折句ラッシュ・クリスマス

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、縦読み
クジラうえリクエストした水族館マダイが歌うスローバラード、クリスマス

ウォーズの共演者

2021-01-26 10:23:00 | 将棋の時間
「真夜中の対戦者たち」

将棋ウォーズにログインすると
驚くほどのスピードで手合いがつく
相手が人間だと感じれば
どうしてこんなに楽しいのだろう


「倒してみせる/いい将棋をつくる」

3分切れ負けルールで、将棋になるためには
互いの協力が必要だ
戦う意思、つくる意識がなければ
まともな将棋にならないだろう
詰み/終盤までたどり着けることが
まずは大事じゃないだろうか


「6分で終わるドラマ」

寄せ切れるかどうか
ギリギリの勝負
時には作ったような結末になったり
最後の1秒にドラマがある


「攻撃の孤独」

仕掛けなければ仕掛けられる
仕掛けなければ備えられる
仕掛けたところで二の矢がない
孤独と隣り合わせの攻撃


「逞しくなりたい」

よく逆転負けをする
寄るはずのない玉を寄せられたりする
穴熊もいいけれど
受けも強くなりたいなら
色々試してみるのも手


「困ると時間も使うもの」

寄せ切ることは大変だから
時間でも競っていることは大事
時間で勝とうとするのではなく
上達を目指すなら指し手を追究すること


「ミスはつきもの」

ミスをした時に
リカバリーする力をつけたい
出だしを間違えているのに
ちゃんと正しい文字にしてしまう
そんな人がいた
辻褄を合わせられる人になりたい


「AIが解放した序盤」

色々やってくる人
無茶苦茶にやってくる人
ああ 好きにやっていていいな
(自分もそうありたいと思う)
探究している感じがする

考えずに生きることもできる
勝つことだけを考えると
あまり「冒険」はできなくなる
一局の中で指せる手は決まっている
(本当に自分の選べるのは何手だろう)
なぞるのと自分で考えるのとでは
「充実感」が違うのだ
それは疲労の度合いでもわかる

自分が何をテーマにしているか
それによって選ぶ手は決まってくる


「未知の局面で悩みたい」

本気で考えたい時には
少し長い10分切れ負けルールを選びたい
切迫していく時間の中で
どう指していいかわからない
局面を乗り越えようともがくことは
将棋の面白さの1つではないだろうか


「ファッション」

(やたらと右四間飛車ばかりとか)
流行り廃りだけではなく
自分のスタイルを持っている
人は「ハート」が強い
好きなことは繰り返せる
(だから強いのだ)
食べること、眠ること、生きること
好きでないとやってられない


「序盤が実は難しい」

終盤は難解だが
上手い人のをみたり、実戦を積んだり
詰将棋を解いたりすることで上達する
序盤はあまりにも手が広すぎる
定跡は参考になるが
うろ覚えで指して失敗することも多い
(失敗を恐れずいこう)


「なるほどは上達の秘密」

現代では難しい定跡書に頼らずとも
YouTubeで学ぶこともできる
四間飛車で棒銀を迎えるとしたら
山口さんの講座などは
とても参考になるはずだ
隅々まで理解することは難しくても
部分部分で
「なるほど」と思える瞬間があれば
それは定跡の急所を理解した証だ
無理に覚え込もうとするよりも
「なるほど」を獲得していく方が
よほど応用が利くのではないか

AIソフトを活用する
という手もあるだろうし
いずれにせよ
教わったことをただ「受け取る」のではなく
自分なりに吸収していく姿勢が大事だ



※『将棋ウォーズ』……ネット対戦アプリ

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偽の封じ手

2020-11-27 07:12:00 | 将棋の時間
「封じ手は……」

 えっ?
 読み上げられた一手を聞いて名人の表情が変わった。手元に引き寄せた図面を見て、表情は一層険しくなった。
「局面が……」
 どうも局面が間違っているようだ。
「あなたは……」
 挑戦者も事の異変に気づいた。
「別人だ!」
 局面も封じ手も夕べから引き継がれたものとは違い、勝手に創作されたものだった。男は少し肩を落として自分の非を認めた。
「私の作った定跡を名人戦の大舞台で指させてみたかった……」

「待った!」
 その時、襖を開けて正立会人が入ってきた。
「前説はそこまで」
「負けました」
 偽立会人が頭を下げて退席した。

 正立会人が封筒に鋏を入れ、角まできたところで止めた。切り落としてしまうとその部分が下に落ちてしまう。それを拾うのは一手無駄である。細かいところまで配慮を行き届かせることも、正立会人の務めであった。2枚目の封筒も同じよう開封して、中身を取り出した。いよいよ名人戦最終決戦、2日目の対局が始まろうとしていた。名人は息を止めてその瞬間を待っていた。挑戦者は眠るように目を閉じている。

