遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『夢も定かに』  澤田瞳子  中公文庫

2020-04-28 11:35:46 | レビュー
 著者は2010年に『弧鷹の天』(2011年:中山義秀文学賞受賞)でデビューし、2012年に『満つる月の如し 仏師・定朝』(2013年:本屋が選ぶ時代小説大賞/新田次郎文学賞受賞)を出版。2013年に本書と『日輪の賦』を出版している。そして本書は2016年10月に文庫本化された。
 上掲の文庫本カバーでイメージが湧くと思うが、平城京の後宮に勤める若き女官たちの生き方を描く宮廷女官青春小説である。神亀元年(724)2月4日に元正天皇の禅(ゆず)りを受けて即位した聖武天皇の後宮が舞台となっている。

 本書は八話の短編連作として、神亀4年(727)10月22日までの数年間が描かれる。
 中心となるのは宮廷の同室で生活する3人の采女(下級女官)。采女とは「後宮に勤務するために上京してきた、地方豪族の娘たち」である。
  若子(わかこ) 18歳。容姿は十人並み。膳司勤務(天皇の食事を準備する役所)
        女官に必要な知性は皆無。妹の代わりで阿波国(現徳島県)出身。
  笠女(かさめ) 19歳。男勝りで姉御肌。能書で文才あり、女官での出世をめざす。
        書司勤務(書籍や文房具類を管理する役所)。伊勢国(現三重県)出身。
  春世(はるよ) 17歳。藤原麻呂と愛人関係になり子(浜足)を産む。魔性の女。
        縫司勤務(衣服の裁縫を司る役所)。出雲国(現鳥取県東部)出身。
勤める司の違う3人が同室で生活しながら、色恋や権謀術数の渦中で騒動を繰り広げる。一方で互いに助け合う乙女たちの後宮での日常生活を描く。

 各短編のテーマを簡単にご紹介しておこう。
 第1話 蛍の釵子(さいし)  釵はかんざし。ふたまたになった髪飾り。
 若子、笠女、春世のプロフィールを導入部で描き込む。そして、若子が春世により仕組まれた縁組話に惹かれて一歩踏み込んだ顛末を描く。采女にとっての縁組の実態は何か。その実質的意味を覚知した若子が自ら破談を決断する。縁組真相譚。
 
 第2話 錦の経巻
 帝が図書寮に、写経所と協力し月内に大般若経六百巻の薬師寺への奉納を指示する。図書頭に笠女は写経の手伝いを頼まれる。書司で雑務を扱う笠女は栄誉と受けとめ、勇んで勤務外に協力する。笠女の写経した経巻が役所組織の柵にはじき出され権謀術数の渦中で意外な利用をされるまでを描く。経巻変遷譚。

 第3話 栗鼠の住む庭
 後宮に勤務する畿内豪族の娘たち、つまり氏女は常に采女を格下と見ている。春世が絡む色恋沙汰で氏女と采女の確執を描く。さらに若子が春世に寄り添い、藤原4兄弟の末弟・麻呂の家刀自(本妻)に引き渡してある春世の子・浜足に会いに出かける顛末を描く。浜足の何気ない発言に幼い子に刷り込まれた聡明さ/狡猾さが現れる。身分意識騒動譚。

 第4話 綵(あや)一端
 内裏の中庭に植えられていた棗(なつめ)が実をつけた。これを寿ぐ詩筵が行われた。詩作で一等になった大官大寺の僧・光延に綵一端が他の下賜品とともに贈られた。だが、その綵一端が届けられたときにはすり替えられていた。これが発端で、9月半ばに酒司付近で起こった物の怪騒ぎに繋がって行く。笠女と若子が事件に巻き込まれる。そこには悲恋話が隠れていた。綵一端が繰り広げる因縁譚。

 第5話 藤蔭の猫
 藤原四兄弟の妹である安宿媛(あすかべひめ)と、長屋王を筆頭とする皇族勢力の後見を受けた広刀自とが、後宮の勢力を二分する。安宿媛には10歳になる安倍、広刀自には11歳と9歳の井上・不破姉妹がいる。井上の愛玩する鶯が、安倍の愛猫に襲われたと決めつけたことから始まった騒動譚。一種の女官代理戦争仲裁譚。
 膳司で猫の食事の準備を整えた若子が、この女官代理戦争に巻き込まれていく。それが若子には、授刀頭藤原房前という人物を知る契機になる。

 第6話 越ゆる馬柵(うませ)
 出仕して日の浅い石上朝臣志斐弖(しひて)と春世が、帝の妃の一人である海上女王の許に訪れている時に、桃酒を飲み過ぎた志斐弖が荒っぽい若駒を乗りこなすというハプニングを引き起こす。この夜、海上女王の所で、安貴王が帝に駿馬の赤駒を引き合わせる予定だったのである。この騒動は春世が帝に己を見初めさせる企みの失敗譚になる。

 第7話 飯盛顛末記
 男遍歴の多かった春世は安貴王を最終的に安住の地と思い定める。だが、膳司の女官で安貴王の妻である紀小鹿はそれを許せず、春世の子・浜足の出生を疑わせる怪文書の投げ文をする。それが後宮内の采女氏女の悶着レベルを越えて、藤原氏・長屋王ら皇族のに勢力の争いに飛び火しかねなくなる。この騒動で笠女が春世の仕返しとして一計を案じる。
 結局、春世は解雇され、因幡国に戻される結末に。それはなぜか、が読ませどころ。政争の実態描写が裏返しのテーマと言えるかもしれない。

