遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『誘爆 刑事の挑戦・一之瀬拓真』 堂場瞬一  中公文庫

2019-01-30 11:59:24 | レビュー
 2013年。拓真と深雪は27歳である。7月に拓真は巡査部長の試験に合格した。長く付き合ってきた二人である。拓真が深雪にプロポーズするなら、このタイミングしかないと思いつつ、拓真はプロポーズをしそびれる。そんなじれったさを感じさせる場面から始まる。その逡巡する拓真の思いがこのストーリーの底流となっている。
 拓真と藤島は強盗事件の発生した現場近くの防犯カメラ映像を確認していた。藤島の携帯電話に課長から連絡が入る。丸の内にある極東物流に爆破予告があった。制服組が現場で避難誘導しているという。藤島と拓真は現場に向かい、避難誘導に協力する。なんとか避難誘導ができ、規制線が設けられて、真昼の丸の内に異常な静けさが生まれたとき、突然二人連れの男が慌てた様子で極東物流のビルから飛び出してきた。その直後、爆発音が鳴り響いた。爆破事件が現実に発生したのだ。
 過激派の犯行に絡む公安の案件なのか、何十年も前に起こった連続企業爆破事件の再来なのか・・・・。まずは、現場保存と初動の聞き込みから始まって行く。

 宇佐美課長から会社に対する事情聴取の指示を受けた拓真は、藤島とともに、秋山総務課長をまず掴まえることができ、秋山に事情聴取することから始めていく。代表電話の受付にかけられた犯人からの電話は総務課に回されて、石本という男性社員が直接電話を受けたという。石本に事情聴取していると、秋山が途中で話に割り込んで来る。一之瀬と藤島はその秋山の挙動から、今回の件は会社が執拗に脅されていたというような事前の動きがあったのではないかと感じ始める。
 刑事部と公安部の合同捜査という形で千代田署に本部が立つ。脅迫電話の後、速やかに非難が完了したことで人的被害はなかったものの事態の重要性に鑑みて、捜査一課と公安一課の共同捜査体制が組まれたのだ。捜査本部での会議が始まった時点でも犯行声明等はなく、極東物流にその後犯人から連絡もないという状況が続く。そのため、極左による犯行、それ以外のすべての可能性という両面で捜査に臨むという形になる。
 政治がからむかもしれないこの手の事件は苦手でやる気がしないという藤島に対し、一之瀬はやる気を見せる。やりたいなら自分で名乗り出よと藤島は一之瀬を突き放す。一之瀬は特殊班の稲崎係長に石本総務課員への事情聴取を担当させてほしいいと名乗り出た結果、特殊班の谷田と組み事件に取り組むことになる。
 巡査部長の試験に合格し、昇進前の功名心を抱く一之瀬は、捜査の進め方に対し、谷田に初っ端からダメだしされるスタートとなっていく。このストーリーの展開のおもしろみは、一之瀬が試験に合格したという情報が流布しており、一之瀬部長と様々な人にからかわれながら、一之瀬が事件に取り組んでいく姿が描かれるところにある。
 総務課員への聞き込みを広げる中で、春日俊介という名が浮上する。アジア第一課に所属し内勤の社員と連絡がとれず3日になるという。行方不明の状態だが、未だ捜索願は出されていないのだ。秋山は個人的な問題なのだとして語ろうとしない。一之瀬はこの春日のことが気になる。彼の勘がそう告げているのだ。会社が何か隠しているのは間違いが無い・・・・・と。一之瀬は千代田署の失踪課一方面分室室長の高城賢吾の知恵を借りることもする。
 一之瀬の業務用携帯にQと称する人物から直接に連絡が入る。日比谷公園で会うとQは一之瀬に極東物流の爆破事件は政治絡みだと一言。そしてその背景をこれから個人的に調べるつもりだとも言う。

 一之瀬は地道に聞き込みを広げる中で、少しずつ春日という人物の個人的な問題についての情報を掴んでいく。聞き込みや家宅捜査など捜査活動の地道な積み上げ。その一進一退のプロセスがリアルに泥臭く、先が読めないままに描き込まれていく。
 そんな最中、月曜の深夜に電話が入る。内幸町で殺しがあったのだ。酔っ払いが発見したという。殺された20代の若者は高いブランドのバッグをだき抱えていて、中にはビニール袋に1000万円ほどの札束をくるんだだけで、無造作にバッグに突っ込んであったという。バッグに入っていた免許証から、被害者は栃木県佐野市の朽木貴史とわかる。もちろん、その裏付け捜査が続いていく。一之瀬は春日の捜査を中断し、朽木関連の捜査を指示される。これは独立した殺人事件なのか。爆破事件に関連するのか・・・・・。

 このストーリー展開の中で、頻繁に出てくるのは、一之瀬に対して、自分の頭で考えろ、次にどう動くか常に考えながら動け、という言葉である。それは一之瀬に自立した刑事としての思考と行動を促すプレッシャーでもある。このシリーズ第3弾は、一之瀬が新米刑事から一皮脱皮していく過程を描くプロセスでもある。

 極東物流本社ビルでの爆破事件における秋山課長の何かを隠すような対応から始まり、ジグソウパズルのように、事情聴取の捜査でバラバラの断片が地道に部分部分つなぎ併せられていく。聞き込みによる断片的証言というパズルの小片のいくつかが部分的なまとまりをなしていく。糸口がその先につながり、網の目につながっていく。徐々に全体構図につながる必然的な筋が浮かび上がって行く。
 小さな綻びの糸口を地道に丹念に追跡していくと、その先には企業恐喝という筋が浮かび上がり、その恐喝ネタの淵源は東南アジアでの事業拡大におけるトラブルにあったという結びつきの構図が見えていく。Qの一言、政治絡みになっていく。

