(この銀が間に合うだろうか)
次の一手を求めるために先の先を読まなければならない。無数の物語の中から今の自分に必要なものを読み分け、最善を上書きしていく。
読みには何より速度が重要だ。湧き出るイメージを束ねて取捨選択するには、速度がなくては。ゆっくり読んでいては脳波に隙が生じる。後悔、奢り、丼、うどん。様々な邪念が介入することを防ぎ切れない。最悪の場合、睡魔に襲われてしまうだろう。厄介な追っ手を振り切るためにも、読みは速度なのだ。ヒョウよりも速く私は銀の周辺を読み耽っている。
物語が途切れた時、読みは記号になる。時に意味を失い、曖昧になり、未知そのものとなり、不安に打ち勝つ意志を問いかける。必ずしも、読むほどに勝利に近づくというわけでもない。ならば、読みは楽しみでもあるのだ。
人間に読める範囲は限られているのではないか。すべてを読み尽くした気に浸っている時、実際は浅瀬にある小波をすくっただけかもしれない。宇宙に無限をみるとしたら、人間の頂点はまた一つの底辺にすぎないとも思う。ある程度のところまで行き着いたとしても、そこはまた一つのスタート地点ではないか。種々の仮説を立てながら、私は攻めの銀を前線に送り出さなければならない。先のことはみえない。それは生き物の根幹にある立ち位置なのだ。
(銀は最善までたどり着くことはできるのか)
探究すべき物語は先入観の先に待っているのかもしれない。無理筋が開かずの扉の顔をして佇んでいる。果たしてそれは本筋かフェイクか。駄目だと思える先に、もう一歩足を踏み入れてみれば、そこから開ける世界もある。それはこれまでの経験からくる勘だ。
今までに築いてきたものを何とかして生かしたい。前手の意志を引き継ぎたい。そう願うからこそ、人間にはどうしても読めない筋がある。神の仕掛けたトラップのように見失う筋があり、決して見通すことのできない物語がある。読みの曲がり角には栞を置いて、後から戻れるようにしておく。第一感が働かなくなった時には、比較検討する他に道がないからだ。
読みのスピードを上げようとする時、自分だけの力では心許ない。そこで私は師匠から譲り受けた扇子を回しながら読む。扇子の回る速度が読みの指針となるだろう。回る扇子と脳を紐付けることによって読みにリズムが出てくる。読みとは運動なのだ。パチパチと扇子がリズムを刻み、脳は多量の汗をかく。深海の物語に迷子となり慎重に栞を置く内に空腹が募って行く。
カツ丼とうどんを食べると私は息つく暇も惜しんで対局室に戻った。昼休中に盤の前に戻ってはいけないという決まりはない。
(銀の進路を決めなければ)
最善の道を探究するために、まだまだ読むべき物語が多すぎる。
一局の将棋を始めてしまったら、ひと時も心休まる時間はない。読みを止めることはできないのだ。読んでは捨て、また拾い上げては掘り下げる。そうして自分の中の最善を上書きして更新して行く。読み書きをただ研ぎ澄ますこと。それがこの物語の本文となる。
(歩を突き捨てて出て行く私の銀が……)
「誰だお前は?」
記録机に着いているのは先ほどの青年ではない。みるからに猫だ。昼休中に猫が勝手にくつろいではいけないという決まりはない。
猫は私の大事な栞をくわえているではないか。これは流石に看過できない。
「おーい! 待て待てー! 勝手にくわえるなー!」
「あんたの読みが遅いからさ」
「何だとー」
「それにこれは栞なんかじゃない!」
「返せ! まだ決めかねているんだ」
「よくみてみな! これはただの竹輪だよ」
捨て台詞を吐いて猫は対局室から消えた。開け放たれた扉の向こうには、もはやその影さえもなかった。
(錯覚か……)
もっとスピードを上げなければ。
銀の進路に睡魔が忍び寄ってくるのがみえる。
昼下がりは最も危険な時間だ。
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