遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『土左日記のコペルニクス的転回』 東原伸明、ヨース・ジョエル 編著 武蔵野書院

2017-06-28 09:57:34 | レビュー
 この本の背表紙を目にしたとき、まず「コペルニクス的転回」という語句に目が行った。何がコペルニクス的転回をするのだろうかと。そして「土左日記」という言葉を読んだのだが、その時、目はその文字を見ながら、頭の中では「土佐日記」と反射的に読みかえてしまっていた。そしてそのまま、何ら違和感を持たずに、「土左」という書き方をスルーしてしまい。本文での表記は一貫して「土左日記」にも関わらす、無意識に頭の中で土左を土佐に読み替えて読み進んでいたようである。
 それに気づかされたのは、フリーディスカッションの記録文の中で、編者の一人、東原(敬称略、以下同様)が語っている箇所(p80-81)を読んだときである。『古事記』のはじめの方で、「土佐」の地名表記は「土左」であり、紀貫之が土佐に国守として赴任した頃はちゃんと「にんべん」が付いた「土佐」の表記地名になっていた。しかし、貫之は『土左日記』と外題で記し、伝本はすべて『土左日記』なのだと説明している。そのため、この本では、伝本どおりの『土左日記』として表記されている。この箇所を読んで、まず頭にガツン!である。私にとっては、このことがまず一種のコペルニクス的転回のハシリである。
 なぜか? 義務教育の中で初めて「男もすなる『日記』というものを、女もしてみむとてするなり」という書き手の宣言文を習い、だが作者は紀貫之、『古今和歌集』の撰者の一人で『仮名序』を後に記した人物であると学んだ時以来、『土佐日記』という表記以外に私は目にしたことがなかったからである。手許にある年表や学習参考書、歴史書もすべて『土佐日記』と表記されている。伝本のタイトルは『土左日記』と書かれていたという註釈はどこにもない。知らなかった! 『土左日記』研究者と一部関係領域の研究者、好事家くらいが意識しているだけなのかもしれない。
 知った今の段階で、改めて手許の情報をたぐると、岩波文庫の日本文学古典には『土左日記』と言うタイトルで鈴木知太郎校注本が出ている。岩波書店の日本古典文学大系20の表記も『土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記 』であるようだ。一方、一例だが、小学館の日本古典文学全集13は『土佐日記 蜻蛉日記』で表記されている。角川ソフィア文庫も『土佐日記』と表記する。
 さてこのブログ記事のタイトルを目にした人は、どういう第一印象を持たれたのだろうか?

 手許に置く『クリアーカラー 国語便覧 第4版』(監修:青木・武久・坪内・浜本、数研出版)を読むと、見開き2ページで、「土佐日記」を解説している。冒頭に大きく「女性のふりをした男性の日記」と記し、「平安時代前期に歌人紀貫之によって記された紀行文。女性仮託の作。仮名文学の先駆け。亡くなった娘への哀惜」(p124)とキーポイントがまとめられている。そして、古典文学の流れ図(p56)では、「日記・紀行」の冒頭に、『土佐日記』が記され、その先に『蜻蛉日記』が続く。これが多分一般的な定説的理解となるのだろう。
 
 そこで、本書の登場である。本書は二部構成になっている。
 第一部は、「シンポジウム 座談会『土左日記』再検討」である。2015年10月17日(土)に高知県立大学永国寺キャンパス教育研究棟Aを会場としてシンポジウムが実施された内容の記録となっている。このシンポジウムの再検討には「思想文化、歴史哲学、世界文学、散文」という観点が多彩に盛り込まれている。学生時代に受験勉強の一環程度でしか『土佐日記』に触れた機会がなかった。ほぼ、無知識のレベルでいきなりこのシンポジウムの発表記録を読んだことになる。第一の読後印象は、『土左日記』って、そんな風に読み解けるのか! 再検討すべきことが一杯ある日記なんだ! という門外漢にとっての新鮮感覚である。
 シンポジウムの発表者は5名。このシンポジウム、門外漢の一般読者の目からは、インターディシプリナリーな『土左日記』への問題提起として、興味深くて、目からウロコ的次元もあって、おもしろい。

 発表Ⅰ 930年~40年代、世界の思想文化  ヨース・ジョエル 
   発表者は同大学の准教授で、日本文化論・日本思想史の研究者。10世紀半ばの世界がどんな状況であったかをマクロ的に概説し、『土左日記』の内容自体ではなく、日本の位置づけとその中でのこの日記の位置づけを捕らえている。世界がまだ中華・ローマ・イスラームが併存しただけのそれぞれの世界に分かれ、それぞれに中央と周縁があったこと。一方でそれら世界に接点もあったことがわかりやすく語られる。そして、中華世界の中で日本が中央に対する周縁であり、どういう位置づけの時代であったか。さらに、日本の中での中央と周縁という関係性の中で、任地の土佐から京に戻るという過程で記された『土左日記』を捕らえ直していく。非常にマクロな展望でとらえ直してみたらどうかという問題提起がおもしろい。どっぽりとこの日記自体の研究をする研究者にとっても、刺激的な提言と思われる。

 発表Ⅱ 「国風文化」の中の『土左日記』  木村茂光
   発表者は、帝京大学の教授で、東京学芸大学名誉教授。歴史学の研究者。『「国風文化」の時代』という著書がある。このシンポジウムの発案者東原はこの著書から日記研究の上で刺激を受けたことがあるという。そんな契機で、このシンポジウムの発表者の一人に加わったようである。中央となる都市平安京が大きな変化を遂げつつある時代であり、地方から能動的に人々が京に流入する時代と述べ、民衆史の視点から、下級官吏の位置づけにある紀貫之の民衆に対する目線を論じる。『土左日記』に記述された旅程の期間を「公的世界」と「私的世界」に区分してとらえ直すという問題提起が興味深い。また、貫之より数十年早く讃岐国の国守に赴任した経歴のある菅原道真が詠んだ「寒早十首」という漢詩と貫之の『土左日記』との対比から両者の身分差の視点を論じる切り口が興味深いものになっている。道真は右大臣まで昇り、一方の貫之は和歌の大家となったが従五位までしか昇れなかった。両者の身分差とその目線に光を当てている。

 発表Ⅲ 知のアマチュア/哲学者が読む『土左日記』  鹿島 徹
   発表者は早稲田大学教授で、哲学の研究者。哲学者の目線がおもしろい。土佐から京に戻る55日間の大半で貫之一行は船旅をしたのだが、その船自体の大きさはどれくらいだったのか、船そのものについて日記に記述はあまりない。その船の大きさを掘り下げることからはじめて、『土左日記』の登場人物たちに言及していく。そして、「乗った船がかなり大きかったということを考えてみるだけで、その船内の生活はなかなかおもしろかったと考えられるんじゃないか」と進展させ、船中に居た筈で、日記に書き込まれていない人々の存在にも触れていく。『土左日記』をもっともっと豊かに読めるのではないかという指摘である。刺激的な一石といえる。

 発表Ⅳ 『土左日記』における子どもの表象  スエナガ・エウニセ
   発表者は日系ブラジル人で東京大学で博士号を取得した日本文学の研究者。物語研究会会員であり、翻訳家である。村上春樹作品のポルトガル語訳を行っている人だと末尾の著者紹介に記されている。本書第二部の論文を読むと、『土左日記』のポルトガル語訳を試みているそうだ。スエナガにとり、日本そのものが外国であり、さらに『土左日記』は全くの異言語、異文化の世界だったと述べている。そのスエナガが、平安時代に書かれた『土左日記』はローカル性の強い作品であるが、そこに描かれた子どもをなくした悲しみや望郷の念は、現代人にも共感でき、いわゆる普遍的な感情が描かれているとし、「世界文学」としての可能性について、具体的な日記の記述例を分析して論じている。分析的読み解き方が学べる。第二部の論文では、一層綿密な分析へと展開している。

 発表Ⅴ 『土左日記』の散文文学性、あるいは歌学批判  東原伸明
   高知県立大学の教授で、日本文学、特に『土左日記』の研究者のようである。「あとがき」で、このシンポジウムを発案したきっかけに触れている。東原は「散文文学」という言葉を用いて『土左日記』を研究しているとまず、立場を明らかにしている。その上で、一つの国語辞書の説明を引き合いに出し、「散文」ということばの規定において、現状では散文が公式には文学と認められていないという現状認識を指摘している。そして、過去の文学研究の歴史において、『土左日記』は、近世歌学の視点から注釈が付せられ論じられてきただけであるという。そして、萩谷朴が「権門の子弟のために書かれた個人用教科書としての初歩的歌論書というこの作品の表層的使命」を論じており、それが通説となっていることに対し、「散文文学」として捕らえ直す重要性を提唱する。それは、歌人の藤原定家が『土左日記』の写本を作成した時の書の体裁のサイズ、また諸伝本が同様に作成した写本のサイズから見ても、歌学の枠組みから脱却してとらえなおすことが必要ではないかと論じていておもしろい。つまり歌学の領域での文学性ではなくて、散文文学としてのとらえ直し、見方をごろっと変える意義を論じている。それがコペルニクス的転回になっていくという主旨だと理解した。このシンポジウムは、それに弾みをつけていく第一歩という印象を持つた。

 パネリストが10分間という短い発表をした後、その補足を含めた「フリーディスカッション」がここに記録されている。このフリーディカッションの記録は、発表内容の理解を深めるのに役立つ。

 第二部は「論文」というタイトルであり、ここにはシンポジウムで各発表者が語った視点、アイデアに、さらに内容の補足と論理的整合性などを加えて論文という形でまとめられたものが収録されている。第一部はこの第二部を読むための一種のウォーミングアップにもなり、両者の内容の照応が、私のような一般読者には読みやすくしてくれているように思う。第一部と対照するために、掲載論文のタイトルを紹介しておこう。

 『土左日記』と世界 -10世紀後半の「世界」と日本文明- 
                             ヨース・ジョエル
 『土左日記』の主題について・再論 -ジェンダー史・民衆史の視点から-
                             木村茂光
 船のなかの「見えない」人びと -哲学者/知のアマチュアが読む『土左日記』-
                             鹿島 徹
 『土左日記』の主語や呼称、主題や「第三の項」についての覚書
                             スエナガ・エウニセ
 歌学批判から見た『土左日記』の散文文学性 
    -もしくは『土左日記』のコペルニクス的転回-   東原伸明

