眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

真夜中の正着(95%の合駒カオス)

2024-08-30 00:35:00 | 将棋の時間
 ガタガタと窓を叩くような音ではっとして目を開けた。着信か? 悪い予感がしてすぐにかけ直した。03?
「折り返せないナンバーです」
(アプリを起動しますか)
 折り返せないということは、きっとそうする必要がないということだ。直感が示す結論を強く信じた。蒸気機関車が部屋の方に近づいてくる。真夜中なのに……。雨か? いや雨降りだったのは昨日のことだ。それも違う。機関車はこの街に走っていない。存在しない機関車はたどり着く場所を持たない。触れた覚えのないリモコンがテレビをつけた。

(まだ続いている!)

 局面はすっかり終盤戦になっていた。
 朝には強固な囲いの中に守られていた王は、今では草原の孤独の中にあった。それは思ってもなかったこと? あるいは読み筋の中にある遊泳か。棋士の表情には何も現れてはいない。(きっと色々とあったのだろう)追い立てられ、はがされて、あんなにも裸同然なのに、95%の勝勢らしい。AIには何よりも正確な読みがある。その上、人間には当然あるはずの恐怖が一切ないのだ。

 今、九段の王には王手がかかり、詰みと紙一重のようにもみえる。
 竜による王手。それはこの世で何よりも恐ろしい。

 何でもよければ何も迷う必要はない。ほとんどどうやってもいいという緩い勝勢もあれば、ただ一筋しかないという厳しい勝勢もある。AIの示す数値が同じ95%だとしても、その意味合いは人間にとっては大きく異なるのだ。あふれる駒台はまるでひっかけ問題のようだ。一間竜に睨まれて九段は頭を抱えたまま固まっている。ためらいは直感を曇らせる。けれども、ここにきて必要なのは正確な読みだけだろう。どれほど危険にみえても、読み切ってしまうことが勝利への近道であるに違いない。
 歩合いが利けばいいのだろうが、あいにく歩切れだった。はるか昔に8筋で連打した歩のことを、九段は後悔しているのかもしれない。

「私か私以外か……」
 拡張された駒台の上に身を縮めた猫は、切迫した局面を宝石のような瞳で観察していた。

歩の代わりにチョコはどうだろう?
 チョコは脳のスタミナ源として欠かすことができない。しかし、合駒の適性としてはやや疑問が残る。竜の炎をあびせられて一瞬で溶けてしまうかもしれない。それでは今までの苦労が水の泡だ。

消しゴムは?
 消しゴムはありふれていて小回りが利く。故に間違えやすいことも事実だ。回り回って記録係の机にまで飛ばされてすべての棋譜を消してしまうかもしれない。そうなっては藪蛇だ。






柿の種は?
 柿の種はおやつの時間の頃にやってきていつの間にか駒台に紛れ込んでいた。しかし、合駒としては強くない。襖の向こうから飛び出してくる猿の手に渡って何かの交換条件にされてしまうかもしれない。そうなっては完全なお手伝いだ。 





50円玉は? 
 50円玉はきつねうどんの釣り銭として返ってきた。金駒の顔をして居座っていたが、実際に手放しても大丈夫なものか。それは季節を巡ってありがたい賽銭箱の中に飛び込んで敵の勝利を祈願してしまうかもしれない。それでは泥棒に金庫の鍵を渡すようなものだ。






ラムネは?
 ラムネはしゅわわと音を立てて出番を待っていた。しかし、見るからに危ない。そんなものは敵の気合いによって瞬時に吹き飛んでしまうかもしれない。それでは金をドブに捨てるようなもの。






腕時計は? 
 腕時計の合駒をみて敵は戸惑いを覚えるかもしれない。しかし、冷静に眺める内に衝撃は薄れ徐々に敵の持ち時間が復活するかもしれない。それでは馬の耳にJポップを届けるようなものだ。






苺は?
 苺は少し酸っぱい顔をして機を待っていた。その高い能力は諸刃の剣にもなり得る。盤上に落ちれば最後、脇息の向こうに隠れているショートケーキに吸収されて敵のエネルギーになってしまうかもしれない。それでは飛んで火に入る夏の虫だ。






ラジオは?
 ラジオが第一感だとしたらそれは並の棋士ではない。仮に思いついたとしても普通は読みから除外するものだ。爆音は対局室の集中を妨げもするし、人気DJの呼びかけによって殺到したリスナーの声によって詰んでしまうかもしれない。そうなってはあとの祭りだ。






キャベツは?
 合駒のキャベツをみて敵は何を思うだろうか? 虚を突かれて悪手を指すだろうか。だが、達人同士の戦いではそうした奇をてらうだけの手は上手くいくことが少ない。盤上を鉄板とする竜の見立ての中でお好み焼きに吸収されてしまうだろう。そうなっては骨折り損のくたびれ儲けだ。






猫は?
 猫は午前中はゆっくりと庭を歩いていた。夕暮れに乗じて対局室に入り込むと、盗み食いの機会をうかがいながら駒台に身を置いていた。竜とのにらめっこの相手として猫はそれなりに相応しい。炎をあびて怯むこともないだろう。しかし、その深い瞳の奥に故郷をみつけた敵の指先に引き寄せられてどこまでもついて行ってしまうかもしれない。大事に寝かされて未知から安住へと膨らんでいく枕の果てには裏切りの使者に変わってしまうかもしれない。そうなってはただ切ない。






ハンカチは?
 ハンカチは移ろいがちな人の感情にそっと寄り添うことができる。あと少しのところでひっくり返りそうな局面を丸く収めるには当然有力な一手に映る。しかし、おせっかいな敵の読み筋の中の忍者によって九段の背中に落とされてみると、それを共通の目印とした報道陣がぐるぐると盤の周辺を回り始めるかもしれない。そうなっては対局室はもはや完全なカオスだ。







「残り1分です」
(一番大事な時に時間がないなんて!)

