遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『黒髪と美女の日本史』 平松隆円  水曜社

2013-08-29 13:34:24 | レビュー
 黒髪が大和撫子のシンボル、長い黒髪が美女を象徴するというイメージは、はやかなり古い時代の話のようになってしまった。
 著者は、「はじめに」で、明確に本書の意図を記している。「髪について知ることは、それぞれの文化や社会の変化を描き出すことにもつながる」と。そして、「髪に関する現象には、髪に対する感情の段階、社会と文化に規定される個人の段階、社会と文化の段階がある。その構造を踏まえながら、髪にはひとびとの身分や生き方が如実に反映されてきたという歴史から社会の変遷を、またひとびとのもつ無意識の戦略について論じることで、髪からひとと社会の関係を読み取ってみたい」と書いている。

 著者は黒髪に対して古代から日本人の価値観、美意識がどうだったのかについて、文献に現れた章句、表現を縦横に引用しながら論じて行く。黒髪から眺めた日本の歴史というユニークな視点がおもしろい。なるほどと、目から鱗という局面が多々出てくる。

 第1章が「ポンパ巻き貝ハーフアップ、くりくりエリ巻きトカゲ、リゾートすだれアレンジ・・・・」などという、あれっと思う髪形名称の羅列から書き出されているので、流行音痴の私は一瞬戸惑った。章見出しが「『盛り髪』の流行」なのだ。著者は、この巻き髪、巻きから盛りへの流行について、「もっとかわいくなりたいと、髪を盛る。しかしこれは、今にはじまったことではない」と断言して章を閉じる。そして、読者をぐいと歴史的視点に引きずり込む。

 第2章の見出しは「昔は、人生の節目に髪を削いだ」である。そして、昔から結髪は自然に行われていたし、「歴史的に女性は、髪をできるだけ長く、そして結ばないでいた。髪を結うことが美しいとは考えられていなかったからだ」と論を進めていく。
 髪という視点で古典文献に着目することで、ここまで「髪」についてもさりげなく触れられ、論じられてきていたのかと、思いを新たにする次第。第2章以下、著者は、紫式部日記、源氏物語、枕草子、古今和歌集、好色一代男、「群書類從」所載の文献、竹取物語、万葉集、伊勢物語などなど、それら文献の時代をひょいひょいと行き交いながら、論じていく。今列挙した文献は、第2章で引用されている箇所のソース。それ以降の章には、初めて目にする文献が多数出てくる。
 ある観点に立ち、文献を渉猟することがどういう効果を生み出すか、また論理展開の納得性を強化するうえで文献引用の有益さがわかってくる。なるほど・・・・である。

 本書の章立てをまず書いておこう。
 第 3章 長い黒髪は美人の条件
 第 4章 髪の長さは身分に関わる
 第 5章 武家社会で認められた結髪
 第 6章 結髪が美の対象へ
 第 7章 女髪結の登場と髷の多様化
 第 8章 より美しく、華やかに
 第 9章 結髪が害となる
 第10章 削ぐことの自由
 第11章 盛り髪も髷も、心は同じ

 第2章では、髪にまつわる様々な儀式が通過儀礼としてあったことがわかる。髪置、髪削ぎ、髪上げ(初笄)、そして、「髪を敷いて寝る」ことの意味など。

 第3章では、平安文学の表現では、美しい髪の長さは6尺以上だったことをまず知った。顔そのものの美形さよりも、髪の長さが美人を規定していたようだ。そういえば、平安期の絵巻物などでは、女性の顔形はあまり描かれず、せいぜい斜めからの横顔、後髪姿が大半だ。
 一方、物理的には「一般的に、髪の長さは1日平均0.4ミリ。1年で約10センチ。髪の寿命は3年から5年といわれる。伸びても、50センチにも満たない」(p26)そうだ。
 艶やかな黒髪が美人の条件、一方で、黒くない髪、短い髪は不美人の象徴だったのだ。如何に時代背景が髪に対する審美眼と結びついているかがよくわかる。時代が変われば、髪に対する価値観は変わる。平安時代視点でみれば、現代は「不美人」のオンパレードなのだ。われわれの意識が、「時代」という背景にどれだけ縛られていることか・・・・・それを理解するうえでも、髪の歴史を通覧してみる意義があるのではないだろうか。本書は、おもしろくて楽しい読み物にもなっている。文献的裏付けがあり、図版もさまざまに引用されていて、参考になる。
 この章には、美しい髪を手に入れるためには、どんなことでもしたという人びとの行動を文献から発見してきている。いつの時代も人のこころは同じなんだ。努力のしかた、方向はことなるのだが、心理傾向は一緒ということか。

 第4章では、髪の長いことが、日常生活で何も自ら手を出さないですむ立場、身分の高さを示していたということだと説いている。清少納言が髪の短いことについて、ハッキリと断言しているそうな。「髪が短いことが醜いとするのと同時に、身分の低い女性の髪は短くしておかなければならないことを意味している」と著者は読み取っている。
 働く女性は髪が短いのだ。活動的であるには、やはりそれは合理的だもの。だけど、平安時代感覚では、身分が低いことの象徴でもある。
 
 第5章では、武家社会に時代が移る。合戦中心に時代が動いていけば、当然髪の処置が重要になる。結髪が認められるようになるのは、合理性の追求では必然か。
 「笄そのものは、もともとは頭を掻く物だった」という一文、その説明を読み、目から鱗でもあった。髪に関わる小道具の来歴などもみていくと、楽しくて興味がつきない。まさに蘊蓄話である。

 第6章以降から、興味深いあるいはおもしろいと感じた説明文をいくつか、ご紹介しよう。関心を抱かれたら、本書を手に取り、具体的に読み進めていただくとよい。引用箇所の理解促進のため、一部要約も付記しておこう。

 第6章から
*喜田川守貞による『守貞謾稿』には、天保期(1830年~1844年)の髪形として、未婚女性は島田髷、既婚女性は京や大坂では両輪髷、江戸では丸髷が正式とされていたとしるされている。 p71
  →付記:島田髷については、女歌舞伎役者の島田花吉説、東海道の嶋田宿からの連想説を紹介している。勝山髷は人名由来説が一般的だとか。人名由来の場合は、歌舞伎役者か遊女という共通点があるようだ。(p70-74)

*(出雲)阿国のはじめた歌舞伎も、煽情的な芸だった。 p75

 第7章から
*山東京山の『蜘蛛の糸巻』によると、明和期(1764年~1771年)に、山下金作という女形の歌舞伎役者が江戸深川に住んでいた。この女形の鬘付(かつらつけ)が、贔屓(ひいき)にしていた遊女の髪を役者のように結ってやった。その髪形が、あまりにも見事だったので、遊女の仲間も金銭を支払って、自分の髪も結わせた。それが繁盛したため、ついに鬘付をやめて髪結になったという。そして、この髪結の弟子に、甚吉という者がいて、さらに甚吉が女の弟子をとって遊女を結って回った。これが明和7(1770)年頃で、女髪結のはじまりとする。  p80

*文化10(1813)年に刊行された式亭三馬の滑稽本『浮世床』では、結髪の値段は32文となっている。この頃の下女の給金が日当50文だったといわれている。 p86
  →付記:徳川時代後期、最も安くて16文とある書にしるされているそうだ。(p87)

 第8章から
*討ち取られた首の髪を、櫛のみねでたたいたことから、現代においてもみねを髪にあてることは、忌み嫌われる。 p94

*うなじには、白粉が塗られた。その塗り方によって、二本足や三本足とよびわけられる。白粉によって、うなじの生え際が二本になっているものを、京や大坂では二本足とよび、江戸では一本足とよんだ。うなじの山形を、京や大坂では上から数え、江戸では下から数えたことが、数の違いとなった。  p100

*装飾品には、櫛、簪などがある。櫛は、髪を梳るための道具だ。それが、徳川時代中期以降、飾りとして用いられるようになる。 p100
  →付記:櫛は『古事記』にすでに記載があり、延喜式にその制作の記載があるとか。(p100)

 第9章から
*渡辺鼎は、野口英世の手を治した医師として有名で、石川暎作は記者でアダム・スミスの『国富論』の翻訳者として知られる。ともに福島県耶麻郡西会津町出身のふたりが婦人束髪会を結成し、女性の結髪に対する改良の提唱をはじめた。  p112
 →付記:従来の結髪法が、不便窮屈で苦痛、不潔汚穢で健康上有害、結髪代が高くかかり不経済と論じ、新しい束髪を提唱したという。『束髪案内』を出版したとか。(p112)
*明治4(1871)年、岩倉具視を特命全権大使とし、・・・総勢170名で構成された使節団が、アメリカやヨーロッパを歴訪する。・・・11月12日の出航のとき、岩倉具視ただひとりが、着物姿で髷を結っていた。岩倉具視は、髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいたといわれている。 p120-121
 →付記:サンフランシスコで撮影された写真が掲載されている。中央で岩倉具視一人が和服・髷の姿である。木戸孝允、伊藤博文、大久保利通などが洋装・断髪の姿で一緒に写っている。その岩倉もシカゴに着いた頃に断髪したようだ。洋装・断髪の写真も載っている。その断髪の事情が記されていて、おもしろい。(p120-123)

 第11章から
*18世紀、フランス貴族の女性の髪は、前髪を高くし、飾りをつけて巨大化していた。マリー・アントワネットの髪結だったレオナール・オーティエは、新しい髪形を次々と考案した。 p152

*髪を大きく結うことができることと、経済的地位の高さは関連している。それは自らの手で結うのではなく、髪結の手に委ねる必要があるからだ。そして、他者よりも自分の方が注目されたい、かわいくなりたいと競争が働く。  p152

*髪を盛り、頭にボリュームを与えることは、顔を小さく華奢にみせる効果もある。顔が小さいと、かわいくみえるからだ。 p153
 →付記:著者はもちろん、その理由にも言及している。なるほどと思う。(p153-154)

 著者は髪の長さや髪形、装飾品について語っている。しかし、なぜか黒髪から髪を染めることへの変遷、その心理や価値観については言及していない。今後の研究テーマということなのだろうか。
 いずれにしても、「黒髪」の日本史を通覧すると興味深いものだ。


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髪に絡んで関心を広げてみた。本書を離れるかもしれないが、検索結果を一覧にしておきたい。インターネットで結構情報が集まるものだ。おもしろい。

髪形 世界大百科事典 第2版の解説 :「コトバンク」
日本髪 :ウィキペディア
日本髪の基礎知識  :「*ステキ日本髪*本館」
日本髪の髪型の各部名称 :「日本髪かつら覚書」(株式会社辰巳商会)
  日本髪かつら豆知識 
日本髪の歴史
日本髪資料館 :「京都観光Navi」
  「日本髪の変遷を通して、女性の歴史に触れる」:「伊藤久右衛門」
日本髪を結うこと自体に必要な最初の準備 :「もものかんばせ 日本髪日和」
成人式・卒業式で日本髪 :「もものかんばせ 日本髪日和」

髪結い :ウィキペディア
史料室 歴史編 :「ZENRINREN」
 近代理容篇、髪結職篇、外国篇の3つの歴史篇としてまとめられている。参考になる。
床屋の歴史 :「理容室検索ナビ」

岩倉使節団 :ウィキペディア
 この項に、岩倉具視の髷の写真が掲載されていることを見つけました。
散髪脱刀令 :ウィキペディア
 この項に、岩倉具視の洋装・断髪姿の写真が掲載されています。髷姿も!
ちょんまげから見る文明開化 太田健二氏  pdfファイル

婦人束髪会 :「国立国会図書館デジタル化資料」
べっ甲商、小間物商に打撃を与えた「大日本婦人束髪図解」:「ジュエリー文化資料」
自由なヘアスタイルのはじまり~大正時代-髪型編Ⅰ~ :「ポーラ文化研究所」
自由なヘアスタイルのはじまり~大正時代-髪型編Ⅱ~ :「ポーラ文化研究所」

ヘアスタイル HAIR STYLE INDEX :「Beauty-Box.jp」
ヘアスタイルをさがす :「ら・し・さ Rasysa」

マリー・アントワネット物語展 :「Internet Museum」
ガリア服を着た王妃マリー・アントワネット: From Wikipedia, the free encyclopedia