 
 紀貫之『土左日記』と菅原道真『菅家文章』
 巻三「寒早十首」の表現について  -「楫取」を軸として-   佐藤信一

 第二部はやはり「論文」であるので私のような門外漢、一般読者には大凡の内容は理解できても、詳細部分で理解が及びづらい箇所が多々ある。しかし、その論旨はロジックを追っていくことでほぼ理解でき、『土左日記』への関心を呼び覚まさせるトリガーとなった。
 最後の論文は、発表Ⅱ(木村)の後半で語られた紀貫之と菅原道真の表現における関係性を文学研究者の見地から、分析的に例証しつつ論じた論文である。<はじめに ー研究史を通覧して->は、『土左日記』に関する過去の諸論文をまさに古注釈から初めて論点をまとめ通覧している。この領域の研究論文を読んでいる人には興味深い通覧となっているのだろうと思うが、私には猫に小判の類いである。基盤がないので残念ながらその論点整理が読み込めない。
 その後に、<1『菅家文草』巻三「寒早十首」の叙述と比較して > 、<2「叙意一百韻」の一節に関して>、<3 『土左日記』の表現との関連を廻って> と展開し、最後に<まとめ>を付されている。1から3は、「寒早十首」の詳しい論述もあり、紀貫之の日記執筆との関係性も分かって興味深いところがある。

 本書を読み、『土左日記』が執筆された後、紀貫之はそれを公表しなかったということを知った。文暦2年(1235)に、藤原定家が貫之自筆の本を発見し書写したのがこの日記が世に知られるはじまりだったとか。東原は、定家が写本した後その奥書に書誌的記録を残しているという。『土左日記』は定家により発見されるまで、300年余の期間、蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に収蔵されたままになっていたそうである。
 そうすると、紀貫之の『土左日記』は「日記・紀行」文学の流れの嚆矢・淵源と図式化されてはいるものの、その死蔵されている期間に、現在伝わる女性の手になる日記である『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』が書き残されていく。ということはこの系譜は、女性自身の発想から独創的に生み出されたものといえるのだろうか。本書はこの点には一切ふれていない。
 『土左日記』が公表されていないならば、『蜻蛉日記』との間は系譜化できない。そこには断絶があるのか。『蜻蛉日記』がモデルとする女性により記された日記が先行的にあったのだろうか。それとも、『蜻蛉日記』の著者は、男が記す日記を前提モデルとして、独自に私的日記を書き綴るという着想を得て、実行に移したのだろうか。個人的な疑問が残った。手許の便覧では、流れとして実線で結ばれた形にしてあるので、私は何となく、『土左日記』が秘蔵されていたのではなくて、世に広まり、それをモデルとして、女性自身が日記を記すという形での進展が進んで行ったと思い込んでいたのである。日記・紀行を書き記す系譜ということに関わる疑問が残った。

 ご一読ありがとうございます。


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インターネットでどんな情報が得られるか検索してみた。結果を一覧にしておきたい。
土佐日記 紀貫之    :「青空文庫」
土佐日記 紀貫之  pdfファイル  :「青空文庫」
土佐日記 ― 全文全訳(対照併記)  :「学ぶ・教える.com」
『土佐日記』所収和歌一覧
紀貫之 土佐日記  :「正岡正剛の千夜千冊」
土佐日記  :「コトバンク」
土佐日記  ホームページ  :「アイコン・エム」
土左日記  :「文化遺産オンライン」
定家本土佐日記 : 尊経閣叢刊. [本編]  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
土佐日記附註  :「国文学研究資料館」
土佐日記 (國文大觀)  :「WIKISOURCE」
土左日記 (群書類從)  :「WIKISOURCE」
10分でできるテスト対策 古文 「土佐日記 門出」 これで10点アップ! :YouTube
『土佐日記』と『蜻蛉日記』  古典への招待  :「JapanKnoeledge」
紀行文学としてみた『土佐日記』  中里重吉著   論文
土佐日記の歌論-人物描写という方法  北島紬著  論文
土佐日記の植物  :「文学作品に登場する植物たち」
「土佐日記」の授業 -導入期の古典指導から 続-   金子直樹著  論文

      インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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『住友銀行秘史』 國重惇史  講談社

2017-06-24 14:14:36 | レビュー
 元住友銀行取締役だった人物が住友銀行に関わる秘史について著したというタイトルに惹かれて、それだけで読み始めた。読み始めて、これが「イトマン事件」を住友銀行の内部からみた一種の内部暴露書だと理解した。当時の銀行の内部事情と事件の背景情報について、「秘」の側面を表に出す覚書であることがわかった。本書の出版広告を新聞で一度見た時、その広告情報を詳しく読まなかったので、イトマン事件関連とは知らなかったという迂闊さである。つまり、新聞報道で事件の発生の当時、その一端を読んだだけで、すっかり忘れていたことを、この書で改めて捕らえ直すことができたという次第。

 当時の住友銀行がイトマンに融資していた金額が膨大な額となり、住友銀行の存立に著者は危機感を感じたという。その事態を打開したいという義憤が、その元凶となっているイトマンの当時の河村良彦社長を如何にして早急に退任に追い込むか工作する綿密な行動を取らせたのだと著者は語る。工作するという表現は私の読後印象である。

 本書は著者がイトマンの河村社長を退任に追い込むまで、一方でイトマンに司直が強制捜査に入り、イトマン事件として立件するまでの経緯を述べていく。その過程で著者が如何に関与したか、イトマン事件に対する直接間接の関係者の実名と当時の職名、事件との関係性を明らかにしつつ記述していく。当時、著者が情報収集し、覚書として克明に記録した手帳をもとに、そのメモ内容を時系列で明らかにし、そのメモ事項の持つ意味と背景を説明しながら、事件の推移を語るという展開になっている。つまり、そのメモ内容が全て正確な事実情報という前提に立つ事件記録と言える。そこに虚偽が内包されているかどうかは、誰も判断できないという印象も半面として持った。
 事件から四半世紀を経て、公開されたこの記録である。関係者の多くはその後の人生で、大半がそれなりに遇されいわゆる出世の道を歩いていたであろうし、既に鬼籍に入った人もいる。多分、だれも語りたがらないだろうから、反論が出てくることもないだろう。 「秘史」と銘打つだけあり、様々な観点で興味深い書となっている。

 本書の記述によれば、東京大学経済学部を卒業し、1968年に住友銀行に入行し、支店配属から始め、2年間の米国大学院留学を含め、いくつかの部を経験し、1975年に企画部に配属されたという。企画部で10年過ごす期間に、大蔵省担当、いわゆるMOF担を務めたという。この時代に官庁や新聞社などとの人脈が培われたのだろう。
 「プロローグ前史」を読む限り、自他ともに認めるトップクラスの人材だったようである。己の実力に対する著者の自負が本書に散見される。たとえば、「住友銀行に入り、自分で言うのもなんだが一選抜中の一選抜。常に光の当たる道を歩いてきており、MOF担や渋谷東口支店長として実績もcy区実に挙げていた」(p34)と記す。

 この「秘史」は1990年3月20日の手帳の記録内容から始まって行く。そして、1991年7月11日の手帳の記録内容の説明で終わる。
 末尾に「イトマン事件関連年表」が付けられている。本文での説明と併読すると、イトマン事件が発生して行く直接の契機は、1990年1月に「伊藤萬」が雅叙園観光に資本参加し、伊藤寿永光氏の協和綜合開発研究所と提携する。さらに2月に伊藤氏が伊藤萬に入社し、すぐ後で経営陣の一人になったことに端を発するようだ。1991年1月1日に伊藤萬は「イトマン」に社名変更している。1991年4月24日、大阪地検と大阪府警がイトマンを強制捜査する。河村良彦、許永中、伊藤寿永光が商法の特別背任罪などで逮捕される。
 「雅叙園という本質」には迫らずに、事件は終わった形だと著者は本書末尾近くで書いている。

 著者が事件が明るみに出て、河村社長を退任に追い込むように工作していたこの時期は「業務渉外部部付部長」というポジションだったようである。この肩書から想像するに、業務渉外部でのスタッフ的位置づけだったのだろう。部下無し管理職という位置づけではないかとイメージする。このポジションの本務として、著者が何をしていたかには本書に触れられていないので、わからない。想像では、かなり自由裁量のある立場だったのだろう。
 なぜなら、「第1章 問題のスタート」の冒頭から始まる手帳からの公開内容は、当時の磯田会長をはじめとする経営トップ層の行動が日時付で項目として、延々と細部に渡り記録されているのである。誰が誰とどこで会ったか。どれくらいの時間の話し合いをしていたか。どこに行ったか。・・・・・そんな事項の記録列挙である。著者は克明に磯田会長を筆頭に巽頭取はじめトップ経営層の直接・間接の関係者たちの行動記録を挙げていく。
 よくも克明に、調べ上げたな・・・・という印象が強い。そういう情報源となった人脈ネットワークを著者が銀行内に築き、その理由を多分知らずに情報提供する人々が住友銀行の組織の各部署に居たということである。経営陣各人の行動スケジュールを克明にフォローしていくには、相当の時間とエネルギーを使っていたと想像するが、上記の期間、著者は本務として何をし、どの程度の時間配分をしていたのか? 知りたくなる。勿論、そんなことは書かれていない。

 この記録事項を見るだけでは、イトマン事件の背景とどう関わるかは、ほとんど読者には分からない。イトマン事件を追及していった著者の情報集積がバックグラウンドにあって初めて、記録された行動事実の持つ意味が、事件展開の文脈の中で読み解かれていくというものに成っている。つまり、記録事項の持つ意味がイトマン事件の文脈として関連連づけて語られていく。
 ある意味で、読者にとっては退屈な、読み込めない行動事実の外見記録を延々とまず読まされていくことになる。その記録項目を著者が文脈の中に織り込んで説明していく形でやっとその関連性が理解できるのだ。事実を綴るという点で、ある意味でまわりくどい記述にもならざるを得ないのだろう。つまり、どんどんと、テンポ良く読み進められる類いのドキュメンタリー記録ではない。
 また、逆に、イトマン事件のルポルタージュ風の関連書を既に読んでいる人、イトマン事件の経緯内容の情報を既によくご存知の人にとっては、なるほどと行動記録や著者が関係者と語り合った時の相手の言動記録を読み、ピンとくるのかもしれない。私は事件自体の詳細を知らなかったので、そういう読み方はできなかった。

 読後印象に強く残った諸点を要約的に列挙しておきたい。後は本書を逐一読まれることをお薦めする。銀行という組織の実態が分かって興味深い。だが、ここに記録された会社組織おける人間行動の有り様は、住友銀行だけに限らず、どの会社組織にもあり得る人間関係上の行動現象に共通する部分が多いと思う。つまり、三井住友銀行になった現状でもその体質・風土は残っているのではないか。それは、他銀行も大手大企業でも同じだろうという気がする。本書は「他山の石」としての価値を持つ。

*当時の大蔵官僚に働きかけ、イトマン事件を立件化の方向に導くために、著者が「Letter」と称する詳細な内部告発文書を1990年10月時点で7通(p299)に達するまで、然るべき要所要所に協力者を介して発送している。極秘に入手したイトマンの封筒と便箋を使って「Letter」を発信している。これが事件の立件化へのトリガーになっているようである。
 その第1号は、大蔵省土田正顕銀行局長宛であり、差出人名は「伊藤萬従業員一同」である。これは形としては内部告発文書の形式である。しかし、実際に著者が書き、発信しているというのだから、私は厳密な意味で該当組織の内部の人間が発した「内部告発」とは言えないと判断する。体良く、「内部告発文書」の形を真似ているだけだ。その理由はどうあれ、「密告」を続けたというべきだろう。内容は詳細的確な事実情報の告発であっても、組織外の人間が「密告」という形で「工作」という行為をとったのだと思う。
 一方で、当時の伊藤萬の従業員は、この告発された内容をどこまで知り得ていたのだろうか。著者はイトマンの従業員が当時どんな反応、対応をしていたのかには具体的にあまりふれていない。自社の実態を知らされていず、問題意識すらなかったのか?

