師が手渡してくれたのは一本のマジック。「自分の一番好きな場所に名前を書きなさい」。どこにいても自信が持てなかったが、そこに行けばその瞬間だけ自分でない自分が現れる場所……。小さな文字で名前を書いた。「いつか世界中の人々がそこで君の名前を呼ぶ日が来ることでしょう」。#twnovel
「着いたらトランクを開けるね」
どこに着くの? どうして開けるの? どれくらいになるのか、わからないことが多すぎたので、いっそ何も知らないくらいがちょうどいいのかもしれないし、あれこれ聞きすぎるのも子供じみていると思った。着いたら着いた時に、開けたら開けた時に、その時々で必要なことを知ればいいのだし、知りすぎることは、時に自分から期待や楽しさを奪っていくものだ。何もわからなくても、適当に人に合わせることはできるし、返事をするくらいは簡単だった。
「暑い?」
「少し」
本当は、暑くはなかった。暑いのかどうか正直わからなかったけれど、正直に答えることができなかったのだ。それで少しのうそをついてしまう。わからないと答えるほどの問題ではなかったから、少しのうそで話を済ませた方が問題を複雑化しない分だけ得なのだ。正直者にはなれそうもなかった。
少し暑いため開けた窓から入り込んだ風が、胸のポケットに吹き付けて、何かを奪ってしまうほどの勢いだったけれど、勢いだけで奪えるほど、僕の用心は浅くはなかった。空っぽの胸から、奪えるものは何もないんだよ。そう言って、風をなだめると信号が赤に変わった。聞き覚えのあるメロディーの中を、人々がすぐ前を渡っていく。お婆さんの腰は傾いて、背中にある真っ赤なランドセルから突き出したフランスパンが、闘牛の角のように勇ましく前方に伸びているのが見えた。お婆さんの歩みに合わせて、徐々にメロディーはテンポを落としていった。
「着いたよ」
姉が言った。
「もう着いたの?」
僕は車から降りた。
トランクを開ける前に、姉はお茶を入れてくれると言う。本当は、開けたくないのでは……。一瞬そんなことが浮かんだ。
土の上に席を設けて、湯が沸くのを待った。
「はい。お待たせ」
女はそう言って一番最後に運んできた丼を置いた。違うと直感しながらも、牛の一切れをつかんで口に放り込んだ。
「親子丼だった?」
反転して、女は戻ってきた。
「遅かったか……」
「まだ、食べていません」
食べるつもりはなかったので、気持ちを言葉に上乗せすると妙に清々しい気持ちになった。もしかしたら、本当に食べてなかったのかもしれない。
女は丼を持ち上げて、厨房へ戻っていった。
しばらく、待っていると案外早く女は戻ってきた。手の上に先ほどと同じような丼が載っている。よく見るとそれは全く同じもの。手にくっついて離れなくなったのだろうか。
「はあ、困った、困った」
親子はあっても、突然米粒が尽きてしまったと言う。
「代わりにパンを膨らませたものでいい?」
即答はできなかった。イメージが働かず、パニックになりそうだった。
「困った、困った」
「うどんはある?」
傾いたものを立て直そうと必死だった。
「うどんがいい」
新しく生まれた解決策の下で、僕らは以前よりも親密になれそうだった。
そうしましょう。それがいい。そう言って行ったきり、女は、もう戻ってこなかった。
女は鼻で裸足の女神を口ずさんでいる。知っているけど知らない振りをしていた。こちらを見たりはしなかったけれど、この距離でこちらの存在に気づいていないはずはなかった。聴いて欲しいのか、一緒に口ずさんで欲しいのかわからないけれど、こちらの存在が、彼女の節に強く影響を与えていることを意識した。それでいて少しも意識していないように装いながら、僕はスクリーンだけを見つめていた。聴こえないはずはないのに聴こえないような顔をしたままで、スクリーンに降り始めた文字を傍観した。そして、本当の終わりを待たずに、歩き出すことにした。関わってはならない。関わることで不幸を招いてはならない。
(おしあわせに)
架空の主人公に伝言を残して、僕は左側から振り返った。
「どうぞ」
女は、僕にバトンを託した。ごく自然に、それは手の中に納まってしまう。
誰も僕の手にあるものに気を止めなかった。オレンジの光が背中に射して、一足先に行く僕を黒い巨人にしていた。兄よりも高く、兄よりも薄く、そして信頼に欠けた巨人だ。売物件と立てられた看板の裏側から突然猫が飛び出してきたが、人に慣れているのか悠然とすぐ傍を通り過ぎていく。細い道の中を、子供たちが駆け回っていた。だるまさんが、だるまさんが……。
危なくないように、僕は手をナイフに被せた。その背の方を強く、強く手の平に当てて、歩いた。しっかりと、手に当たっている、その確信が強いほど、世界はきっと安全なのだから。確かにここに、今ここに、強くそれはある。
けれども、何かが、間違っていた。
どこを間違えたのか、ナイフが手を突き抜けている。
赤くなるな。まだ、赤くなってはならない。
仏壇を謳う旗が、空から覆い被さって、僕を赤く包むのがわかった。
お茶を飲んでいる間に、誰かが勝手にトランクを開けてしまった。
「今日は何かある?」
どこで聞いたのか、もう女たちが集まり始めていた。
「いかのいいのがありますよ」
黒光りするエプロンをつけた男が、威勢良く答える。調子がよいためか、次々と札束が男のエプロンの中に入っていくのが見える。いったいどれほどのものが入っているのだろう。トランクの奥深いところから波の音が聞こえてくるようだった。お茶を一口含むとどこか潮の香りがした。バットを手にした少年が、転がっていく南瓜を追いかけていくが、砂に足を取られて転んでしまう。「駄目じゃない。蟹さんの邪魔をしたら」
「もう行くよ」
お茶を飲んだから、もう行かないといけないと姉が言った。