 記録係が涼しげな顔で告げる。九段はまだ頭を抱えたままだった。とても勝ちを読み切っているようにはみえない。朝には湯水のようにあると思われた時間が、今では1分もないなんてとても信じられない。どうでもよければ時間はいらない。大事にしたい、少しでもよい手を指したいから、止まる手があるのだ。時間切迫の恐怖に、自分ではとても耐えられそうにない。だから僕は観る将で十分だ。(遠くから見守っているだけで十分に怖いのだから)あの場所にいるのが自分でなくてよかったと心の底から思う。

・・・・・ 勝率 95% ・・・・・・

 それは一手も誤らなかった場合だけ。
 盤上を歩き続けるとは、なんて恐ろしい仕事なんだ!

・・・・・ 推奨手 46猫 ・・・・・・

(猫だって!?)

 画面の下にAIの読み筋が表示された。勝ち筋へとつながる最善手は「猫」と結論づけられた。それ以外の候補手はすべてマイナス95%(消しゴムも、腕時計も、キャベツも)、つまりは奈落の底に落とされるというわけだ。今までの好手も悪手も絶妙手も関係ない。間違いは間違いによって上書きされる。最後に間違えた方が負けるのだ。何が起きてもおかしくはない。それが人間の将棋ではないだろうか。

「50秒。1、2、3……」

 あふれる駒台の中から九段の指が猫に触れる。その時、少しナーバスになっていた猫の手が九段の手をひっかいた。

(あっ!)

「5、6、7、8……」

 一瞬ためらった九段の指が最善手を離れ、それ以外のものをつかんで竜の腹に打ちつけた。

(ひっくり返った!)









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カー・ナンセンス

2024-08-29 18:37:00 | 短い話、短い歌
危険! 危険!

「3分後に装甲車と衝突します」
「止まって!」
「停止した場合、隕石の直撃を受けます」
「右折だ!」
「右折禁止区域です。右折できません」
「いいから曲がれ!」
「右折できません」
「それならバックだ!」
「もどれません」

もどれません、もどれません、もどれません……

「脱出だ!」
「確認中……」
「俺を脱出させろ!」
「脱出のためのスペックが不足しています」

危険! 危険!

「誰かー! 誰か助けてくれー!」


AIが飛ばす倫理の焦点に
車がみせる左折信号

(折句「江戸しぐさ」短歌)








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総括の棋士

2024-08-28 14:36:00 | この後も名人戦
「私の出演はここまでとなりました」

「これまでの人生を振り返ってどうでしたか?」

「そうですね。自然豊かな星にたまたま生まれまして、人間としては5歳の時に初めて駒を持つことになりました。山あり谷ありでしたがどうにか棋士になることができました。我々棋士というのはですね、お互いがライバルでもあり同志でもあるというところがありまして。心強い仲間たちに支えられてここまでやってこれました。今度生まれ変わってもですね……。ちょっと待ってください。私は何を言わされてるのでしょうか。ただ単に、今日の出番が終わるというだけですから。これは振り返りすぎでしょう」

「これは大変失礼いたしました。先生にはまだまだ活躍していただかなければ」

「危うく引退に追い込まれるところでした。少し油断してましたね」

「棋士人生はまだまだ続くということで。安心ですね」

「そういうわけです」

「この後も、名人戦生中継をお楽しみください」







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記憶の1行ノート

2024-08-25 16:15:00 | コーヒー・タイム
「ごゆっくりどうぞ」

 ゆっくりするとは、寝かせておくことだ。触れ続けてはならない。ファスト・フードのようにがっついてはならないのだ。


 道を変えてみると随分と早く着いて驚いた。そちらの方が近い道(近道)だったのだ。当たり前のようにいつも歩いている道が、実は回り道だった。本当は三角形なのに四角形と思い込んでいたので、ずっと気づかなかったのだ。ぬーっと行ってひゅーっと行けばいいところを、かくかくと行っていたのだ。知らない間、随分と時間を損してしまった。しかし、たくさん歩けたと解釈すると得をしたとも言える。


 おはようも返ってこない。そんなことくらいで億劫になる。無力感に包まれて、情けない気持ちになる。合わないのでは? ここではなないのでは? 場違いなのでは? だんだん身動きが取れなくなる。
 予感だけで書き出してみたノートは、1行だけで止まっている。そんなノートが無数にある。何かあったはずなのは、錯覚だろうか。あなたにもそんなノートはあるだろうか。


