遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『京都の凸凹を歩く』 梅林秀行  青幻舍

2017-12-21 09:40:40 | レビュー
 この本のことを知ったのは、たしかブラタモリ「京都・清水寺」を見たときだったように思う。著者が地形の説明と案内役で出演していたと記憶する。四条通の東端にある八坂神社西楼門への石段が、桃山断層が生んだ大きな凸凹地形の場所、断層の境になるという話が面白かった。ある意味で目からウロコという面があった。子供の頃から今まで、毎年何度も八坂神社の石段を西楼門の通過点として上り下りしていたが、京都の断層地形との関連で考えてみることなど無かった。つまり、京都にある地形の高低差という観点を踏まえて、京都の歴史や建物の所在を読み説くという発想視点が希薄だったので私には新鮮だった。
 本書の副題は「高低差に隠された古都の秘密」である。太古に生み出された自然地形は時間が推移する中で、さらに自然の力(地震、風水害等)で変化が加わってきた。そして人間が時代時代に応じて土地のある部分を改変して営みを続けてきた。その累積で現在の道路、河川、住宅街や商店街などを含めた京都という都市空間が存在する。その中に地形の凸凹があり、その高低差自体に自然地形あるいはある時代の人間が造り出したものの痕跡として遺構があると見る。元はタモリさんの言葉らしいが、「土地の記憶」と著者は本文や末尾の対談の中で述べている。「坂道を削ったり、凹地を埋めたりして、今はもう地図上にないですよって言われても、現地に行くと実は微妙な高低差があったり、何かの痕跡を見つけたりできる」と言う。この本はそういう痕跡を、地形図やある時代の古地図などと対比させながら、遺構・痕跡を発見し、特定させて、「土地の記憶」を読者に思い起こさせていく。

 著者の肩書が興味深く、かつおもしろい。「京都高低差崖会崖長」と表紙に記されている。京都高低差崖会のリーダーなのだ。「京都高低差崖会」は「住民がガイドする京都のミニツアー『まいまい京都』を通じて生まれた」(p11)という。「単なる名所旧跡や石碑めぐりでは飽き足らず、自分自身の好奇心や問題意識を素直に表現する活動」(p11)の積み上げが具現化したのが本書というわけである、その好奇心の視点が、京都のまちにみられる凸凹地形の読み解き、土地の記憶の掘り起こしという訳だ。

 本書はあるエリアを歩きながら、そこにある凸凹地形の現状・遺構から、痕跡を発見し、土地の記憶を明らかにしていく。それぞれが、そのエリアの高低差崖会ツアーになっている。本書では7つのエリアにおいて、9つのコースとしてまとめてある。つまり、
  祇園 前偏・後編
  聚楽第
  大仏
  御土居 前編・後編
  巨椋池
  伏見指月
  淀城
である。これらのエリアは今までに個人的には史跡探訪で大凡見聞してきた。その一部は生活空間エリアでもあったし今もそうである。しかし、凸凹地形という視点で眺めるというのは、聚楽第遺構、御土居、巨椋池で部分的に考えたくらいだった。伏見指月や淀城は城の縄張りという観点で見ていたが、本書で語られる凸凹地形という意識はあまりなかった。城の縄張りの前提としての地形と考えていただけとも言える。

 読後印象結をまず述べる。大凡見聞しているエリアだったが、凸凹地形に着目して眺め直すという点で、新鮮な感覚で読み通せた。普通の観光ガイドブックなどと異なるのは、現状の地図に断層や旧河川・水域などを重ねた地図をベースに使うこと。さらに江戸時代の各種「図会」に描かれた風景・景観を現在のエリアに重ねて対比してみるという時間軸での変化度合いを対比分析していること。凸凹地形に目を向けて、そこから逆に現在の有り様に説明を加えていく。このアプローチがユニークである。現地写真を数多く取り入れてあるのでその説明が一目瞭然となり、ナルホド感を高める。凸凹地形を意識させられ、気づかせられるために、どこをどのように見るとよいのかという感覚・観点を学ぶことにもなる。そのための準備に何が必要かということも理解できる。ここに挙げられたエリアならば本書を携えて現地の該当スポットに立ってみることが手っ取り早い方法だろう。
 その他の地域ならば、そのアプローチ手法が学べて、応用する気にさせる点が読ませどころになるだろう。

 各コースには、地図が付され、本文で説明される凸凹地形のロケーションが番号付で記載されている。本文と地図での位置関係は大凡それでわかる。しかし、これを「歩く」コースとして捉えると、具体的にどの道を通りそのスポットに行くのが凸凹地形を感じながら歩くために最適なのかという点では、土地勘のない人には分かりづらいところが残る。本書は「高低差に隠された古都の秘密」の解明結果を9コースを事例にして、その要所を指摘して説明するのが目的なのだろう。
 読者が独力でこれらの現地を探訪することを想定すると、時間の効率性を考慮しもう少し詳細な経路説明が付録にあるといいなと感じた次第。探訪の効率性・効果性を考えるとガイド付きで歩くという形が暗黙の前提かもしれない。あるいは、それは読者自身の楽しみ、準備の領域ですよという投げかけということか。

 各スポットの写真が掲載されていて、それぞれえのコースでのミニマムの観光案内的な側面にも言及されているので、観光ガイドブックとしても当然役に立つ。凸凹地形の視点で捉えられている説明をそこに加えると、現状と過去(ある時代)との対比の生み出すイメージがひと味面白さを加えてくれることになる。そこに新鮮な感覚が入ってくると言える。京都のミニツアーでのガイド活動の経験がベースになっている故か、本文は話言葉風に読みやすく書かれている。

 凸凹地形から眺めた現在の観光スポットについて、本書の視点でとらえたおもしろい箇所をいくつかご紹介しておこう。私自身が今まで意識していなくて、ナルホドと思った箇所を要約し、いくつか挙げてみる。参照ページを各文末に記す。
*現在の大和大路通が江戸時代までの鴨川旧堤防に相当する。南座はまざに河原のど真ん中に位置する。(南座の建物傍に阿国歌舞伎発祥の地の碑があることに改めてナルホド!) p16
*南座の東にある仲源寺-通称「目疾地蔵」-は、市街地と郊外を分ける境界地点にあったお寺である。(四条通での洛中・洛外の境界点を絞り込んで意識していなかった!) p17
*京都らしさの代表スポットとみられる花見小路は実は明治以降の移転で形成された。元は建仁寺の境内地。建物の大半が塀造茶屋様式の建築スタイルである。標準茶屋様式とはちょっと違う。(この様式の違いなんて、意識した事がなかった。) p18-22
*植木屋の7代目小川治兵衛と建築家武田五一がタッグを組み、桃山断層の断層崖上に盛土造成を行い、連続の空間デザインとした産物である。現在の円山公園は田園風景の後、斜面眺望を利用した遊興地の時期を経ている。 p30-40
   (円山公園一帯がかつて「真葛が原」と称されてた理由が分かった!)
*千本中立売交差点から南東に約500mのあたりにある「松林寺」の境内地は、聚楽第の周囲に設けられた堀の堀底あたり、つまり聚楽第の遺構に由来する。但し、凹地の幅が約100mである点については別の要因も検討が必要。 p46-49
*「耳塚」整備事業の一環として周囲の石柵は、秀吉没後300年を記念して1898年(明治31)に建立されたもので、伏見在住の「侠客」で芸能界にもコネクションがあった「小畑勇山」がその呼び掛け人として一役かったという。この人物は他の神社にも石柵奉納をしているとか。「小畑勇山」という名は、手許にある『京都府の歴史散歩』(山川出版社)や『昭和京都名所圖會』(駸々堂)というかなり詳細な記述の本にも記載が無い。ちょっとトリビアなレベルかも・・・・。 p59-60
 (そんなマニアックさも本文説明に散在する。大凡探訪しているコース故にホゥ!)
*秀吉が京都に築造した御土居は「惣構」の一つだったと言える。この御土居を秀吉は4ヶ月で完成させた。超短期土木工事だった。西賀茂断層の崖を越えて谷をまたぐ箇所もあり、自然の地形構造とのコラボレーションをしていることもわかる。 p74-77
 (部分部分の御土居を探訪してきている。新たな目で再訪する良い材料!)
*宇治川河岸段丘が形成した高台、指月の丘は、各時代の有力者が好んで住んだ場所だった。「土地のブランド力」がまずあった。そこに水運の利と京への立地を生かし、政治の中核とする政策視点が加わった。 p101-103, p112-120
 (伏見が交通の要衝地、京への要の地はしていたが、土地のブランド力という見方はしていなかったなぁ・・・・)
*現在残る淀城石垣は、伏見城廃城に伴ってその石材が移築され、江戸時代前期でありながら、大半が「野面積」となったと読み解ける。 p127-129
 (この読み解き方、ナルホド、ナルホド・・・・だ。この石垣を史跡探訪の途中、傍で見ながらそこまで考えていなかった!)

