遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『信長死すべし』  山本兼一  角川書店

2012-11-30 22:47:48 | レビュー
 天正10年4月22日、御所清涼殿の真ん中にしつらえられた帳台で、正親町帝が信長を目障りな男として、もはや忍従できないと意を決するところから始まる。「信長死すべし」というのは、正親町帝の意思を表現した言葉として使われている。この決意が、この物語のトリガーとなり、6月2日未明における本能寺の変、そして6月13日夜、小来栖の竹林での明智光秀の死を持って終わる。
 結論を言えば、光秀による本能寺襲撃を正親町帝黒幕説として明確に構想し描き出した「本能寺の変」解釈だ。ああ、こういう解釈もありえるか・・・・。なかなかおもしろい展開となっている。
 作者の巧みな関連描写が一箇所出てくる。信長の招待を受け、安土城を訪れた徳川家康が、信長との対面のために、明智光秀に先導されお城に登っていく場面だ。本丸清涼殿を外の白州から見ながら、家康が脳裏に正親町帝が「信長死すべし」と一番念じているのではないかと、思いをめぐらせている情景を描きこむ。家康に「信長死すべし」を思いめぐらせることで、このタイトルの広がりが内包されていく。「信長死すべし」という思いは、様々な部将の深奥に広がっていたのではないか。それだけ信長という人物が際立ってくるようにも思う。

 6月2日の未明に起こった本能寺の変という史実。資料が残されることなく、歴史書に記されることのなかった影の部分にどこまで想像力を働かし解釈を加えていくかによって、歴史的事実が微妙に色づけられていく。この作品でまた一つ本能寺の変にまつわる史実解釈論の広がりを楽しめた。ストレートな解釈の中に捻りを加えた構成での展開になっていておもしろかった。

 本書の読みどころは三つあるように思う。その第一は、正親町帝自らが信長を抹殺したいと念じたのはなぜか。そして信長を亡き者とするための策を立てるように明確に意思表示した結果がどのように展開されていくかという視点である。
 正親町帝は信長の粛清を近衛前久に節刀を託すことによって指示する。吉田兼和は帝の意を受けて、信長粛清の実行者として誰を選べば神意に適うかという亀卜を行うことで帝の意思に関わっていく。主として近衛前久と吉田兼和が帝の意を体して動くことになる。
 帝の伝奏として信長と関わり、信長の権力、その思考と実行力に接し、信長に畏怖を感じる近衛前久はまず信長粛清の実行不可能性に恐懼する。しかし、帝の命を絶対なものとし、それを如何に実行するかを己の使命とせざるを得ない。そのことに苦悩し、腐心する姿が興味深く描かれている。そうしなければいずれ公家である自らも存続できなくなるという危機感が潜む。そして何よりも、たとえ道半ばで露見しようと、帝の意向が如何にして証拠として残らないようにするか。それに考えをめぐらし、実行していくプロセスが読ませどころであろう。近衛前久の狷介さ、したたかさが描き出される。
 吉田兼和が亀卜の結果として信長粛清の実行者に明智光秀を選んでいく。その吉田兼和のこの謀に対してとる、ある意味で奸智にたけた関わり方がおもしろい。実行段階では影の操縦者となるようにその役割を意識的にとっていく。そこに吉田兼和のしぶとさが描きだされている。食えない人物である。
 伝奏の役目を担う人物として勧修寺晴豊が登場する。この謀においては、まさに権力者の意向次第で言を左右する典型的公家として関わっているのもおもしろい。
 近衛前久と吉田兼和が、光秀へのつなぎの窓口として、連歌師として光秀と親交のある里村紹巴を関わらせて行く。それは近衛前久の自己保身のためでもある。このあたりに、公家の巧妙さ、外交感覚が遺憾なく描き出されている。
 
 第二は、信長の視点である。信長の思考枠がどういうものだったか。天下布武をどういう風に進めようとし、その中で帝の存在を如何にとらえていたか。信長の帝、朝廷に対する意識と対応こそが正親町帝を脅かす接点となった部分である。「このわしが、なぜ帝と朝廷ごときを、畏れ多いと敬わねばならぬのか」(p63)、「わしが、なぜ朝廷ごときの下風に立たねばならん」(p335)と信長にその思いを吐かせている。本書の文脈でとらえると、帝の影響力を軽視したところに信長破綻の一因が潜んでいたといえそうだ。
 また、明智光秀の存在をやはり、結果的に軽視していたことになるのではないか。自分の意を裏切ることのない命令に従順な人物と思い込んでいたのだろうか。作者はその点、深くは突っ込んでいないが。

