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眠れない夜の言葉遊び

折句、短歌、言葉遊び、アクロスティック、夢小説

カフェという名の逃亡先(夏の決断)

2023-09-13 18:43:00 | コーヒー・タイム
 コーヒーはおうちでも飲める。なぜ、カフェなのか? カフェに行くのは必然なのか? そんな疑問を持ち始めたきっかけは、夏の「どの店に行っても寒すぎる」問題だった。
 入った瞬間は確かに心地よい。15分で帰るなら何の不満もないはずだ。だが、1時間、2時間と本格的に腰を落ち着けて「ゆっくりする」となると話は変わる。店に行くと「ごゆっくりどうぞ」的なことを言って歓迎される。だが、ふと壁を見ると「長居は無用」的なことも書いてある。本当はどうしてほしいのだ? 
 僕はコーヒーを飲みながら考え事を始め、集中力が切れるまでゆっくりしていることが多い。(だいたい90分以上は続くと思う)だいたい途中で寒くなってくる。酷い場合には震えるほどだ。そこで夏の寒さ対策として鞄に防寒ウェアを用意している。しかし、本当に寒い店では、厚着をしてもなおごまかし切れない寒さであることもある。これは大変苦痛だ。集中の妨げにもなる。寒いからといって、真冬のようなかっこうをしているのも、違和感はある。

「何が楽しくてこんなことを?」

 安くもないコーヒー代を払って寒さにじっと耐え続ける時間。流石にこれは馬鹿らしい。ようやく僕は考え始めた。随分と時間がかかってしまったが、気づいた以上はちゃんと考えないわけにはいかない。



「テーブルを求めて」

 カフェに行くのは、集中できるテーブルが欲しいからだ。適度な刺激と喧噪、緊張感を求めるからだ。「なぜ自分の部屋では駄目なのか?」種々の誘惑に勝つ自信がない。自分独りで行き詰まってしまうことが怖い。要するにカフェは、そんな弱い自分の逃亡先ではなかったのか? 部屋から逃げ出し、時間をかけて歩き、たどり着いた達成感を求めた。ついでに立ち寄るだけでなく、自宅から出かけて往復2時間もの道を歩いてカフェに向かったこともあっただろう。(真夏の道は厳しい暑さで、たどり着いた店は最初心地よくやがて極寒となる。寒暖差にも泣かされた)せめて、片道だけでもどこでもドアやルーラが使えたらと思った日もあった。ともかく店のエアコンは自分の好きにコントロールできない。なぜなら、店は自分の部屋ではないからだ。



「マイ・デスクを片づけよう!」

 何も置いていないデスク。それこそが必要なものだ。部屋にもデスクはあったのだが、いつ頃からか完全な物置になり、あってないようなものになってしまっていたのだ。デスクの乱れは心の乱れでもあったのだろう。そこから整理しないことには始まらない。デスクを一旦更地にする。大事なものは移動して、わけのわからないものは処分するのだ。ドリンク、ポメラ、ボールペン、メモ帳、スマートフォーン。これで十分ごちゃごちゃとするのだから、最初は何もないのが基本だ。何もないデスクは、何とも心地よい。何かを生み出せる可能性しかない。

 自分の部屋なら、当然エアコンのコントロールは自在だ。コーヒーのおかわりは自由。氷はいくらでも足すことができる。ホットでもアイスでも、タンブラーに入れれば温度を保つことも楽勝だ。何より安上がりで経済的。気分転換を図るのも自由。行き詰まったら踊り始めても、誰の迷惑にもならない。カフェにない長所は、数え切れないほどあることを発見した。適度な喧噪、緊張感は望めない。集中力をどこまで保てるかは未知数だ。だが、結局それも自分次第ではないか。少なくとも夏が終わったと言えるくらいまで、「もっと部屋にいよう」と今の僕は考え始めたところだ。


無茶苦茶将棋 ~「世界観の勝利者」

2023-09-13 02:38:00 | 将棋ウォーズ自戦記
 悪手は悪い手だ。勿論、棋理の上では当然そうだ。
 だが、実戦においては悪手が好手に転じることなどいくらでもある。(特に時間の短い)人間同士の勝負では、純粋な棋理(理屈)を超えて、自分を勢いづかせる手や相手の意表を突く手が、大いに有効になるのだ。

「何だ、その手は?」

 読みにない手によって相手のリズムを狂わせたり、メンタルを揺さぶったり、時間を使わせたりできるのは大きなポイントだ。

「その手なら、何か咎める手があるのでは?」

 咎め切れない場合は、悪手もだいたい好手に化ける。(無理も通れば道理が引っ込むというわけだ)実際の話、意表を突かれながら即座に正確に対応するというのは簡単ではない。

「咎め切れないだろう」(本来悪手だとしても)

 それを見越した上での悪手は、戦術的な勝負手としても使えるのだ。評価値が振れるとか、そんなことは全く関係がない。戦っている人間が、どう感じているかの方が、より重要だ。勝負強い人ほど、そういう駆け引きにも長けているのではないだろうか。


「無茶苦茶な手で負けた」

 棋理に背くようなデタラメな手で負けた後は、そうぼやきたくもなる。だが、それはよくあることだし、自分の方も無茶苦茶な手をいっぱい指しているのだ。


 人間の将棋においては、指し手の善悪、AIが指すところの評価値の他に、指し手の好み(好き嫌い)、難易度、自分の棋風・ペース(世界観)といった要素が大きく影響するのではないか。例えば、形勢はやや不利でありながら振り飛車ペースとか、実戦的に勝ちやすいといったニュアンスで語られることが多々ある。評価値がいくらプラスでも、自陣に飛車が封じ込まれている形より、評価値が多少マイナスでも敵陣に竜をつくって攻めを狙える形の方が、好き(うれしい、自信が持てる、テンションが上がる)という人は多いのではないだろうか。また、そうした自分の好きな形・展開に持ち込めることによって、より自分の力を出しやすいのではないだろうか。攻めが得意だという人は、多少無理気味でもいいから、自分が先攻できる形に持ち込んだ方がペースをつかみやすいだろう。

 形勢がいいと言っても「どう指していいかわからない」ような局面で力を出すことは困難だ。(時間を使わないことも難しい)多少局面が悪くても方針が決まっていれば、迷わずに済む。終盤戦では、攻めか受けか一方だけ考えることは容易でも、攻めたり受けたり(詰ましたり詰まされたり)を同時に処理するとなると極端に難易度が上がる。苦しい時には、相手にそうした負担を強いることも勝負の上では重要だろう。AI的に99%勝勢だとしても、その根拠が自分には到底読み切れない長手数の即詰み故だとしたら、その勝勢は無意味に等しい。

 人間は自分の「好きなこと」をやっている時の方が生き生きとする。
(好きこそものの上手なれ)
 好きなもの、夢中になれるものを見つけられることは幸福だ。好きで生き生きとしていれば、上手くもなるだろう。世界の中で将棋を見つけられたように、将棋の中で更に好きなものを見つけ出せた時、あなたはもっと強い世界観を手に入れることだろう。