遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『信玄の軍配者』 富樫倫太郎  中央公論新社

2012-04-29 12:19:21 | レビュー
 この軍配者第2作は、山本勘助こと四郎左が信玄の軍配者となってその立場を確立し活躍を始めるまでの物語である。四郎左が一歩間違えば行き倒れるという瀬戸際まで追い込まれた末に、ハッピーエンドで終わる後味の爽やかな物語に仕上がっている。まさに、第3作が待たれる終わり方だ。本作品はこれだけで独立した作品ではあるが、第1作の『早雲の軍配者』を読んでから読む方がより深く楽しむ事ができるように思う。

 本書は3部構成になっている。著者は「はじめに」において、まず明応2年(1493)から天文10年(1541)頃の戦国時代にあって、相模、甲斐、信濃という地域における群雄割拠の状況を背景として提示する。

 第1部「四郎左」は、四郎左の置かれてきた状況をあきらかにする。足利学校から京都・建仁寺に行き、軍配者として学びを終えた四郎左が諸国を経巡り、軍配者としての仕官先を得ようとするが望みが叶わず、今川氏の駿府に舞い戻る。今川氏の軍配者・太原雪斎は建仁寺において栄橋の弟子として学んだ人物だった。鴎宿として栄橋に学んだという縁を利用し、雪斎に会う。今川義元に目通りするところまでこぎつけるが、山本勘助の名を騙ったことが露見し、宍倉家の横やりが入る。雪斎の助けもあり、駿府を出ない前提の軟禁状態で囚われの身となり、宍倉家の監視下で駿府生活を送る羽目になる。
 ここで、甲斐から追放されて駿府に仮寓する武田信虎(無人斎)から接触を受ける。甲斐に行き、晴信を殺せば信虎の軍配者として遇しようという申し出なのだ。無人斎への接触が原因と成り、宍倉孫三郎に暴力的な詮議を受ける。その窮地を脱して、辛苦の果てに小田原に逃げのびる。その結果、風摩小太郎とどういう風に再会するかまでの紆余曲折が第1部の読みどころであり、かつ前段として四郎左の生き様の導入部になっている。
 小田原滞留の後、一旦は足利学校に身を寄せ、世間の情勢を見聞し、身の振りかたを考える。結果的には、自らの命運を賭けて甲斐に行くという選択肢をとる。なぜそう決断したか、それが第1部の結論でもある。

 第2部は、駿府の無人斎の屋敷で出会った駒井高白斎の屋敷を山本勘助(四郎左)が訪ねるところから始まる。高白斎は信虎を甲斐から追放した晴信の軍配者である。その高白斎となぜ、駿府で面識ができていたのかが、実はこの訪問を可能にした理由でもある。
 高白斎から晴信に推挙してもらうように働きかける。晴信に山本勘助として目通りできた後、軍配者として仕官するきっかけができる。この仕官が叶うまでのプロセスが面白い。軍配者高白斎と勘助との関係が当初から明確になっていくのだ。ある意味、それは勘助にとってギリギリの決断でもあった。
 第2部の楽しいところは、勘助が旧信虎の部下であり、今は晴信の重臣となっている原美濃守虎胤や板垣駿河守信形などとの関係を深めていく経緯である。そして、もう一つの読みどころは、甲斐の人間ではないという立場から、晴信の命を受け、雪姫(諏訪御寮人)との関わりができ、雪姫の信頼を得ていくプロセスである。このプロセスには、原虎胤の娘・千草との関わりが深まっていくきっかけにもなる。こういういくつかのサイド・ストーリーが絡みあいながら、軍配者勘助の実績がどのように着実に築かれていくかという本筋のストーリーが展開されていく。第1部を「起」とすると、第2部は「承」であり「転」への導入と言えようか。
 軍配者としての勘助は、上原城防御のための金比羅山での夜戦、長窪城を含む5つの砦の占拠戦という実績を築いていく。それは現地の徹底事前調査という勘助の鉄則、現場主義と総合的な情勢分析をベースにした作戦構想立案の描写でもある。著者は軍配者勘助の活躍を描き出していく。

 第3部は、軍配者としてその実力を認められ始めた勘助が、まさに動き出す「転」の描写である。そして、「結」の入口までが一気読みを促す筆致で語られていく。
 天正13年(1544)の秋、晴信が諏訪郡に向けて躑躅ヶ崎を出陣するところから始まる。荒神山城と福与城の同時攻略戦、今川方に加担しての吉原の合戦(この中で、勘助は風摩小太郎に会いに行くという行動が描かれる。その理由がおもしろい。こんなことってありえるか、という局面でもある。)、天正15年(1546)の内山城・大井貞清の討伐戦、天正16年(1547)閏7月の志賀城・笠原氏との戦い(ここで、武田の捕虜となった養玉、曾我冬之助と再会する)が続く。だが、天文17年(1548)1月に勘助は病床に伏す。この時期、晴信は村上義清との戦に出陣する。勘助は病床にありながら作戦を進言するが、それが活用されぬ形で、晴信が上田原の戦いで大敗し自らも傷つき、板垣信形は戦死する。軍配者であるわが身の落ち度として苦悶する勘助を千草が精神的に支えることになる。その後の挽回戦において、勘助は軍配者としてめざましく活躍する。そして、塩尻峠攻めの奇襲作戦を進言し、武田に勝利をもたらすことになる。武田軍団の転機となる塩尻峠の合戦である。
 2月の上田原の戦いでの大敗により、武田家危急存亡の危機に立つ。しかし、7ヶ月後のこの塩尻峠の戦いでの勝利によって、武田の諏訪支配が盤石なものとなる。武田が無敵の軍団に生まれかわるのだ。その陰に、軍配者山本勘助、実は四郎左が存在するのだ。
 その後の武田晴信つまり信玄の活躍が、軍配者四郎左(勘助)の活躍でもあるとすると、本書に軍配者としての活躍の「結」はない。本書は軍配者として四郎左が、武田家の中にその盤石な位置を確立したことを一応の「結」としたものになる。つまり「結」の入口にすぎないというのは、そういう意味である。
 しかし、著者は本書としての「結」をしっかりと設定している。これがこころ暖まるハッピーエンドという意味での「結」でもある。
 それは何か? やはり、本書を読んでそこまでのプロセスを味わっていただきたい。

 本書には、「結びに代えて」がある。捕虜となった冬之助が、四郎左(勘助)の助けで逃げのびる。冬之助はその後どうしたか?その経緯が簡略に記されている。
 「ここに長尾景虎に仕える軍配者・宇佐美冬之助が生まれた。」という一文で最後のパラグラフがかき出される。伊豆・相模の小太郎、甲斐の四郎左、越後の冬之助として、足利学校で共に学んだ三人が「軍配者としての手腕を競い合う場が整ったということでもあった。」という文でしめくくられる。

 著者は第3作『謙信の軍配者』登場への伏線を張っている。なかなかうまい終わり方である。エンタテインメントとしての戦国時代小説としてお薦めの作品の一つと言える。

 本書の印象深い章句を少し書き留めておきたい。

*いい目をしているではないか。まだ志を捨てておらぬようだな。  p31

*ぬるま湯に浸かっていたのでは夢などかなえられない。 p95

*類が友を呼ぶという諺があるが、阿呆というのは自分のそばに阿呆を集めたがるものでな。それ故、主が阿呆だと国が滅びる。扇谷上杉しかり、山内上杉しかり。 p105

*その当人が賢人であるか禺物であるか、それはどうでもいい。要は国がきちんと治まっているかどうか、その国の民の暮らしが楽かどうか、それが肝心なのだ。  p107

*真の軍配者となるには書物から学んだ兵法を実戦で試していかなくてはなりません。それを繰り返しているうちに優れた軍配者になるのだと思います。 p143

*顔など、いくら醜かろうが、戦をするのに何の関わりもないではないか。 p156

*死んでしまえば何もできない。生きているからこそ逆らうこともできる。 p268

*自らが学ぶしか傲りを正すことなどできんのだ。  p375

*人の幸せにとって何が本当に大切なのか、わたしにはよくわかるつもりです。わたしを心から想って下さる人と一緒にいることが何よりも大切なことなんです。 p402

ご一読ありがとうございます。

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 本書を読みながら、背景をより深く知るためにネット検索してみた。そのリストをまとめておきたい。

戦国時代 信濃・甲斐周辺「城」配置図:「日本歴史 武将・人物伝」高田哲哉氏

山本勘助 :ウィキペディア
山本勘助の墓 :長野市「信州・風林火山」特設サイト
実際の山本勘助 :「日本歴史 武将・人物伝」高田哲哉氏
 このサイトのホームページからは、板垣信方、原虎胤、馬場信春、浅利信種、真田幸隆、内藤景豊、諏訪御料人等の項目にもアクセスできます。
駒井高白斎:ウィキペディア
高白斎記 :ウィキペディア
武田資料「高白斎記」(甲陽日記):「サブやんのなんでも調査研究」
原虎胤  :ウィキペディア
板垣信形 ← 板垣信方   :ウィキペディア
甘利虎泰 :ウィキペディア
武田24将 :「武田信玄」

諏訪氏  :ウィキペディア
諏訪頼重 (戦国時代) :ウィキペディア
諏訪御寮人 ← 諏訪御料人:ウィキペディア
高遠頼継 :ウィキペディア
大井貞隆 :ウィキペディア
村上義清 :ウィキペディア
藤沢頼親 → 藤沢氏 :「地方別武将家一覧」
小笠原長時:ウィキペディア

躑躅ヶ崎館 :「Shane's Home Page」
上原城 :「埋もれた古城」ウモ氏 の「東海・甲信地方の城」
 このサイトには、躑躅ヶ崎館、内山城、志賀城、前山城、福与城、林城、葛尾城なども掲載されています。山城探訪のすぐれものです。うれしいサイトです。

塩尻峠の戦い :「古戦場~戦国大名の軌跡を追う~」
 このサイトには武田信玄の戦いが他にも13件掲載されています。

甲陽軍鑑 :ウィキペディア
甲陽軍鑑
「上田原合戦」「戸石崩れ」に見る『甲陽軍鑑』のリアリティ :「余湖くんのホームページ」

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『湖笛』復刊  水上 勉  ごま書房

2012-04-25 15:42:21 | レビュー
 2012年3月20日の春分の日に、滋賀県米原市主催の「京極高次と奥琵琶湖歴史と文学の旅」という史跡巡りバスツアーに参加して、高島にある大溝城址その他を探訪した。この時、講師がこの大溝城について説明される際、京極高次が城主であった時の大溝城と奥琵琶湖の描写を引用された。それでこの本を知った。
 本書は昭和41年(1966)3月に毎日新聞社から単行本として、昭和63年(1988)に講談社から『日本歴史文学館』の1冊(14巻)として出版されていた。角川、旺文社の文庫としても発刊されていたようだが、現在は古書扱いになっている。それが2008年4月に、水上勉勘六山房叢書という名称を表紙に併記される形で、上・下二巻で復刊された。だが、水上作品としてはどうもマイナーな位置づけになっているようだ。(見落としでなければ、1976~1978年に中央公論新社から発刊された水上勉全集には所載されていない。)
 復刊の表紙に「勘六山房叢書」という名称がなぜ付されたのだろう? この名称でネット検索しても『湖笛』との関連でこの語句がヒットするだけである。「勘六山房」で検索すると、少しヒントが得られた。
 「作家、故水上勉氏が主宰し、1993年に長野県東御市に作った工房。水上氏が最晩年の12年間を過ごし、執筆活動を始め、様々な創作活動を行った山房」だという。山房名の由来はわかったのだが、「勘六山房叢書」という表記は、やはり謎のまま・・・・

 さて、本書は一言でいえば、京極高次が京極家を再興するまでの紆余曲折を小説化したものである。

 佐々木氏を源流とし、守護職として北近江を支配していた京極氏は高次の父・高吉の代には没落していた。宇治・槇島(真木島)の戦いで信長に従った高次は近江の奥島5000石を与えられる。だが、明智光秀に加担したことで、秀吉に追われる身になる。高次が、同志安土万五郎と共に柏原村西北の山裾にある京極家菩提寺・清滝寺に隠れて住み、失意の人になっているところから話が始まる。
 本書自体は、高次の妹、龍子が嫁いだ元若狭の国の領主、武田孫八郎元明が秀吉の呼び出しを受け、近江の国海津に出向するところから書き出されている。そして、元明は光秀に加担したと誹謗されて秀吉に切腹を迫られ、自害して果てる。その時、海津の宝幢院まで同行した家来の一人、熊谷佐兵衛は元明の非業の死を伝えるために逃げのび、若狭の神宮寺に戻り、元明の遺児武若と俊丸を追っ手から護ろうとする。その後、武若と佐兵衛は仇である秀吉に復讐することを誓う。龍子は既に丹羽長秀の家臣に連れ去られ、秀吉の許に送られてしまっていた。秀吉は3年前の朝倉攻めの時に若狭に立ち寄り、元明の妻、龍子を目にしていたのだ。