(誰かほめてくれた人がいたな)
 過去の記憶を引っ張り出すのだ。何でもいい。
「ミスタッチが少なくて助かってます」
「単語の使い方が上手いですね」
「いつも鮮やかな寄せですね」
「ずっと低かったのに普通よりも背が高くなった」
 そうだ。おばあちゃんが、自分基準で僕の背を高く解釈してほめてくれたのだった。ありがとう、おばあちゃん。僕はまだ頑張れるよ。


 過去の記憶からいいとこだけ引っ張り出して、自分を元気づける。1行くらいの言葉が、侮れないものだった。
(覚えているのは1行でもいいのだ)


 あなたが書き出したそれが大いなる1行かもしれない。







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大恐竜時代

2024-08-22 17:23:00 | リトル・メルヘン
 人との距離が近すぎて疲れてしまった。私は思い切って転職を決意した。あまり人と関わらずに、人のためになる仕事。そんな仕事があるかどうかはわからない。けれども、納得がいくまで探すつもりだった。
「ここには失敗した猫が多く持ち込まれます」
 訪れたのはリメイクの会社だった。
「挫折した猫、躓いた猫、猫になれなかった猫たち。猫は好きですか」
「まあ」
「持ち込まれた不完全な猫を恐竜に描き直すのが仕事です」
「恐竜ですか?」
 唐突に恐竜が現れたので驚いた。
「みんな捨てられないのよ。消せないんだよね。だから、こういう受け皿が役に立っているのです」


「えーと、1つきいていいですか」
「はい」
「猫にしたら駄目なんですか」
「それでは失敗の上書きになってしまう。元の描き主に自分の無力さを思い知らせることになってしまいます」
「あー」
 そういうものだろうか。まだ完全には理解できなかった。
「どうして恐竜……」
「恐竜がいいんですよ。今いないのがいいんです。心を遠く遠くへ運んでくれる。そして軽くしてくれるんです」
 社長の言葉には強い熱意が感じられた。
「恐竜ですか」
「そう。猫にはなれなかったけど、自分のしたことは決して無駄ではなかったと思わせてあげる」
「あまり携わったことが……」
「恐竜がひっかかります?」
「まあ」
「恐竜の骨格については十分なサポート態勢があります」
「はあ」


「まだ不安ですか。よし! 思い切って言いましょう。既成のものでなくても結構。いたと思えばいい。そういう恐竜ならどうです?」
「いたと思える恐竜……」
 床からモンスターが湧き出して見えた。それはロールプレイングゲームの中で生まれた魔物たちのようだ。
「愛を込めることだよ。元作者の分まで」
「はい」
「近頃は依頼が増えて困っているくらいだよ」
「そうですか」
「うん。憧れやすく届きにくい時代だからね」
 条件は十分に満たしているように思えた。ただ初めて聞くような話が多すぎた。
「まあここはそういう会社です。あなたが探していたのとは違いますか」
 社長は恐竜のような目を向けた。私は身動きすることができなかった。









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日だまりのライブ

2024-08-19 08:00:00 | ナノノベル
「みなさんおはようございます。本日も朝のひと時をかわいい鳥たちの映像と共にお送りしたいと思います。早速ゲストをご紹介いたしましょう。鳥観察界の重鎮、内田さんです。今日はよろしくお願いします」

「どうも。よろしくお願いします」
「内田さん、今日はまたさわやかな朝になりましたね」
「そうですね。大変喜ばしく思っております」
「だいたいこの時間ですね」
「ええ」

「いつもの時間、いつも決まってここに鳥たちがやってきます」    
「鳥たちはルーティンがしっかりしてますからね」
「ちょうどこの木の下辺りが日だまりになるんですよ。画面の向こうのみなさんにも伝わってますでしょうか」
「鳥たちはみんな日だまりを見つけるのが上手です」

「さあ、そろそろかと思われます」
「もう声が聞こえてきそうですね」

「日だまりというのは、鳥たちにとってはどのような存在になるのでしょうか?」
「そうですね。心地よく暖かい場所と言えるかと思います」
「なるほど。鳥たちにとってホット・スポットと呼ぶに相応しいところかもしれません。内田さん、鳥たちの魅力を一つお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」

「色々ありますけど、まず仕草がかわいいですね」
「仕草ですか。大事ですよね。好きな人の仕草は真似したくなったりもしませんか」
「ああ、私はスパイ映画など見て劇場から出てきますと行動が少し機敏になっているように感じることがあります」
「はは。主人公の仕草が移ってしまうと。なるほど、CMなんかもそんなとこがあるのでしょう。あの人が食べてるのだったら、私も食べてみようかなとなったりもしますよね」

「なりますなります。ビールとかね。すぐ影響されちゃいます。弱いのかな」
「いやーそれが人間ですよ。だから好感度が重視されるというのもわかりますね。嫌いな人のは真似したくないじゃないですか」
「逆効果になるかもしれませんね」
「ビール以外にも何かあります?」
「ラーメンとか。テレビでやってるとすぐ食べたくなっちゃいます」
「また美味しそうに見えるんですよね」
「昨日はチキンラーメン食べました」
「チキンラーメン」
「チキンラーメンはずっと好きですね」

