遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『遺産 The Legacy 』 笹本稜平  小学館

2013-12-31 11:52:39 | レビュー
 いままで読んだことのない作家の作品だが、沈没船の表紙絵とタイトルに引かれて読んだもの。水中考古学者とトレジャーハンター会社との間でのスペイン沈没帆船の引き上げ回収をめぐる海洋ストーリーものである。海洋冒険ものの作品は、クライブ・カッスラーの諸作品をこの読後印象記を書き始めるかなり前から読み継いできているので、ついつい引きつけられるジャンルなのかもしれない。
 本書は実に私の好みに合致するものだった。読み応えが十二分にあると思う。一読をお勧めしたい。

 本書のテーマは冒頭に記したように、水中文化遺産の取り扱いをめぐるもの。学者の研究という立場と金儲けを狙うトレジャーハンターの立場の対立・確執である。だが、その根底には、何に人生をかけるかという生き様がテーマになっている。「富も名声も結果に過ぎない。大事なのは一回きりの人生をどう生きたかだ。なんの見返りも求めることなく、全霊を投じて生きた人生こそ美しい。」(p257)とアントニオの言葉として著者は記す。

 主人公は興田真佐人。水中考古学研究者であるが、大学、研究所に所属せず個別契約で水中遺跡発掘のプロジェクトに参加するフリーの立場を取っている。一匹狼の道を選んだのだ。スキューバダイビング教室のインストラクター兼フロア担当アシスタント・マネジャーとしてカリブ海での高級クルーズ客船で仕事をして世過ぎをしている。
 それは彼に一つの大きな目的があるからだ。真佐人から数えて二十代近く前の先祖にあたる興田正五郎が航海士として乗船し難破沈没したと言われているガレオン船を発見して引き上げるという目的である。正五郎が乗船した船も特定できないし、沈没した場所もわからない。そんな状況からの探索は学界になじまない。それ故に、大学や研究所という組織に縛られずに探索・研究し自由に行動できる生き方を選択したのだ。

 真佐人の父は内航貨物船の船長で、真佐人が15歳のとき、台風の接近による海難事故で死んだ。ブリッジで体と操舵装置をロープで結び、舵輪を握ったまま、紀伊半島沖の海底で死んだ。彼は大伯父の援助で東京の大学に進学し、考古学を専攻した。一族の長老であるその大伯父から正五郎についての伝説的な話を聞かされ、家伝の古いスペイン銀貨と景徳鎮の産とされる磁器類を見てきている。それを考古学の専門家となった時点で、真佐人は本物だと鑑定することになる。その大伯父が真佐人に言った言葉が、「埋もれてしまった魂の遺産を堀り起こして欲しいんだ」というものだった。
 正五郎のあと、一族で船乗りになったのは真佐人の父が初めてだったという。大伯父は真佐人に言う。「おまえもどこかに正五郎の魂を受け継いでいるわけだろう」と。

 アントニオはクルーズ客船の乗客で、真佐人の教室の生徒となり、真佐人の沈没船発掘目的を聴き、その生涯の夢に突き動かされた人物である。真佐人はアントニオにちょっと気になる文献をメキシコの国立公文書館で発見したことを語って聞かせていたのだ。アントニオはスペイン人でリゾート開発事業を手広く行う大富豪。そのアントニオが真佐人の夢の実現に資金的援助を申し出る。短期的な金儲け、トレジャーハンターではなく、水中文化遺産を引き上げて文化遺産として全体を維持保管、展示する形の長期的視点のビジネスモデルに結びつけて、アントニオは彼自身の事業家の視点での夢を見いだすことになる。このアントニオの資金援助というオファーで真佐人は夢の実現へさらに大きな一歩を踏み出せるのだ。正五郎の難破船がどこにあるかが問題となる。

 真佐人が発見したのは、アンヘル・デ・アレグリア(喜びの天使)という難破船のことを記述した文献だった。真佐人は母校東都大学の田野倉教授にその情報をインターネットで送付し、解析を依頼しておいた。

 アントニオの申し出とタイミング良く、田野倉から幸先の良さそうなEメールが真佐人に届く。アンヘル・デ・アレグリアの船名がセビリアの古文書館に記録が残されていて、実在の確認ができたこと。海上保安庁の測量船が日本のEEZ(排他的経済水域)には入っていない公海上で、未発見だった海山を発見し、海山の頂上に近い水深50mくらいの斜面に人工物とみられるものが機器調査でわかったということ。海洋情報部から田野倉に難破船の記録がないかと問い合わせてきたという。その地点がアンヘル・デ・アレグリアの記録と一致しそうだと田野倉は判断したのだ。
 まさに真佐人にとっては朗報。4日後に下船するので、東京へ直行する旨、真佐人は田野倉に直接連絡を入れる。様々な裏づけ情報分析がまず必要だが、真佐人の夢、沈没船の発掘・引き上げの夢が、まさに始動することになる。

 水中文化遺産の発見、発掘、引き上げ、遺産保護という真佐人の夢。学者・研究者の立場で臨むのは、真佐人、田野倉教授、そして田野倉のゼミに真佐人とともに卒業まで在籍していた片岡亜希。それにセビリア大学の水中考古学の泰斗、アルトゥーロ・アルベルダ教授が支援してくれるのだ。アントニオがそれに対する資金援助を保証する。

 一方、海山と人工物の発見情報はいち早く世界的なトレジャーハンター会社の一つに入手されていた。アメリカのマイアミから40kmほど北にあるフォートローダーデールに本拠を置くネプチューン・サルベージである。CEO(最高経営責任者)はジェイク・ハドソン。サーベイ担当副社長はドクター・デニス・ロジャース。ジェイク・ハドソン自身かつては水中考古学の学徒であり、学界の俊英としてもてはやされた時期もあった人物である。資金集めに手間取り、盗掘屋に先を越されて遺物の大半を逸失した経験を持つのだ。彼は「貴重な人類の遺産がそんなふうに破壊されるなら、むしろビジネスベースで発掘を行い、引き揚げた遺物は博物館や美術館、見識の高い収集家の手に渡ったほうがいい」(p37)と決断し、トレジャーハンターとして沈船発掘ビジネスに乗り出したのだ。そのビジネス・モデルを構築し、有力なファンドから資金供給を得て、事業を経営している。
 この会社は最新鋭の機器類を装備したオーシャン・イリュージョンという調査船を建造し保有する。サーベイ部門には世界の考古学界の俊英を多数ヘッドハンティングし、総勢百名余の陣容を整え、公的な研究機関の規模をはるかに凌ぐ企業なのだ。

 真佐人・田野倉・アントニオにとってはまさに好敵手として立ち現れてくる。日本の海上保安庁が発見したとはいえ、海山は公海域に存在する。
一方、ユネスコが採択した水中文化遺産保護条約が存在する。これが沈没船引き揚げの足枷として盗掘への抑止力に働いている面がある。しかし、日本、アメリカはこれを批准していないのだ。かつての所有国や沿岸国への根回しが、避けて通れないビジネス上の重要課題となってきた。つまり、ネプチューン・サルベージ社も、すぐに行動できる体勢が整っているとはいえ、迂闊に直ちに行動を開始できない状況にある。
 少し前に、ネプチューン・サルベージの競争相手であるオデッセイが裁判で敗訴し、スペイン政府に、せっかく引き揚げた財貨の返還を余儀なくされた事例があるからだ。
 そのため、アンヘル・デ・アレグリアの所有国であるスペインの政府や機関を巻き込む形での駆け引きが始まっていくことになる。

 ストーリーは、真佐人・田野倉側の沈没船の詳細情報分析、引き揚げ計画への準備へと進んで行く。一方、ハドソン側はスペイン政府への働きかけを開始する。勿論、アントニオは自分の人脈を利用して本国でのハドソン側の攻略に対する対抗手段を打っていく。
 ハドソンは、真佐人・田野倉側への働きかけも進めていく。オーシャン・イリュージョンの見学に招待するという。両者の妥協点を見いだせないかというアプローチである。この敵地拝見で損はしないと、招待に応じて、敵陣の乗り込んでいくのだが、それが真佐人・田野倉の想定外の方向へ事態が展開していくきっかけにもなる。ここからがおもしろい展開である。
 ハドソン側のバックに控えるファンドの方も、別のアプローチとして、アントニオへの対応に踏み出していく。ビジネス次元での熾烈な駆け引きが一方で始まって行く。アントニオがもし敗北すると、真佐人・田野倉は資金的なバックアップを失い、計画を断念せざるを得なくなるのだ。アントニオの力量に頼るしか手がないのだから。このあたり、学者サイドの発掘調査の難しさにリアル感を加え、またストーリー展開に危機感を加える効果がでている。発掘調査には莫大な資金がいる!夢だけでは動けない・・・・。
 さらに、そこへ新たな難題が発生してくる。アンヘル・デ・アレグリアがかろうじてとどまっている海山のある海域に近いところで、海底火山が活動を始めたというのだ。その火山活動は、アンヘル・デ・アレグリアのある海山にも火山帯が繋がっていると想定されるのだ。事態は一刻を争う方向に突き進んでいく。
 ストーリーはどんどんと展開していく。実におもしろい展開となる。

 後は、本作品を手に取り、お楽しみいただきたい。後半は特に一気に読み進めたくなる展開である。一旦失望させ、復活するという形でダイナミックな展開になっている。

 水中文化遺産保護条約というのが実在することを本書を読んでネット検索で確認し、初めて知った次第。また、スキューバ・ダイビングの種類についても知識レベルだけだが楽しみながら学ぶことができた。これらはちょっとした読書の副産物である。

 タイトルの「遺産」には、やはり2つの意味が込められていると思う。実在するものとしての水中文化遺産。沈没船とそこに積み込まれた遺物類の総体である。発掘・発見されることにより、人間の歴史が一層明らかにされていく存在物。そして、もう一つは、真佐人の大伯父が発した「魂の遺産」。人々が連綿と語り伝えてきた伝承・伝説であり、先人の意志/意思/遺志である。魂を揺さぶりつづける因となるもの、無形の存在といえようか。

 最後に、印象深い文章をピックアップしておきたい。

*前進のない人生は生きることを放棄した人生だ。どんな立派な理屈をこねようと、そんな人生には人を動かす力もない。そもそも未来というのはリスクそのものだ。いちばん大事なのは、そのリスクを背負って一歩前へ踏み出すことなんだ。おれはそれを戦略的楽観主義と呼んでいる。  P220
*不安は絶望の養分にしかならない。信頼こそ希望の糧だ。  P220
*人が美しいと感じるものがあるとしたら、それは自らの人生への無償の愛を貫いた彼らのような生き方に対してなのだ。  P238
*言葉じゃうまく言えないが、要するに人間にとって大事なのは、なにを手に入れたかじゃない。たった一回の人生をどう生きたかってことだ。それを教えてくれたのがショウゴロウ・オキタなんだよ。  p374
*自分をしがない存在じゃないと思い始めたとき、人間は堕落を始めるのよ。  p409


 真佐人、アントニオ、田野倉教授、そして片岡亜希。フィクションであるが、彼らの行動、発言が、生きる意味、生き様への刺激を与えてくれる。2013年からプラス1、2014年へ。己の人生に、さらに1年の始まりを加えるにあたり、大いなる刺激剤になる言葉ではないだろうか。読みがい、読み応えのある一冊である。

 ご一読ありがとうございます。
 お立ち寄りいただきありがとうございます。2014年もまたちょっと覗いてくださり、雑文をお読みいただければうれしい限りです。


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 本書を読みつつ、関連用語をネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。

インディアス艦隊 :ウィキペディア
インディアス古文書館 :ウィキペディア
メル・フィッシャー :ウィキペディア

中ノ鳥島 :ウィキペディア
欧米系島民 :ウィキペディア
水中考古学の薦め :「水中考古学/船舶・海事史研究」
水路通報 :「海上保安庁 海洋情報部 - 国土交通省」

