遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ミカエルの鼓動』  柚月裕子  文藝春秋

2022-06-29 17:46:07 | レビュー
 本書の表紙は、背に翼を拡げ、甲冑をまとったミカエルが眼下の心臓に対して長大な剣の切っ先を今正に突き立てようとするかの如きイラストである。裏表紙には、天秤のイラストの下に、 The Justice of St. Michael と記されている。これらのイラストが、本書のテーマを象徴しているな・・・・と読後印象に繋がる。
 本書は当初、「週刊文春」(2020年1月2日・9日60周年記念新年号特大号~2021年1月28日号)に連載され、加筆修正ののち、2021年10月に単行本化された。

 プロローグは、10月下旬、北海道大雪山連峰の主峰・旭岳(標高2291m)に、軽装で一人の男が登る。天候の急変により彼は遭難の危機に直面する。「見えない何かを睨む。死ねない。まだ死ねない。やつが見つけたものを探し出すまで、死ぬわけにはいかない。」という意思を露わにするところで、本篇に入る。このプロローグは、本篇とは殆ど無縁の形にとどまり、エピローグで遭難の危機場面に繋がって行く。その時に、この登山と本篇がリンクしてる意味が見えて来る。このサンドイッチ型の構成が一つのミステリーの柱になるとも言える。「やつが見つけたもの」を探るミステリーが本篇の後半から浮かび上がっていく。そして、この登山の結末描写に対する解釈は読者に委ねられている。私はそう感じた。この解釈がミステリーとしてのおもしろさにもなる。

 さて、このストーリーは北海道中央大学病院が舞台である。北中大病院における病院長のポストを巡る派閥争いを背景とした医療ミステリーと言える。
 北中大病院は来年、設立100周年を迎えるという道内でトップクラスの大学病院。15年前に前任病院長がロボット支援下手術を導入した。その医療用ロボットがミカエルと称される。現在の病院長は循環器外科系の医師である曾我部一夫。曾我部は、北中大病院をミカエルの活用を中軸にして、全国屈指の医療機関に押し上げようと目論んでいる。 
 西條泰己は循環器第二外科の外科医であり科長である。3年前にミカエルを使い国内初の心臓手術を成功させた。それ以来、心臓手術について問い合わせが殺到し注目を浴びるようになった。今や西條はロボット支援下手術の第一人者とみなされている。西條自身も自負心を持ち、医療用ロボットを利用した医療の平等化をめざしている。曾我部は西條を支援し、ミカエルの使用による医療を表看板にしていく方針を表明してきた。

 このストーリーは、ロボット支援下手術がどういうものかいう点とミカエルの性能向上に伴う医療用ロボット体制の拡充状況、北中大病院がどのような組織構成になっているかの背景描写を導入部として始まっていく。
 医学用語を使った手術の場面が数多く登場するので、正確な意味が理解できずに表層的に読み進める部分がけっこうある。戸惑いがあるのは事実だが、ストーリーの骨子を理解していくことは素人でも充分ついて行ける。逆に未知の領域に触れる感覚もあり、興味が湧くという面もある。普段、健常人として心臓のことをそれほど意識してこなかったから・・・・。
 
 病院長曾我部は2年前に、経営戦略担当病院長補佐・佐々木の任期満了に伴い、外部から雨宮香澄をベンチャーキャピタル企業からスカウトして経営戦略担当病院長補佐に据えた。雨宮はミカエルを使用する医療ビジネスの促進を表明した。そこには病院長方針を越える彼女自身の意思が込められていた。なぜ、雨宮がこの医療分野に執着するのか、その謎を後に西條は知ることに繋がっていく。
 また、曾我部は、女性問題を原因に左遷する決定を下した沼田の代わりに、歯科担当副病院長に富塚を推すことを、西條に事前に教えた。そこには曾我部自身が退職をするまでの病院経営も期間における派閥事情という裏面を見据えた戦略があった。西條にそういう人事の妙の側面を伝えようとしてもいた。そこには西條への期待と彼を足下に置く意図があるのだろう。
 循環器第一外科科長で教授の大友英彦が実家の内科医院を継ぐために辞職することになった。西條は大友の後任は前園圭太しかいないと考えていた。だが、相談という形をとり、曾我部は科長に真木一義という外部の人材を起用すると告げる。それは決定と同義だった。真木のことを西條は少し思い出す。彼は国内で有数の心臓専門病院である東京心臓センターで若手のホープと噂の高い凄腕の心臓外科医だった。だが、突然にその病院を辞めてしまっていた。
 西條の戸惑いが始まる。真木の起用は、曾我部がミカエル使用による医療促進という方針を転換するシグナルなのか・・・・・。

 真木が循環器第一外科科長となり、彼らの日常の医療活動が進行していく。このストーリーはそのプロセスでパラレルに西條がいくつかの謎を感じ始めるという形で、動き始める。
 日常の医療行為のアプローチは対照的なものとなる。西條はミカエルを使った外科手術であり、真木は従来型の人の手による外科手術である。真木の場合、そのスキルが超越していてまさに神業の域にある。術式の違いに加え、そこに西條と真木の個性の違いが関わってくる。
 東京の大病院からの紹介で、12歳の白石航(わたる)が患者として両親とともに訪れる。航の疾患は、房室中隔欠損症である。航に対する事前検査をした後、どういう方法で外科手術をするか。その術式の違いの対立が焦点となってくる。航に対する手術という案件がストーリーの中軸となり、航の検査入院から手術の完了までの紆余曲折が読ませどころとなっていく。航の命を救うという最終目的について西條と真木は完全に一致する。だが、それに至る方法論、術式がまったく異なるのである。
 さて、それだけなら、ミステリ-には繋がらない。だが、そこで、航の手術を行うこととの関わりで重要な疑惑が別のところから発生してくる。

 西條は、ミカエルを使用する手術の術式を普及する活動にも時間を割き、力を入れている。だが、あるきっかけで、その活動を控えるようにと病院長から広報担当病院長補佐に指示が出されていたことを知る。一方、秋に広島総生大学病院で講演会とロボット支援下手術の技術指導の予定があり、その関係資料が届いていたので西條は開封した。広総大の循環器外科医布施寿利の名が技術研修参加者リストに記載されていなかった。布施はミカエルによる術式の信奉者だった。疑問を抱いた西條は問い合わせをして、布施が退職していたことを知る。さらに、その布施が自死した事実に直面する。布施の妻に会い、西條は布施の自死がミカエルと関係がありそうだということを知る。
 ミカエルの何が問題なのか? その謎の解明は、航の手術に直接からんでいく可能性がある。西條は布施とも絡むこの謎の解明に迫られていく。そんな最中に、黒沢というフリーライターが西條にコンタクトを取ってくる。

