遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『白土三平伝 カムイ伝の真実』 毛利甚八  小学館

2012-03-31 23:09:57 | レビュー
 ビッグコミックオリジナルで『家裁の人』の原作を担当した著者が本書を書いた。
 著者は1986年頃、28歳の時に初めて白土三平に会ったと記す。「恐ろしい人の前に来てしまった、と動転した。・・・・ガチガチに緊張したまま初対面の挨拶をした」そうだ。それ以来、白土三平に魅了されたということが、本書のはしばしに窺える。また、冒頭1ページと210ページに載っている和田悟氏撮影の白土三平の笑顔がすごくいい。
 本書は、著者が2005年から2006年にかけて『カムイ伝全集』刊行のためのプロモーション用に書いた14編の特集記事や他の各誌掲載の記事などに加筆修正を加え、書き下ろしも加えてまとめられたものである。
 つまり、二十有余年の著者と白土三平との関わりが、この一冊に結実したといえよう。
 
 本書を読んでから、本箱の片隅にひっそりと長く眠っていた『カムイ外伝』を引っ張り出し、まずその第1巻を何十年ぶりに改めて再読してみた。実に新鮮な感じである。
 この文庫本のあとがきに白土三平が、・逃亡者としての抜忍少年カムイだけを取り出して、「『少年サンデー』に読み切りふうに発表したのが、この『カムイ外伝』である。宣伝もふくめ、経済的にもよく本伝を支えてくれていたように記憶している」とさらりと記している。その意味が、今回本書を読んで理解できた。

 著者は序で、「白土三平(本名・岡本登)の生い立ちから現在までのライフヒストリーを核としながら、白土三平という創作者がマンガという表現方法を使って追求しようとしたものを探る試みである」と記す。「生い立ちから現在までを、御本人からの聞き書きをもとに」して、実際に白土の生まれ育った各地に足を運び跡づけをして、伝記部分がまとめられている。第1章から第5章までが、白土三平のヒストリー、伝記の記述であり、第7章が白土三平の現況の記述である。そして、第6章に、「外伝とカムイ伝、その第二部を読み解く」として、著者による作品論が挿入されている。
 
 本書の伝記を読み、白土三平の実像に初めて接する機会となった。その生い立ちを読むと、第1章の冒頭が「父ありき」で始まっているのだが、父親の生き方及び白土の生育環境がやはりその作品に大きく影響を及ぼしているのだな感じる。
 絵画を見るのが好きなのだが、白土三平の父・岡本唐貴という画家の絵を今までに見た記憶がない。プロレタリア文学として著名な小林多喜二の『蟹工船』は読んだことがある。必読書の部類のように受け止めていた。しかし、プロレタリア美術運動の画家については学生時代、教科書ですら読んだ記憶が無い。その展覧会を見た記憶も無い。(たまたま、知らないだけかも・・・・今回、ネット検索してみた。)
 特高警察に追われた父、警察の拷問がもとで脊椎カリエスにかかり力仕事のできない父の姿を見つめつつ、疎開先の長野で、父の思想的背景を隠す。そして、家族を支えるために岡本登は弟とともに、山野での「狩猟本能を甦らせ、鍛えて」いく少年時代を過ごしたという。当時の日本の戦時下の状況と重ね併せて考えると、なるほどと納得できる部分が多い。また著者は、「岡本唐貴の芸術生活を詳述するのには理由がある。白土三平の作品世界を構成している豊かな教養は、岡本唐貴の芸術生活から汲み出されたものが多いからだ」(p69)と記す。
 そういう背景がすべて作品の中に投影され、自然に生かされていったと理解できる。

 白土三平が、戦後、焼け跡の左翼少年としてスタートし、紙芝居の時代にその絵を描くことを手始めとし、貸本マンガの時代に入って行く。そこから初の長編マンガ『甲賀武芸帳』、そして『忍者武芸帳 影丸伝』が生み出されていったという。紙芝居からマンガの世界に移行していったのだ。白土の中に「食べるためだけではなくマンガで自分の考えを表現したいという欲望が芽生えて」(p92)いく経緯を本書で知った。この『忍者武芸帳 影丸伝』が白土にとっての最初の金字塔になる。
 本書でさらに、白土三平自身が金を出して雑誌「月刊漫画ガロ」を創刊し、そこで『カムイ伝』を世に問うという経緯も知った。その壮大な実験が、『カムイ伝』第一部を延々と掲載することを可能にし、併行して『カムイ外伝』を創造する契機になったのだ。

 もう一つ認識を新たにしたことは、この「月刊漫画ガロ」が数多の一流漫画家を生み出す母胎となり、彼らに発表の場を与えたことだ。後に『子連れ狼』(原作・小池一夫)でブレークする小島剛夕が『カムイ伝』の下絵とペン入れに携わっていた時期がある。小島剛夕、つげ義春、水木しげる、永島慎二、滝田ゆうその他、多数の漫画家が白土三平と関わり、「ガロ」を作品発表の場とし、そして大きく羽ばたいて行ったという事実である。漫画家による漫画家のためのすごい実験が続けられ、それなりに一世を画していったというすばらしさである。
 昭和という時代のマンガ界において、白土三平がいかにその重要な一翼を結果的に担っていく役割を果たしたのかということを、本書で知ることになった。

 『カムイ伝』は白土により三部作の形で構想されている。著者は『カムイ伝』第一部の内容と経緯を白土の伝記の中に織り交ぜて語っている。この第一部について、ネット検索してみると、松岡正剛氏が、「『カムイ伝』全15巻」という題でかなり詳細にその筋の展開と内容を論じている。そして、第二部については、本書で筆者が作品論としてその内容について論じている。読んでいて大変参考になる。また、田中優子氏が『カムイ伝講義』を上梓され、江戸学研究の視点から論じておられる。
 この三部作、まだ未完である。これからどうなるのか・・・・

 第6章の作品論では、3つの観点で著者は論じている。
 1つは、『カムイ外伝 第二部』や『カムイ伝 第二部』の中で、白土が千葉・内房での漁師の生活、海の民俗から学んだことをどのように作品に反映させているかについて例示する。作品を描きながら、白土が自ら学んだことを作品に取り入れて行くプロセスを分析している。
 2つめは、『カムイ伝 第二部』の前半に隠されたテーマとして”教育”という視点が内在するという。これもいくつか例示して、その教育論の展開を分析している。
 3つめは、白土作品をどのように読み進めることができるかについての一つの提案である。
 尚、これ以外に、白土が神話伝説シリーズを作品化していった点に触れている。ただ、この部分は単に作品紹介に留まり、著者自身の作品論としての展開はない。白土と文化人類学者の山口昌男の対談の内容掲載にとどまる。白土と山口の対談内容は短いが面白いものになっている。
 本書の主たる狙いが伝記にあるからだろうが、作品論としてはほんの導入部にとどまり、白土の生き方と作品の関わりを考える材料として提示しているだけである。著者による作品論と称するには、改めて本格的に論じていく必要があると思う。
 
 本書とネット検索で松岡正剛氏の論評を読み、気になった点が一つある。本書の伝記では、岡本登少年と家族が、疎開先として長野県の小県郡中塩田村(現・上田市八木沢)の蚕室に一旦入居し、「昭和19年の冬、中塩田村から上田の東北にある小県郡長村(おさむら)(現・上田市真田町)へと住まいを移した」(p57)と記されている。松岡正剛氏は表記の小論で、「その岡本一家が戦時中の1944年、長野県の真田村に疎開したのだ。」と記している。長村は通称、真田村と呼ばれてもいたのだろうか・・・・

 本書を読み印象に残る点をいくつか要約して記しておきたい。白土三平を知るための材料にもなる。

*「知らない土地に行くということは、いろんなことに適応しなきゃならないということだった。その土地の方言を覚え、馬鹿にされないために実力をみせなきゃいけない。・・・毎日、緊張していた。」 p42-43 (←白土氏の発言引用より)

*ペンネーム、白土三平の「白土」は長野の旧制中学にいた軍人・白土牛之助の名前だという。「軍国教育を笠に着て生徒に威張り散らしていた教師たちがいざ出征の時に意気消沈するなか、晴れ晴れとした表情で戦地に向かっていった将校」である「白土牛之助の運命に対する清冽な覚悟」への共感からだという。 p44

*長野に疎開した12歳の岡本登少年は、父の思想を知られないようにするという秘密を抱いて生活していた。「国家とそれに対決する個人」という重すぎるテーマが日常生活に組み込まれていたのだ。 p51

*愛国心鼓舞のために、宣伝将校が「このなかで幼年学校に行きたい者は手を挙げてみろ」と怒鳴ったのに、手を挙げず、見咎められると「はい、絵描きになります」と「正直に時代を超越した答え」をしたという。 p55

*『忍者武芸帳 影丸伝』の結末部で影丸のセリフ「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ・・・・」。これは全共闘の合い言葉として使われるようになっていった。
 白土は、「あのセリフはゴーギャンの絵の題名から思いついたんだ」という。 p101

*胃潰瘍を患い、昭和42年頃から、一種の転地療法として房総半島に滞在するようになる。やがて、自宅もアトリエもそちらに移す。漁村の暮らしは、白土には初めて見る世界。「白土は持ち前の好奇心を発揮して、さまざまな釣りや漁法を研究し、漁村に残された料理や生活技術に親しみ、漁師たちの生き方を観照するように」なり、「好奇心と探究心を海の民俗に向けていく」。  p127,131

 本書を通じて、白土三平の実像の一端を知ることができた。
 そして改めて、彼の作品を読んでみようという刺激を得ることになった。
 今手許にある『カムイ外伝』の再読から初めてみよう。そして、さらに白土ワールドへ深く入り込む機会を作っていこうと思う。


ご一読ありがとうございます。

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 本書を読み、そこから関連項目をネット検索し、さらに波紋を広げてみた。

白土三平 :ウィキペデイア
岡本唐貴 :ウィキペデイア
岡本唐貴の絵1
同2、 同3、 同4、 同5、 同6

忍者武芸帳 :ウィキペデイア
カムイ伝とは :小学館
  白土三平 画業50年記念出版のPRサイト 
  白土三平の知性、カムイ伝・外伝の歴史というページもあります。
カムイ伝 :ウィキペデイア
カムイ外伝 :ウィキペデイア

『カムイ伝』全15巻 :「松岡正剛の千夜千冊」

『カムイ外伝』予告編 :YouTube
カムイ外伝 :「シネマトゥデイ」
カムイ外伝 - 忍のテーマ -  by Joie :YouTube
カムイ外伝(kamui gaiden)OP ED :YouTube
サスケ(sasuke)OP ED :YouTube
サスケ 忍者の世界では常識は通用しない :YouTube

白土三平ファン・サイト
 このサイトに作品一覧のページがあります。単行本一覧のページも。
    
カムイ伝講義 田中優子さん :asahi.com「著者に会いたい」
カムイ伝から見える日本(前編)(中編)(後編)(総集編):小学館
 
カムイは、今もどこかに潜んでいる :田中優子氏

特別高等警察 :ウィキペディア
陸軍幼年学校 :ウィキペディア
国民勤労報国協力令 :ウィキペディア
国民勤労動員令 :ウィキペディア
アッツ島の玉砕の画像検索結果

在日韓国人・朝鮮人 :ウィキペディア
  :ウィキペディア
非差別 ← 問題 :ウィキペディア

独鈷山 :「日本百低山」

矢部友衛 :「ING」
長野勝一 :ウィキペディア

四方田犬彦 :ウィキペディア
 正岡正剛氏の小論から、『白土三平論』(作品社 2004年)を上梓と知る。
立花 隆  :ウィキペディア
 「白土三平の読書(2)」に『天皇と東大』『マオ』が出てくる。
柄谷行人  :ウィキペディア
 「白土三平の読書(2)」に『世界共和国へ』が出てくる。
佐木隆三  :ウィキペディア
 「白土三平の読書(2)」に『小説 大逆事件』が出てくる。
大逆事件  :ウィキペディア
佐野眞一  :ウィキペディア
 「白土三平の読書(2)」に『阿片王 満州の夜と霧』が出てくる。

小島剛夕  :ウィキペディア
小池一夫  :ウィキペディア
つげ義春  :ウィキペディア
水木しげる :ウィキペディア
永島慎二  :ウィキペディア
滝田ゆう  :ウィキペディア


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『カンナ 出雲の顕在』 高田崇史  講談社NOVELS

2012-03-27 00:14:33 | レビュー
 著者によるこのカンナシリーズは第8作目になる。2008年11月に出版された第1作『 カンナ 飛鳥の光臨』を2009年5月に読んで以来、読み継いできた。
 このシリーズは、伊賀にある出賀茂(いずかも)神社から盗み出された社伝『蘇我大臣馬子傳暦』(そがのおおおみうまこでんりゃく)と早乙女諒司の行方を、当神社の跡取りの鴨志田甲斐が友人等の協力を得ながら追跡して全国各地に行く物語である。各作品が各々一つのエピソードを完結させながら、最後に『傳暦』を携える人物がその土地を一足先に去るという形になり、繋がっていく。社伝・人物追跡物語であると共に、訪れる土地にまつわる歴史の謎追跡物語なのだ。

 この『蘇我大臣馬子傳暦』を携えて全国各地を転々と移動しているのは、早乙女諒司である。この早乙女諒司は、『傳暦』を奪おうとしていた別の組織に追われている。甲斐はこの早乙女諒司を知っていて、彼の妻である志乃芙からも夫・諒司を見つけて、娘・澪(みお)の許に連れ戻して欲しいと頼まれている。諒司を追う別の組織として前作までに主として出てきていたのは、波多野村雲流である。本書では『玉兎』という組織がさらに現れてくる。そして、早乙女諒司はこの『玉兎』と関係していたことが明らかになる。
 さて、鴨志田甲斐は神職なのだが、伊賀服部流という忍びの末裔でもある。甲斐に協力する友人の竜之介は、奈良に本社のある「歴史探究社」という中堅出版社の社員だが甲賀隠岐流の末裔なのだ。ふたりは高校時代の同級生であり、忍びのおちこぼれ仲間として親しくなった。さらに出賀茂神社の職員、加藤丹波の孫娘、貴湖が巻き込まれ協力者に加わる。彼女は東京大学教養学部に入学したのに休学し、出賀茂神社で巫女のアルバイトをしている。歴史にめっぽう強い女性であり、伊勢服部流の末裔でもある。こんな三人が『傳暦』追跡での様々な事件に関わっていく。
 また、甲斐にとり親同士が決めた許嫁として、海棠聡美がいる。だが聡美の祖父である海棠鍬次もまた、実は『傳暦』を手中にしようと考えている一人でもある。

 なぜ、『蘇我大臣馬子傳暦』がそれほど問題なのか?甲斐ですら、この社伝の存在を盗み出されるまで知らなかったのだ。大化の改新-乙巳(いつし)の変-で、蘇我氏が没落する。その際、彼等一族が書き記した書物は全て焼かれてしまったという。蘇我氏の史書を焼いたのは藤原氏であろう。だが、この『蘇我大臣馬子傳暦』がなぜか秘やかに出賀茂神社に伝え残されてきたのだ。そこには、藤原氏にとって非常に都合の悪い「真実」が書かれているのかも知れない。この社伝は、出賀茂神社の当主である宮司以外の人間は触れることを許されないということで継承されてきたのだ。現在は宮司である父親、完爾だけが知っていることだったのだ。
 つまり、学校で教えられてきた日本史を覆すようなことが記されているかもしれない社伝である。闇に葬られてきた「裏の日本史」がこの社伝であきらかになるのかもしれない。そんな社伝を取り戻すために、甲斐が行動する羽目になったのだ。

