眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

ありがとう、おかあさん ~カフェの自由

2024-04-15 16:20:00 | コーヒー・タイム
 おしながきがいつもよりも底の方に沈んでいる気がした。視線を深く落としていると、奥の方からおかあさんが出てきて小窓を開けてくれた。呼んでもないのに、もう出てきてくれた。僕は一瞬ありがたく感じたが、そうではなかった。
「ごめんなさい。今日はもう終わりで……」
「ああ、そうですか」
 あと1時間くらい開いていてもおかしくないのだが、おとうさんの調子があまりよくないのか、最近は閉まっている日も多くなっている気がする。廃れた商店街を抜けて、あまり通ったことのない道を南へ向けて歩いた。近所の子供が大声を出してバイバイと言う。そういう時間だった。


 テイクアウトできなかったのでもう1つのプランに変更して、モスカフェに行った。久しぶりに左奥の角にかけた。少し距離を歩いたので少し疲れていた。今日はカーテンが半分以上開いていた。それだけで少しうれしかった。ラテを1口飲むと何とも落ち着いた気分になった。家に帰った時とはまた少し違う、むしろそれ以上に落ち着いた気がしたのだ。

(これか!)

 僕は昔勤めていた職場で世話になった先輩のことを思い出していた。僕が少し早めに出勤すると、先輩は決まって僕より早く来ていて、ロッカーの前にぼんやりとかけていた。何もせず決まって上半身は裸だった。その姿はゴングを待つボクサーのようにも見えた。(時には打たれ疲れたように見えることもあった)

「この何もしない時間が落ち着くのだ」

 彼はいつも口癖のように何もしない贅沢について説いた。(旅行に行くとホテルにチェックインして、バーに行く以外は何もしないと語っていた)何もしない自慢みたいな話を、散々聞かされたものだった。当時は正直よくわからなかった。そうして何年もわからなかったことを、今日は瞬間的に理解できたのだ。たどり着いたモスカフェで、僕はこの上なくリラックスした感覚に浸っていた。人はくつろぐために生きているのではないか。(動物とはいうけれど、動き回るのが正解というわけではない)僕は何もしたくない。それがきっといいことだ。

(何もしないぞ!)

 何もしない間に、モスカフェの外は夜の方に向かっていく。少しだけ気配をみせたり、足音がしたり、近づいたり、少し止まったりしながら。ゆっくりと夜に染まり始める。来たのかも。来たのかもしれない。少し名残を残しながら。本当に来るのだ。カーテンの向こう、街はすっかりと夜にのみこまれていく。気がつくともう夜だった。ずっと夜だった。いつしか夜は、そのような顔をして見えた。

 何かするのがもったいない。けれども、何か生まれそうな予感がする。限られたスペースが、魔法を起こしてくれるかもしれない。(家とは違う。制限された世界だからこそ)より研ぎ澄まされていくものもあるのではないか……。例えばそれは、鬼ごっこ。例えばそれは、サッカーだ。秩序の中の自由が、自由の価値を高めてくれる。ルールを設けるとなぜ遊びは面白くなるのだろう! 何をしてもいいのとは違うけど、工夫しながら何かを探すことはこの上なく楽しい。リラックスと集中は、案外近いところにあるのではないだろうか。
 
 こうしてモスカフェの時間を持てたのは、あの時おかあさんが僕を追い返してくれたからだ。僕はターンして道筋を変えるしかなかった。その場では挫折に思えることも、後になれば節目の1つくらいに受け止められることがある。だから、あなたにもあきらめずに先に進んでほしい。
 1杯のラテを僕は命のように見つめた。きっとおかわりはない。ささやかな1杯の注文にも、多少の罪悪感は持っていた。空っぽになる前に、何かが覚醒するかもしれない。氷がまた少しきめ細かくなった。僕はその時『レナードの朝』のことを振り返っていた。

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ピロピロ・カーテン(近く遠い存在)

2024-04-01 18:36:00 | コーヒー・タイム
 カウンターの一番奥は、喫煙コーナーの前だった。店内を一周しても、ほぼ空席は見当たらない。迷う余地はない。そこしかない。せっかく来たのだから、もう他に行きたくない。見つけた以上は、そこにかけるしかなくなった。現在のところ、そこは一番の席だ。(喫煙コーナーの正面であることを除いて)
 受動喫煙に配慮して(あるいは配慮を怠って)、入り口はちゃんとしたドアではなく、ピロピロ・カーテンだ。何となく煙たいように感じるのは、そのためか。
 とは言え、常時複数の人が入り浸っているというわけでもない。世の中は変わった。(変わりつつある)近所に古くからある串カツ屋の入り口にも、近頃は禁煙の紙が貼られている。酒と煙草もセットではないのだ。


 身近な存在だったものが、急に遠く感じられることはないだろうか。その時、物理的な距離というのは重要ではない。手が届いても触れられないものがあるからだ。例えば、最愛の人が急に宇宙人のように見え始めることがある。変わったのは相手だろうか、それとも……。
 目の前にあるはずのポメラが、随分と遠くに見える。自分のものか? 僕の腕が縮んだのか? 急に開いてしまったこの距離はいったい何?
「ポメラを開いたが故に眠くなったとしたら……」
 あまりにも残念ではないか。そのようなことにはなりたくないのだ。ポメラを開いた時には、いつだってキラキラとした目で向き合っていたいのだ。
 例えば、誰かと映画を観に行った時、隣に座った人がうとうととし始めたらどうだろう。とても不安になるのではないか。面白い話なのに……。(大丈夫か)
 叩き起こすのも何か違うし。「つまらなかった?」あるいは「面白かった?」と後から聞くのも、違うだろう。自分が眠る方の立場だったとしても、やはり辛い。
 ポメラとは、そういう風にはなりたくない。
 ああ、やっぱり遠いな。ため息をつくとポメラは前よりもっと遠くなった。ポメラだけではない。こんな日は、何もかもが遠い。


 支離滅裂な夢が遠い記憶を整えていた。意味のなさげな夢にもちゃんと別の意味はあるのだ。

「本当はssなのでは? あるいはもっとかと噂になっております。そこで直接ご本人に聞いてみたいと思います。本当のところはどうですか?」
「えっ、僕? 興味ないよ。そんな自分のことなんか。メーカーによっても一定しませんよね」
 どれだけ暇なの? 親友もそれには激しく同意してくれた。
「直球が速いですね」
 大リーガーが来ているということで、球の握りについてとか、根ほり葉ほり聞いて回ってる奴が多すぎた。僕らの競技はバスケだろうが。誰もアップなんてしない。それがかっこいいとでも思っているのだ。人前で努力することが、そんなにも恥ずかしいのか。
 新しくできた道、妙に渋滞していた。車線を変更すると急に戻り始めて、気づいた時には夏の海にまで押し戻されてしまった。だましの道のようだった。ハンドルを切ってスタジオに戻る。
「さあチャンスが復活しました!」
「いいえ、私たちはもう終わりましたから」
 あと20回引けますよ。司会者が煽っても親子は謙虚な姿勢を崩すことはなかった。その態度が僕はうれしかった。


 リュックを地べたに置いているのに、隣の席はずっと空いたままだ。店内はほぼ満席に近く、1席だってとても貴重なはずなのだ。だが、この店のカウンターには、少し妙なところがある。きっとパーティションのせいだろう。仕切は2席毎に設置されている。これがもしも1席毎ならば、僕の隣は既に埋まっているのではないか。パーティションが2席毎だから、それが1つの席の単位のようにも解釈できる。つまり、カップルまたはシングルのようにも見えるのだ。ならば可変式パーティションにしてはどうだろう。シングルならばそのまま使用でき、もしもカップルの時はワンタッチでパーティションをオープンできるようにする方式にしてもよいだろう。席はあってもかけづらい。こんなことだから席に鞄を置いている方が普通に思えてしまうのだ。

「こちら空いてますか?」

 その時、誰かが空席の隣の男に話しかける声がした。

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カフェの中の異世界/素敵な子供だまし

2023-11-12 18:23:00 | コーヒー・タイム
 テーブルには8割入ったままのアイスコーヒーが置かれたまま、主の姿はない。もうずっと喫煙ルームにこもっているのだ。僕は好きな昔話『浦島太郎』を思い出していた。喫煙ルームは竜宮城というわけだ。どういう経緯であったかはよくわからない。だが、気がつくと竜宮城暮らしの方が長くなった。もはや、地上の社会での生活よりも、あちらの世界の方が長いのだ。大半の時間があちら側となると、心を占めるのがどちら側なのかというのは、興味深い問題だ。『浦島太郎』とは、そういうお話ではなかったろうか。
 現代社会は、喫煙者に冷たい側面がある。本当は別に飲みたくもないコーヒー代を払った後は、喫煙ルームにとことん入り浸っているというのも、カフェの利用のあり方の内なのかもしれない。カフェは寛容だ。たとえ注意書きのようなものが壁に貼られていたとしても、よほどのことがない限り、利用者の自由が認めれているものだ。コーヒーと煙草。あるいは、お話、読書、スイーツ。何がメインで何がサブかは、それぞれの価値観ではないだろうか。