*当時の住友銀行内部が磯田会長を天皇に見立て、経営陣の中が親磯田派と反磯田派、日和見派に分かれて、ある意味で自己保身をベースにそれぞれが蠢くという人間関係にあったこと、そしてそれが行動として表明されていた具体的事実が記録されている。それが、イトマン事件とも色濃く連動している状況が良く分かる。
 この人間関係の有り様、どこの会社にも大なり小なりあるんじゃない、という感じも受ける。ここまで赤裸々に書かれると、住友銀行のトップ層って、どうなってたの・・・・・と言いたくなる。会社の私物化の一端が現れているのだろう。それは崩壊の予兆であり、そこに「多山の石」をまず見る。

*磯田会長がその地位にしがみついた実態が明らかになっている。イトマン事件の背景に、長女が絵画取引のビジネスに関わっていて、イトマンの河村社長に絵画取引の依頼をしたことが、イトマン事件に関わる遠因としてヤミの世界を引き込む形にもなっている事実がわかる。絵画取引が様々にイトマン関係者の間で悪用されていくプロセスが、書きとめられている。興味深い。
 磯田会長の立場の揺れ動きが、イトマン事件を悪化させた重要な要因の一つとなったことが良く分かる。

*当時の頭取、副頭取、専務、常務という経営トップ層が実名で登場する。個々人の行動とイトマン事件への対応が濃淡がありながらも、具体的にその言動が事件のプロセスの一環として書き込まれていく。その言動に対するその時点での著者の評価や感想も書き込まれていて興味深い。

*イトマンの河村社長を退任に追い込むことが、住友銀行の立ち直りに必須と著者は判断し、そのために「Letter」という手段での密告工作を密かにばれずに続けて行くプロセス、そのやり方が良くわかる。
 著者は克明な記述を行いながらも、この「Letter」の全てを本書で自ら開示しているわけではない。それはなぜなのか? 既に事件後に出版されたであろう出版書に載っているからということか? 開示できない理由がやはり潜むのか。
 本書では第1号(p92-93)、第2号(p102-104)、第3号(p160-161)、第4号(p166-167)、第5号(p175-176)が本書にプロセス文脈の必要性からも掲載されている。だが、未掲載のものがある。磯田スキャンダル「Letter」を頭取経験者、その他行政当局にも投函したと記す(p288)が、これは開示されていない。誰の立場で記されたものかの言及もなかったように思う。

*元住友銀行常務であり、磯田会長の側近だった河村良彦氏が伊藤萬の社長に送りこまれ、バブル経済期の中で、伊藤萬の立て直しに行ったはずの人物である。しかし、逆に会社の経営を悪化させる元凶となって行った。事態が悪化していくプロセスにおいて、河村社長が外面は業績好調の大洞を吹き鳴らしていた経緯はよくわかる。だが、その立場に陥っていく出発点となる原因はどこにあったのか? それは私には今ひとつ明確に理解できなかった。悪い方に雪だるまが転げて大きくなったのはわかる。雪だるまが転げるために押した原因がなになのか、である。

*イトマン事件の新聞報道では、私は許永中氏の顔写真が載っていた記憶がある。
 本書では、許永中氏が重要人物として絡んでいた事実が要所に散見されるが、主にクローズアップされているのは伊藤寿永光氏の言動である。いささか、当時の新聞報道をちらっと読んだときの印象とのギャップを感じる。本書を読み、逆にイトマン事件に改めて興味を持った。
 
 この記録がイトマン事件と企業裏面史の貴重な資料として存在しつづけることになるだろう。日本経済史の中のあだ花の記録は、過ちを繰り返さないための「他山の石」として、貴重である。しかし、これを読む終わると、その一方で、人間が欲望を持つ限り、これと同類の不正事象は、「歴史は繰り返す」ということになりそうな気もしてしまう。

 最後に、本書に記載された文から、著者の言を國重語録として紹介しておく。
 この語録として抽出した内容そのものにも、いろんな読み方ができることと思う。それ自体もまたおもしろい。ページを付記するので、本書の文脈に戻っていただきたい。

*イトマン問題が待ったなしの状況だというのに、幹部たちは磯田会長らの顔色をうかがって、どう動くべきかを判断しようとしていた。私にはそれが歯がゆかった。 p77
*きれいごとではなく、本当に自分のことよりも、とにかく住友銀行のことが心配だった。ただ、自分も取締役の立場なら何よりもまず自分のこと、近視眼的な自分の次のポストのことばかりが気になったかもしれない。  p78
*それでも、全体像とディテールをここまで把握しているのは私だけだ。だから、正しい判断を下せるのも私だけだ。  p148
*カネは、いったん借りてしまえば借りたほうが圧倒的に強い。  p153
*内紛の記事が出るのは避けたかった。銀行というのは、体面、外面を重んじるところだ。  p157
*絶対に、ばれてはいけないと決意していた。攻めるなら、大きな戦略と細心の注意がなければ。  p168
*磯田会長の梅子夫人が信じている占いによって、大銀行の人事が決まっていたとは驚きだった。   p179
*日本のサラリーマンにありがちなのが、土日も構わず休みも取らず、一心不乱に働き続けるというタイプだ。それは私の流儀ではない。もちろん、働くときにはみっちりと働く。ただできるだけ効率性と合理性を重視する。その結果、平日の19時までに人の何倍も仕事をする。その後は自分のために使う。もちろん長期休暇も取る。 p202
*もはや情報をとっているだけではダメなのだ。もちろんそれは基本動作で、情報を元に構図を組み立てることは必須だ。だが、今やその次の一手を打つときだった。 p237
*多くの役員たちはどちらにつくのが自分たちの有利になるかうかがい、そして二股をかけ、いざとなったらどちらにでも乗れるようにしていた。  p232
*こうして権力は周囲から腐っていく。  p281
*私はおかしいことをおかしいと言わない連中への憤懣が強くあった。黙っていられなかったし、じっとしていらっれなかった。ばれて会社から排除されれば、それもまた一つの生き方である。   p294
*何も決められないのに、変わり身だけはみな早い。  p298
*皆、流れを読んで、いま何をするのが得策なのかを嗅ぎ取る。それに乗ることにかけては超一流なのだ。   p314
*私は膿を出し切らないと改革などできないと一貫して思っていた。その信念を隠すこともなかった。   p350
*もし、銀行で頭取になりたいのならどうすればよかったか。それは何もしないことだ。減点主義の組織なのだから。私はそんな振る舞いはしたくなかったし、できなかった。日々楽しく過ごしたかった。それだけだった。  p464
*乱世の英雄という言葉がある。乱世のときには生き生きと仕事をする、しかし、平和な世の中ではその存在を必要とされない。私もそれに似ていたかもしれない。 p465


 ご一読ありがとうございます。

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関連事項、関心の波紋からネット検索した結果を一覧にしておきたい。
イトマン事件  :ウィキペディア
イトマン事件  :「NAVERまとめ」
戦後最大の経済事件「イトマン事件」とは何だったのか? :「週刊現代」
戦後最大の経済事件「イトマン事件」の深奥  :「東洋経済」
伊藤寿永光   :ウィキペディア
『伊藤寿永光』に関するニュース :「exciteニュース」
ベストセラー『住友銀行秘史』への反論 “嘘から生まれた男”と書かれた「伊藤寿永光」語る
:「デイリー新潮」
2.伊藤寿永光・河村良彦って   :「HIP'S BLOG」
許永中     :ウィキペディア
在日、、暴力団、政治家の癒着の縮図。許永中という男。:「何かおかしいよね。今の日本」
出所の許永中氏「日本でやることたくさんある」と決意を語る  :「NEWSポストセブン」
石橋産業事件の深層  :「ZAKZAK」
巨額詐欺事件2000億、闇の紳士 許永中受刑者とは? :「NAVERまとめ」
許永中氏   :YouTube


西貞三郎元住友銀行副頭取死去で、イトマン事件を想う  :「マネブ」
DAIGOの父親はあのイトマン事件・許永中の片腕だった! 許に家を買ってもらい企業を恐怖支配
  :「LITERAX」
あの元楽天副社長、いわく付き企業社長として窮地&孤軍奮闘…反社勢力の詐欺を回避
:「Business Journal]
『住友銀行秘史』より面白い著者の「前妻愛人乱脈秘史」  :「デイリー新潮」
住友銀行役員→楽天副会長を不倫で辞任のあの人物、お騒がせの某ベンチャー社長をひっそり辞任  :「Business Journal]
住友銀行の天皇「磯田一郎」会長 弱点を形成したマザーコンプレックス :「デイリー新潮」
イトマンは墓場まで…訃報が触れない堤清二さんの「光と影」  :「日刊ゲンダイ」


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『決戦! 三國志』 木下・天野・吉川・東郷・田中  講談社