 ここに要約したのは一部である。このような面白さがふんだんに仕込まれていると言える。
 なかなか楽しく読め、勉強にもなるガイドブック。ひと味違うおもしろさが詰まっている。

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本書に関連した関心の波紋からネット検索した結果を一覧にしておきたい。
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ブラタモリ #69 京都・清水寺 :「NHK」
地形・地質・自然現象の概要  :「京都府」
第一章 京都市の歴史的風致形成の背景  :「京都市情報館」
京都の都市計画史  :「京都市情報館」

京都祇園で知っておきたい場所5選  :「WOW! JAPAN」
式一覧 歴史的景観保全修景地区 建築様式 pdfファイル :「京都市情報館」
真葛が原 :「天台宗 雙林寺」
小川 治兵衛  七代目 :ウィキペディア
武田 五一  :ウィキペディア
武田五一 生き続ける建築-3 pdfファイル
完成後8年で壊された黄金の城「聚楽第」 :「NAVERまとめ」
聚楽第跡  リーフレット京都No.213 京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
松林寺(京都市上京区) :「京都風光」
耳塚修営供養碑  :「京都市情報館」
御土居マップ  グーグル
古城山、指月の森・丘散策  :「伏水物語」
淀城跡 第247回 京都市考古資料館文化財講座  pdfファイル
淀城:京阪駅近くに巨大な石垣と水堀が残る徳川時代の城郭跡。:「城めぐりチャンネル」

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『スノーデン 日本への警告』 エドワード・スノーデン 青木、井桁、金、ワイズナー、ヒロセ、宮下  集英社新書

2017-12-19 11:21:45 | レビュー
 2013年6月、エドワード・スノーデンによるインターネットを通じた大規模な監視体制の事実暴露が世界を震撼させた。今、スノーデンはロシアに滞在しているようである。
 アメリカのNSA(国家安全保障局)の元情報局員による事実の暴露。いわゆるスノーデン・リークである。スノーデン・リークに端を発して、アメリカやEUではプライバシー保護の観点から、大きく法律の改制定を行ってきている。スノーデン・リークの報道は見聞していたが、その事件の表層だけ認識するに留まっていたことに愕然とした。その後の経緯、社会的文脈、プライバシー保護との関わりを深く考えていなかった。本書を読んで、改めてこの事実暴露の重みを再考している次第である。(著者等の敬称省略)
 民主主義とは何か? プライバシーとは何か? 監視とは何か? 改めて考えてみるのに役立つ新書である。

 本書は、2016年6月に、東大本郷キャンパスで行われた自由人権協会(JCLU)主催のシンポジウムの記録である。「完全翻訳の上、加筆修正を行い、詳細な註釈と追加取材を付し書籍化した」(p10)もの。2017年4月に第一刷が出版されている。
 第一章と第二章という二部構成であり、いずれも質疑応答形式の会話体になっていて、読みやすい。扱っているテーマは実に重たいともいえるが・・・・。

 第一章は、明確な記載はないが、たぶんロシアに居るスノーデンと本郷キャンパスの会場を結ぶ衛星通信による会議システムを使った形で行われたスノーデンが語ったメッセージである。p20に「ロシアから参加して下さり心より御礼申し上げます」と金昌浩が語りかけるところから始まる。金昌浩が進行担当として質問を投げかけ、聞き手となり、スノーデンが話をするという形である。生い立ちとキャリア、どのような経緯でインテリジェンス・コミュニティにかかわるようになったのか、という背景質問から始まり、スノーデンが考えたこととリークという行為を行った理由に話が展開されていく。
 スノーデンは、ターゲット・サーベイランスとマス・サーベイランスを区別して説明している。そして、テクノロジーの進歩により、マス・サーベイランスが飛躍的に進展・拡大し、それがプライバシーの侵害と民主主義への脅威になるまでに至っていて、アメリカの情報当局において法の許容を遙かに逸脱した実態が存在することに警鐘を発したのだ。いわゆるスノーデン・リークがその実態の暴露となった。無差別の大規模な監視体制の存在が民主主義とプライバシーに与える脅威である。その経緯をまず理解することが我々にとり重要であり、現代の監視社会を考える起点になる。そこに本書の言う「警告」の意義があると思う。アメリカという対岸の話ではない。日本の情報、日本の個人情報自体が、アメリカに直結していて、対岸(彼岸)ではなく此岸なのだと。実態を知る事から始めよということだろう。

 第二章はキャンパス内でのシンポジウムの記録である。開催されたシンポジウムのタイトルは「監視の”今”を考える」だったようである。書籍化にあたり、この第二章のタイトルは、「信教の自由・プライバシーと監視社会 - テロ対策を改めて考える」とつけられている。
 こちらは、井桁大介がコーディネータとして、質問を投げかけ、4人のパネリストが様々にそれぞれのバックグラウンドをもとに語る。その討議の内容が記録されている。
 ベン・ワイズナーはACLUに所属する弁護士で、スノーデンの法律アドバイザー。スノーデン・リークにより明らかになった政府による監視の実態などを説明している。
 マリコ・ヒロセはNYCLU(ニューヨーク自由人権協会)に所属する弁護士である。ニューヨーク市警察によるムスリム・コミュニティの監視捜査に対して、監視プログラムの差止めを求める訴訟に代理人として携わった経験を語っている。監視の実態、ハッサン事件(ニュージャージー州)やラザ事件(ニューヨーク州)の訴訟問題の進捗に触れている。 宮下絃中央大学准教授はプライバシーの専門家の立場から、ベルギーの留学経験を踏まえて各国政府の行う監視の実態やその濫用への法的取組などを研究の立場から語る。青木理は日本警察の公安部門を集中的に取材したジャーナリストであり、その取材経験を踏まえて体験談を語る。
 つまり、バックグラウンドの異なる4人がプライバシーの侵害と監視の濫用に如何に対応していくことができるか、実態をベースに事実認識を深める情報を様々に提供してくれている。科学技術を利用した監視の全体像や流出資料から見た日本の警備公安警察の監視の実態が明らかにされ、ムスリムに対する監視の実態事例が語られる。監視プログラムの違憲性が論じられ、監視に対するコントロールの対応策やメディアの役割りが論じられている。
 まず第二章から、重要な要点をいくつかご紹介してみる。詳細を本書でお読みいただく動機づけになればと思う。
*アメリカ政府は、監視捜査に衝撃的な3つのプログラムを使用していた。電話のメタデータのバルク・コレクション、アメリカに本社を置く9つのテクノロジー会社に命じたプリズム(PRISM)、直接に通信情報を入手するアップストロイーム(upstream)である。p101-102
*アメリカ市民であれば、NSAによる監視に対して一定の保護が与えられるが、アメリカ市民でない場合、何の保護もない。 p106
 702条プログラム(外国人を対象とした監視プログラム)は未だに続いている。p140
*「スティングレイ」と呼ばれる携帯電話監視機器が使われている。 p116-117
*テロの危険は、諜報機関という装置にとりその存在を正当化するための「脅威という燃料」である。 p135-136
*ジャーナリズムやメディアの沈黙は独裁者や圧制者に力を与えることになる。p146-148
*監視に対する一番の抑制は監視である。p154-157


