本作品は狩野永徳の伝記小説である。
永禄3年(1560)、18歳になった永徳が近衛前久の屋敷に出向くところから場面が始まる。そして、東福寺・法堂の天井に蟠龍の絵を描くという業半ばにして没するまでを描いている。「極楽の至福をさらに描き尽くそうと、永徳は夢中になって筆を動かしつづけた」極楽で花鳥の絵を描き続けるという永徳の幻想で終わる。
そこには、狩野家の嫡子として、狩野派の総帥となっていく姿と、永徳が絵に求めたもの、己の絵の追求心及び絵師の自負が描き出されていく。永徳の残した絵を鑑賞するのにも参考になって興味深い。狩野派の流儀の枠に留まりながら、心の奥底には狩野派の画法を超越した己一人の絵を描きたかったのではないかという局面を感じさせて、興味深い。緋連雀の墨絵がキーになっているように思える。永徳の作品あるいは作品群のいくつかを柱にして展開されている。読み応えがある。
18歳の永徳は、近衛家の鷹匠・野尻久兵衛に頼んでいた緋連雀の生け捕りができたという知らせを得て、喜び勇んで出かける。それは「美しく変化に富んだ羽の色の具合をなんとか絵に描きたくて」(p8)という、女より恋しい思いが叶う日である。永徳は日当たりのいい縁に置かれた鳥籠の中の緋連雀を前久や女人の前で写生する。18歳の永徳は既に「絵ならだれにも負けぬ」(p14)という自負を抱いている。永徳がその場で描いた絵を近衛屋敷の女人たちは賞賛する。その後、前久が永徳に1枚の墨絵を見せる。それは野尻久兵衛が緋連雀を捕らえたときに近づいて来た女人の頼みで絵を描かせてやったときの墨絵だという。あお向けになった緋連雀の動きと表情を瞬時に観察して、さらりとした筆致で巧に描かれているのだ。 その絵を前久の問いに対して、写生としては巧であるが品格に欠けている絵だと永徳は断じる。その1枚の墨絵を永徳は貰い受ける。前久への返答とは別に、その1枚の絵の描法が、その後の永徳の生涯に渡り一つの対極として存在するものと著者は位置付けていく。これがおもしろい。
「絵は端正が第一義」それが狩野家に伝わる暗黙の画法だという。永徳は狩野一門の嫡子として祖父狩野元信から教え込まれ、狩野家に累々と蓄積されてきた粉本を初めとする流派の絵を感得して育ってきた。己の描く絵に自負を抱きながら、「端正」という狩野の命題の中でおさまりきらぬ己の絵師としての思いの発露との葛藤、家風の端正の義の表現に新基軸を注ごうと懊悩する局面を、著者は描き込む。
興味深いのは、永徳が父・狩野松栄の絵の技倆が平凡であり、狩野家の伝統的な画法をただ墨守するだけの姿に一種軽蔑観を抱きながら、一方で大勢の弟子と一門を抱えた狩野派の総帥としての父の生き方、あり様を冷静に見つめている点である。個としての絵師の力量は見下しながら、画家集団の長としてのあり方には敬意を払うという永徳の思いの振幅がある。永徳が狩野一門の総帥の立場になるまでを生き生きと描き出していく。
永徳は緋連雀を描いた女人を、弟子の友松に探させる。できれば弟子にしたいという思い、またそれ以上にもその未だ見ぬ女人を想い始める。しかしその女人の居場所がわかった時には、はやその望みは潰えざるをえないという結果になる。それが、後に長谷川等伯との確執の一端にも結びついて行くという展開がおもしろいところだ。この女人の存在は、著者の創作なのだろうか。気になる一石である。
本作品は永徳が描いた作品あるいは作品群を柱にして、永徳の画業人生を展開する。
最初が「緋連雀」(第1章)である。これに事実背景があるのか、架空なのかは知らないが、永徳が己の絵を探究する原点の一つとして、布石なっている。2007年に鑑賞した特別展覧会「狩野永徳」(京都国立博物館)で購入した図録を見ると、「花鳥図押絵貼屏風」の右隻第5扇に「枇杷に緋連雀図」を描き残している。
