遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『ぞうきん1枚で人生が輝くそうじ力』  船越耕太  大和書房

2017-03-28 13:27:12 | レビュー
 タイトルに惹かれて読んだ。本書は著者の実践体験の経緯とそこから人生が変わり、人生が輝くようになった経緯、その経緯とそこから学んだことを語った本である。現在は「年間100本以上の講座・セミナーをこなしている」という。講演スタイルの語りかける文体なので読みやすい。著者の体験談とそこからの学びというか、人生哲学がわかりやすくまとめられている。多分著者が講演やセミナーで語りかけたことのエッセンスがこの1冊に編集統合されたのではないかと推察する。

 そうじ実践のすすめ書である。その実践結果でなぜ人生が輝くのか、その背景理由を体験に整理して語っている。つまり、実践しなければ、本書が語る真髄は体感として、ストンと判然と納得できることはないかもしれない。しかし、読み進めることで、著者の語る意味合いは観念的には理解できる。なるほど・・・と思う。

 私が本書を読んで、アナロジーとして連想したのは、京都の山科に「一燈園」を創設した西田天香師である。第一次世界大戦後、国際連盟が発足した時期、「下坐の祈りとして六万行願(形は便所の掃除)を、一軒一軒に行じて全国に及ぼしていく、という行を発願した」(『西田天香語録』一燈園出版部)人であり、ご夫婦でその実践を始めた。もう一つの連想は、水墨画として数多く描かれる「寒山拾得図」の二人、箒を手にする拾得の図である。「そうじ」という行為から勝手な連想が及んだ。本書とは直接の関係はないけれど・・・・。

 著者は、父の言を受け止めて、自ら考え、全く独自に実践を始めたそうである。
 著者は何をしたのか? 中学1年の時から、ぞうきんと素手でトイレの便器そうじを現在に至るまで続けてきたという。毎日の掃除の実践が現在に至まで続けるプロセスで自分の生き方の環境が変化してきたのだと言う。そして現在は、本書の奥書によると、「空間セラピスト&掃除カウンセラー」と記されている。

 著者の実践体験から、素手で便器の掃除を続けることで、自分自身の中に形成されてきていた「メンタル・ブロック」が取っ払われるのだと言う。顕在意識(3~5%)と潜在意識(95~97%)の間にあるネガティヴな「思い込み」-うまくいくはずがない、やれるわけがない-という心のブロックを外すことができるのだと、自己の体験を語る。己のメンタル・ブロックを外すのに、人が嫌がるトイレそうじが手っ取り早い手段となるという。つまり、素手でのトイレの便器そうじは、「そうじ力」の代表、典型的シンボルとして扱われている。著者は便器から初めて、汚れのヒドイ箇所、様々な汚れの溜まる輩出口などを元のようにキレイにすることに言及していく。
 そして、いくつかの飲食チェーン店での掃除コンサルタント経験などを事例として取り上げて、説明していく。

 著者の発見したことは結果的にはシンプルな論理展開である。
 「そうじをする」⇒自分の意識内にあるメンタル・ブロックが外れる⇒「心の変化が起こる」⇒結果的に「自分を磨く」というプロセスが生じるのだという。
 つまり、
 「そうじの最終目的は、部屋を磨くことではなく、自分を磨くこと。
  そうなれば、そうじはイヤイヤやるものではなく、強制されるものでもなく、
  自ら楽しんで、やりたくて仕方がなくなるものになるはずです」(p13)と語る。
 著者は、「自分も、物も、喜ぶ空間」をつくるそうじをしようと語りかける。著者の体験として、人の吐き出された感情が物や空間に宿っているのを感じるのだと。気持ちがこもって掃除がされた空間と、イヤイヤそうじをしているような空間は、歴然と違う感情の宿りを感じるという。「そうじ力」をそれだけ感じるということなのだろう。

 本書は著者の実践体験を盛り込んだ「人生が輝くそうじメソッド」を語った本である。なるほど・・・・と感じるポイントが数多く含まれている。

 章の構成と印象を付記しておきたい。
第1章 そうじで人生が輝く理由
 思い込み(固定観念)のブロックが外れることで、己の心に変化が起こることを体験的に語っている。見えない箇所、汚れたところに意識をむけることで、「気づき」が生まれる。自己肯定感が実践行動から生まれるという。感情と汚れがリンクしているというのが興味深い。「内面を輝かせたいと思うなら、見えない部分をそうじすること」だと説く。「汚れ」は自分の弱い部分にリンクしていると言う。
 手始めに、「1日3秒のそうじを21日間続けてみて」(p53)と語りかけている。
 その効果について、勿論著者は体験的に語りを続けて行く。

第2章 空間や物に残る感情が幸不幸を生み出す
 「物や空間=自分自身」という前提(仮説)にたち、持論を展開する。自己の体験事例や先人の事例を引用して、語りを広げている。
 己の感情が物に飛び、「物や空間がいひばん大きなダメージを受けるのは、無視されること」(p85)という。そして、「常に部屋をキレイにしておける人は、どんな人かというと、自分の好きな物がわかっていて、好きじゃないものは不要だと認識できている人」(p84)なんだと。著者は単なる片付けや物を捨てるというブームには批判的ですらある。第3章で、「物を持たない=美学」は勝手な思い込みとすら語りかけている。
 「ホコリは神様」という見出しで、ホコリの意味を語っているのもおもしろい。