 最後に、第一章のスノーデンのメッセージから、私が重要と思う章句を引用してご紹介する。
*理念のために立ち上がることは、ときにリスクを伴います。・・・私たちはみな、小さなリスクを取ることで社会をよりよくすることができる機会があるはずです。私たちはみな、安全を求めてではなく正しいがゆえに行動する機会があるはずです。 p12-13
*グーグルの検索ボックスにあなたが入力した単語の記録は永遠に残ります。グーグルの検索記録がなくなることはないのです。 p31-32
*政府が監視を目的として人権を無視する事態が生じつつある。 p42
*政府が秘密を持つこと自体に問題があるわけではありません。しかし、政府が情報を機密とする権限は本質的に民主主義にとって危険なものであり、極めて厳格なコントロールが不可欠です。機密とする権限の行使は例外的な場合に限られなければならず、日常業務の一環のように行使されていはならないのです。 p44
*一番大事な脅威というのは、あまりよくわからない脅威であることがよくあります。 p56
*NSAは経済政策や気候変動対策に関する情報を収集するために、日本の大企業や政府の内部の会議を盗聴していたようです。もちろんテロとは関係がありません。 p59
*実際の脅威の程度がどれくらいかを検証する必要があります。日本では、テロリストに殺される確率よりも風呂場で滑って死ぬ確率の方がはるかに高いのです。 p60
*技術的な教訓は、ネットワークの回路は危険に満ちあふれているということです。2013年以前から、インターネット通信の傍受が可能であるということは理論的に明かでした。p63
*プライバシーとは、悪いことを隠すということではありません。プライバシーとは力です。プライバシーとはあなた自身のことです。プライバシーは自分であるための権利です。他人に害を与えない限り自分らしく生きることのできる権利です。・・・・・どこで線引きするかはあなた次第です。  p67
 プライバシーとは何かを隠すことではありません。守ることです。開かれた社会の自由を守ることです。  p82
*権利は少数派を保護するものです。権利は弱い人を保護するために存在するということを覚えていなくてはなりません。 p68
*自由で公平な社会を維持するためには、安全であると言うことだけでは足りません。権限を有する人たちが説明責任を果たさなければなりません。さもなければ社会の構造が二層化してしまいます。 p72
*政府は、独力で特定のシステムに潜入したりハッキングしたりすることができます。政府は、暗号化をすり抜けることができるわけです。NSAは毎日やっています。 p74
*技術者として考えなければならないのは、私たちが人類史上未曽のコンピュータ・セキュリティの危機の中に生きているということです。  p74
*民主主義においては、市民が政府に法律を守れと言えなければならないのです。政府がベールに包まれた舞台裏で政策判断を下す限り、何もわからない市民には発言権がないわけです。もはや市民ではなく召使です。対等なパートナーではなく、それ以下の存在でしかなくなってしまいます。 p78-79
*リスクを認識すること、それが現実にあると認識することは大事なことです。 p83

 これらの章句をスノーデンのメッセージ本文の文脈の中で読んでみてください。
 考える材料が散りばめられています。彼の行動の背景を知ることから始めましょう。

 ご一読ありがとうございます。

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本書を読み、関連事項について少し検索してみた。一覧にしておきたい。
エドワード・スノーデン  :ウィキペディア
アメリカに監視される日本 ~スノーデン“未公開ファイル”の衝撃~ 
   クローズアップ現代 2017.4.24  :「NHK」
日本関連スノーデンファイルをどう読むか 土屋大洋氏  :「NEWSWEEK 日本版」

公益社団法人自由人権協会 ホームページ
  声明文「怪しいと目をつけただけで捕まえる」ことは許されない 2017.5.15
ACLU(アメリカ自由人権協会) ホームページ
  PRIVACY & TECHNOLOGY
アメリカ自由人権協会  :ウィキペディア
The Intercept ホームページ
  Japan Made Secret Deals With the NSA That Expanded Global Surveillance
WikiLeaks ホームページ
ウィキリークス(WikiLeaks)はそれからどうなったのか 2015.1.12 :「Timesteps」
WikiLeaks  :「コトバンク」

エドワード・スノーデン氏(元CIA)が暴露したネット監視問題 中国への情報漏えいの懸念も? 2013.7.2   :「HUFFPOST」
スノーデンの警告「Dropboxは捨てろ」「FacebookとGoogleには近づくな」
     2014.10.15  :「HUFFPOST」
世界を駆け巡る「エドワード・スノーデン死亡説」 : 本人に危機が発生した際に起動する[デッドマン装置]によるものかもしれない暗号ツイートの直後から湧き上がる論争
 2016.8.8  :「In Deep」
スノーデン氏のロシア生活  2016.9.16 :「RUSSIA BEYOND 日本語」
スノーデン容疑者、ロシアからアメリカに引き渡し? でも本人は喜んでいる
     2017.2.11  :「HUFFPOST」
Russia Considers Returning Snowden to U.S. to ‘Curry Favor’ With Trump: Official  :「NBS NEWS]

映画「スノーデン」 公式サイト

「米国自由法」可決 NSAの情報収集活動に制限 CNN   日本文
NSAの情報収集を制限する米国自由法が成立。安全保障と個人の自由の関係はどうなる?   : 加谷珪一の分かりやすい話
「米国自由法」成立、大規模な通話記録収集を禁止  :AFP

「共謀罪」に関するトピックス  :「朝日新聞」
【特集】マジありえない共謀罪・盗聴法・マイナンバー :「IWJ」
「共謀罪」の対象犯罪277  2017.6.15 :「日本経済新聞」

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『光の王国 秀衡と西行』  梓澤 要  文藝春秋

2017-12-15 22:45:04 | レビュー
 平泉の中尊寺、そして金色堂という言葉は日本史学習の一項目として知り、金色堂の写真を見たこともある。しかし、当時の陸奥については全くというくらいに知識がなかった。藤原清衡が中尊寺を建立した。その清衡からはじまる奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡・泰衡の四代で滅びたという。源義経が奥州平泉に逃げのびたことから、源頼朝が攻め上り四代目の泰衡を滅ぼしたのだ。
 この物語は、清衡の後継者であり、骨肉の争いの中で奥州を統一した基衡の苦悩と奥州覇者の生き様を背景にして描かれる。基衡の子秀衡と奥州に足を向けた西行との出会い、そして西行が平泉に滞留した期間における二人の交流を中心に、当時の奥州という一種の独立王国の様子が鮮やかに描き込まれていく。

 全体は7章構成になっていて、その後に「名残の月あかり」という西行の回顧独白の記述が付く。第1章から第6章までが、西行が初めて奥州への旅に出て、偶然に秀衡と出会い、そのまま秀衡の館に伴われてそこに滞在した期間の見聞物語である。
 そして、第7章「いまふたたびの」は、西行が43年ぶりに奥州を訪れ、出家していた65歳の秀衡と再会した折の状況を描く。平重衡が南都を焼き打ちし東大寺と興福寺が焼失する。重源が大勧進となり東大寺の大仏再建に邁進する。重源より西行が秀衡に勧進に行ってほしいいと請われたことによる奥州への旅である。奥州の繁栄ぶりが43年前との対比で描かれる。それは「まさに北の都、仏国土ですな」(p365)という西行の感想に集約される。