 このシリーズは、歴史の謎を秘めた場所を全国転転としている。そして、その追跡で赴く地域の歴史が関わって来る。歴史を学校で学び、その地の観光案内情報などで、そんなものだと何となく理解していた事柄、史実に潜む謎が毎回掘り起こされて行く。様々な文献資料と史実を使って、甲斐と貴湖の二人が論理的にその不明瞭な部分を解明していく。そして彼等なりに謎を論理的に究明し、合理的な解釈を組み立てて行く。このシリーズは、この歴史の謎解きという部分に大きなウエイトが置かれているように思う。
 この謎解きの内容から見ると、その地に赴き『傳暦』を追跡し、諒司とコンタクトを図ろうとする本筋のストーリー展開は比較的シンプルである。
 私は、このシリーズが積み重なるにつれ、この歴史の謎解きの方にむしろ興味をいだき、甲斐と貴湖の謎解き、つまり著者の謎解きに引き込まれていて、それを愉しむ自分を発見している。一般的に伝えられている史実が、様々な資料・情報を重ね合わせて、視点を変えて見つめると、なんと興味深いものに変貌することか・・・・驚きと愉しみのシリーズである。学者・研究者としてはそこまで踏み込めない領域になるのかもしれない。

 まずこれまでのシリーズを列挙しておこう。最新作に掲載の広告キャッチフレーズを引用する。どんな歴史の謎に取り組まれているか、大凡のねらいがわかるだろう。

 『カンナ 飛鳥の降臨』 聖徳太子の正体は誰なのか
 『カンナ 天草の神兵』 天草四郎に隠された暗号は?
 『カンナ 吉野の暗闘』 呪術者にして英雄! 役小角
 『カンナ 奥州の覇者』 アテル降伏の真実とは? 
 『カンナ 戸隠の殺皆』 天岩戸伝説の偽りを暴く!
 『カンナ 鎌倉の血陣』 鎌倉源氏滅亡の真相に迫る!
 『カンナ 天草の葬列』 菅原道真は本当に大怨霊か?
そして、本書『カンナ 出雲の顕在』は、「出雲大社は素戔嗚尊を追放したのか!?」と記されている。

 この連作のストーリー展開として、その追跡行程がなぜ日本列島を右往左往しているのか?早乙女諒司が逃げ回っているとしても・・・・と思っていたが、この最新作を読み、その意図が少し繋がった。本書でこんな会話の一端が記されているのだ。
「どうして今までぼくが、日本全国を渡り歩いていたと思う。ただ、波多野村雲流の連中から逃げ回っていただけじゃない。その間に、岩手や長野や吉野や熊本にいる、いわゆる『大物』たちと話をつけてきた。通常言われている、政財界のフィクサーたちとね」という会話ではっきりしたのだ。早乙女諒司には彼なりの思惑があったのだ。

 本書において、過去の一連の作品からみて本筋が大きくうねり出した感をうける。
 竜之介が諒司から呼び出しを受け、諒司から彼の意図を明かされてその行動の協力者として巻き込まれて行く形になる。一方、貴湖だが、最初は出雲資料の分析プロセスで顔をのぞかせるのだが、今回は怪我をした祖父の許にとどまることになる。本書で甲斐が出雲に行く目的は行き先も明確に家族に告げずに出雲に行ってしまった竜之介を探しに行くことなのだ。その出雲行きに聡美が同行するのである。そして、その聡美におそろしい危難が襲う・・・・。早く次作を出して欲しい展開で本書が終わる。

 さて、今回の出雲、出雲大社に関連して初めて知ったことをいくつか列挙しよう。
 本文をお読みいただいている方はこれらのことをご存じだったでしょうか。

*出雲といえば出雲大社を思い浮かべる。しかし、「ほんの百数十年前までは『出雲大社』という名称すら日本史上に存在していなかった」(p7)

*八岐大蛇退治の物語は、『出雲国風土記』には、全く書かれていない。(p112)

*拝殿の大注連縄は、拝殿に向かって「左が本、右が末」となっていて、通常の注連縄とは向きが逆になっていること。太さ3m、長さ8m、重量1.5t (p144)

*出雲大社は、「独特の『二礼、四拍手、一礼』でお参りする」(p144)
   → 通常の神社は、「ニ礼、二拍手、一礼」

*大国主命が鎮座する神座(御内殿)は南向きではなく西向き。拝殿からは誰一人として大国主命を正面から拝めない。 (p146)

*出雲の地には、「八」がつく事柄や地名が、やけに多い。 (p138,147)
 → 八雲、八重垣神社、八岐大蛇、大国主命の八つの名前、出雲大社の八足門

*寛文6年(1666年)に毛利綱広が銅鳥居を寄進した。その柱に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記されている。 (p142)


 著者が出雲の歴史の謎解きで甲斐に語らせている事柄で、印象に残る点を併せていくつか記しておきたい。
 なぜ・・・? その論理思考については、本書を読んでいただくとよいだろう。

*「天皇家における万世一系というのは、あくまでも『一本の系図を持っている』ということだ。そういう意味では、まさに『一系』だ。しかし、長い歴史の中で、血は何度か入れ替わっている。これは事実だ」 (p126)

*「ぼくは、もともと出雲の地は素戔嗚尊が治めていたんじゃないかと思ってる」(p220)

*「出雲国造は・・・・素戔嗚尊を、そして大国主命を裏切った・・・・」(p224)


 最後に、未だに私が謎と思っているのは、この連作のタイトルである『カンナ』という言葉の選択である。著者はこのカンナについてこれまでには説明していないと思う。(私の読み落としもありえるが・・・・)
 ただ、本書に「彼らは砂鉄を採るために『鉄穴流し』という手法を使っていたらしい」(p113)という会話が出てきた。この鉄穴に「カンナ」というルビが振られている。「カンナ流し」と。著者は「鉄は力なり」に関係する意図を込めているのだろうか。書名の『カンナ』にどのような意味が秘められているのか・・・・・『傳暦』の内容が語られるとき、その意図がわかるのかもしれない。そんな気がしている。さて?
 次作の展開が楽しみだ。


ご一読ありがとうございます。
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 本書に関連する項目と派生項目のネット検索結果を一覧にしてみた。

荒神谷遺跡 :ウィキペディア
荒神谷博物舘HP
加茂岩倉遺跡 :ウィキペディア
加茂岩倉(かもいわくら)遺跡 :「出雲の2つのイメージ」
An IZUMO Tour (出雲ツアー) :「邪馬台国大研究」

出雲国風土記 :ウィキペディア
『出雲国風土記』の概要 :「出雲の2つのイメージ」
出雲國風土記 原文 :「あゆみ 歩」 あおやぎ しゅんじ氏
出雲国造  :ウィキペディア
出雲国造神賀詞 :「出雲大社紫野教会」のサイト

島根県の史跡分布図 :「出雲の2つのイメージ」

出雲大社HP
出雲大社 :ウィキペディア
古事記の神話  :「神話博しまね」のサイト

出雲大社建造の謎 :「邪馬台国大研究」Inoue氏
 事実情報、CGによる復元図、現在の出雲大社の本殿平面図等が載っています。
ツクヨミ :ウィキペディア
月読神社 (京都市) :ウィキペディア

伏見稲荷神符21  「身逃神事」と「爪剥祭」:「ブログ 古代からの暗号」
新羅神社考~「新羅神社」への旅 出羽弘明氏 :三井寺 HP

新羅 :ウィキペディア
高麗 → 高句麗 :ウィキペディア
百済 :ウィキペディア

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『早雲の軍配者』 富樫倫太郎  中央公論社

2012-03-24 00:28:06 | レビュー

 早雲は、伊勢新九郎→早雲庵宗瑞→北条早雲と改名していった。家督を氏綱に譲り、形としては隠居したこの早雲に見出され、早雲の孫・千代丸の軍配者として将来を嘱目された風間小太郎の物語である。久しぶりに実に爽快な気分を残してくれる小説だった。

 千代丸の父は早雲の嗣子氏綱。千代丸は後の氏康。そして風間小太郎は、早雲が北条を名乗るようになった後、氏綱から風摩という姓を受け、風摩小太郎と名乗ることになる。風間小太郎が風摩小太郎を名乗るまでの生長を扱った小説ともいえる。

 本書は3部構成になっている。
 第1部 韮山さま、 第2部 足利学校、 第3部 高輪の戦い
 最も簡単に言えば、第1部は小太郎が早雲に軍配者の素質があるかどうか試されて、そのお眼鏡に適う。そして、早雲からその基礎訓練を段階を経ながら受けることになる。第2部では下野にある足利学校に入学し、そこの第二教程あたりから学び始める。そして、軍配者としての素養を習得して行く。入学当初にいわば同期のような形で、四郎左、冬之助という友ができ、一緒に学ぶことになる。足利学校で4~5年の修養を積み、早雲の死によって、国に呼び戻される。帰国後、氏綱から「風摩」の姓を授かる。第3部は、扇谷上杉朝興との高輪原の戦いに、将来の軍配者として戦参観の立場で随行することになる。しかし結果的には、その戦いの中で求められて自らの意見を具申し、戦の態勢の挽回に貢献する。最後に、成人した千代丸(氏康)の初陣にあたり共に戦場に臨む。この第3部は軍配者の視点、小太郎の戦への関わり方として、なかなかの読ませどころになっている。
 この作品は、一人の軍配者誕生への生長ストーリーという展開になる。途中、様々な紆余曲折があるが、ハッピーエンドになる点で、爽快さが残る。

 さて、大きな辞書を何冊か見ると、「軍師」「軍配」という単語は載っているが、「軍配者」という単語は載っていない。ウィキペディアの「軍配」という項目の中に、「軍配者」という表現が出てくるだけである。軍配者という語句は本書の著者の造語なのだろうか。つまり、軍配者というのはあくまでフィクションなのかどうか。「軍師」と違う立場を創造したのは、小説の世界を大きく広げるためだったのかという興味である。それとも、現代の辞書には記載されていないが、当時にはそんな言葉があったのか・・・
 著者は、軍配者について本書で「戦の全般に関して君主に助言する専門家」(p52)だと説明し、通常は陰陽師や修験者がその機能として担った占術の側面、つまり戦を有利に始めるのに適した日時や方角を占う役割と、軍師・参謀がその機能を担った作戦の立案という役割を兼ねそなえた専門家なのだという。総合的な能力を期待されている存在なのだ。そんな優秀な人材は手軽に養成できる訳はないだろう。

 本書を読んで興味深かったのは、この軍配者を育成する足利学校という存在だ。国の如何を問わず、諸国から優秀な人材が下野の地に集まってきて、教程段階を一段ずつクリアしながら軍配者として育成されていく。そんな中立的な機関と育成プロセスが確立されていたようだ。これがどこまで事実に即したことなのか、具体的な文献を読んでいないので私には判断できない。だが、そのプロセスを第2部で具体的に説明しながら、その中での人間関係を絡ませていくところがおもしろい。
 この学校を卒業したら、出身の国に戻るか、どこかの国に雇われることになる。そうすると、場合によっては同じ足利学校のものが、戦場で軍配者として対決する立場になる。ところが、この学校の主宰者の許には、全国に散らばって行った卒業生から様々な情報が伝えられてくる、そのため、主宰者は最新の情報に精通していく立場にあるという。戦国の世に、よくもこのような学校が存在し得たものだと思う。
 本書では、領国の接する北条氏と扇谷上杉氏は互いに領土争いの関係にある。だが、この扇谷上杉氏の一統に連なる曾我冬之助と小太郎が、この足利学校で机を並べる関係になる。そして相互に認め合い、共に学びを深め、協力しあう関係になって行く。そこには、後でふれる四郎左も加わっている。この展開が何ともおもしろくて、実に楽しい。
 著者は永正16年(1519)の秋、小太郎14歳、冬之助16歳、四郎左20歳と記す。

 本書から学べることがある。それは早雲の治政観であり、戦国の時代における家の存続を考えた遠慮深謀の姿勢と実行という点である。
 農民を搾り取る対象とは考えず、農民からの税は定額で変動させず、農民に安心感を抱かせ、安定した生活を送らせられる体制を築き維持すること。それが、家を存続させ国を強化できる基なのだという認識とその方針を実行したこと。この治政観がなぜ、他の多くの諸国に普及しなかったのだろうか。
 もう一つは、今川の後援で一城を預かる主の状態から、公方を追い出し伊豆地方を平定し、領土を拡大した段階で、嗣子氏綱に家督を譲り、道筋づくりを明確にしていったこと。そして、氏綱の治政を支える形で補強を図る。孫の時代のことを念頭に、家の存続の基が人材であり、領土拡大を図り家の繁栄を継続する上で、軍配者の育成が一つの要になると思考する。自らの死後の先の問題への布石を打ったという点である。
 これが、どこまで事実に合致するのか知らないが、こういう発想と視点は時代が変わっても通底するところがあるのではないだろうか。本書を読み、早雲という武将に興味が湧いてきた。

 本書のストーリー展開から関心・興味を抱いたことをいくつか箇条書きに記しておきたい。
1. 香山寺住職、以天宗清和尚が風間小太郎を「堀り出し物」と称して、宗瑞(早雲)に引き合わす。「乾いた大地が雨水を吸い取るが如く、小太郎は耳で聴いたことを胸に刻み込んでしまうのです。」「小太郎の才を生かすことができる道は他にあるやもしれず」(p15)というように、人物を見抜きその才能を育てようとする人との出会いが如何に重要か、ある意味人生の転機を左右するか・・・・。本書にも触れられているが、この和尚をネットで検索すると、「早雲寺」を開山された人だった。

2. 本書では、小太郎の従兄弟として風間慎吾が登場する。小太郎の父・風間五平は宗瑞の間諜として働き、敵方に処刑される。そして、慎吾の父・風間六蔵が棟梁を継承して風間の一党を率いている。小太郎が宗瑞に見出され軍配者として育てられる道を歩む。一方、慎吾は父六蔵の後を継ぎ風間の棟梁となる道を歩む。小太郎は風摩姓を得て風摩小太郎と名乗り、軍配者になる。
 「風摩小太郎」は忍びの集団を率いたと通常言われている。本書には直接的には描かれていないが、この作品設定の時代の先に、風摩小太郎の配下として風間慎吾が風間党を率いるという想定になるという設定なのだろうか。

3. 風間慎吾にはあずみという妹がいる。小太郎に頼まれて、あずみは小太郎の妹・奈々の面倒をみる約束をする。このあずみと小太郎の関係がこの小説で暖かさを生み出していて、好ましい。この奈々が千代丸(=氏康)と出会い、遊びの世界で繋がっていく設定がおもしろい。

4. 本書に宗瑞の考え方がところどころに出てくる。治政観として学べる点だ。
 ・韮山さまは、あらかじめ決めただけの年貢しか取らぬ。(韮山さま=早雲) p10
 ・国を支えるものは武でもなければ財でもない。人である。国の主が高き志を持ち、優れた才を持つ者が主を支えれば自然と国は栄え、民は幸せに暮らしていけるものだ。p23
 ・何事も、まずは民を第一と心得よ。 p41
 ・こののどかな光景は力で守らねばならぬ。 p50
 ・宗瑞の死後、遺言書が見付かったという。それには自分が死んだ後の指図が細々と書き記されており、遺体をすぐに荼毘に付すことや、葬儀をできる限り質素に執り行うことなども・・・ p269
 ・年貢は伊勢氏(=北条氏)の者が贅沢するためではなく、この国を豊かで暮らしやすい国にするために使わねばならぬ。 p270
 ・宗瑞の死後も、年貢は四公六民を維持した p295

