悪手は悪い手だ。勿論、棋理の上では当然そうだ。
だが、実戦においては悪手が好手に転じることなどいくらでもある。(特に時間の短い)人間同士の勝負では、純粋な棋理(理屈)を超えて、自分を勢いづかせる手や相手の意表を突く手が、大いに有効になるのだ。
「何だ、その手は?」
読みにない手によって相手のリズムを狂わせたり、メンタルを揺さぶったり、時間を使わせたりできるのは大きなポイントだ。
「その手なら、何か咎める手があるのでは?」
咎め切れない場合は、悪手もだいたい好手に化ける。(無理も通れば道理が引っ込むというわけだ)実際の話、意表を突かれながら即座に正確に対応するというのは簡単ではない。
「咎め切れないだろう」(本来悪手だとしても)
それを見越した上での悪手は、戦術的な勝負手としても使えるのだ。評価値が振れるとか、そんなことは全く関係がない。戦っている人間が、どう感じているかの方が、より重要だ。勝負強い人ほど、そういう駆け引きにも長けているのではないだろうか。
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「無茶苦茶な手で負けた」
棋理に背くようなデタラメな手で負けた後は、そうぼやきたくもなる。だが、それはよくあることだし、自分の方も無茶苦茶な手をいっぱい指しているのだ。
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人間の将棋においては、指し手の善悪、AIが指すところの評価値の他に、指し手の好み(好き嫌い)、難易度、自分の棋風・ペース(世界観)といった要素が大きく影響するのではないか。例えば、形勢はやや不利でありながら振り飛車ペースとか、実戦的に勝ちやすいといったニュアンスで語られることが多々ある。評価値がいくらプラスでも、自陣に飛車が封じ込まれている形より、評価値が多少マイナスでも敵陣に竜をつくって攻めを狙える形の方が、好き(うれしい、自信が持てる、テンションが上がる)という人は多いのではないだろうか。また、そうした自分の好きな形・展開に持ち込めることによって、より自分の力を出しやすいのではないだろうか。攻めが得意だという人は、多少無理気味でもいいから、自分が先攻できる形に持ち込んだ方がペースをつかみやすいだろう。
形勢がいいと言っても「どう指していいかわからない」ような局面で力を出すことは困難だ。(時間を使わないことも難しい)多少局面が悪くても方針が決まっていれば、迷わずに済む。終盤戦では、攻めか受けか一方だけ考えることは容易でも、攻めたり受けたり(詰ましたり詰まされたり)を同時に処理するとなると極端に難易度が上がる。苦しい時には、相手にそうした負担を強いることも勝負の上では重要だろう。AI的に99%勝勢だとしても、その根拠が自分には到底読み切れない長手数の即詰み故だとしたら、その勝勢は無意味に等しい。
人間は自分の「好きなこと」をやっている時の方が生き生きとする。
(好きこそものの上手なれ)
好きなもの、夢中になれるものを見つけられることは幸福だ。好きで生き生きとしていれば、上手くもなるだろう。世界の中で将棋を見つけられたように、将棋の中で更に好きなものを見つけ出せた時、あなたはもっと強い世界観を手に入れることだろう。
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