遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『連写 TOKAGE3-特殊遊撃捜査隊』  今野 敏   朝日新聞社

2014-07-28 13:14:44 | レビュー
 警視庁刑事部捜査第一課の特殊犯捜査係が通称特殊斑」(SIT)と呼ばれている。一方、トカゲと呼ばれる部隊がある。常設の組織ではなく、必要に応じて編成される。刑事部の中で、バイクの運転に習熟している者が選抜されて、兼務するのだ。その隊員に選ばれ者は普段はそれぞれの部署に散らばっている。それが特殊襲撃捜査隊である。その通称が「トカゲ」。
 特殊斑に属する上野数馬(SIT第1係)、上野の先輩にあたる白石涼子(SIT第2係)はトカゲのメンバーである。この物語では、他に波多野祐一(捜査一課)、三浦隆人(捜査三課)がトカゲとして行動する。波多野がこの4人チームのリーダーである。

 そのトカゲが同一犯による犯行と推定される連続コンビニ強盗事件の捜査本部にトカゲが出動するように指令を受けたのだ。犯人はバイクの利点を最大限に活かし、渋滞をすり抜け、細い路地をうまく使い、段差のある地形も乗り越えて、神出鬼没であり、警戒が役立たずなのだという。所轄や機動捜査隊の捜査員と密に協力し、トカゲの長所を活かして事件解決にあたることを指示される。捜査本部は世田谷署に置かれていた。

 トカゲが指令を受けた時点で、連続コンビニ強盗は既に3件発生していた。
第1事案 8月 9日(土) 世田谷署管内:世田谷区三軒茶屋2丁目 通報7:05PM
第2次案 8月16日(土) 麻布署管内 :港区六本木5丁目 通報9:00PM頃
第3次案 木曜日に発生 渋谷署管内 :渋谷区道玄坂2丁目 通報7:00PM頃
 そのコンビニ強盗はレジに入っていた札を持って逃げただけで、人的被害は与えていない。また、被害額はそれぞれ、154,000円、215,000円、9万8000円だったのだ。
 三浦は、目撃者も多く、防犯カメラの設置されているコンビニで、苦労に見合う犯行かとつぶやく。勿論、それは既に検討されていた。手口はかなり計画的であり、愉快犯的な要素が強いという見方が出ていたのである。三浦は、警察を出し抜く目的なら、これまでは成功しているとみる。だが、果たしてそうか。
 犯行に使われているのは基本的にオフロードタイプのバイクで色や大きさは異なる。3件とも、似たような黒っぽいフルフェイスのヘルメットをかぶり、黒っぽいライダースーツ姿で犯行に及んでいるという。
 トカゲは指示を受けて、犯行が発生した場合の尾行を、何らかの緊急性があれば、追跡に切り替えた行動をとることを求められる。

 トカゲのメンバーは、とりあえずライダースーツのままで聞き込みに参加する。だがそれでは連続事件発生の後だけに、インパクトがありすぎて、逆にマイナス面が大きいと気づく。巡回と偵察を目的としての計画的なパトロールに切り替える。白石涼子があるパターンに気づいたのだ。犯行の順番を考えないと、六本木、渋谷、そして三軒茶屋と、都心から郊外に向けて並んでいるということ。そして、パトロールの拠点を決めて、パトロールを開始する。
 そして、少しずつだが、犯人についての具体的な情報が見いだされていく。トカゲが任務について12日目の9月5日金曜日に、世田谷区用賀で遂に4件目のコンビニ強盗事件が発生する。ここで初めて、犯人が駐車場から飛び出すときに、買い物に来たた65歳の女性に怪我をさせる。この事件を捜査する過程で、これらの連続する強盗事件が愉快犯によるものでなく、非常に計画的な犯行ではないか、それもこれまでの事件は、犯人が想定する何らかの計画のためのある種の予行演習てきなものではないか・・・という仮設が芽生えていく。果たして、犯人の真のねらいはなになのか? 発生した事件とトカゲによる巡回と偵察から累積されていく情報が、意外な真の犯行目的仮設を導き出していく。

 この作品の面白い点は、新聞記者・湯浅武彦の役回りである。東日新報・社会部の遊軍記者。彼は白石涼子その人と、彼女の参加するトカゲに着目している。機動隊の遊撃捜査二輪部隊と違って、隠密行動が多く、その存在すらマスコミに公表されていないからだ。湯浅は銀行員誘拐事件のときに白石涼子がトカゲのメンバーだったことを知る。その白石が交機隊の訓練に参加する情報を得て、その訓練に張り付く。そして、白石がトカゲのメンバーではないかと質問を投げかけ、トカゲのメンバーである波多野から、トカゲは今は運用されていない、存在しないと答えられる。ところが、その直後にこれらメンバーに動きが出てくるのを察知して、白石の行動を追いかけ始める。
 多くは誘拐事件などの際に隠密行動の偵察や尾行を任務とするらしいトカゲが、連続コンビニ強盗事件に出動したことを突き止め、俄然関心を抱く。そして、白石の動きを追いかけるのだが、そのプロセスで、湯浅が独自調査で得た情報を白石に提供するという行動を取りながら、白石から捜査の動きを察知しようとする。警察から情報を得るために刑事につきまとう記者の行動とは異なる動きを湯浅はとる。捜査過程で刑事が記者と接触することは、通常ないはずだ。漏洩情報の報道があれば、それは捜査進展の障害にしかならないからだ。その微妙な刑事と記者の捜査情報に関わる会話のやりとりが要所で展開する。そして、それが捜査過程でも有益な働きに繋がっていくという展開がおもしろい。ぎりぎりの一線での微妙な情報交換であり、そこには一種の阿吽の呼吸すら感じ取れる会話のやりとりとなる。
 湯浅に関わり、副次的なストーリーが展開する。それは湯浅が己の記者経験からみて、こいつは根本的に記者に向いていないと評価している木嶋孝俊を相棒として引き回さねばならないというなかなかおもしろい人間関係が描き込まれていくことだ。湯浅の観点は、記者は体を使って記事を書くものであり、足を使い、自分の目で見て、耳で聞いて記事をものにするというもの。先輩の指示を受けたらまず行動で資料を駆け回って集めるというスタイルである。それに対して、木島はまずはインターネットとデータベースから情報を引き出そうとする。自らの体で動く前に情報機器を駆使して情報を引き出すことから入る。社会に対する報道責任などという意識を感じさせないし、夜討ち朝駆けなどという取材意識を持ち合わせて居ないと湯浅に感じさせる。そんな木島にイライラしながら、相棒として指示を与え、湯浅は白石涼子を追い、嗅ぎ取った事件の成り行きに着目し、事件を追い先読みし、スクープを狙う。記者に向かない落ちこぼれと評価する木島から、湯浅は自分とは違う記者の能力を見いだす局面もあり、木島が意外と湯浅をサポートするという点がおもしろい。

 なぜ、このトカゲ第3作のタイトルが「連写」なのか。刑事物で「連写」というタイトルの意味はなぜ? という点に当初から関心をいだいていた。それはトカゲのメンバーである上野のトカゲとしてのパトロール行動での人並み以上の能力に由来するのだ。本人はその優れた能力にあまり気づいていないが、白石涼子は上野のその記憶能力を高く評価しているのである。著者は上野が国道246号をバイクでパトロールしているシーンで、こう書き込んでいる。
「フルフェイスのヘルメットの中から、周囲の車両や風景をすべて視界に捉えながら進んでいく。上野の潜在意識には、そうした光景が次々と焼き付けられているのだ。カメラで連写しているようなものだ、その中で印象に残るのは、ホンの一コマか二コマかもしれない。だが、映像や画像は間違いなく記録されている」(p79)
タイトルはこの「連写」に由来するようだ。そして、この上野の連写で潜在意識化されていた一コマが、捜査のある段階で浮上してくる。そして事件解決の重要な契機になっていくのである。
 そして、その一コマは、湯浅の勤める東日新報とも間接的に関わりがあったのだ。捜査の大詰めで、新聞記者湯浅も結果的に事件に一役果たしていくという次第。なかなかおもしろい展開となっている。

 本作品の読ませどころはいくつかある。私の感想としては次の諸点である。
・第一は、少額強奪という連続コンビニ強盗事件が事前準備で、意外な計画的犯行への準備であり、そこには重要な意味がある。その解明プロセスの展開というメインの流れ。
・交機隊のバイク訓練がどんなものか、バイクによるパトロールの実態と雰囲気。
・白石涼子と湯浅の間での微妙な駆け引きを伴う事件関連の会話。
・トカゲと交機隊をはじめとした捜査本部との間の犯人追跡プロセスでの連係プレイの描写。
・湯浅と木島という2人の事件に対するスタンスと情報収集方法、記者としての発想や視点の差異から生まれるギャップ感と一方での事件肉迫への相乗効果。
 
 白石涼子。こんな素敵な刑事がいたら、そのファンが出てきてもおかしくないだろう。 「そうそう。あんたが無線で連絡してくれたんだよね。」・・・「そういうことなら、あまり邪慳にもできないわね」
 「私たちは、任務が終わりほっとしている。一杯やりたい気分なの。そこで世間話をするかもしれない。」・・・「どこに行こうとあなたがたの自由です。だめとは言えないでしょう。」
 こんなことを、さらりと記者に言えるのだから。

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この作品に関連する語句をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