「封じ手は……」
 

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セミファイナル(棋は対話なり)

2020-11-20 00:44:00 | 将棋の時間
「昼飯何食ったんだ?」
 そう言いながら銀をぶつけてくる。
「何でもいいだろう」
「カツ丼か? お前、俺に勝つ気か?」
「当たり前だ」
 少し気分を害しながら私は同銀と応じた。
「俺に勝たせろ。それが正しい結果だ!」
 と桂を跳ね出してきた。
「何を言うか」
 私は桂先に銀をかわした。

「お前じゃキングは倒せない。だから俺が勝つべきなんだ。俺はお前よりも先を見据えてるんだ」
「うっさいな。決勝なんか関係あるか」
 目の前の対局に集中すること。それもできない奴に負けるわけにはいかない。
「読みの深さが違うんだよ」
 失礼極まりないことを言いながら、自陣角を放った。
 うん? 何か意味わかんない。
 私は端歩を突いて様子をみることにした。

「はあ? お前の手、何か眠たくなるな」
「ああ、何か合わないな」
 もういい加減黙ってくれないかな。
「催眠術か?」
「催眠術じゃねえよ」
 駄目だ。反論するほど自分のペースが乱れてしまう。

「将棋を指してくれよ!」
 敵は反対側の桂も跳ね出してきた。
 第一感それは悪手だ。
 正しく指せば必ず私が勝つだろう。
 そうとも。彼の助言に従おうじゃないか……。
 私は雑音を封じて(将棋を指す)ことにのみ集中するのだ。
(舌戦の中で幸いにも棋士の本文に目覚めることができた)

「ドブネズミかよ」
「蠅が止まるぜ」
 読みの対岸でぼやく声が時々聞こえてくる。
 今の私にはもう関係のない話だ。
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leave me alone(駒犬の間)

2020-11-11 11:27:00 | 将棋の時間
 少し困った顔をしていると優しい人が寄ってくる。
「どうしたの?」
「……」答えがあるなら苦労しないだろう。
 頭を抱え込んでいると親切な人が近づいてくる。
「いい薬があるよ」
「大丈夫?」
「いい本があるよ」
 ああ。どうしてみんな優しいの!
(僕はもう少し独りでいたいのさ)

「駒犬の間へ、どうぞ」
「えっ?」
「思う存分考えて。誰も責めないから」
 立会人に導かれるままに僕は襖を開けた。
 向こうの座布団にも人がいる。
「あれは?」
「四枚堂八段だよ」

「僕独りじゃないの?」
「大丈夫。盤の向こうの人は何も干渉しないから」


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西日の千日手

2020-10-26 16:58:00 | 将棋の時間
おじいちゃんの部屋は
特別離れた場所にあり
いつでも西日の中にあった

僕が右に銀を繰り出すと
おじいちゃんは金を寄せた
ならばと左に銀を繰り出すと
おじいちゃんは金を寄せた
同じ手順が十回以上続いた

おじいちゃんは
僕に似て意地っ張りだ

攻略を図れば防御を固め
どこにも隙を作らず
突破口を与えてくれない

銀を繰り出せば金を寄せ
目先を変えてもついてくる
譲れない中盤に
僕は数え切れない銀を繰り出した

苦い顔をしたおじいちゃん

「まいった」

突然
小さな声で
負けを認めた
(まだ駒もぶつかっていないのに)
だから局面はずっと止まったままだ

おじいちゃん
お腹空いたんか

あれは千日手だったのに
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あー、なんだ、そんな手か

2020-10-22 02:21:00 | 将棋の時間
「……すぎてみえない手」

 例えばそれは素朴すぎてみえない。当たり前すぎてみえない。間近にあるけれど、みることができない。みえない手を読むことはできない。
 そういう時には一定期間、目を離してみることだ。
 穴があくほどに睨みつけたからといって詰み筋は湧いてこない。時には振り出しに戻る勇気を持ちたい。
(問題が間違っているのでは?)
 一見単純な図形で行き詰まったら、問題を疑う場面も出てくるだろう。そんなケースがないとは言えない。しかし、確率的には低い。
 調子の悪い時には、単純な一手がみえないのだ。


「詰将棋慣れした人の死角」

・取る、取り返す、俗手

 詰将棋が上達するにつれて捨て駒の手筋をたくさん吸収する。鮮やかな捨て駒の醍醐味! それにばかり慣れすぎると、逆に普通の手がみえなくなってしまうことがある。
(詰将棋は捨て駒ばかりではない)
 それを理解しておかないと読者の心理を逆手に取った問題に苦しんだり、実戦でも無駄に捨て駒をしすぎて寄せを誤ることがある。
~正確な寄せとは、捨て駒(軽手)と取る手(俗手)との正しい組み合わせである。~

