折句ラッシュ・クリスマス

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、縦読み
クジラうえリクエストした水族館マダイが歌うスローバラード、クリスマス

読書体験

2019-08-28 02:57:58 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 面接へと向かう途中の道で水をかけられた。

「おーい! 今、水がかかったぞ!」

「あー。ごめんよ」

 自分の気持ちを前に出して言えるようになった。以前とは違う自分が誇らしかった。胸を張って、面接会場の公園に足を踏み入れた。

 専務は砂場の縁に腰掛けて待っていた。

 僕は慎重に名乗ってから、懐から履歴書を取り出そうとした。けれども、専務は手でそれを制して先に自分の鞄を開いてみせた。中から取り出したのは、自らが開発した自慢の新製品だという。

「昨日会社をやめてきたんだ。だからもう専務じゃない。ということは、もう君は必要ない」

 元専務は、わかりやすく立場と事態の変化を述べた。

「おじさん、何言ってるの?」

 素直に引き下がるのも、何か違う気がした。

 滑り台の頂上では鴉が列を作り、順番を待っていた。

 

 

 

 机の上で組み合う彼女の腕には思わぬ強さがあった。

「腕を鍛えているね」

 無惨な敗戦も頭を過ぎった腕相撲の勝負には、辛うじて勝つことができた。面目を保った部屋の空気は穏やかだったけれど、ゴミ箱の中にTシャツを見つけた。

「捨てたの?」

 まだ捨てるほどに草臥れてはいなかった。

「落としたの」

 奇妙な落とし物をする人がいる。人は、まあ色々だから。色んな人に会う度に、自分の感覚に修正を迫られてきた。何が正常かなんて簡単に言えず、人とつき合うことはすれ違うような経験の連続だ。時には、とても苦い。

「拾っておいて」

「僕が?」

「そうよ」

 どうしてそんな馬鹿なことを訊くのというように、響いた。昨日の僕なら、すぐに拾うことができたかもしれない。けれども、急に体が重く感じられ、腰を屈めることも手を伸ばすこともできなくなっていた。

「もう色々と嫌になったよ」

「そうなの?」

 驚いたように彼女は言った。ショックを受けた風ではない。

 

 子犬が迷い込んで来た。子犬だけではなく、少し離れたところに大型犬の影が見えた。

「来ちゃ駄目」

 おいで、おいで、と誘われているように、子犬はゆっくりと近づいて来た。周りを警戒する様子はない。手が届きそうな距離まで来たところで、突然、後ろの犬が猛ダッシュをかけて子犬の横に並んだ。

「六円貸してください」

 大きな犬は口を開いた。針と糸を買うために必要だと言った。

「そうなの?」

 事情はよくわからなかったが、深く問い詰めても仕方がないような気がした。犬の目には、どこか訴えかけるような力があった。庭先に待たせて、貯金箱を取りに行った。小銭くらいなら、用意できないこともない。

「お腹空いていない?」

 犬は並んで行儀良く待っていた。痩せこけているというほどでもないが、じっと待っていた二匹の姿を見ると何か心配になった。遠い街から、やって来たのかもしれない。断られ続けた末に、たどり着いたのかもしれない。あと少しで飽和に近づいていた貯金箱を庭先にぶちまけた。犬は、鼻先を五円玉の穴に向けて近づけた。これだよと教えるように、子犬の方を向いた。

「もっと取っていきなよ!」

 針と糸を買うのにだって、もっと必要だろう。一緒に、おいしいものでも食べればいいんだ。せっかく、ここまで来たんだからね。遠慮を解かれて、二匹は微笑みながら尾を振った。

 母は五百円、子犬は百円玉にキスをした。

 

 

 

 誰かの感想を自分の感想に置き換えて九月の教室で読み上げた。人の考えることはそう変わらない。これが自分の考えだとして何も不思議はない。声に出すほど自信が湧いて来るようだった。

「猫も魔女もこの話には出てきませんよ」

 先生、それは先生の感想でしょ。僕は僕自身の読書体験を今しているのです。先生のとは、まるで違って当たり前の。

 猫はたくさん出ましたよ。魔女ならその何倍も出たはずです。なぜかと言えば、猫の後ろにはそれぞれたくさんの魔女達が隠れるようにして、夢のような企みを秘めながら存在していたからです。

「ねえ、先生」

 先生は一つ大きなあくびをした。

 大きな大きなあくびの中に、みんなの夏休みは吸い込まれて行く。

 

 

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忘れ物描き

2019-08-21 03:22:58 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 グランドオープンした百貨店の中に僕はいた。この階は、昔、父と来た記憶があった。受付の向こうは、ゲームコーナーだ。十四階が書店、八階はホテル。記憶の一部が蘇ると後について様々な風景が広がって行った。興奮しながら、まだ広がりつつある記憶と共にエレベーターの中に飛び込んだ。ボタンを押しても十四階は光らなかった。上へ下へ、エレベーターは脈絡もなく動き回り、人の流れがとめどなく行き来した。その間、誰も十四階を押さない。人々の指の隙間から、もう一度、ボタンを押す。十四階は光らなかった。上昇する途中で、どこからか快音が響いた。

「屋上はプロ野球よ」

 小さな子供を連れた、女が言った。みんなが降りて行った後で、もう僕は十四階を押さなかった。八階も、二十五階も、三十七階も押さなかった。元に戻るボタンを押して、もう帰ろうと思った。

 百貨店の外では、赤い帽子を被った女の子が、道行く人にチラシを配っていた。真新しい百貨店の外壁が、いつまでも続く。僕は少し離れて、車道の方に近づいて歩き始めた。渡す相手を求めて、帽子の女が近づいて来る。行く手を完全に遮るように胸の前に突き出される四角い紙。拒むことは許されない。

(プロ野球開幕戦)

 今日がそうだった。今、出て来たところじゃないか。世の中の流れに逆行している……。奇妙な疎外感が、胸を満たした。外壁は延々と続き、いつまで歩いても家にたどり着くことはできなかった。

 

 

 

 鬼の目からはとめどもなく詩心が漏れ続け、どうにかフェイスタオルでくい止めていた。創作物があふれて部屋の中にまで入って来ては大変。方法としては泥臭いが、ここにはバケツもちりとりもないのだし、(掃除道具としてあるのはほうきだ。しかし柄の折れた役立たず)それを理由に傍観者になるわけにはいかないのだから。いっぱい染み込ませたフェイスタオルを、ベランダからぎゅっと絞ると物語の端くれが下の方に落ちて行くが、それはそれ、後のことは知ったことではない。

「ご苦労だったな」

 見上げた空には具の少ないカレーが労いに用意されていた。栄養価なんて期待できない野菜はそれぞれ空に浮かび、星座のように存在を主張して散っている。欲望のためにそれらに手をつけることは、とても卑しいことのように思え、罪の一種に当たるようにも思われた。余りに必然的に位置を占めすぎている。個人的な欲望を満たす以上に、もっと大きな世界に向けての色素を放っているように思われた。目的の定まらない手の中に落ち着かず、スプーンは宙に浮いていた。

「勿論、食べていいのです」

 食べてもらえるとうれしいとシェフは微笑んだ。

「一つ一つ、空を消してください」

「いいんでしょうか。何か踏みにじるような」

「いいえ。消えてから、完成するのです」

「なくなってしまうのに?」

「なくなって完成するのです」

「跡形もなく、なくなってしまうのに」

「あなたが証人になってくれる」

「どうやって?」

「なってくれるのでしょう?」

 

 

 

 忘れ物をした人はみんな集められて、罰として忘れた物をすべてスケッチブックに描かなければならなかった。僕は木の枝の描き方がわからなかった。四足動物の脚の描き方がわからなかった。キリンの首から頭にかけての様子がわからなかった。山の緑と海の青さ、太陽の色がわからなかった。色鉛筆をもてあそびながら、みんなが器用に忘れ物を描き終わるのを見つめていた。みんなが楽しそうに罰を終え、家に帰って行く。バイバイ、また明日。先生の視線が僕に集中してしまう。期待はとっくに萎み、いっぱいのあきらめモード。先生の心配事は忘れ物を置いて、我が家の中のあれやこれや。ああ。すっかり空しくなった。空しさが色鉛筆を立ち上げ、どこか遠い場所から、絵はやって来た。自分の中にないものが、色をつけて生まれて来る。僕はうそつきだ。

「月とうさぎを忘れたのね」

 先生は、僕の絵を認めてくれて、ようやく僕を許してくれた。

 坂道を上って、どんどん橋の方に歩いて行った。迷いがないように見えたのかもしれない。前にも来たのと彼女は訊いた。

「一人で来たの?」

 一人ではなかった。けれども、それが何だというのか。今、一緒に歩いている人とは、出会ってもいなかったのだから、一緒に来ることもできなかったのだから。橋にたどり着く頃には、彼女はもう不機嫌を通り越していた。

「もういい」一言だけ言って、彼女は消えた。

 一人で歩く道は、道が急に伸びたように長く感じられ、足が重くなって行った。

 小さく切られた竹を均一ショップの中で求めた。商品を選んでいると誰かに見られているような気配を感じた。

「一つ、二つ、三つ……」

 籠の中から取り出しながら、店員は数えた。

「もう一つ小さな……」

 キーホルダーはどこにやったと店員は訊ねた。確かに手に取るところを見ていたと店員は言う。何かの間違いに違いなかった。

「カードはお作りになりますか?」

 カードにはスタンダードカードとプレミアムカードの二種類があって……。少しの関心を寄せていると次の客がやって来て、説明はうやむやになってしまった。腹が立ったので手当たり次第に籠の中にお菓子を投げ入れ、再びレジに向かった。店員は面倒くさそうに菓子をスキャンしては袋に詰めた。その内、袋はパンパンに膨れ上がった。

「落ちてるじゃないか!」

 お菓子は袋からあふれ、床に転がっている。店員はそれを足でもみ消そうとしていた。

「クレーマーだ!」

 店員の叫びを聞いて、店の隅々から仲間がそれぞれほうきや、何か武器になるような物を手にして、駆けて来た。僕は買い物をあきらめ、逃げるように店を出た。

 すぐに飛行を開始するとすぐに迷子になった。高いところから町を見下ろしても、向かうべき方向がまるでわからなかった。不安の内に飛んで行くと、どんどん寂しくなっていき、人里離れたところに行ってしまう。旋回して、光を求めて飛んだ。ビルが光を持っていた。高い高いビルが、静かに光を蓄えながら、密集して建っていた。更に高いビルもある。同じようで違うビル。さっき越えて来たような、またそれとは違うビル。NTTビル。この場所は覚えておこう。周りを見回して、一つの基準を作った。けれども、それもすぐに空しくなる。どこまで行っても、見覚えのあるものが見当たらないのだった。知らず知らずに、ビルの冷たさが、体力を奪っていた。上昇力がなくなってゆく。もう無理だ……。ビルの下で、眠ろうか。朝まで。そう考えて、朝になることが不安で、朝を待てないことが不安で、疲れた翼を奮い立たせた。ビル、ビル、ビルビル……。ビルが連帯して、光の粒で翼を傷つける。もうとっくに、無理なんだ……。眠ろうか。朝まで。そう考えて、どのような朝になるか不安で、朝を迎えられないことが不安で、萎れた翼を奮い立たせた。自分の意思ではなく、風が、知らない町へと僕を運んだ。

 

 二階はどうなっているのだろう? 誰もいない。更に奥へと行ってみた。

 ドアを開ける。何もない部屋。全体は白い硝子に覆われていて、外からの光を微かに取り込んでいた。もう、夜のようだった。どこか懐かしく、どこか宇宙船の中のようだった。ここに住みたい……。

 一階に戻るとスーツの男が一人やって来て、コーヒーを注文した。仕事の続きをしたいので、プラグを使いたいと店員に言った。机をくっつけてもいいかと更にお願いした。続いて女が一人入って来ると迷わず入り口に近い席に座った。じっと固まって何もせず動かない。眠っている。働く者と眠る者、いつか宇宙船の中で暮らしたい者、三者の間に接点はまるでなく、僕は何か大事なものを思い出さなければいけないような気がしていた。それはいったい何だったのか、どこでそれを忘れてしまったのか……。

 気がつくと辺りは真っ暗だった。お金は?(僕は払ったのか?)

