何がきっかけでこの本を知ったのか思い出せない。タイトルが面白くて読んでみることにしたのだろう。読み始めてエッセイ集であると知った。「文學界」(2015年3月号~2016年9月号)に掲載されたエッセイに加筆し、再編集されて2017年2月に単行本が刊行された。調べてみて知ったのだが、今年(2022)の2月に文庫化されている。
この文庫本には単行本にはない「鷗外先生とわたし」という副題が付いている。(付記:鷗という漢字は変換の際に環境依存文字と出るので、以下鴎の漢字で代用する。ご理解いただきたい。)
本書にはエッセイが13編と史料の翻訳2つが収録されている。一番最初に「切腹考」、その次に「鴎外先生とわたし」が続く。目次が「文學界」に掲載された順なのかどうかは知らない。収録の順番も再編集されているのかもしれない。だが、文庫化にあたり「鴎外先生とわたし」を副題につけたのは、わかりやすいと思うし、ミスリードすることもなくなるだろう。「切腹考」だけだと、「切腹」に大きな比重が置かれたもの中心という先入観を持ちそうだから。私がタイトルだけを知って、その印象から読み始めた一人なので・・・・。
本書を読み通してわかったのは、「切腹」に関連して著者の関心事項を論じたエッセイと、詩人である著者が森鴎外の作品に寄せる関心や分析を論じたエッセイをまとめているということ。切腹や森鴎外の作品に接点を持つ形で書かれたエッセイも含まれている。
研究者であった前の夫と渡米し長年一緒に生活してきたイギリス人の夫。それぞれとの生活を過ごしながら、詩人として生きてきた己の有り様も描き込む。そこに、切腹や森鴎外に対する視点と思考が絡んでいる。
興味深いのは、詩人であることに拘る著者が、長年に亘り鴎外の作品を繰り返し読み続け、考え続けてきた結果が吐露されていることである。だが、森鴎外研究者のスタンスではない点がエッセイの中に明記されている。その点もおもしろい。
本書の最初に「切腹」をテーマとする<切腹考>というエッセイが載る。冒頭「世の中に切腹愛好家多しといえども、実際に生の切腹を見たことがある人はなかなかいないだろう。わたしはそのひとりなのだった。」から始まる。えっ!と引きつける。その体験談が語られている。熊本在で個人営業の内科医院の医師O氏が白装束で作法通りに切腹プレイを一部実演した。実際に脇差を左の脇腹に突き刺したという。併せて、切腹愛好家と切腹小説に言及していく。
2つめの<鴎外先生とわたし>は、最初のエッセイの余韻なのかどうかわからないが、切腹のファンファジーから書き出される。だが、なぜか「鴎外が好き」という一文から鴎外先生への傾倒に話が飛んでいく。好きという感情、鴎外に執着させられる説明を著者は試みる。鴎外の擬古文の文体と表現法、文のリズムに魅了されてきた点を論じていく。このエッセイ集、森鴎外の作品を読む上で、著者の視点を介してひとつの案内役となる。読み方のヒントを得られる。
さて、「切腹」に関連していくエッセイには次のものがある。
<弥五右衞門>
細川三斎忠興公の十三回忌に殉死の本望を遂げるために切腹して果てる「興津弥五右衞門の遺書」の初稿を著者が直訳する。
一方、「森鴎外」に関連していくエッセイは次のものがある。
<普請中>
マーマイトからの連想が、鴎外の「独逸日記」の記述や短編「普請中」の一部に連鎖し、一方で、著者が3週間、ベルリンに済んだ経験が重ねられていく。
<ばあさんとじいさん>
著者が鴎外の作品について、つねづね考えてきたことの一端を、ウンター・デン・リンデンのそばにある「森鴎外記念館」副館長で研究者のBさんとの出会いを契機に語る。鴎外作<ぢいさんばあさん」(p117)の主人公るん、「安井夫人」の安井夫人であるお佐代、そしていちが「みな同一の人格」だということや、「舞姫」のエリスは、「マルガレーテ、お蝶その他が合体した人格じゃないか」(p117)という発想が語られる。「るんという一人の女が、すべての女たちの個性をまとめ上げたものに近づいていくような気さえする」(p119)という。鴎外の描く女性像について、著者は特に関心を持っていることが良く分かる。
<ヰタ・リテラーリス>