5. 宗瑞が小太郎の人物を見極めて行く上で、読ませる書物を段階的に与えて行ったと描写している点は興味深い。つまり、物事を学び、広げ深めるには適切なステップがあるのだ。小太郎は香山寺で、廊下の掃除をしながら聴いて、既に四書五経は学んでいた。
 そこで、
  太平記 → 孫子 → 平家物語、吾妻鏡 → 史記  と書物を与えられた。
 宗瑞は、併行して、吉兵衛という観天望気の名人の供をして外歩きをせよと命じる。
 さらに、宗瑞は合戦の図上演習を小太郎に手ほどきするのだ。

6. 織田信長の傍に、伊束法師という軍配者がいたという。初めて本書で目にした。p53

7. 武田信玄の軍配者、山本勘助が一時期、足利学校で小太郎と一緒にいたという設定がおもしろい。それも、本当の山本勘助は足利学校に行く途中の村で殺され、そのお供の荷物運びの男・四郎左が山本勘助になりすます。小太郎が足利学校に行く途中、本来の山本勘助一行と一緒になる。そこで四郎左を見知る。この展開がおもしろい。(第2部)
 山本勘助という謎めいた人物に興味が湧く。関心事項がまた増える。

8. 本書には足利学校の教育システムが第2部でかなり具体的に描かれている。このシステムもなかなか興味深いものだ。自学自習が原則で、充実した書庫から書物を借り出し、筆写して自らの力で学ぶ。講義はいくつかの段階があり、力が付かないと上の段階を学べないシステムだったようだ。
初歩的な段階 四書五経を中心に学問の基礎となる漢籍を学ぶ
 二段階目 武経七書と医書(3冊)を学ぶ
  武経七書:『孫子』『呉子』『蔚繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』  医書  :『傷寒雑病論』『黄帝内経素問』『親農本草経』
 三段階目 『易経』と観天望気、陰陽道の知識 →ここで通常足利学校を去る
 四段階目 古今の戦争を題材に学生同士が戦を指揮する:図上演習

9. 早雲(=宗瑞)は死ぬまで伊勢氏を名乗った。しかし、宗瑞の生前、しばしば氏綱が武蔵や房総に兵を出した。そして、宗瑞の死後、氏綱は伊勢氏は北条氏の後裔だとして北条氏を名乗る宣言をする。韮山は源頼朝が流刑された土地であり、その周辺は鎌倉幕府の執権を世襲した北条氏の領地でもあった。
 著者はこう記す。「伊勢氏ではなく北条氏が攻撃すれば、それは『侵略』ではなく、かつて支配していた土地の『回復』になる。・・・・氏綱には他国に攻め込む大義名分ができるわけであった。」と。こんなことがまかり通ったとはおもしろい。

10. 戦の出陣日を軍配者に占わせていたというのが面白い。こんな会話を著者は記す。「ここは金石斎の言うように、神の思し召しに逆らわず、こちらに運が傾いているときに始めるべきであろう。何を好んでわざわざ縁起の悪い日に出陣する必要があろう。神仏の加護に唾するようなものではないか」

 最後に、印象深い文を記しておきたい。

*過ぎたことを振り返るより、これから先のことを考えることこそ大切であると存じます。 p21

*妹と縁を切ることはできませぬ。  p22

*優しさを持つのは悪いことではない。幼い頃からわがままで酷薄では、それこそ先が思い遣られる。 p61-62

*あと十年もすれば千代丸(=氏康)も元服する。十年といえば長いようだが、軍配者として一人前になるには、それくらいの歳月が必要であろう。今から準備しておきたい。 p63

*伊豆の農民は幸せそうに汗を流し、武蔵の農民は苦しそうに泣いてばかりいる。だから、韮山には頑丈な城などいらないわけだ。 p267

*戦をなくすために戦をする。それで民が安心して暮らすことができるようになる。p325
*世間の者たちは、一代で伊豆・相模の二ヶ国を征した早雲庵殿を稀代の英雄と呼んでいるらしいが、わしは、そうは思わぬな。英雄というより仁者と呼ぶ方がふさわしいように思う。  p361
 →著者は、足利学校の庠主・東井が小太郎に語った感想として描いている。

*相手の立場になって策を考えよ。  p391

*戦は生き物だから、こちらが想像していない動きをすることがある。兵書を読むだけでは学べないことがある。自分のすることが裏目に出て、どうしていいかわからないことがある・・・・・名将と呼ばれる多くの人たちもそういう不運のせいで命を落としたそうです。しかし、早雲庵さまは生き抜きました。それは座禅のおかげだというのです。戦で負けそうになると座禅を組んで、心を空っぽにしたそうですが、そうすると、それまで見えなかったことが見え、自分がどうすればいいかわかったそうです。自分の心の声が教えてくれるのだそうです。    p407

*父上は、こう申された。小太郎の目には何の濁りもない。澄み切ったきれいな目をしている。小太郎の目は人の心の奥底を覗くことのできる目だ。そんな目を持つ者は、そうそう見付かるものではない、とな。 →氏綱の言として p431


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 この作品に出てくる語句で、史実背景にある語句をネット検索してみた。リストにまとめておきたい。

香山寺 ← 平兼隆の菩提寺 香山寺 :「鎌倉時代を歩く 弐」
以天宗清 :早雲寺HP

軍配  :ウィキペディア
北条早雲 :ウィキペディア
後北条氏 :ウィキペディア
北条氏綱 :ウィキペディア
北条氏康 :ウィキペディア
根来金石斎 ← 大藤信基 :ウィキペディア
伊束法師 (→「桶狭間の戦い」p46 抜粋紹介の記述に)
上杉定正 :ウィキペディア
 この項に、「道灌の軍配者(軍師)の斎藤加賀守のみは定正の元に残り」と斎藤加賀守が記されている。
扇谷上杉家 :ウィキペディア
太田 道灌 :ウィキペディア

太平記  :ウィキペディア
平家物語 :ウィキペディア
吾妻鏡  :ウィキペディア

足利学校 :ウィキペディア
足利学校 日本最古の学校(国指定史跡)

孫子(書物) :ウィキペディア
『魏武帝註孫子』原文 :立命館大学中國文學専攻 「孫子の世界」
孫子の兵法 :石原光将氏
呉子  :ウィキペディア
呉子  :Web漢文大系
 このサイトに、孫子、司馬法、尉繚子、李衛公問対、六韜、三略
 の全てが揃っています。すぐれものですね。
尉繚子 :ウィキペディア
いんでぃ版「尉繚子」 :いんでぃ氏
 なかなかユニークな取りあげ方と意訳の試みかと・・・いんでぃ版として、「孫子の兵法」、「呉子」、「六韜三略」、「司馬法」、「李衛公問対」も掲載があります。   
尉繚子 :「司徒's ホーム」 司徒氏
 ここにも、「孫子」「六韜」が完成で、他は書きかけや工事中として載っています。
六韜 :ウィキペディア
六韜 :「中国的こころ」
 概略の紹介ということで七書がそろっています。
三略 :ウィキペディア
三略 :「兵法塾」
 このサイトも兵書抜粋という形で七書がそろっています。
司馬法  :ウィキペディア
司馬穰苴 :ウィキペディア
司馬法 
李衛公問対 :ウィキペディア
李衛公問対 上巻
李衛公問対 中巻
李衛公問対 下巻

七書、第1冊 :国立国会図書館のデジタル化資料
同上、第2冊 
同上、第3冊 

傷寒論 :ウィキペディア
傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん):つかだ薬局
 このサイトに、傷寒論、黄帝内経、親農本草経の概説もあります。
傷寒雑病論 :薬学用語解説 日本薬学会
金匱要略 :ウィキペディア
黄帝内経 :ウィキペディア
黄帝内経素問・王冰序
黄帝内経:素門 明・顧従徳本
神農本草経 :ウィキペディア
『神農本草書(しんのうほんぞうきょう)』 :内藤記念くすり博物館 野尻佳与子氏

神農本草経. 巻上,中,下,攷異 / 森立之 [編] :早稲田大学図書館

風魔小太郎 :ウィキペディア

韮山城 :ウィキペディア
韮山城と支砦群 :「余湖くんのホームページ」
小田原城 :ウィキペディア
小田原城(後北条時代) :「神奈川の城」
権現山城 :「神奈川県の城」
玉縄城 :ウィキペディア
玉縄城 :「埋もれた古城」 ウモ氏


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『マヤ グァテマラ&ベリーズ 写真でわかる謎への旅』 辻丸純一  雷鳥社

2012-03-22 00:31:41 | レビュー
 写真家によるマヤの本である。奥書を見ると、著者以外に3人の協力執筆者がいるようだ。2001年3月出版の本。先般来、マヤ暦のサイクルの終わりに関係し、ちょっとしたブームになっている地球の終焉、滅亡論とは一線を画している。
 以前からマヤ文明・文化およびマヤ暦に興味を持っているので、今までに何冊も読んできている。だが、マヤ遺跡についてこれだけ沢山の写真を掲載した本に出会ったのは初めてだ。
 本書はマヤ遺跡探訪のための本であり、「写真で見るグァテマラ&ベリーズ見どころガイド」という見出しページがあるくらいなので、掲載されている遺跡所在地の数と紹介写真が今までに読んだ中では一番多かったことに納得する。ただし、寡聞にして・・・の類で、もっと多く取りあげている本があるかもしれないが・・・(ご存じでしたら、教えてください。)

 本書は、グァテマラとベルリーズに所在する遺跡を取りあげているので、マヤ解説書に頻繁に登場するかの有名なテオティワカンやパレンケの写真は登場しない。それらの遺跡はメキシコに所在する遺跡だから、まあ当然である。メキシコにあるマヤ遺跡からするとまだあまり知られていない遺跡群が多いかもしれない。それ故に、まず新たに知るマヤ遺跡の楽しみがここにはある。
 本書は次の8つの遺跡を掲載している。

 グァテマラ:ティカル遺跡、キリグア遺跡、コパン遺跡(これはホンジュラス所在)
 ベリーズ :シュナントゥニッチ遺跡、ラマナイ遺跡、アルトゥン・ハ遺跡
       カルペチ遺跡、クエーリョ遺跡

 マヤの写真集として、中米におけるマヤ遺跡の広がりを楽しめておもしろい!
 遺跡の全景写真、クローズアップ写真、博物館展示のたくさんの発掘工芸品写真、マヤに住む人びとの生活風物写真など盛り沢山である。熱帯の青空に屹立する神殿群の写真は美しく、神秘的で古代への思いをかき立てる。ほんとに一度現地に行ってみたい!

 本書には写真と併せて、遺跡全体の配置図、紹介遺跡の簡略な要点説明文が付されており、それが見どころガイドになっている。112ページには世界遺産に指定されている古アンティグアの写真が載っているのだが、コロニアル風のアーチから一直線に伸びる街路の先にアゲア火山がそびえている。なんと、富士山そっくりの山が見えるのだ。なんと・・・ビックリ!
 
 ガイドブックなのでマヤ研究書のような専門性はないが、マヤについての一般的な概説が見開きの2ページで24項目、コラム風に記載されている。たとえば、
 01. マヤ文明はどのようにして誕生したのか
 05. マヤ文字が秘めた謎とは
 07. マヤの社会のしくみとは
 17. マヤに影響を与えた謎多き都市テオティワカン
 23. マヤ文明はなぜ歴史から姿を消したのか
 12. 工芸品に見るマヤの芸術
など、マヤ文明、マヤの社会と文化、その栄枯盛衰が大凡理解できるようになっている。その内容は、マヤ遺跡を見る上でのバックグラウンド知識になり、遺跡への興味を深める糧になるものである。
 そして、さらに「マヤの叡智をのぞく」として2項目、「現代のマヤをのぞく」として2項目が記載されている。
 写真を楽しむだけでなく、浅く広く、ベースとなる知識を入手でき、マヤを理解する入門書としても読みやすい本といえる。 
 
 巻末に28ページ分の「ひとり歩きのためのグァテマラ&ベリーズガイド グァテマラ&ベリーズトラベルDATA」というイエローページがある。いまでは、ちょっとデータが古くなっているかもしれない。まあ、このあたりは通常の観光ガイドブックの最新版をみれば補足できるだろう。

 マヤ遺跡を写真で楽しみ、遠き熱帯の地、遠き古代に思いをはせ、楽しいひとときを過ごすことができた。
 まずは本書でマヤ遺跡への写真旅行をしてみようではないか。


ご一読ありがとうございます。


付記 
 ネットでアマゾンを検索してみたら、著者は、ちゃんと『メキシコ/マヤ&アステカ 写真でわかる謎への旅』という本を土方美雄氏との共著で出版していた。2001年8月刊。


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 ネット検索で、これらの遺跡にどれだけアクセスできるものか・・・・
 ちょっとチャレンジしてみた。ご紹介として一覧にまとめてみる。

ティカル :ウィキペディア
ティカルの画像検索結果
ティカル :「ラテンアメリカ博物館」 K.Norizuki氏
 「中米の遺跡」として、本書関連では、キリグアとコパンも載っています。
ティカル遺跡 :YouTube

キリグア :ウィキペディア
キリグア :「キリグア遺跡へようこそ!」N.Ebata氏
 ここには、ティカルとアンティグアも載っています。
キリグア遺跡(1)遺跡公園と世界樹セイバ :「ヤスコヴィッチのポレポレBLOG」
 シリーズでの記載(5回)。ティカル遺跡(12回)もありますね。

コパン :ウィキペディア
マヤ文明の古代都市、コパン遺跡 :AFBP BBNews
コパン遺跡の画像検索

ホンジュラス コパン遺跡 :Googleマップ
 航空写真で見るとおもしろい。キリグア遺跡も見ることができます。

シュナントゥニッチ :ウィキペディア
シュナントゥニッチ遺跡 :「私の海外旅行」yucky氏
 ここには、カルペチ、コパン、ティカル

LAMANAI :マヤ遺跡探訪 
 ここには、シュナントゥニッチ、アルトゥン・ハ、カルペチ、クエーリョも載っています。その他に本書未掲載のカラコル、セロス、サンタ・リタの遺跡も!

アルトゥン=ハ :ウィキペディア
アルトゥン・ハ遺跡 :「旅写真日記」miffy氏
アルトゥン・ハ遺跡 :flickr  Google航空写真
日本人クルーズ船団体客とアルトゥン ハ遺跡を訪問出来ました。
 :「セニュールナガモリのベリーズ便り」永森克己氏

Cahal Pech :From Wikipedia, the free encyclopedia
Cahal Pech A Day Trip Out Of Orange Walk, Belize
 このサイトには、シェナントゥニッチ、ラマナイ、アルトゥン・ハも載っています。
Cahal Pech Maya Temples

Archaeology of Cahal Pech  :Institute of Archaeology

Cuello :From Wikipedia, the free encyclopedia
Northern Belize - The Mayan archaeological site of Cuello.