・合駒請求(合駒を打たせて取る手)

 実戦では当たり前に現れる合駒請求。大駒や香で王手をかけて「さあ、合駒はどうしますか」という手だが、詰将棋となると妙に泥臭く感じられる。(あるいは面倒くさい)特に実戦型の場合、意外にみえにくくなるのではないだろうか。しかし、これも詰将棋を攻略していく上で、決して避けて通れない筋である。

~合駒請求の効果…持ち駒を変える、増やす、玉位置を変える~
 合駒請求ができるのは大駒と香のみ。それが持ち駒にある場合は、視野に置こう。「もしももう1枚何かがあったら、持ち駒がある駒に変わったら……」そうしたIFを描くことも大切な姿勢となる。

~狙え! 伸びた歩の背後~
 これは実戦での応用範囲も広いが、一番安い歩の合駒が使えないということは、守備側にとって致命的弱点になる場合も多い。
 守備の歩の後ろのスペース、または底歩が打ってある筋などは特に狙い目なので常に意識しておきたい。


「手順の死角」 人間的思考の癖・弱点

 人間の思考(感覚)には癖がある。(これは個人差も大きい)
 感覚を磨くことによって、あらゆる手の中から考えなくていい手を最初から除外することができる。その働きのおかげで時間や体力を節約できるし、上級者ならばその感覚は80%以上正しい。
 しかし問題は残りの20%だ。
 基本を超えたところに正解がある場合、普段の効率的な思考にストップをかけなければならない。一連の流れの中に疑問を挟まなければならない。(優れた感覚は、厄介な先入観になり得る)

~実は一手前に好手があった~
 1つのブロックを必然の手順として、その局面が不詰めだったとする。通常はそれで読みを打ち切ってしまう。しかし、その一手前に好手があって詰むとしたら……。必然を壊す発想がないと、その一手にたどり着くことは難しい。それには「ひょっとしたら……」というIFの閃きも必要かもしれない。

~捨てた次は取り返したい、捨てた次は押さえたい~

 捨て駒は寄せを絞る手段/手筋である。しかし、駒を捨てるというのは、拠点を失うという側面がある。有効だと知っているからできるものの、捨てることに不安はつきまとう。捨てることは、どこかで取り返すこととセットになっている。拠点を手放した次には押さえたくなるのが自然な感覚(心の働き)ではないだろうか。
 捨てて、捨てて、(ここも捨てるのか!)
 捨てて、捨てて、取り返さず、(逆サイドから王手か!)
 常識的なリズム、(自分の中の)スタンダードなリズムからちょっとずれたところにある好手/妙手順というのは、なかなか発見しにくい。
 そうした意外性のある筋にも対応できるようになってくると、詰将棋のレベルは数段アップする。変化のなさそうなところにIFの目を光らせることも大事である。


「親しい仲にも礼儀あり」

 上達することは慣れることだ。
 慣れることは色々なことを飛ばすこと。一つ一つ考えていたこと、まっさらな気持ちで当たっていたことを、無意識の内にやってのけることだ。しかし、自然にできることと疎かにすることを混同してはならない。
 初めて駒に触れた時はどんなだった?
(はじめの道はどんな風に歩いた)
 どんな時も初心者の心を忘れたくないものだ。
 そして、謙虚な姿勢で盤面をみつめてはみませんか。

「お願いします」
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詰将棋イマジン(邪魔駒消去)

2020-10-18 10:49:00 | 将棋の時間
「IFを大切に」

 第一感の手がどうも上手く行かない。
 一通り考えてみても詰む形がみえてこない。
 困ったものだと局面を眺めているとふと、
「もしもこの香がなかったら……」
 何かが変わりそうなのだけどな……。
 問題に行き詰まった時には、そのような発想がとても重要になる。現局面から少しだけ何かを変えた局面。IF的発想を働かせて、今はない形を想像することによって、道が開ける。
「もしも……だったら、……なのにな」
 それがすぐに解答につながらなくても構わない。
 このような形になれば詰むかもしれないと閃くということは、1つのストーリーをみつけたということである。(詰将棋を解くことは物語をみつけること)