「伊藤しろみ君は詩人である」という一文からはじまる。「しろみ」は友人のIさんやIさんの夫の呼びかけの表現である。(誤植ではない。)この文は20代後半から30年近くを経てきた詩人伊藤比呂美としての文学遍歴を語る。所謂行分けの現代詩を書かなくなって久しい理由にも言及している。 著者は、鴎外の「ヰタ・セクスアリス」風に記述するるつもりだったようだが、「捨ててみた。すると『わたし』が出てきて、エッセイみたいになり、事実を其の儘書いているように見えるが、なんの、フィクションです。」(p132)という微妙な一文を書き加えている。
若き時代の子育てと文学人生の回顧エッセイである。「鴎外選集」第16巻との出会いについても語る。説経節について自分たちの定義も記している。
<山は遠うございます>
「日本に帰るか帰るまいか」アメリカに居てSさんの情報誌で人生相談を始めた経緯を記す。そして「日本の文化には、酷薄という言葉がぴったりする」という実感について語る。鴎外が「花子」に書いた「山は遠うございます。海はぢき傍にございます。」とリンクさせている。
「阿部一族」のある箇所の文章を行分けして書き、「鴎外の文章は行分けしてこそ活き活きとしてくる。」(p156)と論じている。さらに、ヨーロッパの近代文学には書かないことを、鴎外は「おのれが生きる、生きて窒息しているこの世界」を整理するために書かずにいられないのだとすら著者は論じている。
<隣のスモトさん>
鴎外の「阿部一族」は有名である。代表作の一つに取り上げられる。著者はこの話をいやな話だという。そして、その背景を語る。この小説には「阿部茶事談」というソースがあることを、このエッセイで初めて知った。その概略を語り、鴎外がどのように「阿部一族」に翻案したかに触れている。深作欣二の映画「阿部一族」に展開していくところがおもしろい。殉死の根っ子にもふれている。
<阿部茶事談(抄)>
藤本千鶴子さんが原文を翻刻された「阿部茶事談(抄)」を著者がほぼ直訳したという。これはエッセイではなく、35ページの翻訳物である。鴎外の「阿部一族」に一歩深く踏み込むのに役立ちそうである。鴎外の「阿部一族」は大昔に芝居として観劇したことがある。鴎外の本が書棚に眠っている。鴎外の小説を読みたくなってきた。
著者の人生を描写する一断面に「切腹」あるは「鴎外」と関わる接点を含ませたエッセイもある。
<どの坂もお城に向かう>
熊本城を中心にした地形を語り、切腹小説家宮坂三郎さん、哲学者山折哲雄さんに触れている。前半生を侍の文化の中で生きてきた鴎外の小説に、斬られる、切腹する、斬られて死ぬ場面は多いが、「痛いの苦しいのとは一言も書いていない」(p50)という点に着目している。この点での切腹小説との対比がおもしろい。
<先生たちが声を放る>
刀剣研究、古武術での歩き方の基本、手裏剣、アメリカでのズンバの練習、合気道、乗馬などの経験談が語られる。
<マーマイトの小瓶>
トーストに塗って食べるマーマイトについて語る。夏目漱石の「倫敦消息」を読んだことを契機に、漱石の足跡を追うことと、イギリス人の夫とロンドンに滞在したときの経験などを語る。一方、著者は漱石にそれほど関心を持っていないこともわかる。
<ダフォディル>
一行目に書かれているが、ダフォディルはラッパ水仙のこと。この英単語知らなかった。ダフォディルに絡んだ詩の話を覚えているかと、著者が夫に問いかけるところから始まる。病床につく老いたる夫のおしっこ、うんこの世話をすることに奮闘する姿がリアルに語られている。大学病院のERの部屋、夫の傍の隅の椅子に座り青空文庫に収録されている鴎外の作品を著者が読むことから、鴎外にリンクしていく。最後に鴎外作「能久親王年譜」に触れている。
<地震>
2016年4月14日夜、益城を震源地とする熊本大地震が発生した。この大地震の発生した時期に、著者は夫を看護し、彼の死を見つめる最終ステージに入っていた。熊本地震に遭遇した友人たちとのメール交信による現地状況の理解と、二十年来共に生活してきた夫との別れに臨む状況とがパラレルに進行する。このエッセイは、「夫は死骸になり果てた」という一行から始まる。ここで著者は、鴎外がハインリッヒ・フォン・クライスト著「チリの地震」を「地震」と題して翻訳したその内容に言及していく。