 はっとしてドアを開けると自分の靴が置いてある。急いで靴を履いた。すぐ隣の家から明かりが漏れている。そこは台所かもしれなかった。小雨が降っていた。入る? 僕は迷った。開けて入るべきか、やめておくか。知らない家のドアに触れることが、泥棒の形になってしまうようで、どことなく恐ろしかった。少し歩き出す。どこ? 少し行っても、まるでどこかわからなかった。草は濡れ、その先は小さなトンネルになっていた。現実なの? 色々な疑いが芽生え始めていた。

(ジャンプ!)

 確かめるために高く跳んでみた。最初の跳躍で、岩に触れることができた。ふわり、ふわり。いつまでも、長く、浮くことができた。違うんだな……。それで確信を持つことができた。すぐに引き返した。元の場所に戻って、光の漏れるドアを思い切って開けた。

 ベッドの上では、布団を被った母が眠っていた。お腹の辺りにイモリを二匹乗せていた。僕はイモリを手で払いのけた。

(やっぱりな)

 母を残してドアを閉めた。

 濡れた草を踏んで、トンネルの方に戻った。その先には、微かな光が漏れている。どこまで行こうと、どこにも行くまいと、時が過ぎれば、それで終わりになるのだ。わかっていながら、歩き続けた。

「本当は、何も忘れていなかったのね」

 遠いところから、先生の声が聞こえた。

(わかっているよ)

 進もうと、進むまいと、もうすぐ終わるのだから。急ぐ必要もないと思いながら、僕は歩き続けた。

「だから、何も描くことはなかったのね」

 トンネルを抜けると猫が待っていた。胸におぼろげな月を抱いて。

 

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猫とアンケート

2019-07-19 03:09:13 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

「早めに入ってWiFiするのが得なんだけど」

 団体客が一斉になだれ込んで来た。そのせいかウエイターは大急ぎでスープの器を運んで来た。すべての指が器の中に入っている。一口飲むとそれはすっかり冷めていた。髪の毛が一本浮かんでいるのが見えた。自分のものだろうか。すくい取ってみるとそれはとても長かった。

 三十センチ。僕のとは違うね。

 手の平で眺めている内にそれは黒から銀色に変わり始めた。震えながら、縮んだ。これは一本ではなく、一匹だ! 

 意図的なものか、偶然かはわからない。とにかく、彼らは団体客を優先的に扱ったのではなかったか。突然、それは機敏になって手の平から飛び出した。待て! 追いかけて、テーブルを離れた。団体客のキャリーの間を縫って逃げて行く、銀の虫を追って厨房に入った。

「捕まえて!」

 中は会議中だった。ちっ! 男はペンを回しながら舌を打った。

「また出たか」

「踏むんだ!」

 テーブルの脚と男たちの脚の間を縫って、虫は時に縮み、時に消えながら、最後は料理長の手によって捕獲された。

「クレームは直接、上階の社長室へお願いします」

 銀の虫を手に取って、エレベーターに乗った。

 社長室のドアをノックする。

「こんなものが、出たんですが」

 秘書はすぐに社長に電話を入れ、先客との会話に戻った。部屋の隅では、老人が金槌を手に物作りに没頭していた。社長を待つ間、部屋の中を観察した。寝そべるには絨毯は深すぎて、少し気が引けた。本棚には世界のメルヘン全集が並んでいて、この会社のルーツが窺える。みんな、人を楽しませることに必死だ。ちょうど手の届くところにあった本の一冊を適当に開いて読んでいるとドアが開いて社長が入って来た。

「お呼びですか?」

 ここでは社長よりも秘書の方が偉いらしい。

 僕はポケットに大事に保管しておいた虫を取り出して見せた。手の平に載せて見るとそれは長いスカーフだった。

「今はこんなに大きくなったけど、元は虫なんですよ」

「ふーん」

 社長はどこか他人事のように薄い関心を示しただけだった。謝罪の言葉など何一つもなかった。ふーん……。そうかい。それだけかい。

 しばらくすると社長室の中は、見学の子供たちや外国人たちであふれ始めた。待つ間にも随分と疲れたし、人の多さにも嫌気がさして来た。

 もういいや……。

(こんな会社やめてやる)

 エレベーターを降りながら決意を固めていた。

 一階では、更に団体客の数が増していた。

 表に出たところで、どこにもまだ就職などしていなかったことを思い出して、はっとした。けれども、どこか清々しい気持ちにもなった。僕はポケットに両手を突っ込んで、見知らぬ街を歩き始めた。

 

 

 

狭いところを上手く通れないので、街頭に立って猫にアンケートを試みた。

「最も狭いところはどこでしたか?」

 足早な猫に交じって、足を止める猫もいた。

 彼らの答えはあまり素直ではなかった。ヒントになるようなものは得られなかった。総じて、猫の答え方は、ぶっきらぼうだった。

忙しそうに通り過ぎる猫、迷惑そうに大回りして行く猫、すぐ近くまで寄って来たと思ったら、突然背中を向けて猛ダッシュして行く猫。最後の回答は何だったのか……。もう思い出せないほど、親切な猫から遠ざかった。冬支度にでも入ってしまったというように、すっかり冷たいモードに入ってしまった。

「よろしかったら、アンケートに……」

 顔色をうかがって声をかける。細身の、少し柄の良さそうなのが、近づいて来る。久しぶりに、絡むことができるかもしれない。猫は、下から睨みつけるように、こちらを見た。

「猫の手は余ってなんかないよ!」

 やはり駄目だった。冷たいモードはそう簡単に抜け出せるものではなかった。少しの言葉を拾えていた頃が、懐かしい。ファイルをもう一度、見返してみる。大した言葉があるわけではなかったけれど、今を生きる猫の声に趣を感じていた。

「何かお困りのようですね」

 驚いた。よほど困っているように、見えたのかもしれない。

「私が手を貸してあげてもいいよ」

 願ってもない話だった。彼女はかつては人と一緒に暮らしていたこともある、年老いた猫だった。色々あって、今は独りで暮らしているということだ。猫のことを猫に聞いてもらえるなんて、心強い。頼もしい援軍を得て、猫の回答は少しずつ戻って来た。

「ちょっと、そこの猫、止まりなさい」

「……」

「今までで最も狭かったところはどこですか?」

「それは私が生まれる前に住んでいたところだよ。多分、その名残かな。今でも私は狭い場所を好んで通るんだ」

 問う者によって、答え方もまるで変わってしまうことが驚きだった。僕だけだった時とは、何か空気が違っている。

「狭いと思ったことは、一度だってなかったよ。僕はただ自分の愛する場所に落ち着いているだけさ」

「狭き門って何? 自分が単に下手くそなだけじゃない?」

 猫はぎょろりと向いて言った。言葉が胸に刺さる。

 アンケートは深夜になっても続いた。長老の背に控えて、まるで僕がアシスタントのようになっていた。メインストリートを遊び疲れた猫たちが通り過ぎる。

「ちょっと君」

 

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偽の花壇

2019-06-16 23:26:14 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 しばらくレジに並んでいたが少しも前進しないことに気がついた。レジは一斉にストライキに入ったらしい。待ちぼうけ、待ちぼうけ。カレーを作ろうとする高い意気込みが、不条理な現実によって挫かれてしまう。数センチずつでも、進歩のある渋滞ならば遥かにましだ。人々は誰も弱音を吐かない。姿勢を崩すことなく、事の解決を辛抱強く待ち続けている。あきらめて帰ろうとする人の姿はなかった。各ナンバーにおいてプロモーションビデオ発表会が始まった。最も作品の出来が良かったナンバーからレジが再開されるという噂が、どこからともなく湧いて広まっていた。即興で作ったというだけあってみんな酷い出来だ。その中で一番に選ばれたとしても少しも名誉には思えず、むしろ選ばれる方が恥ずかしいくらいに思えた。あからさまにそのようなことを言えば、地域の連帯を崩すことになる。そんな恐れを抱いてか、誰もネガティブな声を上げなかった。僕以外は。

「酷いもんだな」

 少しつぶやいただけで背後から強い衝撃を受けた。

 

 

 

 できるだけ小さくなって隠れたい。体をより柔軟にするため服をすべて脱いだ。早く安全な時が訪れますように。誰かが入って来ることを想像しただけで不安だった。金属が擦れるような音が、体育館の周りで聞こえた。しばらくして、入り口の方で賑わい、人の気配を感じた。段ボールから顔だけ出して見ると彼らは長い杖のようなものを身に着けている。人ではない。

(蟻族だ!)

 倉庫の奥へ逃げ込むと段ボールの中で頭を引っ込めて隠れた。上手く気配を消していれば見逃してくれるかもしれない。目を閉じて祈りながら静かに待った。何かが音を立てて中に入ってくる。確実に体育館の中に入っていた。篭もったような音。徐々に音は、こちらの方に近づいて来る。いつまでもそれは近づいて来る。既に目標が決まっているように近づいて来る。止まらない。そして、突然、止まった。じっとがまんしていたのに、段ボールは動き始めていた。捕獲され、運ばれて行くのだ。体が強く締め付けられて行く。何にも触れられている感じはしないのに、抵抗し難い力で、どんどん腕も足も胴体も圧迫されて行くようだった。敗北と絶望を知るには十分だった。段ボールは見えない力で宙に浮き、蟻族の護衛に包まれながら、死地へと向かって行く。しかし蟻の手下になって生きるくらいなら、食われて死んだ方がましだ。覚悟を決めてしまえば、少し気持ちは落ち着いた。

 ゆっくりと紙の牢獄は下降し始め、目的地が明らかになった。僕らは今晩の食材なのだ。なぜか急に視界がはっきりと開けて来ると、店の窓に大きく貼り出された文字が、目に入った。

(しゃっぶしゃっぶ)人が、しゃぶしゃぶか……。

あっ!