機動捜査隊  :ウィキペディア

自動車ナンバー自動読取装置 :ウィキペディア
Nシステムってなんだ?  担当:こうちゃん :「雑学万歳!!」

ナンバー読取装置  :「ekouhou.net」
車両認識装置    :「ekouhou.net」
車両ナンバ読取システムの開発  池田達治・迫田隆亨 氏

監視カメラ  :ウィキペディア

自動速度違反取締装置  :ウィキペディア

国民移動監視ネットワーク Nシステム :「桜丘法律事務所」



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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『フェイク 疑惑』 講談社文庫
『スクープ』 集英社文庫
『切り札 -トランプ・フォース-』 中公文庫
『ナイトランナー ボディガード工藤兵悟1』 ハルキ文庫
『トランプ・フォース 戦場』 中公文庫
『心霊特捜』  双葉社
『エチュード』  中央公論新社
『ヘッドライン』 集英社
『獅子神の密命』 朝日文庫
『赤い密約』 徳間文庫
『内調特命班 徒手捜査』  徳間文庫
『龍の哭く街』  集英社文庫
『宰領 隠蔽捜査5』  新潮社
『密闘 渋谷署強行犯係』 徳間文庫
『最後の戦慄』  徳間文庫
『宿闘 渋谷署強行犯係』 徳間文庫
『クローズアップ』  集英社

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新2版

『聖なるものの「かたち」 ユーラシア文明を旅する』 立川武蔵 大村次・写真 岩波書店

2014-07-23 11:07:48 | レビュー
 「はじめに」と「おわりに」を読めば、著者の意図が明確に述べられている。
 著者は「地球上に生命活動が始まって以来、絶えることなく続いてきた生命エネルギー」(p191)を「聖なるもの」と呼ぶ。さらに「そのエネルギーを有するモノ」も「聖なるもの」とする。その上で、「『聖なる』意味はあくまで人間が歴史のなかで育て上げてきたものであって、自然と人間の歴史を超越したものではない」(p191)とその立脚視点を明にしている。また「風土も生活習慣もまったく異なる場所で、まるで示し合わせたかのように近似した思想が同じように育まれてきている例が少なくない」(p1)という。
 本書は日本の伝統や文化のルーツについて、ユーラシアの各地にその淵源を求めることができると考えた「ルーツ探し」の旅のまとめである。「聖なるもの」の「かたち」を探り、地域や民族、宗教の違いを超えたかなたにみる「神々」の地下水脈を掘り当てる試みなのだと、著者はいう。
 ユーラシアの各地に住む人間がそれぞれの歴史の中で育て上げてきた「聖なるもの」の「かたち」を探る著者の旅の過程は、我々の住む日本における「聖なるもの」とその「かたち」に様々な示唆を与えてくれる。この旅の記録は、我々にとって、日本を知る鏡の役割を果たしていると思う。何気なく思ってきた「聖なるもの」がユーラシア大陸のはるかかなたと結びついていたという不思議さ。

 本書は次の各章で構成されている。目次をご紹介しよう。
 はじめに
 第1章 根源的なるもの   大地 /水 /火
 第2章 食べものの聖性   無花果 /米と麦 /薬草
 第3章 聖なる幻獣     蛇と竜 /幻獣マカラ /無常大鬼とメドゥーサ
 第4章 コスモスを求めて  世界軸と須弥山 /マンダラ /人体という宇宙
 第5章 祈りのゆくえ    舞踏 /供物 /聖なるものへ
 おわりに
 
 目次から類推できるように、全体としてゆるやかな流れがあるが、項目は列挙主義的でそれぞれのエッセイが独立してそれなりにひとつのまとまりとして完結している。場合によっては、関心のある項目から読み進めてもそれほど支障はないと思う。

 仏教思想では地・水・火・風・空の5つを宇宙の生成要素だと説く。本書では「根源的なるもの」として、この内の大地・水・火を取り上げている。例えば「大地」のエッセイでは、「『旧約聖書』における大地」「古代インドにおける大地」「マンダラにおける地」「空海における地」「聖なるものの『かたち』とは」という小見出しで、大地に人々が見いだし、与えた意味の考察を著者は展開する。『旧約聖書』、古代インド、古代ギリシャでは大地そのものを認識しているが、特別に聖性を与えていないと考察を進め、5~6世紀以降の密教の台頭により、大地が聖性を帯びるようになったという。そして9世紀に唐で密教理論を学んだ空海が日本にマンダラの世界観をもたらしたと説く。現象世界が「聖なるもの」であるという考え方が伝えられたのだ。それが日本古来の宇宙観に通じるものがあったので、日本に仏教が根付いたと説く。
 「聖なるもの」ととそれが現される「かたち」がキーワードである。それが「大地」という切り口でその受け止め方が分析され、判別されたといえる。ユーラシア空間の広がりとその地の歴史の悠遠なる時の深みの中で、流れ来る「聖なるもの」とその「かたち」について、どこに水脈の源があるかが辿られる。「大地」について、「聖なるもの」としての認識は、密教の台頭という時点、その発祥地に淵源があったということなのだ。
 考察のスケールに沿いながら、その事実の分析、例示説明のプロセスを楽しみ、知的好奇心を満たしていける本である。この本は、「聖なるもの」と「かたち」を求める切り口ごとに考察がまとめられている。

 われわれは日本の神道と仏教をとおして、聖なるものの「かたち」を自然に、あたりまえのごとくに受け入れている。普段はそれで通り過ぎてしまう。立ち止まり、その意味を問うことはない。
 だが、喩えれば、ユーラシア文明の各地に淵源を持つ水が、はるかかなたから流れくるプロセスでいくつものフィルターを通して濾された水となる。それが日本にもたらされ、日本の水と混ざり融合した。その水を何気なく水として受け止めているだけ。しかし、その水脈を辿って、遡っていくという行為が、「あたりまえ」というベールを取り払ってくれる。そこに新鮮さとエキゾチシズム、その反面の共通基盤の存在する感覚を見いだしていく。私にはその点が興味深い。所変われば品変わるという言い回しがあるが、変化はあれどその基盤に共通する要素があるということ、現在の「あたりまえ」感を視点を変えて見るきっかけとなることが、実に楽しい。

 各エッセイに大村次郷氏の写真が数葉掲載されている。私には他書や映像、展覧会その他で、今まで見たことのない写真を数多く見る事ができたのもイメージを広げる契機になった。私が興味・関心をいだいた写真をいくつかご紹介しよう。写真をまず見ることで、本書への興味が高まるかもしれないから。
 アルテミスの神像:トルコ(p5)、ナムチェ・バザールの仏塔:ネパール(p11)
 タ・プローム遺跡のガジュマル:カンボジア(p51)、ウロボロスのレリーフ:シリア(p83)
 シヴァ神のシンボル、リンガ:ネパール(p81)、石窟寺院天井のナーガ:インド(p91)
 マカラのレリーフ:インド(p95)、キールティムカ:インド(p97,107)
 少林寺の鴟尾:中国(p103)、地下貯水槽の柱石のメドゥーサ:トルコ(p111)
 エローラ石窟:インド(p117,p119) など。