「結局、何でもはじまりは好きからなのかもしれません」
「好きでないと続きませんしね」


「ということで今日はかわいい鳥たちは来てくれませんでしたけれど」

「生き物というのは気まぐれですから」

「そうですね。番組のために生きているわけではありません。ということでお許しいただきたいと思います。また明日に期待することにいたしましょう」

「放送は終わっても日だまりは待ってますから」

「いやー、残念。それではこの辺りで失礼いたします」


「私は待ってますから」

「さようなら」







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アスリートの介入

2024-08-17 15:47:00 | 桃太郎諸説
 昔々、あるところに太っ腹のおじいさんと絵に描いたようなおばあさんがいました。おじいさんは鬼のように山に芝刈りに、そしておばあさんは清く正しく川に洗濯に行きました。おばあさんは、しばし太っ腹じいさんのことを忘れ、洗濯に没頭していました。そうしているとおばあさんは瑞々しい魚のように自分らしくあることができるのでした。

どんぶらこ♪
どんぶらこ♪

 上流から美味しげなフルーツが流れてきました。りんごかな? いいやそれにしては大きすぎる。ぶどうかな? いやいやそれにしては素朴すぎる。いちごかな? いいやそれにしては生意気すぎる? パイナップルかな? いいやそれにしては不自然すぎる。

「そうだ! あれは桃だ!」

 おばあさんが声に出して叫ぶと驚いた小魚たちが川から飛び上がるのが見えました。一仕事を終えてちょうど小腹も空いてきたところ。こいつは渡りに船だぞとおばあさんは思いました。流れてくるものは、まだ誰のものとも決まっていません。一番先に見つけたものが、それを手にすることが許されるのでした。おばあさんは川から身を乗り出して、虫取り網を伸ばしました。もう少し、もう少し。あと少しで、大きなご褒美に届きそうでした。
 その時、下流から流れに逆らってものすごいスピードで上ってくるものがありました。それはカヌーに乗った鬼でした。鬼は躊躇う様子もなく一気にカヌーを寄せるとあっという間に桃をさらって行きました。おばあさんが間に入るチャンスもない早業でした。

「選手か?」

 明日のメダリストかもしれないとおばあさんは思いました。







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からくりタイム

2024-08-16 22:38:00 | 夢の語り手
 恐ろしくありがたいベッドが与えられたので戸惑っている。今日はここで眠ってもいい。いつもとは違い思い切り腕を広げ、足を伸ばすことができる。しかし、それはあまりに無防備な形だ。もしも今日それを許してしまったら、明日からの自分はどうなってしまうのだ。(今日くらい、一日くらいいい)その一度のために、元に戻れなくなってしまうこともあるのだ。それでもこれは1つの機会であるように思われる。少しだけなら構わないではないか。明日に憂いが及ぼうとも。「まあ、いっか!」僕はベッドにダイブする。
 改札があり階段があった。歩道があり人々が歩いていた。雨が降っていて明かりがあった。木に埋もれかけた信号機があり商店街があった。ベーカリー・ショップがあり、近くに住んでいた。その風景がいつか暮らしていたところなのか、夢の中につくられたものかわからずにいる。たくさんの駅に降りた。たくさんの雨にあった。色んな人がいて、色んな街に行った。あまりにありすぎて過去は夢のようにぼやけ始めていた。

 年齢不問、但し芸歴200年以上に限る。あふれる打ち消し表示に惑わされながら、僕らは日々無意識に自分の座標を探し続けていた。店長のおすすめモーニング、4000カロリーを流し込めば影が30光年揺らぐ。エレベーターのボタンを連打する。行方不明の降水確率を占いながら目に映るのは破壊されたルート3のボタン。光速で通過した対局室に評価値が見える。-500。ぱっと見互角。午前0時から始まるビギナー・コース。12級の有段者を名乗る先生が羊の数え方を教える。

「無になるまでおとなしく数えましょう」

 数字に埋もれながら落ち着いていた現代的ライフ。影も形も持たぬ羊が従順である理由なんてなくて、突然それは狂気を秘めた雨粒となって襲いかかってくるのだった。無惨に折られた8メートルの傘を投げ捨てて、僕らは眠れない書店の中へ逃げ込んだ。
 日常と非日常が交錯する時、詩の階段が現れる。4段飛ばしで駆け上がれば、二次元の小部屋へと続くような階段だ。
「外で食べるカレーはなんで美味いのでしょう」
「風が交じるからでは?」
 おしゃべりな風が窓を叩いている。
「伝統的な葡萄酒を新しいソファーに寝かすのですよ」
 大賞を決めましょうと誰かが言った。







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ミステリー・エゴ

2024-08-15 22:34:00 | 短い話、短い歌
 エゴの実が世界を救うと強く信じられた。最初の愛を問えば、どんな生き物でも自分自身へかえるものさ。我を愛し、我の友を愛し、我の手を愛し、我の家を愛し、我の町を愛し、我の飯を愛し、我の書を愛し、我の歌を愛し、我の子を愛し、我よ我よと……。我から我へ平和への拡散がどこまでも続くように思われたが。
 どこかで育て方はまちがわれた。


エゴの実をおっとっとっとまき散らし
一面に極悪新世界

(折句「エオマイア」短歌)








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突然カフェ

2024-08-15 18:30:00 | コーヒー・タイム
 その周辺だけ極端に明るく輝いていた。祭りかと思って近づくと、新しくカフェができていた。昨日前を通った時には、何もなかったはず。カフェは突然できたのだ。
 店の前には、大きな花が並んでいる。

 どうして花なのか?