 瞬時に光が走った。これは風刺なのだ。人が逆に食べられる側に回っているというよくある風刺なのだ。助かる。風刺の中に入っているだけなら、現実の自分は助かるという計算が即座に働いた。もう、屈服する理由などなくなったのだ。全身に力を込めて、見えない力に逆らった。

 間違いなく、ここは自分の家の中だろう。

 何度も力を込めたが、まだ拘束は解けなかった。けれども、徐々に景色は変わり始めている。段ボールは吹き飛んで、上にぽっかりと空いた天井の穴が見える。あそこが出口なのか。家ではないのか。ベッドではないのか。やがて、小さな闇の中から人の細い腕が無数に伸びて、触覚のように垂れた。

「助けて!」

 

 

 

 姉のかかりつけの医師に呼び出された。これはやばいよと言う医師の目力に圧倒される。

「ところで普段大変なことは?」

 問診が始まって僕は蟻たちとの行事について話し始めた。

(女王蟻をリスペクトして歩きなさい)という指示に従っていたのに、何か様子が変で、手の甲に蟻の足が執拗に食い込んで来たんです。

「なるほど。リスペクトが伝わってなかった。他には?」

 他に思い出されるのはグラウンドでのことだった。ディフェンスがねちねちとマークしてきた。久しぶり過ぎて距離感がつかめないことを詫びながらもしつこい。ごめんねごめんね。構わんさ。何度も足を踏みつけられる。その内にスパイクの中にまでそいつの足が入って来て、伸びた爪でちくちくと刺してくる。

「流石にそれはやばかった」

「なるほど。続けてください」

 休憩を挟んで戻って来るとコーチの顔が変わっていて、よく見るとみんな制服を着ていた。間違えた場所に来てしまったことに気がついて、廊下を歩いた。ああ、あそこだ。もう練習は始まっていた。ボールを追いかけるみんなの姿が見える。だけど、歩いても歩いても、そこに近づくことができない。ボールを蹴る音まで聞こえるのに。

「なるほど。それで最近困ったことは?」

 問診が続く。先生は突然、昼休みを宣言してどこかへ行ってしまった。兄が隣でボタンを押した。いつからいたのだろう。オーダーを取りに女の人がやってきた。兄はメニューの写真を見ながらまだ考えている。指先が海老とチキンの間を泳ぐ。時間切れで注文は取り消しになった。セルフのうどんコーナーを回る。高く盛られた葱の中から緑色の生き物が顔を出した。誰にも言わないで。小皿の載った頭の上で手を合わせながら引っ込んだ。

 この病院は大丈夫なの? 検索窓に名を打ち込んでもまるでヒットしない。屋上では若い先生たちがローマ兵の格好をして剣を交えていた。最近の流行だとか。

 待合室に行くと大勢の人が診察の再開を待っていた。

「それでは投票経過をお伝えします。現場の田中さんお願いします」

「はい。こちら出口には誰もいません。ただ今の時間、選挙は行われておりません。こちらからは以上です」

「ありがとうございます。続いて全国の祭り情報です」昼時のニュースはインパクトに欠けた。冷房が効き過ぎだと言って誰かがドアを開けた。淡い色のカーテンが騒ぎ始めた。昼休みは終わらない。

 火星人がオムレツを作り出す時の支度の音で目が覚めたけれど、オムレツの話は誰ともしたくなかった。風邪を引くから外には出たくなかったし、いずれ傷つくことになるから、誰とも話したくはないのだった。ネガティブな方向に広がるばかりの想像がすべてを消極的にさせ、脳内の限られた部分に圧縮してしまう。幾度も火星的な交流の海に舞い戻り、束の間の復帰と栄養補給を繰り返す内に、体の中心部分に違和感を覚えるまでに至った。

「ふん、そいつは腰痛だね」

 医者は黒い煙を吐き出しながら笑っている。なーんだ。

「よくある現象か」

 言葉一つ当てはまれば、一つの問題は解決したも同然だ。どういうわけかそのような判断に落ち着いてしまう。医者の術中にはまってしまったのかもしれない。そいつは既に分類済みの問題だ。

 積み上げられたタイヤを、トングを手に選んだ。突然触れられて驚いた猫。眠りの穴を奪われて、不機嫌な目をしながら逃げ去って行く。こんなところで眠っている方が罪というものだ。少しばかり続いた平穏な時が、幻想の家を建てたに過ぎないのに。トングは手の中で縮み、ゴムの匂いは甘いシナモンの匂いに変わって行く。選んでいるのは車輪を飾り付ける輪などではなく、人の誘惑に取り入ろうとする甘い洋菓子なのだと気がつく。未知なるものを選ぼうとして泳ぐ手。トングは自分の意思に背き、過去選択済みの形へと落ち着こうとする。

 エレベーターはずっと三階で止まったままだった。開けるなという扉を開いた。使うなという非常階段に踏み出して駆け下りた。七階まで下りた所で階段が途切れている。少し頑張れば飛べないことはない。勢いをつけて飛んだ。四階まで下りるとまた途切れている。今度も無理ではない。飛んで三階まで下りると早速階段が途切れていた。そこから先へ下りる階段は完全に消えていた。使うなという理由がここにある。振り返って見てもう一つの重大な事実に気づき愕然とする。上から下に飛ぶのはよくてもその逆は簡単ではない! もっともっと助走が必要。こんなところで足止めされてしまうなら、今まで学習したことの全てはなんて無意味なのだ。疎らながら地上を歩く人の姿が認められた。恥を捨てて力一杯叫ぼうか。それとも己の身体能力を信じてもう一度上の階へ飛び移ってみようか。鼓動が強く跳ねる音が聞こえる。正しく決断を下せるような人間なら、こんなところに今いるはずもなかった。上が駄目なら下はどうか。アスファルトでなく柔らかい土の上なら小さな怪我で済むかもしれない。目を凝らしている内に、小さく囲われたそれらしい場所が見えた。あれは花だろうか。「飛べば助かるの?」急に姉の声が聞こえたような気がした。

「馬鹿ね」

 上から手が差し伸べられた。心配そうな姉の顔が見えた。

「花壇のように見えているだけよ」

 それは装飾された虎の背中が一つ一つ集まって花壇のように見えたのだった。そう知って見直すと花とは違う揺れ方をしているのがわかった。虎の囲いだ。あの中で最も優秀な演技をしたものに自由が与えられる。

「さあ、こっちに」

 姉の手に向かって飛んだ。元の階に戻って扉を開けると待っていたエレベーターに乗り込んだ。

「急いで!」

 エントランスを抜けると駆け出した。受賞の決まった虎がもうそこまで迫っていた。老いた人間の顔だ。

「振り返っては駄目よ!」

 

 

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幻の手筋

2019-06-07 02:40:22 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 雨の中を一人、傘も鞄も持っていない。行くあてもないように、足取りは不確かだった。こんな夜更けにどうして……。

「行くところがないの?」

 声をかけたのは、彼女の顔が濡れているように見えたからだった。

「だったら何なの? 何か用なの?」

「そうじゃなくて、何か困っているように見えたから」

(僕の鞄もちょうど空っぽなんだ)

 すれ違うのも何かの縁と思い、家に連れ帰った。鍵を開けて、誰もいない部屋に明かりをつける。両肩を抱いて、彼女は震えていた。

 シャワーを浴びさせている間、警察に通報する。

「河童を保護しています。今、家にいます」

 それは義務なのか裏切りなのか、自分でもよくわからなかった。

「つらいことがあったの?」

「それはそれなりに」

「人並みに?」

「他人のことは、よくわかりません。私は今まで、自分でしかいたことがなかったから」

 コーヒーカップの中で、スプーンを回しながら、僕は笑った。

「おかしいですか? 私は」

「いや、僕が勝手に、おかしいんだよ」

 誰かがドアを四回叩く。

「いま通報がありました」

 ああ、僕だよ。

 警官は、何か手紙のようなものを開いて、僕の目の前に突き出した。それから許しもなく上がり込んで来ると、彼女の濡れた頭にタオルを被せた。

「怖かったね。もう大丈夫だよ」

 

 

 

正しく続く姿勢は、いつかは夢へと傾くことになっている。自分を無理に運ぼうとしてはならない。僕は屋上で眠りに向かって行く人だ。世界と隔離された、疎ましい干渉の届かない場所。ただ緩やかに白い雲だけが流れて行く。何も生み出さない。眠りのためだけに、そこはある。人のいない大きな空をいつまでも眺めている内に、自然とまぶたは重くなり、あと少し。入り口のドアは、ほとんど開きかけている。試みは間もなく成功する。小腹が空いたと虫の知らせ。雲の流れに胃腸が刺激を受けたのだ。体は起き上がると屋上ランチの扉に向かう。ワンプレートにきれいに盛られた料理。作戦は失敗だ。僕は肉団子に手をつける。ご飯に手をつける。ミニトマトに手をつける。プレートの片隅に、小柄なおじさんが座って監視している。僕は漬け物に手をつけて、ご飯に手をつける。

「南瓜は食べないのか?」とおじさんが聞く。僕は南瓜に少し手をつける。「うまいか?」僕はミニトマトに手をつける。「卵焼きは食べないのか?」おじさんはずっと監視している。僕は言われた通りに食べたくはないと思った。「味はどうだい?」プレートに載っている人に、感想を言いたくはなかった。僕は漬け物に手をつけて、ご飯に手をつけた。少し箸を置いて、お茶を飲んだ。

「最近、作文は書いてるの?」おじさんは、突然話を変えた。なぜか少し、安心した。僕は卵焼きに手をつけた。南瓜に手をつけた。漬け物に手をつけて、ご飯に手をつけた。「どんな時に、書いてるの?」話が逸れている間に、どんどん口に運んだ。味はみんな悪くなかった。

「君、仕事してるの?」

「辞書ならよく引いています」

 順調な箸の運びに流されて、うっかり答えてしまった。

「それは仕事なの?」

 なんだよあんたは、親でもあるまいし……。

 

 

 

 激しい強襲をかけて、王様を裸同然の姿にした。とても生きた心地はしまい。少なくとも、僕が反対の立場だったとしたら、とても生きた心地はしないだろう。どうやって凌ぐかを思案しながらも、体の震えを止められないはずである。あれほど強固にできていたはずの城の作りもすっかり壊れてしまい、普段は側近について離れることのない将も、今では遠く離れてしまっている。何を頼りに、守りの形を構築すればいいというのだろう。僕には皆目見当もつかず、名人を倒す時間が現実的に近づいて来たと思えると、もう少しで笑みさえ零れてしまうところだった。けれども、幾度も修羅場を潜り抜けて来た名人が前に座っているのだと考えると、自分の判断はどこかに大きな穴があって、今からそれを思い知らされる恐ろしい出来事が待ち受けているような嫌な予感がした。たとえ裸同然の王様だとしても、僕の攻撃はそれを完全に覆い尽くすほど厚くはない。もしも何か特別上手い手があって、攻めが途切れてしまったら……。徐々に攻めは細く寂しくなっていき、最後には攻め手を失ってしまうのかもしれない。一瞬顔を上げると名人はとても落ち着いて見え、裸の王様を抱えてその行く末を心配している将のようには見えなかった。

 名人は風をつかむような手つきで、どこからともなく取り出した黒い駒を、そっと盤の上に置いた。

 二手指しか? 一瞬、そのように思った。

 二つの升目に、二つの駒を同時に置いたからだった。

 

(親子ボタン)

 

 それは滅多に見ることのない、幻の手筋だった。親子ボタン……。胸の中で、僕はつぶやいた。(親子ボタンは二つでセットになっているのだ。江戸時代に考案された手だが、今まで現実の棋譜の中に現れたことは一度もない。なぜなら、誰かが指すよりも速く歴史の方が流れ過ぎたためだった。歴史とは、名人のうつろいそのものだ)

 知らなければ、決して指せない手。そして、唯一、この状況で裸の王様を救える手。

 親子ボタン……。それは御椀と蓋のようなものかな。初めて目にした駒の前で、僕は震えていた。取ったとしても使えない。親子ボタンとは、そのような駒、そのような手筋だった。数的不利は一気に解消され、王様は裸であるに等しくても、大草原を楽園にする自由を手にしていた。気ままな王様の疾走を止める手立てがあるとはとても思えなかった。

 名人はそれを知っていた。そして、僕は、名人の手によって親子ボタンを知ったのだった。

 

 