 このストーリーの読ませどころは、ジグソウパズルを完成させるような、地道な部分情報の結合と累積による推理という捜査活動にある。己の頭を酷使し、次はどう動くかと先の動きを考えながら前進していく姿を丹念に描き込んでいく。リアルで泥臭い、足で捜査する行動にある。その一方で、一之瀬は小さな失敗をいくつか繰り返す。手柄をたてようとする功名心から、重要な証人を覆面パトカーで千代田署に連れて行こうとするが、襲撃されて、車は大破しさらにその証人を殺されてしまう大失敗を一之瀬は犯す。だが、その仕掛けられた襲撃が犯人の潜伏先の割り出しに役立ち、犯人逮捕へと進展していくことにもなる。

 事件は解決したが、一之瀬には一生消えない苦い経験が残る。
 だが、この事件が終結した後、一之瀬は千代田署と先輩・藤島のもとを離れ、警視庁捜査一課に異動することになる。藤島からそう告げられるのだ。「お前は、自分が失敗したと思っているかもしれないけど、上はそうは見ていないってことなんだ。」と。さらに、半蔵門署の若杉も、捜査一課に上がるということを、藤島は朗報だと言い、一之瀬に伝える。一之瀬は即座に冗談じゃないと思う。
 自立へと一歩歩み出す一之瀬拓真が捜査一課でどのように活躍することになっていくのか? シリーズ第4弾への期待が高まる。

 ご一読、ありがとうございます。

徒然に読んできた作品の読後印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『見えざる貌 刑事の挑戦・一之瀬拓真』  中公文庫
『ルーキー 刑事の挑戦・一之瀬拓真』 中公文庫
『時限捜査』 集英社文庫
『共犯捜査』 集英社文庫
『解』    集英社文庫
『複合捜査』 集英社文庫
『検証捜査』 集英社文庫
『七つの証言 刑事・鳴沢了外伝』  中公文庫
『久遠 刑事・鳴沢了』 上・下 中公文庫
『疑装 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『被匿 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『血烙 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『讐雨 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『帰郷 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『孤狼 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『熱欲 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『破弾 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『雪虫 刑事・鳴沢了』  中公文庫



『洛中洛外をゆく。』 葉室麟&洛中洛外編集部 KKベストセラーズ

2019-01-24 22:08:34 | レビュー
 2017年12月に葉室麟は病気のため急逝した。享年66歳。本書に登場する海北友松のように、まさにここから先10年はさらに心の裡に秘めた思いに生き抜く人の「美」を様々に作品化して欲しかったのに・・・・・。しかし、葉室麟はすべての義務から解放されて鬼籍に入ったのだ。「死もまた、良し」と思っているかもしれない。
 本書には、インタビューに応えたものとして、次の一節が記されている、
「しかし、死ぬということは、生きてきた証。だから、自分自身が『ちゃんと生きてきた』と言えるのであれば、『死もまた、良し』です。私くらいの年齢になると、フッとそう思うことがあります。『もう、このまま何もしないでいいのだ、すべての義務から解放されるのだ』と考えるわけです」(p180)と。

 さて、2017年春に、葉室麟は3年間暮らした京の町のあちこちを編集部の人と訪れたという。それは葉室麟の代表作といえる『乾山晩愁』『黒龍賦』『孤篷のひと』に登場するゆかりのある洛中洛外の各地を歩き、自著と思いを語っていたのである。さらに、数回にわたって行われたインタビューで、葉室麟が語り残した記録が本書の素材となり、編集されたのがこの本である。奥書をみると2018年6月に初版第1刷が発行されている。

 本書の構成の特徴を箇条書き風に列挙してみよう。
1.冒頭に内表紙を含め30ページのグラビア写真が載せてある。それは小説にゆかりのある洛中洛外の場所や芸術作品群などの写真である。
 本書で描かれた場所空間の視覚化であり、一方で、在りし日の葉室麟思い出写真集となっている。

2.葉室作品を楽しむためにゆかりのスポットを明記した「京都散歩マップ」が見開きのp30-31に載せてある。葉室作品が扱った場所の広がりが一目瞭然だ。

3.三章構成で、各章の最初に人物略歴紹介と該当小説のあらすじ紹介がある。
   第1章 尾形光琳・乾山『乾山晩秋』
   第2章 海北友松『墨龍賦』
   第3章 小堀遠州『孤篷のひと』

4.小説の名場面、エッセンス的な場面が抜粋引用される。それが中軸となり、その引用箇所の理解を深める歴史背景などが編集部により本文に補足説明されている。
 葉室麟の原作を未読であっても、その引用場面を興味深く読み進めることができるだろう。

5.この構成で特に魅力的なのは、小説からの引用場面と関連する形で、葉室麟が自著を語った内容が本文中に「」引用文として組み込まれていることである。
 作者による登場人物の考え・思いの解説、小説より引用された文章の背景・構造の解説、小説の題材に取り上げた思い・意図など様々である。作品を分析的に理解し解釈する情報がここに提供されている。

6.小説に出てくるゆかりの場所のミニ解説が観光ガイドブック視点で1箇所原則半ページでまとめられている。この本をガイドブックにして、現地で葉室麟の語りと小説の引用箇所を楽しむことも一つの方法としておもしろいかもしれない。

7. 小説の登場人物に絡める場合を含めて、葉室麟の人生論が語られている。冒頭に引用した箇所も、著者の人生論の一部と言える。葉室麟の素顔の一面が垣間見えるインタビューの記録・語りが興味深い。

8. コラムが3本載っている。1つは「琳派始まりの地・鷹峯を訪ねて」と題され、光悦寺の住職・山下智昭さんに対するインタビューでの語りがまとめられている。葉室麟が急逝することなく作家活動を続けていたならば、本阿弥光悦、伊藤若冲を採りあげた小説が創作されていたかもしれない・・・・。
 後の2つは葉室麟の文化考として、インタビューの記録から抽出された語りの引用・編集である。そのテーマは、「江戸時代の人にとってお茶とは何だったのか?」「手弱女振りな日本文化と天皇制」である。