Cuello Maya Ruin A Day Trip Out Of Orange Walk, Belize


Maya Archaeological Sites in Belize
MAYAN RUINS OF BELIZE

Institute of Archaeology HP


ついでに、附録として:

マヤ文明 :ウィキペディア
2012年人類滅亡説 :ウィキペディア

南東地域から見た古典期マヤ文明の「崩壊」 :「マヤ文明に挑む」中村誠一氏
-コパン王都からの視点-
マヤ文明に見られる美-メキシコの遺跡から- :金沢大学国際文化資源研究センター

密林の下に眠るマヤ文明の都市 :ナショナルジオグラフィクスニュース
 この記事の下部にあるリストから関連コンテンツへのアクセスができます。
マヤ文明の崩壊は穏やかな降雨量減少が原因!? :「エコロジーオンライン」

マヤ神話 :「神話つまみぐい」 岡沢 秋氏
Maya mythology :From Wikipedia, the free encyclopedia
Popol Vuh : From Wikipedia, the free encyclopedia

マヤの暦 :「マヤ遺跡探訪」
マヤの暦法 :「マヤ世界」
マヤ暦とは? :日西翻訳通訳研究塾
Mayan calendar : From Wikipedia, the free encyclopedia

マヤ・アステカ神話の終末 :「フランボワイヤン・ワールド」草野 巧氏

「野生の科学」としての神話の論理 ~中南米先住民のコスモロジー~
 マイクロソフトのパワーポイント資料です。 蛭川 立氏
(資料をダウンロードするか、そのまま開くかの選択がまず必要です。パワーポイントのソフトが必要です。)

マヤ文字 :ウィキペディア
マヤ聖刻文字 :「世界の文字」 中西印刷
マヤ文字の特徴

       インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)




『聖拳伝説2 叛徒襲来』『聖拳伝説3 荒神激突』 今野敏 講談社文庫

2012-03-20 00:10:47 | レビュー
 『聖拳伝説』は3部作である。先般(2/26)、印象記をまとめた『聖拳伝説1 覇王降臨』の展開だが、この2冊は前編・後編という印象を受ける。それぞれが一応独立したまとまりのある話になっているが、より密接に関係しているといえる。

 第1作は、服部と荒服部との対決という話だった。
 第2作は、荒服部の王に対し、真津田と荒真津田が新たに登場してくる。真津田と荒真津田との確執を内包しながら、真津田が荒服部の王に対して叛徒として襲来する。それが一旦防御される(第2作)が、退却した真津田が再来し、荒神が激突する(第3作)というストーリー展開となる。

 第1作では、私立探偵・松永丈太郎が依頼を受けて身辺調査をしていた片瀬直人と、ストーリーの途中から、二人が連携することになり、二人の主人公の活躍という展開になった。服部一族の野望を荒服部の王・片瀬直人が松永との連携で挫いてしまうことで終結した。

 服部一族は日本の政治の裏側に潜み、政治を操作する強大な力を発揮し続けてきた。服部宗十郎を筆頭とする一族の野望が片瀬直人により打ち砕かれることにより、巨大な裏の力の空白が生まれたのだ。この機会に己の力を見せつけ、空白となった裏の権力の座に自ら納まろうとする人物が現れた。それが真津田という一族の松田速人なのだ。
 この松田速人は第2作の後半遅くに登場してくる。この悪の権化になろうとする野望を抱く人物が登場するまでのプロセス展開が第2作の読ませどころだろう。

 話は、大学を休学した片瀬直人と水島静香が、北インドの一地方にあるバクワン・タゴールのアシュラームに滞在しているところから始まる。彼は、サンスクリット語で、『供養を受けるに値する者』-「アルハット」と呼ばれる部族の血脈を継承した数少ない末裔であり、アルハット一族の拳法を守り伝える師である。「アルハット」は荒服部のルーツでもあり、片瀬はこの師の許で修行し拳法を学ぶ。この書き出し、実は第3作の展開への伏線になっている。
 片瀬と水島が北インドの地を離れ日本に帰国することを師に告げると、バクワン・タゴールは、服部宗十郎の野望を挫き、アルハットの血脈を守ったが、そのことが「新たな戦い」を呼ぶのではないかと心配する。それが、現実のものになる・・・・第2作はその物語というわけだ。

 携帯電話のない、固定電話時代が背景となっている。東京都内の特定の3ヵ所の電話局で爆発が起こり、通信網が混乱するという事件が発生する。この事件の情報収集、解明に内閣調査室の下条室長、陣内平吉が関わっていく。一方、この事件の発生と同じ頃、片瀬は地震雲を見て、電話局の爆破とは無関係ではないと予知して、松永とコンタクトをとる。そして、爆破犯人の検討がつくと片瀬は松永に話し始める。
 自然現象を利用して騒動を起こす一族はマツダ、「真津田」と呼ばれると・・・。ワタリと呼ばれる山岳民族の一派であり、ワタリの民となったのは、藤原体制の時代であり、すべての権力に屈することなく生き続けてきた民なのだと。さらに、彼等の本家筋も『荒服部』と同様に、『荒真津田』と呼ばれ、発生は『荒服部』と同様に、インドであり、ゾロアスター教を信奉し、ペルシャの影響を強く受けているという。荒真津田がアフラ・マツダ、ゾロアスター教の神の名に繋がることに、松永は驚く。
 片瀬は首都圏全体に大混乱が起こる事を憂慮し、内閣調査室に伝えるて連携することを考えるようになる。一方、松永の友人であるフリーカメラマンが高田馬場近くで、赤外線ストロボ付きカメラで、怪しいふたりの人物を写真に撮ったのだ。その佐田から松永はフィルムケースを託される。さらに、山手線と中央・総武線のCTC-列車集中制御装置の異常事態が発見される。騒動は徐々に拡大進展していく。 
 そして、地震が起こった。この一見ゲリラ活動問題の解決の目処が立つかどうか・・・・それは災害救助のための自衛隊出動にとどまらずに、小火器携帯許可という事実上の治安出動命令を総理が認めるかどうかという思惑に発展していく。下条室長は手がかりをつかんだと告げて、その発令まで6時間の猶与を総理から引き出すのだった。
 その手がかりは総理府職員の松田春菜にあった。陣内は松田春菜と片瀬を総理府広報室の会議室で引き合わせる。そして、このゲリラ問題に松田速人が関わるという動き、現時点の真津田と荒真津田の関係が明らかになっていく。その頃、水原静香は松田速人に誘拐されるという事態が起こっていた・・・・

 第2作のストーリーは比較的シンプルである。しかし、電話回線網の混乱、鉄道の混乱という首都圏全体に関わっていく危機状況の設定はテロ問題への危機管理を先取りした視点に立つと当時の背景で考えてもリアルである。携帯電話が発達した現在でも、襲撃箇所を少しずらせて考えると、その危機管理発想の重要性は一層増していると思う。
 本書で格闘技について、聖拳と邪拳という対立概念を片瀬と松永が論じている点も、フィクションの世界での話だが、大変興味深い。

 第3作は、松田速人を首謀者にした「叛徒襲来」が片瀬らによって阻止されたことから出発している。 松田速人は、当初の考えを断念したわけではなかった。野望を達成したいがために、その行動は深く潜行しながら、より大規模な構想に変化していたのだ。そして、松田速人の知謀と動かせる資金の総力を注いだ計画が実行され、荒服部の王・片瀬直人との激突というステージを遂に迎えることになる。

 内閣調査室は「内閣情報調査室」に変わり、危機管理対策室が常設組織化された。そして陣内平吉は内閣情報調査室次長となり、一方、下条泰彦は内閣総理大臣秘書官、危機管理対策室長に異動している。
 伝説の民『ワタリ』がものすごいスピードで集団移動する光景が送電線監視員に目撃されるようになる。山の中で何か異変が起こっているのだ。
 松永丈太郎は松田春菜と会い、春菜から「永田町周囲の厳重な警備」の理由を調査して欲しいと仕事の依頼を受ける。春菜は山の異変と永田町周囲の厳重な警備に松田速人が関係しているのではないかと懸念しているのだ。松永の調査活動からストーリーが展開していく。

 この第3作では、内閣情報調査室新・室長に外務省から異動してきた石倉良一を配している。この新室長に陣内平吉が過去の経緯をブリーフィングすると言う形を挿入しているので、この第3作だけ独立して読むことも無理なくできる。このあたり、ストーリーがうまく構成されているともいえる。

 第3作はいくつかのエピソードで構成されているという読み方ができると思う。
 まず松永丈太郎が春菜から依頼を受けた仕事を進めていくプロセス。それが松永を窮地に立たせ、松永に「くり返す。危機管理対策室長、下条泰彦を呼ぶんだ」と叫ばせる。そして下条を松永の土俵に引き出すことになる。二つ目は、インド国内において、再びシーク教徒の過激派の動きが活発化してきたという状況である。ランジート・シングという謎の人物が現れ、テロ活動が北インドのヒンズー聖仙の町、リケーシュやハルドワールドで展開されていく。この過激派に、政府陸軍特殊部隊のマスジット・シン少尉とシュア・ロディ准尉が潜入捜査に入る。三つ目は、内閣情報調査室、危機管理対策室と総理との関係、その機能という視点である。権力の擁護、それは何なのか。そして、4つ目はやはり、ストーリーの展開に出てくる格闘技シーンの描写である。松永丈太郎、松田春菜、そして片瀬直人と松田速人が繰り広げる格闘技である。及び、武術についての解説という点だ。
 これらのエピソードが片瀬直人の行動を軸にして一つに収斂していく。そして、その決着場所が北インドにあるリシケーシュの町、バクワン・タゴール師の面前ということになる。片瀬直人と松田速人が激突する。邪拳を駆使する松田速人に対し、片瀬直人は「ゴータマ・シッダルタさえ尊んだ聖拳の系譜」として、聖拳をもって松田速人と対決するのだ。
 
 権力への野望のための松田速人のリベンジ、松田を利用しようとする権力の意図とその豹変、ワタリの頂点に立つ荒服部の王・片瀬直人が、邪悪な野望、邪拳を挫くというシンプルなストーリーである。だが、相前後しながらもパラレルに描写されていくエピソードが、どう繋がっていくのかを愉しませてくれる。エンタテインメントとして読んでいておもしろい。今回はこの2作品を立て続けに読み終えた。

 だが、そのエンタテインメントの背後に、首都圏全体に及ぶテロ攻撃という危機管理の視点、実在する内閣情報調査室という存在・役割への視点、及び「権力」の実態とは何かという視点・・・これらは現実に読者の立場でも考慮し認識しておくべき課題だという著者の提示でもあると思えてならない。

ご一読ありがとうございます。
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第1作でネット検索リストにした項目と重複しない形で、この2作品の背景に関わる項目や派生的に関心を抱いた項目をいくつか取りあげ、情報の集約を兼ねて一覧にしておきたい。

内閣情報調査室 :内閣官房HP
内閣官房内閣情報調査室 2010年版  pdfファイル
内閣官房内閣情報調査室 2011年叛 pdfファイル
探検発見 : 内閣衛星情報センター 北浦副センター :「なりたま通信所」NARITA Masahiro氏
内閣安全保障室 :ウィキペディア
内閣における危機管理 pdfファイル 
内閣における安全保障・危機管理組織 :内閣官房HP
 この組織、福島原発事故では機能していないようですねえ・・・・画餅か?
総理大臣官邸 :ウィキペディア
 5階と地階の距離、昨年はすご~く遠かったようですね。今も同じ実態でしょうか?
国家行政組織法  :ウィキペディア
国家行政組織法 (法律 条文)

警視庁交通管理センター :警視庁HP
 予約すれば、見学できるとのこと。
世田谷局ケーブル火災 :ウィキペディア
警察庁警備局 → 警備局 :ウィキペディア
警視庁公安部 :ウィキペディア
「警察の国際テロ対策」 pdfファイル :警察庁HP
「災害に係る今後の危機管理体制について」 pdfファイル :警察庁HP
公安調査庁 :ウィキペディア
公安調査庁HP
最高指揮官 :ウィキペディア
陸上幕僚監部 :ウィキペディア
統合幕僚監部 :ウィキペディア
方面隊   :ウィキペディア
方面総監部、師団司令部、旅団司令部及び中央即応集団司令部組織規則

迫撃砲   :ウィキペディア
陸上自衛隊 96式自走120mm迫撃砲 :YouTube
留置場 :ウィキペディア
拘置所 :ウィキペディア

マタギ :ウィキペディア
孤高の民・マタギ

ツボと経絡図 pdfファイル
経絡図の画像検索結果
発勁  :ウィキペディア
太極拳 密着で発勁 講習 :YouTube
武息・文息 ← 西郷派大東流の呼吸法2

地震雲  :ウィキペディア
地震雲の画像検索結果
地震雲掲示板

シーク教徒 → シク教徒 :ウィキペディア
ヒンドゥー教徒 :ウィキペディア
シーク教 → シク教 :ウィキペディア
Sikhism :From Wikipedia, the free encyclopedia
ヒンドゥー教 :ウィキペディア
Hinduism :From Wikipedia, the free encyclopedia


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『古田織部』 土岐信吉 河出書房新社

2012-03-14 13:21:01 | レビュー
 1992年3月に出版された伝記小説である。『小堀遠州』(中尾實信著)を読み始めたのだが、その第一章の冒頭に古田織部が登場してくる。そこで、古田織部についての小説があることを知り、つい脇道にそれてこちらを先に読んでしまった。

 私は、織部焼に関心を抱いている。斬新な意匠とその器の形状の特異性、あの時代にあのセンスの陶器が創造されたことに興味がある。織部はどちらかというと陶器に関しては、千利休と同じように、プロデューサーあるいはコーディネーターのような位置づけにいたのだろうと思う。自ら陶器を焼くということもしたのだろうが、陶工に己の意匠、工夫を伝えて焼かせたのだろう。小堀遠州の茶の師匠が古田織部だったということと、織部が江戸幕府への反逆を理由され、処刑(切腹)という形で最後を遂げたということから、俄然興味をいだいたのだ。

 本書は、永禄10年(1567)の井ノ口での戦いから書き始められる。織田信長の使い番、古田左介(後の織部)が尾張と三河の国境に近い猿投山山麓の猿投神社に居る窯大将・加藤景光に信長の口上を告げに行く。そして、そこで墨俣にいるはずの木下藤吉郎に出会う。著者はここで、藤吉郎にワタリ(山岳信仰の山の民・川の民、漂白民衆)の出だと語らせている。藤吉郎は山岳戦となることを見越しワタリ衆に与力を頼もうとしているのだという。この戦での一番乗りを左介が藤吉郎に譲るということから、左介と藤吉郎の関わりが出来ていく。
 井ノ口山は金華山、井ノ口城は岐阜城と信長が名を変えることになる。斎藤龍興を滅ぼした合戦だ。この戦の後、瀬戸の陶工たちは朱印状を与えられ美濃・可児郡の萱、大平、久尻などに移住していったということを初めて知った。これが後の美濃焼となるのだろう。

 翌永禄11年、左介は美濃久尻の加藤景光の屋敷を訪ね、そこで中川瀬兵衛清秀の妹、おせんと運命的な出会いをする。著者は「そこには小柄な娘が桜の精かと思われるほど艶麗な姿で微笑んでいた」と描写する。そして、このおせん様が景光に持参した宇治の茶を景光から、おせんを交え馳走を受けることになる。この出会いがきっかけで後に夫婦になる約束が二人の間で交わされたという風に描かれている。茨木の豪族の妹おせんと信長の一使番の左介、当時の身分感覚を越えた破格の生き方の現れが冒頭から表出されていく。

 著者は、左介の中にある二つの側面を追究していく。一つは武人として信長の使番から徐々に能力を発揮し武士の身分を高めていく側面である。もう一つは千利休を師匠とし、茶の道を究め、一方茶陶に自らの思いを具象化していこうとする文化人の側面である。著者はこの二つの側面を絡ませ、織部が内奥にどのような葛藤を抱きながら、戦国の世を生き、突き進んでいったのかを明らかにしようとする。