 それでは、第1章から第6章のメインのストーリーに入って行こう。
 23歳で出家した西行は、25歳の折奥州平泉へ一種のスパイとして情報収集に出向かざるをえなくなる。何故か。西行が内大臣頼長のもとに、待賢院璋子御落飾の一品経結縁の勧進のために出かけて行き、頼長の助力を得られたのだが、奥州に西行が状況偵察に行く事を交換条件として出されたのである。陸奥と出羽両国にある関白所領の荘園からの年貢徴集に関連する情報収集という課題、つまりスパイ活動の指示だった。
 奥州に入った西行は、山中で狩を行っている基衡の御曹司・秀衡と偶然に出くわす。そして、そのまま秀衡の館に伴われる。秀衡は西行が奥州偵察目的で来た可能性を推測しているが、そんな事は意に介さず、鷹揚に西行との交流を深めて行く。
 現地で人々に接し、各地を見聞し、西行の目に捉えられた奥州の姿が様々なエピソードを織り込む中で描き出されていく。奥州藤原氏の政治的立場、経済的な状況、奥州の有り様、基衡がどのような国造りをしているかなどである。骨肉の争いを経た中で統一に心を砕き、苦悩を抱く基衡の心境やその生き様が織り込まれていく。それは秀衡と西行の絆が徐々に深まっていくプロセスでもあった。
 西行は京の都の有り様と対比して、僻遠の地奥州を眺める。人々が大らかで、人々は平等に扱われ、相互に助け合う風土が築かれた土地であること、自然の厳しさの中で人々のまとまりを強く感じ始めて行く。西行の辿り着いた結論は、この小説のタイトル「光の王国」である。それは、中尊寺の金色堂に込められた思いとダブル・ミーニングになる形で、西行の心に映じた奥州の印象を表出する言葉である。

 メインストーリーで描かれるエピソードが光の王国を織上げていく。ストーリーに織り込まれるエピソードの主なものを箇条書きしてみる。
1. 御曹司秀衡の恋。秀衡は巌谷の里村に住む百合を恋する。しかし、秀衡の母・貴子は百合に夫基衡の側室となるように話を持ちかけていた。秀衡と百合の懊悩と行動。
2. 基衡と貴子の夫婦関係の有り様。基衡の苦悩と国造りの思い。貴子の生き様。
3. 秀衡の案内で西行が見聞した中尊寺金色堂の印象と金色堂の意義
4. 秀衡が常楽会での催しに本式の流鏑馬を取り入れたいと考え、西行を引き出す話
5. 基衡・貴子夫妻の養女である温子の恋の悩み。
6. 奥州に滞在していた少年期の千手丸(後の運慶)の行動。後に毛越寺の造仏を行う。
7. 流罪となり奥州に預けられた興福寺僧一団の有り様
8. 西行が平泉で関わりを深めた人々:自在房蓮光、十輪の生き様

 この小説から知った奥州について、いくつかご紹介しておこう。
*当時、奥州は日本の半分と考えられていた。清衡がめざしたのは中央からの自立。
*関屋を越えて、陸奥に入ると、道幅二間半(約4.5m)という広大で整備された堂々たる大道が清衡の時代に最北の津軽外ヶ浜まで開削されていたという。
 一町毎に左右交互に高さ4尺(約1m20cm余)ほどの笠卒塔婆が設置されていた。笠の下には観音開きの扉があり、中に金泥塗りの地に線彫りされた阿弥陀如来の絵姿が描かれていた。
*少し豊かな家なら鉄の鍋や心中の器や鉢を普通に使える位の経済力が築かれ、鋳造技術なども高まっていた。
*中尊寺の大伽藍は大治元年(1126)3月に、造営開始から22年を経て完成した。
 落慶供養会には、京から勅使の中納言藤原顕隆はじめ百余名の賓客を招き、1500人の僧が参集する盛儀だったという。
*基衡は平泉を大都市にするにあたり、造営中の毛越寺南門から平泉館までの一直線に貫く東西大路全長九町(約1km)を幅上十丈(30m)の街路にした。それを基軸に一辺400尺(120m)の街区を整備した。
*清衡の時代に、太宰府の大山寺が組織する貿易船(大山寺)で博多から山陰・能登を経由し出羽の湊に至る交易路を確保していた。
 基衡の代に、博多から東南海沿いに気仙湊と石巻湊までの直航路を開いた。直接貿易の手段を確保した。
*毛越寺の仏像群造立には、基衡の依頼を受けていた運慶が腕を振るった。その制作に丸3年の時間をかけたという。

 この小説は、西行の目を介して、奥州を奥州藤原氏の立場から眺めた当時の日本を描くというのがモチーフになっているのだと思う。

 一方、秀衡と西行の交流を描く過程で、京の都における西行(佐藤義清)の人間関係構図が徐々に明らかになっていく。そのため、この小説は一種の西行伝という局面を兼ねていて興味深い。出家する前、俗名佐藤義清は鳥羽院の身辺に仕えていた。著者は次の記述を加えている。(p30-31)
 「・・・・西行は璋子とはかつてただならぬ関係があった。十七歳も年上の璋子に恋い焦がれ、一度だけだが密通したのだ。
  許されぬ恋に苦しんでいる義清に同情した女房たちがひそかに手引きしてくれたのだが、逢瀬はさらに恋心をつのらせる結果になつた。
  -もう一度、せめて、もう一度だけでも。
  密会をせがむ義清を璋子は頑として拒否したから、気が狂うほどの苦しみを味わった。
  不思議な女性だとつくづく思う。璋子という女性は常の常識では考えられない。」
と。(尚、調べて見ると、失恋の相手については諸説あるようだ。)
 歌人西行というイメージが私には強くて、出家した西行が僧としてどのような遍歴を経ているのかという側面には今まであまり関心を持たなかった。先日、高野山を日帰りツアーで探訪し、西行が勧めて壇上伽藍に移築させた堂宇や西行桜があることを初めて知った。他方、この小説を読み西行がなんと30年近く高野山で過ごしていたということを知った次第である。

 ご一読ありがとうございます。

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本書を読んでの関心の波紋から、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
関山中尊寺  ホームページ
  金色堂 
中尊寺  :ウィキペディア
天台宗別格本山 毛越寺  ホームページ
  浄土庭園   平泉の世紀 
藤原秀衡  :ウィキペディア
藤原秀衡  :「コトバンク」
藤原基衡  :「コロバンク」
中尊寺建立供養願文 平泉への道  :「岩手日報」
秀衡と義経  平泉への道  :「岩手日報」
藤原秀衡を5分で!なぜミイラにした?源義経、平清盛との関係は?:「れきし上の人物.com」
西行   :ウィキペディア
西行法師 :「河南町」
西行   :「千人万首」

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著者の作品で以下の読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『正倉院の秘宝』  廣済堂出版
『捨ててこそ空也』 新潮社
『荒仏師 運慶』 新潮社
『百枚の定家』 新人物往来社

『正倉院の秘宝』  梓澤 要  廣済堂出版

2017-12-12 20:26:18 | レビュー
 1999年に出版された古美術分野を扱う推理小説である。ごく最近、この本のことを知り読んでみた。

 権力者右大臣藤原不比等の娘、安宿媛(あすかべひめ)は、光明子と呼ばれるようになる。聖武天皇のもとに入内し、最終的には皇后となる。奈良時代の天平文化はこの二人のもとで花開いた。聖武天皇は、東大寺の盧舎那仏を造立しその開眼法要を終えると、娘に譲位し太上天皇となり756年に没する。光明皇后は同年、聖武上皇の遺品を東大寺に納めてしまう。いわゆる「正倉院」の始まりである。正倉院に納められた品々は『国家珍宝帳』という記録文書に残されている。一方正倉院から出庫された物は『出蔵帳』に記録され、それが存在するという。
 この小説は、『国家珍宝帳』に記載があり、『出蔵帳』に葛木戸主(かつらぎのへぬし)が持ち出し責任者としてのサインが記録されている「黒作懸佩刀(くろつくりのかけはきのたち)」という短刀に絡んだ推理小説である。葛木戸主の名前は『国家珍宝帳』の巻末にもその名が記載されているという。

