遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『藤原道長の日常生活』  倉本一宏  講談社現代新書

2013-08-27 21:03:52 | レビュー
 藤原道長という名前を聞き、学生時代に学んだことを思い浮かべると、ほんの上っ面のことしか知識にない。平安時代に摂関家の一員として生まれ、長じて藤原氏の「氏の長者」となった。自分の娘たちを天皇の皇后や皇太子妃として送り込み、天皇の外戚としての地位を確立した。そして、政治を掌握し権力を振るった。『御堂関白記』という日記を残している。そして、「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば」という歌で、わが人生を謳歌している。こんなことくらいである。それで、藤原道長という人物像のイメージを勝手に作り上げている。

 著者は、藤原道長の『御堂関白記』の全現代語訳、さらに藤原行成の『権記』の全現代語訳を手がけた学者である。本書のプロフィールによれば、専門は日本古代政治史、古記録学だそうである。この藤原道長の自筆日記「御堂関白記」がユネスコの「世界記憶遺産」に登録されたのは、ごく最近のホットな話題である。そのせいか、現在9月8日まで,
東京国立博物舘で一般公開されている。
 おもしろいことに一方で、滋賀県東近江市の近江商人博物館では、昭和11年(1936)に作成されていた自筆日記「御堂関白記」の複製品一組がこの8月18日まで展示されていたようだ。

 本書はその藤原道長とは本当はどんな人物なのか、に取り組んだものである。誰にでも職業・仕事を通した世間との関わりという公的な側面と家庭、家族、友人たちとの関わりである日常生活という私的側面を持っている。それらの両面をとらえ、総合してこそ一人の人間が見えてくる。それを、藤原道長にも当てはめて、この歴史上の著名人を藤原道長個人という等身大で眺めようとしている。だから、藤原道長の「日常生活」というタイトルになったようだ。

 本人の書いたこと、言ったことだけを読んでみても一面しか見えない。他人が述べている情報、それもかなり客観的に書いている情報と対比総合してこそ、見えてくるものがある。そこで、来歴・背景が明瞭な古記録、一級史料として、主に、藤原実資(さねすけ)の『小右記』と藤原行成(ゆきなり)の『権記』を『御堂関白記』と併読して対比分析を加えながら、著者は道長像をあぶり出していく。
 記録事実に即しながら、それを対比したり補完したりしつつ整理統合し、著者の視点から解釈、解説を加えていく。読んでいてわくわくするような類いの本ではない。だが、一面的なイメージしか抱いていなかった歴史的人物を、様々な観点から光を当てて多面的に見つめられるということは、興味深いものである。道長もある意味で、喜怒哀楽の中に一喜一憂していた普通の人間だったのだなということが見えてくる。そして、政治の頂点に立つことからの複雑性を持っていた人物だと・・・・。
 著者は、「おわりに」において、こう述べている。「小心と大胆、繊細と磊落、親切と冷淡、寛容と残忍、協調と独断。それらの特性はまた、摂関期という時代、また日本という国、あるいは人間というもの自体が普遍的に持つ多面性と矛盾を、あれほどの権力者であったからこそ、一身で体現したゆえであろう」と。

 本書は序章において、道長の略歴と『御堂関白日記』を紹介した後、6章構成にして、6つの観点から分析していく。つまり、1.道長の感情表現、2.道長の宮廷生活、3.道長の家族、4.道長の空間、5.京都tぽいう町、6.道長の精神世界、である。

 本書から知った道長の実像の一端を要約でご紹介しよう。単に私が特に興味を持ち、おもしろいと思う局面だけのことにすぎないが・・・・。その具体的事実、事例記載は本書でご確認いただきたい。私がミスリードしていないか検証していただくためにも。どの箇所からそう受け止めたかの大凡としてページを表記しておこう。
・道長自身が、「臣は声望が浅薄であって、才能もいいかげんである。ひたすら母后(詮子)の兄弟であるので、序列を超えて昇進してしまった」と語ったというから、驚きである。 p12
・立后や立太子についてはかなり強引だったが、日常の政務運営は強気で行動していなかったようだ。政務にからんで愚痴も結構言っていたとか。 p37
・道長は重要事項や自分の権力に関係する事項については、天皇の最終決定の大きな影響力を行使した。そこは自己中心だったようだ。 p62-63
・結構、感激屋であり、呪詛がからむと弱気になることが多かったとか。 p26-38
・道長ほどの権力者でも、確認できる正式な妻は2人だけ(源倫子、源明子) p122
・道長は実に数多くの邸第を保有していた。著者は13ヵ所を例示している。それ以外にもあり、さらに牧や荘園を領有していた。p145-146
・焼亡した土御門第の再建には、内裏造営と同じ方式を採って、諸国の新旧受領に造営割り当てを行ったとか。実資が日記で憤慨した旨を記しているとか。 p149
・道長は交通の要衝の地に別業を持ち押さえていた。西:桂山荘、東:白河院、南:宇治別業。 p156-157
・道長は行動派。近畿一円の数多くの寺社参詣を行っている。また、寺の建立も。藤原氏の菩提寺として宇治・木幡に浄妙寺。土御門第の東に法成寺を。こちらは当時の仏教界を統合する総合寺院だったとか。 p158-172
・道長の信仰心は深くまた広がっていた。鎮護国家仏教、密教、法華信仰、浄土信仰すべて採り入れている。奈良吉野の金峯山詣では経塚供養をし、最後は浄土信仰に重心を移したようだ。5日で70万遍の念仏を称えた記録を書き残しているとか。 p219-226
・夢想を口実に使い、夢解きをしたり、また触穢(しょくえ)の風習を自分の都合で守らないことも行っているようだ。 p232-236
・道長は寛仁3年(1019)3月21日に出家し、万寿4年(1027)12月4日に死亡した。だが、出家後も、「禅閤」と呼ばれ政治権力は行使し続けたという。 p260-270