 武士として信長の傍近く使えた左介は、戦を通じて藤吉郎との関係を深めていく。信長は茶の湯、茶道具を天下統一への道具として使う。藤吉郎は、信長存命中は茶の湯を人脈を広げる道具として、信長没後は茶の湯を一層政治の手段として使う。著者は、武人としての能力もさることながら、左介の茶道具に対する関心、造詣が二人の信頼を深める形になっていることを折に触れ描き出している。一方、左介にとっては、滅多に接することができない茶道具や茶人達との交流を深め、人脈が広がる機会を与えられる事にもなる。
 武人としての左介は、その都度与えられた場で、その力を最大限に発揮するという行動をとる。だが、本書を通じて感じたのは、あくまで与えられた活躍の場に左介が応じたという生き方だった。左介自らが求めて行った場ではない。それ自体が戦国の世の武人としては、やはり破格の存在だったことを示すと思う。

 その武人の側面について、こんな記述を著者は点在させていく。
 松永久秀が信長に降伏し、多聞城を差し出す。その多聞城の天守閣でこうつぶやく。
「・・・武将たちは猫も杓子も天下人になりたがって死に急いでおる。婆娑羅にはこれしか道はないのであろうか・・・。空しいことではないか・・・。いずれは信長様も天守閣を持つ城をつくられることになる。何やら魔物に取り憑かれておる様で空恐ろしいばかりだ。この世に生まれて、わしはこのような生き方はしたくないものよ」
 信貴山城に移った久秀の許を訪れた時に、
「はい、できれば武士をやめて茶の湯だけに・・・」
 比叡山焼き討ちの後、おせんとの会話で
「・・・たしかに叡山の僧侶たちは弁解の余地がないほど堕落していた。しかし、民衆はあまりその事実については知らぬ。強引な上様のやり方は人びとの心に大きな傷痕を残してしもうた。人びとの心が荒れることに心を配らぬ者は天下人になどなれぬ。天下統一などと言うてみても所詮は幻ということだ。わしは武士稼業をやめとうなった」(p134)
 松永久秀の降伏に功績があったことに信長が左介に対し加増を考える。この時、秀吉に佐介は伝えてもらいたい願いを語る。
 「御加増の義、ご辞退申し上げます。・・・大きな軍団を率いて合戦をするという武将には、なりたくございませぬ。できれば武士をやめたいのでございます。・・・今までにも充分、殺生を重ねてまいりました。もうこれ以上、人殺しはしたくありませぬ。茶の湯を学んで一生を終わりとうございます。・・・・山城の代官としてお仕えするだけでよければできまするが、それ以上のことはお断りしたいのが本心でございます」と。
 「わが身を守るためには仕方なく戦いますが、逃げる敵を追うてまで斃そうとは思いませぬ。拙者は使い番で結構です」
 
 秀吉は言う。「奇妙な奴がおるものだ、これだけの腕前を持ちながら、前途の出世を拒否するとは・・・・。」「未来の”豊かな”生活は左介にとって意味のないことなのか。欲ぼけの多い世の中じゃ、左介みたいな男がいることは救いかも知れぬ」
 
 左介の文化人の側面に目を転じてみよう。著者は、左介が茶の湯の道を深めていくプロセスをかなり克明に描写していく。今まで、陶器の観点で興味を持っているだけだったが、本書で、織部の茶道というものの存在を知り、そして関心をいだくきっかけができた。左介の文化人としての側面の描写に、心惹かれていくところが多かった。

 左介の実父、古田主膳正重定は、若き日に武野紹鴎について茶を学び、勘阿弥という同朋衆だったようだ。その父から左介は茶の湯の手ほどきをうけたという。左介の精神遍歴に影響を与えた人びとが何人かいる。一人は200年以上まえに示寂している夢窓国師である。左介がおせんに出会った直後、二人で訪れる虎渓山永保寺での会話で語られる。
「・・・いずれの勢力からも帰依を受けた不思議なお方。この庭は自然を無理に破壊したところは一つもない。人工が大規模に加えられたのに、自然は類のないほどのびのびしたさわやかさに満ちている・・・・。来るたびに新鮮な感動があります」「夢窓国師の狙いは・・。まず、この庭の美しさで人の心を惹きつけ、道心に導いてゆかれるのだと思う。山河大地草木瓦石の中に自己の本分があると・・・・」

 信長、秀吉、松永久秀などは、彼らの茶の湯に対する考え方が、左介にとっての反面教師の役割になるようだ。茶会の機会を左介に提供した人びとであるが、茶の湯のあり方について左介が否定していく材料や観点を提供する人びとという意味で。
 信長の命を受け、秀吉と共に堺に矢賤を課す使者として赴くことから、左介は堺の茶人たちと接するようになり、千宗易とも初めて出会うことになる。阿古陀形の冑姿の宗易との出会いを著者は描き出す。「われら堺の商人はいつも外敵の危険にさらされながら商取引をいたす。納屋衆は皆、二、三百余の浪人を召しかかえて、みずからも剣技を磨かねば生きてゆけないのが当節です。われら家族や商売を守るために武家の方々と同様に命を懸けております」その出会いが戦乱が落ち着いてからの子弟関係の始まりになる。
 宗易に引き合わされた山上宗二も、左介には茶の道を究める上での反面教師として登場する。宗二と左介がともに天文十三年生まれだということを、この作品で知った。
 宗易は二人に語る。「左介は茶の湯の指導を受けたいそうだが、それはできぬ。宗易の茶の湯は宗易一人のもの。宗二には宗二の、左介には左介にしかできぬ茶の湯がある。左介が宗易好みを真似したところで仕方あるまい。茶碗のあつかい方、茶筅のふり方など、点前の所作は多くの茶会を経験して自分流を組み立てればよいことじゃ。宗易はその手助けはできる。しかし、手助けだけであって教えることはできぬ。知識はいくら頭に詰め込んでも、そこに本当の”気づき”がなければ行動には結びつかぬ。”気づき”こそが大切なのだ」(p111) 本書のところどころで宗易と左介の対話が重ねられていく。これらの内容が、左介にとっては、己の茶の道への杖となり指針となっていくようだ。 

 利休と秀吉の両者に接する左介は、茶の湯の視点でその二人の確執を眺めつづける。利休切腹後は、秀吉から「町衆主導の茶の湯を正して、武家の茶の湯を創ってみよ」と命じられる。しかし、それが逆に、織部に己の茶の道を目指す核心を育んでいくことになる。自己の道を求めていくことになるのだ。
 左介が織部と称されるようになるのは、秀吉が従一位に叙せられ関白に任ぜられた時である。この時、左介は従五位織部正となり山城国西岡に城を築き3万5000石を与えられた。「織部正とは綾、羅、錦などの織物・染物のことを司る役所の長官のことで、左介は西陣にも出入りするようになる。左介は織部の職権を利用して美濃の窯業をもりたてようと、瀬戸十作をきめることにした」(p237)ということを、本書で初めて知った。

 左介のこころの内奥で武人の側面と文化人の側面が統合される時が訪れる。天正11年10月に大坂城内での公式の茶会に初めて招かれ、寝殿へとつづく小径で草叢に咲く秋萩に目を止めた瞬間だと著者は描写する。
 「わしが気づこうと気づくまいとまったく関わりなく咲きつづけている。わしは今まで、大きな誤りに気づかずに悩んでおったようだ。『武士』と『茶の湯者』はまったく矛盾するものではなかった。古田左介という茶の湯者がいて、身すぎ世すぎのために武士という職業を選び、その結果として多くの家来をかかえている。わしは全存在をかけて茶の湯者として生き、その中に武士としての生きざまがある・・・・。古田左介の茶の湯は他人に理解できようができまいが、まったくわしの意志の外にあることなのだ。気楽に肩の力をぬかねばならぬな--」

 利休は左介に言う。「人にはそれぞれの茶の湯があるはずだ」と。利休が極めようとした茶の湯の道、その姿勢を左介は受け止め、左介自身の茶の湯を極めていこうとした。その道程を共に歩める愉しみが本書にあると感じる。

 また、もう一つの茶陶に対する左介(織部)の力の入れようがよくわかる。美濃焼をバックアップしつづけた織部。自ら山野に散在する古陶の破片を収集し、その文様などに思いを馳せ、意匠を帳面にまとめていく織部。一人一人が己の思う陶器を作れと励ます織部。「永い年月をかけて茶人たちがみがきあげてきた”美”に対する鋭い感覚を今焼として大成してみようと思わぬか。一人だけが苦労するのではなく陶人すべてが過去にこだわらずに新鮮な感覚のものを競作する。それを世人にしらしめる役がこの織部だ」と窯大将、加藤景延に語りかける織部。九州・唐津から美濃に登り窯の技術を導入する力添えをする織部。『辻が花』染めの染色の工人と美濃の陶人との交流の下地づくりをする織部・・・・・・この作品を読み、美濃焼、織部焼誕生のプロセスや「茶陶が新しい生命を持てば、茶の湯が深まる」という織部の広大な想念に思いを深めた。
 処刑で自刃をする前に、織部が口縁の欠けた飯茶碗を手にする。このシーンの描写が織部の万感の思いを放出させていて、感激する。

 最後に、徳川、江戸幕府に対する叛逆を理由に処刑される織部の立場と行動が描かれる。著者は、堺の外れで家康の籠を襲い、討ち果たし、槍で止めを刺したという展開が挿入されている。そういう風聞が事実としてあったのだろうか・・・
 いずれにしても、千利休の後を歩く、織部の生き様が明確に出ていると思う。己の茶の湯の道を歩み続け、その中で武士としての信条を貫いたのだ。家康は織部の破格の生き様が江戸幕府の存続にとって放置できなかったということだろう。秀吉が利休の生き様を認められなかったように・・・・

 この伝記小説は、視点を移すと、千利休の略伝小説にもなっている。さらに本書の半ばから登場する尾形光琳のごく簡略な伝記を描くことにもなっている。

 本書から、印象深い詞章を引用させていただく。

*国師は”山水に得失なし、得失は人の心の中にあり”と申された。わしは美しい庭の中に置かれておる石のことを考えておる。豊麗な風景に陶然となっていると、視線は周囲に溶け込んでいて目立たない冴え冴えとした石を発見する。その石は清らかな中にも浩然と見る人の心をはねつけて、内なる心にむけさせる・・・・・。”禅”とは”心”のことだ。禅宗などという宗教ではない。道元禅師も禅宗という言葉を使うてはならぬと申された。自分の心を日常から解き放って、旅(非日常)に出してみるがよい。旅から戻ったとき、心は蘇生しておる。    p82

*われらは茶の湯をとおして禅の修行をしておる。・・・”己を発見する”ために修行をするのが禅だと思う。永遠なる生命のあらわれとして草や木、動物や自分の姿を形づくっておる。”己を発見する”ということは”永遠の生命”を認識することでもある。一休禅師は永遠の生命に現在の身を置いて、そこから現在を見詰めよと考えられたのではあるまいか。芸術の面では、”脱伝統”ということになる。茶の湯の村田珠光は一休禅師の説かれる”淡飯粗茶”から侘び茶に入られたと聞いておる。   p112-113

*目利きをするとはその対象のものの中に”永遠の生命”を発見することであって、ものの値段を考えることではない。茶人といわれる人は対象物の微妙なさまを見極めて目利きをする。心頭の網の目を細かくせねばならぬ。・・・・目利きは心頭の動きを、より自由なものとするため修業と心得ておる。  p113

*頭はよいが、修行しておらぬから、只それだけのもの。体得しておらぬ。体得せぬば創造力は湧いてこぬ。ただ悩むだけのことだ。  p137

*戦が人をみにくくするのではない。人の心にひそむ、みにくさが合戦となって現れるのだ・・・・ p141

*豊かさを求めて身のまわりの品物を無限に加えても心は安定しはせぬ。貧なることこそ心の安定に必要なこと・・・・・食べものは飢えぬほど、家は漏らぬほどの貧こそ悟りへの道なのだ。悟れば創意工夫が湯水のように湧き出してくる。 p147

*物が美しいのではなく、それを美しいと思う人の心が美しいのでござるよ。 p166

*何もない無相のところに尽きることのない無限の美があるということをな。無所得のところに無限の所得があることは間違いない。 p176

*悟りという境地にこだわれば・・・・、つまりそのような”執着する心”こそもっとも憎むべきことなのだ。茶人にとって茶室だけが修業する場所ではない。ありとあらゆるものが道場であるといえような。 p177

*この世の中には自分の行動の中にあるものと手のとどかぬものがある。手のとどかぬところで起きたことはどうしようもないことだ。これで世の中が動きはせぬ。動くのは人の心じゃ。自分の心が動かねば恐ろしいことは何もない。心配せずにこの佐介を信じて待っていてくれ。   p198

*”ほんもの”とは何処に置いても、その場に適合し、それでいて、よく見ると、はっとする美しさに溢れているものなのだ。そしてそのそばにおると心がすっとおだやかになって、よい気持ちになる・・・・。そんなものが”ほんもの”の条件ではあるまいか。 p232

*茶の湯は”もの狂い”の火炎の中で激しく反応をくり返し、思いもかけぬ美に、めぐり逢うことになるのではなかろうか。”もの狂い”のものとは物質のこととではない。”運命”とでも言いかえることができような。  p234

*存在せぬものは存在するものを超越するのだ。  p271

*ここに一本の棒がある。真ん中はここだ。だがな、この真ん中で折ってしまうと、半分になった棒では、さっきまで真ん中であったところが端になってしまう。世の中にあるものはこれと同じで、生と死、美と醜、是と非などは本来、同じものなのだ。何を基準とするかで違ってくるが、本来同じものだといえよう。陶器もそうだ。今までの価値感を捨ててみようではないか。   p274

*わしの考えを伝えたいと思う。「こうしろ」「ああしろ」と命ずるのではないぞ。工夫の糸口を教えたい。あとはそちたちが自分勝手にやるのだ。「勝手にやる」ことが最高なのだ。あまりに自分の一人よがりのものであれば、世人は受け入れてはくれぬ。それを解った上で、自分勝手にやることがよいのだ。  p275

*”相反する認識は本来、同一のものなのだ”という維摩経不二法門こそが織部が求める茶の湯なのだ。  p297

*破格とは常識を打ち破る勇気のある行為です。  p327

*茶の湯では椿を好んで活けます。瞬間の儚さの中に永遠を観るゆえです。茶室とは本来、暗くて明るく、明るくて暗いところです。  p327

*何故に人間はわが身、わが部屋を飾りたてるのか・・・それは、心の痛みの鎮痛藥として”贅沢さ”を求めるのじゃよ。  p335

*癒すことは癒されることなのだな。茶の湯の心はこれなのだ。  p348

*わしは茶の湯で『ほんもの』を追求してみたい。『ほんものとは何か』という視点で茶道具の名物を見直してみたいものよ。・・・・壊れても腹を立てぬようにするためには自分で多くつくればよいことだ。  p218


ご一読ありがとうございます。


付記
 家康暗殺説の真偽は・・・・興味深い謎である。小説に許される作家の想像力の飛躍なのか、闇の中に隠された事実が存在するのか。史実に記されていない部分の面白さか。
 もう一つ、著者は「6月10日、摂津木幡の処刑場は人里離れた荒涼とした草原であった。」と、織部自刃の地を描写する。「摂津木幡」とはどこなのだろう?今、読み続けている『小堀遠州』(中尾實信著)では、冒頭のページで、「遠州の住む六地蔵から古田織部の下屋敷がある木幡までは、数町しか離れていない」とし、切腹したのはこの下屋敷と設定しているようだ。摂津が摂津国を意味するなら、大阪府北部と兵庫県南東部の地域になり、かなり自刃場所に違いが出てくる。終焉の地について史実の記録が現存するのか。ここにも、謎が残る。