どこに行くの? もう時間が過ぎたので帰るのかもしれない。僕には知らなくてもいいことが、いつも多すぎた。
「半年くらいしかないからね」
おかきの賞味期限のことを思い出して話した。家では、もらい物のおかきを積み上げている間に、すっかり壁ができてしまっていたのだ。本気になって食べなければならないと僕は主張した。
「一人一人が責任を持って食べないとなくならないよ」
「ほんと、そうね」
乗り捨てた車に触れることなく、トランクの横を通り過ぎる。
どこに着くの? どうして開けるの? どれくらいになるのか、わからないことが多すぎたので、いっそ何も知らないくらいがちょうどいいのかもしれないし、あれこれ聞きすぎるのも子供じみていると思った。着いたら着いた時に、開けたら開けた時に、その時々で必要なことを知ればいいのだし、知りすぎることは、時に自分から期待や楽しさを奪っていくものだ。何もわからなくても、適当に人に合わせることはできるし、返事をするくらいは簡単だった。
「暑い?」
「少し」
本当は、暑くはなかった。暑いのかどうか正直わからなかったけれど、正直に答えることができなかったのだ。それで少しのうそをついてしまう。わからないと答えるほどの問題ではなかったから、少しのうそで話を済ませた方が問題を複雑化しない分だけ得なのだ。正直者にはなれそうもなかった。
少し暑いため開けた窓から入り込んだ風が、胸のポケットに吹き付けて、何かを奪ってしまうほどの勢いだったけれど、勢いだけで奪えるほど、僕の用心は浅くはなかった。空っぽの胸から、奪えるものは何もないんだよ。そう言って、風をなだめると信号が赤に変わった。聞き覚えのあるメロディーの中を、人々がすぐ前を渡っていく。お婆さんの腰は傾いて、背中にある真っ赤なランドセルから突き出したフランスパンが、闘牛の角のように勇ましく前方に伸びているのが見えた。お婆さんの歩みに合わせて、徐々にメロディーはテンポを落としていった。
「着いたよ」
姉が言った。
「もう着いたの?」
僕は車から降りた。
トランクを開ける前に、姉はお茶を入れてくれると言う。本当は、開けたくないのでは……。一瞬そんなことが浮かんだ。
土の上に席を設けて、湯が沸くのを待った。
「はい。お待たせ」
女はそう言って一番最後に運んできた丼を置いた。違うと直感しながらも、牛の一切れをつかんで口に放り込んだ。
「親子丼だった?」
反転して、女は戻ってきた。
「遅かったか……」
「まだ、食べていません」
食べるつもりはなかったので、気持ちを言葉に上乗せすると妙に清々しい気持ちになった。もしかしたら、本当に食べてなかったのかもしれない。
女は丼を持ち上げて、厨房へ戻っていった。
しばらく、待っていると案外早く女は戻ってきた。手の上に先ほどと同じような丼が載っている。よく見るとそれは全く同じもの。手にくっついて離れなくなったのだろうか。
「はあ、困った、困った」
親子はあっても、突然米粒が尽きてしまったと言う。
「代わりにパンを膨らませたものでいい?」
即答はできなかった。イメージが働かず、パニックになりそうだった。
「困った、困った」
「うどんはある?」
傾いたものを立て直そうと必死だった。
「うどんがいい」
新しく生まれた解決策の下で、僕らは以前よりも親密になれそうだった。
そうしましょう。それがいい。そう言って行ったきり、女は、もう戻ってこなかった。
女は鼻で裸足の女神を口ずさんでいる。知っているけど知らない振りをしていた。こちらを見たりはしなかったけれど、この距離でこちらの存在に気づいていないはずはなかった。聴いて欲しいのか、一緒に口ずさんで欲しいのかわからないけれど、こちらの存在が、彼女の節に強く影響を与えていることを意識した。それでいて少しも意識していないように装いながら、僕はスクリーンだけを見つめていた。聴こえないはずはないのに聴こえないような顔をしたままで、スクリーンに降り始めた文字を傍観した。そして、本当の終わりを待たずに、歩き出すことにした。関わってはならない。関わることで不幸を招いてはならない。
(おしあわせに)
架空の主人公に伝言を残して、僕は左側から振り返った。
「どうぞ」
女は、僕にバトンを託した。ごく自然に、それは手の中に納まってしまう。
誰も僕の手にあるものに気を止めなかった。オレンジの光が背中に射して、一足先に行く僕を黒い巨人にしていた。兄よりも高く、兄よりも薄く、そして信頼に欠けた巨人だ。売物件と立てられた看板の裏側から突然猫が飛び出してきたが、人に慣れているのか悠然とすぐ傍を通り過ぎていく。細い道の中を、子供たちが駆け回っていた。だるまさんが、だるまさんが……。
危なくないように、僕は手をナイフに被せた。その背の方を強く、強く手の平に当てて、歩いた。しっかりと、手に当たっている、その確信が強いほど、世界はきっと安全なのだから。確かにここに、今ここに、強くそれはある。
けれども、何かが、間違っていた。
どこを間違えたのか、ナイフが手を突き抜けている。
赤くなるな。まだ、赤くなってはならない。
仏壇を謳う旗が、空から覆い被さって、僕を赤く包むのがわかった。
お茶を飲んでいる間に、誰かが勝手にトランクを開けてしまった。
「今日は何かある?」
どこで聞いたのか、もう女たちが集まり始めていた。
「いかのいいのがありますよ」
黒光りするエプロンをつけた男が、威勢良く答える。調子がよいためか、次々と札束が男のエプロンの中に入っていくのが見える。いったいどれほどのものが入っているのだろう。トランクの奥深いところから波の音が聞こえてくるようだった。お茶を一口含むとどこか潮の香りがした。バットを手にした少年が、転がっていく南瓜を追いかけていくが、砂に足を取られて転んでしまう。「駄目じゃない。蟹さんの邪魔をしたら」
