折句ラッシュ・クリスマス

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、縦読み
クジラうえリクエストした水族館マダイが歌うスローバラード、クリスマス

【曖昧コラム】寿司が食べたくなったなら

2020-11-10 10:38:00 | フェイク・コラム
「不意に酢が恋しくなる」

 食は生活の基本である。基本を疎かにすると何事も躓くものだが、基本基本と口を酸っぱくすると煙たくなったりもする。カレーもいい、ハンバーグもいい、オムライスもいい。いいのだけれど、何だか面倒に感じられる。
 そういう時に、食べたくなるのが寿司ではないだろうか。
 さあ、心が決まったらご飯を炊こう。


「ちょうどいいご飯を用意する」

 釜に3合の米を入れて炊く。スイッチを入れれば、あとは小一時間待つだけだ。炊きあがるまでの時間、特にこれと言ってすることはない。テレビを見たり、音楽を聴いたり、寝っ転がったりと、気ままに過ごすことができる。心の中に待ちわびるものがある時、何をしていたとしても、それは普通よりもほんの少し特別な時間である。
 さあ、ファンファーレが鳴ってご飯が炊けた。
 まずは杓文字を使いごはんに1/2の区切りを入れる。用意したタッパーに半分移すとちょうど1.5合のご飯になった。
 ちょうどいい量のご飯になった釜にいよいよ『すし太郎』を投入する。その時、袋の中にすし太郎が少し残って出にくい場合は、箸などを突っ込んでかき出すようにすると無駄なく使い切ることができる。次に釜の中のご飯とすし太郎がいい感じになるように杓文字を使って混ぜる。すると鼻先を酢の香りがくすぐって食欲をそそられるので、ちょっとつまみ食いしてみるのもいい。


「風のエールを送ろう」

 すし太郎の完成が近づいてきた。
 きざみ海苔を適当に散らし混ぜ混ぜしたとこで一旦手を止める。
 ここから一気に仕上げだ。団扇を持ってきて、すし太郎をあおぐ。風のエールを送ることで、すし太郎は艶めいて一層美味しくなる。(団扇がない時には扇子でもいい。それもなければノートでも何でもいい)最悪あおがないとしてもすし太郎は問題なく食べられる。作り方は、こんなに簡単だ! そしてこの美味さ!


「茶碗で食べるだけじゃない」

 すし太郎はすぐそのまま食べても旨いが、少しあとで食べてもいい。意外と便利なのがおにぎりにすること。炊き込みご飯などにも言えるが、白飯からのおにぎりと違って、おにぎりに塩をつけたり具を入れたり海苔を巻いたりする必要がない。余裕がないという時でも、すし太郎ならパッと握ればできるので、すぐにおにぎりを持ち出したいという時には重宝する。
 炊く、待つ、混ぜる
 すし太郎はたったこれだけ。
 寿司が食べたくなった時には『すし太郎』を思い出してみよう。

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【曖昧コラム】トンネルの向こう側

2020-11-06 10:41:00 | フェイク・コラム
~悪夢が続く~

 続く時には悪夢が続くのはどういうわけだろう。
 ハッと目が覚めて、安心してもう一度寝ても悪夢。次の日も悪夢。二度寝しても悪夢。夢の中で大きな失敗をする。「夢であってくれ」と夢の中で願う。しかし、夢の中での結論は「夢ではない」という冷たいもの。夢でないことを悟ってぐったりとする疲労感が夢の中にも蓄積されていく。屈折した夢。後味の悪い目覚め。
 全体を振り返った時に、少し笑えるところもあると思って、少し救いになる。ケーキ屋さんにあるのはケーキだけじゃない。


~怖い話を好む人の心理~

 人はなぜ怖い話をあえて聞こうとするのだろう。
(怖いものみたさ)とはいったい何なのか。
 恐怖を通り抜けることで生を確認するためか。生きている実感を得るためか。恐怖の中にあるやさしさ、おかしみに触れるためだろうか。暗いところにあるポジティブなものは、日常のところにあるそれよりも一層明るさを増して見えるということもあるだろう。
 恐怖は根源的な感情だという。
 恐怖を避けて生を語ることができないとするなら、「お話」のはじまりというのは、だいたい怖い話なのかもしれない。


~喜びはかなしみのあとに~

 人はどうしてパズルを解こうとするのだろう。
(思い悩むのだろう)
 好んでパズルを解かない人もいる。パズルなんて大嫌いだという人もいるだろう。しかし、大勢の人が今この瞬間にもパズルを解こうとして頭をひねっていることは紛れもない事実だろう。
 パズルを解く人の顔は苦しみに歪んでいるようにも見える。同時に、真剣に前を向いているようにも映る。
(問題に向かう者は進み行く者だ)
 その姿に人間/生き物の本質が現れているのではないか。

「人間とはパズルを解くもの、解こうとするもの」

 ならば、そうした姿に共感を抱くのも自然だろう。
 問題に向かっている者は、たとえ目の前が壁であっても、そこは行き止まりではない。
 長いトンネルの先にはちゃんと出口があり、そこには喜びもあるのだと信じたい。

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【曖昧コラム】チェック&アクション

2020-09-25 00:20:00 | フェイク・コラム
「大事なことは記憶だけに頼れない」

 人間の記憶はあまりに不安定にすぎる。
 そこで頼りにするのがチェックである。
 チェックと動作を紐付けて大事なことを抜かりなく実行するのだ。
 では、チェックが先か動作が先か。それは案外、難しい問題かもしれない。一つの説を挙げると、人間は大事なことを行った後では比較的大事でないことの方は忘れがちというのがある。ここで言う「大事なこと」とは、当然「動作」の方である。つまり、先に動作を実行して後からチェックをしようとしても、大事な動作を実行したことによる安心感からチェックを忘れることがあるということだ。チェックを忘れるのは別に構わないと思うかもしれないが、そうではない。チェックがないとしばらく経ち記憶が曖昧になると、動作がまだ完了していないと誤認してしまう。
 何のための「チェック&動作」であるか。それはその動作が一定の決まりを持っていて、安易に増減したりすることが認められないからである。(薬も過ぎれば毒になるのである)
 まずはチェックを先にすることにする。