マニラ・ガレオン  :ウィキペディア
The Manila Galleon Trade (1565-1815) :「 The Metropolitan Museum of Art 」
ガレオン船→ 5. 大航海時代に使われた帆船:「SAUDI TRAVELLER」(中東協力センター)
ガレオン船 :「 Captain Gleet 」
 

水中文化遺産保護条約 :ウィキペディア
Convention on the Protection of the Underwater Cultural Heritage 2001
 :「UNESCO LEGAL INSTRUMENTS」
 
アンドレス・デ・ウルダネータ  :ウィキペディア
イントラムロス :ウィキペディア
城壁の街イントラムロス :「新アジアリゾート・フィリピン」
朱印船  :ウィキペディア
アストロラーベ :ウィキペディア
末次船絵馬 :「長崎市」
末次平蔵  :ウィキペディア
ニーニャ号・ピンタ号 → Discover Clumbus' Ships The NINA

サイドスキャンソナー → 海底の地質・地形を探る技術:「海洋先端技術研究所」
テクニカルダイビング :ウィキペディア
 
メルフィシャー宝物館 → MEL FISHERS'S TREASURES ホームページ
メルフィシャー海洋博物館 → MEL FUSHER MARINETME MUSEUM ホームページ
Mel Fisher Maritime Heritage Society and Museum :「ATLAS OBSCURA」
 
 
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『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』 小和田哲男  平凡社新書

2013-12-29 11:33:02 | レビュー
 黒田官兵衛は関心を抱いている人物の一人だ。ストレートなタイトルに興味を抱いて本書を読んでみた。

 いくつかの小説に黒田官兵衛が現れることから官兵衛に関心を持ち始めた。そして葉室麟の『風の王国 官兵衛異聞』(現在、文庫本では『風の軍師 黒田官兵衛』(講談社文庫)と改題)を読んだことで、一層関心を深めている。遅ればせながら、だが司馬遼太郎『播磨灘物語』は未読である。これから読んでみようかと思っているところだ。

 本書は日本中世史専攻の学者、研究者の視点から、副題にある「智謀の戦国軍師」という側面に的を絞って記されたものである。学者という立場から当然のことだろうが、史実資料をベースにして考証されている。「はじめに」の冒頭で、著者は官兵衛の魅力を端的に「戦国時代の最も軍師らしい軍師」であり、「トップになれる力をもちながら、補佐役に徹したその生き方」にあると言う。本書はこのまとめを具体的に敷衍していった書だとも言える。

 官兵衛がどういう働きをしたのか、客観的な史実資料という裏付けを通して見た官兵衛像を把握できる点が本書のメリットといえる。
 本書は6章構成になっている。まず、章立てを眺めておこう。
 第1章 若き日の悩める官兵衛
 第2章 信長への接近と秀吉との出会い
 第3章 軍師としての片鱗をみせはじめる
 第4章 熾烈な毛利氏との戦い
 第5章 秀吉の天下統一を支えた官兵衛
 第6章 秀吉路線から家康路線へ

 著者は官兵衛の智謀が、孫子の説く「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」を実践するためにめぐらされたという側面を評価している。

 著者は黒田家のルーツについては、一応通説を支持し、滋賀県長浜市の木之本町黒田とする。『黒田家譜』にあるとおり、宇多源氏佐々木氏庶流とし、黒田宗満を初代とみて、5代高政のときに、近江から備前国邑久(おく)郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に移住したとする。さらに、高政の子・重隆のときに播磨の姫路に移住したとする。このとき、黒田家伝来の目薬を玲珠膏とよび、播磨の広峰大明神とセットで販売することで、重隆の代に財をなしたという『夢幻物語』の内容を紹介している。そして、播磨中部に勢力をふるい、御着城を本城とした小寺政職(まさもと)の家老の一人として、重隆の子職隆が、御着城の支城だった姫路城の城主となるに至ったとする。

 官兵衛は姫路城主の長男として、天文15年(1546)11月29日に誕生する。官兵衛の母は、小寺家の家老の一人で、明石城の城主・明石備前守正風の娘である。正風は隠月斎宗和と号する文人でもあり、関白近衛稙家父子に歌道を授けたといわれる人である。著者は官兵衛の母も歌人だったろうと推測する。永禄2年(1559)14歳の時、母を亡くした官兵衛が歌道にのめり込んだ契機がここにあるととらえている。
 その官兵衛が17歳の頃、歌道を断ち、武芸の稽古と武経七書を読みその蓄積をはかったものと見る。官兵衛は16歳の時、80石を給され小寺政職の近習となり、永禄5年(1562)17歳で初陣をしたようだ。元服して幼名万吉から諱を孝高と名乗る。当初は孝隆と名乗っていたそうだ。官兵衛は通称なのだ。
 永禄10年(1567)、22歳で官兵衛は結婚する。相手は播磨の志方城城主櫛橋伊定の娘光(てる)15歳。光はふつう幸円の名で知られているそうだ。著者はこの結婚を主君小寺政職の意向による政略結婚とみている。このとき、官兵衛の父・職隆は官兵衛に家督を譲ったという。つまり、官兵衛は22歳で、当時の姫路城城主、小寺家の家老であり、家督を継承したということになる。そして、翌年、官兵衛・光の間に長男が生まれる。幼名・松寿、後の長政である。
 第1章は、このように官兵衛の順調な武将としてのスタートを詳細に記述していく。

 その官兵衛が、戦国の厳しい合戦の連続という修羅場に直面していくことになるが、そのプロセスの転換点を上記の如く、ステージ毎に切り分けて説明していく。読者にとってはわかりやすいステージ分けである。
 官兵衛が直接・間接に主に関わった合戦と主要事項を本書の記述から抽出してみる。詳細は本書でご確認願いたい。

第1章
 永禄12年(1569) 青山の戦い 龍野城の赤松政秀  迎え撃つ戦
 この頃  土器山(かわらけやま)の戦  家臣母里小兵衛・武兵衛父子の討ち死に
第2章
 天正3年(1575)6月 御着城での大評定 官兵衛は織田陣営に属することを主張
  著者は官兵衛の情報収集力とその分析を説明する。
 天正3年7月 官兵衛が岐阜城への使者となる。信長に謁見し、名刀「圧切」を得る。
 天正4年/5年 毛利軍との初戦(直接対決) 英賀(あが)合戦
  旗指物で後詰を偽装する奇策による作戦勝ち。官兵衛の智謀の始まりか?
 天正5年10月 15,000の大軍を率いる秀吉の姫路城入城。城を秀吉に譲る。
  息子松寿を人質に差し出し、二の曲輪に移る。後、妻鹿に国府山城を築き移る。
第3章
 天正5年(1577)11月 福原城の戦い 秀吉軍の城攻めの大将となっての戦い
  『孫子』の兵法「囲師必闕」を官兵衛は実践する。
 天正5年11-12月、翌年  上月城の戦い
  著者は秀吉軍のみせしめ的殺戮の実行に対する官兵衛の関与がどうか不明という。
 天正6年10月 有岡城主荒木村重の謀反に対し、官兵衛は説得に向かう。
  官兵衛は有岡城に幽閉される。村重謀反と幽閉に対する著者の推論が興味深い。
  この時の官兵衛の重臣たちの絆の強さを初めて知った。官兵衛の強みがここに。
 天正7年10月 有岡城落城で、官兵衛は幽閉から救出される。ほぼ1年間の幽閉
  この後小寺の姓を捨て黒田姓に戻る。最初の文書史料は1580.7.24付の秀吉書状
 天正8年 秀吉による知行宛行(あてがい)により、秀吉から1万石を与えられる。
  所領は姫路周辺に集中。『黒田家譜』では、居城は山崎城(宍粟市山崎町)
  著者は国府山城に官兵衛はいたのではないかと推論している。
第4章
 天正9年9-10月 篠原自遁の阿波木津城救援のため、阿波に出陣
  長宗我部元親との戦。同時期に秀吉は鳥取城攻めと「渇え殺し」を実行
 天正10年(1582)3月 蜂須賀正勝と備前常山城攻めし、落城させる。
  官兵衛は「境目七城」攻めにおいて、毛利方武将への勧降工作にも従事
 天正10年5-6月 備中高松城の水攻め 秀吉に従軍、軍師として行動
  「本能寺の変」の知らせに対する秀吉への官兵衛の行動と思考を著者は推論する。
  諸説を紹介した上での解釈と説明が非常に興味深い。 
  毛利方との和議、領土境界画定のための交渉に官兵衛は関わっていく。
  秀吉「中国大返し」の際、官兵衛が小早川隆景から毛利氏の旗を借用したという。
  このエピソードについての著者の説明がおもしろい。正に智謀官兵衛の面目躍如
 天正10年9月~天正13年2月 毛利氏との境界画定のための交渉とその完了
第5章
 天正11年(1583)賎ヶ岳の砦周辺の小屋の取り壊し作戦に従事
  目的は秀吉に、後方から軍勢を入れるねらいがあったと著者は説明する。
 天正11年9月-13年4月 大阪城の縄張を担当。第1期工事での普請惣奉行に。
 天正13年6月 長宗我部元親との戦い 四国攻めに出陣 岩倉城攻めの指揮をとる。
 天正14年7月 島津軍攻めの「露払い」として出陣
  豊前宇留津城(福岡県築上郡築上町)攻めの采配をふるう。11月に落とす。
  このとき官兵衛はあえて残酷な戦いをしかけたと著者は説明する。
 天正15年4月 秀長とともに、根白坂の戦い ここで島津軍の撤退、島津義久の降伏
 天正15年6/7月 豊前12万石に栄転
  一旦、馬ヶ岳城(福岡県行橋市大谷)に入るが、中津城を新規に築く(大分県)
  官兵衛が肥後一揆の鎮圧に出かけているとき、豊前一揆が起こる。
  著者はこの豊前一揆の状況を詳細に分析している。黒田家の地盤固めとなる。
 天正17年5月 家督を長政に譲って官兵衛は隠居する。このとき、官兵衛44歳
  著者は人心の一新がねらいとし、宇都宮鎮房謀殺の汚れ役を官兵衛が負うとみる。
  著者による官兵衛の隠居にまつわる周辺の分析が非常に興味深い。
 天正17年 毛利氏の広島への移転。この城の縄張は官兵衛が担当したという。
 天正18年(1590) 秀吉の小田原城攻め。官兵衛も秀吉の陣中につき従う。
  官兵衛は開城勧告の使者に選ばれる。
第6章 
 天正19年8月 『黒田家譜』は名護屋城の縄張をしたのが官兵衛と記す。
  傍証史料はないという。著者はその造り方などから類似性があると指摘する。
 文禄2年(1593)2月 秀吉の命を伝える立場として朝鮮に渡る。
  無断帰国という軍令違反を実行。蟄居謹慎を命じられ、そこで剃髪出家している。
  このときから、「如水円清」と号するようになる。
 慶長2年(1597) 第二次朝鮮出兵において、軍監の立場で渡海
  このとき、梁山城を1,500の兵で、朝鮮の軍勢の攻めから守り抜く。
  翌年5月、秀吉の命で帰国。
  官兵衛の二男熊之助16歳が朝鮮に渡海しようとし、嵐に遭遇し溺死する結果に。
 慶長5年(1600)6月 黒田長政は蜂須賀正勝の娘を離縁し、家康の養女と結婚
 慶長5年9月 石垣原の戦い(九州版・関ヶ原の戦い)
  関ヶ原の戦いに家臣を率いて出陣している長政に対し、留守部隊を使った戦い
  大友義統(よしむね)との戦い
  この石垣原の戦いに官兵衛の野心と真骨頂が現れている。
  著者が詳細に分析していておもしろいところである。特に、関ヶ原の戦との関連分析が興味深い。歴史にもしもがあればという点の考察もあり、読ませどころである。

 関ヶ原の戦いにおける論功行賞により、黒田長政は豊前中津から筑前福岡に転封となり、52万3000石となる。

 慶長5年12月 筑前名島城に入る。
 慶長6年-12年 福崎に築城し、福崎を福岡に改称する。
  翌7年 長政は本丸に入り、官兵衛は三の丸の御鷹屋敷にて隠居生活
 慶長9年3月20日 官兵衛は伏見の藩邸で死去 享年59歳