 本書からその淵源について学んだこと、あるいは目からウロコと思えたことを、第3章までの範囲で引用し例示してみたい。
*ヴェーダの宗教の後に生まれたヒンドゥー教における最も一般的な儀礼は、プージャー(供物を捧げて神を崇めること:供養)である。・・・プージャーは日本の仏教にも取り入れられており、真言宗では十八道として行われている。  p21
*インド・ヨーロッパ語族は、火の儀礼を重視してきた。古代ギリシャの儀礼において火が聖なるものであったことはよく知られている。・・・ヴェーダの宗教(バラモン教)では「火の神への供物の奉献」はホーマと呼ばれ、ゾロアスター教ではハマオと呼ばれる。これらの名詞が同族の動詞から派生したことは明かだ。  p30
*インドやネパールなどでは、人と火は運命的に結びつけられている。・・・・火は「許された時を終えた身体」つまり遺体や終焉を迎えた世界(宇宙)を焼き尽くす。では、それで何もかも終わりなのか。いや、そうではない。インド人たちは何もない無は考えない。消滅あるいは無の後には必ず再生がある、と考えられている。火葬によって肉体が亡くなったとしても、それは魂を包んでいる衣服がなくなったにすぎない。人が古い衣服を捨てて新しい衣服をまとうように、魂は輪廻の世界の中でまた新しい肉体をまとう。火は古いものを焼き、新しいものを用意するのである。 p33-34
*死者の霊を送るものといえば、光明真言が思い出される。・・・『般若心経』を読む時に一緒に唱えられることもある。また、真言宗では、通夜の時や火葬の直前などに唱えられる。インドにおいてこの真言が死者の霊を送るためのものであったとは考えられない・・・ちなみに、インドでは光は「火」の要素の一つのあり方である。  p36
*インドにおいても三種のイチジク(無花果)が特に「聖なる」樹である。ニャグローダ、ピッパラ(インド菩提樹)およびウドゥンバラである。  p42
*日本では「菩提樹」といえば、シューベルト作曲、ミュラー作詞の歌曲を思い出す。・・・ここで詠われている菩提樹はリンデンバウムのことだが、これはインドの菩提樹つまりピッパラとは別物であり、シナノキ科の落葉樹である。リンデンバウムの葉の先端はわずかにとがっており、インドの菩提樹の葉の形と似ている。おそらくはこの類似点のためにリンデンバウムが菩提樹と呼ばれるようになったと思われる。・・・結局、リンデンバウムから区別するために「インド菩提樹」と呼ばれるようになった。  p48
*米俵の上で笑っている大黒は、日本神話の大国主命の「大国」が「だいこく」と読まれて、インド伝来の「マハーカーラ」(大いなる黒い者、シヴァ神)とみなされたと考えられている。このようにユーラシアの神々と米とは日本においても結びついてきた。 p56
*東インドでは、しばしば小さな丸い米の餅が作られる。これは祖先に捧げるもの(ピトリ・ピンダ)であって、彼岸団子の格好だ。・・・・この小さな丸餅が、インドから中国や朝鮮を通って日本の彼岸団子になったのだろう。  p60
*現在のパキスタンとインドとの国境線は、世界のパンの作り方の境界線でもある。p62
  → パキスタン以西は発酵パン、インド以東は無発酵の小麦食品あるいは米
    チベット人は無発酵のツァンパ、チベット自治区より西の地域は発酵パン
*パンと水の正餐は、『新約聖書』の成立期とほとんど同時代に興隆していたミトラ教にも見られた。・・・人々は、そしてわれわれは「聖なるもの」としての「パン」を恵みとして食べているのである。   p64
*ヒンドゥー教の神シヴァのシンボルであるリンガ・・・リンガとは、元来は目印を意味するが、男性の目印つまり男根のことでもある。古代インド社会に男根崇拝が存在したことは明らかだ。・・・起源前1,2世紀頃になって、リンガ崇拝はシヴァ崇拝の中に組み入れられていったのだが、その際、リンガはシヴァ神のシンボルとして採用されたものと考えられる。  p80
*自身の尾を咥える蛇は、古代ギリシャではウロボロスと呼ばれ、再生や完全性を意味すると考えられてきた。蛇は脱皮して大きくなることから、再生や不死を意味するものと考えられてきたのだが、古代エジプトにも見られるそのイメージの源泉は、詳らかではない。  p82
*ヒンドゥー教の主神のひとりヴィシュヌ神は、神話の中で、世界を創造した後、海上でとぐろを巻く巨大な蛇アナンタ(無限なるもの)の上でまどろむ。また図像化されたヴィシュヌ神の頭上を覆う傘は、喉を膨らませたコブラの鎌首である。インドや東南アジア諸国の仏教寺院では、ブッダは身体を身体をコイル状に巻いた蛇の上に坐し、ブッダの頭上には、喉を膨らませた鎌首が傘あるいは光背の役をなす蛇の造形が見られる。  p86
*『道成寺縁起絵巻』には、鐘に長い体を巻き付け、口から火を吐いている竜が描かれているが、このイメージは、奇妙なほど・・・リンガに巻き付く蛇クンダリーニのそれと似ている。インドからの直接的な影響があったとは思えないのだが。 p88
*インドでは、鐘あるいは鈴は女性のシンボルであることはよく知られている。密教では金剛杵(ヴァジュラ)は男性原理=迷いの世界を、鈴(ガンター)は女性原理=悟りを意味する。  p88
*後世のヒンドゥー教では・・・シヴァ派とヴィシュヌ派に加え、ヒンドゥー教の第三の勢力として女神崇拝(シャクティズム)を数えるのが、今日では一般的となっている。 p90
*「こんぴら」(金比羅)という名称・・・これはサンスクリットの「クムビーラ」が転訛したものだ。・・・・ワニに似た伝説上の幻獣「マカラ」のことである。名古屋城大天守の屋根の上で逆立ちしている金鯱も、実はマカラだ。この幻獣の故郷は、ナイル河のあたりらしい。  p92
*マカラは、多くの場合、ライオンに似た顔面と両手のみの幻獣キールティムカと組になって現れる。 p99
*「キールティムカ」とは、文字通りには「ほまれの[高い]顔」を意味する。・・・キールティムカは輪廻図以外にも現れる。そうした場合、一般には顔のみで胴はなく、口には二匹の蛇を咥えている。顔の両側から両手がのびて、それぞれの手が蛇を掴んでいる。p106
*インドでキールティムカ、日本で無常大鬼と呼ばれている・・・・中国や日本では、「無常大鬼」は、輪廻という世界が無常であることを見せつけているようであり、無常なる世をとらえている鬼神と考えられた。
 東南アジアではこの幻獣はカーラ(時)とも呼ばれる。または、インドではカーラは「それぞれに許された時を司る者」という意味で「死に神」をも意味する。輪廻の輪を咥え、両手で輪廻の輪を掴んでいる姿は「時」あるいは「死に神」と呼ばれるにふさわしい。  p109
*キールティムカの源泉を考える際に、ゴルゴーンと呼ばれるギリシャ神話の怪物との関係を考えるべきであろう。・・・ゴルゴーンの3人の娘のひとりがメドゥーサだ。メドゥーサの顔は髪の毛が蛇であったといわれる。勇者ペルセウスに首を切り落とされた後もメドゥーサの首は人々を石に変えてしまう力を持ち、多産豊饒の神としてローマ帝国および西アジアの領域において崇拝された。  p110
*インドにおけるキールティムカは基本的には獅子の顔をしているが、このことはどこかの時点で「シリア的要素」と結びついた結果とも考えられる。・・・・
 多聞天は毘沙門天とよばれることがある。この天はしばしば腹部にキールティムカを付ける。ベルトがこの「獅子」の口に懸かっていることが多い。・・・尊像の腹部に見られるキールティムカは、「獅噛」(しがみ)と呼ばれる。文字通り、獅子が噛みつく、というイメージを踏まえている。   p112-114

 名古屋の金鯱がインドを経て、ギリシャ神話のメドゥーサに及び、近くでは多聞天のベルトの「獅噛」に繋がっていた、というのは実に悠久の時を経、雄大な広がりをもつ。実に楽しい旅ではないだろうか。ユーラシア文明を旅してみよう。

 ご一読ありがとうございます。


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本書に関連する語句をネット検索してみた、一覧にしておきたい。

ゾロアスター教 :「バルバロイ」
ピッパラ → ブッダガヤの大菩薩寺 :「タイに魅せられてロングステイ」
大国主  :ウィキペディア
大黒天  :ウィキペディア
マハーカーラ論 小目次 :「石仏ライブラリ」(大畠洋一著作集)
シヴァという世界観 :「chaichai」
リンガ(男根像)(Lingam)  :「バルバロイ」
金鯱  :ウィキペディア
兜跋毘沙門天 :ウィキペディア
 兜跋毘沙門天像(教王護国寺)の写真の腹部にキールティムカが付けられている。
 「獅噛」(しがみ)と呼ばれているという。
毘沙門天の海若と鬼瓦とキールティムカ No340 :「吉田一氣の熊本霊ライン」
無常大鬼 → チベット縦断3000kmツアー第10回:「須摩ビーチ猫通信(from神戸)」
メドゥーサ :ウィキペディア
カイラーサ・ナータ寺院 :「のぶなが」



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『万能鑑定士Q』 松岡圭祐  角川書店

2014-07-18 09:39:58 | レビュー
 「万能鑑定士Q ~モナ・リザの瞳~」が映画化されている。そのポスターや宣伝をよく目にする。それで初めて、「万能鑑定士Q」というシリーズが出版されていることを知った。松岡圭祐という作家の本を私は読んだことが無い。
 そこで、「万能鑑定士」という言葉が気になり、目に止まった『万能鑑定士Q』の単行本を手にとってみて、読み終えた。

 目次を見ると、万能鑑定士Qの事件簿ⅠとⅡが収録されている。この本が当シリーズの始まりだったのだ。知らぬこととは言え、シリーズものの読み始めとしてはまあ幸先が良い。アマゾンを見ると、文庫本で事件簿ⅩⅡまで上梓されているようだ。
 それはさておき、事件簿Ⅰ・Ⅱを読んだ印象は、「おもしろかった!」である。鑑定プロセスにおける蘊蓄話が実に多彩で、ある意味一種その内容に幻惑されそれに引き込まれる側面すらあって、興味深い。この種の情報の盛り込みに興味関心を抱きがちな私には、新たな読書対象が広がったところである。徒然にこのシリーズを順不同になっても、読み継いでみようかと、思い始めたところだ。

 さて事件簿ⅠとⅡは一応独立したストーリーとして完結で有りながら、事件簿ⅠがⅡに連接していく。「万能鑑定士Q」という店の看板をどのようにして凜田莉子が立ち上げたのか。鑑定を依頼された案件から、事件を解決するための謎解きに関わっていく始まりがこの第1作で理解できる。

 現実社会に○○鑑定士という職種資格が結構ある。その代表的なものが「不動産鑑定士」だろう。不動産の価値評価という領域での国家資格として難関でもあるようだ。
 本シリーズの「万能鑑定士」という資格は現実にはない。作者の創造物である。「万能鑑定士」で区切ってはだめなのだ。あくまで「万能鑑定士Q」という屋号なのだ。何でも鑑定屋という位置づけであり、「鑑定士」という資格看板とは無縁の万の鑑定承りますという設定。これって、作品をどんな方向にも、どうとでも展開できるフリーハンドの設定になっている。作家としては楽しめる条件設定だと思う。主人公である凜田莉子の潜在能力と知識量、経験を増やしてやれば、どうとでもストーリー展開していけるのだから。勿論、それは読者にとっても、次はどんな事件の謎ときと鑑定説明が出てくるか・・・・期待できることになる。事件簿Ⅰで取り上げられた「力士シール」から最近の「モナリザ」にまで展開されてきているのだから。
 
 事件簿Ⅰ・Ⅱで凜田莉子が確実に独り立ちしていくことになる。それは与えられた屋号のQの意味が、「クイーン」から「キュー」へと莉子の意識的選択によって変更されるステップでもあるのだ。Qの意味づけが変更される経緯は、本書をお読み願いたい。

 「事件簿Ⅰ」は、万能鑑定士Qの経営者・凜田莉子が持ち込まれたガードレールにびっしり貼られたシール、通称「力士シール」の鑑定を依頼されることをきっかけにして始まる。この作品は、「力士シール」の鑑定という依頼事項とその調査という「現在」を軸としながら、凜田莉子の過去の履歴を語り、なぜ「万能鑑定士Q」の店を構えるに至ったかという「過去」を語る。一方で、莉子が関わった事件の結果が、どんな波及影響を社会にもたらしたかという「近未来」を先取りで被せていく。それが交錯する形で構成されているので、当初少し戸惑ったが、リズムに乗るとそれまた、おもしろい構成展開になっている。
 
