折句ラッシュ・クリスマス

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、縦読み
クジラうえリクエストした水族館マダイが歌うスローバラード、クリスマス

花猫 

2020-04-10 04:13:00 | リトル・メルヘン
 死んでいた花を拾って家に持ち帰った。花瓶に挿して水をやるが何も変わらなかった。捨てるには惜しくしばらくそのままにしておいた。朝晩水をやることが習慣のようになった。少しずつ花の色が精気を取り戻し始めたような気がした。そう思うともう捨てることはできなくなった。錯覚ではない。月が変わる頃、花は本来の自分の色を取り戻しつつあった。

「おはよう」
 ある朝、花は口を開いた。
「あっ。しゃべれたの?」
「ふふふ。前世は鳥だったのよ」
 花は日に日に元気になっていた。これまでのやり方はすべて間違いではなかった。もっともっと。もっと元気になれ。花は伸びていく自分が誇らしげだった。花は時々窓の外をじっと見ているようだった。
「あそこ。何か懐かしい場所」
 窓の外には葉の落ちた一本の木があった。
 真っ白だった花は突然別の色も見せ始めた。水以外のものも欲しいと花は言った。思いつくままにお茶やジュースをやった。コーヒーをやった時は少し身を引いた。一番喜んだのはミルクをやった時だったように見えた。花はとうとう白と黒の二色に分かれた。
 花瓶を抜け出して部屋のソファーに飛び移った。
「名前をつけないと」
 花は猫になったのだ。

「サキ」
 おやつの時間に名前を呼んでもサキは来なかった。ソファーの下、本棚の上、クローゼットの隙間。サキの姿はどこにも見えなかった。
「サキー」
 バスルームにもサキはいない。暴れた形跡もなかった。まさかと思い開けてみた洗濯機の中に取り忘れたいつかのTシャツがあった。ドンドンと硝子を叩く音。誰かが外にいる。
「ああ。どうやって外に出たの?」
 口の周りが土で汚れていた。冒険を終えてサキはソファーに飛び乗った。隅っこのいつもの定位置に身を縮めるとすぐに眠りに落ちた。今の内に仕事を片づけてしまおう。花だった頃よりもサキは随分と手が掛かる。

「おとなしく待っててね」
 留守番を頼んで鍵をかけた。眠っていてくれればいいが、一度スイッチが入ると大変だ。部屋中が散らかってしまうのは仕方ないとしても、本格的にターゲットになってしまうと根こそぎ食い千切られることになる。心配を置いたまま歩いていると何かが後をついてくる足音がした。どこかで聞いたような……。
 はっとして振り返ると猫は足を止めた。
「サキ?」
 マジックのように抜け出して後を追ってきたのだ。元より普通の猫とは違う。サキは不思議そうな目をしてずっと私の方を見上げていた。行き交う見知らぬ人々。加速をつけて長距離バスが通り過ぎる。大きな犬が通りすぎても、サキは慌てる様子を見せなかった。

「一緒に行くか」
 サキを抱えて街を歩いた。また少し重くなったような気がした。あたたかな鼓動が胸に伝わってきた。本当は興奮しているのかもしれない。待っていてくれればよかったのに。落ち葉を寄せ集めて風が歩道の上で暴れ回っていた。サキは食いつくように視線を落とした。川のせせらぎ。ああ、そうだ。ここなんだ。
「ここでお前を拾ったんだよ」

コメント

秋刀魚と狼

2019-12-16 23:07:03 | リトル・メルヘン

 長い雨の後の大きな水たまりの表面がゆらゆらとして物語が浮かんでいました。水の紙芝居のようでした。

 

 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいて昔話に花を咲かせていました。昔のことらしく幾らでも遡ることができるので、なかなか話は先に進みません。おじいさんに先に進めようとする意思はなく、おばあさんには遡るための引き出しが幾つもありました。引き出しを開けると、新しいおじいさんとおばあさんが現れて、新しい昔話が始まります。

「昔話は尽きませんな」

 話が尽きない限り、時間はいくらあっても足りませんでした。先を急ぐばかりの若者は、話をろくに聞かずに町を出て行きました。残ったおじいさんとおばあさんは、昔話に話を咲かせます。そうして、おじいさんとおばあさんばかりが、どんどん増えていきました。

 おじいさんとおばあさんがいなければ、昔話は始まりません。そして、おじいさんとおばあさんが増え続ける限り、昔話は増えていくのです。

 

 

 おじいさんはそれはそれは大きな秋刀魚を買うと意気揚々と家に帰りました。何しろおじいさんは秋刀魚が大好きだったしこんなに大きな秋刀魚はこれまで一度も見たことがなかったのです。そして、秋刀魚が好きなのはおじいさんばかりか、おばあさんも秋刀魚が大好きだったものだから、それはなおさらのこと、そうしなければならなかったのです。何しろおじいさんは、おばあさんが美味しいものを食べている時の表情が一番好きだったのです。秋刀魚と同じくらいに好きでした。

 おじいさんは秋刀魚を買って踊るようにして家に帰りました。玄関を開けて中に入ろうとすると、おじいさんは体が中に入らないことに気がつきました。大きすぎる秋刀魚のせいで入れないのでした。流石のおじいさんもこれには大層がっくりと肩を落としました。