 当時は「軍師」という言葉が実在しなかったようだが、いわゆる軍師という局面についての考察は微細に及ぶ。資料的な裏付けが取れないことが原因かどうか不明であるが、世にキリシタン大名の一人と言われた黒田官兵衛の局面にはほとんど触れられていない。p115-117で「キリスト教への入信」として若干触れているくらいである。通説に従うとしている。官兵衛のキリスト教入信が一時期だけだったのか、心底生涯変わらぬものだったのか私にはわからない。しかし、キリシタンという心理的側面を内蔵した官兵衛が軍師という立場で行動するとき、そのことが軍略思考にどういう影響を及ぼしたのかという観点にも興味を持っている。勿論、それは全く無関係なのかもしれないが・・・・。この点で著者の言及が見られなかったように思う。公式な文書や歴史的資料の多くには、キリシタン禁令以降は極力キリシタンという局面の痕跡を残さないというのが当然の処置としてとられただろう。客観的証拠の裏づけのない分析は、学者・研究者の視点では論じられないとは思う。しかし、そこに少し私の勝手なこだわりが残る。
 
 官兵衛の辞世の句として伝わるのは

 思ひおく言の葉なくてついに行 道はまよはじなるにまかせて

だという。


 ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる語句関連でネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。

黒田孝高 :ウィキペディア
黒田氏  :「戦国大名探究」
軍師黒田官兵衛とは黒田癒えとは(黒田孝高、黒田如水)
軍師 黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水) :「日本・歴史 武将・人物伝」
 
黒田氏家旧縁之地 ← 黒田氏発祥の地・木之本町黒田 :「DADA Journal」
  黒田氏発祥の地(長浜市・旧木之本町) :「不楽是如何~史跡めぐりドライブ~」
 
小寺政職 :ウィキペディア
小寺政職 黒田官兵衛の能力を高く評価した大名 :「戦国武将列伝」
 
御着城 :「城と古戦場 ~戦国大名の軌跡を追う~」
志方城 :「城と古戦場 ~戦国大名の軌跡を追う~」
有岡城  :「いたみ官兵衛プロジェクト 情報交流サイト」
 有岡城惣構の図と「官兵衛の有岡城幽閉」の投稿記事等が掲載されている。
中津城 :ウィキペディア
福岡城と城下町  福岡歴史なび :「福岡市の文化財」
福岡城跡 :「よかなびweb」
福岡城 :ウィキペディア
 
石垣原の戦い :ウィキペディア
吉弘統幸と石垣原古戦場(大分県別府市):「城跡散歩」
大友氏の終焉 石垣原の戦い :「戦国 戸次氏年表」

赤壁 合元寺 ホームページ
血痕が絶えない合元寺の赤い壁 :「九州大図鑑」
崇福寺 :「福岡市の文化財」
福岡藩主黒田家墓所 :「福岡市の文化財」
黒田家代々の墓がある崇福寺  博多の豆知識 Vol.73 :「福岡市」
太宰府天満宮 :「晴れのち平安」
 如水の井戸、如水社の写真が掲載されている。
 
左の手は、何事を為したりしか…『黒田如水伝』1916年 :「YOMIURI ONLINE」
なっとく日本史:黒田官兵衛 逸話の多く、疑わしい 一次史料で実像研究を
 毎日新聞 2013年10月05日 西部朝刊  :「毎日新聞」
 
黒田家譜メモ(中途半端) :「資料メモログ」
 
国宝刀 名物「へし切長谷部」:「福岡市博物館」
国宝太刀 名物「日光一文字」:「福岡市博物館」
 
福岡藩 黒田家 :「江戸三百藩HTML便覧」
 

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葉室麟氏の作品については、かつて読後印象を書いています。
『風の王国 官兵衛異聞』
  こちらもお読みいただけるとうれしいです。





『月神』  葉室 麟   角川春樹事務所

2013-12-25 12:33:35 | レビュー
 読後印象として心にブルーな思いをとどめさせる作品である。こんな人生もあったのかと・・・・。
 本書は、明治13年(1880)4月18日に、横浜港から月形潔を団長とする集治監建設調査団の一行8人が汽船で北海道函館へ向けて出発したという書き出しから始まる。集治監建設というのは、全国から囚人をその地に流し「総懲治監」するための牢屋を造る仕事である。北海道に集治監の設置を発案したのは当時内務卿だった伊藤博文だという。
 明治維新後、各地で様々な乱が引き続いた。明治政府側が<賊徒>と呼んだ政治犯は4万数千人になったという。多数の国事犯、重罪犯で捕らえられた囚人の一部が北海道に送られたのだ。本書を読み、初めて「集治監」という言葉を認識した。北海道を旅行したときに、囚人となった人々が開削した道路があるということを知ったのだが、この集治監という言葉を目にし聞いたという記憶が無い。
 歴史の教科書には出てこない明治維新前後の隠れた側面をこの作品で知ることとなった。史実を基盤に著者の想像力が加えられてできあがった作品だろう。事実とフィクションの分明を跡づけできる知識や情報を十分に持っていない。幕末の動乱から明治政府の体制が確立される黎明期の実態の一局面を実感できる作品に仕上がっている。その局面に居た登場人物の思いの一端が伝わってくる。その結果がブルーな思いとなる。

 手許に高校生向け教科書レベルの本がある。『検定不合格日本史』(家永三郎著・三一書房、1974年)、『詳説日本史研究』(五味文彦/高楚利彦/鳥海靖/編・山川出版社)の二冊を斜め読みしてみたが、該当する時代項目・内容あたりに「集治監」という用語は出てこない。つまり、著者は歴史に隠れた側面に月の光を当てていると言える。それは決して太陽の光ではない。

 本書は、意思/遺志が引き継がれていく形で繋がるが、独立した内容の二章で構成されている。「月の章」と「神の章」である。合わせてタイトルの「月神」となる。だがこのタイトルは、この作品の登場人物が語る次の言葉から取られた表題だろう。それを分けて章の名称にしたのだと思う。

 「月の章」の主人公・月形洗蔵が語る言葉である。「その昔、神功皇后様が征韓の船を出されたおりの先導神は月神であったことを知っているか」「月神は筑後の高良玉垂神社の祭神だそうな」「夜明け前の月はあたかも日神を先導しているように見える。つまるところ日神を先導するのが月神だ。この話を知った時、わしら月形家の者は夜明けとともに昇る陽を先導する月でなければならんと思った」(p30-31)
 この洗蔵の夜明けを先導する月になろうと気迫を込めて語る言葉を聴き、その気迫を受け止めたのが、月形潔である。洗蔵にとって潔は従兄弟にあたる。本作品の冒頭に出てくる人物であり、「神の章」の主人公である。
 
 「月の章」は福岡藩の尊皇攘夷派のリーダー格と目されてた月形洗蔵の生き様を語る。嘉永3年(1850)に23歳で家督を継ぎ、馬廻百石の身分である。藩からは過激な尊皇思想を警戒され安政3年(1856)には玄界灘の大島定番という閑職を命じられる。江戸で井伊直弼による安政の大獄が断行された後、万延元年(1860)3月に「桜田門の変」が起きている。その最中、7月に老中から散府の指示が来る。藩主黒田長溥は参勤をしようと考える。これに対し、洗蔵は参勤中止の建白書を提出し、機会を得て、藩主に謁見して意見を言上する。だが藩主長溥は「方今の事件、ただ勅命に従うのみ」と発する。頭脳明晰で<蘭癖>とも言われるほどの長溥自身の政策は開国通商論だったのだ。その後、保守派の立花弾正の家老解任を洗蔵が願い出るに及び、同年11月に謹慎を命じられることになる。
 洗蔵が幽閉されている間に、馬関海峡でのアメリカ商船への砲撃、文久の政変(長州藩が京から追放される)へと大きく揺れ動いている。2年後、謹慎を解かれた後、藩主長溥の奇策で攘夷派の登用がなされ、洗蔵も登用される。しかし、己には志があり、見識において衆に抜きん出ていると自負する長溥は、洗蔵のように「家臣でありながら自らの考えで動こうとする」男を許せないのだ。
 あくまで福岡藩にとどまり、筑前尊攘派として長州周旋を軸に世の動きの先導をめざす洗蔵と、己の志のために洗蔵の使い道を考える長溥とは、交わらないところがある。この「月の章」では筑前攘夷派の先導としての洗蔵と藩主長溥との確執を、攘夷派の動き、その活動の展開の中で、克明に描き込んでいく。
 筑前尊攘派の中で脱藩をしてまで過激な行動に出る中村円太とあくまで藩にとどまる洗蔵の関係、福岡にいて長州を助ける道を模索し高杉晋作との関わりを深めていくプロセス、そして、三条実美ら五卿の太宰府入りに洗蔵が果たす役割などが関わり合いながら進展していくが、それは結局藩主長溥の考えとは相容れない。世の趨勢がわからない智慧があるゆえの暗君に仕えた洗蔵は、「3年の内、筑前は黒土となるであろう」と罵って果てることになる。「藩を尊皇攘夷の大義でまとめてこそ、われらは諸国の志士に重んじられる」という考えでの洗蔵の先導は空しく消え去った。
 洗蔵の生き様は、佐幕と勤王の間で激動した諸藩の実態を象徴するものではないだろうか。

 「神の章」は、月形洗蔵の思いと行動をつぶさに見続けた月形潔が主人公になる。潔も筑前尊攘派の一人として獄に繋がれていたのだ。王政復古の大号令とともに政治情勢が大きく動き、大赦令により潔は釈放される。
 明治3年に福岡藩贋札事件が新政府の摘発で明るみにでると、福岡藩権少参事に挙げられていた潔は、その贋札事件を追及する立場になる。その後、本書冒頭の書き出しに連なっていく。北海道での集治監建設調査を命じられて北海道に渡った潔は、その後、集治監の建設に携わり、集治監の開所後は集治監の責任者、典獄となる。

 建設地の調査結果により、石狩国樺戸(かば)郡須部都太に樺戸集治監を建設することになる。当時石狩郡は人口が2,800人だったという。そこに、囚人と看守、その家族など合わせて2,000人が移住してくる形になる。集治監は庁舎を持ち、電話、馬車、官舎を備えた官庁となる。郵便局も作られる。そこに一つの市街地が形成されていく訳だ。荒野に町が突然に現れてくるという状況だろう。その地は月形村と名付けられた。

 潔は、「なんとしても、樺戸集治監を罪人が更正し、幸福な生涯へ歩み出す場所にしなければ」と心に誓う。それは、洗蔵が気迫を持って語った言葉を実践することに繋がるのだ。「時代を先導する月神に自分たちはならねばならない」(p156)と話した洗蔵の思いである。
 
 本章は、潔が現地調査を開始する状況から初めて、建設段階、囚人の収監、集治監の開所、集治監の日常生活の始まりという形で集治監がどのようなものであったかを克明に描き出していく。そのプロセスで責任者である潔の思いと苦悩、責任者としての行動が語られていく。潔が理想とした夢と厳しい気候条件の中での現実との隔たりが歴然と現出していく。著者は苦悩する潔とともに、集治監そのものの実態を描き出したかったのではないかと思う。
 伊藤博文が発案したという集治監がどんな状況だったのか。責任者の立場。看守の立場。囚人そのものの立場。発案者はその環境に人々が投げ込まれた後の状況のことなど、深く考えることなどしなかったのではないか。そんな思いにとらわれる。
 
 明治13年(1880)4月18日、横浜港を出て北海道の地を踏んだ潔は、明治18年(1885)6月、体調を崩した赴任のころとは変わり果てた潔は樺戸集治監を去る。
 帰路の船中で、潔は幕末の洗蔵らの非業の死以来の経過を振り返る。その思いは実に重い。著者は、潔の思いの結論をこう記す。「北海道に渡って月形の名を残すことで、果たせなかった洗蔵の志を伝えたのではないか」と(p276)。
 日露戦争が起きる10年前、明治27年1月、月形潔は、福岡県那珂郡住吉村で病死。享年48歳と記されている。