 2mほどのガードレール1本にびっしり貼られた「力士シール」の鑑定を「万能鑑定・・・」という言葉に惹かれて店に持ち込んだのが「週刊角川」の編集部所属の記者、小笠原悠斗である。万能鑑定士Qの凜田莉子は現在23歳。「力士シール」の鑑定を引き受ける。
 莉子は、科学鑑定の分野については、早稲田大学理工学部物理学科准教授の氷室拓真に二次依頼に出すことにしている。この力士シールについても、その手順を踏む。
 多分このシリーズでは、凜田莉子を中軸に、小笠原悠斗と氷室拓真が主な登場人物として名を連ねていくシリーズになっているのかな・・・と推測する。
 莉子の素性は5年前の「過去」から始まっていく。このプロセス自体がけっこう面白いが、それはさておき、要約的にまとめてみよう。

 凜田莉子。沖縄の波照間島の生まれ育ちで、石垣島の八重山高校を卒業して、東京で就職するために上京する。高校時代は落ちこぼれだった。学業成績は最悪。だが教師の喜屋武は莉子の感性のすばらしさに気づいていた。莉子は、いつか波照間島の役に立つような仕事をしたいという漠然とした希望を持って上京する。莉子の上京を島の人々は期待を込めて送り出す。東京での就職活動はままならない。そのエピソードも面白いが、最後はリサイクルショップのチープグッズの社長に見込まれて、というか助けられて、そこで働くことになる。社長の瀬戸内陸は莉子の素質を見いだし、その素質を伸ばす方法を教える。ここで勤める期間に、莉子はその素質を開化させ、膨大な知識のデータベースを己の能に蓄積していくのである。そして、瀬戸内社長が登録していた「万能鑑定士Q」の看板を掲げた店を開く後押しをされるに至る。
 一方の近未来は、莉子が事件に関わった結果、莉子の知らないところで日本にハイパーインフレの経済状況を引き起こされることになるというもの。

 さて、事件簿Ⅰは、「力士シール」がなぜ公共のガードレールに張り巡らされ、それを誰が何の目的で行っているのかという解明調査が本来の出発点である。だが、莉子が小笠原と都内に貼られた力士シールの現地調査を始めた中で、莉子がふとしたことから、事件発生の徴候を感じ取り、知り合った警察官のいる警察署に出向き、その事を通報する。
 それはバナナを材料とした料理教室の開催という案内とその実演を隠れ蓑として画策し、ある事件を引き起こそうと狙っているのではないか、という莉子の推理に始まる。この顛末の経緯が興味深い。おもしろい発想が取り入れられている。
 事件簿Ⅰは、この脇道に入った起こるかもしれない事件の通報とその事件の現行犯逮捕で一端、終わりになる。

 だが、その脇道事件にはさらに隠された背景があった。それがハイパー・インフレを引き起こしている原因だというもの。バナナ料理教室の偽装事件は、実は1万円札の精巧な贋作製造事件を追求しているプロセスに関わりがあり、犯人逮捕への追跡の一環だったというのである。贋作事件が犯人側からの情報通告で世間にオープンとなるや、日本経済はハイパーインフレが急速に進行する。
 莉子は思わぬ事から1万円札贋作事件に首を突っ込まざるを得なくなる。
 そして、この1万円札贋作事件が、一端波照間島に戻る莉子にとって、解決の糸口を見つけ、またそれが鑑定を頼まれた「力士シール」事件とも連環していく事件だったことが、徐々に明らかになっていく。実に巧妙に仕掛けの張り巡らされたプロットである。

 事件簿ⅠとⅡは連環していく。そして、それは凜田莉子が現在の能力開花の貴重なステージとなったチープグッズからの巣立ちでもあり、「Q(クイーン)から「Q(キュー)」への脱皮でもあるのだ。

 事件簿Ⅰの構成への当初の戸惑いから自由になると、事件簿ⅠからⅡへの連なり、事件の連環と意外な結末への道程は、一気に読まされてしまうおもしろさを持っている。
 さあ、このシリーズも読書対象に加えよう。


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少し本書の蘊蓄話関連で関心を抱いた項目をネット検索してみた。
一覧にしておきたい。

古物商 :ウィキペディア
古物商許可申請 :「警視庁」
古物商許可をとるまでの5つのステップ :「リサイクル通信 Online」
知らんと損する?リサイクル業で起業するために必要な5つのコト :「リサイクルジャパン」

古物営業法FAQ :「警視庁」

不動産鑑定士  :ウィキペディア
古民家鑑定士とは ← 古民家鑑定士試験情報:「財団法人職業技能振興会」
宝石鑑定士の資格
美術鑑定士とは :「13歳のハローワーク公式サイト」
骨董品の鑑定士になるには :「オレペディア」
初生雛鑑別師  ← ニワトリのヒナの雌雄鑑別 :ウィキペディア
初生ひな鑑別師とは? :「nanapi」
筆跡診断士 → 筆跡診断とは :「日本筆跡診断士協会」

お札の特長  :「国立印刷局」
お札の製造工程  :「国立印刷局」

偽札 :ウィキペディア
徳光&木佐の知りたいニッポン!~ニセモノにダマされない 通貨の偽造防止技術を知っておこう!  :「政府インターネットテレビ」
お札の偽造防止技術    :「国立印刷局」
新500円貨の偽造について  :「財務省」
偽札や偽造500円にご用心!!  ポスター :「財務省」

紙幣類似証券取締法 (明治三十九年五月八日法律第五十一号)
すき入紙製造取締法 (昭和二十二年十二月四日法律第百四十九号)
すき入紙製造許可手続  :「財務省」


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『紫匂う』  葉室 麟   講談社

2014-07-13 16:07:30 | レビュー
 今までとはまた一色違った「純な愛」の物語を堪能できた。著者の創作世界に浸潤することで充実したひとときを楽しめたことはハッピーだ。「愛」のあり方を描き出したこの作品世界に一度浸っていただいたいと思う。

 著者がその一つの世界を発想し紡ぎ出す発端に特定の和歌がある。そんな作品がいくつかあるが、この作品もその発想方法を共通点としているようである。

   紫のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも

この和歌がこの作品創作の起点にあるようだ。世に親炙した歌である。本書タイトルはこの上五・七句から名づけられているのだろう。

 『万葉集』巻一の第20番目の額田王の詠んだ歌
   あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
天智天皇が蒲生野に遊猟されている時に額田王が詠まれたと詞書に記す。その次、第21番目に「紫のにほへる・・・・」の歌が載っている。この歌は、その時の皇太子(後の天武天皇)が額田王の歌に答えて詠んだという。
 『口譯萬葉集(上)』(折口信夫全集第4巻・中公文庫)で折口信夫は次のように口訳する。
 「ほれぼれとするような、いとしい人だ。そのお前が憎いくらゐなら、既に人妻であるのに、そのお前の為に、どうして私が、こんなに焦がれてゐるものか」と。

 万葉集のこの2つの歌には、天智天皇とその后・額田王、そしてその額田王を恋う皇太子(天武)という3人の関係性が窺える。夫・妻・人妻を恋する男という「3人の関係性」が本作品の骨格になっていると思う。そして、そのような関係のあり方が登場する人間群の中で、幾通りものパターンに変換あるいは換骨脱退され、ストーリーに織り込まれているように思った。

 このストーリー、主な登場人物の間に「3人の関係性」が組み込まれていく。
第一の登場人物は、黒島藩6万石の郡方50石萩蔵太の妻・澪である。この物語は、澪が近頃しきりに同じ夢を見るという、その「霧の夢」そのものから始まる。目を覚ます直前に、「逃げて下さい。逃げて-」と叫び、夢の中で男の名を呼ぶ。そして、隣りに寝ている夫に聞かれたかもしれないと思うと、澪の背に汗が滲むのだ。
 「霧の夢」は澪が17歳のおりにただ一度だけ契りをかわしてしまった男、葛西笙平に関係している。葛西笙平は澪の生まれ育った三浦家の隣家であり、父・佳右衞門の友人でもあった葛西仙五郎の息子である。澪には幼馴染みであり、かつ仙五郎の急死後、勘定方に出仕していた葛西笙平に澪の父は「澪をお主の嫁にどうか」と冗談のようにして幾度も口にしていたのだ。その笙平が江戸詰めになる直前に、澪は笙平と一度の契りをかわす結果になる。
 江戸屋敷詰めとなった笙平はまもなく江戸藩邸の側用人、岡田五郎助の娘・志津との縁組を勧められる。笙平は志津を娶ることになる。殿の覚えもめでたく、重臣方に一目置かれる岡田五郎助の娘婿となるのである。笙平の将来の出世も噂に上る。
 一方、澪の父は澪と萩蔵太との見合い話を進め、澪は蔵太の許に嫁ぐことになる。婚礼の日が近づいたとき、澪の思いは「一度だけとはいえ笙平と契った身であることに恐れを抱くようになった。生娘でないことに蔵太が気づいて、ふしだらを咎めるのではないかと気持が沈んだ。責められて離縁されれば、世間に恥をさらすことになる。笙平とのことを悔いたが、いまさらどうしょうもなかった」のだ。

 だが萩家に嫁いだ澪は、蔵太との間に一男一女を得て、蔵太の両親とも良い関係を保つ平凡な日々を過ごすことになる。澪が蔵太に嫁いではや12年。寡黙で温厚に見える蔵太は、城下の檜枝道場で心極流剣術を修行し、道場主から10年にひとりの逸物と折り紙がつく腕前なのだという。澪は普段の生活から、蔵太がそんな剣術の達人だとは感じ取れない。蔵太が息子に剣術の手ほどきをすることも未だない。
 そんな澪の日常生活で、かつての笙平への思いは深く沈潜していた。しかし、それが現実の生活、家庭での人々の関係の中での思いの表層に浮上してくる。今や江戸藩邸の側用人に登用されているはずの笙平に似た旅姿の武士を、夫の蔵太の勤めを門前で送り出した直後に見かけたことによる。
 
