「出た!」
と思って身を引いたけれど、出たはずの場所には何もいない。自分が下がればそれに応じて少しだけ動くもの。見えるもの、感じられるもの。それは自分の影だった。恐れが影を魔物にする。危機は去った。縦に動いたので今度は蟹が食べたくなっている。ならば森へ向かえ。
リスや鹿と友好を深めながら、世相を語れ。世間を絶て。木々をかき分けよ。猫よりも高く登れ。木漏れ日に迷え。未来へ向いて汗をかけ。水を求め、仙人に会え。遠く離れて、憧れを抱け。憧れを置いて、多くを学べ。木々を集めて海を描け。森のすべてを味わい尽くせ。それからのこと。それから渡るべき蟹。
「本当の仙人は私じゃない。あの木の上の猫に似たものさ」
「似たもの……、それは」
木から落ちてきたそれを受け止めるとお礼にとっておきのイノセンスをくれた。
「困り果てる前にこれを振るのだ!」
「ありがとう。仙人さま」
(もう蟹に飢えてはいない)
余裕を持って手を伸ばすと指先を噛まれた。
「放せ」
「よこせ」
自分かわいさから貼り紙に逆らって餌を投げた。
「もっと骨のある奴をよこせ」
持ち合わせのクリスピーは犬の心に刺さらなかった。
「向かい風のような抵抗を俺によこせよ。すぐに溶けるようじゃつまらないだろ。難解な骨のパズルを解きたいんだよ。俺たち犬にとっては、少しの苦労こそが楽しみに当たるのだから。生き物って奴はね……」
「くらえー!」
僕はここぞとばかりにイノセンスを振った。一瞬、犬はたじろいだように見えた。
「ゴーホーム!」
その時、どこからともなく強い風が吹いた。それはイノセンスが犬に与える攻撃を吸収し無力化してしまう。
「ふっ、骨ほどにもない奴」
骨付きを求める犬の追走を巻いて浜辺を目指した。
(さよなら、イノセンス)
恐れからか足下がふらつくと、箪笥もないのに箪笥の角が現れて指を打った。今度の魔物は肉体によりダメージを与えた。
ほぼ蟹を忘れる頃に波の音が聞こえてきた。