 昔、僕が店から追い出されたのは、(イタリアンの)ファミレスだった。ドリンクだけで夕暮れをすぎてもずっと粘っていたのだ。突然、肩越しに声をかけられて、驚いた。もういいでしょうみたいなことだったと思う。まあ、そういうこともあるか。気を取り直して、僕はもう一度創作活動に精を出した。するとしばらくしてまた男性店員がやってきた。(店長だろうか)

「お食事を楽しまれるところになりますので」

 酷いカルチャー・ショックだった。僕は全く食事も注文せず、創作活動を楽しんでいたのだ。しかも、それをよいことのように思っていたのだから、おめでたい。(その活動によって、まだ見ぬ人々を喜ばせ楽しませ幸せにすることができると信じて疑わなかったのだ)なのに、まさか自分が迷惑者だったとは……。そう思うと人々が自分を、哀れなものを見るような目で見ているような気がしてきた。イヤホンを外してわかるのは、どこでも食器が音を立てていること。確かに彼の言う通り、ここは食事を楽しむところ。(場違いなのは僕だった)僕はレシートを引いて席を立った。そして、逃げるようにレストランを出た。

 喫煙ルームから、彼女は戻ってきた。現実に存在するのだとわかり、僕は少し安心した。けれども、またしばらくすると姿を消していた。コーヒーが減った様子はない。やはり、本来の居場所はここではないと悟り、あちら側へ戻って行ったのだろうか。自分の居場所を知っている者、確かな楽しみを持つ者は強いと思う。(今の自分に確かにそれと示せるものはあるだろうか……)例えば、それは鼻先の人参のようなものでもいいと思うのだ。
 生きていく理由、生きる値に、正義や倫理なんかがどれほど役に立つだろうか。(誰がそれを説明できるだろう)ささかなものでもいい。一歩先に見える美味しげなもの、楽しげなこと、それでも一歩進むには十分な力になる。そうして、一歩、一歩と進む内に、気も紛れたり、新しい発見もあるではないか。

 コロコロ・コミックや少年ジャンプが、そういう存在だったのではないか。追い込まれると人は視界が狭くなる。楽しいことは1つもなく、苦しいことばかりに囲まれる。周りに心から信頼できるような友達や大人は誰もいない。そういう時だからこそ、小さくてもはっきりと手に取れる確かな「楽しみ」が大きな力になっていたのではなかったか。物語には、現実の不条理(死も哀しみも暴力も)すべてを忘れさせる力があった。ほんの短い間でも我が身を顧みることなく、夢中にさせる力。そして、「世界は1つではない」可能性に満ちているものだと勇気づけてくれたのだ。本を閉じれば、また辛い現実が戻ってくる。だが、希望はつづく。また、月曜日になれば主人公に会えるから。そうして、一週間、一週間、不条理と希望の間で生きていたような気がする。大人になって考えてみれば、当時の作者がどれほど確信を持って描いていたのかは、わからないとこもある。(作者自身も確信なんてなく、いっぱいいっぱいだったり、迷い迷いだったこともあるかもしれない)でも、そんなこともどうだっていいと思える。「生きる力」になっていたことを思えば、どうだっていいのだ。一週間を、「楽しみ」を、引っ張ってくれる作者/製作者の方々の努力によって、僕は少年時代を乗り越えることができたのだから。

 あちら側の世界から彼女は戻ってきた。やはり、現実に存在する人なのだ。僕は安心してポメラを開いた。認証とか起動とか、そんなことを意識する必要もなく、ポメラは気楽に開くことができる。まるで紙のノートのように身近に感じられる、そこが根強い人気の秘密なのか。僕はポメラに触れながら、時々コーヒーを飲んだ。周りには、コーヒーを飲みながら会話を楽しむ人、会話をしながら食事を楽しむ人がいる。何かと何かを同時にこなすことが、人生を楽しむコツなのだろう。僕は、コーヒーを置いて、ポメラに打ち込んだ。目の前を通り過ぎる人のこと、コーヒーのこと、ポメラのこと……。取るに足りないことを拾い上げる内に、電池が減って、空っぽに近づく。
 テーブルの上のアイスコーヒーが消えて、彼女もいなくなっていた。ほとんどの時間、彼女はここにいなかったのでは? あるいは僕の思い過ごしだろうか。

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テラスの縮小(カフェの表裏)

2023-10-24 23:40:00 | コーヒー・タイム
 難波の最果てにそのカフェはあった。

「当店のWi-Fiは使えません」

 入り口の硝子には、そんな貼り紙がある。押とか引とか書いてあるが、扉は押しても引いてもどちらでも開くようだ。店内は分煙になっているが、何となく煙たい感じもする。外にテラス席もあって、そちらの方が落ち着ける。

 鞄深く手を入れれば、一番底に沈んでる奴がボールペンだ。身構えることなく、いつも眠っている。その時のために力を溜めているのだろうう。釘やナイフなら傷つけられるかもしれないが、ボールペンはそれほどやばい奴じゃない。だから何も考えずに手を伸ばすことができるのだ。もしもトカゲやクワガタだったら、相手はどう出てくるかわからない。だけど、そこは彼らの好む場所ではないのだ。

 刀を抜いてから侍が敵を探しているのは何か強そうじゃない。その時がきて、一瞬で抜いた方がかっこいいのではないか。ポメラを開いた時は、ちゃんと打ち込める状態でありたい。ポメラを開き、じっとにらめっこして、オフタイマーが働いて、ポメラが眠ってしまうという展開が嫌なのだ。書きあぐねているのなら、まだボールペンを持って紙のノートを見つめている方がいい。ペンを握って悩んでいる方が、どこか落ち着くような気がするのだ。僕がボールペンを持つのはそんな時。ポメラと向き合うことが躊躇われる時だ。

 テラス席の端で何かを書きあぐねていると、いつの間にか隣の席におじいさんとおばあさんが座っていた。何か煙たいような気がして顔を上げるとおじいさんが煙草を吸っていた。
(ここは禁煙ではなかったのか?)
 無法者おじいさんだろうか。しかし、よく考えてみるとここは喫煙席でも禁煙席でもない。テーブルのどこを見ても禁煙の文字はない。ということは、はっきりと決まってないのだろう。灰皿は店内のカウンターにあり、誰でも自由に取ることができる。だから、おじいさんは何も悪くないのではないか。僕は持っていた扇子で扇いで煙を遠ざけた。

(お一人様60分でお願いします)

 永遠に居座られることへの恐れからか、そんな貼り紙のあるカフェもある。考えすぎか、警戒しすぎか、あるいは何でもとりあえず書いとけという方針か。何でも文章にしておくのが安心との説もあるのだろう。1時間がのろのろと過ぎていく時もあれば、瞬時に過ぎ去ってしまう時もある。同じ時間であるのに……。同じ時間。本当にそれは同じなのか。

寝付けない夜明けの1時間
信号を待つ1時間
ランチタイムの1時間
談笑するカフェの1時間
対局中の残り1時間
恋人を待つ1時間
止まった電車の中の1時間
ライブ・ステージの1時間
採用試験の1時間
地球最後の1時間

 あなたはその1時間をどう感じるだろうか。ある時はほんの一瞬のように過ぎ去る。ある時は永遠のように思える。10秒も100年も同じように感じられることはないだろうか。時のみえ方というのはそれぞれ異なるのかもしれない。亀に対して、お前はのんびりだなとか、蝉に対して、お前の一生は儚いなとか言うのは違うのではないだろうか。

 店員が空いているテラス席を片づけ始めた。閉店時間をたずねると21時だと言う。まだ17時だった。片づけは始まったが、座っていてもいいらしい。他の席がきれになくなってしまうと、自分だけが店から追い出されて罰を受けているような気分にもなった。ここはベーカリーとバーガーの間に挟まれた小さなカフェだった。

