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海の武士道

2012-05-25 09:21:11 | 日記
第二次世界大戦の戦後の長きにおいて日本人の誰もが知らなかった、戦場の奇跡の物語があります。それは「海の武士道」と名付けられています。

その物語は、太平洋戦争が勃発した翌年の1942年2月28日、ジャワ島北東部のスラバヤ沖で起こりました。当時の戦況は日本が圧倒的優位で、イギリスをはじめとする連合国艦隊は、連日、猛攻撃を浴び、当時少尉だったフォール卿の乗るイギリス海軍駆逐艦「エンカウンター」も日本海軍の戦闘艦に包囲されていました。

日本海軍の砲弾がイギリス海軍の船に命中しエンジンが停止。フォール少尉たちは、もはや脱出する以外、方法はありませんでした。

3月1日午後2時頃、「エンカウンター」の乗組員は全員、救命ボートで脱出しました。その直後、「エンカウンター」は日本海軍の攻撃によって炎上し、海に沈みました。

しかし、フォール少尉たちにとって、本当の地獄はここからでした。船からもれた重油が目に入り、多くのイギリス兵が、一時、目が見えなくなってしまったのです。近くには、沈没した別のイギリス巡洋艦の乗組員を含め、合計400名以上が漂流していたため、たった8隻の救命ボートではあまりに不十分で、漂流者たちはボートにしがみつくのがやっとの状況でした。

「オランダ軍がきっと救助に来てくれる」フォール少尉はそう信じていました。船から離れる前に打ったSOSの無線を受信できる位置に、味方のオランダ軍の基地があったからでした。しかし、いつまでたっても味方の救助は現れませんでした。フォール少尉たちは、なすすべもなく海面に漂うしかありませんでした。

そのうち日が暮れ、真っ暗な闇がフォール少尉たちの漂う海を襲いました。「もう限界だ・・・」口々に嘆くイギリス兵たちにフォール少尉は、「諦めちゃダメだ、必ず助けが来る。生きて祖国に帰るんだ。家族を思い出せ。」と励ましました。それは、自らに言い聞かせる言葉でもありました。

やがて、夜が明けました。しかし、いまだに助けは来ません。赤道近くのため、日が昇り始めると暑くなってきました。3月2日午前10時、すでに漂流から20時間近くたっていました。

その時、突然フォール少尉の前方200ヤード(約180m)のところに船が現れました。フォール少尉の目の前に現れたその船は、あろうことか、日本の戦闘艦でした。

日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」(二代目)。乗組員220人の小型の軍艦ですが、開戦以来、連合軍の船3隻を撃沈するなど、その威力をまざまざと見せつけていました。

その「雷」の指揮をとったのが艦長の工藤俊作少佐(当時)でした。工藤艦長は、身長185cm、体重90kgという、堂々たる体格の猛将でした。

ぐんぐん近づいてくる日本の戦闘艦に、フォール少尉は目を見張り、そして、「日本軍だ!」と言いました。仲間のイギリス兵は、息を呑みました。

波を切って進む「雷」。その艦橋から、工藤艦長は双眼鏡を覗き込みました。その時、工藤艦長が見たものは、ボートや瓦礫につかまり、必死に助けを求める400名以上のイギリス海兵でした。

しかし、この海域はいつ敵の潜水艦に襲われるか分からない危険地域です。全ては艦長である工藤の決断に委ねられました。

迫り来る日本海軍駆逐艦の船体は、もう漂流するフォール少尉たちの目前でした。もはや絶体絶命のフォール少尉たちは、最期の瞬間を覚悟しました。

しかし、工藤艦長が下した決断は、「敵兵を救助せよ!」
「雷」のマストに旗が掲揚されました。それは「救難活動中」を示す国際信号旗でした。艦上の水兵たちは驚きましたが、工藤艦長はある信念を貫きました。それは工藤艦長が海軍兵学校の頃から教育された「武士道」でした。「敵とて人間。弱っている敵を助けずしてフェアな戦いはできない。それが武士道である。」と。

日本兵は甲板から縄梯子を降ろし、自力で上がれる者に手を差し伸べました。しかし、イギリス兵たちは上がってきません。日本兵は甲板からイギリス兵に向かって、「お前たち、何で上がって来ないんだ?」と大声で問いかけました。イギリス兵たちは、「Handle first, handle first!(病人を先に!)」と、傷ついたものから優先的に救助するよう求めました。

こういう状況にあっても、イギリス兵たちは秩序を守り、負傷者、士官、下士官、兵の順で艦に上がってきました。フォール少尉も梯子を上り、「雷」の艦上に辿り着きました。

フォール卿はこの世紀の救助劇を、「救助の旗が揚がった時は夢かと思いました。彼らは敵である私たちを全力で助けてくれたのです。」と感慨深く回想しています。

422人のイギリス兵たちは、翌日、ボルネオ島の港パンジェルマシンで、日本の管轄下にあるオランダ病院船に捕虜として引き渡されました。

フォール少尉は終戦後、家族と愛する恋人のいるイギリスへ無事帰国し、サーの称号を与えられるほど有能な外交官として勤め上げました。
1996年、彼は自らの人生を「マイ・ラッキー・ライフ」という一冊の自伝にまとめました。その1ページ目にこう書かれています。
「この本を私の人生に運を与えてくれた家族、そして私を救ってくれた大日本帝国少佐、工藤俊作に捧げます」と。

フォール卿は、工藤艦長への感謝の念をずっと忘れませんでした。だからこそ、自分が死ぬ前に、誇り高き日本人である工藤艦長にぜひお礼が言いたいと、日本を訪れたのです。

しかし、2003年10月に訪れた時には、工藤艦長の消息はつかめませんでした。
実は工藤艦長が別の船の艦長になった後の1944年、「雷」は敵の攻撃で撃沈、全員が死亡しました。
そのショックからか、終戦後、工藤艦長は戦友と一切連絡をとらず、親戚の勤める病院で手伝いをしながら、ひっそりと余生を過ごしました。
そして1979年1月4日、77年の生涯を終えました。
自らのことを一切語らずに亡くなった工藤俊作。この物語は、フォール卿が来日しなければ誰にも知られることはなかったのです。

工藤艦長をはじめ「雷」全乗員の行為が、敵兵を感動させ、フォール卿によって、世界に広められた「武士道」。フォール卿は次のように語ります。
「敵を敬う、という日本の武士道の考え方を、私は子供や孫たちにも話しました。世界の人々が仲良くなるきっかけになればと思います。」

第二次世界大戦で日本は敗戦しましたが、日本軍の勇敢な戦いによって、多くの国が独立を果たしました。日本に恩を感じている国は多いと言われています。世界に「武士道」を広めた日本に誇りを持ち、日本の素晴らしさを改めて見直す時期が来ているように思います。(横)


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