「なんてこったい! こんなに大きな秋刀魚は初めて見た!」

 それからおじいさんは気を取り直して、今度は秋刀魚を縦にしたり傾けたりしながら、どうにかして中に入れないものかと努力に努力を重ねました。その結果、どうにか道が開けるかもしれない。そういうことが今までにもあった。そうだ、あったに違いない。報われない努力があったことか。おじいさんは自らに言い聞かせながら、何度も何度も秋刀魚と共に家に入る努力を続けました。おじいさんは今までの豊富な人生経験から、努力が人を裏切らないことを、誰よりもよく知っていたのです。

 そうしてまだ実らない努力を続けている間に、おばあさんが帰ってきました。おばあさんは手に大きな秋刀魚を持っていました。

 

「おじいさん。まあおじいさん。何を努力をしているの?」

 おばあさんは手に大きな秋刀魚を持ちながら言いました。

「いやなに、秋刀魚がなかなか言うことを聞かないものでな」

「あらまあ、おじいさん! 私も秋刀魚を買ってきたのよ!」

「おばあさん! なんと大きな秋刀魚じゃ!」

 おじいさんは、おばあさんの手にある秋刀魚の大きさに驚いて言いました。

「おじいさんの秋刀魚も、大きいじゃないの!」

「そうなんじゃ、おばあさん! 大きくて大変だよ!」

「それは大変ね!」

「何を言うかね、おばあさん。おばあさんの秋刀魚も大きいじゃないか!」

 おじいさんとおばあさんは、お互いの秋刀魚を照らし合わせて、大きさを比べてみることにしました。するとどうでしょう。秋刀魚と秋刀魚が照らし合って、きらりと光り輝きました。それは二人の前に突然生まれた星のように光ったのでした。一瞬、二人はそのまぶしさに驚いて、顔を遠ざけました。

 

「おお! なんてまぶしいんだ!」

「だけど家の中には入れない」

 その時、秋刀魚は二人の前で剣のように輝きを放ちました。

 二人は秋刀魚の剣を握ったまま、かちかちとぶつけ合って闘いました。秋刀魚が剣士を作り、剣士にプライドが目覚めたためでした。閉ざされ玄関の前で二人は幾度となく剣をぶつけ合って闘いました。決着が着くよりも早く、二人が剣を置く時間が訪れました。剣が夜に恋して交わる内に、鱗が落ちて秋刀魚の顔が戻ってきたためでした。

「家に入って休みましょう」

「そうだ。そうしようじゃないか」

 

 

 おじいさんとおばあさんは家に入ってしばらく休憩を取ることにしました。秋刀魚のことを完全に忘れたというわけではなく、休憩を取った後にまた改めて考えることにしたのです。いいアイデアが湧いてくるかどうか、二人に確信など微塵もありませんでした。そればかりか気まずい空気が流れていたのです。おじいさんは、窓を開けて新しい風を呼び込もうとしました。窓からは、風ではなく他ならぬものが入ってきました。それは他ならぬ気分的なもの、他ならぬ季節的なもの、他ならぬ昆虫的なもの、他ならぬ憂鬱なもの、他ならぬ演奏的なもの、他ならぬ感覚的なもの、他ならぬ他人めいたもの……。そして、二人にとって待ちかねた、他ならぬ閃き以外の一切だったのです。

 おじいさんはいても立ってもいられなくなって、家を飛び出しました。そして、その後におばあさんも続きました。

 

 外に出て秋刀魚を手に持つとそれは前よりも重みを増しているように感じました。やはり巨大すぎて玄関を通らないのは、前と同じです。その時おじいさんの頭に、待望のアイデアが閃きました。

 

「ここで焼けばいいじゃないか!」

「そうね! おじいさん!」

 すぐにおばあさんも賛同しました。早速煙を起こし、秋刀魚を焼き始めました。なんとも言えないよい香りが、広がっていきます。それはこの世の秋を感じさせるもの、生きていて良かったと思わせるに十分すぎるほどの香りでした。けれども、その魔力的な香りに引きつけられるようにして、邪悪なものたちが迫っていることに二人は気がつきませんでした。

「そろそろ食べ頃かね、おばあさん?」

 いよいよおじいさんの空腹も限界に近づいているのでした。

「なあ、おばあさん?」

 煙の中に、おばあさんを見つけることができませんでした。

 おばあさんが姿を消したことを知ったおじいさんは、一人寂しく秋刀魚を食べなければなりませんでした。

 おばあさんに関する手がかりと言えば、ほんの少し前に野生の雄叫びのような声が聞こえたというだけでした。

 

 一人になってしまったおじいさんは、おばあさんの気配を追って町中を歩きました。そして、町を飛び出して山の奥にまで潜っていきました。どこまで行ってもおばあさんの姿はなく、おじいさんは途方に暮れて座り込みました。その時、木陰から密かにおじいさんの様子を見ているものがいました。それは何か小さな存在のようでした。