(森林太郎トシテ死)
この最後に収録されているエッセイはなぜか見出しが丸括弧付きになっている。
エッセイの内容は、夫が残したアメリカの家の裏庭に大きく繁った11本のユーカリの木にまつわる話である。夫の死後しばらくして、隣人が落葉の鬱陶しさなどと火災の際のリスクを理由にその伐採を要望してくる事態に直面する。一人でそれに対応しなければならない著者の煩わしい心理を題材にしている。この問題は、夫が生きていた数年前に起こって既に起こっていたのだ。その時は、著者の夫が反撃した。
隣人が適意を持ち始めていると感じ、伐採の契約書に合意のサインをする己を想像する時に、鴎外の残した遺書の内で一番短い、一番悲痛な一文、それが鴎外の声として聞こえたと記す。
言葉の問題とともに、文化の違い、コミュ二ティの問題が大きく関わっていることが伝わってくる。
読み終えて、私の関心は、切腹についての著者の考察や関心を知ることよりも、著者が森鴎外の作品をライフワークとして考察し、その内容を語っていることに比重が移っていた。併せて、1980年代に著者がどんな詩を発表していたのかにも関心が出て来た。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して関心の波紋を少し広げてみた。一覧にしておきたい。
千葉徳爾 :ウィキペディア
切腹 作品一覧 :「pixiv」
切腹 作品一覧 :「カクヨム」
椿説弓張月 :ウィキペディア
刀剣研究連合会 ホームページ
ズンバ(Zumba)とは :「Move & Music」
初心者向けのZumbaワークアウト YouTube
15分ズンバダンスワークアウト(初心者向け自宅) YouTube
マーマイト :ウィキペディア
説経節 :ウィキペディア
説経節とは? :「東村山市」
千僧供養 :「コトバンク」
万僧供養 :「コトバンク」
熊本地震(2016年) :ウィキペディア
作家別作品リスト:No.129 森鴎外 :「青空文庫」
伊藤比呂美 :ウィキペディア
詩人・伊藤比呂美はなぜ「切腹」に興味をひかれたのか :「文春オンライン」
『切腹考』――著者は語る
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
この文庫本には単行本にはない「鷗外先生とわたし」という副題が付いている。(付記:鷗という漢字は変換の際に環境依存文字と出るので、以下鴎の漢字で代用する。ご理解いただきたい。)
本書にはエッセイが13編と史料の翻訳2つが収録されている。一番最初に「切腹考」、その次に「鴎外先生とわたし」が続く。目次が「文學界」に掲載された順なのかどうかは知らない。収録の順番も再編集されているのかもしれない。だが、文庫化にあたり「鴎外先生とわたし」を副題につけたのは、わかりやすいと思うし、ミスリードすることもなくなるだろう。「切腹考」だけだと、「切腹」に大きな比重が置かれたもの中心という先入観を持ちそうだから。私がタイトルだけを知って、その印象から読み始めた一人なので・・・・。
本書を読み通してわかったのは、「切腹」に関連して著者の関心事項を論じたエッセイと、詩人である著者が森鴎外の作品に寄せる関心や分析を論じたエッセイをまとめているということ。切腹や森鴎外の作品に接点を持つ形で書かれたエッセイも含まれている。
研究者であった前の夫と渡米し長年一緒に生活してきたイギリス人の夫。それぞれとの生活を過ごしながら、詩人として生きてきた己の有り様も描き込む。そこに、切腹や森鴎外に対する視点と思考が絡んでいる。
興味深いのは、詩人であることに拘る著者が、長年に亘り鴎外の作品を繰り返し読み続け、考え続けてきた結果が吐露されていることである。だが、森鴎外研究者のスタンスではない点がエッセイの中に明記されている。その点もおもしろい。
本書の最初に「切腹」をテーマとする<切腹考>というエッセイが載る。冒頭「世の中に切腹愛好家多しといえども、実際に生の切腹を見たことがある人はなかなかいないだろう。わたしはそのひとりなのだった。」から始まる。えっ!と引きつける。その体験談が語られている。熊本在で個人営業の内科医院の医師O氏が白装束で作法通りに切腹プレイを一部実演した。実際に脇差を左の脇腹に突き刺したという。併せて、切腹愛好家と切腹小説に言及していく。