「チェックの後は間を置かずに」

 チェックをしたことに安心して動作を忘れてしまうと、それこそ本末転倒だ。しかし、油断するとその可能性は十分にある。「チェック」はその動作を行った印である。本来であれば、動作が終わってからチェックをするのが本当だろう。理由があって例外的に逆にしているのだという意識を持たねばならない。
 肝要なのはチェックをした後は間を置かずに、直ちに動作を実行に移すこと。(少しくらいいいか。わかっているから大丈夫。そういう慢心が一番危ない)例えば、その時電話が鳴った。家のチャイムが鳴った。反射的に優先順位を操作してしまうのではないだろうか。しかし、思い出してほしい。「チェック&動作」は時間の上でも紐付けされた約束事なのだ。電話が鳴ったくらいでルーティーンを壊してはならない。小腹が空いたからと言って、チェックと動作の間にチョコレートを食べるなど論外である。


「まるっきり忘れてしまうこともある」

 それでも人間どうしてもうっかりということがある。忘れる時は、完全に何もかも忘れてしまう。チェックも動作もまとめて忘れてしまうので、「チェック&動作」もまるで機能しないことになる。その時は、もう心がどこかへ飛んでしまっているのだ。かなしいことに、それもまた人間の一面。自分には常に「大事なこと」がある。そういう意識を持ち続けることが、せめてもの抵抗と言える。

「私を殺す気か……」
 SOSを聞いてはっと我に返る。そういう経験は、できればあまりしたくないものだ。

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人とぶつからずに歩けますか?

2020-09-12 12:51:00 | フェイク・コラム
 できれば人とはあまりぶつかりたくない。誰でもそう思いながら道を歩くのではないだろうか。気をつけていても、時には冷や汗をかくようなことがある。色々な状況を想定して、予め対策を練っておくことが大事である。


「まずは早めの進路変更を」

 これは基本となる衝突を避ける手段である。
 前方から人が歩いてくるのを発見次第、相手の歩いてくるコースを計算し、自分の進路と重ならないように調整する。日常的にほとんどの人がやっていることで、特に意識せずともできるだろう。
 いざ人が近づいてからでは遅い。事前の備えは危機管理の基本と言える。


「相手の動きを読む」

 歩く道はいつも単純な地形ばかりではない。十分なスペースがない場合もあるし、進行方向が多く複雑な道では、難易度も上がる。人と上手くすれ違うためには、人の動きをよく観察するのがよい。目線、顔の向き、服装、体重移動、あらゆる手がかりを参考にして、進路を読む。相手の態度が明らかになれば、その逆を行くようにする。そうすることで最小限の調整で進行方向に進むことが可能だ。


「相手の速度を読む」

 人の歩く速度は一定ではない。動きは読めていたが速さが予想外だったため、上手く避けきれなかったという事態も起こり得るのだ。相手の速度も考慮し、速いと思えば相手に先に行かせ、遅いと思えば相手の先を通過するようにする。その際、自分の方も速度を加減することで、よりスムースに衝突を回避できる。


「思い切ったサイド・チェンジ」

 道に余裕があれば思い切ったサイド・チェンジも有効だ。近づかなければ衝突のリスクもない。視野を広く保ち、どこが狭くどこにスペースが空いているのか、状況を把握しながら歩くようにすることが大切である。 


「スマホに注意」

 手にスマートフォーンを持ちながら歩いてくる人を発見した場合、警戒レベルを上げる必要がある。通常は互いに進路を計算して衝突は回避されるが、スマホ型歩行者がこちらを視野にとらえるのは、かなり距離が迫ってからである。中には画面に気を取られるあまり蛇行したり、こちらの存在を知らずに接近してくる者もいる。最悪の場合、すれ違う直前に方向を変えて急接近してくるというケースもある。
 対策として考えられるのは、口笛を吹いたり、大きくバンザイをしたりして、予め自分の存在を知らせることだ。相手の協力なしでは避けられない衝突もある。


「立ち止まるという選択もある」

 人とぶつからないように注意していても、思わぬところから飛び出してくるものもある。鳩や猫や自転車である。中でも速度のある自転車は危険で、狭い歩道などで歩行者と安全に共存することは難しい。歩行者と同じような理屈で衝突を避けようとしても、失敗した時に傷つくのは生身の歩行者の方である。
「危ない」と思った時には、思い切って立ち止まるという選択もある。自分が石となり相手に一方的に回避策を委ねることにより、認識のズレによる衝突を避けるのだ。これは相手が自転車に限ったことではなく、速い歩行者(駆けてくる人など)に対しても有効である。


「気まずいにらめっこ」

 衝突は相手との認識のズレによって起こりやすいが、波長が合いすぎることによっても起こる。
 よい人(普通の人)ならばまずは自分から衝突を避けようとするだろう。相手が避けようとした方向に、自分が動いてしまうことはないだろうか。それではと反対に動くと、ちょうど同じタイミングで相手も同じ方向に動く。いや失礼と反対に動くと、またも同じタイミングで相手も同じ方向に動く。いやいやいやと反対に動くと、なんとまたまた同じように相手も動いてくる。(ミラー・ステップ)これではまるで相手の邪魔をしているようである。
 一度リズムが合ってしまうとなかなかこの気まずい循環から抜け出せなくなる。その際には、空踏みしたり止まったりして、リズムをずらさなければならない。そして、悪意はないということを「お辞儀」などのジェスチャーを加えて示すことが、歩行者としてのマナーである。