「出ておいで」

 おじいさんの囁きに安心したのか、イノシシの子供がゆっくりと姿を現しました。それは母親からはぐれた子イノシシでした。おじいさんはポケットの中から残りのチョコレートを取り出して与えました。すっかり日が暮れて、おじいさんが肩を落として山を下りると、後ろから子イノシシがついてきました。手で追い払うような仕草をしても、しっしっと言っても、まるで通じません。仕方なくおじいさんは子イノシシを連れて帰りました。どことなくおばあさんの面影が感じられたからです。

 おじいさんと子イノシシの生活が始まりました。おじいさんは、どこに行く時も子イノシシと一緒でした。図書館に足を運んでは、イノシシのことについて学び、また子イノシシの方もおじいさんと共に歩むことで、人間の習性を徐々に学んでいったのでした。そんな互いの努力もあって、イノシシは一人前に成長し、すっかり町の人気者になったのでした。

 多くの役割がイノシシに与えられました。一日警察署長、一日駅長、一日校長先生、一日コンビニ店長、一日動物園長、一日映画監督、一日大学教授。そうした一日一日が、宝物のようでした。おじいさんは、イノシシの後に、マネージャーのようについて回りました。

 ある日、イノシシが死んでしまいました。葬儀には、町中からたくさんの人が押し寄せ別れを惜しみました。

 

 おじいさんは悲しみに打ち勝とうとして仕事に打ち込みました。おじいさんの仕事は獣医でした。以前にも増して積極的に最新医療を学ぶようになり、またイノシシで儲けた資金を投入して、最新機器を次々と導入しました。そうした努力の甲斐もあって、おじいさんの動物病院の名声は、町だけに留まらぬ広がりを見せ、国中から名医の治療を求めて動物たちがワンワン、キャンキャンと押し寄せるようになりました。

 

「うちの子がとても苦しそうなの」

 少女は狼を抱きかかえながら、駆け込んできました。

「何か変わったものを食べましたか?」

「わからない。わからないのよ」

 何もわからないと言って、女の子は泣きました。

 名医は次々と質問を浴びせました。女の子は泣いていて、一つも答えられません。名医はレントゲンを撮るため、狼を抱えました。とても苦しげに息をしています。

「これは何だろう?」

 写真を見てみると何か得体の知れないものが写っていました。名医は手術台に狼を運び、鋭利なメスで狼のお腹を切り裂きました。すると中におばあさんが隠れていました。

「おお! おばあさん! こんなところにいたのかい!」

 おばあさんを狼のお腹から取り除くと丁寧に縫いつけました。そして、今度はおばあさんを抱きかかえて、少女の元へと行きました。

「腹痛の原因はわかりましたよ。もう大丈夫です」

「ありがとう! 先生、ありがとう!」

 今度はうれしさのあまり泣きました。

 うれしいのはおじいさんも一緒でした。何しろようやくおばあさんと再会することができたのですから。間もなくおじいさんも泣き出しました。

 

「どうしたの? おじいさん?」

 おばあさんが長い眠りから覚めて口を開きました。

「何だかおかしな夢を見ていたわ」

「どんな夢だね? おばあさん」

「秋刀魚を手にして戦っていたの」

「そうかね。それはおかしな夢だね、おばあさん」

 

 

 枯渇の旅人が水たまりを飲み干すと紙芝居は消えてしまいました。おじいさんも消え、おばあさんも消えてしまいました。

 

 

 

 

コメント

イルカはごめん

2019-09-13 03:02:00 | リトル・メルヘン
 僕らは翼を持った新しい豚だ。狸が扮装し木の葉を使い人の間で商売する間に、僕らは知恵を蓄えた。犬や猫が人の温もりに恋して家具の間を行き来する間に、僕らは夢と想像を膨らませた。檻に捕らわれ縄に捕らわれた時代を抜け出して、僕らは上を向き羽ばたく豚へと変化した。人間からかけ離れたものでもない。人間に近づきすぎたものでもない。気がついた時には、僕らは他の動物とはどこか一風変わった奇妙な存在になっていたのかもしれない。僕らは横から現れるような牛じゃない。枠から走り出すような馬じゃない。テクノロジーと大和魂を併せ持った豚。僕らは翼を持った新しい豚だ。

「妖しい奴が紛れ込んでいる」
 教官が一同の前に立ち冷静な目で言った。
 妖しい奴……。それはいったいどういう奴だ。
「飛べない豚はいるか?」
 確かめるまでもない。それは僕らにとっては初歩的な問題だった。新しい豚を正面から否定することだから。
「順に訊くぞ!」
 いるはずがない。今さら青い海になど戻れるか。
「いません!」
「違います!」
「愚問です!」
「当然です!」
「論外です!」
 表現は違っても答えはみんな同じだ。
「勿論です!」

「ほほー、そうか。じゃあ、君やってみて」
 教官は足を止めて言った。どうして……。からかっているのか。僕を疑っているのか。冗談じゃない。みんなの視線が僕に集中している。逃げ場はなかった。もう、やるしかない。久しぶりのテスト飛行だった。問題はない。これは初歩的なスキルなのだ。けれども、急に不安が押し寄せてきた。(もしミスをしたら……)その瞬間、この場にいられなくなってしまうのではないか。

「どうした?」
 僕の中の不安を読み取ったように教官が言った。
「いいえ。何でもありません」
 普通にやればできる。簡単すぎることなんだ。僕は上を向いて走り出した。その時、後ろからイルカの笑い声が聞こえるような気がした。
コメント