 主な登場人物をまず挙げておこう。
 加納理江子 美術月刊誌『古美術薫風』編集部の編集部員。次期編集長候補者。
 里見圭吾  古美術専門のフリーカメラマン。奈良市在住。加納がよく依頼する。
 木崎修造  元編集長。理江子の元上司。記事捏造理由で懲戒免職となり行方不明。
 田沼    現編集長。理江子の上司。取締役出版部長に昇進予定。
 金子    理江子の同僚。
 草山寺の庵主 元事業経営者。氏名は川村亮子。南大和の丘陵地帯にある無名の寺。
 瀬戸    寺付近の住人。夫妻で草山寺の管理に関係してきた。庵主は元雇い主。
 佐倉俊介  奈良の古美術商老舗・求真堂の主人 木崎の時代から理江子は面識あり
 岩熊教授  啓明大学の看板教授。美術史学会の大御所。仏教美術史の最高権威者。
 高梨晴秀  美術史家。岩熊教授に対立し論陣を張った研究者。

 この小説には、いくつかの異なる次元での推理が重層化していて相互に密接な関連もあるという興味深い構想のもとでストーリーが展開していく。正倉院展鑑賞の常連者や古代史ファンにとっても興味深い小説だと思う。
 メインのストーリーは、『古美術薫風』の編集者である加納理江子が、担当ページの『大和山寺逍遙』の取材と撮影のために、かつての上司木崎のお伴で訪れた事がある草山寺を再訪する場面から始まる。理江子は観光コースから外れた無名の寺や雑仏を選んでひなびた古刹と仏像の連載企画を担当している。仏像の撮影を担当するのが里見圭吾である。草山寺の庵主は、理江子が木崎と来たことを覚えていた。そして、その後木崎がときどきこの寺にきたことがあると理江子に語る。
 里見が仏像の撮影をしているとき、理江子は堂の西奧にひっそりと安置された厨子に気づく。庵主に尋ねるとふだん開けることのない秘仏のようなものという。厨子にはいたるところに呪札が張られている。観音扉は閉められているが中央の止め金具に錠はついていない。庵主の許可を得て、理江子は里見とともに、厨子の中の秘仏を拝見した。厨子の中には、古美術雑誌の編集者として10年余のキャリアを持つ理江子ですら見たことがない異形の秘仏が納まっていた。「ほぼ等身大の木造坐像だ。豊かな上半身に薄く襞の多い衣をまとい、裳で覆われた下半身は片膝を立て、もう一方の脚は横坐りのようにゆるく折って、ゆったりと座している。そしてその像は、奇妙なことに黒鞘の刀を胸に抱いていた」(p209)
理江子と里見はこの不思議な仏像に魅了され、それぞれがそのルーツを探り始める。草山寺での取材の数日後、理江子は「秘密を暴く者には恐ろしい災いがふりかかる」と墨書された脅迫文の入った封筒を受けとる。差出人名なし、編集部宛、消印はゴジョウ、ナラと読める。これが始まりだった。

 理江子と里見はそれぞれ異なるアプローチから、異形の秘仏が抱いていた黒鞘の刀が正倉院から消えた刀ではないかという仮説を立てたくなる情報を見つけ出していく。この発見した秘仏の抱く黒鞘の刀が、正倉院の秘宝なのかどうか? 古美術雑誌の編集者にとって、またとないチャンスの到来なのかも知れない。一方で、古美術界での新発見に絡んだ話題で木崎が失脚して行った経緯をつぶさに体験している理江子は、慎重にこの新発見らしき秘仏への対処をはかる必要性に迫られていく。
 そんな状況下で、田沼から田沼自身の役員昇進予定と次期編集長候補に理江子の名も上がっていることを仄めかされる。併せて、田沼は理江子以外の人物を編集長に想定していることも。つまり、理江子は慎重な行動と業績を求められる立場に置かれる。

 当然のことながら理江子と里見は、自分たちの推理の確かさをまず資料に基づき確認する推定作業からはじめることになる。そして仏像の詳細撮影を密かにする。その写真をもとに、まず専門家の岩熊教授の鑑定評価を得ること、傍証固めのできる材料を提供することも必要となる。着実なステップを極秘裏に推進する必要に迫られる。
 そんな矢先に、伊江子は正倉院展の会場で、高梨に話しかけられて、彼が既に異形の秘仏のことを暗に知っていると匂わされる。秘仏の解明のための行動が進展するプロセスで、草山寺の庵主が夜間に怪我をするほか様々な出来事が発生し、事態が錯綜していく。そして遂に殺人事件までもが発生し、理江子が巻き込まれる事態に至る。

 この小説、メインストーリーは伊江子が発見した異形の秘仏、黒鞘の刀に関わる対応プロセスの進展を描き出すところにある。黒鞘の刀が正倉院の秘宝かどうか? その過程でなぜ2つの殺人事件がなぜ発生したのか、それがどのように関わるのか、犯人はだれか? 古美術の世界における鑑定プロセスの裏方話が織り込まれながら、里見の協力を得て事件に巻き込まれた理江子が推理するというストーリー展開になる。

 このメインストーリーと重層化しながら、別次元の推理が展開されていく。
 一つは、聖武上皇の没後、光明皇后が時を経ずして聖武と光明子に関わる御物一切をなぜ東大寺に奉納したのか、つまり早々に正倉院御物にするという行動をとった背景に何があるのか。二人の関係及び光明皇后の思いに対する推理である。著者はその推理を理江子の推理、里見の協力に託して物語っていく。「あとがき」に著者は書く。『東大寺献物帳』に光明皇后が書いたという願文(哀悼文)が記されていることについて、「二人は仲睦まじく、先の哀悼文がそれを照明しているといわれています。でも、はたして本当にそうだったのでしょうか?」と。さらに、「この本は、聖武と光明子という一組の夫婦の物語です。と同時に、母と娘、そして父と娘という親子の物語でもあります」と記している。この一文からメインストーリーの展開は表層であり、真に語りたかったのはこちらの次元の推理だと言うニュアンスすら感じ取ることができる。

 もう一つは、正倉院から失われてしまった「黒作懸佩刀」という「幻の秘宝」の史実を踏まえた推理である。この幻の秘宝が、当時の政治状況、朝廷における熾烈な権力闘争に関わっているという推理が興味深い。なぜ、どこに消えてしまったのか? 史実を背景に、藤原仲麻呂の存在と朝廷における政治権力闘争の構図が推理されていく。
 さらに、その黒作懸佩刀が、フィクションとしてのこのメイン・ストーリーにリンクしていく。「幻の秘宝」物語でもある。

 メインストーリーの展開の中に組み込まれた支流のようなものであるが、ビジネスの場の推理という局面も加わる。理江子の務める出版社における社内の人間関係、昇進に絡まる人間構図における確執やパワー・バランスという局面での確執と推理である。理江子のサバイバルゲームといえるかもしれない。女性編集者、更には編集長への道を切り開いていくための駆け引きと推理である。この支流はメインストーリーにリアル感を加えていく。
 
 この小説の副産物は、仏像基礎知識として、仏像の種類や奈良時代の仏像製法などに親しめるということ、さらに古美術鑑定の視点がどういうものかを垣間見ることができることである。私自身にはこちらの側面もおもしろく感じた。
 
 ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。
正倉院  :「宮内庁」
   武具
正倉院  :ウィキペディア
正倉院  :「コトバンク」
正倉院宝物について キッズサイト :「YOMIURI ONLINE」
美術商 :ウィキペディア