「攻め駒は多いほどよいとは限らない」

 これはサッカーなどにも言えることだが、戦力というのは数の他に効率を重視しなければならない。味方同士が重なってシュートが打てない、ドリブルのスペースを潰してしまったということはよくある。他のどんな競技、仕事においても同様だ。人数をかけたから上手く行くということはない。意思の疎通に手間取ったり、ポジションが重なって渋滞してしまっては、かえって効率が悪くなる。指し将棋で言えば相談将棋などがいい例だ。チームを組んだから強くなるか、100人が相談したから強くなるかと言えば、そうはならない。長所だけを融合できれば上手く行くかもしれないが、実際には方針が分裂し、ちぐはぐになってむしろ弱くなる可能性さえある。
 詰将棋の中で効率の重要性を理解する機会になるのが「邪魔駒」の存在である。

「邪魔駒消去の手筋」~攻め駒がスペースを潰している
 ここに攻め駒の香がなければ、桂を打てるのにな……。
 発見したIF/ストーリーを実現させる道を探る。
 (なかったら)と言っても、実際にはあるのだから、それはどうしようもないようにみえる。しかし、詰将棋には捨て駒の手筋がある。

「捨てる捨て駒/取らせる捨て駒」
 盤上の駒を捨てる(消す)には2種類の方法がある。
 1つは捨てたい駒を動かして捨てる方法。(基本の方法)
 配置上自らは王手として動けない駒にはもう1つの方法を使う。他の攻め駒と相手の玉の力を借りて、流れの中で玉に取ってもらうのだ。
(邪魔駒が消えたらもう一度玉を呼び戻す)
 捨てる捨て駒と取らせる捨て駒の手順を組み合わせることによって、IF発想の形(邪魔駒を消去した局面)を作り出すことができる。
「もしもこの香がなかったら……」
 という局面を実現させて、香がいた場所に桂を打つスペースを生み出す。
 これが詰将棋の邪魔駒消去の物語である。


「IFの発見(狙い)が先に必要」

 1つの香を消し去るためだけに、多くの犠牲が払われた。
 それはおよそ合理的ではない。
 無意味にさえ思える手順にたどり着けるには、先に狙いをみつけていなければならない。IFの閃きがあってこそ、複雑な手順を発見することができるようになるのだ。
 詰将棋は捨て駒が活躍するパズルである。
 しかし、ただ捨てるのではなく、捨てる先にビジョンが描けていなければならない。


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詰将棋反省会

2020-09-26 07:52:00 | 将棋の時間
「詰将棋を終わらせるには」

 詰将棋は解いて終わらせるのが望ましい。しかし、わからない問題を眺めていると、頭痛がするという時もあるだろう。だんだんと嫌になってきたり、自分の無力さを呪いたくなったりもする。
 事が渋滞した時間を、そう悲観する必要はない。「問題」は決して人類の敵ではない。問題があるということは、そこに時間があるということだ。「無」が広がっていること思えば、希望だってある。
 解くよりもあきらめた方が早く終わると考えることもあるだろう。だいたいの場合、途中でやめた方が物事は早く終わる。しかし、それでは何事からも達成感が得られない。始めたからには、作者が用意したゴールにたどり着くことが理想と言える。
 すぐに解けないとしてもそう焦る必要はない。詰将棋は実戦と違い、相手からこちらの玉を詰まされるということはないのだ。どれほど熟考しようと、問題図はいつまでもじっと待っていてくれるのである。


「詰将棋は解いて終わりではない」

 詰将棋が解けた時には爽快感が得られる。
「さあ次だ」いい気分で次に進みたい気持ちは理解できる。しかし、詰将棋を解いた後にも、実は上達のヒントは残されているのだ。
「詰将棋に無駄駒はない」
 それを思い出して初形の配置と正解手順を見直してみよう。
 気になる駒はなかったか?
 作家でもなければすべてを検証しなくてもいい。気になった1つの駒に着目して考えてみる。詰みに直接的に関わらなかったようだけど、もしもこの歩がなかったら……。そうして研究してみると、歩1枚も重要な変化に関与しており、歩がない形では不詰めになることがわかる。(解いたことに満足して次の問題に進んでいたら、見過ごしていた発見)
 このような学習/発見も詰将棋/終盤の力となり、次回は似たような図式を見た時に、1つの歩の存在に着目してそこから詰み筋を類推することができるようになる。複雑に見える駒の配置にもパターンがあり、多くの図式を経験する内に、この形はこうだという急所/狙い筋が見えるようになってくる。
 一度解いた問題も、忘れた頃に再度解いてみるといい。前よりも解くスピードが速くなっていれば、学習が身についている証拠だ。