 本書には3つの軸があると私は思う。高次が秀吉に追われる立場からどういう紆余曲折を経て、若狭一国の領主になりえたのかというプロセスそのものであり、これが主軸となる。そして、仇秀吉への復讐を誓う武若と熊谷佐兵衛の有為転変のプロセスが第2の軸となり、その二人の行動が高次の京極家再興の夢に悪影響を及ぼすかどうかという危険因子になり続ける。第3の軸は、元明の妻、武若の母である京極龍子が、その美貌の故に秀吉に目をつけられ、秀吉の側室として生きていかねばならなくなるという生き方である。この龍子が高次を陰から支えていくことになる。本書はこの3つの軸が織りなされていく構成と展開になっている。そこが本書の一つの読みどころだろう。
 
 京極高次が光秀に加担し破れた後、高次の父・高吉への恩願を思う堀秀政が、秀吉の部下でありながら密かに清滝寺を訪れ、高次が逃げのびるように手助けをする。高次は秀政の勧告に従うことで、安土万五郎を実質上、秀吉に売ることになる。それが高次の悔いとして心に残る。秀政の要請を受けた小谷清兵衛の助けで窮地を脱した高次は、苦労の末に柴田勝家の許に身を寄せる。賎ヶ岳の合戦で、高次は佐久間盛政とともに行市山に陣取るが、ここからも敗退せざるを得なくなる。そして、武田家とも縁の深い若狭の万徳寺に落ちのびる。人生凋落の一途を辿るのだ。
 この寺で、仙岳宗洞禅師に出会う。仙岳との対話を通じて、高次はそれまでの小我を捨て、京極家復興を第一義にするという大我に目覚めたと著者は語る。この後、丹羽長秀に招かれ、小浜の後瀬山にある小浜城に入り、秀吉から大溝5000石を与えられたとの達しを聞く(上/p197)。「京極は近江を興した勲功のある家柄じゃ。流浪させておくにはもったいない・・・・京極には大溝をやらねばならぬ・・・」。この大溝を若狭とともに所領していた丹羽長秀は越前・足羽城に異動する。ここから、秀吉の部下として、内心では秀吉を憎みながら、京極家復興という目的の下に、忠勤をはげむ高次として動き出す。そして、秀吉に頼まれて、この大溝城に茶々・はつの姉妹を一時預かることになる。この頃が秀吉による高次の力量試しの時期のように感じる。その陰には龍子の秀吉への助言があったとして描かれている。
 秀吉の部下としての高次の内心を描写しつつ、外面的にはどのように行動して行ったかがストーリーとして展開されていく。その複雑な心理の動き、高次の懊悩が著者の書きたかったことであるように思う。また、秀吉の側室となった妹龍子のお陰で大名として取り立てられていっただけではなく、高次という人物の持つ能力が評価されていった側面を著者は描こうとしているように感じた。
 ある意味で、高次の生き様のプロセスは変節の繰り返しである。しかし、そこに信長、秀吉、家康と戦国期から天下統一期に向かう中で「家」の復興を大命題にする一大名の生き様が如実に活写されている。
 一方で、秀吉との関わりが深まるにつれて、秀吉に対する高次の見方が多角化し、総合的に捕らえながら評価する形に、高次の秀吉観が変化していくところも描く。この点も興味深い。

 高次は、大溝5000石からスタートし、九州の役後に5000石加増される。天正18年(1590)の小田原征伐の功により近江八幡の八幡山城28000石、文禄4年(1595)に大津城6万石に封じられ、近江国内を順次異動していく。大名として頭角を現していき、京極家復興を成し遂げることになる。
 高次は妹・龍子という背景があるにしても、秀吉の下で着々と実績を積み上げていく。しかし、心の底には秀吉から「謀叛者」とみられているという事実を忘れず行動する姿を描く。その高次が、茶々とはつを預かるのは、本書によると天正11年5月から天正14年10月までのようだ。そして、秀吉の許しを得てはつを娶るのは天正18年12月だと記す。一方で、姉妹を預かっている期間中の比良嵐の夜に、高次がはつと結ばれるシーンを描写している。「いくたび、はつと秘かな夜を契ったであろう」(下・p133)とも記す。秀吉に対して用心を重ねながら行動する高次が、昔から思いを寄せる相手だったとはいえ、大溝時代にそこまで本当に踏み切っただろうか。秀吉に知られれば、京極家再興の潰える理由になる話だと思うのだが・・・・ただ、小説の展開としては、そこに高次のロマンを感じさせるところでもある。

 武若と佐兵衛は、高次をまず頼ろうとするが流浪をつづける高次には会えず、沖ノ島湖族に加わり、そこに居られなくなると瀬田の湖族に潜り込む。その後、大溝城主となった高次を頼って行くが、清滝寺に潜むように言われてそちらに一旦落ちて行く。だが即座に出奔し、その後徳川方に加わり、秀吉への復讐を遂げる機会をねらおうとする。この二人の動きが、高次を悩ますことになる。その一方で、高次は武若の復讐一徹の心に動かされ、大我のためといえども変節した自分に内心忸怩たる思いを抱き続けるのだ。このあたり高次の人間性が描き出されている。

 大津城という交通の要衝、当時の地政学的に重要な拠点を任された高次が、この城において関ヶ原の戦い前夜に果たした役割が最後の押さえ所となっている。秀吉亡き後の西軍と徳川家康との狭間に置かれた高次の処し方、ある意味最後のその変節が高次の人生、京極家を決定したといえる。ここがやはり本書の読みどころのように思う。

 本書で特に印象深かった章句を引用しておきたい。

*高次殿、あんたは、生きねばならぬ。生きるということは、白い一本道をのんきに歩くことではない。迷い迷うて歩くのが生きるというものじゃ。・・・・みんな同じ心の人間じゃ。  上・p187

*小さい我を張っていては道にふみ迷う。小我を捨てて、大我に生きることが、世に出る者の根本義じゃ。・・・・眼を閉じて、大きく活眼をひらかれい。 上・p188

*人間、死んでしまえば、それでお終いではないか。生きてこそ、苦しみの解かれもする喜びが味わえるというのに。死によって解放されるのはずるいと思う。  上・p189

*強い者は、運命を甘んじてうけ、運命の中に自分を見出して生きてゆく。運命にさからうことはたやすい。自滅の道がたどりやすいようにの・・・・  下・p181

 ところで、本書を読みながらいくつか疑問点も湧いて来た。著者は、「若狭守護群記」をかなり参照しているようだ。この書を確認できないので、この書に由来する記述なのかどうか定かではないが、いくつか気になる点がある。

 *本書には、大徳寺の山内塔頭として桂春院という名称が何度も出てくる(上・p178、下・p57他)。ネット検索した範囲で、現在の大徳寺の塔頭に桂春院を見いだせなかった。同名で現存するのは、妙心寺の塔頭の中にある。当時の大徳寺には、桂春院という塔頭が存在したのだろうか。この点、気になる。
 (禅寺の徒弟経験のある著者にこの点での思い違いがあるとは思えないし・・・・。応仁の乱で大徳寺の伽藍が焼失し、その後復興されてから、大火災に遭ったという事実はネット検索した限りなさそうである。龍子が幾度も桂春院を訪れているという描写があるので、それなりの塔頭でもあるはずなのだが・・・)

 *高次は秀吉の達しとして、大溝5000石を当初から得たように著者は記す。これは事実だろうか。ウィキペディアでは、「天正12年(1584年)に近江高島郡の2500石を与えられる。その後は加増を重ね、天正14年(1586年)には高島郡5千石、・・・」と記されているのだ。この箇所も、史実を確認できる資料がないので、客観的な事実はどちらなのかが気になるところだ。(歴史小説といえど、明確な史実は改変できないはずなので。もちろんその描写のしかたはいろいろあるだろうが・・・)

 *高次は茶々・はつ姉妹を大溝に預かるために伏見に赴く。ここで、著者は「高台なので、宇治川と淀川が合流する観月橋のあたりが一望に見わたせた。・・・・京極高次は、天正11年5月30日に、この桃山城についている」(上・p339)と記す。この記述には疑問がある。観月橋、桃山城という用語の使い方は歴史小説としては史実にそっているのだろうか。
 手許の『新撰日本史図表』(監修・坂本賞三、福田豊彦 第一学習社)を見ると、安土桃山時代という時代区分になっているが、城名としては「伏見城」で表記されている。現在観月橋という橋が存在する。だが、そこは秀吉が伏見城を築くにあたり、宇治川の流れを変え、改修して後に「豊後橋」を架けた位置である。秀吉の当時に、「観月橋」が通称としても使われていたのだろうか。(現在の橋名を使用するなら、それを読者にわからせる別の文章の書き方ができると思う。)
 現在の観月橋に至る少し手前で2つの川が合流する。しかし、ここで合流するのは宇治川と山科川である。現在、合流後は宇治川と呼ばれている。石清水八幡社のある八幡あたりで、桂川・宇治川・木津川が合流し淀川と称されるようになる。あの当時、伏見の港あたりまで、淀川と称されていたのだろうか。そうとも思えないのだが・・・
 また、伏見城の造営開始は「文禄3年(1594)1.3であり、8.1に秀吉、伏見城に入る」と、ある年表に記す。上記『図表』にも「1594伏見城なる」と記す。別資料では、文禄元年(1592)に「豊臣秀吉 伏見指月に隠居城の造営を開始」とある。著者の記す天正11年は1583年であり、これらの史実記録と食い違う。
 
 このように疑問もいくつかあるのだが、最後にひとつ記録しておきたい。
 本書のところどころに出てくる琵琶湖の状景描写が、それぞれの人の心理描写の一環にもなっていて、両面から興味を惹かれた。以下はその描写の一端である。

*今しも杉木立が割れて、扇子を半ばすぼめたような視界がひらけている。前方に白い空がみえる。いや、空ではなかった。空の色と見まがうばかりの湖の水面がのぞいているのだった。 上・p5

*黒一色の葦の平原の向こうに、いま巨大な丸鏡を置いたように光る湖面がある。 上・p89

*賤ヶ岳の東は、白い山襞が紺青の琵琶湖すれすれに落ちこんでいる。水ははるか南の彼方まで、まるで雪の上に紺青の染料をしたたらせたように鮮明に浮いていた。 上・p128

*長命寺裏のなだらかな丘陵が湖へつき出して、ぽつんと点のように沖島だけがみえる。 上・p129

*湖面は大溝の出鼻をとりまいて、半紙を敷いたように白かった。 上・p201

*折から五月の緑に囲まれた湖面は、藍を溶かしたように美しかった。 上・p210

*いつみても変わりないはずの琵琶の水が、今日は冷たく沈んでいるような気がした。 上・p313

*陽の輝きはじめた湖面は朱をとかしたような色の中で、こまかいちりめん皺を光らせはじめた。
  下・p83

*湖面へ桟橋がつき出ていて、いま、暮色になずみはじめた水面に点々と魞のさし竹がういてみえる。 下・p111

*琵琶湖は山の奥の暗い湖じゃと思うておった・・・  下・p112

*高次は、整然とひろがる町並みを眺めたあと、遠い湖面を見やった。冬の朝である。清澄な空気は、陽を受けて、いま橙色に湖面の小波を輝かし、遠い山影をくっきりとうかべている。  下・p258

琵琶湖の表情がおもしろい。


ご一読、ありがとうございます。

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 本書を読みながら、関連語句とそこからの関心をネット検索してみた。

水上勉全集
勘六山房

京極氏  :ウィキペディア
京極高次 :ウィキペディア
京極龍子 ←京極竜子:ウィキペディア
武田元明 :ウィキペディア

京極家の菩提寺 清滝寺徳源院 :「近江の城郭」野暮氏

祥瑞庵 ← 祥瑞寺 :「一休さんのくにプロジェクト」
神宮寺 :小浜市
大徳寺 HP
大徳寺山内地図 :大徳寺HP
大徳寺塔頭 :「京都おもしろスポット」
妙心寺山内図 :妙心寺HP
桂春院 :ウィキペディア
妙心寺・塔頭 桂春院 :「京都を歩くアルバム」

大溝城/大溝陣屋 :「藤波イズム」
近江八幡城 :「ザ・登城」46(しろ)&光明子氏
近江八幡山城 :「近江の城郭」野暮氏
大津城 :ウィキペディア
大津籠城戦の八日間:「ランニング好きの研修トレーナーの日記」木村嘉伸氏
後瀬山城 :ウィキペディア
越前 北庄城(北ノ庄城) :「近江の城郭」
越前府中城 :「お城の旅日記」

