遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『おれは清麿』 山本兼一 祥伝社

2013-04-05 16:47:07 | レビュー
 刀剣商ちょうじ屋光三郎に関わる重要な人物がやっと採りあげられた。刀匠・清麿その人である。
 『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』が「小説現代」に連載されたのが2009年6月号~2010年6月号だったと、単行本(2011年9月刊)の末尾に記されている。本単行本の出版が2012年3月であり、「小説NON」に連載されたのが、2010年3月号~2011年9月号と末尾に記されている。つまり、本書の構想時期は不明だが、『黄金の太刀』の脱稿前頃から本作品が歩み出したようだ。読者にとっては、清麿の正体が解き明かされるのはうれしい限りである。光三郎の背景にいた師匠がやっと前面に出てきたのだ。

 刀剣商ちょうじ屋光三郎の作品2冊、『狂い咲き正宗』と『黄金の太刀』を読んでいるとき、光三郎の師匠としての清麿自身に興味を抱いていたが、あまり調べてみようとはしなかった。本書を読み、清麿のユニークさに思わず引き込まれて行った。本書を読んでから、一層この清麿に関心が湧いてきた。
 信濃国小諸藩領赤岩村(現在の東御市)の郷士で村役人をつとめる山浦家の二人兄弟の弟として生を受けたのが、清麿である。山浦環が実名で実在する人物だった。己の納得がいく仕上がりの刀に刻んだ銘が、「山浦正行」であり「源清麿」である。人生最後のステージで刀銘を「清麿」にしたようだ。

 本書は、17歳の時に、小烏丸と名づけた指ほどに小さな両刃の刀を独力で仕上げる場面から始まり、その小烏丸を己の右脇腹の瘤をねらって突き刺して死ぬまでの人生を扱った伝記小説である。鍛刀一筋の人生を歩み、独力独歩、己一人の創意工夫で、「破邪顕正」の力が湧き上がる刀を鍛えたいと願った男の物語。ウィキペディアで「源清麿」の項を読み、「文化10年3月6日(1813年4月6日) - 嘉永7年11月14日(1855年1月2日)」という期間に生きた人物、つまり幕末に活躍した刀工であることを確認できた。
 著者が史実の中に、どこまでフィクションを織り交ぜて清麿という人物像を描き出したのかは知らない。本書の清麿の波瀾万丈の生き様、「破邪顕正」の刀を鍛える一途の人生譚を一気に読んだ。破格な人物だったのはまちがいなさそうである。

 清麿が独力独歩、創意工夫で己の刀を創り出して行くのだが、彼の人生の結末から考えると、やはり清麿の目標達成を理解し、それを可能にしていく支えとなった人々が存在したのだということがわかる。
 清麿の人生ステージにおいて、様々な人々が関わって行く。清麿の人生ステージを大きく捕らえると、大凡6つの活動期に区分出来そうである。
 1)信濃国赤岩村活動期・実家の鍛冶場   2)海津城下活動期・山口善近の鍛冶場
 3)江戸窪田屋敷活動期・屋敷内の鍛冶場  4)萩城下活動期・玉井直清の鍛冶場
 5)小諸城下活動期・山本邸の鍛冶場    6)江戸・四谷活動期・己の鍛冶場
 なぜ、これほど転転としたのか。そこには、一所定住が己の創作に制限を課すと感じ始める衝動が清麿を突き動かして行ったのではないかと思う。著者はこの変転する生き方を描き出していく。