次が、現在米沢市上杉博物館所蔵の国宝「洛中洛外図屏風」を永徳が描くプロセスである。著者は、この洛中洛外図屏風の成立を足利義輝が最初に永徳に命じたものとして描いていく。ここに近年のこの絵に対する専門家の研究動向がちゃんと取り込まれている。永徳の洛中洛外図屏風を鑑賞するのに、永徳の発想・思いとして描かれている視点が参考になる(第2章~3章)。洛中洛外図を描くにあたって、永徳と父・松栄の絵に対する考え方の違いが鮮明に描かれていておもしろい。
また、第3章(「燕」)は、永禄6年(1563)春、21になった永徳が土佐家(土佐派)から18のさとを嫁に迎えるという節目を描く。一方、永徳がやっと緋連雀の墨絵を描いた女人-きよという名だった-に対面するシーンが登場する。きよは染物屋の描き絵職人だった。染物屋で見た善女龍王の絵が永徳の画心に衝撃を与える。そして、きよが黄八丈の小袖に燕の絵を描いたものを購う。それが妻・さとの目にとまる。「ほんに、よい燕です」(p140)とさとは感嘆の声をあげるのだ。その小袖はさとの手にわたる。
第4章は、25歳の永徳が越後に下向し3年ばかりして京に戻ってきて、御殿を新築する。その御殿に襖絵を描く挿話である。御殿の襖を狩野の華麗な絵で飾ってほしいと要望しながら、新しい趣向の絵を前久は所望する。それが雲と龍を描くという展開になる。だが、その御殿は信長の上洛後、近衛前久が関白を罷免され大阪へ出奔、屋敷は解体移設され、雲と龍の襖絵は破却されるという顛末潭。ここに絵師の描き出した絵の運命が象徴されている。思いを込めた絵画がいつ滅び去るかもしれないと・・・・。余談だが、上掲展覧会には永徳が描いた雲龍図屏風が出品されていた。今治市河野美術館蔵、州信印の「雲龍図屏風」六曲一双である。永徳筆の伝承を伴う龍図は、5、6点現存するそうである。(図録、p256)
だが、一方信長上洛の行列を見に行き、その場で絵筆を振るう姿を咎められ、木下藤吉郎と出会うことになる。それは、安土城へと繋がって行く。
第5章は元亀2年の初夏、29歳の永徳は大友宗麟の招きで九州に旅する。宗麟の許に居る明国から来た僧侶・樹岩見山から永徳は「三つの”い”-一に意識の意、二に位の位、三に威勢の威」「造化の工」ということを学ぶ。帰京すると、息子の描いた絵を目にする。狩野家の粉本にはない画題の写し絵をそこに見る。父の弟子がその粉本を描いたのだという。それは長谷川信春(後の等伯)が描いたものだった。あの善女龍王を描いた人物。
永徳は描いた瀟湘八景図を集まった父と集まった弟子たちに見せる。長谷川信春の目だけがその絵に冷淡に見える。永徳は長谷川にその絵について考えを述べさせるが、それがきっかけで永徳が父の弟子を破門してしまう。ここから、狩野永徳と長谷川等伯の画業における確執が生じて行くことになる。
本書を読んだ副産物として、以前から関心を持っているが、等伯自体に一層興味を抱き始めている。永徳が善女龍王図を意識していると筆者が描くように、等伯は「瀟湘八景図屏風」(東京国立博物館所蔵、六曲一双)を描くとき、永徳を意識したのだろうか。
第6章「安土城」はこの一章だけでも短編として読める。絵は一切現存しない。現存すればさぞかし壮麗な景色ではないだろうか。その様相に思いを寄せる。『信長公記』(太田牛一 桑田忠親校注・新人物往来社)の巻九「安土の御普請首尾仕るの事」の条(p202-204)を読むと、安土城御天主の次第として、どのような絵が描かれたか克明に項目が記述されている。第6章は永徳とその弟子たちが渾身の力を込めて、信長の意を体現するべく絵を描き挙げていく様子を活写している。著者はこの安土城の襖絵の完成に対し、信長が永徳に小袖、法印の地位と三百石の知行を与えたと記す。そして「天下一絵師を称するがよい」(p321)との一言を。著者はこの章で、対極として信長の審美眼をも描いている。