堀秀政  :ウィキペディア
増田長盛 :ウィキペディア

淀川 :ウィキペディア
観月橋(豊後橋) :「ものシリーズ」
京都の豊後橋を知っていますか? :「民族学伝承ひろいあげ辞典」H.G.Nicol氏
巨椋池 :ウィキペディア
 この中に、淀堤に触れています。
水坂峠 :「ORRの道路調査報告書」

水上勉の信濃を歩く :「東京紅團」


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付記
 この復刊版、巻末に「本文中明らかな誤植と思われる箇所は正しましたが、原則として底本に従いました。」(底本は『日本歴史文学館』14巻)としている。しかし、上下巻ともに、文章中に明らかに誤植と思われる箇所がかなり目についた。これはどこに問題があるのだろうか。ちょっと気になる。

『春を恨んだりはしない 震災をめぐって考えたこと』 池澤夏樹 写真・鷲尾和彦 中央公論新社

2012-04-21 10:24:33 | レビュー
 私は、まずタイトルに惹かれて本書を手に取り、海辺に佇む親子・抱かれた子供がこちらに向かって泣き叫ぶ姿のモノクロ写真表紙、左サイドに記された副題を見て、読んでみようと思った。
 岩波書店のネット掲載の3.11エッセーシリーズで、著者の文を初めて読んだだけだ。今までに著者の作品を読んだことがなかった。

 鷲尾和彦氏の写真が16枚掲載されているので、著者の本文は実質100ページ、9章構成という薄い本である。副題にある通り、著者が「震災をめぐって考えたこと」の広がりが、様々な観点から読み手に問いかけてくる、その内容は厚く、深く、重い。

 巻末の「書き終えて」に著者はその意図をこう記す。
「ぼくは震災の全体像を描きたかった。自然の脅威から、社会の非力を経て、一人一人の被災者の悲嘆、支援に奔走する人たちの努力などの全部を書きたかった」と。そこで考えたことは、過去様々な小説などの形で著者が発刊してきたこと、つまり「考えてきたことをもう一度改めて考えた」結果なのだと。
 本書は発刊以前の「ここ五か月の間に新聞や雑誌に送ったエッセーやコラムの内容」を再編集することがベースになったようだ。だが、著者の中での思考は刻々と変化していることを踏まえ、「ジャーナリズム向けではない文章にしなければならない」という意識で書き下ろされたものだという。つまり、震災をめぐる著者の思考のエッセンスなのだ。

 本書のタイトルは第2章の題ともなっている。震災以来ずっと著者の頭の中に響いている詩の一行なのだという。ヴィスワヴァ・シンボルスカの「眺めと別れ」であり、沼野充義訳が引用されている。その詩の最初の部分である。

 またやって来たからといって
 春を恨んだりはしない
 例年のように自分の義務を
 果たしているからといって
 春を責めたりはしない

 わかっている わたしがいくら悲しくても
 そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと
 ・・・・・・・

 人間に対して無関心な自然がその営為として起こす津波や地震はくり返し起こっている。その自然の中で、人間が社会を形成して生活を営んでいる。自然を利用する形で人間が存在し、自ら意図的に自然を利用している。自然を理解するための科学を発展させ、工学という形で人間は意図的に自分たちの都合で利用してきている。著者は、悲しみは悲しみとして受け止めながら、この図式で自然と人間をまず対置し、様々な観点から何が問題だったのかを論じている。私はそのように受け止めた。
 著者は親類の救援に仙台に行く。ボランティアの活動で現地に行く。あるときは取材で現地に行く。そして、現地で様々な人々と関わり、その体験したことを核にして、考えを深めている。その結晶が本書なのだ。私たちは、著者の思索を媒介として、様々な切り口で、2011.3.11以降の問題、課題を見つめ直すことができると思う。震災の現実、事実から、著者が本書に述べた根源的な思考の内容は、震災及び原発震災を風化させないためにも、今こそ新ためて見つめ直す材料として、私たちに有益である。
 この薄い本の中に、キラリと光る問題認識、ぐさりと突き刺さる問題認識がちりばめられている。シンボルスカの詩の一節は、まさに人間の過去の営為を振り返るシンボルなのだ。

 本書を手にとって、自らの思いを重ねるトリガーになるような、かつ、私にとって印象深い章句を引用させていただこう。

*日本のメディアは遺体=死体を映さなかった。・・・・津波が市街地に押し寄せる場面は多く見たけれども、本当に人が死んでゆく場面は巧みに外されていた。カメラはさりげなく目を背けた。しかし、遺体はそこにあったのだ。 p6-7

*あの時に感じたことが本物である。風化した後の今の印象でものを考えてはならない。 ・・・・
 しかし、背景には死者たちがいる。そこに何度でも立ち返らなければならないと思う。・・・・その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景となって、将来のこの国の雰囲気を決めることにはならないか。
 死は祓えない。祓おうとすべきではない。
 更に、我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。・・・・我々はヒロシマ・ナガサキを生き延びた人たちと同じ資格を得た。
 これらすべてを忘れないこと。
 今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる。      p9-10

*ぼくは自然というものについて長らく考えてきて、自然は人間に対して無関心だ、ということが自然論のセントラル・ドグマだと思うようになった。自然にはいかなる意思もない。・・・・感情の絶対零度。    p16

*魚は水を意識しない。それと同じで・・・・意識して暮らしていない。何かあった時に改めて自分たちがどんなところで生きているかを考える。  p33

*被災地の静寂は何年かの後にまた賑わいを取り戻すだろう。
(ただし、ここでも福島第一原発だけは例外。放出された放射性物質は始末しようがない。最悪の事態はまだ先の方で待っているかもしれない。)   p53

*2010年に日本の気象庁が震源を確定した地震は12万個を上回った。しかし、隣の韓国ではせいぜい年間40個程度であるという。この違いはそのままプレート境界からの距離によるものだ。我々は4枚のプレートの境界の真上に住んでいる。こんな国土を持った国は世界でも珍しい。     p57-58

*災害と復興がこの国の歴史の主軸ではなかったか。・・・・・災害が我々の国民性を作ったと思う。この国土にあって自然の力はあまりに強いから、我々はそれと対決するのではなく、流して再び築くという姿勢を身に着けた。そうでなくてはやっていけなかった。・・・・我々は諦めることの達人になった。 p59-60

*我々は社会というものもどこか自然発生的なものだと思っている節がある。社会ではなく世間であり、論理ではなく空気ないし雰囲気がことを決める。こういう社会では論理に沿った責任の追及などはやりにくい。その時の空気はそうだったのだ、で議論は終わってしまう。  p61

*ぼくは日本人のこの諦めのよさ、無常観、社会を人間の思想の産物と見なさない姿勢、をあまり好きでないと思ってきた。議論を経て意図的に社会を構築する西欧の姿勢に少し学んだ方がいいと考えてきた。
 しかし、今回の震災を前にして、忘れる能力もまた大事だと思うようになった。なぜならば、地震と津波には責任の問いようがないから。  p62

*ボランティアの基本原理は自発性である。・・・・
 現地での活動はいつだって人対人である。・・・・
 固い組織ではなく、自由度の高い、ゆるい結びつき。・・・・・SNS(ソーシアル・ネットワーキング・サービス)に似ていると思った。   p64-66

*助ける、ということの不条理を意識しなければならない。
 人と人の仲は基本は対等。同じ高さにある。そこに何かの理由で差が生じると、それを元の対等ないし平等に戻そうとする力が働く。・・・・我々はどうも彼我の立つ位置を意識しすぎる。・・・・そこにまだ社会的な感情がまつわる。・・・
 それに、与えるのではなく、補うのだ。   p75
 
*人間は仲間に手を差し伸べる存在である、というところに確信が持てればいいのだ。
 p76

*地震と津波は天災だったが原発は人災だ、という認識は定着したようだ。・・・・
 結論を先に言えば、原子力は人間の手に負えないのだ。フクシマはそれを最悪の形で証明した。 
 エネルギー源として原子力を使うのを止めなければならない。   p78

*大学で物理を勉強した後でも原子力に対するぼくの疑念は変わらなかった。科学では真理を探究するが、工学には最初から目的がある。  p81

*原発について、危険であると言う学者・研究者が当初からいたのだ。その主張には根拠があったから、だから推進派は必死になって安全をPRした。その一方で異論を唱える人々を現場から放逐した。  p83

*安全を結果ではなく前提としてしまうとシステムは硬直する。   p83

*科学とは自然界で起こる現象とそれを説明する理論の間の無限の会話である。現象を観察することで理論は真理に近づく。安全を宣言してしまってはもう現象を見ることはできない。
 更に、そこにはより根源的な問題がある。原子力は原理的に安全でないのだ。 p84

*再生可能エネルギーに反対する論はいろいろある。・・・・
 これに対する方策は二つ考えられる--
 第一は電力網をずっと広範囲のものにすること。・・・・第二は蓄電の技術。・・・ p91-92

*社会がどう変わるか、は予測ないし予想である。どう変えるか、は意思だ。・・・・あるテクノロジーを選び、その普及を政策として推進する。するとそれは実現するのだ。文明とはそういうことである。  p96

*アメリカの詩人ゲイリー・スナイダーは、「限りなく成長する経済は健康にはほど遠い。それは癌と同じことだから」と言う。
 それならば、進む方向を変えた方がいい。「昔、原発というものがあった」と笑って言える時代の方へ舵を向ける。   p97

*思想と利害が人々の姿勢をばらばらにする。   p100

*政治のフィールドには理想論と現実論という二つの極があって、この隔たりがとても大きい。    p100

*政治とは政策であり、その実現の過程である。
 よき政策を掲げてそれを実行するのがよい政府である。・・・・
 今の段階で言えば大事なのは被災地の復興を具体的に進めることであり、日本の電力事業を再編して安全で安定した供給システムを構築することだ。   p105

*天災に際してまず大事なのは、「天罰だ、反省しろ」というお説教ではなく、連帯である。  p107

*震災と津波はただただ無差別の受難でしかない。その負担をいかに広く薄く公平に分配するか、それを実行するのが生き残った者の責務である。亡くなった人たちを中心に据えて考えれば、我々がたまたま生き残った者でしかないことは明らかだ。 p108

*自分に都合のいい神を勝手に奉ってはいけない。  p109

*ぼくは大量生産・大量消費・大量廃棄の今のような資本主義とその根底にある成長神話が変わることを期待している。集中と高密度と効率追求ばかりを求めない分散型の文明への一つの促しとなることを期待している。
 人々の心の中では変化が起こっている。自分が求めているのはモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしも安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。 p112

 最後に、鷲尾氏の写真である。前半の8枚の写真は、津波が襲い、過ぎ去って行った土地、元人間の営為が集積していた現地の実態が切り取られている。後半の8枚の写真は、震災と津波の後の人々の営為が切りだされている。
 そのモノクロ写真のインパクトがなぜか強い。
 写真家の選択したシーンが想像力を喚起させるからだろうか。
 人間の悲劇に無関心な自然にはモノクロが合うからだろうか。


ご一読ありがとうございます。

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本書で関心を喚起された語句を検索し、その波紋を広げてみた。リストにまとめる。

山浦玄嗣 :ウィキペディア
NHK教育 こころの時代~宗教・人生~ ・山浦玄嗣「ようがす 引ぎ受げだ」 (1)
:「思考の部屋」 ← 山浦氏の言を引用紹介されています。
山浦玄嗣講演会 上智大学100周年記念 :YouTube

ローレンス・ヴァン・デル・ポスト :ウィキペディア

シンボルスカ → ヴィスワヴァ・シンボルスカ:ウィキペディア
ヴィスワヴァ・シンボルスカ:「Nemo・blog」 Nemo氏
 このタイトルで、「Parting with a View」という詩が引用されています。
 それが、本書のタイトルの一行が記された詩のようです。
景色との別れ(詩)/シンボルスカ(つかだみちこ訳):「We See」 

ゲイリー・スナイダー :ウィキペディア
ゲイリー・スナイダー インタビュー:佐野元春氏

風力発電 :ウィキペディア
風力発電 :新エネルギー財団
「風力発電導入ポテンシャルと中・長期導入目標(V3.2)」2012.2.22 日本風力発電協会
一方、こんな意見のサイトもありました。「巨大風車が日本を傷つけている」

海洋温度差発電  :ウィキペディア
佐賀大学 附属海洋温度差エネルギー実験施設
海洋温度差発電 の画像検索結果

カーボン・ナノチューブ :ウィキペディア
カーボンナノチューブ :富士通研究所
カーボン・ナノチューブ の画像検索結果

地熱発電 :「LOHASマーケットINDEX」
 このサイトから、メニュー項目のクリックで、バイオ燃料、風力発電、太陽光発電、
 太陽熱利用、バイオマスのサイトにもアクセスできます。