「当店のWi-Fiは使えません」

 わざわざ書かれているということは……。
 扉に書かれた言葉の意味をずっと考えていた。確かにWi-Fiらしきものは存在するのだろう。だが、誇れるようなものとは違う。故障しているのでなければ生きてはいる。だとすれば、自虐的に言っているのではないか。Wi-Fiは存在するが、品質は最悪だというメッセージが秘められている。「お前使えない奴だな」と言われる前に先手を打っているのだろう。それが本当なら、なかなか侮れない。仕事の早い店だ。

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カフェと誕生日 ~特別な時間

2023-10-20 17:50:00 | コーヒー・タイム
 夏の間は部屋の中にいてタンブラーに氷を浮かべていた。10月が近づく頃、耐えきれなくなって家を飛び出すようになった。冷房も少しは弱まってきているはずではないか。外からのぞくと角の席が空いているのがわかりほっとした。中に入り番号札を受け取って歩き出すと、ほんの少し前に来た女性が、角の席に先に着いて2人掛けを4人掛けに拡張させた。すぐにつれが来るのだろう。右前方角には紳士がかけており、外に近い席はどこも埋まっていた。やむなく僕は2人掛けのソファー席側にかけることにした。硝子から距離があって、外の世界が随分と遠く感じられる。いつもと少し勝手が違う。だけど、自分の部屋ほど息苦しくはない。ラテを前方に置いてポメラを開くといつかの断片が現れた。こちら側も悪くない。天井の照明が向こう側よりもずっと明るく、光合成ができそうだ。テーブルの色が好きだ。椅子の形が好きだ。無人でなく、席が埋め尽くされないところが好きだ。無駄話の気配が好きだ。孤独が浮かないところが好きだ。キーボードに反射する光が好きだ。
 どうして僕はモスカフェにまでやってきたのだろう? ただのんびりとするためではない。何かを生みたいからだ。失われて行くラテと、忍び寄ってくる夜と競りながら、何かを生み出すためだ。張り合いを求め、僕はここにやってきた。先に角に着いた彼女は独りだった。PCの横にオレンジジュースが見えた。


 僕はその夜、あらぬ一点を見つめていた。傍からは確かにそのように見えたのだろう。

「率直に言って、あなたは病気です」

 巻さんは、そう断定して僕に受診をすすめたのだった。その時、僕は問題を抱えていた。正確に言えば、抱えていたのは問題図だった。僕はずっと退屈な接客の合間で、脳内将棋盤を開き詰将棋を解いていたのだった。難解な問題に取り組んでいる時ほど表情は硬くなり、目は虚ろになっていただろう。魂の抜け殻のように映ったとしても仕方がない。問題は見知らぬ先生に話すようなものではなく、自分で解決すべきものだったのだ。彼の指摘は的外れではあったが、上手く説明する自信もなかった。
 脳を通して描かれる世界は人それぞれに違い、それ故簡単にわかり合えないように思う。脳内磐を持たない人が、果たしてそれをどのように想像し、どこまで理解することができるだろうか。頭の中にそろばんがあるというのは、どんなそろばんが、どんなカラーの、どんなサイズの、そろばんがあるのだろうか。頭の中にいつもケーキがある人は、いつも焼き肉定食があるという人は、それぞれにどんなそれを抱いているのだろう。顔を見たくらいでは、何もわからない。だから問題も尽きないのではないか。


 チノパンを選んでいて出遅れてしまった。駅に着いた時には、既に集合時間の9時を回っていた。どっちだ? 何番ホームへ渡るべきか、考えている間に、目的地の駅名が飛んだ。終わった。書き残したメモは自宅に置いてきた。あるいはと思い鞄を開けてみたが、あったのは折り畳んだシフト表だけだ。こうなれば電話して聞くしかない。

「野崎さんの電話変わってないよね」

「ないない。あるわけない」

 横にいた見知らぬ女が当然のように言った。

 な・に・ぬ・ね……、は
 な・に・ぬ・ね……、は
 は!
 なぜか、のが飛んでいる。

 今度こそ、完全に終わった。(帰るか)
 駅名を忘れたなんて、言い訳になるだろうか。
 わかってくれる人が現れて、味方してくれるだろうか。
 焦る。役立たずのスマートフォンを線路に投げ捨てたくなった。
(おかしい。何か妙だ)
 その時、この出遅れた朝の状況が夢の一場面にすぎないことに、薄々気づき始めた。
(夢なんだな)
 まだ少し焦っている。夢だからままいいか。少し安心する。夢だからもういいか。どうでもいいように気楽になる。でも何だっけ? まだ少し引きずりながら、楽しむ余裕もあった。遅れても別に問題ないしな。仕事は夕方まであるのだし。ぞっとするような夢の終わり、意識はまだ半分半分のところを行き来していた。


 自分の部屋にはなく、カフェにあるものとは何か。それは、いつ訪れたのかという明確な瞬間だ。その瞬間、カフェという世界の中に自分という存在が誕生する。

「ごゆっくりどうぞ」

 世界もそれを認めている。その時に受け取るカップ(グラス)は、命を表している。手にした瞬間から、特別な時間が流れ始めるのだ。そこにあるのは物語性だ。

(物語は終わりへと向かって進んで行く)

 それこそが僕が望んでいるものであり、家の中ではいつからいつまでという時間の節を体感し難い。切迫するものがないため、緊張感を持ち自分を奮い立たすことに苦労する。
 PCの開かれた角の席に、ようやくつれが到着したようだ。これから商談が始まるのだろうか。
 カーテンの向こうの闇は強さを増して、自分の体も少し冷えてきた。僕はカウンターに行き、ホットコーヒーを注文する。新しい物語の再生だ。

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夏の終わりの40分

2023-10-19 19:28:00 | コーヒー・タイム
 18時、外に出るともう夜だった。夏が終わったことが明らかになった。自転車は壁にもたれて錆びついていた。動いたとしても歩く方が気楽だった。傷つくよりも傷つける方が遙かに恐ろしいからだ。2.8キロの道程を、僕は40分ほどかけて歩いた。真夏に歩くとたどり着いた時の温度差に泣かされる。ようやく、歩きやすい季節が訪れた。

「砂糖とミルクはお使いですか?」

 半年経つと、店の様子も何か変わっていることがある。フォークやマドラーは以前と同じでカウンターの横にあるのに、砂糖などはなくなっている。注文した商品とは関係なく、根こそぎ持って行く者がいたのだろうか。前は砂糖にも種類があって、僕はライトシュガーを好んでいたが、今はもうなくなったのだろう。

 たどり着いたことに満足して、僕はコーヒーを飲んだ。店の入り口は広く、天井も高い。ここに来ると不思議と心が落ち着く。あと90分はゆっくりすることができるだろうか。少し暑くなって、袖のボタンを外した。左は上手く外れたが、右は途中で糸が引っかかってしまったようだ。無理に力を加えると取れてしまうかもしれない。七分袖のボタンなど、なくても別によいと思えて、取れることはそう心配でもなかった。
 しばらくして落ち着くと、少し冷えてきた。まだ冷房が効いているのかもしれない。僕はボタンを留め直した。傍にある玄関マットに1本の糸くずのようなものが付着しているのが見えた。西の出入り口には置いていないのに、どうして北側だけマットがあるのだろう。こちらの方が、より外とダイレクトにつながっていて、ゴミやほこりが紛れ込みやすいためだろうか。
「こっちもあるよ!」
 あるいは、人々に扉の存在を知らせる意図もあるかもしれない。
 マットの色は、僕のシャツよりも少し色あせた緑だった。

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日記じゃないから/無理ゲー・カフェ/年齢不問

2023-10-03 00:08:00 | コーヒー・タイム
 玄関の照明が数年前に切れてそれっきりになっていた。記憶を頼りに靴を履いた。だいたいはそれで上手くいくのだ。エレベーターで下を向いた時、左右が大きく違っていることに気がついた。左は黒のナイキ、右はネイビーのリーボックではないか。そいうファッションもなくはないが、簡単に受け入れるには心の準備が足りず、とても履き通す意志を持つことはできなかった。1階まで下りると、僕は再度部屋まで戻ることにした。

「戻れるだろうか……」
(間に合うだろうか)

 いつも漠然とした不安と一緒に、書き出して途中の断片をいくつも抱え込んでいる。いつかペンを置いたところから、再び続けることは可能だろうか。あまりに時を置きすぎたものは、何も思い出せなくなっていることもある。あるいは、言い掛けたことはわかっても、核となるべき熱量が失われてもう進めなくなっていることもある。
 もしも「日記」だったら、書き始めた勢いのままに、当然の如く書き切るだろう。日記ではないから、今日である必然性がないのだ。
「きっと戻れるだろう」
(また思い立つだろう)
 そうして途切れさせてしまう断片が、不安とともに積み上げられていく。振り返っては、自分の無力さを思わずにいられない。