「気まずい大回り」

 ミラー・ステップが行ったり来たりの失敗であるのに対し、オーバー・ステップは一方向に行きすぎる失敗である。
 相手を避けようとして動くと、相手も同じ方向に動いてきた。(ミラー・ステップはその時、逆に動き直すが)今度は相手より更に先を行ってかわしきろうとする。平たく言えば大回りだ。その時、相手が動かない場合、すれ違いは成功する。問題は相手が同じ波長で大回り策を取ってきた場合だ。自分と同じ歩幅、同じ速度で、オーバー・ステップしたとしたら、状況は変わっていない。そして、更に更にとステップを重ねると互いにエンドレスで平行線が伸びて行くことになる。
 この場合に陥ってしまう循環は波長に重ねて自分の中に生じた「意地」によるところが大きい。(すれ違いはメンタルも大事)大回り競争に勝ちきるためには、速度を無理に上げるか、回る角度を極端にマイナスにして回りきるしかない。そうして無事に抜け出せたとしても大変な労力の無駄であり、また現在地が本来進むべき方向から大きく離れてしまうことも、この失敗の痛いところである。
 このような失敗は、相手の間合いに入りすぎること、相手に合わせてしまうことで起こる。
 時には肩の力を抜いて、楽に歩いてみることも必要だろう。


「曲がり角対策」

 すれ違いの難所として曲がり角は避けて通れない道である。見通しのいい道なら事前に構えることもできるが、曲がり角においてはある程度は突然の遭遇を避けられない。(時には、曲がり角からスマホ型歩行者が現れる場合もある)
 対策として考えられるのは、曲がり角に対して少し大回り気味に入っていくことだ。最悪なのは思い切りインコースから入っていくことで、これでは突然の遭遇が衝突に直結してしまう。インとインで波長が合えば危険と肝に銘じよう。
 大きく膨らみながら入っていくことによって、そこで距離、時間、視野を確保できる。一見無駄にみえるコース取りが、衝突リスクを下げるのだ。3つの余裕を手に入れることで、曲がり角であっても少しは通常の道と同じように、事前に備えることができるようになる。


「似た者同士はぶつかりやすい」

 人とぶつからないコツは、相手をよく観察して相手の逆を行くことだ。私はどちらにでも動けるよう柔軟な姿勢を保ちながら歩く。すれ違う前に、だいたい相手の行きたい道は読めるし、そうなればまずすれ違いに失敗することはない。
 しかし、時々どうしても読めない相手に出会うことがある。私は柔軟性を保ちながら相手との距離を詰める。逆を行くために早く態度を決めてほしいのに、相手はなかなか明確に進路を示さず曖昧に接近してくるのだ。(困った人だ)わからない。どっちだ? この人はどっちに行きたいのだ。「どっちだ、どっちだ、どっちだ、どっちだ……」という間に、危険な間合いまできてしまうことがある。
 よく考えてみれば、自分もまた相手から見ればそういう(困った相手)なのではないか。
 波長が合う。つまり、似た者同士はぶつかりやすいということだ。
 もしも、相手から同じような空気を感じ取ったら……。
 時には、自分のやり方を変えてみることも必要。

「私はこちらに行きます」
 明らかな態度を全身から発散してみせることも健全な歩行者の姿勢かもしれない。
 
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モチーフを集めよう

2020-08-25 07:37:00 | フェイク・コラム
「身近にあるモチーフ」

 モチーフはどこにでも落ちている。ちょっとしたこと、些細な出来事に気をとめて、モチーフを拾ってくる。時には少し嫌なことにも目を光らせて、それもモチーフに取り込んでみる。モチーフを集めることを癖にすると、日常の風景への関心が増す。アンテナを張っておくことで、モチーフは集まってくる。「モチーフ好循環」だ。日々モチーフを集めて、メモリーにキープしよう。


「モチーフにはかなわない」

 モチーフは日々降り積もっていく。かつて拾ったモチーフは時の中で色褪せて、難解な化石のように謎を深めていく。そこにあったモチーフを消化しようとする間にも、そこここに湧いて出るモチーフを拾わずにはいられない。どれほど集めたところで、モチーフは手に負えない。
 モチーフが集まることはうれしくて、かなしい。
 モチーフは人間の限界と無力さも教えてくれる。


「モチーフを発酵させよう」

 取るに足りないと捨ててしまっては、モチーフはゴミになってしまう。時には自分の感性を疑ってみることも必要だ。今は何も広げることはできないけれど、それは後から何かに化けるよいモチーフかもしれない。少し気になるなら、モチーフにして取っておいた方がいい。
 例えば、嫌なことを言われた時、その場で感情的になって反論しない方がいい。一瞬の爽快感と引き替えにモチーフを手放している可能性がある。モチーフのことを第一に考えるなら、その場ではぐっと堪えて「モチーフ・キープ」である。
 その時がきたら、モチーフは熟成されて、ストーリーに化ける。(「モチーフ・ブレーク」)しかも、1つとは限らない。よいモチーフは、1つから2つにも3つにも化けることもあるのだ。「モチーフ分裂」である。
 今が駄目でも先のことはわからない。モチーフは未来である。


「モチーフとは何か」

 私のpomeraの中には10万を超えるモチーフ群が眠っている。もしも他人に見せたなら、人はそれを指してこう言うだろう。
「なんじゃこりゃあ……」
 モチーフの本質を見事に突いた真っ直ぐな言葉である。
 モチーフ、それは見方によっては、ガラクタ、意味不明、子守歌のようなもの。

 本当のモチーフは心の中に存在する。心のあり様によってモチーフは時に光り、曇り、揺らぎ、浮かび、移ろい、見失われてしまう。
 心の中の見えないものだからこそ、危うくもあり、心強くもある。
 劇的な暮らしに触れて飛んでいくモチーフもあれば、不動の心でつなぎとめておけるモチーフもある。
 どこにいても、どれほど縛られていたとしても、自分の内側で密かに守られる。(「モチーフ・ガード」)
 先輩のくだらないお説教を聞いて退屈の最中に置かれながらでも、モチーフは育てることができるのだ。

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くつろげないあなたへ

2020-08-08 07:42:00 | フェイク・コラム
 人間はのんびりするのが苦手な生き物であるらしい。とにかく働かなければならない。動いていないと気が済まない。ひと時だってじっとしていられない。そんな人も多いのではないだろうか。しかし、高いパフォーマンスを発揮するためには、休むべき時にしっかり休むことが重要である。休む暇がないというなら仕方がない。しかし、時間はあるのに上手く休めないのはどういうわけか。