B15

2019-09-11 03:16:40 | リトル・メルヘン
 上り詰めることを夢に見たはずだったが、重力に逆らって駆け上がる元気は既に失われていた。もう、疲れたのだ。かつては強く軽蔑していた言葉に、今は共感さえ抱くようになった。私は地下へと続く階段を下りた。駆け下りるとなると足は軽やかに弾んだ。いつからか、楽なことばかり選ぶようになっていた。地下4階まで下りていくと、誰かが猫のような勢いで階段を駆け上がってきた。
 
 ランドセルを背負った少年が駆け上がってくる。2段飛ばし3段飛ばし、自分の限界を探る冒険に足を伸ばしながら、駆け上がってくる。「危ないよ!」私の目からはサーカスのように映る。「危なくないよ!」すぐさま言い返した。すれ違いながら、少年は私の背丈を越えてしまう。早いな……。私の忠告は過去の残骸として階段に転がっている。振り返って少年の後ろ姿を見上げた。その時、ランドセルは大きな翼のようにみえた。
 
 アンコールを待っているの、と女は言った。上から3段目の中央へ腰を下ろして、女はただ1人演奏が再開される時を信じて待っていた。「みんなとっくに帰ってしまったけど、私はまだ待っているの」女は私の知らないアーティストの名を口にした。小さい頃からのファンだと言う。虫の音1つ聞こえてこなかった。「夏が終わるまでね」冗談めいた言葉が階段の上に響いた。私は笑いながら地下7階を通り過ぎた。もう10月だった。
 
 それから誰にも会わなかった。下りるところまで下りてしまった。そう思うと突然足が震えるのがわかった。地下15階まで下りた時、視界は行き詰まった。その先には扉があったが、扉の前には埃を被った机や骨の折れた椅子、破れたソファーや毛むくじゃらの縫いぐるみが積み上げられ、バリケードになっていた。大切な宝物か、あるいは不都合な真実が隠されているのかもしれない。その時、右腕を伸ばした熊の1つがウインクをしたので、私は扉から目を背けた。階段を見上げるとドラムの音がこぼれてくるようだった。
コメント

テレビタックル

2019-09-10 03:26:37 | リトル・メルヘン
  猫がテレビにタックルした。
 アナウンサーは読みかけの原稿を置いて、カメラを睨みつけた。
「もううんざりです。どのニュースも伝えるまでもない。今入ってきたニュースなんて、もうニュースでさえない。こんなものは昼下がりの公園で暇を持て余した貴方たちが、おしゃべりの種にでもすればいい。ふん、ニュースだと。こいつのどこが、いったいニュースだ? ふん、こいつは個人の日記に毛が生えたようなもんだ。私が伝えるべきことじゃない。電波への裏切りだ。こちらからは以上です」
 
 とりつかれたように主人は四角い箱の中を見つめている。塩気の多いスナックと泡の入ったグラスを口にする以外は何もしない。ソファーの上でもう長い間固まって、魂を抜かれたように、絵空事を語る箱を向いている。遠い星からやってきた者たちは街に降りて、少しずつ少しずつ馴染みながら、少しずつ何かを奪い取っていく。選ぶ権利、恋する自由、奴らは少しずつ目の色を変えて、本性を見せ始める。
 
「もう、早くこっちを見て!」
 猫は、テレビにタックルした。
 どこか自分に似ているような、どこか自分とは離れているような存在を見つけた猫は、四角形の箱に釘付けになった。向こうからもこちらに興味を抱き、様子をうかがっている。初めて目にするものへの驚きと、どこか懐かしくもある容姿、猫は似て非なるものへ恋をしたのだった。向こうのものはどうだろう。確かめる手立てはいつも一つしかないことを、既に知っていた。猫は慎重に後ずさりした。それから十分に助走をつけて猛然とテレビにタックルした。そして一方的に傷ついた。住む世界が違うのだ、ということはまだ知らなかった。

 後先も考えずに猫がぶつかっているというのに、黙って見ていていいのだろうか。触発されたようにみんながテレビにタックルを浴びせ始めた。時を持て余していたニートが、散歩から帰ってきた老人が、鎖につながれていた子犬が、今まで傍観を続けていたみんなが、次々とタックルを試みるのだった。
「猫がするんだから」
 合い言葉を唱えながら、動物的な反撃が始まった。
 
コメント

規制の銃

2019-09-06 02:15:56 | リトル・メルヘン
 秋の選挙が始まって朝から晩まで身を乗り出して鈴木鈴木と叫ぶ声が疎ましいので規制の銃をぶっ放してリフレインを規制した。鈴木は鈴木ばかりを繰り返すことができなくなって、スタッフの名を順に叫んでいる。デモ隊の列に規制の銃をぶっ放して、旗揚げを規制した。彼らは着ていたTシャツにメッセージを書いて、裸になって行進した。なかなかしぶとい連中だ。
 顔を合わせる度に上から説教してくるので、規制の銃をぶっ放してお説教を規制した。「人生の先輩としてのアドバイスだよ」言葉を差し替えて逃れようとする。「経験が足りないね」規制の銃をぶっ放す。「歳を取ればわかるよ」経験を、歳を規制する。「将来のことを考えないと」将来を規制する。「君のためを思って言ってるんだよ」もうたくさんだ。1つ1つ潰してもきりがない。規制の銃をぶっ放してコピペを規制した。これでもう何も言えないね。