 たぶん、花でなくてもいいのだ。何でもいいのではないか。けれども、何でもいいというのは、最も難しい。定番のものを出しておくのが、無難だろう。例えば、ドラマがそうだ。医者か弁護士かを出しておけば、大きく外れもしないだろう。
 壁がきれいだ。走り書きの線も傷も、全くない。

(ヨーグルトに何を足そうか?)

 僕はぼんやりと考えていた。
 頭上に載せるのは、リボン? 鳩? 皿? ボール? それによって世界観は変わる。そのような問題に似ていると思った。グミ、アイス、はちみつ、ジャム、バナナ、グラノーラ、ナッツ、バナナチップ、グランベリー、カンロのマシュマロ……。今まで色んなものを足してきた。どれも納得がいかなかったわけではない。むしろ、正解が多すぎて困るのかもしれない。記憶の切れ端が壁に行き当たった。この壁は、1年後も変わらずきれいだろうか。

(ここは新しいパワースポットになるだろうか?)

 秘密基地は、いくつもあった方がいい。いつも自分の居場所になる保証はないし、先に占拠されてしまうこともあるからだ。
 パワースポットは、空間によってのみ力を発揮するものではない。背景も大事なのだと思う。いつ、どういう形で、どういう経緯で、どういうタイミングでたどり着くか。そういったことすべてが重要ではないか。
 そんな昔話もあっただろう。
 人と同じようにやっても、同じようにしあわせになるとは限らない。このブレンド・コーヒーだって、同じようで違うのではないだろうか。






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眠れない夜にワンルームで小説を

2024-08-14 19:17:00 | ナノノベル
 立っていられないほどに眠い。バックグラウンドで何かが鳴っている。赤いギターを抱いた謎の集団が夜明けのように浮かび上がっている。何の証拠を隠し持っているのだと言って犬が執拗にお腹をつっついてくる。違うんだ。これは本当の時じゃない。どれだけ努力してもパスコードはまだ認知されない。心細い待受画面が辛うじて入力を受け付けている。次は、まだ何かありますか? はっとして目を開く。ちゃんとしなきゃ。歯を磨いて安心してベッドに潜り込む。途端に目が冴えてくる。今度はどう頑張っても眠ることができない。眠れない夜がまた目を覚ましてしまった。
 ずっと立っていたがバスは止まらなかった。何かを引きつけるには僕の声はまだ小さすぎた。朽ち果てた椅子の上で優しい訪れを待つ間に、見知らぬ者たちの足音と冷たい季節が通り過ぎて行った。

「また春だね」
 おばあさんが隣に立っていることに気がついた。
「ほとんどのものは失われていく。けれども、それは消えてしまったのではない。どこか別の場所を見つけて移っていったんだよ」
 おばあさんはそう言って飛び立つと雀たちがくすくすと笑った。僕はずっと不機嫌なままだった。

(何が面白いの?)
 何かは別に決まっていない。ある時におかしみを見つけた者が面白く、見つからなければ、永遠に面白くはないのだ。
 吹き抜けた風が、多くの通り過ぎたもののことを教えてくれた。朽ち果てた椅子の上で、僕は訪れないバスを待ち続けた。ほんの一行でいい。ただ扉を開けて招き入れてくれればよかったのでは。真夜中になっても何も光らない。眠れない夜はもう始まっていた。果てしなく長い空白の時間。ずっと遅れてやってきた理解が、自分が作者であることを教えてくれた。待っているだけでは何も訪れはしない。

「ここはどこ?」

 最初の問いは永遠の問いだ。

「コーヒーは美味しいですか?」
「いいえ。コーヒーカップがとても白いです」
「バイオリンの演奏はありますか」
「いいえ。ゆるゆるとしたものが右脳に立ち上がるでしょう」
 枕がマグロに入れ替わったとして、会話は何事もなかったように続いていくのを僕はみた。終わらない枕投げの中を、マグロは平然と泳ぎ続けていたのだ。待合室にやってきた名探偵は客の懐に容易く入り込んだ。好みのタイプから白ワインを引き出すと悩める患者の心をミステリータッチに転がしてみせた。おかげで診察時間は終わって先生は家に帰ってしまう。
「とてもまとめることなんてできない」
 家の荷物が多すぎたのだ。守りを放棄して現状を打ち破るための方法を、彼はずっと模索していたのだった。
「自由への愛があふれるようになったらそれは私の望んだこと。みんな置いて行きなさい。殻を破って飛び立つ時がきたのです」