第3章 「自分自身を満たすそうじ術」と「自分以外の人を思いやるそうじ術」
 詳細は本書をお読みいただくとして、著者の説くポイントのいくつかをご紹介する。
まずは、自分自身のためのそうじ術から:
*毎日自分が関わっている場所、好きな場所をキレイニにする。
*見えないところに意識を向けて、1カ所念入りにそうじをする。
  ⇒その応用を続けると、「いろいろな角度から物事を見る力を育む」(p110)
*完璧なそうじじゃなくて、大切な人が入ってこられるゆとりのあるそうじをする。
*入口よりも出口に気をつけたそうじをする。
*見えない場所をキレイにすることで、「鏡の法則」が働きだす結果になる。
*自分が楽しみながらそうじをする。本来の自分に戻る。
そして、「自分以外の人を思いやるそうじ術」に言及する。
*そうじをするとき、感謝とよろこびの念を飛ばしながら行うという。
  ⇒「祈り」と同じ効果が生まれるのだとか。その背景に著者の体験が語られる。
*汚されても、その後のそうじは「自分をリセットするため」にやっていると考える。
*汚い場所に愛おしさを感じるようになれば、メンタル・ブロックが外れている。
 ひとつ文を引用しておこう。
「そうじが楽しければすればいいし、楽しくなければしなくてもいい。ただ、そうじと感情は必ずリンクしているから、そうじを楽しみながら行えたら、心のブロックも外れて一石二鳥だ」(p125)

第4章 人生が輝くそうじメソッド
 第1章から第3章で著者が語ってきたことを、「人生が輝くそうじメソッド」と題して、167ページに要約して図式化している。これはおさらいのまとめでもあり、本書のエッセンスがここに詰まっているとも言える。このページだけでも、手に取って開いてみて、お読みになることをお薦めする。
 
 このあとのこの章は、様々な場所の具体的なそうじのやりかたの実技、ノウハウを説明している。そうじのやりかたという点で役立つ章といえる。トイレの便器・換気扇・温水便座、お風呂の換気扇・天井・鏡・バスタブ・洗い場・蛇口・シャワーヘッドのフック・ドアノブ・排水溝、台所の換気扇・食器棚や冷蔵庫の上・コンロ・シンク・蛇口、リビングの照明器具のシェード・部屋の隅・真ん中、玄関のドアノブ・タイル、ゴミ箱など懇切丁寧な説明が続いている
 勿論、著者がそうじに使う基本として、6つのアイテムを168ページに列挙していることをつけ加えておこう。

 「おわりに」で、著者は中学1年のときから現在に至る「そうじ」についての信念を、次のように述べている。
 
 「そうじは、雑用ではありません。
  そうじは無駄なことという先入観は、思い切って捨ててください。
  そうじをおろそかにすれば、自分をおろそかにすることになり、丁寧にやれば、
  丁寧な生き方をするようになる。まさに『鏡の法則』です。」

 著者は、「今日」といういまこのときを大切に生きるために、「今」と向き合うことの大切さを語る。今と向き合うひとつの手段が「そうじ」であり、「そうじ力」を身につけることが、己と向き合い、己を磨くことに繋がるのだと、体験を語っている。
 喜びを感じられる空間づくりの「そうじ力」:著者はその先導者といえるだろう。

 風呂場でシャワーを浴びたとき、蛇口の表面を歯ブラシで磨いてみた。少しの時間でピカピカに輝きを戻してくれた。やはり、光っている蛇口、気持ちが良い!

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本書に関連する事項で、関心の波紋からネット検索したものを一覧にしておきたい。

化膿性髄膜炎  :「コトバンク」
化膿性髄膜炎  :「病院検索ホスピタ」
細菌性髄膜炎  :「国立感染症研究所」
水頭症  :「東海大学医学部脳神経外科」

カントリーイン百姓屋敷わら ホームページ
WaRa 倶楽無 
船越耕太 オフィシャルサイト
見えないところを輝かせると人生が輝きだす

西田天香  :ウィキペディア
西田天香  :「コトバンク」
一燈園とは :「一燈園」
寒山拾得図  :「e國宝」
寒山拾得図  :「藤田美術館」
絹本著色寒山拾得図(伝顔輝筆) :「文化遺産オンライン」
寒山拾得  森鴎外  :「青空文庫」
寒山・拾得 :「コトバンク」
久須本文雄  座右版 寒山拾得 :「松岡正剛の千夜千冊」


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『夢幻花』  東野圭吾  PHP文芸文庫

2017-03-25 15:30:14 | レビュー
 文庫本の表紙には、赤色・水色・紫色の朝顔がデザインされている。ここに描かれていないのが黄色の朝顔。この小説、黄色い朝顔にまつわる謎解きストーリーである。江戸時代、朝顔は園芸植物として流行したという。何かの本で、江戸の浪人が内職の一つとして朝顔栽培をしていたと読んだ記憶がある。手許の辞書を引くと、「朝顔市」という見出しで、「朝顔などを売る市。毎年七月上旬に、東京都台東区入谷の鬼子母神境内周辺で行われているものが有名。」(『日本語大辞典』講談社)と説明されている。江戸時代、黄色の朝顔が実際にあったということが記録に残っているという。それがあるときから、ぱたりと消滅したのである。黄色いアサガオの謎がなぞを重ねていく。
 余談だが、最近「幻の花」と呼ばれていた「黄色い朝顔」が遺伝子組み換え技術で再現され、花をさかせたという報道をインターネットの検索で知った。