Hairstyle : From Wikipedia, the free encyclopedia
List of hairstyles : From Wikipedia, the free encyclopedia


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『藤原道長の日常生活』  倉本一宏  講談社現代新書

2013-08-27 21:03:52 | レビュー
 藤原道長という名前を聞き、学生時代に学んだことを思い浮かべると、ほんの上っ面のことしか知識にない。平安時代に摂関家の一員として生まれ、長じて藤原氏の「氏の長者」となった。自分の娘たちを天皇の皇后や皇太子妃として送り込み、天皇の外戚としての地位を確立した。そして、政治を掌握し権力を振るった。『御堂関白記』という日記を残している。そして、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」という歌で、わが人生を謳歌している。こんなことくらいである。それで、藤原道長という人物像のイメージを勝手に作り上げている。

 著者は、藤原道長の『御堂関白記』の全現代語訳、さらに藤原行成の『権記』の全現代語訳を手がけた学者である。本書のプロフィールによれば、専門は日本古代政治史、古記録学だそうである。この藤原道長の自筆日記「御堂関白記」がユネスコの「世界記憶遺産」に登録されたのは、ごく最近のホットな話題である。そのせいか、現在9月8日まで,
東京国立博物舘で一般公開されている。
 おもしろいことに一方で、滋賀県東近江市の近江商人博物館では、昭和11年(1936)に作成されていた自筆日記「御堂関白記」の複製品一組がこの8月18日まで展示されていたようだ。

 本書はその藤原道長とは本当はどんな人物なのか、に取り組んだものである。誰にでも職業・仕事を通した世間との関わりという公的な側面と家庭、家族、友人たちとの関わりである日常生活という私的側面を持っている。それらの両面をとらえ、総合してこそ一人の人間が見えてくる。それを、藤原道長にも当てはめて、この歴史上の著名人を藤原道長個人という等身大で眺めようとしている。だから、藤原道長の「日常生活」というタイトルになったようだ。

 本人の書いたこと、言ったことだけを読んでみても一面しか見えない。他人が述べている情報、それもかなり客観的に書いている情報と対比総合してこそ、見えてくるものがある。そこで、来歴・背景が明瞭な古記録、一級史料として、主に、藤原実資(さねすけ)の『小右記』と藤原行成(ゆきなり)の『権記』を『御堂関白記』と併読して対比分析を加えながら、著者は道長像をあぶり出していく。
 記録事実に即しながら、それを対比したり補完したりしつつ整理統合し、著者の視点から解釈、解説を加えていく。読んでいてわくわくするような類いの本ではない。だが、一面的なイメージしか抱いていなかった歴史的人物を、様々な観点から光を当てて多面的に見つめられるということは、興味深いものである。道長もある意味で、喜怒哀楽の中に一喜一憂していた普通の人間だったのだなということが見えてくる。そして、政治の頂点に立つことからの複雑性を持っていた人物だと・・・・。
 著者は、「おわりに」において、こう述べている。「小心と大胆、繊細と磊落、親切と冷淡、寛容と残忍、協調と独断。それらの特性はまた、摂関期という時代、また日本という国、あるいは人間というもの自体が普遍的に持つ多面性と矛盾を、あれほどの権力者であったからこそ、一身で体現したゆえであろう」と。

 本書は序章において、道長の略歴と『御堂関白日記』を紹介した後、6章構成にして、6つの観点から分析していく。つまり、1.道長の感情表現、2.道長の宮廷生活、3.道長の家族、4.道長の空間、5.京都tぽいう町、6.道長の精神世界、である。

 本書から知った道長の実像の一端を要約でご紹介しよう。単に私が特に興味を持ち、おもしろいと思う局面だけのことにすぎないが・・・・。その具体的事実、事例記載は本書でご確認いただきたい。私がミスリードしていないか検証していただくためにも。どの箇所からそう受け止めたかの大凡としてページを表記しておこう。
・道長自身が、「臣は声望が浅薄であって、才能もいいかげんである。ひたすら母后(詮子)の兄弟であるので、序列を超えて昇進してしまった」と語ったというから、驚きである。 p12
・立后や立太子についてはかなり強引だったが、日常の政務運営は強気で行動していなかったようだ。政務にからんで愚痴も結構言っていたとか。 p37
・道長は重要事項や自分の権力に関係する事項については、天皇の最終決定の大きな影響力を行使した。そこは自己中心だったようだ。 p62-63
・結構、感激屋であり、呪詛がからむと弱気になることが多かったとか。 p26-38
・道長ほどの権力者でも、確認できる正式な妻は2人だけ(源倫子、源明子) p122
・道長は実に数多くの邸第を保有していた。著者は13ヵ所を例示している。それ以外にもあり、さらに牧や荘園を領有していた。p145-146
・焼亡した土御門第の再建には、内裏造営と同じ方式を採って、諸国の新旧受領に造営割り当てを行ったとか。実資が日記で憤慨した旨を記しているとか。 p149
・道長は交通の要衝の地に別業を持ち押さえていた。西:桂山荘、東:白河院、南:宇治別業。 p156-157
・道長は行動派。近畿一円の数多くの寺社参詣を行っている。また、寺の建立も。藤原氏の菩提寺として宇治・木幡に浄妙寺。土御門第の東に法成寺を。こちらは当時の仏教界を統合する総合寺院だったとか。 p158-172
・道長の信仰心は深くまた広がっていた。鎮護国家仏教、密教、法華信仰、浄土信仰すべて採り入れている。奈良吉野の金峯山詣では経塚供養をし、最後は浄土信仰に重心を移したようだ。5日で70万遍の念仏を称えた記録を書き残しているとか。 p219-226
・夢想を口実に使い、夢解きをしたり、また触穢(しょくえ)の風習を自分の都合で守らないことも行っているようだ。 p232-236
・道長は寛仁3年(1019)3月21日に出家し、万寿4年(1027)12月4日に死亡した。だが、出家後も、「禅閤」と呼ばれ政治権力は行使し続けたという。 p260-270

 また、道長の生きた時代の環境・状況について、かなり具体的に説明されている点に特長がある。学んだことの一端は次のような事実だ。
・意外と平安貴族には休日がめったになく、儀式や政務が連日深夜に及んだとか。 p47
・儀式は先例遵守が最大の政治の眼目。だからこそ、日記が膨大に残されているという事のようだ。日記の主目的は公務記録。それ自体が先例になるのだから。 p47
 行政事務も儀式の一つ。先例を守り礼儀作法を整えて事務を行う。 p64
・中央官人社会での栄達が唯一の子孫存続への道。それ故、「除目(じもく)の儀」(人事)に最大の関心が集まった。そこも先例重視が基本。 p48-52
・太政官の政務手続きには、政(まつりごと)と定(さだめ)がある。
 具体的には、朝政・旬政・官政・外記政と御前定・殿上定・陣定(じんのさだめ;近衛陣座でおこなわれた公卿会議)であり、定(議定)で実質的に重視されたのは陣定。ただし、ここに議決権や決定権はなかった。  p46-60
・道長の時代は式次第の確立時期であり、九条流・小野宮流などの家による儀式の流派の発生も見られたとか。p64-78
・当時の貴族は、儀式に際して必要な装束や装飾を、互いに貸し借りしていたそうだ。その最大の借り出し先が道長だという。 p90
・894年の遣唐使発遣中止後も、「唐海商」「入唐僧」によって日本と唐および宋との交流は継続されていた。 p97-104
・道長の時代、内裏の焼亡が頻繁に起こっていた。その都度、天皇等は多くの場合、外戚の摂関の邸第に遷御し、そこを里内裏とした。その間、家主は他所に移った。p135-144
・世界遺産に登録されているわが地元にある宇治上神社。その拝殿が、道長の頃の住宅建築様式をよく伝えているものだという。  p153
・平安京という名に反し、天災や疫病の災害および事件が結構頻繁に発生していたこと。 p174-216

ほかに細々とした諸点も含め、日記に記載の事実を克明に拾い上げ、比較考量した事例が累々と語られている。実に研究者の仕事のしかたがよく伝わってくる。

 最後に、「この世をば」の歌について触れておこう。著者は、実資が『小右記』に記載した記録からこの詠歌の経緯がわかるのだと言う。寛仁2年10月16日に行われた威子立后の本宮の儀の穏座(おんのざ)で歌われたもので、あらかじめ準備されていた歌ではなく、即興的にその場で詠んだもののようだ。実資はこの歌が詠まれた後、返歌をせずに、返歌できない理由を、白居易の事例を喩えに出して、歌が優美だから皆で吟詠しようと答えて、数度吟詠したという事実を記している。翻訳での引用だ。実資の記録には、この歌に対する批判的意見はなさそうだ。時代を経て、この歌のイメージだけが一人歩きしてしまったということか。
 ルーツ、事実を究明していく事のおもしろさは、こんなところにあるのかもしれない。
 事実の列挙で、少し読みづらさがあるものの、藤原道長という一人の人間を多面的に眺めてみるには有益な入門書だ。学者の古記録研究方法の一端に触れることのできる側面も参考になる。


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 本書に関連する語句をいくつかネット検索し、周辺知識を広げてみた。検索結果を一覧にしておきたい。

藤原道長 :ウィキペディア
糖尿病と藤原道長 :「古今養生記」
藤原道長 :「知識の泉」

「御堂関白記」及び「慶長遣欧使節関係資料」のユネスコ記憶遺産登録審議結果について :「文部科学省」

法成寺跡 :「京都風光」
里内裏  :「京都通(京都観光・京都検定)百科事典」

藤原道長家族の葬送について  栗原弘氏 名古屋文理大学紀要第5号
金色に輝く藤原道長の経筒 :「京都国立博物舘」
藤原道長-極めた栄華・願った浄土- :「京都国立博物舘」
 2007年 特別展覧会 金峯山埋経一千年記念

国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース
  『御堂関白記』と『権記』の訓読文
  ただし、このサイトに関して、データベースの閲覧は利用申請が事前に必要です。



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『構図がわかれば絵画がわかる』  布施英利  光文社新書

2013-08-24 13:32:05 | レビュー
 本書の末尾に著者は書く。「絵画はモノですが、ただのモノではありません。たとえば絵画には、構図があり、それは宇宙にまでもつながっていくのです」と。つまり、絵画の構図に目を凝らせば絵画が見えてくるはずだと主張する。

 著者は絵画の構図を、次の図式で展開している。
 STEP1 平面  「点と線」がつくる構図  点、垂直線、水平線
         「形」がつくる構図  対角線、三角形、円と中心
 STEP2 奥行き 「空間」がつくる構図 一点遠近法、二点遠近法、三点遠近法
         「次元」がつくる構図 二次元、三次元、四次元
 STEP3 光   「光」がつくる構図  室内の光、日の光、物質の光
         「色」がつくる構図  赤と青、赤とと黄色、白と黒

 各セクションで、有名な絵画を採りあげ、時には西洋絵画と日本の絵画を対置して、共通にみられる構図を抽出する。
 最初のわずか3ページで、フェルメールの『デルフトの眺望』の左下に小さな黒い点のように描かれた二人の人物の画面全体における重要性を語る。構図ということについて、ウッと惹きつけてしまう。そして、ブレッソンの写真の構図に引き次いでいく。著者が自分の目で直に見た世界各国・各地域の確かな絵画その他が縦横に俎上に上ってくる。

 著者は「地球の水平線、重力、自転、公転、さらには太陽など、地球と宇宙にある世界を、その基本的なものを、絵画の画面に造形したものが、構図だったわけです」(p194)と語る。絵画が宇宙につながるのはこの構図に潜むのだ。
 そして、最後に人体について語る。古代キクラデス彫刻から語り始め、西洋美術における人体表現に触れた後、アジアの仏像の根源に迫っている。「なぜ、仏像は誕生したのか」と題して、著者流に釈迦の生涯を辿るという横道に入り込むのも、おもしろいところである。

 私は、本書で「美術解剖学」という領域を知った。著者の専門分野なのだ。なんと、この分野を初めて講義したのが、あの森?外だったと教えられ、おもしろいなと思った。dai第8章で著者は「美術解剖学」について解説している。「体幹の骨格」を解剖するとして、人体の形態や構造の中にある「構図」を論じている。それが美術解剖学の領域だとか。そして、脊柱、胸郭、体肢と展開している。そして、「脊柱」をきちんと美術で表現したのがモディリアーニなのだと例示する。その説明を読むと、なるほどなあ・・・と思う。おもしろい。モディリアーニの描く人物の肩幅が狭いことの背景もわかっておもしろい。