 ドラマを見ているとハラハラするので、規制の銃をぶっ放して神の手オペを規制した。医師は無難なオペを確実に行うようになった。犯人がなかなか捕まらないので、規制の銃をぶっ放して捜査に規律を与えた。刑事をあだ名で呼ぶことを規制して、ちゃんと上の名で呼ぶようにした。聞き込み、尾行、張り込み、ありきたりな手法はすべて規制してやった。犯人の想像の上を行かなければ、お縄はちょうだいできないからだ。頭が痛くなるので、科学的な班はすべて解体させた。技術に頼らない人間ドラマを、心して待った。

 そこにもここにもアホがいるので、規制の銃をぶっ放してアホを規制した。一旦落ち着いて賢い人ばかりになったが、しばらく経つとその中の一部からアホが出現して悪さをするようになった。私はまた規制の銃をぶっ放した。そうして安らげる時間はいつもひと時の間にすぎなかった。規制の銃はいつまでも手放せない。「アホと言う奴がアホだ!」アホが捨て台詞を投げていった。アホは私の中にも存在するのかもしれない。私は自分を守るため、私に向かって規制の銃をぶっ放した。
コメント

素麺流し

2019-08-28 07:53:00 | リトル・メルヘン
「来週入ってきます」
「えっ? 先週も確かそう言ってましたよね」
 素麺ブームは衰える気配がなく、どこの店に行っても一本の麺も残っていない。僕は入荷の日を楽しみに一週間を過ごしていた。昨日から何も食べずに足を運んだというのに。
「また来週お越しください」
 食欲が一気に失せた。素麺以外の何を食べろというのか。記録的暑さが体力を日々奪っているというのに、今は素麺以外にまるで関心がない。


「くそガキが。10年早いわ」
「いや100年だ。ガキに食わせる素麺はない!」
「まったくだ。氷でもかじっとけってな」
「ははは。こいつは俺たちのもんだ」
「時給950円の俺たちの報酬だ」
「当たり前だ。これくらいないとやってられるか」
「やっぱり夏はこれに限る」

「あっ、ガあ。お客様……」
「ん? 客?」
「何か?」
「トイレ貸してください」
「あー……。ないんです」
「えっ?」
「トイレはないんですよ」
「なるほど」
 密かに踏み込んだバックヤードに闇を見た。季節の風物詩は独占的に流されているのだ。僕はすぐさまカメラを起動して店員たちの悪事を撮影しておいた。もうどんな言い逃れも通用しない。

「はい」
「トイレはね」
「はい。ごめんなさい」
「何が?」
「はい?」
「何がごめんなさいなの?」
「ですから。トイレがですね」
「で?」
「で?」
「くそガキに何か言うことは?」
「えーと。いつからそこへ?」
「最初からいたよ」
「最初から……」
「先週くらいからかな」
「実はこの素麺ですね、今入ったとこでして……」
「今ね」
「はい」
「100年前じゃない?」
「お客様……。誠に申し訳ございません」
「うん」
「このことはどうか……」

「さあ、どうしようかな。僕はむしゃくしゃしてるんだよ。何かネットにアップしたいくらい。例えば流し素麺の動画とかだけどね」

「お客様。それはちょっと。よかったらこちらへどうぞ」
「そう?」
「ここ空いてますから。めんつゆも持ってきますから」
「食べてもいいの?」
「勿論。好きなだけお食べください」

「じゃあ、そうするか」
「ありがとうございます!」

「麦茶もあるかな?」
「はい。少々お待ちくださいませ!」
 
 この夏最初の素麺を僕はバックヤードで食べた。
コメント

とりかえっこ

2019-08-27 03:16:47 | リトル・メルヘン
 昔々、街の中心に近いところに傷ついた鶴がいました。偶然にそこを通りかかった若者は、傷ついた羽を震わせ苦しそうな鶴を見つけて立ち止まりました。(助けなければ)若者は助けることを前提にして、念のためにその後のことも考えてみました。もしもこの鶴を助けたとして、鶴の傷が癒え、元気になったとして……。
 若者は助けた後の未来に想像を掘り下げながら立ち止まっていました。元気になった鶴が、突然家に押し掛けてくるかもしれない。部屋を一つ貸さなければならなくなるかもしれない。人間の振りをした鶴が、こっそり仕事を始めるかもしれない。うるさくて眠れないかもしれない。冷蔵庫を勝手に開けられるかもしれない。合い鍵を作らなければならないかもしれない。隣人に怪しまれるかもしれない。
「絶対に見ちゃ駄目」と言われるかもしれない。
 その時、自分はどうなってしまうだろう。(今のままじゃいられないよ)変わることへの不安、失うことへの不安が脳内を占め、若者はどうしても救助の一歩を踏み出すことができませんでした。自分でなくても……。その内にそのような思いが大きくなっていくのでした。
 人通りは多いのだし、途絶えることはないのだし、都会なのだし。もっと余裕のある人が助ければいい。間取りの広い家の人が助ければいい。ちゃんと秘密を守れる人が助ければいい。だから、それは自分以外の人間だ。きっとその方があの鶴にとっても幸福なことに違いない。そう結論づけて若者はその場を離れました。街の中心を離れ、自分の家とは真逆の方へ歩いていきました。
 