 さて、このミステリーは、面白いことに2つのプロローグから始まる。
 「プロローグ1」では、1歳の娘のいる真一・和子夫妻に起こる悲劇が記される。七時過ぎに社宅を出て、家族揃って商店の並ぶ駅前通りを歩いている時、突然そばの路地から現れた男が、手にしていた日本刀で夫妻を殺害したのだ。年月の記載はない。そのシーンが描写される。
 「プロローグ2」は、冒頭に記した台東区入谷での朝顔市の場面から始まる。毎年七夕の頃、蒲生家は家族揃って朝顔市を見物し、鰻を食べに行くのが恒例行事になっている。このストーリーの主な主人公の登場である。一人は蒲生蒼太。プロローグのシーン時点では14歳。蒼太には、13歳も年上で公務員という仕事に就いている兄・要介がいる。蒼太が父・真嗣に好例となっている朝顔市巡りの理由を尋ねても、特に理由はないと言うだけで多くを語らない。兄の要介はこの好例行事について、何ひとつ不平を言わないのだ。蒼太はそれを不思議に思う。ここに、蒲生家の謎の伏線が敷かれる。
 この朝顔市で蒼太は浴衣姿の若い娘を見て、一目惚れする。たまたまその時、通りすがりの人が財布を落としたことに気づき、後を追いその人に手渡すという行為がきっかけで二人は話し合うことになる。その娘の名前は、伊庭孝美で、蒼太と同じ中学2年。孝美の家は代々医者だという。二人はその後密かに交際を始める。だが、その交際はあるとき唐突に終わりとなる。理由は不明。ここにまた、別の伏線が敷かれていく。
 プロローグはこの全く無関係と思われる2つの場面から、福島原発事故後数年が経過した現在時点に切り替わる。

 蒲生蒼太は、関西に所在する大学の物理エネルギー工学科二科、かつての原子力工学科に在籍し、卒業を目前にして将来の進路選択を迫られる学生の立場にある。

 現在時点のストーリーは、秋山梨乃の登場で始まる。秋山梨乃はオリンピック選手候補として嘱望された水泳選手だったが、それを断念した。文学部国際文化学科の学生として何となく目標を見失った形で大学に在籍している。そんな状態の中で、梨乃の父方の従兄にあたる鳥井尚人が、自宅マンションから飛び降りて死亡したのである。事件性が認められないことから、警察は自殺と判断する。尚人はアマチュアバンドの活動をしていて、大学を中退し、音楽の道を選んでいた。
 尚人の葬儀の席で、祖父の秋山周治と話をして、約束した梨乃は西荻窪にある祖父の家を訪ねる。祖父は庭で沢山の花を育てていた。花の写真を撮り、パソコンに画像ファイルを残し、大学ノートに生育記録をメモしていた。周治は花の写真に生育記録メモを添えた本の出版を夢見ている。梨乃はインターネットでの日記公開を勧め、それを手伝う約束をする。2ヶ月ほど後に、梨乃が周治の家を訪れると、今朝咲いた黄色い花について調べているという。小さな鉢植えのその花はしおれてしまったらしい。その花の写真はファイルに保管されていた。周治は詳しいことは今言えないが、その花をブログに載せるわけにはいかないと梨乃に語ったのだ、
 それから3週間後、梨乃が周治の家を訪れる。そして、梨乃は祖父が殺害されていることを発見する。事件の解明がここから始まって行く。

 ストーリーの構想が面白くなっていく。異なる次元の3つの軸が交錯しながら、ストーリーが展開していくことによる。
 1つは、殺人事件なので、警察が捜査を開始する。早瀬亮介刑事が関わって行く。早瀬は秋山周治に面識があった。今は離婚しているが、息子の裕太が万引き容疑を受けた時、周治の目撃証言で救われたという恩義がある。事件が報道されると、息子の裕太から恩人が殺された事件を父に解決してほしいと切望される。勿論、早瀬はその気で取り組む。早瀬刑事の捜査活動で、情報が集積されていく。一方で、梨乃が祖父が殺害されているのを発見した時に、後で記憶から呼び起こした重要な情報を警察に通報したが、やる気のなさそうな警官が重要情報とは認識しないという問題も起こっていく。早瀬刑事の地道な捜査の積み上げと推理が事件解明へのサブ的な読ませどころとなる。

 2つめは、蒲生要介が登場して来るのである。梨乃が祖父のブログに祖父の他界を知らせる記事を載せ、「名称不明の黄色い花」というタイトルで、祖父が最後に咲かせた花として画像を開示した。このことに対して、要介が敏速に反応した結果である。要介は実名で梨乃にメールを送り、花の写真の削除とブログ閉鎖を助言する。要介は「ボタニカ・エンタープライズ 代表 蒲生要介」という肩書の名刺を梨乃に示し、表参道にあるオープンカフェで会って話をする。
 プロローグ2で、蒼太が兄は公務員と言っていたのに、なぜ? 読者には不可解な印象を抱かせる登場である。要介の正体は? 彼は何を知っていて、何をしようとしているのか? 
 要介は、梨乃に祖父からMM事件について何か聴いたことがないかと質問する。
 そして、事件は警察に、花のことは自分に任せて、素人は手を出さない方が良いと、要介は梨乃に助言する。読者の関心を惹きつけていく要介の登場である。

 3つめは、勿論、蒲生蒼太である。父の三回忌のために帰省してきて、翌日、檀家寺で法要を済ませ、実家に戻ったところ、門前に立つ女性を見て、声を掛ける。その女性が梨乃だった。梨乃は要介に会い話をするために来たのである。梨乃は蒼太に要介の名刺を見せることで、二人の関わりが始まる。蒼太は兄・要介が警察庁の役人だと告げる。
 ならば、なぜ? こんな名刺が・・・・。梨乃は祖父の死と謎の黄色い花について蒼太に語る。蒼太が黄色い花の謎の解明に関わって行く。それは、不可解な兄・要介のことを知るための行動に繋がり、かつ秋山周治が殺害された事件の真相究明に関わって行くことになる。