2つめの<鴎外先生とわたし>は、最初のエッセイの余韻なのかどうかわからないが、切腹のファンファジーから書き出される。だが、なぜか「鴎外が好き」という一文から鴎外先生への傾倒に話が飛んでいく。好きという感情、鴎外に執着させられる説明を著者は試みる。鴎外の擬古文の文体と表現法、文のリズムに魅了されてきた点を論じていく。このエッセイ集、森鴎外の作品を読む上で、著者の視点を介してひとつの案内役となる。読み方のヒントを得られる。
さて、「切腹」に関連していくエッセイには次のものがある。
<弥五右衞門>
細川三斎忠興公の十三回忌に殉死の本望を遂げるために切腹して果てる「興津弥五右衞門の遺書」の初稿を著者が直訳する。
一方、「森鴎外」に関連していくエッセイは次のものがある。
<普請中>
マーマイトからの連想が、鴎外の「独逸日記」の記述や短編「普請中」の一部に連鎖し、一方で、著者が3週間、ベルリンに済んだ経験が重ねられていく。
<ばあさんとじいさん>
著者が鴎外の作品について、つねづね考えてきたことの一端を、ウンター・デン・リンデンのそばにある「森鴎外記念館」副館長で研究者のBさんとの出会いを契機に語る。鴎外作<ぢいさんばあさん」(p117)の主人公るん、「安井夫人」の安井夫人であるお佐代、そしていちが「みな同一の人格」だということや、「舞姫」のエリスは、「マルガレーテ、お蝶その他が合体した人格じゃないか」(p117)という発想が語られる。「るんという一人の女が、すべての女たちの個性をまとめ上げたものに近づいていくような気さえする」(p119)という。鴎外の描く女性像について、著者は特に関心を持っていることが良く分かる。
<ヰタ・リテラーリス>
「伊藤しろみ君は詩人である」という一文からはじまる。「しろみ」は友人のIさんやIさんの夫の呼びかけの表現である。(誤植ではない。)この文は20代後半から30年近くを経てきた詩人伊藤比呂美としての文学遍歴を語る。所謂行分けの現代詩を書かなくなって久しい理由にも言及している。 著者は、鴎外の「ヰタ・セクスアリス」風に記述するるつもりだったようだが、「捨ててみた。すると『わたし』が出てきて、エッセイみたいになり、事実を其の儘書いているように見えるが、なんの、フィクションです。」(p132)という微妙な一文を書き加えている。
若き時代の子育てと文学人生の回顧エッセイである。「鴎外選集」第16巻との出会いについても語る。説経節について自分たちの定義も記している。
<山は遠うございます>
「日本に帰るか帰るまいか」アメリカに居てSさんの情報誌で人生相談を始めた経緯を記す。そして「日本の文化には、酷薄という言葉がぴったりする」という実感について語る。鴎外が「花子」に書いた「山は遠うございます。海はぢき傍にございます。」とリンクさせている。
「阿部一族」のある箇所の文章を行分けして書き、「鴎外の文章は行分けしてこそ活き活きとしてくる。」(p156)と論じている。さらに、ヨーロッパの近代文学には書かないことを、鴎外は「おのれが生きる、生きて窒息しているこの世界」を整理するために書かずにいられないのだとすら著者は論じている。
<隣のスモトさん>
鴎外の「阿部一族」は有名である。代表作の一つに取り上げられる。著者はこの話をいやな話だという。そして、その背景を語る。この小説には「阿部茶事談」というソースがあることを、このエッセイで初めて知った。その概略を語り、鴎外がどのように「阿部一族」に翻案したかに触れている。深作欣二の映画「阿部一族」に展開していくところがおもしろい。殉死の根っ子にもふれている。
<阿部茶事談(抄)>
藤本千鶴子さんが原文を翻刻された「阿部茶事談(抄)」を著者がほぼ直訳したという。これはエッセイではなく、35ページの翻訳物である。鴎外の「阿部一族」に一歩深く踏み込むのに役立ちそうである。鴎外の「阿部一族」は大昔に芝居として観劇したことがある。鴎外の本が書棚に眠っている。鴎外の小説を読みたくなってきた。
著者の人生を描写する一断面に「切腹」あるは「鴎外」と関わる接点を含ませたエッセイもある。