 著者は、本書を次の文章で締めくくっている。
 「潔が亡くなった夜、空には弦月があった。
  悽愴の気を漂わせながら清らかな佇まいの月明の時期は終わり、野望に満ちて赫奕(かくやく)と輝く太陽が昇る時代となっていた。」

 最後に一つ触れておきたい。著者は月形潔が樺戸集治監を辞した2ヵ月ほど後、8月下旬に太政官大書記官金子堅太郎が樺戸集治監を視察し、視察報告を復命書として伊藤博文に提出しているという。その結果が、今、「鎖塚」とも呼ばれるものとして残っているという。金子堅太郎は、日露戦争に際して、渡米し外債募集を成功させた人物である。
 金子の伊藤に対する復命書の内容は、まさに政策的観点での具申だった。
 本書の文脈の中で、その内容を読み取っていただきたい。
 私はこの視察と復命書を書き加えた著者に、痛烈な批判精神をふつふつと感じる。
 
 金子堅太郎も福岡藩の出身だったという。月形洗蔵、月形潔が月明の時期の人とすると、金子堅太郎は太陽が昇る時代のはじまりの人だったのだろう。


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本書に出てくる語句に関連して、ネット検索した結果を一覧にしておきたい。

月形洗蔵 :ウィキペディア
黒田長溥 :ウィキペディア
乙丑の変 :ウィキペディア
 
月形洗蔵顕彰碑、月形家墓碑(少林寺) ← 明治維新史跡探訪
月形洗蔵幽閉の地 筑紫平野北部の名所旧跡 :「福岡史伝と名所旧跡」
月形潔 :ウィキペディア
 
高良玉垂神社 → 高良大社 :ウィキペディア
高良大社(高良玉垂宮)(Ⅱ):「ひもろぎ逍遙」
 
行刑の町・月形の生みの親・月形潔と樺戸集治監(空知支庁・樺戸郡月形町)
 :「History Museum」(町に歴史あり!)
集治監  :ウィキペディア 
西川寅吉 :ウィキペディア
監獄秘話「五寸釘 寅吉」 :「博物館 網走監獄」
永倉新八(=杉村義衛) :ウィキペディア
月形町 :ウィキペディア
月形歴史物語 :「月形町」 ホームページ
  樺戸集治監
  月形潔、来道 
  1881(明治14)年9月3日。樺戸集治監開庁 
  囚人開拓、はじまる
 
鎖塚[有形文化財] :「北見の観光情報」
金子堅太郎  :ウィキペディア
初代校長 金子堅太郎 :「日本大学」
金子堅太郎 :「修猷山脈」
 
集治監史 町のなりたちは集治監から・・・ :「標茶(しべちゃ)町」ホームページ
 


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『さわらびの譜』 角川書店
『陽炎の門』 講談社
『おもかげ橋』 幻冬舎
『春風伝』  新潮社
『無双の花』 文藝春秋
『冬姫』 集英社
『螢草』 双葉社
『この君なくば』 朝日新聞出版
『星火瞬く』  講談社
『花や散るらん』 文藝春秋

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版


『「最悪」の核施設 六ヶ所再処理工場』  小出裕章・渡辺満久・明石昇二郎   集英社新書

2013-12-21 09:36:12 | レビュー
 本書は2012年8月に出版された新書である。六ヶ所再処理工場はなぜか報道メディアに頻繁に採り上げられることはあまりない。巨大な施設に湯水の如く費用が費やされているにもかかわらず、原子力産業の分野では死角のような扱いになっている気がする。
 この六ヶ所再処理工場がどれだけ危険な施設であるか、もし本格的に稼働すれば、日本のみならず地球全体にどれだけの災厄をもたらす可能性があるかを、最新の科学的知見とシュミレーションを駆使して、警鐘を発している書である。

 著者は、2011年3月に発生した東京電力福島第一原発事故は無責任の積み重ねの結果であり、「想定外」という発言は自らが無能であることを認めることと大差なく、そのセリフを吐くことは無責任を自認することだと断定している。
 現在の六ヶ所再処理工場は、「想定外」が招く亡国の危機をまさに秘めている施設であり、地震列島、津波列島である日本列島を考えると、「自爆スイッチ」の最たるものだと警告する。この再処理工場で、過酷事故が発生したらどうなるか、その危険性を解き明かしている。

 本書は4章から構成されている。各章は共著者の分担執筆である。
第1章 「原子力後進国」日本の再処理工場が招く地球汚染の危機 小出裕章
 六ヶ所再処理工場の持つ現実の問題点を具体的に事例を挙げて指摘している。私が理解した点を箇条書きで要約してみる。
 *「平常運転時の住民の被曝量」評価が極端に甘い「仮定」の積み上げで行われているケースが多々ある。「さじ加減」による過小評価であり、「科学」には程遠い。それでも審査で承認されているということ。
 *「日本原燃は、再処理工場から放出した放射性物質は大気中や海洋中で一様に拡散し、そこかに沈着することも蓄積することもない」(p39)という現実を無視した「仮定」をしている。科学を無視した好都合な解釈がまかり通っている。
 *六ヶ所再処理工場の経済性は、稼働する前からはや十二分に破綻している。著者は具体的な事実を積み上げて指摘する。一例をあげよう。「六ヶ所処理工場の稼働率が100パーセントの場合、使用済み核燃料1トン当たりの再処理費用はおよそ4億円になる。だが、稼働率が20パーセントにしかならなければ、1トン当たり20億円へと跳ね上がる」という。英国とフランスに使用済み核燃料の再処理を委託した価格は1トン当たり約2億円だそうだ。(p47)
 *高性能爆弾を積んだ米軍戦闘機が使用済み核燃料プールに墜落した事故想定の仮定のしかたを詳述したうえで、被害想定をシュミレーションしている。その1事例では、「1100キロメートルを越える彼方まで放射線管理区域にしなければならない」規模になる。
 *高レベル放射性廃棄物の「ガラス固化体」製造工程はトラブルの連続である。
 *仮に、原子力推進派の思惑どおりに核燃料サイクルが実行できたとしても、再処理を行わない場合に比べて経済的な負担が大きくなることは明白である。
 *再処理に固執する理由は、核兵器の材料であるプルトニウムを独自に取り出す力をつけたいという軍事的要請だけである。一方、日本に自立した「原子力技術」はない。

第2章 シュミレーション「六ヶ所炎上」  明石昇二郎 協力・小出裕章
 201X年6月11日午後5時、マグニチュード9級の「東北巨大地震」が発生したと想定した。震度7の揺れ、10メートルを越える津波、六ヶ所村付近の最大地震動830ガル。こんな想定での被害シュミレーションがドキュメントタッチで語られていく。この被害シュミレーションは、京都大学原子炉実験所の助手だった故・瀬尾健氏が作られた「原発事故災害評価プログラム」に、小出氏が協力して手を加え、再処理工場での災害評価を行ったものだという。他者が検証できるようソースタームを本書に明示されている。このシュミレーション結果を踏まええ、明石氏が「六ヶ所炎上」の様子を描き出したのだ。生き地獄になる様子がシュミレーションされている。
 明石氏は章末を「この地獄を再び日本に出現させない唯一の道は、一刻も早く六ヶ所再処理工場を閉鎖・撤去すること以外にない」という文で締めくくる。

 このシュミレーション結果は、実に戦慄すべきおぞましいものだ。一読をお勧めする。 六ヶ所村のこの原子力施設で過酷事故が起これば、日本全体、いや地球全体が危険になるということを、どこまで感じられるか。その感性が今求められていると思う。

第3章 核燃料サイクル基地は活断層の上に建っている  渡辺満久
 渡辺氏は「現在停止中の原子力発電所再稼働に対して、必ずしも『絶対反対』というわけではない」(p110)という立場を最初に鮮明にしている。ただし、それは「活断層調査」や「安全審査」が完璧になされて問題がないと評価・判断できる場合という条件が付けられている。
 現実はどうか。著者は、「活断層調査」や「安全審査」に重大な欠陥があると指摘する。著者は変動地形学という学問研究の分野から活断層について研究しているという。この研究分野の視点で、原発立地場所を次々に調査して、電力会社側が調査報告書をまとめ、原発建設の審査に提出し、審査を通過しているその調査結果を分析する。そして、現実の活断層の存在が認知されず、分断され、値切られて、電力会社側に都合のよい解釈で報告書がまとめられているという欺瞞を明瞭に分析し、その重大な欠陥を俎上にのせている。活断層の過小評価が如何になされ、活断層として解釈しない方向で、事実データがどのように解釈され歪曲化されているかを個別事例で分析して、指摘していく。
 六ヶ所再処理工場と付近の活断層との関連が、詳細に分析されていることから、現在の調査報告書の内容結や審査結果に潜む重要な欠陥が見えてくる。空恐ろしい事実が見えてくる。
 著者の結論は、「六ヶ所断層は活断層である」だから、危険この上ないということになる。

 審査員の活断層評価の実態について、著者は辛辣な文を記す。引用しておこう。
「能力と見識のある研究者であれば、問題点の多くは容易に見抜くことができるレベルのものである。しかし、変動地形に関する知識が十分でない『専門家』であれば、電力会社と同様の『間違い』を犯す。のちに『間違い』だとわかっても、その『専門家』が責任を追及されることはない。彼らは安心して安全審査を引き続き担当し、新たな『間違い』を繰り返し、犯し続ける--。恐ろしいことに、これが現在の日本における原子力『安全審査』の実態である。」(p157-158)
 審査の結果問題がないと結論だけもっともらしく公表されるのだ。背筋が寒くなる・・・・ではないか。

第4章 再処理「延命」のために浮上した日本「核武装」論  明石昇二郎
 明石氏は、過去の取材事実も踏まえて、問題となる専門家を名指しで俎上に上げている。科学的知見ではなく、政策的視点を優先するまさに御用学者の役割を担っているとしか思えない。
 著者は、原子力規制委員会設置法に「我が国の安全保障に資する」という新たな大義名分をドサクサに紛れ込ませてしまった政府のやり方に警鐘を鳴らしている。そこには「核武装」の準備という本音が見えるという点の怖さである。

 六ヶ所再処理工場について、こんな数字も事実として記されている。
 工場建設費は現在までに2兆2000億円が投下された。未だ本格稼働は不可の状態だ。
   → 当初の計画での建設費は「7600億円」とされていた(第1章、p46)。
 再処理工場を稼働させなくても維持費が年間1100億年かかるのが実態だとか。
 (2012年5月14日 東京新聞記事)。
 
 著者の結論は明瞭である。
「今、六ヶ所再処理工場の『延命』を許せば、将来にわたって禍根を残すことになる。」 (p189)
 脱原発とともに脱再処理! 重要なテーマである。

 事実を客観的に見つめることから始めねばならない。科学的事実を政策的思惑で歪めてはならない。事実を認識するために一読の価値がある。

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 本書に出てくる用語と関連語句をネット検索してみた。検索範囲のものを一覧にしておきたい。

六ヶ所再処理工場 :ウィキペディア
日本原燃  :ウィキペディア
日本原燃 ホームページ  
  下北半島東部の地質構造調査の実施状況について 平成25年9月25日発表
   原子燃料サイクル  
  再処理工場(2010年撮影) 
  報告書等 ← 問題事象などの公式発表報告書等の項目一覧ページ
  
六カ所村ってどんなとこ?  :「日本原燃」
  こういうスタイルで情報発信しているということを知った次第です。
 
六カ所村ウラン濃縮工場 :「原発・核関連地図」
 上空からの地図。Google地図がリンクされています。
 
六ヶ所再処理工場が平常運転時に予定している被曝  小出裕章氏
 原子力資料情報室通信385号(2006/7/1)より  :「原子力資料情報室(CNIC)」
六ヶ所再処理工場の潜在的危険性―使用済み燃料プールの事故災害評価― 上澤千尋氏
 原子力資料情報室通信381号(2006/3/1)より :「原子力資料情報室(CNIC)」
六ヶ所再処理工場の災害評価に関する覚書 2006.4.2(5.9改定) 小出裕章氏
 :「原子力安全研究グループ」
六ヶ所再処理工場に伴う被曝-平常時と事故時 小出裕章氏
 :「原子力安全研究グループ」
 再処理を止めよう!青森県シンポジウム 2006.7.15(土)
原子力発電は危険、プルサーマルはさらに危険 小出裕章氏 2009.12.22(火)
 石巻市、第3回「プルサーマル市民勉強会」 :「原子力安全研究グループ」
 