「先にお席をお取りください!」

 人気のカフェでは、席を取るにも一苦労いる。ランチタイムやおやつタイムでは、一層競争が厳しくなる。カウンターを見て、奥の2人席を見て、真ん中のコの字型カウンターを見る。コの字の部分には、6席が存在するはずだ。しかし、実際のところ、東側の席を使用するのは激ムズだ。すぐ側のテーブル席の椅子との隙間が3センチしかなく、時には接触していることもあるのだ。(今までのところそこに人がかけているのを見たことがない)

「先にお席の確保をお願いします!」

 確かにあそこも空いている、ようには見える。けれども、椅子があっても引けない椅子だ。まるで絵に描かれた月のようだ。そこにあっても確保は困難。つまりは無理ゲーだ。

(そこに見えてもたどり着けない)
 以前、奈良のフットサル・コートに行った時のことを思い出した。施設は天空のような場所にあり、車道からは行けそうだが、地上から歩いて行く道が見つからずに、店に電話したのだった。確かあの時は、地下トンネルのようなところを潜って、民家の畑を通り抜けて、犬に吠えられながらもなんとかたどり着いたのだった。高いところでボールを蹴るのは気分がよくて、どこか別の惑星にきたような感じでもあった。

 3センチの隙間でも、接触していても、強引に身を乗り出して確保を試みれば、実際には座れるのかもしれない。テーブル席の人も、チャレンジに気づいてスペースを作ってくれるかもしれない。仮に着席に成功したとして、今度は無事に脱出できるかという問題は残る。それはまたもう1つのゲームである。どうしてもそこしか「空席」がないという機会があったら、いつかチャレンジしてみようと思う。


 2つ隣の席に男たちがかけていた。
 商談を終えた2人といった感じだ。

「おいくつなんですか?」
「いくつに見える?」
「……。65くらいですか?」
「……」
 男はすぐには答えない。意味ありげな間を取ってから、両手を広げる。

「10上や」
「えっ?」
「それより10上や」
「えーっ! とてもそのようには見えませんよ」

 どこかで見たようなやりとりだと思った。きっとどこかで見たのだろう。「いくつに見える?」その問いに(若く見られたい)という願望が含まれているとしたら……。相手はピタリと当てようとするだろうか? それはあまりにもギャンブルだ。そう親しくなくなければ、あるいは商売絡みならば、尚更のこと。恐らくは、自分が思ったよりも10くらい上に言ってみるのが、無難なところだろう。だとしたら、このやりとりのすべては予定調和みたいなものかもしれない。こんにちは、おつかれさまくらいのものだ。人はどうして若く見られたいのだろうか? 若く見られるとうれしいのだろうか? それはお手柄なのだろうか。
 企業の採用欄などに「年齢不問」などとある。そうしておきながら一方では堂々と生年月日をはじめ根ほり葉ほりとたずねてくる。そこに矛盾はないのだろうか。
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カフェという名の逃亡先(夏の決断)

2023-09-13 18:43:00 | コーヒー・タイム
 コーヒーはおうちでも飲める。なぜ、カフェなのか? カフェに行くのは必然なのか? そんな疑問を持ち始めたきっかけは、夏の「どの店に行っても寒すぎる」問題だった。
 入った瞬間は確かに心地よい。15分で帰るなら何の不満もないはずだ。だが、1時間、2時間と本格的に腰を落ち着けて「ゆっくりする」となると話は変わる。店に行くと「ごゆっくりどうぞ」的なことを言って歓迎される。だが、ふと壁を見ると「長居は無用」的なことも書いてある。本当はどうしてほしいのだ? 
 僕はコーヒーを飲みながら考え事を始め、集中力が切れるまでゆっくりしていることが多い。(だいたい90分以上は続くと思う)だいたい途中で寒くなってくる。酷い場合には震えるほどだ。そこで夏の寒さ対策として鞄に防寒ウェアを用意している。しかし、本当に寒い店では、厚着をしてもなおごまかし切れない寒さであることもある。これは大変苦痛だ。集中の妨げにもなる。寒いからといって、真冬のようなかっこうをしているのも、違和感はある。

「何が楽しくてこんなことを?」

 安くもないコーヒー代を払って寒さにじっと耐え続ける時間。流石にこれは馬鹿らしい。ようやく僕は考え始めた。随分と時間がかかってしまったが、気づいた以上はちゃんと考えないわけにはいかない。



「テーブルを求めて」

 カフェに行くのは、集中できるテーブルが欲しいからだ。適度な刺激と喧噪、緊張感を求めるからだ。「なぜ自分の部屋では駄目なのか?」種々の誘惑に勝つ自信がない。自分独りで行き詰まってしまうことが怖い。要するにカフェは、そんな弱い自分の逃亡先ではなかったのか? 部屋から逃げ出し、時間をかけて歩き、たどり着いた達成感を求めた。ついでに立ち寄るだけでなく、自宅から出かけて往復2時間もの道を歩いてカフェに向かったこともあっただろう。(真夏の道は厳しい暑さで、たどり着いた店は最初心地よくやがて極寒となる。寒暖差にも泣かされた)せめて、片道だけでもどこでもドアやルーラが使えたらと思った日もあった。ともかく店のエアコンは自分の好きにコントロールできない。なぜなら、店は自分の部屋ではないからだ。



「マイ・デスクを片づけよう!」

 何も置いていないデスク。それこそが必要なものだ。部屋にもデスクはあったのだが、いつ頃からか完全な物置になり、あってないようなものになってしまっていたのだ。デスクの乱れは心の乱れでもあったのだろう。そこから整理しないことには始まらない。デスクを一旦更地にする。大事なものは移動して、わけのわからないものは処分するのだ。ドリンク、ポメラ、ボールペン、メモ帳、スマートフォーン。これで十分ごちゃごちゃとするのだから、最初は何もないのが基本だ。何もないデスクは、何とも心地よい。何かを生み出せる可能性しかない。

 自分の部屋なら、当然エアコンのコントロールは自在だ。コーヒーのおかわりは自由。氷はいくらでも足すことができる。ホットでもアイスでも、タンブラーに入れれば温度を保つことも楽勝だ。何より安上がりで経済的。気分転換を図るのも自由。行き詰まったら踊り始めても、誰の迷惑にもならない。カフェにない長所は、数え切れないほどあることを発見した。適度な喧噪、緊張感は望めない。集中力をどこまで保てるかは未知数だ。だが、結局それも自分次第ではないか。少なくとも夏が終わったと言えるくらいまで、「もっと部屋にいよう」と今の僕は考え始めたところだ。

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ダイヤル・ロッカーの悲劇/苦さを求めて/君の才能

2023-08-30 16:40:00 | コーヒー・タイム
 疲れていたこともあって自分の場所が不確かになっていた。ここかもしれない。何となく手をかけると扉が開いた。ここだったか……。確かに荷物が入っていた。だが、何かおかしい。何度見ても自分のものではないのだ。触れてはいけない。閉めなければまずい。鍵が開いたままなのもよくない。僕は半ば反射的にロッカーを閉めた。(その時、余計なダイヤル操作をしてしまったのだろう)
 しばらくして、仕事を終えた従業員が戻ってきた。ちょうど先ほどのロッカーを開けようとして頭を抱えた。いつもの数字では開かないようだ。僕は事情を説明した。つい先ほどは開いていたのだ。彼は自分が鍵をかけ忘れたことに思い当たり愕然とした。
 しかし、僕に全く責任はないのだろうか? 僕のしたことは、開いているロッカーにロックをかけたことだ。その際、ダイヤル式ロッカーでは、ロックする瞬間の数字を当事者が記憶しておかなければならないが、僕は何も思わなかったのだ。人の荷物を開かずの扉の奥に封じ込めたとも言えるのではないか。(誰がロッカーを使用しているのだろう。従業員ならもうすぐ戻ってくるのではないか。そうしたことを何も考えられなかったのは、想像力の欠如とも言える)
 当然、僕は謝った。けれども、彼は少しも僕を責めなかった。ロックをし忘れた自分の責任だという姿勢を貫いていた。もしも、逆の立場だとして自分は同じようにいられるだろうか。あるいは、彼にしても内心「余計なことをしてくれるなよ」と思っていたかもしれない。全くそういう感じを出さないところは大人だった。もう随分と昔の話、今では苦い記憶だ。