「美味しいお茶が入ったで」
 ゾンビが横から入ってくる。うるさい、向こう行け。父がわかりきったことを言うために降りてくる。わかってる。僕なりにちゃんと頑張ってる。猫が缶詰をパズルにして遊んでいる。うるさいな、もうみんな帰ってくれ。彼らは鍵がかかっていてもまるでお構いなしで入ってくるので手に負えない勢力だった。夜毎部屋の中に入ってきては、僕の精神世界を邪魔するのだ。だから僕は自分の部屋が嫌いだった。一刻も早くここから抜け出したい。エアコンの風で肩が冷える。窓を開けるとピアノの音が聞こえた。女が地上で演奏をしていた。すべての干渉が行く手を阻もうと企んでいる。出し惜しめば僕は小さくなって行くばかりだ。放出し続けなければ僕は生きられない。

「痛かったら左手を上げてください」
 歯科医は僕を椅子にくくりつけてから語りかける。まだ何もしてませんよ。フライパン返します。お父さんみえてますよ。はい猫が横切ります。明日は雨ですよ。自転車左です。ちくっとしますよ。次はギリギリしますよ。ドリルがねじ込まれ奥歯にサイコロが埋め込まれようとしている。歯科医は僕を運任せの人間に改造するつもりだ。
「やめろ! 痛い! もうやめてくれ!」
 叫んでも声にならない。延々と続くギターソロの中で風が僕の頬に触れる。お餅が入ってぷくっと膨れた頬だった。

 母星から遠く離れた場所に僕らは残された。船は近くを度々通り過ぎるが、最接近し着陸する様子は見られなかった。ここは関心の座標に含まれていないのだろう。持ち合わせのソースが、救出までのタイムリミットとされていた。楽観的だった初期は、先も考えずにまっすぐにソースを使った。時が経つにつれて徐々に慎重に放出するようになったが、補充なきものの先は決まっている。
「空っぽになるまでに来なければ、そういうことだ」
 先に尽きたのは友の方だった。
(すべて終わったよ)
 そんなことがあるものか。忘れられるには、僕らはあまりに惜しいのだから。

「まだあるはずだ!」
 振り上げたソースはもう下ろせない。君が出ないとしても、僕は違う。
「あきらめろ。僕らは同じ時に来たのだからね」
 空っぽになったのはソースじゃない。胸の中の希望なんだ。
「おみくじは待つもの。ソースは自ら絞り出すものだ!」
 僕は最後の力を込めた。
 別に多くを望むわけじゃない。たった一日が輝いたなら、人生は大事にとっておくこができる。(ここにしかない)一握りの実感を求めて僕はここまで来たのではなかったか。
 宇宙の果てに近いから、きっと発見が遅れているだけだ。
 遠くを見つめた時、終わりは始まりのように光るだろう。

 窓を開けると女が下から布団を積み上げて僕の部屋まで迫ってきていた。ピアノの女だ。
「何をしてるの? ここは僕の部屋だぞ」
「わからない。だから人生はわくわくするのよ」
「僕の好みじゃない。他でやってくれ」
「いいえ。この布団はあなたのプロットです」

 不愉快な女だ。
 ゾンビの入れたお茶を飲んで落ち着こう。
(お茶じゃない)
 アップルジュースだ!
 カテキンじゃない。食物繊維の方だ。

 どこから吹いているのだろう。
 閉め忘れたのか。確かめてみてもどこにも隙間は見当たらない。僕の感覚は正常で、確かに冷たく感じられるのだ。それでは、いったい。
「あなたの知らないところからよ。あなたは全方向を同時に見渡すことはできない。振り返った刹那、今見ていた方は疎かになるの」
 見渡せないからどうだと言うのだ。
「君は誰だ?」
「好きだったでしょう」
 女はすーっと息を吐いた。けれども、僕にはそれが言葉として入ってくるのだった。
「苦痛が上回った時、みんな離れて行ってしまう。それでも好きは元の場所には残ってる。昨日できたことが今日はできない。今日できそうもなかったことが明日にはできる。人間は気まぐれなものよ。だからあきらめないで」

「ここはどこ?」

 最初の問いは永遠の問いだ。

 眠れない夜が明けることを夢見る内にとうとう僕は息絶えてしまった。ゾンビも父もドロボー猫ももういない。代わりにもっと多くの部外者たちが土足のまま僕の部屋の中に入り込んできた。僕の詩の深層を突き止めたいという欲望を抑えきれなかったからだ。

「心臓マッサージを!」

 胸にはパイロットが突き刺さっている。次の瞬間にもありふれた未来を拒みながらあらぬ方向を求めて駆け出していきそうだ。胸にはまだ強い意志、あふれるほどの未練が感じられる。

「その必要はない! 生きている!
インクが滲み出ているじゃないか。
だからこれは遺書じゃない。小説だ!」

 最期の時がきてようやく僕はみつけられることになった。

 ありがとう。
(やっと報われたんだ)







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考えさせるカフェ ~1/2カーテンの謎

2024-08-12 23:47:00 | コーヒー・タイム
 どうして薄緑のカーテンは、今日も半分下がっているのだろうか。コーヒーを口にした瞬間から、疑問が湧いてくる。コーヒーの中に含まれる成分が、考えさせるのだろう。

