年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

もう一つの竹橋

2012-05-16 | フォトエッセイ&短歌

  岡本 柳之助(おかもと りゅうのすけ)と云えば「およそ近代世界外交史上に例を見ない暴虐」(大江志乃夫)事件である王妃閔妃(びんひ)殺害事件を主導した有名な人物である。『閔妃暗殺』(新潮文庫)を書き上げた角田房子はこの事件に衝撃を受け「朝鮮に遺憾の念」を持ち、「日韓関係は過去の歴史に目を据えその教訓を謙虚に学ぶ事から始まる」と記している。
 朝鮮宮内府兼軍部顧問として閔妃派排斥のクーデターを大院君を引き出して画策した首謀者が、岡本で国粋主義者・大陸浪人とされる。帝国侵略の闇の請負人のように蠢き燐光を発する何とも奇怪な人物である。
 閔妃殺害事件が起こる16年前の1878年に近衛兵による叛乱(竹橋事件)が起きている。この時、岡本柳之助は東京鎮台予備砲兵第1大隊長として「竹橋暴動」に深く関わっていた。西南戦争で参謀大尉として転戦しその功で少佐に昇進、陸軍のトップグループの一人である。一般概説書には竹橋事件の首謀者と記されているが、具体的にどう計画に参画していたのかは不明である。しかし、兵卒や下士官にとって岡本大隊長が「蹶起軍」側にいた事は心強く、精神的な支柱になっていた事は想像に難くない。
 8月23日、近衛兵営では蹶起の準備が秘かに始められ、午後11時に銃声が轟き、兵達が喊声を上げて動き出した。同時に決起するはずの市ヶ谷の岡本麾下の東京鎮台予備砲兵の姿はなく駒込の妙義坂を行軍していた。首謀者と目されている岡本少尉がなぜそんな所に…
 行軍を強いられていた鎮台砲兵にも竹橋蹶起の砲声が届いた。蹶起を約束していたのになぜここに連れ出されているのか、猜疑心が一挙に爆発し収拾し難い状況になった。岡本少佐の秘策行動なのか、あるいは裏切りなのか、混乱を繰り返しながら王子村への行軍は続けられた。
 「もう一つの竹橋」と云われる岡本少佐の不可解な王子飛鳥山行軍である。夏の夕暮れは遅い。ようやく暗くなった8時頃に登営した岡本は非常呼集ラッパで整列した兵卒に「弾薬背嚢の携帯は及ばず」として武装解除のまま営門を後にしている。しかも青山火薬庫をめざす事になっていたが、牛込方面に向かう。「暴発決起の決行」と思っていた兵卒の一部はこれは変だと行軍を何度も阻止しよと試みるが結局、深夜の0時過ぎには東京府王子村飛鳥山に到着する。
 そして宿処になっていた王子扇屋に落ち着くが、ここでも蹶起合流への激しい遣り取り続けられた。だが、すでにこの時には反乱軍は完全に鎮圧され、兵達の捕捉が始まっていた。もし、岡本少佐麾下の鎮台予備砲兵が盟約通り蹶起していたら日本の近代化は別の形をとったのであろうか。後の話だが、王子での岡本は「お前たちに国賊の名を負わせたくなかったからだ」と訓示したという事だ。    *「竹橋事件を歩く」(竹橋事件の会主催)で駒込界隈から王子飛鳥山まで歩いた。

<王子飛鳥山の扇屋があった場所で雑居ビルになっている。正面はJR王子駅>

  初夏の陽を足にまといて路地抜ける染井吉野の里は葉桜

  染井村桜吹雪のお囃子の響き抱えて葉桜繁る

  暗闇の往還を征く砲兵は飛鳥山にて鎮圧を知る

  扇屋の名を留めいて一世紀竹橋事件を伝うものなし

  竹橋と市ヶ谷結ぶ連帯を果たせぬ兵の慚愧の軍靴

  蹶起せぬ兵も編み笠腰縄で憤怒を背にし刑場に向かう


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