9.「巻末特別エッセイ」として作家・澤田瞳子さんが「葉室さんと『美』」を寄稿している。わずか4ページのエッセイだが、葉室麟の代表作と葉室麟の「美」意識について、簡潔適切に記されている。さすがだなと思う。尚、このエッセイの冒頭に、葉室麟に関わる秘話が載っている。そんなことがあったのか・・・・いいエピソードである。

 最後に、本書に記録された葉室麟の語りから、印象深い箇所をいくつか引用しご紹介する。
*だいたい五十代になると、人はみな、ある種の愁いを抱いているんじゃないでしょうか。・・・・・・・深省の場合は、特に仕事は兄との共同作業が大前提でしたから、頼っていた兄の才を失って不安もあった。垣間見える晩年の愁いのなかにいた深省の再出発、そこからの人生を書いてみたかったんです。 p51  (付記:深省とは尾形乾山のこと)
*”ぎなのこるがふのよかと”という水俣地方の方言で、”残った奴が運のいい奴”という意味なんですが、僕はそれを”生き残った奴が運のいい奴”と捉えているんです。・・・・・・・で、それを友松に重ねることができるんじゃないかと考えてみたわけです。内蔵助も死に、永徳も死に、恵瓊も死に、結局生き残った自分が、絵師として生き続けている。まさに、他者から見れば、”ぎなのこるがふのよかと”なんですが、友松にとっては、生き残って良かったという単純なことではなかったでしょう。・・・・・・友松は、死んだ者たちの面影や思いを背負って生きていくことを覚悟したのではないかと、僕には思えるんです。。   p120-121
*僕は、もともと茶人としてではなく、庭を造る遠州に興味がありました。・・・・・・庭を造ることは、自分の思想を表現することだと思ったのです。そこで、小堀遠州について書きたくなった。単なる茶人だけだとしたら、小説を書いていない可能性があります。しかし、庭を表現するときは自己主張がある。その自己主張と、時代に即したものをつくっていこうとする感覚のバランスが遠州にはあり、そこがおもしろいと思いました。 p159

 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『影ぞ恋しき』  文藝春秋
『蝶のゆくへ』  集英社
『青嵐の坂』  角川書店
『随筆集 柚子は九年で』  文春文庫
『天翔ける』  角川書店
『雨と詩人と落花と』 徳間書店
『古都再見』   新潮社
『河のほとりで』  文春文庫
『玄鳥さりて』  新潮社
『津軽双花』  講談社
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26

『影ぞ恋しき』 葉室 麟  文藝春秋

2019-01-21 14:43:52 | レビュー
 この小説は、雨宮蔵人を主人公とするシリーズ『いのちなりけり』、『花や散るらん』に続く第三作である。一応、三部作として完結編に相当する。2016年6月から2017年7月にかけて全国4地域の新聞に掲載され、時差を持ち、他地域の2紙にも連載された。2017年12月に逝去した著者最晩年の作品の一つとなった。

 このシリーズの前作に引きつづき、この第三作においても、要所に挿入される和歌がストーリーの基軸となり、そのテーマ性を表象する役割を担っていると言える。このストーリーでは九州肥前に雨宮蔵人と咲弥を帰国させ、肥前小城藩の名門・天源寺家の継承をさせたいと思う山本常朝-『葉隠』を著した武士-が脇役として登場する。
 その常朝が比叡山麓の蔵人の家で、吉良左兵衛の家人・冬木清四郎に対し和歌を詠じる。
   恋ひ死なむ後の煙にそれと知れ終にもらさぬ中の思ひは
常朝は、この恋の歌を忠義に援用した。「わたしは忠義もこれと同じだと思っている。ひそかに、誰にも知られぬ心の中で尽くし抜くことを忠というのではあるまいか」(p73)と。
 この歌を傍で聴いていた咲弥は、西行の山家集にある歌を思い出したと言い、
   葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する
という和歌を詠じる。この二歌を聴いた清四郎は、その場では何も言わず、隣室に引き下がり、そこで香也と言葉を交じわす。「清四郎様は、どうしても仇討ちをなさりたいのですか」「どうしても討たねばならないのです。さもなくば、殿様が成仏なされないのではないか、とわたしには思えるのです。」(p74)と。
 清四郎はひそかに蔵人の家を去る際に、亡くなった主・吉良左兵衛が己の気持に似つかわしい歌だと清四郎に聴かせた和歌を、今の清四郎自身の思いに重なる和歌であると書き、大願成就の暁には、今一度香也のもとに戻ると末尾に結んだ文を残す。その歌は古今和歌集にある   
   色も香も昔の濃さに匂へども植ゑけむ人の影ぞ恋しき
という故人を慕う歌だった。
 本書のタイトル『影ぞ恋しき』はこの紀貫之の歌に由来する。清四郎は仇討ちという視点に換骨脱退して、この和歌を受け止めている。

 この小説は、冬木清四郎が主・吉良左兵衛を慕う純粋な忠義心による仇討ちという行動を中核に据える。しかし、その行動には、徳川幕府の世継ぎ問題、政権交代という大きな時代背景が重ねられていく。清四郎はそれらの人々に取り込まれることになる。結果的に清四郎は仇討ちを成就するが、今度は清四郎を闇に葬ろうとする動きが出てくる。その渦中に雨宮蔵人と家族が巻き込まれていくことになる。そのプロセスでの蔵人の行動が読ませどころとなっていく。

 なぜ、蔵人らが巻き込まれていくのか? 
ストーリーは、上記の和歌の詠じられる場面より時が遡って始まる。蔵人のもとに、蔵人の従兄弟であり、元鍋島藩士で今は円光寺の僧侶である清厳が、山本常朝の手紙を持参する。そこには蔵人に対し小城藩主が内々で蔵人の帰参を許すという事が記されていた。それは、蔵人の今後の生き様を迫る問題の始まりとなる。
 一方、同時点で冬木清四郎が蔵人のもとに現れる。その目的は、吉良左兵衛が香也に会いたいと望んでいるという願いを蔵人に伝言するためだった。蔵人と咲弥が慈しみ育てている娘・香也は実子ではなく養女である。香也は吉良上野介が京の医師、半井道安の娘と深い仲となり、みつという娘を持つ。そのみつが吉良家の家臣貫井伝八郎と夫婦になり、もうけた子が香也だった。その貫井が何者かに殺められる折に、香也を助けるという巡り合わせで、蔵人と咲弥は香也をわが子として育てていたのだ。