 澪の母仁江は、華道未生流の手並みを買われ、芳光院様が歌会を催す山荘・雫亭の花を活けてきていた。仁江が腰痛で雫亭に行けないときに、澪が代役を務める。芳光院様の意に適い、澪は雫亭の花活けを任され、雫亭の管理を任されることになる。この作品では、雫亭が物語の舞台となって行く。
 芳光院様とは黒島藩の現藩主の生母であり、藩内で黒瀬家老に物が言えるのはこの人ぐらいだろうと、誰からも思われている人である。

 江戸詰めの葛西笙平がお咎めを受けたという話を澪は蔵太から聞く。澪は実家を訪れ、兄誠一郎から笙平の不祥事の内容を聞く。それは江戸藩邸での賄賂の取得と出入の呉服商の女房を手籠めにしたという不祥事だった。誠一郎はそこに不審な点もあるという。笙平の不祥事は実は濡れ衣ではないかという噂を澪は兄から聞く。黒瀬家老に疎まれて、無実の咎めを受けたのではないかというもの。その黒瀬にこそ出入りの商人との間での黒い噂があるようなのだ。
 その笙平が国許へ送り返されることになる。そしてその帰国の途次に笙平が出奔したという噂が伝わる。

 かつての笙平への純な思いが澪の心中に再燃する。一方、笙平は国許に密かに戻ってきて、大庄屋桑野清兵衛に再嫁した母・香を頼り、己の無実を晴らす助けを得ようとするが、それが不可能なことを知る。そして笙平は澪に会おうとする。二人の再会から急速にストーリーが展開していく。
 笙平が無実の咎を受けていると信じる澪。黒瀬家老の悪の証拠を握っていて、己は無実だと主張する笙平。澪は一計を思いつく。芳光院様に引き合わせることができれば、道が開けるのではないか・・・・と。
 澪を危難に遭わせないために、蔵太は笙平を芳光様に会わせるために手助けするという一歩を踏み出していく。だが、その3人の間には「愛」に関わる3人の関係性が横たわっている。
 「愛」の次元における人々の思いを基盤しながら、黒島藩の政治、藩運営における問題事象と無実の咎という問題の解決への経緯がストーリーとして展開されていく。澪のあずかる山荘・雫亭が舞台となる。郡方で村巡回を主務とする蔵太の加勢がストーリーの展開にリアル感と納得感を加味している。
 
 前半は平凡な日常生活の中に、浮上してきたかつての純な愛の思いに戸惑い、動き始める澪の姿が展開していく。後半は笙平を如何に芳光院に会わせて、問題解決の糸口を作るかという行動プロセスがメインになる。そのプロセスで3人の愛の有り様と思いが絡まっていく。そのプロセスは、澪の「純な愛」の思いが自己分析され、整理され、一つの確信へと止揚していくプロセスでもある。そこにこの作品の読ませどころがある。

 今は蔵太の妻であり一男一女の母である澪に、若き頃の思いを重ねる笙平。笙平に対して、純な思いを抱く一方、蔵太の妻であり母であることとの思い、その相剋に変転する澪。笙平を芳光院に必ず会わせると加勢し、澪を必ず守るという蔵太。この3人の関係性が勿論テーマである。
 笙平の無実を晴らし彼を救いたいという行為に潜む澪の「純な愛」。芳光院への直訴プロセスに加勢する夫・蔵太の澪に対する「純な愛」の有り様への気づきを深めていくことで、澪は己の蔵太に対する「思い、愛」の様相を発見していくことになる。蔵太への澪の愛がピュアなものに還元されていく、それを発見していくプロセスでもある。

 一方、笙平とその妻・志津と澪という3人の関係性。笙平が国許に戻される前に、笙平は志津を離婚していて、その志津はその後、家老黒瀬の許に居るという。笙平、志津、黒瀬の3人の関係性。笙平の母・香が再嫁した大庄屋桑野清兵衛は黒瀬家老と深い関係があるという。笙平、母香、桑野清兵衛の3人の関係性と同時に、笙平、桑野清兵衛、黒瀬の3人の関係性。様々な「3人の関係性」のバリエーションが絡み合っていく。

 芳光院は、一段の高みから、人々の策謀と行動、愛の有り様を眺めつつ、黒島藩の抱える問題解決に関わりを深めていく。黒島藩の政治と運営を正すために。
 副次的に、笙平の母・香の愛の有り様、志津の愛の有り様が浮かび上がって来る。3人それぞれの「愛」への姿勢がそこにはある。

 愛の有り様、思いの相剋の描き方が大変巧みである。その描写にこの作品の興味深いところがある。
 また、読み進むほど、蔵太の人物像に奥行きと広がりが加わっていき、蔵太の有り様、そして蔵太という人間に惹きつけられていく。それがこの作品のおもしろさであり、読み応えになっていくところでもある。
 
 蔵太が笙平に加勢し、澪を守る行動に出た後のある段階で、澪に声をかけた。
 そのメセージを引用しておこう。
 「ひとは誰も様々な思いを抱いて生きておる。そなたの胸にもいろいろな思いがあろう。そなたの心持ちが葛西殿へ通じておるのであれば、心に従って生きるのを止められぬ、とわたしは思った。しかし、そうでないのならば、わたしとともに生きて参ろう。たいしたことはしてやれぬかもしれぬが、危ういおりに、ひとりでは死なせぬ。ともに死ぬことぐらいはできるぞ」  (p195)
 本作品を手にとって詠みたくなる・・・のではなかろうか。 

 作品冒頭の「霧の夢」で澪が男の名を叫ぶ。その名を澪は夫に聞かれたのかと危惧するシーンは最初に述べた。澪は誰の名を叫んだのか・・・・それは、最後に近いステージで、明らかになる。この澪の危惧がどこでどのように明かされるか。乞うご期待というところ。
 屋敷の門の側に蔵太は紫草を植える。なぜそれを植えるのか。その理由を蔵太は娘には語っていた。澪はあるとき、娘からそのわけを聞くことになる。蔵太の植えた紫草を澪は雑草と思い引き抜いてしまっていたときがあるのだった。
 なぜ紫草なのか。そこに著者が語らぬ深い蔵太の深い思いがあったとも読める。この紫草を読みとることも、この作品で大事なところかもしれない。

 作品の最後のシーンで、思わず澪が「紫のにほへる妹を・・・」の和歌を思わず口ずさむ。この場面での会話のやりとりが実にいい。気持ちの良いエンディングである。ほっとし、晴れやかにもなる。この場面を味わっていただきたい。


 ご一読ありがとうございます。


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本作品の背景の和歌関連で少し調べてみた、一覧にしておきたい。温故知新である。
額田王   :ウィキペディア
天智天皇  :ウィキペディア
天武天皇  :ウィキペディア
額田王・恋ものがたり :「京阪奈ぶらり歴史散歩」
蒲生野  :「万葉の旅」
万葉の森 船岡山  :「滋賀県観光情報」
万葉集: 蒲生野(がもうの)を詠んだ歌  :「楽しい万葉集」

ムラサキ  :ウィキペディア
紫草(ムラサキクサ)とは  :「紫草の里 紫草のページ」
紫草(むらさき)を詠んだ歌  :「楽しい万葉集」


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。


『山桜記』 文藝春秋
『潮鳴り』 祥伝社
『実朝の首』 角川文庫

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新2版





『<オールカラー版> 日本画を描く悦び』  千住博  光文社新書

2014-07-09 08:50:46 | レビュー
 「芸術とは、煎じ詰めれば心を持つ生命体の情報交換のことです・・・・芸術とは生命のイマジネーションのコミュニケーションであり、美とは生きる本能的な感性なのです」(p61)と著者は記す。人文学だけでなく諸科学領域にまたがる多角的な山だという。著者はレオナルド・ダ・ヴィンチをその典型的な具現者として挙げている。そして、小学生の時に人生を左右する重要な芸術作品との出合いが、手塚治虫の「火の鳥」というマンガにあったという。そこに「生命のイマジネーションのコミュニケーション」を感じ取ったようだ。
 
 「まえがき」で、冒頭の著者が芸術を定義している文と判断するものを、つぎのように述べている。何かを見て描写することではなく、見たものを「自分の言葉へと変換し、噛み砕いて、自分の理解の仕方に落とし込んでいくという感じ」であり、「自分なりの世界観、ストーリーとして再構成して描くのです」と。だからこそ、普通によく名作と言われる油絵などには小学生の頃から拒絶反応したという。小学生時代から「特別の苦労をしなくても、ある程度上手いものが絵が描けてしまう」と自己評価する著者が、絵の道に進むとは考えていなかったと言うのだから、面白い。その著者にとり、高校時代にグラフィックデザインの世界との出合いが己の考えを打ち砕く衝撃的なものとなったと回顧している。図画の教科書に載る泰西名画とは別世界の存在への驚愕だったという。
 そこから始まる「美の世界」「芸術」というものについての著者の遍歴体験と芸術観を語っていくエッセイを集めた新書である。
 