 ちょうどその頃、太郎さんは海辺で迷いながら一頭の亀を見ていました。亀はたくさんの若者たちに囲まれて、酷い仕打ちを受けているのでした。いったい亀は何をしたと言うのでしょう。(きっと何もしていないに違いない)寄ってたかっての攻撃にじっと耐え続ける亀の甲羅を見ていると何となくそのような感じがしたのでした。
 ゆっくりと太郎さんは哀れな(勇敢な)亀の元へ近づいていきました。罵声と笑い声がどんどん大きくなっていきます。
「助けなきゃ」そう思った瞬間、なぜか太郎さんの足は前進を止めてしまいました。助けることはできるだろうけど。太郎さんは助けるにしても、その後のことを考えてからでなければ動けませんでした。将来のことを見通してからでないと、一歩を踏み出すことは困難だったのです。
 乱暴者たちを追い払い、憂いの晴れた亀は元気を取り戻す。そして、亀はどうするのだろう。(とても義理堅い亀だったりしたら……)「どうぞ私の背中に乗って」と誘われるかもしれない。それはハニートラップかもしれない。甘い笑顔、甘い言葉、強引な甲羅に拒むことができないかもしれない。一度亀に乗ってしまうと、亀はぐんぐん進んでいくかもしれない。振り返らずに海の方へ向かっていくかもしれない。寒いかもしれない。冷たいかもしれない。息が苦しいかもしれない。ずっと家に帰れないかもしれない。深い深い場所できれいな人に出会うかもしれない。それは新しいハニートラップかもしれない。うれしいかもしれない。楽しいかもしれない。しあわせすぎるかもしれない。戻れないかもしれない。いつかは戻されるかもしれない。
 助けた後の風景に想いを巡らせながら、太郎さんは酷い仕打ちに耐える亀を見ていました。ずっと戻れなくなるかもしれない。ずっといたくなるかもしれない。いつかは戻されるかもしれない。そことここでは人生の重さが違うかもしれない。時間の長さが違うかもしれない。帰りはタクシーかもしれない。大層な贈り物を持たされるかもしれない。開けるなと言われるかもしれない。みんな変わっているかもしれない。知人も友人もいないかもしれない。知らない芸能人ばかりかもしれない。開けるしかなくなるかもしれない。煙に包まれるかもしれない。一瞬で老いてしまうかもしれない。
(酷いとばっちりだな)
 老いた自分の姿を想って、太郎さんは身震いしました。
(自分でなくても)太郎さんは突然そのように思い後退りしました。もっと武芸に秀でた者が、もっと権力を持った者が、あるいはもっと誘惑に強い者が助ければいいのでは……。その方がすべてが上手く収まり、あの亀にとってもきっと幸福なことに違いない。そう結論づけると太郎さんはくるりと回って歩き始めました。
 
 その時は納得したはずの結論でした。けれども、海辺から離れるに従って、太郎さんの胸の中には経験したことのない後悔の念がとめどなく押し寄せてくるのでした。(どうして歩みを止めてしまったのだろう)波の音も、あの亀の悲鳴ももうどこからも聞こえてはきませんでした。横断歩道の陽気なミュージックが途絶えて太郎さんははっとして走り出しました。街の中心まで来た時もうすっかり人影も途絶えていました。微かな風を聴いて足を止めると太郎さんは傷ついた羽を震わせ苦しんでいる鶴を見つけました。
「どうした?」
 太郎さんは一瞬もためらわずに鶴の元へと駆け寄ると傷ついた鶴を抱え上げました。
「もう大丈夫だよ」
 
 
 
 
 
コメント

シャドー・ファイター

2019-07-29 23:24:00 | リトル・メルヘン
   誰にも会いたくなかった。
 俺は電灯の下で顔のない男と対していた。
 お前は俺の影。俺の繰り出すジャブもストレートも、お前には届かない。お前は俺ほどにしなやかで、俺にも増して素早い。何よりも従順な練習パートナーとなるだろう。
 俺が立つ限りお前は立ち、俺が倒れぬ限りお前も倒れないだろう。思えば俺の敵はお前だけなのかもしれないな。
 さあ、こちらから行くぞ!
 俺は強くなりたいんだ!
 俺は探りのパンチを繰り出す。フットワークを使い、お前との距離が常に適切であるように心がける。俺はコンビネーションを使い、お前を攪乱する。お前は容易に動じない。抜け目なく間合いを読んで、俺の変化に同調してみせる。先に乱れた方が負けだ。俺は引くべきところで引いて、もう一度動き直す。何度でも何度でも。それが俺のチャレンジだ。俺は自分からタオルは投げない。俺とお前の戦いは、世界に光と闇がある限り続くだろう。どうだ? お前からも打ってこい。度胸があるなら、お前からも打ってくるがいい。そうか。無理か。だったら俺から行くぜ。お前は永遠に俺を超えられまい。もしも超えられると言うのなら……。

 痛い!