 三者三様の立場から、黄色い花のなぞが追究されていき、周治殺害との関わりが明らかにされていく。読者は3つのアプローチが織りなす推理・究明と進展プロセスを総合的に知り乍ら読み進める立場に立つ。それでいて、展開の一二歩先を見通せないというもどかしさを、読者として感じることだろう。先を読み進める動機づけになる。
 蒼太と梨乃の協力。蒼太は早瀬刑事と接点を持つことにもなる。一方、それは要介の予測外の動きでもあった。蒼太の推理の進展が二人を思わぬ方向に導いていく。蒼太の推理の展開と行動力が謎の黄色い花に起因する波紋を重層的に拡げていくことになる。

 秋山周治が生前に携わっていた仕事の内容が明らかになっていく。
 梨乃の従兄の自殺の真相が明らかになる。音楽を介した人間関係が明らかになる。
 蒲生家という系譜に秘められていた謎が明らかになる。
 中学時代の蒼太にとり突然断絶した伊庭孝美との交際の真相までもが明らかになる。
 伊庭孝美も、黄色い花に関わることを運命づけられていたのだった。
 そして、プロローグ1。最終段階で深い関わり合いがあったことが明らかになる。
黄色い花の謎が、意外な展開として膨らんでいく。すべてが黄色い花に関わっていた。蒼太も例外では無かったのである。なんという展開! というところ。

 最後に、この小説のキーワードは勿論タイトルの「夢幻花」である。そのコインの裏面は「負の遺産」がキーワードとなっている。
 著者は、蒼太の在籍する大学の学科を物理エネルギー工学科二科、かつての原子力工学科と設定した。さらに、福島原発事故後の現代という同時代を背景におき、古くは江戸時代にまで遡り、限定的には親子三代という明治以来のロングスパンの事の推移を背景にして、このストーリーが構想されている。そのキーワ-ドが「負の遺産」である。
 蒼太が「負の遺産」である原発と付き合っていく生き方を選択することで「エピローグ」を締めくくる。ここにも、著者の巧みなストーリーの構想が組み込まれている。
 このフィクションに一貫性を持たせて、著者はエピローグをきっちりと書き込んでいる。それと同時に、この小説におけるフィクションとしての「負の遺産」というキーワードは、現実世界において原発の生み出したリアルな「負の遺産」に読者の目を転じさせる。虚から実に、このストーリーを離れた現実に目を向けさせることに転換していく余韻を残す。
 リアルな「負の遺産」は現実に継続していることに気づかせる。著者の社会批判の視点が織り込まれていると感じた。誰が負の遺産の面倒を見ていくのかト・・・・・。
 
 なかなか、興味深い展開となる。巧妙に仕掛けが組み込まれたストーリーである。
 この作品、第26回柴田錬三郎賞受賞作である。やはり、受賞するだけの面白さを発揮している。

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この作品の関心からの波紋で、インターネット検索で得た事項を一覧にしておきたい。

「黄色い朝顔」時超え咲いた 遺伝子組み換え技術で再現 :「YOMIURI ONLINE」
「幻の花」黄色い朝顔を咲かせたぞ  :「Science Portal」
幻の花と呼ばれた「黄色い朝顔」を復活させることに成功 :「IRORIO」

入谷朝顔まつり ホームページ
入谷の朝顔市  :「コトバンク」
夏の風物詩「入谷の朝顔市」  YouTube
朝顔の歴史 江戸っ子も熱狂させたその魅力をたどる :「はな物語」
不思議な形の変化朝顔図鑑  :「NAVERまとめ」
アサガオ ホームページ(九州大学)
   アサガオの園芸史  :「九州大学」
   江戸期の文献(図譜)にみるアサガオの突然変異体  :「九州大学」
マリリン・モンロー暗殺疑惑 :「ラウンンジ・ピュア」
http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/kaiki2/151marilynmonroe.htm

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ふと手に取った作品から私の読書領域の対象に加わってきました。
次の本をまずは読み継いできました。お読みいただけるとうれしいです。

『祈りの幕が下りる時』  講談社文庫
『赤い指』 講談社文庫
『嘘をもうひとつだけ』 講談社文庫
『私が彼を殺した』  講談社文庫
『悪意』  講談社文庫
『どちらかが彼女を殺した』  講談社文庫
『眠りの森』  講談社文庫
『卒業』 講談社文庫
『新参者』  講談社
『麒麟の翼』 講談社
『プラチナデータ』  幻冬舎
『マスカレード・ホテル』 集英社



『解』 堂場瞬一  集英社文庫

2017-03-14 22:49:32 | レビュー
 学生時代に親友二人が、互いに将来の夢を語り合った。鷹西仁(じん)は作家、代議士の息子である大江波流(はる)は政治家である。ストーリーは、大学生活も残り、わずかとなった1989年2月に、大江が運転するオープンカーで、鷹西との二人が湘南をドライブするシーンから始まる。大江は大蔵省入省、学生時代から小説を書きまくってきた鷹西は、社会勉強と文章の練習を意図して新聞記者にというそれぞれの道を歩み出す。互いの道を突きすすむことで、日本を正しい方向に引っ張っていこうという志を抱いて・・・・。時代が昭和から平成に転換する時期に、二人は社会人としてスタートする。
 
 そして、2011年という現代にストーリーは一旦シフトし、そこから再び1994年に遡る形で鷹西仁と大江波流のそれぞれの人生経路のストーリーが重ねられていく。その中に、ITが社会に浸透していく経緯がリアルに描き込まれていく。そして、二軸のストーリーが再び2011年で交わり、東北の大震災勃発直後の時点で終わる。