スマートグリッド :ウィキペディア
「スマートグリッドとは」 :「環境ビジネス」
Smart Grid News HP

平成22年度 再生可能エネルギー導入ポテンシャル調査報告書

「生贄とスケープゴートの違いは何か」永井俊哉氏 :「システム論アーカイブ」
六月晦大祓祝詞 :ウィキソース
六月晦日大祓(みなづきのつごもりのおほはらへ) :YouTube

ヴォルテール :ウィキペディア
ヴォルテール :Wikiquote
カンディード :ウィキペディア
ヴォルテール『歴史哲学』:松岡正剛の千夜千冊
トーマスマン『魔の山』 :松岡正剛の千夜千冊
秋吉輝雄 :「Read & Researchmap」
アルフォンソ・リンギス :ウィキペディア


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『日本の原発、どこで間違えたのか』 内橋克人 朝日新聞出版

2012-04-17 13:40:52 | レビュー
 2011年4月に出版された本だが、実は復刻版である。30年ほど前、まさに原発一辺倒時代への初期に、『週刊現代』に連載のものが、最後に『原発への警鐘』(1986年)という文庫本になった。その一部が復刻されたのだ。この30年ほどの間に、放射能や放射線の単位も切り替わっている。(本書は旧単位のまま)
 著者は本書の序の最初にこんな文を記す。
「福島第一原子力発電所に発生した原発事故は、過去、私たちの国と社会が特定の意図をもつ『政治意思』によって常に”焼結”されてきた歴史を示す象徴である。人びとの魂に根づく平衡感覚、鋭敏な危険察知能力、生あるものに必須の畏怖心、それらすべてを焼き固め、鋳型のなかにねじ伏せて突進しようとした剥き出しの権力の姿に違いない」と。
 
 一部復刻版というが当初のどれだけの内容・ボリュームから抽出して復刻されたのかは知らない。序文は現時点の状況にリンクするように新たに書かれたようだ。
 本書は5つの章で構成されている。各章毎に概括的な読後印象を書いてみる。
第1章 福島第一原発の風景
 6基の原子炉が過去最大出力合計という記録を達成した9ヵ月後に、著者が現地でインタビューしたルポルタージュ。30年前に既にこういう発言を記録している。「ホントに原発が安全なら、東京のまん中だってできるだろうに・・・・。こんな遠いところからさ、電気送って、途中で3割もロスになるちゅうような、そんな不経済なやり方、するはずねえだろうに・・・・」。著者は、この時点で、推進派、反対派、専門家の意見を聞き、記録している。たとえば東電の社員寮が高台にあることに疑問を呈する、つまり住居地の高低が住民の放射線被曝量を左右すると素朴に考える地元の人の意見に対し、東電、専門家の意見も聴取し、「風向頻度」という観点を引き出している。一方、少数派の疑問に行政が答えていない事実を記している。この体質、今も全く同じではないか。
 そして、30年前、日米が同様に原発推進していた中で、全市民の避難訓練を実施するアメリカと、それをしない日本を対比している。その上で、その時点でアメリカが西独・イギリスと同様に、”原発・冬の時代”に足を踏みいれつつあると指摘しているのだ。

第2章 東京電力と原発
 副題が「福島第一原発はこうしてできた」である。
 昭和30年11月1日に東電に「原子力発電課」がスタートしたことから書き出している。日本の原子力発電、原子力産業がどのように成長してきたのか、その実態を具体的に知ることができる。ここには原発構想がまさに政治家主導で動き出したという事実を明瞭に活写されている。私を含めて大半の人がこういう事実について疎かったのではないだろうか。
 この章では、原子炉と循環系機器をつなぐパイプ「再循環系バイパス配管」の特殊な箇所に微細なひび割れが発生するという事実とそれへの技術対応のプロセスが記述されている。金属の破壊については、それまでに、「弾性破壊」「脆性破壊」「低サイクル破壊」の存在は周知であった。そこに、原発が稼働した以降、完璧な金属材料と溶接技術による配管であると思われていたところに、第4の破壊「粒界応力腐蝕割れ」という原因が発見されたのである。この発見と対策の事実関係をレポートしている。観点を変えると、原発の技術は未完成で未知の側面を含みながら、どんどん推進されてきたということだ。また、本書では追跡されていないが、当時の東電・原子力管理部長の発言記録に、「熱疲労割れ」という用語が別に使われていることも記録している。
 そういう負の側面の情報と実態が、一般国民には知らされないまま、専門家あるいは原子力村の範囲で抑え込まれ、一段落して初めて「実は・・・」という情報開示になっているのだ。技術的な問題は、ここに採りあげられた配管だけでなく、他の局面にも数多くあるのではないか。我々に知らされないままに・・・・。30年前のルポルタージュに記された事実、それと同じパターンが今まさにくり返されていることに、愕然となる。
 実証炉の域を出ない原発技術を実用段階、つまり実用炉の技術と思い込み安易に原発導入に踏み切り、政治主導かつ技術の後追いで対処したところを著者は抉り出している。ここから既に「間違えていた」のではないのか。

第3章 人工放射能の恐怖「放射線はスロー・デスを招く」
 この章では、マンクーゾ博士の警告について、博士の警告とそれが原子力推進派に抹殺されてきた経緯を明らかにしている。当博士の警告とは、「原子力発電は殺人産業」つまり、原発の生み出す人工の放射線がスロー・デスの原因になり、20年、30年後にその結果が出てくるというものだ。
 T65Dという推定値という仮定の上に、ICRP勧告が公表され、多くの専門家がこの勧告を前提にして発言しているという事実をレポートしている。このT65Dという推定値の仮定がマンクーゾ博士の被爆者追跡実証分析結果とは対立するというのだ。そして、30年前に、マンクーゾ説に対する京大原子炉実験所の今中哲二氏の発言も本書に記録されている。
 また、当時埼玉大学教授だった市川定夫氏の「ムラサキツユクサによる微量放射線の検出」もインタビュー記録として著者は押さえている。市川教授は語る。「アメリカではとっくの昔、沃素が濃縮されることはわかっていた。その後、調べていくにつれ、人工の放射性核種は濃縮するものがいっぱいあることも判明した。それにくらべ、天然のほうは濃縮するものは全然ない、やっとそういう事実がわかったんです」と。
 この章は、まさに現在ICRP勧告を大前提に論じている専門家が多数であることを踏まえると、必読なのではないだろうか。マンクーゾ説に賛成にしろ反対にしろ、まずこの事実を認識してから考えるべきだろう。30年前の過去事実の確認という問題ではなく、過去から現在、現在から将来へと、今われわれの現実問題に直ちにリンクしている局面のことなのだ。
 
第4章「安全」は無視され続けた 「公開ヒアリング」という名の儀式
 ここには、中国電力の島根原発が二号炉を増設するために行っていた「公開ヒアリング」のプロセスとそのナマ録(抄録)がまとめられている。実にナマナマしい。陳述人の質問には、ほとんど答えない答え方でまとめる。問題事項を蛸壺式に切り分けて、関連性を無視て回答する、などなど。これがヒアリングといえるのか!という進行状況だ。やはりそうか・・・・。
「原子力安全委員会は操り人形」という冒頭の見出しは、まさに的を射ているのではないか。3.11以降の実態を眺めていてもその通りなのだという気になる。その体質は不変のままで、昨年の実態があるのだろう。これは、3.11以降の様々な委員会にも当てはまる体質ではないか。
 印象深い章句を引用しよう。

*あなた方はこのヒアリングが終わったら、東京へ帰るんでしょ。9キロ離れとれば十分、というのでしたら、どうしてあなた方の東京に(原発を)つくらんとですか? p190
*タテマエに従って、公開ヒアリングはこれまで全国で合計13回開かれたと記録される(略)。
 だが、原子力発電所の立地に反対する反対派の参加は、一度として実現したことはなかった。・・・”大政翼賛会ヒアリング”と呼ばれるゆえんだ。  p192
*反対派や一般住民は科学技術に素人で、一方の安全委の学者や科学技術庁、通産省側は専門家である、との既成概念に立っている。
 だが、事実は逆であった。2~3年の短期間で、転々と所管ポストを移り変わり、出世階段を駆け上がっていくエリート官僚が専門家の名に値するだろうか? p197
*反対派陳述人たちの科学知識が、長期にわたる自主的な学習によって深められていることを、”専門家”たちは知らなさすぎたのである。  p198
*原子力発電所の進出によって「漁業」はどうなるのか? p210
 島根原発付近一帯の海岸線は、・・・・島根県東部一円をまかなう海の台所でもあった。
 それが原発の立地によって一変したのだ。海岸線近くに間断なく放出される大量の温排水によって、付近一帯の海は温度差からくる”うるみ現象”(海中の水が濁ってしまう)に襲われ、異変に取り込まれてしまったという。 p211-212
*中国電力は、(温排水の)放出口から1500mまでが、うるみ(現象)の限界といっていた。それが実際はどうですか!被害は御津に及び、2500m沖合いに離れた沖島にまで、うるみが出ている。  p214

 著者は書く。「原発によって得られるもの、失うもの、そして奪われるもの-すべてについてわれわれは包み隠すことのない情報を手にし、吟味し、国民的合意のあり方を考えるための材料とする権利を持っているはずである」。
 30年前のこの主張は、3.11以降、いまもって実現していないのではないか。たとえば、あのSPEEDのデータ一つとっても、生かされなかったという事実が歴然とある。

第5章 なぜ原発を作り続けるのか  電力会社の「利益」と「体質」
 冒頭に原発の利権という観点で象徴的な講演会の内容が、その録音テープから掘り起こされている。当時の敦賀市の現役市長の講演内容である。現ナマをめぐる「損得論議」にスリ変わっていく講演内容なのだ。原発にまとわりつく大きな問題として、この記録箇所を読み、考えるべきではないか。大なり小なり、同じ穴の狢という思考パターンが蔓延してきたのではないか。
 この章でも著者は、日米の避難訓練に対する考え方、対処の違いを明記している。
 最後に、「安い原発」の発電コストという一般国民に信じ込まされた情報の虚偽性を30年前に解明しているのだ。著者は様々な人にインタビューし、そのからくりを整理してくれている。「原発のライフサイクルにとって、最重要の柱と考えられるコストをコストとして参入せず」(p236)に原発コスト神話が広められたというわけだ。
 最近では、原発コストについて、大島堅一教授がその実証的分析をされている。
 本書での実発電単価そのものよりも、その単価算出に用いられた考え方における「手品の種」を学ぶことが、現在時点で発電コストを考えるために必要なのだ。安い単価算出のカラクリをまず知ろう!
 著者は、最後に、総括原価方式に含まれるシステム上のからくりにも言及している。この総括原価方式は、現在もそのままである。この30年、何も変わっていないのだ。

 温故知新という言葉がある。30年前の本が復刻された。何も変わっていない体質、発想、思考法を、見つめ直すには有益な本だと思う。未来の世代に、負の遺産を残さないということが、サステナビリティ論議において叫ばれた。3.11以降、取り返しのつかない負の遺産を既に残してしまっている。私たちは無知でとどまることはできない。
 負の遺産を拡大してはならないと思う。30年前に関心が浅かったこと、知らなかった無知を恥じる。
 原発の事実をまず知るために役立つ本だと思う。


ご一読、ありがとうございます。

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本書に関連して、ネット検索で得た情報ソースを一覧として記録しておこう。

破壊力学 :ウィキペディア
脆性破壊と延性破壊について :msn相談箱
応力腐蝕割れ・遅れ破壊 :「CAE技術者のための情報サイト」
「応力腐食割れ(SCC)に関する現在までの知見の総括」
  第45回原子力安全委員会資料第3号 平成18年7月6日
応力腐食割れ の画像検索結果

葬られた微量放射線の影響調査報告 :BLOGOSの記事 新恭氏 2011.4.28
放射線と原子力発電所事故についてのできるだけ短くてわかりやすくて正確な解説
:田崎晴明氏 学習院大学理学部
マンクーゾ報告が載ってるリンクってありますか?:YAHOO! JAPAN 知恵袋
「低線量被曝とその発ガンリスク」 今西哲二氏

Thomas F Mancuso :The Lancet
マンクーゾ博士は2004年7月4日、92歳で逝去。食道癌にて。

1965年暫定線量推定方式(T65D) :放射線影響研究所用語集
ICRP勧告(1990年)による個人の線量限度の考え (09-04-01-08) :ATOMICA
2007 年ICRP 勧告(Publ.103)
国際放射線防護委員会(ICRP)2007 年勧告(Pub.103)の国内制度等への取入れについて