「たくさん動いたらたくさん休め」

 無尽蔵のスタミナを持った選手がいるという。みんなが疲れている時間帯に、そんな選手が入ってきたとしたら周りはどれだけ助かるだろう。しかし、そうは言っても体力には限界がある。人間は機械とは違う。永遠に動き続けることはできない。動いた分だけ休まなければならないのだ。


「じたばたしたって始まらない」

 少し休もうとしてベッドに横たわる。そういう時には全身の力を抜いてリラックスすべきだ。しかし、どこからともなく働き者のささやきが聞こえてくる。「何やってんだ? ぼーっとして。何もしなくていいのか?」すると徐々にベッドの上に罪悪感のようなものが満ちてきて、くつろぐことができなくなる。そうではない。「何もしない」のがいいのだ。働き者のささやきに強く抗うことが肝要である。


「明日何かするために、今何もしない」

 休むべき時に休んでおかないと後で大変なことになる。人間は機械ではない。完全に壊れてしまってからでは、なおすことも困難なのだ。動く時間があれば、同様に休む時間もなければならない。家の中でベッドに横たわり、自分の体に休養指示を出す。
 しかし、休もうとする内に、どこからともなくまた声がする。「何だぼーっとして。怠けてるのか」怠け者の名でベッドの上を汚染していく。心はざわついて、落ち着かなくなる。そうではない。怠けるのではない。全力で真面目に休むのだ。その辺の雑音を封じなければ休まるものも休まらない。


「たまには休もうよ」

 せっかく休もうとしているのに、どこからともなくやってきて足を引っ張るような者がいる。それは本当は自分の中に潜んでいる働き者の勢力なのかもしれない。完全に排除することは難しい。「何やってるんだ。もったいないよ。何か作れよ」罪の意識に包まれて、呼吸が乱れていく。くつろぐということは、これほどに難しいことなのか……。違うんだ。違うんだ。さっきからみんな。休まない方がもったいない。


「すし太郎を食べよう」

 どんな仕事でも最初は上手くいかないものだ。そして、慣れるに従って上手くいくようになるものだ。くつろぐということも、逆に同じなのかもしれない。ずっと働きすぎた者は、動くことに慣れっこで、くつろぐということを理解できない。休むこと、くつろぐことを侮らずに、ゆっくりと歩み寄っていく姿勢が大切かもしれない。
 人間の時間は、何のためにあるのか。誰のためにあるのか。そんなことをぼんやり考えながら、たまには何もしないでいることを覚えよう。そして、お腹が空いたらご飯を食べることを忘れずに。すし太郎でも食べて、疲れを取ろう。





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夢の酩酊「夢は移動/凝縮である」(夢現コラボ)~夢の中の冒険者

2020-08-03 04:54:00 | フェイク・コラム
 テクノロジーの進歩によって眠りながらに見る夢は、好きなジャンルを選べるようになったという話がある。
 話は変わる。


 現実を夢のように仕立てるという方法がある。
 例えば、それはやたらとテキパキと動くという方法だ。
 例えば、1日の内にオリンピックを3回開催してみる。それはもう大変な忙しさだ。バタバタとした過密は、言葉を置き換えると充実にもなる。そして、1日の終わりに振り返った時、朝の記憶はまるで10年も昔の出来事のようにも思えるではないか。それは少し無理をして(イベント)を詰め込んだ効果と言える。

 これはやや極端な例だが、重要なのは「色々あった感」である。映画の筋立て、コース料理、無理気味な旅行スケジュールなどは、この手法を利用して充実(満足感)を演出しているとも言える。

 これにはよいことが2つある。1つは「色々あった感」を得られること。もう1つはその中にミスが含まれていたとしても、1つ1つの傷は小さくなるということだ。(多くの記憶、情報処理の限界のため)

 普通ならば多くの時間を要することを小さな時間の中に凝縮すると、人は夢を見ているような感覚になりやすい。(中には悪い夢もある)
 外食や旅行はともかく、環境を変えることは勇気がいる。
 もしも一歩踏み出すことが恐ろしくてたまらないなら、思い切って十歩出てみる。百歩出てみる。夢の中の冒険者になったように。


夢への誘導「電車の中なら眠れるのに」

 夢への旅立ちの前に布団の上で寝返りを打つ。すぐそこにあるはずなのに、なかなか届かないことは苦しい。目を閉じながらあの心地よい電車を思い出そう。

 窓の向こうで手を振る人がいる。トンネルに入る。明かりの色が少し変わったように思える。窓が開いている。海岸沿いを行く。潮風が入ってくる。カーテンが揺れる。子供が泣いている。お菓子を食べて早くおやすみよ。シートが揺れている。
 夢現の境界線。微動は自分で作り出せる。

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人を傷つけない妖怪の使い方

2020-07-13 06:28:00 | フェイク・コラム
「あれどこ行った?」
 物は勝手に動かないから、動かしたのはあなたである。
 ほとんどの場合は捜せばすぐに見つかる。少し記憶違いがあったとすれば、少し外れた場所から出てくるだけ。
 少し時間をかけることで、少し頭を働かせることで、ほとんどの捜し物はすぐに見つかることだろう。
 だが、一生の間にごく希にではあるが「絶対に出てこない物」というのが、必ず出てくるのである。
 もしかしたら、あなたも覚えがあるのではないだろうか。

(あった物をなかっかことにするのは難しい)

「絶対にあるはず」=「絶対に見つかる」
 強い信念はモチベーションを持続させる。最終的に見つかる物なら、どれほどの労力を注いでも、その甲斐はある。
 だが、もしも「絶対に出てこない物」に対しても同じようなマインドで向かったとしたら、努力は失望に結びつくばかりである。

「捜し物」=「本当に大切な物」
 という場合は、簡単にあきらめられるはずがない。
 そうではなく、ただ「あるはずだから見つけたい」という意地が先頭に立って捜し物に当たっている場合、以下の解決法をお勧めしたい。