 色彩の構図という観点では、ムンクの『叫び』とダ・ヴィンチの『モナリザ』の色彩の対比を論じている。こんな視点でこの二つの作品を眺めるなど、思いもしなかった。同様に、思いもしない発見への導き、視座が数多く含まれていて興味深い。
       
 著者の主張、説明する要点を抜き書きしてみる。そして、少しの補足と。

*ストゥーパには「円」があるのです。それは宇宙なのです。  p76
*遠近法で描くのは「その技法によって、自分の視点は大地に対してどこに位置しているか、をあきらかにすることでもあるのです。」p86
*二点遠近法 「より強固に、地平線の存在と位置が、描き出され、認識されることになります。」p90
*遠近法は、奥行きや、高さを表現します。しかし、それはあくまでも、絵画の画面の中のイリュージョンに過ぎません。絵画は、あくまで二次元の平面に描かれた、幻の世界なのです。そして、このイリュージョンの化けの皮を剥がしてみれば、そこに見えるのは、消失点に向かって収束していく、線の集まりです。つまり構図です。 p96
*絵画の基本は、原点は、二次元です。そして二次元だからこそ、ときにそこに三次元の奥行きやかたまりというイリュージョンがうまく描かれると、驚きが生まれるのです。あくまで、絵画の前提は「二次元」です。  p106
*セザンヌは、絵画にとって大切なのは「深さ」の感覚だと言っています。 p112
 この「深さ」とは、単に空間が奥へと続く深さです。 p112
  著者は、セザンヌの絵には「複数の視点」があり、消失点がたくさんあると言う。
  セザンヌの絵は単なる遠近法技法ではないのだと。
*絵の画面に対して、正面から、斜めからと、いろいろな方向から見ると、絵の中の空間は違ったふうに見えてくるのです。 p113
  『サント・ヴィクトワール山とアーク川渓谷の橋』メトロポリタン美術館
  長谷川等伯『松林図屏風』の空間表現
  を事例に解説を加える。東洋と西洋の絵画を統合して眺めていくのがおもしろい。
*変わるものがあるから、それに照射されて、変わらないものが見えてきます。  p14
  クロード・モネ『積みわら』連作を事例にした説明がある。 
  積みわらが変わらないから、日の光の変化が浮彫になると言う。なるほど!
*絵は、本物を見る以外に、意味はない。そういう、実体験が持っている意味を忘れたら、美術の大切な何かを見落としてしまうからです。  p156-157
  本書の事例はすべて著者が原作品を直に鑑賞して研究した成果のようだ。
  現物を見たという確固たる意識が随所に感じ取れる。一般書のおもしろさか。
*色には、空間の秩序をつくる力があります。それが、画面に空間の構図を生み出すことにもなります。は遠く、赤は近くを感じさせます。そして、その基本原理を応用することで、色彩による造形言語が生まれます。
*私たちの周りには、宇宙があります。その形やリズムがあります。構図は、それを要約し、目に見える、耳に聞こえるものとする装置なのです。そのとき、芸術作品は、宇宙と響き合い、宇宙をかいま見させ、そして宇宙そのものになります。構図がしていることは、それです。その、たった一つのことなのです。  p192

 絵画は「小さな宇宙」であり、二次元のキャンバスに宇宙を見せるのが構図なのだと論じている。構図という視点を鮮明に持つことで、絵画の鑑賞が深まりそうだと感じた。展覧会で本物を見るときに、この視点を少しでも意識的に活かしていこうと思う。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に事例引用・解説されている作品からいくつかを検索してみた。また、関連語句なども少し検索した。その一覧をまとめておきたい。

「デルフトの眺望」 :「Salvastyle.com」
「デルフトの眺望」 :「BLUE HEAVEN」
キクラデス文明 :ウィキペディア
キクラデス美術館 MUSEUM OF CYCLADIC ART
アメデオ・モディリアーニ :「Salvastyle.com」
美術解剖学 :ウィキペディア
叫び(エドワルト・ムンク) :ウィキペディア
叫び(The Scream) 1893年 :「Salvastyle.com」
モナ・リザ :ウィキペディア
【隠された謎】モナ・リザの秘密、噂まとめ【微笑みについての説】:「NAVERまとめ」
  モナ・リザの研究は幅が広そう。おもしろい諸説を紹介しています。
大ストゥーパ 第1塔:「インドing」
サーンチーの仏教遺跡  神谷武夫氏
Mont Sainte-Victoire and the Viaduct of the Arc River Valley
 :From Wikimedia Commons, the free media repository
三次元こそわれらが故郷 :「そのスピードで」
松林図屏風 :ウィキペディア
積みわら :ウィキペディア
Examination: Monet's Wheatstacks :"ART INSTITIVE CHICAGO"
Wheatstacks, Snow Effect, Morning, Claude Monet :YouTube
 これはGetty Museum の動画。この美術館は数多くの動画をYouTubeで公開しています。 
アクセスはこちらから。いま、305本だとか。
一例は Art Out and About ← おもしろい動画
色の意味・効果辞典 :「ZEBRA」
いろいろな色の意味


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『京都府の不思議事典』 井本伸廣・山嵜泰正編 新人物往来社

2013-08-21 22:05:22 | レビュー
 はや20年近くの時が経ったが、1994(平成6)年に平安京建都1200年記念祭があった。長らく都が置かれた京都。なぜこの地に都がおかれたのか・・・そんな旧都に、様々な不思議が累積されていてもおかしくはないだろう。その都の周辺にも関心を広げて、京都府という地域の様々な「なぜ?」を集めた本である。府県単位で不思議事典が出版されている。その1冊だ。本書は2000年の出版である。
 京都に生まれ育ち、今はその近傍に住むが、いくつか「なぜ?」と思うことがあり、この本を手にとってみた。

 他県の事典は見ていないので、同じ構成かどうかは知らない。
 本書は、不思議なことを、7つの領域に分類してまとめている。伝承・説話篇、文学・芸術篇、行事・寺社その祭礼篇、宗教篇、歴史篇、産業篇、地理篇、自然篇である。
 ある意味で、不思議なこと、なぜ?とふと思ったことについて、繙いてみるのに手頃な本である。雑学、豆知識、コラム記事という類にあたる読み物を集めた本といえる。短い文章で簡潔に「なぜ? 不思議・・・」と思えることに解説を加えてくれている。「あとがき」で触れられているが、本書の1項目は800字以内で説明され、191項目が採りあげられている。(確認のカウントはしていないので・・・・受け売りですが。)ものによっては、さまざまな見解や解釈が併記されている。

 編著者は「あとがき」でこう述べている。
 「土地の持つ歴史的な重層性は京都の面白さ・不思議さを倍増させる。時代や見る角度を少し変えると、いろいろな人物や日本史が透けて見えてくる。そこが『京都府の不思議』と魅力であろう」と。
 もともとの平安京の構想は構想倒れとなった。現実の土地の住みよさなどの影響もありその中心が移動して行ったのである。また戦乱兵火や幾多の火事などで都が広範囲に焼け、その後に繰り返し再建されている都である。秀吉のように、さらに強引に己のプランで聚楽第やお土居を含め、都の大改造がなされた時期もある。まさに、同じ都の中で、重層的に様々な歴史が育まれてきたところだ。その周辺の地域が、都の有り様に影響を受け変化するのも当然だろう。

 そんな中から、今思うと、なぜ?が出て来てあたりまえ。名所旧跡を解説した観光ガイドブックと本書を組み合わせてみると、面白さに深みが加わると思う。私自身のちょっとした「なぜ?」の解消から始まって、幅広くわが郷土を見つめ直す参考になった。
 2000年の出版なのだが、不思議さという視点から言うならば、歴史の長さから見てちょっと前に出版されたくらいのもの。疑問点があれば、まず項目があるかどうか、繙いてみるとよい。「事典」形式なので、気楽に必要な項目だけ読めばよい。私は通読してしまったが。

 たとえば、こんな疑問について、説明が加えられている。本文からほんの一部を要約抽出してみた。
*小野篁はエンマの冥官ってホント!
  → 東山・六道珍皇寺には冥界に通じる井戸がある。
*一寸法師と御伽草子の『一寸法師』はどう違うの?
  → 山崎の天王山中腹にある宝積寺には鬼退治をした小男が鬼から褒美に
    もらった太刀と打ち出の小槌一対が存在する。
*陰陽師・安部晴明が祭神だってホント?
  → 堀川の一条戻り橋の少し北に晴明神社がある。
    『今昔物語』『古事記談』『酒呑童子』掲載の晴明の逸話が語られている。
*鬼になった女・鉄輪(かなわ)って?
  → 京都市下京区堺町通松原下ル鍛冶屋町の路地の奥に「鉄輪の井戸」がある。
    この伝承にも安部晴明が登場する。
*紫式部の本名・居所はわかるの?
  → 京都市上京区にある廬山寺内と言うのが現在の通説
*恋い多き和泉式部の晩年はどうしたのか?
  → 式部遺愛の「軒端の梅」が左京区の真如堂町にある。
    晩年に住んだ東北院の小堂が中京区新京極六角の誠心院にある。
    相楽郡木津町に和泉式部の墓という五輪石塔がある。
*円山応挙の幽霊画は客寄せだった?
  → 四条通堺町東入ル南側に応挙の邸宅跡の碑があり、墓は悟真寺(太秦)に。
*夏目漱石の句の「女」って誰?
  → 中京区御池大橋西詰、御池通に漱石の句碑がある。
    「春の川を隔てて男女かな 漱石」と印刻されている碑である。
*大文字送り火の謎
  → 昔は、「い」「一」「鈴」「蛇」などの送り火があったそうだ。
    大文字は山麓が葬送地で洛中どこからでも眺められるので選ばれたのだとか。
*西行は人造人間を造った?
  → 西行は河内国弘川寺で73歳の生涯を閉じた。
    『撰集抄』に記された西行の逸話が引用されている。
*一休さんの老いらくの恋ってホント?
  → 81歳で大徳寺住持48世となった一休は、京田辺市にある酬恩庵に引きこもる。
    『狂雲集』には、森女と関連する漢詩を数多く残している。風狂に生きた。
*桂離宮になぜ7つのキリシタン灯籠があるのか?
  → 宮元健次氏(龍谷大学)は桂離宮を小堀遠州が作庭・普請したと主張する。

これらの謎、すべてご存知のことばかりでしょうか?

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上記関連で、ネット検索で知り得ることは、こんなこと。一覧にしておこう。
探せばもっといろいろ情報はあることだろう。疑問、謎の回答説明を含めて・・・・

六道珍皇寺 :ウィキペディア
六道珍皇寺 :「京都風光」
宝積寺 :「京都府」
鉄輪の井戸(かなわのいど)
京都魔界のパワースポット 丑の刻参りの鉄輪の井戸 命婦稲荷 :YouTube
「鉄輪(かなわ)」:「銕仙会~能と狂言~」
天台圓淨宗 大本山 廬山寺 ホームページ
円山応挙 :ウィキペディア
落語「応挙の幽霊」の舞台を歩く :「落語の舞台を歩く」
夏目漱石と京都 :「京都検定合格を目指す京都案内」
京都府の最南端、木津川市にある和泉式部の墓と伝える五輪塔
   :「京都検定合格を目指す京都案内」
五山送り火 :ウィキペディア
五山送り火 ::「京都観光協会」
 京の夏の夜空を彩る風物詩 8月16日 午後8時点火 
撰集抄 :ウィキペディア
弘川寺由縁と西行記念館 :「敷島随想」
酬恩庵一休寺 ホームページ
桂離宮 :ウィキペディア
桂離宮と修学院離宮 文化史11 :「フィールドミュージアム・京都」
織部灯籠 :「茶道百字辞典」
キリシタン灯籠 :「私立PDD図書館」


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『始祖鳥記』 飯嶋和一  小学館

2013-08-17 11:02:51 | レビュー
 津山藩士・小島楽天が『寓居雑記』に記した一文が、どうも著者が本書を書く動機になったようだ。それは細工物のを身につけ、橋の欄干から河原に飛んで降りた兄・周吾のことを、表具師の弥作というその弟から聞いた覚書である。つまり、江戸期にをつけて空を飛んだ男が居たという事実!