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反省将棋

2020-09-24 23:54:00 | 将棋の時間
 力を溜めるのがいい攻撃だと聞いた。確かにそうかもしれないと思わせる名人の駒さばき。溜め込んだ力が終盤一気に爆発して華麗な寄せが決まるのを見届けた。
 私も真似してやってみる。仕掛けたいところをがまんして、チャンスと思われるところをあえて見送って。十分に力を溜めながら将来の寄せを夢見た。ところが、爆発の機会は訪れることがなく、攻め駒は単に大渋滞を引き起こしたまま最後まで動かなかった。寄せられたのは私の方だった。
 その時、私は昔読んだ何かの民話の一場面を思い浮かべた。上辺だけなぞってみても人生は上手くいかない。形や心を近づけても、勝つところまでは真似ができないのだ。肝心の読みの部分が明らかに欠落していた。
 読むことほど気力と体力のいる作業はない。それによって結果が約束されているわけでもない。感覚が鈍ければ無駄に読みを広げなければならない。人の心も、時代も、読み違えてばかりいるのだ。
 そうして私は今日も反省記を書くことになった。
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【曖昧コラム】恋する時間/これしかない詰将棋

2020-09-07 02:31:00 | 将棋の時間
~とけなくてもわくわくする時間

「どうやっても無理そうにみえる」
 わからない。わからない。
 どれだけ頭をひねってもわからない。
 とっかかりのない難解な問題に向き合っていると、無力感に包囲されて耐え切れなくなることがある。
「これが詰むんだよな」
 しばらくして無力感の中に羨望のような感覚が入り交じってくることがある。今の自分には関係なく、そこに人間の作った問題と答えがあることを遠巻きに眺めてみれば、力みが消えて純粋な心持ちになれるかもしれない。

「何か1つみえさえすれば……」
 完全な行き止まりのように思えても、何か1つをつかむことでそこから解答は広がって行く。一瞬の閃き、未知の光景に、一目会ってみたい。微かな希望を胸に、問題を見つめている。それは苦しくも素敵な時間のように思われる。
 何かが育まれる時間というのは、だいたいいつも停滞してみえるものであろう。


~「これしかない」王手を突き進む

「これしかない」
 それは最小の読みを含んだ経験的感覚/消去法と言うことができる。「これしかない」が本当にこれしかない場合、「これしかない王手の連続」は必ず詰み/正解に結びつく。
「これしかない」をつかむ瞬間、他の全部をまとめて捨てている。本筋だけを選べた場合、無駄な読みをすべて省くことができるのだ。これは大変効率がいい。(将棋で困るのは、比較と迷いではないだろうか)


~ゴールなんてみなくてもいい

「詰むとしたらこれしかない」という推論が正しい場合、詰将棋は必ず正解(詰み)へと行き着く。
 この手順/方法のよいところは、詰み形が「完全に」描けていない場合でも、「だいたい」で進めて感覚さえ正しければむしろ速く解けてしまうことだ。
 ゴールの場所がわかっていなくても、ゴールがあることが信じられるなら、目前の一歩だけにかけてみるのも有力な一手と言える。

「一歩一歩が正しい歩みなら最終的に正しくゴールにたどり着く」

 以前のコラムで「闇雲に王手をかけるな」「手を読むことよりも詰み形を描くことの方が大事」みたいなことを書いた。
 それはそれで正しいとは思いつつ、あるいは間違っているかもしれないとも思う。実際に、読み切れない場合だって多いからである。
 例えば、難解な実戦の終盤戦で読み切れない時もあるだろう。秒読みに追われながら、もう王手しかない、詰ます以外に勝ち筋がないという時もあるだろう。それはある意味、「詰将棋」と同じである。それ以外に道がないなら、詰むと信じる他はなく、ゴールを信じて「これしかない王手」をかけ続けるしかないのだ。
 例えば詰将棋が秒読みの中で行われていたら……。

 人生には、確信がなくても何か指さなければならない時が訪れるものだ。見切り発車だろうと何だろうと躊躇ってはいられない。
 見通しが立たなければ、未来を願い、自分を信じるしかないのではないか。信念を持って一歩一歩を積み重ねて行けば、運がよければ正しいゴールへたどり着くこともあるだろう。


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歴史的一戦(天の助け)

2020-09-05 21:19:00 | 将棋の時間
 新しい生活様式が歴史を動かそうとしていた。伝統よりも風情よりも何より安全が優先される。和室から洋室に変更になって、もう正座を続ける必要はなくなった。椅子は素晴らしい。盤の上にはパーティションが設置され、おかげで相手の怖い顔も曇って見える。
 この環境では派手な空中戦は困難。きっと戦型は矢倉になる。天は私の味方だ。
 今、私の靴下の底には大きな穴があいているのである。