 赤穂浪士の吉良邸討ち入り後、吉良上野介の養子となり吉良家の家督を継いでいた吉良左兵衛義周は、徳川綱吉の咎めを受けて、信濃諏訪藩にお預けの身となっていた。その左兵衛が重病であり、死ぬ前に香也に会いたいという要望なのである。
 その願いを受けて、蔵人は咲弥・香也とともに、諏訪の地を密かに訪れ、左兵衛と香也を会わせることになる。だが、その際左兵衛は、冬木清四郎と香也が許嫁となり吉良家を継いでほしいという願望を述べるに至る。結果的に、左兵衛の生前中に蔵人は香也と清四郎の許嫁関係を承諾する立場になる。
 つまり、蔵人は清四郎の仇討ち行動に対し、それが成し遂げられた後に、清四郎と香也が夫婦になることを親としてサポートするという立場になっていく。
 蔵人は清四郎が誰を仇討ちのターゲットとしているか薄々は感じ推測していても、それ以上には武士として関与しない。だが仇討ちが達成できたとして、今度は清四郎が危うい立場に陥る可能性は明らかに高い。それを承知で、香也を悲しませないために、何があろうと清四郎を護るという約束を蔵人は香也と咲弥にする。仇討ちする対象とその方法を一切秘めたまま、比叡山麓の蔵人の家から立ち去った清四郎。彼の行動結果から得た情報と推定により、蔵人は己の状況対応型行動をその都度選びとっていく。妻と香也に約束した結果を出すために柔軟な対応行動を重ねていく。このプロセスがこのストーリーの読ませどころとなる。

 この小説の興味深いところがいくつかある。
1. 松の廊下での刃傷沙汰という事件が発生した背景で蠢いていた政治的な裏話を描き出す部分があること。
2.赤穂浪士の討ち入りの結果、幕府側が即座に執った措置に絡まる背景に重点をおいてその顛末が描かれていくこと。討ち入りの結果、どういう状況・結果が起こったかという事後の経過に重点を置いていること。
3.赤穂浪士討ち入り事件は、将軍綱吉の治政下で、側用人柳沢吉保の裁量を中心に即断即決で措置されて行った。そこには綱吉の意を忖度した上での判断と当時の政治情勢があった。そこに何があったかが織り込まれていく。綱吉の政治の歪みが明らかになる一方、綱吉に世継ぎのいないことで、政権交代が俎上にのぼっていく。
 その江戸幕府の状況に、京の朝廷の思惑も絡んでいく。
 つまり、幕府政治の裏面がこのストーリーの展開を彩っていくことになる。
4.将軍綱吉と柳沢吉保に対抗するのは、綱豊である。綱吉没後に、綱豊が第6代将軍家宣として政権を継承するが、それまでは政治的確執が続く。家宣が登用したのが新井白石であり、正徳の治と称される改革が行われる。真っ先に行われたのは生類憐れみの令の廃止である。新井白石の描かれ方に興味深い面が含まれる。
 光をもたらそうと意気込む将軍家宣。光には影がつきまとう。その影の役割を家宣の弟である越智右近が引き受ける。兄家宣の治世の邪魔を誰にもさせないとの思いに徹した行動をとる。蔵人がこの右近に対峙せざるを得ない局面が生まれていく。
5.『葉隠』を著した山本常朝を脇役として登場させ、山本常朝を描き加えていること。著者は常朝という人物をどこかで描きたいと思っていたのではないか。その適切な役回りがこの第三作で実現したのだと思う。

 さて、この第三作で重要な締め括りの部分がある。それに触れておきたい。
 天源寺家に婿入りした蔵人は、妻となった咲弥からおのれの心を表す和歌を示せという難題を課された。天源寺刑部をめぐる騒動が原因で出奔することになった蔵人が咲弥に再会するのは17年後である。そのとき
   春ごとに花のさかりはありなめどあひ見むことはいのちなりけり
という和歌をおのれの心を示すものとして咲弥に伝えた。
 香也のために清四郎を取り戻すという目的で越智右近と尋常の立ち合いをすることになる。だが、戦いの途中で公儀隠密藤左衛門の馬上筒で撃たれるに至る。そして瀕死の重傷を負う。
 一足先に肥前に戻っていた咲弥と香也は、その報せを受けて、安芸国の大石家にて療養する蔵人のもとに行く。そして、蔵人に返歌を差し上げるという。「お前様の心を受け止めました。今度は、わたしの心をお前様に受け止めていただきとうございます」と。
   君にいかで月にあらそふほどばかりめぐり逢ひつつ影を並べん
咲弥は西行法師の歌の一つを返歌とした。それが蔵人に生きぬく気力を甦らせる契機となる。

 ストーリーは宝永3年(1706)1月から宝永7年(1710)1月にかけて物語られる。そしてその後にエピローグ風に2つの内容が続く。2年後の1712年10月に第6代将軍徳川家宣が逝去した。その治世と状況が簡潔に語られる。2つめは佐賀で6年を過ごした蔵人と咲弥のその後が語られる。第7代将軍徳川家継が在位4年、享年8歳で逝去ということを知った時点での決断である。どういう決断かは、本書でお楽しみいただきたい。末尾のシーンが実によい。