 航の手術に関わる会議などを通じて、西條は真木という人間の背景を知りたくなる。真木の心臓外科手術に対する信念はどこから来るのか。真木とは何者か。その謎の解明を西條は追い求めていく。黒沢が独自に真木についても調べていることを、西條は黒沢との会話から知る。
 東京心臓センターという有名病院を自ら辞めた真木が、なぜドイツで心臓外科医に復帰し、なぜそこでのポストも抛ち、わざわざ北海道の病院に勤めるという道を選択したのか。真木は心臓外科手術に対しどういう思いで臨んでいるのか。彼は今のポジションをどう考えているのか。彼は何を考えているのか。西條にとって、これらの謎は、西條の今後の処世にも関わってくるという意識が強まってくる。この謎の解明は西條にとって必然的なことと思われた。西條はこのミステリーの解明にも一歩踏み込んで行く。

 そこにもう一つ、西條自身の家庭問題が加わって行く。西條と妻の美咲の関係が冷えていくプロセスが底流に織り込まれて行く。そこに西條の一側面が反映しているとも言える。

 西條の抱いたミステリーは、航の手術というステージに雪崩込んでいく。その手術は劇的な転換を迫られることに・・・・・・。結果としては、難題の心臓手術成功物語となる。
 だが、西條は、その結果に対して己の信念を貫く行動をとり始める。これが2つめの読ませどころといえる。

 さて、ミカエルに触れておこう。
 1つは、このストーリーの中に出てくるミカエルである。医療用ロボットに付けられた名称。
 2つめは、ミカエルという作品名の石像。その像が北中大病院の中庭の一角にドーム型の温室があり、その中の生い茂った植物の中心に置かれたものとして登場する。
 「台座を含めて、1メートルほどの高さのものだ。
  背中に羽が生えた天使の像で、右手に剣、左手に天秤を持っている。直立した姿勢で、剣を天に向け、天秤を緩やかに下げていた。」(p87)
 西條が初めて真木に出会うのが、この像の傍なのだ。
 3つめは、ミカエルについて調べてみたこと。(ウィキペデイアほかより)
 ミカエルは、カトリック教会では大天使聖ミカエルの称号で呼ばれているそうである。
そして、ミカエルの意味を直訳すれば、「神に似たるものは誰か」という意味を持つ。左手に持つ天秤は魂の公正さを測るために携えているという。
 これで、裏表紙の英語のフレーズの意味が繋がる。
 
 最後に、このストーリーに出てくる印象深い文をいくつかご紹介しておこう。
*命は平等だ。ならば医療も平等でなければならない。 p129  西條の信念
*壊れた心臓は、手術で修復できる。だが、心が死んだままでは、本当の意味で救ったことにはならない。いま、白石航に必要なのは、生きる意志だ。本人が生きたいと思わない限り、手術が成功しても彼は治らない。  p231  真木の発言
*逆に、人に決定を委ねた者は、何事においても不満を抱く。 p351
 人生の意味は、自分が納得できるかだ。結果がどうあれ、自分が決めた道なら後悔はない。
              p352  西條の思い 
*医療は信仰だ。・・・患者は、・・・救われたいからくるんだ。・・・医者は神であり。患者は信者だ。            p393  曾我部の言
*死に対する救いはなんだと思う。諦めと納得だ。・・・・患者や遺族の悔いを少しでも軽くし、前に進めるようにするのも、我々、医療者の役目だ。  p394  曾我部の考え
*医者は神じゃない。
 たしかに患者は医師に救いを求めている。でもそれは、信者が偶像を崇拝するような一方的なものじゃない。人と人が平等であるように、医師と患者も平等だ。医師は患者を救いたいと思い、患者は医師を信頼する。両者の心が向き合ったさきに、本当の救いがある。
              p396 西條の考え

 お読みいただきありがとうございます。

本書に関連し、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
次世代医療ロボットの需要とメリット~手術ロボットの開発に求められるエンジニアとは~  :「Ties」
【特集】国産初の手術支援ロボ「hinotori」未来医療をつくる両輪"技術者と医師"に聞く『不死鳥』の真価(2021年3月26日)  YouTube
医療ロボット最新型『 ダビンチXi 』手術支援ロボット YouTube
手術支援ロボット「ダヴィンチ」徹底解剖  :「東京医科大学病院」
医療ロボット・AIの実践  :「藤田医科大学」
医療・介護の現場で使われているロボットの問題点と未来とは?:「PTOT スタイル」
医療ロボットを導入する3つのメリットとは?おすすめの医療ロボット3選:「PITTALAB」
ミカエル :ウィキペディア
ミカエル :「コトバンク」
モンサンミッシェルの大天使像、修繕終え再び尖塔に :「AFP BBC NEWS」
モン・サン・ミッシェルと輝きを取り戻した銀色の大天使ミカエル:「TOURISME JAPONAIS」
大天使ミカエル信仰、プーリア聖地とサンタンジェロ城 :「World Voice」

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『月下のサクラ』   徳間書店
『暴虎の牙』  角川書店
『検事の信義』  角川書店
『盤上の向日葵』  中央公論新社
『凶犬の眼』  角川書店
『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』  講談社
『蟻の菜園 -アント・ガーデン-』 宝島社
『朽ちないサクラ』  徳間書店
『孤狼の血』  角川書店
『あしたの君へ』 文藝春秋
『パレートの誤算』 祥伝社
『慈雨』 集英社
『ウツボカズラの甘い息』 幻冬舎
『検事の死命』 宝島社
『検事の本懐』 宝島社

『頼朝と義時 武家政権の誕生』  呉座勇一   講談社現代新書

2022-06-22 23:19:32 | レビュー
 本書を通読した後、「あとがき」を読み、初めて知ったのだが、著者は「本書執筆の最中、私の愚行により、『鎌倉殿の13人』の時代考証を降板することになった。多くの方の心を傷つけ、多くの関係者にご迷惑をかけた以上、本書の刊行を断念することも考えた。」と記している。大河ドラマを見ないので、その関連報道にも注意していなかった。改めてネットで調べてみて、「愚行」の内容を知った。まさに愚行と思う。汚点を残したと言えよう。それはさておき、本書は2021年11月に刊行されている。

