生き延びた。だが翌年の秋から寝たきりとなり、その後に死亡。父の死亡の翌年、一緒に疎開していた祖母が病死。兄と二人きりになるという極限の体験者だった。原爆のあの日から23年すぎた夏、8月に著者自身が女子を出産し母となる。次の文が印象的である。
 「けれど、わたしは、自分の娘に『長崎に原爆が落とされたあの日』からのことを、決して語ろうとはしませんでした。ふれたくないものとして、さけていたのかもしれません。何から話していいものか、まだ幼い娘を前にして、言葉では言い表せなかったのです。」と。
 自分の娘に、平和の子、和子と名づけられたと記されている。
 原典から選択されて収録された4編の文章は、これだけ読んでも、著者の語る状況をイメージしやすい文章である。

 時が過ぎゆくに任せ、風化させないで、語り継ぐべきことは何か、語り継ぐべきことをどう語るかを、立ち止まって考えてみるためにも、必読の書の一冊に加えるべきではないか。

 本書は、詩と文が英訳されて、後半にセットされている。裏表紙から英文で本書の詩と文を読む事ができる。日本語の詩が、どのように英語で表現されるかを学ぶ教材にもなる。英訳の方には、モノクロでの挿絵が付いているが、日本語側の挿絵とは異なるスタイルの挿絵である。英訳で読む外国の人々の持つヒロシマ・長崎についての情報量の違いや文化的違いへの考慮があるからだろうか。単純に日本語側の挿絵との重複を避けただけなのか。これも興味深い点である。まずはバイリンガルな本として出版されていることを付記しておこう。『第二楽章 ヒロシマの風 長崎から』は表紙の右下に『The Second Movement Hiroshima Nagasaki』というタイトルに英訳されている。

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本書に出てくる事項との関連で、ネット検索してみた。一覧にしておきたい。
HIROSHIMA PEACE SITE 広島平和記念資料館 Website
原爆被害の概要  :「広島市」
長崎原爆資料館  :「ながさき歴史・文化ネット」
長崎市 平和・原爆 総合ページ

日本への原子爆弾投下 :ウィキペディア
日本人なら知っておきたい。よくわかる原子爆弾の仕組み  :「NAVWRまとめ」
【戦後70年】原爆投下はどう報じられたか 1945年8月7日はこんな日だった
:「THE HUFFINGTON POST」
【戦後70年】雲一つない広島に、原爆は落とされた 1945年8月6日はこんな日だった
  :「THE HUFFINGTON POST」 
原子爆弾投下の理由~広島・長崎~ :「BeneDict 地球歴史館」
原子爆弾に関するトピックス :「朝日新聞DIGITAL」

Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki
    From Wikipedia, the free encyclopedia
Nuclear weapon
    From Wikipedia, the free encyclopedia
Are Nagasaki And Hiroshima Still Radioactive? November 13, 2013 :「ZIDBITS」
Chilling photos show how atomic bomb tests in the Nevada desert brought LA to a standstill in the 1950s  :「Mail Online」
Bombings of Hiroshima and Nagasaki - 1945  :「Atomic Heritage Foundation」
Hiroshima Nuclear (atomic) Bomb - USA attack on Japan (1945)  dailymotion
広島原爆投下  YouTube
After the Bomb  THE SURVIVORS  :「AtomicBombMuseum.org」

原爆ドーム ホームページ
原爆ドーム  :「ひろしま観光ナビ」
広島の平和記念碑   :「日本の世界遺産」
長崎原爆落下中心地(原爆落下中心地公園)1 :「ここは長崎ん町」
原子爆弾落下中心地碑  :「長崎市 平和・原爆」
【原爆投下3ヵ月後】長崎の爆心地を撮影した驚愕のカラー映像 :「gooいまトビ」
~爆心地から25km離れた諫早で目撃した「生き地獄」の忘れえぬ記憶~ :「諫早市」
永井隆(医学博士)  :ウィキペディア
永井隆記念館  :「長崎市 平和・原爆」
この子を残して  永井隆   :「青空文庫」
永井隆博士が残した被爆の記録と生き様  :「nippon.com」
アンゼラスの鐘の丘を訪ねて :「ながさき旅ネット」
長崎の鐘  :「世界名鐘物語」
NAGASAKI・1945 アンゼラスの鐘   :「虫PRODUCTION」

筒井茅乃(旧姓長井)氏による被爆者証言 YouTube
永井隆博士が残した被爆の記録と生き様 nippon.com YouTube
知られざる衝撃波~長崎原爆・マッハステムの脅威~ YouTube
原爆ドームの展示物 ~当時の恐ろしい光景が蘇える~ YouTube

【閲覧注意】広島原爆の惨状・酷さがわかる画像がガチで怖い~戦争ほどバカらしいものがないとわかる画像~ YouTube

朗読者として平和/反戦/反核を説き続ける吉永小百合、福島の詩を読みながら被災した人々の思いに寄り添う9年ぶりCD  :「Mikiki」
   吉永小百合が2011年に行った原爆詩の朗読の音声動画が併載されています。
   オックスフォード大学 朗読会
第二楽章 吉永小百合 CD :「VICTOR ENTERTAINMENT」
第二楽章 長崎から CD  :「VICTOR ENTERTAINMENT」
第二楽章 沖縄から「ウミガメと少年」(野坂昭如作):「VICTOR ENTERTAINMENT」
第二楽章 福島への思い CD :「VICTOR ENTERTAINMENT」