 お前のパンチが俺にヒットした。
 (どうせまぐれ当たりだろう)
 それは思い過ごし、あるいは俺の自惚れだった。
 お前のパンチは俺よりも速く伸びしろがあった。
 徐々に正確に俺の顔面をとらえ始めたのだ。

 痛い! いてててて!

 おかしいな…… どうして俺ばかりが打たれるんだ。
 俺のパンチは一切当たらない。なのに打てば打つほどパンチは自分に返ってくる。俺は一方的にダメージを受けた。得意のカウンターは決まらない。俺はついにガードを下げ、一切パンチを出さなくなった。それでも俺の影は攻撃の手を緩めなかった。助けてくれ。俺が悪かった。何がとは言えない。だから許してくれ。(お前を甘くみたのが悪かったのかな)
 俺は命辛々に自分のジムまで逃げ帰った。


「誰にやられたんだ」
「ううっ」
「こてんぱんじゃねえか」
「会長……」

「おー、いったい誰に……」

「俺は自分にやられました」
「お前……」
「……」

「とうとう腕を上げやがったな!」
「何だよ。どういうこった」
「強くなりやがったな!」
「会長。どうして……」

「わかんねえのかよ」

「わかんねえ。俺にはさっぱりだ」

「お前はお前を超えちまったんだよ」

コメント

うどんおばば

2019-07-26 03:47:39 | リトル・メルヘン

 

 がらがらと扉を開けると帽子の紳士が一人かけていた。私は店の中程に進み広いテーブル席の隅に座った。すぐにおばあさんがお茶を運んできた。
「今から茹でますと25分かかります」
 仕方ない。美味しいうどんのためなら私は待つことにした。お待ちくださいとおばあさんは店の奥へ姿を消した。間を置かず今度は少し若い女性がやってきた。
「今から茹でますので12分かかりますけど」
「あれっ。さっき別の方に言いましたが」
「えっ? 今は私だけですが」
「いやおばあさんが……」
 そんな人はいないと店の人は言った。
 私は中庭を眺めながらうどんを待った。生い茂る草の向こうに二段重ねの石蛙が覗いていた。おばあさんの運んできたお茶がよく冷えていてとても美味しい。
 15分経過。
 うどんはまだやってこない。
「ありがとうございます」
 帽子の紳士が席を立って帰って行く。
 
 
コメント

モンキー・マジック

2019-07-24 16:08:02 | リトル・メルヘン
「なんでこんな星にしたんだよ」
「そうだ。もっとあったよね」
「さっきのでよかったじゃない」
「本当だ。よほどよかった」
「お前らな。だったらさっき言えよ」
「言いましたけどね」
「ちゃんと言えよ。ぼそぼそ言ってただろ」
 
「でも酷い星」
「何も得るものが見当たらない」
 流石にもう黙って聞いていられなかった。田舎だから自分たちしかいないと思っているのか。だが、ここは私の愛する街だ。もう隠れているのはやめた。
「お前らあんまり調子に乗んなよ」
「お前こそ何だ? 部外者は引っ込んでろ」
 
「はあ? お前らの方が部外者なんだよ」
「何だ、やるのか? 俺たちに手を出したら地球がなくなるぞ。わかってんのか?」
「これはプライドの問題なんだよ」
「それより君は人類、いいや地球生命のことを考えるべきでは?」
「人類のことなんて知らない。私は自分しか愛せないんだ」
 
「何こいつ、頭悪そうだな。やっちまえ!」
 私は覚えある空手を使って侵略者を懲らしめた。生身の彼らは口ほどになく弱かった。大人と子供以上の実力差がはっきりと見えた。とてもかなわないことを悟ると彼らは散り散りになり逃げながら詫びながら母船の中に逃げ込んでいった。
 
「二度と来るなよ!」
 UFOは離陸すると一瞬で空の彼方へ消えてった。幼稚な道徳に反して高度な科学を持っていることが推測される。
 一人だけ残されたボスの目がすかっかり死んでいた。私は荷造り用の紐できつく縛りつけて自宅へ連れ帰った。
 
「食べるか?」
 ボスはバナナを半分だけ食べた。
 翌日になり、私は人類の発展のためにボスをNASAに届け出た。
 
「これは猿ですよ」
 そう言われた瞬間、確かにボスは猿にしか見えなくなっていた。
(ここに来るまで宇宙人だったのに)
 そんなことを言ってももはや何の信憑性もない。言い続ければ私の立場が危うくなるばかりだ。
 仕方なく私はボスを動物園に連れて行った。
 バナナを食べる度に、ボスは猿らしさを増し、人懐っこい笑顔を見せるようになった。これなら、どこに行ってもすぐに馴染めるかもしれない。私の中にボスに対する親心などあるはずもなかったが。
 
「昨日までは宇宙人だったんですが」
 園長の前で、私は正直に打ち明けた。
 
「これはあなたのお母さんですよ!」
 私ははっとしてバナナを食べた。私も猿か。
 
 
 
コメント

本当はスキップしたかった

2019-07-19 04:18:34 | リトル・メルヘン
最新のバージョンに
私をアップデートしてちょうだい
 
恒例の大型アップデートにかかる時間は
およそ150年
長いとは言えないがそう短くもない
その時、僕はここにいるだろうか
まるで想像もできなかった
 
どうしても必要なの?
 