ICRP勧告は、実は根拠がない!~NHK・追跡!真相ファイル「低線量被ばく 揺らぐ国際基準」(2011年12月28日放送) :「てんしな?日々」
国・東電・全てのマスコミが口を揃える理由 - ICRPの欠陥 :「Moto Jazz」
福島原子力発電所事故 :ICRP ref:4847-5603-4313

国際放射線防護委員会 ICRP/欧州放射線リスク委員会 ECRR :哲野イサクの地方見聞録 このブログでは、2つの委員会について詳細な情報があり、分析がなされている。

科学技術の「発達」を考え直す必要性がある :市川定夫氏
市川定夫さんの講演録  1章・2章「放射性被曝は微量でも危険」・3章
放射能はいらない 市川定夫 :YouTube
 この動画を4本の動画でアップされているのもあります。
 その動画から要点文字起こしをしてくださっているブログが以下です。
 動画と市川氏略歴  文字起こし1  文字起こし2  文字起こし3 

自然放射線と人工放射線の違い :「原発無人列島」

原発と地域振興 :「Letter from Yochomachi」
原発と地域振興 

[図解・社会]東日本大震災・電源別の発電コスト(2011年12月13日)

コスト等検証委員会報告書 (平成23年12月19日):国家戦略室・政策
参考資料1 各電源の諸元一覧
参考資料2 発電コストの試算一覧
参考資料3 各省のポテンシャル調査の相違点の電源別整理
各電源の発電コスト比較図(2004年試算/2010年・2030年モデルプラント)

原子力発電の経済性について :原子力委員会・植田和弘氏
原子力発電の経済性に関する考察 :勝田忠広氏、鈴木利治氏
コスト等検証委員会報告書に対する情報提供資料
コスト等検証委員会報告書への意見 :石油連盟 2012.1

「有価証券報告書総覧に基づく発電単価の推計」 大島堅一氏

曲解だらけの電源コスト比較made byコスト等検証委員会 :澤 昭裕氏
その1   その2

原子力発電コストについての参考リンク :NAVERまとめ

電力料金決定の「総括原価方式」とは? : 南山武志氏
総括原価方式はでたらめ原価計算方法 :「社会科学者の時評」
電力利権を解体せよ!総括原価方式から見る原発問題 :「原発&放射能NEWS」

総括原価方式見直し、業界にも波及 東電、迫られる抜本改革
2011.10.4 07:39   :産経ニュース

核燃料サイクル :ウィキペディア
再処理工場   :ウィキペディア
放射性廃棄物  :ウィキペディア


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追記(2012.4.18)
再確認で市川氏の講演録へのアクセスができないのが1項目あるのに気づきました。
再検索で入手した情報と差し替え及び追加をしました。

『小堀遠州』 中尾實信  鳥影社

2012-04-14 15:53:36 | レビュー
 本書を読み始め、最初に出てくる古田織部の方がまず気になって、最初から脇道にそれ、織部に関連する小説を2冊はさんでしまった。その後、本書に戻りやっと読み終えた。
 本書は1冊本だが本文2段組で838ページに及ぶ大長編の歴史小説、伝記小説である。

 、著者は「おわりに」の冒頭に「本書は、茶道雑誌『遠州』に5年半の長期にわたり連載された『孤蓬平心』へ加筆の上、上梓された」と記す。そして小堀遠州という人物の伝記小説(歴史小説)作品にしたねらいを、「信長・秀吉・家康の『武の系譜』が、歴史小説の主流となっても、利休・織部・遠州の『美の系譜』あるいは『日本固有文化の系譜』は、はなばなしいドラマの背景として押しやられてきた。筆者は、あえて『美の系譜』にこそ、我々日本人の背骨となる精神の支柱があることを、物語として紹介したかった」と記している。読後感として、まず茶道雑誌という媒体の存在がそのねらいの達成には真に相応しかったように思う。
 
 また、著者自身が「本書は、エンターテインメントを主眼とする歴史小説として書かれたものではない」と記している。時代小説を読む読者にとって通常重要な要素になるエンタテインメント性は確かにほとんどない。それを期待して読もうとするなら、読むのは止めた方がよい。
 本書は、利休と織部という二人の師が歩んだ茶の湯の道の先に、小堀遠州が自らの茶の湯の道を如何に切り拓いていったかという『美の系譜』を描き出している。利休の茶の湯、織部の茶の湯でもなく、遠州自身にとって納得のいく茶の湯を生み出すプロセスという地道な歩みを小説という形式により、遠州の目、遠州の心になって描き出したものといえる。

 本書は慶長20年(1615)、大阪夏の陣前夜、古田織部の切腹の時から書き起こされる。この時、遠州は不惑まであと三年、つまり37歳だ。だが、大徳寺の春屋宗園禅師から孤蓬の号を授かってから8年経っている。遠州の父正次はそれより10年前に、江戸出府の途中で65歳で急逝しており、遠州が小堀家の当主である。
 だが、この物語は作介(遠州)が15歳で大徳寺の春屋宗園禅師の許で参禅する時点に遡って、そこから遠州と彼が関係する人々を描き出していく。それは、遠州の師、織部が目指した茶の湯の極み、さらにはその前に利休が目指した侘び茶の世界の時代背景に対し、主に江戸幕藩体制という社会的背景の中で一武家大名として行き抜いた遠州の生き様と自らの茶の湯の道を築いていく立場・環境の違いを明らかにしていくためには必要なプロセスでもあったのだ。
 慶長13年、駿府城再建の作事奉行を務めた功績により、30歳で遠江守に任ぜられる。そこから、小堀遠州と呼ばれるようになる。その翌年、31歳にして春屋禅師から『宗甫』の号を、2年後、『大有』の号を与えられたという。
 本書は、孤蓬庵大有宗甫居士、享年69歳で眠りにつくまでの生涯を描いている。
   きのふといひ けふとくらして
  なすことも なき身の夢の さむるあけぼの
を辞世の句として詠んでいたという。

 本書は小堀遠州という人物の伝記小説ではあるが、茶の湯を軸にした美の系譜を描く教養小説という趣が濃厚である。
 美の系譜を描くにあたり、いくつかの流れがあるように思う。
 一つは、遠州が通常、「綺麗さび」と称される茶の湯のこころを築いていったその過程を遠州自身の心、考えから描きこんでいく流れである。
 二つ目は、遠州が江戸幕藩体制下で担わされた職務、とくに様々な作事奉行を遂行する過程での美の創造である。築城を含めて様々な建物の移築、新築および、作庭と新たな様式の茶室の創造を微細、克明に描いていく流れだ。
 著者は、作庭や茶室の意匠を遠州が試行錯誤し、創造するプロセスの描写に多大なエネルギーを費やしているように思う。ここでは、課された課題をやり遂げるためのプランナー兼デザイナーとしての遠州、土木建築庭園工事の総監督としてマネジメントにかかわる遠州が描かれていく。様々な町人、職人に敬意をはらい、人々の力を引き出していく遠州という人物と手を抜かず、こびずに真摯に美を追求し創造する姿が描かれる。
 本書を読みながら、遠州作として記述されていく庭園や茶室をネット検索で映像として確かめながら読んで行くというのは、おもしろい作業だった。本当は、本書片手に、その庭あるいは茶室の現地に行くのがよいのだろうけれど・・・・・
 三つ目は、第一の流れと不可分になるのだが、茶会における場の中での美の発現という流れである。
 無味乾燥な記録としての茶会記は読みづらい。その茶会を遠州の人生の時々の場での生きた茶会として再現して描き、そこに茶道具類の取り合わせや個々の茶道具類の微細な背景情報が克明に描き込まれていく。茶道具類の形姿、由緒来歴、その道具の特徴などが語られていく。その記述のウエイトがかなり大きい。この部分がまさに茶道の基礎知識・教養としての情報提示にもなっている。茶道雑誌という媒体の読者にとっては、たぶん連載でここを読むだけでも、茶会記よりはるかに興味深くておもしろい読み物になったことと想像する。茶道具類に関心のある人には読み応えのある側面である。
 遠州の茶の湯での道具の組み合わせという観点は遠州の茶の湯のこころと大きく関わるものだろう。そして、茶の湯全般を考えることにも役立つ部分になっている。私は陶器の一領域としての茶器に関心を持っているので、この微細詳細な茶道具類の説明部分を読むにあたり、ネット検索して該当物の写真を見ながら、楽しませていただいた。
 四つ目は、上記の三つの流れに様々な形で関わり、織りなされる事になるのだが、美を担う人々の人間関係、人的ネットワークからみた美の系譜である。
 名だたる茶匠、茶人たちと遠州との関わり。その大半は茶会での関わりとして描かれる。重なる部分もあるが、作事での遠州の人的ネットワークが一方にある。作庭、建築内装、茶室作りに関わってくる画家、庭師、様々なジャンルの職能者、職人のネットワークであり、作事奉行の遂行にあたり協力関係になる武家との間での人間関係、江戸幕府や宮廷人との人間関係が作事には重なっていく。茶会に関わるが、茶碗、茶入などの茶陶の関わりでの人々のつながりもある。遠州がいかに多くの人々とネットワークを築き、その関わりの中から自らの茶の湯、茶室、作庭の成果を残していったのかがよく理解できる。
 また、著者はこう記す。「寛永16年以降、大輪の花が開くかのごとく、遠州は精力的に茶会を催した。重要なのは同時代の主だった人物のみでなく、次の世を担う人材がほぼ網羅されていることであろう。」(p745)
 私にはこれら4つの流れが互いに混交・融合し合いながら、小堀遠州の物語という大河になって、止まることなく繋がり流れていくところに、興味をおぼえる。

 『武の系譜』として、本書で華々しいストーリー展開はでてこない。だが、秀吉治政の晩年から江戸幕藩体制が確立されるまでの時期、いわば家康、秀忠、家光に及ぶ江戸幕府創成期に、大名たちが家存続のためにどのような生き様を示したかという観点も、一つの武の系譜であろう。家存続を大前提に大名たちが婚姻関係を手段として、網の目の如く自家保存の為の人間関係を築いていく姿が語られている。その中で「武家の茶」の師匠として、遠州がどういう立ち位置にいたのかがわかってくる。家康、秀忠、家光それぞれが遠州と茶の湯を媒介として形作る人間関係の違いを著者は描き込む。これもまた遠州の生き方を理解する上でおもしろい観点になると思う。

 第5章「平心」で著者は「利休と織部の死は、遠州の処世に色濃く影を落としていた。伏見奉行として幕藩体制に組み込まれているかに見え、その実、茶の湯や作事での自由かつ自在な表現には、前衛的ともいえるこころの革新性を保ってきた。」(p777)と記している。そして、その直ぐあとに、遠州の言葉に出せぬ思いとして、「一人の人間としての生き様で何が真実か、何が虚像なのか、自分でも分からなくなることがある。」とつづける。
 遠州という人物の生き様にやはり多面性が内在するということだろう。小堀家という武家の主として、江戸幕府の組織に組み込まれた側面、その制約と行動の限界を踏まえた生き方を自らに課す。武の系譜という立場では、常に父正次が遠州に口癖のように「生きてこそあれ、犬死はいたすな」と言ったという言葉が根底にある。
 著者は、遠州の心には「その場にふさわしい自在なありよう」(p840)という思いがあったと描いている。
 これらが遠州という人物を多面体に見せることになるのかもしれない。

 作品構成として面白いのは、各章のところどころに「つぶやき」という記述が積み重ねられていく点である。小説本体が遠州の思い・考えを軸に展開されていく。これと併行し、遠州の妻、正室の志乃が遠州のありよう、生き様をどうとらえているかというみずからの思いをつぶやくのだ。また遠州が自ら選んで側室とした女たち、遠州の蔭の女に留まった女に対する自らの思いもつぶやく。その内容が折々に記述されていくという構成である。
 身近にいる女の目からみた遠州像ということになり、おもしろい設定になっている。このあたり、現代は女性が多く茶道を嗜まれているのだから、この「つぶやき」は、雑誌の読者として、楽しまれたのではないかと推測する。
 それにしても、志乃は賢い女性として描かれているように感じた。
 
 本書の観点を少しずらせると、遠州との直接の関係、あるいは伏見奉行、作事奉行の職を通じての直接・間接に知る関係の中での、さまざまな立場の女性の生き方、ありようをとりあげて描いているともいえる。秀吉治政の晩年及び江戸時代初期における女性がどんな環境でどのように扱われて生きていたのか・・・・その点も副次的に読み込める本書の成果物になっている。
 女性についてもう一点、その名前について。本書では、母の名は佐和、遠州は藤堂高虎の養女(藤堂嘉清の娘)を娶るがその名が志乃である。志乃を娶る前に、遠州が思いを寄せ、藤太郎という一子の母となり、蔭の女性として生きた人が持明院祥子、そして、側室として、郁、お伶という二人が。また娘の名は佐保である。
 一方、吉川弘文館刊の人物叢書『小堀遠州』の巻末にある略年譜を見ていっても、子息誕生の年譜に母の号名は記されていても、これらの名前は一切出てこない。略系図においても、子供の男子名は記されていても、女子名は「女子」と記されているだけだ。著者がこの作品で使用した名前の由来はどこにあるのだろうか。命名に興味が尽きない。