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ゾンビ・ゴール

2019-05-31 02:23:46 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 メールの登録がまだですとの通知を受けて病院に向かった。深夜にも関わらず、手術室には大勢の医師やスタッフがいて難しい顔をして立っていた。勇気を出してアドレスを持って来たことを伝えた。

「自分の時間にしてください」

「でも、至急の連絡が届いたんです!」

 だからこうして来たんです、と必死で主張するとなんとか認められた。看護師さんが用紙を持って来て、椅子も用意してくれた。手術は一旦休憩に入った。テレビではギャグ王を決める試合が行われていた。

「ここに名前、住所、家族、休日の趣味、座右の銘、好きな芸能人、将来の夢、生まれ変わったらなりたいもの、血液型、特技、今一番会いたい人……」

「僕はメールアドレスを書きます!」

 門前払いされそうになった不満が、まだ少し残っていた。僕は強い口調で宣言した。そのために来たのだから、それは当然のことだった。

「時間以内にお願いします」

 冷静になって、頭の中で長いアドレスを構築する必要があった。アナウンサーが優勝候補の思わぬピンチを伝える声が、手術室の中に響く。無名の新人選手が驚異的なスコアを出したことによる波乱の予感。

「何か食べていく?」

 別の看護師が優しい言葉をかけに来てくれたが、すぐにその申し出を断った。いい人もいるのかもしれないが、基本的にはみんな敵である。

「何も食べないつもりね」

 不機嫌な態度を責めながら、女は去って行った。傷ついたプライドは、簡単には元には戻らないものだ。

ピー………………………………………………、

 誰も見たことのない動きに、ざわめきが起こる。少しずつ笑いの波が起きるとすぐにそれは会場全体に広がって、抑え難いものとなった。最も冷静な審査員までも、もはやクールな表情を保つことができなかった。最期の時を扱った渾身のギャグが、奇跡の逆転を生もうとしていた。

 僕はメールアドレスを書き終えたが、すぐには受理されず、スペルの確認が必要だという。

「Nですか、Hですか? Nにも見えますが」

「Hですよ、それは」

「もう一度、清書してください」

 まるで嫌がらせのようだった。気を取り直し、今度は一切の物言いがつかないように、完全なスペルを用いて書き終えた。その頃にはもう難しい手術が再開されており、手術室は高い緊張の中にあった。

「できました!」

 ついに僕は自分の仕事をやり遂げた。

「時間切れです」

 冷たく看護師は言った。本当はできていたのに、途中で邪魔さえ入らなければ、できていたのだ。ここまで来て、アドレスを持ち帰るわけにはいかなかった。ここまで来て……。何とか受理してもらえるよう、訴えた。

「今は君の時間じゃない!」

 中心的医師が厳しい口調で言った。手の中にあるメスが、まっすぐこちらを指していた。

 どうして最初の提出で合格できなかったのだろう。反省を踏まえて、頭の中でもう一度アドレスを整理した。警察署前の石の上に座って、ノートを開いた。敗北感を紛らわせるために、美しいスペルで完全なアドレスを書き上げる練習をするのだ。中から警官が出て来ると、こちらに近づいて来た。

「肩をもんでやろう」断ったらどうなるか、わかっているか……

 僕は立ち去ろうとして、鞄を取った。向こうの方に人集りができているのが見えた。肩もみを拒んだ男が、警官に取り囲まれて殴る蹴るの酷い目にあっていた。

「見せしめだ!」

「知らしめろ!」

 逃亡することの愚かさを学び終えた僕は、即座に作戦を変更した。逃げるのが地獄なら、自ら近づいて行くまでだ。

 騒ぎの中心に向かい、僕は歩いて行った。

(肩が凝っています!)

 声を張ろうとしても、空腹のあまりまるで声にならなかった。この叫びに、今夜の命運がかかっている。どうしても、出さなければ……。

「僕は、肩が凝っています!」

 三度目でようやく声になった。その調子、その調子。

 声に出して、自分を守らなければ。

 

 

 学校の上を飛び回っていたが注目をあびることはなかった。人々の関心は、今から始まる球技の方に向いている。遠く地上を離れてはいたが、僕は選手たちの声をすぐ耳元で拾うことができた。

「人は呼ばなかったの?」

 ミイラが言った。

「誰か入れればいい」

 ゾンビが答える。けれども、簡単に味方の見つかる日ではなかった。みんなそれぞれ自分の役回りに忙しい。

 ゲームはそのまま始まり、五人対二人の圧倒的不利な戦いを強いられることになった。

 始まりと同時に数的優位を生かした激しいプレッシャーがかけられる。苦し紛れにミイラが蹴り上げたボールは、ゴール正面に落ちる。最初に追いついたのはゾンビだ。ゾンビは全身で激しいフェイントを入れながら少しずつ少しずつ、ゴールへと近づいて行く。妖しすぎて、誰もアタックする機会を見つけられない。人魚も、河童も、雨男も、宇宙人も、延々と距離を詰めるばかりで、最後の一歩をどうしても踏み出すことができなかった。打つよ、打つよ。いつ打ってもおかしくなく、いつ打ってもおかしくも思える。傷だらけのフェイントは、数的優位を誇る守備陣をただ目立ちたいばかりの寄せ集め集団に変えてしまった。

 ついに、間違って当たってしまった、という風にゾンビはシュートを打った。妖しい光に乗ったシュートは、異世界の住人たちの足元をすり抜けて、最後の守護神の正面に飛んだ。吸血鬼の顔面に当たって跳ね返ると、もう一度、ゾンビの足元に引き寄せられるように戻って来る。喜びながら、舞い上がりながら、ゾンビは強く足を振った。当たり損ねて、ボールはカンガルーのように弾んだ。飛び出して来た吸血鬼の鼻先をかすめて、ゴールマウスに吸い込まれる。ネットが、柔らかく抱きとめる。

「ゴール!!!!  !!!!」

 起死回生のゴールが決まる。

 ゾンビとミイラはハイタッチを交わすが、すぐに表情を引き締めた。(これから先の方が大変だ)

 ミイラは、たった一人で駆け回って、時には自らの体を解体させるような仕草で、攻撃陣に必死のプレッシャーをかけた。河童と肩で競り合った後に、雨男が降水確率を導き、宇宙人がノールックパスを出した時には、もうへとへとになっていた。人魚のしなやかな尾びれが、ダイレクトに振れた。一瞬、雲の行方に気を取られたゾンビが、辛うじて拳で弾いた。

「ごめん!」

 宇宙人のショートコーナーから河童はダイレクトで、雨男にパスを出す。ミイラのプレッシャーは間に合わない。雨男の放ったシュートは、大きく枠を外れる。敵にも焦りがある、と二人は妙な自信を覚える。クリアに次ぐクリアこそが、ミイラとゾンビにとっては攻撃だった。ゾンビのループで得た唯一の得点を守りながら、時は過ぎて行った。

 ゾンビはクロスバーの下で、笛が吹かれる時を待っていた。

(早く、早く吹きやがれ)

 ファール覚悟でアタックして行くミイラの体を、宇宙人は世界一のステップでかわして、スルーパスを出した。フリーで待つ人魚の前に、パスは届きそうだ。遅れて飛び出して行く、破れかぶれのゾンビ。決定的な場面を楽しむように、人魚は笑みを浮かべている。河童は皿に手を当てる。ようやく降り出した雨の中、狼男は牙を光らせながらエールを送る。ミイラは湿った芝の上に倒れたまま、動かない。ゾンビは謎の言葉をかけて誘惑した。人魚はそれでも笑みを浮かべたまま、機会を窺っている。そして、アンドロイドが、笛を吹いた。

「勝った!」

 会場はどよめきに包まれた。

 ゾンビは長く、勝利の余韻に浸っていたかった。魔法がとける時間が迫っていたのか、みんなの足取りは予想以上に早かったようだ。うそで汚れた体を洗い流して、南瓜のバスに呑み込まれて行く人々の前で、ゾンビはまだ傷だらけの勲章を惜しむように自分を守り続けていた。

「ナイスゴール!」

 ミイラだったはずの相棒が、肩に鞄をかけながら別人の顔で通り過ぎた。ゾンビは唇を噛みしめながら、笑った。

 磨き抜かれた僕の飛行技術は、愚かなゾンビのフェイントや異世界の住人たちのいかれた球遊びのせいで完全に無力化されてしまった。誰も僕のことを蝿のようにしか思わないし、特に危害を加えない限り、首を振って関心を寄せるような者もいないのだった。南瓜のバスが大人しく去って行くのを、遠く離れた空の上から見送っていた。

(みんな行ってしまえばいいんだ)

 旋回し、風に乗って上昇する。また少し上まで行ける体になっている。遥か下方に、美しい緑が広がって見え、その中心には人工の建造物のようなものも認められた。謎の集落を発見したに違いなかった。あそこに行けば、今度こそ驚きを持って迎え入れられることになるかもしれない。きっと、まともな人たちなら、関心も、驚きも、優しさだって持ち合わせているはずだ。激しい胸の高鳴りの中で、浮力を落として徐々に高度を下げた。狂ったゲームは、もうたくさんだ。あそこに行けば、あそこに行けば……。

 自分は何を見ていたのか。中心はそう遠くないところにあった。人の気配なんてありはしない。あるのはただ、人の残した生活の残骸だけだ。異臭を発する穴の中に、僕は落ちて行く。落ちて行く、落ちて行く。浮力は戻っては来なかった。もう、今はゴミと一緒。

(もう少し、夢見ていたかったのに……)

 苦い失望に引かれながら、どこまでも、落ちて行く。

 

 

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先生さようなら

2019-05-28 02:29:16 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 二チームに分かれて黒板の右と左で競争が始まった様子を、開かれた本の遥か向こうで見ていた。

「好きなところに線を引きなさい」

 迷いなく次々と引く者もいれば、恐る恐る何かを傷つけないように優しく黒板に触れる者もいる。

「五画!」

 先生の指示に耳を傾けながら、みんなは決められた数の線を黒板に付け足す。

「八画!」

 ある限りのスペースを大胆に使う者もあれば、あえて限られた範囲の中に自分の陣地を築くようにしるしを残す者もあった。線は徐々に複雑になり、何かのけじめが必要とされる時が近づきつつあった。僕の興味の大部分はそれでもまだ本の内にあった。

 アンカーとして、ちょうどその日が誕生日だった僕の名前が呼ばれる。名前を呼ばれた後になっても、僕はまだ半信半疑の態度を崩さなかったし、すぐに席を立って前に行くような真似もしなかった。

(えっ? 僕なの?)