何も言わずに頷いてみせる
君の未来志向に
逆らうことはできなかった
コメント

メロンパン

2019-07-12 03:37:14 | リトル・メルヘン
素敵なカフェで素敵な詩が生まれるなら
僕はもう言葉なんて探さずに
ただ素敵なカフェだけ探して
歩いて行くことにしよう
 
ああ こんなところに
素敵なカフェがあったんだ
 
前を通るまでは気がつかなかったけど
地図にも口コミサイトにもまだ
載っていないけど
ああ こんなところにあったんだ
 
いらっしゃいませ
お好きな席へどうぞ
 
「ここはメロンパンが特におすすめなの」
 
確かにそうだった
横断歩道を渡ってくる前から
何かいい匂いがずっと漂っていたものだ
 
そうして僕はいまここにいる
 
「コーヒーをください」
 
テーブルの上にpomeraを開いて
 
僕は「メロンパン」と打ち込んだ
 
コメント

チャララララ

2019-07-10 19:07:16 | リトル・メルヘン
あのメロディーが聞こえてくると
みんなたまらず飛び出してくる
チャララララ
 
宿題も家事も放り投げて
絵を描く者は筆を置いて
争う者は拳を置いて
五段も七段も指し手を止めて
「一旦封じます」
 
チャララララ
対局室からアトリエから
地下街から屋上から
オフィスからビルの中から
トンネルから山の上から
町の外からまでも
 
チャララララ
 
吸い寄せられた人々に取り囲まれて
車は動きを止めた
降りてきた大統領が
みんなの注文に応える
 
チャララララ
 
チャンポン!
 
コメント

踏切の向こう側

2019-07-09 00:51:45 | リトル・メルヘン
 生きていく上では忘れてはいけないことがいくつもある。
 挨拶をすること。まあ、いいや。後で返そう。呑気に構えている内にどんどん人々が去って行く。気がついた時には自分だけになっている。
 さよなら。言える時に言っておかないと後からでは言えなくなる。忘れないように……。そう心がけていても、やっぱり忘れてしまうことがある。
 
 鍵をかける。これは基本的なことだ。
 家を出る時には、他にも忘れてはいけない基本的なことがいくつもある。
 テレビを消すこと。
 誰もいない部屋の中で誰かがだらだらと話をしていたら、それはテレビがついているのだ。何となくつけたテレビを消し忘れてはいけない。
 洗濯機の中は空っぽか。
 回転を終えた時に洗濯機の仕事は終わる。その後は人間のすべきことだ。
 人間の仕事は人間がする。それは基本的なことだ。
 真冬にシャツ一枚で呑気に過ごしている時は、部屋のエアコンが働いていることだろう。静けさに気を緩めてスイッチを切るのを忘れてはいけない。
 オーブントースターの中は大丈夫か。
 久しぶりに扉を開けてみたらいつかのトーストが固まった姿で見つかった記憶が脳裏をかすめた。ついに交代のカードが切られることなくベンチを温め続けた選手の気持ちが、トーストにはわかるだろう。そのようなことがあってはいけない。
 私はコートを羽織り家を出た。
 鍵をかける。
 ちゃんとかけたか確かめる途中で鍵が回り開いてしまう。
 そして、もう一度鍵をかけ直す。鍵は完全にかけられた。
 
(何かを忘れているような気がする)
 そのような幻想も、忘れなければいけないものの一つに数えられる。
 
 夢をみること。それは生きていく上でとても重要なこと。
 現在がどれほど困難に満ちた状態に置かれていたとしても、夢という現在の向こう側、あるいは現実とは切り離された全く別の次元を持っているということは、どれだけ心強いことだろう。今が闇に沈んでも、夢では輝くこともできる。
 夢の中では故郷の空中都市がテレビのニュースで取り上げられている。今では雲より高く突き抜けて何を目指しているかは窺えないけれど、しばらく帰っていない間に驚くことになっている。もう亡くなった人が一緒にいて意見を求めたりする。生きている人も出てくるので、実際には誰が今どうなっているのか、目覚めた後で混乱もある。
 残り夢の中の住人たちは、日常の誰よりもずっと近くに感じる。
 
 いくつもの基本によって、今の自分は生かされている。
 
 
 路上に出て見知らぬ人々とすれ違いながら、私は鍵をかけてきたことを思い出しては気持ちを強く持つ。
 赤い点滅、遮断機がゆっくりと下りる。
 急ぐ者は誰一人いない。
 ジャリジャリと鍵はポケットの奥で存在を示した。
 大丈夫。何も心配ない。
 長い列車が通り過ぎる。
 乗客は皆、手の中の切符に目を落とし安心していた。
 遮断機が音もなく上がる。踏切の向こうにハルが待っていた。
 
「遅かったね」
 犬はあきれるような目で私を見上げた。
 おもむろに立ち上がると身を振って待ちくたびれた埃を落とした。
「さあ行こうか」
 
 
コメント