「絶対にあるはず」
 信念が捜すをやめさせない。
 結果、捜し物は見つからず、時間だけが失われていく。
 これは(二重喪失)だ。

(勇気を持って信念を手放すことも必要)

 自分の記憶や人を疑うことは心が痛む。
 そこで今回ご紹介するのが
「妖怪の仕業」
 唐突なようだが、あえて妖怪という少し離れた存在を持ってきて、そいつのせいにしてしまう。(勿論、本気で妖怪に罪を着せるものではない)
 離れているということが重要だ。(そう思えるなら、猫でも幽霊でも宇宙人でも何でもいい)

 自分のせいで物がなくなったのではない。悪い妖怪が勝手に持って行ってしまった。腹立たしいが、一番のお気に入りのじゃなくてよかったな。妖怪が持って行ったのなら、いくら捜しても見つかりっこない。でも、運がよければその内に返してくれるかも。
「自分では(自分たちでは)どうすることもできない」
 みんな妖怪に押しつけることによって、自分の心を軽くすることができる。
 妖怪には悪いが、これは「悪者をつくらない」という人間の術なのだ。

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【曖昧コラム】『メガネ猿の惑星』

2020-07-09 04:45:00 | フェイク・コラム
『猿の惑星』という映画をご存じだろうか。(以下ネタバレ注意)

 実に興味深いお話である。惑星に行ってみたらそこは猿の惑星である。猿が主役を張っており、人間は悪役または脇役だったりする。しかし、猿のみんなが敵というわけでもなく、中には人間寄りの猿もいたりする。このように何かと何かが入れ替わっているという話は、想像を刺激する。もしも、地球も猿が主役だったらどうだろうかとか、人間も猿もあまり変わらないのだろうかとか。
 あるいは、猿というボスをそのまま人間の世界に置き換えて考えてみることもできる。猿(支配者)の言うことは不条理に思えるが、実際には現実の世界のあらゆる場所でそれ以上におかしなことが起こっているのではないか。偏った正義が押しつけられ、多くの自由が奪われている。

 もしも猿の惑星があるのなら、うさぎの惑星だってある。犬の惑星、馬の惑星、トカゲの惑星、イルカの惑星、蛇の惑星、未知の生物の惑星、あらゆる惑星の存在が考えられる。人間の惑星があったとしても驚くには値しない。宇宙は広い。機会があれば自身の目で確かめてみるのもわるくないだろう。

 『猿の惑星』の魅力はタイトルに「の」が含まれていることである。私は以前、「の」のつく言葉に憧れを抱き、「の」のつく言葉をひたすら集めていた時があった。
 例えば、山の神、海のイルカ、うさぎの耳、夢の話、パン屋のパン、風の便り、鶏の唐揚げ、昔の女、蛙の子、本の表紙、傘の柄、電車の切符、朝の朝食、男のおじさん、明日のお前、普通の石、紙の本……。というようにきりがない。
 カリオストロの城、魔女の宅急便、宅急便の魔女、午後の紅茶、紅茶の鬼、トナカイの角、クリスマスのごちそう。
 世の中には「…」の「…」という言葉が無数にあり、その組み合わせは当然無限である。となりのトトロ、トトロの隣、と順序を逆にすると意味が変わるところも趣がある。中でも『風の谷のナウシカ』などは、「の」が2つ入っているのでパワーアップする。コツコツと「の」のつく言葉を集めていたが、いつの間にか興味が醒めてしまった。あまり意味がないということに気づいたのかもしれない。

 Amazonのプライムに入ると多くのムービーを見ることができる。星の数ほどあるムービーが見放題になるので入らなければ損である。しかし、いくら見放題とは言え星の数ほどあるムービーを見尽くそうとすると、人間の一生の時間の短さの確認につながるので、入るのは損である。とは言うものの、気が向いた時にいつでもムービーを見ることができるのは魅力的で、やはり入って損はない。
 いったいどっちなのか? 答えは、ない。損得というのは気まぐれな感情のようなもので、結局のところ人のそれぞれの判断の話のようだ。

 『猿の惑星』の中で印象に残るのは、主人公が禁じられた境界を越えて進もうとするシーンだ。生き物には好奇心がある。封じ込められ抑圧されるほどに、そこから飛び出そうとする力も強くなるものだ。自分がずっと探し続けているものは案外近くに存在するが、それを見つけるためには一度すべてを見失うほどに遠回りしなければならない。
 メガネを自分の額につけながらメガネを探索することは、人間の宿命なのだろうか。

 猿の落書きが一段落した頃、私はペンシルのキャップの行方が気になっていた。ついつい後回しにして、充電したあとペン先に戻すことを忘れていた。非常に小さいものなので、変なところに紛れ込んだら厄介だ。最悪ゴミと間違えて捨ててしまう恐れもある。嫌な予感がしたあと、左手が何かを握っていることに気がついた。結ばれた手を開くとそこにペンシルのキャップがあった。
「ここだったのか!」
 これと同じようなシーンを、昔何かの映画で見たことがあるような気がした。私はキャップを持ったまま右手で絵を描き続けていたのだ。






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ベストため息プレイヤーへの道

2020-07-06 08:41:00 | フェイク・コラム
「もう少し上手くため息がつきたい」
 だけど、なかなか思うようにはいかない。

 悩んでいるなら少しため息のつき方にアレンジを加えてみるべきだ。いつも似たようなため息をついていないか。同じ調子で同じ長さで同じ重さで。それでは上達も望めないというもの。多様性のあるため息を持っていれば、ため息に対する姿勢も変わる。数あるため息の中から、自信を持ってこれだというため息が現れてくるかもしれない。

 ため息をつくに当たって、ただため息だけをついて終わってないか。純粋ではあるが、もっと他力を借りてもいいのではないか。例えば、絵手紙においては絵と言葉が一体となり互いを高め合っている。ため息が孤独でなければならないという決まりはないはずだ。
 手紙に絵を添えるように、ため息に言葉を添えたっていい。