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詰将棋を読む、詰将棋に勝つ

2020-08-26 08:39:00 | 将棋の時間
「あらゆる合駒を考える」

 詰将棋の中でも合駒問題は難しい。詰将棋のルールでは玉方は盤上に存在しない残り駒全部を使える。(何という戦力差!)実戦ではまずそのような状況にはならないはず。しかし、実戦では詰将棋にはない攻防の要素が加わる。その複雑さを考えれば、あらゆる合駒をすべて考えるということは、実戦を見据えた読みの訓練にもなる。慣れてくれば条件によって読みを飛ばせるようになるだろう。(強い駒では駄目だとか、頭の丸い駒でないと駄目だとか、金以外は無効だとか)合駒に中合いの要素が加われば、更に読みは複雑化する。中合いも実戦では滅多に現れないが、それ故に詰将棋でしか研究できないとも言える。


「作者の物語を読む」~ギリギリ詰まないという罠

 難解な作品では、初形から詰み形を描くことが難しい時がある。有力な王手をかけていく内にギリギリ詰まないという変化に突き当たる。詰将棋を解いていて非常にもやもやとする瞬間だ。
(何か見落としがあるのではないか)あと一歩で詰みそうなだけに、自分の読みの深さや精度に疑いをかける。実際、読み直す内にやはり詰んでいたということもないわけではない。
 もしも、それが紛れ筋の方だとすると、どこかで読むことを止めねばならない。それには不詰めを読み切るという方法と、変化に見切りをつける方法とがある。(まあ、この先はあっても詰みはないなという推測)
 不詰みを読み切ることも、「読む」という訓練においては、詰みを読み切ることと同じ価値がある。その時間も決して無駄ではない。
 ところが速解きの競技/選手権に参加するという場合、事情は大きく変わる。詰将棋には、直線的な読みを磨くという面と、作者の描いた物語を読むという面がある。訓練の中では紛れ変化に深入りすることも不詰め変化を読み切ることも意義があるが、スピード競争においては時間を無駄に使うだけ損と言える。(詰み筋/正解筋のみを発見すればよい)
 作者の用意した偽のストーリーを見破り、本筋のみを読み切ることが正解への近道になる。その時、あなたの真の敵は周りにいる選手ではなく、目の前にある問題そのものということだ。


「本当は読まされていた」

 紛れ筋に見切りをつけることを躊躇った場合、納得がいくまで変化手順を読むことになる。不詰みに行き着くことを読み尽くしてしまえば、もはや自分の読みを信じる他はない。
 ようやく初形にかえって改めて局面を眺めてみると……。
 あなたは至って「シンプル」なことに気づく。
 そして、合駒も、中合いも、紛れ一つない、詰み筋が現れる。
 なんだ、簡単じゃないか。
「難解なのはサイド・ストーリーの方だった」
 長い回り道の末に、幻を読まされていたことに気づくのだ。

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フィッシャールール将棋(AbemaTVトーナメント)の魅力

2020-08-21 08:27:00 | 将棋の時間
 将棋は筋書きのないドラマである。つまり、将棋はスポーツである。長時間の対局では、脳に多くの汗をかき、その分だけ大量の水分補給が必要になる。持ち時間が各4、5時間の将棋では、人によっては1、2リットルのお茶や水を飲むようである。


「フィッシャールールのスリル」

 スポーツ観戦は、ハラハラドキドキ手に汗握りリアルタイムで観るに限る。しかし、そこで高い壁となるのが「時間」だ。各5時間だとすると持ち時間を全部消費すると考えた場合、1つの対局に10時間かかることになる。それに昼食休憩等も入るから、実際にはもっと長くなる。(更に千日手を挟んでもっと長くなることも)いくらスポーツはリアルタイムでと言ってもそんな長丁場をフルタイムで観戦し切ることは、すべての人にできることではない。4年に1度の祭典なら無理もするがそれが普段の勝負ならつき合いきれないと言う人もいるだろう。

 最近、脚光をあびているのがフィッシャールールだ。放映中のAbemaTVトーナメントでは、持ち時間各5分(1手指す毎に5秒が加算される)というもの。(因みに今年第3回はなんと団体戦で開催)これと似た設定としては、NHKトーナメントや朝日杯などがあるが、こちらはより勝負が早くスリリングである。ルールの性質上、対局時計は対局者自らが押すことになる。そのため時間の管理はすべて自己責任となる。このフィッシャールールのスピーディーさならば、野球やサッカーと同じように(場合によってはそれ以上の気軽さで)観戦し切ることも楽なのではないだろうか。この何が起こるかわからない極限の勝負は、観ていて大変面白い。