 第三は、明智光秀の視点である。信長が光秀を譴責した場面をいくつか伏線として描いている。しかし、光秀が信長の命を受け、安土城下で徳川家康の饗応役を担い、この役目の中で失態を演じ、信長から手酷く罵倒譴責される場面を作者は一切描いていない。いくつかの小説では本能寺の変への伏線として、その直前の段階における信長の光秀に対する打擲などの痛烈な行動及び光秀の抱く遺恨が描かれているが、作者にその見方はないようだ。この点も、興味深い。つまり、帝の意を受けたという一点が前面に押し出されている。「天下のことは、帝に従わねばならない」(p318) 朝廷の存在を大前提に据える思考枠の光秀、有職故実に詳しい光秀が、信長の思考枠、政治観、その行動の有り様から乖離していくところに、作者は重要な要因を見ている。
 また、当時の光秀の領国及び信長の命令による各地の戦況に対する諸部将の配置など、地政学的な観点からとらえたタイミングと信長の行動パターンを考慮に入れている点も本能寺襲撃の納得度を感じさせる。

 本書では帝を守るという立場を貫く近衛前久の自己保身を踏まえた策略展開が成功する。有職故実に詳しい光秀が、本当に綸旨の形式と手続きについて、深い疑問を抱かなかったのだろうか。本能寺襲撃の挙に出るという結論に達する光秀にとって、後ろ盾として近衛前久、里村紹巴の二者を通じて、帝の働きかけがあったという行為そのものが、自らの行動のトリガーにまずなることでよしとする心境だったのだろうか。光秀のぎりぎりのところにおける甘さを感じてしまう。このファイナルステージは実に興味深いところだ。

 本書では、「ときは今天が下しる五月哉」という句が、まさにキーフレーズとして活用されている。そこに本書の読ませ所があると言える。なるほど、こんなマジック的な解釈論も持ち込めるのか・・・・と。この点、本書を楽しんでいただきたい。
 本書の「信長死すべし」という構想は、このフレーズの活かし方の発想から始まったのかもしれない。そんな思いが残った。
 
 最後に、少し脇道にそれるが、2006年に読んだ加藤廣の『信長の棺』に触れておこう。『信長公記』の著者・太田牛一の視点から、本能寺の抜け穴、トンネルの存在を前提に、本能寺の変についての推理を描いた歴史ミステリーだ。この中で、「ときはいま あめがしたしる さつきかな」の解釈を、太田牛一にさせている(p92-94)。このキーフレーズをどう読むか。
 また、当然のことながら近衛前久が登場する。「明人との茶席で突然閃いた、稲妻の中の部将の白日夢」の続きを牛一が見るという設定で前久の語る言葉として、この著者は描く(p115-121)。近衛前久という人物像が違って見えてくる。光秀へのアプローチのしかたの違いがある。それは当然ながら著者それぞれの創作力と構想の差異がもたらすものであるが。
 山本兼和の解釈論と加藤廣の解釈論を対比させて考えてみるのも面白い。
 事実の隙間、語られざる資料なき空隙を、それぞれの作者の想像力が羽ばたいて生み出す物語の異なる展開。歴史小説を楽しむ醍醐味がそこにある。
 

ご一読ありがとうございます。

人気ブログランキングへ

理解を深めるために、語句のいくつかを理解をネット検索してみた。一覧にまとめておきたい。

織田信長  :ウィキペディア
明智光秀  :ウィキペディア
正親町天皇 :ウィキペディア
近衛前久  :ウィキペディア
吉田兼和 →吉田兼見 :ウィキペディア
勧修寺晴豊 :ウィキペディア
里村紹巴  :ウィキペディア
愛宕百韻 里村紹巴の句 :「本能寺 研究室」
連歌 :「日本文化いろは事典」

愛宕神社  :ウィキペディア
【明智光秀と愛宕山】 :「総本宮 京都 愛宕神社」のHP

帳台   :ウィキペディア
武家伝奏 :ウィキペディア
綸旨   :ウィキペディア
節刀   :ウィキペディア

本能寺の変 :ウィキペディア
三職推任問題:ウィキペディア
織田信長の最後-本能寺の変- :「城と古戦場」

老の坂峠 :「峠の風景」
唐櫃越 :「山、花、自然の魅力」竹前朗氏

本能寺 :ウィキペディア
本能寺 「是非に及ばず」業火に潰えた信長の野望:「いくさの風景 近畿地方の城」
本能寺の変遷 リーフレット京都 No.211:京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館
「本能寺の変」を調査する リーフレット京都 No.231

人気ブログランキングへ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