 鎌倉幕府を開いたのは源頼朝であり、源氏三代の後には北条氏の執権政治に移行していく。実朝は鶴岡八幡宮境内で暗殺された。源義経の戦歴武勇伝や後鳥羽上皇は仕掛けた戦の結果、敗れて島流しになった。そんな大雑把なこと以外では、鎌倉時代の文化的側面を多少知るだけだった。頼朝については肖像画を見たことや東大寺大仏殿の復興に尽力した側面を知るばかり。頼朝以上に、義時は名前を記憶する程度・・・・。そんなお粗末さなので、上記のことなど知らないままに、本書を読んだ。

 最初の三分の一くらいまでは、登場する人物たちの人間関係、その関係性の説明が分かりづらく、読みづらかった。ある意味、面白味を感じることがなかったが、その先で、時代が大きく動き出すあたりからは、史実としてのイベントの繋がりがわかるようになり、読みやすくなった。ほとんど知らなかった頼朝と義時について一歩深く踏み込めて、武家政権の創生にどのような役割を果たしたのか知ることが出来た。
 
 読みながら思ったのは、頼朝の妻となった北条政子の果たした役割が如何に大きかったかという側面である。本書では北条政子についての記述は要所要所、まさに要のタイミングで出てくるに留まるのだが、北条政子の存在が続かなければ、鎌倉幕府は早期に瓦解していたかもしれないという印象を併せて持った次第。

 本書は8章構成で、頼朝の伊豆流人としての時期から始まり、承久の乱後に義時が死ぬまでを語る。つまり、義時の死の後、鎌倉幕府が1世紀にわたり継続する基盤となった武家政権の誕生期の実態が明らかにされていく。章毎に少し、感想を交えてご紹介しよう。
 
<第1章 伊豆の流人>
 頼朝の名を知っていても、頼朝が河内源氏の御曹司ということすら知らなかった。父の義朝が河内源氏の棟梁であり、頼朝は京都生まれの京都育ち。平治の乱で義朝が平清盛に敗れる。頼朝や義経は清盛の継母池禅尼(平宗子)の助命嘆願により、清盛の温情を得た結果、頼朝は伊豆への配流になる。知っていたのは、命が繋がり、伊豆の流人になったこととそこで北条政子と結婚したという断片だけ。義経のことはもう少し知っていたが。
 次の点など、本書で初めて知った。
*頼朝が流人となった後、比企尼が夫とともに、頼朝挙兵まで20年間、最大の支援者とな
 った。三善康信がもう一人の重要な支援者となった。
*頼朝は、伊豆国伊東の豪族、伊東祐親の娘の八重と結婚し、子を成したということ。
 頼朝は、その後に北条時政の娘政子に言い寄り、男女の仲となる。父時政の在京中に。
 治承元年ないし2年あたりで頼朝は政子と結婚する。
*時政は、貴種である頼朝を婿に取ることで、地域社会における北条氏の声望を高めよう
 とした。初期の時政の意図はその程度と著者は判断している。
*北条氏は、小規模な武士団。当時の伊豆国の知行国主は源頼政。池禅尼の息子・平頼盛
 -源頼政-源頼朝の提携という動きの中で、時政は牧の方と結婚した。
 牧の方の父・牧宗親は平賴盛の所領である駿河国大岡牧の代官を務めていた。
*以仁王・源頼政の挙兵、「以仁王の令旨」が頼朝にとって挙兵の決断をさせた。

<第2章 鎌倉殿の誕生>
 頼朝は以仁王令旨を都合良く解釈し、山木兼隆を討つという初戦で勝利を得た。現在の小田原市にある丘陵地、石橋山合戦では大庭景親の軍勢に敗れる。だが、安房国に向かい、房総半島を制圧していく。頼朝に従う武士が増えていく。頼朝は鎌倉を根拠地に定める。
 鶴岡八幡宮は、1063年に源頼義が石清水八幡宮を勧請して鎌倉由比郷に社殿を造営したことに始まるということを本書で知った。頼朝は、父祖ゆかりの地であることを強調すると共に、鎌倉が相模国府から三浦半島を経由して房総半島に渡海する際に中継点になる交通の要衝地であることの重要性を勘案したという。なぜ鎌倉かには政治的・経済的に重要な意味があったのだ。
 富士川合戦について、当時の歴史書『吾妻鏡』の記述と合戦の実情とのギャップについて詳論しているところがおもしろい。

<第3章 東海道の惣官>
 時代は同時並行に進行している。平家は結果的に富士川合戦で敗北する。1181年2月に平清盛は突然の熱病で死ぬ。挙兵した木曽義仲は京都に躍進する。平家は都落ち。義仲と後白河法皇の関係もぎくしゃくと変転する。
 そんな最中に頼朝は後白河法皇と交渉を進め、頼朝は「寿永2年10月宣旨」を得る。このあたりの経緯も初めて本書で学んだ。この宣旨の位置づけと歴史的認識が学界では論点の一つになっているそうだ。頼朝はこの宣旨により、東国支配権を永続的に得たと理解し、「東海道の惣官」と自称するに至ったという。頼朝は鎌倉に居て命令を発する立場になっていく。戦の表舞台に出てくることはない。それ故に、頼朝像がイメージしづらいのだろうと思った。
 義経の京都進出が脚光を浴びていく。近江粟津での木曽義仲の滅亡、平家との一の谷合戦と「鵯越えの逆落とし」、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いへと戦は進展していく。義経サイドでの内容は比較的知っている時期であり、読みやすくなる。本書では、脚色された部分と史実の分別が明確になされていて、興味深く読めた。
 本書で、頼朝の戦略構想は、範頼軍が本軍であり、義経の率いた軍には支援軍として脇役であることを期待していたという。範頼軍の活躍で頼朝の勢威を誇示していこうとしたようだ。だが、実際は範頼軍は先々で苦戦を強いられ、逆に義経軍はスタンドプレイ的な行動も含め、連戦連勝する。義経の戦上手が世間の耳目を引きつけていく。
 著者の記述を引用しよう。
「義経が屋島を落としたら、頼朝は困るのである。旗揚げ以来、頼朝を支えた東国御家人たちの多くは範頼軍に参加しており、彼らの活躍によって戦争を終結させなければならない。範頼軍こそが主役であるべきで、義経軍は脇役でなければならない。」 p130
「(壇の浦での戦い)では義経の勝因は何か。単純に戦力で上回ったからと考えられる。・・・・・義経の水軍の中核は熊野水軍や河野水軍であるから、実質的に西国勢同士の争いである。」 p134