 ご一読ありがとうございます。

この作品を読み、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
徳川歴代将軍の死と葬儀 :「お葬式プラザ」
徳川綱吉  :ウィキペディア
徳川綱吉  :「コトバンク」
大奥・開かずの間~徳川綱吉、刺殺の噂  :「今日は何の日? 徒然日記」
柳沢吉保  :ウィキペディア
柳沢吉保  :「コトバンク」
柳沢吉保 賢い選択が見える家系図とその子孫  :「歴史上の人物.com」
徳川家宣  :ウィキペディア
徳川家宣  :「コトバンク」
松平清武  :ウィキペディア
第49回 短命に終わった徳川家宣、家継時代  :「日本史」(裏辺研究所)
新井白石  :ウィキペディア
新井白石  :「コトバンク」
新井白石 正徳の治  :「歴史 年代ゴロ会わせ暗記」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『蝶のゆくへ』  集英社
『青嵐の坂』  角川書店
『随筆集 柚子は九年で』  文春文庫
『天翔ける』  角川書店
『雨と詩人と落花と』 徳間書店
『古都再見』   新潮社
『河のほとりで』  文春文庫
『玄鳥さりて』  新潮社
『津軽双花』  講談社
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26

『見えざる貌 刑事の挑戦・一之瀬拓真』 堂場瞬一 中公文庫

2019-01-13 22:10:54 | レビュー
 一之瀬刑事シリーズの第2作である。千代田署の刑事課に一之瀬が異動し、1年経った。刑事課最年少の者が毎朝恒例の茶を用意するという儀式の役割に、一之瀬はウンザリしている。新人が配属されてくるかどうかもわからない。茶の準備という儀式に疑問と反発を感じながらも、その儀式に一之瀬が甘んじている。そんな中で、宇佐美課長から隣の半蔵門署管内で事件が発生した話が皆に伝えられる。
 皇居の周辺をジョギングするランナーが襲われる事件が発生したという。北の丸公園、千鳥ヶ渕交差点から東へ200mほどの地点で事件が発生。後頭部打撲で、2週間程度の軽傷。皇居ランが大流行している中で、2件目の事件が発生したのである。
 皇居ランのコースは半蔵門署の隣りの千代田署にもその区域があるため、いつ千代田署管内で同種の事件が起こるかも知れないとも言える。そこで、半蔵門署と共同で警戒にあたる指示が上の方から出たという。一般のランナーに紛れて走りながら警戒に当たるという役割が、まず最年少の一之瀬に当てられたのだ。午後7時から10時までの3時間の重点警戒。1周5km30分として3時間、30kmを走りながらの警戒である。一之瀬は長距離を走るのは大の苦手、早速苦行が始まって行く。宇佐美課長は体力の無い人間もいるからとローテーションを組むという。藤島は通り魔の犯行は暴力絡みの犯罪では一番悪質であり、爆弾テロと一緒だと一之瀬にハッパを掛ける。
 半蔵門署の会議室で、両署合同の最初の会議がスタートし、事件の状況説明と役割分担などが明らかにされていく。そこで、半蔵門署に勤務の同期生若杉がこの事件に加わっていることを知る。若杉はやる気満々である。若杉が一之瀬の体力面を馬鹿にする。
 ストーリーは、一之瀬が一般ランナーに混じって皇居ランのコースを走りながら警戒するときの不条理さと辟易感の描写、同期若杉に対する一種のライバル意識の描写などから始まって行く。
 2件目の事件が発生したあと、連続して発生したこの通り魔事件が東日新聞に報道されてしまう。

 さらに、今度は千鳥ヶ渕公園で事件が起こる。藤島の家に招かれて食事中だったが、携帯電話の呼び出して、二人は事件現場に直行せざるを得なくなる。被害者は春木杏奈。8時22分に襲撃されたと被害者は言う。倒れた瞬間に咄嗟に腕時計を見たのだとか。被害者は一般にはあまり知られていないタレントなのだが、女性ランナーにはかなり知られるようになってきたタレントだった。後頭部に3針縫ったが軽傷だという。救急外来で入った病院には聞き付けたマスコミが集まってきた。皇居ランのコースにほど近い場所、一番町にあるマンションの自宅に杏奈は戻ることになるが、「怪我の具合はいかがですか」「大したことはありません」「犯人は--」「ごめんなさい。それは言えないので」というやりとりを記者との間でする。マスコミに心配をかけたことに謝罪して、杏奈は自宅に戻る事になる。藤島と一之瀬はパトカーに同乗し、杏奈を送り届けることになる。一之瀬は記者の質問に対する杏奈の返答に違和感を懐いた。
 藤島は翌日に署で事情聴取したい旨の約束を杏奈に取り付ける。その後、杏奈のマネジャー・由貴に一之瀬達は春木についての事情を聞き出す。そして、春木が今ではランニング関係の雑誌やラジオやBSのマラソン番組から注目を浴び、上り調子にあるタレントだということを知る。
 タレントが事件に遭遇したということから、一躍捜査は注目を浴び出す。警戒中に事件が発生したことで警察は重大なミスを犯したことになり、共同捜査から本部体制に切り替えて、3件の事件の早期解決を目指すという。3件の事件は同一犯人の仕業なのか、偶然に連続的に発生したもので、犯人は複数なのか? 

 行きがかりから一之瀬は杏奈の身辺警護をやらされる羽目になる。捜査の第一線にいる同期若杉に対して、被害者とはいえタレントの身辺警護を指示された一之瀬の憤懣の心理描写と合わせて、杏奈とマネジャーの由貴の近くにいる一之瀬は身辺捜査を進めていくことになる。徐々に一之瀬はタレント杏奈の置かれた状況が見え始める。一之瀬には杏奈という人間自身にも感じるところが出てくる。一方で、さらに不確かな事、疑念を懐き始める。杏奈がストーカーの被害に遭っていないかという観点での事情聴取も始めて行く。
 杏奈は大手芸能事務所「芸新社」に所属するタレントであり、ある映画の役を契機に始めたランニングが契機となり、杏奈はランニングに熱を入れだす。その関係の仕事が今や増えてきた。アップワイルドは、20年ほど前にファッションブランドとして出発したが、数年前にスポーツウェアやシューズの分野に進出し、このところ人気が沸騰してきているという。そこの製品を杏奈が愛用してきたこともあり、アップワイルドとの仕事のウェイトが高くなり始めたという。杏奈はタレントとして今上り調子にあることがわかってくる。
 そんな矢先に、爆弾を仕掛けられた商社への金銭要求という脅迫事件が発生し、一之瀬はかり出されるということにもなる。この事件が、別の意味で一之瀬の心配種になっていく。