『第二楽章』シリーズの書籍『第二楽章 ヒロシマの風 長崎 から』が、新しく生まれ変わり新発売です!!  :「STUDIO GHIBLI」スタジオジブリ

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『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社

2016-09-10 22:24:03 | レビュー
 1月ほど前に、この「決戦!」シリーズの第4弾の『決戦! 川中島』を先に読んでしまった。この時に初めて第3弾として「本能寺」の7作家競作が出ていることを知った。そこで、遅まきながら本書を読んでみた。

 本書の表紙下部には、「その瞬間には、戦国のすべてがある。名手七人による決戦!」というフレーズが記されている。やはり、本の売り手は言葉巧みである。確かに、本能寺の変が勃発した瞬間に戦国時代が凝縮され、全てが信長の死一事への己の対処のしかたでその後の武将としての生き様がかかったのである。一人あるいは数人の有力武将のアクションが歴史的事実とは異なった選択をしていれば、歴史がどう変化していたかわからない。だからこそ、そこにすべてがある。そんな歴史的瞬間だったと言える。

 この競作の興味深さは、「本能寺の変」という史実についての断片的事実を伝える資史料を踏まえて、断片的事実間の大きな空隙を7人の作家がどう埋めるかである。誰の立場から京都に滞在する信長を眺め、本能寺の変が発生した時点で各武将が配置されていた状況をどう捉えるか。断片的事実をどのように解釈し、その空隙に筋が通り、全体を整合性のある一つの立体空間図に織りあげることができるかである。作家の選択した立場とテーマの捉え方、その発想が一つの短編としてストーリーの結実をみる。それが7人7色であり、実におもしろい。7人の作家の選んだ立場、観点から紡ぎ出された「本能寺の変」ストーリーの展開を読み、その背景を広げるとそこに当時の戦国状況の読み方のほぼ全てがあると言えるのではないか。断片的事実の認識に対し、仮設を立てて断片的事実に架橋するフィクションの紡ぎ出し方から、読者は逆に戦国時代の歴史認識への発想転換や解釈の可能性の幅を広げる楽しさを味わえる。勿論、新たな疑問が湧く契機にもなると思う。
 「本能寺の変」はやはり、戦国時代を考える上でエポック・メーキングな事件である。謎が多い故に、興味が尽きない歴史的事実だと言える。

 目次の順で、読後印象をご紹介したい。

< 覇王の血 >  織田信房の立場   伊東 潤  
  
 私は今まで、織田源三郎信房の存在を考えたことがなかった、というか、その存在すら意識しなかった。著者は、織田信長という覇王の血を引く男の立場で本能寺の変を少し搦手から語る。源三郎は永禄8年(1565)に信長の5男として生まれる。幼名は御坊丸。美濃の国・遠山景任に嫁いでいた信長の叔母・おつやからの要請で、遠山家に養子入りさせられる。武田家と領国を接する遠山家が弱体化し、武田家に降伏することから、8歳の御坊丸は武田の甲斐府中に人質の身となる。叔母のおつやは城攻めの大将だった秋山虎繁の室となる。このことが、信長の逆鱗に触れる。信長は、長篠の合戦後に続く武田攻めの過程で、御坊丸を実子のようにかわいがったおつやを磔刑に処す。
 御坊丸は武田家で元服させてもらい、源三郎勝長と名乗る。武田勝頼が長篠の合戦後の衰退傾向の中で、源三郎を織田信長への伝手として織田・武田の関係づくりに起用する。このことから、源三郎は父・信長に対面する。源三郎には、おつやを磔刑にした信長への憎しみと武田家のために一肌脱ぐという思いが原点にある。源三郎に対面した信長は、勿論源三郎の意中を確かめた上で、自害を命じる。それに対して織田家当主となっていた信忠が預り人にすることを申し出る。ここから、源三郎信房の主体的な生き様が始まる。つまり、真意を隠し、信忠の下で働くのである。信長の子供の中で、彼の能力が認められ、次第に織田家の中で、信忠初め人々の信頼を得ていく。
 岩槻城の真田昌幸の許に説得工作に行くという形で、源三郎は昌幸と再会する。源三郎と昌幸との本心レベルの話に至ると、昌幸が信長を謀殺はできるかもしれないというヒントを口にする。この発想が、源三郎を光秀に導いていく契機になるという展開。
 この小品の結末は、信忠と共に、覇王の血を引く源三郎信房もまた、二条城でなくなったという事実で終わる。信長に恨みを抱く源三郎が本能寺の変でどういう働きをしたのかについて描いた著者の発想・解釈がおもしろい。源三郎が覇王の血をどう考えたか、その点が読ませどころといえようか。