 また、道長の生きた時代の環境・状況について、かなり具体的に説明されている点に特長がある。学んだことの一端は次のような事実だ。
・意外と平安貴族には休日がめったになく、儀式や政務が連日深夜に及んだとか。 p47
・儀式は先例遵守が最大の政治の眼目。だからこそ、日記が膨大に残されているという事のようだ。日記の主目的は公務記録。それ自体が先例になるのだから。 p47
 行政事務も儀式の一つ。先例を守り礼儀作法を整えて事務を行う。 p64
・中央官人社会での栄達が唯一の子孫存続への道。それ故、「除目(じもく)の儀」(人事)に最大の関心が集まった。そこも先例重視が基本。 p48-52
・太政官の政務手続きには、政(まつりごと)と定(さだめ)がある。
 具体的には、朝政・旬政・官政・外記政と御前定・殿上定・陣定(じんのさだめ;近衛陣座でおこなわれた公卿会議)であり、定(議定)で実質的に重視されたのは陣定。ただし、ここに議決権や決定権はなかった。  p46-60
・道長の時代は式次第の確立時期であり、九条流・小野宮流などの家による儀式の流派の発生も見られたとか。p64-78
・当時の貴族は、儀式に際して必要な装束や装飾を、互いに貸し借りしていたそうだ。その最大の借り出し先が道長だという。 p90
・894年の遣唐使発遣中止後も、「唐海商」「入唐僧」によって日本と唐および宋との交流は継続されていた。 p97-104
・道長の時代、内裏の焼亡が頻繁に起こっていた。その都度、天皇等は多くの場合、外戚の摂関の邸第に遷御し、そこを里内裏とした。その間、家主は他所に移った。p135-144
・世界遺産に登録されているわが地元にある宇治上神社。その拝殿が、道長の頃の住宅建築様式をよく伝えているものだという。  p153
・平安京という名に反し、天災や疫病の災害および事件が結構頻繁に発生していたこと。 p174-216

ほかに細々とした諸点も含め、日記に記載の事実を克明に拾い上げ、比較考量した事例が累々と語られている。実に研究者の仕事のしかたがよく伝わってくる。

 最後に、「この世をば」の歌について触れておこう。著者は、実資が『小右記』に記載した記録からこの詠歌の経緯がわかるのだと言う。寛仁2年10月16日に行われた威子立后の本宮の儀の穏座(おんのざ)で歌われたもので、あらかじめ準備されていた歌ではなく、即興的にその場で詠んだもののようだ。実資はこの歌が詠まれた後、返歌をせずに、返歌できない理由を、白居易の事例を喩えに出して、歌が優美だから皆で吟詠しようと答えて、数度吟詠したという事実を記している。翻訳での引用だ。実資の記録には、この歌に対する批判的意見はなさそうだ。時代を経て、この歌のイメージだけが一人歩きしてしまったということか。
 ルーツ、事実を究明していく事のおもしろさは、こんなところにあるのかもしれない。
 事実の列挙で、少し読みづらさがあるものの、藤原道長という一人の人間を多面的に眺めてみるには有益な入門書だ。学者の古記録研究方法の一端に触れることのできる側面も参考になる。


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 本書に関連する語句をいくつかネット検索し、周辺知識を広げてみた。検索結果を一覧にしておきたい。

藤原道長 :ウィキペディア
糖尿病と藤原道長 :「古今養生記」
藤原道長 :「知識の泉」

「御堂関白記」及び「慶長遣欧使節関係資料」のユネスコ記憶遺産登録審議結果について :「文部科学省」

法成寺跡 :「京都風光」
里内裏  :「京都通(京都観光・京都検定)百科事典」

藤原道長家族の葬送について  栗原弘氏 名古屋文理大学紀要第5号
金色に輝く藤原道長の経筒 :「京都国立博物舘」
藤原道長-極めた栄華・願った浄土- :「京都国立博物舘」
 2007年 特別展覧会 金峯山埋経一千年記念

国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース
  『御堂関白記』と『権記』の訓読文
  ただし、このサイトに関して、データベースの閲覧は利用申請が事前に必要です。



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