<第4章 征夷大将軍>
 この章で学んだ興味深い点をご紹介しよう。私は知らなかった。ご存知だったでしょうか。
*義経は迅速な平家討伐を望む後白河法皇の意思を優先した。
*義朝軍は主に畿内・西国武士によって構成されていた。
*「腰越状」の逸話は後世の創作と考えるべきである。
*1185年10月、義経と源行家は後白河法皇に源頼朝追討の宣旨を求め、挙兵したが失敗
*義経の奥州への逃走は、頼朝に奥州藤原氏の殲滅実行の契機を与えることになる。
 奥州合戦で頼朝は全国総動員体制を布いて実行した。御家人の範囲確定の側面を持つ。
 頼朝が源氏嫡流としての権威を確立する一大デモンストレーションの機会だった。
*頼朝は「大将軍」に任官を要請した。1192年7月12日、征夷大将軍に任じられた。
 頼朝は御家人たちとの関係を再構築した。そして在任2年余りで征夷大将軍を辞任した
*頼朝は娘を後鳥羽天皇に入内させる工作をしたが、大姫、三幡ともにその死で頓挫した

<第5章 頼朝の「家子専一]>
 この章で視点を義時に移していく。頼朝が挙兵した時の義時との出会いから始めて、頼朝と義時の大筋の関係が時系列的に要約されていく。義時は頼朝の側近であり、重臣であることに終始したようである。義時と父時政の関係も明らかにされる。時政は第二の義経になり得ることを頼朝から警戒されていたともいう。
 歌舞伎で知る「曾我兄弟の仇討ち」話がここに出てくるが、これは1193年に頼朝が駿河国富士野において巻狩を行った時の宴で発生した事件で、曾我兄弟は頼朝をも殺害しようとしていたことを知った。曽我兄弟の黒幕は誰かの諸説が論じられていて、おもしろい。一説に、時政黒幕説があるという。
 
<第6章 父との相剋>
 頼朝の急死により、建久10年(1199)正月、頼家が鎌倉殿の地位を継ぐ。朝廷は「諸国守護」の権限を頼家に与え、世襲による鎌倉殿の国家的役割が確定した。しかし、政治機構としては「13人の宿老」による合議体制となる。頼家の独断専行は頭から抑止される。だが、この後、梶原景時の変、阿野全成の死、比企氏の変、時政の失脚、時政と牧の方との間に生まれた男子である北条政範の早世(京への途次に病死)、畠山重忠の乱、牧氏事件が語られて行く。頼家は頼朝の嫡男だが、最も深い関係を有するのは比企氏の一族であり、比企能員の娘・若狭局が頼家の子・一幡を産んでいた。
 北条氏と対立する重臣たちは一族もろともに次々に滅亡させられていく。その経緯が述べられる。北条政子と弟の義時がタッグを組み、義時の時代を作り上げていく経緯が明らかになっていく。
 第2代将軍となった頼家の人物像はほとんど語られない。そんな存在だったということか。

<第7章 「執権」義時>
 建仁3年(1203)に12歳で実朝が第3代将軍に就任した。当初は北条時政が政治を代行し、時政失脚後は、政子・義時が実朝を補佐する体制に移行する。1209年に実朝は従三位に昇叙し、公卿として正式に政所を開設できる立場になった。これ以降に将軍親裁が本格化していく。実朝が公卿に列した数ヶ月後に、義時は政所別当に就任する。
 実朝は王朝文化に傾倒し、貴族趣味に興味を抱き、後鳥羽天皇を理想の統治者とみなすようになっていく。そして、自立をはかり己の政治に取り組もうとする。義時との間に、軋轢が生まれることは必然だろう。その辺りの状況が明らかにされいく。
 守護制度改革の失敗。1209年5月の和田義盛の訴え、1213年の泉親平の乱、同年5月2日の和田合戦の勃発。1213年5月5日、和田義盛に代わって義時が侍所別当に就任する。つまり、この時点で、義時は政所別当と侍所別当を兼任する形になる。これによって、実質的には、「執権」職が確立したことになるようだ。義時が執権という役職に就いたかどうかは疑わしいと著者は言う。
 実朝は1219年正月27日、右大臣拝賀の儀式を鶴岡八幡宮で行う。この日境内で実朝は頼家の子である公暁に暗殺された。ここにもまた黒幕説が生じる余地が生まれてくる。「北条義時黒幕説」が提起されているという。
 頼家については何も書かれていないに等しいが、実朝の人物像については、かなり書きこまれていて対照的である。現存する史料の差、在位期間の差によるのだろうか。
 いずれにしても、北条氏が盤石の勢力を築く準備期間が、頼朝から実朝に至る源氏の将軍時代だった。それは周辺一帯で対抗する力を持ちうる有力な一族たちを排除、殲滅する段階だったことがよく分かる。

<第8章 承久の乱>
 鎌倉幕府を維持するためにどうするか。後継者不在の実朝の時から重要な問題となった。そこに、親王将軍擁立構想が浮上する。それが実際の路線となるが、その初期の紆余曲折が、承久の乱の顛末とともに述べられていく。
 本書を読み、興味深い点は、公武関係の悪化の過程で、後鳥羽上皇が挙兵したのは政権奪還ということではなく、打倒義時という意図だったという説明である。後鳥羽上皇が発したのは北条義時追討の官宣旨だったという。「幕府を滅ぼせ」とは言っていないというである。この経緯が詳論されていて、面白い。
 ここに、有名な北条政子の演説が絡んでくる。この北条政子の演説で、ご恩を返すという意味を換骨脱退して、論理の巧妙なすり替えが行われているという分析がおもしろい。「専門的に言えば、もともとは人格的結合だった御恩と奉公の関係を、制度的結合に変えたのである。これは、御恩と奉公の変質である。」(p295-296)と説く。ナルホドと思う。ある種のタテマエの論理である。が、それを聞いた御家人たちには「したたかな現実的判断が働いていたことも忘れてはならない」というオチは、さらに納得がいく。
 承久の乱は、後鳥羽上皇側の敗戦で終わる。鎌倉幕府が3人の上皇たちを配流するという前代未聞のことが実行された。それはまさに武家政権の威力と確立を具体的に示すデモンストレーションとなる。勿論、人々に反発心を抱かせる種にもなるのだが・・・・・・・・。
 承久の乱(1221年)後、1224年に6月に義時は急死する。北条氏のお家騒動が起こる。その一因は北条政子自身にあるという側面もあるようだが、これを鎮圧したのも北条政子の采配だったという。