2017-06-22 09:48:08 | レビュー
 戦国時代を舞台にした「決戦!」シリーズを読み継いできたが、それとは別に、「決戦!」の新展開が行われていることを最近知った。それは、2017年3月出版の『決戦!忠臣蔵』が目に止まったことによる。これを手にとって、それより早く2015年12月に、本書が出版されていることを遅まきながら知った。
「三國志」と言えば、勿論中国大陸の魏・呉・蜀が分立し覇権を争った時代、大陸の英雄達が活躍した時代である。明時代に羅貫中が著した『三国志演義』を筆頭にして、日本の著名な作家達も三国志の作品化にチャレンジしている。吉川英治、柴田錬三郎、陳舜臣、北方謙三、宮城谷昌光などの名が思い浮かぶ。横山光輝が大河漫画としての作品化にチャレンジしている。それくらい魅了してやまない激変の時代であり、群雄割拠する人物群像が作家たちを惹きつけるのだろう。『源氏物語』に挑む作家群が居るのと同じなのかもしれない。
 「決戦!」シリーズを新展開するのなら、三国志の世界が出て来てまさに当然ともいえよう。それも競作集という形で、「三国志」の様々な局面が切り出されて、短編小説に凝縮されている。5つの短編小説は、それぞれが長大な三国志時代の特定のあるフェーズに切り込んでいて、三国志の読み方に新たな光を投げかけていておもしろい。

< 姦雄遊戯 >  木下昌輝
 
 許家の麗姫の婚礼の夜に、麗姫の弟・阿戯が袁紹本初と曹操孟徳の二人に花嫁泥棒を仕向ける。阿戯の誘いに乗って、二人が許家に忍び込み、まんまと阿戯の悪戯に引っかかるエピソードから話が始まる。これは、阿戯と袁紹本初、曹操孟徳の二人との関係を切り出すためであろう。そしてストーリーは黄巾の乱の三年後の現在にシフトする。
 幼名・阿戯は許攸(字は子遠)と称するようになり、黄巾の乱を計略で破った策士に成長していた。このストーリーは己の策士としての能力を発揮することにその欲望をたぎらす許子遠の生き様を切り取っている。
 袁本初は子遠に問う「子袁よ、そんなに急いでどこへ行く」と。子袁は悪だくみをしに出かけるという。皇帝陛下の位を盗むのだと。袁本初では皆が納得し、当たり前すぎて退屈なだけと相手にしない。本初は子遠の言を冗談としか受け止めない。許攸は冀州刺史・王芬を皮切りに、己の策謀を発揮できる舞台を、袁紹に求め、さらに曹操に鞍替えしていくという経緯が描かれる。許攸の価値基準は己の才を発揮できる機会を作り出し、策謀の達成プロセスに血をたぎらせることにある。だが、その策士が策に敗れる結果となる。許攸を通して、曹操を描いていることにもなっていて、おもしろい。

<天を分かつ川> 天野純希

 曹操率いる二十数万の大軍を、孫策が暗殺された後、揚州水軍三万を率いる周瑜が赤壁において破る。すべてを一日か二日だけ吹くという東南の風のタイミングを逃さず火攻めで雌雄を決するという練り上げた策で周瑜は勝利へと導く。この周瑜は己で天下を取れる力量がある。孫策からは、孫策が父に続き志半ばで斃れた時は孫家の軍を引き継いで天下を取れと約束させられていた。だが、周瑜は孫家が天下を取るという方針に徹する生き様を選択する。周瑜は己の戦略を推し進め、益州を獲れば、天下二分の計が可能だと孫権に上奏し、許可を求め、進軍する段階までに至る。その策の実行を始めようとしたが・・・・その矢先に命を果てる。益州侵攻を中止させ、天下三分の計を進めるにとどめよと託して。なぜ、そうなったのか。その局面をこの短編はクローズアップしている。
 周瑜の生き様が鮮やかに切り取られている。周瑜に一層興味を抱くことになった。

<応報の士> 吉川永青

 江水の赤壁で孫権・劉備の連合軍に大敗をを喫した曹操は、その後陣容を建て直し、建安16年(西暦211)に漢中に侵攻し始める。当時、漢中は五斗米道の教主・張魯が牛耳っていた。益州牧・劉璋にとって張魯は仇敵である。だが、漢中を曹操に獲られては、益州が曹操と直接接するという不都合が生ずる。益州別駕・張松は劉璋に同族の劉備を頼れと進言する。曹操に先んじて漢中を制するために劉備の援軍を請う。張松の推挙を受けて法正が援軍を迎える使者として劉備の許に来る。
 この法正は、劉璋の下では軽んじられ飼い殺しにされてきていた。他の人の愚劣な進言が取り立てられても、法正の献言には耳を貸す事が無かったのである。その扱いに法正は怨を感じ,恨みを抱いていた。そして、法正は劉備にこの際、蜀を取れと献言する。タイトルは、怨には怨で報いて何も悪いことはないと断言する法正自身をさしている。諸葛亮はこの法正の人物を見抜き、劉備にその献言を採れと進める。諸葛亮を黒子としながら、法正の働きをクローズアップして描いて行く。怨には怨で報いた士だが、劉備の恩には恩で報いた人物像だったという。「応報の士」を如何に遇するか。人物を見抜く重要性がテーマとなっている。人は使いようという典型事例かもしれない。

<倭人操倶木>  東郷隆

 古く日本列島とその周辺に土着する人々は、中国大陸の民から「倭人」と呼ばれた。稲作の普及、富の蓄積に伴い、戦乱が発生する。その戦乱は難民を生む。日本列島から海を越え揚子江の河口に流入する人々が増大する。生活の糧を求め勝手に田畑を作る。窮すると略奪に手を染める。家郷の沛国譙城に巨大な荘園を有する曹氏は、倭人が不法占拠する土地を襲い、労働力の確保として倭人を己の土地に移した。 
 黄巾の乱がある程度収まり、霊帝が189年に死去した頃、菫卓が軍権を掌握する。この頃、曹操は典軍校尉という地位に居た。曹操の乗馬の轡をとる者が倭人操倶木だったとする。この短編では、菫卓に危険を感じた若き曹操が逃避行をする道中で操倶木は鬼道を使い、曹操を助けるために活躍する。だが、操倶木はあることから曹操の許を離れるという選択をする。そして、その後、孫策のところにも現れ、陰で助言するという行動をとる。操倶木という倭人の視点と行動から、曹操、孫策という二人の巨魁との接点を描いていることに興味を惹かれる。
 なんと、唐代に出た白行簡の『三夢記・外伝』に操倶木という男のことが記載されているという。驚きである。また、1977年、調査団が曹氏墳墓の発掘調査をしたという。その結果、曹氏が多数の倭人を使役していた実態が明らかになったという。興味深い事実を著者は付記している。この事実情報が、この短編の創作へと結実したということなのだろう。

<亡国の後>  田中芳樹
 
 「三国志」においては、蜀の地に自らの国土を築いた劉備の生き様がその読ませどころである。だが、蜀という国は劉備の死後、嫡子の劉禅が国を継承し、諸葛亮ら重臣が変わることなく蜀主・劉禅をよく補弼した。しかし、蜀は二代で滅び去る。『三国志演義』には、亡国の君として4人の人物が登場する。その一人が蜀の後主となった劉禅である。
 この短編は、劉禅という国主でありながら国政に一切口出ししなかった人物の有り様を描いている。父劉備以来の重臣たちに軍国の大権を委ねて、享楽の人生を送りつづけたという。
 三国を統一して最終的な勝者となる司馬一族。ここでは、そのプロセスを歩む野望の人・司馬昭と司馬炎が劉禅と対比されていておもしろい。
 人間の一生とは何か? 人生の価値の置き所という点に思いを馳せさせる視点から、描き出されていく短編である。

 『三国志演義』に描き出された世界は、怪力乱神を嫌う陳寿が著した『三国志』とはテーマが大きく切り変えられたという。だが、『三国志演義』の出現で一般の人々には三国志の時代が親しまれるようになり、群雄割拠した英傑やその周辺のすぐれた武人たちの行動と名が世に親炙した。そこに描き出された様々な人物の人間関係及び戦略・武略・計略・謀略の展開の有り様の中に、人々は生き様を考える素材、様々なテーマを発見し続けたのだろう。それ故に、この三国志の時代が未だに魅力的なのだと思う。
 この競作集の作家たちが切り出した局面の多様性に、この三国志の魅力が潜んでいる。
 三国志の世界に深入りするゲートとして、おもしろい短編作品集になっている。

 ご一読ありがとうございます。

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関連事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
三国志        :ウィキペディア
三国志(歴史書)   :ウィキペディア
陳寿         :ウィキペディア
三国志演義の成立史  :ウィキペディア
三国志演義      :ウィキペディア
三国時代(中国)    :ウィキペディア
周瑜  :「アラチャイナ」
三国志遺跡  赤壁 :「アラチャイナ」
赤壁の戦い  :「コトバンク」
孫権   :ウィキペディア
曹操  :「アラチャイナ」
三国時代の立役者 戦に生きた「曹操」の生涯  :「鳥影社」
許攸  :「3Pedia」
黄巾の乱 :ウィキペディア
黄巾の乱 :「コトバンク」
黄巾の乱 :「世界史の窓」
法正   :ウィキペディア
劉備  :ウィキペディア
劉禅  :ウィキペディア
劉禅は本当に暗愚だったのか   :「総力戦研究所」
諸葛亮 :ウィキペディア

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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決戦シリーズを読み継いできました。以下もご一読いただけるとうれしいです。

『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本  講談社

『決戦! 桶狭間』 冲方・砂原・矢野・富樫・宮本・木下・花村  講談社
『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室  講談社


『峠しぐれ』 葉室 麟  双葉社

2017-06-13 09:28:44 | レビュー
 岡野藩の領内で、隣国結城藩との境に弁天峠がある。その峠は朝方、霧に白く覆われて道も定かでなくなるところから、朝霧峠とも呼ばれる。峠を西に一町ほど下がったところに昔、峠での遭難除けを祈念して建てられた辨財天を祀る瓦葺の小さな弁天堂があるので、弁天峠と称される。弁天峠の麓には安原宿があり、岡野城下まではこの安原宿を経由して十八里ほどある。この小説は、主にこの弁天峠が舞台となる。
 峠には茶店があり、草鞋や笠も売っている。店の主人は半平、その妻は志乃という。半平は四十過ぎの寡黙な男で、店の奥で茶や団子の支度をする一方、草鞋を編んでいる。それが安くて丈夫なので評判が良い。志乃は三十五、六で目鼻立ちがととのいほのかな色気があり、応対もそつが無く巧みであるので、峠の弁天様という通称で親しまれている。この半平・志乃という茶店を営む夫婦がこの小説の主人公である。なぜか?