 2011年、大学時代の仲間が集まる同窓会の席で、鷹西は新聞記者を辞めて作家業に専心することを告げる。そして、既に時効になった殺人事件の取材から始めるつもりであることを語る。鷹西が伊東通信局の記者として、東京への異動転勤の直前に扱っていた事件である。1994年に伊豆で、堀口という引退した政治家が殺された事件なのだ。その事件発生後、取材活動の途中で、後任者に引き継ぎ、東京に異動となったのだ。
 2011年、一方の大江は政友党で藤崎総理を支える立場になっていた。10年前は「藤崎チルドレン」と呼ばれていたのだが、今や「大江チルドレン」と呼ばれる連中から、党内のお荷物になっている高倉代議士に退場をせまるよう抗議を受ける存在になっていた。
 つまり、2011年時点で、鷹西は作家としての足固めができ独立の目処が立ち、大江は政友党の主要政治家になっていた。

 そして、ストーリーは、大江が一旦大蔵省に入省したあとどういう経緯を経て政治家への道を築き上げて行くかが、一つのストーリー軸として展開していく。そこにIT業界での成功が絡んでいく。政治家になる経緯として、1994年に堀口という元政治家を殺すという事件を引き起こしていくのである。
 大江のストーリー・サイドでは、日本の政治家の日常的な選挙区地盤の関係や駆け引き、政治家活動の背景という側面が、かなりリアルに描き出されていて興味深い。また、大江の先見性として、IT業界、インターネットの創生期の様子が描き込まれていくのも、同時代状況がよく伝わってきて、興味深く読める。一方、政治家を目指す大江がやや確信犯的に堀口を殺害するという経緯は一瞬、このあとどういう展開になるのかと、唖然とさせる。大江はその殺人行為を政治家になり目的を達成する手段として合理化し位置づけていく。その偶発的で独善的なな行為をからめて、金と政治という側面を描く。著者はまた政治の世界での時代の変化観を書き込んでいく。
 殺人という手段を利用し政治家を目指す大江の内心が描き出されてくことになる。殺人行為と大義が両立するのか? それが課題の一つかもしれない。
 時代を遡れば、大義のために数多く殺した人が英雄となったことを歴史が示す側面もあるが・・・・。

 一方、鷹西の方は、東京に異動する直前、この堀口の殺人事件に取材する立場でどのように関わったかの展開からストーリーがスタートする。鷹西は、東京本社社会部の遊軍記者として、1996年の阪神・淡路大震災の現地取材を経験して行く。また、伊豆の殺人事件の関わりで、当時静岡県警で捜査に携わり、その事件を最後に定年退職した元刑事との繋がりが継続されていく。そして、1999年に鷹西は新人賞を受賞する。作家として世間に認知されたのだ。
 阪神・淡路大震災の折の鷹西の取材体験が、このストーリーの最終段階における鷹西の決断の伏線になるのかもしれない。

 堀口が殺された事件から遠のいていた鷹西が、退職後に伊豆に移住した元刑事逢沢から託された当時の捜査資料を基に、事件の真相を究明し始める。その結果、政治家の大物となっている大江を疑う形に展開する。
 鷹西がどういう決断をするか。それがこの小説の落としどころとなっている。
 
 この小説のタイトル「解」は、相反する行為を重層化させた象徴語と言える。
 一つは、「解明」の解である。元政治家堀口が、誰に殺されたのか。鷹西が己の経験と元刑事逢沢から得た捜査資料情報を総合して、殺人事件のミステリーを解くという意味合いがある。
 大江の政治家としての行動を描く形で、戦後日本の政党運営の状況が解体変遷期にある実態を解き明かしているように受け止める。そういう意味合いでの「解」が重ねられているように思う。
 そして、鷹西のとった行動により、鷹西と大江の絆が瓦解するという意味が加わる。さらには、鷹西自身の「人の命は国より重い」という信念・気持ちが割れる、「解ける」という「解」が重なって行く。

 この小説、「第1章 2011 Part1」のp25にこんな会話が記されている。

「もう時効になった殺人事件なんだけど・・・堀口っていう、引退した政治家が殺された事件なんだ」
「そんな事件、あったけ」

 つまり、時効が成立した殺人事件という位置づけでストーリーの構想がされているように私は受け止めた。

 フィクションではなく現実の世界では、2010年4月27日に「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」が施行されたことにより、殺人罪について公訴時効が廃止された。つまり、殺人罪についての時効は無くなった。ただし、改正法は、「犯罪が改正法の施行前に犯されたものであっても,その施行の際公訴時効が完成していないのであれば,改正後の公訴時効に関する規定が適用されます。」という制約条件が付いている。(参照1)

 この小説自体は、奥書をみると、「小説すばる」の2011年4月号から2012年3月号に発表され、2012年8月に単行本となった。文庫本化されたのは2015年8月である。
 フィクションとしては「時効が成立した殺人事件」とされているようなので、法律的に考えると、一世代古い時代設定で緻密に構想された「長編社会派ミステリー」ということになる。構想の背景に、殺人罪に対する時効の規定により法律的には無罪放免になっているいう設定があると解釈できる。

 すると、私の法律知識の欠如のせいかもしれないが、釈然としない疑問が浮かぶ。一世代前において、殺人事件で時効が成立するための期間は何年だったのか?