 本書の最後の締めは、「義時が敷いた路線が、鎌倉幕府を一世紀にわたって存続させたのである。」という一文である。

 頼朝と義時の背後に政子あり、という実感が強い。歴史に「たら」「れば」は意味がないというが、もし北条政子が、かように聡明な女傑でかつ長寿でなければ、鎌倉幕府ははるかに短命で終焉していたのではないかという気がする。 
 
 頼朝と義時を軸にしながら、鎌倉幕府の誕生基盤とその構造、朝廷との関係を一歩踏み込んで考える上で、役に立つ一冊と言える。日本史研究者の様々な見解を織り交ぜながら、最先端の論議の一端も加えて、武家政権の誕生の実態を解説してくれていて、参考になった。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット情報を一部検索してみた。一覧にしておきたい。けっこう情報がある。
鎌倉幕府   :「コトバンク」
幕府ができるまでの道のり  :「玉川学園」
源頼朝  :ウィキペディア
「冷淡な政治家」という評価は正しいのか? 源頼朝の真の顔とは?
                   :「ベネッセ 教育情報サイト」
北条政子 :「ジャパンナレッジ」
[歴史探偵] 悪女か?女傑か?北条政子の人物像に迫る!| NHK  YouTube
北条政子とはどういう人物?性格を推測できる4つのエピソードを紹介
                   :「ベネッセ 教育情報サイト」
北条義時 :ウィキペディア
北条義時とは何をした人?義時が激動の時代を生き抜くことができた理由は?
                :「ベネッセ 教育情報サイト」
源頼家   :ウィキペディア
源実朝   :ウィキペディア
第22回 鎌倉幕府の成立      :「歴史研究所」
第23回 鎌倉幕府の仕組みとは?  :「歴史研究所」
変化する幕府の組織     :「玉川学園」
鎌倉幕府の財源  :「国税庁」
幕府のしくみ  :「NHK for School」
第24回 承久の乱と権力基盤を固める北条氏  :「歴史研究所」
鎌倉幕府の執権、北条氏の最重要人物は誰?  :「Britannica」

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『印象派はこうして世界を征服した』 フィリップ・フック 白水社

2022-06-15 23:03:25 | レビュー
 友人のブログ記事で本書を知った。印象派と称される画家たちや作品には関心を抱いてきたので、この翻訳書のタイトルに惹きつけられ読んでみることにした。
 表紙の翻訳タイトルの上に、How the Impressionist Painting Conquered the World と記されている。
 本書の末尾には、「訳者あとがき」が付記されていて、その冒頭で訳者の中山ゆかりさんは、ます原題に触れられている。
THE ULTIMATE TROPHY How the Impressionist Painting Conquered the World
その続きに、原題を直訳すれば『究極のトロフィー 印象派絵画はいかにして世界を征服したか』となる、と記す。つまり、翻訳本では副題にあたる部分がタイトルになっている。

 本書を読んで、結果としてやはりキーワードは「究極のトロフィー」に集約されると感じた。読後印象は、「はじめに」の第一パラグラフに回帰する。最初は、次の文をさらりと通読しただけで先に読み進んでいた。だが、このパラグラフが、本書の特質を明確に述べていたのだ。
「本書は、絵画と、その絵画を人々がどのように受け止めているかについて書かれた本である。人は絵を、ただ単にそこに描かれているイメージだけでとらえるのではない。自身のステータス・シンボルとして、また文化的あるいは社会的なトロフィーとして見ているのだ。とりわけこの本では、印象主義の受容の仕方が、この百数十年のあいだにどのようにかわってきたかを採りあげる。」

 本書は、印象派絵画についてその描法、美的本質・精髄を論じるのではなく、印象派絵画が社会の中でどのように受け入れられて行ったかという社会的文脈での評価の変転に目を向ける。印象派の絵画を購入し、手許に置くことが、自分自身にとってのステータス・シンボルになるという認識を持てるからこそ、印象派絵画を受容して行った。購入者に取っては己の存在を示すトロフィーになるからだ。時には、作品が投資対象として、マネーロンダリングの手段としても利用される副次的側面も生まれていった。この社会的なカラクリの側面が明らかにされていく。
 勿論、著者は印象派絵画の美的本質に感動し、共鳴し、先見性を持ちそのコレクションを始めた人々の存在に触れている。批評家テオドール・デュレ(p48-49)、フランス税関の官吏ヴィクトール・ショケ(p49-52)、英国の実業家サミュエル・コートルード(p184-188)などを例示している。
 だが、著者は印象派が世の中に受け入れられ、意識転換が生じて行くうえで、別の側面の重要性に目を向ける。印象派絵画に目をつけた画商たちが19世紀末から20世紀初めにかけて生まれてきた富裕層を重要な顧客として開拓していった活動事実を明らかにしていく。そして、その延長線上で、サザビーズやクリスティーズというオークション会社の競売人が美術界の舞台裏で活動をする様を明らかにしていく。

 印象派の作品は、トロフィーになり得たから、世界中で受容され、人々の美意識が転換して行った。つまり世界を征服するに至ったと著者は説いている。美術史論・芸術論ではなく、人間の社会的行動という側面を重視したこの分析はおもしろい。
 著者は、オークション会社サザビーズの印象派&近代美術部門のシニア・ディレクターであり、クリスティーズでもディレクターを勤め、30年にわたり美術業界で活動してきたというキャリアを持つ。それゆえ、美術業界の舞台裏のエピソードなどは説得力をもっている。