 芸新社の社長・水野勇作は、警察に対してもう杏奈の警護は不要ではないか、事件は起こらないだろうと言い出してくる。警察にすれば余計な仕事が減る。しかし、一之瀬は現時点での手放しが新たに杏奈の周辺で別の事件に繋がらないかと懸念する。杏奈の事件を解明するには、杏奈の過去のことを調べることが必要だと踏み込んで行く。

 またもや千鳥ヶ渕公園の近くでランナーが襲撃される事件が発生。被害者・加納亜佐美、27歳は出家多量ないしは脳挫傷で死亡する。度重なる「通り魔事件」が未解決のまま、「通り魔殺人事件」に悪化したのである。杏奈の警護から、被害者加納亜佐美の自宅を皮切りに、若杉とペアになり被害者の身辺を事情聴取する担当に振り分けられる。
 亜佐美の部屋を検分させてもらい、一之瀬は女性ランナーのファッションという観点に気づいていく。最近の女性ランナーのファッションリーダーは杏奈さんという雑誌記事の一節も目に止まる。さらに職場での聞き込み捜査を展開していく。
 
 さらに今度は杏奈が「自宅近く」で「会食からの帰り」に襲われ刺されたという傷害事件が発生する。現場周辺の捜査で、若杉が凶器と思われる包丁あるいは大きなナイフといえる物を発見した。
 一之瀬は再び杏奈の警護をする羽目になり、合わせて彼の懐いた疑念についてマネジャーの由貴を糸口にして事情聴取をすすめていく。杏奈の過去に何があるのか? それは一連の事件とどう関わるのか、関わらないのか・・・・・。

 このストーリーの読ませどころは、いくつかある。
1. 連続的に発生する事件が相互にどのように関連しているのか、わからないまま最後まであたかもベールがかかったような形で事件がどんどん進展していく展開となる。読者に気を持たせるストーリーの進め方がおもしろい。
 「見えざる貌」というタイトルの一面はここに由来するだろう。犯人が中々見えてこないというもどかしさ・・・・・。
2. 愛好家達により皇居ランという形で発生したランニングが一定のコースを形成し、かなり多くの人々が日々その中でスポーツを楽しんでいる。その姿と環境の中に、通り魔犯罪という観点でみれば、時間帯を含め如何に危険箇所が潜むかということを描き出すと言う点が副産物としてある。自己責任行動のためのリスク管理の必要性への警鐘となる。
3.タレントが上げ潮に乗ろうとしている心理と行動の描写がリアルに描かれて行くという側面が織り込まれている。
4.若手刑事一之瀬という体力的に弱い刑事の目から眺めた現状の警察組織の体制と文化風土に対する批判的精神がこの第2作でも継続して描き込まれていく。だが、それは未だ距離を置いた世間的対比、概念的なレベルでのものである。これが単なる愚痴どまりなのか、少しずつ組織体制や文化風土を変革していく礎を己の内心に培っているのかは未知数だ。その批判的精神はある意味でこの後どうなるか楽しみな未知数の要素である。
5. 「見えざる貌」というタイトルはダブルミーニングではないかと受けとめた。
 それは被害者・加害者という用語をどのような次元で使うかに関連してくる。警察は法律の規定に基づくことを前提として、被害者・加害者を区別する。だが、警察とは別次元で被害者・加害者という言葉を使うこともできるだろう。
 そこに事件の被害者である春木杏奈の本質は何かという視点が絡んでいく。過去を踏み台にして、上り調子の波をとらえて、タレントとして己が活躍できる高みに上ろうとしている杏奈という人間の本質的は何か?
著者は春木杏奈の現象面での行動を一之瀬の調べと観察やマネジャー由貴、元マネジャーの発言などから描き出す。それは警察の拠り所となる客観的な物証という次元でとらえられない部分に繋がっている。杏奈は単純に被害者だと言えるのか・・・・・。
 このストーリーの末尾の文章を引用しておこう。
   見逃さない。いつか、触れることもできなかった彼女の心に触れてやる。
   一之瀬は密かに決意を固めた。
 この末尾の含意の淵源の究明プロセスが読ませどころといえる。

 勿論藤島も登場するが、殆ど一之瀬の単独捜査活動を主体に描かれて行く。藤島とペアで駆動するよりも、同期の若杉との捜査活動が増えている。そこには同期のライバル意識も内包されていておもしろい。

 最終段階で、一之瀬は刑事として「証明できないことに力を注ぐ」という行動を取る。それに対して、結果的に藤島が警察機構の限界としてこんなことを言う。
 「不必要じゃないけど、紹明は不可能だ。仕事では、無駄な部分をどうやって斬り捨てるかも考えなくちゃいけない。不可能なことに取り組んで時間を潰すよりも、できる範囲で頑張るようにしないとな・・・・以上、説経終わりだ」と。
 一之瀬は、ここでまた大きな教訓と、それならどうすればいいのかという課題を得たことになる。これでまた一段階、一之瀬は刑事の道をステップアップしていくことになる。

 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた作品の読後印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『ルーキー 刑事の挑戦・一之瀬拓真』 中公文庫
『時限捜査』 集英社文庫
『共犯捜査』 集英社文庫
『解』 集英社文庫
『複合捜査』 集英社文庫
『検証捜査』 集英社文庫
『七つの証言 刑事・鳴沢了外伝』  中公文庫
『久遠 刑事・鳴沢了』 上・下 中公文庫
『疑装 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『被匿 刑事・鳴沢了』   中公文庫
『血烙 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『讐雨 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『帰郷 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『孤狼 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『熱欲 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『破弾 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『雪虫 刑事・鳴沢了』  中公文庫