 例えばこんな風に、

「何も変わらないなあ」はーー

「お金入ってこないなあ」はーー

「夏も終わりか」はあーー

「また雨か」ふーー

「夕日きれいだなあ」ほーーお

「誰もいなくなったな」しゅーー

「詰んだか」ひえーー

 ため息に言葉の力が加わることによって、ため息に厚みが増すのではないだろうか。ため息とコラボすることを前提として、種々の言葉を発掘する楽しみができればそれもいいことだ。

 どんな時でもため息をつける自分であるか。素直な自分を封じ込めていては、ため息なんてつけないのではないか。上手い下手は別にして、まずはいつでも自分を解放できる用意がないと、真のため息つきに到達することは難しい。たかがため息だと侮っていてはため息の方が逃げて行く。

 時には1つのため息を呑み込んで次の機会を待ってみる。つけるところをあえてつかないで力をためておく。ワンテンポずらすことによって次のため息を数段パワーアップできる可能性がある。これは大変なリスクを伴うので、最初の内はあまり無理をしないこと。予備知識程度にとどめておきたい。

 世の中にはため息を忌み嫌ったり、苦手意識を持つ人がいる。中にはため息と聞くと露骨に不快感を表す人がいる。ため息はみんなの人気者ではない。むしろ、どちらかと言えば不要不急の部類に分けられもする。
 ため息を扱う者は、そうした空気にも敏感でなければならない。

 身の危険を感じた時は、決して派手なため息をつかないこと。
 エアーため息を使えるようにしておくと心強い。

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悪手返し(将棋はメンタル・スポーツである)

2020-07-04 02:04:00 | フェイク・コラム
「メンタルの揺れをコントロールする」

 将棋が強くあるためには?
 筋がいいこと。読みが正確であること。
 勿論、それは大切な要素だろう。
 その他には?
 大局観がいいこと。
 局面にさっと目を通しただけで、形勢を判断できる力。
 感覚、読み、大局観。
 それらをまとめて将棋の強さと呼ぶことができる。
 しかし、強さを安定して発揮するためには、
「心の落ち着き」が必要だ。

 将棋が強くあるためには?
 常に冷静でなければならないのだ。

 以下、私の失敗例を見てみよう。
(細かい手順はイメージとして読み飛ばされたい)


「銀得は勝ちではない」

 私の飛車は3八にあり玉は4九にあった。玉飛接近の悪形である。敵の角が1五にあり攻防に利いていた。敵の着手は3七銀。実はただである。同飛。8二飛! 同角成とすれば自玉が詰んでしまうので、咄嗟に受けたのだ。敵は攻めに銀を放り込んだものの、強く応じられて取り返すことができなかった。やむを得ず受けに回ったのだが、明らかな変調である。銀1枚を得したのは大きく形勢は先手勝勢。(しかし必勝ではないといったところ)
 ここが問題だ。
 私はすぐに「もう勝った」と思ってしまう。
 反撃のターンを生かして寄せに入るが……。
 1三銀? 3二玉、4三銀、4一玉、4二銀成、同銀、4三歩成、同銀、同角成、4二金! と馬取りに金を打たれた局面は、既に容易でない。(守備駒が最大に働いて寄せが難しい。自玉は飛車取りが残っていて、一手あけば簡単に寄り形となる)


「悪手はあとから指した方が罪が重い」

 1三銀が悪手であり、その理由としては、玉を広い方に追ったこと、銀が重く残ること、8二飛車と1五角の守備力を最大限に生かすことなどであるが、1三銀が第一感として浮かんでくる要因は気の緩みだ。
 結果として敵の変調に悪手で返した形となり、こういうことをしていては勝てる将棋も勝てないものだ。実際、「もう勝った」と思った局面から難局へ移行したら、冷静に手を読むことも難しいはずである。
 1三銀では寄せとしては1一銀の方が正しい。同玉なら1三歩成としてと金を作りつつ玉を下段に落とすことができる。また、他にも単に1三歩成!という軽手もあり、同玉なら1九香!と間接的に王手角取りをかけて飛車取りを受けつつ寄せを継続することができる。
 このような順は特別に難しいという手ではなく、冷静な頭で考えれば正しく指せる可能性は高い。

 局面を8二飛まで戻そう。
 やはり、問題はそこでの私の頭の中、心理状態、心にある。
 私はこのように思っていた。

「もう勝った」
「勝ったも同然だ」
「これは楽勝だ」
「どうやっても勝ちじゃないか」
「ありがたい手を指してくれた」
「早く勝ちたい」
「簡単に勝ちたい」
「あとで何食べようかな」
「今夜はゆっくり眠ろう」
「次の相手は誰だろう」
 一言で言うなら(楽観)である。
 読みの焦点が明らかにぼけてしまっている。
 実際のところ、局面は好転しているものの、「どうやっても勝ち」というほどの差はなく、それなりに大変で少しも気の抜けない局面なのだった。


「楽観はどこからくるのか」

 一つは性格だ。これは変えるのも難しい。
 もう一つは環境だ。
 厳しい環境の中で経験を積むことによって、楽観を抑え込む術を身につけることはできるかもしれない。


「勝者のコメントの中に答えがある」

「どの辺りで勝ちになったと思いましたか?」
 その時の答えに注目してほしい。
 強い人ほどその局面は投了図に近づく。
「最後、詰み筋が見えて勝ちを意識しました」
 きっとそのような答えが返ってくるはず。
(どこまでが本心なのか)
 少し疑いつつ聞いている人も多いだろう。
 しかし、私は最近こう思うのだ。
(彼らはきっとありのままにそう思うのではないか)
 強い人は、決して楽観しない。
「もう勝った」「どうやっても勝ちそうだ」
 そんな邪心を抱いて勝ち続けることはできない。