< 焔の首級 > 森乱丸の立場  矢野隆

 著者は、本能寺の変に遭遇した時、森乱成利が己の内奥にどういう思いを秘めていて、光秀の叛意がわかった後の信長の挙動をどう観察し、どう感じたかを描き出していく。
 天正10年6月2日の早暁に明智光秀軍が本能寺に来襲し、信長以下御小姓衆その他が奮戦し、信長等は焼失する寺の中でなくなったという断片的事実が残るだけである。この事実と周辺の断片的事実には大きな空隙があり、著者はそこに大胆な想像力で肉づけしていく。この時の信長の心境と森乱丸の思い、そして彼らの行動をどのように捉えていくか、それがこの短編の読ませどころである。
 私はどこかで読んだことから森蘭丸という漢字で親しんでいたのだが、幼名のランについて乱という漢字を当てるというのをこの短編で知った。諱も異なる名称の説があるようである。そこで、手許の『新訂 信長公記』(太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社)を参照すると、巻末に近い「信長公本能寺にて御腹めされ候事」の条には、「御殿の内にて討死の衆、森乱・森刀・森坊、兄弟三人」と記し、その続きに小河愛平から小倉松寿まで23人の名前を列挙している。太田牛一は「乱」を使い、校注者は「長定(蘭丸)」と注記する。乱と蘭では文字から受ける第一印象からかなり異なる気がする。なお、太田牛一の本文では、兄弟の年齢の順の表記ではない事、また「力」ではなく「刀」と記されていることを知った。歴史的な一級史料も客観的な検証が必要な事例になる。
 さて、成利はこのとき18歳、兄森長可が槍働きひとつで川中島20万石を勝ち取ったのに対して、信長の小姓として兄長可が去った旧領美濃金山城5万石を与えられる。成利は既に元服を済ませた大人であるが、小姓として未だ幼名で呼ばれ、前髪立ちのままである。成利は初陣の経験がなく、戦働きもせず、5万石に大出世した己の現状、前髪立ちの小姓姿に内心忸怩たる思いを抱いている。それ故、己の武技を鍛錬することは欠かさない。身近に仕える信長の思考、信条とその行動力に敬服し、天下に武を布くという信長の気高き夢を崇拝している。そんな成利の視点から、早暁に来襲した光秀軍に対して、信長を護りつつ戦うプロセスが描かれて行く。特に、この短編の読ませどころは、信長の発言と心理の変化を、成利がどう受け止めたかの視点から描き込まれていくところにあると思う。
 タイトルにある首級とは信長の首である。切腹する信長を森成利が介錯し、首を落とすシーンでこの短編は終わる。
 成利の視点は「主は死ぬ間際であろうと、主で無ければならなかった。神をも恐れぬ天魔。それが主である」という思いにある。
 本能寺の変で信長の死に至る場面の記録史料はないだろう。ここに著者の想像力が羽ばたいている。読了印象として、著者は本能寺が最後に爆発したという考え方はとっていないように思える。つまり、本能寺炎上焼尽という見方のようだ。

< 宗室の器 > 博多の商人・島井宗室の立場  天野純希

 島井宗室は博多の豪商であり、茶人である。徳治郎茂勝と名乗っていた31歳のとき、博多が戦火で焼尽する。蓄えた金銀と大名に貸し付けた銭の証文を携えて避難するが、一人息子を見失う。妻の登喜はその後自殺。妻子を亡くした徳治郎茂勝は剃髪して宗室と名乗り、博多の復興に尽力し、博多のためにという思いが強い。茶人でもある宗室は、名物茶器「楢柴肩衝」を所持する。それは「天下三肩衝」のひとつと称される逸品である。茶の湯御政道という信長の方針の下で、信長の「名物狩り」の対象として目を付けられている。
 島井宗室が同じく博多の豪商神屋宗湛と共に、本能寺の茶会に招かれて本能寺に泊まっている。この年、天正10年正月25日には近江坂本城での光秀の茶会にも招かれている。この時、信長が天下の名物茶器を集めた正大な茶会を催すということのために、堺の津田宗及を介して誘われたのである。そして再び6月に、千宗易を介して信長の京での茶会に誘われたのだ。宗室の立場では、それは信長に「楢柴肩衝」を狙われていることを意味する。
 この短編は、信長により再び博多が戦の炎に焼かれることの阻止と「楢柴肩衝」を信長に召し上げられたくないという宗室の思いという観点から、宗室の心の葛藤と信長への対応を描き上げる。著者は、本能寺に泊まっていた宗室を信長が腹に脇差を突き立てる場にまで導いていく。さらに、その部屋の真下の地下蔵に大量の火薬が置かれていることを信長に語らせている。つまり、著者は本能寺爆発説で本能寺の変を描いている。
 「余の首が見つからねば、光秀に味方する者は現れまい。天下はこれから先も、乱れつづけよう」(p133)と信長に語らせる。
 この短編では、天正15年6月19日、博多箱崎浜に設けられた関白秀吉の茶席に宗湛と共に宗室が招かれる場面がつづく。このとき「天下三肩衝」は秀吉の掌中にあった。茶席で宗室は「楢柴が、喜んでおりますな」と語る立場になっている。そして、宗易と宗室の会話が書き込まれる。ここに宗室を通して、著者の思念が凝縮しているのではないかと思う。