 陽射しが強い時間に誰かがカーテンを引いて、そのままになっているのか。極端にプライバシーに配慮した結果なのか。それとも逃亡者が逃げ込んで、自らカーテンを下げたのか。理由は何もないということはないか。理由はなく、誰もそれを指摘もしない。

 カーテンが及ばない下の隙間から、僕は外の世界をぼんやりと眺めていた。大人か子供か。先生か薬剤師か。業者か一般人か。自転車かバイクか。旅人か仕事人か。猫かプラスティックバックか。落ち葉か蝶か。
 半分になった世界は不確かでいて、想像を刺激する。全部見せないことによって、こちらに投げかけているようだ。シマウマか横断歩道か……。
 夕べはぼんやりしながら横断歩道を渡っていた。気がつくとすぐ前を車がカーブして通過して行った。はっとした。ほとんどかすめるように左から曲がって行った。

(止まるのでは?)

 確かルールではそうなっていたはず。ぎりぎり間に合ってはいけないのではないか。こうやって、ある日突然消されてしまうのだと思った。取るに足りないもののようにされた。存在感がなかっただろうか。僕は幽霊のように歩いていただろうか。
 小学生の頃、突然、死について考え始めた。死ぬってどういうことなんだ。消えるのか。どこに行くのか。完全になくなるのか。無になるのか。自分が存在しない世界。それは何て恐ろしいのだ。何て寂しいのだ。考えられないほどに恐ろしくて、考えるほど恐くて、どうしようもなくなって、考えることから逃げ出したのだ。木ですか、キリンですか?

 正解はわからない。
 考える内に夜がやってきた。
 カーテンを下ろすに相応しい時間だ。








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ラッシュ

2024-08-11 23:24:00 | 将棋の時間
 何度目覚めても完全に自分を取り戻すことはできない。いつだって半分は夢の世界に置き忘れている。だから完全に正気な人と仲良くすることは難しい。目覚めは春だ。輪郭、影、記憶、窓の外、光、電車の音、重力、歌、好きなもの、好きになれないもの、痛み。少しずつみんな戻ってくる。お前はいいよと拒むことはできない。順路は変えることができない。

 僕はぽかんと上を向いている。ボールはまだ落ちてこない。ホームラン? 隣で見上げていた猫が慌てて逃げ出して行く。雨? ドームじゃない。野球じゃない。何か妙だ。つかみ切れない空気。何かが間違っている。いや、何もかも変じゃないか。お茶と畳の匂いがする。ゆっくりと空から落ちてくるのはと金だった。
 今、振り駒をしたところだった。
 ここは駒犬の間だ!

「それでは時間となりました」

 三間にまで行った飛車が1秒で四間に出戻りするとホームにいた2000人の乗客がずっこけた。評価値は200ほど下がったが人間的に見ればまだ互角の範囲に収まっている。序盤から惜しむことなく投入される時間。先生の時間はいつだって足りない。まだ見ぬ指し手がどこかで眠っている。それを掘り起こすのが探究者の使命。もっと深く、もっと鋭く、もっと機敏に、もっと奇妙に、もっともっともっと探究の野獣が目覚めて盤上を駆けめぐる。その間、僕も一緒になって読み耽る。記録用紙はずっと白いままだ。

 悩ましげな先生の頭に基地局が立ち上がってグローバルに新手を集め始めた。3月の雲、ふざけた鴉、風化した上の句、近所の野良猫、マカロンの残党、異国のヒットチャート……。霊的な風とカオスに触れた角がショートを起こすと突然炎上した。

「水だ!」
 取り乱した先生の頭に僕はボトルに入った水をぶっかけ事なきを得た。

「この手は?」
「40分です」
 先生の時間はいつだって足りない。

 中盤から突如目覚めたスナイパーが居飛車陣の勢力を一掃し始めた。金銀桂香から隅々の歩まで遠慮なく手駒に加え始めると、振り飛車の大将が悲鳴を上げた。

「ひえー! もう載り切れないよ。何か持ってきて!」
「何かって言われても……」
 無理なリクエストに僕は動揺を隠せない。だけど、苦しい時に何かをひねり出せなければ、自分の壁を越えてはいけない。

「何でもいい!」
 追い込まれた僕はゴミ箱をひっくり返して駒台の横に置いた。
「おお、いいじゃないか」
 即席の駒台の上にあふれ返っていた歩が次々と乗り移る。

 先生が手を伸ばして棋譜を求めた。
 しばらく目を落としていた先生の顔が奇妙に険しくなっていき、やがて真っ直ぐに僕の方を睨んだ。返ってきた用紙を見て僕は青ざめた。
 四間飛車の振り出しは順調だったが、途中から符号がずれ出していたのだ。数字と数字が合体と分裂を繰り返しながら、猫に似たもの、鬼に似たもの、消しゴムに似たもの、雲に似たもの、ティラミスに似たもの……。人参、椎茸、水風船、マンモスに乗った火星人。これは文字化けカオスだ! 