「持ち時間は増えることがある」

 フィッシャールールの特徴としては、持ち時間が増えることがあるという点だ。通常の持ち時間は、1時間でも9時間でも始まったらあとは減っていく一方だ。早く指したからと言って、持ち時間が復活するようなことはない。(そんなことになったら勝負はなかなか終わらないだろう)だが、フィッシャールールはちゃんと終わる。しかも、いい感じで。増えたとしても「5秒」という短さのためだろうか。


「時間が切れることはない」(5秒以内で指し続ける限り)

 必ず時間内に終わると言えば、「切れ負け」というルールもある。これは逆に説明すれば、時間の増えないフィッシャールールと言うことができる。確かに時間内に終わらせるには、確実なルールだ。しかし、その確実性が将棋の魅力を弱めているとも言える。「5分切れ負け」で勝負すれば、必ず10分で決着がつく。(ついてしまう)フィッシャー同様にスリリングではあるものの、「この先どうなるんだ?」というサスペンスは薄い。「将棋」と「時間」が同等の位置で勝負が行われるために、最後は形勢が必敗であっても、相手の時間が切れれば勝ててしまう。自玉が詰み筋に入っている時でも、王手の途中で時間が切れれば、勝負は勝ちなのだ。「将棋」ではなく「時間」で決着するということも何割かは起きてしまうので、勝負としては面白くても、最後まで純粋に将棋を楽しめないという不満も残る。

 フィッシャールールで時間勝ちしようとしても、時間だけでは勝ち切ることは容易ではない。5秒、10秒で最善手を指し続けることは困難だが、形勢がわかりやすく大差になってしまえば、悪手を指さずに逃げ切ることは十分に可能だ。フィッシャールールは超早指しの設定でも、将棋の内容がかなり大事なのである。
 短時間の勝負で内容の濃い将棋を観られるところは、フィッシャーの大きな魅力と言えるだろう。


「将棋の強さとは」 ~数値と言葉

 将棋の強さには、第一感や形勢判断の正確さ、読みの速さや深さというものが挙げられる。それらの総合力で強さを競う場合、ある程度の持ち時間は必要だ。
 近年、AIソフトの実力は、人間を凌駕するほどになった。
 ある程度のレベルまでくると生身の人間とは処理能力が違いすぎるので、そうなることはかなり以前から予想はされていた。
 面白いのはソフトは形勢を数値によって評価することだ。それまでの人間の形勢判断と言えば、優勢、勝勢、やや優勢、やや指しやすい、形勢互角、ほぼ互角、これからの将棋、など……。曖昧な表現しかなかった。

 今ではプロの先生たちも、信頼の置けるAI評価値を無視して形勢判断することは難しくなった。
 数字というのは優劣を知る上でははっきりしていてわかりやすい。しかし、どうしてそうなのかということを知るには、「これこれこうで、だからこうなんだ」という言葉があった方がいい。
 AIソフトは同じ条件で戦えば、当然ながら人間よりも強い。しかし、その「強さ」をソフト自身は言葉によって表現することは、まだ苦手なようにもみえる。
 現段階では、私は人間の先生に将棋を教えてほしいと思う。


「新しい将棋の強さ」

 AIソフトの進化によって将棋というゲームが解明されたわけではない。むしろ未知の領域が開拓されていると言ってもいい。将棋は新しい幸福の時代に入った。
 現在は観る将にとっても幸せな時代だ。かつては棋譜の一つ、局面の一つを知ることも大変だった。今では多くの対局がネットでライブ配信され、棋士の横顔をみたり、昼食のメニューに関心を寄せたりしながら、将棋を楽しむことができる。おまけにプロの先生たちが、一日かけて解説までしてくれるのである。
 対局の形も時代の流れによって変わって行くものかもしれない。和室での長時間の対局/正座は、観ている方も時々膝が痛くなるようである。

 2日制のタイトル戦では対局が日を跨ぐ。その時の一手を公平にするため、紙に手を書いて封筒に入れて保管する。「封じ手」である。次の一手は果たして……。しかし、今ではAIソフトによってほとんどの有力手が候補手として数値付きで見えてしまう。それを(厳格なルールによって)知り得ないのは、対局者の当人だけと思われる。「封じ手のロマン」は昔に比べて希薄になっているのではないだろうか。
 持ち時間が4時間だろうが9時間だろうが、結局のところ生身の人間では、読み切ることはできない。しかし、答えのない問いに正面から向き合う人間の姿は崇高に感じられる。「地球代表」と言ったらそれは少し大げさだろうか。悩む時、迷える時、失敗、後悔、決断、勇気、逆転……。色々な要素を含めて将棋/人間ドラマなのだと思う。