< 水魚の心 >  徳川家康の立場  宮本昌孝

 著者は三河の熱田で人質として軟禁生活を送る松平竹千代7歳と信長の関わりから書き始め、家康と信長の関係の深まり具合、その進展を描き込んで行く。そして、信長から安土と京坂における遊興の旅を勧められた家康は、供廻りとして一騎当千の強者揃いだがわずか30人ほどと出かけて行く。6月2日の朝、家康が京い向かう途中で、在京中のはずの茶屋清延を伴って戻って来た先発の本多忠勝から、光秀の謀反と本能寺での信長の死を報される。この短編は、報せを受けた家康がどう行動したかをテーマとしている。
 酒井小五郎の忠言を受け入れ、一旦三河に生還してのち、軍勢を整えて信長の弔い合戦を起こすという方針を家康は選択する。家康に同行していた穴山梅雪が途中で家康とは別の道をとりたいという。家康は了解するが、これに絡む解釈が興味深い。
 河内国交野郡~山城国相楽郡~宇治田原~近江国甲賀郡南西部~伊賀国阿拝郡北部~加太越~伊勢国(関-亀山-白子浜)~三河大浜、という経路で家康一行は三河に生還する。家康に注進するため京を出た茶屋清延が用意した銀子と、家康が信長の伊賀攻めには参陣していず、三河生まれであるが服部嫡流家の血筋である服部半蔵を家臣としていたことが、大いに役立ったと著者は言う。直接の遺恨の少なさと血縁関係を使い、金で身の安全を買うことができたということだろう。
 三河への生還は成功したが、秀吉の大返しにより弔い合戦は先を越されてしまう。
 家康は生還するなり、当然のことながら徳川領の治安、国境を固めることを優先する。そのため弔い合戦の出陣が遅れる。
 末尾は、秀吉の使者として19日に石田三成が家康の許に訪れる場面である。三成は秀吉の書状を届けにきた。さらに秀吉を上様と呼び、書状に記されぬ上様のおことばを申し伝える」として、「君臣、水魚にあられた。この先も変わらぬよう、お頼み申す」と。
 これに対して、家康が三成に投げかけた返答が秀逸である。このシーンに「本能寺の変」の家康にとっての思考と戦略が表出されていると思う。
 この短編の枠を外れるが、読後印象をさらに飛躍させると、家康の弔い合戦への出陣は単なる演出だったかもしれない・・・本能寺の変を契機に、徳川領の治安固めと領域拡大による己の勢力増大をこそ第一優先にしたのではないかとさえ感じた。

< 幽斎の悪采 > 細川幽斎の立場  木下昌輝

 細川与一郎藤孝には異母兄・三淵大和守藤英がいる。足利家の血を引く名門・三淵家の惣領である。与一郎は細川家の養子となった。三淵藤英と与一郎は共に将軍家の家臣であり、義昭を擁立した。一方、明智十兵衛光秀は、流浪の中で与一郎が養う食客のひとりとなった時期があること、与一郎の口利きで将軍家の足軽となるという経緯がある。将軍義昭が越前浅倉家に流浪の身を庇護されている折、上洛の意志がない朝倉を見限る動きが起こる。織田信長に将軍義昭を支援し上洛を唆すための役目を与一郎の依頼を受け光秀が果たす。それがその後の光秀のめざましい出世の契機となる。
 この短編は与一郎の立場からみた本能寺の変であり、与一郎が本能寺の変の仕掛け人となっていくストーリー展開である。与一郎と光秀の間に重層されていく因縁関係が本能寺の変への動因なる。その根底に細川家の格式意識と細川家の存続を第一優先する思考があると読み取れる。
 将軍義昭の家臣である与一郎は、最後は将軍側の動向を信長に報せる立場をとる。将軍追放後にその功績が評価され、京の桂川以西の地を信長から宛がわれる。その折り、将軍家縁の細川姓を捨て、地名をとり長岡と改名する。そして、本能寺の変で信長が死ぬと、剃髪し、僧号の幽斎を名乗り、弔い合戦に出陣せず、戦から一歩引き下り信長を弔うという選択をするに至る。
 将軍義昭側の動向を信長に報せることになる理由は、三淵藤英と与一郎の間で、信長には勝てぬと見切り、家を残す手段としていずれかが織田家に与するという選択を相談した結果である。どちらが与するかを決めるのに賽子(さいころ)が使われたと著者は描き出す。その結果与一郎が与せざるをえなくなった。イカサマの賽子を悪采と称するそうである。タイトルにある悪采はここから来ていると思う。また、悪采は、与一郎が各武将に仕掛けていく意図的情報の投げかけ、つまりイカサマをするという行動とダブルミーニングになっているのではないかと推測した。
 因縁と遺恨がどのように重層化していくか、そのストーリーの展開が読ませどころである。与一郎の矜持が根底に蠢いていると感じる。