 後ろを何度も振り返り、他に出て行く者がいないことを慎重に確認してから、ようやく黒板の前に進み出た。同時に呼ばれたもう一人の対戦相手は、とっくに目的地にたどり着き、月夜のうさぎのように黒板を抱きしめていた。

「全部つないでください」

 先生の短い指示を迷わず受け止めた向こう側の世界では、もうチョークが走り出す音が聞こえた。

「どこ? 全体?」

 僕はそのペースにまったくついていけず遅れを取った。先生は僕の質問にまともに答える様子はなく、ただ不機嫌そうに黒板の右上を指した。最初に説明した通り。恐らく最初に説明した通りだと思われるゲームのルールが三行ほど箇条書きにされてあった。

(三角形を作る)

 三角形だって? 線の端と端をつないで三角形を作るのだ。ふむふむ。そうだ、三角形を作ればいいのだ。なんとなくわかり始める。先人が並べた準備の後を、アンカーがつなぐことによってちゃんとした図形を形作る。重要な役目を、与えられたのは僕だった。いい感じで、三角形が増え始める。勝つんじゃない? 勝っちゃうかも。要領をつかめば、三角形は面白いようにでき始めた。それどころか、終わりが見えないほどだった。いくらでも、できてしまうじゃないか。

 

(パチパチパチパチ……)

 

 隣のライバルに送られる拍手。まだ鳴り止まない。戦いは終わった。僕はゆっくりとペースを落として、続きの三角形をつないだ。ルールから解放された後で、何かが載っているように肩の辺りが重たかった。終わりの合図をして欲しかったのに、拍手が終わってからも先生は敗者側の世界について触れることはなかった。誰も関心を向けることのない月の裏側で、僕はいつまでも終わることのない三角形を作り続けた。本を読んでいたからだ。一ページ分だけ、僕は遅れていたのだった。

 誤解を解きたかったけれど、前で話しているのはもはや別の先生だった。敗戦の黒板から引き返す足取りがあまりにも遅かったので、その間に入れ替わってしまったのだ。今はもう国語の授業が始まっていたけれど、頭の中に入って来る言葉は、何もなかった。

(勝てたんじゃないかな)

 

 

 

 くたばれ! こんちくしょう。

 くたばれ! この野郎。

 とっととくたばっちまえ!

 叩いた瞬間大人しくなったように見えて、すぐに元気に立ち上がってしまう。こんちくしょう。一瞬大人しくなるのは、見せかけなのか。一層力を込めて、叩きつける。ダメージを受けているのではなく、むしろ力を吸収して、喜びを蓄えているようでもあった。

「もっと!もっと! 叩いてよ」

「僕の憎しみが通じないのか?」

「関係のない憎しみが通じるものですか」

「関係ないだと?」

 確かにモグラそのものには、少しの憎しみもないのは事実だった。

「あなたは私を叩いているのに、少しも私の内側を見てもいない」

「うるさい! 黙れ!」

 首をへし折らんばかりに叩きつけた。いつの間にかモグラたちは増殖し始めており、穴のないところからも仲間を押し退けるようにして、若いモグラが湧き出ていた。

「ぼくも! ぼくも!」

 ああ、これはモグラなんかじゃない。

 龍の仲間だ。

 

 

 

 煙草をくわえたらどこからともなく火が飛んで来て燃え尽きそうな真っ白い鹿になった。物珍しそうな目を向けながら、人々は足を止めて物語や日常の断片を投げつけて来る。

(与えないでください。決められた餌があります)

 文字のかすれた貼り紙の効力は既に失われてしまっている。

「逃げようか?」

「いいえ、結構。どこに行ったところで一緒だから」

 投げて、投げつけて、お前にくれてやるって放り投げられる欠片。ふっ、食えねえよ。どれだって食えたもんじゃない。だって、僕らは人間育ちだろ。どうしてこちらから逃げないといけないんだ。燃え尽きるまで、逃げてやるものか。

「さあ、お食べ」

 優しいつもりか。少しも有り難くなんかないんだよ。投げて、投げて、投げつける。もうそのマヌケな顔は見たくない。ろくなもんじゃないね。このお節介野郎共。欲しがってないのがわからないのか。また投げて、投げて、投げつける輩。しつこい投げ手だ。いらないって言うの。他に投げるところはないのか。

 檻の前に投げ捨てられた、物語の飽和。

 夜の霧の向こうから、お腹を空かせた犬がやって来る。

「ふっ、食えやしないね」

 だよね。

 

 

 

 カップをのぞき込むとコビトが風呂に入っていた。

「あんたが忘れている間に、別の意味を作ってやったよ」

「僕のコーヒーだぞ!」

 忘れていた時間なんてない。ただ他のことを考えていただけだ。

「ここは僕の風呂だ! あんたもそう思ってるんだろ」

「おまえが勝手に解釈を変えたんだ!」

「昔の話はよせよ。ここは僕の風呂さ。なぜなら……」

 コビトは悠々と肩を沈めたまま、勝手な持論を展開した。

「あんたが口をつけたのは何回だね?」

「それがどうした? 覚えていない」

 覚えていたとしても、それは数えるほどのものでもなかった。

「それよりも遙かに多く、僕はここでため息をつき、世の中のことを憂い、ぬくぬくとした幸福な時間を過ごしていたということさ」

「だが、元は僕のコーヒーのはずだ!」

 まだ正論にしがみついていたかった。

「また昔の話かい。かわいそうな人だな」

「正しいことを言ってるだけだよ。僕は何も忘れたわけじゃない」

「甘いね。いつまでもコーヒーのままでいると思った?」

 コビトの言い分を聞いている内におかしくなった。今ではもう、湯船にしか見えなくなっていた。

「当たり前だろう」

 力ない言葉が、口先から漏れた。

「あんたは安心しすぎたのさ。戻りたいかい?」

「ああ。そうできるならね……」

「僕の背中を流してみなよ。さあ、そこにおしぼりがある」

 

 

 

 三角地帯はもう今は映画館になっていた。熊出没のアニメか暴走列車かゼロ戦の映画かを決めなければならず、迷った末にゼロ戦の映画に決めた。ゼロ戦の翼の上で跳ねたり、翼の下に隠れたりしながら、僕は時々教室に戻ってみた。

 教室の中はすっかり閑散としており、先生と先生が机を挟んで向き合って授業をしていた。教科書の中身や、話している内容まではよくわからなかった。歴史の授業らしいことは、何となく一人の先生の髭の様子でわかった。長い長い川を越えて、再びゼロ戦は飛んで行く。操縦士は、とうとう最後まで姿を現さなかった。

「映画はどうですか?」

 映画を見終えたばかりの僕に、パンフレットを手渡す男。今度は、何の授業に変わっているだろうか。微かな期待を抱きながら、教室に戻った。

「もう八月になったので、授業を終わらないと」

 そう言って先生は教室の明かりを消した。

 まとめの言葉を、僕は待っていた。

「何をしている?」

 もう一人の先生が言った。

「終わったら帰りなさい」

 もう一人の先生が言った。

 教科書代わりのパンフレットを手にし、足元に気をつけながら教室を出た。

 月明かりが、道に淡い三角形を描いていた。

(先生さようなら)

 三角形の一辺を歩きながら、もう一度あやまった。

 

 

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野生の目

2019-05-21 06:06:01 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 海底では種々のボディ・フェイントやシザーズを駆使して、凶暴な魚たちの網にかからないように動いた。幻惑的なシザーズを高速で繰り出す時、そのトリックにかからない外敵はいなかった。時には、自分自身でその動きにみとれ、惑わされてしまう場面もあった。けれども、多くの魚たちが集団で迫る領域を抜けて行く時、体力を多く使ってしまった後では、得意のシザーズを繰り出すことは困難だった。低速のシザーズでは、劇的な効果を期待することは望めず、下手をすれば最初から読み切られてしまうという危険も否定できなかった。本能的に動き始めるボディ・フェイントが、幾度も危機的状況を救ってくれた。それは遠い日に身につけた基礎的な動作で、脳の指令より早く動く。コーヒーよりも深いミルクのようなものだった。

 まだ体は揺れ続けていた。とっくに彼らを断ち切ったことは、頭ではわかっていたけれど、まだリズムは強く体内深くに残ったままだった。

「あの人、まだ鱗をつけてるよ」

 深海から飛び出すには強いエネルギーを必要とした。地上の空気に慣れるには、長い時間も必要だ。

「もう七月なのにね」

 心ない言葉が上から響く。

 

 

 

 信号に近づいたところで、雨が降り出した。薄暗い横断歩道を一っ飛びで越えた。近道をしようとして道に迷った。行き過ぎたのか、行き足りないのか、不確かな内に住宅街の中に入り込んでいた。泥棒の足取りに似ているようで、自分が怖かった。気がつくと神社のような場所に来ていた。自分の家の近所に、このような場所があるとは知らなかった。細くひねくれた階段を上って行く。近道をしようと考えたばかりに、不安の深まる道にはまり込んでしまった。不安定な足下は、それがゴムの階段であることを示していた。気づけば随分と高い場所まで来ていて、見下ろすと恐怖が湧いた。その時、明かりのついたあの窓の向こうから、誰かが見ていたとしたら……。何かよからぬことを考えている人に映るだろう。そして、もう一度下を向いたら、本当に危ないことを考えてしまいそうだった。

 雨は上がっていた。突然、視線の先に見覚えのある看板。ゴムの階段が脚に絡みついて、記憶を引っ張ろうとしていた。居酒屋か、パチンコ屋だったか。あの無駄に持て余した明るさは。絡まるゴムを解いて、どうにか脚を引き抜く。階段を戻る脚が震える。階段も一緒に震える。近道を目指したのが、愚かだった。大通りから、見慣れたところを経るべきだったのだ。こんなところで失敗したくない。輪になった階段から階段へ、乗り移る途中で脚の震えは尋常ではなかった。もう心底嫌になった。

(ああ、面倒くさいな。自分は……)

 そう思うと不思議と緊張は和らいでいた。

(大丈夫じゃないか)

 たかが階段を下りるくらいのこと。

 

 

 

退屈なゲームだった。何もない空間の中で、誰もいない。悪者も、話し相手も、謎も夢もない。どこに行っても行き止まりで、ファイアーボールに触れる度に、命を失った。何度も死んで、また生かされることで、退屈が始まる。目的のゲームの中に置き去りにされることに、一つでも意味はあったのだろうか。

 退屈なゲームが延々と続いていた。続いて行くということ自体が、もはや退屈の中に溶け込んでおり、どこにも出口は見当たらなかった。僕は破れかぶれでシロクマをジャンプさせてみた。長い闇の中に入った。世界が壊れてしまったのだとしても、今までと違う感触を得ただけで、十分それは心地よいものでもあった。今まで一度も足を踏み入れたことのない洞窟の中に、シロクマは着地した。

 新しい退屈の始まりかもしれない。けれども、池の中にあるものを見つけた瞬間、その考えは覆された。最新式の巨大望遠鏡が浮かんでいたのだった。シロクマを跨がらせて、操作を学習させた。不器用なクマに機器の扱いを覚えさせることは容易なことではなかったが、困難な課題が生まれたこと自体が既に喜びだった。何もなかった頃に比べれば、困難など何でもない。そして、ほどなくクマは結果を出した。何が変わったかと言えば、遠くの世界が見られるようになったこと。依然としてどこにも行けないことに変化はないとしても、遙か彼方の世界を知れるように変わったのだ。

 触れれば触れるだけ、クマは上手くなって行く。横顔には自信のようなものが加わっている。突然すべては変わり始めた。もう、退屈なだけのゲームではない。

 

 

 

 夜明けは窓にトカゲが張り付いていた。それをきっかけにして、窓の外に目を向ければ、多くの野生が、すぐそこまで訪れているのがわかった。コアラが、そこまで来ている。光る目。あれは何か。何であれ、何も入って来られないように部屋のすべてに鍵をかける。目の光に遅れて輪郭を捉える。あれはシマウマだ。あれは緑の、何かだ。

「緑だって? シマウマだって?」

 父が疑いの目をこすりながら、どこからともなく起きて来た。確かにシマウマだと言っても、まるで信じようとしない。僕の言葉を信じられないなら、世の中の何を信じられるというのだろう。

「ねえ、よく見てごらんよ」

 トカゲのそばまで近寄っても、父にはまだ真実が見えないようだった。こうなったら仕方がない。僕は窓を開けた。

「ほら、ね」

 ガラガラという音に驚いて、何かが逃げ出した。駆けて行くに従って、それは野性味のない青年の輪郭に変わった。父の目が好奇の輝きを持って、逃げて行く背を追っていた。シマでもない、柄のシャツを着た青年だった。