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 本書を読みながら、関心事項をネット検索してみた。以下一覧にしておきたい。


古田織部 ← 古田重然 :ウィキペディア
美濃の茶人 古田織部 の生涯 :「奥美濃散歩」

芦浦観音寺  :ウィキペディア
近江芦浦観音寺
芦浦観音寺 公式HP
南宗寺 :「大坂再発見!」
本圀寺 :ウィキペディア
永保寺 :ウィキペディア
宝積寺 :ウィキペディア
妙喜庵 HP
仏徳山興聖禅寺 (興聖寺) :国際日本文化研究センター
引接寺 :ウィキペディア
千本ゑんま堂引接寺 HP

織部(古田織部について) :器.com
古田織部とオリベ陶 :國分義司氏
九十九髪茄子 :ウィキペディア
大名物 唐物茄子茶入 付藻茄子(松永茄子)  :静嘉堂文庫美術館 HP
荒木高麗 ← 唐草文染付茶碗 銘 荒木 :徳川美術館
水指 伊賀破れ袋 :「鶴田鈍久の章」
伊賀破れ袋擂座水指 :「鶴田鈍久の章」
唐津沓茶碗 :堺市HP
瀬戸十作 :「茶道百字辞典」芳香園
美濃焼  :ウィキペディア
ヴァーチャル美術館 :多治見市・美濃焼HP
織部焼  :ウィキペディア
織部焼  :NHK・「美の壺」
辻が花とは :辻が花染め工房「絵絞庵」

藤戸石 :「ふるさと昔語り」 京都新聞
九山八海の構造 :「日本庭園の時代様式」(←ようこそ中田ミュージアムへ)
東福寺霊雲院の九山八海の庭  :「西陣に住んでます」kazu氏

加藤景延 :朝日日本歴史人物事典
松永久秀 :ウィキペディア
三好長慶 :ウィキペディア
会合衆 :ウィキペディア
利休と堺 :「堺、香りの物語」奥野晴明堂
あの人の人生を知ろう ~ 千 利休 :「あの人の人生を知ろう~45通りの生涯」
村田 珠光 :ウィキペディア
武野紹鴎 :ウィキペディア
今井宗久 :ウィキペディア
津田宗及 :ウィキペディア
呂宋助左衛門 :ウィキペディア
呂宋助左衛門とカンボジア :「メコンプラザ情報DB」
日比屋了慶 ← 日比屋了珪 :朝日日本歴史人物事典
山上宗二   :ウィキペディア
山上宗二記  :ウィキペディア
山岡宗無   :朝日日本歴史人物事典
藪内剣仲   :朝日日本歴史人物事典
藪内剣仲 ← 藪内家の歴史:「藪内家の茶」
今井宗薫   :ウィキペディア
松井友閑   :ウィキペディア
松屋久政   :朝日日本歴史人物事典
万代屋宗安  :朝日日本歴史人物事典
千道安    :ウィキペディア
粟田口善法  :朝日日本歴史人物事典
本阿弥光悦  :ウィキペディア
あの人の人生を知ろう~本阿弥 光悦 :「あの人の人生を知ろう~45通りの生涯」
神屋 宗湛  :ウィキペディア
織田有楽斎 ←織田長益 ::ウィキペディア

夢窓疎石  :ウィキペディア
一山一寧  :ウィキペディア
文英清韓  :ウィキペディア
金地院崇伝 :ウィキペディア
南光坊天海 :ウィキペディア
林 羅山   :ウィキペディア

坪の内 ← 茶室と露地について :「ひめの倶楽部美術館」
台目畳 → 間取り :「数寄にしませう。」
台目畳 :「京町家改修用語集」
茶杓  :「茶の湯倶楽部」

豊旗雲 :「歳時記したら」
八重棚雲 :さとう幸子 Official Website

法語(破れ虚堂) :e国宝
虚堂録 :禅語データベース 花園大学国際禅学研究所

三十六間兜 ←鉄黒漆塗三十六間総覆輪筋兜 :「甲冑ギャラリー」
仁王胴具足 :文化遺産オンライン
日根野形兜 ← 甲冑の構成:「甲冑(よろい・かぶと)」

卯の花 :「和歌歳時記」水垣久氏
紫苑  :「季節の花 300」山本純士氏
   :「季節の花 300」山本純士氏
モチノキ :「植物雑学事典」岡山理科大学・植物生態研究室(波田研)
しゃら ← 沙羅双樹 :「季節の花 300」山本純士氏
とうしゅろ :「植物雑学事典」岡山理科大学・植物生態研究室(波田研)


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『奏者水滸伝 北の最終決戦』 今野 敏  講談社文庫

2012-03-10 10:20:47 | レビュー
 昨年の3月に、『奏者水滸伝 阿羅漢集結』を手にしてから、順次読み継いできた。
 この「北の最終決戦」で7冊の連作が終わる。
 『奏者水滸伝』は、1980年代に書かれた作品が、講談社文庫として再刊されものだ。私はこの文庫本で読み始めた。
 「阿羅漢集結」「小さな逃亡者」「古丹、山へ行く」「白の暗殺者」
 「四人、海を渡る」「追跡者の標的」、そしてこの「北の最終決戦」の7冊である。

 本書の解説を記す西上心太氏によると、このシリーズの第1作目が著者の初の長編だったという。第1作を読んだときの私のメモによると、1982年に発刊された時は題名が『ジャズ水滸伝』だったようだ。これからも推測できると思うが、ジャズという音楽と格闘技が軸になっている。カルテットを組む4人の奏者が主人公になる。だが、この4人を見出し集めた人物も副主人公といえる。4人の奏者は、それぞれが「超常能力」を持つという設定である。読み出したら、やめられない類の痛快アクションストーリーのシリーズだ。
 このシリーズも、固いことは抜きにして、気分転換にはもってこいの作品シリーズといえる。一冊一冊がそれぞれ完結した話だが、緩やかな流れの中で繋がっている。

 まずは、主人公たちのプロフィールを簡略にまとめてみよう。

古丹神人 ピアノ奏者 北海道出身
 原野を旅し、野宿生活を常態としてきた。自然と同化できる生まれながらのサバイバリスト。自然の山林の中では、野生の野獣を越える動き、体力、鋭敏な知覚を発揮する。感情らしいものといえば、怒りしか顔にあらわそうとはしない男。ジャズの演奏は、いつもこの古丹のソロから始まる。

比嘉隆晶 ドラマー 沖縄出身
 全身柔軟な筋肉の塊で、バネのような印象を与える人物。
 空手道場で生まれ、一流派の宗家を継ぐ立場だったが、その流儀の枠を超越し、格闘技を習得していく。そのため家を出る。空手、中国武術に通じ、武術の天才である。自ら羅漢拳をあみ出す。生来、人の『気』を見ることに長け、『気』を自在に操ることができる人物。女好きな陽気なドラマーである。

猿沢秀彦 アルトサックス奏者 東京出身
 華奢な体格、黒縁のボストン眼鏡と広い額。音大に入り、ライブハウスで演奏を始める。卒業までに天才サックス奏者と目された伝説のアルトプレーヤー。母校の大学で学究生活に入っている。真実を見抜く知恵『般若』を身につけている人物。コーヒーのキリマンジャロを飲むと、冴え渡り、霊的なスーパーコンピューターになる。彼の持つ般若が俄然躍動しだすのだ。そして、彼は不眠に陥る。

遠田宗春 ベーシスト 京都出身
 ほっそりとした長身、いつも無表情で冷ややかな印象を与える。遠田流茶道の御曹司で次期家元の身分。母は有名なバイオリニスト。東京の音大ではコントラバスを学ぶ。彼は、小さい限られた空間の中に禅の理想郷を現出させる。不思議な気で満たしてしまい、その場にいる人びとを瞑想の境地に共鳴させてしまう。また、彼が精神を集中するとその念力が物理的な破壊力を生み出す。ただそのためには、いわば、精神的な『結界』が必要となる。結界の中だけで彼の超常能力が発揮される。  
 
 全国を行脚してこの4人を見出し、東京で一つのグループにまとめたのが、木喰と名乗る旅の僧である。五尺の錫杖をを持ち、頭陀袋を下げ、墨染めの法衣を纏う木喰上人は、彼等4人が「羅漢」であるという。「羅漢」を見つけ出し、集めることが私の役割だと述べる人物である。この木喰自身が武術を体得した人物なのだ。しかし、それをおくびにも出さない。
 4人がそろうと、彼等は西荻窪にあるライブハウス『テイクジャム』だけで演奏活動を続ける。その演奏のすばらしさに、口コミで人気が広がり、演奏日はいつも超満員になる。木喰上人は、この4人の「羅漢」に静かにつき随う存在となる。
そして、彼等は、偶然そこに居合わせるだけなのに、いつの間にか事件に巻き込まれ、問題の核心に関わり、それを解決していく立場になってしまうというストーリーである。

 このシリーズの魅力は、シリーズの中で4人のうちの誰かがまず中心になる立場に置かれてしまう。そこに他のメンバーが関わっていき、それぞれの超常能力が相乗効果を発揮して問題解決に導くというプロセスのおもしろさだと思う。毎回、中心となる主人公が移っていくところに、新鮮さが加わる。
 それと、ジャズ演奏のプロセスが、言葉で綴られていき、音トメロディーが言葉のリズムで奏でられるところといえる。演奏の描写がまさにライブハウスで演奏を見て、感じているかのようになる。このあたりには、著者の経験が遺憾なく発揮されているようだ。
 ストーリーは比較的シンプルでその展開にスピード感があり、読みやすい。所々で、格闘技やその作品のテーマにかかわる情報がかなり詳しく記述されていく。こんな点も興味深いところとなる。ここは読み手その人の関心の置き所によることかもしれないが。
 
 シリーズの最後を飾る本作品は、2011年11月に文庫本として再刊された。
 本書のテーマとなっているのは、期せずして原子力関連問題である。もともとこの作品が出版されたのが1989年1月という。その3年前の1986年4月にはチェルノブイリの原発事故が発生している。さらに遡ると、1979年3月には、アメリカのスリーマイル島での原発事故が発生している。
 著者は鋭敏にも、原子力問題の核心事項の一つを作品のテーマにとりあげたのだ。それも原子力発電そのものではなく、そこから生み出される高放射性核廃棄物に照準をあてた。 
 彼等は『テイクジャム』以外では演奏活動をしないという姿勢を保ってきたのだが、第5作の「ハリウッドジャズフェスティバル」からの凱旋により、その状況が一変したことを自認せざるを得なくなる。そして、北海道を離れた古丹のライブ演奏を待ち望む北海道のジャズファンの招きに応じざるをえないと判断する。北海道内での演奏ツアーを行うことになる。
 そのツアーの途中で、古丹たちは知らされていなかったことに気づき始める。ツアーに随行する主催者側のメンバーである落石賢司と浅丘緑里の与える印象・雰囲気に違和感をいだくようになることがきっかけである。そしてこの演奏旅行の企画が、実はジャズ愛好家のネットワーク事務局ではなく、「原発に反対する道民の会」だったのだ。もともとのツアー企画発案者は「私たちは、『原発に反対する道民の会』の訴えが、きわめて正当で、真実であり、なおかつ緊急を要するものだということを知ったのです」(p93)という。
 古丹らメンバーは、知らぬ間に原発関連問題の渦中にいたのだ。この問題にどう関わっていくか、4人の議論と葛藤が始まる。そして、彼等は何が問題なのかという点がベールにつつまれた状況の中で、そこにある状況に関わっていくことを選択する。

 このストーリーは、木喰を含めた5人が問題に関わっていくことを選択するまでのプロセスと、問題事象のプロセスと、この2つの筋がパラレルに進み、そして彼等が関与すると選択した後に、重大な事件として急速に進展していくところが、読ませ所であるように感じる。
 東海村から北海道の幌別に高放射性核廃棄物を封入したキャニスターが大型トレーラーで移送される。その指揮者は前作までの各所に登場する赤城警部の上司・本郷警視である。そして赤城警部もその任務に就かざるをえなくなる。さらに、この移送には、重火器で武装した第六機動隊特殊部隊の8人が護衛として配置されるのだ。彼等はテロ対策要員としての訓練を受けている隊員である。このキャニスターが幌別に運び込まれるのを途中で阻止しようという計画が、「原発に反対する道民の会」に関わるメンバーの中で進行していたのだ。この大型トレーラーの奪取という事件に5人が関わっていくことになるというのが、本書である。それが「北」(北海道)での「最終決戦」ということなのだ。

 この作品は気分転換に読める恰好のストーリーものである。しかし、一方そこに組み込まれた題材は絵空事ではない。今まさに現実となっている重大な愁眉の課題である。つまり、高放射性核廃棄物の処理という課題なのだ。

 この課題を、著者は20年余前に、鋭敏にも音楽格闘技小説のテーマに取り込んでいたのだ。それを今、この作品を読んで初めて知った。ある意味、まさに驚きだった。
 現時点でフクシマも含めて原発が43基存在するこの日本。そして、そこから生み出される高放射性核廃棄物は、原発の稼働・停止・廃止に拘わらず、既に未来永劫といえるほどの期間にわたって対処していかねばならないものになってしまっているのだ。
 気分転換として愉しんで読めるストーリーの背後に、よく考えると不気味な課題がリアルに存在していることを認識せざるをえない。
 先を見据えた著者の着眼点に敬服した次第である。

 本書の登場人物の会話に記された内容に、今、改めて愕然とする。20余年前にこの作品に記されていた内容。事実あるいは事象として浮かび上がってきたものが、二十余年後の現在も何ら変わっていないということに・・・・・
(勿論、最初の原発が稼働して以降、反原発運動が様々な人びとと組織により現実に継続されてきている。様々な情報、資料が発表されてきているのは事実である。)
 幾つかここに引用してみる。

*残念ながら、原子力発電所を百パーセント安全に管理する技術を、人類はまだ持っていません。現在も、日本国内で運転されている原発では、ひんぱんに小さな事故が起こっています。蒸気配管から水を抜く配管をドレン配管といいますが、このドレン配管や、蒸気発生器の細管に穴があいたり、ひびが入ったりするのです。この小さな故障が大きな事故につながるのは、スリーマイル島の例を見てもおわかりでしょう。そして、この配管や、蒸気発器の細管のひびを防ぐ技術は、皆無だと言われているのです。  p101

*国や関係企業が嘘を言っているとは言いません。ただ、都合のいい説明だけをし、知られてはまずいことは隠している-そのことだけは確かです。なぜなら、国や事業団は、事故が起こった際に、責任をとろうとしていないからです。 p103

*一度、この狭い国土で原発の事故が起こったら、誰にも責任の取りようがないのです。イギリスでは、原発事故に対しては、消防組合がはっきりと出動を拒否する声明を発表しているのです。つまり、事故が起こったら、手のほどこしようがないのです。 p103

*例えば、1987年の電力需要のピークは8月21日でした。その日の総需要は、1億1522万キロワットでした。現在の日本の総発電設備量は、1億5414万キロワット。ピーク時でも、約4000万キロワットの余裕があるのです。原発の設備量は2568万キロワットに過ぎません。現在、原発をすべて止めてもピーク時に対処できるのです。 p105
  →統計を基にして、データを更新した形で、この見解を現在も、複数の専門家が主張している。著者はその点をキッチリ情報収集していたのだろう。