 著者は本書末尾で、二代目備前屋幸助以降の系譜を語り、二代目幸助の生涯も概ね詳らかだという。そして、後世に至って、初代備前屋幸吉の生涯を詳らかにしようと試みた人物が二人居ると言う。竹内正虎と伊東忠志である。前者は『日本航空発展史』を著した旧陸軍歩兵大佐。後者は玉野市文化財保護委員長として市史編纂を担った人。著者はこの二人の研究成果を簡潔に記している。
 これらの資料が本作品を生み出す素材となり、己の夢実現に挑戦した比類なき数名の人物達をその関わりの中で描き出すというモチーフを作品化したのだろう。己の夢実現に人生をささげた男達の物語である。楽しく読める作品だ。

 時代背景は天明5年(1785)陰暦6月から文化元年(1804)正月である。第10代徳川家治の治世最後の年から第11代徳川家斉の治世前半にかけての時代になる。樽廻船問屋株が公認され10年ほどが経つた天明2年(1782)には1987年までつづく天明の大飢饉が発生している。そして、その最中、1784年には大阪に二十四組江戸積問屋株が公認されている。1786年には老中田沼意次らが失脚し、寛政の改革が起こる。一方、最上徳内らが千島を探索しウルップ島に至っている。そんな時代背景である。
 その時代に、空を飛ぶという夢に人生を賭けた男が存在した。彼を軸に、同時並行して違う次元で、違う形の夢を描いた男たちとがいつしか相互に関わりを深めていく。結果的にそれぞれが己の夢を実現させていくというある種のサクセス・ストーリーである。

 本作品は3部で構成されている。
 第1部と第3部での中心人物は幸吉-後の周吾、備前屋幸吉-である。幸吉は非常に才能豊かな人物だったようだ。備前児島の八浜の桜屋の次男に生まれる。7歳の秋に父が死に、父方の叔父傘屋満蔵に引き取られ傘職人となる。弟の弥助は岡山の紙屋という表具師の養子になっていく。傘職人として重宝がられる幸吉はその仕事に飽きたりなくなる。紙屋に呼ばれて、そこで表具師の腕を磨き弥助とともに表具師として精進する。兄弟そろって銀払いの表具師に育って行く。
 それほど腕のある幸吉が、表具師としての仕事に精励する傍ら、密かに空を飛ぶという試みを岡山城下で行うのだ。その影を垣間見た人々が己の願望、怨嗟、風刺の尾ひれをつけて噂を流していく。鵺騒ぎとして噂が広がると、町奉行が政道批判と騒動を恐れ、鵺騒ぎの犯人逮捕に躍起となる。
 最後に幸吉は、旭川の河原に飛び降りることに一応成功するのだが、幸吉の預かり知らぬところで、鵺見物に繰り出していた人々が飛ぶ姿を見て騒動になるという展開となる。その張本人として幸吉は捕縛されてしまう。
 なぜ、そういう展開になるのか、というところが読みどころである。

 第2部は、幸吉が脇役となり、違う次元で夢を抱く人々が主役として登場する。それらの人と幸吉が関係を深めていく。
 一人は下総・行徳の伊勢宿の地廻り塩問屋、巴屋伊兵衛である。天明3年の大飢饉のおり、欠真間の塩田の地主でもある伊兵衛は、欠真間の江戸川河畔に流れ着いた二体の女童の骸を目の前にしたことが契機となって、物品を独占し己の私利私欲に奔放する問屋株の仕組みに怒りをつのらせていく。伊兵衛にとっては、それは江戸の下り塩問屋の株仲間(四軒問屋)の有り様だった。幕府から公認されたその下り塩独占の仕組みが、行徳の地廻り塩衰退をもたらし、飢饉の被害を受ける人々に、安くて良い塩を供給できない原因になっていると考える。行徳の塩問屋として江戸城に納める良質の真塩仕立ての古積塩を造るにあたり入手している江戸打越の航海権利をうまく活用することで、四軒問屋制度を打破する策を練る。そして孤独なチャレンジに着手する。独自に西国の塩を運搬してくれる船を求めて西国に旅立つが、一隻の弁財船すら確保できない苦境に立つ。
 伊兵衛が見つめていた弁財船の楫取(機関長)は杢平という航海術に飛びぬけて優れた船頭だった。杢平は太鼓橋に佇み弁財船を眺める伊兵衛の姿に危惧をいだく。そして、炊の平吉を使って、伊兵衛に声を掛けさせ、船を訪れるように促すのだ、それが思わぬきっかけとなり、伊兵衛が源太郎と対話する機会ができる。

 源太郎とは、千石積みの弁財船を兵庫津の船入に泊めている船主福部屋源太郎、こと平岡源太郎である。彼は、岡山児島の八浜の隣の生まれ。幸吉とは幼少の頃に喧嘩仲間だった。彼は買積船を個人所有する一匹狼の船主。樽廻船問屋株などの組織に属さず、縛られずに海路を使った商品売買に従事している。買積船商活動の障害になるのは、主要航海と船問屋などを牛耳る問屋株の独占的しくみなのだ。たとえば、「下り塩は四軒問屋以外に売り捌くことが出来ないことはとうに諸国廻船の船主たちの了解事項となっている」(p145)というように。問屋株仲間の商域とぶつからないように買積船の運営をしているという己、「不当な公儀幕府の悪政には一切目をつぶり、差し障りのない航路の行き来を繰り返し、・・・このところずっと、己の牧歌の季節は既に終わったという無力感に苛まれ続けていた」(p181)のだ。己らしさを貫くには、問屋株仲間の仕組みの打破をめざし、航海の自由、商品売買自由の道をめざす必然性に気づき始める。伊兵衛の問題意識とその意志を聴いたことにより、その生き様に共鳴していくのである。源太郎自身の夢が明瞭になっていく。

 源太郎はこの船を「槖駝(たくだ)丸」と名付けている。結果的に杢平を介して、源太郎は、伊兵衛から「わたくしも、小童の頃、種樹郭槖駝に憧れました」(p178)という言葉を聴くことになる。二人の心が共振し始める。
 そして、二人の夢が「江戸打越」という御旗を手段、西国から行徳への塩運搬による株仲間制度の打破という夢で
結びついて行くのである。

 源太郎は幸吉が空を飛んだ本人だということ、岡山から所払いとなり八浜に戻っているのを知る。そして、弁財船に乗り込むように誘う。新たな生き様を模索する幸吉は一人の水主として、源太郎と航海を共にすることになる。航海は幸吉にとり、様々な体験の機会になる。颶風との遭遇は、風の威力を学ぶ機会となる。航海を通して杢平から多くのことを学んでいく。杢平との出会いが、幸吉の次の人生への契機となる。

 著者はこの第2部で、江戸幕藩体制における経済政策の問題点を、伊兵衛、源太郎の視点を通して鋭く見つめている。本書を単純なサクセス・ストーリーに陥らせず、時代観の奥行きを与えている。

 第3部は再び幸吉が主人公になる。脇役として、江戸町の町頭・三階屋甚右衛門が登場する。
 杢平が視力低下で楫取が勤まらないと判断し陸に上がり、故郷駿府に戻るとき、幸吉は水主として生きる適性に欠ける要素があると自己評価、判断して、杢平に同行し、新たな生き方を模索することになる。幸吉の過去を知る杢平は、それを承知の上で、幸吉が駿府で新たな人生をスタートするのを助けるのだ。
 買積船での経験から、駿府に定住した幸吉は備前屋と称し木綿問屋を始める。そしてその道で成功していく。軌道に乗り始めると故郷の八浜から幸助を呼び寄せて将来は店を継がせることを考える。己の過去を顧慮し、店で働く人間は故郷の伝手を使い、駿府に呼び寄せる。

 三階屋甚右衛門は郷宿という旅籠を営むとともに、公事(民事)訴訟における仕事を請け負うという役割を担っている。本名を新庄敬泰と言い、幼少に漢籍の初学を学び、15歳で塾頭を務めた俊才なのだ。その甚右衛門は不正な事には堂々と立ち向かっていく力量をもつ人物だ。その甚右衛門が幼い頃に不始末で斗圭(=時計)を故障させてしまった。いつか名古屋に行ってでも斗圭を直したいと思っていたところ、水主上がりの木綿屋が斗圭を扱うと聞き、幸吉にその修理を依頼する。ここから幸吉と甚右衛門の関係が深まっていく。
 幸吉という才能を秘めた人物に関心を抱いた甚右衛門は伝手を頼り、備前生まれの幸吉の素性をそれとなく調べる。事実がわかっても、幸吉を暖かく見まもる懐の深い人物である。
 幸吉は甚右衛門から駿府における5月5日の端午の節句の最後の凧揚げの日を、本当に凧を揚げるということに戻したいという願望を受け、新工夫の凧づくりを始める。そして九十九凧を披露するのだ。駿府の人々の驚きとなり、評判ともなる。
 
 だがこの凧揚げが再び、幸吉に昔の夢への封印を破らせることに繋がって行く。
 木綿屋が軌道に乗ると、幸助に家督を譲り、幸吉自身は隠居して、備考斎幸吉と名乗り、斗圭の修理と入れ歯製作という仕事を専業とするようになる。その一方で、空を飛ぶ夢を追求するという次第。第3部は、幸吉という人間の才能を描きながら、空を飛ぶ夢を完遂するプロセスを描き出して行く。
 幸吉は備前岡山での経験、水主として颶風に遭遇した経験などを踏まえて、どこから飛ぶと己の夢見る空を飛ぶことが実現できるか探究する。そして、賎機山の西に張り出した浅間山呼ばれる場所の崖を最適地として絞り込み、計画を練っていく。

 この第3部、斗圭の修理、大凧揚げ、最後の飛行へと、ストーリーの山を踏みながら展開していく。夢の飛行への綿密な探究と準備、罰せられる者を幸吉一人に留める前提での周到な計画、最後に飛行は成功する。それがどのようなプロセスで進展していくかが読ませどころである。

 本書の3部構成は各部を独立した小説として読む事も、ほぼ可能である。この点もおもしろい。3作が緩やかに連続してストーリーが大きく広がり、夢が夢を刺激し動き出す形で展開していく。そんな構成になっている。勿論、3部構成全体を読み通してこそ、本書の夢実現の達成感を味わうことができるのだが。
 
ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する語句をネット検索してみた。一覧をまとめておきたい。

天明の大飢饉 :ウィキペディア
天明の飢饉と江戸打ちこわし :「剣客商売」

株仲間 :ウィキペディア
問屋の成立 :「東京油問屋史」
二十四組問屋 :「東京油問屋史」
十組問屋の成立 :「東京油問屋史」
檜垣廻船と樽廻船 :「東京油問屋史」
木綿問屋 :「東京油問屋史」

買積船 → 北前船とは :「江差町」 歴史・文化・観光情報
  弁財船の説明もこのページに小見出しとしてある。
弁才船 :ウィキペディア

河村瑞賢 :ウィキペディア
改正 日本與地路程全図 :「九州大学博物館」

種樹郭槖駝傳 柳宗元
種樹郭タクダ傳 (付・漁翁)

千葉県と塩 :「塩百科」
  行徳塩田、行徳塩の小見出しがある。
塩田と近年の製塩の歴史 :「愛知県の博物館」



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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『出星前夜』 小学館