 1)信濃国赤岩村活動期  「一 小烏丸」「二 志津」
 正行の基礎作り期。村役人を勤め、屋敷に建てた鍛冶場で鍛刀を自ら行い、その研究に余念のない兄・真雄(実名・昇)から刀鍛冶の手ほどきを受ける。鍛冶の基本は兄の真雄から学んだことになる。真雄自身は当代随一の名工水心子に鍛刀を学び、上田藩の藩工河村寿に入門し、作刀を学んでいる。
 その兄が描き移してきた絵が小烏丸である。わずかに余った刃鉄と心鉄を兄にもらったことから、独力で指ほどに小さい刀を仕上げる。それが正行自作の最初の刀である。兄はその出来具合に驚き、弟を褒める。「おまえは腕の力が強いうえに器用だ。精進すれば、刀鍛冶として名を上げられるだろう」兄の指導と励ましが、正行の人生を決定づけたのではないか。その証が小烏丸の出来栄えなのだ。ここに正行(清麿)の生涯の原点がある。小烏丸に「信濃国 正行」と隷書で銘切りする。
 「正行と自分で名付けたのは、どうせ刀を打つなら、相州鎌倉の名工正宗や行光を超えるほどの刀をうちたいからだ」(p22)と。
 正行は、大石村の村役人・長岡家の婿養子となり、つると世帯を構えて長男梅作を得る。だが安定した生活を己の制約と感じ始める。
 一方、藩お抱え工の話が出るが横槍が入り話が流れる。それが、一度江戸の窪田清音の屋敷を訪ね、刀剣のことを学ぶ機会に繋がる。

 2)海津城下活動期  「三 海津城」
 正行が江戸から戻ったのは、松代藩海津城下の藩お抱え鍛冶水田国重の鍛冶場で鍛刀する紹介を受けたことによる。だが国重の鍛冶場を訪ねた正行はそこを去り、山口善近の鍛冶場を借りて、己の思う刀の鍛刀に歩み始める。なぜ、去る判断をしたのか。それは正行の生き様にも関わる。
 ここでは、父亡き後、国重の鍛冶場に弟子入りしていた善近の息子善治郎が正行の弟子になる。善治郎の母親が、鍛冶場を貸すことで支援する。子供ができないことで離縁された善治郎の姉・きぬが関わりをもってくる。
 正行は天保4年の年記銘を刻んだ「窪田清音佩刀」を打つことができる。
 天保6年(1835)8月、23歳で江戸に去る。

 3)江戸窪田屋敷活動期  「四 愛染」「五 武器講」
 窪田清音の提案で、窪田の屋敷に鍛冶場を建てる。清音は言う。「おまえがこの屋敷で鍛刀するなら、わしも武家打ちができる」と。当初、清音が鍛冶場準備の支援者となってくれたことが、正行が刀鍛冶としての腕を磨き、腕を振るう土台になったのだろう。
 そして、清音は「武器講」というアイデアまで出してくれるのだ。しかし、これが一方で正行の刀鍛冶の制約にもなっていく。
 また、別の局面では、清音の所蔵する秀逸な刀剣類を正行が観る機会を繰り返し持てたことだろう。清音に正行が試される一方で、鍛刀・作刀のためのいわばデータベースにもなっていくのだ。
 もう一つ、正行の人生を左右することになるのは、清音の屋敷に下働きとして勤めている女中・とくとの出会いである。とくとの関係が深まることが、正行の人生を大きく変えていく原因の一つにもなる。
 この活動期における、一つのエピソードは、試刀家山田浅右衛門の屋敷に清音と正行が出向き行う試斬りの場面である。こういうことが、江戸時代でも頻繁に行われていたのだろうか。
 武器講の約束を果たした正行の望みは、いい刀を打つことのみである。「もっといろんな刀を打ち、自分らしい刀を極めていきたい。自分で思い通りの刀を鍛えて、求める人に譲りたい」(p229)という思いなのだ。いつしか、支援してくれる清音と正行の間に、溝が生まれていく。

 4)萩城下活動期  「六 萩城」
 同じ刀は鍛えたくない思いの正行にとって、長州萩藩家老格の村田清風からの萩城下で刀を鍛えてほしいという要望は、願ってもない機会となる。だが、それも長く続くことはなかった。清風から正行の意に添わない要請が、結局萩を去らせる原因になる。正行にとっては、己の生き方の転機でもある。
 著者は、正行の思いをこう描く。
 「なにがいいのか、わるいのか、正行にはわからない。ただ感じることがある。信濃を出て、江戸、萩に住んで刀を鍛え、正行には世間がすこし見えた気がする。
 世の中は、思い通りに動かない。しかし、おれだって他人の思い通りには動かない。そんな頑なな気持ちが生まれている。
 -人生には潮の満ち引きがあるのか。
 とも思う。萩に来たことで、正行は人の世の浮沈を知った。満ちるとき、引くとき、それを見きわめなければ転んでしまう」と。(p268)
 32歳、6月の暑い日に、正行は萩をあとにする。