< 鷹、翔る >  斎藤内蔵助利光の立場   葉室 麟

 「天正10年(1582)6月1日夜半」の書き出しから始まり、『言経卿記』の記述にあるとして「日向守斎藤内蔵助 今度謀反随一也」を最後に引用する。「明智光秀の家臣である斎藤内蔵助こそ、<本能寺の変>を起こした随一の者であるというのだ。内蔵助は生涯の最後に、美濃斎藤の名を轟かせた」という文でしめくくる。
 この短編は、股肱の臣である斎藤内蔵助利光が永年、信長の誅殺を光秀に説いてきた人物だとして、なぜ彼が本能寺の変という謀反で随一の者となったのかを綴る。内蔵助が本能寺への道を歩む途中で回想する形をとり、信長に対し積年の美濃の恨みを晴らすという理由が存在したと解き明かしていく。
 美濃国を舞台とした権力闘争の凄惨な歴史があり、そこに信長、光秀、内蔵助に至る歴代の武将の確執関係の構図が浮かび上がっていく。
 斎藤家は美濃の国主土岐家の守護代の家柄である。応仁の乱の時代、兄の急死により、妙椿が僧籍のまま家督を継ぎ、守護が留守の美濃をよく治めた。妙椿は内蔵助の祖祖父の弟に当たる。内蔵助にとって目指すべき武将としての目標が斎藤妙椿の生き様だった。
 妙椿の死後、美濃斎藤家は同族争いをし、油売りの子である道三に乗っ取られる。道三は美濃斎藤家の正系の如く振る舞い、権勢を誇る。
 明智氏は土岐氏の支族であり、美濃の動乱のおり斎藤道三方につき、道三が没落すると義龍に攻められて、一家離散した。明智光秀が幕府奉公衆となっていた時期に、内蔵助が室町御所で光秀と面識を持つに至ったと描いている。
 信長は道三の娘を嫁にするが、龍興の代になり美濃を攻略する。美濃三人衆の一人稲葉一鉄の織田寝返りにより、美濃国を手中に入れる。稲葉一鉄の娘を妻とし、美濃で雌伏し時を待つ思いだった内蔵助は、天正8年(1580)に一鉄のもとを去り、光秀のもとに移る。丹波平定後に、1万石を与えられ筆頭家老の一人となる。内蔵助の夢は信長を討ち、昔の美濃を取り戻すことにあった。
 大凡で捉えると、人間関係の構図の主要部分はこういう関係だろうが、著者は内蔵助の回想としてその経緯を詳述していく。戦国期の美濃国の政権争いの状況が詳しくわかるという副産物がある。
 著者は、光秀が内蔵助にこんな語りかけをさせる。「内蔵助、そなたは恐ろしい男だな。」「そうではないか、本能寺攻めはそなたにまかせた。すると、水も漏らさぬ手配りで信長と信忠を討ち取ったではいか」と。
 内蔵助が信長誅殺に執心した理由は、もうひとつあるのではないかと、光秀に語らせている。
 この短編では、光秀自身と信長の関係における確執や思いの要因には触れてはいない。本能寺の変には、異なる理由を持つ人々がベクトルを一つにしたハイブリッド型の起爆力が働いていたのかもしれない。この短編は言経卿が書き残した一文に着目し、断片的史実の空隙を巧みに埋めて織りあげた内蔵助像を語るという意味で興味深い。
 

< 純白き鬼札 > 明智光秀の立場   冲方 丁

 光秀が愛宕山から下り、丹波亀山城に戻り出立を命じる。分かれ道の手前の野条で全軍を停止し勢揃いさせる。かつて「泥土にまみれてなお支障なきものを贖おう」と告げた主君信長の姿を己の内に昔のままに抱く光秀が、「我、かくもまばゆきを討つ、鬼札とならん」とする謀反の確信を得る。天正10年6月1日、光秀の心中に湧出する様々な思いを記したプロローグつきの短編である。
 そして、越前国・一乗谷にある朝倉家の殿舎の場面に時を遡行させて、ストーリーが始まる。光秀が浅倉家に出仕して10年、平安で安穏な年月、眠れる10年を過ごす。足利将軍義昭は朝倉家により一乗谷で庇護されるが、朝倉家に義昭を擁して上洛の意志が見えないため、越前を去る噂が出る。そんな折、幕臣の細川藤孝が光秀に織田信長への仲介を依頼する。それは光秀には信長に血縁が通じる側面があり仲立ちの可能性があるからだった。信長の正妻となった濃姫は従妹にあたる。光秀の叔母が斎藤道三に嫁ぎ、その娘が濃姫なのだ。
 光秀は将軍上洛支援の要請を記した御内書を携えた藤孝とともに、岐阜に赴く。ここから、光秀の人生は180度転換する。光秀は、改めて義昭の幕臣となる一方、織田家から朝倉家にいたときと同額、銀500貫をもって仕えるよう打診され、受ける。それは、光秀にとり、限りなき覚醒、血気横溢する年月の始まりである。信長に馬車馬の如くこき使われる始まりとなる。能力のある光秀は、またたく頭角を現していく。
 仲立ちとして光秀が信長に面謁したとき、鉄砲の目利きについて信長に問われる。光秀の返答に対し、最後に信長が宙に放り投げるようにして「泥土にまみれてなお支障なきものを贖おう」と発したのだ。キンカンと呼ばれながら信長の命を受け動き回り、途方もない「泥」を浴びる事にもなる。元亀元年4月、金ケ崎で秀吉とともに殿軍の一員となる。そして、元亀2年9月の比叡山焼き討ちである。光秀は信長に仕えてわずか3年半で一国一城の主となる。またたくまに10年が過ぎる。それは光秀にとり苦しくともやり甲斐のある10年である。
 だが、光秀の思いと信長の思考及び戦略の間に齟齬が出始じめる。それが「本能寺の変」につながっていく要因なのだろう。後半では、光秀が想定する信長の天下布武の計画とは異なる信長の展望、矜持を持つ光秀に憤りを感じさせる信長の命令などへと進展していく。
 織田家中で出世頭と名高い光秀が、信長に折檻されたということ、信長による光秀折檻に立ち至るプロセスの解釈がこの短編の読ませどころであると思う。著者の想像力を思う存分羽ばたかせた解釈が生み出す状況展開である。通説とは大きくことなり、実に興味深い。信長が己の生き様を見切った上で、国の将来を思考しているという観点がそこにある。
 この展開で信長が光秀に告げている言葉の一端をご紹介しよう。一つは、光秀を織田信雄の補佐にするつもりであること。もう一つは、「一乗谷の平和に住まっていた頃の貴様が本来の貴様だ。それを、わしが変えてしまった。」「もう貴様には戦はさせぬ。これ以上、貴様のみに血と泥をあびさせはせぬ。もとの貴様に戻り、その英才を子孫安寧に用いよ」(p317)である。それに対し、光秀が決して口にしてはならぬことを口走ったと書き込んでいく。信長の時代観と光秀の時代観に乖離が始まっていたのだろうか。実に興味深い解釈である。断片的事実の間に語られていない空隙が大きく広がる故のおもしろさである。
 愛宕山で戦勝祈願と連歌の会を光秀は行っている。光秀が何度かくじを引き、最後に引いたくじが真っ白な紙だったと著者は記す。タイトルの「純白き」はこの何も書かれぬ白きくじをさすのだろう。そして、光秀は「我に叛意あり」という鬼札を引いたのだ。
 光秀の生き様の変転が描かれ、そこに著者独自の解釈が盛り込まれていて、読み応えがある。