『ルーキー 刑事の挑戦・一之瀬拓真』  堂場瞬一  中公文庫

2019-01-04 21:34:44 | レビュー
 新シリーズのはじまりである。主人公・一之瀬拓真、25歳がクリエイトされた。警察官となり交番勤務を務め、内幸町の交番から千代田署刑事課に異動となった。それは東日本大震災・原発事故の発生からまだ3週間しか経っていない時点である。
 刑事課にとっては久しぶりの新人配属となる。刑事課長は宇佐美、ルーキーの一之瀬を指導する立場になるのが藤島一成。昔同じ職場に同姓の人が居たので、一成(かずなり)という名であるがイッセイさんと呼ばれることが多いという。そのため、一之瀬にもイッセイと呼ばせる。
 配属初日の夕刻、一之瀬の歓迎会が行われる。初日は藤島が一之瀬を連れ、総面積約3.5平方キロメートルの管内エリアを一通り歩き回ることから始まった。勤務後、歓迎会に臨んだ。一之瀬がマンションの自宅に戻ったときには12時。だが、その後、藤島から携帯に電話が入る。「殺し」が発生したという。現場は有楽町二丁目。刑事という仕事にこれからゆっくり慣れていこうという一之瀬の思惑が初日から崩れ去った瞬間である。
 一之瀬は刑事課初勤務の深夜から殺人事件の修羅場に放り込まれることになった。藤島すら初めてみる類いの死体だという。被害者は腹を滅多刺しにされていた。解剖しないとわからないが、出血多量というよりショック死かもしれないと藤島は推定する。
 現場に直行して遺体を見た一之瀬は思わず吐き気を催したが、藤島からビシリと吐くなよと注意される。配属初日から凄惨な殺人事件の捜査にどっぷりと投げ込まれることになった。その捜査に加わり、藤島を先輩・相棒として行動することが、一之瀬にとってまさに現実の修羅場のなかでオンザジョブ・トレーニングを受ける始まりとなっていく。

 この『ルーキー』という小説は、まざに一人の新人が戸惑いながら刑事としての思考と行動を学んでいくというストーリーである。刑事誕生・成長物語と言えよう。
 警察官となり、交番勤務というシフト体制がきっちりと決められ、勤務とプライベートの時間をほぼ明確に区分けできた生活スタイルを一之瀬は過ごしてきた。それとは真逆になる。事件解決までの時間は一日という区切りがない状況が続く捜査体制に投げ込まれる。まさに、カルチャーショックを受けながら、刑事の有り様を体験し始める。警察官人生において、刑事という仕事が己にとっては適職なのかという自問自答が同時に始まって行く。一之瀬は警察官人生の岐路に立たされたことにもなる。一之瀬というルーキーは、刑事として成長できる玉(人材)なのか、刑事不向きの落ちこぼれになりそうな玉にしかすぎないのか・・・・。
 藤島は俺のやり方を見て学べというスタイルではなく、一之瀬にまず己で考えてやってみろと体験させるやり方で臨んでいく。やらせてみて、フォローしながら指導していく。携帯電話で、現場に行くにあたり腕章を忘れるなという注意から藤島の指導が始まっていく。
 現場で遺体を観察する一之瀬に藤島は「ほら、しゃがめ」という。勿論、一之瀬には何のことやら・・・・。先輩刑事の何人かが、蹲踞の姿勢を取り遺体の顔の前で両手を合わせていた。藤島は言う。遺体には敬意を払うものだ。とにかく祈り、必ず犯人を捕まえると遺体に向かい誓えと一之瀬の耳元で囁く。警察小説ものでこんな場面を描くのは、刑事という仕事を拝命したルーキーをまさに主人公にしているからであろう。そういう意味では、捜査本部が立った事件で、刑事の行動・対処方法の内輪話的な側面を、オンザジョブ・トレーニングの一環として描き込んでいるという面白さを読者は味わえる。

 現場指導という点で面白いのは、指示を受けた行動に対して一之瀬が成しおえた結果について、藤島にその都度点数評価を望むという描写があること。一之瀬を藤島はゆとり世代の人間とみているのに対し、一之瀬はその世代ではないと内心反発すること。一之瀬には刑事の仕事にマニュアルがほしいという欲求が出てくる。一方、藤島は刑事の仕事はマニュアル化できるものじゃないと取り合わない。そういう意識のギャップが描き込まれることなど、いろいろと興味深いズレの局面も描き込まれていく。

 さて、事件の被害者は背広の内ポケットに免許証を持っていた。その写真の印象では本人と思えるが、家族の確認が取れるまで「確定」はできない。免許証からは、古谷孝也、本籍地は福島県郡山市。一応ほぼというレベルの段階で、深夜ではあるがまず付近の聞き込み捜査から一之瀬・藤島の捜査活動が始まって行く。聞き込みと雑談の違い、切り上げ時を考えろという藤島の指摘から始まる。刑事と話す相手は4種類あると藤島が言う。こういうオンザジョブ・トレーニングの場面が各所に盛り込まれていくところがおもしろい。刑事課配属初日の深夜から、一之瀬は警察署泊まり込みに投げ込まれていく。
 勿論、本人の心理や愚痴・葛藤などがパラレルに描き込まれていくことになる。それは刑事成長物語の一側面である。

 その後被害者と現職内容などの情報は速やかに判明する。被害者は古谷孝也、1980年7月2日生まれ、間もなく31歳という時点で殺された。住所は目黒区上目黒4丁目。勤務先は六本木に本社のあるIT関連企業、ザップ・ジャパン社。IT系では今や一大コングロマリットの様相を呈している大企業である。ザップ・ジャパン社の総務課長。午後8時に会社を出、午後11時から12時の間に殺された。その間の足取りは不明。被害者のカバンに入っていた銀行通帳には、今年の1月に本人の現金持ち込みによる500万円の入金が記帳されている。詳細は不明だが不審な点だという。
 捜査は動機面を絞らず、予断を持たずに開始する方針となる。
 所轄の人間は本庁の人間と組むのが通例だが、一之瀬が駆け出しのルーキーだということから、この事件でも藤島と一之瀬が組んで捜査に加わることになる。
 そこで、このストーリーは、一之瀬・藤島というペアの捜査活動を主軸にして事件解明へのストーリーが展開していく。