『おんなの日本史修学旅行』 花房観音  KKベストセラーズ

2013-08-15 10:30:28 | レビュー
 著者は女流作家兼現役バスガイドだとプロフィールに書いている。
 女流作家の方は、2010年『花祀り』にて第1回団鬼六賞を受賞して、作家デビューしたそうだ。団鬼六は何となくイメージがある。本著者のデビュー作は未読だ。近いうちに読んでみたい。奥書のプロフィールによると、「現在もバスガイドを務めながら、小説からエッセイ、AVレビューまで執筆をする」とのこと。
 「はじめましてのご挨拶」つまり、まえがきによれば、京都市在住で普段は作家活動との二足の草鞋で数年前からバスガイド業を行い、主に修学旅行生に京都・奈良を中心に案内しているそうである。
 著者は日本史が好きでバスガイドの勉強をしていて、観光客にバスガイドとしては公式に話せない類のことをいろいろ発見したという。「おもしろいのに、エロいから話せないあんな話やこんな話。喋ったらクレームが来てしまうであろう、先生に怒られちゃうであろう『エロ日本史』。そういった話を自分の中だけでとっておくのは非常にもったいないな」という思いからできたのがこの本だと記している。本職バスガイドではいたって真面目に案内しているそうだ。「修学旅行生には話せない、日本史エロ案内」とおっしゃっている。これだけで、読んで見ようかという気になるのではなかろうか。本書タイトルはバスガイド業の表向き表題である。ただし、表紙イラストのバスガイド嬢の姿態がちょっと暗示的である。表題の続きに「エロ案内」の四文字をつけると、この本らしくなる。
 しかし、単にエロ・グロに堕しないところが「日本史修学」という言葉を冠している由縁だろう。エロっぽい発見がふんだんに蘊蓄を傾けて語られているが、ちゃんとバスガイドとして日本史の史実は押さえて説明を行っている。表の側面もちゃんと部分「修学」できる配慮がなされている。意外とこんな切り口から、日本史への関心が高まるのかもしれない。歴史事実をどう読み込むか、まさに興味の尽きない知的(痴的)好奇心の源泉だ。

 まず、目次構成の柱をご案内しよう。
  花房流・京都案内
  花房流・妄想対談 「光源氏のセックスを斬る!」
     出演 源典待、紫の上、六条御息所、女三ノ宮
  閑話休題 (付記:ここはバスガイドさんのお仕事関連裏話)
  花房流・奈良案内
  花房流・そこかしこ案内
  花房流・妄想対談 「戦国武将、お好きなAV(アダルトビデオ)を語る」
     出演 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康
という風に、京都・奈良を中心に少し周辺もご案内の対象になっている。

 「花房流・京都案内」の冒頭は、京都観光に来た人なら絶対に目にする京都駅前の「京都タワー」。それ自体に1ページがあてられている。最初に公式のバスガイド流説明がちゃんと記されている。高さ(131m)、何時つくられたか(昭和39)、もともとは「灯台」をイメージして作られていて、東本願寺に近いので「お東さんのろうそく」とも呼ばれているという事実説明。そこから、著者の妄想がはじまる。ところで、ホントは何に見える?って、エロっぽい話になっていく。何事にも表には裏がある。これでオトナとしてはバランスがとれるねって、とこだろうか。
 いや、やはりそう言われてみれば、そうだよなぁ・・・・と、なる下ネタのオチがついている説明がおもしろい。聖人君子はこの本を手にしない方がよろしかろう。妄想の迷路に迷い込まないために。と言えば、逆に読みたくなるのが人の性・・・・。

 言葉は記号であり、その記号に意味づけして解釈するのが人間だ。言葉を抽象的、神秘的に受け止め解釈論を展開することもできれば、人間の卑近な営み、行動に惹きつけて等身大ベースで解釈が可能な場合も多い。古事記におけるイザナギとイザナミの出会い、国造りもまさにそうである。
 著者はまあ自らを基準に普通の人間の具体的な思いや妄想を膨らましていく。常識的な解釈・理解を試みれば、結構下ネタにむすびつくね、ということを、日本史修学の一方で、おもしろく忘れないように旅行案内してみのだ。

 京都案内を例に、案内場所・項目の正式な名称を列挙してみよう。
 上賀茂神社・下鴨神社、三条河原、京菓子(おまんじゅう)、七味とうがらし、法金剛院、女坂、清水寺随求堂(胎内めぐり)、江文神社、随心院、五条大橋、新熊野神社、東福寺の東司、太秦映画村、円町、チンチン電車、貴船神社、酬恩庵(一休和尚晩年の寺)
 これらの名所ほかが、著者の妄想、いや具体的事実の語られざる側面を著者流に追及して、語ってみればエロい話、下ネタに結びつくのである。よくご存じの一例だけ挙げれば、随心院ー小野小町-穴なし伝説、という世間の裏話風に。もちろん、これも話材の一つである。それをまああっさりと表に出してきた。勿論、そこに著者の解釈・妄想、語りがおもしろくトッピングされているという次第。

 「光源氏のセックスを斬る!」という花房流・妄想対談。未だ源氏物語を読了せず、解説本などで大凡の内容を知っているにしかすぎない者の印象なのだが、出演者、源典待、紫の上、六条御息所、女三ノ宮の話す内容は、ちゃんと源氏物語の本文の裏がとれていると思う。勝手なでたらめ話の妄想ではなさそう。テーマのような切り込みで、下世話に話せばこうなるよね・・・・そんな対談に仕上がっている。実におもしろい。
 「戦国武将、お好きなAV(アダルトビデオ)を語る」は、もし、今信長・秀吉・家康が生きていたらどんなAVが好きかという戯れ話。だけどこの三人の性格、特質がでていておもしろい対談妄想になっている。

 奈良案内と周辺案内の項は割愛しよう。話せば長くなる。本書を開いて楽しんでいただければよい。

 「あとがきにかえて」というところ。見出しの最初の言葉が「勝絵」である。「勝絵~あとがきにかえて~」となっている。私は本書でこの「勝絵」という言葉を初めて知った。
 この勝絵という単語、手許にある日本語大辞典(講談社)、大辞林(三省堂)には載っていない。広辞苑・初版(岩波書店)には、「勝負事を描いた絵で、鳥羽僧正の作と伝える戯画の絵巻物が有名」という一面の語義だけが載っている。勝絵をちゃんと理解できた人はかなりエロい人かも・・・・。ネット検索すると、ちゃんと語義の一つとして説明しているのがあった。ご存じでない人は、妄想を働かすか、ちゃんと推測するか、ネット検索するか、本書を開くか、ご自由に。ネタばらしは回避しておこう。楽しみが減るだろうから。

 最後に、このあとがきに記載の著者の文をご紹介しておこう。ここにまあ、著者の見方が凝縮されていると思えるので・・・・。あとがきには、著者のこれまでの人生体験記が簡略に記されてもいる。

 ”そしてバスガイドの仕事の上で日本史を学んで、様々な歴史上の人物達の、「エロこぼれ話」を発見すると、嬉しくなりました。なんや、みんな同じやんか、豊臣秀吉も徳川家康も、『古事記』に登場する神様も、初代内閣総理大臣の伊藤博文も、みんな同じ、スケベな人間やんけって。人間って、スケベでアホで、どうしようもないやん。みんな、同じ、ちんこまんこなんだよって。
 だから裸の自分を許しなさい、と。そのまんまの自分を許したれよ、と。”(p252)

 もう一つ、本文中でのこの記述も著者の考え方を的確に表現していると思う。
 「・・・・だけど事実だから・・・・歴史に目を背けないでっ!!
  歴史って、本当はエロくってグロいのっ!!
  でもだからおもしろいの!!」(p180、付記:欽明天皇を中心とした人間関係から)

 史実知識の表向きでは語られないに下ネタ話の側面について既知のものがいくつかあったが、それすら著者独特の語りくちに引きこまれて面白く楽しく読了した。


 ご一読ありがとうございます。

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京都案内の冒頭に載っている場所の表の説明をいくつかネットで拾ってみた。

京都タワー :ウィキペディア
たわわちゃん:「ご当地キャラカタログ」

神話・伝承 :「下鴨神社」
 「次を玉依日賣と曰ふ。玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃(すなは)ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。」 この引用箇所はサイトのページの内容の最後に近い辺りに載っている。

三条河原 :「実は恐い怖い京都の裏観光情報!」
秀吉 豊臣秀次の女子供39名を処刑 京都・瑞泉寺.wmv :YouTube

京都和菓子 :「コトログ京都-和菓子-」
清浄歓喜団 :「亀屋清永」


著者のブログ: 花房観音 「歌餓鬼抄」


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『欠落』 今野 敏 講談社

2013-08-14 11:21:21 | レビュー
 本書は警視庁本部の刑事、宇田川亮太が中心人物である。四月の人事異動の情報から話が始まる。かつて宇田川が特捜本部で組んで捜査をした土岐達朗が警視庁刑事部第一課の特命捜査対策室に配属予定であり、また、初任科同期の大石陽子が警視庁本部の捜査第一課特殊班捜査第一係、つまりSITと呼ばれる部署に配属予定なのだ。一方で、同じく同期の警視庁本部公安部総務課に配属されていた蘇我和彦が突然、懲戒免職になっている。実は本当のクビではなくどうも特殊な極秘任務についているようだと宇田川は認識している。宇田川自身は、52歳の警部補植松義彦と組んで仕事をしているのだ。
 正式な人事異動の後、宇田川は植松と共に、赤坂のベトナム料理店の個室で、土岐と大石の歓迎会を行う。そして、瞬く間に1ヵ月が過ぎ、事件が起こる。

 4月30日、午後3時25分、世田谷区で立てこもり事件が発生する。特殊班の出番である。人質は主婦。犯人は現金1000万円と逃走用の車を要求する。警察側は人質の身代わりを申し入れる。犯人はその申し入れに応じて、主婦の身代わりに大石が人質になるのだ。その後、犯人と人質(大石)は、警察の用意した逃走車を使わず、警察の盲点を突き、主婦の自家用車で逃走に成功する。宇田川は同期の大石が無事か心配し続ける立場に置かれる。
 その矢先、狛江市の多摩川河川敷で女性の遺体が発見されたという無線から情報が入る。この事件に植松と宇田川に出動指示が出る。遺体は首に索状痕があり吉川線と呼ばれる防御創もある。所持品なし。死後半日以上は経っていないと推測される状態だった。所轄の調布署に捜査本部が置かれることとなり、宇田川と植松は事件にどっぽり巻き込まれて行く。
 人質となった大石のことを内心気に掛けている宇田川に、土岐から電話が掛かってくる。宇田川のことを思い、土岐が警視庁本部で入手できる大石関連情報を知らせてくれるというのだ。大石はそれに感謝しつつ、捜査本部の立った殺人死体遺棄事件の解決に臨む立場となる。
 宇田川は調布署の刑事佐倉友道と組み、鑑取り班に、植松は調布署の新谷久志と組み、別の班に組込まれる。佐倉は55歳の巡査部長。あと5年で定年だ。植松より3歳年上である。
 宇田川は捜査本部に届いた捜索願の膨大な資料から、性別と年齢で仕分けて調べるという地味な作業に10人の捜査員の一人として取りかかるの。その作業中に、3ヶ月ほど前の死体遺棄事件がやはり身元不明の女性だったことを思い出す。関連の可能性という推測を佐倉に話すと、佐倉は宇田川に言う。「捜査本部ではね、言われたことをやっていればいいんだよ。余計なことをすれば、他の捜査員に迷惑をかけることだってあるんだ」「私ら捜査員はね、事件を解決することなんて考えなくていいんだ。それは、捜査幹部が考えることだよ。私らはね、言われたことをきちんとこなせばいいんだ」(p70)と。
 その推測を管理官に話すことを佐倉は好きにすればいいと、否定はしない。宇田川は池谷管理官に思いついた考えを伝えに行く。管理官から一応、事件についての情報収集は了解される。

 そんな矢先に、蘇我が宇田川にのんびりとした口調で電話を掛けてくる。ニュースで立てこもり事件、人質交換の事を知り、女の捜査員は大石かという質問だ。だが、なぜか宇田川は電話が掛かってきたタイミングにひっっかかりを感じるのだ。

 宇田川が三鷹署管轄の井の頭公園での死体遺棄事件が未だ被害者の身許が割れない異例な状況にあることを知る。さらに沢渡哲彦捜査員から、井の頭公園での事件よりさらに2月前に、沖縄県警の事案として、那覇市内の波之上宮のそばの海岸での死体遺棄事件があったという情報を得る。沖縄県警と連絡を取り合っていたが、互いに捜査の進展がない状態だという。宇田川の係わる事案も被害者の身許調べが遅遅として進まなくなる。情報が得られないのだ。これら3つの事件は連続殺人事件なのか・・・・・佐倉はそんな推測よりも、言われたことを着実に進めるだけだと言う。佐倉にはやる気がないのか。植松に愚痴をいうと、佐倉はそんな刑事じゃない、今にわかるという。