「もう行くよ」
お茶を飲んだから、もう行かないといけないと姉が言った。
どこに行くの? もう時間が過ぎたので帰るのかもしれない。僕には知らなくてもいいことが、いつも多すぎた。
「半年くらいしかないからね」
おかきの賞味期限のことを思い出して話した。家では、もらい物のおかきを積み上げている間に、すっかり壁ができてしまっていたのだ。本気になって食べなければならないと僕は主張した。
「一人一人が責任を持って食べないとなくならないよ」
「ほんと、そうね」
乗り捨てた車に触れることなく、トランクの横を通り過ぎる。
飛んで火に入る夏の虫は、夏が終わると元いた場所に帰って行かなければならなかった。月を越えて、火星を越えて、一番明るい光を目指して飛んでいたけれど突然それは消えてしまった。「尽きないもの信じていたのに…」萎縮した太陽の残り火が羽を迷わせた。長い氷河期の始まりだった。#twnovel
「どうしてスイッチを切ったの?」
「そろそろ切るべきだと思った」
「切ったら駄目になってしまうじゃない」
「いつまでも入れておいたらいけないと思ったから」
「いつまでも温かいままにしておけたのに。いつまでも、いつまでも切らなければ……」
スプーンでご飯をすくってみるとそれは既に硬くなっていて、食べ難いコーンのお化けのようだった。僕はスプーンを奏でながら世界を旅して回った。
失敗したね。
取り返しのつかないことをしたね。
僕はクロワッサン。
コーヒーについてやってきた。
帰れと言われたので帰ることにした。早速歩き始めると、「夜中に帰るな」と怒られたので帰らないことにした。落ち着いていると、何をしているさっさと帰れというので驚いて、早速帰ろうとしたら、「夜中に帰るな」と怒られて逆戻りした。やはり帰るに帰れないと落ち着いていると、とっとと帰れというので今度こそ本当に帰ろうとしていると、誰かが肩に掛かった鞄を引っ張って邪魔をした。
「帰れというから帰るんじゃないか! 理不尽じゃないか!」
「落ち着けよ。どこに行っても同じだぞ。同じ繰り返しだぞ」
引き止められたので、少し落ち着くことにした。
「帰れ! おまえは友達じゃない。ここは学校じゃない」
落ち着いているとやっぱり怒られた。
そうとも。
ここは銀行じゃない。
ここは公園じゃない。
ここは北極じゃない。
僕はクロワッサン。
「今度ドリアを食べるんだってな!」
見知らぬ村人が僕の肩を叩いた。僕の奏でるスプーンの音が美しくて目に留まったのだ。
賛成。
大賛成。
きみの好物はドリア。
クロワッサンは蚊帳の外。
ごめんなさい。ごめんなさい。僕は謝りながら地面を跳ねている。この野郎、この野郎。それでも父は許さずに、僕をドリブルし続ける。ごめんなさい。ごめんなさい。悪いのは、きっと僕。この野郎、この野郎。僕が跳ねる音が激しくて、父に僕の声は届かないのだった。徐々に僕の体は変形していき、声を失う頃には弾むこともできなくなっていた。
「出て行け!」と言うので出て行った。裸足のまま飛び出して、隣の町の山に登って、木から雲へと登った。馬鹿野郎。馬鹿野郎。まだドリブルが続いている気がする。
追いかけてきたのは母だった。手に、僕の靴を持っている。
僕の名前はクロワッサン。
きみの演奏に耳を傾ける。
最小の友達。
破壊寸前の柔な理解者。
「今度ドリアを食べるんだってな!」
道行く旅人が僕の肩を叩いた。僕の奏でるスプーンの輝きに魅入られて触れずにいられなかったのだ。
期待は決して裏切るな。
きみは期待のスプーン星。
ここにいるのは見物者。
本品は食べ物ではありません。
「お客様! ここは食事をする場所です!」
なんと、わかり切ったことを言う男だ。僕は予期せぬ登場人物の出現にわが耳を疑わなければならなかった。
「演奏はやめていただけますか! ここは食事をする場所です!」
なんと、皆が聴き入っていたのではなかったか。何度も何度も、わが耳を疑わなければならなかった。それでも、村長の言うことを聞かないわけにはいかないではないか。他ならぬ村長の言うことなのだ。今すぐスプーンを置いて演奏をやめるのだ。突然話しかけられて驚かなければならなかったのは、いかなる村人でもなく自分自身だったのだ。僕は今すぐここを出て行かなければならない。ドリアはどうなる? 僕はドリアを食べるとみんなが言っていたはずだけど。村長がチキンの陰に隠れて、まだ見張っている。失われつつあるドリアの温もり……。
うろたえたきみは、悪いことをしていたの。
今ならきみはここにいていい。
僕はクロワッサン。
食べてしまってもいいよ。
「そろそろ切るべきだと思った」
「切ったら駄目になってしまうじゃない」
「いつまでも入れておいたらいけないと思ったから」
「いつまでも温かいままにしておけたのに。いつまでも、いつまでも切らなければ……」
スプーンでご飯をすくってみるとそれは既に硬くなっていて、食べ難いコーンのお化けのようだった。僕はスプーンを奏でながら世界を旅して回った。
失敗したね。
取り返しのつかないことをしたね。
僕はクロワッサン。
コーヒーについてやってきた。
帰れと言われたので帰ることにした。早速歩き始めると、「夜中に帰るな」と怒られたので帰らないことにした。落ち着いていると、何をしているさっさと帰れというので驚いて、早速帰ろうとしたら、「夜中に帰るな」と怒られて逆戻りした。やはり帰るに帰れないと落ち着いていると、とっとと帰れというので今度こそ本当に帰ろうとしていると、誰かが肩に掛かった鞄を引っ張って邪魔をした。
「帰れというから帰るんじゃないか! 理不尽じゃないか!」
「落ち着けよ。どこに行っても同じだぞ。同じ繰り返しだぞ」