第7章「黄金の宇治橋」は、長谷川等伯の描く絵が、狩野派の端正第一義に対抗する形で登場する。永徳が本格的に等伯を意識するという形で著者は描いているように感じる。下京に行ってみようと出かけた永徳が、六角堂にお参りし、三条通りを曲がって室町に戻ろうとするとき、路地の奥の人だかりを目にする。路地を入って三軒目に絵師の店があったのだ。そこで板敷きの間に置いてある六曲一双の屏風を目にする。黄金の宇治橋と柳、蛇篭と水車が、人々の度肝を抜く形で大胆に描かれているのである。「発想の大胆さに、永徳はまず感心した」と著者は記す(p332)。その絵師が長谷川等伯だったのだ。店先で永徳は等伯と言葉を交わすことになる。その絵には永徳をして「うらやましい」と思わせる局面があるのだ。そこに永徳の懊悩が秘められ、それがより一層、永徳が等伯に敵愾心を抱くことにもなっていく。章末に、著者は安土城が炎上し、永徳一門の渾身の作品群が消滅したことを描き込む。絵は永劫ではないという現実の思いが永徳に累積されていく。
第8章「唐獅子」は羽柴秀吉の命により、織田信長の葬儀に絡み、信長の似せ絵を描くという挿話から始まるが、大阪城の襖絵などを飾る絵を描くという大プロジェクトがテーマとなっている。この場所もまた、永徳の画業の大きな山である。狩野派一門を組織として活用し、如何に秀吉の構想を絵として具現化していったかのプロセスが描かれていて面白く読める。秀吉の了解の下に、奥御殿御座の間に四季花鳥図を描く。だが最終段階でその完成した絵を破棄して「唐獅子」をいっきょに描き挙げていくという行動に出る。それはなぜか。永徳の絵師のこころの動きが描写されていく。
すべての絵が完成し、それを秀吉がすべて見た後で、永徳に己の感想を語る。秀吉は仰々しが剛毅で見事な絵として唐獅子を受け入れ、秀逸と評する。そして、書院の間に永徳の父・松栄が描いた山水の図を凡庸でつまらない絵と言う。その秀吉が千利休に感想を求めると、永徳のを見事と評しながら、己の好みは書院の間の襖絵・山水の図であると感想を述べるのだ。秀吉と利休の審美眼・好みの違いを著者は対照的に描いている。秀吉と利休の確執の一端がでているようでもある。それはまた、利休が長谷川等伯の絵をよしとしたことにつながるのかもしれない。
最後の第9章「花鳥の夢」は、大徳寺三門の天井や柱の絵を利休の依頼を受けて、等伯が描くということの挿話から始まる。永徳がますます等伯をライバルとして意識するというようになっていると著者は捕らえている。画風の違いが際立ってくる。その永徳が、等伯の画境を超える意識で、いくつかのプロジェクトを手掛け、東福寺法堂の天井画に挑んでいく姿を描く。だが、法堂に描くべき蟠龍の絵は永徳が描くことなく没することになる。この晩年が描かれている。
狩野派の総帥となることを運命づけられ、己の絵に自負心をいだきつつ、端正を第一義とする狩野家の流儀において、己の心の中をのぞきつづけた絵師の一生。きよと長谷川等伯の絵が、永徳の反面の鏡となったようである。読み応えがあった。
こんな章句が心に残る。
*絵は永劫ではない。
紙に書いた絵だ。いずれ日に焼けて茶色く変色し、破れてしまう。あるいは燃えてしまう。そんな儚い絵であればこそ、つかの間の命を与えたい。その命に、永徳という絵師の命の熱を、ほんのわずかでも吹き込みたい。観る者にいささかなりとも感じてもらいたい。 p327
*それは、絵師のこころの作用だ。
絵師が当たり前の風景を見て、こころの働きで組み立て直して筆で再構築する。
だからこそ、面白い絵の世界が組み立てられる。そうでしかあり得ない。
しかし、自分のなかの何が変われば、目の前の現の風景を斬新な構図として組み立て直すことができるのか。 p362
ご一読ありがとうございます。
