年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

登戸の渡し

2008-03-04 | フォトエッセイ&短歌

 通称「町田街道」の多摩水道橋は狛江市の和泉と川崎市登戸をつなぐ橋である。なるほど、橋名が示す通り直径1.8mの水道管を抱える水道との併用橋である。一体この水道管の水はどこからどこに流れているのか。
 相模川水系の源水を川崎市三田の長沢浄水場で浄水され、水道用水となって多摩水道橋を流れ流れて世田谷区・目黒区・大田区の区民に利用されている。
「町田街道(世田谷通り)」は古くは「津久井街道」といわれ、甲州街道の脇街道として江戸への物資運搬用に開発された産業道路であった。丹沢山系のふもとでは養蚕が盛んで絹の生産も活発であった。絹の需要が伸びる江戸中期以降、馬の背に津久井地方の絹を運ぶ商人の往来でにぎわったのである。
 日本橋を起点とした大山街道は三軒茶屋で右折し「津久井道」(つくいみち)となる。現在、この三軒茶屋から多摩水道橋(多摩川)までを「世田谷通り」、多摩水道橋から町田市鶴川までを「津久井街道」の愛称で呼んでいる。

<渋滞の名所もモスグリーンの快適な橋となり、川面の風にも幽かな春が漂う>

 「津久井街道」を江戸に向かう難所は多摩川である。橋がないから渡し船で渡る事になり、その渡船場を中心に宿場町として賑わった。これが「登戸の渡し」である。
 舟には人間を乗せる舟とひとまわり大きい<馬や荷車などを乗せる馬船や伝馬船>が使われ、船頭が川の流れを見ながら舟を巧(たく)みに繰っていくのである。渡船場は旅人や荷物の積み降ろしでごった返したであろう。また、雨が降って「平水より3尺の増水」ともなると船は出ない。旅人も物資も足留めである。宿場町として料亭や旅館が栄えたのもそのためである。
 多摩川最後の渡しであった「登戸の渡し」は、この橋の完成によって昭和28年8月にその長い歴史を閉じた。その渡しの名残でもあろうか今でもボートが浮かんでいる。

<舟を眺めながら舟の制作に余念がない。時折ウツラウツラと舟をこいたりして>

<橋の下に廻るとなるほど180センチの巨管がむき出しになっている。圧巻だ>