引き止められたので、少し落ち着くことにした。
「帰れ! おまえは友達じゃない。ここは学校じゃない」
落ち着いているとやっぱり怒られた。
そうとも。
ここは銀行じゃない。
ここは公園じゃない。
ここは北極じゃない。
僕はクロワッサン。
「今度ドリアを食べるんだってな!」
見知らぬ村人が僕の肩を叩いた。僕の奏でるスプーンの音が美しくて目に留まったのだ。
賛成。
大賛成。
きみの好物はドリア。
クロワッサンは蚊帳の外。
ごめんなさい。ごめんなさい。僕は謝りながら地面を跳ねている。この野郎、この野郎。それでも父は許さずに、僕をドリブルし続ける。ごめんなさい。ごめんなさい。悪いのは、きっと僕。この野郎、この野郎。僕が跳ねる音が激しくて、父に僕の声は届かないのだった。徐々に僕の体は変形していき、声を失う頃には弾むこともできなくなっていた。
「出て行け!」と言うので出て行った。裸足のまま飛び出して、隣の町の山に登って、木から雲へと登った。馬鹿野郎。馬鹿野郎。まだドリブルが続いている気がする。
追いかけてきたのは母だった。手に、僕の靴を持っている。
僕の名前はクロワッサン。
きみの演奏に耳を傾ける。
最小の友達。
破壊寸前の柔な理解者。
「今度ドリアを食べるんだってな!」
道行く旅人が僕の肩を叩いた。僕の奏でるスプーンの輝きに魅入られて触れずにいられなかったのだ。
期待は決して裏切るな。
きみは期待のスプーン星。
ここにいるのは見物者。
本品は食べ物ではありません。
「お客様! ここは食事をする場所です!」
なんと、わかり切ったことを言う男だ。僕は予期せぬ登場人物の出現にわが耳を疑わなければならなかった。
「演奏はやめていただけますか! ここは食事をする場所です!」
なんと、皆が聴き入っていたのではなかったか。何度も何度も、わが耳を疑わなければならなかった。それでも、村長の言うことを聞かないわけにはいかないではないか。他ならぬ村長の言うことなのだ。今すぐスプーンを置いて演奏をやめるのだ。突然話しかけられて驚かなければならなかったのは、いかなる村人でもなく自分自身だったのだ。僕は今すぐここを出て行かなければならない。ドリアはどうなる? 僕はドリアを食べるとみんなが言っていたはずだけど。村長がチキンの陰に隠れて、まだ見張っている。失われつつあるドリアの温もり……。
うろたえたきみは、悪いことをしていたの。
今ならきみはここにいていい。
僕はクロワッサン。
食べてしまってもいいよ。
短い足でゆっくりと部屋中を歩き回る。何かを押付けたり過剰に近づいたりしない蜘蛛のことを、無口な友達のように思った。ある朝、蜘蛛は耳にやってきたので、思わず手をかけてしまった。なぜ? 友情の残骸が紙くずと一緒になって眠っている。朝は、変わらず口を閉ざしたままだった。#twnovel
どこまで歩いても先行きは暗かった。どこまで歩いても見通しはよくならなかった。道がおかしいのでは……。一つの疑問が湧いてヘルプボタンを押した。「お使いのダンジョンは最新です」即答され一途の望みが断たれると安易に助けを求めた自分を責めた。もう一度、自分の足で歩き出す。#twnovel
架空請求がやってきた。思い当たる節はないが、考えている内に気になることが一つ浮んできた。常時接続でなくなったというようなことはないだろうな。と言うと兄は、常時接続なんて聞いたことがないと言うので無性に腹が立った。夜通し遊んだ数多くのゲームの中から戦国武将が現れて、僕の背後に立った。
「PCのことなんて何も知らないくせに!」
レシートを丸めて顔に向けて投げつけた。
出たい。一緒に行く犬は、もういないけれど。
出よう。そして、帰らない。盆も正月も、ずっと帰らない。
ご飯はあるだろうか。しばらく閉じ篭って、下りてきた時に、何か食べ物は残っているだろうか……。2階に上がりたかったが、兄が日本昔話を見ているので、どうにもならず、仕方なく箪笥の前で固まった。父が風呂から戻ってくるが、気がつくだろうか。父は、僕の腿を踏んで、扉を開けた。気づかない。顔を見上げてみたが、何も気づかないようだ。父は、お腹を踏んで引き出しを開ける。僕は倒れる。それでも気づかない。父の足を抱きしめた。目を閉じて、泣いた。一緒に遊んだのに。昔は一緒に、遊んだのに。父の足にまとわりついた。抱きついて放さない。父の足は厳しい上り坂だった。
破れかぶれの坂を乗り越えて、四つ角を越えたところで自信が揺らいだ。待てよ、と自分が自重を呼びかける。先走り過ぎてはいけない。ここは直進でよかっただろうか。畑仕事をしている町の人に訊いてみることにする。
「ランナーが来ましたか?」
鍬を肩に預けながら、おじいさんは首をひねった。少し考えた後、どうも向こうのようだと言った。
「向こうのようだぞ」
追いついてきた者たちにも教えてあげる。ここでのタイムロスは痛いが、間違って右に折れて坂を下って行った者たちもいるようだ。それでは永遠にゴールに着かないというのに。
「バナナとおでんの汁で作ったお菓子よ」
「いいです」
「本当?」
おばあさんは、からかうように言った。
「食べてみる?」
「じゃあ……」
僕はバナナのお菓子を手に取った。
「そういうとこあるよね」
一度断るようなところがあるから気をつけるようにとおばあさんは言った。おじいさんにも礼を言おうとするが、おじいさんはもう仕事に戻っており、これ以上邪魔をしてはいけない。お菓子のお礼だけして先を行くランナーを追った。
廃墟の中で隠れて煙草を吸った。そこは議員たちの秘密基地で、至る場所に自慢げに灰皿が並べてあるのだった。議員たちも、本を読んだりゲームをしたりしながらみんな煙草を吸っていた。僕だけが少し浮いているようだったが、誰一人咎めようとする者はいなかった。煙草を吸う人はここではみんな仲間なのだった。