 このエッセイ集を読み、興味深くおもしろいと感じた観点をまずご紹介しておこう。
・「今から約137年前、私たちのこの宇宙は・・・」というところから始まるおもしろさ。
・日本画に関心が無かった著者が日本画の展覧会に行き、「岩絵の具」に惹きつけられたことから、日本画を描くに至ったという美の探究遍歴が語られている点。
・著者の感性、芸術観をでんと据えて、洋の東西を問わず様々なアートを事例を挙げながら論じている点のおもしろさ。それらの美の世界との著者のコミュニケーションの語りが興味深い。
 著者の取り上げた芸術家や領域を順に列挙しておく:グラフィックデザインの世界、日本画黄金期の作品(那智瀧図、信貴山縁起絵巻、源氏物語絵巻、伝源頼朝像)、氷河期の洞窟壁画、葛飾北斎、ドガ、モネ、ポップ・アートの作品群、伊藤若冲、マルセル・デュシャン、ピカソ、ヘンリー・ムーア、横山大観、クリストとジャンヌ=クロードの作品、Ice Age art、ジェームズ・タレル、工藤甲人、ポール・デルヴォー、ルネ・マグリッド、ムンク、狩野永徳、尾形光琳など。実に時空間の広がりと美の広がりが多彩である。
・著者の作品が創出された背景、普段はあまり語られない裏話が様々に語られている。それが逆に「千住博」の作品を知るのに役立つ点。
 特に大徳寺聚光院の襖絵制作に関わる著者の背景語りが圧巻である。
 「私は、狩野永徳という天才が描いた襖絵と、自分が依頼された大書院の襖絵が、廊下一本を隔てただけで接することの重圧に長い間苦しんできました」(p170)、「永徳を無視する、というより無関心になって初めて、私は再び日本画自体と向き合い、この襖絵は本当の意味で動き出すことができたと感じています」(p176)この2つの文の架橋プロセスが読みどころである。

 大徳寺聚光院の建物の中で、廊下1つを隔てた狩野永徳と千住博の両襖絵を拝見できる機会がないだろうか・・・・。
 
 最後に、エッセイから惹きつけられる印象深い文をいくつか引用しておこう。
 他にも引用したいものは・・・・数多い。ご一読いただき、あなた自身が惹きつけられる文を発見してほしい。

*日本画の技法は太古からの人類の進化のプロセスと人類の文明、日本の風土を今に伝えているものなのです。この技法が生き残ったのは、組み合わせとしての安定感が他のすべての技法と比べて抜群だったからにほかなりません。  p21

*大切なのは、岩絵の具を用いて絵を描いているのは、太古の昔も今も変わらぬ同じ人間なのだということです。・・・・私が惹きつけられた岩絵の具への思いは、どうやらDNAの奥深くに眠っていたこれらの太古からの記憶だったに違いありません。そして紙を見て、膠を知ると、私は私自身の中に眠る人間文化の歩みに触れる思いがするのです。p23-24

*私の考える日本画の黄金期は今から約1000年前から約800年前くらいの、平安時代から鎌倉時代に至る数百年の間の日本画誕生の日々にあるからです。 p25

*絵を描くということは、頭を整理することです。デッサンとは、どこまでを描いたかではなく、どこまでを見たかということです。幼稚園児たちが絵を描くのは、描写力を身につけるためではなく、観察力を身につけるためです。  p32

*マンガばかり読んでいる子は、マンガ家にはなりません。マンガ家になる子は、幼稚園の頃からマンガばかり描いている子です。・・・・小説家になる子は、高校生くらいから文章らしきものを書いている子です。音楽ばかり聴いている子も演奏家にはなりません。演奏家になる子は、3歳くらいから必死で練習している子です。   p34

*私に関心があったのは、常に現在形の、自分の足もとでした。
 しかし、この考え方は近代以降の画家に共通した感性です。”現在形”を感じ取ることのできる感性を持っている人々によって、近代の絵画は塗りかえられていったのです。p35

*その時その時に一番惹きつけられるものを描くこと--、それが、私のモチーフ選びの基本でした。将来はあれを描きたいけど、今は我慢してこれを描く、という発想は私にはあり得ないことです。それが、芸術家として今を生きるということだと思います。 p38

*優れた芸術が生まれるには、規則正しい生活が必要だと私は思っています。しかし、それは極端である必要はなく、何事も自然に、ということが大切です。  p45

*ヘンリー・ムーアは、「石の中に彫刻が埋もれている。私はそれを掘り出すのだ」と言っています。 ・・・・・・
 ヘンリー・ムーアが埋もれた像を掘り出す心境というものは、心の中に明確なビジョンを持ち、確立した哲学を持ち、かつ素材に対して謙虚に、この場合は石との共同作業で、埋もれている美を彫り出したいと願う心の表れということです。 p57-60

*私にとって、スランプは常態です。そして、制作がうまくいかない、作品が自分の思うようにならないと悩むのが芸術家の日常です。  p75

*買ってでも努力する人が、才能のある人の生き方です。  p82

*本人が心から信じていること、しかし不幸にして他人から見れば空想や妄想に見える場合もあるにせよ、そのようなものこそが実は絵になるのでは、と思っています。 p120


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いくつかネット検索してみた、一覧にしておきたい。

千住博  :ウィキペディア
聚光院  :ウィキペディア
狩野永徳 :ウィキペディア
  聚光院方丈障壁画のうち花鳥図が載っています。

軽井沢千住博美術館 ホームページ
  展示作品の紹介ページはこちらから。
 
千住博 作品一覧  :「おいだ美術」


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『対話型講義 原発と正義』 小林正弥  光文社新書

2014-07-05 10:28:56 | レビュー
 マイケル・サンデル教授による「ハーバード白熱教室」の「対話型講義」スタイルは新鮮でかつ知的興奮を誘発する印象深いものだった。2010年に日本で大旋風が巻き起こって早くも4年。特集番組もあり、出版物もいくつか既にある。本書の著者はマイケル・サンデル教授との交流が深く、彼の解説者でもあり、共著者でもある。
 その著者がマイケル・サンデル流の「対話型講義」を様々なテーマで実践してきているという。本書は「福島第一原子力発電所の事故によって明るみになった問題群をめぐり、多くの参加者と行った記録をもとにして」いるものである。あの3.11のすぐ後ともいえる2011.4.21~9.4の期間に、連続的に7回にわたって行った対話型講義がベースになっているという。

 3.11での原発事故以降、原発事故と原子力の事実を知るために様々な著書を読み継いできている。研究者、ジャーナリスト、被災体験者など様々な著者の本と報告書などである。それらは勿論対立意見・主義を踏まえながらも、著者の立場・視点で主張され、論証、考察あるいは思索されている本である。各種の本を読み継いできた上で、本書に新鮮さと驚きを感じた。
 というのは、3.11から1ヵ月余の時点から半年間という時期に、これだけ「原発と正義」について、論ずべき論点が既に提示されていたのかという驚き。そしてその一方で、正義を論じる上で、どんなパースペクティヴでまずとらえていく必要があるかを、広く深く考える良きガイドブックになるという新鮮さである。事実を真にとらえていくにあたり偏倚しない目を培うことの重要性を喚起する書であると言える。

 実際の対話型講義は、多分本書にまとめられたほどには理路整然とスマートに対話がなされていたわけではないだろう。なにがしかの感情も伴ったリアルな白熱感や紆余曲折感(?)は少し冷めざるをえないし、多少の整理がないと活字化した場合に読みづらいことだろう。「本書でも、参加者が実際に繰り広げた議論をもとにしながら、哲学的な議論を明確にするために私が発言内容に加筆修正したり、当日にはなかった発言を付け加えたりしました」と明記されていることからも、そう推測できる。その結果、「対話」の持つ意義と効果及びその必要性がより明瞭に感じとれる仕上がりになっていると思う。
 本書の利点は「今後、原発をめぐっては、広範な国民的対話を進めていく必要があります」と著者が「はじめに」に記す意味、「対話」の有り様のサンプルがここに提示されたことだ。この「対話型講義」の内容をさらに掘り下げ、視点をさらに広げ、広範な人々の関心を感じしていくことでこそ、国民にとっての「正義」が見え始めてくる気がする。

 脇道にそれるが、この対話型講義の思想から考えると、集団的自衛権の強引な閣議決定というあの突っ走り方は、真逆に近いものではないか。国民にとっての「正義」を隅に押しやって、なし崩しに押し進めようとする発想が罷り通っている気がしてならない。それは、まさに原子力発電の導入プロセスと近似の発想パターンではないか。同じ轍を踏んではならないと思う。

 まず、講義の構成をご紹介しておこう。
第1講 正義論と公共哲学
第2講 これからのエネルギーの話をしよう
第3講 暴走する原発  - 功利主義 対 生命の尊厳
第4講 東京電力をそうするか? - リバタリアニズム 対 公共性
第5講 原発は正義か、不正義か? - リベラリズムとコミュニタリアニズム
最後に、「おわろりに」として「総括:原発問題と正義、そして友愛」の文が載る。

 もともとの対話型講義が「公共哲学ダイアローグ Justice & Peace - 東日本大震災と正義シリーズ」というテーマだったそうだ。そのために原発における正義論を論じる上で、公共哲学をベースとして対話を進めていく展開になっている。
 第1講がまずその基礎概念づくりのものである。私は本書を読み始めて「公共哲学」という概念を知り、この点でも新鮮かつ得るところがあった。著者は「英語圏では公共哲学とは、主として公共的な哲学、つまり人々に広く共有されて行為や政策の指針となる考え方を指します」と述べる。つまり、「わかりやすくて実践的な意味をもつ思想」であり、公共哲学の方法論として「対話」が求められるのだと言う。対話を通じて考えを深めていくプロセスに意義があるのだ。

 著者は今後の日本のあり方を考えるために、「公」と「公共」を区別し使い分けていく必要性を提案している。これにはなるほどと思い、賛同したい視点である。「公≒国家≒官」(”お上”のイメージ)と「人々が水平的に同じ立場で議論し、決定していくという意味合い」で「公共」という言葉を使おうという。英語の「パブリック」(public)に相当する言葉としての使用である。つまり、「公」「公共」「私」という三元論的視点を取って、対話していこうという立場である。「お上」依存、「お上」まかせ的な体質・風土からの離陸が提唱されている。過去の原子力導入・推進が展開した背景には、結果的に「公」依存体質があったことを否定できないだろう。