 苦い飲み物を求めて、カフェに足を運んだ。苦さはしばし時間を止める。過去を振り返り、心を整え、再び前に進むための停滞。
「ごゆっくりどうぞ」
 その言葉にうそはない。いつから苦さを好むようになったのだろう。
 ワードプロセッサやパーソナルコンピュータの普及に伴い、多くの文具が活躍の場をなくしていった。広いカフェの中を見渡しても、多くのガジェットがカチカチと音を立てながら活動しているのが見える。文具は死んだのか? そうではあるまい。
 コーヒーを混ぜていたマドラーは消えて、いつの間にか僕の右手にはボールペンが握られていた。ぺんてるのエナージェル0.7だ。ペンとノートは環境に左右されにくい。例えば、電源もWi-Fiもなくても、ハンカチ1枚分のスペースさえあれば、自由に動ける。ペン先についたボールをドリブルしながらどこまで行けるか。障壁となるのは、時の空気、権力、種々の規制、睡魔、空腹、情熱の期限といったものだろうか。近代的なガジェットが生まれる遙か前より、その文具は存在していた。小さくて、力強く、素晴らしい文具!
 本体に内蔵されたインクは、ペンの命と言える。もしも、世界が一夜と設定されるなら、ほぼ無限に書き続けられることだろう。現実はどうだろう? インクか、アイデアか、情熱か……。何かが先に尽き、到達できる場所も限られる。物書きたちの絶え間ない競り合いが続いていることだろう。きっとこの広いカフェのどこかでも。


 屋根から飛び下りたまではよかったが、見上げるとそこはもう飛び上がれるような高さではない。では地上はどうか。見下ろしてみれば、そこもまた飛び下りるには躊躇われるような距離だ。そうして猫はいかにも中途半端な柱の上で置物のようになっていた。ちょうど駅の階段から下りてきた男が、置物の存在に気がついた。どれくらい前からそうなっているのかは知る由もないが、躊躇いを察するように柱の下で足を止めた。男は何やら猫に語りかけた。そして地上から大きく両腕を広げて見せた。

「どうしろと言うの?」

 猫は声には出さず、男の仕草に対して訴えかけた。男の唇が微かに動く。けれども、猫はずっと当惑した瞳を向けたまま動かなかった。男はやがてあきらめたように腕を下ろすとそのまま去って行った。どうやらそれは大きなお世話だったようだ。躊躇いの中に浸かっているだけで、意を決しさえすれば、できることは約束されている。その時、猫はまだ自分の能力のすべてを知らずにいた。

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コーヒー・タイム/熟成コーヒー

2023-08-17 16:27:00 | コーヒー・タイム
 腕時計は腕をしめつける。それが安心だという人もいれば、窮屈だと思う人もいるだろう。もう1つの選択としては懐中時計だ。腕につけておかずとも、持ち歩くことはできる。手帳や電灯や刀等と一緒で懐に忍ばせておいて、ここぞというタイミングで取り出すことができるのだ。いつでも胸の奥に信念のように取っておけるし、一旦取り出せば自分から距離を取って置くことができる。そこでは改めて客観的な視点を持って時を見ることができるだろう。畳の上、ハンカチの上、カウンターの上、どこでも好きなところを選んで置くことができる。勿論、置かないという選択も可能で、一瞬懐から出してまたすぐさま懐に戻したっていい。あるいは、一切表には出さずに御守りのように大事にするといった使い方も可能だ。その動きはまさに自分の胸の内にあると言ってよい。つけたり外したりという手間がないのは、腕時計にない魅力だ。だが、すぐに物をなくしがちな人には不安の方が上回るかもしれない。(常に見えるところにある腕時計の方がはるかに安心だ)
「時間なんか関係ない」「時間なんて存在しない」そう主張できる人。また、今よりも妄想の時間を生きているというタイプの人の場合、いずれの時計も必要ではないだろう。


 出発点と到達点の間には、それなりの距離があった方がいい。それなりにはたどり着いた感がほしいのだ。コーヒーを頼むのにも少しくらい並んでからの方が、注文した感があっていい。カフェはそれなりに混んでいる方が、席を見つけた感があっていい。あまりに人が多いところは嫌気がさすが、逆に空き地のようなところも張り合いがなさすぎて困る。(それでは自分の部屋と変わらないではないか。コーヒーが高いだけ損だ)閉店間際に過疎化していく雰囲気は悪くないが、最初から誰もいないのは違うのだ。飲み物は常温ではない方がいい。ホットならば冷めるまでの間、アイスならば氷がとけ切るまでの間、それが時計代わりになってくれるからだ。限られた時間に、何か楽しいことでも思いつくだろうか……。それが僕のコーヒー・タイムだった。


 例えば自転車に乗っているとして、あるいは道を歩いているとして、前の者を追い越すことには抵抗がある。なぜなら、ほとんどの場合、自分はそれほど急いでいないからだ。(急いでもいないのにどうして追い越してまで進むのだ?)一度そうした思考回路が働いてしまうと、追い越すという行動が躊躇われてしまうのだ。前方にその時の自分よりペースが遅い者が歩いていたとしても、僕は全身の力を抜いて歩調をコントロールし始める。接近しすぎたり、立ち止まったりしては、あおり行為と受け止められかねない。(もっとゆっくり行こうよ)急いだところで地球は狭いぞ。
 昔の僕はそうではなかった。歩くスピードに自信があった。自分より速い人がいるとすぐに対抗心が湧いた。(どうしてあの人はあんなに速いのだろう)動作を注意深く観察して、歩き方を研究したりしたものだ。現在の対抗心は、むしろ遅い方にである。前方にスマホをのぞき込みながらだらだらと歩く者がいると、対抗心が湧く。(あいつはスマホに夢中でだらだら歩いてるな。しかし、こちらはスマホなんか見なくてももっと優雅に歩けるんだぜ!)歩く速さから、速度の可変へと興味は移行したのだ。

「いつまでも到着したくない場所がある」

 そんな場所があるなら、あなたにもスロー・ウォークをすすめたい。歩くことは前進だ。歩き始めればいずれどこかにたどり着くことだろう。けれども、目的に近づきつつもなかなかたどり着かないように努めることはできる。僕らは自らの足下から時間をコントロールすることができるのだから。


「ごゆっくりどうぞ」

 あなたはその言葉をどれほどの覚悟で受け止めるだろうか。熱いコーヒーは、すぐに飲み込むことはできなくても、いずれ冷めてしまうことは避けられない。その1杯で本当にゆっくりするためには、それなりにコツのようなものが必要かもしれない。(それは人生の楽しみ方にも通じるものがある)コーヒーをゆっくり飲むことを極論すれば、コーヒーを飲まないことだ。飲むとしても一口を極力小さくする。カップに口をつける程度の控えめな飲み方にすることだ。
 仮に生真面目にコーヒーに向き合って本気飲みしてしまったら、10分もしない内にコーヒーカップは空っぽになってしまうだろう。それでは「ごゆっくり」とはほど遠い。向き合いすぎては駄目なのだ。時にはコーヒーから完全に視線を外したり、距離を取ったりして、コーヒーの存在を消すような態度が望ましい。(飲まない時間を楽しもう)離れている間も、完全に忘れているわけではない。やがて訪れる再会を楽しみにしながら、心の奥に取ってあるというわけだ。
 人生の究極の目的は、目的を達成しないことにある。つまりは「リラックスする時間をつくる」ということだ。生きている「ゆとりを楽しむ」という点では、人よりもむしろ猫の方に見習うべきところが多い。(猫を師と仰ぐことも納得できる)
 目的を達成しないために必要なことは、全力を傾けないということだ。間違っても全身全霊を捧げてはならない。コーヒーを飲むこと、酒を飲むこと。そこでは思い切って手を抜くこと。言わば八百長だ。(戦っているようで戦っていない、飲んでいるようで飲んでいない。そういう加減が大切だ)

「ごゆっくりどうぞ……」

 コーヒーをゆっくりと飲むことは、コーヒーを飲まない時間を長引かせることに他ならない。(実際には飲んでいなくても、カップに1滴でもコーヒーが残っていれば、コーヒーを飲んでいると言える。カップが空っぽになった瞬間、もうコーヒーを飲んでいるとは言えなくなる)
 コーヒーという本分に対して、直接的に当たりすぎては時間が停滞しない。(本分から離れている間にすることがある)コーヒーを飲んでゆっくりできる人というのは、実際コーヒーだけを求めてカフェにやってくるのではない。最初に注文するのがコーヒーであるにすぎない。勿論、それは大切なものではあるけれど、それ以外に、人との会話、勉強、カードゲーム、読書、まどろみ、チャット、妄想……。そうした種々の楽しみ、言わばもう1つの本分を持っているのである。一旦、コーヒーのことは置いて(遠く離れた故郷のように)、人生を楽しんだ後にやがて戻る時もある。その時、愛はより深く熟成されているのかもしれない。