「高級住宅、灰皿付なんてね」
テーブルの上に眼鏡を置くと議員が言った。
「新しい橋ができたようだぞ」
今度はそう言って蟻たちが集まり始めた。
1分過ぎた。その間、僕は未来時間でブログの更新をしておいた。無言の女にリモコンを返し、走り出すと後ろで声がする。
「500円です」
そんなはずはない。それなら言うのが遅すぎる。それにこれはランナーのためのスペシャルドリンクのはずだ。その場で精算するなんてどうかしている。女が、後ろを駆けて来る。「大丈夫ですか」
そう言って女は僕を追い抜いていく。速い、女だ。
上り坂を越えると家電量販店の4階を通りがかる。「珍ゲームです」新作ゲームを店員は端的に、斬った。父と息子は、少し残念そうに耳を傾けている。何がしたいのかよくわからないゲーム。「おすすめはしません」
「主観だな」
僕は抗議した。
店員は追いかけてきた。
「おすすめはしません」
「うるさい。邪魔するな!」
家電ロードを通り過ぎると、前を行っていたはずのランナーが戻ってきた。
「大変なことになっています!」
前から河童の大群が迫っていた。どうやら追われているようなので浮遊した。ある程度浮遊したところで、下を見た。浮遊に気がついたのか、河童たちはその場に留まっている。口を開けて天を仰ぎ、何かを引き寄せようと宙を手でかく者もいた。どうやら河童には浮遊能力はないのがわかったが、男が足にくっついて上がってきた。どういうつもりか。兄弟でもあるまいし。安全な距離で浮遊しながら、足を振った。しばらく振っていたが、男は案外しぶとかった。大縄にしがみつくように、僕の足にすがっているのだ。そうか、そういうゲームなんだな。僕はより一層激しく縄を振った。カラン、カラン。下から鈴の音が聞こえる。これでもか、これでもか。優秀なプレイヤーを、ついに僕は振り落とす。河童たちは輪になって、男を拾う。カラン、カラン。下から、笑い声が聞こえる。
数時間かけて、ついに中継所にたどり着いた。
「明日も来ないといけないそうだ」
なぜだ。そんな意味ないことがあるものか。
「だったら違う場所にすべきだ!」
同じ苦労はしたくなかった。僕の声が誰かに深く届くことはなかったが、いずれルールも変わるだろう。
「去年よりは楽だったな」
誰かがつぶやいた。ああ、そうだったかな。
「PCのことなんて何も知らないくせに!」
レシートを丸めて顔に向けて投げつけた。
出たい。一緒に行く犬は、もういないけれど。
出よう。そして、帰らない。盆も正月も、ずっと帰らない。
ご飯はあるだろうか。しばらく閉じ篭って、下りてきた時に、何か食べ物は残っているだろうか……。2階に上がりたかったが、兄が日本昔話を見ているので、どうにもならず、仕方なく箪笥の前で固まった。父が風呂から戻ってくるが、気がつくだろうか。父は、僕の腿を踏んで、扉を開けた。気づかない。顔を見上げてみたが、何も気づかないようだ。父は、お腹を踏んで引き出しを開ける。僕は倒れる。それでも気づかない。父の足を抱きしめた。目を閉じて、泣いた。一緒に遊んだのに。昔は一緒に、遊んだのに。父の足にまとわりついた。抱きついて放さない。父の足は厳しい上り坂だった。
破れかぶれの坂を乗り越えて、四つ角を越えたところで自信が揺らいだ。待てよ、と自分が自重を呼びかける。先走り過ぎてはいけない。ここは直進でよかっただろうか。畑仕事をしている町の人に訊いてみることにする。
「ランナーが来ましたか?」
鍬を肩に預けながら、おじいさんは首をひねった。少し考えた後、どうも向こうのようだと言った。
「向こうのようだぞ」
追いついてきた者たちにも教えてあげる。ここでのタイムロスは痛いが、間違って右に折れて坂を下って行った者たちもいるようだ。それでは永遠にゴールに着かないというのに。
「バナナとおでんの汁で作ったお菓子よ」
「いいです」
「本当?」
おばあさんは、からかうように言った。
「食べてみる?」
「じゃあ……」
僕はバナナのお菓子を手に取った。
「そういうとこあるよね」
一度断るようなところがあるから気をつけるようにとおばあさんは言った。おじいさんにも礼を言おうとするが、おじいさんはもう仕事に戻っており、これ以上邪魔をしてはいけない。お菓子のお礼だけして先を行くランナーを追った。
廃墟の中で隠れて煙草を吸った。そこは議員たちの秘密基地で、至る場所に自慢げに灰皿が並べてあるのだった。議員たちも、本を読んだりゲームをしたりしながらみんな煙草を吸っていた。僕だけが少し浮いているようだったが、誰一人咎めようとする者はいなかった。煙草を吸う人はここではみんな仲間なのだった。
「高級住宅、灰皿付なんてね」
テーブルの上に眼鏡を置くと議員が言った。
「新しい橋ができたようだぞ」
今度はそう言って蟻たちが集まり始めた。
1分過ぎた。その間、僕は未来時間でブログの更新をしておいた。無言の女にリモコンを返し、走り出すと後ろで声がする。
「500円です」
そんなはずはない。それなら言うのが遅すぎる。それにこれはランナーのためのスペシャルドリンクのはずだ。その場で精算するなんてどうかしている。女が、後ろを駆けて来る。「大丈夫ですか」
そう言って女は僕を追い抜いていく。速い、女だ。
上り坂を越えると家電量販店の4階を通りがかる。「珍ゲームです」新作ゲームを店員は端的に、斬った。父と息子は、少し残念そうに耳を傾けている。何がしたいのかよくわからないゲーム。「おすすめはしません」
「主観だな」
僕は抗議した。
店員は追いかけてきた。
「おすすめはしません」
「うるさい。邪魔するな!」
家電ロードを通り過ぎると、前を行っていたはずのランナーが戻ってきた。
「大変なことになっています!」