 著者は公共哲学のベースとなる考え方の枠組みをここでは4つに整理して提示している。この考え方が対話整理の枠組み的考え方として利用されている。こういうフレームワークをまず押さえておくことの必要性と意味を整理して理解できたのが私にはプラスとなった。著者の整理では、次の4つの概念となる。詳細は本書でご理解願いたい。
功利主義: ベンサムから始まりジョン・スチュアート・ミルが修正し、さらに発展
  社会全体の幸福量を数量化し、その幸福の最大化が正義とする考え方。
リベラリズム: カントが定式化した義務論的考え方が源流であり、人権の考え方が発展  「いかなる場合も無条件に~しなければならない」、人権の擁護と義務・権利論
   ハーバード大学の哲学者ジョン・ローズがリベラリズムの正義論を提示する。
  過度の不平等を認めず、一定の福祉を正当化する。「平等な基本的自由の原理」と
  「格差原理」(最も恵まれない人に便益のある格差のみ是認)→「正義の二原理」
リバタリアニズム(自由原理主義): 哲学者ロバート・ノージックが提起した考え方
  自己所有の観念を基礎とし、身体労働で得た成果はその人のものと主張。
  弱者救済のための国家による強制課税は不正義と論じ、最小限国家論を展開
コミュニタリアニズム: サンデル教授の考え方。リベラリズムを批判する考え。
  「善き生」(倫理性、精神性、美徳)を政治や公共的問題において重視する。
  「共に何かをする」という”共”の考え方を重視する。
   政治にとり「共通善」の実現を重要な目的と考える。

 第2講では、エネルギーの近未来、長期展望について、様々なエネルギー源のデータを駆使して、それらの個別資源総量、存在及び想定するリスク、科学技術的展望を論じている。様々な視点で対話を重ねていく重要性が浮かび上がる。勿論問題点も。

 第3講は暴走する原発について対話する上で、功利主義の考え方と生命の尊厳重視の対立が前面に出てくる。シナリオ分析によるジレンマの洗い出し、費用便益分析、安全対策コストと事故のリスク、汚水処理問題のとらえ方、リスク確率の考え方、民間企業主導と市場原理の限界、政策的設定の基準などに対話が及んでいく。

 第4講は東京電力の存在についての熱い論議である。リバタリアニズムと公共性が対立の前面に出てくる。体制、コスト、公共性がどう絡まり合っていくかが見えてくる。勿論簡単に結論が出る論議ではない。しかし、対話のための整理軸がこの対話型講義から見えてくる。

 第5講は原発が正義か不正義かを論議している。「正義」とは何か? どうとらえるべきなのか? そこから、同じ土俵に上がることから、始めねばならない問題である、まさに公共哲学の必要な局面である。一方的に「正義」「不正義」を見ているだけではなかったか、というような自己レビューを迫る側面が含まれているように思う。ここでは、やはり、リベラリズムとコミュニタリアニズムの対立が前面にでてくる。考え方について大いに触発される講義でもある。
 ここでは本書のこの講義の対話の展開をまずは読まれることをお奨めしたい。


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本書関連での関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
マイケル・サンデル  :ウィキペディア
共同体主義  :ウィキペディア
現代コミュニタリアニズム入門  菊池理夫氏(三重中京大学大学院教授)
自由主義(リベラリズム) :ウィキペディア
リバタリアニズム  :ウィキペディア
共同体主義(コミュニタリアニズム) 関連書籍など

ハーバード白熱教室 講義一覧  NHK

エネルギー白書 :「資源エネルギー疔」
世界自然エネルギー未来白書 :「環境エネルギー政策研究所」
自然エネルギー白書2012   :「環境エネルギー政策研究所」
自然エネルギー白書(風力編) :「日本風力発電協会」

我が国の電力事業の歴史的経緯  電力総連
歴史的変化から見た電力会社の発展と、マネジメントで生じた蹉跌 石川貴善氏

電力システム改革をめぐる経緯と議論  野口貴弘氏 
  :国立国会図書館調査及び立法考査局
電力のコスト計算方式 :「よくわかる原子力」(原子力教育を考える会)
原発のコスト問題 大島堅一氏 (立命館大学国際関係学部)
大島堅一・立命館大学教授に聞く :「農業協同組合新聞」
 「原発は安い」は破綻! 増え続ける使用済み核燃料再処理費用
原子力発電と地震   :「よくわかる原子力」(原子力教育を考える会)

IWJ Independent Web Journal オープンコンテンツ記事一覧ページ

放射性廃棄物 :ウィキペディア
核燃料は「リサイクル」できる?:「よくわかる原子力」(原子力教育を考える会)  
放射性廃棄物の問題  :「平川燃料機器有限会社」
未来のエネルギー(3)「核廃棄物の問題」 竹本信雄氏


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今までに以下の原発事故関連書籍の読後印象を掲載しています。
読んでいただけると、うれしいです。

『原発メルトダウンへの道』 NHK ETV特集取材班  新潮社
『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1』 東浩紀編 genron
『原発ホワイトアウト』 若杉 洌  講談社  ←付記:小説・フィクション
『原発クライシス』 高嶋哲夫  集英社文庫 ←付記:小説・フィクション

原発事故及び被曝に関連した著作の読書印象記掲載一覧 (更新2版)


『孤鷹の天』  澤田瞳子   徳間書店

2014-07-01 10:32:10 | レビュー
 聖武天皇から皇位を継いだ孝謙天皇(在位749~748)の時代、光明皇太后の権威と結びついた藤原仲麻呂は天平宝宇3年(759)に太師(太政大臣)の地位に昇りつめる。「恵美押勝」の美称を賜り、55歳にして人臣として最高位の官職に就く。
 その少し前、757年に仲麻呂の専権に対立する政敵は「橘奈良麻呂の乱」にて敗れ、一掃されている。758年に、仲麻呂の亡き長男の嫁を今は妻とする大炊王が、仲麻呂に擁立されて即位する。淳仁天皇(在位758~764)である。孝謙天皇は孝謙太上天皇となる。
 本作品はこの頃から書き出される。平城京を都とする時代は、まず聖武天皇が仏教のもつ鎮護国家の思想により国家の平和と安定を計ろうとし、一方政治的には律令国家体制を形成する時期だった。優秀な官僚群を大学寮で養成し、国家運営の礎を築きつつあった時期である。だが、そこに孝謙太上天皇(以下、阿倍上皇/阿倍帝という)が道鏡を寵愛しはじめ、仏教政治色を介入させていく。それは、恵美押勝・大炊帝と対立する動きである。そして阿倍上皇と大炊帝が政事を二分するという前代未聞の状況に至る。光明皇太后の崩御は押勝の孤立化に繋がり、彼の政治的立場が弱くなる。それが恵美押勝の乱に進展し押勝の敗死、没落となっていく。大炊帝は皇位を廃され淡路島配流の憂き目に遭う。孝謙太上天皇が再び即位し称徳天皇(在位764~770)つまり阿倍帝に返り咲き、ますます道鏡一辺倒になる。彼女が崩御する少し前までをこの作品は描いていく。
 こんな時代背景のもとに、上掲の人達を含め、その周辺に様々な人物が登場し、関わり合っていく。それら登場人物が二分される政治的確執の中で、個人の欲望あるいは国家の行く末を思い描き、それぞれに己の生き様を選び取っていくことになる。本書は、その一群の人々の生き様を時代の奔流に巻き込みあるいはそれを助長させる過程の中で描き込み、織りなして行った作品である。

 手許にある『検定不合格 日本史』(家永三郎著・三一書房)は、この時代を以下のように簡略に記す。
「そ(=藤原不比等)の娘光明子は聖武天皇の皇后となった。孝謙天皇・淳仁天皇の時には、不比等の孫仲麻呂(恵美押勝の名を賜っている)が権勢をふるった。称徳天皇(孝徳天皇が再び位についた)の時、僧道鏡が天皇の寵愛を受けて勢いをほしいいままにし、太政大臣から法王の位に上り、ついに皇位につこうとまでしたが、藤原百川らは和気清麻呂を助けて、この企てを失敗させた」(p36)。また「仲麻呂は、道鏡と対立し、764年(天平宝宇8年)兵をあげて敗れ、殺された」と脚注に記す。
 この短文に凝縮された時代が、実はどのようなものだったのか。人々はそれぞれの地位・立場で何を思い、何をなしたのか。その行動がその時代にどうかかわることになったのか。著者はこの時代へのイメージ・想像力を駆使し、リアル感のある作品を創作している。この作品は、阿倍上皇の意志が全面に出て主導し、極端にいえば己の気儘な思いを政治に反映させて行こうとした視点で描かれている。道鏡を寵愛し、道鏡に良かれと独走した女性として描かれている。
 この一節がその視点であろう。「もともと彼女が道鏡を必要以上に寵愛したのは、自分を一顧だにしない押勝へのあてつけの意味が強かった。四十を超えようが、女は女である。それで彼が反省し、再び自分に忠誠を誓うなら、これまでの不埒は水に流してやらぬでもないとの女心が、たまたま手近にいた道鏡を引き入れさせたのである」と。(p138)
 僧道鏡はどちらかというと阿倍上皇の意に沿う形で付き従った人物であり、寵愛を受けたことで「勢いをほしいままにした」という権勢欲望旺盛な怪僧というイメージではない。そこに著者の阿倍上皇・道鏡観が出ていると思う。また本作品は道鏡が太政大臣の地位を得、阿倍帝が道鏡に法王位を授けたい思いを抱く段階までで区切りを付けている。家永氏との対比で言えば、著者は阿倍上皇その人と押勝の対立として描いている。このあたりが、ちょっと新鮮でもあり興味深い。というのは道鏡=権勢欲のたぎった人物=女たらし、というステレオタイプなイメージを抱いたままで、この作品を読んだせいでもある。