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本書に関連した事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
本能寺  :ウィキペディア
本能寺跡  :「京都観光Navi」
織田信長の足跡を訪ねて  :「e-KYOTO」
『本能寺の変』を調査する  山本雅和氏 第204回京都市考古資料館文化財講座
織田勝長  :ウィキペディア
織田信忠の兄弟  :「天下侍魂 -将を語る-」
織田氏    :「戦国大名探究」
明智氏    :「戦国大名探究」
美濃明智氏一族の系譜  :「異聞 歴史館」(扶桑家系研究所)
土岐氏    :「戦国大名探究」
本能寺の変:土岐氏とは何だ!:”本能寺の変「明智憲三郎的世界 天下布文!」”
美濃斎藤氏  :「戦国大名探究」
森成利  :ウィキペディア
森長氏  :ウィキペディア
森長隆  :ウィキペディア

【茶道史】茶道御政道~茶道は何故政治に利用されたのか~
  :「習心帰大道《都流茶道教室 月桑庵》in 池袋」
島井宗室  :「コトバンク」
神屋宗湛  :「コトバンク」
楢柴肩衝  :ウィキペディア
大日本古記録 言経卿記五 :「東京大学史料編纂所」

「本能寺の変」真相を明智光秀の子孫が解説 「日本中が秀吉に騙されている」
   :「livedoor NEWS」
“明智光秀”子孫が語る「本能寺の変」(1)信長による家康討ちが発端
   :「Asagei plus」


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以下の「決戦!」シリーズの読後印象もお読みいただけるとうれしいです。

『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室  講談社


『ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する』 レナード・シュレイン  ブックマン社

2016-09-05 19:06:25 | レビュー
 著者はステージ4の脳腫瘍で余命9カ月と診断され、2008年9月6日に緊急手術を受けたという。悪性腫瘍の症状から回復した著者自ら大脳に障害がでる状況を体験している。2009年5月3日に本書の執筆を終え、5月11日に永眠したと「はじめに」に記されている。著者が晩年の7年間を掛けて取り組んだのがこの書である。

 本書はレオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を語る伝記という特徴を持つ。テーマは、レオナルドの広範囲にわたる活動の実績とその作品群、5000ページを超える手稿などを綿密に分析し、著者がその意味するところを脳の進化的発生を踏まえた現在の大脳科学の知見と連結させていくところにある。その論述がユニークである。読者は、レオナルド・ダ・ヴィンチの残した実績に対し、改めて脅威の眼差しを向けることになる。本書を読み、レオナルドの活動がこれほど多岐にわたっていたのかということを再認識した。レオナルド・ダ・ヴィンチはまさに他分野の能力発揮という点から歴史上の驚異的存在なのだ。

 著者は、本書の冒頭で、もしも芸術と科学の両分野の業績を兼ね備えた人にノーベル賞が与えられるとするなら、現在までの人類の歴史において、レオナルド・ダ・ヴインチしか該当者はいないと力説する。それを実証し論述している書でもある。そして、本書の最後は、「いまの時代を、彼は歓迎したに違いない。世界がついに自分の洞察力に追いついたと知って、たいそう喜んだことだろう」という一文で結ばれている。いまの時代とは、画像が優位を占め、多くの言葉を費やしても描写できないことを画像が一瞬ではっきりと示すという時代をさす。
 著者が、末尾の文の手前で記したことをまず、ご紹介しておく。
「レオナルドの『最後の晩餐』において、遠近法の始点はイエスの額の中心にあるのではないか。そう思うかもしれないが、違う。レオナルドはイエスの右脳の上にある一点に遠近法の中心を置くことを選んだ。彼はわたしたちに何かを告げようとしていたのだろうか。
 それともただの偶然だろうか。しかし、この絵には『偶然』など一つも含まれていない。この並外れたホモ・サピエンスは、一体何をわたしたちに告げようとしていたのだろう。
 書かれた言葉より、右脳によって処理されるイメージ・ゲシュタルトのほうが優れていることを、レオナルドは直観的に悟っていた。『君の舌は麻痺するだろう・・・・画家が一瞬で示すものを言葉で表現する前に』と彼は書いている。」(p323-324)