 十年ほど前までは茶店を老夫婦がやっていた。いつの間にか半平と志乃が茶店を手伝うようになり、いつしか半平と志乃が茶店を引き継ぎ、十年の歳月が過ぎたのである。
 結城藩では国境に口留番所を設けている。いわば関所である。ある年の初夏、それも朝方に町人の身なりをし、子ども3人を連れた夫婦という親子連れが茶店の前を通り過ぎようとする。一見、番所の役人の目をくぐってきたらしいので関わらない方がいいと思いながら、つい志乃が「お休みになりませんか」と声を掛ける。そんな場面からストーリーが始まって行く。男は吉兵衛といい、結城藩城下の味噌問屋の倅で店を継いだのだがうまくいかず夜逃げしてきたという。このとき志乃は吉兵衛から結城藩の実情の一端を知ることになる。
 この親子連れが峠を下り、麓の安原宿の金井長五郎の旅籠に泊まる。翌朝、奉行所の宿改めがあり、その際親子連れの荷の中から高価そうな珊瑚の簪が出てきたことから、10日ほど前の岡野藩城下での押し込み強盗の一味ではないかという嫌疑を掛けられたのである。
 吉兵衛親子があらぬ嫌疑でお縄になったことが糸口となり、半平志乃夫妻が関わりを持つことになる。そこから様々に波紋が広がり、様々な人々の個別の人間関係の間に、いろいろなつながりができている、あるいはできていたことがわかるにつれて、それが影響を及ぼしていくという興味深い展開になる。そのプロセスが、少しずつ半平志乃の過去の人生の柵を明らかにしていき、二人が過去に繋がる現在状況の渦中に投げ込まれていくというストーリー展開である。そして二人の過去の行為、柵、思いの精算、浄化へと導いていく。
 
 安原宿で大野屋という旅籠の主人である長五郎は、藩から苗字帯刀を許されていて、宿場役人の役目を担っている。さらに、街道筋のやくさ者も憚る顔役だった。奉行所の宿改めで吉兵衛は嫌疑をかけられ取り調べられる。その過程で、吉兵衛が結城藩城下の味噌問屋三根屋の息子とわかったことから、長五郎には若い頃に半ばやくざ者となって流れ歩いて居たころに、吉兵衛の父親に世話になったという恩義が甦ってくる。吉兵衛はその前日に弁天峠を越えて岡野藩に来たことを証言できるのは志乃であるという。そこで、恩義を感じる長五郎が峠を登り志乃に安原宿まで下って協力を依頼する。ここから10年近く峠の茶店の夫婦が背負う過去の人生経緯が明るみに出ざるを得ないという形にストーリーが展開していき、半平志乃は他人の事件から自分たちの過去の柵に立ち向かって行く結果になる。
 二人の秘められた過去が、いくつかの現在事象の進行と関わりあいながら、徐々に表に出てくるプロセスが読ませどころである。

 吉兵衛の幼い娘おせつは、簪を弁天様からもらったと役人に告げる。峠の弁天様と呼ばれるのは志乃である。はたと困惑する志乃。志乃がおせつに尋ねると、それはお堂の弁天様だという。そこで、弁天堂に盗賊一味が一時身を潜めていたことがわかる。
 吉兵衛にかかった嫌疑という最初の事象、小さな謎は、徐々に解明されていく。峠の弁天堂に夜盗夜狐一味が潜んでいたならと、役人の甚十郎は捕り手をかき集め峠に登る。弁天堂は焼かれ、巡礼僧の六部の姿をした強盗が現れる。峠での捕り物となるが、そこに半平が手助けにくる。仕込み杖を振るう六部に半平は薪を手にして対応していく。一味の頭らしき六部は剣の心得がある者だった。頭は半平に仕込み杖を打ち据えられて取り落とすと、その場から逃走する。なぜか半平は追おうとしなかった。このことから半平には夜盗夜狐との関わりが生じてしまう。甚十郎は、薪を剣代わりにして扱った半平の動きから半平が雖井蛙(せいあ)流を使うと判断する。半平がもと武士であったようだと見破るのだ。
 半平志乃がなぜ茶店の夫婦になっているのか。夜狐一味の暗躍という現在事象に巻き込まれたが故に、二人の過去の一端が表に出ることとなる。半平は対応した夜狐の頭らしき者が雖井蛙流の太刀筋をみせたと見抜いたことが、その逃走を追わない理由だったのだが、それがまた別の現在時点の謎を生むことになる。半平志乃の過去の人生という謎解きがこのストーリーの本流としてとして始まって行くとともに、話が思わぬ方向に展開していく契機にもなる。

 ストーリー展開として、宿場役人の長五郎は半平志乃を事件に深く巻き込んでいくきっかけを生み出す狂言回し的な役割りとなる。その一つが、現在事象として、半平が甚十郎の息子の剣術指導を行わざるを得なくなる契機となる。また、甚十郎との関係ができることが、半平志乃のその後の行動にも関わりが深まるという側面が生まれている。長五郎及び甚十郎は、半平と志乃に対する協力者としても働きを担っていくことになる。人のつながりの不可思議さが織り込まれていく。

 半平が武士を捨てた契機がどこにあったのか。その謎がすこしづつ解きほぐされていくのだが、そこには結城藩の藩内の派閥抗争が関係していた背景が見えていく。それは根深く十年を経た今も継続していて、岡野藩をも巻き込む事態になっていたのだ。
 半平志乃はその状況に深く関わって行かざるをえない立場になっていく。それは、長五郎、甚十郎、吉兵衛など主な登場人物がすべて関わって行く事態に進展していくのである。

 このストーリーの構想がなかなかおもしろい。
 小さな事件の謎解きがきっかけとなり、大きな謎に関わりができていく。その大きな謎は、単純なものではなくて、複雑にいくつかの側面を持ち、様々な要因が絡まり合って複合していることが徐々に明らかになっていく。
 そして、「親子の情」という要素が事態の打開にとり重要な梃子となって働いていく。
 この小説のテーマは「情」の有り様を描きあげることにあると受け止めた。その裏に出世欲、権勢欲という情念の発露とその帰着するところはどこかが副次的テーマとなっているように思う。著者はここでもまた、人の「こころ」の有り様を追い続けている。

 ご一読ありがとうございます。


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『あおなり道場始末記』  葉室 麟  双葉社
『孤蓬のひと』   角川書店
『秋霜 しゅうそう』  祥伝社
『神剣 一斬り彦斎』  角川春樹事務所
『辛夷の花』   徳間書店
『風かおる』  幻冬舎
『はだれ雪』  角川書店
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』  新潮社

『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本  講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社


===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新4版(37+1冊)2016.1.27

『百人一首がよくわかる』  橋本 治  講談社

2017-06-10 12:08:26 | レビュー
 百人一首に関心を持っているので、文庫本や新書版で出ている解説本は手許に結構ある。通読というより、その都度の参照読みが多い。そこで、この本の背表紙を見たとき、著者がどう読み解くのかに関心をいだき読んでみた。

 奥書を見ると、「本書は、2009年に海竜社より刊行の単行本『新装版 桃尻語訳百人一首』を底本にしました」と記されている。私は海竜社刊の方もこの奥書を読んで初めて知ったので、底本とするという意味がどういうことか不案内である。事実だけ記しておく。
 さて、この本の特徴はまず実に手軽に感覚的に読みやすいということである。一首の説明に見開き2ページで使われている。ただし、右のページは、詠者名、本歌、現代語訳が記されているだけ。そして左のページは、一行41文字で最大12行、文字数にして最大492文字。一文字落としや段落があるので、さらに文字数は少なくなる。だから、現代語役に直接関係する事柄にほぼ絞り込まれた説明になっている。著者の現代語訳の解釈を読者の知識を広げるために少し補足解説する程度と言えようか。だから、学習参考書的な雰囲気はないので、面白く読み進むことができる。文字を読むという観点で言えば、221ページのボリュームが実質百数十ページの本を読むくらいになる。
 
 2つめには、文学研究者の解説本とは異なる点がある。それは、現代語訳のやり方である。藤原定家が選んだとされる百人一首の現代語訳を、著者が和歌の形で訳しているのだ。だから百人一首が現代人の感覚で和歌の5・7・5・7・7のリズムの感覚で読め、意味が現代感覚ですっと読める。つまり、百人一首が感覚的にス~ッと伝わってくるという次第である。そのス~ッと感の補強解説を必要に応じて左のページに加えていると言える。
 ただし、著者は和歌の形での現代語訳について、そのスタンスを4ページの「百人一首の現代語訳」で次のように述べている。著者のスタンスが現れている。
 「元の歌を見てください。たいした内容の歌でもないのに、昔の言葉にすると、とても深い内容で、美しいイメージがあるように見えるのです。大切なのは、そのことです。どんなことでも、言い方によっては、美しくなるし、深くなるのです。現代語訳は、そんな古典の言葉の美しさを知るための、参考だと思ってください」と。ちょっとした反語的言い回しがここにあると思う。

 3つめです。藤原定家が鎌倉時代までの100人の和歌を1作者1首で選んで、『百人秀歌』にまとめた。それが出発点で、後に『百人一首』が生まれたというプロセスが研究者により分析されています。よく言われているのは、定家は一人の歌人の詠んだ歌の中からベストと思われる歌を選んでいるとは限らないという論議があることです。定家には一歌人の歌を何らかの意図に合わせて1首チョイスしているという立場にたち、百首の歌のつながり具合や全体構造を読み解くというアプローチがかなり研究されている。こういう視点で分析的に研究された研究書や解説書、あるいは小説として描き出した本などがいくつも存在する。学者ではなく、作家として活躍する著者は、この点で一つの仮説を設定して、その観点で百人一首を読み解いていく。百人一首の関連構造を論じるということは、少なくとも文学研究者の百人一首解説本にはない。手許の文庫本・新書を見た範囲では、学者・研究者の解説本は原則的に各一首の歌の解釈と鑑賞のための読み解き解説である。
 それに対し、著者は、百人一首は「二人ずつのペアが50組ある」という仕組みで「オールタイム・ベスト100」が時代順に並べられているという仮説で読み解いていく。この点が、興味をそそる点でもある。歌をペアにして、時代順に並べて行きながら、全体の構造的なつながりにも触れていく。この点が興味をそそり、かつおもしろい。
 つまり、天智天王・持統天皇が最初のペア歌、柿本人麻呂・山部赤人がペア歌、・・・・という仕組みだと著者は読み解く。詠まれた歌の関わり方の解説が興味深いのである。そこに当事者の歌人が意図しなかった、藤原定家がペア歌にした意図、思惑が織り交ぜられているということになる。全体の関係性の中で、歌人と歌を理解するという鑑賞要素が生まれていく。