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『百枚の定家』 新人物往来社

『遊戯神通 伊藤若冲』  河治和香   小学館

2017-12-11 15:57:32 | レビュー
 本書は3部構成の歴史小説である。実在した事実の空隙を虚構で繋ぎ、事実情報を詳細には知らない読者にはどこが虚構か判別できない形で巧妙に仕上げられている。形は3部構成だが、内容で見るとⅠ部が明治36・37年で、Ⅲ部が大正8年以降という形で両者が「近代」の時点において登場人物が若冲と関わるストーリーとして繋がっている。Ⅱ部が宝暦13年(1763)~天明8年(1788)という期間で若冲の後半生のストーリーである。若冲の後半生が、近代の次元のストーリーにサンドイッチ型で組み込まれるというおもしろい構想である。若冲の末裔から、若冲に関する意外な話を聞くという形で展開していく。

 若冲100回忌の3年後という明治36年からストーリーが始まる。主な登場人物は、図案家神坂雪佳と日本郵船の三原繁吉という実在の人物である。そこに若冲の末裔・富田屋玉菜が関係する。著者は若冲没後100年時点で、ごく一部の美術愛好者と京都の呉服業界を除けば、若冲の名は忘れられつつあったという。明治の廃仏毀釈のあおりを食らい困窮していた相国寺に、若冲の『動植綵絵』全三十幅を買いたいという外国人からの申し出があったという。相国寺はこれらを明治天皇に献納する形で、その見返りとして宮内省から金1万円を下賜されて、命脈を保ったというエピソードを著者は紹介している。私はこの箇所を読み、法隆寺のケースを連想した。
 ここでは、日本郵船がセントルイス万博の自社パビリオンで若冲作品の織物化などにより「若冲の間」を作るという企画をストーリーに描き込む。若冲を見直す機運づくりへの仕掛けが描き込まれる。その仕掛人となる三原が大阪の藤田傳三郎の邸宅網島御殿で、若冲の末裔・富田屋玉藻を雪佳に引き合わせる。玉藻は図案家の雪佳に着物の下図を描いて欲しいということと、伏見の油掛にある祖母の家に一度来てほしいと言う。
 雪佳は玉藻の案内で、彼女の祖母の家に赴く。玉藻が取り出してきた古裂の束を雪佳は眺めつつ、玉藻が語る美以と言う名の祖母の話に耳を傾けることになる。その話がⅡ部の若冲の後半生のストーリーに転じて行く。

 このストーリー展開のおもしろいところを取り上げてみる。
1. 伊藤若冲展などで購入した図録で紹介されている若冲は一生独身を貫いた人物という。それに対し、ストーリーは、青物問屋「枡源」の主人である若冲が丹波にしばらく隠棲して不在と世間に説明していた時期があるとし、それは世間体を繕う言い方だったと記す。若冲はその期間実は絵を学ぶという目的で長崎に行っていたいう。そして、その間に交わりをもった女性がいたとする。その女性が思わぬ人間関係の柵の形で登場して来る。

2. 若冲が京に戻った後で、年月を経てから、平賀源内が若冲の子(男の子)を預かって連れてくる。その子は若冲の末弟という形で育てられる。

3. 大阪で薬種問屋を営む吉野五運が、美以つまり玉藻の語る祖母を、大阪から枡源まで連れてきた。枡源の店の続き、ずんと奧に「独楽?」という若冲が絵を描く建物がある。その庭で鶏をはじめ様々な鳥たちが放し飼いにされている。その鳥たちの餌の世話などをする女衆(おなごし)として美以が役に立つのではというのが五運の意図だった。
  美以は体から芳香を発する娘という不思議な特徴を持っていた。その匂いに気づいた若冲は美以に生まれはどこかと尋ねる。若冲は長崎かどこか西国の方ではないかと想像したのだ。異国の匂いがしたと感じたのだ。そこに一つの伏線が織り込まれていた。ストーリーの展開プロセスで、その意味が明らかになる。

4. 青物問屋「枡源」の内情-人間関係、商売の実態、店の主人と使用者の関係など-がかなり克明に描き込まれていく。その環境を通して、若冲がなぜ絵の世界に没頭できたかが見えてきて興味深い。若冲は弟の白歳に家督を譲り隠居すると宣言する。それ以前から白歳夫妻が枡源の商売を実質的に運営していた。一方、奉公人の美以を末弟宗右衛門に妻合わせると言う。末弟というが、実は若冲の子ということを白歳は知っている。一方、宗右衛門も知らされてはいないが感づいている。宗右衛門の妻となった美以の過去及びその後の生き様が若冲との関わりの中で展開されていく。美以の人生遍歴がこの小説のサブテーマでもあると思う。宗右衛門は美以を娶る以前と同様に、美以を妻とした後も、毎夜遊郭通いを突然の死まで続ける行動を取る。

5. 明和5年(1768)に、東町奉行所が錦市場の差し止め通達を出してくる。錦市場のはじまるころから存在した枡源は、町年寄りからも頼られる存在である。この晴天の霹靂のような錦市場の死活問題について、具体的に描き込んでいる。それは枡源の統領と言うべき若冲の生き方に大きな影響を投げかける。そして、このストーリーでは、宗右衛門の死がそこに絡んでくる。錦市場の差し止め事件の経緯が大きなエポックメーキングとなる。
6. 若冲の人生に光を当てたこの小説に若冲の作品が大きく関わるのはあたりまえの展開である。著者は特に、若冲の人生の緯糸として、長い時間軸でいくつかの作品群を継続的にストーリー展開に絡めていく。頻繁にでてくる作品群名を列挙しておこう。
  『動植綵絵(どうしょくあいえ)』、『乗興舟(じょうきょうしゅう)』、『玄圃瑤華』、『群獣図』、『花鳥版画』、五百羅漢像

7. 若冲の人生史を描けば、当然ながら若冲に関わった人物群が若冲という鏡に写る人物として登場する。若冲の人生のある局面に興味深く織り込まれて行く実在の人物名を幾人か挙げておこう。
  大典禅師(相国寺の僧)、吉野五運(寛斎:大坂の薬種問屋の主人)
  松下烏石(石摺りの名人)、平賀源内

8. サンドイッチ型のストーリー構成という仕掛けの「近代」時点に目を転じると、それは若冲の伝記小説ストーリーに対する、ビフォー、アフターという関わりであるが、そこにも実在の人物のある局面が鮮やかに描き込まれる。
 神坂雪佳 2003年に京都国立近代美術館で「神坂雪佳」展という回顧展があった。
      それを鑑賞した折に、購入した図録が手許にある。そこには、
      「琳派の継承・近代デザインの先駆者」というサブタイトルが付いている
      この小説の中ではその雪佳が黒子のような形で登場していておもしろい。  三原繁吉 この実業家の存在を私は初めて知った。若冲再発見者だったとは。
 藤田傅三郎 現在の藤田美術館創設の基となる実業家。逸話がおもしろい。
 橋口五葉 この人の存在も初めて知った。漱石本の装丁を手掛けた図案家。浮世絵研究者
 

 著者が「あとがき」に書いていることから、2つご紹介しておきたい。
 一つは、三原繁吉が浮世絵愛好者として本文に記されている。その三原コレクションは戦後リッカー美術館に入り、現在平木浮世絵財団に所蔵されている。その中に『花鳥版画』があり、六図がここに所蔵されそれ以外の存在は確認されていないという。調べてみると、「平木浮世絵美術館」が東京ベイエリアの豊洲に開館されている。
 もう一つは、この小説の種明かしをいくつか書き込んでいることである。その冒頭の種明かしに今興味を持っている。「若冲は妻子がいなかったことになっていますが、その筆塚を没後の三十三回忌に建立した清房という人物が、なぜか若冲の孫と名乗っていること」と記している点である。石峰寺に若冲の墓があり筆塚が建立されていることも当寺を訪れた時に知った。しかし、そういう文言が記されているところまで、確かめなかった。再訪したときは、その記載があるのか、一度確認してみたい。ところがである、ネット検索していて、この人物の研究をしている人が居て、筆塚の建立者が「若冲の弟の白歳の孫」と判明したと2012年9月時点の報道にあったというブログ記事を見つけた。これまた、おもしろいものである。この小説は2016年9月に初版が出版された。