前から河童の大群が迫っていた。どうやら追われているようなので浮遊した。ある程度浮遊したところで、下を見た。浮遊に気がついたのか、河童たちはその場に留まっている。口を開けて天を仰ぎ、何かを引き寄せようと宙を手でかく者もいた。どうやら河童には浮遊能力はないのがわかったが、男が足にくっついて上がってきた。どういうつもりか。兄弟でもあるまいし。安全な距離で浮遊しながら、足を振った。しばらく振っていたが、男は案外しぶとかった。大縄にしがみつくように、僕の足にすがっているのだ。そうか、そういうゲームなんだな。僕はより一層激しく縄を振った。カラン、カラン。下から鈴の音が聞こえる。これでもか、これでもか。優秀なプレイヤーを、ついに僕は振り落とす。河童たちは輪になって、男を拾う。カラン、カラン。下から、笑い声が聞こえる。
数時間かけて、ついに中継所にたどり着いた。
「明日も来ないといけないそうだ」
なぜだ。そんな意味ないことがあるものか。
「だったら違う場所にすべきだ!」
同じ苦労はしたくなかった。僕の声が誰かに深く届くことはなかったが、いずれルールも変わるだろう。
「去年よりは楽だったな」
誰かがつぶやいた。ああ、そうだったかな。
ボタンを押して呼んでもいいのだが、そこにいたので直接呼んでプリントを手渡した。それはすぐに赤ペンで修正されたり、解説を加えられて戻ってくる。脱出ゲーム。一番上に、最も明快な一文が示された。数字は小さい順で動かさなければならない。ジョーカーを上手く活用すること。悩んでいる内に(本当は悩んでいる振りをしていただけ)、ヒロは壁を抜けて出て行ってしまった。(数学的な解決を放棄して、身体能力を使ったのだ)騒ぎ立てたり、咎めたりする者は現れなかった。僕もそれに倣って壁に近づいた。試みては物理的な壁にはね返される。ヒロができたのだから、できない理屈が間違いなのだ。ためらいを、一瞬解放した瞬間、ついに壁を抜けることができた。先に行っていたヒロに追いついた。
「数字を徐々にずらしていくのだろうけど……」
数学的なルートで解決する能力がなかったわけではない。僕はそれを言っておきたかった。
「面倒だからな」
ヒロが言った。そう。つまりは、そういうことだ。僕らは効率的な手段を選択したということだ。まだ、閉じ込められたままの子供たちを救出するため、僕は再び教室に戻ることにした。いつまでも、閉じ込められて時間を無駄にする必要はない。数字に触れる必要のない新しい正解を、苦しんでいる子供に教えることにした。こうやって抜けるんだ。
「こうして。ほらっ」
ためらいを解放して、壁を抜ける瞬間を見せつけた。
「自分ができるからって!」
彼女の叫び声が、僕を校庭の隅まで押し出した。
「お金はもらわなくていいの?」
金額の欄には、出頭と記されている。それが理由のようだった。まだ少し納得がいかない。出頭って警察にするものでしょう。
電話の向こうで男は、お金のことを口にしない。何が言いたいのかまるでわからず、眠ってしまいそうだ。相手がそのつもりなのだから、僕も何も言わない。これから出かけるところだということも。
「切りますよ」
もったいない。何もかも、金も、時間も。
2つのレジの前を反復横跳びで行き交いながら、順番を待っていたが、それだけでは物足りずに持っていた豚肉の入ったパックを宙に投げて回転させた。そうして制空権を確保しているため、どちらか先に空いたレジに進み出ることができる。「こちらへどうぞ」どこかで全く新しいレジが開放されたようだが、そこまで飛んでいくことはできない。反復する距離を伸ばせば、守れるものまで守れなくなってしまう。3番レジが開いた時、先に届いた豚肉を追って、僕の足が滑り込んだ。回しすぎたためか、値札がすっかり行方不明になっていた。どこにもないことを認め終えた店員は、レジを無人にしてどこかへと走ってゆく。
反対のルートで下りてくれば、おじさんと行き違いになってしまうかもしれない。渡すものは渡さなければならないし、渡せるものならできる限り早く渡してしまいたかった。昼間だったら……。この道は、ずっと安全なのだけれど、秋が、早くも闇を引き込み始めていた。この環境と、この装備と、成し遂げねばならない理由、成し遂げたいという思い。かけては傾き、また反発を繰り返すてんびんは、ついに回転を始め、タケコプターとなって飛んで行ってしまった。狭い、暗い、下駄。三つの理由を合わせれば、あきらめをつけるには十分ではないか。
「こんばんは」
犬連れの老人だ。何が夜明けを思わせたのか、僕は「おはよう」と間違えて答えてしまう。すれ違えば声をかける、そんな町だった。
もしも、ばれたら。怒られる? 感心される? 心配される? 笑われる? そのすべてが、同時になされるのかもしれない。
行こう! 僕も
下駄なんて、いつでも脱げばいい。
先人の進んだ足音が、幽霊のように思えた山を、町の続きに変えた。
犬連れの老人を追って、僕は歩き始めた。犬の気まぐれと道草が、不安定な僕の足並みと調子を合わせ、道中の不安を取り払ってくれた。いつまでも、それが続く。向かう先は、いつまでも同じなのだ、という幻想は、突然裏切られてしまった。老人は大木の根元に犬をつないだ。そして、どこからともなく取り出された重機を使い、岩を削り始めた。どうして? 僕は老人と切り離された犬を見つめた。けれども、犬は見つめ返してもくれなかった。犬は、ただ老人の方を、あるいは岩の方を向いているだけだ。僕との関わりは、既に失われている。最初から、失われている。
立ち止まっていることも、引き返すこともできずに、歩き出すと、今まで静かだった下駄の音が鳴り始め、山の向こうから月が顔を見せた。
「数字を徐々にずらしていくのだろうけど……」