活断層 :「防災科学技術研究所」
断層  :ウィキペディア
活断層データベース :「産業技術総合研究所」

特集 活断層とは何か      ← pdfファイルです。
原子燃料サイクル施設を載せる六ヶ所断層  渡辺満久・中田高・鈴木康弘
 
原子力施設安全審査システムへの疑問 -変動地形学の視点から- 渡辺満久氏
 
渡辺満久教授、現地での活断層説明後のインタヴュー  :YouTube
渡辺満久教授、現地での活断層説明-1  :YouTube
原子力村に配慮して活断層を値切る  :YouTube
原発に活断層ドミノ 「変動地形学」でクロ判定(真相深層)
  2012年12月28日  日本経済新聞 
地形変動学的調査とリニアメント調査  広島工業大学 中田 高 氏
 日本原子力発電賀発電所直近の浦底断層を例に
 
「原子力規制委 断層調査の暴走が心配だ」(産経社説)に反論する
    2012-12-30   :「木走日記」
 
比較変動地形研究の目的と方法  植村善博氏
 
「御用学者」の異常な審査 危険な「六ヶ所」活断層 :「FACTA ONLINE」
 
変動地形学的調査についてのメモ 平成18年11月22日 事務局 原子力規制委員会資料
出戸西方断層と六ヶ所村再処理工場 :「保坂展人のどこどこ日記 世田谷区長」
最新情報 核燃・むつ小川原 :「Web東奥」(東奥日報)
 
空撮・日本の核燃料サイクルのカギを握る青森県・六ヶ所村の再処理工場。見込み違いとトラブル続きで、建設が遅れに遅れているようです。
 :「今月の写真」2011年11月撮影  島村英紀氏
 
直下に大きな活断層・六ヶ所村、ウラン濃縮工場と核燃料サイクル施設:「原発問題」
六ヶ所村核燃料再処理事業反対運動  :ウィキペディア
青森・六ヶ所村「核施設」に活断層と東京湾に流れ込む放射能汚染水(1)
 週間実話 2011年6月23日 :「exiteニュース」
 

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今までに以下の原発事故関連書籍の読後印象を掲載しています。
読んでいただけると、うれしいです。


『この国は原発事故から何を学んだのか』 小出裕章 幻冬舎ルネサンス新書
『ふるさとはポイズンの島』島田興生・写真、渡辺幸重・文 旬報社
『原発事故の理科・社会』 安斎育郎  新日本出版社
『原発と環境』 安斎育郎  かもがわ出版
『メルトダウン 放射能放出はこうして起こった』 田辺文也 岩波書店
『原発をつくらせない人びと -祝島から未来へ』 山秋 真 岩波新書
『ヤクザと原発 福島第一潜入記』 鈴木智彦 文藝春秋
『官邸から見た原発事故の真実』 田坂広志 光文社新書

原発事故及び被曝に関連した著作の読書印象記掲載一覧 (更新1版)




『羲闘 渋谷署強行犯係』 今野 敏  徳間文庫

2013-12-18 11:09:32 | レビュー
 この作品は1993年2月に『賊狩り 拳鬼伝2』というタイトルで刊行されたものが改題され、文庫本に加えられた。20年前の作品だが、古さを感じさせない。一時期のことを思うと、暴走族が新聞種になることも少なくなくなっている。暴走族の文化にも変化があるだろうから、そこら辺りに時代感覚の差を読み取る人がいるかもしれない。しかし、本作品に年代記述が出てこなかったように思うので、年代背景の枠を外して読める。暴走族の生態を詳細に知らないものには、20年という時の隔たりを感じさせないのかもしれない。暴走族の一般イメージはそう簡単には変わらないだろうから。

 パトカーを撒いてきた2台のバイクのうちの1台に車をぶつけて止めた男が現れる。サングラスにマスクをし、身長は190cm近くでおそろしく体格がよい。男は素手。バイクの少年たちは木刀を振り上げる。そこに次々にバイクが集まってくる。総勢10人。暴走族は「俺たちが『麻布街道覇者(ロードマスター)』だってことを知っててやてんのか」とうなるように男に言う。たいていの者が木刀、鉄パイプ、スパナ・・・などの武器を持って、男に向かって行く。サングラスにマスクの男は言う。「俺を恨むなよ。恨むなら、小田島英治を恨め」 いっせいにかかってくる少年たちの攻撃をすべてかわすのは不可能。決定的な一撃だけは避けるが、木刀で背面を打たれ、脇腹を突かれながらも、次々に少年達を一撃で無力化していく。
 こんなシーンから話が始まる。なぜ、暴走族集団に男が立ち向かって行くのか。小田島英治を恨めというのは、どういう意味なのか・・・・。

 暴走族を懲らしめる男は、警察からみればやはり捜査対象になる。同種事件が何件も発生し、同一人物が関与しているようなのだから。ある意味で、このサングラスにマスクをした男がこの作品の主人公である。

 ここにもう一人、本来の主人公が登場する。『竜門整体院』を経営し、整体の施術をする31歳の院長・竜門光一だ。評判の良い整体院であり、受付窓口を担当する葦沢真理は美人である。
 この整体院にプロレスラーのような体型の男が現れる。竜門はこの患者に施術を行う。彼はこの男が誰であるか知っていた。格闘技界のスターになりつつある赤間忠で、修拳会館のチャンピオンなのだ。赤間の治療に臨むと、全身打撲傷だらけで赤黒いあざが無数にできている。何度も打たれた傷であることが分かる。「自分は空手をやってまして・・・。稽古や試合で・・・。その・・・」と赤間は弱々しく言う。こんな状態で、赤間は病院へ行かずに、竜門の整体院へ来たのだ。不審に思いつつ、竜門は赤間を患者として継続的に施術するという関係ができる。

 待合室で施術室から出てきた赤間と入れ替わるかのように、46歳の辰巳吾郎が施術を受けにくる。彼は、警視庁渋谷署刑事捜査課強行犯係の刑事だ。予約はないが、腰の治療に来たのだ。施術中に辰巳は赤間のことを話題にする。辰巳は、非番で腰の施術を受けたいためだけに来た。単なる世間話だと言いながら、竜門に何か知らないかと語りかける。
 「族狩り」がかなりの頻度で出没し、昨夜渋谷署管内で、悪ガキ9人がぶちのめされたというのだ。辰巳はその事件を捜査しているのである。
 竜門は、赤間の全身にあった打撲傷を思い出す。辰巳との会話で、「まるで赤間を弁護しているみたいに聞こえるんだが、この気のせいかな?」と問いかけられる。
 
 竜門は常心流という総合武道の免許皆伝を有する人物。空手が体術の基本になっていることから、同じ空手をやる者として、赤間を無条件にかばいたくなったのかもしれないと考える。そして、この族狩りという事件と赤間に関心を抱き始めるのだ。

 再び、辰巳は施術を受けに来て、竜門に「族狩り」事件の情報、「族狩り」の強さを語っていく。赤間も施術を受けるために通院してくる。竜門は赤間と武術に絡んだ会話をする。施術中、窓の外で、バイクの音がしたとき、赤間の背中の筋肉がわずかに緊張したことに竜門は気づく。

 ついに、竜門は己の関心、疑問を解明したい衝動に駆られていく。そして行動を起こす。族狩りの行われた現場に足を運ぶ、赤間のトレーニングの見学に行く・・・・。どんどんと,みずから深みに足を踏み入れていくことになる。結局、辰巳刑事に協力する立場になっていく。ある意味で、辰巳が竜門の武術の力量を承知の上で、そのように仕向けていったともいえる。なぜなら、辰巳は竜門が免許皆伝者でありながら、武術家にならず整体院を営んでいる理由を知っているからだ。

 己の関心を追求するために行動に出るとき、竜門には変身の儀式がある。クリーニングに出したワイシャツ、スーツに着替える。整髪用の強力なジェルを戸棚から取り出して、まったく手を加えていなかった髪に塗り付け、サイドを後方に流して固める。前髪を持ち上げ、幾束かを前方へ垂らす。きわめて地味な風貌だった竜門が、猛禽類を思わせる顔つきや眼つきとなり、たちまち鋭さを帯びるのだ。それは、整体師としての竜門ではなく、竜門が己を武術家としての存在に解き放つ変身儀式なのだ。こういうところが劇的でおもしろい。
 なぜ、そうするのか。そこには竜門の苦渋の過去が潜んでいる。

 なぜ、「羲闘」なのか? それは竜門が赤間には竜門と同じ後悔をさせたくないという想いを底に秘めた行動という動因から始まったことだから。

 赤間は族狩り行動により、暴走族『麻布街道覇者(ロードマスター)』のリーダー小田島英治が己の前に現れる機会を作り出そうとする。それは赤間自身の思いを遂げるためである。その行動を竜門が阻止しようとするなら、赤間は竜門を敵と見なす行動をとると宣告までするのだ。

 ストーリーは比較的シンプルであるが、いくつかの山場が作られている。赤間、竜門、辰巳がどう絡んでいくのか。辰巳は赤間と竜門をどう扱うのか。一方、小田島英治がどういうタイミングで、どんな出方をしてくるのか。赤間の行動の真因はなにか。竜門が己の武術家としての存在に封印をしたのはなぜか。
 肩の凝らないエンタテインメント作品に仕上がっている。


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ナイファンチ :ウィキペディア
小林流空手道大道館 ナイファンチ初段(Syorinryu Naihanchi Syodan) :YouTube
Motobu no Naihanchi Shodan - 本部のナイハンチ初段  :YouTube
 
フルコンタクト空手 :ウィキペディア
大山倍達 :ウィキペディア
 
暴走族 :ウィキペディア
伝説の暴走族ブラックエンペラーの歴代総長と出身有名人 :「NAVERまとめ」
 こんなネット記事までありますね。
 
暴走族取り締まりの状況と対策について  平成12年2月 :「AKIO SUTHO」
暴走族追放条例 :ウィキペディア
総合的な暴走族対策 平成18年版警察白書 
 

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『内調特命班 邀撃捜査』 徳間文庫
『アクティブメジャーズ』 文藝春秋
『晩夏 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『欠落』 講談社
『化合』 講談社
『逆風の街 横浜みなとみらい署暴力犯係』 徳間書店
『終極 潜入捜査』 実業之日本社
『最後の封印』 徳間文庫
『禁断 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新1版


『内調特命班 邀撃捜査』 今野 敏  徳間文庫

2013-12-15 11:18:51 | レビュー
 文庫本の奥書を読むと、本作品は1990年5月に『犬神族の拳』というタイトルでの刊行本を改題出版したものである。
 
 邀撃(ようげき)という言葉を辞書で引くと、「来襲してくる敵を待ち受けて攻撃すること。迎撃」(『現代国語例解辞典 第二版』小学館)と説明されている。ということからすると、来襲してくる敵を待ち受けて、捜査し、その攻撃を防御し敵を排除するという意味になる。

 敵は誰か? 成田空港に着き、米国大使館の車での迎えを受けた人物。ベトナム戦争時代のグリーンベレー少佐であり、殺しのプロで、ゲリラ教育の専門家。テロリストなのだ。名前はジョン・カミングス。彼が入国する前に既に2人のプロフェッショナルが日本に潜入している。マーヴィン・スコットとシド・フォスターである。
 目的は? アメリカ(CIA)の意を受けて、日本でテロを引き起こすこと。表面的には日米の友好関係が保たれている。しかし、日本人という黄色人種がアメリカ合衆国を経済的に苦しめている。この目障りな日本を内側から滅ぼすことを狙っているのだ。
 ジョン・カミングスは、米国大使館の車で千葉市に向かう途中で、密かに尾行する警察車両5台を、持ち込んできた手榴弾を爆発させることで攪乱させて難なく行方をくらましてしまう。そして、都内に潜入してホルスト・マイヤーという老人の姿に変装して行動する。そして、マービン・スコットとシド・フォスターに接触し、テロ活動への連携を始めていく。