 5)小諸城下活動期 「六 萩城」の最後段
 萩から一旦、赤岩村に戻る。父親が具合が悪くなっている。兄に頼まれて小諸藩士・山本の屋敷内の鍛冶場での鍛刀を手助けすることになる。兄の鍛刀を手伝い、己の刀も鍛える。実家の鍛冶場に大石村からつると梅作が訪れる。そして、父親の死。つるの願いを振り切り、家を出る。ほんのわずかの期間・半年余、国の近くに戻ったに留まる。33歳で再び、郷里を去る。

 6)江戸・四谷活動期 「七 清麿」
 江戸・番町の窪田清音の屋敷を訪れた正行は、清音に挨拶し、自分の鍛冶場を開きたいと考えを申し出る。そして、なんとか四谷・北伊賀町の一隅に自らの鍛冶場を開く。稲荷横町の豆腐屋だった家である。結局、正行には、とくが生涯の伴侶となるのだ。
 「破邪顕正の力を漲らせてこその刀」そういう刀を鍛えることに専念していく。
 清音の屋敷に刀を見せに行き、笠倉屋番頭・斎藤昌麿と出会うことになる。
 そして、ついに、「為窪田清音君 山浦環 源 清麿製」と刻んだ刀が仕上がる。
 清麿という号をなぜ付けたのか。著者は正行の思いを語る。
 そして、清麿にとって、鍛冶屋冥利を味わえる時期がしばし訪れたのだ。
 嘉永6年(1853)3月末、清麿41歳のとき、松代藩真田家の試し斬りの場に立ち会うために出かけていく。このエピソードは、壮絶である。こういう試し斬りもあったのだ。
 清麿の思いと無関係に、四谷正宗と世間の人が呼び評価するまでになり、華やかさを伴った充実した活動期も、病魔が奈落の底に突き落としていく。清麿に訪れた人生の潮の満ち引きだった。
 
 筆者の描きたかったテーマは刀のことでは妥協しない清麿の刀工一途の生き様だろう。
 だが、本書には、サブテーマもあるように思う。一つ目は、正行(清麿)の観点に立ちながら、鍛冶場道具の準備から始め、鍛刀工程を描き出すという、刀鍛冶そのものではないか。二つ目は、窪田清音の生き様である。三つ目を挙げるとすれば、清麿と関わりを持った女性たちのあり方ではないだろうか。つる、きぬ、そして、とく。
 
 最後に、佐久間象山が点描としてだけ出てくる。しかし、清麿にとっては重要な人物である。象山の登場のさせかたと、その発言が印象深い。
 「たしかに、よい刀ですな。地鉄はまことによい。しかし・・・つまらん刀だ。・・・若い鍛冶ならば、なによりも志を高くもたねばならん。この程度のできばえを褒めておっては、将来ろくな鍛冶に育ちませんぞ」(p129)
 「日本国の誇りとはなんだと思うかね。・・・刀だ、そのほうら鍛冶が鍛える刀だ。・・・まさに破邪顕正の力が湧いてくる。・・・わしはこれから松代に帰って蟄居せねばならん身だ。ぜひとも大小を拵えてくれ」(p333-334)



ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる語句とその関連情報をネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

源清麿 :ウィキペディア

平成12年11月14日 於 宗福寺 清麿会

日本刀 脇指 山浦環正行 源清麿 Wakizashi Minamoto Kiyomaro 1841 刀剣 三河屋

太刀(銘:為窪田清音君山浦環源清麿製 弘化丙午年八月日)
 :「長野市文化財データベース デジタル図鑑」

山田流試し斬り ← 業物について :「おさるの日本刀豆知識」

解りやすい刀工の話

近藤勇の 試衛館と 虎鉄の話 :週刊新潮「タワークレーン」

佐久間象山 :ウィキペディア

窪田清音 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」

日本刀 :ウィキペディア

日本刀一覧 :ウィキペディア

刀に関する用語 :「僕の日本刀日記」

    インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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 以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社

『まりしてん千代姫』 PHP

『信長死すべし』 角川書店

『銀の島』   朝日新聞出版

『役小角絵巻 神変』  中央公論社

『弾正の鷹』   祥伝社


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