数学的なルートで解決する能力がなかったわけではない。僕はそれを言っておきたかった。
「面倒だからな」
ヒロが言った。そう。つまりは、そういうことだ。僕らは効率的な手段を選択したということだ。まだ、閉じ込められたままの子供たちを救出するため、僕は再び教室に戻ることにした。いつまでも、閉じ込められて時間を無駄にする必要はない。数字に触れる必要のない新しい正解を、苦しんでいる子供に教えることにした。こうやって抜けるんだ。
「こうして。ほらっ」
ためらいを解放して、壁を抜ける瞬間を見せつけた。
「自分ができるからって!」
彼女の叫び声が、僕を校庭の隅まで押し出した。
「お金はもらわなくていいの?」
金額の欄には、出頭と記されている。それが理由のようだった。まだ少し納得がいかない。出頭って警察にするものでしょう。
電話の向こうで男は、お金のことを口にしない。何が言いたいのかまるでわからず、眠ってしまいそうだ。相手がそのつもりなのだから、僕も何も言わない。これから出かけるところだということも。
「切りますよ」
もったいない。何もかも、金も、時間も。
2つのレジの前を反復横跳びで行き交いながら、順番を待っていたが、それだけでは物足りずに持っていた豚肉の入ったパックを宙に投げて回転させた。そうして制空権を確保しているため、どちらか先に空いたレジに進み出ることができる。「こちらへどうぞ」どこかで全く新しいレジが開放されたようだが、そこまで飛んでいくことはできない。反復する距離を伸ばせば、守れるものまで守れなくなってしまう。3番レジが開いた時、先に届いた豚肉を追って、僕の足が滑り込んだ。回しすぎたためか、値札がすっかり行方不明になっていた。どこにもないことを認め終えた店員は、レジを無人にしてどこかへと走ってゆく。
反対のルートで下りてくれば、おじさんと行き違いになってしまうかもしれない。渡すものは渡さなければならないし、渡せるものならできる限り早く渡してしまいたかった。昼間だったら……。この道は、ずっと安全なのだけれど、秋が、早くも闇を引き込み始めていた。この環境と、この装備と、成し遂げねばならない理由、成し遂げたいという思い。かけては傾き、また反発を繰り返すてんびんは、ついに回転を始め、タケコプターとなって飛んで行ってしまった。狭い、暗い、下駄。三つの理由を合わせれば、あきらめをつけるには十分ではないか。
「こんばんは」
犬連れの老人だ。何が夜明けを思わせたのか、僕は「おはよう」と間違えて答えてしまう。すれ違えば声をかける、そんな町だった。
もしも、ばれたら。怒られる? 感心される? 心配される? 笑われる? そのすべてが、同時になされるのかもしれない。
行こう! 僕も
下駄なんて、いつでも脱げばいい。
先人の進んだ足音が、幽霊のように思えた山を、町の続きに変えた。
犬連れの老人を追って、僕は歩き始めた。犬の気まぐれと道草が、不安定な僕の足並みと調子を合わせ、道中の不安を取り払ってくれた。いつまでも、それが続く。向かう先は、いつまでも同じなのだ、という幻想は、突然裏切られてしまった。老人は大木の根元に犬をつないだ。そして、どこからともなく取り出された重機を使い、岩を削り始めた。どうして? 僕は老人と切り離された犬を見つめた。けれども、犬は見つめ返してもくれなかった。犬は、ただ老人の方を、あるいは岩の方を向いているだけだ。僕との関わりは、既に失われている。最初から、失われている。
立ち止まっていることも、引き返すこともできずに、歩き出すと、今まで静かだった下駄の音が鳴り始め、山の向こうから月が顔を見せた。
定食屋の前で雨宿りをしていた。もう随分と下火になった。
「もう上がったろう」
と父が言った。
「もう上がった」
定食屋に入ろうとしたのは、ずぶ濡れになったハンカチを干したかったからだ。いらっしゃいませ。そう言われることが、そう言わせることが恐ろしかった。もう閉店も間際で、僅かなメニューと僅かな客が残っている店の中で、どのようなトーンでそれは響くのだろう。いらっしゃいませ。その一声が恐ろしくて、僕はハンカチを振った。雨上がりの夜空に、ためらいの鳩が飛び立った。
溝に光る iPhone を見た。見ながら通り過ぎた。手間だった。拾ったり、届けたり、色々と手間だった。
「拾いなさいよ!」
後ろでカップルの話し声がした。彼女たちも、それを見つけたのだ。女は、自分も拾わなかったけれど、隣にいて拾わなかった男を責めているようだった。届けなさいよ。光ったままの iPhone は、あの長い雨を耐えただろうか。
小銭が落ちた。拾う間に、レジに後れを取った。後から来たカップルに抜かされてしまう。小銭の中に紛れ込んでいた小辛子のパックから黄色いものが零れ落ちて指に付着した。そうなると拾うことよりも指の始末が、解決しなければならない課題として鮮明に勢いを増してくる。まずは指を綺麗にして、そして小銭を拾う。一つ一つ。物事は順に一つ一つ、正しい方向に導かれていくのだ。
カップルがもたつく間に、再び先着したレジの上にポカリスエットを置き、小銭をつまみ上げる。
「百の位は家主の名義になっております」
店員は言った。切り替えるように言うと、他人の名に変換される。だから、別の家に帰らなければならない。白いガウンが、汚れているような気がする。変えた方が良い気がする。
「たいしたことはなかったよ」
と言う朝食は、もう終わりの時間だ。いずれにせよ、僕は別の何かを探さなければならないのだ。
「覚えている?」
「覚えてない」
兄がガソリンスタンドでバイトしていたという、姉の記憶は、確かなのだろうか。他人の家の話を聞いているような気がした。
ロボットが2体、光り輝く下で、ふらふらしている。
踊っているのか?