「なんだ、人か」

 

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最終目的

2019-05-20 08:57:33 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 壮大な青の中からゆっくりとこちらに向かって来るものがあった。何かの意思や命令に導かれているかのように、確実に向かって来る。本当に「来る」と思えてからは、加速をつけて接近して来た。海を越えて渡って来た、赤い風船。

(なんて大きい)

 硝子窓に当たり、跳ね返って屋根まで舞い上がった。木枯らしが木々を打つような鈍い音。テレビアンテナに絡まってそのまま引きずり下ろした。その瞬間、画面は砂嵐に変わった。

「さよなら、テレビ」

 チャンネルを変えてみたが、どのチャンネルも肩を並べて砂嵐を流し続けていた。アンテナが、すべてのドラマを、クイズを、ドキュメンタリーをキャッチしていたことが、改めて証明された。振り返ってみれば、自分の時間を割いてまで見るべきものが、どれほどあったかわからなくなる。大家さんに、事故(事件)のことを報告しておいたが、風船の大きさについて、過小評価されたように思えた。

 テレビのない世界で、自然に触れ、自分を見つめながら時が過ぎた。

 再び海を越えて、風船は流れて来た。今度は、三つ同時に。窓に当たり、屋根まで跳ねて、絡みつく目的のアンテナなどはなくて、そのまま庭に落ちて、次々に萎んだ。急いで庭に出ると、その内の一つを動かぬ証拠として確保した。それからすぐ男たちが庭に駆け込んで来た。萎んだ風船に向けて、シャッターを切った。金属製のケースの中に二つの風船を回収し、それから屋根の方を見上げた。なんて礼儀知らずな。

 僕は庭に下りて、異国の言葉でアンテナの被害について訴えた。

「そんな馬鹿なことがあるか!」

 男たちは、真っ向から反論してきた。礼儀知らずで我が強い。

「証拠があるぞ!」

「それならこちらに渡せ!」

 即座に強く証拠の回収を望んだ。それこそが責任を自覚している、何よりの証拠じゃないか。誰が渡すか。すぐに大家さんに連絡してやる。

「待て! 誰と話している?」

 外国人たちは、早口で悪態をついた。証拠の回収をあきらめて、庭を後にした。とても納得はいかないが、深追いをするのは危険すぎた。

 

 

 

 電車はカーブにさしかかり、その分だけ揺れた。

「写真が落ちてるよ」

 抱えすぎたせいか、色んなものが零れ落ちていた。

「大変そうね」

 いつの間にか彼女は、近くにいた。いつの間にか、向き合って座り、言葉を交わしていた。

「家族の?」

 家族のもあり、自分だけのもあった。猫を追ったものも多かったし、狂ったように空と雲ばかりに執着していた頃もあった。

「これは誰かな?」

 クイズを出すつもりはなかったが、意図せずそのような形になってしまった。ハットを深く被っているのは、父が撮った僕だった。少しぼやけているところが、ちょうどよい。何か言いたげに口を開けて、生意気だ。

「この子たちが親戚の子たちね」

「これはたまたま写り込んだだけの。関係ない子」

 人懐っこく微笑みかけている。見知らぬ子も、今ではもう子供ではなくなっているのかもしれない。

「色々と大変ね」

 旅をするには自分を保つための持ち物が必要だし、旅先で手にする新しい物にも、すぐに愛着は生まれてしまうから。何かを捨てたり、置いて行くことも、抱え続けることにも、苦労はつきまとう。

「喉が渇いてしまうしね」

「今ならコンビニがあるよ」

 山田商店や林商店、田中商店や吉田商店といった店舗に入り込んで、古い地元の人の声を聞くこともあったが、コンビニにいるのはもっと若い店員が多かった。 

 いつの間にか、彼女が小さなポカリスエットを手渡してくれていた。優しい人だ。きっと、優しい人なのだろう。声を聞いている内、そんな気がしてきた。

「東京には長くいたよ」

 実際にはそう長くもなく、いたのは横浜だった。

「そうなの」

「路線もわかる」

 自分の通ったルートを知るだけだった。

「君は?」

 彼女の旅の行き先が、突然気になった。けれども、僕が訊いたのは、見知らぬ町の名よりも、もっと核心に迫る場所だった。

「君の最終目的は?」 

 初対面の人に、問いかける言葉ではない。古い写真を引っ張り出して、雲の形について話した方が、遙かに遙かにましだった。もう遅い。

「喫茶店」

「喫茶店……」

 それから長く間を空けてしまった。まるで、何も言葉が出て来ないというように……。彼女はすっと立ち上がり、行ってしまった。最初から誰もいなかったように、無人の席がずっと目の前にあった。

 彼女が置いて行った、ポカリスエットをずっと飲み続けた。言葉は、なかったわけではない。むしろありすぎて迷っていたのに。一番いいものを、見つけたくて楽しんでいたのだ。

 僕も「喫茶店」が好きだった。だけど、もう「好き」を語る人は消えてしまった。

 

 

 

 意識の外壁にある鍵を探しに行くためのあくびだった。尾を引くあくびの向こうに、自分でも忘れていた大事な何かが眠っているのかもしれない。自分は頼りなく、信頼性にも欠けていた。けれども、その向こう側にあるもの、自分の知らない自分なら、少しだけ希望を持つことも許されるように思えた。自分自身はちっぽけな存在だとしても、その中には宇宙の誕生へと続く秘密の道が隠されているのかもしれない。

 僕は次の次に降りるつもりだ。次の次、次の次、次の次……。忘れないように何度も唱える。カーブにさしかかり、ほんの一瞬明かりが消えたと思えたのは、自身の瞬きだろうか。一つあくびをする。長いあくびの尾に、もう一つのあくびが噛みついて、新しい口を開ける。犬も、隣のパンダも、その隣のシマウマにも……。種を超えてあくびは伝わって行った。そこにいるもの、その隣にいるもの、その空間にいるもの、目にしたもの、音を聞いたもの、気配を感じたもの。誰であろうと、あくびへの関わりを拒むことはできないようだった。名もない人から始まった小さなあくびは、抗し難い魔力的な感染力を帯びて、猫からトカゲへ、亀から博士へ、老婆から子供へ、木から花へ、とめどなく大きな広がりをみせて行った。生き物のすべてが、眠ることへの飢えと誘惑を持ち合わせていた。車窓の向こうに流れるものに、気を取られた隙に次を見失ってしまう。次だろうか。次の次は、もう次になったろうか。ドアが開く。ドアが閉じる。

「次は終点、夏休み中央」

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ラジオジャック

2019-05-17 03:26:39 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 ピアニカの音がするのは本当なら三年生になる女の子が悪い魔法使いによって今は虎みたいな猫にされながらもミの音を出そうとして闘っているからだった。音楽に憧れて、一つの曲が認められたら、本当の自分に戻れるかもしれない。微かな道筋を夢の中に描きながらも、まだ駆け出しの音階に触れたばかりだった。もしもミの音一つ、上手く出すことができたなら、そこからきっと恋の季節を歌い切ることもできるかもしれない。あきらめずに、何度も唇に触れる、夏の空気の出発点。どこか遠くで鳴り響く、高い金属音。

 セカンドが倒れて、ショートがカバーに入る。ファーストがオニオンを食べて、ショートがカバーに入る。ライトが光のリバースに呑まれて、ショートがカバーに入る。外野が泡と弾けて、ショートがカバーに入る。監督がビッグクラブに引き抜かれて、ショートがカバーに入る。色んなものが、色んな事情でポジションを空ける。その空間をいち早く見つけ出して、カバーに入る。そんな動作を繰り返し守備範囲を広げて行くショートの職人技を、猫はベンチの下に潜みながら見て覚えた。ある激しい交通渋滞の夜、猫はまんまとスタジオに入り込んで席に着いた。

 

「続いて雨上がりの小皿さんよりのリクエストです」

 そつなくDJを勤める猫に緊急事態が発生した。リクエスト曲の音源が見つからないのだ。スタッフの不手際か、あるいは新手の嫌がらせかもしれなかった。

「まだまだ夜は終わらないぜ」

 上手く間をつないでいる内に、発見されればよいが。猫は不安を声に出さないように注意した。オリジナル音源の代わりに、やむなくオルゴール・ミュージックが流されることになった。一番が終わったところで、雨の一夜は一層寂しさを増したように思われた。猫はオルゴールを背中につけて、歌い始めた。サビの部分を力強く歌った後で、詞が飛んでしまった。ラララ、ラララ。しばらく、猫はメロディーを追って口ずさんでいた。曲は途中で終わった。

 疲れた足を引きずって見知らぬ街を歩いた。体はすっかり冷え切っていて、暖を取らなければならなかった。古風な喫茶店に入ると恐れていたようにテーブルは低かった。少し前屈みになりながら、僕は自分のやるべきことに夜を使い込んだ。集中することで違和感は消えている。不自然な姿勢は必ず後から響いて来ることが、経験上はわかっていた。周りに座っている人は、みんな顔見知りのようだった。誰かが急に、席替えをしようよと言った。「夜も深まったしね」関係ない。夜が深まったから、何だと言うのだ。静かに打ち込む気配を作ることで、拒否の姿勢を示そうとした。けれども、僕はインテリアの一部に最初から取り込まれた存在に過ぎないのだった。多数決の正当性に流されるまま立ち上がらなければならなくなった。不名誉な形で、夜が取り壊されて行く。ファストフードにしておけばよかった。強い後悔。ささやかな冒険の果てに、自分の席も守れないとは……。

「君、そっちを持って」

 

「二十三時のラジオジャック。まだまだリクエストも愛も足りないぜ」

 

 ゆっくり眠るために僕は熊への転身を選んだ。誰にも咎められることなく、ゆっくり眠るためには他に道はなかった。突然叔父さんが亡くなったとか、高熱が出たなどと言い訳を並べて、罪悪感の毛布に隠れ込むのはごめんだ。あらゆる犠牲もよしとしよう。捨てるのではなく、ただ選んだのだと強く信じたかった。中断されない夢が描かれる時、夢と現実はひっくり返るのかもしれない。いつまでも、いつまでも、眠っていたいのだ。

「くまちゃんハウスだよ」

 大御所の声が響く。あとから黄色い歓声が広がった。すごいね。眠ってるの。ずっと眠るの。食べないの。起きないの。すごいね。大きいね。まだ眠り続けるの。食べないの。ひとりなの。聞こえないの。思ったより大きくないね。すごいね。眠っているの。

「さあ、みんな。よく見ておくんだよ」

 すごいね。初めて見た。寝相がいいね。聞こえないの。食べないの。邪魔じゃないの。どうして眠るの。いつから眠っているの。まだまだ眠るの。ねえねえ聞いてみて。あなたが聞いてみて。気持ちよさそう。お利口さんね。すごいね。眠ってる。食べないの。どこから来たの。ずっと眠っているのね。

「あまり騒いだら駄目だぞ」

 だめなの。すごいね。聞こえるの。起きちゃうの。大きいね。食べないの。いつ起きるの。まだまだ眠るの。だめなの。どうしてだめなの。本当に眠っているの。深く眠っているのね。

(眠れないさ)

 起きているさ。いいように言うな。眠ってばかりいられないさ。うるさいんだよ。みんな聞いているよ。お節介共が。見せ物じゃないんだよ。

(早く帰れよ)

 

「二十三時のラジオジャックは魔法に慣れた生活者のためのファンタジーラジオ。いつまでもおると思うなよ、親と俺」

 

 階段を下りると腐敗は始まりかけていた。

「暑いところに置いておいたら駄目じゃないか」

 暑くないと即座に母は否定した。

「いつから置いてあるの?」

「いつからってあんた……」

 不条理な問いが発せられでもしたように、母は不機嫌そうな顔をしている。

「夏の最中に」

 夏じゃないと母は季節をも完全に否定してしまう。そんな力が、どこにあると言うのだ。少なくとも、夏は夏じゃないのか。

 食卓前には父も座っていた。

「食べない方がいいぞ」

 やはりそうか。鼻を近づけると予想の通り嫌な匂いがする。台所の流しの一角に持って行くと一気に捨てた。

「一気に捨てなくても……」

 母が捨て方に文句を言った。一気も何もない。捨てるとなったら、もう容赦などいるものか。捨てるか、捨てないか。そこですべての決断は済んでいるのだ。そして、何も食べるものはなくなった。

 空腹な足は再び台所へと歩き、上半身はラーメンを作り出した。

 丼に移した時には、もう秋だ。突然、吸収が始まった。スープが恐ろしい勢いで、すべてを吸い込んで行く。箸をつけても、つけなくても、お構いなく、吸収はどうにも止められない。ラジオがどんどん大きくなって行くが、吸収に呑まれてスイッチは見つけ出せない。レット・イット・ビー。

「うまそうだな」

 下りて来た父が言った。

 テーブルの上にはカルボナーラ。

 

「二十三時のラジオジャック。まだまだまだまだ夜は続くぜ。

誰に求められたわけじゃない。だけど誰にも止められないのさ」

 

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追尾します!