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関連語句をネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。
狩野図子 → 狩野元信邸跡 :「フィールド・ミュージアム京都」
狩野永徳 :ウィキペディア
狩野松栄 :ウィキペディア
狩野元信 :ウィキペディア
長谷川等伯 :ウィキペディア
狩野山楽 :ウィキペディア
緋連雀 :ウィキペディア
洛中洛外図 :ウィキペディア
狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》 金雲に輝く名画の謎を読む 「黒田日出男」
洛中洛外図屏風上杉本
狩野永徳筆 二十四孝図屏風 6曲1双
狩野永徳 :「Salvastyle.com」
狩野永徳作『梅花禽鳥図(四季花鳥図襖)』
狩野永徳作『唐獅子図屏風』
狩野永徳作『檜図屏風』
柳橋水車図屏風 長谷川等伯 :「香雪美術館」
善女龍王図 長谷川等伯 :「長谷川等伯」(七尾商工会議所)
長谷川等伯の水墨画 瀟湘八景図屏風 :「水墨画(墨絵)の名画作品ギャラリー」
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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。
『命もいらず名もいらず』(上/幕末篇、下/明治篇) NHK出版
『いっしん虎徹』 文藝春秋
『雷神の筒』 集英社
『おれは清麿』 祥伝社
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社
『まりしてん千代姫』 PHP
『信長死すべし』 角川書店
『銀の島』 朝日新聞出版
『役小角絵巻 神変』 中央公論社
『弾正の鷹』 祥伝社
永禄3年(1560)、18歳になった永徳が近衛前久の屋敷に出向くところから場面が始まる。そして、東福寺・法堂の天井に蟠龍の絵を描くという業半ばにして没するまでを描いている。「極楽の至福をさらに描き尽くそうと、永徳は夢中になって筆を動かしつづけた」極楽で花鳥の絵を描き続けるという永徳の幻想で終わる。
そこには、狩野家の嫡子として、狩野派の総帥となっていく姿と、永徳が絵に求めたもの、己の絵の追求心及び絵師の自負が描き出されていく。永徳の残した絵を鑑賞するのにも参考になって興味深い。狩野派の流儀の枠に留まりながら、心の奥底には狩野派の画法を超越した己一人の絵を描きたかったのではないかという局面を感じさせて、興味深い。緋連雀の墨絵がキーになっているように思える。永徳の作品あるいは作品群のいくつかを柱にして展開されている。読み応えがある。
18歳の永徳は、近衛家の鷹匠・野尻久兵衛に頼んでいた緋連雀の生け捕りができたという知らせを得て、喜び勇んで出かける。それは「美しく変化に富んだ羽の色の具合をなんとか絵に描きたくて」(p8)という、女より恋しい思いが叶う日である。永徳は日当たりのいい縁に置かれた鳥籠の中の緋連雀を前久や女人の前で写生する。18歳の永徳は既に「絵ならだれにも負けぬ」(p14)という自負を抱いている。永徳がその場で描いた絵を近衛屋敷の女人たちは賞賛する。その後、前久が永徳に1枚の墨絵を見せる。それは野尻久兵衛が緋連雀を捕らえたときに近づいて来た女人の頼みで絵を描かせてやったときの墨絵だという。あお向けになった緋連雀の動きと表情を瞬時に観察して、さらりとした筆致で巧に描かれているのだ。 その絵を前久の問いに対して、写生としては巧であるが品格に欠けている絵だと永徳は断じる。その1枚の墨絵を永徳は貰い受ける。前久への返答とは別に、その1枚の絵の描法が、その後の永徳の生涯に渡り一つの対極として存在するものと著者は位置付けていく。これがおもしろい。