 この小説で堀口が殺害されたのは、ストーリー上1994年と設定されている。
 上記会話は2011年時点という設定である。つまり、単純に考えると、事件から16年が経ち、2011年は17年目ということになる。
 
 上記の参照資料を読むと、改正法以前の規定は、公訴時効の期間は「人を死亡させた罪」のうち、次の法定刑の区分により規定されている。
1)「法定刑の上限が死刑である犯罪(例:殺人罪)         :25年
2)「法定刑の上限が無期の懲役・禁錮である犯罪(例:強姦致死罪) :15年
3)「法定刑の上限が20年の懲役・禁錮である犯罪(例:傷害致死罪):10年
4)「法定刑の上限が懲役・禁錮で,上の2・3以外の犯罪(例:自動車運転過失致死罪)
                                :5年又は3年

 このストーリーの設定で、元政治家の堀口が殺された手口は、2)あるいは3)の区分と解釈されうるのだろうか? それなら時効が成立していると言える。しかし、1)の区分とするなら、改正前においても、時効はまだ成立していないことになる。ならば改正法にシフトする。

 この小説の設定状況は、法律的にはどのように解釈されるのだろう?
ストーリーをお読みいただき、お考えいただきたい。
1の区分ということになるなら、このエンディングのもって行き方は奇妙になる。「社会派ミステリー」と呼ぶこと自体が「解」けてしまう恐れがあるように感じる。
 
 ご一読ありがとうございます。


参照1 公訴時効の改正について :「法務省だより あかれんが」

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補遺 
関心事項をいくつかネット検索してみた。一覧にしておきたい。

殺人罪(日本)  :ウィキペディア
殺人罪とは   :「刑事事件弁護士ナビ」
公訴時効  :ウィキペディア
殺人などの時効廃止が27日成立、即日施行  2010/4/27付 :「日本経済新聞」


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徒然に読んできた作品の読後印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『複合捜査』 集英社文庫
『検証捜査』 集英社文庫
『七つの証言 刑事・鳴沢了外伝』  中公文庫
『久遠 刑事・鳴沢了』 上・下 中公文庫
『疑装 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『被匿 刑事・鳴沢了』   中公文庫
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『ブツダの「愛」の瞑想』  ティク・ナット・ハン  角川学芸出版

2017-03-04 14:54:25 | レビュー
 インドで釈迦(ゴータマ・シッダルタ)が説いた教えが仏教として西域を経て中国に伝わり、経典が漢訳された。その漢訳経典が日本に将来されて仏教が興隆してきた。漢訳経典を手段として、その教えが解釈され、漢訳語彙で説明される。そのことが、ブツダの教えの意味を硬く、難しいものと捉えがちにする原因にもなっている気がする。
 本書の第1章の最初に「ブツダの教えでは、真の愛には4つの要素があります」と述べ、その4つがサンスクリット語では「マイトリー(慈)」(愛にあふれた優しさ)、「カルナー(悲)」(思いやり)、「ムディター(喜)」(喜び)、「ウペクシャー(捨)」(無執着、平静さ、自由)と説明する。第1章の見出しは「愛の4つの側面-四無量心」で、「四無量心」は漢訳経典の語彙である。例えば、手許の『新・佛教辞典 増補』(中村元監修・誠信書房)を見れば、「四無量心」は、「慈無量心、悲無量心、喜無量心、捨無量心」という用語で、それぞれの意味をわかりやすく簡潔に説明されている。国語辞典を引いても同様で、「○無量心」という記述が基本語となる。述べていることは、同じなのだが、漢訳の基本語ではどうしても難しそうな感じが伴ってしまいがちだ。本書の説明はまず読みやすくてわかりやすいと言える。

 翻訳書には副題がついている。「人間関係がうまくいく<気づき>の実践法」である。本書の原題は、「True Love A Practice for Awakening the Heart」であり、原題には、「瞑想」という難しそうな言葉すら出ていない。翻訳のタイトル、サブタイトルは、本書の内容から意訳されたものと言える。

 本書の訳し方の巧みさも大きな要因と思うのだが、読み手に語りかけるスタイルでの読みやすさが大きな要因になっていると思う。著者との対話の感覚が生まれ、ス~ッとコトバが心に入ってくる感じがする。

 「愛するとは、何よりも『存在すること』、ブツダはそう教えています」(p25)と語りかけ、「存在すること」が実は瞑想の真髄なのだと言う。「瞑想とは、あなたが真に『今ここ』に存在できるようにしてくれるもの」(p26)であり、「愛する人にあげられる最も尊い贈りものは、あなたが真に『今ここ』に存在していることです」(p27)という。
 「今ここ」に真に存在できるためには、シンプルなエクササイズを実行すること。それが「気づきの呼吸(マインドフルな呼吸)」という瞑想法なのだと説く。

 「気づきの呼吸」とは、

  「息を吸いながら - 息を吸っていることに気づく」
  「息を吐きながら - 息を吐いていることに気づく」

そう心の中で唱え、しっかりと今ここに存在している、心と体がひとつになっていることを感じとることが、「本当に存在する」ということ、つまり「心身一如(しんじんいちにょ)の状態にいることなのだと説く。

 著者は、この「気づきの呼吸」をブッダが「アーナーパーナサティ・スッタ」(安般守意経・安那般那念経)という瞑想に欠かせないテキストとして説いたと言う。
 著者の述べていることは、実に平易に理解できる。「気づきの呼吸」により、集中した状態で、自分の心身が完全に結びつきひとつになった状態で口にする言葉が、マントラ(真言)なのだとする。日本人にとっては、その心と体が完全に一つの状態で「わたしは本当に、あなあたのためにここにいます」と語る言葉がマントラなのだという。その上で「だから、何でも言ってね」「いつでもわたしがついているよ」と言葉を添えればいいのだと。
 「心と体をひとつに合わせて伝えてください。それができれば、はっきりと状況が変化することがわかります」(p32)という。

 本書は、「気づきの呼吸」をベースにして、その応用を展開していく。つまり、すべてが「気づきの呼吸」の実践の中から生まれていくとする。やさしい説明であるが、それを実行するのは本書の読者次第なのだ。やさしく、わかりやすく、水辺まで導いてくれる書である。水を口にするのは、私自身であり、あなた自身なのである。