 敵を待ち受けるのはだれか? 日本の警察機構という事になるが、直接には内閣情報調査室の次長である陣内平吉がキーパーソンである。外務官僚である室長・石倉良一の指示を受けながらも、実際は陣内が実権を握り、テロの阻止のために、危機管理対策室長の下条泰彦と情報交換を密にしながら、捜査の指揮を執る。

 攻撃に対応するのは誰か? 陣内平吉の巧みな根回し・要請を受け、3人のテロリストに対決していく場に導かれていく人物が結果的に3人登場する。その3人は不思議な縁で結ばれていたというのが、おもしろいところ。
 一人は、歴史民族研究所の研究員、秋山隆幸。民族学を専攻し、日本の民族の変遷をテーマとする学者である。
 2人目は、沖縄出身の武術家、屋部長篤。自分の武術家としての腕を磨くために日本本土を遍歴している人物。
 3人目は、陳果永という中国人。
 全く立場の違う3人がなぜ関連していくのか? その連結ピンになるのが武術だった。 どうして3人の連鎖ができていくかのストーリー展開が一つの流れ、読み物となる。里見八犬伝の発想を連想してしまう。
 一方で、同時併行してテロリスト3人の暗躍、テロ準備が着々と進行しているという次第。

 池袋駅前の交番を六尺棒を持って通り過ぎようとした屋部が巡査に見とがめられるところから話が展開する。警棒を抜いて対応しようとした巡査に屋部が六尺棒で対応する。それを陳果永が目撃する。陳は、巡査を片付けた屋部の後を追い、屋部が実戦派フルコンタクト空手道場に入るのを見守ることから、二人のつながりができていく。そして共通項が武術であり、「犬拳」がキーワードになる。屋部は巡査に抵抗したことで警察に追われる立場になる。陳は不法入国者であり、やはり警察からは身を隠す立場にいる。この2人、陣内の網にかかっっていかないはずがない。

 石倉室長の発案で、発信源を曖昧にして「日本が他国の侵略にあったとき、どういう方法で安全に切り抜けるべきか、それぞれの立場で考察してくれ」という書類が石坂教授の許にも送達されてくる。同じ書類が政府と関係のある学者に絨毯爆撃的に配布されているようなのだ。それで、歴史学や民族学の分野の学者にも送られてきたという。
 石坂教授の指示で、秋山隆幸は大学院生の熱田澪と協力して、「見当外れの要請には見当外れの回答」をまとめる羽目になる。それが「犬神伝説を持つ伝統武術と、国家救済の言い伝え」という論文にまとめ上げられる。
 陣内にすべてのレポートが回付される。陣内はこの論文に注目するということになる。そして、秋山も陣内の網に絡められていく。

 著者の武闘もの作品に一貫してみられる特徴だが、本書でも『後漢書』『旧唐書』や『日本書紀』などに記載の武術関連事項から始めて武術の伝播が不思議な縁の因として織り込まれ、秋山、屋部、陳に結びついていくというおもしろさがある。歴史書を武術の記録という観点から読んだことがないので、これが結構おもしろい。武闘ものに奥行きを与えているといえる。著者の蘊蓄が発揮されている局面である。

 そして、都内で工作するテロリスト3人に、犬神伝説を持つ伝統武術で結ばれた3人が、ついに邀撃していくという展開となる。舞台は新宿・歌舞伎町。その地に進出をもくろむ台湾マフィアがテロリストに目をつけられる。どんな謀略工作が開始され、それがどのように阻止されるかは、本書を楽しんでみてほしい。


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本書に著者が蘊蓄を述べている局面の語句を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。

地術拳(狗拳)→ Dishuquan (Dog Boxing) [地术拳/狗拳] :YouTube
那覇手 :ウィキペディア
那覇手系 :「沖縄伝統空手総合案内ビューロー」
Okinawa Goju-ryu Karate-do 三十六手(サンセールー)
  沖縄剛柔流空手道 無心舘 :YouTube
上地流 :ウィキペディア
上地流空手道  :YouTube
 
相撲 :ウィキペディア
隼人 :ウィキペディア
犬戎  世界大百科事典 第2版の解説 :「コトバンク」
犬戎国1 :「どんでん返しの卑弥呼の墓・邪馬台国」
吐蕃  :ウィキペディア
 
槃瓠伝説 世界大百科事典内の槃瓠伝説の言及 :「コトバンク」
『後漢書』槃瓠伝説  :「民族学伝承ひろいあげ辞典」
犬封国 :「中国神話伝説ミニ事典/地名編」
 
加計呂麻島(西方:旧実久村)―奄美大島瀬戸内町―
   :「今帰仁村歴史文化センター(沖縄県)」
加計呂麻島(東方:旧鎮西村):「今帰仁村歴史文化センター(沖縄県)」
 
人体図(筋肉)の図 :「GOO ヘルスケア」
 

ポーランド Wz63 :「MEDIAGUN DATABASE」
S&W社・M5906 → スミス&ウェッソン M39 / S&W Model 39 :「MEDIAGUN DATABASE」
 
MDMA → メチレンジオキシメタンフェタミン :ウィキペディア
 


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『アクティブメジャーズ』  文藝春秋
『晩夏 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『欠落』 講談社
『化合』 講談社
『逆風の街 横浜みなとみらい署暴力犯係』 徳間書店
『終極 潜入捜査』 実業之日本社
『最後の封印』 徳間文庫
『禁断 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新1版


『謎の渡来人 秦氏』 水谷千秋  文春新書

2013-12-11 13:07:14 | レビュー
 京都に生まれ育ち、広隆寺、秦河勝、太秦、大堰川、松尾大社、稲荷大社、平安京遷都などを通じて、渡来人秦氏の存在というものを知識として受け入れてきた。しかし、それは漠然と知っているにとどまっていた。
 先般、本著者の『継体天皇と朝鮮半島の謎』を読んだとき、この『謎の渡来人 秦氏』が先に出版されていることを知った。本書は2009年12月に出版されていたのだ。そこで秦氏という渡来集団の実態について、一歩踏み込んで知りたいと思い、遅ればせながら本書を読んでみた。

 本書で渡来人秦氏の謎が明瞭に解明されたか? といえば、謎が残ったままであるとしか答えられない。しかし、先人の諸研究や著者の関連地・史跡現地踏査を踏まえて整理検討された思考プロセスとその論理により、謎の渡来豪族・秦氏の特徴についてその全体像を理解する助けとなった。断片的部分的知識を包括的に整理して拡充できた点が有益であった。

 著者の本書における研究の総括は、最後の弟8章「秦氏とは何か」で7ページにまとめられている。著者の総論を知るには、この章を参照されるとよい。それまでの7つの章はこのための各論であり、著者の思考の展開プロセスの記述といえる。
 著者は「私の推測では、中国の秦の遺民と称する人々を中心に、新羅・百済など朝鮮半島各地の人々も含まれていたもの」(p219)という立場をとる。6世紀前半頃の日本の人口の約5%を占めていたと推論されている。その人口の多さがかれらの経済力の源泉であり、農業、漁業、鉱業、土木などの技術面に秀で、殖産興業の民という生き方を貫いている集団であり、政治的な局面では秦河勝とその後の数人を除き、意識的に一線を画するという方針をとったのではないかとされる。政治と距離を置くことで、当時の最大の氏族規模に増殖し、経済的な側面から隠然たる影響力を持ったのだろうという。

 本書を読んで学んだことの主な要点を列挙してみよう。そのための実証資料の提示や論理展開については、本書を読んでいただきたい。覚書的な感想も付記しておいたい。
*日本の古代において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族が秦氏である。 p9
  →山背国を本拠地に、北は下野・上野国から南は豊前・筑後国にまたがるそうだ。
   加藤謙吉氏の調査によれば、34ヵ国89部に及ぶという。p10
*秦氏とは、山背国を本拠とする秦氏本宗家(族長)を中心に、単一の血族だけではなくゆるやかな氏族連合を形成した集団と思われる。そして秦氏には、秦人(朝鮮半島からの移住民)、秦人部・秦部(共に倭人の農民)を包含するものとしてとらえることができる。 p10-p36
 おそらく秦氏の本宗家は、中国を祖国とする秦の遺民と称する人々といえる。 p38
  →秦氏については、秦の始皇帝の子孫、弓月の君の渡来説や、朝鮮半島慶尚北道蔚珍郡(海曲県の古名が波旦[ハタ])からの渡来説など諸説ある。 p29-34
*聖徳太子に登用された秦河勝以外、特定の王族や豪族と密着した関係を築くことなく、政治と距離をおいていたようだ。つまり、経済的な基盤形成に徹した。 p34-38
 蘇我氏が山背大兄王を討った時、秦氏は救援せず見放すという選択をしたと推定する。 p112-116
*秦氏は、最初大和朝津間・腋上(現在の御所市)に定着し、5世紀後半から末ころに本拠を置くようになる。平林章仁氏の見解を紹介し、山背への移住は葛城氏の衰退に伴うことと関係するとみる。賀茂氏(鴨氏)も同様である。 p39-43 
*秦氏には様々な系統があるとする。
 著者は『日本書紀』雄略天皇15年条にみえる秦酒公(秦造酒)を事実上の初代と推定する。太秦を本拠とした秦氏本宗家である。広隆寺を建てる秦河勝の本拠になる。葛野郡の嵯峨野一帯が重要な居地となる。
 一方、山背国紀伊郡深草の地には深草秦氏が居て、秦大津父の伝承の地である。稲荷山を奉斎し、伏見稲荷神社の創立に繋がっていく。ここに秦氏が狩猟祭祀から農耕祭祀へと脱却を図った跡が垣間見られるという。大津父は深草から伊勢へ商業活動をしていたことが記録から窺える。 p59-71
 治水のプロ集団としての秦氏の側面を取り上げ、秦氏による葛野川の大堰の造成や桂川の大改修、そして松尾大社も秦氏の奉斎する神社であることに言及する。 p82-88
 著者は河内国茨田(まんだ)郡(現在の寝屋川市)にいた秦氏と馬の飼育の関係やこの地に太秦・秦という地名の存在や太秦高塚古墳を例示する。 p73-76
 さらに、大化改新後に『日本書紀』に名前の出てくる近江愛知郡の秦氏-依知秦氏-の存在にふれ、朴市(えち)秦造田来津の例を挙げている。 p117-124
 →京都の神社や寺を訪れると、様々なところで秦氏を見いだす。系譜のことなる秦氏がそれぞれにその定着地の産土神や土着の信仰を採り入れ、秦氏の奉斎して行った結果だということが理解できる。上賀茂神社や下鴨神社に秦氏の影響が見られるのは、秦氏と鴨氏の融和の側面を示すというのもなるほどと思える。
*秦氏は地方に定着するにあたり、在来の神祇信仰に接近し、これと融和的な関係を築くことを重視した。秦氏は元からあった在来の神を祭る社と、新しく他の地域の神を勧請するというやり方を併用しているということ。後者には、大陸から持ち伝えてきた神もいた。「韓神(からかみ)」である。  p191-218
 →第7章では、上田政昭氏と北條勝貴氏の渡来・奉祀の神々の三類型化を踏まえながら、秦氏の関わる神社を考察していて、興味深い。取り上げられているのは、松尾大社、賀茂神社、葛野坐月読神社、蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)、伏見稲荷、韓神、園韓神祭、平野神社である

 著者は第5章で摂津、播磨、豊前、若狭へと増殖し展開していった秦氏の経緯を具体的に説明する。秦氏が中央の政治とは距離を置き、経済の側面で実利的にその存続基盤を拡大している状況がよく分かる。
 著者は上野加代子氏による秦氏が水上交通の拠点としているところに妙見菩薩信仰が多く分布しているという推論を紹介してる。興味深いことだ。また、『風姿花伝』を引き、世阿弥が秦氏を名乗っていることについて論究している点も、私には興味深い。