 この作品の読後印象は、一言で言えば諸人物の多面体構成による時代空間の創造ということができる気がする。様々な登場人物が時代と関わり、己の抱く「義」や「信条・思い」で行動していく。このストーリーのプロセスでそれぞれの人物が行動する局面が克明に描かれる中で、その局面での主人公となる。角度を少しずつ変えながら、次の局面が順次描き込まれていく。その局面の累積が他の局面と照応しながら繋がり、総体としての多面体を徐々に構成して行く。それら一群の人々が接点を共有し、相互に関わり合いを深め、強度を増した構造空間を浮かび上がらせていく。そこに登場人物のそれぞれの生き様が織りなされ、時代空間と時代の潮流が浮かび上がってくる。
 部厚い歴史教科書の中の何となく読み過ごしそうなひからびた歴史記述の数行が、この作品ではこだわりのあるリアルな人間物語に膨らんでいく。

 鷹師に調教された鷹が足革と太緒を外されて、疾く去れと鷹師から言われる。鷹はすぐには鷹師の軛(くびき)を離れて自由に飛翔することができない。鷹師は鷹に石を投げつけて去れと言う。死を覚悟する鷹師は鷹が戦の渦中に巻き込まれないように苦渋の思いを抱きながら、鷹を手放すのである。遂に鷹は己の空に飛び去っていく。鷹は天空へ、孤に戻って行く。そんなシーンが最終段階で描き込まれている。
 この作品、主な登場人物のそれぞれが、結果的に「孤鷹」なのである。それぞれの思い、信条、義に立ち、生き様を選び行動していく。己が時代と関わるために、孤鷹としての道を歩むしかないのである。時代(天)がテーマとなる作品として受け止めた。その中でどんな生き様を選択する立場(孤)をとるか。どの立場も「孤鷹」となる選択である。いずこに飛翔するにしても、それが己の道なのだ。
 あなたなら、どうします? そんな問いかけが残る作品だ。あらためて、8世紀、奈良時代に関心が湧いてきた。

時代空間としての多面体を構成する主な登場人物に簡単に触れておきたい。

恵美押勝 太師(太政大臣)として権勢をふるう人。大学寮の支援者だが意図は不純。
  阿倍上皇と対立し、光明皇太后の崩御の後、孤立化し反乱の道に踏み込んで行く。
阿倍上皇 道鏡を寵愛して、道鏡よかれと彼の地位向上に尽くす。仏教政治色に向かう
  皇位を譲った大炊帝と押勝の政治に対立する。気儘な発想での政治介入を続ける。
  律令体制の形成を掻き乱していく張本人。阿倍帝に復帰して一層問題が増強する。
  大学寮の廃止を主張。仏教の普及を図り、儒学を廃そうという考えの持ち主。
大炊王  淳仁天皇。皇位に就いたことに対し、押勝に恩義を感じる人。
  大学寮には暖かい目を向けている。阿倍上皇と押勝の板挟みで苦慮する。
  阿倍上皇により、淡路島に配流される境遇に落ちる。
  押勝亡き後、押勝派残党に担がれて行く立場となる。その道を自ら選択して行く。
道鏡 本書では寵愛に甘んじるだけの気弱な僧として描かれているように思う。
  主体性はなく、阿倍上皇の意に沿う人。眷属の人々が流れを作っていくようだ。
高向斐麻呂 藤原広子の召使い。大学寮の学生としての道を歩み始める。
  主目的は遣唐使の随員に選ばれ、広子の父・藤原清河を唐に迎えに行くこと。
  時代の奔流の中で、大学寮存続問題、大学寮での友人との繋がりなどで苦闘する。
  ある事件が契機に、出奔する羽目に。そして波乱万丈の転変を経ることに。
  斐麻呂が多面体の各局面をリンクさせる中心になっているのは間違いがない。
藤原広子 難破と唐の政治情勢で帰国できない遣唐大使の父・清河の帰国を待つ。
  宮廷に出仕する選択をし、反恵美派と見られながら、独自路線を選択して行く。
  斐麻呂のサポーター的な役割を担い、時代の変転を独自の目でとらえていく女性。
赤土(紀益麻呂)良民身分から手違いで紀寺のに登録されてに落とされる。
  文字を密かに学ぶべく大学寮に忍び込んだが、斐麻呂に発見されて関わりをもつ。
  斐麻呂とその仲間から文字を教わる過程で、かれらとの人間関係が深まっていく。
  良民だとの主張が、阿倍上皇派の耳にとまり、政策的に利用され、良民に復帰。
  阿倍上皇の側で官吏として役割を担うが、独自の価値観で様々な行動を展開する。
  古代、日本にも奴隷が存在したという事実とその有り様を再認識した。
桑原雄依 大学寮・明経科のトップクラスの学生。斐麻呂の指導者となる。6歳年長。
  大学寮先輩に見込まれて、その人の下で官吏となり活躍する。
  しかし、先輩高比良麻呂の生き様に裏切りを感じ、己の義に殉じて行く。
  斐麻呂に重要な影響を与えて行く人物。時代転換のキーパーソンの一人にもなる。
佐伯上信 斐麻呂の大先輩の学生。桑原雄依の親友。斐麻呂より5歳年長。
  明経科の儒学理念のエッセンスだけ体得する熱血漢的存在。恵美押勝派に加担。
  弓は優秀だが落第生的存在。ある時点で官から出奔。押勝の敗死後大炊王の下に。
李光庭 斐麻呂と同室になる算生。算師(計算の専門家)となるべく学ぶ学生。
  算科出身者として、技術職で生きていく。大学寮問題とは一線を画す。
  時代の政治的立場を回避することで、逆に斐麻呂などの生き方に負い目を感じる。
  斐麻呂や赤土などには、常に協力者であろうとする。己を日和見主義者と卑下する
巨勢嶋村 大学寮の直講。明経科(儒学科)の最下位教官。学生関係の雑務を担当。
  大学寮のあり方、存続に熱意を持ち、国家のための大学寮を真摯に考える教官。
  悩みつつ、学生それぞれの判断と行動を尊重する。彼にとり学生は子の如きもの。
  大学寮の廃止に伴い、儒学に関わる独自の生き方を選択していく。
張弓 大学寮所属の官の束ね。の立場から斐麻呂達を眺め、協力していく。
  の立場を前提に、己の信念と判断で学生たちとの関わりを深める。
高丘比良麻呂 大学寮出身の超エリート。大外記の職にあり、政策を立案・運営する。
  押勝のブレーンとして采配を揮う高級官僚であるが、押勝の反乱を察するや豹変。
  阿倍上皇側に寝返る形になる。太政官史生の桑原雄依は激怒し、決断するに至る。
  雄依は、比良麻呂の論文を読み敬服私淑し、比良麻呂の引きで彼の下で官吏となる
  比良麻呂の視点・価値観と信念は権力者の派閥を超えた国政運営の理念にあった。
磯部王 大学寮の万年学生の立場に甘んじ、女たらしで日々を過ごす貴族。
  長屋王の変で、父に殉じて自害した次男・桑田王の子であり、長屋王の孫にあたる
  彼は現政権から見れば、一種の要警戒人物。それを踏まえた独特の処世術なのだ。
  時折、本心を覗かせ、時代の読みを斐麻呂に教え、陰で彼を助ける人となる。
益女 赤土の妹。赤土が良民に戻る前に、あることから一足早く良民になる。
  赤土とある事件を契機に深い溝ができ対立する形になった斐麻呂は益女を訪ねる。
  度重なる内に、益女と斐麻呂の間に男女の関係が生じていく。
  このことが、思わぬ結末へとつながっていく。

 「そうとしか生きようのない人生がある」という歌詞をふと思い出した。ほかにも、藤原永手、吉備真備、白壁王、山部王、山於皇女、甘南備野、弓削浄人、三上牟呂緒、賀陽豊年などがそれぞれ、ところどころで己の定めた役割を担っていく。これらの人々にもその立場立場の設定に関心をそそられる側面がある。これらの人々を含めて、己の信念と意志でそれぞれが、その時代状況の中で、そうとしか生きようのない己の人生に突き進んでいく。
 史実の空隙に数多くの人物が創造され、その人々が実在の人物と深く関わり合っていく。歴史の闇に光があてられ、さもリアルな様相を帯びていくところが、歴史物語創作の醍醐味なのだろう。勿論そこには様々な歴史上の実在人物の一面を投影し、仮託・内包させてもいるのだろうが・・・・。
 この状況に投げ込まれていたら、あなたはどの生き方ですか? なぜですか? という問いが潜められている思いがする。
 時代背景、その制約の中で、人はそれぞれの人生を歩む。天空において人はそれぞれ孤鷹なのだろう。


 ご一読ありがとうございます。


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本作品の時代背景と関連事項を少し検索してみた。一覧にしておきたい。

系図 天皇家・橘氏・藤原氏  :「やまとうた」
  サイト・ページの一番下の系図
孝謙天皇  :ウィキペディア
淳仁天皇  :ウィキペディア
淳仁天皇陵 淡路陵  :「天皇陵」
【第47代淳仁天皇(じゅんにん)天皇】 :「邪馬台国大研究」
藤原仲麻呂 :ウィキペディア
橘奈良麻呂の乱 :ウィキペディア
恵美押勝の乱 → 藤原仲麻呂の乱 :ウィキペディア

道鏡 :ウィキペディア
道鏡 :「やまとうた」
弓削道鏡の汚名を晴らす  :「石井行政書士事務所」
  前半
  後半
弓削道鏡  :「八尾市立図書館」
道鏡 坂口安吾 :「青空文庫」

藤原清河 :ウィキペディア
藤原永手 :ウィキペディア
吉備真備 :ウィキペディア
弓削浄人 :ウィキペディア

日本の官制 :ウィキペディア
二官八省  世界大百科事典 第2版の解説 :「コトバンク」
大学寮  :ウィキペディア

保良宮 :ウィキペディア
光明宗法華寺 ホームページ
称徳天皇行宮跡   :「貴志の里<歴史散策>」


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