<どの坂もお城に向かう>
熊本城を中心にした地形を語り、切腹小説家宮坂三郎さん、哲学者山折哲雄さんに触れている。前半生を侍の文化の中で生きてきた鴎外の小説に、斬られる、切腹する、斬られて死ぬ場面は多いが、「痛いの苦しいのとは一言も書いていない」(p50)という点に着目している。この点での切腹小説との対比がおもしろい。
<先生たちが声を放る>
刀剣研究、古武術での歩き方の基本、手裏剣、アメリカでのズンバの練習、合気道、乗馬などの経験談が語られる。
<マーマイトの小瓶>
トーストに塗って食べるマーマイトについて語る。夏目漱石の「倫敦消息」を読んだことを契機に、漱石の足跡を追うことと、イギリス人の夫とロンドンに滞在したときの経験などを語る。一方、著者は漱石にそれほど関心を持っていないこともわかる。
<ダフォディル>
一行目に書かれているが、ダフォディルはラッパ水仙のこと。この英単語知らなかった。ダフォディルに絡んだ詩の話を覚えているかと、著者が夫に問いかけるところから始まる。病床につく老いたる夫のおしっこ、うんこの世話をすることに奮闘する姿がリアルに語られている。大学病院のERの部屋、夫の傍の隅の椅子に座り青空文庫に収録されている鴎外の作品を著者が読むことから、鴎外にリンクしていく。最後に鴎外作「能久親王年譜」に触れている。
<地震>
2016年4月14日夜、益城を震源地とする熊本大地震が発生した。この大地震の発生した時期に、著者は夫を看護し、彼の死を見つめる最終ステージに入っていた。熊本地震に遭遇した友人たちとのメール交信による現地状況の理解と、二十年来共に生活してきた夫との別れに臨む状況とがパラレルに進行する。このエッセイは、「夫は死骸になり果てた」という一行から始まる。ここで著者は、鴎外がハインリッヒ・フォン・クライスト著「チリの地震」を「地震」と題して翻訳したその内容に言及していく。
(森林太郎トシテ死)
この最後に収録されているエッセイはなぜか見出しが丸括弧付きになっている。
エッセイの内容は、夫が残したアメリカの家の裏庭に大きく繁った11本のユーカリの木にまつわる話である。夫の死後しばらくして、隣人が落葉の鬱陶しさなどと火災の際のリスクを理由にその伐採を要望してくる事態に直面する。一人でそれに対応しなければならない著者の煩わしい心理を題材にしている。この問題は、夫が生きていた数年前に起こって既に起こっていたのだ。その時は、著者の夫が反撃した。
隣人が適意を持ち始めていると感じ、伐採の契約書に合意のサインをする己を想像する時に、鴎外の残した遺書の内で一番短い、一番悲痛な一文、それが鴎外の声として聞こえたと記す。
言葉の問題とともに、文化の違い、コミュ二ティの問題が大きく関わっていることが伝わってくる。
読み終えて、私の関心は、切腹についての著者の考察や関心を知ることよりも、著者が森鴎外の作品をライフワークとして考察し、その内容を語っていることに比重が移っていた。併せて、1980年代に著者がどんな詩を発表していたのかにも関心が出て来た。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して関心の波紋を少し広げてみた。一覧にしておきたい。
千葉徳爾 :ウィキペディア
切腹 作品一覧 :「pixiv」
切腹 作品一覧 :「カクヨム」
椿説弓張月 :ウィキペディア
刀剣研究連合会 ホームページ
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15分ズンバダンスワークアウト(初心者向け自宅) YouTube
マーマイト :ウィキペディア
説経節 :ウィキペディア
説経節とは? :「東村山市」
千僧供養 :「コトバンク」
万僧供養 :「コトバンク」
熊本地震(2016年) :ウィキペディア
作家別作品リスト:No.129 森鴎外 :「青空文庫」
伊藤比呂美 :ウィキペディア
詩人・伊藤比呂美はなぜ「切腹」に興味をひかれたのか :「文春オンライン」
『切腹考』――著者は語る
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)