 第8話 姮娥孤栖 (こうがこせい)
 神亀4年(727)9月、広刀自の娘・井上が伊勢斎宮として京を旅立つ。その後、遂に春世が因幡国に帰国することに。若子・笠女・志斐弖が藤原房前の立ち合いのもと、寧楽坂下で見送る。この折り、安宿媛が産気づいた報せがきて、房前は急遽後宮に戻る。男児・基の誕生である。
 若子と笠女は帰路、志斐弖から妊娠していることを打ち明けられた。誰の子か。それが大問題だった。密かに出産させる方法はないか。若子と笠女の暗中模索が始まる。最後に、なんと海上女王が大胆な一案を出すという結末に。女の底力反撃隠蔽作戦譚と言える。
 第1話の末尾近くに、「この京は定かならぬ夢。ならば他人に頼るのではなく、自分はこの夢の中で自らの手で真の夢を掴んでやる」(p46)という若子の決意を示す一文がある。本書のタイトルはこの一文に由来するのだろう。

 さて、このストーリーに副次的に現れてくる興味深い点をいくつか列挙しておこう。
1.女官を主体とする後宮の組織がどういう体制になっていたのかがよくわかる。
  いくつかの司(役所)の事例が具体的に書き込まれていく。「内侍司(ないしのつかさ)は、十二ある後宮の官司の束ね。天皇への奏上の取り次ぎ、帝の宣旨の伝達などの重責を果たすとともに、後宮六百人の女官の監視役も務めている。」(p10)、「後宮十二司最大の任務は、天王の生活を支えることに尽きる。」(p48)とあり、「書司には長官である尚書(ふみのかみ)のもと、二人の典書(ふみのすけ)、六人の女嬬(にょじゅ)が配属されている。齢六十を超えた尚書は温厚だけが取り柄で、毒にも薬にもならない老女。」(p48-49)という具合。史実にフィクションを交えて、その中での女官の生き方が描かれていておもしろい。
 膳司の場合だと、尚膳(かしわでのかみ)、典膳である。この当時の尚膳は牟婁女王であり、牟婁女王は藤原房前の正室と書かれている(p298)
 後宮という組織をイメージしやすくなる。

2. 歴史書の記載と重ねていくと、年表的な時系列の事実がフィクション部分の肉づけにより大きな膨らみと奥行を加えて行く。『続日本紀(上) 全現代語訳』(宇治谷孟、講談社学術文庫)から、本書の背景史実を抽出してご紹介しよう。
 神亀3年(726)
  夏5月24日 新羅使・薩飡(さつきん 第八位)の金造近らが来朝した。
  6月5日 天皇は宮殿の端近くに出御し、新羅使は調物を貢上した。
  6月6日 金造近らを朝堂で饗し、地位に応じて物を賜った。
  9月15日 内裏に玉棗(なつめ、神仙薬とされ、瑞祥である)が生じた。天皇は、
      勅を出して朝廷および民間の僧侶・俗人たちに玉棗の詩賦を作らせた。
  9月27日 文人120人が玉棗の詩賦を作って献上した。その出来栄えの等級によって
      それぞれ禄を賜った。一等には?20疋・真綿30屯・麻布30端、・・・・
 神亀4年(727)
  9月3日 井上内親王(聖武帝の娘)を派遣し、斎宮として伊勢大神宮に侍らせた。
  9月29日 皇子が誕生した(母は光明子)。

 余談だが、2年後の天平元年(729)2月10日に、左大臣長屋王が密かに左道(=妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしていると密告があり、六衛府の兵士で長屋王の屋敷を包囲させた旨が同書に記されている。さらに「2月12日 長屋王を自殺させた」と。
また、藤原四兄弟が疫病に罹り次々に没したのは天平9年(737)である。

3. 後宮における女官の間の確執・権謀術数のすさまじさ。フィクションであるとはいえ、リアルに描かれていて興味深い。後宮の有り様と照応する形だが、藤原四兄弟の藤原氏と長屋王ら皇族系統の人々との間の確執もわかりやすく描かれている。当時の宮廷における政治情勢がイメージしやすくなる。
 この小説には、藤原房前と聖武天皇の人物像が断片だが具体的に描き込まれている。その虚実はどのように織り交ぜられているのだろうか。興味のつきないところだ。

4. 文庫本の「解説」(遠藤慶太氏)によると、この小説に登場する3人の采女、つまり若子、笠女、春世には史料に登場するモデルがちゃんといるという。「解説」をお読みいただきたい。

 野望と権謀術数に満ちたドロドロとした後宮を舞台にしながら、3人の采女がめげずに逞しくそれぞれの道を突き進む。その姿が宮廷女官の青春時代物語として明るさを生み出している。
 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
聖武天皇  :ウィキペディア
光明皇后  :ウィキペディア
長屋王   :ウィキペディア
藤原房前  :ウィキペディア
藤原房前  :「コトバンク」
藤原麻呂  :ウィキペディア
藤原浜成  :ウィキペディア
牟漏女王  :ウィキペディア
井上内親王 :ウィキペディア
安貴王   :ウィキペディア
因幡八上采女 :「コトバンク」
板野命婦   :「コトバンク」
粟若子    :「コトバンク」
飯高笠目   :「コトバンク」
飯高諸高   :「コトバンク」
飯高諸高   :ウィキペディア
律令時代の阿波国  :「歴史総合.com」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店


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