 「1 愛の4つの側面ー四無量心」と「2 愛とは『存在すること』」とについて説明した後、以下の章立てで、ブツダの「愛」の瞑想の実践を展開する。
 そこで語られている印象深い箇所と要点のいくつかを併せてご紹介しておきたい。その意味するところを詳しく理解し感じるために本書を手に取り、開いてみてほしい。

「3 相手の存在を認める」
 著者は相手に伝える2つのマントラを読者に贈る。
  *あなたの存在に気づいているよ、あなたがいてくれて幸せだよ。
  *あなたがいてくれて、わたしはとても幸せです。
 ブツダは「過去はもはや存在しない。未来はまだ来ていない。いのちに触れられるのは唯一、今この瞬間だけだ」と説いたと語り、著者は語る。「瞑想とは心と体を今この瞬間に戻し、いのちとの待ち合わせをのがさないようにするものです」(p40)と。それは「気づきの呼吸」から始まり、マントラを伝えることなのだと。

「4 苦しんでいる人と共に在る」
 著者はこのマントラを唱えようと言う。
 *苦しんでいるのですね。だから、わたしはあなたのために、ここにいます。
 そして、その効果を語る。

「5 プライドを克服する」
 4つめのマントラ:「私は苦しんでいます。助けてください」
 著者の生まれた国、ベトナムに伝わる話を例に引いて「誤った認知に支配されてしまう」姿を語る。「日々の生活の中で誤った認知に支配されないように、気をつけてください」(p57)と語りかける。

「6 深く聴く」
 著者は瞑想はどこででもできると、本書を通じて説く。気づきの呼吸、歩く瞑想、坐る瞑想とやり方はいろいろあるのだと。そして、相手とともに座り、深く聴くことが瞑想そのものなのだと、ここで説明している。著者の暮らすプライム・ヴィレッジでも、深く聴くことが重要な実践になっていると言う。

「7 愛をもって話すことを学ぶ」
 「わたしたちは人が読みたくなるような愛ある文章を書き、聞きたくなるような愛ある言葉を話さなくてはなりません」と説く。それをすることが瞑想の実践そのものだと言う。そして、一つの実践事例を挙げている。
 「瞑想とは、自分の苦しみや喜びの本質を深く見る実践です」(p70)と述べ、その果実が何かを語っている。

「8 内なる平和を取り戻す」
 「わたしたちの生活のすべては、瞑想になり得ます」と断言し、その実践法を語る。
 漢訳経典「般若心経」の解説書を読み、最初に知ることは「五蘊」という語彙とその意味である。著者はこのことを、私たち一人ひとりを「5つの川が流れる広大な領土を収める王」にたとえて語っている。訳出では、漢訳での語彙も並記されている。原文自体が漢訳に相当すサンスクリット語の語彙を並記しているのかもしれない。
 「美しい癒やしのエネルギーとともに存在することこそ、わたしたちが日々実践したいことです。そして、わたしたちにはそうできるのです」(p77)と語る。瞑想を実践しなさいという勧めである。

「9 気づきのエネルギー」
 ブツダの瞑想は、「非二元性」の原理に基づくものであると説明する。漢訳経典では「不二」という言葉で語られるものと同じである。そして「気づきのエネルギー」を招き入れることを語る。「気づきの呼吸を実践する目的は、この気づきのエネルギーを生み出し、生かしつづけることです」(p82)と。

「10 心の痛みを世話する」
 母と赤ちゃんの泣き声の関係をたとえに出して、著者は語りかける。そして、「気づきの呼吸」を実行することにより、気づきのエネルギーを招き入れ、心の中でこう言うようにと語る。
 「息を吸いながら-怒っている自分に気づく」
 「息を吐きながら-怒りに微笑む」  
怒りの本質を深く見ることを説く。年をとること、死の恐れについての実践もやり方は同様だと言う。意識を抑圧するのではなくて、意識の中がちゃんと循環することの大切さを語る。その実行のベースが、「気づきの呼吸」であり、気づきのエネルギーをつちかうことが必要なのだと。
 そして、「サンガの存在は、気づきのエネルギーをつちかう取り組みをやさしくしてくれます」(p97)と語る。プライム・ヴィレッジは、サンガの一つという位置づけになるようだ。

「11 非二元性の原理」
 「苦しみを無視も抑圧もせず、心の扉を開けていれば、『心の形成物』(思い)は顕在意識と阿頼耶識の間を往き来できます」(p100)という。阿頼耶識という漢訳語は唯識で使われている語彙である。著者は文脈を読むと、心の深層部分という意味合いで語っていると受け止めた。心の深層に苦しみの種が元々住まいしているのだとする。
 ブツダの瞑想が「非二元性」にもとづいて深く見つめる行いなのだと説く。
 「花は生ゴミになる過程にありますが、同時に生ゴミは花になる過程にあります。これが仏教でいう『非二元性』の原理です」(p103)と。苦しみから学ぶ方法を知り、使いなさいと語りかけるのである。それが「愛」の瞑想なのだと。

「12 和解」
 「此があれば彼があり、此がなければ彼がない」とブツダは教えた。著者ティク・ナット・ハンは、その教えを「片方だけが存在するということはないのです」と解釈し、自分の苦しみや痛みについて、「あるべきは、世話をし、変容させようとする努力だけです」と説く。心だけでなく、体との関係も同じなのだと。そして、「体」に気づく実践法を教えてくれている。それは、著者が語った3つめのマントラを状況に合わせて展開する実践法である。
 「ブツダがそう行動しなさいと望むから実践するのではありません。わたしたち自身が深く見る実践をしているから、そうするのです。
  戒の実践は、苦しみから守ってくれるものと見ているのです。戒は、わたしたちの自由を保証するものです。」(p114)
 凡人が「戒」という言葉で連想する「不自由」とは真逆のことをブツダの教えと説明する。「戒=自由の保証」という図式である。「和解」の章を開いてみてほしい。