 著者の論点の幾つかをご紹介しておこう。
 1863年、パリの官展(サロン)への展示を拒否された画家たちは「落選展」を開催し反逆の試みを行った。批判的揶揄的な評価から、印象主義、印象派という呼び方が生まれてくる。
 著者は「印象派絵画の評価を押し進めてきたのは、ほとんど画商と個人コレクターであり、美術館ではなかった。」(p66)と断言する。イギリスの著名な美術館が印象派の絵画をどのように拒否していたかを詳細に説明している。印象派絵画の英国人コレクターの先駆者としてアイルランド人のヒュー・レーンが英国で最初の重要なコレクションをつくりあげた。レーンがそのコレクションの寄贈をダブリン市に、あるいは貸与をロンドンのナショナル・ギャラリーに申し出たときの先方の対応についてのエピソードを語っている。
 著者は、最初に印象派を評価した画家の一人として、ポール・デュラン=リュエルの活動を採りあげていく。彼は画家たちを支援するだけでなく、画家たちが有名になるように積極的に行動して行った。その経緯を描き出す。デュラン=リュエルは<画家の個展>というアイデアを最初に生んだ先駆者であり、同時に雑誌とカタログを刊行することもした。画商としての利益が出始めるのは1880年代の後半だという。1880年代半ばから、印象派絵画にとって商業的な流れも好転を始めたようだ。
 印象主義に反対した人々は、印象派の欠点として、「使用される色彩がまばゆく明るすぎること、仕上げがなされていないこと、主題がありふれていること」(p70)を挙げていた。だが、逆にその欠点が長所であると認識が転換されて行く。著者は、「第一次世界大戦が終結する頃には、印象派絵画はパリの裕福な美術愛好家の趣味にすっかり合致するようになっていた」(p70)「パリで印象派の絵画のピークに達したのは、逆説的なことに、第二次世界大戦中のドイツ占領下の時代だった」(p71)と述べている。
 著者は、アカデミー(官展)対印象主義という対立から始め、ヨーロッパ各国での印象主義への対応の温度差を明らかにしていく。その対応は各国各様であり、読んでいておもしろい。印象主義の受容は、画商たちの働きかけもあったのだろうが、やはりアメリカの新興富裕層が先行していたようである。
 
 さらに、興味深い指摘がある。「20世紀の初頭には、印象主義はもはや最先端ではなくなっていた。<前衛芸術(アバンギャルド)>の冠は、どこか別の流派へ移っていった」(p68)その結果「マティスやピカソといった画家たちによるはるかに挑戦的な作品がもつ過激さから逃れることのできる、安全で、美しい色彩に満ちた楽しい絵として見るようになっていた」(p113)という変化が生まれてきた。そして、アメリカの新興富裕層にとって「印象派のコレクションはアメリカの、むしろ<古い>富を象徴する魅力的な存在」(p114)とすら認識されるようになる。「印象派を<贅沢な日用品>としてとらえなおすことであり、さらには、印象派の時代を美術史の偉大な一時代として祭り上げる」「印象派のヴィジョンはポピュラーなもの」(p139)、「のちの前衛芸術に比べると安心できる美術となった」(p188)という形に認識が転換して行ったと言う。
 「『<贅沢な>所有物』・・・・・世界中のどこの豪勢な邸宅でも同じようにおこっていた。新しく生まれた富裕層は、自分たちの富を見せることが大好きだ。そのためには、ルノワールやモネの絵を壁に飾ることほどふさわしい方法はない。この方法は、美的な感性と巨大な経済力とを同時に示し、しかもその二つを強く結びつける。新たに財力を得たすべての世代が、まるで磁石に吸い寄せられるように印象派に惹かれる理由はおそらくそこにある。ここには不朽の神話がある。そしてそれは<進歩主義>の神話である。」と記す。(p143)
 
 「1960年代後半には、印象派絵画を多額の金銭と同一視する見方は、大衆の意識のなかにしっかりと、そしてときにおもしろがって受け入れられていた」(p226)という。「印象派の絵画を買うことは、自身が金持ちであることを証明するためになすべきことの一つになった」(p226)とも記す。「それらの作品は持ち主を、魅力的であると同時に文化的でもあるように見せてくれるから」(p226)つまり、トロフィーの役割を果たしてくれるのだ。「1970年代と1980年代には、超富裕層のあいだでは、印象派の絵画は持ち主の経済的かつ文化的ステータスを好ましいかたちで示すシンボルとして、その地位を確固たるものにしていた。」(p230)
 この側面と表裏をなすのが、後の時代となって出てくる印象派絵画の売り立てである。オークション会社の出番となる。個人コレクターの死あるいは何かの事情により、そのコレクションが売り立てに出ることにより、初めて超富裕層が印象派絵画を入手出来る機会が巡ってくることに。ここに、印象派の時代を位置づけていく舞台裏の話が結びついてくる。オークションは、印象派の絵画を己のトロフィーとして入手出来るチャンスとなるのだ。本書で語られてる美術業界の裏話は実にリアルである。興味津々というところ。そこには絵画の芸術的価値はさておいて、マネーゲームとトロフィー獲得の争奪戦が繰り広げられているとしか思えない。暴露話的にはおもしろいエピソードが多く語られていて読者としては楽しめる。1980年代のオークション結果の一事例として、日本人が出てくるが、結果的に悪例として登場するのはげんなりである。そう言えば、そんな報道があったなぁ・・・。

 なぜ過去の巨匠の作品より印象主義絵の画が美術市場の牽引役になれたのかについて、別の要因が説明されていて、なるほどと思った。「専門知識の蓄積によって信頼に足る鑑定が可能となった印象派の作品は、反論の余地のない真筆作品として認められうるものだからだ」(p212)という。なるほど、騙されずに済むということなのだ。投資対象と考える輩に取っては要の要因と言える。勿論真摯なコレクターにとっても当然安心できる。「過去の巨匠の作品は、たとえそれがどんなに重要なものであれ、画家の真筆であるかについては、常に批評にさらされる不確実性をもつ。」(p212)
 そこには、上記のデュラン=リュエルら初期の画商たちの先見の明と努力が寄与していた。「自身が扱った画家たちの作品を写真記録として包括的に残しておくことにこだわった」(p213)ことのおかげであるようだ。ナルホドである。

 印象派が世界を征服する、つまり、印象派絵画が世界の人々に受容され、楽しまれ、喜ばれている理由があったのだ。今後も、トロフィー効果を享受したい人々は享受すればいい。ただし、秘蔵せずに、一般公開する機会を設定してくれるならば。
 美術館に作品が所蔵され、公開され、一方美術展が開催され続けることが、我々にはうれしいことだ。原画をこの目で見るチャンスを持ち続けられるのだから。

 知らない事実が次々に明らかにされていく。裏話、暴露話的なエピソードが要所要所に盛り込まれている。印象派絵画の見えなかった側面が見えて来る。読んでいておもしろい。
 
 ご一読ありがとうございます。

『戦国の城』 香川元太郎 ONE PUBLISHING

2022-06-12 17:48:24 | レビュー
 表紙の上部に、「ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト」と一行のキャッチ・フレーズが記されている。この一行を冠して全てが書名なのかもしれない。
 いずれにしてもこの一行で本書のイメージを抱くことができるだろう。本書は2021年9月に刊行された。