2019-05-15 03:06:56 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 淡い期待を持って近づいた。ATMは、民家の敷地の中にあり、小さな明かりがついている。もしやと希望が涌いて来た。軽い罪悪感はあったが、正当な理由が僕の身体を強く前進させていた。一段高いところに設けられた他人様の敷地内を通って入り口の前に立つ。

 自動ドアはすんなりと開いた。円盤型清掃ロボットが、深夜だというのに店内を熱心に動き回って自分の仕事に没頭していた。もうすっかりやり尽くした感が見えるが、そんなことを少しも気にする様子はなかった。

 財布からカードを取り出してお金を引き出そうとしたが、既にすべての取引が停止中だった。ロボットがこちらに向かって急接近して、停止した。小さな機械の中心から旗のようなものが伸びて来る。

(特別警戒中)の文字が見えた。

「侵入者を追尾します!」

「僕は正当な利用者だ!」

「侵入者を追尾します!」

 応用力のないロボットとはお話にならない。僕はドアを抜けながら、飛行体勢に入った。ロボットも変形して、浮遊し始めた。ネオンも乏しい田舎の夜を飛びながら、逃げた。星がきれい。明日は晴れになりそうだ。ロボットはしつこく後を追って来た。飛行能力について言えば、申し分なかった。いつまでも忠実に、逃亡者の後を追って。もう、僕も彼も知らない街にやって来た。飛びながら、ブティックの中に入った。店員は眠っているのか、出迎えの言葉も特になかった。一番高い棚にあるシャツに手をかけ試しに広げてみた。値札はない。特に尖ったところのない、シャツだった。ロボットは退屈そうに多数の商品を眺めていた。

 

「追尾中です! 追尾中です!」

 ブティックを出ると次の逃亡先である書店に向かった。深夜にも関わらず、行き場を失った大勢の人たちが、それなりの本を手に夢を開いている。あるいは、触れることのできない本の背中を執念深く見つめている。普段は高くてとても手の届かない棚に並ぶ本の一つに手を伸ばした。飛びながら、目を走らせてみる。ロボットは、少しの関心を持って近寄っていた。

「追尾中です! 追尾中です!」

 

 ロボットはもう追っては来なかった。電池が切れたのかもしれない。全身の汗を流したくて、ひと気のない果樹園に降りて水を借りた。ひと捻りで思う以上の勢いで噴射してきた。驚きの余り一瞬身を引いたが、今夜の逃飛行の熱量からすれば、ちょうどよい。随分と逃げたし、機械的な執念にも、負けなかった。降り注ぐ水は、勝利の美酒にも等しいものだった。

「もう終わってるぞ」

 木のそばに老人が立っていた。とっくに果樹園は終わったと言った。いつから見られていたのだろう。夜の中で水に酔った顔を見られていたと思うと、急に恥ずかしくなった。少し借りただけ。言い訳のように、僕は言った。

 

「すぐに警官が来るさ」

 老人の目に冗談めいたところは、少しもなかった。早急に立ち去った方が良さそうだ。去り際を汚さぬように、シャワーの位置をちゃんと元通りにしようとして、手間取った。自分が思う以上に、疲弊していたのかもしれない。果樹園の出口に、既に彼らは到着していた。飛行体勢に入ろうとしたが、無理だった。厳しい逃飛行の果てに、浮力は失われていた。

「待て!」

 手を広げた警官と警官の間を、猛スピードで突っ切って駆け抜けた。奪った自転車に乗って大通りに出た。道の真ん中を、小さな子供がふらふらと歩いている。どうして、こんな時間に子供だけで……。相反する障壁の間で、僕はブレーキをかけた。もしも捕まってしまったとしても、見知らぬ子供と衝突するよりは遙かにましだ。振り返ることなく、速度を落とすと子供たちの横を通過した。幸いまだ僕の身柄は、自身の制御下にあった。緊急連絡を受けた警官の一人が、早くも行く手に立ちふさがった。再び猛加速して、その横を抜けた。一人かわせば、もう一人。彼らはみんな同じ色の服に身を包み、何かのゲームのキャラクターを連想させた。賑やかな太鼓の音が夜に響く、今日は何かの祭りなのだ。御輿を担ぐ集団とギャラリーの間を縫って、疾走する。

 

「自転車の若者を二十人ほど確保しました」

 誤認逮捕を告げる無線の声。最大の危機は去った。速度を落として細い道に入った。その瞬間、誰かが踏んだブレーキによって、突然自転車は止まった。どこに潜んでいたのか、無数の警官が自転車を取り囲んでいた。濡れ衣の一夜は幕を下ろした。

「追尾します!」

 肩の上で、清掃ロボットの声が聞こえたような気がした。

 

 

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ララとラララ

2019-05-14 02:41:09 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

「そもそも挨拶が」

 父はそう言って兄を責めた。

「挨拶なんて誰もしない!」

 黙り込む兄の代わりに、僕が異を唱えた。夜が明けても、年が明けても、親しくても新しくても、疲れても疲れていなくても、先輩も後輩も、何も告げずに行ってしまう。何も告げずに、

「行っちまうんだ!」

 自分に酔いながら言葉を足した勢いで家を出た。特別に行くべきところもなく、近所の家の玄関を潜る。

「挨拶にきました」

「挨拶だけなら帰ってちょうだい!」

 けれども、中に寿司があるのが見えたので、無理を言ってお邪魔した。姉の隣に座り、寿司をいただく。家に置いてきた兄や父のことが気にはなったが、それにも増して寿司が旨かった。つい数分前に喧嘩したことも、寿司の旨さが帳消しにしてくれる。寿司を考えた人、寿司を作った人、この場所に僕を置いてくれたおばちゃん、すべての人に感謝したいような気持ちにもなる。どのネタも、みんな外れなく旨かった。口に入れた瞬間に旨く、口から消えた後になっても、旨さが尾を引いた。

 その内、父もやって来た。兄も黙って寿司を食べていた。たらふくごちそうになった後には、ケーキとお茶までもいただいた。さて、トランプでも、とおばちゃんが言って、それとも寝るかと訊いた。

「寝る」

 姉が即答した。

 

 

 

「うさぎタクシーは一番安いんだけど、町を回って、途中で餅を配るのよ」

「そんなの嫌だ!」

 叫んだ勢いで惑星を飛び出した。我に返ると再び地に足がついていた。

公園の中で眠ろうとすると犬に追われた。簡単に眠らせてもらえると思うのが甘い。どこにでも、テリトリーというものがある。家にいる限りは、ずっと気づけないことだった。滑り台の横には、大きな玉葱が佇んでいた。

 透明化された玉葱の中に身を置いた。プライバシーと引き替えに身の安全が保たれている。散歩する人々によって、それなりの視線が投げかけられる。彼らに見えているのは、特別な野菜か、中に身を置く人の姿か。あるいは、何も映ってはいないのか。涙腺を刺激する成分が、ブランコあたりから放出されている。思い出して泣いてもいい。自身より、別の素材のせいにできることは、少し気の休まることだったから。

 

 

 

 エキストラとして立っていると主演の女がキスをしてきた。何も聞いていなかったのでどう反応していいかもわからず、何も演技らしい演技ができないままただ棒立ちになっていた。間もなく主演のかっこいい男がやって来ると、僕は捨てられた。短い夢が終わると次の現場へと急行する。「動きやすい格好で」と言うので、色々考えてパジャマを着ていた。

「コラッ! なめてんのか!」

 監督にすごまれたので、部屋に引き返してジャケット姿で戻ると今度は硬すぎると言う。

「君、南瓜を運ぶことがわかっているのかね? 汗だってかくんだからね」

 吸い取るような素材を着てきなさいと監督は言った。

 バスの中で女は東京行きのルートについてみんなの声を聞いていた。混雑する車内でも、親身になって相談する人が多くいたのは、女の持つ少し頼りなげな容姿のせいだったのかもしれない。夜を越えて走る運転手がたった一人では大変、とラジオからDJが語る。本筋本町では、より多くの人々が乗り込んで来た。ハンドルのすぐ横にまで押し込まれる先客。

「で、どこに行くの?」

 おおよそ話は聞いていたけど、聞いていない風にして話しかけた。代々木までと女は答えた。

「新幹線で?」

 女は地下鉄で行くのだと言った。どこかで乗り換えなければならないだろうに、彼女は自信ありげだった。

「臨時の南瓜地下鉄が伸びているのよ」

 

 

 エレベーターは超高速で上昇していた。数千の部屋を有する超高層ホテルの仕様に恐怖を覚えた。速い上に、揺れている。僕の部屋は、ずっと上の方にあるはずだった。だんだんと揺れが強くなって行く内に、急に視界が開けたのは、外の景色が見え始めたからだ。本当は透明な箱だった。今はもう、上昇するというよりも、横に動いている。景色が流れる。エレベーターではない。正方形の電車なのだった。

 部屋ではない、目的地に着いた。知らない土地の、工事現場、それが今日の現場となるのか。

「早く着替えて。時間がないぞ!」

 集合が遅いと現場監督がいらだっている。缶コーヒーを飲む余裕もなく、服を脱がなければならなかった。更に遅れてやって来る者もいた。それでも平気な顔で煙草をくわえている者もいた。黄金色の重機は既に精力的に動いていて、高く盛り上がった土山と格闘しながら、陽気なダンサーのように回っていた。青く澄んだ空に、土煙は真っ直ぐ舞い上がり、朝を渡る鳥たちの集団を呑み込むように見えた。鳥たちはその直前に向きを変え、花のように散った。左腕に袖を通したところで、誰かが質問する声が聞こえた。

「ロシアンルーレットはどこでできますか?」

 土地勘のない僕に答えられる問いではない。監督は胸の中から折り畳んだ地図を取り出すと、旅人の前で広げて見せた。

「ここに行けばできますよ」

 

 

 