 宇田川の係わる事案も一種膠着状態に陥る、何も発見できない。一方、人質となっている大石を連れた犯人の居場所もつかめず、膠着した状況になっているという。そんな状況の中に、調布署の捜査本部に、警察庁警備局警備企画課の柳井芳郎警視正が参加してくる。警備企画課は全国の公安の中枢なのだ。殺人遺体遺棄の事件に公安が乗り込んできたのだ。それはなぜか・・・・事件は思わぬ方向へ進展し始める。
 情報がない中で、宇田川は状況を論理的に思考して、仮説を組み立てるのだ。

 本書は、同じ警察組織の中にあって、公安事案の観点と死体遺棄事件を扱う刑事部所轄事案の観点の違いが陰で相克対立するという局面をはらんでいく展開になる。日本国では、検察官は潜入捜査や囮捜査は法的に認められていない。そんな中で公安が活動している局面がある。宇田川には自らの係わる死体遺棄事件が単独事件だとは思えなくなっていく。誰のために、何のために、捜査活動をつづけているのか・・・・宇田川には論理的に色々な疑問が錯綜してくる。
 蘇我と電話で連絡を取ろうと試みていて、偶然大石の携帯電話を押したことから、携帯電話が繋がる状態であると知る。勿論繋がった電話に応答がない。やっと蘇我とのコンタクトができるようになる。
 宇田川は論理的な仮説を推し進める。そこから事件を解明する糸口が見え始めるのだ。
 堂々巡りのようなスパイラルのプロセスを経ながら、事件は停滞から急激な進展へと突き進んでいく。宇田川がその梃子となっていくのだ。

 公安と刑事部の二律背反、相克の局面を題材にした特異な作品である。この事件は著者の完全な机上空想の産物なのか。それとも、事実は小説より奇なりというごとく、内容は違えども、時にはこの種の事案が現実に世間に知らされないまま発生し見た目だけの落着が起こっているのか。スパイ天国と言われて久しい日本だが、こんな事案は絵空事だけであってほしい。小説としては、一時充分に楽しめる。
 
 「欠落」という本書タイトルには、様々な意味合いが重層的になっているなというのが、究極の読後印象である。その意味は、一読して感じ取っていただきたい。


ご一読ありがとうございます。

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本書から関心の波及する語句をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

警察法 
 刑事局の所掌事務は、第23条  多少イメージが湧く規定
 警備局の所掌事務は、第24条  至って抽象的な規定

警察のしくみ :「警察庁」
警視庁の組織図・体制 :「警視庁」

警視庁公安部 :ウィキペディア
公安警察 :ウィキペディア
外事課  :ウィキペディア

公安の維持 :「警察庁」

刑事部 :ウィキペディア


警視庁公安部 同じ警察官でも詳細分からぬほど秘密主義貫く:「NEWSポストセブン」



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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『化合』 講談社
『逆風の街 横浜みなとみらい署暴力犯係』 徳間書店
『終極 潜入捜査』 実業之日本社
『最後の封印』 徳間文庫
『禁断 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新1版


『大王陵発掘!巨大はにわと継体天皇の謎』 NHK大阪「今城塚古墳」プロジェクト NHK出版

2013-08-12 21:40:54 | レビュー
         

 昨年から今年にかけて、史跡探訪で滋賀県高島市に所在の鴨稲荷山古墳や田中王塚古墳(被葬者は、継体天皇の父、彦主人王と伝えられる)を訪れる機会を得た。それ以来、謎の多いと言われる継体天皇に関心を抱き始めた。そして、この本が出版されていることを知った。2004年7月出版の本であるので、その後の考古学その他関連分野での研究はさらに進展していることだろう。しかし、関心を抱き始めた者にとっては入門書として読みやすい本である。

 その当時は関心がなかったので知らなかったのだが、この本は平成15年8月から始まったNHKスペシャル『史上初 大王稜・巨大はにわ群発掘』という番組をベースにその内容を書籍化したものである。そのため執筆者はNHK大阪「今城塚古墳」プロジェクトとなっている。つまり、大阪府高槻市郡家新町という今は住宅地となった地域に所在する今城塚古墳の発掘調査の過程、そこから発掘発見されたものを見つめ、検証推論していくと、ここが継体天皇の被葬地なのではないかというわけなのだ。そう断定できないところにまだまだ研究の余地を残す。結論は本書出版時点で、未来に託されている。夢がある。

 天皇陵や陵墓参考地に指定されると、宮内庁所管となり発掘調査はできない。最近少しずつ学者研究者の地道な要請努力の結果、立ち入り現地見聞調査が認められてきているようだがそれはまあ現段階では例外的な措置である。
 ではなぜ、この今城塚古墳は発掘調査が継続してなされてきているのか? 本書で知ったのだが、大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳が継体天皇陵と比定されて宮内庁の管理する陵墓となったので、今城塚古墳は宮内庁の管理外になり御陵として扱われなかったからなのだ。
 昭和30年代後半頃の名神高速道路の開通とともに、高槻市の宅地化が急速に進展するなかでこの古墳も手をこまねいていれば消滅するところだったようだ。だが、高槻市教育委員会の歴代の担当者を始め様々の人々の協力奮闘で、この今城塚古墳区域の土地が高槻市に順次買収され保存する努力が累積されてきたという。そして本書出版時点でいえば、平成15年までに7次に及ぶ調査が行われている。
 
 本書はこの継続的に累積されてきた発掘調査の成果を踏まえて、発掘された埴輪や発掘現場の状況、当古墳の築造推定年代から、ここが謎多い継体天皇の墓だろうという仮説に至るのだ。もちろんそれには周辺の古墳調査並びにこれまでの考古学調査研究からの成果・情報が有機的に関連づけられ、分析と考察が行われている。
 今までの規模確認調査から復元された今城塚古墳の形は、内濠・内堤・外濠という二重の濠に囲まれた前方後円墳である。全長350m、6世紀前半に作られた当時としては全国最大級の規模を誇る巨大古墳なのだ。現在は古墳公園として維持管理されているようだ。そして、この古墳を特徴づけている巨大はにわ群が、埴輪祭祀場と推定される場所に、現在は当時の様子を実物大で復元展示されているという。一見の価値がありそうである。
 本書では発掘された埴輪の断片や部分などの発見経緯、その復元、発見場所の形状からの現地復元推定などを丹念に追跡していく。埴輪祭祀場の復元イメージを、番組提供のためのビジュアル化としてCG化していった経緯が語られている。
 その復元にあたって、諸研究者の見解が対比的に取り上げられ、検討を加えながら、番組制作者としての見解をまとめている。テレビ番組放映が土台になっているので、本書はドキュメントタッチであり、わかりやすい説明で記されていて、考古学についての素人向きである。

 本書の構成とその感想をご紹介しよう。
 第1章 今城塚古墳発掘調査
  規模確認調査が始まった経緯、これまでの数名の調査関係者のインタビュー内容で、今城塚古墳への導入パートである。

 第2章 破片をつなぎ合わせ、埴輪を復元する
  埴輪の断片から古代人の姿をどのように蘇らせることが可能なのかを述べ、CGによる埴輪復元の試みを語る。今城塚古墳では、異例なつくりの埴輪が発掘されているという。

 第3章 大王の宮殿発見
  平成12年、栃木県富士山古墳から日本最大の家形埴輪が発見されたのだが、なんとその翌年、この今城塚古墳から別の家形埴輪が発見された。こちらが日本最大の大きさだと判明したそうだ。千木を飾る高床の家形埴輪で上から下まで170cmという大きさ。
  この家形埴輪が伊勢神宮の建物とおどろくほどの共通点を持っていると水野正好氏(奈良大学教授)が解説する。魅力的な仮説だ。

 第4章 今塚古墳の主
  継体天皇とは日本書紀』編纂以降の「漢風諡号」であり、当時存在したのは大王だという。「継体大王」、より実体的には「男大迹王」(おほどのおう)である。男大迹王の異例な経歴、今城塚古墳埴輪群の異例な配置、この古墳に潜む革新性と保守性などを紹介し、継体をめぐる人々の墓との関連を語る。ここに前掲の鴨稲荷山古墳の名称も出てきている。継体という人物紹介になっている。

 第5章 二つの継体稜
  ここでは、なぜ継体稜が2つになっているのかの経緯が詳しく語られる。天皇陵の基準となる考えや考古学者の定説・ものさしがわかっておもしろい章である。一瀬和夫氏作成の大型古墳編年図は巨大古墳の時代差が一目瞭然で素人には参考になる。

 第6章 埴輪祭祀場のオールスターキャスト
  発掘された埴輪群像の復元形が具体的に紹介されていて、埴輪の種類の多さに驚かされる。復元埴輪の写真がたくさん載っていて楽しい章だ。

 第7章 「王宮」の人々
  今城塚古墳で発掘された人物像埴輪について個別に解説している。埴輪断片の丹念なつなぎ合わせ修復・復元により、巫女集団が再現され、巫女中の巫女の埴輪までも作られていたというのは、大変興味深い。巫女のいでたちは邪馬台国の伝統を引くものという仮説が語られる。あぐらをかく男たちの埴輪も出土しているようだ。埴輪の持つ情報量がどんどん時代を見えさせるおもしろさ・・・・。
 
 第8章 馬がやってきた世紀
  「牧野」という地名は、当時の倭国の支配者たちが組織的に馬を飼育させていた土地を物語るのだという。馬の飼育には塩が必要であり、それが径5cmくらいの製塩土器の大量出土でわかるそうな。土器が生活と歴史を裏付けるおもしろさ。馬から「短甲」と「挂甲」の違いに話が及ぶ。

 第9章 初めて発見された規則的配列
  柵型埴輪の発見と、各種埴輪断片・破片の発見位置などから、埴輪群全体が持つ規則的な配置が徐々に解明されていく。ここには謎解きのおもしろさある。そして、CGで復元した状態が次々に提示されていく。読んでいて楽しい章だ。

 第10章 埴輪の規則性は何を意味しているか
  埴輪群の示す規則性が何を意味するのか。学者により仮説の立て方が異なるようだ。なぜそう考えるのか、という論理的な考察が語られていき、論点の違いが明瞭になっていくプロセスが興味深く、おもしろい。
  埴輪群の規則性が、王宮の存在という場の枠組みを共通認識としながら、意味することは見解が分かれていく。「王権継承儀礼説」(水野正好氏)、支配者にとっての理想的な「場面の集合」であるという説((若狭徹氏)、王宮そのものの再現をこそ強調する説(白石太一郎氏)が語られていく。さらに、絵巻物のように時間帯の分割説も出てくる(町田章氏)。実に知的好奇心を刺激する。
  そしてCGによる古代王宮再現。

 第11章 三つの棺
  この今城塚古墳は13世紀に盗掘され盗掘犯がつかまったという記録があるという。現在、石室の存在は確認できていないそうであるが、3種類の石棺材が発見されているそうだ。3つの石棺の存在は何を語るのか。謎の多いこの古墳、整備され公園化されているようだが、少なくとも一度探訪してみたいと思っている。

 本書を読み、ますます謎多い継体天皇に関心が湧いてきた。

ご一読ありがとうございます。

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今城塚古墳関連でネット検索したものをまとめておきたい。

【Full HD 1080p】 いましろ大王の杜 継体天皇陵 今城塚古墳 埴輪  :YouTube

いましろ大王の杜 案内チラシ pdfファイル
インターネット歴史館 (高槻市)ホームページ
  史跡 今城塚古墳とは 
     古墳各部の整備方針(拡大図)
  高槻市立埋蔵文化財調査センター

今城塚古墳 :ウィキペディア


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『花鳥の夢』 山本兼一  文藝春秋

2013-08-07 10:51:37 | レビュー
 本作品は狩野永徳の伝記小説である。
 永禄3年(1560)、18歳になった永徳が近衛前久の屋敷に出向くところから場面が始まる。そして、東福寺・法堂の天井に蟠龍の絵を描くという業半ばにして没するまでを描いている。「極楽の至福をさらに描き尽くそうと、永徳は夢中になって筆を動かしつづけた」極楽で花鳥の絵を描き続けるという永徳の幻想で終わる。
 そこには、狩野家の嫡子として、狩野派の総帥となっていく姿と、永徳が絵に求めたもの、己の絵の追求心及び絵師の自負が描き出されていく。永徳の残した絵を鑑賞するのにも参考になって興味深い。狩野派の流儀の枠に留まりながら、心の奥底には狩野派の画法を超越した己一人の絵を描きたかったのではないかという局面を感じさせて、興味深い。緋連雀の墨絵がキーになっているように思える。永徳の作品あるいは作品群のいくつかを柱にして展開されている。読み応えがある。