 最後に、本書で印象に残る章句を引用させていただこう。

*武功を挙げれば挙げるほど、妬まれるのではございますまいか。 p83

*およそ、世間の風評に惑わされることほど、愚かしいことはない。茶器の名物と同じで、己の目で真贋を見極めることが大切じゃ。 p84

*人も庭も天地の狭間にある。あくまでも自然に包まれたものであろう。禅の庭を心した。  p179

*いつの世にも、その時代に生かされる人物がいる。 p371 

*花は受け身なれど、自己主張もする。生ける者により生かされもするが、死ぬこともある。  p377

*形あるものはいずれ崩れる。・・・形がなくと、人から人へ伝えられるものがあるのでしょうか・・・・ある。きっとある。それはこころじゃ。形を伝えることは、そのための方便かも知れぬ。祇園祭りにもこころを伝える形がある。茶の湯とて変わりはしない。 p384

*今、無為に過ごせば、真の花は縁遠いものになるにちがいない。  p509

*茶会での客組を成功させるこつは、客人の人となりを知り、互いの相性を考慮することにある。とはいえ、この世で人間ほど複雑な存在はなく、客人の心の奥深くまで知りつくすことは不可能に近い。しいて言えば、外見で評価せず、心の眼、心の耳を働かせることだろう。  p524

*身分の隔てなく、仕事の内容で評価する人柄にほれ込んでいるのだ。年若い徒弟たちを育てようとする眼ざしの温かさが伝わる。   p547

*ひたすら耐えて、泥に咲く蓮の花になりたいものよ。  p601

*一筋縄でくくれないやっかい者が、現世を生きる者の真の姿と思う。聖者も悪鬼も同じ脚に支えられているのが人間であろう。 p630

*自然の美しい山河が眺望できるのに、築山を築いたり、山々を象る巨石を据えたりすることは景観の重複にすぎまい。  p681

*天才も磨かずして光を放つことはない。 p747

*命のある限り、虚しさは常につきまとうものであるが、務めて肯定的に前向きに生きて行くのが、遠州の信条でもある。  p751

*花は野にあるようにだよ。 p769

*こころよりいでくる茶の湯で、ありたいものよのう。   p786

*丸かれや 唯まるかれや 我がこころ 角あるものに 物のかかるに 大燈国師 p793 丸かれと 思うこころの かどにこそ よろずの事の 物のかかるに 遠州


ご一読、ありがとうございます。


付記
 気になる箇所がいくつかある。
1) p83の一行目に、「角倉素庵の手により、霊源寺として弔われている」という記載がある。以下の情報と一致しない。霊源寺からさらに移されたのか、寺名が変わったのか?素庵は了以の子である。あるいは、素庵が別に弔っているということか。
 木屋町三条下がるに瑞泉寺がある。「1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺」とされている。(オフィシャルサイト 京都観光Navi、 ウィキペデイア他より)
 http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=1000130
 『都名所図会』(岩波文庫)には、瑞泉寺の項に、「開基は三空桂叔和尚。本願は関白秀次公の母堂瑞龍院なり。秀次公追悼の為に建立し給うふ」と記され、その後に、秀次悪逆塚の記述がある。竹村俊則校注として、「慶長16年角倉了以によって造られた墓石。六角型宝塔」と脚注がある。(p77)
2)p548に「遠州は父政次に教わった法隆寺大工の口伝を思い出すにだった」として、口伝が9項目列挙されている。主要参考文献にそのソースがあるのだろうか。
 口伝の表現は少し異なるが、私が印象深く口伝を読んだのは、『木のいのち木のこころ 天』(西岡常一著・草思社)の中でだった。この書名は文献リストにないので、ソースを知りたいものである。
3) p605 「江戸城のお抱え庭師山本道勺も、・・・」
 山本道勺という人名を、デジタル版 「日本人名大辞典+Plusの解説」で参照すると、時代が一致しない。
 その息子の山本道句(その1その2)なら時代が整合する。道句がどこかの時点で、父、道勺の名前を継承したのだろうか。 
4)第6章に、私にはスッキリとしない筋の展開箇所がある。単なる私の理解不足或いは思い込みだろうか・・・・
 p816で、「去る十月一日、江月宗玩禅師御入寂」とある。本書の文脈とネット検索でも、寛永20年(1643)の記述である。
 p821には、正保2年(1645)12月の細川三斎(83歳)の死、その数日後の沢庵和尚入滅(73歳)が記述されている。
 その後の節で、少し時点を遡った形でスタートし、p826で正保2年10月29日の奈良・興福院本堂の落慶法要と遠州自筆扁額を掲げた記述があり、「父政次から二代にわたる悲願の成就である。(後は孤蓬庵だけになった)」とあって、そのあと、文脈的に切れ目無く「遠州が孤蓬庵を訪れる度に」という茶室についての具体的な描写へと続く。そして、空行を入れて「数日後、」という書き出しで、p830に紅雲和尚からの手紙『江月和尚の祥月命日に御目にかかりたい。できれば前日、孤蓬庵にお泊まり願えないだろうか』と、「一周忌には、龍光院に・・・」という記述が出てくる。
 節が変わり、連続的な記載と私には読みとれた故に、遠州が孤蓬庵を訪れる記述が、落慶法要よりも以前に遡った内容の描写であるとは読めなかったのだ。読み進める途中で話の展開にあれっと戸惑いを覚えた次第である。
(これは私だけの受け止め方なのか・・・・・できれば読まれた感想をお聞きしたい。)
5)著者は、遠州が春屋宗園から「宗甫」「大有」の道号を違う時期に受けたと記す。人物叢書『小堀遠州』の略年譜では、慶長14年(1609)の「2月1日、春屋宗園(円鑑国師)より大有宗甫の道号を受く(孤蓬庵文書)」と記す。このあたり、記録文書により異なる記載があるということだろうか。


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読みながら、背景や意味をより深く知るためにネット検索してみた。それをリストにまとめておきたい。

小堀遠州 → 小堀政一 :ウィキペディア
小堀遠州 :遠州流茶道HP
遠州流茶道 綺羅さびの世界 HP
小堀遠州流 松籟会 HP
古田織部と小堀遠州 :表千家不審庵
古田織部 → 古田重然 :ウィキペディア
美濃の茶人 古田織部の生涯 :「奥美濃山歩」
織部流  :ウィキペディア
式正織部流茶道  :「局長のページ うすい」
織部焼のルーツは古田織部 :「器.com」

藤堂高虎 :ウィキペディア
李 舜臣 :ウィキペディア
亀甲船  :ウィキペディア
中井正清 :ウィキペディア
甲良宗広 → 甲良氏 :ウィキペディア
松花堂昭乗:ウィキペディア
角倉了以角倉素庵 :ウィキペディア

曲舞  :日本辞典
雅楽「五常楽」 Gagaku:The old court music "Goshoraku"
舞楽 太平楽延喜楽長慶子  :YouTube
 長慶子 補足説明  :コトバンク

狩野山楽 :ウィキペディア
俵屋宗達 養源院(白象図・松図・唐獅子図等)、松島図屏風槇檜図屏風
 俵屋宗達《風神雷神図屏風》 鉢巻をした雷神に見る聖と俗の美──「佐藤康宏」:影山幸一氏
海北友雪 :ウィキペディア
 源平合戦図屏風 :東京富士美術館
狩野探幽 :ウィキペディア
狩野采女守信(探幽)
 雪中梅竹遊禽図襖芦鷺瀑辺松樹図(三之間西側襖絵)、四季松図
 大徳寺法堂天井雲龍図
源氏香、源氏香図(1)(2)(3) :「晏」の「香の話」サイト
組香 :「香筵雅遊」
禅院額字 潮音堂 

聚楽第 豊臣家の夢の跡 :「剣客商売」道場 真田勘兵衛氏
聚楽第 :ウィキペディア
岡崎市 大樹寺HP
養源院 :「私の青秀庵」の「名所旧跡めぐり」サイト
伏見奉行所跡 :京都市
春雨庵 :「山形県の町並みと歴史建築」

台目構 :「茶道入門」
孤蓬庵 :ウィキペディア
如庵  :ウィキペディア
如庵 → 有楽苑 :「名鉄犬山ホテル」
燕庵 ← 茶室・露地 :「藪内家の茶」
 「茶室・露地の図を見る」を開き、「燕庵」の項をクリックしてみてください。
転合庵 :東京国立博物館
 庵室 内部
真珠庵通遷院庭玉軒 :「お茶しませんか? 数奇屋、茶室のおさらい」
夕佳亭 :「お茶しませんか? 数奇屋、茶室のおさらい」
詩仙堂 HP 「写真で見る詩仙堂の散策」
茶室空間の美学 :西尾市HP

大福茶 :はてなキーワード
名物茶入 :「茶の湯の楽しみ」
 初花肩衝、日野肩衝、在中庵、四聖坊肩衝、楢柴肩衝、新田肩衝、苫屋文琳
 二見、国司茄子、相坂丸壺、飛鳥川、音羽山、玉津島瓢箪、玉柏、皆の川
 増鏡、廣澤、女郎花、翁、橋姫、忠度、関寺、螢、正木、村雨、玉川、
 浅茅肩衝、思河、凡、撰屑、春山蛙声、
唐物茶入博多文琳 :「福岡市美術館」
ととや茶碗 →斗々屋茶碗 :「茶道入門」
楽茶碗名物一覧 :「お道具イロハ」 seiyudo氏
小堀遠州作茶杓
 清美関虫喰茶杓(小堀遠州作)、安禅寺
織部好みの伊賀花入 銘 からたち生爪
織部好みの水指 銘 破袋 

鎖の間 :「建築情報.net」
鎖の間 :「茶道体験教室」ミッキー氏
台子  :ウィキペディア
千載和歌集断簡 日野切 :文化遺産オンライン
化粧屋根裏 ← 天井 :「数寄にしませう。」
 茶室の掛込天井(かけこみてんじょう)化粧屋根裏
 化粧屋根裏 :「JAANUS」
茶道用語 :
 朝日焼、風炉、炭斗、炭点前、濃茶、薄茶、鐶(かん)、寄付、迎付、挽家

群書治要   :文化遺産オンライン
本光国師日記 :ウィキペディア
吾妻鏡  :ウィキペディア
吾妻鏡 目次 :三浦三崎ひとめぐりさんによる読み下し文

=遠州の庭=
京都 高台寺 :「高台寺  早わかりNavi」
京都 南禅寺 :「日本庭園的生活」j-garden-hirasato氏
京都 金地院 :「閑古鳥旅行社」木村岳人氏
京都 孤蓬庵 :「京都の庭園ガイド」
京都 天授庵 :「京都の紅葉」H.Nishio氏
京都 三宝院 :醍醐寺 HP
静岡 龍潭寺 :「日本庭園的生活」j-garden-hirasato氏
岡山 頼久寺 :天柱山頼久寺HP
擁翠園  :「戦国武将の館Ⅲ」青山ろまん氏
「擁翠園」保存の方針 視察記録 :.tomoko-kurata氏
高野山天徳院庭園 :高野山霊法館
龍潭寺庭園 :「滋賀文化のススメ」
清水寺 成就院庭園 :清水寺HP

桂離宮  :ウィキペディア
桂離宮の写真 :宮内庁
桂離宮 :「京都写真」youpv氏
仙洞御所 :「ぺこにゃんさんの旅行記」

数寄屋造り  :ウィキペディア
桂離宮    :ウィキペディア

柿葺き :「まつみ」Internet 
品軒  :「桧皮葺師の徒然日記」ササキマコト氏
切懸魚 ← 懸魚の形態 
名栗 ← 名栗加工 :「大工さんが作ったHP」
鏡天井 ← 天井の造形:「社寺建築の造形美」日本建築史研究所・松谷洋氏
狐格子 :「京町家改修用語集」
折上格天井 :「木の国『ぎふ』の匠技」
小舞の画像検索結果
連子窓 → 窓の種類 :「数寄にしにませう。」のサイト「窓」から 
連子窓 の画像検索結果
唐紙  :ウィキペディア
唐紙 唐長文様  :唐長HP
京唐紙 文様の種類  :「和の学校」HP