 著者は本書の他に同文の一行を冠した『日本の城』(ONE PUBLISHING)を刊行している。

 さて、本書はA4判(210×297)サイズであり、実際には各ページが2つ折になっているので、1ページの大きさが横長にしたA3サイズになる。表紙には[丹波]周山城のイラスト部分図が使用されている。
 つまり、本書には戦国時代の城-主に山城-について、発掘調査研究結果・縄張り図・時代考証などについて専門家とコラボレーションし、イラストレーターである著者が城を鳥瞰・復元したイラストに仕上げる。基本的にはA3サイズの大きさに描き出している。周辺の地形、植栽、居住状態を含めて、ワイドでかつパノラマの景色が描かれている。

 本書は戦国期の山城愛好家には垂涎の書と言えるだろう。私自身、一時期史跡探訪の一環として近江(滋賀県)の山城をいろいろと巡ったことがある。山城跡は曲輪跡、竪堀跡、堀切跡や虎口などの部分部分は教えられてこれがそうかと分かる程度であることが多い。。勿論樹木の繁茂も影響しているし、現地の荒廃が進んでいるからだ。時には縄張り図での説明を聞くことで、現地にて山城の全体構成の理解を深めることができる。しかし、その地形の中に具体的にどのように建物が建っていたのかまでイメージするのは難しい。今では曲輪の位置がわかっても全体の大きさや形までスッキリと見渡せる訳ではないからだ。堀切や竪堀も部分的に見えるだけ。そんな実体験をしている。だが、そこに山城を少しでもイメージしようとする浪漫がある。
 本書のイラストは山城の最終形を復元してくれている。縄張り図と山城の鳥瞰・復元イラストを携えて、現地を探訪するなら楽しみがいや増すのではないか。あるいは、かつて実際に城跡に出向き現地を体験した人には、記憶を辿りながら、城を鳥瞰・復元したこのイラストをみれば、山城を二度楽しめることになる。

 イラストには、各箇所に役割・機能に関わる名称が付記されているので、それぞれの山城の全体構造を理解する補助になる。これから山城を訪れてみようと思う人にとっては、しっかりしたイメージを形成する事前学習資料になると思う。

 奥書を読むと、著者は『歴史群像』(ONE PUBLISHING)の連載「戦国の城」で、2000年から復元イラストを担当してきたという。つまり、本書はこの連載シリーズに掲載された復元イラストを中核にしつつ、他の目的で作成された復元イラストも含めて、現時点までに作成された成果を集大成した本とである。
 著者の復元イラストに対し、その図の監修並びに城の考証についてそれぞれの専門家が分担している。奥書には「執筆・監修・推定復元・復元設計」の担当者として氏名と肩書が一覧で表記されている。
 専門家・研究者とのコラボレーションの成果である故に「復元イラスト」という用語も適切な裏付けのもとに使えるのだろう。

 誰しも身近な城にまず関心が向くと思う。本書に戦国の城としてどの城が採りあげられているかを目次を参考に列挙してご紹介する。
陸奥: 九戸城、寺山城、       出羽: しなの館、中山城、舘山城、米沢城
会津: 久川城            上野: 根小屋城、三ツ寺遺跡、名胡桃城
武蔵: 虎ヶ岡城、大堀山城、松山城      岩櫃城
    小野路城、辛垣城、小机城   下野: 独鈷山城
    江戸城(太田道灌時代)    上総: 坂田城
    杉山城、岩付城、浄福寺城   下房: 本佐倉城
    江戸城(家康時代)      安房: 江見根古屋城
    寛永期江戸城天守       相模: 小田原城、大庭城、三崎城
甲斐: 能見長塁、御坂城           石垣山城、小田原城天守
越後; 加茂山城、栃尾城       越中: 増山城
若狭: 国吉城            加賀: 切山城、松根城
越前: 大野城            
飛騨: 傘松城、高原諏訪城、小島城  美濃: 明知城と落合砦・仲深山砦、金山城
    古川城、小鷹利城(向氏段階)     加治田城、大森城、今城、大垣城
    野口城、桜洞城、萩原諏訪城  伊豆: 下田城、韮山城
    高山城本丸          駿河: 朝比奈城/殿山、花倉城/葉梨城
遠江: 馬伏塚城、諏訪原城/牧野城       丸子城
三河: 吉田城            近江: 佐和山城、高取山城/男鬼入谷城
丹波: 周山城            山城: 山崎城、二条城(江戸前期)、田辺城
                       聚楽第
摂津: 芥川山城、大坂城惣構 真田丸  河内: 飯盛城
丹波: 篠山城            播磨: 明石城、姫路城内郭
但馬: 竹田城            伊予: 宇和島城天守
紀伊: 和歌山城           因幡; 鳥取城(攻囲戦)
伯耆: 米子城            出雲: 赤穴瀬戸山城、月山富田城(堀尾時代)
石見: 七尾城            備後: 青木城
阿波: 東山城、徳島城、       讃岐: 高松城、丸亀城天守(御三階櫓)
伊予: 今治城、来島城        土佐: 高知城
筑前: 安楽平城           肥前: 原城
豊後: 日出城、岡城御三階櫓     大隅: 岩剣城
北海道: 桂ヶ岡チャシ        琉球王国: 中城グスク
大韓民国: 泗川倭城
    
 復元イラストのコラボレ-ションについて、著者が「あとがき」に記す一つのパラグラフを最後にご紹介しておこう。
「この本のイラストも、多くは専門家の研究家に監修いただいたものです。『歴史群像』では、下絵と本画、それぞれの段階で修正指示を受けて仕上げています。さらに自治体の仕事では、研究家だけでなく、地元の方々も検討して、下絵の修正を繰り返します。1枚のイラストに半年をかけることも珍しくありません。城だけでなく遠景の集落にも、色々な方の見解が入っていますので、どうぞ細部までご覧ください。」(p181)

 戦国期の城から、戦国時代に思いを馳せて行く上でも、想像を誘発する素材になるイラスト集である。
 
 ご一読ありがとうございます。

『心をととのえるスヌーピー』 チャールズ・M・シュルツ 訳:谷川俊太郎 監修:桝野俊明

2022-06-06 13:54:22 | レビュー
 本書には副題がついている。「悩みが消えていく禅の言葉」と。
 この本を友人のブログで知り、スヌーピーのコマ漫画と禅語の組み合わせということに関心を抱いて、読んでみた。