 著者は、レオナルドの脳機能に着目する。レオナルドの生涯の経緯を語り、その芸術作品、手稿として残された記録などを渉猟し、大脳科学の観点からレオナルドの実績を分析する。その分析はレオナルドの右脳と左脳の働きに関連づけられていく。そのために本書では、現在の大脳科学が到達している知見、つまり右脳、左脳及び脳梁の各機能を一般読者にもわかりやすい形で説明する章をところどころに挿入していく。大脳科学の知見の解説が、レオナルドの作品や手稿の事例分析においてレオナルドの脳機能の働きの説明をサポートしている。著者はこの書を通じて、レオナルドの脳の物理的構造を再構築しようと試みている。この切り口が実に新鮮である。
 
 最初に、レオナルド・ダ・ヴィンチについての歴史的文献で語られていることとして著者が列挙している事項から要点を大凡抽出してみる。
 *左利きのとても器用な男性。なお両手が同じように使えた。晩年に脳卒中を患い右手が麻痺したという。
 *「モナリザ」「最後の晩餐」「白貂を抱く貴婦人:チェチリア・ガッレラーニ」「岩窟の聖母」などレオナルドの作と確かに認められる絵画は15点ほど残っている。
 *遠近法の一つとして、アナモルフィック技法を考案した。
 *作曲家であり演奏家であった。記録はあるが音楽作品は現存しない。
 *多くの彫刻を制作したと言われるが、一つとして現存しない。
 *多数の素描が残されている。主要作品の準備段階のスケッチが何百も含まれる。
 *人体の解剖を数多く行い、精緻な解剖図を残している。
 *レオナルドが言葉で書き留めたり図解したりした物理の重要な原理は数多い。
 *科学の分野におけるおびただしい覚書やスケッチが残る。
   最初のカメラを考案し、原理を記述している。
   厚い紙に開けた針穴越しに太陽を見るようにという忠告を残す。
   酸素の働きを推測した。
   最初の二重船体の輸送船をデザインした。←20世紀のオイルタンカーの標準仕様
   土木工学と都市計画に大きく貢献。造園や庭園設計も実施。
   火炎放射器、機関銃、最初の元込め銃、砲身中ぐり装置、最初の蒸気機関砲、数人がかりで操作する巨大なクロスボウを考案。カタパルトや迫撃砲を改良。高い壁を急襲するための縄梯子を考案。史上初の戦車のスケッチも残されている。
 *レオナルドは日常的に逆向きに文字を書いていた。右から左に書く方法をとる。
 *思いついたことを最後までやり遂げないパターンを生涯繰り返す。
 *菜食主義者だった。生命を優先する考えをあらゆる生き物に広げ、あらゆる命とつながているという感覚をはっきり表明した。
 *同性愛者だったが性的欲望に身を任せることはなかったと考えている人々がいる。
  著者は、レオナルドが女性嫌いだという数多くの論評は、彼の文書を曲解していると考える立場をとる。
 *レオナルドの原作は残っていないが、一群の人々がその忠実な写しを作っている。

 つまり、レオナルドは、右脳と左脳を縦横に使い、様々な分野で活動できた特異な能力の保有者だった。著者はレオナルドの残した上記の事実の資料を分析し、レオナルドの右脳と左脳の構造に肉迫していく。

 レオナルドの脳の構造について、著者が結論づけている見解をいくつか取り上げてみよう。その論証過程は本書をお読みいただきたい。そこに著者の真骨頂がある。
 *右脳と左脳のどちらかが優位というパターンはレオナルドにはあてはまらない。
  レオナルドの脳の2つの半球は桁外れに緊密に結びついていた。
 *レオナルドの脳梁が、半球同士を結びつける過剰なニューロンでかなり膨れ上がっていたことを示す。
 *レオナルドは遠隔透視の超能力を持っていた初期の時空旅行者だと考えると、残された手稿や地図の描写などで納得のできることがある。

 結論的として、著者はレオナルドの脳の働きは、数百年から500年もの時代の先取りをしていたという。そこにレオナルド・ダ・ヴィンチの偉大性があると共に、悲劇があったのだろう。レオナルドの能力をその時代の何人も正当に評価できなかったのである。
 レオナルドの絵画やスケッチという画像に組み入れられた概念や技法は、数百年後、「アヴァンギャルド(前衛派)」と呼ばれた現代美術の特徴的なスタイルの前兆を内包している。「モダニズム」と呼ばれるものに直結する類似点があるという。レオナルドの芸術は不思議な先見性を秘めているのである。
 科学の領域に目を転じれば、レオナルドは原理を発見し、様々な分野で物や装置を考案し、スケッチを描き、概念を書きとめた。しかし、それらを実現する世の中の技術が無かった。「レオナルドが機械による産業革命に350年も先んじていたこと」(p215)に、彼の悲劇性があるといえよう。人体についての考察もまた同様である。
 