あれはどこだろう?
列車の中だ。まだ誰も知らない。
母と子が駆けて行く。元気にはしゃぎ駆けて行く子を追って、母もまたその元気に追いつくように駆けて行く2人を見つめる人々の視線は、優しくあたたかだった。駆け抜けて、端から端へと駆け抜けて、また次の始まりから終わりへと駆け抜けて、また初めに戻ったように、終わらない力強さで一歩を踏み出すと駆け始める。けれども、次の車両に渡った時、様子は今までとは違っている。みんな赤い眼や、青い眼や、不快さを滲ませた他人行儀な眼をしていた。2人を見て、目的地でもないのに、次々と列車を降りていくのだった。若者は、急ぐあまりに座席に上着を忘れていった。動き出した列車に、戻ることはできない。止まっている間、商店街のどこからでも戻ることができる。つながっているから。不機嫌な顔で店の奥に座っている主人を押しのけて進めば、戻れるのだ。けれども、動き出したとなれば、もう次元が異なっている。彼らは寒い思いをするだろう。
「筆箱を持ってきた?」
いらないと僕は答える。実際に必要なのは鉛筆と消しゴムだ。ポケットの中に、それは裸で入っている。1度階段を上り、わざわざ右を通って降りていく。最短ではないけれど、正しい順路で。
「少しずるした!」
少しのショートカットを、友達が見咎める。
「もう上がったろう」
と父が言った。
「もう上がった」
定食屋に入ろうとしたのは、ずぶ濡れになったハンカチを干したかったからだ。いらっしゃいませ。そう言われることが、そう言わせることが恐ろしかった。もう閉店も間際で、僅かなメニューと僅かな客が残っている店の中で、どのようなトーンでそれは響くのだろう。いらっしゃいませ。その一声が恐ろしくて、僕はハンカチを振った。雨上がりの夜空に、ためらいの鳩が飛び立った。
溝に光る iPhone を見た。見ながら通り過ぎた。手間だった。拾ったり、届けたり、色々と手間だった。
「拾いなさいよ!」
後ろでカップルの話し声がした。彼女たちも、それを見つけたのだ。女は、自分も拾わなかったけれど、隣にいて拾わなかった男を責めているようだった。届けなさいよ。光ったままの iPhone は、あの長い雨を耐えただろうか。
小銭が落ちた。拾う間に、レジに後れを取った。後から来たカップルに抜かされてしまう。小銭の中に紛れ込んでいた小辛子のパックから黄色いものが零れ落ちて指に付着した。そうなると拾うことよりも指の始末が、解決しなければならない課題として鮮明に勢いを増してくる。まずは指を綺麗にして、そして小銭を拾う。一つ一つ。物事は順に一つ一つ、正しい方向に導かれていくのだ。
カップルがもたつく間に、再び先着したレジの上にポカリスエットを置き、小銭をつまみ上げる。
「百の位は家主の名義になっております」
店員は言った。切り替えるように言うと、他人の名に変換される。だから、別の家に帰らなければならない。白いガウンが、汚れているような気がする。変えた方が良い気がする。
「たいしたことはなかったよ」
と言う朝食は、もう終わりの時間だ。いずれにせよ、僕は別の何かを探さなければならないのだ。
「覚えている?」
「覚えてない」
兄がガソリンスタンドでバイトしていたという、姉の記憶は、確かなのだろうか。他人の家の話を聞いているような気がした。
ロボットが2体、光り輝く下で、ふらふらしている。
踊っているのか?
あれはどこだろう?
列車の中だ。まだ誰も知らない。
母と子が駆けて行く。元気にはしゃぎ駆けて行く子を追って、母もまたその元気に追いつくように駆けて行く2人を見つめる人々の視線は、優しくあたたかだった。駆け抜けて、端から端へと駆け抜けて、また次の始まりから終わりへと駆け抜けて、また初めに戻ったように、終わらない力強さで一歩を踏み出すと駆け始める。けれども、次の車両に渡った時、様子は今までとは違っている。みんな赤い眼や、青い眼や、不快さを滲ませた他人行儀な眼をしていた。2人を見て、目的地でもないのに、次々と列車を降りていくのだった。若者は、急ぐあまりに座席に上着を忘れていった。動き出した列車に、戻ることはできない。止まっている間、商店街のどこからでも戻ることができる。つながっているから。不機嫌な顔で店の奥に座っている主人を押しのけて進めば、戻れるのだ。けれども、動き出したとなれば、もう次元が異なっている。彼らは寒い思いをするだろう。
「筆箱を持ってきた?」
いらないと僕は答える。実際に必要なのは鉛筆と消しゴムだ。ポケットの中に、それは裸で入っている。1度階段を上り、わざわざ右を通って降りていく。最短ではないけれど、正しい順路で。
「少しずるした!」
少しのショートカットを、友達が見咎める。
言葉の中にだけ、私たちの顔があった。言葉と言葉の間にだけ、私たちの道があった。容姿も素性も何も関係なく、ただこの世界に生きている限り私たちは「互いに語り合うことを約束する」。それぞれ借り物の小さな住まいの隅っこに、私たちは互いの言葉の現在地を刻み合うことに決めた。#twnovel
「認めてくれるまで帰らない」正座を続ける雨男の体をやむことのない雨が打ち続けて長い時間が経過する頃、デモ隊が師匠の家を取り囲んでシュプレヒコールを上げ始めた。「弟子にしてやれ!」門が開き、ずぶ濡れの志願者がようやく家の中に受け入れられると、その瞬間に雨は上がった。#twnovel