*古い原子炉は、新しい規格で評価すると、実は全部不合格となることを知ったのだ。それでも、原子力発電所は運転を続けている。  p115
  →原子力発電所はアメリカ機械学会が作ったASMEコードという規格で設計されていて、この規格が年々書き換えられ、厳しくなり、さらに制限条項が増えていくということを踏まえて記されている。


そして、次の会話が非常に印象深く残る。
「ここでは、きれいにとりつくろった表面をはがすと、とんでもないものが顔を出しそうな気がする。その腐ったにおいがぷんぷんしている」(p121)
 フィクションの会話のはずだが、どす黒いリアルな感覚が忍びより、空恐ろしい思いがする。事実は小説より奇なり、ということがまさに今、起こっているのではないか・・・・

 最後に、このシリーズの作品について、簡略な紹介をしておきたい。

「阿羅漢集結」
 木喰上人が全国を行脚し、羅漢の4人の奏者を見出し、東京に集結させる話。そして、4人が集結すると、そこに事件が引きよせられる。

「小さな逃亡者」
 比嘉がライブ演奏の終わった夜、アメリカ人少女を助ける。彼女は逃亡中だったのだ。それがFBIや警視庁と対決して行かざるを得なくさせる。彼女は一種の超能力保持者だったのだ。

「古丹、山へ行く」
 古丹は医療従事者を襲う妖獣と出会う。その秘密の背後には各国のエージェントの暗闘があった。その暗闘に巻き込まれてしまう。

「白の暗殺教団」
 遠田の父親はVIPを招いた茶会の席をもうける。そこに、巧妙に伝手を頼って中国人姉妹が紛れ込む。この姉妹、実はVIPの暗殺のために送りこまれた刺客だった。遠田はこの姉妹と対決する。そして、その背後にいる謎の教団との対決へと進展する。

「四人、海を渡る」
 木喰の集めたこの4人がハリウッドジャズフェスティバルに出演することになる。ところが、アメリカに渡った後、ハリウッドでのライブ直前に、猿渡が殺人容疑で逮捕されるという事態に遭遇する。そこには、凄腕のワンマンアーミーが絡んでいた。その狙いを看破し、危機を乗り切った4人は、ジャズフェスティバルのステージで観衆に熱狂の嵐を巻き起こしていく。

「追跡者の標的」
 アメリカのツアーから帰国した場面から話が始まる。比嘉が再び事件に巻き込まれていく。知らぬ間に、比嘉のドラムセットにあるものが密かに隠されていたのだ。そして、日本でその隠されたものの争奪戦が展開される。中国武術の達人である陳翔が比嘉に接近してくる。陳翔との間で比嘉は友情すら抱き始めるのだが、その陳翔と命を懸けた死闘をせざるを得なくなる。

 この『奏者水滸伝』を読み終えて、著者作品を出版時系列でみて気づいたことがある。超常能力保有者がチームを組んで事件解決にあたるという設定についてである。この構想が、先に読んでしまっていた”ST(警視庁科学特捜班)”シリーズとして、ふたたび花開き、多くの作品を生み出していたのだ。

ご一読ありがとうございます。

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この作品を読んで、関心事項について、ネット検索した結果をリストにしてみた。

ドラムセット :ウィキペディア
音楽用語辞典 Allegro
 検索語を入力して調べる方式の辞典
ジャズ基礎用語集 :NIHONBASHI JAZZ CLUB
JAZZ用語集 :All About
JAZZ用語事典 50音順検索  :You Play Jazz?

音楽用語辞典
音楽用語辞典 YAMAHA

アイヌ語電子辞書
<私家版>浦河アイヌ語辞典

カンナ・カムイ 雷神 :「道民の泣寝入 アイヌ神謡世界」赤崎いくや氏
カンナカムイ kanna kamuy :Masahiro Aibara氏

機動隊 :ウィキペデイア
警視庁第六機動隊 :「ATLAS WEB」
警視庁特殊急襲部隊(SAT) :「世界のテロ組織と対テロ組織」

キャニスター :weblio辞書
キャニスタ/キャニスター :原子力百科事典ATOMICA
 「原子力用語辞書」をクリックすると、項目があります。内容は次のとおり。
「高レベル放射性廃棄物のガラス固化体あるいは使用済燃料を封入するための鋼製、またはステンレススチール製の筒型容器のこと。低レベル放射性廃棄物用の容器と区別するためにキャニスタの語のまま慣用的に使用される。内径20~40cm、高さ40~300cm、肉厚1~3cm程度の鋼製、またはステンレススチール製のものが用いられる。両端は溶接される。 低・中レベル放射性廃棄体用の「パッケージ(日本語では同じく容器と訳す)」とは、慣用的に区別して使用する。」

幌別郡  :ウィキペデイア

日本原子力研究開発機構 幌延深地層研究センター HP
「原子力発電所から出る使用済燃料から、燃料としてまだ使えるウランとプルトニウムを回収した後に残る高レベル放射性廃棄物を、最終的に地下深い地層中に処分することは、国の基本方針となっています。
幌延深地層研究センターは、高レベル放射性廃棄物の地層処分技術に関する研究開発として地層科学研究や地層処分研究開発を行うことにより、地層処分の技術的な信頼性を、実際の深地層での試験研究等を通じて確認することを目的としています」
幌別深地層研究センター :「原発・核関連地図」

地層処分 高レベル放射性廃棄物地層処分場の概念図:ATOMICA

わが国における高レベル放射性廃棄物地層処分の技術的信頼性-地層処分研究開発第2次取りまとめ-
 独立行政法人 日本原子力研究開発機構(JAEA) 地層処分研究開発部門

この報告書(2000年報告書)に対して:
放射性廃棄物の地層処分について、重要な論点が批判されています。
原子力資料情報室(CNIC)  2000/2~2000/7 
1.報告書の基本的な問題点と信頼性のなさを示す矛盾 藤村陽氏
2.地層処分の「安全評価」の問題点  藤村陽氏
3.工学技術は地層処分の実施を保証するか  永井勉氏
4.放射能封じ込めの役に立たないガラス固化体  秋津進氏
5.変動帯の日本列島では地層処分は成り立たない 石橋克彦氏
6.処分場は成立しない  高木仁三郎氏

尚、JAEAには、上記の2000年報告書以外に、
成果を取りまとめた報告書」が継続的にいくつも発表されています。

六ヶ所再処理にストップを!ガラス固化技術に致命的欠陥 :YouTube
六ヶ所再処理のガラス固化  :YouTube

放射性廃棄物の地層処分 その1  :YouTube
放射性廃棄物の地層処分その2  :YouTube
 原子力村の立場をまさにPRしている動画のようです。

放射性廃棄物はどこへ?  :YouTube
続 放射性廃棄物はどこへ? :YouTube

放射性廃棄物最終処分場アッセ周辺で白血病 甲状腺ガンが顕著に増加 :YouTube

原発Nチャンネル 6 核廃棄物の問題 小出裕章2.mpg  :YouTube
行き場のない"核のゴミ"北海道幌延町の不安  :YouTube

放射性廃棄物:瑞浪超深地層研究所/ゴアレーベン :YouTube

日米の核廃棄物問題6 :YouTube

原発事故 :ウィキペディア


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『そろそろ旅に』 松井今朝子 講談社

2012-03-07 00:57:19 | レビュー
 本書は十返舎一九の伝記小説である。歴史年表を見ると、江戸時代享和2年(1802)に「東海道中膝栗毛」と記載されている。本書のエピローグを読んで目から鱗だった。というのは、年表記載の作者名・作品名を学生時代に暗記した以外は、弥次さん、喜多さんの名コンビによる珍道中記という伝聞情報で部分的に内容を理解していたに過ぎなかったからだ。
 なんと、享和元年正月に、一九は『浮世道中膝栗毛』という江戸から箱根までの道中記を出していたという。その主人公が弥次郎兵衛と北八であり、作者一九は「駅々風土の佳勝、山川の秀異なるは諸家の道中記に精しければ此に除く」と宣言して、風景描写はほとんどなしに、二人の登場人物が繰り広げる滑稽な珍道中記を書き上げたのだ。これが世間に当り、翌年に『東海道中膝栗毛』と銘打った第二編がだされたようだ。その結果、こちらが歴史年表に載っていることになる。つまり、これで十返舎一九が戯作者として大ブレークしたのだ。(今まで一冊の道中記を書いたと単純に解釈していた!)
 これ以来、弥次郎兵衛と喜多八による東海道の旅、『膝栗毛』が延々と続き、続編として書き継がれて行ったことなど知らなかった。実に二十年に及んぶ長旅のロングセラーになったとのこと。大坂編で完結した後、続編として金比羅、宮島、善光寺参りまですることになったそうだ。どこかの段階で、二人の名前の表記も弥二郎兵衛と喜多八に変わったらしい。

 本書は、後に十返舎一九と名乗るようになる重田与七郎貞一という武士の半生記である。駿府から江戸に出て、そして江戸から大坂へ。「そろそろ旅に」と再び江戸に戻り、また「そろそろ旅に」と、箱根に出かける。下山するまで、つまり『浮世道中膝栗毛』を書きだす直前までを著者は描いている。

 「ひとつの影法師が桟橋にながながと伸びている。・・・・ひとつの影法師はやがてふたつに割れた。ふたりは共に菅笠をかぶって、色あせた伊賀袴のすそをしっかりと脚絆で巻いた旅人である。・・・」こんな書き出しから始まる。
 与七郎の父は駿府町奉行同心である。駿府町奉行を務めていた小田切土佐守に仕官したいと理由づけて弟に家督を譲り、与七郎は江戸に出る。最初の旅立ちの真の理由は後ほど分かってくる。これが「そろそろ旅に」の始まりといえる。だが、江戸に着くと、小田切は大坂東町奉行として転任していた。数日の江戸逗留の後、大坂まで長旅をした与七郎は小田切を訪ねていき、その家来にしてもらう。
 与七郎は町方同心、津守によって大坂での人形浄瑠璃芝居に引き込まれていく。芝居の検閲も町方同心の仕事の一部なのだ。与七郎は津守の助けを得て、大坂という商人の町、社会構造の在り方に馴染んで行く。そして、芝居に惹かれていくことになる。
 この作品で初めて知ったことだが、当時(天明年間)は東町奉行所の与力30騎、同心50人という規模であり、「両町奉行所と城に在番する旗本や諸藩の蔵屋敷の役人すべてをふくめても、大坂にいる武士はわずか2000人にすぎない」という状況で、片や町人は40万余が住んでいたようだ。
 芝居小屋がきっかけで、与七郎は美しい娘の危機を救うこととなり、その出会いからその娘、お絹を恋するようになる。世は田沼意次が失脚し、徳川家斉が第11代将軍を相続した時代。天変地異が日本全土を覆い、大坂でも米騒動、打ち壊しが起こる。そして白河侯松平定信による質素倹約へと世間は様変わりする。さらに大火の発生。そんな世相と大坂の町を背景に、芝居との関わりを深め、人生が転換していく与七郎の青春時代が描かれていく。

 われこそは近松半二の弟子だと矜りを持つ近松東南と知り合い、人形浄瑠璃の台本の筆を執ることを勧められる。一方、与七郎がかつて恋心を抱いた豊後屋の娘・お絹は若後家になっていた。そして、材木商豊後屋の求めに応じて、与七郎は武士を捨て婿養子となる道を選ぶ。与七郎は、大坂で武士から町人への「旅」に出ることになる。
 材木商としての心得を学びながら、一方で芝居の深みに入って行く。人形浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』という新作の合作者の一人になるのだ。この作品への関わりかたが面白い。人形浄瑠璃作品がどんな形で作られていくのか、そんな副次的なことも解ってくる。
 近松東南のもくろみは成就し、与七郎は「近松余七」と名乗る。これが「筆への旅立ち」となる。
 寛政元年12月に大坂を襲った大火(上町大火)で、被害を受けなかった豊後屋は材木の商いで焼けぶとる。そして、寛政3年10月、島之内全域の大火となったときも、豊後屋自体の被害は僅少だった。大火後、材木の値段高騰を抑えたい奉行所と材木商との軋轢がつづく。その渦中に投げ込まれる与七郎。一方、お絹は懐妊するが、死産という結果になる。与七郎は商人になりきれぬ男だった。彼は放蕩の道に染まっていく。
 そして、ついに「そろそろ旅に」出たい心境につき動かされる。

 離縁の後、与七郎は江戸に出る。江戸では紅絵問屋蔦屋重三郎の許で世話になる。このあたりから、江戸の浮世絵や本の出版事情がいろいろと書き込まれ、戯作者をめざす与七郎の置かれた当時の出版業界がどんな状況であったかがうかがえるという副次的な楽しみが加わる。同時にそれは、与七郎が戯作者として一つの高峰を築くには、何ができるのかということへの葛藤の幕開けでもある。
 その中で、蔦重を介して山東京伝、滝沢馬琴と与七郎の関わりが深まっていく。式亭三馬も一九の前に自ら顔を出してくる。後半は、京伝、馬琴や三馬についてのエピソード風簡略伝記の色彩も併せてもっていき、読ませるところである。
 
 江戸に出た与七郎が十返舎一九と名乗った経緯が本書に出てくる。
 京伝の『初役金烏帽子魚』という即席本の挿絵を描く画工の雅号として「一九」と名乗る。著者はこんな風に記す。「岩瀬と昔よくした花カルタで一九はぶた、つまりはまさかの札で負ける数である。『九仞の功を一簣に欠く』という唐土の故事になぞらえたところもある。何事も順調に運ぶように見えながら、最後の一歩、まさかのことで失敗った己が過去を忘れないようにするためでもあった」(p291)
 ウィキペディアを検索すると、「『一九』は幼名の市九から来ている」という説が載っていた。いろいろな見方がありそうだ。
 歌麿の絵「青楼十二時」と題する12枚の連作から着想を得て、十二人の客が一人の花魁の手練手管に乗せられてしまうという『心学時計草』を出すときに、「十遍舎一九」と名乗る。著者は、「・・・あの蘭奢待は、長い旅路の果てにたどり着いた国で、十遍聞いても末枯れないという十返りの名香だった。一九はおこがましいのを承知の上で、自らの筆もまたそうありたいと願ったのである」(p315)と記す。
 ウィキペディアも、同じ解釈を載せている。著者は、「後に文字を十返舎と変えた一九にはさまざまな思いがあった」(p315)とだけ記している。ウィキペディアには、「初めは『十遍舎一九』であったが、『十偏舎』『十偏斎』『重田一九斎』なども用い、享和ころから『十返舎一九』に定まった。」と記されている。
 『浮世道中膝栗毛』では「十返舎一九」と名乗っていることが確認できる。(以下のネット検索結果を参照いただければよい。)

 山東京伝の紹介で、与七郎は二度目の見合いをし、相模屋という質屋の娘・八重の婿養子となる。八重の小さい頃から京伝は彼女を知っている。その八重は大人になり、どこか京伝に惹かれているところがあると与七郎の目には映る。微妙な心理を抱きながらも、一九には戯作者としての道を拓くことに邁進できる環境が整ったことになる。だが、京伝という高峰の存在、京伝とは異なる高峰を目指すことに思い悩む。
 一九は過去を語らず八重と一緒になる。八重は一九の過去の領域には入れない。京伝との関わりに「道は迷わず」という歌の下の句が絡んでくる。一九は郭に入り浸ることとなる。一九の内奥に燻るのは、一九、八重、京伝の三角関係の心理だ。それが一九の深層にある心を引き出していく。一九の解せない行動に八重は絶えられなくなるという。
 「もうこの家にはおれん。そろそろ旅に出るだ」
 八重の許を飛び出し、「そろそろ旅に」の突き上げる思いが箱根への旅となる。大坂時代の同僚、岩瀬の一言が、その後の一九の転機となっていく。
 