白玉椿 の画像検索結果
土佐みずき ← トサミズキ(土佐水木)
五葉松 :「季節の花 300」山本純士氏
姫沙羅 :「季節の花 300」山本純士氏
槇柏  :「犬や猫の遊び場」
ケリ(鳥の名):「観・感・癇」
芍薬  :ウィキペディア
(さわら):「季節の花 300」山本純士氏
モッコク(木斛):ウィキペディア
コウヤマキ(高野槇) :ウィキペディア
紫鉄線 → 鉄線 :「和花人」

幕府公用作事と江州大工 :宮大工 十四代 高木敏雄氏

神仙蓬莱思想の庭(飛鳥・奈良時代) :「中田ミュージアム」中田勝康氏

「茶の湯のコミュニティー :『天王寺屋宗達他会記』に見る交友の時系列分析」
  山田哲也・矢野環 氏
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『名画と聖書』 船本弘毅監修 成美堂出版

2012-04-09 21:40:57 | レビュー
 日本で企画開催される西洋絵画の展覧会で宗教画だけのものはあまりみかけない。しかし、企画された画家の年代によっては、かなり宗教にテーマを採ったものが含まれる。一方、ルーブル美術館、大英博物館やイタリアの諸美術館を観光と併せて訪れると、宗教画の展示数に圧倒される。私もその一人だ。
 キリスト教徒でなく、日頃「聖書」に接することのない者にとって、それらの聖書に題材を採った絵画は何となく眺めてしまうだけに終わってしいがちである。その絵の題名に描かれた聖書の背景についてほぼ無知である故に、その絵の鑑賞が表面的になってしまうのだ。
 手許には、岩波文庫刊の旧約聖書関連の翻訳書や、いただいた新約聖書、その他英語版ペーパーバックの子供向け聖書などがあるのだけれど、部分読みしかできていない。
 おかげで、聖書に関係する宗教画を鑑賞する目を深くは養えず、中途半端なままで見る機会だけかなり重ねてきてしまった。

 本書はキリスト教の門外漢である私には、宗教画という領域の西洋絵画を鑑賞する上で、入門書として役立つ格好のテキストになった。たぶん多くの日本人は同様の立ち位置におられるのではないだろうか。

 本書は表紙に記載のメッセージでほぼそのねらいが言い尽くされているように思う。
*「天地創造」から「最後の晩餐」まで一冊でわかる。
 『旧約聖書』と『新約聖書』それぞれをわかりやすく紹介
*107の名画とともに聖書のストーリーを解説
と記している。

 本書は三部構成になっている。
 序章「聖書をひもとく」では、聖書とは何かを簡略に説明し、聖書の構成を1ページに図示している。手許に聖書を持っていても、全体の構成を考えていなかった私には役立つ図解だった。そして、旧約と新約の違いを述べ、聖書と西洋絵画の関係を「祈りの場を壮麗に飾り立てた宗教絵画の誕生と発展」という視点で、キリスト教絵画史と画家の関係を年表風に図解してくれている。世界史のポイントとして、「30年頃 イエス、処刑される」から「1904年 日露戦争が勃発する」までの超簡略世界史年表を併記しているので、時間軸で宗教画の生成発展史を俯瞰するには便利である。
 第1部が『旧約聖書』であり、第2部が『新約聖書』である。
 両部とも、聖書という言葉からくる堅苦しさあるいは構えを抱かせない工夫を盛り込んでいるので、信仰者でなくても入りやすく、読みやすいまとめ方になっている。最初に主な登場人物が一覧にまとめられ、各章の初めには、あらすじとその章のテーマに関係する人々の行動や移動の地図あるいは人々の相関図が図解されている。このあたりは一目瞭然にという工夫なのだろう。両部の構成は次の通りである。(番号は、部及び章を意味する。)
 1.『旧約聖書』 p18~p103(86ページ)
  1.創世記と族長の時代 2.イスラエル王国の盛衰
 2.『新約聖書』 p104~p217(114ページ)
  1.メシアの誕生 2.イエスの試練と伝道の始まり 3.イエスの教え
  4.受難物語   5.使徒の時代  

 本書の基本的な特徴は、見開きの2ページで1つの項目をまとめている点である。いわば、図解本の定石であるが、そのお陰で読みやすい。そして、その2ページの中に、「聖書のあらすじ」が記され、さらに興味を持つ読者のために、出典箇所が明記されている。項目内には「名画解読法」と銘打って、少なくとも1枚の名画を掲載する。その名画の周囲に名画の部分図をズームアップして載せ、その絵のチェックポイントを説明してくれている。勿論、「名画を読み解く」説明が簡潔に付されている。そして、聖書の該当章節の要点を地図あるいは図表にまとめている。1項目を1ページにおさめたところもある。

 たとえば、第1章の最初の項目は、「天地創造」である。誰しも、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの絵画を思い浮かべるだろう。本書ではその中から『太陽と月の創造』部分をここでは取りあげている。(他の項目に『大洪水』(部分)と『最後の審判』が載っている)
 ヴァチカンに行き、この礼拝堂を訪れた時には、ミケランジェロの絵画全体に圧倒されてしまった。旅行前に絵について事前学習をせず、礼拝堂内では時間的にも細部までゆっくり鑑賞しているゆとりもなかった。本書記載のチェックポイントを読み詳細部分図から、神の左側に後を向いた神が併せて描かれていて、時間の経過を表現する仕掛けが施されているというのを知り、ホゥ!と再認識した次第だ。礼拝堂の中では、神が右手で太陽、左手で月をつくる図の箇所を主に眺めていたように思う。また、その神の両腕の下に描かれた図像にも、時の寓意が表現されているという解釈ができるとは・・・・表面的、部分的にしか見ていなかった!

 中世までの絵画とはかぎらない。たとえば、誰でも知っているあのフィンセント・ファン・ゴッホが描いた「善きサマリア人」をp166で採りあげている。このタイトルから絵の構図の左側に描かれた道を行く二人の人物を認識できるには、「聖書」の知識が不可欠なのだと思う。ネットで見つけたゴッホの絵を引用してみよう。
  
「TIME LINE (旧 アート at ドリアン)」というウェブサイトに、
善きサマリア人」 ルカ 10:30-37 の箇所が紹介されている。 

 本書では、「隣人愛の本質を説いた最も有名なたとえ話」と題して聖書のあらすじを載せ名画の解読をしている。敬虔なクリスチャンなら多分当たり前に認識し、それを背景にして絵の構図とともにその意味を深く理解するのだろう。私のようなキリスト教徒でなく、聖書も未だ部分読みに留まる者には、解説がなければ鑑賞への理解が及ばない。人助けをしている人間を描いた図として、その構図や筆遣い、色彩のバランスなどを近代絵画的に見てしい、そこに含まれた深い意味合いを理解できないままになってしまう。
「サマリア人」という言葉そのものについても言える。サマリア人もユダヤ人と同じ神を奉ずる人々だという。「聖書マメ知識」には、「サマリア人は、イスラエル王国が滅亡した際に他国の者とユダヤ人が混血して生まれた民族」(p163)と記されいる。「純潔を至上とするユダヤ人はこれを蔑み、忌み嫌っていた」という。つまりサマリア人とユダヤ人は対立関係にあったのだ。ユダヤ人がエルサレムを聖地としたのに対し、サマリア人は「エルサレムの神殿祭祀を認めず、ゲリジム山を聖地としていた」(p163)とのこと。
「善きサマリア人」という一語にこれだけの背景があるということになる。

 もう一つ、ジャン=フランソア=ミレーの「種をまく人」(クリックしてね)という農民が種を蒔く姿を描いた有名な絵がある。ミレーの絵の本ならたぶん大抵紹介している絵だろう。
検索してみると、ボストン美術館のコレクションには、黒のクレヨン画の「種まく人」もあるようだ。
この絵も近代絵画として、農民の姿を「堂々と力強く種をまく」「厳しい作業のなかにも実りをまつ希望が見えるようだ」(p169)という側面を鑑賞することで終えることもできようが、種をまく人の背景に、「キリスト教の布教を象徴しているという解釈」もあるということである。つまり、「種をまく」という言葉が、マタイ13:1-9、マルコ4:1-9、ルカ8:4-8を想起させるというのだ。たとえば、ネット検索でも
 *『種まく人を見よ』
 *四つの土壌のたとえ
 *「種を蒔く人」 
など、いくつも理解を深める糧を見いだせた。もちろん、解釈は見る人の自由だが。

 巻末には、本書の「収録絵画リスト」が見開き2ページにまとめられて掲載されている。
 旧約と新約、両聖書の主要点をあらすじとして説明し、その場面にかかわる名画をとりあげて分析と解説を加えた本書は、宗教画を理解して鑑賞する手引きとして有益であると思う。長年、西洋美術を鑑賞してきながら、表面的にしか見ていない自分に改めて気づいた。
 聖書の旧約・新約の全体構成と内容のあらすじを一通りまずは認識できたことが私には収穫だった。信徒でない人間にとっても、聖書の掘り下げ方はいろいろあると思う。本書の説明もその一端にすぎないとは思うが、聖書と宗教画に一歩深く入っていくのには構えずに読める入門書として役立った。
 聖書と宗教画理解への足がかりとなったので、さらに歩みを深めてみたい。


ご一読、ありがとうございます。

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ネット検索で、聖書そのものの内容についてどの程度アクセスできるか検索してみた。
ほぼすべての内容をネット上で読むことができるようだ。具体的な解説もいろいろなサイトがある。それから、ベースになるいくつかの教会も。
基本になるものを一覧にしてご紹介しておきたい。

旧約聖書 :ウィキペディア
 この項目からそれぞれの個別の正典の項目にアクセスできる。
口語旧約聖書 目次 :Wikisource
旧約聖書メッセージ
old testament の画像検索結果

新約聖書(口語訳) 目次 :加藤正博氏の入力によるもの。
口語新訳聖書 目次 :Wikisource
付録. 新約聖書正典・外典・教父文書一覧
新約聖書外典一覧
聖書外典偽典
New testament の画像検索結果

口語訳聖書(新約および旧約 索引)
 旧約・新約の両目次から、それぞれの抜粋版にアクセスできる。要点を知りたい人向き。

ベツレヘム 生誕教会 :「ZeAmiブログ」
山上の垂訓教会 :「ふくちゃんのホームページ」
山上の垂訓教会(イスラエル) :YouTube
エッケ・ホモ教会 :「聖地信徒研修旅行記」
聖墳墓教会 :ウィキペディア
聖墳墓教会 その1その2 :「ハシムの世界史への旅」
聖墳墓教会 :YouTube
万国民の教会=苦悶の教会(ゲッセマネの園) :「ハシムの世界史への旅」
ゲッセマネの洞窟 :「ハシムの世界史への旅」
鶏鳴教会 :「ハシムの世界史への旅」
鶏鳴教会 :「イスラエル歴史探訪の旅」
鶏鳴教会中庭からの眺望 :YouTube

サン・ピエトロ大聖堂 :ウィキペディア
サン・ピエトロ大聖堂写真集 :「たかこの世界紀行」
行ってない人のためのサン・ピエトロ大聖堂~SAN PIETRO, Vatican~ :YouTube

五旬節 → 五旬節祭 :「Laudate ラウダーテ」

併せて、英語版も:
Old Testament :From Wikipedia
Bible Old Testament :”Daily Devotions A Few Moments With God”
Old Testament : "Catholic Online"
Old Testament Gateway HP 
:Roy and Sue Nicholson of Birkdale Queensland Australia

New Testament :From Wikipedia
Bible New Testament :”Daily Devotions A Few Moments With God”
New Testament :"Catholic Online"
The New Testament Gateway : Dr Mark Goodacre



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『幻にて候 古田織部』 黒部 享  講談社

2012-04-04 13:29:00 | レビュー
 古田織部についての小説をもう一冊みつけた。それがこれである。1990年8月発行だ。
 この作品が出ていることを当時は知らなかった。織部焼にはその当時から関心を持っていたが、それでとどまっていた。戦国武将に関する小説として、古田織部を手がける作家が数が少ないのだろうか。

 点的史実あるいは短い線的史実が資料として残されている。その点的あるいは線的史実を学者は論理的に分析し体系立てて推論することが限界である。しかし、伝記小説というジャンルになると、史実の隙間を作家の想像力を縦横に飛翔させ、論理的な構成力で面的に織りなしていくことがフィクションとしてできる。客観的な史実として残されている事項が、解釈の文脈でうまくおさまり自然に結合されていくならば、後は自由に筆を揮い、想像の翼を羽ばたかせることができる。
 読者はその織りなされた物語の世界にどれだけ引き込まれていけるか、それが読む愉しみなのだろう。