『AbemaTVトーナメント』は、超早指しの非公式戦である。
 短い時間では通常と違って深い読みを入れることはできない。
 だが、瞬時に研ぎ澄まされた直感を発揮し、気合いや反射神経で指して行くことも、「将棋の強さ」ではないか。
 自ら時計を押すという動作もあり、運動能力の高い若者の方が有利と言うなら、どんどん新しい猛者が出てくればいい。(子供が出てきても面白いし、逆にベテランの逆襲みたいなのも観てみたい)
 長時間かけて戦う順位戦もいいが、短い時間に感動と興奮を詰め込んだ対局/棋戦がもっと出てきて欲しい。
 将棋世界を、名人を頂点としたピラミッドの中にだけ留めておくのはもったいない。

「このルールなら名人にだって負けない」
 そんな未知の指し手が新しく生まれる棋戦の中に現れるのも悪くないだろう。





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【短歌】次の一手

2020-08-06 21:15:00 | 将棋の時間
落ち込んでいる暇はない夜が明けて箱が開けば次の一手だ

難しい選択だけを突きつける棋神の連続次の一手

難問は絶望からは遠いから次の一手は残されている

「負けました」下げた頭が上がったら振り駒がもう始まっている

やむを得ぬ次の一手がぶつかって千日後にも二人は笑顔

次の日も次の日もまた次の日も次の一手を待ってくれない

詰んだってまた初形から指し直す人生は己とのVS

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チャレンジ詰将棋/勇者の一手

2020-08-04 07:44:00 | 将棋の時間
 シンプルな問題に数多く取り組むこと。それだけでも反射神経を上げることができる。とにかく続けるということは大事なことだ。しかし、時には少し背伸びするくらいレベルの高い詰将棋に取り組んでみることもためになる。


「心が折れそうになる」

 自分にとって難しい問題は、だいたい初形から謎に覆われているものだ。詰み形もまるで想像できなければ、初手がわからない。一手もわからない。第一感が存在しないということは、将棋指しを酷く不安にさせる。しかし、そういった状況というのは望まなくても実戦に(人生にも)現れるものだ。難問に向き合うということは、自分の心を鍛えることでもあるのだ。不安に耐えられなくなると、手当たり次第に王手を探したくなってしまう。それは問題解決の本筋とは程遠い。苦しい時ほど冷静になって、局面を見つめなければならない。


「手に負えない時もある」

 ゴールも初手もまるで見えない。難しい問題を前にして、一歩も前進が見られないというのは、とても苦しい時間である。まるで開かずの扉の前で足止めされているような状況だ。そうした時間がいつまでも続けば、心が折れたとしても不思議ではない。

 この問題は間違っているのではないか。正解なんてないのではないか。こんな時間は無駄ではないのか。人生は楽しむためにあるのではないか。海や山に行った方が楽しいのではないか。ここは自分の居場所ではないのではないか。自信が持てなくなると色々な雑念が湧いてくるのは必然である。そして、問題の前から離れたくなる。それもまたよい。
(今の自分では手に負えないような問題もある)それは世界の深みだ。その時には、付箋を置いていってほしい。
「覚えていろよ」強くなってここに戻ってくるからな……。未来に楽しみ/希望を持って引き返すことはただの敗北ではない。


「一瞬の素晴らしい閃き」

 難解な詰将棋は手の込んだミステリーである。複雑に絡み合う多くの登場人物によって、トリックは隠されている。わかりやすく狙い筋が表面化していないため、容疑者を絞り込むには眼力を養わなければならない。今まで以上に局面を広く、深く見つめ続けるためには、体力も強い精神力も必要になってくる。

 大切なのは虱潰しに読むことではなく、隠された詰み形を見つけること。その「一瞬の発見」こそが難解な詰将棋を解くことの醍醐味とも言えるのだ。奇跡的に浮かんだ光景は幻のようでその周辺はおぼろげなものである。しかし、たとえ1つでも可能性のある景色/詰み形に近づけたことは大きな進歩で、そういう発見を手がかりにして正解へたどり着けることは多い。
 詰み形(理想のゴール)が確かに見えれば、あとはそこへ向けて合理的に手順を組み立てていくだけだ。そうして初手から最終図まで線がつながった時の喜びは、指し将棋で勝利することにも匹敵する。詰将棋を解くことは作者に勝つことだ。


「チャレンジの一手」

 難解な問題にチャレンジして乗り越えることで得られる達成感はとても大きなものだ。苦労した分だけ、そこで手に入れた技術は自分の実になる。自信は大きな力となって今後のあらゆる局面を切り開くことだろう。そこまで読めれば何も恐れることはない。駄目で元々。今日は昨日よりも少し背伸びして新しいページを開いてみる。それは勇者の一手に他ならない。

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