「絵は端正が第一義」それが狩野家に伝わる暗黙の画法だという。永徳は狩野一門の嫡子として祖父狩野元信から教え込まれ、狩野家に累々と蓄積されてきた粉本を初めとする流派の絵を感得して育ってきた。己の描く絵に自負を抱きながら、「端正」という狩野の命題の中でおさまりきらぬ己の絵師としての思いの発露との葛藤、家風の端正の義の表現に新基軸を注ごうと懊悩する局面を、著者は描き込む。
興味深いのは、永徳が父・狩野松栄の絵の技倆が平凡であり、狩野家の伝統的な画法をただ墨守するだけの姿に一種軽蔑観を抱きながら、一方で大勢の弟子と一門を抱えた狩野派の総帥としての父の生き方、あり様を冷静に見つめている点である。個としての絵師の力量は見下しながら、画家集団の長としてのあり方には敬意を払うという永徳の思いの振幅がある。永徳が狩野一門の総帥の立場になるまでを生き生きと描き出していく。
永徳は緋連雀を描いた女人を、弟子の友松に探させる。できれば弟子にしたいという思い、またそれ以上にもその未だ見ぬ女人を想い始める。しかしその女人の居場所がわかった時には、はやその望みは潰えざるをえないという結果になる。それが、後に長谷川等伯との確執の一端にも結びついて行くという展開がおもしろいところだ。この女人の存在は、著者の創作なのだろうか。気になる一石である。
本作品は永徳が描いた作品あるいは作品群を柱にして、永徳の画業人生を展開する。
最初が「緋連雀」(第1章)である。これに事実背景があるのか、架空なのかは知らないが、永徳が己の絵を探究する原点の一つとして、布石なっている。2007年に鑑賞した特別展覧会「狩野永徳」(京都国立博物館)で購入した図録を見ると、「花鳥図押絵貼屏風」の右隻第5扇に「枇杷に緋連雀図」を描き残している。
次が、現在米沢市上杉博物館所蔵の国宝「洛中洛外図屏風」を永徳が描くプロセスである。著者は、この洛中洛外図屏風の成立を足利義輝が最初に永徳に命じたものとして描いていく。ここに近年のこの絵に対する専門家の研究動向がちゃんと取り込まれている。永徳の洛中洛外図屏風を鑑賞するのに、永徳の発想・思いとして描かれている視点が参考になる(第2章~3章)。洛中洛外図を描くにあたって、永徳と父・松栄の絵に対する考え方の違いが鮮明に描かれていておもしろい。
また、第3章(「燕」)は、永禄6年(1563)春、21になった永徳が土佐家(土佐派)から18のさとを嫁に迎えるという節目を描く。一方、永徳がやっと緋連雀の墨絵を描いた女人-きよという名だった-に対面するシーンが登場する。きよは染物屋の描き絵職人だった。染物屋で見た善女龍王の絵が永徳の画心に衝撃を与える。そして、きよが黄八丈の小袖に燕の絵を描いたものを購う。それが妻・さとの目にとまる。「ほんに、よい燕です」(p140)とさとは感嘆の声をあげるのだ。その小袖はさとの手にわたる。
第4章は、25歳の永徳が越後に下向し3年ばかりして京に戻ってきて、御殿を新築する。その御殿に襖絵を描く挿話である。御殿の襖を狩野の華麗な絵で飾ってほしいと要望しながら、新しい趣向の絵を前久は所望する。それが雲と龍を描くという展開になる。だが、その御殿は信長の上洛後、近衛前久が関白を罷免され大阪へ出奔、屋敷は解体移設され、雲と龍の襖絵は破却されるという顛末潭。ここに絵師の描き出した絵の運命が象徴されている。思いを込めた絵画がいつ滅び去るかもしれないと・・・・。余談だが、上掲展覧会には永徳が描いた雲龍図屏風が出品されていた。今治市河野美術館蔵、州信印の「雲龍図屏風」六曲一双である。永徳筆の伝承を伴う龍図は、5、6点現存するそうである。(図録、p256)
だが、一方信長上洛の行列を見に行き、その場で絵筆を振るう姿を咎められ、木下藤吉郎と出会うことになる。それは、安土城へと繋がって行く。