 それでは、著者の現代語訳自体を紹介するという観点で、手許にある百人一首解説・鑑賞本の中から、幾つかを取り上げて現代語訳を対比的に並べてみることにしよう。対比するそれぞれの解説・鑑賞本には、それぞれの特徴・個性がある。それぞれに有益なアプローチであることは間違いがない。対比n中から、橋本流現代語訳の面白さを感じていただく対比材料に使わせていただくだけである。参照書にまず少し触れておこう。

『百人一首』 全訳注 有吉 保著  講談社学術文庫
 文学研究者のオーソドックスな解説・鑑賞本。各一首に4ページでまとめられている。現代語訳・語釈・出典・鑑賞・作者・古註・解説とオールラウンドであり、過去の解釈原典などのソースもあり、研究視点では有益である。

『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人監修 PHP文庫
 百人一首の研究者が監修している初心者向けの解説本。各一首に2~3ページを使い、現代語訳と解説がある。解説には、興味を惹かせるキャッチフレーズ見出しが付く。1ページをまるまる使ったイラスト図が要所要所に挿入されていて、イメージに訴求するので、入門書としては親しみ易い。10人の有名歌人のプロフィールをそれぞれ見開き2ページでまとめたコラムもある。

『百人一首 恋する宮廷』 高橋陸郎著 中公新書
 詩人である著者が、新聞連載という形で百人一首について一首ずつ語った文章を新書にまとめたもの。各一首に、見開き2ページでまとめられている。本歌が最初に記され、著者の連載記事文章の冒頭に現代語訳が書かれて、その後に著者の解釈や思い、読者への歌人周辺情報の解説などが綴られていく。著者は「後読みの大切さ」を重要だと言う。「読者それぞれが自分の生きている条件の中で読むことで、作品は書かれた時点からさらに成長するのではないか」(はじめに)と主張する。また、「わが国の詩歌の基本が恋歌」であると言う。詩人が受け止めた百人一首の鑑賞本である。

         

 以下、橋本訳、有吉訳、吉海訳、高橋訳という表記で対比的に良く知られた歌数例をサンプリングしてご紹介する。一つの歌を現代語訳するとどうなるか。その面白さも味わえるだろう。ここに対比した参照本に興味を持ってもらうきっかけにもなるかもしれない。
 本歌、歌人名をまず掲げ、その続きに各氏の現代語訳を並記する。

☆ 春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天のかぐ山     持統天皇 2

 橋本訳 春すぎて 夏来たみたい 真っ白な 衣干すのね 天のかぐ山
 
 有吉訳 いつの間にか春が過ぎて夏がきてしまったらしい。白妙の衣を干すという
     天の香具山に。

 吉海訳 春が過ぎて夏が来たらしい。昔から夏に白い着物をほすといわれている
     天の香具山に、純白の着物が干されているよ。

 高橋訳 どうやら春が過ぎて、夏が到来したようだ。新しい季節のしるしに白栲織
     の衣を干すという聖なる香具山に、白い色がまぶしい。この山に来た夏は
     たちまち全国に及ぶだあろう。

☆ 花の色はうつりにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに  小野小町 9

 橋本訳 花の色は 変わっちゃったわ だらだらと 
              ひとりでぼんやり してるあいだに

 有吉訳 美しい桜の花の色香は、すっかり色あせてしまったことであるよ。むなしく
     春の長雨が降っていた間に。--私の容色はすっかり衰えてしまったなあ。
     むなしく私が男女の間のことにかかずらわって過ごし、いたずらに物思いに
     ふけっていた間に。

 吉海訳 桜の花の色はあさえてしまったわね。長雨が降り続く間に。私の容色も衰え
     てしまったわ。もの思いにふけっているうちに。

 高橋訳 目の前の花の色も、それを見ている私の色香も、すっかり移ろい褪せてしま
     ったなあ。ただぼんやりとなすこともなく、降りつづく長雨を来る日も来る
     日もながめ、自分の身すぎ世すぎのことを思いつづけているあいだに。


☆ 陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに   河原左大臣 14

 橋本訳 東北の しのぶ摺りだよ 誰のせい 乱れ模様は 僕からじゃない

 有吉訳 陸奥の信夫で産するしのぶ摺りの乱れ模様のように、私の心は忍ぶ思いに
     乱れていますが、あなた以外のだれかのために、乱れ始めた私ではないのに。
 吉海訳 陸奥の染め物「信夫もぢずり」の乱れ模様のように、私の心も乱れ始めた。
     誰のせいか? 私ではない、あなたのせいだ。

 高橋訳 遠いみちのくの、音に名高い信夫の里のしのぶぐさで染めた捩り染めの摺衣。 
     しのびにしのんだ私の心が捩り染めのように乱れ始めたのは、誰のせいでも
     なくあなたのせい。それなのにかえって私の心をお疑いとは、心外千万とは
     まさにこのことではありますまいか。

☆ 逢ふことのたえてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし 中納言朝忠 44

 橋本訳 セックスが この世になければ 絶対に こんなイライラ しないだろうさ!

 有吉訳 もし逢うことがまったくないものならば、かえって、相手の無情や、我が身
     のつらさを恨んだりはしないだろうに。

 吉海訳 もし逢うことがまったくなかったら、かえって、つれないあの人を恨んだり
     自分の運命を恨んだりしないだあろうに。

 高橋訳 世の中に男と女の相逢うて契りを交わすということがまったくないものなら、
     その後でつめたくなったあなたを恨むことも、そんなあなたを慕わしく思って
     契りを結んでしまった自分を恨むこともあるまいに。しかし、それでも、
     そんなあなたがいよいよ慕わしく、そんな自分がいとおしく思えてならない
     とは。ああ、恋というものは。

☆ 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする  式子内親王 89

 橋本訳 ネックレス 切れてもいいのよ このままじゃ 
                 心もそのうち はじけて消えそう

 有吉訳 わが命よ、絶えてしまうなら絶えてしまえ。このまま生きながらえると、自分
     の心ひとつに秘めている気持ちが弱り、思いが外に現れてしまいそうであるよ。
 吉海訳 私の命よ、絶えるのなら絶えてしまえ。生き長らえると、この恋を心に秘める
     力が弱まって、人に知られてしまうと困るから。

 高橋訳 みずから見たことはないが、わが魂をわが躰に結びつけているという美しい
     いのちの緒紐よ、切れるならいっそ切れてしまってくれ、こんな苦しい気持の
     まま、これ以上生き存えても、いつか心弱りして、せっかく忍び匿してきた
     裡の思いが外に現れてしまいかねないから。

と、まあこんな感じである。和歌の形で現代語にストレートで訳して、ス~ッと読者に分からせるおもしろさが読ませどころだろう。すばやくわかる、よくわかるというところ。
一方で、重ね合わせて読んでいくことで、百人一首の歌意のニュアンス理解に奥行きと広がりが加わるということも言える。「和歌の入門レッスン」である「百人一首」の世界に入るために、まず一冊、手軽な書を読んでみることから始めよう。

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百人一首に関連して、こんな本の印象記も載せています。お読みいたあだけるとうれしいです。

『百枚の定家』 梓澤 要  新人物往来社
『英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ』 マックミラン・ピーター 集英社新書
「だれも知らなかった<百人一首>」 吉海直人  春秋社



『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本  講談社

2017-06-08 22:14:29 | レビュー
 講談社から戦国時代を舞台にした「決戦!」シリーズが既刊として第5弾まで出版されている。同社から、「決戦!」は戦国時代だけじゃないという観点から、別に発刊された1冊がこれである。既に『決戦! 三國志』が発刊されているのを、この本の裏表紙から知った。いずれこれも読んでみたいと思う。

 さて、本書は見かけは泰平の世となっている元禄年間の大事件、後に「忠臣蔵」という言葉が定着した赤穂浪士の吉良邸討ち入りという事件をテーマにした短編競作集である。 元禄14年(1701)3月14日、江戸城中松之廊下で、浅野内匠頭長矩が、高家筆頭の吉良上野介義央を小刀で切りつけて傷を負わせる事件が発生する。取り押さえられた浅野長矩は、将軍の裁決で即日切腹を申し付けられる。そして赤穂藩は改易となる。国家老大石内蔵助良雄は赤穂城を明け渡し、長矩の弟、浅野大学による御家再興願いの根回しに取り組むが幕府は認めない。吉良義央にはお咎めがなかった。ただ、後に幕府から屋敷替えの命を受け、呉服橋内から本所二ツ目に住まいを移さざるを得なくなっていた。そして、元禄15年12月14日の夜更けに、大石内蔵助を含む47人の浪人が、吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首を落とし、泉岳寺に至る。赤穂浪士が泰平の世に、決死の義挙を決行し、赤穂義士と称されることになる。この討ち入りの日は、西洋暦でカウントすると、1703年1月30日にあたるそうである。
 赤穂浪士が赤穂義士と称されるようになるのは、死を賭して武士の一分を立て、成就した12月15日から世評が変化したからだろう。瓦版が江戸市中に広まったことだろうが、「忠臣蔵」という物語として世に親炙するのは、かなりずれる。「仮名手本忠臣蔵」として、寛延元年(1748)竹本座で初演されて以降である。45年のタイムラグがある。人形浄瑠璃・歌舞伎の演目として上演され、人気を博し、「忠臣蔵」という言葉とその意味が世の中に定着していくのである。勿論、そこには様々な推測、想像が加えられていく。ほぼ半世紀経って、やっとフィクションの形式での上演が幕府のお咎めなしとなったのだろう。 その結果、「日本人が愛し続けた物語」が存続してきたのである。
 どこまでが史実で、どこにフィクションが含まれるか・・・・多分、当事者以外には、当時も現代人にもほとんどがグレーゾーンの世界にあることかもしれない。
 この「忠臣蔵」、誰の立場、価値観、視点に立つかで、その見え方がかなり変化するはずである。それ故に、戦国時代と同様に、忠臣蔵の世界も、様々な作家、脚本家、演出家、映画監督などの関心を引き続けているのだろう。

