年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

武蔵の乱

2006-10-25 | フォトエッセイ&短歌
大田区と世田谷区の南西端は神奈川と東京を画する多摩川にぶつかる。その多摩川の流域(丸子橋~二子玉)には約50基の古墳が連綿と造られ荏原台古墳群と呼ばれている。古墳は「土を高く盛った古代の墓」なので古墳の形、死者を葬るための棺などの施設、死者の生前の環境を示す副葬品などを調査する事によって被葬者の権力の有り様が明らかになってくる。


その一つ、野毛大塚古墳。墳丘に登る見学者から想像出来るように全長104mもある帆立貝式古墳(ホタテ貝の形)で段築のテラスには朝顔形埴輪など各種のハニワが飾られている。5世紀前半に造られ甲冑・剣・直刀などの副葬品からこの地方(武蔵国の南部)の大豪族の墓である事が分かる。時は誕生したての大和政権が全国統一の事業を推し進めていた頃である。

武蔵国造の乱(日本書紀)
武蔵国では<小杵のボス>と<笠原のボス>が武蔵国の国造(くにのみやつこ=国を治める豪族の位)を争っていたが、決着がつかなかった。そこで<小杵(おき)>は上毛野(群馬県の前橋・伊勢崎あたり)の小熊の大ボスに援軍を頼んだ。これを知った<笠原(かさはら)>は京に逃げ上り朝廷に訴え裁断を求めた。
全国支配を窺っていた大和朝廷は「ヨッシャ!」とばかりに<小杵>を討ち果たし、<笠原>を国造に任命した。<笠原>は感泣し橘花・多摩などの土地を朝廷に献上した。
こうして、大和朝廷の力が及ばなかった関東地方も朝廷の支配下に入っていく。古代専制国家成立期の激動の国づくりのエピソードである。権力を象徴する巨大古墳はそんな遠い歴史を沈黙の中に物語っている。


前方部の付け根の造出部に並ぶ柵形(さくがた)埴輪で非常に珍しく、仮称である。
                     
古墳を被う木陰にはホトトギスが揺れている。 
      暗紫色の斑点の花模様がいかにも古代がかっている。
東急大井町線等々力駅下車