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信号のない三叉路/隣人は選べない/さよなら駅

2023-08-05 17:14:00 | コーヒー・タイム
 子供の頃、ポケットに手を入れていて怒られた記憶がある。ポケットが悪いのか。ポケットがある服を作った人が悪いのか。そうではない。時と場合によるのだ。マナーとしてよくない場面があるというだけのことだ。ポケットに手を入れながら接客しない。それは接客の常識とされている。けれども、ポケットは便利だ。ペンやあめ玉などちょっとした物を収納することができる。鞄ほどではないが、最低限の収納力があるのは魅力だ。ポケットのあるシャツが好きだ。ポケットに手を入れて歩くのがずっと好きだった。気取っているというわけではない。
 今日はポケットに手を入れて歩こう。そういう気分の時がある。例えば、風が強い時だ。暴走自転車が横をかすめて走り去る時。手を振って歩くような元気のない時だ。


 信号のない三叉路だった。停止線の手前に止まった車は、いつまで経っても左折できないでいた。車はどこかの信号のタイミングによって途絶えるかもしれない。人通りとなると18時辺りではなかなか厳しい。途絶えないとなると、人が足を止めてくれなければアクセルは踏めない。言わば人の善意を待つしかない。あなたは大通りに出ようとする車を前に足を止めるだろうか? 横断歩道で立ち止まっても無視するように走り過ぎて行った車のことを思い出して、誰が止まるものかと思い横切っていくだろうか。だが、その車はあの時の車とは違うかもしれない。(ちゃんと横断歩道で止まってくれる車だっているのだ)転機となるのは誰か一人が足を止める時だ。そして、重要なのはそれに続く人が一人現れることだ。複数が止まり出せば、流石にそこにはそういう空気、(車を先に通そう)とする共同意識が生まれる。そうした空気を壊せばむしろモラルを問われるだろう。
 その時、一人の女性が立ち止まった。僕は考え事をしながら道を横切った。(人も急には止まれないのだ)車が相手でも、お先にどうぞと言えるような、ゆとりのある人になりたいと思う。


 横が壁、前が窓の角席が取れて喜んでいた。隣人はパソコンと会話をする人だった。パソコン通信だ。ようやく天国に来たら鬼もいたという感じだ。席は選べるが隣人は選べない。家でも電車でも職場にしてもそうだ。大げさに言えばそれは運命だ。(もう1つの店にしてもよかったのに……)多少の後悔も押し寄せてくる。買ってしまった以上は、簡単に出て行くことはできない。引っ越すことは容易だ。家の引っ越しや転職と比べれば、カフェの席くらいいつでも変えることができる。(一時の辛抱ではないか)動かないのは、そのような気持ちがあるからだ。引っ越したとしても、その先の環境はわからない。隣人はもうすぐいなくなるかもしれない。だいたいそういう期待はするだけ無駄だ。順番は決まっていない。早く来た人が先に帰るというものでもないのだ。

 気になり出すと気になってしまう。「あー はいはいはいはい お願いします おつかれさまです あーそれね あーそれがややこしい あーそうしといてください」相槌とか笑い声とか、全部が気になり始める。気にしすぎだろうか。平気な人はいいなと思う。好きな人のいびきは気にならないという人もいるという。僕は人間嫌いかもしれない。イヤホンをさしてボリュームを上げたとしても、打ち勝てない。突き抜けて気になるのだ。

 そもそもここは電源まで用意されている。長く滞在してビジネスにも活用でき、またそのような利用が推奨されているのだ。
(ジェラシーかもしれない)ふとそのように思う。自分は誰とも深くつながっていないのではないか。隣人は離れた人とつながりながら、充実したビジネスライフをきっと送っている。パソコン通信へのジェラシー、エリート・ビジネスマンへのジェラシーだよ。


 夢の中ではトンネルに布団を持ち込んだ。あいつが来る前に抜ければよいと考えた。抜けられるだろうか。長いトンネルだった。誰かがものすごい力で肩を叩いた。恐ろしくて目を開けることができない。あいつか。その怪力には覚えがあった。凶暴で容赦がない。うそであれと願いながら、前に進んだ。進めている確信はなかった。今度はもっと強く肩を叩かれた。やっぱり来たのか……。半ば観念するように目を開けた。
 そこはトンネルではない。どうやら自分の部屋のようだ。後ろを振り返っても誰もいない。外でもない。あいつもいない。

 舌打ちが気になるのでやめるようにとチーフが言った。鼻水が出て苦しいのに、舌打ちのように聞こえているだけなのに。ここぞとばかりにブチ切れるとチーフは慌てて僕を引き留めた。会議室には役員の人たちが集合して、離職率を下げるための意見を出し合っていた。「君は残るんだろう」一人も手放したくはないようだった。皆の視線が一斉に僕の方に向いた。その時、全員が煙草をくわえて火をつけるのがわかった。

「僕、煙草大嫌いなんでやめます!」
 チーフの態度に加えて、その光景は僕の心を決定づけた。

「やめろ! やめろ!」

 今度は誰一人引き留めない。そこに愛煙家の団結を見た。忘れ物はない? ロッカーを空っぽにしてすぐにエレベーターを下りた。この駅ともさよならだな……。駅前を歩きながら、小さな縁が切れることを思って、少し切なくなった。

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君はPayPayを許さない/誓いの助六

2023-07-26 09:05:00 | コーヒー・タイム
「右ですか? もう一度よく見てください」

「左」

「はい。結構です。いつも通りですね」

 一旦待合室に戻りしばらくすると名前を呼ばれ診察室へ入った。瞼から検査のための液体を注ぎ、医者はレンズをのぞき込んだ。しばらく黙り込んでから、先生は半年振りなので写真を撮らなければと言い出した。(どう考えても半年振りのはずはないのだが)診察室の外には誰もいなくなっていた。しばらくして慌ててスタッフが戻ってきた。写真を撮って再び待合室へ戻った。5分くらいして名前を呼ばれた。診察室へ戻ると先生は写真はちゃんと撮れていたし病変はないと告げた。検査が1つ抜けていると指摘すると先生ははっとして僕の目にレンズを向けた。

「はい、右を見てください」


 ローソンに入り伝票をカウンターに置くと店員が駆けてきた。

「PayPayで」
「PayPayはお使いいただけません。現金のみになります」
 店員は即座に言い返した。何でもPayPayで済むと思ったら大間違いだ。

「じゃあいいです」

 僕は自分の間違いを認め、素直に引き下がった。
 しばらく歩くと郵便局があった。受付は閉まっていたがATMが開いていた。コンビニ店員が切り離しかけた右端を完全に切り離して、伝票投入口に伝票を入れた。

「現金か残高か」

 機械は二択しかないと言った。そこにPayPayが映ると思ったら大間違いだ。現金は小金くらいしか持っていなかった。残高はあってもカードを持参してなく、残高を使うこともできなかった。仕方なく取引を中止すると伝票がまっすぐ返ってきた。僕は何もできない人のようだった。あきらめて郵便局を出た。
 すぐ隣にお寿司屋さんがあったので持ち帰りの窓を開けた。

「いらっしゃい」

 お店はまだやっているようだった。助六を注文すると女将さんは、助六だけはもうできないと言った。稲荷がすっかりなくなってしまったのだ。思い直して僕は海老の箱寿司を注文した。それはそれで美味しそうだ。

「お待たせしました」

 僕は小銭20円と千円札を出した。おじいさんが握っている古くからあるお寿司屋さんだ。PayPayなんて言うのは野暮というものだろう。

「何時までですか?」

 だいたい6時半くらいだと女将さんは言った。僕は再びこの窓に戻ってくることを胸に誓った。(今度は助六を頼んでみせる)

「またお願いします」

 北に歩き始めると雨が降り出した。降水確率は10%。降り出しても決しておかしな話ではない。僕はもう一度南へ戻った。お寿司屋さんの先は、もう商店街である。


 夕暮れの商店街は、すっかり廃れて人影も疎らだった。けれども、西へ歩くと少しだけ(相対的に)活気を感じることもできた。通り過ぎようとしたところで足を止めて、僕は八百屋さんに入った。

「いらっしゃい」

 3秒ほどして奥から店主の元気な声がした。小さな八百屋さんだった。高いところに青梗菜が見えた。欲しいのはそれではない。東側から店内を見回す。あれか? 西側にあるポップに手を伸ばして裏返すと100円だった。僕は小松菜を手に取って店主のいるレジの元へ向かった。