第5章は元亀2年の初夏、29歳の永徳は大友宗麟の招きで九州に旅する。宗麟の許に居る明国から来た僧侶・樹岩見山から永徳は「三つの”い”-一に意識の意、二に位の位、三に威勢の威」「造化の工」ということを学ぶ。帰京すると、息子の描いた絵を目にする。狩野家の粉本にはない画題の写し絵をそこに見る。父の弟子がその粉本を描いたのだという。それは長谷川信春(後の等伯)が描いたものだった。あの善女龍王を描いた人物。
永徳は描いた瀟湘八景図を集まった父と集まった弟子たちに見せる。長谷川信春の目だけがその絵に冷淡に見える。永徳は長谷川にその絵について考えを述べさせるが、それがきっかけで永徳が父の弟子を破門してしまう。ここから、狩野永徳と長谷川等伯の画業における確執が生じて行くことになる。
本書を読んだ副産物として、以前から関心を持っているが、等伯自体に一層興味を抱き始めている。永徳が善女龍王図を意識していると筆者が描くように、等伯は「瀟湘八景図屏風」(東京国立博物館所蔵、六曲一双)を描くとき、永徳を意識したのだろうか。
第6章「安土城」はこの一章だけでも短編として読める。絵は一切現存しない。現存すればさぞかし壮麗な景色ではないだろうか。その様相に思いを寄せる。『信長公記』(太田牛一 桑田忠親校注・新人物往来社)の巻九「安土の御普請首尾仕るの事」の条(p202-204)を読むと、安土城御天主の次第として、どのような絵が描かれたか克明に項目が記述されている。第6章は永徳とその弟子たちが渾身の力を込めて、信長の意を体現するべく絵を描き挙げていく様子を活写している。著者はこの安土城の襖絵の完成に対し、信長が永徳に小袖、法印の地位と三百石の知行を与えたと記す。そして「天下一絵師を称するがよい」(p321)との一言を。著者はこの章で、対極として信長の審美眼をも描いている。
第7章「黄金の宇治橋」は、長谷川等伯の描く絵が、狩野派の端正第一義に対抗する形で登場する。永徳が本格的に等伯を意識するという形で著者は描いているように感じる。下京に行ってみようと出かけた永徳が、六角堂にお参りし、三条通りを曲がって室町に戻ろうとするとき、路地の奥の人だかりを目にする。路地を入って三軒目に絵師の店があったのだ。そこで板敷きの間に置いてある六曲一双の屏風を目にする。黄金の宇治橋と柳、蛇篭と水車が、人々の度肝を抜く形で大胆に描かれているのである。「発想の大胆さに、永徳はまず感心した」と著者は記す(p332)。その絵師が長谷川等伯だったのだ。店先で永徳は等伯と言葉を交わすことになる。その絵には永徳をして「うらやましい」と思わせる局面があるのだ。そこに永徳の懊悩が秘められ、それがより一層、永徳が等伯に敵愾心を抱くことにもなっていく。章末に、著者は安土城が炎上し、永徳一門の渾身の作品群が消滅したことを描き込む。絵は永劫ではないという現実の思いが永徳に累積されていく。
第8章「唐獅子」は羽柴秀吉の命により、織田信長の葬儀に絡み、信長の似せ絵を描くという挿話から始まるが、大阪城の襖絵などを飾る絵を描くという大プロジェクトがテーマとなっている。この場所もまた、永徳の画業の大きな山である。狩野派一門を組織として活用し、如何に秀吉の構想を絵として具現化していったかのプロセスが描かれていて面白く読める。秀吉の了解の下に、奥御殿御座の間に四季花鳥図を描く。だが最終段階でその完成した絵を破棄して「唐獅子」をいっきょに描き挙げていくという行動に出る。それはなぜか。永徳の絵師のこころの動きが描写されていく。
