年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

飛鳥山

2006-11-18 | フォトエッセイ&短歌
京浜東北線王子駅から飛鳥山公園を抜けて本郷通りを上中里駅に向う。「国立印刷局」(日本銀行券と呼ばれる紙幣や切手を印刷している凄いところ)を過ぎると御殿前遺跡を保存している滝野川公園があり、入口に弥生式土器をあしらった洒落たモニュメントがある。武蔵国豊島郡の郡衙(奈良時代の地方政庁)のあったところで古代武蔵の先進地域であった事が判明している。
 しかし、この関東ローム層の地に豊かな文化が展開したのは奈良時代を更に約3千年も遡る縄文時代の頃である。
 今から6千~7千年前の温暖期、海面は現在より3mほど高く、古東京湾は奥深く進入し大宮・川越どころか入り江の先端は群馬県の館林まで伸びていた。
王子、上中里も海岸線に位置し海を見晴らす台地となっていた。彼等、縄文時代人は狩りを行い木の実を採り、魚介類を捕って生活していた。その生活の中で不要になったものを捨てた場所が貝塚だから、それを調査することによって彼等の暮らしを再現することが出来る。貝塚が考古学の宝庫と言われる所以である。


台地の村の外れに形成される貝塚からは土器、石器、木の実、獣の骨、海産物、道具などが貝殻の堆積物に混じって発見される。それが普通である。しかし、貝層の厚さ4.5メートル、長さ約1キロメートルにわたる日本最大規模の中里貝塚(縄文時代中期中頃から後期:約4600~3900年前)はカキとハマグリによって占めていた。しかも、村から離れた海浜低地に形成された貝塚である。
アリエナイ、ハテナ?そこで学者は考えた。これはゴミ捨て場ではなく「中里海産物生産共同工場」なのではなかろうかと。そうなのだ、水を沸騰させて貝の「むき身」をとった粘土の穴や焚き火跡など工場の様子が確認されたのだ。
大量の「干し貝」を生産し内陸へ供給し石器の材料など各地の産物と交換するための交易品として加工していたのだ。縄文時代の生産、社会的分業、社会の仕組みを考える上で極めて重要である。
平成12年に国指定史跡に指定。
               
明治から大正期、鹿鳴館などを手がけた英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計による旧古河庭園の洋館と洋風庭園を見学。未だ紅葉には遠く秋バラが晩秋の陽にゆらりと揺れていた。
文全協主催の「武蔵野の遺跡を歩く」に参加
中里貝塚→西ヶ原貝塚→御殿前遺跡→飛鳥山博物館などを廻る