 第6章「長岡京・平安京建都の功労者」において、秦氏の役割を考察している。
 知らなかったことで、本書を読み関心をいだいたのは、長岡京の築かれた乙訓郡が秦物集氏という枝氏の根拠地だったということ。平安京の造宮職の長官を務めた藤原小黒麻呂が秦氏と姻戚関係にあったこと。平安京の大内裏(平安京)のあった場所が、もとは秦河勝の邸宅があったところだということ。桓武天皇が多くの渡来系豪族出身の女性を娶ったということ。ただしそこに秦氏はいないという。
 桓武天皇の母高野新笠は渡来系豪族の娘であり、桓武朝においては、渡来系豪族が異例の抜擢・寵愛を受けた時代だったということ。この点は、桓武天皇が奈良の豪族旧勢力から一線を画するために、平城京から平安京に遷都することと関係するのだろう。
 
 クレオパトラのもしも・・・ではないが、著者は本書を次の段落で締めくくっている。
「あらためて考えてみると、蘇我氏と秦氏とは山背大兄王滅亡事件の際に衝突する可能性があった。結果的には秦氏の自重によって、戦乱は拡大しなかったけれども、あのとき秦氏が山背大兄王の側についていたら、あるいは蘇我氏の側についていたら、その後の歴史はどうなっていたことだろう。この事件は、秦氏にとっても自らの行く末を左右する大きな転機だったといえるのではないだろうか」と。


 ご一読ありがと。うございます。

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本書に出てくる語句関連でネット検索した項目の一覧をまとめておきたい。

秦氏 都市史01 :「フィールドミュージアム京都」
秦氏 :ウィキペディア
秦氏について :「渡来人研究会」
秦氏考 :「おとくに」
秦氏の末裔 渡来人秦氏と広隆寺の関係 :「世界のために日本は」
 さまざまな情報が収集されていて、広がりを知るにはおもしろいサイト記事です。
 
広隆寺 :ウィキペディア
伊奈利社創祀前史 :「伏見稲荷大社」ホームページ
御由緒 :「松尾大社」ホームページ
木嶋坐天照御魂神社 :ウィキペディア
葛野坐月読神社(山城国葛野郡) :「神道・神社史料集成」
月読神社 (京都市) :ウィキペディア
月神信仰/葛野坐月読神社(京都西京区)
 
はじめに:京都の古代の風景に想いを馳せる 
  広隆寺 という項も記されています。
 


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『さわらびの譜』  葉室 麟   角川書店

2013-12-08 10:36:01 | レビュー
 著者の作品ではめずらしく爽やかさの余韻を残しハッピーエンドとなる作品だ。読後感が重たくなくてやはり良い。『さわらびの譜』という書名にも照応しているように感じる。

 著者が弓術を題材にするのは本書が初めてではないだろうか。有川将左衛門は祖父が扇野藩の弓術師範であり、父の代から勘定奉行に任じられたことから、弓術師範は遠慮し、勘定奉行職を勤めている。日置(へき)流雪荷(せっか)派について父子相伝で印可を伝えている人物。子供は娘ふたりであり、将左衛門は姉の伊也が6歳になった時、弓術の稽古を始めさせた。日置流雪荷派弓術は御家芸であり他流派経験者に伝えては作法に乱れが生じると将左衛門は主張した。それで伊也が雪荷派弓術を相伝する。父は伊也に弓術の天稟を見ていたのだ。伊也は弓の稽古に熱中し、18歳になるまで一日も欠かさず弓の稽古を続けてきた。
 正月に城下の八幡神社での弓術奉納試合に、日置流雪荷派として男装で出場、大和流の樋口清四郎に一個多く的を射貫かれて試合を制されたのだが、たちまち弓矢小町との評判が立つ。伊也は再度樋口と試合をしたいという望みを抱く。

 扇野藩の弓術師範は20年前から大和(やまと)流の磯貝八十郎が努めており、家中の若侍はこの流派の稽古をしている。樋口清四郎は磯貝門下で四天王の一人とされる。後の3人は河東大八、猪飼千三郎、武藤小助である。この3人はそれぞれに弓術での特技を持っている。

 有川家に樋口清四郎との縁談が持ち込まれる。将左衛門は姉の伊也ではなく、妹の初音との縁談として話を進めると娘たちに告げる。まずは許嫁ということで婚儀は2年後と決まる。だが伊也は奉納試合をした樋口清四郎の凛々しく武士としての覚悟の定まった姿に心惹かれる想いを抱き始めていたのだ。それを感じる妹は、「姉上、よろしいのでしょうか」と尋ねると、姉は「縁組は家同士で決めるものです。父上が承知なされたのであれば、それに従うしかありません」と答えるのだが・・・・。ここから清四郎を巡って伊也と初音のそれぞれの想いが様々に展開されていく。ある意味で「しのぶ恋」の様相・心の葛藤が始まるといえる。著者は二人の思いを実に巧みに織り上げていく。この恋心、心奥での葛藤と変転が一つの読みどころである。

 この有川家には、新納(にいろ)左近という武士が寄寓している。江戸の旗本の三男で25歳。学問の道を志し、儒学者粕谷一斎の推薦で扇野藩での召し抱え話が進んでいるという人物。その仲介に将左衛門が関与している。じつは藩政治の局面からある意図での謀が進められていたのである。

 江戸時代、京の三十三間堂では<通し矢>に挑んで数々の記録が生み出されていた。扇野藩でも<通し矢>に挑ませるべく、八幡神社本殿脇に板塀をめぐらせた堂形、長さ60間の射場が作られていた。そして、毎年この堂形で千射祈願を試みる藩士がいたのだ。
 清四郎が有川家を訪ねてきたおりに、伊也は清四郎がこれに挑むつもりではないかと尋ね、また伊也自身も千射祈願を試みたい旨父に願い出る。将左衛門は伊也の振る舞いに激怒するのだが、話が思わぬ方向に進んでいく。
 千射祈願希望者が多いため、一刻の間に百射するという<通し矢>の御前試合を行い、千射祈願の挑戦者を選りすぐるという機会が藩で設定されることになる。
 藩主が帰国し御前試合が行われるまでの間に、伊也は堂形で稽古をする清四郎に一度だけ通し矢のやり方について手ほどきを受ける機会を得る。御前試合では、伊也が清四郎を制する結果になるのだが、その後に御前試合についての奇怪な噂が出来し、伊也の千射祈願は延期となる。伊也は汚名を晴らす機会が与えられるよう願い出る。弓矢の勝負から出た噂は弓矢にて打ち消すしかないとして、互いが十間(約18m)離れたところから相手を射るという御前試合を望むのだ。藩主はそれを許可するが、その願い出が清四郎と伊也を窮地に追い込んでいくことになる。この辺りから、このストーリーが大きく展開を始めるといえる。

 御前試合の弓術での因縁話にかこつけた形で、まったく異なる思惑が進展していたのである。藩主の素行及び藩政治に関わる派閥次元の確執が重なっている。純粋な弓術試合が、どんどんと藩主や重臣の政治的な思惑で汚されていくことになる。

 著者はおもしろい組み合わせを作品として構想したものである。清四郎をめぐる伊也・初音の姉妹の想いの葛藤・変転、弓術試合のステップアップ、それに絡められた藩政治の確執、つまり藩主の思惑と重臣の派閥・勢力争いの確執、政治の局面でキーパーソンになっていく新納左近の存在、清四郎の思考と行動。そして、新納左近の謎とその立場が徐々に解明されていく。弓術による夜討ちという暗殺計画(四天王のうちの3人が関わっていく)の出来・・・・
 そして、伊也による千射祈願の描写が最後にストーリーを高揚させている。この作品の終わり方が爽やかでうれしい。

 著者の作品には、構想の底辺に詩歌が置かれていることが多い。時には、著者の関心を惹いた詩歌が最初にあり、その詩歌に触発され、詩歌の言葉が触媒となり、ストーリーが湧き出てきたのではないかと感じさせる。それほどに詩歌がストーリーの色調を染めているように感じる。
 この作品では次の詩歌が採り入れられている。

 石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも  万葉集

 この春はたれにか見せむなき人のかたみにつめる峰のさわらび  源氏物語 <早蕨>

 あな尊
 今日の尊さや
 いにしえも はれ
 いにしえも かくやありけむや
 今日の尊さ
 あはれ
 そこよしや 今日の尊さ           催馬楽 <安名尊>

これらがストーリーにどのように織り込まれていくかを、お楽しみいただきたいと思う。「さわらび」が本書の基調になっている。著者は本書末文の後半を「早蕨の萌え出づるころだった」で結んでいる。心憎いエンディングである。

 いくつか、印象深い文を覚書としてとどめたい。

*仮にそうであったとしても、ひとを愛おしむ心を煩悩とお蔑みくださいますな。ひとをたいせつにする思いがあってこそ、忠もあり、孝もあり、慈悲もまたあるのだと存じます。   p61
*「あなたには心から謝ります。わたしは立ち合う前に自らの心を正しておかねばなりませんでした。」
 「いいえ、姉上は少しも間違ってはおられません。矢のごとく自らの心に真っ直ぐに生きておられますもの」   72
*初音に武の心があると言った将左衛門の言葉を慮ると、武の心とは、ひとを想い、相手のために危うい目にあおうとも悔いぬ心持ちをいうのかもしれない。  p128



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本書に出てくる語句で関心を抱いたものをネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。

弓術 :ウィキペディア
弓道 :ウィキペディア
日置流 :ウィキペディア
日置流 :「Heki_To_Ryu ~日置當流の歴史~」
大和流 :ウィキペディア
 
通し矢 :ウィキペディア
三十三間堂の通し矢 京の祭礼と行事 :「甘春堂」
 
蓮華王院三十三間堂 ホームページ
京都 蓮華王院 三十三間堂  :YouTube
 
催馬楽 :ウィキペディア
催馬楽 更衣  :YouTube
催馬楽 桜人 :YouTube

さ‐わらび【▽早×蕨】 :「goo辞書」
ワラビ :ウィキペディア
 


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
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『陽炎の門』 講談社
『おもかげ橋』 幻冬舎
『春風伝』  新潮社
『無双の花』 文藝春秋
『冬姫』 集英社
『螢草』 双葉社
『この君なくば』 朝日新聞出版
『星火瞬く』  講談社
『花や散るらん』 文藝春秋

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版



『ブラック・トライアングル』  谷 清司  幻冬舎

2013-12-01 11:27:27 | レビュー
 本書の副題は「温存された大手損保、闇の構造」である。この副題に関心を抱き読んでみた。著者は現役の弁護士である。
 奥書を見ると、平成9年に大阪で弁護士登録し、当時問題となっていた弁護士偏在解決の先駆けとして弁護士過疎地の一つ山口県萩市で独立開業するところから弁護士業を始めた人である。平成16年からは東京の銀座に弁護士法人サリュを設立して、全国に法律事務所を展開している。著者は平成20年から大学院講師もしているという。
 著者自身が交通事故被害者側の弁護活動を通じて見えてきた実態を本書にまとめたものである。  
 著者は「損保保険会社、自賠責システムを担う国、そして裁判所、この3つが我が国の交通事故補償の大きな壁となってたちはだかっているのである」(p3)と「はじめに」の冒頭部分で問題提起している。そして、実際の交通事故被害の訴訟裁判事例を取り上げながら、本来あるべき交通事故補償の形とは何かについて著者の持論を提起していく。それは現状の問題点解決への方向性の提言というレベルであるが、闇の部分に光を照射するという意味では、重要な提言であると思う。