 18歳の永徳は、近衛家の鷹匠・野尻久兵衛に頼んでいた緋連雀の生け捕りができたという知らせを得て、喜び勇んで出かける。それは「美しく変化に富んだ羽の色の具合をなんとか絵に描きたくて」(p8)という、女より恋しい思いが叶う日である。永徳は日当たりのいい縁に置かれた鳥籠の中の緋連雀を前久や女人の前で写生する。18歳の永徳は既に「絵ならだれにも負けぬ」(p14)という自負を抱いている。永徳がその場で描いた絵を近衛屋敷の女人たちは賞賛する。その後、前久が永徳に1枚の墨絵を見せる。それは野尻久兵衛が緋連雀を捕らえたときに近づいて来た女人の頼みで絵を描かせてやったときの墨絵だという。あお向けになった緋連雀の動きと表情を瞬時に観察して、さらりとした筆致で巧に描かれているのだ。 その絵を前久の問いに対して、写生としては巧であるが品格に欠けている絵だと永徳は断じる。その1枚の墨絵を永徳は貰い受ける。前久への返答とは別に、その1枚の絵の描法が、その後の永徳の生涯に渡り一つの対極として存在するものと著者は位置付けていく。これがおもしろい。

 「絵は端正が第一義」それが狩野家に伝わる暗黙の画法だという。永徳は狩野一門の嫡子として祖父狩野元信から教え込まれ、狩野家に累々と蓄積されてきた粉本を初めとする流派の絵を感得して育ってきた。己の描く絵に自負を抱きながら、「端正」という狩野の命題の中でおさまりきらぬ己の絵師としての思いの発露との葛藤、家風の端正の義の表現に新基軸を注ごうと懊悩する局面を、著者は描き込む。
 興味深いのは、永徳が父・狩野松栄の絵の技倆が平凡であり、狩野家の伝統的な画法をただ墨守するだけの姿に一種軽蔑観を抱きながら、一方で大勢の弟子と一門を抱えた狩野派の総帥としての父の生き方、あり様を冷静に見つめている点である。個としての絵師の力量は見下しながら、画家集団の長としてのあり方には敬意を払うという永徳の思いの振幅がある。永徳が狩野一門の総帥の立場になるまでを生き生きと描き出していく。

 永徳は緋連雀を描いた女人を、弟子の友松に探させる。できれば弟子にしたいという思い、またそれ以上にもその未だ見ぬ女人を想い始める。しかしその女人の居場所がわかった時には、はやその望みは潰えざるをえないという結果になる。それが、後に長谷川等伯との確執の一端にも結びついて行くという展開がおもしろいところだ。この女人の存在は、著者の創作なのだろうか。気になる一石である。

 本作品は永徳が描いた作品あるいは作品群を柱にして、永徳の画業人生を展開する。
 最初が「緋連雀」(第1章)である。これに事実背景があるのか、架空なのかは知らないが、永徳が己の絵を探究する原点の一つとして、布石なっている。2007年に鑑賞した特別展覧会「狩野永徳」(京都国立博物館)で購入した図録を見ると、「花鳥図押絵貼屏風」の右隻第5扇に「枇杷に緋連雀図」を描き残している。

 次が、現在米沢市上杉博物館所蔵の国宝「洛中洛外図屏風」を永徳が描くプロセスである。著者は、この洛中洛外図屏風の成立を足利義輝が最初に永徳に命じたものとして描いていく。ここに近年のこの絵に対する専門家の研究動向がちゃんと取り込まれている。永徳の洛中洛外図屏風を鑑賞するのに、永徳の発想・思いとして描かれている視点が参考になる(第2章~3章)。洛中洛外図を描くにあたって、永徳と父・松栄の絵に対する考え方の違いが鮮明に描かれていておもしろい。
 また、第3章(「燕」)は、永禄6年(1563)春、21になった永徳が土佐家(土佐派)から18のさとを嫁に迎えるという節目を描く。一方、永徳がやっと緋連雀の墨絵を描いた女人-きよという名だった-に対面するシーンが登場する。きよは染物屋の描き絵職人だった。染物屋で見た善女龍王の絵が永徳の画心に衝撃を与える。そして、きよが黄八丈の小袖に燕の絵を描いたものを購う。それが妻・さとの目にとまる。「ほんに、よい燕です」(p140)とさとは感嘆の声をあげるのだ。その小袖はさとの手にわたる。

 第4章は、25歳の永徳が越後に下向し3年ばかりして京に戻ってきて、御殿を新築する。その御殿に襖絵を描く挿話である。御殿の襖を狩野の華麗な絵で飾ってほしいと要望しながら、新しい趣向の絵を前久は所望する。それが雲と龍を描くという展開になる。だが、その御殿は信長の上洛後、近衛前久が関白を罷免され大阪へ出奔、屋敷は解体移設され、雲と龍の襖絵は破却されるという顛末潭。ここに絵師の描き出した絵の運命が象徴されている。思いを込めた絵画がいつ滅び去るかもしれないと・・・・。余談だが、上掲展覧会には永徳が描いた雲龍図屏風が出品されていた。今治市河野美術館蔵、州信印の「雲龍図屏風」六曲一双である。永徳筆の伝承を伴う龍図は、5、6点現存するそうである。(図録、p256)
 だが、一方信長上洛の行列を見に行き、その場で絵筆を振るう姿を咎められ、木下藤吉郎と出会うことになる。それは、安土城へと繋がって行く。
 
 第5章は元亀2年の初夏、29歳の永徳は大友宗麟の招きで九州に旅する。宗麟の許に居る明国から来た僧侶・樹岩見山から永徳は「三つの”い”-一に意識の意、二に位の位、三に威勢の威」「造化の工」ということを学ぶ。帰京すると、息子の描いた絵を目にする。狩野家の粉本にはない画題の写し絵をそこに見る。父の弟子がその粉本を描いたのだという。それは長谷川信春(後の等伯)が描いたものだった。あの善女龍王を描いた人物。
 永徳は描いた瀟湘八景図を集まった父と集まった弟子たちに見せる。長谷川信春の目だけがその絵に冷淡に見える。永徳は長谷川にその絵について考えを述べさせるが、それがきっかけで永徳が父の弟子を破門してしまう。ここから、狩野永徳と長谷川等伯の画業における確執が生じて行くことになる。
 本書を読んだ副産物として、以前から関心を持っているが、等伯自体に一層興味を抱き始めている。永徳が善女龍王図を意識していると筆者が描くように、等伯は「瀟湘八景図屏風」(東京国立博物館所蔵、六曲一双)を描くとき、永徳を意識したのだろうか。

 第6章「安土城」はこの一章だけでも短編として読める。絵は一切現存しない。現存すればさぞかし壮麗な景色ではないだろうか。その様相に思いを寄せる。『信長公記』(太田牛一 桑田忠親校注・新人物往来社)の巻九「安土の御普請首尾仕るの事」の条(p202-204)を読むと、安土城御天主の次第として、どのような絵が描かれたか克明に項目が記述されている。第6章は永徳とその弟子たちが渾身の力を込めて、信長の意を体現するべく絵を描き挙げていく様子を活写している。著者はこの安土城の襖絵の完成に対し、信長が永徳に小袖、法印の地位と三百石の知行を与えたと記す。そして「天下一絵師を称するがよい」(p321)との一言を。著者はこの章で、対極として信長の審美眼をも描いている。

 第7章「黄金の宇治橋」は、長谷川等伯の描く絵が、狩野派の端正第一義に対抗する形で登場する。永徳が本格的に等伯を意識するという形で著者は描いているように感じる。下京に行ってみようと出かけた永徳が、六角堂にお参りし、三条通りを曲がって室町に戻ろうとするとき、路地の奥の人だかりを目にする。路地を入って三軒目に絵師の店があったのだ。そこで板敷きの間に置いてある六曲一双の屏風を目にする。黄金の宇治橋と柳、蛇篭と水車が、人々の度肝を抜く形で大胆に描かれているのである。「発想の大胆さに、永徳はまず感心した」と著者は記す(p332)。その絵師が長谷川等伯だったのだ。店先で永徳は等伯と言葉を交わすことになる。その絵には永徳をして「うらやましい」と思わせる局面があるのだ。そこに永徳の懊悩が秘められ、それがより一層、永徳が等伯に敵愾心を抱くことにもなっていく。章末に、著者は安土城が炎上し、永徳一門の渾身の作品群が消滅したことを描き込む。絵は永劫ではないという現実の思いが永徳に累積されていく。
 第8章「唐獅子」は羽柴秀吉の命により、織田信長の葬儀に絡み、信長の似せ絵を描くという挿話から始まるが、大阪城の襖絵などを飾る絵を描くという大プロジェクトがテーマとなっている。この場所もまた、永徳の画業の大きな山である。狩野派一門を組織として活用し、如何に秀吉の構想を絵として具現化していったかのプロセスが描かれていて面白く読める。秀吉の了解の下に、奥御殿御座の間に四季花鳥図を描く。だが最終段階でその完成した絵を破棄して「唐獅子」をいっきょに描き挙げていくという行動に出る。それはなぜか。永徳の絵師のこころの動きが描写されていく。
 すべての絵が完成し、それを秀吉がすべて見た後で、永徳に己の感想を語る。秀吉は仰々しが剛毅で見事な絵として唐獅子を受け入れ、秀逸と評する。そして、書院の間に永徳の父・松栄が描いた山水の図を凡庸でつまらない絵と言う。その秀吉が千利休に感想を求めると、永徳のを見事と評しながら、己の好みは書院の間の襖絵・山水の図であると感想を述べるのだ。秀吉と利休の審美眼・好みの違いを著者は対照的に描いている。秀吉と利休の確執の一端がでているようでもある。それはまた、利休が長谷川等伯の絵をよしとしたことにつながるのかもしれない。

 最後の第9章「花鳥の夢」は、大徳寺三門の天井や柱の絵を利休の依頼を受けて、等伯が描くということの挿話から始まる。永徳がますます等伯をライバルとして意識するというようになっていると著者は捕らえている。画風の違いが際立ってくる。その永徳が、等伯の画境を超える意識で、いくつかのプロジェクトを手掛け、東福寺法堂の天井画に挑んでいく姿を描く。だが、法堂に描くべき蟠龍の絵は永徳が描くことなく没することになる。この晩年が描かれている。
 狩野派の総帥となることを運命づけられ、己の絵に自負心をいだきつつ、端正を第一義とする狩野家の流儀において、己の心の中をのぞきつづけた絵師の一生。きよと長谷川等伯の絵が、永徳の反面の鏡となったようである。読み応えがあった。

 こんな章句が心に残る。
*絵は永劫ではない。
 紙に書いた絵だ。いずれ日に焼けて茶色く変色し、破れてしまう。あるいは燃えてしまう。そんな儚い絵であればこそ、つかの間の命を与えたい。その命に、永徳という絵師の命の熱を、ほんのわずかでも吹き込みたい。観る者にいささかなりとも感じてもらいたい。  p327
*それは、絵師のこころの作用だ。
 絵師が当たり前の風景を見て、こころの働きで組み立て直して筆で再構築する。
 だからこそ、面白い絵の世界が組み立てられる。そうでしかあり得ない。
 しかし、自分のなかの何が変われば、目の前の現の風景を斬新な構図として組み立て直すことができるのか。 p362


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関連語句をネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。

狩野図子 → 狩野元信邸跡 :「フィールド・ミュージアム京都」

狩野永徳 :ウィキペディア
狩野松栄 :ウィキペディア
狩野元信 :ウィキペディア
長谷川等伯 :ウィキペディア
狩野山楽 :ウィキペディア

緋連雀 :ウィキペディア

洛中洛外図 :ウィキペディア
狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》 金雲に輝く名画の謎を読む 「黒田日出男」
洛中洛外図屏風上杉本

狩野永徳筆 二十四孝図屏風 6曲1双
狩野永徳 :「Salvastyle.com」
 狩野永徳作『梅花禽鳥図(四季花鳥図襖)』
 狩野永徳作『唐獅子図屏風』
 狩野永徳作『檜図屏風』