 一方で、著者はこう記す。「彼は自分の天分に気づいており、自分が売りに出せる最大の資源は、想像力と独創性であることを理解していた。彼が生きていた時代には特許権というものは存在せず、発見は盗まれて、誰か他人の金銭的な利益や名誉のために使われる可能性があった。自分を技術者や建築家、設計士として売り込めるかどうかは、苦労して得た知識の多くを秘密にしておけるかどうかにかかっていたのだった」(p191-192)と。レオナルドは自分が実験・観察しまとめたものを本の形で出版することを考えていたそうであるが、69年の人生では時間が足りず、実現しなかった。「手稿を出版できなかったため、レオナルドはその後の科学者の想像力を刺激することができず、歴史家の関心に火をつけることもできなかった」(p193)と著者は結論づけている。一言でいえば、時代を先取りした能力を発揮した故に時代にマッチしなかった偉人(異人)だったということなのだろう。

 こんな指摘もしている。
 *「レオナルドが書いた何千ページにものぼる手稿のどこにも、彼個人の美の概念は明確には述べられていない」(p181)
 *「レオナルドの脳を分析しようとしても、そこから断言できることというのは、ほとんどない。とは言え、この微妙なテーマに関する状況証拠ならたくさんある。」(p279)
 *「左利きで、両手が自由に使えて、鏡文字を書いたことは、脳の片側が優位にあるのではないことを示す。誰もが肉を食べていた時代に菜食主義にこだわったことは、全体論的な世界観を示唆する。左右の脳の半球が同等であることが、芸術と科学における史上並ぶもののない業績に貢献した。彼の脳のユニークな配線は、世界を高次の見晴らしの良い地点から体験する機会も与えた。」(p294)

 脳の構造という興味深い観点から光を当てられて、レオナルド・ダ・ヴィンチの全体像を眺めるというのは、そのこと自体がかなりユニークだと感じる。それと同時にレオナルドの生涯の行路および彼の活動の全範囲をも知ることができる本として有益である。副産物は現在の大脳科学の成果を一般読者として知ることができることにある。レオナルドに親しみつつ、彼の存在を再認識し、知らなかったことを数多く知ることができる本である。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる語句から、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ニューロン :「RIKEN BRAIN SCIENCE INSTITUTE」
神経細胞  :ウィキペディア
大脳皮質のおはなし  :「Akira Magazine」
右脳と左脳の違い  :「脳のお勉強会」
右脳派とか左脳派とかないから。脳に関する8つの誤解 :「カラパイヤ」
脳梁の発生  :「脳科学辞典」
分離脳の研究 :「Sophia University Media Center」
優位半球・劣位半球 :「脳科学辞典」
大学等におけるゲノム研究の推進について(報告) :「文部科学省」
閃光融合  :「asta muse」
遠隔透視  :ウィキペディア
アンドレア・デル・ヴェッキオ :ウィキペディア
Filippo Brunelleschi Florence building Cathedral technology is timeless
フィリッポ・ブルネレスキ  :「欧亜州共同体」
レオン・バッティスタ アルベルティ『絵画論』 :「鈴村智久の批評空間」
聖アンソニーアボットとサン・ベルナルディーノ・ダ・シエナ :「Wahoo Art .com」
ルドヴィコ・スフォルツァ  :ウィキペディア
ジャン・ジャコモ・カプロッティ  :ウィキペディア
フランチェスコ・メルツィ「女の肖像」  :「ミレーが好き」
チェザーレ・ボルジア  :ウィキペディア
ニッコロ・マキャヴェッリ  :ウィキペディア
フランソワ一世   :「中世を旅する」
アザー・クライテリア  :「artscape」
② マルセル・デュシャン その3「階段を下りる裸体No.2」 :「やさしい現代美術」

最後の晩餐 :ウィキペディア
岩窟の聖母 :「LOUVRE」(ルーヴル美術館)
白貂を抱く貴婦人の肖像 :「Salvastyle.com」
モナ・リザは世界初の3D画像だった!? 2つ並べて眺めてみると…!!!
         :「知的好奇心の扉 トカナ」
「モナ・リザ」の微笑みの謎がついに解明される! ダ・ヴィンチが施した驚愕の錯視効果が明らかに!!  :「知的好奇心の扉 トカナ」
東方三博士(マギ)の礼拝 :「LOUVRE」(ルーヴル美術館)
聖ヒエロニムス  :「レオナルド・ダ・ヴィンチのノート」
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた大量の解剖図デッサン画 :「カラパイヤ」
レオナルド・ダ・ヴィンチの芸術的解剖学
ウィトウィルス的人体図  :ウィキペディア
レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖手稿  弘前大学大学院医学研究科
日美 レオナルド・ダ・ヴィンチ~驚異の技を解剖する   YouTube
日美 レオナルド・ダ・ヴィンチの原点 「受胎告知」  YouTube
『レオナルドの絵画論』 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
遠近法 :「MAU造形ファイル」
スフマート  :ウィキペディア
アヴァンギャルド  :「artscape」
モダニズム     :「artscape」
サン テュベール礼拝堂 (レオナルド ダ ヴィンチの墓) :「YAHOO! JAPAN ロコ」

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