「楽観もわるいことばかりではない」

 楽観は悪手を呼ぶ。逆転のもとになる。
 よくなったと思ったら、気を引き締めるべきだ。
 では、悲観すればいいのかというとそれも話が違う。
 大切なのは冷静であることだが、どうやっても悪いような局面では、少し楽観するくらいの方がいい。悪い局面を冷静に見つめれば悪いところしか見えない。結論としては、投了もやむなし。しかし、勝負は投げたらおしまいである。どんなに悪い局面でも、投了さえしなければ、何が起きるかわからない。相手が楽観して悪手を連発するかもしれない。
 戦っているのは人間だ。形勢は気持ちによっても揺れ動く。だから面白いのではないだろうか。私はとても弱い人間である。しかし、この世界を見渡せば、どうしても楽観してしまう。


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pomeraの魅力とは

2020-07-03 00:43:00 | フェイク・コラム
 もしかしたら、CMで見たことがあるという人もいるかもしれない。
 ポメラは、かわいくて頼りになるあれである。


「インターネットにつながらない」

 pomeraは文字入力に特化したガジェットである。逆に言えば、それ以外のことは何も得意ではない。ボンバーヘッドがボンバーヘッドを磨くことと理屈は同じだ。ネットにつなぐことは頭から眼中になかったのだ。
 インターネットにつながらないものなら他にもあると言う人もいるかもしれない。例えば、八百屋さんで売っているキャベツや玉葱だ。みかんやリンゴにしても、直接インターネットにはつながっていない。
 pomeraは見た目からしていかにもつながっていてもおかしくない。しかし、それができたら他の類似品、パソコンやタブレットと同じになってしまう。そのために手放してしまうものは、軽さ、機敏さ、安全性、コンパクトさ。何よりも「ネットにつながらない」というpomera最大の魅力を失ってしまうことになるのだ。
 pomeraのよさとは、文字入力に打ち込む純粋さなのである。
 今の時代は、やたらと「IoT」が叫ばれ、何でもインターネットにつながろうとする。そんな中だからこそ、pomeraの個性は他にはない光を放っている。私の友人にはpomeraを持っている人はいない。それは私がよい友人を持っていないせいである。


「孤独と集中力をくれるもの」

 物を書くという作業は孤独な作業ではないだろうか。インターネットに常につながっているということは、それを許してくれないという側面がある。少し気分転換のつもりで、ネットを開く。ブログを開く。ツイッターを開く。noteを開く。そういう風にして小刻みに孤独を奪われる。pomeraに向いている間は、そんな心配は一切無用だ。
 pomeraに向かえば、人はpomeraを向く他にすべきことは何もない。
 pomeraには、その他にもまだまだたくさんの魅力がある。一旦、pomeraを閉じてみよう。


「pomeraを閉じて一休み」

 pomeraは始まりと終わりをほとんど意識せずに使うことができる。電源ボタンはあるが、ほとんど触れる必要もない。使うとなったらpomeraを開く。終わる時にはただ閉じればいい。そして、この時の音! 
 pomeraは閉じる時にちょうどいい音がする。
 文字入力が一段落して一休みという時には、pomeraを閉じることをお勧めする。(何かをこぼしかけた時にも安心)
 閉じるとpomeraの背はまな板のようにフラットだ。そこに手を置いて一休みすることができる。他にもみかんを置いたり、メモ帳やボールペンなど好きなものを置くことができる。私はたまに飲みかけの珈琲を置いたりするが、これはあまりお勧めではない。さて、一休みしたらもうpomeraを開く他はない。


「3秒スタンバイの機敏さ」

 pomera DM100では、開いておよそ3秒ほどで文字入力を始めることができる。これはその辺にある広告の裏にペンで何かを書くのとほぼ同じ速さである。パソコンだとこうはいかない。スマホなどにしても、一旦ホーム画面を経由して文字入力のアプリに向かうと時が遅れる。
 pomeraは文字入力の顔しか持っていないことが、強みだ。
 咄嗟に浮かんだモチーフを文字にするという場合、1秒はものすごく大事な時間。モチーフを逃がさないために、またモチーフをいっぱい溜めておくために、pomeraは心強い味方になってくれる。


「キーボードがつながっている」

 タブレットなどでは後付けでキーボードをつなげたりすることがある。つなげたい時にだけつなげることができるというのは便利だが、どうせ必要不可欠なものなら、常につながっている方がより便利である。
 pomeraの主役は半分キーボードと言ってよい。
 キーボードが離れる心配をしなくていい。キーボードだけを充電したりしなくていい。キーボードが一体になっていても十分に軽い。慣れれば他は考えられないほどに快適な打ち心地! 
 pomeraからキーボードを取ったら、もうpomeraではない。


「乾電池で動く機種もある」

 DM100は乾電池で動かせる。(次のDM200はUSB充電に対応)これはなかなか面白い。もしも無人島に持って行くなら……。電気もWi-Fiもないなら、iPhoneは無意味だ。その場合には、無数の乾電池とpomera DM100という選択になるかもしれない。


「今、pomeraを買うなら」

 最新機種はDM200。私は今ある100が壊れたら200を買おうと考えている。しかし、使い慣れたpomeraには愛着があり、使える間は簡単に離れられそうにない。pomeraは他のスマホやタブレットと比較してもそう安いとは言えない。ネットを見て「意外に安いな」と思った時は、だいたいが保護フィルムの値である。
 多くの人は、「インターネットにつながらないのに、こんなにするの?」と思うのではないか。その気持ちはわかる。
 しかし、pomeraは他のスマホやパソコンなどに比べて遥かに丈夫に出来ている。そして簡単には古びない。まるで腕のいい職人さんが作った鞄のようだ。1年毎にサイズが変わったり、賢くなったり、速くなったりするような物ではない。持っているだけで心を落ち着かせてくれる。
 10年近く走ったDM100が壊れる時はくるのか。DM300が発売される日はくるのか。
 私はあまり心配も期待もしないことにした。
「訪れる時には訪れる」
 最後の一行を打ち込んで私はpomeraを閉じる。

(そう! この音がいい!)