柳橋水車図屏風 長谷川等伯 :「香雪美術館」
善女龍王図 長谷川等伯 :「長谷川等伯」(七尾商工会議所)
長谷川等伯の水墨画 瀟湘八景図屏風 :「水墨画(墨絵)の名画作品ギャラリー」


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 以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

『命もいらず名もいらず』(上/幕末篇、下/明治篇) NHK出版
『いっしん虎徹』 文藝春秋
『雷神の筒』  集英社
『おれは清麿』 祥伝社
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社
『まりしてん千代姫』 PHP
『信長死すべし』 角川書店
『銀の島』   朝日新聞出版
『役小角絵巻 神変』  中央公論社
『弾正の鷹』   祥伝社


『新・帝国主義の時代 右巻 日本の針路篇』 佐藤 優  中央公論新社

2013-08-05 13:42:53 | レビュー
 本書は、『新・帝国主義の時代』というメインタイトルで右巻・左巻の2冊で構成されている。右巻の奥書を見ると、『中央公論』(2009年3月号~2013年4月号)に全48回にわたって連載された「新・帝国主義の時代」を編集したものである。この右巻には『中央公論』の2011年7月号掲載の「大震災で弱体化した日本に中露韓は容赦なく牙をむく」を再構成し、加筆・修正したものが第1章に併せて所収されている。

 左巻は未読であるのでその具体的内容は私には不詳だが、この2冊の全体構成をまずご紹介しておこう。
 右巻目次
  序 章 大震災後の日本の針路
  第1章 震災後の日本
  第2章 日米同盟再論
  第3章 新・帝国主義時代の北方領土問題
  第4章 帝国主義化する中国にどう対峙するか
 左巻目次
  序 章 新・帝国主義の時代
  第1章 新しい帝国主義の潮流 - 「品格ある帝国主義」とは何か
  第2章 恐慌と帝国主義
  第3章 新・帝国主義への反発
  第4章 国家の生存本能と官僚の本質

 目次を外観する限り、左巻は過去の歴史と現在の潮流を概観して、現在を「新・帝国主義」と規定する考え方のフレームワークについて、著者の論理を実証的に論じているのだろうと推論した。そこで、理論的側面の論理展開は後回しにして、ごく最近の時事的事象を対象にした実践編として、日本の針路について著者の主張を展開していると思われる右巻を優先させて読むことにした。
 『中央公論』の連載は一切読んでいないので、掲載時の個別論文としてではなく、後付けで編集された論文の繋がり、関連性で本書を読んだ。個別論文としてその都度読めば、その当時のホットな話題として、また違った読後印象を抱いていたかもしれない。

 本書の「あとがき」の引用によれば、2013年1月に『産経新聞』が「新帝国主義」という特集をおこなっているそうだ。その中で、「冷戦終結後、植民地獲得はしなくても自国の権益拡大に腐心する国」を「新・帝国主義」と名付けたのが著者・佐藤優氏だと記している。
 この右巻で著者はこう説明する。「新・帝国主義は19世紀末から20世紀前半の植民地分割をめぐり世界大戦を引き起こした古典的帝国主義とは異なり、植民地を必要としない。なぜなら植民地維持にコストがかかるからだ。しかし、外部からの収奪と搾取を強めて国益増進を図るという帝国主義の本質は維持される。また、帝国主義国にとって武器輸出は重要なビジネスなので、戦争を歓迎する。ただし相互に壊滅的打撃を与えるような大国間の直接戦争は避ける。」さらに、こう続ける。「帝国主義国は、まず相手の立場を考えずに自国の利益を最大限に主張する。相手が怯み、国際社会も沈黙しているならば、帝国主義国は露骨に自らの権益を拡張していく。これに対して、相手国が必死になって抵抗し、国際社会も『いくらなんでもやり過ぎだ』という反応を示すと、帝国主義国は妥協し、国際協調に転じる。この政策転換は、帝国主義国がこれ以上、強硬な対応を取り続けると、国際社会の反発が強まり、結果として自国が損をするという冷徹な計算に基づいてなされる。」(p508)
 著者は、国際社会のゲームのルールをつくる既存の帝国主義国として、米国、ロシア、EUを挙げ、それに日本を加えている。そして急速に国力をつけ、露骨な新・帝国主義的政策をとっている国が中国だと指摘する。そして、「既存のゲームのルールに一応従っているが、それに挑戦し、中国にとって有利な新・帝国主義の時代に即したルールの変更を狙っている」(p509)と言う。

 本書において、著者は過去の歴史を踏まえて、ここ数年の日本の領土と係わる時事的事象を採りあげ、新・帝国主義という文脈の上で、その個別事象が大きな国家戦略とどうかかわり、どういう位置づけにあるのか、を分析している。新聞報道では点的にしかわからない事象が、そいういう位置づけで解釈できるのかということが見えてきて、興味深くかつおもしろい。著者は独自に培い、今も情報収集・情報交換をしている友人ネットワークからの情報と過去並びに直近に公刊あるいは報道・公表された公開情報を駆使して、インテリジェンスとしての情報の読み方実践編を本書で展開しているといえる。

 読後印象を簡略にまとめてみたい。
<序章 大震災後の日本の針路>
 コーカサスの少数民族研究をライフワークにしているというアルチューノフ氏(ロシア民族学・人類学研究所コーカサス部長)との対話をキーに論旨が展開される。亞民族の複合アイデンティティーが、交渉に有利に作用する。その特性を有する人は、皮膚感覚で相手の立場になって考えることができるからだとアルチューノフ氏が語ったという。また、大勢の民族と少数民族・亞民族の対立する双方の立場は交わらないので無理に問題を解決しようとせず棲み分けることが重要だとする点は興味深い。
 普天間飛行場問題を軸にしながら、長年の間に構造化された差別が存在し、その認識を東京の政治エリートがもっていないこと、つまり沖縄を差別しているという認識のなさを指摘している。

<第1章 震災後の日本>
 東日本大震災で弱った日本を餌食にしようと考えている諸国があると著者は考える。我が国にニヒリズムの傾向が見られる一方で、日本政治をナルシズムが蝕み始めていると警鐘を発している。2011年6月16日の大韓航空による竹島上空でのデモ飛行に対する外務省の対応-大韓航空の利用を自粛ーを、ナルシズムの罠にあたる事例として論じている。
 ナルシズムという見方は興味深い。警鐘と受け止めた。

<第2章 日米同盟再論>
 最近の日本の思いつき外交の愚(2009年10月、岡田外相のアフガニスタン電撃訪問)、北方領土問題における外務官僚の不作為、管直人氏の党内身内に述べたという失言(「沖縄は独立したほうがいい」)などの事象を列挙し、日本の外交領域における弱さの露呈、パニック状況について論じている。沖縄の日本からの分離独立の危険性が現実に存在すると著者は見立てている。「沖縄の部分的な外交権回復を認め、沖縄の広範な自治を認める連邦制に近い国家体制への転換を行わないと、日本の国家統合を維持することができなくなる危険がある」(p212)とまで論じている。
 沖縄の分離独立という発想がなかったので、そのファクターを考慮すると地政学的にも大きく見方が変わらざるを得ないだとう。沖縄の人々の思いは? 関心が高まる。

<第3章 新・帝国主義時代の北方領土問題>
 ロシアとどう付き合うべきか、について著者の外務省入省式の話から始め、エリツイン大統領との交渉時代あたり以降の歴史的変遷を概略する。そして、プーチン大統領からメドベージェフ大統領への交代以降、ロシアの対日姿勢が急速に硬化している状況を分析している。エリツインの「五段階論」に対して、メドベージェフは「逆五段階論」を取ってきたと分析する。そして、再びメドベージェフからプーチンへの大統領の交替が実現すればどうなるかを論じている。北方領土問題に対するそれぞれ認識の違いが読み取れておもしろい。現時点では既に、プーチンが大統領に復帰している。著者の分析が読み通りになるかどうか、注目していきたい。
 著者はプーチンの返り咲きを好機ととらえる。プーチンの諸論文を分析し、「プーチン体制下で、ロシアは、欧米や日本とは異なる理念に基づく国家建設を進めることになる。そのようなロシアと取引できる戦略を構築することが、日本政府の愁眉の課題と思う」(p345)と述べている。また、「深化した日米同盟の上に、ロシアが提携し、中国を牽制するというのがプーチンの基本戦略」(第4章、p452)とも言う。
 この章を読み関心をそそられるのは、政治家や高級官僚の発言に含まれたフレーズの片言また、メッセージや献花ですら、インテリジェンスの観点からはどのように分析し、解釈され得るかという著者の解説である。さらに、国営ラジオ「ロシアの声」やインターネット上で公開されている日本語版「ロシアの声」が、外交の最先端ツールとしてどのように組込まれ、利用されているかの解析と説明だ。そこに著者のインテリジェンスが窺える。
 「ロシアを動かすためには、帝国主義的発想に基づく『大風呂敷』を広げることが不可欠であるということだ。ロシアは本質において、帝国主義国で、力の論理の信奉者である。従って、日本が知恵を働かして、対露外交戦略を構築しないと、ロシアは力で日本に譲歩を迫ってくる」(p223)と著者は記す。著者は現状の外務省の実態に危うさをすら感じているのではないか。そんな気がする。

<第4章 帝国主義化する中国にどう対峙するか>
 著者は毛沢東の「十大関係について」という演説で述べられた重要な考え方から論じ始め、中国の国家体制を分析していく。作家の高橋和巳が、毛沢東を仏教の菩薩との類比で理解しようとしていたことを引用紹介している点が面白い。また、アルバニアの独裁者エンベル・ホッジャが中国の野望をどのように観測しているかも論じている。このあたりは、社会主義圏の情報通である著者の独壇場のように思う。
 著者は明確に「尖閣諸島をめぐる日本の領土問題は存在しない」と断定する。しかし、「国家主権の基本をめぐる問題については、どの国家も利己的に振る舞うのである。領土問題に関して普遍的な処方箋は存在しない」(p459)と洞察している。そして、「領土問題は存在しない」だけでは何も解決しないのであり、外交交渉を恐れてはならないと主張し、独自のシナリオを提案している。それが、本章の締めくくりでもある。
 原則論をお題目の如く唱えるだけでは、大国間の国際外交はできないという冷徹な見方があるようだ。基盤は不動で、表層部分では柔軟な戦略と対応力による粘り強い交渉がなされなければならないということなのだろう。

 帝国主義という用語は好きになれないが、形を変えた帝国主義がやはり世界で進行しているということなのか。ウィキペディアに「新帝国主義」という項目を見つけた。本書では、「新・帝国主義」とタイトルで記している。このナカテンに意味があるようだ。左巻を読めば、このあたりがたぶんさらに詳しく分析され論理展開されているのだろう。
 現状認識を深める材料として、著者の見識と警鐘は参考になる。該博な知識と膨大な情報処理力には驚くばかりである。


 ご一読ありがとうございます。

関連する語句をいくつかネット検索してみた。一覧にしておきたい。

帝国主義 :ウィキペディア
新帝国主義 :ウィキペディア
New Imperialism :From Wikipedia, the free encyclopedia
Imperialism :From Wikipedia, the free encyclopedia

注目記事
大震災で弱体化した日本に中露韓は容赦なく牙をむく  :「中央公論」
佐藤優=作家・元外務省主任分析官~「中央公論」2011年7月号掲載

北方領土問題 :ウィキペディア
北方領土問題  :「外務省」
  北方領土問題とは?

竹島(島根県):ウィキペディア 
竹島問題について :「首相官邸」
Outline of Takeshima Issue :「外務省」の英文ページ
Dokdo-or-Takeshima?
  英文記事と日本文記事が掲載されている。情報ソースとのリンクも考慮されているようだ。

尖閣諸島問題 :ウィキペディア
日中関係(尖閣諸島をめぐる情勢) :「外務省」
日本は尖閣問題を「棚上げ」するのが得策だろう
 =コロンビア大教授 ジェラルド・カーティス氏 :「日本リアルタイム」
普天間基地移設問題 :ウィキペディア
普天間基地問題 :「沖縄県本部/宜野湾市職員労働組合」
時論公論 「埋め立て申請・進むのか普天間基地移設」:「NHK解説委員室」

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十大関係について :「毛沢東撰集 第五巻」
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