「小松菜で?」
 店主は小松菜を確認した。

「はい」

 僕は小銭入れから500円玉を用意した。その途中でレジに貼りついているPayPayシールを見つけた。

「PayPayも使えるんですか!」

 僕は感動のあまり声に出して言った。
 すっかり廃れかけた商店街にある小さな八百屋さんにPayPayを使うことができるところがあっても別に不思議でも何でもないにも関わらずにだ。

「使えますよ。よろしいですか」

「まあ」

 僕はもうそこまで出掛かっていた500円玉を引っ込めることは、あえてしなかった。(そこまでPayPayのことが好きじゃない)それに、いずれまた訪れることがあるに違いない。何しろあのお寿司屋さんから遠くない場所だ。
「ありがとうございます」
 ありがとう。清々しい八百屋さん。

 箱寿司と小松菜で荷物がいっぱいになってしまった。古民家カフェもまもなく閉店だし、処方箋を薬局に持って行かなければならない。僕は家で飲むカフェラテに期待することにした。(家ほどゆっくりできるところがあるだろうか)


 とんでもない思い違いをしていたことに気がついた。コンビニも郵便局も必要ない。必要なのはスマートフォーンだったのだ。僕は伝票のバーコードにスマートフォーンをかざし情報を読み取った。残高がチャージされていることを確認して、今すぐ支払うをタップした。

「PayPay♪」

 あまりに大きな声が支払いの完了を告げた。金額が多少大きかったからかな? 小さな部屋は、音がよく響く。

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喫茶店の終わり/もっと普通にみてほしい/美濃が崩れても

2023-07-18 15:49:00 | コーヒー・タイム
 ランチタイムの終わった王将はあっさりと詰んでいたので向かいの喫茶店に向かう。外からでも硝子の向こうに空席が確認できる。入った途端に閉店時間を告げられた。誰もいないのはそのせいでもあるのだ。

「ピラフかカレーになります」

 もはや食べられる物は限られた。あまり迷わずにカレーにした。(今日はナポリタンを食べたかったのに)案外すぐには出てこない。何度かレンチンの音が響く。レトルトよりも手間がかかっているなら少しうれしい。女性客が入ってきてまだ大丈夫かと聞いたあとで、カフェオレと玉子サンドを注文した。お待たせしました。カレーは熱々で所々に見えるビーフの塊はそれなりに旨いと思えるものだった。ごちそうさまでした。腹ごしらえを終えて席を立つ。今度はカフェで陣取りゲームが待っている。


 狭いテーブルの上ではポメラを開くのも気が重い。メモや、ボールペンや、ポケットティッシュや、色んな物がごちゃごちゃとして、コーヒーをこぼしてしまうことも考えられる。その時、僕はフリック入力とエバーノートで断片を練っていた。「ポメラだけあればいい」なくてはならないと思われたことも、なければないで何とかする。環境に合わせて生きていくのが生き物だ。そう考えれば、世の中に絶対になくてはならないものなどないのかもしれない。愛も、心も、手放してみればどうということはないのかもしれない。先のことはわからない。

 ポメラを置いて活動していると、手を骨折した時のことを思い出す。その時には、ポメラを開いても仕方がなかったのだ。ポメラと離れて過ごす寂しさの中で、ノートを開き、片手でペンを持たなければならない。(それはどこか、故郷を遠く離れて新しい街で暮らすことに似ていた)ノートでできる範囲は限られてしまう。最初は無力感ばかりがつきまとったが、色々と工夫を重ねて取り組む内に、ノートにはノートなりの良さがあって、ペンにはペンの可能性が広がっていることに気づかされた。(新しい風景が見えた)それは折れていなければ得られなかった経験だ。
 骨折は骨が折れる。当たり前のようにつながっていたところに空白ができ、そこに恐怖や不安が入り込んでくる。だからと言って悪いことばかりだとは限らないし、一度折れてつながったことでより強くなるものもある。何が「幸い」か。そういうことは簡単に決められるようなものではない。だから、安易に人を憐れむことは浅はかだ。

「かわいそうに」

 幼年の頃、上手く歩くことができなかった僕に、大人の人が言った。他のどんな言葉よりも、それが一番僕を傷つけた。色んな葛藤を乗り越えながら現実を受け入れ、そこをスタートラインにしようとしてるのに……。(何も知らないで)勝手に決めつけるなよ。くやしくて、怒りがこみ上げて、泣きたい気持ちだった。僕はもっと普通にみてほしかったのだと思う。
 言葉を発した大人は、その言葉が誰かにダメージを与えるなんて、夢にも思っていなかっただろう。悪気はあってもなさすぎても恐ろしい。きっと、その人は何も考えていなかったのだ。


 何も考えない方がずっと楽だ。確かにそれは1つの真理かもしれない。楽を望むならそれも本筋だ。
 何のためにやっているのだ? 目的意識を持つこと、再考してみることも、上達を望むとするなら有意義なことだ。勝ってうれしい。負けてくやしい。勝ち負けに一喜一憂するのもいいが、あなたが将棋ウォーズを指す時、目先の勝利の他にも求めているものはたくさんあるのではないだろうか。
 勝負強くなりたい。上手く切り返せるようになりたい。もっと手がみえるようになりたい。臨機応変に指せるようになりたい。読み筋を外れても動じないようになりたい。常に動じていないようにみせたい。迷い、躊躇いから放たれたい。成長したい。今の自分より、昨日の自分よりも強くなりたい。勝ち方が上手くなりたい。見切りが上手くなりたい。もっとわかりたい。もっと理解したい。もっと真理に近づきたい。もっと名人に近づきたい。もっと神さまに近づきたい。すべては望み通りにはいかないが、望みを持つことは素敵なことではないだろうか。

「この戦いが何の役に立っているのか?」
(何の訓練になるのか? どこを鍛えているのか?)

 勝った負けただけでも十分に楽しめるかもしれないが、日々テーマを意識して戦いに向かうことも楽しみの広げ方として有力ではないだろうか。壮大なテーマを持って目的に向かっている人間は、心を強く持つことができる。(その状態では目先の勝負を超越できる)目前の一局の勝ち負けなんてどうでもいいのだ。だって、あなたはもっと長く険しいけれどももっと夢のある道を進んでいるのだから。

 空中分解将棋のすすめ  ~堅さ=正義との決別

「あなたは居玉で戦ってみたことがあるか?」

 勝率を上げる近道は玉を堅くしておくこと。確かにそれは一理ある。(弾丸等極端に短時間の将棋ではより説得力もある)だが、勝率を上げること、勝つことと、強くなることはまた別だ。底力を上げるために、あえて手痛い経験を積むことも1つの考え方だ。

 堅陣に組んだ玉は必ず無傷で終われるのか?

 攻めている時にはやたら強いが、攻められ出したらそうでもないという棋士は多い。穴熊が無傷で王手がかからない時には調子がよいが、穴から追い出されたらもう無茶苦茶になる。そういうのは棋力のバランスが偏っていると言える。将棋は複雑なゲームである。(攻めたり受けたりすることが必要)攻めたら強い、受けたら強いというより、攻守のバランスに優れている方がいい。とは言え、受けというのは難しく、薄い玉形で攻められながら勝つというのは、それなりの経験/訓練が必要だ。
 相振り飛車の囲いは常に迷う。あまり囲いに手をかけていると先に攻められやすい。慎重にバランスを取っていると手詰まりに陥りやすい。思い切って「囲わない」という戦術もある。(「流れ弾に当たりつつ勝つ」という訓練の意味を兼ねる)相手が居玉に近いとみると、狂ったように攻め込んでくる棋士は珍しくない。実際に狂っている場合は間違いなく形勢はよくなる。

「流石に無理すぎだろう」みたいな強襲に対して一旦優勢にはなるものの、何だかんだとやっていう内に、火のないようなところからも煙が上がり、流れ弾に当たって最終的には負けてしまう。
 あれ? 変だな。やっぱり固めておかないと駄目か……。目先の対局に勝つための結論は、強くなる上では逆である。負けてもよいからだ。負けるのは実力だ。それを玉形のせいにするのは簡単だが、本当は薄い玉形での戦い方/勝ち方を知らないからだ。そこを反省し、改善しながら鍛えていけばよいのだ。居玉や薄い玉形での戦いにも慣れておくと、いざ穴熊から追い出された時、美濃囲いを削られた時にも、そう動じなくなる。「あの玉形を耐えたのだから……」そうした苦労や経験が自力になるのだ。