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【曖昧コラム】人から聞いた話

2020-06-30 14:08:00 | フェイク・コラム
 人から聞いた話では少しわるい話だった。しかし、実際その場で見ていたらと考えると疑わしい感じもした。誰から聞くかによって話の中身もだいぶ変わってしまう。その人の中に潜む悪意が色をつけることは容易い。通訳が下手くそなら、誤解なんて量産できてしまうのだ。
 ポータルサイト全体がまるでデタラメのように見えてくる。そんな瞬間にはっとする今日この頃である。


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口コミサイトとおもてなし

2020-06-11 06:47:00 | フェイク・コラム
 行き当たりばったりで失敗するのが怖いから。リスクを避けようと思えば口コミサイトは便利だ。そこに書かれていることが客観的事実であるとは限らない。それでもたくさんの声が集まれば相当な説得力がある。あるいは、ほんの一握りの興味深い感想に心が動かされることがある。
 飲食店であれば当然、料理のこと、味に関することが中心に書かれていると思ってみると、案外そうでもない。みんな意外に細かいことを気にしている。店の雰囲気とか店主の人柄とか、中でも多いのは接客に関することで、不快な気分になったとあれば、その点について容赦ない口振りで書き込まれている。「どうなってんだ。ありえないよ。二度と行くか」という調子だ。ネガティブな声が連続してみえれば、それを無視することも決断がいる。


「いくら味がよくても……」

 初めての店に入るのはある意味とても勇気のいることだ。
 座席も料金システムも店主の顔もお手洗いの場所も何もわからない。まともな店であるという保証はどこにもない。
 初めてのドアを潜った瞬間、そこは圧倒的なアウェー空間である可能性がある。
「いらっしゃいませ」
 もしもその一言が、どこからも聞こえてこなかったら……。その時、あなたは平然といられるか。

 何も言わず勝手に店の奥に入り席に着いてしまうというのは一つの賭けである。そのまま放置されてしまう可能性もある。あるいはそこは本来かけてはならない席である場合もある。賢明なあなたならもっと別の手段を考えるだろう。全身にクジャクの羽をまとい、どこからでも目立つようなオーラを発散してみる。それでも駄目なら店の入り口で後ずさりして、何度も出入りを繰り返してみる。自分から「ごめんください」と声を発するのは何か違う気がする。しばらく様子をうかがう内に「いらっしゃいませ」と店の奥から元気にお出迎えの声が聞こえてくるなら、その店はまだよい店ではないだろうか。


「入店に気づいてもらえない。肩を落として帰る人々」

 もしもそれでもなお歓迎されない場合、黙って帰るというのは無難な選択だ。はじめに躓いた店は、その後のサービス全般において、安心できない。


「おもてなしは入り口から始まっている」

私たちはただおにぎりを買いにコンビニに行くのではない。
私たちはただコーヒーを飲みにカフェに行くのではない。
私たちはただカレーを食べにカレー屋さんに行くのではない。
私たちはただ本を借りに図書館に行くのではない。


「私たちは何をしにそこに行くのだろう」

 私たちはただ美味しいものを食べたくて出かけて行くのだろうか。勿論それもあり、単に空腹が満たされればそれでいいという場合もあるだろう。だが、それだけではない。


「せっかくならば大事にされたい」

 ただ外に出て食べるのが外食ではない。


「外食、それは人と人の出会い、人と人との触れ合いだ」

 私たちはどこにいても、できれば自分という存在に気づいて欲しい。できれば「よくきたね」と言って迎え入れて欲しい。できれば暖かくして欲しい。できれば大事にして欲しい。


「美味しいものなら自分でも作れる」

 味や量、栄養のバランスについて考えるなら、自分で作った方がすべて自分好みにできてしまう。
 外食は、美味しいだけでは満足できない。
 私たちは食べ物だけを求めてそこに行くのではない。店の空気を楽しむために、もてなす人に会うために足を運ぶのである。


「テイクアウトしてみよう」

 持ち帰ることができるなら、何もわざわざ店の奥にまで入る必要もない。
 ほんの少し店の雰囲気を味わい、おもてなしの心に触れる。それでも十分だ。
 さあ、うちへ帰ろう。
 その方が財布にも優しい。

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なぜ冷蔵庫の扉は自動で開かないのか

2020-05-18 19:49:00 | フェイク・コラム
 あなたは冷蔵庫の前で途方に暮れていたことがあるだろうか。白く冷たい扉の前で、何かを期待し想像しあきらめてしまう。その時、ドアが開いたなら、中の光をのぞき込むことができたなら、手を伸ばすこともあったはずだが。あなたは自分から進んでドアに触れることはできなかった。本当に疲れている時は、ほんのちょっとしたアクションさえも、億劫になるものだ。(誰か開けてくれないか)けれども、そんな人はもうずっといなかった。

 私は店の入り口までやってきて立ち止まった。
(あれ? 開かない)
 立ち止まって開かないという時には……。
 過去の経験に基づいて、一歩後退する。
「いたたたたたっ!」
 しまった。後ろに人がいた!
「どうもすみません」
(いたたー)
 女は何も言い返さなかった。
 ただあきれたような、苦い表情を浮かべているだけだった。
 そのような自動ドアを私は恐れた。
 自分だけに開かないドアが怖かった。
 だんだんと近づいていく時間は不安で仕方なかった。
 遙か手前で感度よくドアが開けた時はうれしかった。
 自分を認めてくれるドアは好きだった。
 大人になるにつれ開かないドアはなくなっていった。
 だんだん開かないドアには近づかなくなった。
 開かなかったドアのことはすぐに忘れるようになった。

 あなたの冷蔵庫はもう平成時代のずっと前の型だ。
 開発は水面下で進んでいる。
 全自動冷蔵庫扉の登場を待つのは人ばかりではない。いつもお腹を空かせた猫たちが密かに望んでいるそうだ。そして、開発者の中にはそのような一派の味方をする者が必ずと言っていいほど交じっているのである。あるラインを越えてしまえば、茶の間に現れるのはそう遠い未来ではない。「えっ手動ですか」
(自分で開くの?)
 そんな時代はもう現実に迫っている。

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