 若い頃、徳川家康についての山岡荘八と司馬遼太郎両氏の小説を読んだ。超長編、長編の違い、取りあげた人生の時期の違いはあっても、家康像のイメージが対照的なほど違う形で描かれていた。小説家の想像力がこれほど違うものかと一驚したことがある。その一方で、全くちがう家康像を愉しめた。
 先日読んだ土岐信吉著『古田織部』と本書を比較すると、両作家の視点の置き方と古田織部家内の人間関係の設定の違い、つまり両著者の構想にかなり違う点があるので、終始興味深く感じながら本書を読んだ。本書の方が土岐本よりも1年半ほど早く出版されている。ほぼ同じ時期に二人の作家が古田織部に着目していたというのも面白い。
 学者・研究者の書いた伝記を読んでいないので、あくまで歴史小説というフィクションの世界での対比という興味である。

 かなり設定の違う点がある。それによって作家の想像力の羽ばたき方の違いとしてストーリー展開されていき、読み比べるとおもしろいといえる。その違いのいくつかを列挙してみよう。最初に読んだ土岐の『古田織部』との対比としてまとめてみる。

 *土岐は永禄10年(1567)から話を始めた。織部の若い頃から話を進める。一方、黒部は利休の賜死事件(天正19年2月/1591年)の4年後である1595年頃、徳川家康に伏見の徳川家上屋敷での茶会に招かれた後の別れ際から話を始める。織部の五十代から書き始めている。
黒部は秀吉の晩年そして関ヶ原の時代における織部の処生を描いていくが、もっぱら織部と徳川家康そして秀忠との関係が表裏両面での軸になっていくように思う。その一方で、茶の湯に関する織田有楽とのめざす道の違い、茶法の相違から来る間接的な確執を絡ませていく。どちらかというと、千利休のなき後、茶湯宗匠として売り出している織部がめざしたい茶の湯専心のこころのありよう、およびそれを許さない周囲の政治的軋轢・相克との間における織部の判断と生き方という2つの点が著者のテーマにあるように思われる。

 *家族関係の設定がかなり相違する。土岐は織部の妻、おせんを織部と同じく陶器に関心を抱く艶麗な美女とした。そして織部とおせんが一緒に屋敷に窯を作り、陶器作りの世界を愉しむ姿で描く。側室の話には触れていなかったと思う。
一方、黒部は、大名中川清秀の妹、仙として、その出自に自負を抱き、武術の心得のあることを誇りとして、茶の湯専心の織部に武家の主としてさらに立身出世を期待する妻、茶の湯に関心を示さないお家大事の妻として設定している。正室の仙との間には、嫡男重広以下4人の男子1人の女子がいる。そして、木幡下屋敷にいる側室、紀乃を登場させている。紀乃は28歳という年齢よりも若く見え、濡羽色の髪、からだから匂い立つ芳香を発するなまめかしい女性である。織部が年をとってから、紀乃という側室腹の子として、未だ幼い末子九八郎を得る。つまり、正室、仙はことある毎に紀乃の存在をうとましく思い、敵愾心を織部にぶつけるという関係になる。

 *土岐は織部を武人としての能力も高く、剣術にも優れ胆力もある一方で、茶の湯を利休に学び深めて行く人物とし、利休からは己の茶の湯をめざせと言われる形で描きあげていく。
黒部は、外交の才に長け、口先働きで功を認められ大名に加えられた武士であり、茶の湯宗匠という立場とその影響力で徳川・豊臣、そして諸大名の間で一つの極の要として機能しており、その点で周囲から一目置かれている役割として描いている。

 *土岐は、織部の志向のなかに美濃焼や陶器職人の活躍の場づくりに熱心な大名、自らの陶器、茶器を創造するために自ら作陶しまた、美濃への登り窯の導入や織部の切型での指示も積極的にするという関わり方の中で描き出す。黒部は自らの作陶よりも茶器のデザインを工夫し切型と説明書を作り上げて、朝鮮の現地の窯で焼くことを依頼したり、美濃で焼かせる指示をだす織部を主軸に描く。
 黒部は、美濃への登窯の導入を、美濃国久尻の元屋敷窯の窯大将加藤景延が独自の行動として行ったものとして描く。美濃に立ち寄った肥前唐津の浪人森田善右衛門から登窯の伝授を受けた後、自ら唐津に技術習得に行き、その成果を持ち帰り美濃に十四連房登窯を築く形で描いている。
 
 *土岐は織部の行動と思念を中心に話を進める。
一方、黒部は古田家の家宰として18歳年若な木村宗喜という人物を配している。この家宰は、才槌頭で左目が健全であるが9歳のとき事故で失明し白く濁った右目を持った男である。京都東山の窯元の娘、紀乃を見出し、織部の側室として据える画策をさりげなく行える人物、常に紀乃を助け、正室の仙からは毛嫌いされ、うとまれても、紀乃を守ることに生きがいを感じている人物として描く。この家宰、宗喜が本書では重要な役割を果たし続けることになる。最後に織部を窮地に立たせるのも宗喜になる。だが、織部は逍遙としてそれを受け入れる。

 *土岐は織部の若い時代から描くという展開として信長の使い番から大名に成長していくプロセスにもかなり力点を置いて描いた。そのプロセスで、武士であることと、利休に言われた織部には織部の茶の湯がある、その道を歩めという諭しの上で、自らの茶の湯を極めていきたい願望との相克を描く。利休が茶の湯に求めたものめざす精神を、織部の発想、表現方法の中で進展させていくものとして私は受け止め、読み進めた。
 黒部は、織部が大名になった後で、千利休の賜死以後、利休の後の第一の茶匠という段階から描く。利休から開放され、利休の茶の湯を離れ、独自の茶の湯の道の確立を望み、そこに自らの生きがいと自負、矜持を抱き始めている織部の姿を追求する。
 秀吉から織部は、町人茶匠利休の草庵茶を改革し、武門の茶、貴人の茶を創設せよと命じられるのだ。それはまた、織部が利休の概念の桎梏から逃れ自らの茶を工夫するという欲望にも通じるものだ。黒部は、利休の「露地草庵茶」から「式正茶法の道」と表現している。また、織部の心底の思いを「・・・・あのころだ。師の茶法に背こうとする不適な虫が一匹、わしの中でうごめきはじめたのは」と記していく。
 そして、さらに家康の思惑に縛られず、家康との武家としての主従関係に縛られずに自らの茶の湯を武器に関係性を確立したいという望みを絡ませていくことにつながる。
 また、本書では、織部の茶の湯、茶人織部に対する当時の批判を書き込んでいる点が各所にあり、利休無き後の当時の状況が想像できて面白い。

 *土岐は織部の陶器への工夫にかなり比重を置いた描写をしている。
 黒部は茶室のつくりや座敷飾りなど茶の湯空間及び茶懐石への工夫に比重を置いた描写を行っている。

 *本書の著者、黒部は、織部と家康及び秀忠との間における、茶の湯と武士のあり方に絡む心理的葛藤を一つのテーマに据えているように思う。それの別バージョンが、織田有楽との心理的、政治的葛藤になる。また、その二つが豊臣・徳川の政権争いの中で微妙に関係し交錯していくのだ。

 こんな相違点が、両著者の織部像のイメージ作りに広がりと奥行きを与えている。
 古田織部という人物に迫っていくうえで、違う視点の歴史小説作品の解釈やイメージを重ねて行くことは、史実に基づく織部の実像理解に有益であると思う。

 この作品は、秀吉による朝鮮の役からその後の豊臣家の滅亡への過程、そして大阪夏の陣の最中における織部の切腹までを描く。そのプロセスでの織部の武士としての処生と茶人としての生き方の具象化である。
 私には、長谷川等伯や阿国の中に新しい時代の到来を織部が感じ取り、その斬新な美を茶の湯の世界に導入し確立していこうとする側面を描き込んでいく展開が興味深いものだった。

 本書で印象深い章句をいくつか抜き書きしておきたい。

*太閤殿下と利休居士とのことは、これは要するに、ご性分の相違ではありますまいか。人にはそれぞれ特質と合性がありましょう。合性も時とともに変化するもの。人は二十年ごとに志のかわるもの、とノ貫(へちかん)どのも申されておりますゆえ。 p17

*利休居士はつねづね、数寄とは人とちがってするが肝要なり、と申されたではないか。茶の道は時の移るにつれてあらたまるもの。また、美は平易をきらうものじゃ。いつまでも人まねから脱却できぬのは愚の骨頂というものよ。世の中は刻々と変化しておる。利休師とてごじぶんの茶を創設なされたときは、時代の流行に逆行する改革をなしとげられたではないか。  p32

*使いにくい土を使いながら土の個性に逆らわず、うまく生かしている。才能でねじ伏せたというところがない。土の要求するがままに作っていたらこうなった、といいたげな出来はえだった。   p35

*土にかぎらず、万物にはそのものだけの性が自然にそなわっていて、放っておけばごく自然の衝動として、いちばん好きな形をとろうとするだろう。  p59

*破形、異形の中にこそ、ぬるさの侵入を拒み、強さに転ずるものがあるようにてまえにはおもわれてないませぬ。強さ激しさの欠けたるものには美はやどらないのではあいますまいか。美もまた闘いのうちにあるもの。  p75

*数寄とは、ひたすら心を寄せること、ただそれのみと心得ております。自然に随順して無一物の境涯に遊ぶ心を深めれば、おのずと高く悟るものがあるはず。高く悟って俗に帰る-この綜合統一こそ数寄と申すものではありますまいか。
 完全と不完全をわけてかんがえるのは、いかがなものでしょうか。双方を超越したところの無造作の美、つまり、小に拘泥する精神を拒否した境に、まことの雅味があるもの。美も雅味も、ねらって出るものとはおもえませぬ。ねらえばたちまち不自由でわざとらしいものになりましょう。 (利休の会話発言としての記述) p75-76


 最後に、本書と土岐本が共に、織部の自刃(切腹)の原因が家康暗殺計画にあったとしている点は共通である。だが、その計画内容の推測は両者によって大きく異なる。この点も大変おもしろい解釈だと思う。どう違うかは両書を読み比べていただくとよい。
 こういう想像、推測が自由にできることが作家の醍醐味なのかもしれない。
 最終的に、織部が逍遙として最後の茶を点てた後、生涯を閉じる。
 だが、どこでどのように、という点の解釈も両者によって大きな違いがあっておもしろい。
 黒部は木幡にある織部の下屋敷を最後の幽閉場所とした。土岐は「摂津木幡の処刑場・・・・」とした。さて、自刃の場所はどこだったのだろうか。文書の記録が残っていないものなのか。やはり、この点興味がある。なにせ、京都・宇治という地域、私自身が生まれ育ち、住まいする郷土であり、そこでの終焉地が具体的にどこかの話でもあるのだから・・・・・


ご一読、ありがとうございます。

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本書に出てくる語句の多くは、土岐信吉著『古田織部』の読後印象記のネット検索項目と重なるので、そちらを併読いただくと参考になるでしょう。重複しない関連項目などをここではリストにする。


勢高肩衝 :「茶の湯の楽しみ」の「名物茶入」サイト
 名物茶入の「せ」の一項目として写真と説明が載っている
竹茶杓 銘 泪 :徳川美術館
竹茶杓 銘 ゆがみ :BIG BIRD 企画展案内

登り窯 :ウィキペディア
連房式登窯 :ウィキペディア
日本の窯の歴史 :輪廻転生 「愛知県の博物館」
美濃焼の歴史 :岐阜県陶磁資料館資料
引き出し黒について教えてください。:土岐市HP
引出黒の画像検索結果
黒織部沓形茶碗 :文化遺産オンライン

近衛信尹 :ウィキペディア
近衛信尋 :ウィキペディア
猪熊事件(いのくまじけん):ウィキペディア
落首   :ウィキペディア
狂歌・落首編 その1(元亀年間以前) :「歌に見る戦国期」
狂歌・落首編 その2(天正年間以降) :「歌に見る戦国期」
山崎闇齊学派と水戸学 :宗教社会学 橋爪大三郎氏
 「湯武放伐論のおさらい」という項目が記載されています。
御宿 政友 :ウィキペディア
甲斐庄三平 ←『佐久間軍記』を読む40 :「やすのブログ」
鳥居 成次 :ウィキペディア
内藤正重 :ウィキペディア

荼枳尼天(だきにてん) :ウィキペディア
稲荷神とダキニ天 :「やまいぬ」
 このページの下のところで、「荼枳尼天法」に言及しています。
如意輪法 → 最後に我がご本尊、如意輪観世音菩薩をば:「天禄永昌」
 真言宗「七星如意輪法」、天台宗「如意輪加星供」という秘法に言及しています。

戦国時代の終焉 第五章 :「戦国時代の実像」
十訓抄 :「古典文学ガイド」

彩雲 :ウィキペディア
彩雲の画像検索結果


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