 チャールズ・M・シュルツ(以下敬称省略)の名は知らなくても、スヌーピー、チャーリー・ブラウン、サリー、ルーシー、ウッドストック、シュローダーなどなどが登場するコマ漫画を知らない人、見たことがない人は、多分いないだろうと思う。それくらい世に親炙した漫画である。今年、2022年11月26日に作者のチャールズ・M・シュルツの生誕100周年を迎えるという。
 訳者の谷川俊太郎は有名な詩人だ。チャールズ・M・シュルツのことをネットで調べていて、谷川俊太郎がスヌーピーの漫画シリーズを完訳していることを知った。『完全版 ピーナッツ全集』(河出書房新社)。1960年代後半から翻訳を心がけ、全25巻で最終巻が2019年12月に出版されている。
 監修の桝野俊明は曹洞宗德雄山建功寺の住職。多摩美術大学教授、庭園デザイナーでもある。手許には桝野俊明著『毎日に感謝したくなる 禅ごよみ365日』(誠文堂新光社)がある。

 本書は2021年9月に単行本が出版された。
 
 本書はチャールズ・M・シュルツの描いたピーナッツコミックそれ自体とコマ漫画の吹き出しに記された会話についての谷川俊太郎の翻訳文、そして禅語のコラボレーションである。禅語とピーナッツコミックを結びつける説明が本文になっている。禅語と本文が監修の桝野俊明の担当というところなのだろう。膨大なピーナッツコミックの中から、ピーナッツコミックの漫画自体と併記の会話、シュルツの名言が、禅の世界の一端を凝縮した禅語に通じ、相互に照応するものが抽出されて、この一冊になった。
 1コマ、3コマ、4コマ、5コマと様々なコマ数のスヌーピーコミックが取り上げられている。私の見落としがなければ、抽出されているコマ漫画は、1950.10.04付の4コマ漫画から1999.10.04付の1コマ漫画の期間に亘っている。

 本書は「はじめ」と「禅に通じるピーナッツの世界」がイントロ部分になり、その次に「もくじ」が来る。そして、全体が3部構成になっている。「Part 1 スヌーピーと読む禅」「Part 2 無言で語る禅」「Part 3 禅の心を持つピーナッツキャラクターたち」である。
 
 ボリュームとしてはPart 1 が一番多い。小見出しと収録禅語数をまとめると、
   今を大切に(10)、人と比べない(11)、貴重なひとりの時間(9)、
   のんびりでいい(8)、自分のペースでがんばろう(8)、思いやりを持つ(10)
となる。具体的に見開きのページを載せれば一目瞭然なのだが、そうも行かないので、分かりやすいのを1つ、文字レベルで引用しよう。4コマ漫画のまず吹き出しの文と訳である。最初の括弧付き数字はコマの順番を示す。
  (1) NOTHING GOES ON FOREVER       どんなことも永遠に続きはしない
(2) ALL GOOD THINGS MUST COME TO AN END ... よいことはすべていつか終わる・・・
(3) (ライナスとチャーリー・ブラウンが臂をついてじっと前をみつめる姿)
(4) WHEN DO THE GOOD THINGS START?    よいことはいつ始まるんだい?

 この4コマ漫画には「変化を恐れず受け入れよう」というメッセージが見開きのトップに記されている。右にこの漫画が載り、左に禅語「諸行無常」が取り上げられている。うまく照応しているなあ・・・・と思う。ピーナッツコミックを禅の世界に翻案するという発想が実に興味深い。
 禅が悟りを得る為の修行のプロセスとして、現在の生き方を極めようとするものであると考えると、生き方という点では洋の東西を問わないということなのだろう。ピーナッツコミックはスヌーピーと子供たちの生き方の一端を捕らえて漫画に描いているのだから。そこには、チャールズ・M・シュルツの生きる姿と思念が背後に存在し反映していると思う。照応する所、接点があるということだろう。
 本書はピーナッツコミックを一味違った視点で捉え直すことができる一冊だ。おもしろかった。ナルホド!である。

 Part 2 は、ピーナッツコミックに吹き出しはない。漫画だけで無言。そのコマ漫画に禅語が照応されている。ここでは11の禅語がそれぞれのコマ漫画に照応されている。ここは、本書を手に取り、実際にご覧いただくしかない。

 Part 3 は、ピーナッツキャラクターたちがそれぞれ禅の心を持っているという観点でまとめられている。ピーナッツキャラクターたちそれぞれに焦点を絞り、コマ漫画と禅語を照応させている。興味深いのは、そのキャラクターそれぞれに対する谷川俊太郎の詩が併載されていることである。
 たとえば、スヌーピーを右ページに大きく描き出し、左のページには次の詩が載っている。
   タイプライターが打てるくせに
   きみはドッグ・フードを食べるとき
   フォークもスプーンも使おうとしない
   そんなきみがぼくは好きさ
   「世界的に有名な」
   自分にちっとも気づかず
   いまだきみは
   「世界的に有名な」外科医を
   撃墜王を ゴルフ選手を夢見つづける
   そんなきみがぼくは好きさ

 最終ページは、スヌーピーとチャーリー・ブラウンの漫画で締めくくられる。
 そこに添えられているのは、谷川俊太郎の詩である。

   幸せについて

   一度でも
   ナマで幸せを体験していれば
   コトバの幸せのウソに
   だまされることはない


 ここに禅語の併載はない。禅で言われる「不立文字」がここに照応するのだろう。
 だから、禅語が出る余地はない。

 ということは・・・・・スヌーピーコミックも禅語も、ハッと感じるナマの体験に読者を誘うためのトリガーなんだ。
  
 お読みいただきありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
チャールズ・M・シュルツ  :ウィキペディア
Charles Monroe Schulz  From Wikipedia, the free encyclopedia
CHARLES M. SCHULZ MUSEUM ホームページ  ←東京都町田市にあるミュージアム
  チャールズ M. シュルツの生涯 
シリーズ:完全版 ピーナッツ全集 全25巻  :「河出書房新社」
PEANUTS 日本のスヌーピー 公式サイト
CHARLES M. SCHULZ MUSEUM アメリカのホームページ
PEANUTS STUDIO BLOG ホームページ
谷川俊太郎   :ウィキペディア
谷川俊太郎『虚空へ』PV   YouTube
ここ / いるか / かっぱ - Installation for TANIKAWA Shuntaro  YouTube
枡野俊明 略歴  :「桝野俊明 + 日本造園設計」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)