 忠臣蔵の世界を、短編作品で描く。それは、どの局面を、誰の立場・価値観・視点から切り取るか、その発想と一点凝縮として描き出すかにかかる。今回の「決戦!」の面白さと興味深さは、戦国時代の舞台と比較すると、かなり限られた忠臣蔵の世界の中で、どういうアプローチを各作家が行うか、というところにもある。
 以下、この短編集の掲載順に読後印象をまとめてみたい。

<鬼の影> 葉室 麟
 赤穂の城の明け渡しを無事終えて、山科に居を移した時期の大石内蔵助良雄の立場と視点から、大石の山科時代の姿が鮮やかに描き出される。伏見の橦木町の遊郭で一見遊び呆ける中で、大石が作った歌詞、そこに秘めた思いを底流にしながら、大石の多面的戦略が描かれている。大石の虚と実のないまぜとなった行動の描き方がおもしろい。大石の鏡となって描きこまれるのが小野寺十内と山科まで江戸から出向いてきた堀部安兵衛である。 この短編、3つのキーフレーズが中核となっている。一つは『山鹿語類』にあるという「士ハソノ至レル天下ノ大事ヲウケテ、其大任ヲ自由ニイタス心アラザレバ、度量寬カラズシテセバセバシキニナリヌベシ」であり、あと2つは著者が十内に語らせたた「やわらかなる心」と、『近思録』にあるというフレーズである。「感慨して身を殺すは易く、従容として義に就くは難し」。短編の中での山場づくりが実に巧みである。

<妻の一分> 朝井まかて
 赤穂の街道筋の茶屋が設定場所となる。そこで、なぜか男言葉の江戸弁で茶屋の客に語りかけるように一人語りが始まって行く。なぜ、江戸弁? また、大石内蔵助とその家族の身近に居て、これらの人々と関わりを持ち観察していた立場で語られて行く。大石家のプライベートが題材になっていく。語るのは誰か? その発想がまずおもしろい。一人語りの途中で、その語り部が自ら語るので、ネタばらしはやめておく。妻の一分の妻とは?大石内蔵助の妻、りくである。ストーリーの半ばから大石内蔵助の「妻の一分」を中心にこの語り部が江戸弁で語っていくという構想である。
 一人語りを聞き終えた茶屋の客は誰か? その客は、作家であり、話を聞いて浄瑠璃にする題を思いついたという。『仮名手本忠臣蔵』だと。構想として、おもしろい落ちである。

<首なし幽霊> 夢枕獏
 忠臣蔵が題材で、首なし幽霊というタイトルならば、首なし幽霊は吉良上野介という連想がはたらく。しかし、この短編、忠臣蔵自体を扱わず、その後に起こった幽霊話となっていて、吉良上野介のある能力の側面に光を当てていて、一つの謎解き話になっているところが面白い。
 人形町の鯰長屋に住む遊斎の家に、長門屋六右衛門が訪ねてきた場面から話が始まる。六右衛門は遊斎の特注品である釣り竿を届けにきたのだ。仕舞い込み寸法1尺6寸で、伸ばすと全長9尺(約2.7m)ほどになるものである。六兵衛は遊斎になぜ自分のところにその特注の依頼が来たのか、どこで六兵衛のところの竿のことを聞いたのか、と尋ねるのだった。遊斎は『魚人道知邊(ぎょじんみちしるべ)』という書に懐中振出し竿の記述があったからという。それを聞いた六兵衛がその書の著者である玄嶺が小普請組の加山十三郎という侍であり、十三郎が首なし幽霊が夜になると出てくると悩んでいると言う。そして、十三郎は遊斎の噂を聞いていて、六右衛門に遊斎に幽霊の問題解決を依頼したいと頼むのだ。そこから、遊斎と十三郎が会う事になる。なかなかおもしろい発想のストーリーだ。 ちょっと変わった切り口の短編である。『大江戸釣客伝』を書いている著者ならではの発想か。

<冥土の契り> 長浦京
 吉良邸討ち入りに加わった四十七士の一人、不破数右衛門正種を主人公にした短編。不破数右衛門の人物像を描き出していく。討ち入りの夜、赤穂浪士の一人として隊列を作り吉良邸に進む不破数右衛門の胸中の思いから書き出される。数右衛門が、同志からどこかで裏切るのではないかと信用されていないということを自覚している一方で、「俺自身も今ここにいることが半ば信じられない」と思っているという心理描写から書き出される。「右に左に曲がりながら行く先には、幸運も不運も、大義もない。ただ負うた義理を消し去るため、この道を進み、壊し、斬り、首級を挙げ、そしてこの身も死して終わるのみ」と不破数右衛門が覚悟している。それはなぜか? それがこの人物を描くテーマとなっている。討ち入りの夜から1年8ヵ月前に遡って、ストーリーが始まる。
 ところで、不破数右衛門は4年前に赤穂藩を追われ、浪人となり江戸に住んでいたのである。つまり、浅野内匠頭の松の廊下事件の時点で、既に赤穂藩とは縁が切れていた存在なのだ。その不破が四十七士の一人に加わっていたという事実を、この短編で初めて知った。その事実に著者の想像力が羽ばたき、奇想が生まれたというところか。

<雪の橋> 梶よう子
 討ち入りという事象を吉良側から眺めると、当然ものの見方は変わる。この短編は、高家旗本吉良家中小姓、清水一学の立場で、討ち入りを想定し上野介を護ろうと身構え、その夜、行動した武士の思いと生き様を描く。上野介の目にとまり、百姓の倅から武士に取り立てられた男にとり、日頃接した主君である上野介、所領では「赤馬の殿さま」と呼ばれ慕われていたという上野介がどのような人物であったかを描く。一学の思いは、「大殿を打たせてはならん。討たれれば、我らが不忠者と誹られる」(p172)である。そして、あるとき上野介の妻富子が自分の髪に差していた櫛を抜き取り、「これを送ってあげなさい」と言って与えた雪景色の橋の意匠の櫛のエピソート、一学の美与への思いが重ねられていく。赤穂事件の真実は何か? 吉良上野介義央の実像とは? この短編はステレオタイプの忠臣蔵像へ一石を投じたともいえるフィクションである。事実を求めたくなる興味深い読み物となっている。

<与五郎の妻> 諸田玲子
 森家の江戸下屋敷のお長屋に住む江見甚右衛門の妻・ゆいを主人公にした物語である。半年ほど前に森家下屋敷の御用達になった酒屋の庄助が、美作屋善兵衛という扇の行商をする小間物屋から託されたという扇をゆいに届けに来た場面から書き出される。ゆいの前夫は神崎与五郎。5年前に美作国津山城主であった森家は騒乱が起こり、改易となった。ゆいは離縁を余儀なくされた。その後、森家は小大名として返り咲くことができた。与五郎との間にできた一男一女を連れて、ゆいは再嫁して江戸作事奉行・江見甚右衛門の妻となっていた。
 赤穂浪士のそれぞれには、家族が居て、人間関係がある。赤穂藩の家臣となる前の過去もある。しかし、赤穂藩改易後、忠義を目的とした浪士たちは一切の柵を斬り捨てて、目的完遂を優先する選択をした。津山森家の家臣で改易により浪人し、その後赤穂藩家臣となったが、ここでも改易のために浪人に戻った神崎与五郎が、討ち入り決行の前に、ゆいに一度再会したいという思いを託したのが舞鶴の絵柄の扇だった。そこから、ゆいの思いの乱れが始まって行く。一種ハムレット的心理が描写されていく。ゆいがどういう行動を選択するか。甚右衛門がどういう反応と行動をするか。その心理描写が読ませどころである。

<笹の雪> 山本一刀
 著者は高知県宿毛市立宿毛歴史館に赤穂義士四人の遺墨原本が保存されていると記す。そこは泉岳寺で修行した僧白明の在所だという。(ネット検索で調べてみると、宿毛市史には、東福院に遺墨が残ると記されている。宿毛歴史館のホームページには、この遺墨のことについてのページはなさそうである。)
 土佐国宿毛の東福寺に属する雲水の白明は、元禄15年3月から泉岳寺の衆寮に寄宿する雲水として修行を続けていた。新年を迎えれば20になる雲水である。大鍋で作る粥当番を進んで引き受け、任されていた。
 この短編は、泉岳寺で修行する白明を中心人物とし、討ち入りを果たして浅野内匠頭の墓がある泉岳寺に向かってくる赤穂浪士を、泉岳寺がどのように受け入れたかを描いて行く。赤穂浪士が泉岳寺に向かってくるという情報を結果的にいち早く伝えたのは、泉岳寺の裏山伝いに、境内に入り込んできた瓦版屋の耳鼻達(記者)だった。境内で密かに様子を取材するつもりだったのだ。その不審者の侵入を白明が発見したことから、話が進展していく。史実とフィクションの狭間がどこにあるかは知らないが、白明の思考と行動、泉岳寺の上層の僧の対応が鮮やかに描かれていて、躍動感と読み応えがある。白明と白明が世話役となった4人の赤穂義士との心の交流が最後のクライマックスとなる。
 「ご住持は、これからお見えになるであろう方々を、赤穂義士とお呼びになられた。本日ただいまより当寺においては、赤穂義士とお呼び申し上げる」(p239)と著者は描き込む。この時、赤穂浪士は赤穂義士に変容したのである。

 裏表紙に記されているが、元禄15年12月14日を西暦に変換すると、1703年1月30日に相当するそうだ。暦は西暦で太陽暦になったが、討ち入りの日は、太陰暦での12月14日の日付が、そのまま現在のカレンダーでの12月14日に継承されている。江戸時代を通じて続いた日付の思いが、そのままスライドして忠臣蔵のシンボル、記号として定着したのだろう。1月30日という読み替えの感覚を全く持ち合わせて居なかった己に気づいた。裏表紙をみて、アア、ソウナンダ!とはわかっても、心に刷り込まれた日付は、やはり12月14日だなあ・・・・と思う。
 