「君これはいったいどういうことだね?」

 記録というのは何よりも正確でなければ意味がない。そして対局は一度切りなのだ。何度指しても今日と全く同じようにはならない。失われた一日は二度と再び戻ってくることはないだろう。

「ちょっと待ってください」

 最善手は冷静のあとにやってくる。そう信じて僕は待ったをかけた。






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2.8キロ・コーヒー 

2024-08-10 21:45:00 | コーヒー・タイム
 ストローの抜け殻が落ちている。誰も拾いに来ないのだ。ずっと気になってしまうくらいなら、気づかなければよかった。
 どうして誰も拾おうとしないのだ?
 面倒くさいのか、業務に含まれていないのか。見て見ぬ振りをできる人の集まりなのか。あるいは、上を見ている人の視界には入らないものなのかもしれない。
(まあいいじゃないか)
 もしもそういうスタンスの店なら、信頼性に欠ける。汚れのついたカップでも、落ちた豆でも、平気で使っているかもしれない。

「僕のかな?」
 誰も気にとめないということは、そういうことではないのか。この先のどこかで落としたものが、遡って現在の僕の傍に落ちているのではないか。
(お前が拾えよ)
 そういう目で、誰かが僕を見ている気がした。





 どうしてここまで来たのだろう。
 僕は2.8キロの道程を歩いて来たのだった。
 歩くとどんどん景色が変わる。それが楽しかった。窓辺にかけて一方的に動くものを見ている楽しみとも違う。共に動きすれ違うことがある。道の上では、風や景色を感じることができる。同じに見えても全く同じ道はないのだ。歩く度に街の移り変わりがわかる。さっき来たような道でも、帰路ではまた別の顔を見せることがある。自転車を使えばもっと早く来られるかもしれないが、僕は無駄なことをしたいのだ。
 歩いている時は、頭を空っぽにできるのがいい。何も考えなくていいのだ。だから、何かを考えることだってできる。
 たどり着いた実感を得るために、ある程度の距離が必要だった。例えば、それは校長先生のお話だ。一行では味気ない。よくわからなくても色々あって、ようやく終わりが見えてきたという方が、喜びがある。
(2.8キロ)
 それはほんの少し遠いかな、と思えるくらいの距離だった。

 基準となる器を求めて、僕はここまでやってきた。
 1つのコーヒーカップ。カフェという空間。テーブルの形。閉店時間という結末。そうした器の中に身を置いて、何かを考えたかったのだ。考えるには、あらぬ1点を見つめねばならない。視線の先には広がった自由な空間が必要だ。ここにはそれをかなえる高い天井がある。

 よい考えが生まれる前に、何も考えない時間がほしかった。あと100年早く来て10年ゆっくりしたかった。遅れた分だけ閉店時間が気になる。けれども、時間は一定のものでもないはずだ。自分が冴えて高い集中をみせられれば、限られた時間を引き延ばすようなこともできるのではないだろうか。

 2点間の距離が今度は気になり始めた。
 一旦それが発動すると、様々なところに距離を感じた。隣人と自分。机と椅子。コーヒーとポメラ。ポメラと僕。天井と机。
 遠すぎず近すぎず。最適な距離を、互いに求め合うのだ。

(落ち着ける空間は貴重だ)





 僕は地下街のカフェのカウンターにかけた時のことを思い出していた。僕がかけてからしばらくして、隣に鞄が置かれた。次々と横並びに。それから3人がやってきて、横で談笑を始めたのだ。何か自分だけが部外者になったようで、落ち着かなかった。(先にいたのは自分の方なのに)
 テーブルが空いてなかったのだろう。楽しげに話すのだが、声が大きいのが気になった。だが、カウンターで2つ隣の人にも届けるなら、多少大きくもなるだろう。

「あははははっ!」
(3人だから)
(若いから)
(冬休みだから)
(旅の途中だから)
 声は大きくなるものだ。
 僕はそう結論づけて納得したのだ。

(どうした環境に身を置くことになるか)

 どんな場合でも言えることだが。最初は自分で選べたとしても、途中からどうなるかは、わからないのではないだろうか。確率とか運とか。そういうことになる気がした。

 表の看板が取り込まれて、すぐそこに結末が迫っていた。
 僕はまだ何かを考え始めたばかりだ。








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クラウド・リュック

2024-08-09 00:36:00 | 短い話、短い歌
 生きることは背筋を鍛えることだ。物心ついた時から歩き始めた。思い出いっぱいをリュックに詰めて。いいことばかりじゃない。中にはあってはならないこと、死にたくなるようなこともあった。だけど、みんな捨てられなかった。(苦みも古傷も私の一部だから)傷心も、裏切りもみんな詰め込んで歩く内にだんだん重くなっていく。ロングコートの上にリュックを背負って歩いたある冬の夕暮れ、強く背中を引っ張られたようだった。まるで過去という名の魔物がそうしているように。駄目だ! もう歩けない! 僕はそのまま道端にひっくり返りそうになった。
「そんなあなたにクラウド・リュック!」
「誰だ、あなたは?」
「エア・コーディネーターの風です。これを」
 誘いにのって荷物を新しいリュックに詰め込んだ。今までのとはまるで感じが違う。ああ、軽い!
「小学生に戻ったみたい!」


アラクレが竜を背負ったくつろぎの
和室にみえるずんの絵手紙

(折句「アリクワズ」短歌)








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