 お陰さまで、今のところ交通事故被害者という立場に身を置くという経験をせずに生きてきた。しかし、いつ交通事故に巻き込まれるかもわからない。現行システムの矛盾点、問題点を知ると、「交通事故被害者の多くは本来受けられるべき補償を受けることができず、声を上げることすらできないでいる」(p3)ことの一人になりかねない危うさを感じた次第である。
 本書は、交通事故補償の現行の仕組みと実態、問題点をまず理解しておくことの重要性及び、被害者の立場になった時の考慮点を知るためには有益である。現行のシステムのからくりをまず知ることから始めることが、やはり自己防衛の一歩だと感じた。

 著者は現行の交通事故補償システムに3つの壁を問題点として指摘する。現行のシステムと問題点指摘の主要点を箇条書き的に感想を交えながらまとめておこう。己のための覚書でもある。ページ表記は要点としてまとめた大凡の参照箇所とご理解願いたい。カギ括弧での文は、本書の引用とする。

1.日本の交通事故保険制度は、自賠責保険と任意保険の2階建て構造である。
 損害保険会社は自賠責保険の最低保障を踏まえて被害者と交渉する。その場合、保険金額をできるだけ低く抑え、任意保険としての支払いを極小にする立場をとる。 p37
 つまり、ここに第一の壁がある。これが様々な手練手管のアプローチになるから。

2.交通事故被害者と保険会社との示談決定で、保険会社は保険金を被害者にまず支払う。 そして、自賠責保険分を回収する。つまり、保険会社が任意保険で負担するのは、
   示談決定の支払い金額 - 自賠責保険負担分 = 任意保険での実質負担分

3.治療費の算定、慰謝料の算定のベースになるのは、自賠責保険における被害者の後遺症障害補償の等級の判定及び被害者の症状固定の時期である。
 ここで2つの問題点が出てくる。
3-1.自賠責保険において後遺障害が補償される条件:等級の判定
 著者は4つ挙げている。この4条件に該当する必要がある。
「1 自動車事故により被った傷害とその傷害が治った時に残存する後遺障害との間に相当の因果関係があること。
 2 将来においても回復が見込まれる精神的または身体的な毀損状態であること。
 3 後遺障害の存在が医学的に認められること。 
 4 労働能力の喪失を伴うこと。」 (p61)
 この条件の意味をどれだけの方が分かっているだろうか。私は深く考えたことがなかった。

 傷害の重さは14等級に分類されている。補償内容は後遺障害による逸失利益と慰謝料となる。「逸失利益とは後遺障害によって十分な仕事ができなくなったために起きる損害で、健常であれば得られたであろう利益を補償するためのもの」(p61-62)である。この逸失利益の計算は被害者の基礎収入(年収)算出から始まる。労働能力逸失期間は症状固定日から原則として67歳までの期間となるようだ。
 慰謝料には、死亡、後遺障害、傷害に対する慰謝料があるが、この慰謝料は後遺傷害の1~14等級に応じて支払額が決められている。
 つまり、後遺障害等級が何等級か、それが大きなキーになってくる。だから、級をできるだけ低く抑えたいといのが保険会社側の立場になる。
 被害者にとっては、この等級認定が補償を受ける最大ポイントになる。  p60-66

 問題はこの算定基準の等級基準である。自賠責保険の等級表は1964年に施行令で制定されたものなのだが、労災保険の等級表がそのまま採用されているという。ところが、この労災保険の等級表は、1939年頃の工場法の改正によって作られたものなのだ。当時の工場での労働環境において、労災で労働能力を喪失した場合を想定して決められたものであり、その後、現在に至るまでそのままの等級基準が踏襲されていて、それが自賠責法でも利用されているという。
 つまり、工場での傷害、後遺症で、労働にどれだけ支障が出て、逸失利益となるかがベースなのだ。たとえば、指の切断による後遺症判定もベースは工場労働における指喪失でどれだけ仕事に影響が出るかであり、工場での労災状態の相対的重みが基準になっている。指の切断は職業によりその重要度は異なるのは常識でわかるだろう。指の第一関節からの切断が、工場労働者の場合、農業従事者の場合、ピアニストの場合、それぞれにその従事する職業の遂行における重要性は異なるはずだ。だが、交通事故で指を第一関節から切断したとすると、この職業の観点には触れずに、等級表の基準が一律に適用されるらしい。 p109-113
 「労災の等級表をそのまま使っている現在の後遺障害認定には、大いに問題があるということである。」(p113)

 では、誰がこの等級判定をするのか? 
 それは、形としては中立機関である「損害保険料率算出機構」が行うようだ。知らなかった。「症状固定後、医師の書いた後遺障害診断書は保険会社を通して同機構に提出される。そこでそれらの書類をもとに同機構が後遺障害の各等級のいずれに当たるかを調査し認定するのである。」(p67)この機構が判定のキーマンになっている。膨大な数の交通事故補償事例があり、判定の公平性という名のもとに、一律的機械的な等級判定が大凡の実態だと著者は言う。ここに、一番ベースになる等級判定そのものの壁が存在する。

 さらに、この機構の成り立ち自体にも問題が潜むと著者は指摘している。
「自賠責保険はもともと交通事故被害者の保護と救済を大きな目的の一つとして制度化されたものである。そこには民間の保険会社とは違い、国民の最低限の生活を守るという社会保障の意味合いも大きく存在したはずである。そのような公共性の強い自賠責保険において後遺障害の調査、認定をする同機構の組織構成が民間の損害保険会社で占められている事実」(p68)が実態だという。「理事長は民法の権威である某大学の名誉教授が努めているが、居並ぶ理事の中には民間の損害保険会社の社長の名前がずらりと顔を揃えているのである。そして同機構の運営費も自賠責保険の保険料の他に各会員からの出資に依っているのである。」(p67-68)

3-2.症状固定の持つ重要性
 交通事故で怪我をした場合、手術、投薬、リハビリなどで次第に症状が回復していく。しかし、「要はこれ以上いくら治療を続けても症状が残ったままの状況」(p38)が到来する。これが「症状固定」と言われる。手足切断は傷口が癒えるだけ。骨折手術で骨に異常が残り、手術は癒えても足を引きずる歩行は残る。つまり「症状固定」で残った障害が「後遺障害」と定義されているそうだ。
 症状固定までの治療期間が短ければ、治療費と休業補償期間が抑えられることになる。入通院慰謝料額の算定に関わるし、後遺障害の認定にも影響を及ぼすという。「通院が短ければ短いほど症状は深刻なものでないと判断されがち」(p39)なのが実態だという。
 「症状固定」の診断書が医師から書かれると、治療費打ち切りとなる。それ以降の通院治療は補償に入らないそうだ。ここで、保険会社は症状固定の難しさのところで、治療経過照会その他の手練手管で、症状固定診断書の発行に働きかけるという。勿論、著者はその背景に、保険会社の「詐病」への警戒があるという側面を認めてはいる。
 症状固定による治療費、休業補償の打ち切りは、示談交渉における兵糧攻めともいえる。症状固定後、示談交渉が長引けば、困るのは事故被害者の方だから。

 「傷害の治療に関する保険でいえば、治療費や入通院慰謝料、休業損害の合計で自賠責保険の上限である120万円以内に収めれば、保険会社は上乗せ分の保険金を支払う必要はない」(p48)のだ。

 もう一つ、後遺傷害診断書上で、やっかいな問題があるようだ。「画像所見」としてはっきりと物理的損傷が明示されていてはじめて専門的に「器質的損傷」と呼ぶそうである。単に被害者がイタイイタイと叫んでも、それは医学的な証明として扱われないという。「彼らのいう医学的証明とは神経症状を引き起こしている『器質的損傷』が存在し、それが『画像所見』として目に見える形で提示されるということなのである。」(p78)

4.示談交渉を保険会社が一手に引き受けるという現状には矛盾と弊害が含まれる。
 著者は弁護士法第72条(非弁護士の法律事務の取扱い等の禁止)規定との関係を論じ、保険会社と日弁連の覚書を解説している。この覚書を交わした後、保険会社が示談代行特約付保険を販売するに至ったという。「保険金支払いをできる限り抑えるべく、示談代行権をいいことに自分たちに都合のよい示談和解を進めるおそれが十分に考えられ」(p119)その事実もある点を指摘している。

5.著者は交通事故裁判の硬直化している実態に大きな壁があると指摘する。
 この点を様々な事例で具体的に説明している。訴訟裁判に至って、どんな状況が起こるかについてイメージを持つのにわかりやすい説明となっている、第5章で論じられている。
 1)あまりにも硬直化した証拠主義になっている点。
  画像所見、器質的損傷といった他覚的所見偏重の傾向が強いそうだ。
 2)書面中心の審理である。そのため、証拠書面にならない局面は疑われるだけ。
 3)裁判所は自賠責の等級を重視する。裁判所で等級を上げさせるのはかなり困難。
 「だから勝負は裁判に訴える前、審査会に異議申し立てをしたり、自賠責保険・共済紛争処理機構に紛争処理申請をすることで何とか等級を上げることにしている」(p127)。 4)「裁判官は交通事故裁判など定型的な案件はできるだけ和解で済ませたいと考えている。」(p132)
  著者の訴訟裁判経験から、帳尻合わせその場しのぎの裁判がよくあると指摘する。
  具体的な問題事例を著者は列挙している。

 本書は、著者が交通事故事件の相談を受け、事件解決の中で突き当たってきた交通事故補償制度の矛盾と問題を真正面から取り上げている。この点で、「ブラック・トライアングル」の実態をまず知っておくのに、有益である。その状況で、被害者になった場合、どう対処するのか、考えていかざるをえないのだろう。脚下照顧のための書と言えよう。

 最終章は「今後の交通事故損害賠償のあり方」に触れている。まあ、あるべき方向性を指摘しているだけなのだが。それが現時点で主張できることだけなのかもしれない。できあがったトライアングルを変革していくのは時間がかかるだろう。交通事故被害者が弱い立場におかれ続けられるということだが。
 著者の論ずる方向性を、この章の見出しでご紹介しておきたい。後は、本書で問題点を熟読された上で、それぞれで、この章の内容をお考えいただきたい。こんな見出しが続いていく。

 *求められる透明性
 *損害保険料率算出機構の構成を明らかにする
 *被害者にも開かれた等級認定にする
 *損害保険料率算出機構の組織を中立・公正なものに
 *未解明分野に関しての原因究明を徹底せよ
 *後遺障害の等級表を細分化する
 *生活利益を考慮するべき
 *捜査情報の利用を認めよ
 *医師との協力体制の構築
 *裁判所の効率主義を正せ

 著者は、交通事故補償問題で多い、ムチ打ち症について、詳細な事例をあげて説明している。ムチ打ち症それ自体では100%、11等級以上の認定はない。12等級か14等級か、いずれに等級認定されるかにより補償額がどれだけ変わるかを論じている。おどろきである。本書をご一読いただくとよい。p73~86あたりである。

 
ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する語句でネット検索し入手したものを一覧にしておきたい。

被害者のための各種制度 -交通事故被害者の救済制度- :「青森県警察」ホームページ
 
後遺障害基礎知識 :「弁護士法人 サリュ 交通事故相談PRO」
後遺障害等級表
後遺障害等級表/慰謝料/労働能力喪失率22.6-   :「弁護士河原崎弘」
平成22年6月10日以降に発生した事故に適用
 
損害保険料率算出機構 ホームページ 
 役員 
 損害保険料率算出機構の役割 
 損害保険料率算出機構(損保料率機構)の概要 (pdfファイル)
  
自賠責保険 :「日本損害保険協会」
 
自動車保険 :ウィキペディア
任意保険  :「保険の窓口 インズウェブ」
 
交通事故裁判例 :「枡實法律事務所」
交通事故後遺障害判例 :「京都宇治市の山崎行政書士」

交通事故と社会保険制度 :「労務オフィス やまもと」
交通事故の治療と社会保険制度 :「きーみんのよくわかる!自動車保険」
交通事故に健康保険が使えないってホント? :「おとなの自動車保険」
交通事故の法律相談Q&A目次 :「横浜SIA法律事務所」
 
保険まめ知識 保険用語集とよくある質問と回答 :「損害保険料率算出機構」
交通事故用語辞典 :「交通事故示談ナビ」
 

 インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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