すべての絵が完成し、それを秀吉がすべて見た後で、永徳に己の感想を語る。秀吉は仰々しが剛毅で見事な絵として唐獅子を受け入れ、秀逸と評する。そして、書院の間に永徳の父・松栄が描いた山水の図を凡庸でつまらない絵と言う。その秀吉が千利休に感想を求めると、永徳のを見事と評しながら、己の好みは書院の間の襖絵・山水の図であると感想を述べるのだ。秀吉と利休の審美眼・好みの違いを著者は対照的に描いている。秀吉と利休の確執の一端がでているようでもある。それはまた、利休が長谷川等伯の絵をよしとしたことにつながるのかもしれない。
最後の第9章「花鳥の夢」は、大徳寺三門の天井や柱の絵を利休の依頼を受けて、等伯が描くということの挿話から始まる。永徳がますます等伯をライバルとして意識するというようになっていると著者は捕らえている。画風の違いが際立ってくる。その永徳が、等伯の画境を超える意識で、いくつかのプロジェクトを手掛け、東福寺法堂の天井画に挑んでいく姿を描く。だが、法堂に描くべき蟠龍の絵は永徳が描くことなく没することになる。この晩年が描かれている。
狩野派の総帥となることを運命づけられ、己の絵に自負心をいだきつつ、端正を第一義とする狩野家の流儀において、己の心の中をのぞきつづけた絵師の一生。きよと長谷川等伯の絵が、永徳の反面の鏡となったようである。読み応えがあった。
こんな章句が心に残る。
*絵は永劫ではない。
紙に書いた絵だ。いずれ日に焼けて茶色く変色し、破れてしまう。あるいは燃えてしまう。そんな儚い絵であればこそ、つかの間の命を与えたい。その命に、永徳という絵師の命の熱を、ほんのわずかでも吹き込みたい。観る者にいささかなりとも感じてもらいたい。 p327
*それは、絵師のこころの作用だ。
絵師が当たり前の風景を見て、こころの働きで組み立て直して筆で再構築する。
だからこそ、面白い絵の世界が組み立てられる。そうでしかあり得ない。
しかし、自分のなかの何が変われば、目の前の現の風景を斬新な構図として組み立て直すことができるのか。 p362
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関連語句をネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。
狩野図子 → 狩野元信邸跡 :「フィールド・ミュージアム京都」
狩野永徳 :ウィキペディア
狩野松栄 :ウィキペディア
狩野元信 :ウィキペディア
長谷川等伯 :ウィキペディア
狩野山楽 :ウィキペディア
緋連雀 :ウィキペディア
洛中洛外図 :ウィキペディア
狩野永徳《上杉本洛中洛外図屏風》 金雲に輝く名画の謎を読む 「黒田日出男」
洛中洛外図屏風上杉本
狩野永徳筆 二十四孝図屏風 6曲1双
狩野永徳 :「Salvastyle.com」
狩野永徳作『梅花禽鳥図(四季花鳥図襖)』
狩野永徳作『唐獅子図屏風』
狩野永徳作『檜図屏風』
柳橋水車図屏風 長谷川等伯 :「香雪美術館」
善女龍王図 長谷川等伯 :「長谷川等伯」(七尾商工会議所)
長谷川等伯の水墨画 瀟湘八景図屏風 :「水墨画(墨絵)の名画作品ギャラリー」
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その点、ご寛恕ください。)
以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。
『命もいらず名もいらず』(上/幕末篇、下/明治篇) NHK出版
『いっしん虎徹』 文藝春秋
『雷神の筒』 集英社
『おれは清麿』 祥伝社
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社
『まりしてん千代姫』 PHP
『信長死すべし』 角川書店
『銀の島』 朝日新聞出版
『役小角絵巻 神変』 中央公論社
『弾正の鷹』 祥伝社
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