 長いあくびをした。最初に唇が微かに動いた時に始まった歌は、惑星の隅っこを這っていた。最大化した口が睡魔の頂点を伝える頃、歌は既に世界中に浸透していた。老若男女、その歌い出しを知らない者はいなかったし、サビの部分を聞けば夕暮れの犬さえも尾を振りながらしばし足を止めた。長いあくび(たった一つのあくび)の終わり、唇が元の形を取り戻した時、歌はもう、一つの星全体を包み込んでいた。

 それは長い長いあくびだった。それはほんの短いあくびだった。ララとラララを多く用い、シンプルかつ起伏に富んだメロディーは誰の口にもよく合った。

 しあわせを一握りの形にするならこんなものだろう。ちょうどそのようなものが差し出された。甘さと冷たさが絶妙に合わさった。甘さだけなら軽くかわせた。冷たさだけなら熱い息で吹き消せただろう。そのどちらもが手を結んだ時、人間は突然無力になる。合わさったものを拒むことはできず、一つ口をあける間に(それはあくびだったに違いない)風の運び屋によって放り込まれ、噛み砕けば強く惚れ込み、溶け出せば大きな愛が生まれた。体内へと流れる道筋は、自分の内にあっても自分の制御下にはない、底知れぬ深い場所へと続いて行く。マスクをした男女が手にドリルを握り、荒削りな僕の中で工事現場を探していた。「お金はいくら持っていますか?」

 

 

 

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ひっかけ問題

2019-05-10 01:35:46 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

「日に五度も通院するんですか?」

 話を聞こうとする間にも、また軟らかい飴を舐めさせられて、舐めている内になんだか眠たくなってきた。気持ち悪い飴だ。うとうととして、はっとなった時には、先生は立ち上がってちょうど向こうに歩いて行くところだった。

「それで期間は……」

 先生を追いかけながら、会議室の中に入り込んだ。

「楓の時です」

 先生はきっぱりと言った。もう会議は始まっていた。これ以上はもう訊くなというような、強い口調だった。具体的な数字を使わずに、あえて他の言葉を当てたことは理解できるけれど。だとしても、「楓」がわからない。楓とは、いつなのだろう。どの先生も、みんな忙しそうで、会議の最中に個人的な質問をすることは、エゴが過ぎるのでは。ここにいる者の中で、患者は自分だけだった。

 天井からは、二匹の蛇が垂れ下がっているのが見えた。あれは、何を指すのだろう。

 

 

 

 何があるのかな。

 僕は教室モーニングのメニューの中をのぞき込んで、迷った末に「きつね」を注文した。

「きつねうどん定食ね」とおばさんは言って、教室を出て行った。待っているとお腹が空いてがまんできなくなってきた。授業は一向に始まらないし、菓子パンをうまそうに食べている奴はいるし、それでなくても僕には忍耐強さが欠けていたのだ。ポットのお湯を入れてどん兵衛を作った。空腹の時に作るどん兵衛さんのなんと魅力的なことだろう。僕は三分経ったところでもう蓋を開けて、どん兵衛を食べてしまった。

 ちょうど食べ終わったところで、おばさんは定食を運んで来た。お盆の上にあるのはご飯と漬け物とサラダだけだった。誰かがどん兵衛さんのことを、おばさんにリークしたに違いなかった。教室の中には、僕を陥れようと策を練っている連中が潜んでいることは、十分に承知していた。

 僕はもうなくなってしまったどん兵衛さんのことを思い出しながら、味気ないご飯を口に運んだ。サラダを食べて、朝も終わりと思っていると、おばさんが魚の煮付けを運んで来てくれた。既にお腹はいっぱいに近かったが、デザート感覚で煮付けに箸をつけた。結局のところ、魚が一番うまかったのだが、物事には順序というものがあるし、教室の中ではなおさらそれは守られるべきものではあるまいか。

 歯を磨く暇もなくテスト問題が配られた。

 第一問からして、ひねりが利いている。書き取りかと思えば計算もしなければならないし、それには特殊なプログラミングを学んでいなければならないという条件まで加わっている。しかし、どう見てもこれは罠に違いなかった。冒頭で難問を出すことで精神的に解答者を追いつめようとしているにすぎない。それさえわかれば、足止めを喰う理由はない。

 次の問題では、問題文がずれている。あまりにずれすぎて隣の人の問題文にまでかかっているように思われたが、それは思わせているだけで、うっかり乗ってしまうとすかさずカンニングの揚げ足を取られるに決まっている。これも見え透いたひっかけ問題にすぎないのだ。そうだとわかれば、これもまた読むに値しない問題であることがわかる。よって正解は飛ばすことだ。

 次の問題では早速、例文が与えられている。だらだらと続く長文で至るところに専門用語がちりばめられている。読み解くには非常に根気がいる問題だが、専門用語が重要なキーに関わっているとは限らないので、過度の警戒心は逆に問題を難しくしてしまうと推測される。だが、注意して例文を読み進む内に、いつしかそれは文字から米粒に変わっていることに気がつく。ここまで来ると自分の読解力への自信も少しは揺らいでしまう。この混沌とした例文の中で、いったい何が「それ」に当たるのか……。文末へと続く米粒は、やがて小さな羊の列にも見え始め、愚かな解答者を夢の国へと誘っているように思えた。

 早くも全問を解いてしまったという者が、お茶を入れに来たついでに、何気なく答案用紙を置き忘れて行った。少しでもそれに触れようものなら、たちまち悪者に仕立てられてしまうに違いない。コーヒーの香りを吸い込みながら、秘められた才能が覚醒する時を待った。自分の意思に反して、首が少しだけ傾いてしまう。周辺視野の中で捉えられた答案用紙。空欄には見たこともない数字が……。

「はい。そこまで!」

 

 

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あくびから猫

2019-05-08 03:46:39 | 夏休みのあくび(夢追い特別編)

 目を閉じて蝉の歌を聴いていると大きな木が浮かんで来る。空を抱えるように大きく伸びた木の上に、育ち盛りの猫が自分の才能を疑うことも知らずに登って行く。しっかりと安定したところから、いつ折れても不思議のない細く頼りない枝の先までも、過大な自信の芽生え始めた足を延ばす。一定の音程を保ち続けていた蝉が、曲調を変えて危険を知らせる。若い猫の足は止まらない。どこまでだって行けるはず。木々を揺さぶる風を感じた時、猫は帰路を失って鳴いた。

 僕は窓を開ける。絵のような空が一面に広がっている。思い切り空気を吸い込むと、大きなあくびが出た。

 

 

 

 新しいウィンドウズを更新するということで家が賑やかになった。遠い親戚のおばさんも応援に来て、家の掃除をしたり、お茶を入れたりしてくれた。蟻が小さな歯車を組み立てるような音がして、激しく動く画面を座って眺めている間、今回特別にやって来たウィンドウズの担当の人もすぐ後ろで少し心配そうに見守っていた。ようやく長い更新作業が終わると画面が鮮やかに切り替わって、初めて見る画面に少し戸惑った。アンケートには、自分の家族構成から、血液型、星座、利き腕、好きな俳優、好きな映画など、自分の趣味に関する事細かな項目が並んでいて、そのようなことは今までの更新には見られないことだった。

これは仕様です。無理に答える必要はありません。

 というメッセージが現れて、安心した。担当の人もそれと全く同じことを言って、僕は迷うことなくスキップした。

「何か他にわからないことはないですか?」

「いいえ、大丈夫です」

 では私はこれで、と帰って行くウィンドウズ担当者を姉が玄関まで見送ったが、僕は出遅れたので座ったままで顔だけを向けて見送った。無事に更新されてほっとしたか、担当者はドアの前で満面の笑みを浮かべていた。終わった、終わったと言って、続いて姉も、遠い親戚のおばさんも帰って行く。親戚らしく、誰かに似ていると思った。ほっそりとした、親切なおばさんだった。

 一人になると疲れからかめまいがして、部屋の隅っこにしゃがみ込んだ。しゃがんで臑を持つと頭が重さで沈み、代わりに足先が浮き上がった。そのまま十秒もの間、体のどの部分も床に着くことなく、浮いていた。

おーっ! 十秒も続いたから、本物だ。

 疲れから来る錯覚ではなく、本物の浮遊を手に入れたのだ。それから上手くバランスを工夫しながら、時間と高さを伸ばして行くことに成功した。いよいよ路上デビューだ。うれしくて夜の散歩道に飛び出した。夜ならあまり人目につくことがなく安心だ。いきなり飛びついて来たのは町の猫だった。一メートルや二メートルくらいの浮遊では、軽く飛びかかって来るので危険だ。しつこい猫をかわすために、五メートルほど浮遊した。猫はそれでも衰えない闘志で、飛び跳ねることをやめない。何度目かの跳躍では、僅かだが靴の先に触れられてしまった。(まったくなんて考えられない猫の跳躍!)僕が心配したのは、自分がひっかかれることではなく、猫の着地の安全についてだった。無計画に家を飛び出してしまった、過去の自身に、猫の影を重ね見ながら……。

 職質される少年と警官の帽子を見下ろしながら、夜の町を浮遊して回った。どこに行っても、どこかで猫の目が光っていた。一度光を放った目は必ずその後に飛び上がって来るという法則が見出された。夜が深まるにつれて、彼らはより敏捷性を増して行くようだった。最も激しい反応と執念深さを見せたのは、手にお菓子を持って浮いている時だった。例えばそれはチョコレート。

「君の好みには合わないよ!」

 

 

 

 空気抵抗が弱まりつつある夜道を歩いて帰った。開いているだろうか。軽い力で戸に触れると、ガラガラとわけもなく戸は開いた。「ただいま」まだ部屋の明かりはついていて、家族の誰かは起きている様子だった。戸締まりはこの夜一番遅く帰って来た僕の役目になったようだ。随分と鍵の数が増えていた。昔は一つ、単純な鍵が戸の真ん中に、あるいは一番隅っこについていただけだったはず。今は端にも中央にもその他の場所にも複雑な構造の鍵が用意されているのだが、どれからかければよいものか。それにしても、鍵の形は複雑だ。

「どうするの? これ」

 真ん中のところを押すだけだと兄が言い、信じ難いが言われた通りに試してみる。とても上手く行く感触ではない。

「うそだ! ほら」

 鍵は締まるどころか硝子が膨らんで浮き上がり出した。ほらみたことか。妙な事になったじゃないか。膨らみ、歪み、硝子は元いたところまで、戻りたがっているようにも見える。教え方が、いい加減だからこうなるんじゃないのかな。

「気圧の差でな」

 気圧の差を利用した鍵だと兄は言う。難しい言葉で、無知な人間を丸め込もうとしているのかもしれない。厳しい北風が、吹き込んで来る。

 ほら、もう変な人を運んで来た。歪んだ戸の隙間から、我が家に入り込んで来た。違います。うちは食堂じゃありません。

「ずっと真っ直ぐ行ってください。左に交番があります」

 案内している間にも留学生が次々と運んで来る野菜でもう手はあふれんばかりになっている。すり下ろすのを手伝って欲しいと言う。胡瓜にレタス、トマトにセロリ、そして牛肉は難しいので手で千切ってボールの中に放り込む。

「兄ちゃん、これくらいで大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」

 新聞を広げながら、兄は適当に確認をする。

 具材の集まったボールを抱えると色彩は豊かに見えた。下味をつけると言って、留学生は中に勢いよくソースを注ぎ入れる。手加減を知らない仕草。

「もういいよ!」

 誤訳されたように、なお勢いを増すソース。

「多いって!」

 

 

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