(空中分解将棋)
 それは「美濃が崩れても勝つ」ための訓練だ。
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雨がいい訳/暗黒のナス 

2023-07-13 01:24:00 | コーヒー・タイム
 コーヒーを注文する。
「ポイントカードはお持ちですか」
 忙しくても欠かせない一行がある。gooブログと連携されますか。今はやめておくと丁寧に伝える。コーヒーだけなので注文は繰り返さない。

 時に部分は全体を語ることがあるか? ポスターの下15センチの隙間から道行く人を推測してみる。彼の身長、職業、趣味、目的地、好きな食べ物。彼女の理想、目的地、座右の銘。
 雨に濡れたアスファルトに反射するヘッドライトが光と影を生み出している。18時30分。雨の日ならではの風景がある。毎日同じようで全く同じにはならない。それが日常だ。

 寝不足に伴う疲労は解消されないままだ。いつからか。とめどない鼻水。なかなかとまらない咳。「どうせ遠出はできない」
 そんな時の雨は、むしろ恵みの雨だ。ほんの15分の道も歩くことは偉い。近場であっても何か「やって来た」感を感じることができる。


 ナスは魅力的だ。何が旨いのか説明がつかない。しかし、旨いのだ。積み上げられたナスの前で、迷いに迷う。松ナス、竹ナス、梅ナス。選んでいるつもりでも、選ばされているのかもしれない。
 迷った末に買って帰ったドレッシングが、結局いつも同じだったという経験はないか? 「DNA手帳に最初から書き込まれていたのだ」
 気になったナスを手に取ってみる。一度戻してまた選び直す。前よりいいともわからないが……。一回切り返してパスを出すと少し上手くみえる。そのような感じでナスを決定する。

「こんなまずい野菜が……」
 それがナスとの出会いだった。多分あれは腐ったナスだったのだと思う。暗黒の記憶を払拭するまでには随分と長い時間がかかった。暗黒に足を踏み入れるのも、暗黒から抜け出すのも、ほんの些細なきっかけなのかもしれない。

 ナスを選び終えて安心していると、すぐ横に5本入りのナスを発見した。セール! 198円。なんと3本でも5本でも同じ値段だ。しかし、5本入りの方は、幾分ナスのサイズが小さいようだ。とは言え5本である。その時、更にその向こうに長ナスという、また新たなナスが出現した。名前の通り長い。ナイフに対して長槍のようだ。こちらの方がより強いモンスターを倒せるかもしれない。しかし、僕に扱えるだろうか……。(タジン鍋からはみ出してしまうかもしれない)今日のところは長ナスのことは忘れることにした。セールのナスをカートに入れるともやしコーナーに向けて歩き出した。

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何もしないカフェ/遊びの定義/王手の力

2023-07-08 17:38:00 | コーヒー・タイム
 ポメラを置いてきた日には、ノートが開かれることになる。
 ノートとガジェットは併用するともっとよくなるはず。それぞれに長所があるのだ。ノートは同期なんてしなくていい。電源やWi-Fiがなくても平気。つまりは環境を選ばない。チープなものには安心感がある。少しくらいコーヒーをこぼしてもいい。落としても壊れない。静かで他人の迷惑にもなりにくい。ペンを走らせる音など、落ち葉がすれて囁くくらいのものだ。
 風邪を引きずってコーヒーを注文する声に重みがある。新しい自分が現れた。このままでもいい。きっとそれは愚かな考えだろう。
 ポスターの裏地に逆さまのチキン。硝子を覆うものが何もなかったら、外の世界はもっと大きく見えるのに。この世界を支配しているのは広告なのか。バス停にかける腕組みの男。次の試合に向けて戦術を練っているのか。どこかのチームの監督、あるいはコーチだろう。


店内において以下の行為を禁止致します。

 すべてはお客様が快適に過ごされるためだと書いてある。眠ってもいけないし、トランプやカードゲームの類は禁止だ。目につくような遊び方をしてはいけないのだ。逆にノートやテキストを広げて、熱心に仕事や勉強に打ち込むことも禁止だ。娯楽も仕事も勉強もいけない。何もしないのはよいが、眠るのは駄目だ。ある程度はそういうことが許容されるタイプの店もあるが、建前上は禁止というカフェも多い。とは言え、やはりそれは程度の問題だ。テーブルの上でカードを切った瞬間に追い出されるわけではない。少しノートを開いたくらいで咎められもしない。コーヒーを飲むという本分を上回る生活の拠点をテーブルに置くくらいのことがなければ、実際には何も起こるはずもない。

 遊んでいるのか、働いているのか。一目でそれは見分けがつくものだろうか。フル充電したところからどれだけ持つか? 家電量販店でノートを選んでいた時、それは使用状況によると店員は答えた。印象的だったのはその次の言葉だ。

「ほとんどの時間は止まっているのです」

 人間はノートを開いて仕事をしている時でも、フルに動いてはいないというのが、彼の持論だった。首をひねったり、ため息をついたり、遠くを見つめたり……。そうした時間が、ノートと向き合う大部分を占めているのだ。当然、その間のノートはさほど電力を失わないというわけだ。なるほどそういうものかと妙に感心したことを覚えている。

 あのメッシだって止まっている時は止まっているではないか。ずっと動いてばかりではない。でもその時がやってきたら目覚ましい動きをして、決定的な違いを生み出してみせる。メッシはそれまで遊んでいたのか? 遊んでいるようにも見えるし、見せかけていたとも言える。止まっている時間も、先を見据えて準備していたとすれば、偉大な静止と解釈することもできるだろう。

 できない上司に限って動き詰めることを要求するが、それは物事の効率というものをまるで理解していないためだろう。ストップ&ゴー、パス&ゴー。課題をクリアし壁を越えていくためには、緩急をつけることが重要だ。人はロボットとは違い、傷ついたり疲れたりするものだ。同じ人でありながらそこを考えられない人が多いのも、悲しい現実だ。

 この人たちは何を求めてカフェにやってくるのだろうか。時間を潰すためか。談笑するためか。くつろぎを求めてか。コーヒーが生き甲斐なのか。何の目的もなくふらふらしながらたどり着いたのか。遊んでいるのか、遊んでいないのか、傍目にはわからない。あと少し。カップに残るコーヒーを飲みきらなければ……。だけど、僕はもう眠りたかった。(飲まなきゃ)(このまま眠ってしまいたい)2つのテーマの間で揺れている。その感じは、悪くなかった。


「いつまで遊んでいるの?」(いつになったらまともに働くの)
 あなたはそうやって誰かに責められたりしたことがあるだろうか。

 将棋には「遊び駒」という駒(状態)があり、形勢の足を引っ張る要因にもなる。

「遊び駒は作らない方がよい?」

 最初から最後まですべての駒が働いて勝つ。そんなことが可能だろうか。大山十五世名人の振り飛車では、最初は囲いから遠く離れていた金が戦う内にだんだん玉に近づいていくという棋譜が多く存在する。最初は遊んでいるようで、色々あって最後には働くようになっている。そこに物語性があるようで、何か面白く感じられないだろうか?

「玉から離れすぎた駒は遊んでいるのか?」

 将棋の盤は広いようで意外と狭い。遊んでいるようでも、働く時にはいきなり働き出したりするものだ。(それにはもう1つ理由がある)
 僕は世界の果てにあるようなと金でも、軽視しないように心がけている。

82飛車成(王手) 42飛車 66角?
82飛車!
 苦し紛れに打ったような飛車合が自分の竜に当たっているのを完全にうっかり。(弾丸ウォーズではよく大駒をただで取られる)
 投了が頭を過ぎった次の瞬間、敵玉にかなり王手が続くことに気がついた。(詰む形)になった時には、潤沢な駒台が物を言う。そして、左辺は案外に広くないようなのだ。
(あきらめるには早すぎる)
 王手! 時間も1分弱ある。
 玉を中央に追うと詰む形がみえてきた。(詰めチャレの成果だ)
 はるか昔にできていた71のと金が、収束形を作る最後の拠点として働いていたのだ。(遊んでいた駒が最後に物を言った)
 遊び駒が働きをみせるもう1つの理由。それは王手の力だ。王手王手と続くことによって、玉は強制的に長い旅をする。自ら動かさずとも王手の力によって(相対的に)、遊び駒は一気に重要な駒になり得る。そこに王手/将棋の面白さもあるのではないか。ほとんどの時間を眠っていても、最後の最後に値千金の働きをみせることがある。

「王手の可能性がある限りは、完全な遊び駒など存在しない」
 それが僕の出した結論だ。
 世界の果てと思えた符号も、気がつくと突然世界の中心になることがあるからだ。

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