 冒頭に記される、「一つの影法師が二つに割れた」「ふたりの旅人」となる与七郎(一九)の相方は「太吉」と呼ばれる家来である。与七郎(一九)の行くところ、どこにでも現れて来る。家来ならそうかもしれないが・・・・この太吉がもう一人の主人公だったように感じさせる設定が面白いところでもある。正直なところ、本書の途中から、この家来・太吉の存在に違和感を感じ始めた。だがそこから一歩、奥を考えなかった。最後の土壇場で、その部分が何だったかがわかるという仕掛けがなされていた。

 エピローグの最後のくだりがおもしろい。著者は書く。

 若いときから、好奇心の赴くままに、どこへ行こうが、何をしようが、だれと一緒に暮らそうが、そのつどそこに馴染んでいるかに見せながら、時が来れば何もかもさらりと捨てておさらばできた男は、いうなれば永遠の旅人だったのだろう。
 辞世はまさしく人を喰った狂歌である。
   この世をば どりゃお暇と線香の
          煙と共に灰さようなら

 だが、まてよ。本当にそうだったのか? そこに馴染もうとして馴染みきれなかった。それ故に、時が到れば「何もかもさらりと」見せかける捨て方によって、旅立たざるを得ないぎりぎりの心理に突き動かされたのではないか。「おさらばできた」のではなくて、「おさらばせざるをえなかった」のではないか。いや、さらりと捨てられる強さがあったのか。はてさて。
「永遠の旅人」に位置付けることしかできない己の存在があったのでは・・・・
 最後のくだりを再読し、読後印象としてそんな思いも抱かせた。この点、私にはおもしろい。年表の記載一行が、生き生きした苦悩する人物として身近になった。

 最後に、印象に残る文章を抜き書きしておきたい。

*思えば小田切との縁は、武芸を披露して賞でられたのが始まりだった。武芸を磨くのは忠義を尽くすのと重なるようでいて、実は大きくちがうのではないか。  
 武芸であれなんであれ、およそ芸を磨き、芸を究める者はどこまでも自らを恃み、己れの力に賭ける。それは忠義とはおよそかけ離れた道だという気がしてきた。 p153

*最初は他人が通った道を歩いて、少しずつ前に進んでゆく。そしてある地点まで来ると、自らの足で新たな道を見つけなくてはならない。それがいわば芸に生きる旅の始まりだ。  p175

*一九は京伝を自らと同じく心弱き輩だと見た。並の人よりも心が弱く、魂が劣る人間だからこそ目の前の現実から心が離れて机に向かい、筆を執りたくなるのだ。が、現実から真剣に逃げたいというこころがあるからこそ、京伝が書いたものを読む人もまたたつかのまの憂き世から旅立てるのではなかろうか。 p297-298

*蔦重だけじゃねえ。版元はだれも一緒だよ。次から次へ何か書けといって餓鬼同然に押し寄せてくる。下手すりゃ丸ごと喰い潰されちまうから、くれぐれも用心しなせえよ。
 (→ 江戸時代も現代も同じか・・・・著者の心境もそこに・・・ )   p301

*にもかかわらず、ひとつ当たれば版元がかならず柳の下の泥鰌を狙うから、たちまち似たり寄ったりの二番煎じ三番煎じが氾濫してしまう。どこの版元もただその時々で本が売れたらよいとしか思わないようで、こんなことを長くつづけていたら、いずれ絵双紙自体が世間で飽きられて短命に終わるおそれもあった。   p400
 (→ 人間、同じ事を繰り返しているだけか。江戸時代も現代も・・・)

*一九はいくらか湿っぽい声になる。物足りないのはわが子がいないせいか。いや、そうではない。先々の期待も心配もなく、その日その日をうかうかと生き、うかうかと死んでしまう自分を思うと、すべてが虚しいのだ。   p387

*それもまたひとつの道だ。踏みだした者が先に行けばよかろう。が、己にもまた己の道を早く見つけなくてはなるまいと思えば、陽気な笑いがしだいに重苦しい響きに変わっていった。   p399

*生まれた家にずっと住み続けていられる者には、家を離れたくなる者の気持ちはわかるまい。生まれた土地を離れぬ者にもまた、旅を続ける者の心は推し量れぬだろうと思う。  p409

*京伝は絵双紙の中でよくおかしな自画像を描き、自宅の書斎を挿絵にして人目にさらした。さらには自営の煙草店や自家製丸薬の絵まで描き足して、宣伝にひと役買っていた。つまり京伝は絵双紙で自らを丸ごと売り物にして、それこそが京伝人気の秘密だと一九はみている。  p436
 (→ これも、現在常套手段化されているのでは・・・・)

*江戸の戯作者は概ね馬琴という記録魔の耳目を通して今日に伝わっているところが大きく、これがまた他人に極めて辛辣で、自讃めいた書き方が目立つために、人間長生きしたほうが勝ちという印象は否めない。三馬のことはもとより、多大な恩義にあずかったはずの京伝にしろ、蔦重にしろ、馬琴の評価は実に過酷ともいえる。 p475
 (→ 馬琴の記録を試しに読みたくなってきた・・・・)


ご一読ありがとうございます。


付記 この作品も、時折、ネット検索をしながら読み進めた。
 「焼けぶとり」の章の冒頭はこんな書き出しである。
 「寛政元年十二月十五日に大坂を襲った大火は、上町と呼ばれる市街東部の大半を呑み込んだ。」
 
 「防災情報新聞」というサイトの”日本の災害・防災年表:「火災・戦災・爆発事故」編”には、
 大坂寛政「上町の大火」 ……… 1790年2月5日~6日(寛政元年12月22日~23日)
という項目の記載がある。 

 また、大坂市史編纂所の「12月のできごと」ページにも、12月22日の項に、
   上町大火、焼失町数52町、家数1110軒など - (1789年)
とある。1789年は寛政元年だ。
  「大阪の火災記録(昭和22 年以前)」も同様である。
 
 この大火を12月15日とする記録、古文書が別にあるのだろうか。
この点少し疑問が残った。
 「二度目の災難」の章に出てくる、寛政3年の10月10日という日付は一致している。

読みながら、折々にネット検索したものを一覧にしておきたい。(掲載された皆様に感謝!)

十返舎一九 :ウィキペディア
十返舎一九の年表 :「酔雲庵」井野酔雲氏

浄瑠璃 :ウィキペディア
文楽  :ウィキペディア
人形浄瑠璃文楽 文楽への誘い ~文楽鑑賞の手引き~ HP
人形浄瑠璃の歴史 :「伝統文化の黒衣隊」
人形浄瑠璃 文楽 :河原久雄氏
阿波人形浄瑠璃の歴史 :「阿波人形浄瑠璃の世界」HP

近松半二  :ウィキペディア
伊賀越道中双六ショートショート:「文化デジタルライブラリー」・日本芸術文化振興会
近松東南 :デジタル版 日本人名大辞典+Plus
竹本義太夫 :ウィキペディア
竹本義太夫 :歌舞伎事典
竹本義太夫の墓  :「大坂再発見!」
竹本咲太夫 :ウィキペディア

十返舎一九 所蔵作品一覧 :早稲田大学・古典総合データベース
 例えば次のような作品が:
[旅恥辱書捨一通] / 十遍舎一九 [作・画]  :早稲田大学・古典総合データベース
東海道中膝栗毛. 5編 / 十返舎一九 著
栗毛弥次馬. 初,2編 / 十返舎一九 原稿 ; 岳亭春信 [校] ; 一恵斎芳幾 [画]
百人一首むべ山双六 / 十返舎一九 校 ; 歌川豊国 画

東海道中膝栗毛 :ウィキペディア

小田切直年 :ウィキペディア
鱗形屋 :『言語文化』所載論文・柏崎順子氏
鱗形屋孫兵衛 :朝日日本歴史人物事典
蔦重(つたじゅう) :「江戸の印刷文化史」 DTP技術情報
蔦屋重三郎 :「庚寅記載録」

山東京伝 :ウィキペディア
山東京山 :ウィキペディア
曲亭馬琴 :ウィキペディア
式亭三馬 :ウィキペディア
石川雅望 :ウィキペディア
大田南畝 :ウィキペディア
鈴木牧之 :ウィキペディア

稲光田毎月 :国立図書館のデジタル化資料
稲光田毎月 天明4年(1784)・大坂 :芝居番付閲覧システム 
木下蔭狭間合戦 所蔵浮世絵リスト :早稲田大学演劇博物館浮世絵閲覧システム
心学早染草 :「Inspirace」堀越英美氏
高橋誠一郎浮世絵コレクションから 喜多川歌麿 →『青楼十二時』が含まれる
青楼十二時卯ノ刻 喜多川歌麿 :「TIMEKEEPER 古時計どっとコム」
青楼十二時 続 戌ノ刻 喜多川歌麿 :神奈川県立歴史博物館

南杣笑 楚満人 所蔵作品一覧 :早稲田大学・古典総合データベース

貞観政要  :ウィキペディア
近江県物語 石川雅望 :近代デジタルライブラリー
蜀山先生 狂歌百人一首 :「やまとうた」 水垣久氏
北越雪譜 :ウィキペディア

大坂町奉行 :ウィキペディア
与力    :ウィキペディア
株仲間   :ウィキペディア

生玉社 ← 生國魂神社  :ウィキペディア
山王権現 :ウィキペディア
日枝神社(千代田区) :ウィキペディア

志野流 :ウィキペディア
志野流香道松陰会HP
香道への招待 :有職装束研究 綺陽会 HP
鈴木牧之記念館 HP


槍について  :「誠武無染舎」HP

本多髷と草双紙 ← 江戸時代の男性衣装 :「日本の服の歴史 Maccafushigi」
 ページの後半に図・説明が載っています。
吉原遊郭 :ウィキペディア
吉原跡地
水引暖簾 ← 暖簾うんちく :オーダーのれんドットコム
有明行灯  :府中家具木工資料館
宗全籠 ← 宗全籠の制作記録  :「まーちゃんの花籠いろいろ」 

ムクロジ :京都教育大 HP
ムクロジの実 :「トピックス」 梅本・土谷・村松各氏
エンジュ :「季節の花 300」山本純士氏

「娯楽読み物」の魅力 :高木元氏

新・十返舎一九伝 :「求愚庵日記」主宰者・草舎人氏
 こんな作品もネットで発見しました。





『さむらい 修羅の剣』 鳥羽 亮  祥伝社

2012-03-02 15:29:17 | レビュー
 この著者の作品を読むのは、これが初めてである。副題の「修羅」という言葉と劇画タッチの装画に惹かれて手に取った。

 本書表紙の雰囲気そのまま、まさに時代活劇そのもので、文字で綴った劇画という印象が残った作品だ。シンプルなストーリーで展開がスムーズ、話の展開に脇道がなくストレートなので読みやすい。清涼飲料水を飲み、スカッと気分の切り替えをするような感じで読み終えた。いわば、少し重い本を読んだ後などの気分転換にはもってこいというところである。
 著者はすでに100冊を越える作品を上梓されているようだが、どんな雰囲気の作品が多いのかは知らない。これから時折、この著者の作品を読み継いでいこおうかと思う。

 本書は、陸奥国、倉田藩十三万石での中老の派閥争いに巻き込まれてしまった下級武士で剣技に秀でた武士を主人公にした物語である。城代家老が病気がちで隠居したがっていることから、その後釜をねらう中老、深田と木崎の両派閥をめぐる話なのだ。木崎派の中心人物である武部と越村が、中老・深田の排除を策す。越村が隊長となり、9人の刺客部隊を編成して深田暗殺を実行しようというのだ。
 この隊士に組み込まれるのが、畑中宗次、篠田、宇田川その他である。東軍流堀川道場の師範代をつとめ、藩内では知られた遣い手の越村の推挙で、宗次、篠田、宇田川らは徒士になれたという恩義がある。越村から、「深田の悪政を放置しておけば、取り返しのつかないことになるぞ」「おれが、おぬしらを選んだわけを知っているか。堀川道場で腕がたち、骨のある男だと見込んだからだ」と言われれば、彼等は拒否できない立場なのだ。そして、越村は、「深田は、おれが斬る」と言う。

 9人の暗殺隊は、城から帰る途中の中老・深田の一行を鳶の森で襲う。隊士は警護の家臣たちを相手にし、越村自身が深田を暗殺する。事が成就すると、隊士には仙岳寺にて待てと指示し、越村は菊沢と中老に一旦報告に行き、その後寺にむかうと言う。
 実は、暗殺した隊士を抹殺し、中老・深田暗殺の責任を宗次以下の隊士に押し付ける策謀だったのだ。宗次、篠田、宇田川は口封じの策謀からからくも脱出することができる。しばらく、彼等は阿弥陀堂に身を潜めるが、その間に深田暗殺は宗次らの行為とされてしまう。
 越村は、宗次以下を探索・追跡し、皆殺しにより証拠隠滅をはかろうとする。武部・越村の魂胆がわかった宗次らは、深田を直に手がけたのが越村であることを明らかにし、あらぬ濡れぎぬを払拭しなければという怒りに燃える。

 越村からの目を逃れるために、宗次らは藩所有の御直山の一隅にある鹿取村に向かう。宇田川の面識がある山岸小十郎が住んでいるので、そこに頼ろうとする。だが、行ってみると、鹿取村では村の存亡に関わる事態が進行していた。中老・木崎、大目付・武部、郡代・柴崎の一統が鹿取村の樵や筏師から材木の買いあげを半値にするという悪政を行っていたのだ。村人三人が斬り殺され、捕らえられた者もいた。宗次らは、これが藩の材木を一手に扱う富田屋から賄賂を受け取った柴崎らの悪行であることを知らされる。

 木崎一派の存在は、倉田藩にとっても由々しきことだということが明らかになっていく。捕らわれた村人の救出、暗殺隊に加わり策謀により貶められて死んで行った隊士への悲痛な思い、越村に中老・深田暗殺という濡れぎぬを被せられた怒り・・・・それらが、宗次に、修羅の剣をふるわせていくことになる。

 文字で綴った劇画と喩えたのは、まさに真剣での戦いの場面が主たる読ませ所になるストーリー展開の作品だからでもある。単純明快な修羅の剣の太刀さばき・・・・劇画に描かれると一層イメージしやすいだろう。殺伐さが強まるかもしれないが。


ご一読ありがとうございます。

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イメージを広げるために作品の背景になる語句とその波紋をネット検索してみた。

東軍流  :ウィキペディア
富田勢源 :ウィキペディア
富田流  :ウィキペディア
一刀流   :ウィキペディア

東軍流沿革 :「東軍流」(直師夢想東軍流)サイト
 こういう流派もあるようです。

五行の構え :ウィキペディア
日本剣道形 重要事項・立会
日本剣道形 四本目 
剣術用語 :「新撰組活劇」(←新撰組ファンにはよいサイト)

郡奉行 :kotobank.jp
郡代  :ウィキペディア
目付徒目付 :ウィキペディア
勘定奉行 :ウィキペディア

ぶっさき羽織 ← 古写真で読み解く広重の江戸名所:森川和夫氏


ネット検索でこんなことも知りました。
加来耕三/PRIVATE


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