年月に関守なし…… 

古稀を過ぎると年月の流れが速まり、人生の終焉にむかう。

風雲!宿河原

2008-03-15 | フォトエッセイ&短歌
 多摩川で最も多摩川の風景らしからぬ箇所と言われる二ヶ領宿河原堰(にかりょうしゅくがわらぜき)である。川幅いっぱいに広がる豊かな川面、堰からほとぼしる飛沫、魚道の水音が勢い良く響きを立てて散る。
 宿河原堰の設置は1567(慶長2)年頃というから歴史は古く、秀吉が朝鮮出兵に失敗した頃からである。本格的な開発は江戸時代からで二ヶ領用水の取水口として整備されてからである。とは云っても当時は自然流入である。水量が下がると蛇籠<じゃかご:竹で編んだカゴに玉石を入れた>を並べて水位を上げたのだ。この原始的方法は基本的には昭和24年のコンクリートの固定堰が出来るまで続いた。
 しかし、まだ記憶に新しい昭和49年9月の台風16号の洪水でこの固定堰が水流を妨害し19戸の民家が流されるという大災害<狛江水害>が発生した。そこで、現在の可動式ゲートを備えた堰に生まれ変わったのは平成11年である。

<あるんです。多摩川にもこんな壮大な流域が。幾多の歴史を飲み込みながら>

 戦後、宿河原堰の改修工事は米占領軍のセメントの特別支給によって始められた。ところが東京都水道局が占領軍にセメント支給反対の陳情をしたため支給停止命令が出され工事は頓挫した。
 理由は堰が完成すると二ヶ領用水から神奈川県が大量の水を引いて都の水不足が深刻になると心配したのだ。マッカサーの仲裁があったかどかは定かではないが、神奈川県と東京都との厳しい深刻な交渉の結果、暫定協定が締結され工事が続行されたという。
 血を流した「水争い」は田舎の親爺さんばかりでなかったのだ。
 コンクリートの二ヶ領宿河原堰は無事完成した。が次ぎの「水争い」は日米の対決になった。米占領軍の命令は絶対で太平洋戦争に続いて「水争い」でも完敗した。

<対岸が狛江市の水害の事件現場。TVのリアルタイムの家屋流失が生々しい>

 この時期、多摩川の流域各地では慢性的な水不足。特に下流にある羽田空港や、米占領軍の施設では充分な給水が受けられない状況となった。米占領軍は都水道局を恫喝したが、原水の不足はどうにもならない。
そこで二ヶ領用水への取水停止命令が下されたが、用水流域の農民にとっては死活問題である。神奈川県は米占領軍総司令部に特別突撃隊を組織して実情を訴えた。当局は、両都県知事・用水関係者・東京都水道局・建設省を招集しケンケンガクガクと対策を練ったという。勿論、占領軍が優先的に確保し、残りをみんなで分けたんだとサ。

<小田急線の複々線の工事も急ピッチで進み、登戸駅は多摩川の川面に伸びる>