 明白な史実に、記録に残る文言の解釈、そこからの想像の膨らみを虚構として織り交ぜて、虚構を積み重ね一つの作品世界が生み出される。「若冲の孫」という記述を種の一つにしたこの作品の面白さは想像世界としては揺らがない。ストーリーを楽しめるのはまちがいない。そこから逆に、若冲の残した作品に関心を寄せていく契機にもなれば、読者にとっては一石二鳥でもある。また、若冲の作品を見知っていても、その作品群のストーリー中の織り込み方、著者の解釈や描写を楽しめる。事実私は楽しくかつ興味深く読んだ。時折、手許の展覧会図録を参照してみたりもした。
 
 ご一読ありがとうございます。

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本書からの関心事項としてネット検索した事項を一覧にしておきたい。
伊藤若冲   :ウィキペディア
NHKスペシャル 若冲  :「NHK]
伊藤若冲の作品画像コレクション  :「NAVER まとめ」
伊藤若冲の秘密を画家が暴露! 印刷と実物でまったく異なるように感じる本当の理由
    :「トカナ 知的好奇心の扉」
相国寺について   :「臨済宗相国寺派」
石峰寺と伊藤若冲  :「石峰寺」
宝蔵寺と伊藤若冲  :「宝蔵寺」
若冲忌 2012-09-11  :「ふろむ京都山麓」
若冲筆塚  :「daily-sumus2」
神坂雪佳  :ウィキペディア
神坂雪佳 京都ゆかりの作家  :「京都で遊ぼうART」
橋口五葉  :ウィキペディア
平木浮世絵美術館  ホームページ

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『嵯峨野花譜』  葉室 麟   文藝春秋

2017-12-02 11:07:15 | レビュー
 文政12年(1830)に華道未生流二代目の不濁斎広甫は嵯峨野にある大覚寺の花務職に任じられた。大覚寺では広甫を花務に任じて華道を興隆させようとしたことによるそうである。それは「嵯峨上皇が大沢池の菊之島に生えていた菊花を取り、瓶にさした故事に由来するものだった」(p11)という。後に、嵯峨御流と称される華道の流派がここに栄え現在に至る。ただし、「いけばな嵯峨御流」のサイトにある「3分間でわかるいけばな嵯峨御流」のページには不濁斎広甫の名前は出ていない。あくまで花務職という職務での貢献者という位置づけなのだろう。
 この広甫が、この年の夏に大覚寺にひとりの少年連れてきて得度させた。少年は九州肥前の武士の子だったらしいが、誰にもその素性は知らされることがなかった。得度した少年は胤舜という法号で呼ばれるようになる。
 
 この小説は師の広甫から胤舜が「そなたは、今少し、ひとの心を見る修行をいたさねばならぬようだ。これからしばらく、わしの命じるところにて花を活けよ」という指示を受ける。師の命じたところに赴いて、胤舜が花を活ける修行をするというテーマを踏まえた物語である。テーマを踏まえたと書いたのは、読後印象として、この小説の構想とストーリー展開が以下のような特徴を持つと考えるからである。

1. この小説は10のセクションから構成され、胤舜の活花修業ストーリーとなっている。それぞれのセクションは章の表記はなく、題名が付けられているだけである。胤舜の華道修行として、一話完結型の短編の累積である。書名に「嵯峨野花譜」とあるが。嵯峨野は大覚寺の所在地である。花譜は各セクションが短編一話の中で毎回異なる花を活けるという活花修行となっている。
 「アンソロジー」という言葉には「花の収集、の意」があるという。詞華集などとも言われるが、この小説は胤舜が活ける花とその背景を描くと言う意味で、花譜であり、一種のアンソロジーといえる。各所に印象深い詞章を見出すことができる。

2. 一話完結型であるが、その短編の相互の連関はストーリーとしての時間軸が一貫している。師に命じられて、各所に胤舜が花を活けにでかけるのだが、そのプロセスの展開を通じて、胤舜の出生の謎が明らかになっていくという胤舜出生譚となっている。場と目的に最適の花を活けるというための背景となる状況が、胤舜の出生の謎を徐々に明らかにする形になる。

3. 歴史上の実在人物とその事績が描き出されながら、その間に胤舜の修行と有り様が織り込まれていく。作品化の背景に発想のトリガーになるモデルが存在するのかもしれないが、胤舜という小年僧は著者のフィクションなのだろうと想像する。一方で、それが実在人物だとしたら、おもしろいとも感じる。果たしてこの虚実皮膜はどうなっているのだろうか。
  このストーリーに出てくる歴史上の実在人物を私がネット情報その他から確認できた範囲で列挙してみる。実在人物の空隙が胤舜を登場させる形で、活けられた花の図柄が鮮やかに織上げられていくストーリーが生まれたと言える。
  不濁斎広甫、清原夏野、待賢門院璋子、水野忠邦、千利休、池坊専好、姉小路局、
  二本松義廉、西行、勢観房源智、蓮月尼、仁孝天皇、光格天皇、松平定信など。

4. 胤舜は水野忠邦が肥前唐津藩の藩主時代に奥女中に生ませた隠し子である。水野忠邦は、地方の一藩主から江戸幕府の幕閣に入り、政に力量を発揮するという目的で出世街道を突っ走る。その水野忠邦の生き様と政争の姿が、胤舜と母・荻尾を対比する形で描き込まれていく。この作品もまた、九州に根源を持つ題材から着想し、構想された京都バージョンのストーリーと言えるかもしれない。

5. 京都を舞台とするという構想からか、胤舜の活花修行に絡めて、池坊の華道や宮中立花会の復活、当時の天皇家と江戸幕府の関係、公家の生活状況などが織り込まれていて興味深い。

 それでは各セクションの一話完結型ストーリーのタイトルとそのストーリーで胤舜が活けた花、ストーリーのテーマ、印象深い詞章を一部ご紹介しよう。

<忘れ花>   椿の花。 松の枝と二輪の白椿
 法金剛院に出向き、参拝する女人の心を安んじるために花を活けよの指示に従う。
 女人の願いは、昔を忘れる花を活けていただきたいという課題だった。

 *ひとは忘れようとすればするほど、思い出してしまうものではないかと思います。
  それよりもただひとつのよき思い出を胸に抱いているほうが、思い出さずにすむのではないでしょうか。忘れるとはそのようなことではないか、とわたしは思います。 p34

<利休の椿>  利休の椿(塵穴の椿)
 兄弟子立甫と胤舜は大徳寺での茶会に臨席する。茶会後に京の呉服商一文字屋徳兵衛から、彼の女房の願いとして、女房志津の弟が18歳で亡くなった一周忌のための身内での茶会の花を活けることを頼まれる。志津は言う。「わたしの心の裡にある弟のような花を活けてほしいんどす」と。

 *花の心は花に訊け、と。    p53
 *ひとが引き出してこそ花の力は顕れるのだ。  p70
 *生きることに、たんと苦しめ。苦しんだことが心の滋養となって、心の花が咲く。
  自らの心の花を咲かせずして、ひとの心を打つ花は活けられぬ。  p71

<花くらべ>   山桜、しだれ桜
 師から公家の橋本様の姫様姉妹との花くらべをするように命じられる。姉は大奥に仕える伊与子様(のちの姉小路局)、妹は理子様(のちの花野井)。妹は近く御三家の一つ水戸家に上がることになるという。伊与子が花くらべに事寄せて、胤舜に対面したのには、隠された意図があった。

