年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

六義園:吉祥

2008-06-19 | フォトエッセイ&短歌
 富士神社境内の「ご神木」のカヤノキの下半身は痛々しいヤケドをさらしている。黒く焦げた瀕死の世界からの奇跡の回復の様子がわかる。火災についての説明はないが、一説には1945年2月25日のB29による東京下町空襲によるものだと言う。
 そうだとすれば、すでに60年以上の年月が流れているが依然として傷は深い。傷跡を完全に覆い隠すまでに成長するのはこれからである。
 まだ、戦争の傷跡はいたるところに残っていて、忘却の彼方に押しやることを拒否しているようだ。

<黒々と傷痕を残している、戦火の凄まじさを訴える「ご神木」のカヤノキ>

 富士神社から本郷通りを600mくらい上ると「吉祥寺」の山門にぶつかる。下町とはいえ周囲を圧する<両袖潜戸付四脚門>で切妻造の屋根には見事な鬼瓦が俗界を見下ろしている。境内は広く、鳥居耀蔵、二宮尊徳、榎本武揚等の墓もある。経堂(きょうどう=図書収蔵庫)は山門とならび江戸時代の名残をとどめる指定文化財であり、隆盛時の寺院の雰囲気を忍ばせる。
 「吉祥寺」のルーツは。
 太田道灌は江戸城築城に際し和田倉に付近に吉祥寺を建立。その後、徳川家康の江戸城拡張工事のため神田駿河台に移転したが、明暦の大火で焼失。幕府はこれを機会に城下町の整備を行うために、吉祥寺を駒込村に移転させた。これが現在の「吉祥寺」である。

<山門は重厚な四脚門。参道には『八百屋お七』の比翼塚(ひよくづか)がある>

 「吉祥寺駅」は<井の頭線>のターミナルであり、<中央本線>の駅名でもある。立派な寺院があって、それが地名となり駅名になった……?。ところが武蔵野市吉祥寺には「吉祥寺」という寺はないのである。
 何故か!明暦の大火で江戸の再開発計画が進むなかで「吉祥寺」門前の浪人や農民にも立ち退きが命じられた。彼等は武蔵野の五日市街道沿いに移住し開拓を進めた。人々は、ふるさとである「吉祥寺」を偲んで「吉祥寺村」を称したが寺が存在している訳では無かった。
 また、「吉祥寺」は曹洞宗である。曹洞宗の学僧たちの修業所を栴檀林(せんだんりん)といい、学寮・寮舎を備え常時一千人余の学僧が修業していたという。この、栴檀林が現在の駒澤大学に発展していった。
   
<近所では「きっしょうじ」と呼ぶそうです。本堂前の狛犬はチョット変わり種>


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