「13 生まれ変わる」
 著者は「カミユは、自分の死体を持ち運びながら歩いている人たちがまわりにあふれていると書きました」(p126)という。この一文を私は初めて目にした。
 この一文を引用し、著者は「マインドフルネスは、身も心も『今ここ』に戻すことから成り立つ実践」(p126)なので、「気づきの呼吸」という瞑想を「実践するたびに生に戻ってくるのです」(p126)と説く。生まれ変わるということは「今日この瞬間に生きる実践そのもの」(p127)だと著者は語っていると受け止めた。
 「わたしたちがいのちに触れられるのは、今という瞬間だけなのです。これはキリスト教にも仏教にも共通する考えです」と断言している。そして、語る。「歩く瞑想は、一歩ごとにわたしたちを今に連れ戻してくれます。」「いのちはあなたの歩む一歩一歩の中にあるのであって、遠い未来にあるのではありません」(p128)と。

「14 電話の瞑想」
 著者は、プライム・ヴィレッジで「電話が鳴る」という事象への対応について、そこにも瞑想の実践があるのだと説明する。電話の呼び出し音は「気づきの鐘(マインドフルネス・ベル)」だと言い、「電話の瞑想」をどうするか、具体的に実践方法として語っていく。ここにも「気づきの呼吸」の発展形がある。
「息を吸いながら - 自分を静める」
「息を吐きながら - 微笑む」
「聴こえる、聴こえる。この素晴らしい響きが、今この瞬間にわたしをつれもどしてくれる」
 電話をかける準備の実践法と「抱擁の瞑想」にも触れている。
 結論として著者は「日々の喧騒のさなかにあっても、ブツダの瞑想はまったく問題なく実践できるものです」と言う。

「15 『気づき』の実践のすすめ」
 著者は、気づきをもって生きるように実践することの重要性を繰り返し語る。「落ち着いていればこそ、初めて深く見ることが可能になります」(p141)と。

「16 観念から自由になる」
 わたしたちの中にはあらゆる大きな恐れがある。わたしたちが恐れのない状態(無畏)に触れられ、大いなるやすらぎに触れられることが「ニルヴァーナ(涅槃)」に触れることなのだと著者は語る。そして、「究極の次元」には言葉や概念は通用しないと説く。
 「自らの内にある、あるがままのリアリティ(実相)に触れること」(p150)、それが気づきの実践を続けていくことなのだと言う。
 実践を続けていくために、「ひとりではなく、サンガとともに実践することをおすすめします。サンガとは一書に道を歩むよき友の集り、コミュニティです」(p152)と語ることで、本書を締めくくっている。

 本書のいくつかの章の末尾には、その章のエッセンスが毛筆書きの英文として和訳付きで載せてある。その章ではこのワンセンテンスをどのように日々『「愛」の瞑想』の実践とともに行えばよいかがわかりやすく語られていると言える。括弧の中は本書の章番号を示した。その番号は、上記の番号と見出しに対応する。

 I am here for you   わたしはあなたのために、ここにいます (2)

 I know you are there and I am very happy
             あなたがいてくれて、わたしはとても幸せです (3)

 Listen with compassion  思いやりをもって聴く  (6)

 Peace in oneself. Peace in the world  内なる平和 世界の平和  (8)

 Mindfulness is a source of happiness
マインドフルネスは、幸せのみなもとです (9)

 No mud no lotus 美しい蓮の花は泥土から咲く  (11)
 
 Peace begins with your lovely smile
          平和は、あなたの素敵な微笑みから生まれる  (14)

 ティク・ナット・ハンは、生きるという存在の根源部分について、ブツダが語ったことを、私たちにわかりやすく語りかけてくれている。そのまとめの一冊が本書だ。実質137ページという薄い本だが、その語る中身は濃厚で凝縮されている。

 著者のティク・ナット・ハンのプロフィールが本書の最初に見開きページに記されている。その冒頭の2行を引用し、ご紹介する。
「ティク・ナット・ハンはベトナム出身の禅僧にして詩人、学者であり、ベトナム戦争を終結させるうえで大きな役割を果たした平和活動家でもあります。」
和平を主張しつづけたために、ベトナム政府から帰国を拒否され、亡命を余儀なくされている禅僧である。フランスのプラム・ヴィレッジを拠点にして活動されている。

「ティク・ナット・ハンは、一人ひとりの内なる平和と地球の平和がつながっていることを教えてくれる」    ダライ・ラマ14世
「彼ほどノーベル平和賞にふさわしい人を、私はほかにしらない」 
            マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

 自分自身の覚書を兼ねて、まとめてみました。
 ご一読ありがとうございます。

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補遺
関連事項をいくつか調べてみた。一覧にしておきたい。
プラム・ヴィレッジ  Plum Village  公式サイト
Plum Village  From Wikipedia, the free encyclopedia
ティク・ナット・ハン  :ウィキペディア  
  英語版 From Wikipedia, the free encyclopedia
ティク・ナット・ハン マインドフルネスの教え  ホームページ 
   各地のサンガ 
Wind of Smile ~微笑みの風~  ホームページ
東京サンガ☆すもも村  ホームページ
バンブーサンガ  ホームページ
ティクナット・ハン師の般若心経  :「密教初級編」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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