 まず、二人は周辺捜査班に回される。最初の仕事が遺族の出迎えと遺体についての本人確認に立ち合うことから二人の行動が始まっていく。東京に出向いてきたのは父親だった。そして、父親から被害者孝也についての聞き込みへと進展する。
 周辺捜査としての聞き込みは、徐々に広がり、聞き込みから得た人間関係から、糸口を見出し、その糸の先をたどって聞き込みを拡げて行くという定石が徹底されていく。
 一之瀬・藤島の聞き込み捜査もまた、捜査本部の方針の中に位置づけられながら次のように進展して行く。
 父親からの情報収集⇒ザップ・ジャパンの同僚等への調査⇒現場での定時通行調査⇒本人の私用携帯電話の通信記録に対する個別調査⇒被害者の葬式への立会と情報収集⇒被害者の同級生への聞き込み⇒ザップ・ジャパンを退職したOBへの聞き込み・・・・という具合である。それは更に展開を見せていく。
 一方で、藤島は独自の情報ルートを持っている。そのルートからザップ・ジャパン社関連の情報入手の伝手を得ようとする。そして、その伝手をたぐっていく聞き込み捜査も加わっていく。そのため、その人物を一之瀬にも引き合わせることまでは藤島が一歩踏み込んでいる。これもまた、一之瀬に対する形を変えた指導なのだろう。

 ザップ・ジャパンを辞めた一人、岩沢夏美に面会の約束を一之瀬はとりつける。だが、そこへ向かう途中、何か変だと感じ取る。自分たちが誰かに尾行されている気配を感じたのだ。それを確かめようとした。だが、後を追う途中で逃げ去られるが、その時に得た断片情報をもとに、捜査本部では妖しげな尾行者の正体が究明されていく。それが一つの突破口にも繋がって行く。

 一之瀬と藤島は、古谷は総務課長として各子会社が利益を生むようにとの尻叩きの役割を担っていたことを知るとともに、一方でザップ・ジャパン社の子会社であるビジネスリサーチ社(BR)というITコンサル会社を個人的に調査していたという事実もつかむ。そして、聞き込み捜査の過程でBR社に粉飾決算の噂があることも明らかになってくる。
 徐々に殺人事件の筋読みができる情報が累積していくのだが、一方でこの殺害事件に別の様相が見え始める。

 このストーリーのおもしろさ、興味深さはいくつかある。
1.上記と重なるが、刑事課に配属された一之瀬拓真というルーキーが、その仕事の実態に触れ、様々な局面で心理的な葛藤を繰り返しながら、刑事として成長し始めるストーリーとなっていること。
2.配属初日の深夜から殺人事件の捜査に投げ込まれ、その捜査活動プロセス自体が、藤島の指導によるオンザジョブ・トレーニングとなっていて、その訓練的側面、つまり刑事の活動の裏話的な側面が描き出されていくこと。
3.聞き込み捜査活動がどんな風に輪を広げていくものかというプロセスの連続性が描き出されていて興味深いこと。
4.東日本大震災と原発事故という直近の社会状況を背景に、その状況がタイムリーに織り込まれた上で、捜査活動が描き込まれていくこと。東北地方太平洋沖地震は2011年3月11日に発生した。この小説は文庫書き下ろしとして2014年3月に初版が発行されている。
5.藤島と一之瀬という二人を介して、思考・価値観・行動などでの世代間対比が描き込まれていて興味深い。刑事の有り様もまた、世代交代していくのかそうではないのか・・・・。そんなことまで波及していく視点も潜んでいるように思う。
6.一之瀬には交番勤務という時間サイクルが明確だった頃から深雪という恋人が居る。一之瀬の母親は深雪の存在を知っている。深雪にはまだ一之瀬との結婚まで踏み切る意識はなさそうである。刑事課に異動した一之瀬は、初日からその勤務サイクルが乱れていく。深雪との連絡もままならなくなる。そんな一之瀬のプライベートの側面が時折織り込まれていく。さて、この二人の関係が今後どのようになっていくか。読者にとっては興味をそそられる側面である。刑事課に配属された直後の一之瀬は、深雪の存在を藤島には未だ話していない。藤島は他人のプライベートには踏み込まないようでもある。公私のバランスという観点が要素として盛り込まれていて今後の展開が楽しみとなる。
7.一之瀬拓真の家族背景が少し特異な設定になっている。これがこのシリーズで今後関わりを持ってくるのか、それは関係することがないのか・・・・・どうなっていくか? 
 これはまあ、今後のストーリー構想問題なのだが。著者はなぜこの設定にしたのか?
 
 いずれにしても、新しいシリーズの誕生は意外な展開を含めておもしろく読み終えた。
 ご一読ありがとうございます。


本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
東北地方太平洋沖地震  :ウィキペディア
東北地方太平洋沖地震の前震・本震・余震の記録  :ウィキペディア
平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震 ~The 2011 off the Pacific coast of Tohoku Earthquake~   :「気象庁」
東日本大震災  :「コトバンク」
震災の記録誌「東日本大震災郡山市の記録」 郡山市公式ウェブサイト
ふくしま復興ステーション ホームページ
東日本大震災について  :「警察庁」
 
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


徒然に読んできた作品の読後印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『時限捜査』 集英社文庫
『共犯捜査』 集英社文庫
『解』 集英社文庫
『複合捜査』 集英社文庫
『検証捜査』 集英社文庫
『七つの証言 刑事・鳴沢了外伝』  中公文庫
『久遠 刑事・鳴沢了』 上・下 中公文庫
『疑装 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『被匿 刑事・鳴沢了』   中公文庫
『血烙 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『讐雨 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『帰郷 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『孤狼 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『熱欲 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『破弾 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『雪虫 刑事・鳴沢了』  中公文庫