 ご一読ありがとうございます。

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本書に関連し、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
仮名手本忠臣蔵  :ウィキペディア
仮名手本忠臣蔵  :「文化デジタルライブラリー」
赤穂事件  :ウィキペディア
赤穂事件  :「コトバンク」
赤穂事件の人物一覧  :ウィキペディア
赤穂四十七士と萱野三平  :「元禄赤穂事件の一部始終」
元禄赤穂事件の詳細その1  :「元禄赤穂事件の一部始終」
忠臣蔵の謎と真実 :「SENGOKU SURVIVAL」
萬松山泉岳寺 ホームページ
  境内案内 
宿毛市立宿毛歴史館 ホームページ
赤穂義上の遺墨と東福寺 宿毛市史[近世編-文化人と宿毛]
赤穂浪士と土佐  土佐史研究家 広谷喜十郎氏  :「高知市歴史散歩」
吉良義央  :ウィキペディア
吉良上野介を巡る旅 領民から慕われる悲劇の名君  西尾市観光協会
華蔵寺  :「西尾市観光協会」
吉良上野介義央と吉良左兵衛義周の生涯:「元禄赤穂事件の一部始終」
清水一学 :ウィキペディア
清水一学の墓  :「墓地・終焉地写真紀行」
討入り名場面-その12-  :「忠臣蔵新聞」


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決戦シリーズを読み継いできました。以下もご一読いただけるとうれしいです。
『決戦! 桶狭間』 冲方・砂原・矢野・富樫・宮本・木下・花村  講談社
『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 関ヶ原』 伊東・吉川・天野・上田・矢野・冲方・葉室  講談社


『ゼロの激震』 安生 正  宝島社

2017-06-03 23:46:20 | レビュー
 「平成」という年号の意味するところとは裏腹に、「平成」に入ってから大震災が複数回発生し、地震の頻発と被害の大きい噴火も複数起こっている。「日本列島が大きな変動期に入っているのではないか」という地質学者の見解も発表されているようである。そんな背景の中で、東京がメガ・クライシスの坩堝に投げ込まれるというシナリオを想定した科学サスペンスである。
 テーマは東京都心が大噴火と地震により壊滅するというシナリオにどう立ち向かうかである。科学者や技術者による原因究明と危機対応及び国家の為政者・官僚による危機対策が相互に関わり合いながら事態が進展する。さらに、一歩掘り下げると、そのテーマの根底に国家戦略の問題が潜んでいるという二重構造になっている。
 このテーマは言い換えると、人間/国家は自然の脅威を真に制御/征服できるのかという根源的な問題提起に繋がっている。
 
 序章は、東京湾、千葉県浦安沖に世界最大の『浦安人工島』が建設されている状況から始まる。それはオホーツクプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレートという3枚のプレートを刳り抜き、その下のマントル層を目指す深さ50kmの立杭掘削という建設工事を進めているシーンである。JPSという国策電力会社の計画発注に応じた建設工事なのだ。マントル層の熱エネルギーを利用して発電し電力を生み出すという夢のような工事が着々と進行している。立杭掘削工事のリーダーは木龍。浦安人工島建設工事の現場代理人である、木龍を支えるのは達冨と長岡。彼らは太平洋建設の社員、技術屋である。現場の掘削工事にはベテランの職長川口が腕を振るっている。
 掘削中のカッターヘッドの偏心が発生するというトラブルの発生に彼らが対策修理を進める最中、切羽の方向から地鳴りが響き、鉄砲水が発生し、切羽崩壊が起きる。木龍は全員退避を命じ、鉄砲水で怪我をした長岡を担いで梯子を上る。機密扉に手が届いたとき、誰かに首根っこを掴まれて、木龍は引っ張り上げられるが、長岡の体が木龍の肩からずり落ちて立穴に残される。川口が機密扉を閉めてしまう。気密扉をすばやく閉じなければ、マシンが水没し、全員が死ぬことにつながるという状況判断だった。
 だが、この事故が原因で、木龍は己の責任と主張して、建設工事の代理人を辞任する。木龍は長岡を助けられなかったことが原因で、PTDSに苛まれることになる。
 一方、建設工事はその後、上層部からの命令で2年間の工事中断させられる。なぜ中断すすのか、達富たちは知らされない。その後を工事が再開され、9年後に『東京湾第一発電所』建設プロジェクトは成功し、夢の発電所が完成する。バベルシステムと称される発電システムの稼働である。発電量2000万キロワット、原発20基分の発電量が確保できるのである。

 発電所完成の式典に木龍も列席するが、その会場でライバル会社である全日建設の樋口が木龍を見つけ、優秀な長岡を見捨てた男がこの場にいると揶揄するのだ。突然、木龍はPTSDの症状に襲われて気を失う。
 この式典の前日、栃木県にある国道120号線の金精峠で地鳴りとともに土砂崩れの災害が発生していた。それから2週間余の時を経た7月15日、足尾銅山や松木渓谷のある足尾町一帯で非常に震源の浅い地震が発生する。その地震が一帯に大災害を引き起こす。金精峠に続く足尾での災害発生。だがこれは、始まりに過ぎなかったのだ。
 7月16日、式典後2週間、同じ夢に悩まされた木龍は神谷町セントラルクリニックで診断を受ける。その後、大学時代の恩師である氏次教授から連絡を受け、奧立という人物に会うように依頼される。クリニックを出るとすぐに、先方が木龍に接触してきた。自己紹介として奧立隆弘と名乗り、職業は鉱山石油関係の実業家だという。金精峠の土砂崩れと足尾町の災害は関連していて、同じ要因が原因であり、発生地点が南下している。奧立らの予想がただしければ、事象は今後も発生し、やがて関東が壊滅する事態が発生するかもしれないという。これに対処していく上で、木龍の経験、技術者としての力量が必要なのだと。だが、木龍は、奧立の協力要請を請けられないと拒絶する。いずれ、氏次教授から連絡が行く。その時までにもう一度考えてみてくれと。そして、最後に「我々には時間がない。・・・・我々は大変なことをしてしまったのだ。取り返しがつかないことを」というおかしな呟きをして、車で去ったのだ。

 8月4日、群馬県富岡市で、地震が発生し、大火災が発生する。達富とその部下設楽とJR新橋駅近くの居酒屋でテーブルを囲んでいた木龍は、テレビのニュースでこの災害を知る。奧立の発言が木龍の頭をよぎる。そのときスマホのメールで、氏次教授から、明日、大学に来てほしいというメッセージを受けとる。これが、木龍がメガ・クライシスへの対処に巻き込まれていく始まりの日となる。

 このストーリーの展開にはいくつかのサブストーリーが互いに関連性を持ちながら交差し、重層して最終ステージに向かって突き進んで行く。
一つは、このメガ・クライシスに主人公である木龍が巻き込まれ、PTSDに悩まされながらも、技術者としての信念で立ち向かっていかざるを得なくなるストーリーの顛末である。東都大学でマグマ学の専門家として研究する氏次教授が、過去に累積されたデータのない地域でのマグマの動きと地震の発生の解析から仮説を立てる。それを拠り所に、木龍は氏次教授と連携しながら、技術者の立場で対処していくプロセスが描かれていく。その一方で、氏次教授はマグマ移動の原因究明を目指す。科学サスペンスのストーリーが展開されていく。

 そこに、JPSという国策電力会社の副社長香月の行動ストーリーがパラレルに進行していく。彼は東都大学時代に木龍と隣同士の部屋になった間柄であり、法学部を出た後、通産省の官僚となり、バベルシステムの建設計画推進のために、国策会社に移籍し、経営者側の立場でこのプロジェクトを率いてきたのだ。香月はこの電力システムをアメリカへのビジネスとして売り込む交渉に乗りだそうとしている。だが、社長をはじめ他の取締役たちに足元をすくわれる立場になっていく。己が知らされていなかった事実に直面し、独自の決断と行動に歩み出す。幾度も木龍と交差する接点が出てくる。

 さらに、このメガ・クライシスに対する政府の対応という次元のストーリーが加わる。足尾町での災害発生後に立ち上げられた非常災害対策本部(防災担当大臣が本部長)に代えて緊急災害対策本部(首相が本部長)が設置される。そして、武藤内閣危機管理監がその実務のトップとして、指揮していく。武藤はもちろん氏次教授と緊密な連携を図りつつ、災害対策の指示、判断に邁進していく。具体的には武藤の言動が中心のストーリー展開となる。木龍は武藤の要請をうける立場になっていく。
 政府には国際社会に対し公約した政策があった。その政策への結果を出すために国家戦略を密かに実施していた。それがメガ・クライシス発生の原因となったのである。想定されていなかった事態が起こったのだ。

 それぞれの局面で、己の生き様と命をかけた行動が始まっていく。

 地球の構造、プレートテクトニクスの理論、地質学・地質構造学、マグマ学、噴火と火山形成、地震のメカニズムなどの分野の理論や実務知識などが次々にストーリーの中に登場してくる。私のようにこの分野の門外漢で、この分野に疎い者には理解しづらい説明が頻出し、最初はすこしとっつきにくい感じがある。だが、ストーリーの展開への興味と進展につれて、理論説明に伴うわかりやすいたとえでの言い換えが組み入れられていくので、大凡のイメージを作りあげていくことができる。そのためストーリーの流れに乗って読み進めて行ける。メガ・クライシスの発生と破局へのプロセスを楽しむには支障はない。
 勿論、この分野の理論や基礎知識の素養がある人が読めば、この小説の読み方は深いレベルで読み進められ、リアル感が一層もてるのかもしれない。

 地球科学について興味を抱くきっかけづくりになる小説でもあると言える。少なくとも、テクニカルな用語になじむ手始めになるという副産物も得られる。

 ご一読ありがとうございます。

 
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本書に出てくる用語など、関連事項を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
地球科学 学問情報 理学 :「マナビジョン」
地球科学   :「富山大学理学部地球科学科」
地球科学   :ウィキペディア
プレートテクトニクス  :ウィキペディア
プレートテクトニクス理論,広がる境界,狭まる境界,ずれる境界
   :「高校地理をわかりやすく、そして楽しく!」
第5部 火山はどうしてできる?  :「インターネット博物館」
   5.3 マグマはどうしてできる?  
【まさに最強!!】ドロドロと音をたてて流れる溶岩マグマ!! Amazing Volcano  :YouTube
噴火の源・マグマとは?  :「そなえる防災」(NHK)
マントル  :ウィキペディア
地球の地下深く、マントルの中では宝石箱のような世界が広がっていた! 
    :「NAVERまとめ」
海底掘削で人類初のマントル到達なるか 日本の探査船が活躍  :「CNN」
地球内部のマントルまで掘り進めるプロジェクトが地球深部探査船「ちきゅう」を使っていよいよ始動  2017.4.10  :「GigaZiNE」
地震の基礎知識  :「防災科学技術研究所」
地震   :ウィキペディア
地震の年表(日本) :ウィキペディア
地震情報  :「気象庁」
地震ハザードカルテ  :「防災科学技術研究所」

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こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『ゼロの迎撃』  宝島社
『生存者ゼロ』  宝島社