 *花は心だと存じます。おのれの思いを吹き込むことによって、野にあった花が活花となるのでございます。  p95
 *あなたの花が美しいのは心が美しいからです。それは誰にも変えられないものです。たとえ水野様が天下の政を司るようになっても、あなたの活ける花の美しさには及ばないでしょう。  p106
 *美しき花を枯らさぬ湧き水のようでありたいのです。  p106

<闇の花>  山梔(くちなし)
 胤舜は、母・萩尾のことで伝えたい事有りという文を受けとる。不審に思う広甫は兄弟子の楼甫の申し出に頷き、彼を供にさせる。だが、指定された嵐山の茶店で、謀られて胤舜は拉致されてしまう。那美と名のる女から、胤舜の母のことを伝える前に、暗闇の中で、暗闇に咲く花を活けてもらいたいと言われる。暗闇に落ちた者・唐津藩家老二本松義廉への手向けの花を活けよと言う。

 *闇の中でも花は咲くのだと信じることができました。  p136
 *わたしはひとの心といのちを大切にしていくばかりです。 p137

<花筐(はながたみ) > 桔梗、萩、雁金草
大覚寺の広甫の許に老武士が現れて、臨終が旦夕に迫っている方のために、胤舜を指名して死に往く人を慰める花を活けてほしいと依頼する。広甫は一旦拒絶するが、楼甫から伝え聞いた胤舜はそれを受け入れたいと願い出る。老武士にとって、かつての主である女人は既に80歳の媼だという。それは胤舜にとり大きな試練となる。媼との対面は意外な展開となる。花筐は能の題名だという。このストーリーでのひとつの山場がこの短編にある。

 *活花はひとが手をかけることによって思いを添えて美しさを益し、ひとの心を慰めるものかと存じます。  p150
 *花を切っているのは、わたしもあなたも同じことですよ。それとも、あなたは美しく見える花は悲鳴をあげないとお思いですか。  p153
 *ひとは無惨に散らされるばかりかもしれぬ。しかし、それにたじろがず、迷わず生き抜くことにひとの花があるのです。  p167
 *ひとはこの世を去ってからも、朝の光となっていとしきひとを見つめるものぞ。p167
<西行桜>   蕾桜
 2月に、胤舜は師から「西行法師の桜を活けよ」という課題を与えられる。胤舜は源助を伴い勝持寺に西行の心を実に出かける。そして、ある塔頭前で、急な腹痛に苦しむ尼僧を見つける。その尼僧は知恩院の真葛庵に居るという。その尼僧は蓮月と名のった。二人は大覚寺に蓮月尼を伴い、翌日知恩院の真葛庵に送ることになる。蓮月と源助は二十数年前に互いに知り合っていたのだった。源助の回顧談から胤舜は課題に対するヒントをつかむ。広甫の課題提示の背後には、隠された意図があった。この展開は読ませどころである。

 *わたしはおのれの初心を曲げずに生きることがもっとも大切なことだと思います。p195
 *ひととひとが信じあう美しさからひとの真は生まれるのだと思います。  p196
 *西行さまが見たかったのは、これから開こうとする桜のいのちではなかったかと思います。 p198

<祇王の舞>   青紅葉
 四月に入り、新緑が目に濃い季節に、水野忠邦が椎葉左近と名のり、広甫に会いに来る。広甫は変名で現れた水野忠邦の真の狙いを謀りかねる。荻尾がどこで養生しているかという問いかけに、広甫は青紅葉の寺とだけ伝える。胤舜がそのことを聞き、寺に行った時には既に母は立ち退いていた。そして、胤舜は椎葉左近と対面することになる。
 師は胤舜に「母を守るための花を活けよ」「祇王寺で活けるからには祇王の霊を慰める活花でなければならない」と課題を与えたのである。左近と名のる立場の父と胤舜の交わり得ない対面が描かれて行く。「その日までわたしは椎葉左近でいなければならぬのだ」と語る父の真意はいずこに・・・・・・。

 *何事かを望んで生きるのは、業苦にも似ているが、本来、ひとはそのようにして生きるのではなかろうか。  p222

<朝顔草紙>  青い朝顔
 早朝に胤舜が広沢池のそばに佇んでいると、押小路雅秀と名のる公家の若者が声を掛けてくる。雅秀は胤舜に「この霧の池にどんな花を活けるか」と問いかける。胤舜が青い花と答えると、雅秀は「まろやったら朝顔を活けるな」と言う。そんなきっかけから、自分の描いた朝顔の絵を見せたいと胤舜を己の草庵に連れて行く。絵の前に見て欲しいものがあったと一冊の書物を胤舜に見せる。それは一つの罠だった。

 *男子は父親の思いがわかったとき、おとなになると言います。  p263

<芙容の夕>   酔芙容
 胤舜は母の病を案じ、幾晩も泣いている夢をみて病気になる。広甫は源助と弟子達に手分けして萩尾の行方を捜させる。源助は楼甫と蓮月尼の許を訪ねる。蓮月尼は大覚寺からの迎えが来て、ひと月ほど前に庵から出て行ったと答える。病気の萩尾が何者かに拉致されたのだ。水野忠邦の政に対する確執がもたらした出来事である。弟子達の捜索で荻尾の居場所と実行者が明らかになる。胤舜の活花と広甫の機転が荻尾を救う。

<花のいのち>  白萩、白菊
 大覚寺に引き取られた萩尾を胤舜が手厚く看病する。そして師広甫の命を受けて大覚寺からは胤舜が宮中立花会に出ることになる。母の好きな花を活けるつもりで、図集などを示し選ばせようとするが、母は胤舜を指さす。その場に居た広甫は胤舜に言う。「そなた自身の花を活けよと言われたのだ。いや、さらに言えば、そなた自身を活けよと言われたのではあるまいか」と。胤舜は宮中立花会で賞賛される。そのことを胤舜から聞いた後、母の命は尽きる。そして、二ヶ月後、大覚寺に水野忠邦が訪れてくる。

 *活花は、花の美しさだけを活けているのではない。花のいのちその物を活けておるのだ。  p304
 *徳とは、すなわち、情を知るということでございましょう。  p322

 このストーリーの末尾で、著者は胤舜に語らせている。
「そうですね。わたしは、そのような心の花をこれからも活けていかねばならないのでしょう」と。この小説は活花修行をする胤舜の成長物語である。最後の一文のフィーリングと同じ印象で読み終えることができる作品である。

 ご一読ありがとうございます。


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この作品を読んだ関心から、ネット検索したものを一覧にしておきたい。
旧嵯峨御所大本山 大覚寺 ホームページ
3分間でわかる嵯峨御流 :「いけばな嵯峨御流」
嵯峨御流  :ウィキペディア
未生流いけばなの歴史  :「未生流」
池坊 いけばなの根源 ホームページ
   いけばなの歴史   
未生斎広甫  :ウィキペディア
池坊専好(2代) :「コトバンク」
第13番 法金剛院  :「関西花の寺二十五ヵ所」
法金剛院庭園  :「京都市都市緑化協会」
龍寶山大徳寺  :「臨黄ネット」
真葛庵(マクズアン) :「本居宣長記念館」
弘川寺  :「河南町」
  西行法師
水野忠邦天保の改革 :ウィキペディア
姉小路局  :「コトバンク」
花野井   :ウィキペディア
山県大弐  :「コトバンク」
太田資始  :「コトバンク」
太田資始  :ウィキペディア
太田垣蓮月 :ウィキペディア
太田垣蓮月 :「コトバンク」
太田垣蓮月(一)  :「天台寺門宗」
西行   :ウィキペディア
【 願わくは 花の下にて… 】最期まで「美しく」生きた佐藤義清こと西行の和歌
:「歴史マガジン」
雁金草  :「季節の花300」
酔芙容  :「酔芙容の寺  法華宗大乗寺」

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26